桃色くも


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第十一章 〔 背後 〕 


  思いがけず来訪した万里夫に、邑崎の思考は鈍っていた。
 居間に寝かされる凛子は、何が起きたかも分からず目を閉じている。導眠効果のある薬品でも嗅がされたのか。
 居間の座布団に腰掛けて、朗らかに微笑みながら、奥さんに茶を勧められた万里夫は茶山といくつか挨拶を交わしている。茶山の様子は、まるで万里夫の来訪を予期していたかのように冷静だ。
「説明してもらおうか。まあ、時間はあるからゆっくりでいいけどな。俺も久しぶりの再会で、まだ半信半疑だ。確かにお前は中学のころの万里夫にそっくりだが、自分自身を証明できるか?」
 万里夫は目を細めて微笑み、ゆったりとした動作で眠る凛子を見やった。その視線には愛しい人を見つめる柔らかさがあった。間違いなく、万里夫は凛子に特別な感情を抱いている。
「何から話せばいいのか」
「簡単だ。まずは万里夫であることを証明しろ。二人だけしか知らないことを話せ」
「そうだな。それなら、いくつか君が質問してくれ」
 邑崎は考えた。何の質問をすればいいか。
「それじゃ、まずは俺の妹の名前だ」
「加奈子ちゃん。元気にしてるかい?」
「ああ、おかげさまでな。次はお前自身の力だ。お前は不思議な力を持っている。それは何だ?」
「人の記憶を奪う力」
 邑崎は思いつくままに質問を繰り返した。よどみなく答えていく万里夫。だが、どの質問も万里夫だと証明する核心を突くものはなかった。よどみなく答えることに疑念を抱くほどに、万里夫は正確に、落ち着いて答えていた。
 分かっていたのだ。一目見た瞬間から、万里夫だということは分かっていた。質問を繰り返すことは無駄だと悟り、邑崎は最後に聞いた。
「どうして、ここに来た?」
 万里夫の顔からすでに笑顔はない。
「君に用があったから」
「約束か?」
「そう」
「人格を食った瞬間、って言ってたな」
「そう。そう遠くない未来」
「俺が記憶を呼び起こさなかったら、もちろん、約束もずっと忘れてたはずだ。記憶を思い出したのは偶然だ。偶然の交通事故で頭を打った。それがなかったら、俺は一生忘れたままだったかもしれない」
「偶然……どこからどこまで偶然か。僕にも分からなくなってきた。でも、僕が奪った記憶を再び呼び覚ましたのはこれまでで君だけだよ、邑崎」
 物腰穏やかな万里夫。
 茶山は万里夫の傍らで、静かに会話に耳を傾けている。
「庄太郎が言ってたことは? 俺がここに来ることを、お前は分かっていたのか?」
「分かっていた――という言い方が正しいかどうかは分からないけど、そう望んでいたのは間違いない。僕は君の記憶を奪った瞬間、ためらいのような感情を覚えたんだ。君との約束、それが力を弱めたんだと思う。記憶の奪い方が中途半端だったんだ。だから君が記憶を呼び覚ますことは、なんとなく想像できていたよ。でも、それが『知っていた』っていうことになるのかな。だから、多分偶然だよ」
「偶然だけで、お前はここに来たって言うのか?」
 万里夫は首を横に振る。
「体験して欲しかった。君に知って欲しかったんだ。会おうと思えば、君が僕を探し始めた二年前に再会することは出来たんだ。でも、よく知って欲しい。僕の現状を」
「どういう意味か分からない。何がどうしたって言うんだ」
「僕はシナリオを書いたんだ。君に出会うまでのプロセスを書いたシナリオ。タイトルもあるよ。『約束の時』っていうタイトル。始まりは君が交通事故にあって、記憶を呼び覚まして、僕を探し始めるところから」
「まさか、交通事故は――」
「偶然だよ。交通事故は単なる偶然。でも、そこから先は必然だよ。邑崎は僕を探そうとしてくれた。だからシナリオを書いた。茶山君と庄太郎君にも手伝ってもらった。もっとも、庄太郎君は何も知らないけどね」
「ここまでのことは、全部お前がしくんだって言うのか?」
「そう。ほとんど全部。邑崎、君が僕を探し始めて、一番最初に思ったのはなんだい?」
 答えるには簡単すぎる質問だ。
「お前の存在がない。まるで俺の妄想の登場人物のようだった。お前なんてはなから存在しない」
「そうだよ。それを分かって欲しかった。僕は存在しないんだ。たくさんの名前を持つようになった。緑川万里夫。黄瀬達郎。そのほかにもたくさんある。名前だけじゃない。肩書きも、戸籍さえも」
「戸籍も?」
「僕の本来の戸籍は、もうすでに消え去ってる。僕が消した。他人の記憶を消せる僕だから出来たこと。僕のことを誰も覚えていない。誰も知らない。子供のころの僕を知ってるのは、この世で君一人だけだよ、邑崎」
「それを俺に教えて、それでどうしたかった?」
「実感として感じて欲しかった。僕は存在しない。だから、探したとしても絶対に出会えない。そこで僕は凛子を君に近づかせるように仕向けた」
「凛子を? 凛子もシナリオの一部なのか? さっき、茶山が言った。一年前に凛子の話を聞いたと。凛子がお前に会ったのは半年前だ。矛盾してる」
「凛子は何も知らない。凛子が君に何を話したのか分からないけど、彼女は僕に嘘はつかされていない。僕が凛子に君の話をした。僕がいなくなった後、凛子が君のところに行くように仕向けた。凛子は何も知らずにね。だから凛子に君の知ってる名前、緑川万里夫を名乗った。それに、凛子が心配だった。凛子を支えられるのは、君以外に思いつかなかった」
「お守り役を押し付けられたわけか。お前の話が本当なら、見事にお前の描いたシナリオどおりだ」
「うん。そうだよ。だから僕はここにいる。凛子にはここの場所を匂わせるような話をした。くるきり村。庄太郎。間の森。君はインターネットで検索するはず。そして、茶山の元へいくか、連絡を取るように仕向けた」
「まだ信用できない。俺が茶山に接触したのは、本当に偶然だ。俺がくるきり村のキーワードで茶山の出版社に行き着くシナリオを考えたとしても、どうしてお前は抽象的に凛子に伝えた? くるきり村の漢字と、具体的な地名を教えれば早かったんじゃないのか?」
「難しいところだね。具体的に教えたら、凛子が単独でこの村にたどり着いてしまう。君と一緒でなければ意味がない。僕が呼びたかったのは君なんだから」
 凛子はどうでも良いと? そういいかけてやめた。論点がずれそうだったからだ。
「俺がここまで行き着かない可能性を考えなかったのか?」
「考えたさ。君がここまでこれなかったらどうしようか。ある意味、君の僕を探す気持ちを試したかった。諦めたのなら、僕はそれでもいいと思ったんだ。君が僕に会いたくないというのなら、僕は君に何も強制することは出来ない。君は君の人生を歩めばいい。約束なんて気にする必要はない」
「でも、俺はここまで来た。お前のシナリオはここで終わりか?」
「違うよ。僕のシナリオは約束が果たされるまで。でも、選択肢はたくさんあるよ。君が選ぶ選択肢によって、約束は守られない結末もある。僕は君を強制するつもりはないんだ」
「約束は守る。破るつもりなら、お前をしつこく探そうなんてしない」
「……ありがとう」
 万里夫はニッコリと笑って目を伏せた。
「俺には約束よりも、お前の気持ちのほうが重要だ。俺は約束を守るためにお前を探したが、それよりも重要なのは、お前がいまどう思ってるかだ。約束は守れるが」
「僕の望みは、約束が果たされること。それは変わりないよ。夢にまで見た。君が約束を果たしてくれることを」
「なら、何も問題はない。問題はタイミングだけだ」
「その時がくれば分かるよ」
 茶山が朗らかに笑みをたたえながら会話を聞いている。茶山はどこまで知っているのか。
 万里夫は伏せていた目を再び持ち上げ、邑崎を見る。
「ここで全部話するよ。僕が二年前、この村に訪れた理由。十三年前に風木島にいた理由。凛子を助けた理由」
 凛子を助けた理由? そこにも理由が存在するのか。
 俺の知っている、あるいは俺が想像していたような人生を、万里夫は送ってきてはいないのか。
 全国を回りながら、人々の辛い記憶を消し、自分のことを知る人間の記憶を消しまわりながら、人々を救い続けているのではないのか。
 邑崎は眠り続ける凛子を見た。急に胸騒ぎが襲ってきた。
 凛子には耐えられない内容の話。
「驚かないで聞いて欲しい。それと、僕が話すことはすべて真実だ。恐ろしい真実。真実はいつでも闇の中に住んでる。誰にも見えないところにしか真実はない。まずは二年前、僕がこの村に訪れた理由から話するよ」
 邑崎は衝動的にタバコが吸いたくなった。衝動の赴くまま、邑崎はタバコに火を点けて吸い込んだ。それと同時に、万里夫が口を開く。
「こういうものがある」
 万里夫が持っていたバッグから、一冊の冊子を取り出した。大きさで言えばB5用紙ほどの、厚さ2センチほどの冊子。くすんだ青色の表紙に『来霧村の殺人』とタイトルが打たれている。
「それは……」
「五年ほど前に流行したPCのゲーム。タイトルは『森の怪』。作成者不詳、出所不詳。このゲームのシナリオを書いたのは僕。ゲームのジャンルはサウンドノベルと呼ばれる、遊び手の選択肢によってさまざまにストーリーが変化するものだ。もちろん、このゲームも遊び手の選択によってはミステリにもラブロマンスにも、ホラーにもなる。エンディングも複数用意してあって、大きく分ければバッドエンド、ハッピーエンド、トゥルーエンドの三つ。遊び手が正しい選択をすれば、物語は良い終わり方をするし、無謀な選択、倫理に反した選択をすれば、バッドエンド、あるいはゲームオーバーだ」
 万里夫が何を言いたくて、いま何を話しているのか、邑崎はうすうす気づき始めた。邑崎がここまでに抱いていた懸念、あるいは疑惑といったような、くすぶるような印象。それは二年前から続いている。その答えが今、万里夫の口から聞かれようとしているのだ。
「ある意味、実験的に作られたゲーム。このゲームは、われわれオルガンの目的の宣材として作られた。あくまでゲーム。仮想の世界。だが、このゲームを体験した人は考える。文章と質素な絵柄だけのゲームなのに、妙にリアリティがある。体験という言葉にふさわしい、現実の出来事と錯覚するような演出がちりばめられている。オルガンの上層部は、ゲームに対するユーザたちのリアクションに満足だった」
「ちょっと待て。そのゲームをお前が作って、インターネットの世界に広めた。それは分かった。それより、『オルガン』とはなんだ?」
「すまない。詳しくは話の流れで解釈して欲しい。いいか?」
「……いいだろう。話の続きを頼む」
 万里夫は一瞬、微笑んでから話を続けた。
「オルガンの目的は、秀逸なシナリオ。商品として成り立つ、多くのユーザの興味を引く題材、アイデアを取り揃え、ユーザに販売、提供すること。オルガンの商品には、もちろん『森の怪』も陳列されている。この台本と同じタイトルの『ライム村の殺人』として。僕が一年前にこの村に訪れ、廃村を利用してゲームの世界を現実に作り上げた。そして、そこで同じ『森の怪』に登場するライム村を創造した。目的はユーザに現実世界のゲームを提供するため」
「万里夫、すまないがもっと分かりやすく」
 邑崎の言葉は震えた。分かりやすく説明してくれと言ったものの、実は理解している。茶山、あるいはほかの誰かに聞かされた話であれば、こんな馬鹿げた話など一笑に付しているはずだ。だが、今つま先から脳天にかけて流れる微電流と、極寒の地に立つような凍えは、万里夫の話を信じている事に他ならない。
「つまりオルガンは、作成したシナリオを商品としてユーザに閲覧させ、販売するのさ。ユーザは自分の気に入ったシナリオを購入する。どんなシナリオがあるか。ろくな青春自体を過ごせず、男女の高校生が二人乗りする自転車を見て心を苦しくする中年男がいれば、中年男を物語の主人公として愛らしい女子高生と純愛させるシナリオもあれば、本格ミステリファンのユーザならば、ミステリ小説に登場する主人公さながら謎解き、事件の解決をさせてあげるようなシナリオも提供できる」
 夢を叶える。
 ふと、その言葉が邑崎の脳裏をよぎった。
 人の夢。
 夜な夜な、眠る前に暗い部屋で妄想する夢。
 自分が物語の主人公になり、殺人事件の謎を解いて『犯人はお前だ』と、殺人犯を指差す自分を夢見る。もちろん、主人公が男ならば、傍らには大好きな女性が尊敬のまなざしで自分を見やっている。夜になれば、自分のものになる女だ。主人公が女ならば、優しくフォローをしてくれた長身、長髪の男が肩を抱いてくれている。
 劣等感を優しく拭い去ってくれる優しい人との出会い。出会い方はくだらない偶然が絡んだり、幼馴染である設定でもいい。初めはお互いに恋など意識していない間柄の設定でもいいし、片想いの設定でもいい。やがて転じる恋物語。紆余曲折視ながらも想い人は自分を愛してくれるハッピーエンドが待つ妄想。
 誰もが自分が正義であり、周囲の人間の中には悪が住んでいると思っている。現実世界で自分が脇役だと感じる劣等感。自分が主人公になれるとしたら、夢の世界か物語の世界。
「なんてこった……」
 邑崎の理解は半分ほどだ。だが、ある事実に至っている。
 万里夫が窺うように邑崎を見ながら続きを話す。
「逆もある。主人公が自分だけとは限らない。たとえば、お世話になった恩師になにかプレゼントしたい、そう思ったとき、素敵な出会いや出来事を送るのもいい。もちろん、恩人には何も伝えない。相手はそれが作り物だと知らず、真実の出来事として一生素敵な思い出を持ち続ける」
「素敵な話だが相手が恩師ではなく、恨みを持つ相手だったら?」
「あるよ、そういう商品も。大嫌いな相手。殺したい相手。恨みのある相手。復讐の手段として、世にも恐ろしい物語を買い求め、恨む相手を主人公に設定すれば、相手に死ぬよりも恐ろしい体験をさせ、そして、それが物語だと知らされない相手は、一生真実の出来事だと信じたまま恐怖を抱き続ける。そんな利用法もある」
 邑崎は指に挟んでいたタバコがフィルター近くまで減っていることに気づき、長くなった灰を灰皿に落す。押し付けて消すと、再びタバコを咥えた。だが火は点けない。
 邑崎は額を撫でながら、タバコを挟んだ指を万里夫に向けた。
「話は分かった。疑問はあるが、今は尋ねない。だが聞いてくれ。たとえばだ。たとえば、ある中年男、あるいは思春期の少年、あるいは欲求不満の大学生などが、あるシナリオを共同で買い付ける。シナリオは、たとえばアダルトビデオの設定のような、くだらないものだ。バスに乗ってくる女子高生を、男たちが次々に陵辱する。だが周りの人は助けてくれず、むしろ好んで陵辱に参加してくる。バスの運転手は我関せず。陵辱が終わるまで、バスはどこの停留所にも停まらない。そんな欲求を解消したいが為の、アダルトビデオのシナリオのような商品もあるのか?」
「ある」
 邑崎は膠着した。続けて何かを言おうとしたが、口はわななくばかりで何も出てこない。頭も整理できなかった。
「バスに乗ってくる女子高生の好みも選べるよ」
 邑崎はしきりに額を撫でた。
 額はぬめりけのある脂汗で濡れている。
「……やはりそういうことか」
 ようやく邑崎は声を発した。
「お前が凛子に出会ったのも必然。用意されたシナリオってわけか。だから一年前に凛子の話が出来たわけだ」
「そうだよ」
 万里夫は無表情だった。微妙な動揺さえ窺えない。変わりに邑崎ははにかみ笑った。訳は分からないが、笑いの衝動がこみ上げてきて、耐え切れず声を出して笑った。それでも万里夫は無表情を崩さない。
「お前は自分で少女を苦しめておいて、自分で救ったって言うのか?」
「そうだよ」
 邑崎はのけぞると、凛子が目を覚ますのではないかというほど大笑いした。そんな中、万里夫が静かに口を開く。
「オルガンにおける僕の役割は、シナリオの監修と人々の記憶の消去。僕は記憶を消す役目を負う代わりに、役目を果たしやすいようにシナリオを書き換える権限を持っている」
 邑崎は不意に笑いをやめた。
 もうひとつ気掛かりだったことがある。
「そうだ万里夫。その通りだ。お前には人の記憶を消す能力がある。それなのになぜ」
「凛子の記憶を消さなかったか、だろ?」
 邑崎はのけぞらしていた状態を元に戻すと、詰め寄るように万里夫に顔を近づけた。
「今からでも遅くない。凛子の記憶を消せ。俺の記憶と、お前の記憶。陵辱された記憶。そうすれば」
「そうするのは簡単だ。でも、それでいいのか?」
「それでいい。現に俺の妹は……」
 邑崎は言葉の続きを吐けない。妹の話を続けられるほど、邑崎の心は強くない。
 万里夫は口を開く。
「言い訳に聞こえるかもしれないが、僕はシナリオを詳しくは知らなかった。いや、知ることができなかった。僕は無線で仲間と連絡を取り合いながら、凛子と接触する機会を窺い、接触したら凛子の記憶を奪う予定だった」
「お前はさっき、シナリオを監修する権限を持っていると話したばかりだろう。なぜシナリオを知らなかったなどと言える」
「正確に言うと、知らされていたシナリオとは大幅に内容が違った。凜子はバス内で痴漢を受ける被害者役だった。直前にシナリオが変更されたが、多忙だった僕はそれに気づかなかった」
「気づいていたら……」
「気づいていたとしても同じさ。結末を操作するようなシナリオの変更は出来ない。そのころ、僕はたくさんのシナリオの監修を続ける中で、どの登場人物たちが邑崎との道しるべになってくれるか、そればかりを気にしていた。当時、凜子はその候補の中の一人に過ぎなかった。だが、決定的になったのは、そのシナリオの変更があったからだ。シナリオがああいった内容だったからこそ、僕と凜子はそのあと、多くの時間を過ごせた」
「だがお前は、凜子に対して記憶の消去を試みたはずだ。なぜしなかった? 利用するためなのか。俺との再会を演出するための材料にするためなのか」
「そうだよ。出来なかった。凛子が一体何をされたのか、それに気づいた瞬間、僕は記憶を奪うことが出来なくなった」
「知っていて、お前は凜子を……」
「記憶を奪わなかったのは君を思い出したからだよ、邑崎。シナリオが大幅に変更されて、凜子がひどい目に遭ったと知った瞬間、僕は凛子の記憶を奪おうと額に手を置いた。瞬間、僕は君を思い出してしまった。だから出来なかった。君との再会のシナリオはまったく関係ない。とにかく君を思い出し、それから中学時代の、ここにいる茶山君の姉も思い出した」
 茶山は顔を伏せている。静かに話を聞いている。
「茶山幸枝……。確かに彼女は……。だからって、凛子と何の関係がある?」
「僕が初めてオルガンの存在を知ったのは、そのときだった。そのときから僕はオルガンを追う側の人間だった」
 オルガンという名称が何を示すのか、具体的には何も分からない。だがイメージとしては邑崎は形あるものを想像していた。
「僕は知ったんだ。この世界に『作られた現実』があることを。それは用意周到に準備され、設定され、誰かに買い求められ、ゲームのように現実世界で行われている」
「茶山幸枝が?」
「彼女は中学二年の夏休み直前、一ヶ月ほど行方不明になった。覚えてるよね?」
 邑崎はすべて覚えている。あの時の出来事。
「彼女は行方不明の間、左手の小指を失った。それは彼女を攫って監禁していた犯人たちが切り取ったものだ。なぜ切り取る必要があったか。それは彼女の口を閉ざすため。小指を切り取って、痛みと恐怖を植えつけ、もし警察に喋ったら舌を切ると脅した」
「なぜ知ってる?」
「僕は今となってはオルガンの一員。過去、大きな事件から小さな事件まで、話題になった事件もならなかった事件もすべてオルガンのデータベースに登録されている。オルガンが提供したシナリオはすべて僕には閲覧可能だ。そこには茶山幸枝の事件も残されていた。そこには彼女が失踪したの一ヶ月の間、何をしていたのか、何をされていたのか、こと細かに報告されていた。映像もある。写真もある」
 当時、土手を一人で呆然と歩いていた茶山幸枝が警察に確保され、事情を聞かれても彼女は記憶を失っており、何も喋らなかった。もちろん現在でも空白の一ヶ月間に何をしていたかは分からないままだ。
「彼女は一ヶ月の間、郊外にあるある屋敷の一室で、大型犬の小屋の隣で裸にされ、首輪をされ飼われていた」
「飼われていただと?」
「そう。屋敷には老人が一人住んでいた。政界を引退した元官僚の男。党首も勤め、総裁選にも幾度か出馬した有名な男だよ。その男の邸宅に犬同然に飼われていたんだ」
「それは……一体どういうことだ」
「老人の性的嗜好、と言えばそれまでだ。少女に首輪をして調教し、犬同然に服従させたいという願望があったんだろう。テレビゲームにある育成ゲームのジャンルのそれ。実際、期間は一ヶ月しかない。短時間で彼の願望を満たせたのかどうかわからないが、それ以上少女を監禁しておくにはリスクが多すぎたのだろう。一ヵ月後には彼女をもとの生活に戻した。その老人は、その後も幾度か同じシナリオを買い求め、少女を一室で飼っていた。老人は彼女を調教しようとまずは鞭で何度も打って、自分が主人様であることを教え込み、それから少女の恐れる大型犬を傍らに生活させながら、犬よりも階級が低いことを意識させた。裸にし、食事は手を使うことを禁止し、排泄は砂の器を用意した。ちょっとした因縁をつけては罰として鞭を打ち、食事を抜かされ、水も与えられなかった。それらの調教内容はオルガンが提供したマニュアルに沿っている。だが、もちろんユーザがその通りにするわけはなく、少女は老人や大型犬を恐れたものの、服従にいたるまでには行かなかったようだ。人格がおかしくなる直前に契約期間が切れて、彼女は元の生活に戻された」
 万里夫が口を閉ざしたので、場には静けさが訪れた。邑崎は茶山を見やる。茶山は相変わらず顔を伏せたまま黙っている。
「それは本当に事実なのか?」
「事実だよ。間違いない。老人はその後も、少女を買っては邸宅の一室で少女を飼った。二度目、三度目になるにつれ、老人はこつを覚え、少女を壊すことなく、服従させるすべを覚えてきた。合計で老人は死ぬまで十二回、同じシナリオを買った。一回一億円でね。彼にしてみれば安いもんだ。使い終わった少女は、オルガンが責任を持って処理する。茶山幸枝の後の少女はみな殺害されたよ。茶山幸枝が殺されなかったのは実験体とするためだろう。果たして本当に口を噤んでいるのかどうか観察するためだろう。もし空白の一ヶ月間を口にしていれば、直ちにオルガンに暗殺されていただろうな」
「お姉ちゃんは……」
 茶山が不意に口を開く。
 邑崎は茶山を見た。茶山は顔を伏せたままだ。
「お姉ちゃんは、邸宅の一室で犬にレイプされたのよ。お姉ちゃんは首輪をされてたけど、室内で放し飼いにされてた犬は、何度も何度もおねえちゃんを犯したの。あの頭のおかしい死にぞこないの老人は、分かってて大型犬を一室で放し飼いにした」
 邑崎は警察に保護され、入院していた茶山幸枝の様子を思い返していた。面接を拒絶され、誰も茶山幸枝の病室に入ることは許されなかった。
 ある夜、邑崎は面会時間を過ぎた夜に病院に忍び込んだ。もちろん茶山幸枝に会うためだ。何があったか聞き出すためではない。茶山幸枝が寂しがっている。漠然とそう思い、衝動的に起こした行動だった。背負ったバッグには家の押入れから引っ張り出した妹のままごとセットや、編み物セット、お絵かき帳などが詰め込まれている。こんなもので茶山幸枝が喜ぶとは思えなかったが、ほかに思いつかなかった。
 侵入は鍵の開いた非常口からだった。昼夜問わず人の出入りの多い病院は、施錠も甘かった。いくつかの扉のノブを回すと、非常口の扉が開いたので、そこから侵入した。
 消灯し、人のいないもの静かな病院の廊下を歩く。
 病院の何階に入院していたのかは知っていたが、どこの病室か分からない邑崎は、見回りの看護婦を警戒しながら探し回った。
「君は茶山幸枝に会うために、夜中に病院に浸入したことがあったよね」
「ああ」
 ナースステーションから漏れる看護婦たちの声に警戒しながら「茶山幸枝」とプレートの掛けられた部屋を見つけた。室内の明かりは点いているようだ。ドアに耳を押し付けると室内からは何の音もしない。室内にいるのは茶山幸枝だけではないかもしれない。家族が付き添っているかもしれないし、病室は個室ではなく相部屋かもしれない。だがドアを開いて覗いてみないことには何も分からなかった。
 開いた病室の先は個室だった。部屋には付き添いの家族もおらず、茶山幸枝が一人でベッドに横たわっていた。
 声をかけた。小さな声で「茶山」と声をかけた。ベッドの掛け布団がもぞもぞと動き、上半身を起こした茶山幸枝が、病室の入り口から顔を覗かせる邑崎を見た。
「あなたは私のお姉ちゃんの傷だらけの顔と、包帯を巻かれた全身を見ても動揺したりしなかったって。あなたはまず始めに、お見舞いの品だって言って、ポケットに詰め込んであった梨をひとつ、お姉ちゃんに差し出した」
 思い出される記憶。
 どうしていいか分からなかった。病院に入院している人間を見舞うときは、果物を持参するものだ。安易で短絡的な発想で、小遣いを叩いて近所のスーパーで梨をひとつ買った。それを小さなポケットに詰め込んで、茶山幸枝の病室に赴いたのだ。
「温かかったって。お姉ちゃん、当時邑崎さんの事なんて一言も話さなかったけど、二十歳で死ぬ直前、ぼそりと思い出を話してくれた。温かかった梨。あなたのポケットの中で、体温に温められた梨はとても甘かったんだって」
 続けて、万里夫が言った。
「君は彼女に仔犬の話しをした。僕と邑崎が墓を作ったあの仔犬。君は仔犬の雪辱が果たせなかったと語り、彼女にこれから仔犬の復讐を果たしに行くと伝えた」
「私も知ってる。邑崎さんだとは知らなかったけど、お姉ちゃんから聞いた話。お姉ちゃんも、どうしてあなたがそんな話をするのか不思議に思ったんだって。自分を元気付けようとしてくれてるのか、それともただの世間話だったのか。それでも夜中にこっそり来てくれた邑崎さん迷惑に思ったりはしなかったって。あなたの態度が自然だったからかもしれない」
 細かいことは覚えていない。あのころの茶山幸枝の表情、会話の内容もほとんど覚えていない。だが、彼女が一度も笑わなかったのは覚えている。
 万里夫がちらりと凛子を見やってから言った。
「君は茶山幸恵の病室を出ると、本当にその足で仔犬を虐待した上級生たちに復讐に向かった。君が行ったのは、子犬を虐待した上級生や高校生たちがたむろしている山の峠の駐車場だった」
 峠の長い坂で自転車を漕ぎながら、暴走族が溜まり場にしている駐車場へ向かった。怖かった。死ぬかもしれないと思った。誰も来ない場所。悲鳴を上げても誰も聞いてくれない場所。事故が起こって死んでしまっても、山奥に埋められて、死んだことも誰にも気づかれてもらえないかもしれない。
 だけど、立ち向かうしかなかった。あの悲壮な決意はなんだったのか。何のための行動だったのか。いま思えば不可解でならない。
 万里夫は少し微笑んだ。
「何のためにそんなことをする必要があったのか。翌日、茶山幸枝と同じ病院に入院したことになった君の言葉が物語っている。体中、三箇所も骨折して、顔も誰か分からないくらいに変形してしまった君は、足を引きずりながら茶山幸枝の病室に再び赴いて、こう言った」
 万里夫が真剣なまなざしを邑崎に向けた。
「お前の痛い気持ちは失くしてやれないけど、俺もお前と同じように痛い思いは出来る」
 思い出す。当時の底抜けに純粋な正義感。茶山幸枝の気持ちが分かってあげられたわけではない。同情してあげられたわけでもない。癒してあげようとしたわけでもない。それが正しい行動だと思い、正しいことを言ったつもりでいただけだ。相手のことを考えて言った言葉ではない。自分のために起こした行動だ。
「その時に、君が茶山幸恵にどんな変化をもたらしたのか。僕には想像を絶するよ。君にはどうしてそんなことが出来たんだ? そのころから、僕は簡単には人の記憶を消せなくなった。それどころか、今までの自分がどんなに愚かなことを繰り返してきたんだろうと思った。僕は人を救っていた気になっていた。どんな辛い記憶であろうと、人にとってどれほど貴重で大切なものか。僕は君から教わった」
 愚かだ。愚かしいのは自分である。相手の気持ちを考えず、正しい行いに妄信的であっただけだ。自分の行動は、紙一重で茶山幸枝を絶望に至らしめてもおかしくなかった。不安定な彼女の気持ちを崩し、あるいは自らの命を絶たせるきっかけになりえた。たまたまなのだ。良い結果を生んだとすれば、それは偶然にヒットした万馬券同様、取り返しのつかない結果を生む危険をはらんでいた。なんら誇りに思える記憶ではない。
 正義とは悪と紙一重である。確信的であるほど、正義こそ悪であるのだ。
「君がそんな顔をするのは分かってたよ。君がその時のことを誇りに思えたか。思えないんだろ。むしろ罪に感じてる。全く、不条理だよ」
 苦しむ人間の根源である記憶を奪い去り、人を救ってきた万里夫は、自分の行いを愚行であったと言う。本当に不条理だ。どうして俺たちは自分を誇りに思えないのか。
「僕が凛子の記憶を消さなかったのは、君がこの世に存在してたからだよ。僕は君のようになりたかった。でも、なれなかった。凛子を見れば分かる。凛子は僕に依存してしまった。僕は本当に何も出来ない人間だ」
「それは俺も同じだ。この二年、お前に依存しなければ生きていられなかった。お前を探しだして、約束を果たすことだけが俺の生きる目的だった」
 沈黙が訪れた。万里夫も茶山も口を利かなかった。
 りん、と縁側に掛けられた風鈴が音を立てた。
 それが合図であったかのように茶山が口を開く。
「私は黄瀬さんにその話を聞いて、黄瀬さんのシナリオを聞いて、協力することを決心した。黄瀬さんは私を利用しようと近づいてきたのは分かったし、協力することが危険なことは良く分かってた。でも、私も邑崎さんに何か恩返しがしたかった。何か貢献したかったの。黄瀬さんのシナリオでは、登場人物である私の役割はここまで。二年間続いた私の物語もここで終わり。これから先のシナリオは知らないし、二人の交わした約束も知らない。でも、閉じられた本と同じ。私は物語の中から姿を消すの。そして、いつも通りの日常に戻る。きっと、二人には二度と会うことも無い」
 物語の第一部の完。いや、ここまではプロローグか。
 万里夫が姿勢正しく座したまま口だけを動かす。
「物語は核心に迫る。僕が思い描いたシナリオ。十三年前から続くシナリオが終わりを迎える。クライマックスは大舞台。豪華客船を一隻用意した。そこで行われるクライマックスには、登場人物として君と凛子も書き込むつもりでいる。約束はそこで果たしてほしい」
 万里夫の表情が心なしか悲しみに暮れた。その表情から心情を察しきれない。
 時間が必要だ。胸に詰め込まれた事実を整理するにはおそらく一晩の休息が必要だ。
「選択権は君にある。無数にある選択肢を選ぶのは君だ。君は答えをここで出す必要はないし、僕も聞こうとは思わない」
「どうするつもりだ、万里夫。またどこかへ消えるつもりか?」
「僕はその豪華客船に、登場人物の一人として乗り込む。また会えるとしたらその船の上でしかない。これだけは約束してほしい。君がもし客船に乗ってくれるとしたら、僕に会っても気づかない振りをしてほしい。君は客船に乗り込んだ瞬間、登場人物の一人となる。忠実に自分の役割を果たしてほしい」
「いいだろう。要するに俺に『オルガン』とやらの演劇団の役者になれって言ってるんだろ」
「そう。そうすることでしか、君は客船に乗り込めないし、乗り込むつもりが無ければそれでもいい」
「馬鹿野郎が。行くに決まってるだろう。それで? 俺の役は何だ? 客船のクルーか? お客様か?」
「君に用意した役は、とても重要な役だ。でも、その役をこなすために君と凛子は自分の戸籍を使う。言ってる意味が分かるかい?」
「分からない。戸籍だと?」
「君は失踪事件に巻き込まれる。公的にね。もちろん、実際に日本に実在する戸籍を使って、今までの君は失踪者として世界から消えうせる。もちろん、シナリオが完結した時点で新しい戸籍が君に与えられるが、これまでの君はいなくなる。その覚悟があるかい?」
「そんなのは大した問題じゃねえな」
「凛子を巻き込めるかい?」
「こっちの台詞だ。お前は凛子を巻き込めるのか?」
 万里夫は悲しそうに笑った。邑崎はやはり、そんな表情をする万里夫の心が分からなかった。
「君の選択次第だ。僕は凛子にも役割を用意した。君が凛子を客船に連れてこなければ、凛子は今までどおりの生活を取り戻すかもしれない。だけど、凛子はもうすでに、今までどおりの生活なんて送れないかもしれない。凛子はもう巻き込まれてしまっている。凛子を救うには、もう登場人物にするしか」
 自分の感情を口走ったことに、万里夫は後悔した様だ。口を噤むと、違うことを言った。
「このまま凛子に会わないで帰るよ。実はさっき、凛子の記憶を奪った。目覚めた凛子に、さっき玄関で僕にあった記憶は無い」
「なぜ会わない?」
「僕が君になれたら会う。そう決めてた。僕はまだ君になれてない」
「俺を買いかぶるな」
 万里夫がくすりと笑った。
「僕は君に出会ったころ、茶山幸枝の事件のとき、彼女の記憶を消そうと病院に忍び込んだ。彼女の記憶を消してあげようと、眠っている時間に忍び込んで、彼女の病室まで行った。彼女は起きてたよ。起きて、夜の窓の外を眺めてた。訪れた僕に驚いた様子も無く、古びた縫ぐるみを手に持ちながら数日前に同じように忍び込んできた君の事を聞かせてくれた。だから、僕は君が茶山幸枝にしたことを知ってるんだ。彼女は微笑みながら言ったよ。君の事。空を指差しながら」
 なんと言ったのか。万里夫は続きを言わなかった。代わりに違うことを言った。
「私の一ヶ月間は消える。何もなかったかのように。彼女はそう言って、やっぱり微笑んだ。誰も知らない。誰も顧みなければ、それは無かったことと一緒。僕は何かを悟った。僕の背後に広がる世界。そこに誰もいなくて、僕が振り返らなければ、存在してないことと一緒。僕は振り返える行為を捨てた人間なんだって。人と人が抱き合うのは、お互いが見えない背後の世界の存在を相手にゆだねるからだ。誰かと一緒にいるのは、自分のいる世界がちゃんと存在すると感じていたいからだ」
 万里夫は何を言いたいのか。何かを言おうと試みている。だが、核心的なことを言えないでいる。
「僕は君を見るたびに思った。君の周囲にはいつも世界が充実していた。世界が満ちていた。君は見えなくたって、見なくたって世界が周囲にあると知っている」
「何が言いたいのかわからねえよ、万里夫」
「救ってくれ、邑崎。十三年前に発生した地球上の違和感だ。その小さな亀裂は急速に広がってる。僕は感じる。世界が終わる。あの島から走った亀裂は、きっと最後には地球を破壊する。亀裂から発生したのは、今まで地球上に存在していなかった悪意だ。悪意が黒い霧となって、徐々に蔓延する。見えない背後で。存在しない背後で。仮想現実、精神世界。それら『存在しない』という概念が人類を滅ぼす。地球上から人が一人もいなくなったとき、人の培ってきた歴史に何の価値があるのか。芸術の美しさ、世界の理を語る科学。無意味に帰して、存在しないことと同じになる。恐ろしい。怖い。全てが失われようとしてる。人類が自ら『存在しなくなろう』としてる」
 言い知れぬ不安が邑崎の全身を震わせた。何を言っているのか理解は出来ない。いたずらに不安を煽る。ただ恐ろしい。
 万里夫は震えていた。
「僕のやってきたことの恐ろしさ。『オルガン』となんら変わりは無い。食い止めないといけない。もう人類というキーボードの上にはデリートキーが存在し、人類を凌駕する存在がキーに指を当てている。あとは少し指に手をかければ全てが消える。あの島は、無数にある選択肢のうち、最も愚かしい選択を選んだ」
 万里夫は、一冊の冊子を差し出してきた。先ほど見せた『来霧村の殺人』と同じ体裁の冊子に『桃色くも』とタイトルが書かれていた。
「なんだこれは」
「『オルガンの滅亡』の最終章。いや、序章かな。全て読んでくれ。『桃色くも』の物語には、一人の青年が主人公に設定されている。月原秋。この子は何も知らずに、豪華客船アカシックレコード号に乗船する運命にある。どうして彼が主人公なのか、どうして何も知らされないのか、この物語を買い求めた依頼主が誰なのか、読み終わった後に全て教えるよ。そして、君の役目もおのずと分かってくる」
 万里夫は同時に、別の冊子を渡した。
「これは、邑崎と凛子の行動スケジュール。『桃色くも』の物語の中で、君が何時どうすればよいか。月原秋と関わらない時間、何処にいて、誰になにを報告するのか。そこにスケジューリングされている」
「狂ってやがる」
「狂ってるが、君は迷うことになるだろう。現実は誰かが書いた物語の集合体である事が、果たして悪なのか正義なのか。平和というフィルターが全ての悪意をこして、誰の目にも触れずにいる事が、どういうことなのか」
「作中作ってやつか。物語の中で、誰かが物語を作ってる」
「合わせ鏡のように、永遠にね」
 
