ゆちりち

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第六章 《 冒険の始まりの途中 》


「あ、ママだ」
 中庭への廊下を歩いていると、曲がり角で目ざとく母親を見つけた。弟が走り出してしまったので、仕方がないと僕も付いていく。
 母親の傍に居た父親が「くるな!」と一括した。金縛りにあったように弟が立ち止まる。
 重い空気。弟が不安そうな顔で僕を振り返った。弟に追いつき、手を握る。母親が慌てて近寄ってきて弟を抱いた。
「ごめんね、ちょっと立て込んでるからあっち行こうか」
 母親の鼻の周りが赤かった。僕は訊ねるのをやめて「中庭に行こう」と提案する。
 自慢げにシャボン玉を見せびらかす弟の相手をする母親。その表情は気丈に振舞っているのが見え見えで、なにがあったのか気になった。
 訊ねられないまま、中庭のベンチに母親と腰掛けた。僕は弟がシャボン玉を飛ばす様子を眺めながら沈黙していると、母親が肩を抱いてきた。
「シーちゃんは本当にいい子ね」
 なぜ褒められたのか分からなかった。
 弟が見舞い客の子供と友達になり、一緒にシャボン玉で遊んでいる。幾つもの半透明な球体が宙に舞う。
 赤い夕日に当てられ、奇妙な斑紋を描きながら風に運ばれるシャボン玉はとても綺麗だった。小さなシャボン玉の集まりが風に乗り、飛ばされていくのを目で追っていくと、その先に父親の姿があった。事故を起こした青年に肩を貸しながら一緒に立っていた。

 

 日が暮れ始めていた。
 母親はベンチを離れ、弟と一緒にシャボン玉を飛ばして遊んでいる。
 ベンチには僕。隣に父親、その向こうに青年が座っていた。しばらく二人とも口を開かなかった。僕は一刻も早くその沈黙の理由を知りたかった。
「姉ちゃんは?」
 訊ねると「あ、うん」と父親は曖昧に頷いた。不安になって「どうしたの?」と訊ねると「先に車に戻ってる。心配するな」と答えた。信用できない視線を投げかけると、父親は観念したように言った。
「ちょっと悲しい事があったんだ。小百合はまだ若いから、ママみたいに我慢が出来ないんだよ」
「すみません……」
 青年が謝った。
「謝るとこはねえ。それにしてもお前の兄貴はなにを考えてやがる。死に目も見せないなんて」
 死に目。不吉な印象は感じたが、具体的な意味は分からない。
「仕方無いんです。僕が悪いんですから」
「悪いもんか。俺の息子にもろくでなしがいるが、親父が死にそうだって時に部屋を追い出すような子供はいねえ」
「はは……」
 青年は笑ってから、困ったように額を撫でる。
「僕はもう十年も前に家を出て、一切家族に連絡を取らなかったんです。母も幼い頃に亡くしてますから、兄貴は父とずっと二人で暮らしてきました」
 僕はちらりと青年の横顔を見た。この人の父親は亡くなってしまったのだろう。生きているうちに間に合わなかったのだろうか。そう思っていると父親の横顔が視界に入り、慌てて正面を見る。二人の横顔に浮かんだ表情は、きっと見てはいけないものだ。
「だからって、あんな邪険にするこたないだろ。そりゃ、いきなり出て行って連絡も寄こさなきゃ腹も立つだろう。それでも父親の死に際っていうのは理屈じゃねえもんがあるだろうが。逝くって時に部屋を追い出すなんたあ、人間のする事だとは思えねえ」
「……ありがとうございます。そう言っていただくだけで少し救われます」
 シャボン玉の液が少なくなってきたようで、容器にストローを差してもシャボン玉が作れなくなってきたようだ。母親は弟の手を引いて、中庭から居なくなる。
「でも、仕方がない」
 青年はそう繰り返した。
「父には借金があったんです。そのせいで僕は高校を中退して働かざるを得なかった。僕はそんな生活に嫌気が差して家を飛び出したんです」
 事情が少し我が家と似ている。
「そりゃ、事情はあるだろうが」
「いえ、きっと僕は許されないんです」
「親子の間に許される許されないもないだろうに」
「いえ、僕は親父が勝手に作った借金の肩代わりをさせられるのが嫌で堪らなかったんです。自分で稼いだ金を自分の好きに使ってなにが悪い。なんで僕が犠牲にならなくちゃいけないんだ。なんで僕はこんな家に生まれてしまったんだろう……そんな気持ちで逃げ出したんです」
 父親は答えなかった。
「一番辛い時期でした。それを全部兄貴に押し付けて、心臓の悪い父親を見捨て……。十六でした。なぜあの頃の僕はあんなに心が冷え切っていたんでしょうか。父親に対する思いやりも、兄弟に対する思いやりも、なにもかも皆無だった。父と兄がこの先どうなろうと全く興味もなかったし、自分のしたいことにしか興味がなかった。両親や兄弟を大事にする人は沢山います。そんな人間にくだらないと唾を吐きかけるような人間でした。家族愛なんて綺麗ごと言って悦に入る低俗な人間だと信じて疑惑わなかった」
 母親と弟が中庭に戻ってきた。再びシャボン玉を飛ばして遊び始める。ところが先ほどよりシャボン玉がうまく作れない。宙に舞ったシャボン玉はすぐに壊れて消えてしまう。
 あれ、と首を傾げる弟。その様子を見て青年がくすりと笑い声を立てると、怪我をした足を労わりながら立ち上がった。
 足を引き摺りながら弟と母親の元に歩いていき、ポケットから取り出したものを、シャボン玉の液体の容器に入れた。それをストローでかき混ぜると、次に弟が作ったシャボン玉は直径三十センチくらいに膨らみ、しかも長時間割れずに宙を漂った。弟は上機嫌に幾つも大きなシャボン玉を作り出した。
 戻ってきた青年に僕は尋ねた。
「どうしてシャボン玉が大きくなったの?」
「ああ。飴玉を入れたんだ」
「飴玉?」
 青年はポケットから飴玉を取り出した。一緒に風船や小さな玩具が出てくる。
「僕は薬の訪問販売をしてるんだ。薬を家庭に届けるとき、こうやって飴や風船を子供にあげるんだよ」
 青年は僕に飴玉と風船をくれた。
「シャボン玉の液は、石鹸水だけだとうまく作れない。砂糖を入れると粘り強いシャボン玉が出来るんだ。また液がなくなったら、その飴で液を作ってあげるといいよ。もちろん君が舐めてしまってもいいけどね」
 僕は風船と飴玉を財布に入れると、青年は持っていた風船をひとつ膨らました。
「子供の頃は、風船ひとつが宝物だった」
 膨らました風船の口から指を離し、風船をしぼませる。ブルブルと空気を吐き出す風船の音が止んだころ、青年が再び口を開く。
「風船なんてなんの価値もない。お金にすれば数円くらいの価値だよ。シャボン玉だってそうだ。あんなもの作るのに幾らも掛からない。シャボン玉ひとつとなれば本当にわずかな価値しかない」
 青年の声がおかしくなった。
「でも、今なら良く分かる」
 震える手。それが徐々に顔面を覆う。しばらく青年の喉からは空気しか出てこなかった。
 日が落ち、飛ばしたシャボン玉が見えなくなってきた頃、青年は吐息のように言った。
「僕がくだらないと思っていたもの全ては、とてもとても高価なものだったんだ」


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