桃色くも


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第十三章 〔 約束 〕 


 秋はスポーツデッキからメインエントランスへ移動した。
 相変わらず明かりは灯っておらず、暗闇であったものの、月明かりにより搭乗口が口を開けていることが分かった。
 搭乗口より先にある黒より少し明るいグレー。あの先にあるものを秋は予感している。
 二日前にあの搭乗口より乗船したなんて思えない。遠い昔のような記憶を思い起こしながら、搭乗口より身体を乗り出す。そこからはロープ梯子が垂れ下がり、はるか下方の暗闇に溶け込んでいる。
 秋は右腕の調子を確かめた。少し持ち上げるだけで激痛が走る。使えない。片手でどうにかなるだろうか。
 慎重に降りよう。
 秋はロープ梯子を下りだす。
 左腕一本。
 一段一段下るたび、いったん手を離し、一段下のロープを掴まなければならない。
 恐怖と緊張が干からびた身体を蝕んで往く。
 永遠と思えたロープ梯子の終焉はゴムボートだ。エンジンは付いてない。二つのオールが置かれている。
 想像以上に上下する波の上で、どうにかバランスを保ちながらゴムボートに座り込み、オールを手に取る。
 右手は使えない。左手のみでオールを漕いだ。目的地は巨大な暗影。見慣れた暗影である。
 距離は五百メートルほどか。
 今の干からびた身体で体力が持つかどうか分からないが、もうここまできたら諦めるわけには行かなかった。
 針の先に星名ひゆりという餌を掛けられ、釣られると分かっていながら咥え込んでしまう魚の気分だ。
 だが、ただでは済まさない。釣られた魚も、持っている毒針で釣り主を攻撃することもある。釣り主が遊び半分の子供か、腹を減らした野人か知らないが、少なくとも気力は萎えていない。
 巨大な暗影だった島は、徐々に近づいてくるにつれて視界の大半を占めるようになる。
 微かであるが桟橋が見える。
 子供の頃にこの島――風木島――に毎週通っていたときはフェリーの定期船があった。もっと東側にフェリー用の寄航できる港があるが、この大型客船には停泊が無理だろう。
 黒く染められた海上をのろのろ進むと、桟橋が波に当てられ、音を立てるのが聞こえてくる。
 あと二十メートル、あと十五メートル、あと十メートル……。
 桟橋の先端にボートを泊め、ロープでピットに繋ぐ。ゴムボートから桟橋までの高低差は一メートルほどだったが、右手が使えずよじ登るのに苦労した。
 桟橋の上に立ち、改めて島を顧みた。星明りで辛うじて存在を主張する島。星空より黒い島の暗影が、森林の輪郭を描いている。
 十三年前、ここで失踪事件があった。それ以来封鎖され、誰一人ここに立ち入るものはいなかったはずだ。
 大量殺人があったわけではない。細菌が漏れ、バイオハザードがあったわけでも、大量の死体が発見されたわけでもない。
 ここには何もなくなったのだ。ただ、消失しただけ。
 記憶の中から島の地図を探る。西から東へ細長く延びた島。島の中央付近でかすかに折れ曲がり、アナログの時計で言うならば十時十分のような角度。
 その折れ曲がった中央部下方にこの桟橋はあり、研究所の所員が暮らしていた別荘地が程近い。短針の方角に総合医療研究所、長針の方角にキャンプ場がある。
 研究所、キャンプ場には用がない。
 用があるのは思い出に色濃く残る別荘地。
 秋はゆっくりと歩みを始めた。
 桟橋の木材は長い時間に潮に侵食され、歩くたびに軋む。秋は蛍光灯式ライトで足元を照らしながら、侵食の少ない場所を慎重に歩く。
 ――二十歳になったら迎えに来て。
 甘酸っぱさが口に広がる。
 この島に来た最後の日。
 倉本京子。それが幼馴染の女の子の名前。
 彼女は最後の日、別れ際に言った。
 ――二十歳になったら迎えに来て。
 なぜ、二十歳なのだろうか。あの日記に書かれていたことから推測すれば、彼女は両親からこう言われていたに違いない。
「大人になったら島を出れるよ」
 大人。則ち成人。幼い彼女の大人とは、短絡的に二十歳だったのだろう。
 忘れていた。覚えているわけがない。十三年も前の記憶。十に満たない少年の記憶だ。しかも、彼女は前代未聞の失踪事件に巻き込まれ、気を違えてしまった。それからずっと精神病院で生活しているという話だった。
 約束を果たそうと思えば出来た。
 彼女は失踪したわけではない。
 生きていたのだ。ずっと。
 そして彼女二十歳を向かえた今日、秋をここまでいざなった。
 まさか、あの約束のためにこんな大掛かりな茶番を仕掛けるというのだろうか。
 でも、それしか考えられない。
 十三年前の事件との符号点。それに示された数々のヒントは倉本京子の存在を主張している。
 間違いない。間違いないが、彼女が何の目的で秋を呼び出したのか。
 何の目的で、失踪事件を起こす必要があったのか。
 約束のため……。
 二十歳に再会する約束であれば、こんな茶番は必要ない。
 ただ会いに来ればいい。
 秋が約束を忘れていたことを罰しようとしているのか。
 恐怖と後悔を思い知らせようとしているのか。
 十三年前の失踪事件。それに今回の事件をなぞらえようとしている。十三年前の失踪事件の回答を示そうとしている。そのことの意味はなんだろう。ただの嫌がらせではない。十三年前に何があったのか。あの時、どうして彼女一人だけ生き残ったのか。
 理由がある。秋が約束を忘れていただけの理由ではない。約束があったから秋はここにいることは間違いないが、それだけではない。もっと重要で本性の知れない事実がこの先に存在する。
 季節は真夏。夜の海でも気温は二十度を越えている。それでも寒い。凍えるようだ。
 桟橋が終わろうとしている。桟橋の終わりには、道はそのまま森の小径へと続いている。
 更にその先には別荘地。
 アイテムで取得したカセットテープに吹き込まれていたのは、間違いなく別荘地だ。森の中から数件並んだ住宅が見えるということは、その場所で間違いない。
 星名ひゆり。
 ただ、彼女のことだけを想い、選択肢を選んできた。それが正解だったのかどうかは分からないが、すぐに分かることだ。
 星名ひゆりに惹かれたのは、彼女が倉本京子だったからだろうか。
 彼女が最後に会った当時の倉本京子のままだったからだろうか。
 彼女は精神病院にて突然目覚めたのかもしれない。当時から眠ったままだった彼女は、十三年前から時間を止まったまま、突然目を覚ましたのか。
 ただの直感に過ぎない。倉本京子が星名ひゆりだという証拠も確証も何もない。胸の疼きがそう伝えているだけだ。
 桟橋が終わり、小径に入った。たしかアスファルト舗装されていたと思うが、十三年の歳月はアスファルトを土の下へと追いやったようだ。
 踏みしめる落ち葉の感触を確かめながら、ゆっくりと歩く。蛍光灯式のライトは遠くまでは照らさない。
 道順は体が覚えている。
 一歩、一歩踏みしめていく度、大切なものをひとつひとつ失っていく心境だった。一昨日までの日常、大切な追憶、放浪生活であっても、決して不幸ではなかったし、喜びも多かった。
 この先に死があるのか絶望があるのか救いがあるのか、全く分からないが、いま胸中にうず巻く悲壮な感情は、きっとこの先に希望はないことを暗に告げている。
 痛む右腕の調子を確かめ、星名ひゆりに殴打された頭を触ってみる。
 痛みだらけだ。
 この先で決着が付いたら、もうしばらくなにもしない。好きなだけ惰眠を貪りつくしたい。
 それだけを希望にした。
 
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 月原秋が船を出て島に向かったあと、オペレータより状況が報告された。潜んでいた演技者たちは待機命令が出ていたものの、用がある際はオペレータに申告して船内の移動が可能になった。
 邑崎はオペレータに申告し、着替えが欲しいのでエキストラルームにいったん戻りたい旨を伝えると、造作もなく承諾された。
 凛子を起こさないよう、待機していたカラオケルームより出て、エキストラルームに向かう。念のため、明かりは付けられない。船外の月原秋から目撃されてしまう恐れがあるからだ。
 エキストラルームにたどり着くまで、すれ違う人間はいなかった。おそらくシナリオ初期に失踪した人間はみな一階以下の機関部にいるのだろう。衣食住の整備は整っているはずだから、出てくる必要もない。
 エキストラルームに入ると、自分の荷物が入ったバッグに踏み寄る。エキストラルームの一番端に置かれたバッグ。監視カメラから死角になる場所。いずれにしてもこの暗闇の中、監視カメラがまともに映像を映し出しているとは思えない。
 そして、万里夫との約束のものが置かれた場所。
 バッグから荷物を取り出す振りをして、一部外れるようになっている床をはがす。
 その下から約束の物を取り出し、懐にしまった。
 ――島に行かなければならない。
 邑崎は方法を考える。
 月原秋が船外に出た以上、船内の監視が緩んだのは間違いないが、監視機能は生きているはず。
 やはりあれをやるしかないのか。
 決意しなければならない。なんてことはない、監視カメラの死角から海に飛び込むだけのこと。そのあと暗闇の日本海を、島まで泳いで行けばいいだけのことだ。
 必要なのは度胸だけ。プロムナードデッキから、欄干を思い切り踏み切って、頭から二十メートル下の海に飛び込めばいい。真冬の凍りつく海ではないし、ただ着水時の全身が痺れるような衝撃を耐えるだけでいい。
 やれやれと溜息を付く。
 俺の人生にこんなアクションを演じなくてはならない場面が来るとは。
 
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 秋は森の小径を行くと、分かれ道を見つけた。右に行くとキャンプ場。左に行けば別荘地と研究所。
 左に折れる。
 ひたすら歩く。
 様々なものを失いながら。
 この先にいるのは星名ひゆり。
 予感がそう告げている。
 もしかしたら小山内が迎え入れるかもしれない。小山内は叔父である。十三年前に脳腫瘍で死んだ秋の母親の弟。
 だから昔から知っている。十三年前当時、何度かこの島にも訪れているはず。
 秋が掲げるライトの半径五メートル視界の中をゆるゆると歩く。
 かつて失踪事件のあった島。
 見える視界は木々の羅列。
 闇に紛れる森の奥。
 失踪者の赤い視線を感じる。
 こそこそと話す声も聞こえる。
 何を相談している。
 次の獲物の搾取の方法か。
 誰がどこの部位を食べるか相談しているのか。
 出来れば頭からかぶりついて欲しい。
 自分の体が食べられていく様など見たくない。
 秋はその場に膝を付いた。
 浅く短い呼吸。
 機能の低下した肺が酸素を取り込んでくれない。少なくなった血液が、全身に酸素を運ばない。
 足先や指先は冷たく固く、感覚も鈍い。
 二の腕や太股は痺れたようにひりつく。
 感覚の薄れた足腰は自分の意志ではどうにもならず、歩くという本能に任せて動かすしかない。
 あとどのくらいで別荘地にたどり着くのか。見えるのは変わり映えしない森林。臭いや湿気も感じない。
 感じない。
 漠然とした虚無感。
 何もないんだ。
 ここには人の気配も、生物の気配もない。
 死者の島。いや、生きている者を抵む島。
 十三年前から、ここは人間を忌み嫌っている。
 足を踏み入れた秋に対して、どんな制裁が待っているのか。
 ――明かりが見えた。
 カセットテープに吹き込まれた星名ひゆりの声。
 彼女は森の中で、数軒の家屋からもれる光を見た。
 ちょうど今のように。
 彼女があそこにいる。
 星名ひゆり――倉本京子が。
 研究所で何の実験が行われていたのか、もうどうでもよい。サルが喋ろうが、サルが自殺しようがもうどうでもよい。
 君に会って、伝える。
 
