桃色くも


-------------------------------------------------------
0/1/2/3/4/5/6/7/8/9/10/11/12/13/14/00
-------------------------------------------------------

最終章 〔 明日 〕 


  ただ息苦しく、水の底で水圧に嘖まれるような取り留めのないイメージが続いた。
 目を覚ます秋。視点は合わないし、眼球がひどく乾いている気がして、目を開いているのが辛かった。かといって目を閉じているのも辛い。
 必死に視線をめぐらせる。
 白い壁、白いライト、白い布団。
 ベッドの上、点滴。
 病室。
 病院――病院?
 秋は身体を起こそうとした。最初に覚えたのはひどい頭痛。次に体中の関節と筋肉に走った鈍い痛み。
 何より、右腕が全く動かなかった。
 体中が砂で作られた作り物のように感じ、崩れてしまわないように慎重に上半身を起こした。
 やはり病室のようだ。
 左腕に点滴の針が刺さっている。
 思い出せない。どうしてベッドに横になっているのか。
 怪我をしている。
 自分の身に何かあったのだろうか。
 すぐに部屋に白衣のナースが入ってくると、起き上がっている秋に気づいて慌てて駆け寄ってきた。
「横になっていてください」
 両肩を優しく押され、ベッドに背中を戻す。
「看護婦さん、ここは?」
 ナースは点滴の速度を確かめると、優しい笑みを作って言った。
「階段から落ちたんです。覚えていますか? ここはメディカルセンターの病室です」
 メディカルセンター。
 病院は普通、そういう言い方をしない。
 ――ああ、思い出した。
「看護婦さん、航海は?」
「まだ航海中ですよ。そろそろ屋久島に着くと思います。体調はどうですか?」
「体中が痛いんです。それに喉がカラカラで……。水を一杯もらえませんか?」
「はい」
 ナースは紙コップに水を運んできた。
「ゆっくり飲んでください」
 助言を無視して一気に飲み干すと、むせ返ってしまった。
 咳き込む度に全身に痛みが走り、同時に呻く。
「ほら、言ったじゃない」
 ナースが優しく背中をさする。
「いつですか?」
 訊ねると、ナースが母親のように首を傾げる。
「いつ、階段から落ちたんですか。どこの階段ですか?」
「昨晩、花火大会の時にメインエントランスの階段から」
 覚えていない。
「頭を打ってますから、もしかしたら記憶は飛んでるかもしれません。でも、大した怪我ではないから心配しないでください。点滴が終わったら念のため、検査しましょう。そうしたらお部屋に戻っていただいても結構ですよ」
 階段から落ちた。だから全身が痛く、頭や腕を怪我してるのか。
 だが、骨折がなくて良かった。
 大学生たちや叔父さんは何をしてるだろう。
「目を覚まされたことはご同伴の方に連絡しておきますからね。頭が痛いのならお薬持ってきますね」
 ナースはそう言って病室を出て行った。
 秋は点滴が落ちる様子をぼんやり眺めながら、耳鳴りがするほどの静寂を意識した。
「叔父さん怒るな。せっかくのアルバイトだけど、こりゃ給料は期待できないな」
 でも、まあいいか。
 ただで豪華客船に乗れたし。
 この頭痛が去ったら、もう少し眠ろう。
 ナースが病室に戻ってきた。ステンレス製のカートから頭痛薬と水を差し出した。それを飲み下した頃、叔父さんが病室にやってきた。
「良かった。目を覚ましたな、アルバイト」
 叔父さんはにこやかにやってきた。少し安心する。叱りつける様なことはないらしい。
「すみません。怪我しちゃって」
「いい。大丈夫だ。心配しないで休んだらいい。まあ、昨日までの分の給料は保証するから」
「いえ。調子が良くなったらちゃんと働きます」
「いや、いいんだよ。実はな、ちょっと俺に急用が出来てな。屋久島に付いたら急遽飛行機で東京に戻らなくちゃならなくなった。学生たちにも話したら、あいつらも一緒に飛行機で帰るそうだ。君はこのまま船に乗って帰ったらいい。部屋も俺の部屋を使ってくれ。怪我させてしまったことの償いだと思ってくれ」
「屋久島で降りるんですか? 屋久島での一泊もしないで?」
「ああ。悪いな。アルバイト料には色をつけておくから」
 なんだ、結局この旅も大したイベントもなくあっさり終わってしまうな。ちょっとつまらない気もするけど。
 帰りは自由時間。
 ……でも。
「僕も屋久島から一緒に帰ります」
「そう言うと思ったが、そういうわけにもいかないんだよ。君の帰りの運賃は出ないからな」
 なるほど、そういう事か。
 船で優雅に帰れる大義名分があるってことか。
「すみません、迷惑をかけて」
 小山内は秋の肩に力強く手を置いて、病室を出て行った。
 ありがたいと思って、のんびりクルーズするか。
 秋はほっとして目を瞑った。
 