 
 
 邑崎はそれから二時間ほど掛けて『桃色くも』のあらまし目を通した。
 邑崎は子供の頃に夢中になったことのあるある特殊な本を思い出した。
 ゲームブックと呼ばれる本。
 家庭用ゲーム機の普及とともに姿を消して行ったが、あの興奮と臨場感。
 自分の選択によって分岐する物語と、時にはサイコロふって、命を運に任せる場面。個人用や対戦型、パーティを作って共同で結末を導くもの。
 様々であったが、ファンタジーものが多かった気がする。
 それを現実のものとする書物がいま、手に握られている。
 まだ起こっていない物語。だが、いま読んでいるこの物語は近い未来に現実世界に具現化する運命にあるのだ。
「全く、馬鹿げてる」
 現実や真実というものはいつでも滑稽であるものだ。くだらなくて陳腐。いつも失望させてくれるのが現実であり、そして夢を馳せ、感動、勇気、希望を持たせてくれるのはいつでもフィクションの平行世界の出来事なのだ。
 邑崎が読み終わるまで、万里夫はじっと待っていた。
 邑崎が顔を上げ、万里夫とテーブルを挟んで向き合うと、目を瞑っていた万里夫はゆっくり目を開く。
 ゆったりとした動作。それがなんとも似合う。動揺してしまうくらいに整った顔立ち。出会った頃から、女の子に見間違う容姿は、大人になってから更に度合いを増した。
 万里夫は言った。
「それは君にあげる。後でゆっくり読んでくれ。それで? 感想は」
「普通に読んだら、脈絡のないパラグラフの羅列で意味が分からない。だけど、大体大きな所の構成は分かったぜ。大きく分けて四つの編成に分かれてる。ストーリは主人公の選択によって四つに分岐。スパイダー編と、クラウド編と、スピチュアル編と、アザー編。その他、途中の倫理に反するような選択肢でバッドエンドがある。まずないだろうが、主人公の事故死の場合、自殺の場合、途中で失踪事件が仕組まれたと気づかれた場合、主人公が犯罪を起こした場合、レイプ、殺人など。色々あるが、特殊な場合を除いて大筋はこのシナリオどおりになるだろう。ただし、どう考えても四つあるストーリのうち、他三つのストーリ展開にはなりそうもないな。間違いなく現実世界で選択するストーリはアザー編になる」
「そうだろうね。主人公が買い求めたものなら喜んで謎解きに取り組もうとするはずだけど、生憎この物語の主人公は、この出来事を真実の出来事だと信じ込む。アザー編以外の物語に進むための条件をクリアするようには思えない」
「スパイダー編はまずありえない。これは子供の妄想と一緒だ。スピチュアル編も条件としてはやさしいかもしれないが、その方向に主人公が発想するだろうか。クラウド編が一番ヒントが多いが現実的じゃない。やっぱりアザー編だろう。アザー編は三つの物語が発生する条件を得られなかった場合に進行するふざけたゲームだ」
「そう。スパイダー編はホラー。クライド編はファンタジー。スピチュアル編はSF。アザー編は君の言うとおり悪ふざけだ。一番可能性としては高いが一番馬鹿げてる」
「分かるのは、主人公に謎解きを促しているストーリであることだな。ストーリは四つあるが、根源は一緒だ。巻き起こる失踪事件の謎を解く」
「そう。見方を変えれば、この物語は本格ミステリになる。だけどそうじゃない。何一つ分からない主人公が右往左往するための物語。最終的に主人公が全てを理解すれば、それでいいんだ」
「何のためにアザー編以外の三つのストーリは存在するんだ?」
「もしものため。万が一、主人公がアザー編以外のストーリに進んだとしたら」
 万里夫が言葉を区切った。邑崎は気になって「進んだとしたら?」と続きを促すと「いや、ありえないから問題ない」と少し微笑む。
「有り得ないし、有り得てはならない」
「なんとなく分かった。これを読めば俺と凛子の役割が分かると言ったな。ところが、この物語に俺と凛子は登場しない。いや、登場しているし、主人公の傍にいるくせに、登場するのは最初だけ。ストーリの分岐や結末に変化に一切干渉しない役どころ」
「ああ。君たちはおおよそ自由に動き回れるように設定した。僕が願っている役回りは分かってもらえたかい?」
「ここにある四つのストーリ以外の結末に主人公を導くか、あるいはこの四つのストーリのうちどれかひとつに、意識的に導く役割」
「そう。結論から言えば、あまり横道にそれず、ストレートにアザー編に向かうように導いて欲しい。そのために邑崎、凛子のいずれかが主人公の月原秋に常に接触、情報を得られる状況、状態にいて欲しい。その『桃色くも』を読んでくれれば、各ストーリの発動条件は分かっているはず。条件のフラグが立たないように、月原秋を導いて欲しい」
「それで? 依頼主は誰なんだ? この月原秋という青年に、何のためにこんな馬鹿げた物語をやらせるんだ?」
「全て十三年前の風木島神隠し事件に通じる。十三年前、風木島にはその月原秋という青年もある研究の実験体だった」
「実験体?」
「そう。僕の能力、記憶を奪う能力。その力を研究するために、風木島に化粧品メイカーの名義で研究所を設立した。そして、オルガンは愚かしくも、僕と同じような能力をもつ人間を生みだそうと、子供たちを島に集めたんだ」
「記憶を奪う能力を?」
「あるいは他の能力でもいい。透視能力でも、超可聴能力でも、なんでもね。僕の存在が超能力というものが有り得ると実証している。そのせいで何人もの子供たちがその島で犠牲になった」
 邑崎は額を撫でた。全て真実だと受け入れるには、信じられない事が膨大すぎた。
「一つ一つ訊ねるぞ。その子供たちは、どうやって連れて来た?」
「研究所の所員、あるいはオルガン構成員の子供たちだ。あるいは闇ルートからの買い付け」
「闇ルートだと?」
「人身売買の組織。特に幼児を扱った組織は世界中に無数に存在するよ」
「月原秋も、その中の一人だったと?」
「ああ。研究員の息子だった。でも月原秋は実験体となることはなかった。失踪事件に巻き込まれることもなかった」
「なぜ?」
「母親が命がけで守ったんだ。病気と偽り研究所から退所した。いや偽ったのではない。わざと不治の病にかかり、息子と一緒に風木島から脱出した」
「わざと不治の病にかかる?」
「母親は自らがん細胞を脳に打った。モルモットに使用するはずだった薬品を。そうすることで命を捨てて息子を守ったのさ」
 邑崎は頭痛を覚えた。脳が理解する許容範囲を超えたのか、あるいは不愉快な話を聞かされたためのストレスか。
「続きを話すかい? それとも少し休憩するかい? 僕なら大丈夫だ。君が納得するまで傍にいるよ」
「凛子は起きないのか?」
「明日の朝までは自然には目覚めない」
「分かった。少し頭を整理させてくれ」
 万里夫は微笑んで頷いた。
 邑崎は頭を抱えるようにして、今聞いた話を必死に理解しようとした。
「すまないが茶山くん。なにか、冷たいものをくれないか?」
 万里夫が黙って話を聞いていた茶山に言った。茶山は今目覚めたかのように、目をぱちくりさせた後、台所に向かった。
 気づけば、この家には本来の住人は一人もいなかった。
 万里夫と邑崎、そして凛子と茶山。
 他の家族は何処に行ってしまったのか。
「月原秋という青年の母親は死んでいる。ならば、父親がいるはずだ。父親が依頼主か?」
「いや、違う」
「なら誰だ」
「オルガンだ」
「オルガン?」
「十三年前、月原秋には特に親しい少女が一人いた。あの風木島神隠し事件唯一の生き残り」
「その少女が依頼主か」
「そうだよ」
 邑崎は一度息を吸った後、煙草を手に取った。吸いすぎである。肺が痛いが我慢ができない。一本咥えると、その体勢で固まった。
「約束は当然、この物語のクライマックスってことか?」
「そのときに分かる。君にはアザー編への移行が決まった時点で、行方不明の仲間に入ってもらう。月原秋の前から姿を消す。その後、エキストラルームの西側一番奥の床を見て欲しい。床がめくれるようになっている。約束を果たすための道具を、そこに隠しておく。ただし、それまでは絶対にその場所には触れないでくれ」
 返事が出来ない。心の準備が出来ない。間違いなく、自分はこの馬鹿げた物語の登場人物として豪華客船に乗り込むことになる。どんなに迷おうが、邑崎の出す結論は一緒であるが、まだ乗船してからのことを考えるには、覚悟ができていない。
 邑崎は思わず「ふふふ」と笑い声を立てた。万里夫は微笑んで邑崎の様子を見てる。
 邑崎は笑いが声らえ切れない。
「おい万里夫。思い出すよ、お前と過ごした中学時代。俺たちはすっかり大人になっちまったよな。今ほど、あの頃に戻りたいと思ったことはない」
 万里夫はにっこり笑った。それが返事だ。邑崎は顔を起こすと、確かに答えを見つけたような表情で言った。
「良く分かったよ。要するに、俺がオルガンをぶっ潰せばいいんだな」
 そう言って再び笑い声を立てた。万里夫も声を立てて笑った。
「君は変ってないよね」
 万里夫がそう言った。「お前も変ってねえよ。すかしてるところが」と答えると、万里夫は一層可笑しそうに笑った。
 ちょうどその頃、お盆に氷の入ったウーロン茶を持って戻ってきた茶山が、不思議そうに二人を見ていた。
 