 
 一軒の別荘の前に立った。
 目印は、玄関に書かれた相合傘。
 白いペンキで書かれた相合傘も十三年の年月が風化させ、よく読めないが名残は残っている。
 そこには隣り合わせて月原秋と倉本京子の名前があるはずだ。
 倉本京子の両親は玄関のドアに書かれた相合傘を消そうとはしなかった。
 倉本京子が相合傘を書いたときも叱らなかったし、むしろ微笑んで頭を撫でていた。
 大切な思い出。
 こんな形で再会することになるとは思わなかった。
 明かりが灯っているのは倉本京子の家だった家屋だけ。
 家の正面の窓ガラスから漏れる明かりは揺らいでいる。ランプ、あるいは蝋燭のものだろう。
 ドアノブに手を伸ばす。もはや逸る気持ちも緊張もない。
 レールは敷かれている。
 音もなく開く扉の向こう。
 リビングから玄関に明かりが漏れている。
 秋はライトのスイッチを切る。
 玄関を上がり、後ろ手にドアを閉めると、空間が変わった気がした。
 黒ずみ、埃臭く、天井や壁の剥がれた屋内が、時間を巻き戻したかのように元に戻っていく。
 戻っていくにつれ、淡いオレンジ色の明かりが灯り、十三年前の風景へといざなっていった。
 玄関先に立って、悪戯っぽく笑いながら僕を迎える倉本京子。
 少し首を傾げて、こっち、と手招くと秋をいざなう。
 ほらこっち。
 可愛らしい声が玄関に響き、秋はいてもたってもいられず、リビングに消えた倉本京子を追いかける。
 リビングに入る。
 広いリビングは床張りになっており、奥のカウンター越しに台所があり、彼女の母親がエプロン姿で昼食を用意している。
 カウンターの手前にはテーブルがあって、そこに新聞を広げた彼女の父親。
 さらに手前には床に座り込んでままごとセットで人形を弄る倉本京子。
 ほら、パパ。座って。
 子供のくせに、すっかり母親顔の倉本京子が秋を促す。
 倉本京子の正面に座り、倉本京子が押し付けてきた父親の人形を手に掴む。
 なされるがまま父親役を演じ、倉本京子は理想的な母親を演じる。
 料理を作り、子供をあやし、平穏を愛し、変化や事件を嫌った。
 彼女は小さなままごとの家に夢中だ。
 彼女の想像の世界では、その小さな家も等身大の世界に違いない。
 秋は彼女のしたいようにする。
 ほら、ご飯を食べなさい。
 ほら、着替えなさい。
 ほら、もう寝なさい。
 彼女の理想の世界を壊さないよう、彼女が望んだどおりに秋は演じる。
 彼女が別のことに興味を示すまで、彼女が飽きるまで、秋は彼女が思い描く世界を演じ、創造主たる彼女の世界の一部になる。
 ――秋さん。
 呼ばれて、顔を上げる。
 彼女は母親役に必死だ。
 なに?
 秋が問い返すと、現実に戻るのを嫌がる彼女は眉を顰める。
 ほら、パパ。早く支度して。
 世界に引き戻そうとする。
 秋は彼女の世界に再び溶け込もうとする。
 ――秋さん、助けて。
 声がする。
 溶け込めない。
 ふと顔を上げると、倉本京子が恨めしそうに秋を睨みつけている。
 秋が動揺すると、途端に倉本京子はにこりと笑って「パパ、会社の時間よ」と優しく言った。
 でも、声がする。
 そう訴えると、彼女は真顔になって黙り込む。
 彼女の世界を壊してしまった。
 ぞっとする思いで秋はうつ向く。
 ――秋さん、秋さん。
 声がする。いつも心地よく秋の耳を刺激した声。
 その声を聞くたび、心を打つ鐘の音を隠し続けた。
 そのせいで、彼女を失った。
 そうではない。秋が心を隠したせいで、彼女を闇へ追いやったのだ。
 突然。
 彼女が唸り声を上げて歯をむき出した。
 ぎょっとして彼女を見ると、顔をしわくちゃにして、赤く光る目で秋を睨みつけている。
 身が竦む思いで後ずさりすると、彼女は人間だとは思えない跳躍力で秋に飛び掛ってきたと思うと、秋を丸ごと飲み込めるほどの大口を開けて、秋にがぶっと噛みついた。
 全身に電気が走るような痺れが襲ってきたと思うと、ぷつんと音がして暗闇が訪れた。
 暗闇が訪れたが、それは自分が目を瞑っているからだと気づいた。
 恐る恐る目を開ける。
 目の前にあったのは床。
 思い切り息を吸い込むと、床にうず高く積まれた埃も吸い込んで、腹に強烈な一撃を食らったようにむせ込んだ。
 咽こむたび、激しい頭痛と全身を襲う痛み。
 のた打ち回るように床の上を転がると、踞るようにして頭痛と全身の痛みが去っていくのを待った。
 なんだったんだ。
 夢を見ていたのか。
 ここは一体どこだ。
 涙と鼻水とよだれで濡れた顔を上げると、廃墟の様相を呈した玄関が見えた。
 壁や天井は剥げ落ち、床はところどころ穴が開いている。
 周囲は壁や天井の素材が散乱し、人の住まう場所でないことは一見して明らかだった。
 玄関先で気を失っていたのか。
 失っていた記憶が蘇る。
 星名ひゆり。
 彼女の顔が脳裏をかすめ、秋はゆっくりと干からびた身体を起こす。
 油断すれば、砂煙を上げて膝や股関節が崩壊しそうだった。もうこの身体は使い物にならなくなろうとしている。
 あと少し。
 もう少しだけ。
 壁に手を置いて身体を支えながら、リビングの扉の前に立つ。
 リビングへの扉は曇りガラスになっており、中からもれる明かりが見える。
 扉を開けると、床に立てられた無数の蝋燭が見えた。
 数百本。
 それだけ蝋燭が揃えば、室内は十分な明るさを保っている。
 蝋燭の立っていない場所へ足を踏み出す。
 記憶の中のリビング。
 リビング中央は開いた空間。その先にダイニングテーブルがあり、その向こう側のカウンター越しにキッチン。
 本来、テーブルのあった場所に星名ひゆりがいた。
 無数の蝋燭に囲まれ、椅子に座っている。
 彼女の背後に二人の人間が立っており、下方からの蝋燭の明かりに照らされ、不気味に揺らいでいる。
「星名さん」
 大きな声を上げたつもりだったが、喉から漏れたのは貧弱に枯れた声。
 星名ひゆりは絶望的な顔で涙を流しながら秋を見ている。
 口にはタオルが巻かれ、喉から漏れるのは呻き声だけ。身体にもロープが巻かれ、後ろ手に縛られているようだ。
 足、膝もロープで椅子に固定され、身じろぎほどしか出来ない状態だった。
「これは……」
 先に続く言葉が見つからない。
 見た限りから状況が把握できなかった。
 秋は星名ひゆりの背後で直立する人間を見た。
 男が二人。
 髪が長く長身の男と、その男より頭ひとつ分小さい男。
 いずれも知らない人間だ。
「おめでとう」
 長身の男が言った。
 その男に注目する。人に、生きている人間にやっと会えたのに、喜びは微塵もない。氷で出来た人間を抱きしめたような、冷たい冷たい印象だけ。
 だが、その中央には心焦がれた一人の女の子が居る。あるいは十三年前から僕の心を奪い去ったままの君が。
「良くここまで来たね」
 長身の男の言葉。そんなことより説明してくれ。なぜ星名さんは縛られている? いったい何をするつもりだ。
 言いたいことは沢山あるが、いずれも喉元でうず巻いて消えていく。
「これはエンディング」
 長身の男が無表情のまま語る。
「まだ終わってない。だから慎重に答えて」
 優しい声だった。
「君はここに来るまでの間に、様々な情報を得たはずだ。疲れきっているとは思うが、答えてくれ」
「な……なにを?」
 もちろん、ここまでの道程で色々想像はした。それでもこの異様な現状を目の当たりにし、喉は接着剤で貼り付いたようだった。
「君が望むのは答えかい? それとも船に乗り込む以前までの日常かい?」
 また選択肢だった。
 どちらかを選べという。
 いい加減うんざりだ。
「慎重に答えて。分かってると思うが、ここは無人の島。島を出る手段はない。逃げ出す手段もない。逃げ出そうとすれば、彼女の命は保障しない」
 秋の視線は星名ひゆりに向いた。
 星名ひゆりは散々泣いたのだろうか。涙で濡れた顔を秋に向け、震えるように首を横に振った。
 ああ、生きていたんだと実感が沸いた。やっぱり生きていたんだ。良かった。本当に良かった。
「いい顔だ。君がここまで来たのは彼女のためだろう。さあ、選べ。答えか日常か」
 答えか日常。答えを選択すれば日常は失われるというのだろうか。
 抵む方法はないか。どうにかして抗うことは出来ないのか。
「これは全部、あんたらがやったことなのか?」
 秋はようやく口を開く。
 星名ひゆりは呻きながら小刻みに震えている。何かを訴えているような気がするが、口に巻かれたタオルを取らないことには伝わってこない。
「君の見解は?」
 長身の男は調子を変えず問いかけてくる。
「答えならある。何も証拠はないけれど」
「ならば、それを聞かせてくれないか」
 どうする。
 秋の意識が離れていく。
 別荘の上から見下ろしている。
 さらに意識は高く上り、島全体を意識は見下ろしている。
 島の片隅に停泊している客船。
 島はどんどん小さくなり、島が点ほどに見える頃、大海原に日本の本島が見えてきた。
 そして、急速に意識が秋の元に戻ると、衝撃で秋の躰が一度振動した。
 理解した。
 孤立無援。
 人の営みがある場所から遠く離れた孤島。
 誰も助けてくれる人はいない。
 ここで秋が殺されても、永遠に土の中で誰にも発見されず腐っていくことになる。
 恐怖が全身を駆け巡る。身体の震えを止めることはもはや意志の力では不可能だ。
 なんでこんなことになっている。
 どうしてこんなところにいなくてはならない。
 全てを投げ出そうとする精神に歯止めをかけているのは、目の前で涙を流すひゆりの存在だった。
 彼女は本当に恐怖に涙を流しているのか。
 演技ではないのか。
 だって、この茶番を仕組んだのは。
「京子ちゃんだろ」
 秋は呟いた。
 微妙に長身の男の顔が傾げる。
「僕が約束を忘れていたからか? だからこんなことをするのか?」
 秋は一歩足を前に踏み出す。
「君は約束を忘れてた僕を戒めたいんだろ」
 ひゆりは震えながら、膜の張った目を秋に向ける。
「分かってるよ、言いたいことは。この失踪事件の犯人は倉本京子。君だ。星名ひゆり」
 静かにそう言うと、長身の男がひゆりの肩に手を置く。ひゆりはくぐもった悲鳴を上げ、全身を震わす。
「彼女を疑ってるわけだ。確証はあるのかい?」
「そんなものないよ。でも、あんたらが僕にそういう結論に至るように仕向けたんだろ。違うのなら説明してみろ」
「彼女一人で、どうやってあの人数の人間を失踪させるというんだ」
「知らないと言ってるだろ。犯人は星名ひゆり。彼女がこの茶番を考えたんだ」
 もう一歩、前に出ると言った。
「あんたらが説明して欲しいように説明してやる。この茶番は星名ひゆりが犯人。どうやって六百人近い人間を失踪させたかというと、答えは簡単だよ。もともと本当に乗船したのは百五十人だった。考えられるのは二つ。小山内叔父さんが最初に僕が得る情報を操作して嘘ついた。本当は百五十人だったのに五百七十人いると嘘ついた。叔父さんを含めて共犯がいて、星名ひゆりを筆頭に百五十人の三分の二、百人くらいグルだったら、あと五十人くらいどこかに隠すか、海に投げ捨てるくらいはできるだろう。ああ、僕がばかげたことを言ってるのは百も承知だよ。でも、そういうことだろ」
 長身の男は少し微笑んだように見えた。それから静かに口を開く。
「他にはあるかい? 君の見解」
「あるよ。全員がグルだった。百五十人全員が仕掛人だったら、僕一人だますのは簡単だろ。いっせいに機関部かどこかに隠れりゃいい。そんなばかげたことする奴なんかいないし、そんなことする理由も分からないけど、そういうことだろ。それからあんたらはこうも言いたい。十三年前の失踪事件も同じカラクリだってな」
 長身の男はゆっくり頷き、秋の言葉の続きを促す。
「もういいだろ。みんな生きてるんだろ。大学生も招待客も、クルーも邑崎も。こんなことして、何の意味があるんだよ!」
 最後に怒鳴ると、長身の男は不意にひゆりに手を伸ばし、ひゆりの猿轡をはずした。
 ひゆりはすでに泣いていなかった。
 泣いていなかったし、むしろその唇に笑みを称えていた。
 信じられなかった。
 そんな表情をするなんて。
 やっぱり茶番だったのか。
 自分で言っていて、信じられなかった事柄が、いま真実になる。
 君は……。
 君の仕草も人柄も。
 君が見せてくれた言葉も表情も。
 本当に全部嘘だったのか?
「おめでとう。秋くん」
 間違いなく、星名ひゆりの声で彼女はそう言った。
「その通りです。これは全部私の作ったシナリオです」
「星名さん……やっぱり倉本京子なのか?」
「それも正解。私は十三年前、この島の失踪事件に巻き込まれ、たった一人生き残った女の子」
 優美にひゆりは笑った。いや倉本京子と言えばいいのか。
 秋は強烈な胸の痛みを耐えながら言った。
「じゃあ……十三年前の事件も、みんなグルだったのか? 君も?」
「そう。あの失踪事件に巻き込まれた人間は全員生きてます。失踪しただけ。別の人間になって生きています」
 秋は力なくその場に膝を付いた。
 もはや尽力で立ち続ける意味を失った。
 嘘だった。
 何もかも。
 ここまで秋を支えてきた星名ひゆりという存在も、虚像に成り果てた。
「何のためなんだよ。何のためにそんなことするんだよ」
「理由は色々あります。研究所で行われていた人体実験が政府機関に知られてしまったことで行き詰ってしまったこと。また、研究を成功させるために手を汚した人々の洗濯も必要でした」
「洗濯?」
「そう。あの島にいたキャンプ客、研究所の所員など、全員は仲間でした。表の部分も裏の部分も共有した仲間。研究のために犯罪に手を染め、身動きできなくなった人。研究内容が政府に漏れ、このままでは監査が入り、理解されない研究員が研究内容について言及され、彼らの身内に不名誉な烙印を押される懸念がありました。そうなる前に手を打たなければりませんでした。全てをリセットする、そのために必要な失踪事件だったのです」
「へえ」
 秋は薄ら笑いを浮かべて見せる。胸の中は剃刀で切り刻まれていたが、痛みをあえて無視して、秋は立ち上がった。
「都合の良い言い訳に聞こえるけど、それは別にいいよ。それより、ここに僕を呼んだ理由は? 何のために僕にこんな思いをさせて、こんな大掛かりの茶番を仕掛けたんだ」
「約束したでしょう」
 約束。やっぱり、あの約束のせいなのか。
「二十歳になったら、あなたが迎えに来てくれる。そう信じてました。その言葉とおり、あなたはこうしてここまで私を迎えに来てくれました。辛かったでしょう、苦しかったでしょう。でも、私はあなたを信じていました」
 ひゆり――京子は優しく目を細め、微笑んだ。それはさっきまでと同じ、演技なのだろうか。それが演技だろうとそうでなかろうと、秋の心はその表情を見るたび、気持ちよく振動するのである。
「君が全部考えて仕組んだのか?」