 
 
 レントゲンの結果では異常は見られなかったが、それでも船上の医療設備では精密検査はできないから、下船したらちゃんと病院に行くように。
 そう言われてメディカルセンターを出た。
 屋久島に着くのは午前十一時。あと十五分ほどだ。
 クルーズを楽しんでいる招待客たちとすれ違いながら、秋が落ちたというメインエントランスの階段を通って、プロムナードデッキに出た。
 夏の熱気と南中に近い日差しに手をかざし、紺碧に広がる大海原を眺めた。船首方向には鹿児島の屋久島が見える。
 だいぶ南下してきたはずだ。日差しもそのぶん強烈である。
 子供のはしゃぐ声が聞こえて、プロムナードデッキを振り返る。
 両脇から両親と手を繋ぎ、持ち上げられながら飛び跳ねて遊んでいる。
 母親がその様子をなんとも言えない優しい顔で見つめている。
 切なくなる。
 十三年前に脳腫瘍で亡くなった母親を思い出す。同時期に味わった初恋の心苦しさも思い出す。
 クルーズとは思い出作りの旅ではない。追憶の旅だ。こうして海を眺めれば、移り行く場面は良くも悪くも失われた時間ばかり。
 その親子の向こう側から、ピンク色のワンピースを着た、この日差しには余りにも無防備に見える白い肌の女性が歩いてきた。
 綺麗な人だった。初恋の相手を思い出すような、宝石を思わせる女性だ。
 誰だろう。誰と来ているのだろう。こんな豪華客船に乗っているくらいだから、きっとソサエティの令嬢かなにかだろう。
 一瞬、目が合った。
 一瞬だけだったのは、すぐに秋が目を外らしたからだ。
 プロムナードデッキの縁から海を眺める振りをしていると、秋の背後を女性は通り過ぎていった。
 彼女の歩き去る背中をこっそり盗み見るようなことはしなかった。
 秋は海を見続ける。
 いくらクルーズでも、ドラマのように都合よくロマンスは期待できない。きっと両親や恋人と一緒のはず。
「ああ、どうすっかな」
 一人ごちてみる。
 横浜まで帰るにはあと三日間もある。今日は屋久島を観光して、帰りのクルーズは一生乗れそうもない豪華客船の中の写真でも撮っておこう。
 そう思って、秋は女性の歩き去った方向とは別の方向に歩き出した。
 
 
 