 
 
 万里夫が帰った後、仕事が終わって帰ってきた主人と、夕食の買い物から帰ってきた奥さんに、もう一泊お世話になることを伝えると、快く受け入れてくれた。
 この家族も、話はしないが万里夫の仲間なのだろうか。真実は分からない。
 万里夫が何処に帰って行ったのかは訊かなかった。訊いてもきっと答えないだろう。
 実際に『桃色くも』の物語が進行する日、要するに豪華客船アカシックレコード号が横浜第三埠頭を出港するまでに一度、リハーサルが行われるという。そこに邑崎と凛子も出席して欲しいと万里夫に言われた。
 その場で、邑崎の都合の良いようなシナリオの改ざんを、都合の良い理由をつけて申し込んでほしいというのだ。意見は全て万里夫の元に届くという。万里夫は出来る限り協力するというのだ。
 果たして、この先どうなるのか。
 いや、思い描くストーリにしなくてはならないのだ。
 間違っても『桃色くも』という物語を、アザー編以外の結末にさせないために。
 そして、約束のとき。
 眠っている凛子を抱きかかえて、用意してくれた寝床に連れて行く。凛子が眠っている横で『桃色くも』の冊子を開きながら、邑崎はどうやって月原秋の傍に付き、情報を常に得られるような立場になるか必死に考えた。
『桃色くも』という物語の邑崎の役どころは、月原秋に、現実であると信じ込ませるための細かい演出のひとつ。キャプテンから依頼されてもぐりこんでいる探偵であり、何の調査をしているのかは、クラウド編で明らかになるが、アザー編に進んだとしたら、邑崎の素性は最後まで分からない。他の重要な登場人物もそうだ。スパイダー編にならなければ、登場する加賀山瑞穂はほとんど活躍しないに等しい。また、スピチュアル編にならなければ、大学生の研究会メンバーも問題児である以外の役割はない。アザー編では、ほとんどの事象が語られず、謎は謎のままになる。
 ところが、アザー編だけでしか明らかにならない真実がある。
 このアザー編の結末までに至る過程は、明らかに『物語』といにはかけ離れている。ゲームだ。あれはふざけたゲーム。
 邑崎は手帳に、それぞれのストーリの発動条件を細かく書き加えていった。その条件を満たしてしまうイベントと時間帯。その時間帯に、月原秋を問題の場所に行かせないようにすればよい。
 四六時中、邑崎が傍にいるわけには行かない。ならば凛子にも一役買ってもらわなければならなかった。凛子に難しい任務を与えても熟せるはずがない。凛子に、ただひたすら月原秋の傍を離れるなと指示し、盗聴器と通信機を持たせておけばよい。月原秋がストーリの発動しそうな場所に行きかけたら、ここぞとばかりに邑崎が姿を現し、進路を変えてやればよい。
 四つのストーリは、そのまま月原秋の人格診断になっている。選択肢によって、月原秋の人格、性格、特性を知る事が出来る。依頼主の目的も、おそらく同じだろう。月原秋という人間を知りたいがための物語りだ。ならば凛子という人間は、月原秋という人格を試すにはちょうど良い人材。そう理由付けて、凛子を月原秋に託すか。
 月原秋は、間違いなく二十四時間、ずっと監視されているはず。船内のいたる箇所に集音マイク、ビデオカメラが張り巡らされているはず。その中で、不審な動きは取れない。
 難しい。このシナリオを遂行するために、登場人物たちは細心の注意を払って、役割を遂行するはずだ。どこまで邑崎が月原秋に関われるのか。
 邑崎は個人のスケジュールリストを取り出した。『桃色くも』の物語にそって、邑崎と凛子の行動スケジュールが時間軸と一緒に書かれている。
 そこに都合が良いように、行動の予定を朱書きして改ざんしていく。
 隣で眠る凛子を見た。
 ふと、凛子が傷だらけになってしまった印象を受けた。
 表は16歳の娘。老化や体力の衰えなど無縁の子供だ。
 だが内面はどうだ。この娘は、万里夫に依存していなければ生きてなどいられないのだ。人がどれほど内面に支配されているか。
 もう巻き込まれてしまっている。参加するしか彼女の命を救うすべはない。それは彼女が色々と知ってしまっている立場であるからだし、知らなくても知っていると思われるだろう。知っているなら、知っている人間に相応しい場所に居なければならない。
 オルガン側にいなければならない。そうしなければ消されてしまう。
 万里夫もきっと同じ選択をしたのだ。
 だからといって、そもそも彼女を巻き込んだのは誰だ。最初に、ばかばかしいアダルトビデオのようなシナリオを作った馬鹿野郎がいて、それを買い求めたキチガイどもがいて、それを実行したくそったれどもがいる。その誰かが道徳心を持っていれば、一人の少女の思いやる事が出来れば、彼女はこんなところで眠ってなどいなかった。こんなおかしな世界の住人になんてならずにすんだ。
 男である以上、ある種のシチュエーション、ある種の性的嗜好は有り得る。だが、それを抑える理性を培い、相手の心を思いやることこそ道徳心だ。法律で禁止されているからやってはいけないなどという価値観が蔓延する中、こんな幼い少女を集団レイプする行為がなにを意味するか。善悪を判断できる理性を培うには、規律や罰則ではなく倫理観だ。道徳心だ。
 それを何処で置き忘れたのか。
 
 ――人殺しは、犯すにはリスクが高すぎるからやらない。
 ――強姦は思いのほか重刑だ。逮捕されて刑務所で肩身の狭い思いをするくらいならアダルトビデオで我慢しよう。
 ――あの国は悪意の根源である。殺しても正義である。
 ――犯罪は、誰にも知られなければ犯罪ではない。
 ――別に気持ちよければいいんじゃない?
 
 この価値観はいつどこでで生まれたんだ。一体いつから人は道徳を問わなくなった。
「格好つける」ということの表現方法に組み込まれた無関心と論理的、効率的な解釈方法に魅了される人々の価値観。
 殺される側の人の恐怖心、苦しみ、悲しみを思う精神はどこで失われた?
 人は神経というものが全身を流れ、心というのもが支配する。そのどこにでも存在するのが痛みという感覚と感情。
 凶悪犯罪、異常犯罪は今に始まったことではなく、太古から繰り返されてきたという認識が無いのはなぜか。理解できない事柄を、安堵したいがために身近なものに置き換えようとする心理はどうして生まれるのか。
 心の理解できない子供が目の前にいるとき、それを納得できる説明、しかも万人に納得できる説明で片をつけてしまう安直な解決。理解できないものを理解できないままで放置できない人の心の脆弱性。
 対立する両者に対し、握手させ、仲直りさせようとする優しい人々。ところがそれが何の解決にもならないと知っているのは対立する両人だけ。対立は避けられず、それはなくなることが無い。それを理解した上に解決法を模索していく手段しかないのにもかかわらず、それ以上の荒波を立てまいとする保守的な考えが、痛みを忘れると同時に恐怖を忘れ、子供たちにとろんとした瞳、半開きの口をさせてしまうのだ。
 この国は暗い時代を確かに経験してきた。
 どうして、誰も語らない。
 もうすぐ表舞台から姿を消す暗い時代。語るものが年老いて居なくなったとき、この国の理性はなくなってしまう。
 心が失われる。
 リスク管理ばかり増長し、人の尊厳や道徳が失われる。
 人殺しは罰則が重く、自転車泥棒は一時の苦汁ですむ。強姦は世間体を失うが、傘泥棒は罪に問われたためしなどない。飲酒運転は重罪になりつつあるが、アルコール摂取が発覚しなければ無罪。
「なにが犯罪で、なにが罪に問われない行為なのか」「些細な罪を見逃してはならない」「罪の意識の甘い犯罪に対する刑罰を重くしなければならない」そんなことばかり考えているから心を失う。どんな行いが相手の心を傷つけ、どんな行いが人を療し、救うのか。それが分かれば法律も罰則も必要ない。理想論でありながら、必要不可欠なものなのに、どうして失われていってしまうのか。留めておく事が出来ないのか。一体誰のせいなのか。
 道徳心の喪失は、国の喪失だ。
 この国は確実に失われる未来を選んでいる。
 お前は滅びゆく国の、その犠牲者なんだな、凛子。
 
 
 
「豪華客船アカシックレコード号」の乗船より一週間前に、最終調整会と証したリハーサルが行われた。邑崎と凛子はそのとき初めて「オルガン」と呼ばれる演芸集団と相見えることになった。
 一日中船上で過ごすうち、邑崎は自分が俳優にでもなった気分になった。無数の人が船上にごったかえし、ところどころにメガホンを構えた監督が怒鳴り声を上げている。
 映画撮影のようだった。すべてのシナリオをリハーサルするには時間が無い。要所要所の場面を切り取り、主人公が現れたらどうするか、どうやって主人公の所在を常に全員が情報共有するか。監視カメラの位置、それぞれの待機場所、タイムスケジュールに沿った役割の確認が主だった。
 邑崎の思いを裏切ったのは、百人ほどいた「オルガン」の構成員たちが、意外とアットホームな雰囲気であったことで、緊張する場面は気を引き締めているものの、いったん役割が終わればいたって友好的で、それこそ映画撮影の現場のごとく、役割を開放されれば、心浮かれる社交場に成り果てる。中年女性は、近所の公園よろしく井戸端会議を始めれば、若い男女はソフトドリンクを飲みながら、久々の再会を喜び合ったりしている。
 子供たちも船内を駆け回っては大人たちに注意されたり、船内を冒険しまわったりしている。
 加賀山瑞穂という有名アーチストが登場すれば、ミーハーのごとく騒ぎ立て、指定の喫煙所にはむさくるしい男の社交場に成り果てていた。
 疲弊しきってリハーサルを終えると、ペン入れしたタイムスケジュール表とシナリオの冊子を即席に設置された受付に手渡すと、名前と連絡先を用紙に記入させられた。
 改ざんしたシナリオとタイムスケジュール表の案が通るならば、ある程度、邑崎の思い通りの行動ができそうだ。ストーリの分岐に重要な場面で邑崎の登場を促すような改ざんである。受付に集まった改ざん書は、改ざんできる権限を持つ万里夫が目を通すそうだから、おそらく受け入れられると考えていいだろう。
 万里夫は、四つある「桃色くも」の分岐シナリオのうち、どうしても「アザー編」に向かわせたいらしい。そのために邑崎を利用したのだろうが、おそらく邑崎が手を下すまでも無く物語りは「アザー編」に向かう確率が非常に高い。邑崎はシナリオの分岐で、万が一でも「アザー編」以外のシナリオに進みそうな可能性のある場所で、何食わぬ顔でシナリオ操作すればよい。
 物語の選択は、常に主人公の判断に委ねられる。それが原則である。故意にその判断を曲げさせる行為はシナリオ中に一切無く、逆にそれをしようとすれば怪しまれるリスクがある。それを回避する方法をどうにか見つけなければならなかった。シナリオとは別の言動を起こさなければならない場面が必ず来るはずだ。盗聴器、監視カメラが張り巡らされた封鎖的環境で、どうやって誰にも知られず、主人公の月原秋に接触し、故意に選択肢をさせることができるのか。
 凛子であるが、凛子のキャラクターは、邑崎の思惑通り、ある範囲の人間たちから非常に興味深いものとして注目を浴びた。卑屈で、それでいて妙に魅惑的な目をする少女。
 凛子がある種の人間に注目を浴びた理由は、邑崎にもいくらか要因らしきものが見えてきた。要因があるからこそ、万里夫は凛子を選んだのだろう。万里夫が興味を抱いたのと同じように、凛子を興味深そうに見ていた連中には共通点がある。
 それは、凛子に興味を抱いた人間たちが、ある一定以上の立場の人間たちだということだ。現場の監督という立場以上の、上層部の連中らしき人間たちだ。リハーサルにも参加せず、船内をうろついては笑み一つ見せず様子を伺っている人間たちがいた。そいつらは凛子を見つけると必ず歩行を止め、凛子に注目するのだった。
 凛子にも立派に役割がある。多少強引になるかもしれないが、邑崎が主人公である月原秋に積極的に接触しても不自然でない状況にするためには、凛子の存在が必要不可欠になる。
 前にも言ったが、このシナリオは主人公、月原秋の性格診断である。どのシナリオに分岐し、要所要所のターニングポイントでどんな選択をするかにより、月原秋の人間性を試験するシナリオだといって良い。
 そして、このシナリオを買い求め、その依頼をしたのは十三年前にある孤島で起こった集団失踪事件の唯一の生き残り。
 その生き残りが孤島で発見され、最初に口にした言葉が報道で流されたのを邑崎は覚えていた。そして、その言葉こそ「ももいろくも」である。
 今回の物語である「桃色くも」と同じであることは明らかで、分岐するストーリもそれぞれ「桃色くも」というキーワードに沿っている。主人公もそのキーワードに沿ってストーリを進むことになる。
 
 
 
 当日の早朝。
 電車で東京駅までやってきた凛子を、駅前で車に乗せると、すぐに横浜駅に向かった。
 すでにシナリオは開始されている。今日が始まった時点から、演技者たちは一言も、今日から始まる茶番が作られた「シナリオ」であることは一切口にしないルールである。当然、ゲスト役の人間たちは旅立ちのように自らの住処から横浜駅に向かい、まるで本当の乗客かのように豪華客船に乗船する。
 クルー役の人間たちは前日より乗船し、船内の準備にいそしんでいたはずだ。
「緊張してるか?」
 はなからルールなど守る気の無い邑崎は助手席に埋もれ、黙りこくる凛子に尋ねると、凛子はぼんやりと邑崎を見た。
「万里夫に会えるかもしれないんだぞ」
 凛子はゆっくりと視線を前方に戻すと、少しうつむき加減で首を横に振った。
 万里夫に再会したことの知らない凛子は、万里夫に再会できる手段として、豪華客船に乗り込むのだと信じている。
 月原秋が万里夫の知り合いであると凛子に吹き込み、月原秋のそばにいれば万里夫に会えるかもしれないとだけ凛子に言ってある。万里夫に会うためなら、凛子は嫌いな相手でも引っ付いて離れないはずだ。
「すぐには会えないかもしれない。でも月原秋という男のそばにいれば万里夫に会えるかもしれない」
「どうして探さないの?」
 凛子が言った。ちらりと凛子を見ると、まるで邑崎の目の奥を覗き込むように、静止画のようにこちらを見ている。
 凛子の問いかけの意味はわかる。どうして船に乗っていると分かっているのに、自ら探そうとしないで縁もゆかりも無い青年にくっついてなければならないのか。
「万里夫は俺が探す。その間、お前は待ち続けるのか? お前も探すんだろ?」
 訊くと、こくりとうなずく凛子。
「なら、手分けして探すんだ。俺は船内を調査する。お前は万里夫と縁のある月原秋のそばにいて、万里夫が現れないかどうか見張ってるんだ。分かるか?」
 凛子は答えなかった。再び前方に視線を戻し、静かに座っている。
 やがて横浜駅に近づき、近くの有料駐車場に車を停めると、歩いて駅まで向かった。
 真夏である。強烈な熱気に、駅に到着するまでに邑崎は汗だくになった。
 乗船までの間、演技者たち個々に行動指示は無い。ストーリの分岐もありえないし、盗聴器、監視カメラの無い序盤ではそれぞれが打ち合わせどおりにストーリをこなす。
 
 休日の横浜駅構内は混雑していた。この中に「オルガン」の演技者たちがどこにいるか分からない。あまり口を開かずに、邑崎は最初の出番を待つ。
 横浜駅東口付近に「ブロンズ像の少女」があり、その周囲のベンチに今回、一笑に付すには馬鹿げすぎている大掛かりなびっくりドッキリ企画の問題の主人公、月原秋が大学生役の若者たちを待っているはずだ。
 大学生たちの雑用係という設定のはずだ。月原秋を茶番の豪華客船に誘った大学助教授役の小山内という男。重要なウェイトを占めるこの男も、スピリチュアル編でないと大した役柄もない。
 大学生たちは全員遅刻する段取りだから、その前に邑崎と凛子が、実名で月原秋に接触するのだ。実名であるのは自らの戸籍を使用するからで、物語の分岐によっては二人とも戸籍を捨てなければならない。
 序盤のこの部分は要するに自己紹介で、月原秋に邑崎と凛子という、今後重要なウエイトを占めていく登場人物を認識させるためのイベントだ。後付で万里夫が追加した部分であるが、誰も反論したり、疑問を抱いたりはしないだろう。それは凛子という特異なキャラクターのおかげだ。
 邑崎は凛子を見た。凛子は混雑する駅構内の人だかりをぼんやり眺めている。この凛子を本当の意味で救いたいと語った万里夫。だが、邑崎はそれを真実として受け入れるしかなかった。
 思いたくなかった。凛子が最初から、この物語に登場する星名ひゆりに似ている存在だから、万里夫が選び出したなんてことを考えたくなかった。
「ブロンズ像の少女」を囲むように設置された大理石の腰掛に月原秋の姿を発見した。写真でしか見たことのない月原秋。歳は二十歳になったばかりだというが、明らかに仕事焼けしたしたと分かる褐色の肌、シャツ越しに分かる肉体労働の痕跡である筋肉の隆起。若い青年であることには間違いないが、若さゆえの落ち着きのなさを感じさせない佇まい。彼の十代は放浪の生活だったというが、なぜあんな青年が主人公に選ばれたのか。邑崎には不可解でならない。
「いくぞ、凛子」
 声を掛けても頷きもしない凛子は、黙って邑崎の後を付いてくる。台本はあるが、微かなセリフは演技者に任せられる。実は耳には目立たないようにきわめて小さい無線イヤホンが付けられており、つど司令部からの指示がある。
 ――月原秋に接触してください。
 機械的な女の声がした。機械的でも男の声よりはましである。この無線イヤホンは凛子には付けられていない。凛子はこの豪華客船の茶番の旅の主旨を知らない人間の一人だ。もう一人は当然、月原秋。
 邑崎は少なからず緊張しながら月原秋に近づいた。
「全く、暑くてたまんねえなあ!」
 自分でも不自然だとわかる陽気さで月原秋の隣に腰掛けた。月原秋は明らかに不審そうに邑崎をちらちらと見る。邑崎は口が開けなくなった。頭が真っ白になってどうして良いか分からなくなり、禁煙と分かっていながら思わず煙草に火を点けた。
 目の前に行き交う一般人は怪訝そうに邑崎を見やるが、それを気にする余裕はない。
 煙そうに顔を蹙めた月原秋が席を立とうとしたので、慌てて声を掛けた。
「あんた、他の乗客と違うな」
 言って気づく。「乗客」というキーワード。まだ、邑崎は月原秋のことは知らない設定だし、同じ客船に乗り込むとも知らない。冒頭から失言だ。全身に嫌な汗を掻く。
 月原秋は訝しげに腰を降ろす。さて、どう誤魔化すか。司令塔からの指示はない。
「いや、これから乗船するんだろ? 乗船チケット持ってたように見えたから」
 こんな口からでまかせが通用するか。
「乗りますけど……失礼ですが、どちら様ですか?」
「俺も乗船するんだ。今回のテストクルーズにな。挨拶でもしておこうと思って」
 不自然だ。自分でもわかる。なぜ挨拶なんてする必要がある。誤魔化すしかない。こいつを不愉快にさせて、疑いの目を外らす。
「あの船に乗るお客様にしては品がねえな。他の連中がどんな人間が来るか知ってるのか? 高尚な上流社会の先生がただぞ」
 ちらりと月原秋の表情を窺う。不愉快そうだ。すかさず邑崎は言った。
「失礼した。やっぱり、あんたは場違いだ。かく言う俺も場違いな気がしてな。お仲間に見えたもんだから、ちょっと話しかけたくなってな」
 不愉快にして、すかさず謝罪。感情を揺さぶって意識を外らす。接客術のひとつのテクニック。集中と弛緩の催眠術はプロなら意図せず熟す。
「仲間って……僕はあなたみたいにロリコンではありません」
「ロリコン?」
 邑崎が月原秋の思わぬ反撃に戸惑っていると、月原秋が邑崎の背後を指差した。振り返ると凛子が不安そうにこちらを見ている。忘れていたが、凛子も紹介しなければならない。設定では邑崎の妹。だが、実はクラウド編で邑崎と凛子の関係の秘密が暴露かれるが、おそらくクラウド編には進まないので、結局謎のままで終わるだろう。
 凛子を妹であると紹介し、やはり訝しむ月原秋を他所に「邑崎だ」と自己紹介した。名刺も渡す。本物の名刺だ。万が一、調べられても実在する探偵事務所である。
 月原秋は名乗らずに「アルバイトです」と自己紹介した。
 事情の知らない凛子が不安そうに邑崎の袖を引っ張った。その頃には「義理の妹」になっていた凛子の腕を引いて、船に向かうと月原秋に伝えて席を立った。
 