「今日、この瞬間までのシナリオを組んだのは私です。それから十三年前の失踪事件も私」
 十三年前の事件も? 十に満たない少女が?
「研究。そのことについてお話しましょう」
 秋も幾度となく立ち寄った研究所。秋の母親が勤めていたからだ。
 秋の母親も仲間だというのか。
 仲間とはなんだ。一体何の仲間だ。
「生い立ちから話すと、三十年も前から始まります。最初は小さな新興宗教。暴力団が背後に潜むビシネスとしての宗教団体でした。そこに、一人の青年が教祖として象徴化されてから、変貌していきます。青年は世界を憂いでいました。政界の汚職、人々の倫理観の低下、少子化や環境問題に至るまで。国外の紛争の続く国家や貧困に喘ぐ国。全てを救う方法を説き続け、団体は着実に大きくなっていきました。やがて団体設立から二年後、胴元の暴力団が解散し、団体は完全に宗教法人として独立しましたが、青年が若くして倒れた後、急速に衰退していくことになります。ところが敬謙な信者の一人、私の父親になりますが、彼が団体を支えていくことになります。青年の残した遺志を引き継ぎます。当時彼が勤めていた大手化粧品メイカーの人事担当であった彼は、血のにじむような努力を重ね、十年の歳月をかけて団体メンバーをこの研究所に集めていきます。少しずつ、人員を入れ替えては研究員を全て団体のメンバーにすると、いよいよ研究を始めたのです」
 大手化粧品メイカーの資産を利用して、宗教団体は自分のたちの研究を始めた。
 こんな馬鹿な話があるか。現実なのか。予算だって組まれるはずだ。好き勝手に会社の金が遣えるわけがない。
 疑問に答えるようにひゆりは続きを話す。
「施設を間借りしただけです。団体は資産を持ちます。当時は主にお布施の収入でしたが、世界を憂う共通の志を持った同志たちは喜んで研究に財産を投じました」
 現実の話だとは思えない。やがて、その団体は月原秋一人のために、豪華客船で失踪事件を起こせるほどの財力を持つことになる。
「研究は、研究所のレベル4エリアで行われました。致死には至りませんが危険な細菌を取り扱うエリアで防護服なしには入れません。でも、実情は別の研究を行っていました。密閉された隠匿空間で行われていたのは脳の研究です」
 脳――秋の母親の研究。やはり、母親はこの茶番に加担していたというのだろうか。
「要するに、天才を作り出す研究です。団体は世界を平穏に包むための方法は知っていましたが、それを実行に移せる人間がいなかったのです。この島の研究所で産み出そうとしていたのは救世主。われわれの思想を現実に出来る救世主の創造」
 笑ってしまっていいのだろうか。妙にしらけた気持ちで、漠然とそう思った。
 鼻先で笑い飛ばしたら、ひゆりが羞恥で顔を真っ赤にして「やっぱりおかしいかな? やめたほうがいいかな?」と言ってくれるだろうか。
 そうにはならない。ひゆりは話を続ける。
「研究の過程で副産物が生まれました。それが今回、大学生として乗船したメンバーです。彼らはその研究の協力者でした」
 協力者。あるいは人体実験の被験者。
「救世主を生み出そうとした結果、彼らのような特殊な能力の持ち主が生まれました。人として超越した聴力、視力、嗅覚など。赤嶺未来さんは常人には聞くことの出来ない音を感じ、榊巻伸二さんは遮蔽物を超えて、向こう側を見る能力があります。このようにして生まれたのは十二人。その救世主を産み出す協力者の中には、秋さん、あなたも含まれていたのですよ」
 やはりそうなのか。秋はたまたま逃れる事が出来ただけなのか。あと少し間違えれば、秋は目の前にいる向こう側の人間から表情もなく飄々と宗教観を説いていたのかもしれない。
「私が生まれたとき、私が得た能力は理を見通す能力でした。私が分かるのは、ボールを床に落としたとき、どんな音がして、何回跳ねて、どんな傷が付くのか、予想する能力です。それこそ、私たちが世界を平穏に導くために必要な能力だったのです」
「大層なことを語っているけど、僕は君を迎えに来たわけじゃない。少なくとも君たちについていくつもりはない」
「勘違いしないでください」
 ひゆりは微笑んだまま言った。
「今のあなたにそれほど価値はありません。ただ、今あなたは合格ラインにようやく乗っただけ。身をもって知ってもらったはずです。私たちがあなたにヒントを差し上げなかったら、失踪事件はあなたの中で真実であったし、あなただけじゃない。日本中、世界中でも真実になります。世界を構築しているものの正体をあなたに知って欲しかった。だからこそあんなばかげたゲームを企画し、体験してもらい、そしていま打ち明けているのです」
「価値のない人間になぜ打ち明ける必要がある」
「約束があるからです。私と約束した唯一の人。私が生まれ変わる前に約束したあなたとの絆は深く、重要だからです。どうかよく考えて。そして、これからも私と一緒にいて欲しいのです」
 一緒に……。
 心が悲鳴を上げる。
 秋には想像を絶する気の狂った世界。そんな世界の住人であろうと、もう秋はひゆりに惹かれてしまっている。
 君と一緒にいる。これほど世界で確かな喜びはない。
 スカイダイビング、ハンググライダー、一緒にいく約束をした。本当にいけるかどうかは分からないけど、もしかしたら十三年前から燻っていた火種は、もう消せないほどの火柱に成長しているのかもしれない。
「この二日間の君は、どこまで本当なんだ?」
「全部、本当の私です」
「顔も、声も同じ。でも、信じたくないんだ。船での二日間。ほんの短い間だったけど、あれが嘘だったなんて」
「そうですか……」
 ひゆりが突然、がっくりとうなだれた。
 まるでがっかりしたかのような仕草に戸惑っていると、今度はゆっくりとひゆりが顔を上げる。
 まるでいま目覚めたかのように目を何度かしばたかせると、目の前に立つ秋に気づき、目を細めて笑顔を作った。
「秋さん」
 ああ。と心が呻く。胸から下腹部に広がる狂おしさが、彼女を抱きしめろと命ずる。
「秋さん」
 ひゆりはもう一度言うと、立ち上がろうとした。ところが体中を縛り付けるロープで身動きが取れない。そのことに初めて気づいたかのように戸惑い、不安げな顔を秋に向けた。
「秋さん、これは……」
 声を掛けられない。
 まるでこれは。
 ――別人格とでも言いたいのだろうか。
 演技だろうか。
 直前までのひゆりと、いまのひゆり。
 秋はなにも言えない。
「秋さん、これは……どうして私は縛られてるんですか?」
 冷静さを保とうとする声。秋が声を掛けてあげれば安堵するだろう。このままなにも言わなければ、ひゆりは取り乱す。
 でも演技かもしれない。猜疑心がぬぐえないまま、秋は立ち尽くす。
「秋さん、何で答えてくれないんですか。ここはどこですか?」
 ひゆりは周囲を見渡し、背後に立っている男に気づくと、擦れた悲鳴を上げた。
「だっだれですか? ろ、ロープを」
 秋は耐え切れず、顔をそむける。
「秋さん、秋さん!」
「やめてくれ!」
 秋が怒鳴ると、一時停止ボタンを押されたかのようにひゆりが停止した。限界まで目を丸くして、秋を見上げている。
「どうしたいって言うんだよ。僕が何をした? なんでそんなことするんだよ!」
 ひゆりの見開かれた目に膜が張る。
 秋はひゆりに近づき、縛り付けられたひゆりの両肩を掴むと、何度も揺さぶった。
「もうやめてくれ。いいかげんにしてくれ。正直に言うよ。僕は君がとても素敵だと思ったし、気になってしょうがなかった。だからこんなところまで来てしまった。でも、本当の君はそんなんじゃないんだろ。本性はどうなんだよ。さっきまでのお前を出してみろ」
「な、何を言ってるんですか?」
「知ってるだろ。自分でここまで来たんだろ。なんでしらばっくれるんだ。もういいんだよ。その演技をやめてくれ」
「どうしたんですか、秋さん。私は私です。どうしてそんなこと言うんですか?」
「日本語が分からないって? ドイツに行ってた? 空を飛びたい? 全部嘘なんだろ」
 ひゆりはもうなにも言わなかった。瞬きもせず、丸く開かれた目に涙を溜めている。それも演技か。苦しめようとしている。秋の心を破壊しようとしている。
 すると、ひゆりはくるりと白目を剥いたかと思うと、がくりと力なくうなだれた。
 戸惑いながら掴んだ肩から手を離し、数歩あとずさる。
「それがあなたの答えですか?」
 ひゆりの背後に立っていた長身の男が問いかける。
「先ほどの問い。あなたは答えを求めるのか、日常を求めるのか。私たちは真実を打ち明けました。あなたが選択するのは真実か、日常か」
 ぼんやりと男を見る。男は直立不動のまま、射抜くように秋を見つめている。
 もう、分からなくなった。
 何が本当のことなのか。
「あなたには、もう一人の私のつがいになって欲しいと思っています」
 いつの間にか顔を上げていたひゆりがそう言った。
「私はしばらく内に篭り、考えにふける必要があるのです。私が次に目覚めるまでの間、もうひとりの私とともに生きて欲しいのです」
 秋はもう考えをまとめる事が出来ない。ただただひゆりを見つめ、ひゆりの唇を見つめ、言葉を聞くだけ。
「私が生まれ変わった瞬間、もう一人の私が生まれました。その人格は、主人格である私が時々眠りにつかなければならないことによる代理人格だと理解しています。私が眠りに付く間、あの子が私の身体を守り、生活して行くことになります。それにはあなたの力が必要です。約束という絆で結ばれた私とあなた。もう一人の私はあなただけに心を預けます。あなただけを愛し、あなただけのために生きようとします。以前、私が眠りに付いたとき、もう一人の人格はあなたを捜そうとしたのです。そのためにこの身体は傷つき、命さえ脅かされました。私が眠る間、もう一人の私とつがいになり、私を守って欲しいのです」
 本当なのか。
 ひゆりはもう一人いるのか。
「もう一人の私が目覚めていた時間、つまりこの世で生きていた時間はほんの二年ほど。だから言葉もつたないし、ものも知りません。いわば真っ白なキャンパスのようなものです。そのキャンパスにどんな絵を描くのか、全てあなたの思い通りです。ひゆりはあなたの望む通りになるでしょう。あなたが望む通りの人格。優しくして欲しければひゆりはあなたの頭を優しく撫で、ひゆりに少し冷たい態度を取って欲しければ、彼女はそうします。拗ねたり怒ったりして欲しければ、彼女はあなたが望むがまま、人格を作り出します。ひゆりはあなたを抵まない。あなたが性欲を解消したいというのならば、彼女はあなたのしたいようにします。あなたの嗜好が暴力的であっても、彼女は耐え、それを受け入れます。あなたしかいないから。ひゆりはあなたの理想の世界の住人。子供の頃に、わたしは刷り込まれてしまっているのです。愛する人はあなただけだと。もちろん、私も含め生娘です。誰の手にも触れられたことのない、誰にも汚されたことのないこの身体。心を含め全てあなたに捧げます」
 秋に言葉はない。
 本当に真実なのか。彼女の言っている事は。
 全て捧げる? 秋の性欲の捌け口になろうと、ストレスの捌け口になろうと、全てを受け入れる?
 乱暴に犯そうと、殴りつけて首輪に鎖を付けて束縛しようと?
 秋の陵辱的な精神がいろんな想像をつむぎだす。トイレも行かせない、食事も手を使わせない。風呂も入らせない。命令は全て従わせる。お前には俺しかいないと刷り込ませて、何でも言うことを聞くように調教する。
 ――ころっと瞞されちまうのか?
 声がした気がした。
 思わず振り返る。
 誰もいない。
 今の声は?
 ――聞こえてるか?
 ふと気づく。
 首に垂れ下がったイヤホン。
 トランシーバ――邑崎?
 正面を見る。ひゆり、男二人。気づかれた様子はない。
「考えたい」
 秋は混乱しながらも口を開く。
「突然、いろんなことを話されて、全然頭が回らないんだ。少し考えたい」
「時間はないんです」
 ひゆりが訴える。
「五分でいいから。一人で考えさせて」
 ひゆりが静かに目を瞑った。
 暫時、考えにふけったような為種。
「いいでしょう。その代わり、この家を出ないでください。外には仲間がいます。家を出ればすぐに分かります」
 秋は頷いてみせると、あとずさるようにリビングの扉に近づく。
「よいお答えをお待ちしています」
 ひゆりの声を最後に部屋を出た。
 部屋を出たところ階段の陰に隠れるようにして、イヤホンを耳に装着した。
「邑崎さん、生きてたんですね」
 喜びを押さえ込んで、小声でマイクに声をかけた。
 ――まあな、どうせヤラセだしな。
 邑崎はヤラセの一員ではないのか。
 ――よくここまで踏ん張った。いいか、瞞されるな。良く分かってるだろ。これは全部作り物なんだよ。
「全部ですか?」
 ――全部だ。俺がいまからそこに行く。それまでどうにか時間を稼げ。
「どれくらいでくるんですか? それに来てどうするつもりなんですか?」
 ――行ってから考える。とにかく、俺はお前の敵じゃねえ。俺を信じろ。
 無条件に信じたくなる。なぜだか分からない。この心理も利用されているのだろうか。邑崎も嘘を付いているのなら?
 ――俺はある人間に頼まれて、船に乗り込んだんだよ。演技者の一人としてな。
 演技者?
 ――少なくとも、お前がいま話してた奴らの仲間では決してない。結局お前の判断になるが、俺を信用する気持ちがあるなら、あと十分、その場で踏ん張れ。結論は出すな。
「今どこにいるんですか?」
 ――桟橋だ。泳いできたから少々時間食った。
 泳いできた? 船から?
「それより、場所は分かるんですか?」
 ――会話を聞いてたからな。大体分かる。明かりが付いてる家屋。
「家の周りには人が見張ってるそうです。気をつけてください」
 一瞬、返答がない時間があった。不安になった頃「分かった」と返答があった。
 そろそろ、リビングに戻らなくてはならない。
「邑崎さん、信用は出来ないですが、とりあえず十分時間を稼ぎます。凛子ちゃんは?」
 ――船にいる。あいつは大丈夫だ。手はずが済んでる。
 手はずが済んでる。依頼主は凛子であったはず。いや、それもこの茶番の中での話。本当は深い事情があるのかもしれない。
「分かりました。念のため、電源を切ります。いいですか?」
 ――了解。
 その通信を最後に、電源を落とす。怪しまれないようにイヤホンは首にかけたまま、リビングに戻った。
 先ほどと代わらない体制のまま、蝋燭の明かりに滴らしだされた男二人とひゆり。
「結論は出ましたか?」
 戻ってきてからの第一声、なんて答えようか。
 邑崎が来る。
 そのことの意味するところを判断しかねていたが、希望であると考えることにした。
「聞きたい事があるんだ」
 ひゆりがこくりと頷いて、承諾した。
 時間稼ぎ。でも、本心から訊ねたかった。
「僕ら、最後の日に相合傘の下に宝ものを埋めたよね。何を埋めたか覚えている?」
 ひゆりは無表情だったが、やがて目を細め、微笑んだ。
 