 大学生メンバーの六人。赤嶺、榊巻、笹川、福田、それから神戸港から乗ってきた森山、矢的。そして小山内と屋久島で別れた。
 初めから大学生たちと仲が良かったわけではないが、これで船内に知っている人は一人もいなくなった。少しだけ寂しい。
 せっかくなので世界遺産である屋久島の観光を楽しんだ。
 屋久島といえばマリンスポーツや豊かな自然でのカヌーやトレッキングをしたいと思っていたが、怪我人の身、観光地を見て回るにとどめた。
 ヤクスギランドや白谷雲水峡を歩いて見て回る。日本の風景だ。自然はお洒落だ。これほどまでに美しくみずみずしくあろうとする姿にしばし見惚れ、心を洗った。
 思わぬ一人旅になる。
 船に戻ると、ディナーはもちろんクルーズ会社のおもてなし。
 豪華な料理を、味の違いもろくに分からない若造が食べてしまっていいのか申し訳なく思いながら美味しく頂く。
 人の少ない船上。クリスマスのように綺麗に装飾されたサンルームで、少々のお酒をたしなむ。
 シアタールームで映画を見てから、小山内の部屋であったデラックスルームに戻り、長風呂に漬かってからテレビを見ながらフルーツを摘む。
 お酒が利いて眠くなったら、ダブルベッドで大の字で眠った。
 朝早く起きて、セルフランドリーに向かい、洗濯物を済ますとラウンジでサービスコーヒーを飲む。
 その日は歩き回ってデジタルカメラで写真を撮りまわってから、スポーツジムで汗を流す。大浴場でギャグジーにサウナを堪能してから、夜になればお気に入りのガラス張りのドームであるサンデッキで星空を酒にカクテルをたしなむ。
 残念なことに資金が少ないのでカジノやショッピングを娯しむことは出来ないが、メインホールで開催されるエンターテイメントは全て無料なので、幾度となく足を運んだ。ショーや講演もあったし、この船に乗り合わせている加賀山瑞穂のライブも見に行った。
 美味しい食事にエンターテイメント。カラオケもパブもカジノもプールもスポーツも映画も、なんでもここにはある。
 退屈なんてできない。
 見るもの全てが芸術品のような船内の装飾に、無駄とも思えるスペースの広いデラックスルーム。
 堪能することに全精力を向け、むしろ疲れきって陸地が恋しくなった頃、横浜まであと数時間となった。
 
 
 
 秋は屋久島に行ったときに、プロムナードデッキで見た女性が気になっていた。
 船を下りる前に一目だけでも彼女を見ようと思った。声を掛けるわけでもない。やましい気持ちがあるわけでもない。
 出会ってもいないが、秋は彼女との一瞬のすれ違いをこの旅の宝ものにしようと思った。
 出来れば写真でも撮れたら……。
 横浜第さん埠頭に入港するのは午前十一時。この豪華客船アカシックレコード号の誕生祝である処女航海の締括りに後悔を残したくない。
 帰り支度で忙しい最終日の朝。あの女性は果たして船内を歩き回っているだろうか。
 一番可能性があるのはショッピングエリアだ。お土産を買おうと、ショッピングエリアには人だかりが出来ていた。
 あの女性を捜す。
 見るだけ。
 どうか、いてください。
 午前十時。
 彼女の姿はない。
 あと一時間ある。
 まさか、この時間帯に遠くまで足を運ぶとは思えない。
 食事の出来るレストランや喫茶を覗く。全ては見渡せないが、見える限りに姿はない。最後にショッピングエリアを回ったが、結局見つける事が出来なかった。
 あと十五分で寄航。
 十二時までにチャックアウトの手続きをして船を出なくてはならない。
 帰り支度もある。
 ここまでにするか。
 秋は部屋に戻ることにした。
 残念だが、こんなもんだろう、自分の人生は。
 もし会えても、手に入れられる宝石ではない。商品棚からガラスケースに入った宝物を眺めることしか出来ない。やがて誰かに買い求められ、空のガラスケースを見つめて溜息を漏らす。
 俺の人生はそんなもんだろう。それでいいや。
 秋は部屋に戻る前に、お気に入りだったサンデッキに向かうことにした。
 ガラス張りのドーム。中には公園のように緑樹が植えられている。
 あそこが好きだった。
 この船にいて、一番長く過ごした場所。
 すでに船内に人通りは少ない。
 ある人は慌しく部屋で帰り支度を。ある人は支度を済ませ、搭乗口のあるメインエントランスでチェックアウト手続きをしているのだろう。
 エレベータで十二階に上り、サンルームに入った。
 サンルームにあるオープンカフェはすでに閉められており、さすがにこの時間帯、無人のようだった。
 誰もいない。
 まるでみんな世界から消えてしまったような空間。
 独り占めしてる気分だ。
 もう二度と来れない場所。
 秋はゆっくり歩く。
 冷房で冷やされた空間に日差しの温かさが心地よく、緑の匂いが秋をノスタルジックにいざなう。
 楽しいクルーズも終わりだ。
 長いようで短かった。
 叔父さんにお礼を言わないと。
 サンデッキの一番奥。
 船首を向く、景観の一番素晴らしい秋のお気に入りのポジション。
 そこで船に別れを告げようと思った。
 できなかった。
 先客がいたからだ。
 この場所は確かに秋だけのものではない。乗客に人気のスポットだった。だから他に人がいたとしても不思議じゃなかった。
 気まずい思いで引き返そうと思ったとき、ベンチに腰掛けて空を見上げている女性に気づき、足を止めた。
 ここにいた。
 秋は勝手に運命じみた予感を抱く。
 妄想だ。だって、声を掛けるような勇気だってない。
 でも、また会えた。
 それだけでいい。
 きっと、旅の最後に神様がくれたプレゼントだ。そんなことを考えて、勝手にメルヘンな自分に恥ずかしくなる。
「……覚えていますか?」
 彼女が小さく言った。
 彼女は空を仰いだままだ。
 秋の存在に気づいた様子はない。
 彼女の独り言だ。
「空を飛ぶ約束」
 彼女の横顔に魅入っていた。
 亡き人を慕ぶような暮れた表情。
 彼女の周囲から、桃色のチリが舞い上がる幻想を見た。
「……連れて行ってくれるって」
 この船の上で、愛する人と別れたのだろうか。
「……わたし、これからどうしていいか分からないです」
 彼女の頬に伝う一本の筋。
 頬から首へ。首から彼女の胸へ。
「本当に……覚えてないんですか」
 彼女の横顔。胸が苦しくなる。今すぐ飛び出して、彼女の手を取りたい。
 抱擁し、頭を撫でて心配するなと言ってあげたい。
 そんなことをしたらきっと悲鳴を上げられ、変質者扱いだ。
「もし、思い出したら……もし思い出したらあの――」
 ――チェックアウト未済みのお客様――。
 突然、船内アナウンスが流れた。
 まずい。
 秋は彼女から隠れるように木陰に後ずさりして、そのままサンルームを出た。
 