 
 
 ――月原秋の印象を報告してください。
 俺の失態は気づいているのかいないのか、女の声で無線が入った。
「突然俺が現れて、訝しんだり不愉快に思ったりしただろうが、普通の奴みたいに動揺したりはしなかったな。根性が据わってるのか、二十歳には思えねえな」
 手に持った小型のマイクにそう伝える。
 ――報告、ありがとうございました。
 無線から返答があると回線が切れた。回線は一方的に切れたが、俺の声や所在は常に監視されている。どこまで厳密に監視されているか分からないが、へたな発言をしないに越したことはない。
 邑崎は遠巻きから月原秋を観察した。万里夫から依頼された本来の目的のためには、少しでも月原秋を知っておく必要がある。
 月原秋の元に、今回の重要な役柄の星名ひゆりが姿を見せる。月原秋が彼女に惚れるか、惚れないか。おそらく惚れるだろう。星名ひゆりはそういう役目だ。あれだけ現実離れした美人が近づいてくれば恋に落ちない男はいない。
 ただしこの先、この女を因果に騒動が起こることを月原秋は知らない。
 はたして豪華客船から一人一人と人がいなくなっていく状況の中で、月原秋はどんな状態に陥っていくのか。邑崎は傍観者であることの興奮を覚えた。リアルな映画をみる気分だ。物語の設定は知っている。楽しみにしていた映画。腰を据えてオープニングを見る。最初はリラックスしている登場人物。ただし、客席に座る傍観者は知っている。この主人公はこの後とんでもないトラブルに見舞われる。
 映画が現実に巻き起こったとして、果たして主人公はまともでいられるはずがない。現実に映画の主人公ほど常識はずれにタフな人間など存在しないだろう。
 邑崎は司令塔より乗船を指示され、第三埠頭に向かった。
 次に月原秋に相見えるのは乗船直後の受付だ。
 
 
 
 どこまでも大真面目な茶番だ。月原秋が到着していない客船内のメインエントランスでは緊張感が空間を張り詰めている。乗船口にはブラスバンドが緊張の面持ちで待ち構え、広いメインエントランスの要所要所では打ち合わせに余念がない。
 邑崎は乗船した月原秋に見つからないように、メインエントランスに隣接する用具室に凛子と入った。
 用具室は四畳ほどの空間で、空調もありパイプ椅子も置かれている。棚には清掃用具と一緒にドリンクや栄養食品、ビタミン剤やサプリメントもある。おそらくこういった陰に隠れた部屋は、隠れたり、休憩に使われたりするのだろう。
 凛子は用具室に押し込められた理由を疑問にすら思わないようで、黙ってパイプ椅子に腰掛けている。
「あの青年、お前はどう思ったんだ?」
 訊ねると、凛子は殴られたように邑崎を見る。なにか考え事でもしてたのか。いま目覚めたような顔だ。
「どうって……」
 凛子はそう呟いて、不愉快そうに眉を顰めた。
 邑崎には未だに分からない。凛子が一体どんな人間に好意を示し、どんな人間を嫌悪するのか。一般の物差しでは計れない凛子の基準。
 邑崎は出入り口のドアに張られた「禁煙」の二文字を無視して煙草に火をつける。すかさず『禁煙ですよ』とイヤホンから女の声がした。ちゃっかり見られているらしい。邑崎は天井を見ると、監視カメラがこちらを見ている。
「固いこと言うなよ。こっちは緊張しっぱなしで飯も喉に通らないんだぜ」
 すると、一拍の間のあと『火の元にはご注意ください』との返答があった。
 ふと、凛子が邑崎のことをじっと睨みつけているのに気づいた。
「誰と話してるんですか?」
 邑崎は「独り言だ」と言って、煙草の煙を凛子に吹きかけると、凛子は煙を払うようにハタハタと手を振った。
 
 
 
 序盤の大まかなシナリオは、凛子と月原秋を交流させること。凛子に接する月原秋の観察が目的である。その道筋を作るのが邑崎の序盤の最大の仕事だ。
 さて、どうやって凛子を月原秋に押し付けるか。月原秋のスケベ心に付け入るか、凛子を不幸の少女に祭り上げて、良心に付け入るか。何れにしても月原秋を邑崎が知らなければならない。
 シナリオによって分岐するが、順調にアザー編に移行した場合、月原秋との付き合いはたった一晩だ。早く月原秋の人格を掴まなくてはならなかった。
 人格を知るには怒らせるのが一番だが、怒らせると今後に影響しかねない。
 万里夫も難しい役を要求したものだ。
 用具室に豪快なブラスバンドの合奏が聞こえてきた。いよいよ月原秋が乗船するらしい。先に乗船している乗組員やショップの店員、招待客たちはそれぞれの役目を自然に演じ始める。全ては月原秋、一人のために。
『個人指令:邑崎さん、フロントに向かってください』
 個人指令、団体指令、全体周知、特別指令、様々な冒頭分が付く。ある程度のコミュニティには団体名が付いている。大学研究会や企業名、家族名など、つど指令を受けて行動する。この船のどこかに仰々しい設備を誇る司令塔があり、ヘッドマイクでも付けた上層連中が状況を監視しながら指令を出しているのだ。
 邑崎は監視カメラに親指を突き出して見せると凛子に声を掛けて席を立たせた。
 用具室を出るとそこはSTAFF ONRYの廊下。サービスクルーやクックベーカーが歩き回っている。
『個人連絡:邑崎さん、正面の扉を抜けるとメインエントランスです。慎重に出て、フロントにいる月原秋と接触してください』
 月原秋と同室になる。月原秋と邑崎、それに凛子は「特別乗組員」であり、招待客ではない。なぜ「特別乗組員」なのかクラウド編で謎が証される。だが大した謎ではない。
 設定では、邑崎はこの船に「機関員のボイコット計画」の内偵として乗船している。ライバル企業の集団引き抜き、ライバル企業によるボイコット斡旋の調査だ。そのライバル企業の特別役員である小山内助教授。この船のオーナーが仕組んで、小山内の身内を内偵の邑崎と同室にし、邑崎が月原秋をたらしこみ、小山内助教授のスパイ行為を暴露く。
 くだらない設定極まりないが、もっとくだらない真実がクラウド編にはある。スパイダー編もスピリチュアル編もくだらないが、唯一、クラウド編は失踪事件の解決に導く「真実らしきもの」が暴露かれる。
 メインエントランスに出ると、フロントで話をする月原秋を確認した。
 ブラスバンドも姿を消し、それぞれの演技者たちが役割を果たすように自然に振舞っている。フロントに向かい、エントランスに背を向けている月原秋の背後でも、誰も演技を怠けようとするものはいない。ある場所では招待客がサービスクルーに浴場の場所を尋ねていたし、サービスクルーは営業スマイルを崩さず、まるでプロのように朗らかに受け答えをしている。
 招待客たちは自然に豪華客船の素晴らしさを口にしながら邑崎の正面を通り過ぎて行くし、クルーたちは仕事に勤しんでいる。
 そんな中、邑崎と凛子は月原秋の背後に近づいていく。
 こいつは普段の日常だったはずの(放浪の生活であったにしろ)生活を無理矢理捨て去られる運命にある。
 月原秋の最良の結末を考える。
 スピリチュアル編が最良の結末か。アザー編は、彼にとって余りにも酷すぎる。ところがすでに月原秋はアザー編に移行する運命にある。その事実を目の当たりにしたとき、月原秋の次の一歩は絶望への歩みなのか、希望への歩みなのか。
 不幸へと歩みを進める青年にむかって、先を促すような真似が果たして出来るのか。
 月原秋の背後から、フロントパーサーが差し出したキーを受け取ると、月原秋が驚愕の表情で振り返った。
「なんであなたが……」
 動揺した表情。それさえものんきに見える。なにも知らない無邪気な青年の、日常の表情。
 一緒の部屋だと知ると、月原秋はフロントパーサーに食って掛かったが、結局同室になる運命。月原秋の運命は、月原秋以外の人間によって強制的に決められている。
「たった一晩の付き合いだ」
 不満顔の月原秋とエキストラルームに赴くと、40平米ほどの大部屋。普段は使われない。有事の際(人命救助など)の場合に、救助者を格納したり、備蓄食料などを保管する部屋だ。月原秋はこの部屋で半ば強制的に邑崎や凛子と交流させられる。つじつまを合わせるように万里夫がシナリオを改善したが、どうも不自然さは否めない。
 不満そうな月原秋を説得しようと少し会話する。
「僕は招待客の大学生たちの世話役です」
 月原秋は不満げな顔を隠そうともせずそう言った。
「世話役? そりゃ一体どんな仕事だよ。あんたが面倒見なくても、テストクルーズとはいえ300人近いクルーが乗り込んでるんだぜ」
 小山内助教授を始め、研究会のメンバーはこの乗船にスポンサー探しに来ている。研究会のメンバーは全員超能力者の設定だ。自らの力を研究するために、豪華客船の誕生パーティーとも言えるテストクルーズに招待された著名な資産家たちから援助金を貰うために、今夜のキャプテン主催パーティの余興に行われるステージに掛けている。
 スピリチュアル編に移行するためのフラグのひとつだが、大学生たちが催すこのステージを月原秋に見させるわけには行かなかった。このステージを見ることで、絶対ではないがスピリチュアル編に移行する可能性が高まるからだ。前にも言ったが、アザー編以外で移行する可能性の高いシナリオが、このスピリチュアル編だ。『桃色くも』というタイトルに関係しない、もう一つのアザー編と言うべきシナリオ。
 月原秋は愚痴るように口を開く。
「たぶん何でも屋です。ようやく僕も理解してきました。叔父さんが僕に要求するのは、遠足の引率係りです」
「引率係……要するに、お守りか? 大学生相手にか?」
「はい。僕も疑問に思いましたが、今日接してみて、僕が必要だった理由は大体わかりました」
「問題児集団ってことか。なんでそんな悪ガキをこんな豪華客船に乗せたのかはわからねえが、まあどうでもいいことだ」
 重要なファクター「月原秋の性格診断」であるこの物語は、月原秋に散々迷惑を掛ける役割を大学生役たちが担っている。この問題児集団を相手に、秋がどんな対応をするか、上層の連中が観察し、こと細かく分析するのだろう。
 一体、月原秋という青年を分析することで何をしようとしているのだろう。利口そうであるだけの、普通の青年であることには間違いない。とんでもない能力を秘めていそうにも見えない。
『個人指令:白波瀬さんを月原秋に近づけさせてください』
 イヤホンから女の声。白波瀬とは凛子の姓である。どういう脈略で凛子を月原秋に預ければいいのか。
 邑崎はよい策が思いつかないまま口を開く。
「まあ、お互い一晩をともにしなくちゃならないわけだから」
 そのあとなんて言う? どうやって凛子を押し付ける?
「じゃあ、頼むわ月原君。この女と友達になってくれ」
 如何にも陽気そうに邑崎がそう言い放つと、月原秋が呆然と口をあんぐり開けた。
 動揺したのは邑崎である。これでは文脈が合わない。誤魔化すように愛想笑いしながら「お互い詮索し合わない契約は交わした。同じ部屋のよしみ、仲良くやろうぜ。この女は友達がいなくてよ」などと言うと、反応は凛子からあった。凛子は今にも泣き出しそうに邑崎の腕を掴み、目で訴えてくる。
「俺はちょっと用事があるんだよ。お前は月原君に付いて行け」
「な、何を勝手なことを」
 腰を浮かしかけた月原秋に、邑崎は拝みたおすように言った。
「頼む! 一人くらい面倒が増えたって、大して変わりゃしないだろ。この女は凛子だ。俺はちょっと野暮用があって」
「僕だって用があります!」
 凛子は邑崎の言うことなら、忠実に行動するだろう。万里夫に会うために言うことを聞けと事前に洗脳してある。
「わりい、急ぐんだ。じゃあよろしくね」
 そう言って、凛子を残して逃げ出すように部屋を出た。
 
 
 
『概ね問題ありません』
 無線で女の声が入った。
『白波瀬さんは月原秋と行動しているようです』
 邑崎は答えない。答えてはいけないからだ。
『ただ、もう少し脈絡を考えて自然に行動してください。少々強引過ぎるです』
 分かってるよ、そんなこと。こんな茶番に慣れているお前らとは違うんだ。
 心の声さえ聞かれそうだ、と思いながらエントランスを横切る。
『次は正午のオーナー主催パーティーで白波瀬さんを引き取ってください』
 正午までの約一時間が空き時間になる。いや、空いているわけではない。月原秋に会ってはならない時間帯。今頃予定通りに問題児軍団が騒動を起こし続け、月原秋の人格が綿密に分析される時間帯。物語の冒頭部分は物語の分岐に影響するイベントはないが、この物語の性質を月原秋に印象付ける重要な部分である。
 月原秋の場所、状況は逐一無線で周知される。月原秋に直接関わらない登場人物は、無理のない程度に自分の役割を熟す。招待客たちは招待客を装い、上組員は船を運航するための日常業務をこなす。あるいは乗客が乗組員の役を兼務したり、その逆を演じたりすることもあるだろう。
 相手は人間だ。神出鬼没である。指定の休憩所にいる以外は緊張が常に付きまとう。
 邑崎はショッピングエリアを歩いていた。月原秋から離れたルートでサンルームに向かっていた。
 月原秋に野暮用があると言ったが、嘘ではない。月原秋の行動は、自ら選択可能であるが、選択した先の出来事は決まっている。
 これから行われる出港セレモニーに参加する場合、月原秋は問題児たちの問題ごとを放棄したことになる。出港セレモニーに参加した場合、月原秋はそこで加賀山瑞穂に会うことになる。アイドル歌手として一世を風靡している芸能人である。
 ところが、先ほどの連絡で出港セレモニーには参加しないようだと周知があった。出港セレモニーのあと、加賀山瑞穂はサンルームで待機の予定。月原秋がサンルームに向かえば加賀山瑞穂を目撃するが、出会って会話するまでには至らない設定だ。
 邑崎は休憩所にて待機の指令を無視して、サンルームに向かった。ショッピングエリアを横切って階段を上る。エレベータは極力使用しないのがルールだ。
 サンルームに入ると、南中の日差しが眩しかった。観葉植物に囲まれたサンルームは都市部の緑園のようだった。
 売店で演技者は無料であるドリンクを受け取り、口に含みながら加賀山瑞穂を捜した。
 加賀山瑞穂は船の進行先に面したベンチに座り、数人の取り巻きと話をしていた。加賀山瑞穂が座るベンチからは、最上階であるサンルームから屋上に設置されたテニスコート、プールなどが高い位置から望め、その先になる大海原も望める絶景ポイントだった。
 いま、月原秋は船の外縁を囲むような通路であるプロムナードデッキを歩いているらしい。ここに向かっているとしてもだいぶ時間は掛かるはずだ。
 白々しく加賀山瑞穂の座るベンチの前を通り過ぎる。何度か同じ行動を繰り返し、加賀山瑞穂の取り巻きが不審そうに邑崎を見やりだすと、覚悟を決めた風に装って、色紙を加賀山瑞穂に差し出した。
「すみません……こんなときに不謹慎ですが、ファンなんです。サインをいただけませんか」
 出したこともないような小さな声で邑崎が懇願すると、取り巻きが「今の状況が分かってるの?」などと咎めてくるが、内心うるせえと悪態づく邑崎は「お願いします」と色紙を差し出す。
「いいですよ。大丈夫です」
 加賀山瑞穂は快く承諾し、色紙を受け取るがペンがない。困ったように加賀山瑞穂が邑崎を見る。邑崎は額に手を置くと「しまった!」と声を上げ、うな垂れて見せる。
 すると、加賀山瑞穂が隙かさず優しい声を出す。
「気にしないでください。私、これ書いときますから。邑崎さんですよね。結構重要な役をやられてる……」
 自覚が欠けてる、不謹慎だ、などという取り巻きの言葉を無視して、邑崎は無精ひげを撫でながら「ええ」と頷いてみせる。
「あとで書いて誰かに届けさせます。それでいいですか?」
「ええ、もちろんです。お手数おかけして申し訳ありません」
 塩らしく謝罪してみせると、劣等感を拭い去ってくれるように加賀山瑞穂が微笑んだ。
 そそくさと場を退散する邑崎。
 飲み終わったドリンクの紙コップをゴミ箱に放り込むと、所定の休憩所に向かった。
 向かう途中、無線機で『役割以外の行動は慎んでください』と無機質な女の声で窘めを頂いた。
 
 
 
 公に失踪事件に巻き込まれる。
 万里夫の残した言葉に、邑崎はずっと気掛かりを持っていた。万里夫の言う、戸籍入れ替えの話。戸籍を使っては自らを殺して、赤の他人に入れ替わる。
 万里夫はそれを繰り返して来たらしい。大掛に失踪事件に巻き込まれる。その後、邑崎は失踪者となり、別の姓を名乗って別の人間の人生を歩むことになる。
 万里夫の容姿は昔となんら代わりがなかった。それの意味するところを加賀山瑞穂に当てはめたとき、邑崎はある懸念を抱いた。
 邑崎はフォーチュンホールに向かった。オーナとキャプテンが主催する立食パーティーである。そこで凛子を月原秋から引き取る予定である。凛子は忠実に邑崎の指令を守り、月原秋に引っ付いていたようだ。
 立食パーティで邑崎は食事を摂っていると、月原秋を発見した。月原秋は子供のように食事にがっつく問題児集団を眺めながら溜息を漏らしている。
「楽しいな、お前の仲間は」
 声をかけると、特に動じた様子もなく「ロリコンも充分愉快ですよ」と皮肉を返した。邑崎は月原秋の皮肉に腹を立てたが、動揺しては大人の威厳に関わる。
「また凛子に船内を案内してやってくれよ」
 そう言うと「保護者みたいですね」と月原秋の含みのある反撃にあう。まったく二十歳の青年らしからなく切り返しだ。
「分かったろ。ロリコンじゃなくて保護者なんだよ」
 ふうん、と面倒そうに鼻を鳴らす月原秋は「僕は本当に仕事しなくちゃならないので、凛子ちゃんをお返しします。未成年なんですから、シャンパンじゃなくてウーロン茶を飲ませてあげてください」と凛子を返却した。
「お前も保護者みたいだな」
 邑崎が皮肉ると、返事もせず月原秋はつんと顔をそむけた。
 月原秋が離れると、邑崎は凛子に「どうだった?」と訊ねた。凛子は憎たらしそうに邑崎を睨みつけるだけだ。
「そんな顔するな。目的を達成するためだ」
 そう言っても、口を尖らせて顔を背けただけだ。
「で。どうだった? 彼は」
「どうって……」
「なにしてたんだ、いままで」
「別に……部屋の掃除して……飲み物飲んで、海を見て」
「どんな印象だった?」
 凛子は難しい顔をして邑崎を睨みつけてから「印象って?」と聞き返す。
「それじゃ二択だ。アルバイト君のこと、好きか嫌いか」
「嫌い」
 即座に返答が帰ってきた。邑崎は苦笑する。嫌いな理由までは尋ねなかった。今の会話は上層の連中も聞いているはずだ。これにて報告完了。
 さて、どうするか。
 物語はこの辺から分岐に関わるイベントが多くなる。月原秋が加賀山瑞穂に関わる事でスパイダー編に分岐するための条件が満たされていく。後に加賀山瑞穂を通して紹介される昆虫博士や蜘蛛好きの招待客が現れると、シナリオはスパイダー編色が濃くなっていく。同時に月原秋は加賀山瑞穂に誘惑されることになるが、そこまでストーリーが進むと、スパイダー編が確実になる。サイドストーリーとして加賀山瑞穂とのラブストーリーがあるが、加賀山瑞穂に対になる存在の星名ひゆりに惹かれていく限り、スパイダー編の色も薄くなる。
 要するに、月原秋が加賀山瑞穂に惹かれていくということはスパイダー編に移行してしまう恐れがあるということ。加賀山瑞穂との交流を絶てば、少なくともスパイダー編の可能性は消え失せる。
 やれやれと邑崎は月原秋に近づいていく。問題は上層に対する釈明作りだ。
 予定通り、パーティー会場に悲鳴のような声がした。予定通り招待客たちが驚いたようにどよめき、予定通り月原秋の近くにいた招待客が噂話をする。
「加賀山瑞穂を見つけた学生が興奮して悲鳴を揚げたらしい」
「いやあね、品格に欠けるわ」
 それを聞いた月原秋の反応を、監視カメラ越しに窺う上層の連中。さぞ愉快だろう。人をこっそり窺う下品な趣味を持つ人間には堪らない快楽だろう。
「なにやってんだアルバイト君。お前の出番じゃないのか?」
 うんざりしたような顔を向ける月原秋。三十半ばの中年男からすれば、青年のそんな表情さえ無邪気に見える。
「あなたはそうやって笑ってればいいですけどね」
「お前らの本当の保護者に恥をかかせちまうぞ」
「分かってますよ。うるさいな」
 さて、思惑通りにことを運べるか。邑崎は手のひらにかいた汗を隠すように拳を作る。
「仕方ねえな。凛子の面倒を見てもらったお礼だ」
 白々しくそう言うと、月原秋の肩に手を置いて、問題児集団の元へ歩いていく。
 加賀山瑞穂を取り囲み、興奮して昂ぶった声を上げる演技をする問題児たちの前に立つと、予定外の登場を果たした邑崎に、本気に戸惑う大学生たちの顔を睨みつけた。
「中学生かお前らは。分別ってものを知らないのか。この方に迷惑が掛かってるだろうが」
 さて、いま問題児たちが見せている動揺は演技か。どちらにしろ、月原秋がこちらを見ている以上、邑崎のアドリブに付き合うしかない。
「相手のことを気遣えないのか? 楽しむのはお前たちだけじゃないんだ」
 口を開きながら、加賀山瑞穂の表情も窺う。彼女の演技は完璧だ。あの顔はアドリブについてきてる冷静な顔だ。次にどうすればいいか分かってる。
「周りを見りゃ、すぐ分かるだろ。お前らいい笑いもんだ」
「いいんですよ」
 朗らかな笑みを作った加賀山瑞穂が邑崎の隣に立った。
「気にしてませんから」
 加賀山瑞穂は悲しそうに笑みを作って、意気消沈している学生たちを見渡す。
「そんな顔をしないで。あ、そうだ。後で私のキャビンにみんなで遊びに来てください。ほかにお友達も一緒に来てるんでしょ」
 アドリブに乗ってきた。そのあとは邑崎ではなく、月原秋が割り込んできたときに用意していたであろうセリフを吐き、その場は取り繕われた。
 すみませんでした、と素直に謝罪してその場をいなくなる問題児たち。さて、もう少し加賀山瑞穂にはアドリブに付き合ってもらおう。
「いや、お困りだと思ったんですが」
 声をかけると、加賀山瑞穂は魅力的な微笑で「いえ、大丈夫です」と答える。カナリヤに喩えられる美声。星名ひゆりが常識外の美女とはいえ、肩を並べられて選べと言われたら確かに迷う。
「船にはいつまでご滞在ですか?」
 と、何気ない会話をする振りをして、こっそり手に握っていた汗に濡れた紙片を加賀山瑞穂に手渡した。
 加賀山瑞穂は表情を変えずにそれを受け取る。おそらく、中身を見ていない加賀山瑞穂は下衆なナンパか何かで、紙片には邑崎の電話番号が書いてあるとでも思っているだろう。
 ふと気づく。遠巻きに月原秋と凛子が恨めしそうにこちらを睨みつけている。
 邑崎は内心「馬鹿が」と悪態付きながら加賀山瑞穂に視線を戻し、無難な挨拶をして別れた。
 