 
 
 本当に秋は邑崎を信じたのか。
 不安に思いながらも邑崎は走った。
 明かりは使えない。秋が言っていた「見張りがいる」という言葉を信じるならば、闇夜で自分の居場所を主張するような道具は使えない。
 数百メートル走っただけで息が切れる。もう歳なのか。ただの運動不足か。日常の排他的な生活が恨まれる。
 どこにやつらが潜んでいるか分からない。足音も極力立てないほうがいい。まさか突然襲ってくることもないだろうが、見つかったときのいい訳は考えておいたほうがいいだろう。
 たしか、この道を行くと分かれ道があるはずだ。
 分かれ道が見えたとき、突然照らし出されたライトに目を焼かれた。
 目を抑えて立ち止まると「おいっ」と男の怒声が聞こえた。
 やばい、早速見つかったか。
「どうした、ここで何してる」
 顔を上げるが、ライトの逆光でなにも見えない。頭はパニックだ。何か言葉をつむぎ出せ。
「大変なんだ」
 ようやく出てきた一言。
「大変って、何がだ」
 ただならぬ様子に、ライトを下げた男。
 邑崎はようやく顔を確認する。
 ――なあんだ。
 邑崎はうすら笑った。
 別に言い訳しなくても、こいつを殴り倒す大義名分がある。
 こいつは凛子を襲おうとしたクルー役の男だ。
 相手も邑崎だと気づき、狼狽したような表情をちらつかせる。
「お前、何でこんなところにいる?」
 男が言ったとき、邑崎は問答無用の鉄拳を男に放っていた。
 
 
 