 
 
 ――繰りかえします。チェックアウト未済みのお客様は十二時までにチェックアウトを済ませ、船をお降り頂くようお願いいたします。
 アナウンスを聞きながら、部屋に戻った。
 最後に彼女を見れた。
 欲張りな内心は、最後に彼女の笑顔を見たかったと言うが、それは贅沢だ。
 支度を済ませ、メインエントランスのフロントでチェックアウトの手続きを行う。その間も周囲を窺って彼女を捜したが、どうやら神様は二度目の幸運は用意してくれなかったらしい。
 荷物を抱え、六日前に通ったターミナルを懐かしく思いながら横浜駅へ向かった。送迎バスに乗って横浜駅へ行くと、屋久島と大して変らない蒸し暑さの中、横浜駅構内を歩いた。
 ブロンズ像の少女の前に腰掛ける。
 学生は夏休みだが平日の今日、人通りは来たときよりも少ない。
 家なし、金なしの秋はこのまま北を目指し、漁の仕事でも捜そうと思った。
 まさか、父親の所に立ち寄る義理もないし。
 また退屈で苦痛な日常が始まる。映画のような激動の人生はこの日本ではありえないし、そんな生活を送る度胸も、やっぱりない。
 でも、アルバイト料を貰わないことには身動きは取れない。
 クルーズでなけなしの金は遣ってしまったし、東北まで行けたとしても宿もない状態だ。
 秋は帰ってきた報告を兼ねて、小山内に電話した。
 ところが、何度掛けても小山内は電話に出ない。
 どうしよう。
 行きたくないけど、親父の家に行くしかないのか。
 本気で警察に行くぞと脅せば、幾らかは出すだろう。
「くそ」
 秋は胃に穴が開く思いで立ち上がった。


-------------------------------------------------------
0/1/2/3/4/5/6/7/8/9/10/11/12/13/14/00

-------------------------------------------------------

【訪問者】  【閲覧者】

inserted by FC2 system