 
 
「なんで遊んでるんですか? 目的はどうしたんですか? やる気があるんですか?」
 パーティーから抜けて、エキストラルームに戻るためにプロムナードデッキを歩きながら饒舌になった凛子に咎められつつ、一方では無線機から無機質な女にお叱りを受ける。
『予定にない行動は慎むように注意したはずです。次に同じ行動を取ったら注意ではすみませんよ』
 二人の女から責められながら、邑崎は煙草を咥える。凛子とオペレータに同時に「禁煙!」と怒鳴られ、邑崎はしぶしぶ煙草をケースに戻した。
「月原秋は仲裁に入る気がなかった。俺も今後のためを思って、月原秋を助けて恩を売っておきたかった。そのほうが俺との関係が親密になっていくだろ」
 すると、凛子とオペレータが同時に言った。
「あの人が好きなの?」
『加賀山瑞穂に個人的に近づきたかったということはありませんか?』
「それはない。そう見えたか?」
 凛子は黙った。だが、オペレータは黙らなかった。
『個人的興味での接触は禁じます。肝に銘じてください』
「わかったよ」
 そう言うと、オペレータは黙った。
 やれやれとプロムナードデッキから碧い大海原を眺めながら、溜息を付く。
 俺が意図的にシナリオ分岐を操作できるのも限界がある。
 このあと、ことあるごとに星名ひゆりが月原秋の前に現れては依存的な仕草を見せるシナリオになっている。あんな女に頼られて悪い気のする男はいない。福田という男が二人の恋路を邪魔しようと翻弄するが、恋路を盛り上げるだけのピエロであるのは明白だ。
「邑崎さん」
 凛子が背後から声をかけた。
 振り返ると、凛子は風を浴びながら水平線を眺めていた。
「どうした?」
 凛子は欄干に手を置くと、風に髪を巻き上げられながら、見たことのない表情で遠くを眺めている。
 一瞬、一瞬だけ目を奪われる。
 桃色のオーラ。甘い香りのする凛子の髪がなびいて、周囲にピンク・ダイヤモンドのチリを巻き上げているように見えた。
「翼が……」
 凛子が呟いた。語尾は風に紛れて邑崎の耳まで届いてこなかった。
「なんだって?」
 聞き返すと、凛子はゆっくりと邑崎を見て、次には髪の毛で顔を隠すようにして「なんでもないです」とうつ向いた。
 
 
 
 夜のオーナ主催のパーティーまで、やる事がなくなった。唯一の鍵を持つ邑崎がエキストラルームの鍵をかけ、月原秋が帰ってきても居留守を使って彼を締め出すのが次の仕事だ。それまで一眠りしておいたほうがいい。
 邑崎がエキストラルームに閉じこもっている間に、締め出された月原秋は問題児たちやオーナや小山内に酷使われることになる。いろいろ船内を動き回らせて、イベントを発生させては選択させ、シナリオの分岐を迫る。月原秋は自らの行動だと信じて疑惑わないが、どの選択を選んだとしても、結局仕組まれたシナリオ通りにことは運ばれるのだ。
 それが闇。自分が選択し、築き上げていると信じている自分の生涯は、結局ルールに定められた決められたルートを辿る。そこからはみ出すことは出来ない。ルールとはその他を淘汰するために存在するのだ。「その他」という存在は隠蔽され、閉じ込められ、隔離され、消去される。
 真実はその他の中にだけ存在する……。
「その他……アザー」
 思わず呟くが、マイクが拾うほどの声量ではないだろう。
 機械は完璧ではない。演技者たちに取り付けられたマイクも、船内の各所に取り付けられたマイクも、全ての音が拾えるわけではない。
 邑崎と月原秋の接触のない立食パーティから夕食パーティまでの約六時間。
 スピリチュアル編に移行するためのフラグは幾つかある。月原秋が夕食パーティでのステージで大学生たちの催し物を鑑賞する。キャプテンの依頼である小山内捜索を達成する。スピリチュアル編に移行された場合、翌日の航海が予定通り行われ、当初に乗船する予定だった二人の大学生が神戸港で乗船してくることになる。
 スパイダー編に移行するためには、まず、依頼されるはずの人捜しのいずれかを承諾し、船内を歩き回る事が必要だ。その過程で大学生たちの依頼を受け、いなくなった笹川由利子を見つけ出す。さらには加賀山瑞穂に出会うように仕組まれている。場所は状況によるが、おそらくこの出会いは邑崎には阻止する事が出来ないだろう。条件は月原秋が加賀山瑞穂に会った時に声をかける。かつ次に会う約束をするとスパイダー編への移行の可能性が高まる。加賀山瑞穂は何かを月原秋に依頼し、達成されたときに再び会う約束をするはずだ。内容は状況に寄るが、その依頼を達成し、再び加賀山瑞穂に会うときに重要なフラグが立つ。その後に昆虫研究者である麻生博士や、タランチュラ採集趣味の資産家の女に出会う。そこまで進むと、アザー編への移行が困難になる。
 クラウド編へのフラグは、夜のサンデッキにある。幾つかの条件で月原秋はサンデッキに赴くイベントがあるが、実際に夜のサンデッキに一度でも赴いたとき、月原秋は夜空に奇妙な雲を目撃することになる。重要なクラウド編へのフラグである。それだけではクライド編への移行はないが、かなり近づくことになる。その後は、小山内が重要な役割で何度も登場し、問題解決へのヒントを幾度も口にしながらクラウド編への道しるべを築いていこうとため、アザー編への移行が難しくなる。
 アザー編への移行は、上記いずれの選択も行わない。あるいは星名ひゆりに対する想いに傾倒した場合。各シナリオ分岐への条件を満たしていない場合。アザー編への移行として一番重要なのは星名ひゆりへの感情移入である。
 各シナリオのフラグの合計点数でシナリオの移行が決まるが、現在の時点で全てのシナリオ分岐に可能性がある。
 月原秋をアザー編に導くための算段はある。ポイントである星名ひゆりへの感情移入を増長することに他ならないが、やりすぎれば上層の連中に怪しまれることは必死だ。
 
 
 
 今のところ、スパイダー編の移行が懸念される。可能性としては一番高い。幾つか、重要なフラグも立ったはずだ。
 考え事をしながらテーブルに置かれたローストビーフを口に含んだ。酒も用意されているが、今は控えておこう。
 ここはメインエントランスに隣接した船内最大級のダイニングルームである。重要な分岐のフラグが幾つも存在するイベントだ。まだ月原秋はダイニングルームに現れていないはずであるが、いつ現れてもいいよう、ほぼ集結した演技者たちはこれが作り物だとは信じがたいほどに自然に過ごしていた。
 上流社会で生きている一流企業の経営者や資産家などを装った演技者たちは優雅に会食しているし、ステージ上ではブラスバンドが本意気の演奏を見せている。マジックショウ、加賀山瑞穂の歌謡ショウ、ジャズ歌手など、今夜のイベントのために様々なエンターテイナーが集まっている。
『個人指令:白波瀬さんを入り口付近に残し、邑崎さんは遠巻きの目立たない場所に移動してください』
 きた。指令である。邑崎は凛子に声をかけた。
「凛子、俺はちょっとあいさつ回りをしてくるから、お前は残って食事でもしてろ。うろちょろするな。迷子になっても知らないぞ。とりあえず入り口付近にいろ。数分で戻る」
 凛子は不安そうに邑崎を睨みつけたが、構わず人ごみに身を投じた。
『全体周知:月原秋がダイニングルームにやってきます。予測時間六十秒』
 やれやれ。予想通りだ。小山内助教授を捜しにここまで訪れた月原秋は、大学生に行方を聞く。その際に笹川由利子という学生を捜すようにまた頼まれてしまう。大学生たちの世話役である月原秋はそれを断らないだろう。すでに月原秋はキャプテンに小山内助教授の捜索を頼まれ、加賀山瑞穂に邑崎への伝言を頼まれているはず。ここまではスパイダー編、クラウド編の条件を満たしている。
 そこへどうしていいかわからなそうに戸惑っている凛子が現れ、いかにも助けを欲している。
 さて、月原秋はどう乗り切るのか。これを全て乗り切ったとすると、アザー編への移行が難しくなる。乗り切れるとはとても思えないが、万が一熟してしまった場合……。邑崎はそこまで考えてふと思った。
 月原秋の性格診断であるこの茶番劇。それは何かの試験なのだろうか。月原秋に何らかの資質があるとして、この依頼の重複をうまくこなしたとき、試験を与えている側の判断は果たして「合格」なのか「失格」なのか。
『全体周知:月原秋がダイニングルームに入室します。5秒前……』
 一瞬、ダイニングルーム内が静まり返った。それは一瞬で、一秒にも満たなかったが、明らかに緊張の表れだった。
 邑崎はその沈黙のおかげで、我に帰る事が出来た。そう。これは紛れもなく茶番なのである。月原秋以外の全員、全て嘘なのである。
 月原秋がダイニングルームに現れると、何の疑問も持つ様子もなく周囲を見渡している。小山内助教授を捜しているのだろう。そして、視界の中に、戸惑っている凛子を発見する。
 さて、月原秋は凛子に声をかけるのか。忙しいからと、無視をするのか。
 無視するだろう。今の月原秋に凛子にかまけている余裕はないはずだ。声をかけないほうがアザー編への移行が楽になるのだから、それは邑崎の望みでもある。
 月原秋は凛子を無視した。というよりは凛子に気づかなかった様子だ。一直線にステージ横の控え室まで闊歩して行くと、入り口に立っていたクルーに声をかけ、控え室内に入っていった。
 ホッとしている自分に気づく。月原秋が凛子に声をかけるということは、邑崎が月原秋に接触を持たなければならないということだ。すなわち、クラウド編のフラグのひとつが立つ。邑崎はクラウド編での重要なキャラクターであり、邑崎と接触するということはクラウド編に近づいてしまうからだ。
 安堵している自分に気づき、ふと別の事も気づく。
 俺は本当にクラウド編のフラグが立たなかったことにホッとしているのだろうか。
 自問して自答した。安堵の理由はそれだけではない。
 重すぎるのだ。月原秋に接触し、会話し、アザー編へと導く。へたな行動を取れば監視者に見破られ、疑惑われ、抹消され……「その他」になる。
 重圧に押し潰されそうだった。この状況から逃げ出す事ができて、また普段の日常に帰って明日を迎えられることを心の底では熱望しているのだ。
 戻れる幸福な日常など、すでにありはしないと知っているはずなのに。
 オペレータの女の全体周知があり、月原秋が控え室から出てきたのが見えた。笹川由利子の捜索任務を得て、更に混乱した様子が表情から見て取れる。
 あんな青年を苛めて何が楽しい。茶番だと知らず、真摯に人の頼みを聞こうと翻弄する青年を見て、心が痛まないのか。
 いや忘れるな。同情は禁物だ。情を挟めば、一番の目的を失う。
 ――約束。
 万里夫との違えてはならない誓い。
 揺るがない意志を持て。俺の命は万里夫のもの同然なのだ。
 ところが、戻ってきた月原秋は信じられない行動を起こす。ダイニングルームを出ようとした月原秋は凛子に目を留めた。どうしていか分からずうろうろしている凛子を発見してしまったのだ。
 邑崎の予想を裏切って月原秋は凛子に声をかけた。凛子を発見した瞬間、明らかに逡巡していたくせに、忙しさにかまけて凛子をないがしろにすることはなかった。
 邑崎は睨みつけるように月原秋の行動を窺う。緊張が五臓六腑を締め付けるようだった。
 凛子に声をかけると、クックベーカーの元まで案内し、果物まで頼んでやっている。凛子の反応は普段にまして嫌悪感に満ちているにもかかわらず。
「なんなんだ、あいつは」
 邑崎の呟きはマイクが拾っただろうか。拾ったとしても構わない。邑崎は溜息に似た深呼吸をひとつ吐くと、意を決したように足を前に出した。
 月原秋のそばまで来ると「すっかり凛子の保護者だな」と声をかけた。
 振り返った月原秋の表情を見て、邑崎はちくりと胸が痛んだ。焦燥感と疲労で若干青ざめた顔。その顔が邑崎を見た途端、若干やわらいだ。月原秋は吐息のような声を出す。
「加賀山瑞穂さんにさっき会ったんです」
 加賀山瑞穂。会って何をしたのか。
「話がしたいそうです。ナンパ野郎に教えたくもないですが、パーティのあとサンルームで待っていると伝えてくれと言われました」
「ナンパ野郎とはどんな物言いだ」
 皮肉を言う元気は残っているらしい。皮肉も悪い意味に聞こえてこない。
『個人連絡:邑崎さん、急遽シナリオの変更を連絡します』
 イヤホンから声が聞こえた。演技の途中だ。後にしてくれと思いながら表情は平静を保つ。
「良く伝えてくれたな」
 邑崎がそう言うと、微妙に月原秋の表情の緊張が緩んだ。
 こいつは誰にも愚痴もこぼさず、頼れず、消沈している。年上の男である邑崎に対して多少のゆとりを抱いているようだ。
「あなたのためじゃないです。彼女から頼まれたら断れませんし」
「そう言うなって。そんなに嫌われるようなことした覚えはないけどな」
「ない? ひとのこと下賎扱いするわ、凛子ちゃんの面倒は押し付けるわ、一言のお礼をないわ」
 愚痴っている。大人の俺なら許容すると思ったか。こいつの愚痴を聞くような人間が傍にいない証拠だ。
『個人指令:邑崎さんは予定を変更し、クラウド編への移行が消失した場合でも、シナリオ移行の直前まで生き残ります。クラウド編消失の場合、予定であった今夜中の失踪は取り消しです。詳細は追って連絡します。そのつもりでいてください』
 オペレータの言葉を確認しながら、上の空で声を吐く。
「お前、結構根にもつんだな」
 そう邑崎が言うと、瞬時に月原秋の表情が固くなった。月原秋はなにも言わず背を向けて立ち去ろうとした。
 邑崎は「しまった」と思い、慌てて声をかけた。
「分かった、分かったって。礼はする。何か困ってることがあれば手伝ってやろう」
『個人指令:注意! 月原秋の行動に手を貸さないでください』
 瞬時にオペレータの声。
 月原秋が不機嫌そうな顔をこちらに向けて「何を企んでるんですか?」などと言ってくる。
 企んでるのはお前に対してではない。そう思いながら言葉を続ける。
「俺はそこまで信用されてないのか。加賀山瑞穂の件は、あくまで二次的な偶然でな」
「わかりましたよ。確かにいま困ってます。猫の手も借りたいくらい。でも、邑崎さんにお願いしても仕方無いですから」
「俺は探偵だぞ。人捜しのプロだぞ」
『個人指令:あなたは月原秋が人探ししているとまだ知らない状態です。失言です。今すぐ勝手な行動をやめ、前言を撤回しなさい』
 口調が厳しくなった。思わず恐怖で手足が震える思いがした。
 そんなことなど知らない月原秋が口を開く。
「うちの生徒と先生を捜しています。顔も知らないでしょ」
「知ってるさ」
 これが大掛かりな茶番であると「知ってるさ」の一言で感づくはずもない。だが、何らかのヒントを月原秋に……。
 その時、視界の片隅にこちらを睨みつけるサービスクルーの視線に気づいた。
 そいつは何かを呟くと、まるで殺人鬼のような目つきでこちらに歩いてきた。
「いいでしょう。じゃあ、二人を捜してください」
 邑崎は焦った。邪魔されるわけにはいかない。オペレータも不気味に沈黙を守っている。アザー編への移行を速やかに、かつクラウド編やスピリチュアル編への移行を阻止するには月原秋に「小山内助教授の捜索」「笹川由利子の捜索」を「失敗」させるのが一番である。ただし、それを演技者が故意に促した場合、邑崎に与えられる処分は何か。
「見つけたらどうする?」
 連絡手段はなかった。携帯電話はつかえないし、演技者たちは互いの交流を直接会話する以外に手段を持たされていない。ただし、邑崎には例外がある。事前に万里夫に知らされているアイテムがある。
「仕方ねえな」
 急がなくてはならない。こちらに歩いてくるサービスクルーから逃げ出すように、無邪気にフルーツにがっつく凛子に「部屋に戻るから付いて来い」というと「アルバイト君も付いて来い」と無理矢理ダイニングルームを連れ出した。
「なんですか?」
 後から吐いてくる月原秋が訊ねてくる。
『個人指令:邑崎さん、今すぐ立ち止まり、スタッフを待ちなさい』
 オペレータの声を無視して「プレゼントがある」と月原秋に伝える。この場でははっきりとした事が言えないのではぐらかすしかない。答えを言って、プレゼントを先回りしたスタッフに抹消されるわけにはいかないのだ。
 俺はどうなる。これだけ指令を無視すれば、早々に登場人物を抹消される。ただし、すぐではないはずだ。先ほどの予定外のシナリオ変更の伝令。あれの理由は分からないが、少なくとも何らかの処分が下ったとしてもまだ月原秋にこの茶番の真相を知らせるチャンスはある。もう時間がないのなら、せめてアザー編への道しるべを残せてやれないか。
「なあ、アルバイト君」
 早足になりながら声をかける。
「あの、お前とやたら一緒にいた美人がいただろう」
「それが?」
「ありゃいい女だな。本当にいい女だ。加賀山瑞穂や他にもいい女はいたが、ありゃ別格だ。随分目立つよな」
『注意勧告:口を慎まないと、キャラクター抹消ではすみません。本部ではあなたの現在の行動に悪意を感じています』
 全身が粟立った。ただ、恐怖が全身を支配したのは一瞬で、もうシナリオとしての俺の役割は終わりだな、そう思った瞬間から肝が据わった。
「お前、あの女に気があるのか?」
 訊ねると、月原秋は表情ひとつ変えず「御世話するお客様の一人です」と言い放った。
 気がないのか? あれほどの女なのに。いや、いい女過ぎるのか。手に入れることの出来ない宝石ならば欲しないほうが気持ちは楽である。
「じゃあ、俺が口説いちまっていいのか」
 嫉妬心をあおる。月原秋の反応を窺うと、軽蔑そうに邑崎を睨みつけてくる。
「加賀山瑞穂さんをかどわかしておいて、まだ足りないんですか? ケダモノですか、あなたは」
 こいつは、俺相手だとまるで言葉に遠慮がない。それが可笑しく苦笑って見せる。いったい俺をなんだと思っているのか。
「口説くって言うのは冗談だ。ただな、あの子、ちょっと気になるんだよ」
「なにがですか?」
 凛子と似ているところがだ。そうは言えない。凛子の時々見せる桃色のオーラ。邑崎は星名ひゆりに同じ色のオーラを感じた。
「無防備さだよ。あの女、まるで壁がない。知らないおじさんが飴を上げるから付いておいで、なんて誘われたら付いていってしまうような子供のような印象がある。言ってる意味、分かるか?」
 月原秋は気にいらなそうにそっぽを向いた。理屈では言い表せないが、印象としては理解しているようだ。
「あの女、痛みを知らないんだよ。箱に入れられて大切に育てられたかどうかは知らないが、ちょっと危うすぎると思うぜ」
「だからって何がそんなに心配なんですか?」
「お前が思っているほど、この船の乗客は上品じゃないってことだよ」
 何かを感じろ。俺の言葉から何かの懸念を抱け。せめてお前がこの物語の結末に近づいたとき、このカラクリを見破られるように。
「間違いない。あの女は処女だ。挿れられた痛みを知らない、快楽も知らない幼稚な子供なんだよ」
「ちょっと、さっきから僕の連れに失礼だと思いません?」
 くそ、こいつ単純じゃない。感情を揺さぶろうとしても理性的な反論をしやがる。やはり二十歳のガキには思えない。
「すまない。悪気はないんだ」
 ところが、そう頭を下げてみると月原秋は途端に子供のようなあどけない顔をする。こいつの人格のベースは怒りではない。証拠に、邑崎と月原秋の会話内容の卑猥さに、すぐに凛子の存在を気にかける。
 月原秋がこの最大級にくだらない茶番劇の主人公に選ばれた理由、その一端が見て取れた気がした。
「凛子に対して気遣うお前を見てると、俺もお前を構いたくなるんだよ。からかったり、冷やかしたりするつもりは無い。あの女は危うい。お前、惚れてるんなら囲ってやれ」
「惚れてるも何も、今日の朝初めて会ったばかりですよ」
「そうなのか? その割にはずいぶん親しげに見えたけどな」
『あなたは何がしたいのです? あとでエキストラルームにスタッフを行かせます。その行動の意味を説明していただきます』
 冷たいオペレータの声。
 エキストラルームに着くと、俺は用事を手短に済ませようと急いだ。
 まず初めに、バッグから取り出したトランシーバを月原秋に手渡す。
「トランシーバ?」
「そうだ、小型のな。良く分かったな」
「見つけたらこれで連絡を?」
「そうだ。スイッチは本体についてる。周波数は弄るな。もう合わせてある。すばらくそれをつけて行動してろ」
『それが必要になるのはクラウド編に移行してからのはずです』
 オペレータの焦りを思わせる早い口調。
 そんなのは百も承知だ。もともと、こんなアイテムをシナリオに登場させたのは万里夫だ。万里夫はクラウド編への移行を望んでいない。すなわち、早いうちにこれを持たせろということだ。
 フォロー頼むぜ、万里夫。
 邑崎はトランシーバの操作説明をしながら逡巡した。
 どうしたらいいだろう。この先、茶番劇の立役者たちに問い詰められるはずだ。何のための行動だと。問答無用に連れ去られ、夜の海に放り出されるかもしれない。邑崎一人が失踪したって、不自然ではない理由がこの船上には存在する。この物語の中核は「失踪事件」なのだから。
 操作説明を終えると、邑崎は言った。
「俺はアルバイト君の知ってるとおり、ちょっと野暮用があるもんでな。探し物は手伝ってやるが、凛子の面倒をちょっと見てくれないか?」
 邑崎が紡ぎだした答えはひとつだけだった。せめて、凛子は月原秋とともに行動させておけば、安全は保障される。月原秋は「お断りします」と即座に切って落すが、はいそうですかと引ける状況ではない。
「そう言うな。俺からのお願いだ。悪いようにはしない」と秋の肩に腕を回すと凛子から離れるように距離を開けて言った。
「正直、凛子はお前に気を許してるんだよ。こんなこと珍しくてな、お前にしか凛子の面倒は頼めない。俺に恩は売っておいたほうがいいと思うぜ」
「僕に気を許してるなんて、大きな間違いですよ。口だって全然利いてくれないし、僕の顔を見ていつも嫌そうな顔をしてますし」
 俺を信じろ、月原秋。言うことを聞くんだ。お前がこの船上にいる限り、お前の味方は俺だけだ。
「お前には口を利かない。嫌そうにしてる。凛子は嫌だと思う相手にあんな顔はしない。嫌いだと思う人間ほど、あいつはスキンシップを謀ろうとするし、会話もする」
「言ってることが矛盾してませんか?」
「矛盾してるのは俺の言葉じゃない。凛子が矛盾したやつなんだよ。お前に好意的じゃない凛子は、お前に気を許してるってことだ」
 どうにか説得を試みてはいるが、吐いている言葉は全て本心であるし、真実でもあるだろう。
「俺は甲斐性なしでな。どうも凛子を楽しませてやることができない」
「楽しませるって、二人とも仕事で来てるんじゃないんですか?」
「あっちは依頼人だ。仕事は俺だけ。あの娘に少しは楽しませてやりたいんだよ」
「楽しませてあげれば良いじゃないですか。自分はこれから楽しむつもりでしょ」
「加賀山瑞穂の件も仕事の範疇だよ。本当だ。お前を見込んでの頼みなんだ。悪いようにはしない」
 しつこく説得していると、月原秋はようやく折れた。凛子を連れて行くことを承諾すると、訝しげに邑崎を睨みつけながら言った。
「その代わり、僕も条件を出させてください」
 まさか、条件を出されると思っていなかった邑崎は狼狽する。
「条件次第で、飲んでも良いが」
「調査内容を教えてください。何について調べてるのか。詳細じゃなくても良いです。概要程度で良いです」
 重要なシナリオ分岐に影響する。現時点ではシナリオの移行はなされていない。このラインは踏みはずせない。踏みはずせば最後、暗闇の海のそこは必至だ。
「そりゃ無理だ。探偵には守秘義務がある」
「じゃあ、僕が凛子ちゃんに尋ねるのは良いですか? 依頼者が喋るのなら、問題ないでしょ?」
 凛子に訊ねる。一瞬、悩んだ。凛子は本来の目的を知らない。あくまで万里夫の捜索である。凛子が月原秋に問い詰められて口を割るとは思えないし、事前に口外するなときつく戒めている。だが、この条件を飲まないことには、凛子を月原秋に同行させることが出来ない。
 邑崎は納得したふりをして「じゃあ、それで頼むな」といって、凛子に近づいた。
 そして、いつもの暗号を凛子に伝える。
「お前はアルバイト君についていけ」
 この暗号は、事前に打ち合わせたものだ。この指令を邑崎が発した場合、凛子は無条件に従い、決して余計なことは喋らない。
「じゃあな、見つけたら俺はお前に知らせるだけだ。声をかけて、どこかに行かせたりはしないからな」
「分かりました」
 凛子の安全は確保した。あとは自らの安全だ。さて、なんて釈明する? 邑崎はあくびと伸びをしてなんでもない振りをしながら、胸を激しく叩く心臓音を悟られる前にエキストラルームを出て行った。
 