「覚えてますよ」
 ひゆりが魅惑的な声を出す。
 秋は答えを待った。
「私はビーズで作った指輪と、二十歳に迎えに来たときに渡そうと、あなたに宛てた手紙。でも、残念ながら子供の頃のことなので、内容はもう覚えていません。でも、大体分かります。あなたへの想いを書いたのに違いありません」
 当時の心が蘇る。心地よく、焦れったく、落ち着かない心模様。
 二人で家の近くにテントを張って一晩中二人で考えたゲームで遊んだ。もしかしたら身体を触りあったかもしれないし、唇を合わせることもあったかもしれない。
「秋くんが入れた物も覚えてる。当時研究所に入るために使ってたIDカード、それに止まった時計」
 やはり、君は倉本京子なんだな。あのとき玄関口で別れたままの君。
 秋は溢れ出しそうな感激と喪失感を同時に抱きながら口を開く。
「あのあと、何があった? 君が生まれ変わるって、どういう意味なんだ?」
「実験があったんです。他の子達と同じように、私に特別な力をもたらす実験。少ない電力で脳漿を反復し刺激する。その度に視覚、聴覚などの五感を刺激する。それぞれの感覚の覚醒を促すのです」
「それで喋るサルが生まれたのか?」
「いいえ」
 あの日記は作り物?
「サルが喋っていると、私が勝手に解釈したのです。本当は喋っていません。サルの意志をまるで喋っているかのように理解しただけです。でも、正確に言えばチンパンジーとの意志の疎通が出来るレベルまで能力を開発したとの実験の成果として報告があります」
 そう。それが彼女の世界。彼女が見る世界は全て彼女の解釈の元、築き上げられていくのだ。
 もし彼女の能力が開花するとしたら、やはり現在のものとなるのだろうか。
「十三年前、君が発見された時に言った『桃色くも』とは? それは一体何のことだったんだ?」
「簡単です。あなたに向けたメッセージです。今日この日、桃色くもというキーワードから、あなたに失踪事件を解くヒントをあのとき残したんです。子供の頃の発想ですから、許してください。シナリオは全部で四つ。このエンディングはアザー編になります。あなたが私を求めてくださる限り、このアザー編になる仕組になってます。あなたが何よりも私を求めてくださったから、こうして再会を果たせたのです」
「他の三つは?」
「クラウド編。雲の章です。ピンク色の雲を見たあなたは、このことを身近な人に話して、周囲からヒントを貰うことでクラウド編に移行していきます。王道の失踪事件のシナリオになります。ほかにスピリチュアル編。超能力の章です。番外編に近いですが、超能力を原因とした失踪事件になります。最後にスパイダー編。ピンクタランチュラの章です。こちらも科学的に遺伝子操作された蜘蛛が及ぼすSF的なシナリオです。これらは秋くんがいろんな選択を選ぶことによってストーリが変っていきます」
「分かったよ。本当の失踪事件の種明かしは、このアザー編だけ。僕が失踪事件に対して傍観者になったとき、このシナリオになる」
「違います。アザー編にはサブタイトルがあるんです。『約束の時』というタイトル。これは秋くんが約束を果たしてくれることを意味しています。その証拠に秋くんは私を助けにここまで来てくれた。実は秋くんが私ではなくて、加賀山瑞穂に心惹かれてしまった場合、別のシナリオに移行するように組まれているんです」
「他のシナリオに行った場合、最後はどうなるんだ? 無事に家に帰れるのか?」
「どのシナリオに進んでも、家に帰れます。私は秋くんに危害を加えたいわけじゃないんです。いまの私を理解してもらいたかった。この世界を理解して欲しかった。その上で、私と一緒にいて欲しかった」
 ゲームブック。
 ようやく理解した。
 これは子供の頃夢中になったゲームブックやサウンドノベルゲームと同じだ。選択肢によって分岐する物語。選択を誤ると満足いく結末が得られない。或いはゲームオーバー。それを現実に再現したのだ。
 秋に理解させるために、最後に紙やノートパソコンで選択肢を出し、最終的にはこの場所にいざなった。
 彼女がやろうとしていることは、則ち理想郷の実現。全てを型にはめて横道にそれることを許さない物語作り。
 ごく一握りの人間にしか許されていない理想郷を全ての人間に等しく与えようとしているのか。
「理想郷を築くために、山ほどの屍を作り出すのを厭わないのが、そいつの考えだ」
 背後から声がした。
 呼吸切れ切れの邑崎が立っていた。
 邑崎が現れた瞬間、秋は脱力しそうになった。
「だいたい、こんな茶番を仕掛けて、影からこそこそ見物してるようなやつらだぜ。その辺のカルト集団となにも変わらねえよ」
 鷹揚のないものの言い方がやけに場違いに聞こえた。
 現実に引き戻された気がする。
 秋はひゆりをみた。
 ひゆりは無表情だった。
 背後に立つ二人も同様。
 邑崎が秋の横に立つ。
「人間は時々、我を忘れたようにジャンクフードに貪りつきたいもんだんだよ。酒を飲むし、煙草も吸う。それらが禁止されない理由を良く考えろ」
 ひゆりから、何の返答もなかった。
「お前の言うことは、まず聞き分けの悪いやつをみんなぶっ殺して、従順な人間だけ残ったら、さあ型にはまった国を造りましょうってなもんだ。どっかの独裁者を思い出すぜ。まったく、カルト集団の考えることはどいつも一緒だな」
 ひゆりはかすかに顔をそむけた。それは合図だ。背後に控えていた、これまで寡黙だった男が一歩前に出る。
 ところが隙かさず邑崎がその動きを制した。
 ふところから取り出したものに、男はその場に貼り付けられざるをえなかった。
 拳銃である。
 シリンダー式の黒光りする拳銃。
「動くな。動いたやつからぶっ放す」
 邑崎が秋の前に立つと、邑崎の背中に大きく縦に入った傷に初めて気づいた。
 ひどく出血しており、邑崎の履いているズボンも濡れている。
 ぞっとして戸惑っている脇で邑崎が口を開く。
「まったく、自分の頭の中にある世界が正しいと信じて、色んなもの犠牲にして騒動を起こす奴は歴史を顧みりゃごまんといる。誰もそれを実現でできないことは少し考えりゃわかるだろ」
 誰もなにも答えない。
「邑崎さん……」
 秋が口を開こうとすると、邑崎はすかさず「黙れ」と怒鳴った。
「お前はなにも喋るな。お前を日常に返してやる。その代わり成り行きを見守ってろ」
 でも、傷が。
 手当てしないと、命に関わる。
「さて、どうしたもんかな。タイミングが分からねえぞ、こりゃ。クライマックスがその時だと思って来てみたが、今でいいのかな?」
 それは誰に問いかけているんだ。
 それに、ここに何をしに来たんだろう。拳銃を持ってるなんて訊いてなかった。
 秋を助けに来たのなら、銃で牽制しながらすぐにでも家を出ればいい。
 まさか、ひゆりを?
 
 ---------------
 
「まさか、それで私を撃つつもりですか?」
 ひゆりが初めて口を開く。
 邑崎は慎重にひゆりを睨みつけた。
 疑ってはいたが、やはりこいつも演技者か。万里夫の言っていたこのシナリオの依頼主って言うのもこいつになる。
「ことと場合によるな。大人しくしてればそんなこともないだろう。あんた、オルガンの至宝なんだろう。とりあえずあんたに狙いつけときゃ、後ろの奴も身動きとれなそうだからちょっと我慢しててくれ」
「目的はなんですか? 秋くんを連れて行くつもりですか?」
 星名ひゆりにそう訊かれ、邑崎はすぐに答えられなかった。
 あくまで邑崎の目的は万里夫との約束を果たすことだった。それは今でも変りはない。
 だが、自分でも馬鹿馬鹿しくなるほどに目的を忘れ、秋を庇護おうなどとしてきたことを思い出す。
 生きる事より大事な約束を忘れさせるほどに甘ったれのいいやつだ。大事な約束に、こいつの命を背負っても重荷にならないだろう。
 ならば月原秋が望むのならここから抜け出させるのもやぶさかではない。
「まあ待てよ。俺は混乱してるんだ。今でいいのか?」
 なあ、万里夫。今でいいのか。山梨の農村で会った以来だ。相変わらず女のような顔をしてやがる。加えて髪なんて伸ばしてるから、女に見間違うほどだ。
 気になるのは万里夫の隣に立つもう一人の男。あいつはエクスキューショナーを自称する男。俺にさんざん脅しをかけた男だ。
 エキュスキューショナーの意味は調べたぜ。意味は執行者。要するにあいつはオルガンの闇の部分を司る殺し屋だと思っていいだろう。
 あいつは何を考えてるか分からない。
 背中に負った傷も、血が止まる気配もない。
 結論は早いほうがいい。
「ありがとう、邑崎」
 万里夫がそう答えた。見ると万里夫が男女問わず魅了するような笑みを浮かべて邑崎を見ていた。
 
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 秋は呆然と長髪の男を見ていた。突然口走った「ありがとう」とはどういうことだろう。
「秋くん」
 長髪の男が秋を見た。
 もう一人の黒尽くめの男がものすごい眼光で長髪の男を睨み、ひゆりも振り返っている。
「分からなかったかな。僕が小山内だ」
「お、叔父さん?」
「お腹も出てないし、口の中の詰め物も取ってしまったから痩せて見えるかな。でも、昔から君の知ってる小山内叔父さんだよ」
 黒尽くめの男が身じろぎした。邑崎はとっさに銃口を星名ひゆりから、黒尽くめの男に向けた。
「悪いが君の持ってる銃を預けてもらうよ。さあ」
 長髪の男が手を出すと、苦々しそうに黒づくめの男が懐から銃を取り出し、銃身を預けるように長髪の男へ手渡した。
「ナイフもだ」
 そう言うと、黒尽くめの男の舌打ちが聞こえてきた。黒尽くめの男の憎悪が黒い霧となって部屋を覆っているようだ。
 ナイフも手渡すと、ナイフは懐に、拳銃は秋に投げて寄こした。
 鉄の塊をキャッチすると、狼狽して邑崎を見た。
「ちゃんと構えろ。オートマチックだから引き金を引くだけだ。安全装置ははずせよ。ほら、この部分だ」
 邑崎が銃を構えたまま、銃の側面に付いたレバーを手前に引けと指示する。
 言われたとおり安全装置をはずすが、銃口を誰かに向けるような事は出来ない。
 小山内――いや、もはや秋の知らない人間になった男が口を開いた。
「秋くん、君に船に乗るように促したのは僕。そうせざるを得なかった。悪かった。許して欲しい」
「お、叔父さん。本当に……」
「君の母親は僕の姉。本当の姉ではない。だけど唯一の家族と言っていい姉さんと約束したんだ。君を守ることを。だからこそ、君をこの場所までいざなうしかなかった。僕には君の宿命は曲げられなかったからね」
「宿命って……どういう意味?」
「君は脳から遺伝子に至るまで、徹底的に分析されている。子供の頃にね。君の優秀な遺伝子に加え、星名ひゆり――倉本京子との相性の良さにより、許婚のように君と彼女は結ばれるように決められていた。いいかい、決まっていたが、なぜ君だけ失踪事件に巻き込まれず、これまでなにも知らず生きてこれたか。良く考えて」
 良く考えてって、いまの秋には考えがまとまらない。
「僕の遺言だと思って聞いて欲しい。君の母親は脳の研究者だった。この研究にも深く携わり、同時にオルガンの信者の一人だった。息子を差し出せと言われれば逆らえない。彼女は君の呪われた宿命を憂い、オルガンを抜けて君を救う唯一の方法を取ったんだ」
「僕を救う?」
「自ら脳にガン細胞を注射した。動物実験用のガン細胞をね」
 秋は手に持っていた拳銃をこぼしそうになる。
 脳腫瘍は自殺?
「病死なら、怪しまれずにオルガンを脱退できる。加えて君は研究対象としての縛りから解放できる。そう考えた。そうにはならなかったけどね」
 研究の実験体にならないよう、母親が自分を殺して自分を守ったというのか。
 怒りがこみ上げてくる。嬉しいわけがない。自分を守って死ぬくらいなら、生きていて欲しいに決まっている。
「失踪事件の仕組まれていた時期だったから、研究は閉じようとしていた。だから君への実験は見送られたが、オルガンからは逃れられない。君は婿として倉本京子との間に子孫を残す宿命がある。だが、君の父親が母親の意志を受け継いだ。君の父親は、君を殺したんだ。君の生存の記録を戸籍から抹消したんだよ。行方不明と警察に通報し、行方知れずの君の葬式まで開いたんだ。もちろん戸籍のカラクリはある。高校を中退するまでの君の戸籍と、今の戸籍は違うもの。要するに、今の君の戸籍は別の人間のものだ」
 自分の人生の全ての糸が繋がり、全身が粟立った。家に帰ると、金を掴ませ家を追い出したのは、秋のためだったというのだろうか。
 今の話が全て真実だとしたら、なにも知らなかったのは秋だけ。秋をないがしろにして、秋だけ知らなくて、母親も父親も親の愛情を尽くして悦に浸ってやがったということになる。
「もちろん、オルガンは君が本当は生きていると嗅ぎつける。戸籍の入れ替えはオルガンの十八番だからね。やがて君が生きていることに気づいたオルガンは、倉本京子の婿として君を迎え入れる準備を始めた。僕は君の父親の元に行き、事情を話した。そして遺志を受け継いだ。僕は君をオルガンには引き渡さないし、このままオルガンは亡き者にする」
 亡き者に? それはつまりひゆりを――。
 
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「よし、いいんだな」
 邑崎が言った。
 手に掴む拳銃に力が篭った。
 万里夫がこくりと頷いた。
 そして、万里夫は縛られて身動きの取れないひゆりの顔面を左手で掴んだ。
 ――僕が人格を食った瞬間。
 それが約束の果たされるとき。
 邑崎は秋に「心配するな」と怒鳴った。
 秋は戸惑ったように邑崎を見る。
 一方、顔面を万里夫に掴まれたひゆりが悲鳴を上げたと同時に、黒づくめの男――執行者が動いた。
 万里夫に掴みかかろうとしたその瞬間、邑崎の拳銃が咆哮を上げた。
 黒づくめの男は後方に吹っ飛び、後頭部からキッチンカウンターに衝突する。
 銃弾がどこに当たったのか分からない。だが執行者はぐったりと力なく床に倒れ、起き上がってくる様子はない。
 ひゆりの壮絶な悲鳴が響く。
「うわあああ!」
 秋の声だった。
 秋が声を上げながら、ひゆりのほうに走り出した。
「この馬鹿!」
 間一髪、秋の襟を掴むと、強引に引っ張って、秋を羽交い絞めにした。
 ――約束は人格を食った瞬間に。
 邑崎は思い出していた。
 万里夫は相手の過去の記憶を「消す」のではない。
「奪う」のだ。
 周囲の蝋燭の炎がいっせいに燃え上がった。真っ赤に染め上がるリビング。
 何事だと周囲を見渡す。
 常識ではありえないことが起こっている。蝋燭の火が燃え上がったくらいで動揺してはならない。
 人格を食う。
 人格の基礎は、人の記憶から成り立つ。
 記憶と経験が人格を形成するのである。
 それを全て奪い取る。すなわち、万里夫が今までのひゆりに成り代わろうとしている。
 その瞬間――人格を食った瞬間――約束の時。
 左腕で秋を押さえ込みながら、右手に拳銃を持って、銃口を万里夫に定めた。
 ひゆりの悲鳴。
 万里夫の髪の毛が吹き上げられたように逆立っている。
 ひゆりと万里夫を中心として空気が巻き上げられ、周囲の蝋燭がかき消される。
 やがて。
「ぎゃあああああ!!」
 万里夫が頭を抱えて叫び声を上げた。
 人格を食ったのか。
 ひゆりは茫然自失として虚空を睨みつけている。
 蝋燭の炎が壁に燃え移る。
 灼熱の炎が肌を焼く。
 まだだ。
 邑崎は万里夫に銃口を向け続ける。
 万里夫の悲鳴が止む。
 頭を抱え込んだ状態で、平衡感覚を失ったように左右に揺らいでいる。
 トリガーに掛かった指に力が篭る。
「約束だ。お前を殺すぞ」
 邑崎が呟いたとき、呼応するかのように万里夫が顔を上げた。
 徐々に、ゆっくりと、何かが誕生するかのように。
 赤い炎に反射して、真っ赤に染まった眼光。顔の面積に対して異様に大きくなった目。無表情。ただし、その目に湛えられる確かな意志。
 その顔が徐々に笑みに変る。
 身の毛のよだつ笑みだった。動物が微笑んだような薄気味悪さ。笑ってはいけないものが笑ったのだ。
 邑崎は確信した。
「あの世で会おう!」
 銃が火花を散らす。
 反動の腕への衝撃。
 銃弾は万里夫の眉間に穴を開け、後頭部を突き抜けて背後の壁に突き刺さる――はずだった。
「くそっ!」
 秋が邑崎の腕を掴んでいる。秋に狙撃を阻止されたのだ。
 このお人よしが!
 銃弾は外れた。万里夫の頬を掠めて背後のガラスを割っただけ。
 ――やばい!
 そう思ったとき、万里夫が声を上げた笑った。溜まりに溜まったストレスを一気に放出するような笑いだった。
 邑崎は四回立て続けに引き金を引いたが、万里夫は冷笑うかのように窓の外に身を投じて銃弾を逃れた。
 弾切れだ。秋の持っていた拳銃を奪おうとするが、秋は頑に抵んだ。
「ちくしょう!」
 壁に燃え移った炎はすてに天井に届き、生き物のように渦をまいている。
 火の粉が落ちてくる中、邑崎は「外に逃げるぞ!」と怒鳴って秋の手を引いたが、秋は動かない。
「星名さんが!」
 邑崎はひゆりをみる。
 人格を食われたひゆり。
 今は抜け殻であるはずだ。
 彼女を連れ出して、果たして彼女に明日はあるのか。
 
 ---------------
 
 秋は走り出した。ひゆりに駆け寄ると、ひゆりはこの熱風の中、茫然自失と虚空を見つめたまま微動だにしない。
 一体何をされたのか。彼女に何が起こったのか。
 考えるのは後だ。
 秋はひゆりの全身に巻かれたロープを解こうとする。動かない右手に加え、堅く結ばれたロープは簡単には解けない。
「くそ、解けろ!」
 周囲は火の海だった。髪の毛が焦げる匂いがする。拳大の火の塊がひゆりの肩に落ち、髪の毛に燃え移った。
 慌てて火を振り払い、髪に燃え移った火を素手で消す。
 左手の皮が無くなっていた。
 痛みを堪え、ロープを解こうとする。
「どいてろ」
 邑崎が床に落ちていた拳銃を拾うと、ひゆりの背後に回った。
 ひゆりを撃つつもりか――と思った一瞬後銃声が響き、上半身を戒めていたロープが解けた。
 続いて邑崎は膝と足首に巻かれていたロープを解く。
「急げ、廃屋は火の回りが速いぞ」
 そう言った瞬間、邑崎が吹っ飛んだ。壁に激突し、激突した壁が抜けて隣の部屋に転がっていった。
 吹っ飛んだのは邑崎だけではない。
 気を失っていたはずの黒づくめの男が邑崎にタックルを喰らわせたのだ。
 邑崎は黒づくめの男と取っ組み合いになりながら叫んだ。
「逃げろ! いいか、船には戻るな! 森を逃げて絶対誰にも見つかるな!」
 でも、邑崎さんは――!
「俺のことは心配するな!」
 地団駄を踏んでいる秋に向かって邑崎が叫ぶ。
 秋は決意した。
 ひゆりを背負うと、記憶の中にあるキッチンの裏にあった勝手口に向かった。
 キッチンまで火の手はまだ回っておらず、勝手口から表に飛び出すと、背後で燃え上がった天井がリビングに落ちる音がした。振り返ると勝手口から炎が燃え上がっている。
「邑崎さん!」
 怒鳴っても返答はない。
 呆然と燃え広がる別荘地を見つめているしかない。
 背中に掛かるひゆりの重量。
 いつまでもここにいるわけにはいかない。
 周囲を見渡す。
 いるはずの見張りは一切見当たらない。
 どうする。
 やっぱり邑崎を見捨てるわけにはいかない。
 ひゆりをゆっくり地面に降ろすと「ちょっと待っててすぐ戻るから」と伝え、意を決して炎の前に立ちはだかった。
 火の弱いところから入って、邑崎を発見したら引きずり出してくる。
 つたない計画。
 まだ火の手のない窓を見つけ、飛び込もうと助走を取ったときだった。
 火だるまが窓を飛び出してきた。
 男が地面にごろごろと転がり、身体に燃え移った炎を必死に消そうとしている。
 邑崎か。黒づくめの男かもしれない。
「逃げろって言っただろ!」
 立ち上がるなり秋を見つけて怒鳴ったのは邑崎だった。
「なんだその顔は。まだ助かったわけじゃねえぞ」
「もう一人は?」
「分からない。身体に火が燃え移ってからは無我夢中で。俺は海でひと泳ぎしてきたのが幸運だったらしい。おかげで大した火傷もないぜ」
「でも怪我が」
「火に焼かれて血も止まったよ」
 そう強がってみせる。
 本当に強い、この人は。
 秋は改めて感じる。
 船上にいる間もずっと感じていた。
 なぜこの人はこんなにも強いのだろう。
 秋は振り返る。地面に横たわっているひゆりを抱き起こし、邑崎にも手を借りて背負うと、改めて邑崎を見た。
「そんな顔するな。助けを呼んでやるからお前は島に残れ。そうだな。研究所がいいだろう。先に行ってろ。俺は遣り残した事を片付けてくる」
「遣り残したことって……」
「最悪を取り消しにいく」
 最悪って。あの瞬間、ひゆりが悲鳴を上げて、叔父さんが悲鳴を上げて。
「何が起こったんですか?」
「最悪な事が起こったんだよ、お前のおかげで。救世主の能力と一緒に、記憶を奪う能力を掛け合わせた最悪の独裁者が出来上がっちまった。いまどうにかしなければ、あいつは能力で色んな力を手に入れていくぞ」
「意味が分からないよ」
「分からなくていい。お前の物語はここで終わったんだ。見ろ。炎で終わるエンディング。めでたしめでたし。とにかく俺は船に戻るぜ」
 邑崎は駆け出した。
 慌てて引き止める。
「なんだ」
 苛立った表情で振り返る邑崎。
 僕も行きます。そう言おうとしたが、邑崎の顔を見ると喉が詰まった。
 だが秋の言いたいことを悟った邑崎は「駄目だ」と言い放つ。
「そのお荷物を抱えて船まで戻る気か。分かってると思うが、歩いて乗船できるわけじゃないぞ」
 縄ばしごを登らなくてはならない。
 ふと背中にひゆりのぬくもりを思い出す。
 肩口にひゆりの顔。
 目を瞑り、静かに呼吸している。
 背中にかかるひゆりの圧迫感。
「君は一体どうしたんだ。あの瞬間、何が起こったんだ」
 どうして眠ってる。
 もう一度名前を呼んでくれないか。
 そうしたら立ち上がれるかもしれない。
 秋さん。
 そう呼んでくれ。
 ――情けない。ひゆりに頼ろうなんて。彼女は現在気を失っているんだぞ。助けて欲しいのは彼女のほうだ。
 なんて情けないんだ。
「なぜ、星名さんは目を覚まさないんですか」
「その女は抜け殻だからだ」
「抜け殻?」
 邑崎かかすかに振り返る。
 あの時、小山内は何かをした。ひゆりの顔面を左手で覆った。次に風が起き、蝋燭の炎が燃え上がり――。
「説明してる時間はない。俺は船に戻る。お前はここに残るんだ」
「ここに……残る……」
 自我を失ってしまったのは秋のほうかもしれない。
「しっかりしろ。自分を見失うな。いいか、俺が船に戻り、救難隊を呼ぶ。お前はその女に付いてろ」
 ひゆり。確かに今の秋に彼女を船まで運ぶ体力はない。
「いいか、アルバイト君」
 邑崎は秋の正面に片膝を付いて目線を合わせた。
「短い付き合いだったが、これが今生の別れだ。最後に言っておくぞ。お前は何があろうと成り行きを見守れ。決して脇道に外れるな」
 呆然とそれを訊く。何を意味してるのか分からないし、もう考える事が出来ない。
 邑崎は少しはにかみ笑って、最後の言葉を残した。
「お前の甘ちゃんぶりのせいで、俺の命よりも大切な約束を何度も見失いかけた。お前の言っていること、やっていること、全てが虫唾が走るほどむかついた。そして全てが正しかった。あるいは、お前こそ世界を救う救世主かもな」
 そう言って秋の肩に手を置くと、邑崎はもう振り返らずに、闇の森に溶け込んでいった。
 