 
 
『個人指令:そのままフォーチュンホールまで向かって下さい』
 オペレータの指令が下った。フォーチュンホールは乗船直後にパーティの開かれた船の先頭部分に存在するダンスホール。
 夜になるとあの付近は立ち入り禁止になるため、月原秋が訪れる心配がない。
「俺のシナリオが変更されたのはなぜだ? クラウド編以外にシナリオが進んでも、どうして明日まで生き残る?」
 ひとりプロムナードデッキを歩きながら空に話しかける。
『黙って歩きなさい。質問はフォーチュンホールでスタッフが受け付けます』
 口調がいままでと違う。死刑台へ導こうとする死神のようだ。
「旅が終わる前にあんたの顔が見てみたいな」
 問いかけると、予想通り無視された。
 さて、行った先のフォーチュンホールでは一体誰が待ち構えているのか。
『あなたは危険因子です。未だかつで、あなたほど身勝手に行動した演技者はいません。覚悟してください。説明何如では――』
「俺はシナリオの意図を読み取って、最良の行動をしたつもりだぜ。最初に言われたとおり状況に応じて臨機応変に、ってやつを実践しただけなんだが」
 オペレータは答えなかった。
 邑崎はできる限りゆっくり歩いた。時間稼ぎである。上層部で万里夫が何らかの対策を講じているのだとしたら、時間が必要なはずだ。邑崎は万里夫の後ろ盾を信頼するしかない。
 歩調をゆるく、かといって道を間違えたりすると怪しまれるため、最短距離を辿りながら胸の動悸を必死に落ち着かせることに専念した。
 フォーチュンホールへの螺旋階段を上り、明かりの落とされたフォーチュンホール内を窺う。観音扉式の扉は開放されており、ホール内は入り口から見渡される。
 目印のように天井の一箇所だけ明かりのともっている場所がある。まるで薄暗い劇場でスポットを当てられた俳優のように、静かに佇む男が見えた。
 男は黒ずくめの服を着ている。スーツ姿やサービスクルーといった出立ちではない。黒いニットを深く冠り、グレーの霞みかかったサングラスをしている。あからさまにこの船に不釣合いな印象。
「入って扉を閉めろ」
 嗄れた重低音の声。闇に溶け込むような風貌の男の唯一の特長だった。
 命令口調に従い、ホール内に入って扉を閉めた。空気の流れが止まった気がして、異世界に迷い込んだような奇妙な感覚を抱いた。
「こっちへ」
 男に促され、スポットを当てられた黒ずくめの男に踏み寄って行く。出来るだけ怯んだような様子をひた隠しにしつつ。
 近くまで寄ると、男がスポットの当てられたテーブルの上に尻を置きながら、表情の窺い知れないサングラスの向こう側の目をこちらに向ける。
「俺はエクスキューショナーだ」
 エクスキューショナーなどと自己紹介されても意味が分からない。あるいはオルガンの演技者たちにとっては常識の通称なのかも知れず、質問をすることは出来ない。
「いままでもいろんなシナリオに参加したが、俺が登場することなど百にひとつだ。久々にパフォーマーと話すぜ」
 パフォーマー。要するに演技者か。エクスキューショナーも聴きなれないが何らかの意味を持つのだろう。
 邑崎は黙っていた。その沈黙は意図的でもあったし、雰囲気に気おされた面もある。
「心配しなくてもいい。俺の登場はあくまで最終宣告だ。自己紹介と言ってもいいかな」
「質問があるんじゃないのか? 別にないなら俺はかまわないが」
 ためしに口を開いてみる。大丈夫だ。落ち着いている。
 黒づくめの男は眉の辺りを親指で擦りながら暗い声を出す。
「単刀直入に言おう。あんたは何者だ? ここに来る前にあんたのデータベースは検索した。オルガンには1990年に入局。あんたの養子である白波瀬凛子と一緒にな。監査役の勧めで入局して、平均すると三年に一度のペースでシナリオに参加していると記録に残っている」
 今回で四度目のシナリオ参加。万里夫によって捏造された経歴。邑崎はそれを諳記している。言い淀みはなく答える自身はあるが、黒づくめの男の意図は読めていない。
「妙だよな」
 黒ずくめの男はさらに暗い声を出す。
「妙だよ。報告では前のシナリオでは今回のような指令無視や独断行動を取ったなどという報告はない。なぜ今さらそんな勝手な行動を取った? さあ、どう答える?」
「以前はシナリオに関わる重要な役割をした事がない。もっと言えば、今回のようなシナリオが大きく分岐するような大掛かりなシナリオに参加したことはないのでアドリブの演技などしようがなかった」
「なるほどな。だが、俺の最初の質問に答えていない。もう一度訊ねるが、お前は何者だ?」
 お前は何者だ。この質問は邑崎を根底より疑っている証拠だ。組織に敵対する組織のスパイ。あるいは組織内の反逆因子など。邑崎は慎重に答える。
「今あんたが言った以上の自己紹介すべきものはない。普段は私立探偵を生業としているし、結婚はしていなくて子供も養子で引き取った凛子くらいだ」
「凛子……彼女は一年ほど前にシナリオに参加しているな」
「そうだが……それが?」
「もちろん、オルガンの役者として参加したわけだが、あんたはそれを許したのか?」
 なぜそんな質問をするのだろう。冒頭から邑崎の行動の真意への問いとはかけ離れている。
「自分の養子であるわけだよな。どういう経緯で養子にしたんだ?」
 過去の身の上話から経歴との齟齬を見つけようという魂胆だろうか。邑崎は慎重に言った。
「養子に取った当時、凛子は二歳だった。俺も若かった。天涯孤独の身になった凛子に同情心を抱いたし、幼い女の子供はとても愛くるしく思えた。そんな高尚な理由はないさ。子供一人を育てる苦労を知らない若造が思いつきでかわいい子供を拾って育てただけだ」
「男一人で女の子を育てる苦労は血のにじむほどだったと察するが、ところが一年前にあんたは愛娘を陵辱されるシナリオに売り飛ばしたわけだよな。不可解極まりないが」
 なるほど、そういうことか。
「俺の傷を刳りたいのか?」
「いや、俺も実は娘がいてな」
「俺が平気であんなシナリオに売り飛ばしたと思っているのか? あんたも組織の端くれなら気持ちが分かるだろう。あんたが俺と同じ立場だったとしたら、あんたは俺と同じ選択をするはずだ」
「するさ。命令とあらばな。身を切る思いで娘を差し渡すだろう」
「俺もそうしたまでだ」
 サングラス越しにも、男の眼光が鋭く光ったのか見えた。
「そこまでオルガンに忠誠心の高い男がなぜ今回のような勝手な行動を取ったのかが俺には不可解なのさ。自分の愛娘が見ず知らずの男どもに陵辱されるようなシナリオに参加させるほどの忠誠心の高い男の行動だとはとても思えん」
「まて、俺からも質問がある」
 男は無言で俺の言葉を承諾する。
「俺が一体何をしたというんだ。俺は真摯にシナリオの遂行を目指した。勝手な行動というが、俺はこのシナリオを月原秋の性格診断と理解している。性格診断をする目的は知らないが、俺なりに月原秋の人格を導き出そうとしているだけだ」
 さて、この屁理屈がどこまで通用するか。また通用せずともよい。別の算段がある。
「あんたにそこまで考えてもらう必要はない」
 黒ずくめは邑崎の期待通りの返答をした。と思った矢先、黒ずくめの男は苦々しそうに喉を鳴らして笑った。
「といいたいところだが、俺にもシナリオの意図は分からないし、言われたとおりの行動をする事が最善であると理解している。演技者がシナリオ作成者の意図を読み取る必要はないし、シナリオを買った人間の目的まで知る必要はない。ところがそれを想像してしまうのが人間ってやつで、このシナリオは一体何の目的で作られ、何の目的のために月原秋に苦難を強要しているのか」
 邑崎は困惑した。この男がここにいて、邑崎から何を聞きだそうとしているのか、或いは何が目的なのか、分からなくなり混乱をきたした。
「そこで想像するに、俺があんたと会話を交わすことで、俺は一体なにを成し遂げなければならないのか。俺に求められている役割として、考えられるのはひとつ」
 邑崎は生唾を飲み込むのを必死に堪えた。唾液はたえなく喉元に流れてくる。苦しい。男が確信的に空けた間が苦しくて堪らない。
「あんたはアンチ組織の因子であるという前提において、確証不十分でありながらも『念のため』あんたを抹消する事が俺の目的だ」
 俺は答えない。答えられない。空いてしまった沈黙。できるだけ意図的な沈黙であると平静を装うが、頬を伝う汗は邑崎の動揺を謙虚に相手に知らしめている。
「もう一度問う。あんたの答えにより結果は変らないが、結果が訪れるまでの時間は変る。言ってる意味、分かるよな。少しでも生きてチャンスを得たいなら正直に答えろ。あんたは何者だ?」
 いずれにしろ抹消される。それならば正直に「万里夫と仕組んでシナリオ操作をしている」と答えれば、その証言の確証を得るまで命は繋がるが「なにも隠し事はない」と言った瞬間、不明である危険因子の邑崎は「念のため」、組織というシステムから削除される。
 邑崎の存在に価値を与え、少しでも生存の理由をもたせるには反逆因子である理由を答えなければならない。
 邑崎は口を開く。その瞬間、喉に溜まった唾液が胃袋に落ちていった。
「すまない。行動を慎めというのなら言うとおりにしよう。俺の行動がそこまで組織の猜疑心をあおっているなど、想像もしていなかった。軽はずみだったと思う」
 男は答えず、サングラス越しに邑崎を睨みつけている。
 しばらくの沈黙の後、黒ずくめの男は一笑に付すと言った。
「要するにそういうことさ」
 男は邑崎の肩にぽんと手を置く。
「あんたの世界ではあんたが主人公。当然だよな。でも、俺が勝手に想像して、勝手な行動を起こすと、途端にあんたは生命の危機に陥るわけだ。それは組織にも同様で、あんたの勝手な想像や行動が組織という主人公に重篤の危機を招く。身をもって体験したはずだ。お前の行動の意味が組織に与える影響をな」
 確かに。
「俺がここにいる目的は、あんたに注意勧告をするため。最終宣告に近いが、命うんぬんて話じゃない。悪かったな、脅したりして」
「いや、こちらこそすまない」
 汗が鼻先から滴り落ちる。なんて野郎だ。会話において、ここまで敗北感を抱いたのも久しい。
「想像するのは勝手だが、行動は指示通りに行っていたほうが身のためだ。気持ちは分かるがな。あと、もうひとつ」
 男は去り際に言った。
「本シナリオの主人公、月原秋に対して、あんたはどうやらシナリオ中に想定されなかった人格を発生させる特殊な登場人物であると本部が判断した。よって継続してシナリオに参加する事が決まった。詳細は随時オペレータより指示があるはずだ」
「ああ、分かった」
 そう言うと、男は口元に笑みを浮かべていなくなった。
 邑崎は男が出て行った後、男が座っていたテーブルに腰掛け、額に溜まった汗をぬぐった。
 くそ、この会話はオペレータや上層部も聞いていただろう。やつら、今頃してやったりと薄ら笑いを浮かべているはずだ。
 危機は乗り切ったが、目を付けられた以上もう勝手な行動は出来ない。
 どうやらここまでだ、万里夫。出来る限りの事はした。これからは約束のためだけの行動になる。船上から放り出されては元の木阿弥なのだ。
 邑崎はシナリオの進行状況を意識した。
 シナリオ分岐の大詰めの時間帯。月原秋はそろそろ気づき始める。船上から人々が失踪しだしていることを。そして、その失踪の理由をどう結論付けるかによって、最終的にシナリオが分岐するのである。
 失踪の事実をクルーたちの噂話を聞くことで知らされる。そのときの月原秋に輯められた各種分岐地点の総合点により決定される。
 ふと、思い出したように邑崎はトランシーバのイヤホンを手に取った。これは常時月原秋と凛子に通信が開かれている。向こう側が通信を断ち切らない限り、状況が窺える。
 邑崎はイヤホンを耳にはめてみた。
 不可解な男が聞こえてきた。
「はあ、はあ、はあ。いいの? 本当にいいの? ああ、きれいだ。形のいい胸だね」
 ぎょっとして、邑崎はイヤホンを耳に押し当てるように押し込んだ。誰の声だ。月原秋の声ではない。
「大丈夫、誰も来ないよ。ここなら誰も来ない。ほら、電気も消したからなにも見えないよ」
 月原秋のトランシーバからか、凛子のトランシーバからか。おそらく後者からだ。またやりやがったのか、あのガキ。それにしても月原秋は何している?
「おい。オペレータ。聞こえてるか?」
『聞こえています』
「凛子の所在は?」
『エキストラルームだと思われます。すみませんが個人的な理由でのオペレータとの通信は』
「思われる? 凛子の様子は?」
『……エキストラルームは電気が落とされています。何度もいいますが、緊急時以外でのオペレータとの通信は――』
「ええい、まどろっこしい。いいから答えろ。月原秋は?」
『あなたはすでに勧告を受けているはずです。次はないのですよ』
「緊急時の通信は可能なんだな?」
『その通りです』
「いまがそのときだ。いいから教えろ。月原秋は?」
 しばらくの沈黙が続く。なにか向こうで相談でもしているのか。
『月原秋はメインエントランスです。いえ、いまエキストラルームに向かっています』
「念のため訊くが、これはシナリオの範疇か?」
『言ってる意味が分かりません』
「だから凛子が男とエキストラルームにいるのはシナリオの範疇かって訊いてるんだ!」
『男と……? それが緊急事態だと?』
 その時、トランシーバから声がした。
 ――た、他人の部屋に入ってくるなんて失礼じゃないか。
 さっきまで荒い息遣いをしていた男の声。
 ――出て行ってくれ! なんなんだ、お前はさっきから!
 現状がつかめない。一体何が起こっている?
 ――何をやってるんだ、あんた。
 月原秋の声が聞こえたところで、オペレータからの通信が入った。
『個人連絡:エキストラルームの状態が分かりました。詳細は分かりませんが、どうやらクルーの一人が白波瀬凛子さんと通じようとしていたようです』
「していたようですじゃねえだろ。早く誰か駆けつけさせろ」
『不測の事態ではありますが、ここで不自然な行動は取れません。このまま状況を見守ります』
「見守る? 凛子が襲われそうなんだぞ」
『そうなりそうになれば、別のクルー役が押し入る準備を整えます』
 この冷血女が。
 邑崎は走り出した。フォーチュンホールを飛び出すと、螺旋階段を滑り降りる。
 凛子を襲おうとしていたクルーの男の狼狽した声が聞こえてくる。
 ――なんだ、わたしが何か悪いことをしてるのか? お前にわたしが何をしようと関係ないだろ!
 次に月原秋の声で「ここは僕の部屋だ」と聞こえてくる。
 ――嘘だ。この部屋はこの子の部屋だ。
 ――だから、僕とその子は同じ部屋なんだよ。
 月原秋の声に冷静さが戻ってきた。やれやれ。大丈夫そうだ。
 ――邑崎さん、聞こえますか?
 月原秋の声がトランシーバ越しに問いかけてきた。邑崎は音声マイクのスイッチを入れて「いま向かってる」と答えた。
 月原秋が邑崎に連絡を取ったことで、狼狽しているクルーの声が聞こえてくる。
 刃物など取り出したりしないか、ひやひやする。ここからエキストラルームまでは距離がある。数分で行ける距離ではない。
 トランシーバからは月原秋とクルーの会話が聞こえてくる。
 ――わたしは何も悪いことをしていないぞ。
 ――何をしてたかは見れば分かりますよ。
 ――別にわたしが彼女を襲ったわけじゃない。そ、それに、誘ったのは彼女のほうだ。彼女がそうしてほしいと……。
 ――そう言ったのか? 体を触ってくれと?
 ――目で誘ってきたんだ。私の体を触りながら私を見つめて。
 ――もういいです。あなたの名前と所属を教えてください。
 ――なぜ教えなくちゃいけない。
 ――大事にしたければ、いくらでも出来ますよ。でも、それを判断するのはこれからここに来る人にやってもらう。僕はあなたが逃げないようにするだけ。で、名前は? 所属は?
 月原秋は意地が悪い。こんな皮肉屋の人格は、おそらくシナリオに忠実であった場合、露呈しなかったであろう。ここまでのストレスを発散するかのようだ。
 邑崎はオペレータに怒鳴った。
『おい、どうなってるオペレータ』
 オペレータは答えない。だが、もういい。
 邑崎はエキストラルームに駆け込むと、初めてその目で現状を目撃した。
「なんだ君は!」
 駆け込んだ瞬間、クルーの怒号が響いた。邑崎は荒れる呼吸のまま構わず喋った。
「凛子の保護者だよ。凛子にはほとほと困っててな。小型無線機をつけてて、ずっと様子を聞いている。お前が凛子に卑猥な言葉を囁いていたことも聞いていた。ちょっと遠くに居て到着が遅れたが」
 いや、本当は間に合っていない。秋が駆けつけてくれたおかげで難を逃れたが、月原秋がいなかったら邑崎がトランシーバーから異変を受信して、ここまで駆けつけてくる間に、何が起こっていたか分からない。
 邑崎は様々な負の感情が積み重なり、クルーに踏み寄ると、半ば八つ当たりのように横っ面を拳で殴りつけた。クルーは悲鳴を上げて尻餅をついた。
「相手は子供だろうが。子供の心を考えろ、クズめ」
 ところがクルーは苦々しそうに反論してきた。
「くっそおあ。殴りやがって。こんな顔じゃ、業務が出来ないじゃないか」
 むかむかと腹の底から怒りがこみ上げてくる。言うに事欠いて、保身の心配か。
「まだわからねえか。幼児趣味の変態やろうが。誰かわからなくなるくらいぶん殴ってやろうか」
「……わ、分かった。殴られたことは忘れてやる」
「まだ言うか、このやろう」
「邑崎さん!」
 月原秋が邑崎の背後から怒鳴った。見ると、深々と頭を下げている。沸点までに達した邑崎の頭に突然冷水をぶっ掛けられた気分だった。
「すみません、目を離した僕のせいです。今、そいつを殴っても良いことはひとつもありません。僕が現場を目撃してるし、邑崎さんが小型無線で聞いていたのだから、僕らが証言すればその人はどうにでも出来ますから」
 邑崎は仏頂面のまま月原秋の言葉を咀嚼する。月原秋は邑崎を落ち着かせようとしている。小賢しいガキだ。
 月原秋はなおも言った。
「凛子ちゃんが証言すれば、誰も疑わないでしょう。その人も、この先のことを思えば気の毒です。殴るのはやめてあげましょう」
 邑崎は握っていた拳を緩めると、目を据わらせてクルーに近寄る。
「それじゃ、このままキャプテンの所まで行くか。俺の連れに何をしようとしたか、ほかの仲間たちの前で全部吐かせてやる。俺は仕事柄、ブンヤや週刊誌の記者に知り合いが多い。会社が守ろうとしたら、会社ごと打撃を与えてやる」
 悪態をつく邑崎の横を通り過ぎて、月原秋は凛子を気遣った。呆然とする凛子のはだけた胸元を正してやる。まったくこいつを目の当たりにしていると、自分が冷血人間に思えてくる。
 そのとき、月原秋は何かに気づいたようにはっと目を丸くした。何かを呟いたように聞こえたが、邑崎には聞こえてこなかった。
 クルーが地面に額をこすりつけるように頭を下げた。そのまま何度も許してくださいと訴え続ける。
 凛子は我に帰ったのか、不意に上半身を起こす。自分のはだけた胸元を見ると、目を丸くして非難するように月原秋を睨んだ。
 月原秋は慌てて「僕じゃいぞ」と訴えるのを他所に、邑崎にオペレータより通信が入った。
『個人指令:そのクルーの処分はこちらにお任せください。早急にクルーを解放し、月原秋のシナリオ進行を急がせてください』
 予定外の事態にシナリオの進行が停滞している。このクルーに本当に処分が下るのかどうか疑問であるが、言うことを訊いていたほうが無難である。
「おい、あんた、もう行って良いぞ。お前のことはこれからじっくり考えるからよ。いい様にはしないから、びくびく怯えながら待ってやがれ。神戸港に着いたら、警察沙汰は覚悟しとけよ」
 クルーは青ざめた顔で、魂が抜かれたようにふらふらとエキストラルームを出て行こうとしたが、月原秋が「待って」と引き止めると、クルーは肩を震わせて立ち止まった。
「さっきの話の続きです。忘れたとは言わせません。さっき、他のクルーの人と話してましたよね。人がいなくなったって。詳しく聞かせてもらえませんか?」
 話の経緯を知らない邑崎に指令が入る。
「個人指令:場を取り繕ってください。シナリオの混乱が懸念されます。そのクルーを直ちに退室させてください。早急に対処します」
 場を取り繕えと言われても……。くそ、フォローしろよな、オペレーター。
 邑崎はとりあえず「そのことは、俺が説明してやる」と取り繕った。
 クルーが青ざめた顔でそそくさとエキストラルームを出て行くと、月原秋は邑崎に向き直った。
「邑崎さん、何か知ってるんですか?」
 邑崎は黙った。オペレータの指示を待った。月原秋が沈黙を不自然に思わない時間でオペレータの指示があった。
『個人指令:私の言う言葉をそのまま言ってください』
 無言で承諾すると、オペレータより指示がある。
『さっきオーナーに相談を受けた。その場には小山内助教授もいたと伝えてください』
 そのまま伝えると、月原秋は「叔父さんが?」と目を丸くする。まだ小山内を見つけていないらしい。だとしたら、アザー編への移行が有力になる。
 しかし邑崎は月原秋に再び虚を突かれた。月原秋は重要な情報を邑崎から聞き出そうとするより先に、突然深々と頭を下げたのである。
「最初に謝ります。すみませんでした。僕が目を離したから」
 邑崎は一瞬言葉を失う。さっきもそうだが、なぜお前が謝る。こうなった事態は凛子のせいである。やれやれと邑崎は溜息を付くとうんざりしたように頭を掻いた。
「この馬鹿女のせいだ。この女は、自分に性的な興味を持ってる男を見ると自分から近寄っていくんだよ。さっきも言ったと思うが、凛子は嫌いな相手ほど近づいていくんだ。嫌いであればあるほど、暗闇を持つ相手であればあるほど、こいつは馬鹿みてえに近寄っていくんだ」
「何でそんなことをするんですか」
「お前にも覚えが無いか? 強烈な腹痛を起こしたことは無いか? あまりの痛さに頬をつねったり、体のどこかを叩いたりして、どうにか腹痛の苦しみを紛らわそうとしたことはあるか」
 不可解な顔をしているが、理解はしているように見えた。
「要するにそういうことだ。そいつは大きな胸の痛みを紛らわしたくて、自分のことを痛めつけたがるんだよ。それ以上は聞くな」
 月原秋は悲痛そうに頷いてみせる。
「お前のことを嫌そうに見たり、避けたりしているこいつは、お前のことを悪い人間じゃないと思ってる証拠だ」
 ここからは本心だ。あるいは万里夫は、このシナリオに巻き込まれてしまったこの青年をどうにかして助け出そうとしているのではないか。そう勘ぐった。
 勝手な想像は組織に重篤な危機をもたらす。
 黒尽くめの男の言葉が蘇る。
「世界中の人間が悪人だと思ってるこのバカ女は、悪人じゃない人間を見ると、相手の事が分からないから恐くなって避けるんだよ。だからアルバイト君に凛子を任せた。アルバイト君が謝る必要は無い。凛子に何かあったら、すべて俺の責任だ」
 別に月原秋を救おうとしたわけではないが、月原秋が多少安堵したような顔を見せる。
 とりあえず、凛子に布団を放り投げると「寝ろ」と命令する。凛子は布団に包まると、母親の胎内かのように全身を包んだ。凛子を落ち着かせるには布団を渡すのがいいのか。
「さて、凛子はこのまま放って置けば寝付く」
 邑崎はその場に座り込むと、胡坐を掻いてうな垂れた。
「アルバイト君が聞きたかったのは、行方不明者のことだったな。どうやら穏やかな事態じゃないようだ」
 秋は邑崎の傍に雑魚座りして邑崎の話に耳を傾けた。
 邑崎はオペレータの声に耳を傾ける。
『個人指令:船内のクルー消失の事実を月原秋は知っています。それを前提において話してください。内容はクルーのボイコットとして説得してください。説得できなくてもよいです。次の算段があります。では私の言うとおり発言してください』
 鸚鵡返しのようにオペレータの言葉を繰り返した。
「いなくなったのは主に船内の乗組員だ。招待客や委託業者はまだいなくなっていないらしい。委託業者とはショップの店員や、旅行会社の添乗員のことだ。船内のサービス系のコンサルティングやメディカルセンターの医療班もいなくなっていない。いなくなってるのは主に運航部と呼ばれる実際に船を動かしている技術屋の連中と、ホテルサービス部と呼ばれる、接客担当の連中ばかりらしい。五十人以上の行方が分からなくなってるが、原因は全く分かっていない。もちろん船外に出る手段は出港から今まで救命艇を使うしかないが、使われた様子は無い。手の空いてるクルーが総出で船内をくまなく探しているらしいが、いなくなった人間は誰一人見つかってない」
「な、なんでそんなことが」
「今回のクルージングに集められたクルーの大半は、フィリピン人の経験の浅い人間ばかりらしい。統制がうまく取れていないようだ。もしかしたらただの点呼ミスかもしれない」
「運航に支障はないんですか?」
「今のところは無いらしい。その気になれば、数人の技師で、全自動で航海できるそうだ。海の真ん中で迷子になる心配もないし、明日の午前中には予定通りに神戸港に到着するそうだ」
 月原秋の表情からは納得したのかどうかは読み取れない。
「だいたいな、いなくなったのが全員旅客船会社の社員だってことが気に食わない。こいつはもしかしたら――あくまで俺の想像でしかないが、これはボイコットじゃないか?」
 オペレータの即興だろうか、様々な言葉がオペレータから指示される。その通りしゃべっていると、月原秋は徐々に説得されていくのが分かった。
 ただし、邑崎がこの船に乗船した『シナリオ上の目的』の一端が話されてしまったということは、クラウド編への重要なフラグが立ってしまったのかも知れなかった。
「とにかく、明日神戸に着くまでおとなしくしてることだ。無人でも神戸に着くってオーナーが言い張ってんだ。明日の朝までに全員いなくなることは考えられねえよ。凛子の相手をして疲れたろ。もう寝たらどうだ?」
 一瞬、月原秋は頷くような仕草を見せたが、すぐに秋は腕時計を見る。ここまでで秋は小山内の捜索を失敗しているから、後は笹川由利子の捜索が残っている。そんな疲労状態でまだ続ける気なのか。
「僕はちょっとまだ用事が」
 ここからはオペレータの指示はなかった。ホッとする内心、邑崎は呆れたように笑ってみせた。あからさまに疲れ切った表情。食事もまともに口にしていないはずだ。こいつは一体何のために行動しているのか。小山内との約束を忠実に熟そうとしているだけなのか。
「アルバイト君は用事ばかりだな。少しは休んだらどうだよ。頼まれごとなんて忘れて少し休まないと持たないぞ」
「一番僕に用事を頼んでくれた人の言葉とは思えないですね」
 それもそうだ。邑崎は最後にオペレータに告げられた指令を伝える。邑崎の勝手な行動によりシナリオに影響が現れたための帳尻合わせだろう。
「頼まれごとが好きなアルバイト君に、もうひとつ頼んでもいいか?」
「言って置きますが、僕は仕事があります。邑崎さんが僕にこれ以上頼み事をするのなら、見返りを求めますよ」
 見返り。月原秋がどんな見返りを求めるのか多少興味を抱いて「金か?」と訊ねてみると、直様「そんな物いりません」と切り返してくる。一体、こいつは何を求めてくるのだろう。ふとその答えに気づいて、邑崎は滑稽な気持ちになった。
「なんだよ、何がほしい?」
「もう凛子ちゃんの傍を離れないでください」
 半ばむかつきの様に胸がずきりと鳴った。予想通りの答えだ。まるで邑崎は「お前は最低人間だ」と言われたように思えて、思わず嫌味を返していた。
「つまらねえ野郎だよ。アルバイト君は欲望が無いのか?」
「何の話ですか?」
「セックスしたいと思うか? 金がほしいと思うか? 誰かを苛めてやりたいと思うか? 他人の不幸を見たいと思わないか?」
「なんですか、突然」
 俺は意地悪か。その通り、冷血人間なのか。この甘ったれたガキにスナッフ映画でも見せてやれば俺は満足するのだろうか。
「まあいいや。分かったよ。アルバイト君の要求は呑んでやる。それじゃ俺のお願いを聞いてくれるんだな?」
「内容によりますが」
 まあ、依頼を受けるだろうな。邑崎はそう予想しながら口を開く。
「俺はこの部屋で朝まで凛子のそばにいる。こいつが寝付くまで、それから目が覚めるまでここにいる。だから加賀山瑞穂に、お前が代わりに会ってきてくれ。別に口説いたってかまわねえぞ。とにかく代わりに行って、謝っておいてくれ」
 月原秋は半ば呆然とした表情で邑崎を見ている。邑崎が凛子を心配して、傍にいてやるという行動が月原秋の胸を打ったらしいが、残念ながらこれはシナリオどおりの行動である。
「邑崎さん、凛子ちゃんとどんな関係なんですか?」
 不意に訊ねられた言葉は予想外だったが、答えはひとつしかない。
「依頼主と探偵の間柄だって言ったろ」
「そうでしたいよね。はい、すみませんでした」
 なぜか月原秋は顔を赤くして、そそくさと部屋を出ようとした。なぜ赤面しているのか分からないが、邑崎は思わず「おい」と月原秋を呼び止めていた。
 凛子との関係。普通じゃないのは月原秋でなくても気づくはずだ。ここからの発言はシナリオを遺脱する。だが、別にいいだろう。
「こんな娘の依頼を、普通の感情で引き受けられるわけ無いだろ」
 そっぽを向きながらそう言うと、月原秋はなにも語らず「行って来ます」と言葉を残して、エキストラルームを出て行った。
 