 ---------------
 
 邑崎はとにかく止まらずに走った。万里夫の行き先は船に違いない。早く追わなければ船が出港してしまう。
 嫌な予感がする。いや、予感などではない。確信だ。万里夫の持つ不思議な力。それは人の記憶を奪う力で、人の悲しい過去でも過ちでも、あいつは奪い取ることで相手の記憶を失くす。だがそれは消すことではなく奪うことで、記憶は奪われたほうから奪った万里夫に引き継がれる。
 相手の記憶の一部ならまだしも、全てを奪うことは、すなわち人格を奪うことと同様だ。人格は記憶や経験の積み重ねのうえに成り立つのだ。
 教祖の資質を持った星名ひゆりの人格を食った瞬間。それが約束のときだった。ずっと昔、二十年も前の約束。
 万里夫はオルガンの悪意の根源である星名ひゆりさえも救おうとした。彼女を殺すという選択肢を選べなかった万里夫は自らの命を捧げたのだ。
 その決意があっての約束だ。だからこそ果たさなければならない。今の万里夫は自殺しようとなんて考えないだろう。ひゆりの人格を引き継いでいる今の万里夫はまさに最悪の悪意の塊だ。
 恐ろしい。星名ひゆりのカリスマたる人格とあの能力を併せ持った瞬間、最悪の独裁者の出来上がりだ。政界にウン十年いるお偉い老人の記憶を奪えば、日本は乗っ取られたも同然になる。
 桟橋に繋がれた、秋が乗ってきたボートに乗り込み、必死に船に向かう。
 船に近づくと、大型客船のスクリュー音は聞こえてこない。メインエントランスからの縄ばしごも垂れ下がったままだ。
 間に合った。
 邑崎は懐にしまった拳銃の感触を確かめる。
 縄梯子を上り、メインエントランスに降り立つと、明かりはまだ点されておらず、あいかわらず暗闇が支配している。
 どうなったのか。状況を知るすべはない。
 万里夫が戻ってきても、あいつは島で起こったことなど説明できないはず。自分が星名ひゆりを襲って逃げてきたと証言できない以上、元の人格を演じるはずだ。
 メインエントランスの監視カメラを意識する。船内で待機しているはずの邑崎が海から上がってくれば警戒の対象になる。
 すぐにメインエントランスに作業服姿の男たちが現れる。一様に耳にイヤホンをしているということは、通信は生きている。
「止まれ!」
 メインエントランスで邑崎を発見した男が怒鳴った。
 三人だ。まだ増えるはず。
 邑崎は観念したように両手を頭上に掲げて見せる。
 三人は徐々に距離を縮める。
「なぜ海から上がってきた。島で何かあったのか?」
 答えないでいると、一人の男が棒状の武具を取り出した。
「邑崎さん、悪いがあんたは警戒されてる。海から上がってきた理由をすぐに説明できないのなら、少々荒っぽくなるが」
 三人以外に、階段を下ってくる二人の男が見える。
 そろそろいいだろう。
 邑崎は懐から拳銃を取り出すと、吹き抜けのはるか頭上にあるシャンデリアに向けて発砲した。
 銃弾を浴びて砕け散ったシャンデリアのガラス片が、メインエントランスに降り注いだ。
 首をすくめて退散する男たち。
「動くな!」
 今度は邑崎が声を上げる。
 油断なく、三人の男に銃口を向けながら、拳銃を認識したことを確認する。
「島から小山内という男が戻ってきたはずだ。何処に行った?」
 三人の男は邑崎を恨めしそうに睨みつけるだけで、誰も答えない。
 三人の男の中から適当に一人見繕い、近寄って髪の毛を掴み上げると目の前に銃口を突き出した。
「小山内はどこにいる?」
 それでも答えない男に、熱を持った銃口を額に押し付けている。じゅ、と音がして皮膚が焼ける。悲鳴を上げて顔をそむけた男にもう一度訊ねる。
「脅しだと思うな。三人いるからな。お前が答えなくても次にいる。お前の脳をぶっ放して次のやつに思い知らせてもいいんだぜ」
「分かった! 撃つな!」
 はったりが利いたらしい。
「小山内さんはまだ戻って来てない。連絡もないんだ。島で何があったかはこっちが聞きたいくらいだ」
「嘘を言うな」
「本当だ。火事が見えた後、島にいた人間に連絡が取れない。救援を向かわせようとしたところだったんだ」
 小山内が戻ってきていない?
 そんな馬鹿な。
 なら、あいつはまだ島にいるって言うのか。
 思わず振り返った。見えるのはメインエントランスの壁だけであったが、その向こうにあるはずの島の暗影を想像しながら、邑崎は全身を粟立たせたのであった。
 
 ---------------
 
 秋はぼんやりと焼け落ちて行く廃屋を眺めていた。腕に抱えるひゆり。その温もりと炎の熱気を浴びながら、ぼんやりと自分の行く末を占なった。
 このふざけた世界にいざなわれ、自分がここにいてひゆりを抱いている現実が滑稽で奇妙でならない。
 もう、二日前までの日常を取り戻すことは出来ないのだろうか。
 邑崎は救難隊を呼ぶと言っていたが、呼べなかったらどうする。この茶番劇を仕掛けた人間たちの巣窟へ戻るというのだから、やがてここにやってくる人間がいたとしても、それは救難隊ではない。
 秋の膝の上で意識を失うひゆりの横顔を眺める。
「君はどうしてしまったんだ。本当に君は二人いるのか?」
 どうすることも出来ない。しょせん秋には抗おうとも相手が何枚も上手で、人数も多い。
 承諾しておけば良かったのか。今までの日常を失うとしても、ひゆりと過ごせるのならばその生活は素晴らしいのではないか。
 選択を間違ったのだろうか。
 そのとき。
 炎が風を巻き上げる唸り声以外に、別の音が聞こえてきた。
 土を踏みしめる音。
 誰かの足音。
 救難隊ではないだろう。
 足音のほうを見る。
 炎の赤に照らされ、奇妙に揺らぐ男がこちらに歩いている。その表情には穏やかな笑みがたたえられている。
 長髪の男。間違えれば女性に間違えそうな整った容姿。
 ひゆりを抱く腕に力が篭る。
 いま、何が出来る。
 立ち上がることも困難な状態で、なにも出来やしない。
 秋はゆっくりと迫ってくる、穏やかであるが絶望的な足音を聞きながら、だたそのときが来るのを待つしかなかった。
 絶望が秋の目の前に立つ。
「心配しないで」
 吸い込まれるような声。催眠術に掛かったように虚ろになる意識。
 絶望が救いを与えるように、手の平が秋の視界を隠した。
 指がこめかみに触れる。
 もう、身をゆだねよう。
 このまま眠ってしまおう。
 目を覚ました頃には、きっと全て終わっている。
 そう信じて。
 