 
 
『個人連絡:お疲れ様でした。おおむね満足の出来です。その調子でお願いします。若干スタンドプレーが目立ちますが、本部ではあなたのことを評価する声も聞こえています』
「へえ、そう」
 気のない返事をするが、オペレータの女は不意に小さな声で言った。
『個人的ですが、私も評価しています』
 思わず顔をあげ、監視カメラのほうに目をやる。だからと言ってそこにオペレータの顔が見えるわけではない。
 評価ね。
 いまなら名前を聞いたら答えてくれるだろうか。そんなことを考えながら煙草に火をつける。
 亀のように布団に包まる凛子の横に寝そべりながらポケットの中をまさぐる。
 中にあるトランシーバの本体。そこの周波数をちょいと弄った。
 続いてボタンを幾つかポケットの中で操作し、耳にはめられたトランシーバのイヤホンから月原秋の息遣いと足音が聞こえてくるのを確認する。
 実は、邑崎の持つトランシーバは親機で、他の子機であるトランシーバの周波数を変える機能がある。つまり、本部機設置された受信機から受信できない周波数に変え、邑崎と凛子、そして月原秋だけの通信に変る。
 さて、トランシーバの調子がおかしいと連絡が来れば元に戻さなければならないが、邑崎の予想ではそれはない。
 船内に張り巡らされた音声の受信装置と監視カメラで月原秋は監視状態にある。わざわざトランシーバでの音声を受信せずとも月原秋の言動と行動は充分に把握可能であるからだ。わざわざトランシーバの受信状況を確認するとは思えない。
 これで邑崎が月原秋の行動を秘密裏に把握する状況が整い、更に秘密裏に月原秋に連絡を取る手段を手に入れた。これを利用するタイミングは慎重に慎重を重ねなければならないが、恐らくはたった一度だけ。一度使えば本部に異常を悟られる。
 邑崎は急に緊張した気持ちを落ち着かせるため、煙草の煙を吐く。
 ふと、凛子が布団の中でもぞもぞと動き出し、布団の切れ目から顔を覗かせた。
「どうした?」
 トランシーバのマイクは切ってある。この声は月原秋には届いていない。
「ごめんなさい」
 凛子が謝った。何を謝ったのか。先ほどのことが自分の責任だと思ったのか。
「なにも謝ることはない」
「でも……」
 月原秋に声は届いていないが、オペレータのいる本部には届いている。目を付けられ、監視されている身。常に会話を聞かれている恐れがある以上、へたな会話は出来ない。
「いいから寝ろ。必要があったら起こしてやるから」
「あの人……」
 あの人。月原秋のことだろう。
『個人指令:白波瀬凛子さんが何か言おうとしています。そのままヒアリングしてください』
 邑崎は逡巡する。凛子は発言していいかどうか、邑崎の表情を窺っている。仕方無く「あの人って誰だ?」と訊ねると、凛子は視線を落とし、悲しげに言った。
「アルバイトさん」
「アルバイト君がどうした」
「似てる」
 似てる。邑崎はぞっとした。誰に似ているか。間違っても万里夫の名前を出してはならない。どうする。凛子は現状についてなにも知らないのだ。
「月原秋のことをお前はどう思ってるんだ?」
 邑崎はどうにか話題を外らそうと講じた。
「アルバイトさん……嫌いじゃない……でも」
 でも。その続きに発せられる言葉に恐怖する。
「でも……分からない。アルバイトさん……あの人が分からない」
「悪い人か、良い人か分からない、か」
「ううん、違います。恥ずかしかった。私、恥ずかしかった」
「なにがだ?」
「裸を見られて……」
 裸を見られて恥ずかしかった。それは当たり前のことだ。凛子は何を伝えようとしているのか。
「あのアルバイトさんに見られて、恥ずかしかった。恥ずかしくて……」
 そうか。分かったよ凛子。俺が間違ってた。悪かった。だから俺を責めるな、凛子。
「私はちゃんと恥ずかしいんです、邑崎さん。恥ずかしいし、アルバイトさんのこと……好きだし、邑崎さんも好きです」
「分かった。謝るよ、凛子」
「私、ちゃんと人間です。変な人間じゃないです」
「分かった。俺が悪かった。お前は人間だし、ほかと同じ普通の高校生だ。すまなかった」
 先ほどの会話、それ以前の会話。凛子は邑崎の言葉をしっかり聞いていたのだろう。
 凛子は泣いていなかったが、表情は泣き顔に近かった。細い声を出す。
「私、普通の高校生です。正常です。大丈夫です。だからまた、一緒に寝てくれますか?」
 ち、と内心舌打ちをする。布団に入って来いと言っている。
 万里夫が好きで、邑崎が好きで、アルバイト君が好き。年頃の女が多数の男を好きになるのは正常であるが、ちくりと嫉妬心をあおられてしまった以上、独占欲が多少なりにも芽生えた邑崎に凛子の布団に入るということは間違いを犯しかねない事態である。
 冷たくあしらえば凛子は傷つくだろう。ああ、傷つくなんて、なんで凛子の心を気遣わなくてはならないのか。
 どうかしてるぞ、邑崎。
 ふと、理性が蘇る。すべて見られているのである。オペレータにも本部の連中にも。
「幾らでも寝てやる。全て終わったらな」
 くしゃり、と凛子は泣きっ面になる。
「心配するな。俺もお前が好きだ。絶対に傍を離れない」
 そう言うと、凛子は目を丸くした。その目でじっと邑崎を見つめる。
 可笑しいか。三十過ぎのおっさんが十六の娘に淡い気持ちを抱いたら。
 不道徳か背徳か。
 邑崎は布団の中に手を入れて、凛子の手を握った。凛子はびくりと身体を震わせ、両手で邑崎の手を握り締めた。
 握り締めた手をそっと自分の頬に摺り寄せ、唇で愛撫した。
 凛子のしっとりと湿った柔らかい唇が邑崎の指の間を刺激する。
 布団の中での出来事。監視カメラには映ってはいないだろう。
 トランシーバから歌声が聞こえてきた。加賀山瑞穂の歌声。月原秋がいよいよサンルームで加賀山瑞穂と交流を持ってしまったらしい。クラウド編とスパイダー編へのフラグが立つ。いま、サンルームにいるはずだ。サンルームにいるということはダイニングルームでの大学生たちの出し物は目撃しないことになる。ここでスピリチュアル編の移行がなくなった。
 スパイダー編とクライド編。このどちらかに移行しなければ、アザー編となる。加賀山瑞穂と会話することでスパイダー編へのフラグが立つ。それから、サンルームから夜空に『桃色の雲』を目撃することで、クラウド編へのフラグが立つ。邑崎が翻弄してシナリオ操作した分の帳尻合わせがなされてしまった。まるで自然淘汰の流れのように。自分には大した力はないと思い知らされてしまった。
 ああ、もういいか。よほどの事がなければ移行のない二つのシナリオ。
 心地よい眠気が、シルクの布が覆うように全身を撫でる。
 少し眠ってもいいだろう。
 この先に訪れる終焉と、絶望をひと時忘れ、このまま吸い込まれるような睡魔に身を任せるのも悪くない。
 全ての終わりの前に、少しだけこの心地よい気持ちのままで。
 
 
 