 ---------------
 
 引き返すか。
 邑崎は逡巡する。今から島に戻る。その選択は無謀だ。
 万里夫は必ずこの船に戻ってくる。ここで待つのが賢明だ。
 髪の毛を掴んでいた男を乱暴に振り払うと、くそったれと悪態づく男を無視してメインエントランスから海上に続く入り口に近寄った。
 あるいはボートなどでやってくる万里夫の姿が見えるかもしれないと考えたのだ。
 だが、それは愚かな選択だったと思い知ったのは一瞬後。
 口を開けた搭乗口に近寄った瞬間、突然飛んできた金属に、反射的に腕で避けた。
 後方に吹っ飛び、尻餅をついた。
 飛んできた金属を避けるために使った左腕が奇妙に折れ曲がっているのに気づき、邑崎はぞっとした。
 視線を起こす。
 そこには搭乗口からメインエントランスに這い登ってくる黒い影があった。
 その手には金属製のオールが持たれている。
 ――執行者。
 生きてやがったのか。
 立ち上がって、慌てて銃口を相手に突きつける。間に合わない。
 交わすことも出来ず、横なぎに払われたオールが邑崎の横っ面をはたいた。
 気が遠くなった。目の前に火花が散ったと思うと、メインエントランスの絨毯の上に顔から卒倒した。
 やばい。
 無我夢中で仰向けになると、シャンデリアを背景にオールを頭上に掲げるシルエット。
 身体を捻って転がると、後頭部付近でオールが絨毯に激突した音が聞こえた。
 折れた左腕に激痛が走る。
 ――くそっ。
 そのまま立ち上がり、振り返らず走る。
 階段を駆け上ると、途中に踞っていた男に足を引っ掛けて前のめりに倒れた。
 後方を振り駆る。
 瞬間、右足に激痛が走る。
 追いかけてきた執行者のオールの一撃が邑崎の右足の膝を砕いた。
「うわあああ!」
 恐怖が全身を震わせた。
 邑崎は拳銃を執行者に向け、照準も合わせないまま立て続けに二発放った。
 一発目はかん高い音を立てオールを弾き飛ばし、二発目は執行者の肩に当たり、階段の中腹からエントランスの絨毯の上に吹き飛ばした。
 執行者はすぐにのそりと立ち上がって、こちらを振り返る。
 邑崎は恐怖という名の針に全身を貫かれたような思いがした。
 どうにか立ち上がると、這うようにして階段を上る。
 左足を引きずりながらプロムナードデッキに出た。客船の外縁を一周するように作られた通路だ。
 邑崎は欄干を掴んで身体を支えながら必死に逃げた。
 何度も振り返る。
 何発の銃弾を撃ち込んでも、炎に焼き尽くされる廃屋に取り残しても、何度でも蘇ってくる男に、多少なりダメージを与えたのか、追いかけてきてはいない。
 これ以上は歩けない。
 邑崎は悲鳴を上げながらその場に踞る。
 くそ、何でこんなことに。
 邑崎は拳銃の残弾を調べた。
 あと一発しかない。
 これは万里夫に使う銃弾だ。
 残しておかなければならない。
 だが、執行者に殺されてしまったら約束も果たせない。
 邑崎はもう動けなかった。
 約束。
 果たせないのか。
 邑崎は今やってきたプロムナードデッキの通路に銃口を向ける。暗闇の先から執行者が現れたら撃つつもりだった。
 しばらくの間。
 執行者も、ほかのオルガンの人間も現れなかった。
 左の二の腕、左の膝が絶えずハンマーで殴られるように痛む。
 寒気がした。
 骨折は初めてではない。だから知っている。骨折したあとは貧血になる。間違えれば気を失う。
 くそ、ここまでか。
 そう思ったとき、人影が視界をかすめる。
 暗闇の中、正面のプロムナードに人影があった。
 邑崎は身体に鞭打って、欄干を掴んで立ち上がる。
 もう一度人影に銃口を向けようとしたとき「邑崎さん!」という声に、慌てて銃口を下げた。
「邑崎さん!」
 もう一度声が響いた。
 駆け寄ってきたのは凛子だった。
 なぜここにいる。
 なぜ言われたとおり、大人しく隠れていない。
「凛子!」
 ――来るな!
 そう叫ぼうとしたが遅かった。
 凛子の背後に潜んでいた影が凛子を捕らえた。
 執行者。
 やはり追いかけてきていた。
 凛子は擦れた悲鳴を上げる。
 執行者が掲げたナイフが星明りに鈍く反射した。
 この馬鹿。大人しくしてればいいものを。
 執行者は物言わず、凛子の喉元にナイフを当てた。容赦せず、そのままナイフを凛子の喉に突き刺しそうな気配がした。
「待て!」
 邑崎は叫ぶと、銃をゆっくり地面に置くそぶりを見せる。
 寡黙な執行者の視線の先は分からないが、動きは止まった。
 邑崎は右足の力だけで屈みこみ、地面に拳銃を置くと、力を込めて再び直立した。
「凛子には手を出すな。お前の狙いは俺だろう」
 執行者は答えない。代わりに凛子の喉元にナイフの先端を当てたまま、邑崎のほうににじり寄ってくる。
 いよいよ終わりか。
 こりゃ手も足も出ない。
 手を伸ばせば届く距離まで凛子と執行者の距離が縮まってくる。
 凛子の顔を見える距離だった。
 凛子は見たこともない顔で涙を流している。
 まあ、最後にお前の顔を見れただけでも良かったか。
 凛子に当てられていたナイフ。
 それが方向を変えたのが分かった。
 もう身じろぎひとつ出来ない。
 そのナイフが邑崎の腹部を突き刺したとき、全身に走りぬけた痛みが邑崎に死を知らせた。
「やあああ!」
 凛子の悲鳴。
 凛子が突き刺した執行者の腕に噛みついた。
「や、めろ、凛子」
 声にならない。
 執行者は邑崎の腹部からナイフを抜き取ると、凛子の顔面に向かってナイフを横なぎに――。
 ――や・め・ろ!
 邑崎は地面に崩れ落ちるのと同時に、地面に落ちていた拳銃を掴み、そのまま発砲した。
 銃弾は執行者の胸に当たり、執行者は突き飛ばされたように後方に倒れこむ。
 今度こそ致命打だ。
 凛子は?
 倒れた邑崎に凛子が駆け寄ってきた。
 暗闇でも分かる、凛子の頬に走った深い切り傷。
 なんてことだ。
「す、すまない、凛子」
 凛子はうめき声を上げながら、髪をふり乱すように首を横に振る。
「許してくれ……」
「怒ってない! 私、怒ってないから!」
 必死に声を上げる凛子の背後。
 絶望の訪れのような暗影が浮かび上がった。
 こいつは不死身か。
 くそ。
 この瞬間だけでいい。
 力をくれ。
 願いが神に届いたのか、それとも死の直前に訪れるという猶予の時間か。
 邑崎は立ち上がった。同時に凛子を突き飛ばす。
 目の前に執行者の顔があった。
 焼けただれ、赤黒く腫れ上がった顔のずっと奥のほうから、紫色に光る双眸が見えた。
 次の瞬間、視界が一転した。
 上下の感覚も失われたかと思うと、視界の中に夜空と漆黒の海が交互に移る。
 プロムナードデッキから、船外に放り出されたのに気づいたのは一瞬後。
 無我夢中で何かを掴む。
 掴んだものは執行者の胸倉。
 せめて道ずれに。
 思い切り胸倉を引き込むと、身体が落下して行くのが分かった。
 落ちる。
 漆黒の海へ。
 執行者とともに。
 これが最後。
 凛子を守った。
 それだけを誇りに思おう。
 あとは海に沈んでいくのみだ。
 ところが。
 身体は落ちて行かない。
 代わりに海に何かが落ちる音が聞こえた。
 執行者が落ちた。
 きっとそうだろう。
 なぜ俺は落ちていない。
 身体は確かに船外にある。
 邑崎は薄れゆく意識の中、天を仰いだ。
 プロムナードデッキの縁から俺の右腕をつかむ凛子が見えた。
 雑音が止んだ。
 なにも聞こえない。風の音も、波の打ち寄せる音も。
 世界が閉じ、世界には邑崎と凛子だけになった。
 邑崎の両足は宙に浮いている。海面に両足の裏をつけるには20メートルほどの足の長さが必要だ。
 左腕は折れている。左腕を伸ばし、縁の欄干を掴んでデッキによじ登ることは自力では不可能。全ての運命は凛子の細い二本の腕に掛かっていた。
 体重七十キロを超える成人男子の身体を、四十キロもない少女が持ち上げるのも、また不可能。
 凛子は歯を食いしばり、邑崎の腕を必死に掴んでいる。邑崎の意識は朦朧とし、首をうなだれて顔を起こす気力も無くなった。それでも水風船のようになった邑崎を凛子はいつまでも支えていた。引き上げることは無理。自力でよじ登るのも無理。この膠着状態が短いか、長いかだけの問題だった。
 どちらになったかというと後者だった。長い長い時間、膠着状態が続いた。邑崎はおもむろに面を上げる。凛子顔が見えた。悲しく、痛みだらけの顔。かわいそうに深い傷が頬に刻まれている。
 もう手を放していい。そう思うが、凛子は手を放さない。だからと言って持ち上げることはできない。
 邑崎は微笑んだ。
 凛子の瞳と頬の傷から滴り落ちた熱いしずくがいくつも顔に落ちてきた。
「……助けて」
 なんて残酷なことだろうか。俺は凛子に対して、俺を殺させてしまう。いずれ彼女が力尽きてこの手を離したとき、彼女の心には回復できない傷が刻まれる。
「行かないで……神様」
 凛子の祈りが神に届かないことを知っている。彼女の体力が永遠ではないことを知っている。引き伸ばしても残酷なだけだ。
 邑崎は粕のように残った体力を、自分の命を奪うことにつぎ込んだ。
 客船の側面に足をかけ、力を込める。当然、腕は引っ張られ、非力な凛子の腕力では支えきれなくなる。
「やめて、やめて」
 擦れた声を出す凛子。凛子が掴む手に力が篭る。だが、俺の腕は徐々に彼女の手を落ちる。
「もういいんだ」
 凛子の掴む手が、俺の手首から手のひらにずれる。手には血。潤滑油のように滑る血。凛子の頬から伝った血。
「お願いだから。がんばって。落ちないで」
 彼女の願いは叶えられない。もう終わりだ。なにも音はしなくなった。聞こえてくるのは凛子の声だけ。
 ひたすら寂しく孤独。手を放した瞬間、凛子の声もしなくなる。
 死ぬんだ、俺は。
「うぐっ、うぐっ」
 凛子の嗚咽が聞こえる。
 最後に死に行く人間のエゴが許されるなら、死ぬ瞬間を凛子に見届けてほしかった。俺の死ぬ瞬間を目撃し、その小さな胸に傷をひとつ。俺のための傷をひとつ。
 俺は再び微笑んだ。
「ああ!」
 手が離れた。
 邑崎の背後から急速に吹く風。その追い風が目の前の凛子を遠くに吹き飛ばした。
 急速に離れていく凛子。
 凛子の赤く染まった手のひらが見える。
 これで最後だ。
 ――最後。
 のはずなのに。
 遠ざかったはずの凛子が近づいてきた。
 赤く染まった両手の平が俺に近づいてくる。その両手は俺を掴もうと宙を泳いだ。
 プロムナードデッキの縁は彼女のずっと背後だ。
 馬鹿な。何てことだ。なぜそんなことを。強烈な胸の痛みと慟哭。
 それほどまでに、俺は凛子に対して大きな存在だったというのか。死を顧みず、その先には固くて冷たいアスファルトのような海面しかないと分かっていて。
 追い風の中、迫ってくる彼女に対して、俺は喜びを感じた。
 だが、その喜びは間違いだ。
 彼女は両手を大きく広げ、鳥のように羽ばたいた。その両翼の中に俺を包み込む。
 凛子の肉体の感触。
 強烈な肉欲。
 きつく抱きしめる。
 死の恐怖が和らぐ。
 これでいい。
 そう思った。
 でも違う。
 俺は背後を振り返った。
 点のように集束した視界の中、迫り来る海面の漆黒。
 飛びたい。今ほどそう感じたことはない。
 大きく羽を広げ、追い風を全身で受け止め、大空に舞い上がれたなら。
 海面は無情に近づいてくる。
 邑崎は海面から凛子を庇護うように抱きしめた。
 
 
 
 ――リセット。
 
 そして、全て無かったことに。
 最初から、なにも。 


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