 現と夢を行き交い、幻想的な旅を終えると、意識は急速に現実に戻りだした。
 ふと目を覚ますと、凛子は邑崎の手を握ったまま寝息を立てている。壁掛けの時計を確認すると、小船を漕いでいたのは小一時間程度らしい。何かあればオペレータから連絡が入るはずなので、行動としては問題ないが、月原秋の現状が気になった。笹川由利子捜索はどうなったのか。
『お目覚めですか?』
 不意にオペレータからの通信が入った。
「すまない。眠ってしまったらしい」
『構いません。お疲れであることは理解しています。お目覚めのところ申し訳ありませんが、個人指令です』
 目覚めたところへ申し合わせたように個人指令。あるいは少し邑崎を休ませて、目を覚ますのを待っていてくれたのかもしれない。
『シナリオはアザー編への移行が決定しました』
「決定したのか?」
 眠っている間に、着々とシナリオは進行していたらしい。少しはシナリオ操作に力添えできたのだろうか。
『はい。おおよそ例外を除き、ですが』
「例外とは?」
『移行は決定しましたが、これからのアザー編シナリオの移行中に月原秋が失踪の原因を、三つのシナリオの何れかと言い当てた場合です。ですが、現状月原秋は集団失踪の原因を掴めてはいません』
 邑崎はホッと胸をなでおろす。もちろん、勘づかれないように。
『個人指令です。前にも連絡しましたが、あなたはここで失踪の予定のところを、しばらく生存してもらいます』
 凛子がぐっすり眠っているのを確認してから邑崎はオペレータに尋ねた。
「そもそも、なぜ俺は残された? 今後、どういう役割を果たせばいい?」
『シナリオの意図をあなたが知る必要はありません。ですが、質問の内容は今から説明しようとした内容の範疇ですので結果的に質問に答える形になります。今一度言います。肝に銘じてください。個人の想像による勝手な行動は禁じます』
「分かってる」
 神妙に答えると、オペレータは指示を告げた。
『あなたのアドリブは危惧される反面、高く評価されています。演技者に必要な臨機応変な対応も、使い方を間違えなければ非常に重宝します。私どもからの突発的な指示に対応していただく役割として、あなたには動いてもらいます』
「分かった」
 自信はなかった。アザー編に移行した安堵の後、解放感に酔いしれたのも束の間、再び重い役割を言い渡されたのだ。胃に穴が開く思いだ。それでも今は、本部と呼ばれる場所から高みの見物を決め込むクソやろうどもに媚を売っておく必要がある。
『あなたには、月原秋と接することで発生する月原秋の新しい性格を期待します』
 期待する。いまの言葉は、ある程度の信頼感を得ていると思っていいのか。ただし、反面失態もある。疑られているのも確かだ。
 まだ大丈夫なのか。本当に本部は邑崎を危険因子、あるいは反乱分子とは見ていないのだろうか。ひょっとして、演技者として生きながらえさせることにより、監視、行動の縛りを目的にしているのではないか。
 勘ぐっても仕方がない。
 オペレータの通信が途切れ、しばらくするとトランシーバからの受信が入った。
 ――秋さん、秋さん。
 この声は星名ひゆりのものだ。しばらく星名ひゆりが月原秋の名を呼び声がして、嗄れた秋の声が聞こえてきた。
 秋も眠っていたらしい。
 状況を把握しておこうと、星名ひゆりと月原秋の会話に耳を傾ける。
 秋が昔話を始める。
 十三年前の風木島失踪事件。そうだ。月原秋はあの事件に深く関わる人間の一人。思いかけずあの事件の話を月原秋の口から聞くと感慨深かった。あの時代、あの場所には万里夫もいた。月原秋は万里夫と出会っているのだろうか。
 会話の内容からは万里夫の話題は出ない。
 月原秋から語られるのは淡い昔話。その失踪事件に巻き込まれ、唯一生き残った少女との追憶。
 思いを遂げることも、告げることも出来ずに終わった少年時代の恋心。
 実った初恋より、遂げられなかった初恋の詩が美しく聞こえるのは、手に入れられなかった宝物がどれだけ価値のあるものであるか、思い知らされるからであろう。
 望めば簡単に手に入るものほど、価値の薄いものはない。何かを犠牲にして手に入れたものこそ宝物になる。
 同時に、手に入れられなかった、その事実さえも人にとっては掛け替えもない宝物になる。
 星名ひゆりは月原秋の話を静かに聞いているらしい。
 いい雰囲気じゃねえか。
 邑崎は揶揄でも飛ばしたくなる気持ちでそう思った。アザー編に移行された以上、星名ひゆりと月原秋の交流は深くなる。
 ――翼が欲しいです。
 トランシーバから聞こえてきた星名ひゆりの声。
 翼が欲しいなど、異常な幼稚さだ。
 ――星名さんはもう翼を持ってますよ。
 月原秋の声。そう答えられる月原秋も幼稚か。星名ひゆりは演技をしているはずだ。月原秋の好みに合わせてキャラクターを作っているのだろうから、感覚が幼稚なのは月原秋のほうだけだろう。
 ――わたし、翼を持ってるんですか?
 訊いててこそばゆくなる。星名ひゆりの演技は素晴らしい。どんな顔をしているのだろうか。
 ――本当ですか? 本当に私は翼を持ってるんですか? 比喩ですか? どういう意味ですか?
 子供が玩具をねだるように星名ひゆりが質問を繰りかえす。月原秋の趣味を理想的に体現しようとする星名ひゆり。
 すでに月原秋は星名ひゆりの術中に嵌っている。まさか、この先に偽りの事実があるとは知らずにのめり込んでいく。
 ――宝物の時計。色あせて、もう壊れて動かない時計だったけど、僕の一番の宝物でした。
 月原秋が話題を変えた。何かを比喩して伝えようとしているのが分かった。
 ――止まっている時計。それが重要でした。その拾った時計。もしかしたら不思議な時計で、時間を戻したり、進めたりすれば、本当に時間が戻ったり進んだりするんじゃないかって、そう思ってました。だからずっと時計の針は動かさなかったし、宝物の時計を動かしてしまうことで、ただの壊れた時計になってしまうのが怖かった。今、僕が思ってる気持ちはそんな気持ちです」
 邑崎は思わず噴出した。足元から脳天までくすぐられたような思いだった。
 それが愛の告白か、アルバイト君。
 訊いているほうが赤面しそうだった。
 その後、星名ひゆりよりダイニングルームでのステージの話になった。
 大学生たちによる催し物の内容についてだった。月原秋がそのステージを鑑賞する事がスピリチュアル編への移行に対する重要なフラグだった。
 内容は超能力の披露。大学生たちの肩書きも超能力研究会のメンバーである。そして、大学生たちはそれぞれ超能力を持つ青年たちである設定。月原秋にとって一番交流が深く、スピリチュアル編に移行する恐れもゼロではなかった。
 アザー編に移行が決まった以上は、ひゆりから話を聞いてもフラグは立たないだろうが、スピリチュアル編へ移行した場合、シナリオは最長の四日間に渡る。あす、神戸に寄って新しい大学生メンバーの二人を乗せ、登場人物の増えたストーリーは、もっともドラマティックに展開する。
 ステージの内容の報告をしてくれたことに対し、月原秋がお礼を言った。すると、星名ひゆりはまだ手伝えることはないかと言う。
 星名ひゆりは執拗に月原秋に対して交流を持とうとする。アザー編に移行が決まった以上、その傾向はさらに強くなっていくだろう。
 クソ真面目な月原秋は迷っているようだ。お客さんの大学生に仕事を頼むのはお門違いだと思っているらしい。それが正解か間違いか、判断するのは本部である。
 ところが、月原秋が提案した依頼内容は、邑崎を渋面させざるをえない依頼内容だった。
「明日、午前中の間、凛子ちゃんっていう女の子と仲良くしてあげれませんか? 昼間一緒に居た女の子なんですけど」
「凛子ちゃんですか? 仲良くすればいいですか?」
「はい。僕だと、どうも警戒されてしまって」
 邑崎は頭を抱えたかった。こいつ、また凛子の心配をしてやがる。
 なんで昨日今日会ったばかりの、心も開かない、むしろ嫌悪感を示すような凛子の心配などする必要がある。これは決して邑崎やそれ以外の誰かに媚るような行動ではない。第一、月原秋は会話の内容を邑崎が聞いているとは気づいていない。
 邑崎はこっそり盗聴している自分が急に後ろめたくなった。
「このやろうが……」
 呟くが、オペレータには届いていないだろう。
「まあ、ここからが本番だぜ、凛子。月原秋との行動がしばらく続く。緊張が続くってことだ」
 まだ眠っている凛子に、呟くように語り掛けた。
 
 
 
 クライマックスへの大詰めの前章。いよいよ人々が失踪している現実を月原秋は目の当たりにし、これが現実であるならば、邑崎でさえ気が狂うだろう事態に巻き込まれてゆく。
 小山内より大学生たちのなだめ役を与えられ、さらには主導者になる役割を与えられ、心身ともに疲弊させられる。睡眠も与えられないほどに騒動が起こり、強制的に極限状態へと強いられる。
 ここからが本番なのである。極限の疲労とストレスの中、いったい月原秋がどういう行動を取るか。
「まったく、悪趣味だぜ」
 エキストラルームで一人ごちる邑崎。
 一度エキストラルームに戻ってきた月原秋は、すぐさま大学生の赤嶺未来に呼び出されて出て行った。その後、船内で小山内に会い、大学生の引率係を命ぜられる。
 程なくして月原秋が星名ひゆりを連れて戻ってきた。
 予想外の事態。
 話を聞くと、どうやら星名ひゆりが一人で眠れないと駄々をこねたらしい。アザー編へ移行した後のシナリオを細かくは把握していない。まだ自分はシナリオの重要な役割としてこき使われなくてはならないのか。
 星名ひゆりを連れてきた秋は、再び笹川由利子を捜しに行くと部屋を出て行った。一体何の使命感なのか。青い顔をしているくせに、よくやるものだと呆れかえるしかない。
 エキストラルームに残された邑崎と星名ひゆり。凜子は寝息を立てている。この部屋にはテレビやラジカセのような娯楽は無く、しんと静まり返っている。。星名ひゆりは秋が眠るはずだった布団の上に、背を向けて座っている。
 気まずい。星名ひゆりとの接触は、シナリオ上ほとんど無かった。邑崎が活躍するクラウド編でも、星名ひゆりとの接点はほとんどない。
 星名ひゆりは伺うように、時々こちらをちらりと見る。
 美人である。それも、そんじょそこらの美人ではない。ここに監視カメラが無ければ、間違いを犯してしまいそうである。
「なあ、あんた」
 邑崎は静寂に耐え切れず、声を上げる。
 ひゆりはかすかに顔をこちらに向ける。
「あんた、アルバイト君に対して、どんな印象を持ってるんだ? 一番身近で接してるはずだろ」
「あるばいと君……?」
 かすかに声を上げる星名ひゆり。
 途端、個人指令が入った。
『邑崎さん、星名ひゆりとの会話を一切禁じます。余計な口を利かず、大人しく月原秋の帰りを待ってください』
「会話するくらい、いいだろう。アルバイト君が戻ってきそうだったら大人しくするさ」
『聞こえませんでしたか? 禁止と言ったんです」
「……なぜ、そんなに頑なになる? 演技者同士の会話はそこまで取り締まってなかったはずだろ」
『あなたは最終宣告を受けているはずです。これ以上の命令違反は――』
「分かった。言うとおりにしよう。口を閉ざしてるよ。アルバイト君が戻ってきたら起こしてくれ」
 そう言って、邑崎はごろんと寝転がった。
「あの……」
 星名ひゆりが話しかけてきたので、寝返りを打って星名ひゆりを見る。
「あるばいとって、秋さんに聞きました。私、日本語がまだ良く分からないんです」
「ああ、そんな設定だったよな。本当なんだ、それ」
「さっき、秋さんの印象を聞きましたよね。あの……あなたはどう思いますか?」
「どう思うって……」
『今すぐ会話を止めなさい。どうなっても知りませんよ』
 オペレータの声。
 しかたない。言うとおりにしなければ、本当に命がないかもしれないのだ。
「どんな印象ですか?」
 星名ひゆりが声をかけてきたが、指令どおり無視をした。
 星名ひゆりには無線連絡が入らないのだろうか。
「あの……聞いてますか?」
『星名ひゆりの無線が故障しています。こちらから連絡が取れません。話しかけられても無視してください』
「俺から伝えりゃいいんじゃないか?」
『あなたと星名ひゆりは、同じパフォーマーでも、扱いがまるで別です。あなたは口を閉ざし、星名ひゆりを無視してください』
「分かったよ、もう」
 それから星名ひゆりは何度か声をかけてきたが、ことごとく無視をした。
『個人指令:月原秋が戻ってきます。到着までおおよそ六十秒』
 月原秋がエキストラルームを出て三十分も経ったころ、戻りを伝える無線が入った。また演技をしなければならない。
 ここからが本番である。寝ず、食わずで憔悴しきった(意図的に憔悴させられた)月原秋が、極上の極限状態に追い込まれる。この先に休憩はない。覚悟が必要だ。邑崎は緊張して胸が痛くなった。
 やがて、個人指令どおりに月原秋がエキストラルームに戻ってきた。
「非常事態です。人が失踪しているのは間違いなく事実で、乗客からも何人かの失踪者が出ています。僕も笹川さんを見つけること出来なかった」
 戻ってくるなり、早口でそうまくし立てる月原秋。
 すかさずオペレータより通信が入る。
『個人指令:月原秋を落ち着かせて、今後の行動のフォローをすると彼に伝えてください』
 ものの二秒でそう伝えるオペレータ。臨機応変な対応をしなければならない邑崎は即座に言葉を紡ぎだす。
「よくうろたえずに教えてくれたな。それだけ冷静を保てるなんて大したもんだ」
 そう言ってみたが、月原秋に落ち着いた様子はない。
「エキストラルームに置かれた備蓄食料や、非常用の毛布はすべてダイニングルームに運ばれます。この部屋はクルーたちで慌しくなるので、すぐに移動してください」
 いや、落ち着いている。それだけスムーズに言葉が出るのだから大したものだ。
『個人指令:それでよいです。月原秋を助ける発言を』
 オペレータと月原秋の言葉を同時に聞くのも一仕事だ。
「邑崎さん、一緒に行きましょう。僕はみんなをひゆりさんの部屋に連れて行きます。そこでもう一度今の話をします」
「そうだな。それなら俺もフォローしてやれることもあるだろう」
 そう言うと、月原秋が一瞬微笑んだように見えた。邑崎は眠ったままの凛子を背負い、立ち上がる。
 いよいよ始まる。
 この茶番の最終章。
 生命という息吹の最終章。
 
 
 
 大学生たちを星名ひゆりのデラックスルームに集め終えた月原秋の表情はすでに青ざめ、疲労感が背中から透けて見えるようだった。
 集めたものの、どうしていいか分からなそうな月原秋。
「俺がフォローするから、好きなように喋れ」
 背後から声をかけると、月原秋は決意したように話し始める。
 話し始めた途端、予定通り榊巻という大学生と赤嶺未来がケンカを始めた。混沌とし始める室内で榊巻が投げつけたクッションが星名ひゆりの顔面に当たり、強かに彼女へダメージを与えた。
 秋の怒りが静電気のように伝わってくるようだった。
『充分です。シナリオ進行の停滞の恐れがあるので、邑崎さん、収拾してください』
 一体何が充分なのか、オペレータの声が掛かり、簡素すぎる指示に腹を立てながら邑崎は「よせ」と力強く肩を掴んだ。月原秋は怒りをどうにか鎮めると、大学生たちにも指令が入ったのか、急に大人しくなる。これが茶番だとは思えないほど迫真的な演技だが、長時間続くと思うと気が遠くなる緊張感だ。
「僕の話は、今この客船内で起きている異常事態についてです」
 話し始める月原秋。おそらく、この中で一番しんどいのは、なにも知らない彼だろう。
「実はいま、客船内でクルーから失踪者が出ています」
 月原秋が伝えたのはクルーの失踪。350名の失踪者と、今後の行動の指南。この状況でよく冷静に話せている。
『個人指令:榊巻さん、赤嶺さん、ケンカを再開して下さい』
 などという指令が下る。途端に榊巻と赤嶺が言いがかりのような理由でケンカを始め、場を混乱させる。
『個人指令:榊巻さん、怒りの矛先を月原秋へ』
 すると榊巻は月原秋に詰め寄る。
「口答えするな。俺に口答えするな。次に口答えしたら、こんなに優しくねえぞ、俺は」
 怒りを向けられた月原秋は、拳を固く握り締めている。腕に自身があるのかどうか分からないが、少なくとも怯んではいない。漁の仕事をしていたという経歴からすれば、海の男の気性の荒さを持ち合わせていてもおかしくない。
『個人指令:そこまで。邑崎さん、場を収拾してください』
 まただ。抽象的な指示。これに答えなければならないほうの身になってみろ。内心悪態を付きながら、混乱を収拾するのにもっともらしい行動を考える。
 仕方がない。邑崎は一歩足を踏み出し、月原秋の胸倉を掴む榊巻の腕を持った。すまない、ちょっと痛いぞ、と内心断りを入れて榊巻の親指をねじ上げた。すると榊巻は悲鳴を上げて秋から手を離した。本当の悲鳴である。相当痛かったはずだ。ひどく心が痛んだが、遠慮するわけにもいかない。
 放り投げるように榊巻をソファーに押し戻して彼を解放する。
「俺も大人の一人なんで言わせてもらうぜ。パニックって言うのは伝染するんだよ。お前らのうち一人でも取り乱してみろ。周りに居る全員が感情的になって、自分勝手な行動を取り始めたりしたら、もう収拾はつかねねえ。お前みたいに暴力を振るい始めるやつ、泣き叫ぶやつ、誰かに八つ当たりして非難の声を上げるやつ、救命艇を勝手に引っ張り出して、我先に逃げ出そうとするやつ。様々だろうが、最悪は死を身近に感じて、性的衝動に走る人間や、混乱に乗じて窃盗や破壊衝動に駆られる人間も居るってことだ。その引き金になりたいか? お前が一人利己的な行動をしたせいで、その他大勢が混乱をきたして、殺しあうような現状の原因になりたいか?」
 適当な理屈を並べ「恐怖で場の混乱を収める」ようなかたちで取り繕ってみせた。
 大学生たちは苦々しそうな演技をしつつ、口を噤む。
『個人指令:素晴らしい演技です。シナリオ継続を』
 オペレータの簡単の声に、思わず「くそったれ」と声を上げたくなる。これは大変な作業である。度々こんな臨機応変が要求されるのか。
 邑崎は無言で月原秋に説明の先を促す。
 一通り説明を終えると、秋はへたるようにその場に座り込んだ。それを気遣う言葉さえ邑崎は発せられない。
 この数十分で想像以上の体力を喪失した。嘘をつく、それだけのことでこれだけ疲弊するとは。月原秋とはこれから明日の朝まで、一瞬も離れることなく一緒に行動しなければならない。考えただけでうんざりする。
 なんて大変な作業を受けてしまったんだろう。
『各位:しばらく休憩です。ですが、月原秋の手前、油断はなさらないでください。眠らないように注意し、次の指令を待ってください』
 簡単に言うが、それがどれだけ神経を削る作業なのか、お前に分かるのか。
 しばらくこう着状態になる。時々月原秋に視線を向ける。一日中船内を歩き回り、食事も取っていない。そんな状態でも月原秋は目を閉じようとしなかった。
 やがて放送されるであろう船内放送をじっと待ち、エキストラルームへ大学生たちを誘導しなければならない使命感に理性を保とうと必死になっている。
 船内放送はない。そして、助けもない。このまま絶望的な状況に放り出される。ひとり、ひとりと人が消え、最後に月原秋が取り残される。
 残酷だ。このアザー編のシナリオは否応無しに「その他」を突きつける。暗闇が恐いと泣き叫ぶ幼い子供を、誰もいない山小屋へ置き去りにするような行為。
 邑崎はせめてこのこう着状態の中、少しでも体力を温存、回復しようと、カウンターに腰掛けながら目を閉じる。気休めでも楽になった気がする。
 不意に、月原秋が立ち上がるとベッドルームに入っていった。ベッドルームは凛子が眠っている。まさか、間違いを犯したりしないだろうかと心配になる。すぐに後を追うように星名ひゆりが立ち上がり、ベッドルームに入っていった。
『各位:今後のシナリオは夜明けに進行を開始します。それまで仮眠を取られても構いません。ただし、月原秋の行動如何では臨機応変に対応願います』
 まるで神の許しの声のように聞こえた。よくない兆候だと思った。オペレータの声は我々の行動を支配し、それが徐々に定着する。オペレータの声なしには行動が出来ないようになり、やがて依存関係が生まれ、この声に支配される。
 いつかそこに乗り込んで、一発お見舞いしてやる。胸の中で悪態付きながら、それでも許しの声には逆らえず、邑崎は心地よい睡眠の渦に身を任せていった。
 
 
 
「邑崎さん」
 月原秋に起こされ、邑崎は目を開けた。最初に見たのは腕時計。午前五時を回っている。次に月原秋の顔を見た。途端に腹が立った。
「寝てねえだろ、バカが」
 本心から生まれた言葉だった。お前はこの先眠ってる暇などないんだぞ。
「大丈夫です。それより、まだ館内放送がないんです。ちょっと様子を観てこようと思うんですが起きててもらえませんか?」
「なぜ起きてる必要がある?」
 訊ねると、月原秋は答えずらそうに大学生たちに眼をやった。理性が破綻して男が女を襲い始めるかもしれない。そんな心配だろうか。邑崎は「分かったよ」と察してやった。
『個人指令』
 月原秋が部屋を出て行った途端、オペレータの通信が入った。
 眠る振りをしていた大学生たちもいっせいに顔を上げる。どうなるかは知っている。福田が星名ひゆりを襲うのだ。
 だが、この月原秋のいない現状でも、誰も相談を始めたりはしない。福田は両手で顔を覆ったまま動かず、黙ってオペレータの声に耳を傾けているようだ。
『福田さん、準備してください。星名ひゆりさんはベッドルームにいます』
 誰も口を開かない。邑崎は訝しみながら大学生たちを見渡す。疲労し切った表情は演技ではない。みな疲れている。思えばオペレータの声も変わっていない。オペレータも寝ずに指令を出し続けているのだろう。
『月原秋の行動は逐一報告します。一分前になったら行動してください』
 なにかが不自然だ。何が不自然なのか分からない。ここには月原秋はいない。もっと仲間どうして打ち合わせは必要ないのか。それともたとえ月原秋がいなくても、細心の注意を払って演技を続けているというのだろうか。
 邑崎も口を開かなかった。喋る気力がなかった。考えるという思考能力も落ちている。集中が続かない。考えようとしても、手から溢れる水のように思考が留められない。
 十数分後、オペレータからの指令があった。
『各位:月原秋が戻ります。エレベータに乗りました。到着予測時間、九十秒』
 指令が入った瞬間、おもむろに福田が立ち上がった。その表情には演技とは思えない悲壮感が立ち込め、躊躇することなくベッドルームに入っていった。
 胃が竦む。緊張と背徳が入り混じり、急に自分の存在が希薄になった。
 現実味がない。取り留めない疑問が無数に脳裏をよぎる。
 ベッドルームから聞こえた悲鳴も滑稽に聞こえ、急に笑い出したくなった。
 邑崎を現実に戻したのは部屋の扉が叩かれる音で、はっと我に返り立ち上がった。
 扉に向かおうとすると、榊巻に腕を掴まれた。
 振り返ると榊巻が「まだだ」と引き止める。榊巻の憔悴した顔の向こう側に福田が星名ひゆりをベッドから引き釣り出している光景が見えた。
 星名ひゆりは突然の事に戸惑ったかのような演技。
 福田は無言のまま、問答無用に星名ひゆりを立ち上がらせ、腕を彼女の首に回した。
「悲鳴をあげろ」
 福田が低い声を出す。星名ひゆりは「どうしたんですか?」と震えた声を上げるが、福田が「叫べ!」と大きな声を上げ、星名ひゆりの目の前にナイフを掲げると、星名ひゆりはようやく悲鳴を上げた。
 感応するように、直前まで冷静な顔をしていた赤嶺未来が張り裂けんばかりの悲鳴を揚げる。
 続いて榊巻がテーブルや椅子を蹴っ飛ばし、騒々しさを演出する。
「開けてください。どうしたんですか?」
 扉の向こうから月原秋の声がする。
 焦れったいほどの時間がたった後、オペレータの声で『個人指令:邑崎さん、月原さんを迎え入れてください』と指令が入った。
 邑崎は扉へ向かう。
 扉の前に立ち、逡巡した。
 扉の向こう側には月原秋がいる。このふざけた茶番劇の主人公。そして、凛子という例外を除けば、船上で唯一、全て作り物なのだと知らない人間。
 邑崎は振り返った。振り返って、いま一時現状を確認する。
 榊巻、赤嶺はすでに演技を始めており、うろたえる様を演じている。
 ベッドルームは死角になっているため、中はうかがい知れない。
「……まさか」
 思わず口遊んでいた。しまった、オペレータに聞かれたか。
 邑崎は誤魔化すように扉を開けた。
 その先にあった月原秋のなんともいえない顔。強烈なボディーブローを五発ほど食らったような顔だ。
「な、何かあったんですか?」
 邑崎は思わず顔をそむける。いま、演技が出来ているとは思えなかった。「いいから早く入れ」と短く言うと、不安そうな足音を立て、そろそろと月原秋は部屋に入ってくる。
 その背後に立つ。いま月原秋の前に立てばぼろが出る。それほどまでに動揺している自分を意識する。
「福田さんは?」
 秋の呟く。誰も答えない。くそ、しっかりしろ。今は演じろ。
「福田とかいう小僧の暴走だ」
 邑崎は必死に言葉を紡ぎだし、月原秋を誘導するようにベッドルームの前に立つ。
 目の前で起こっている光景に絶句する月原秋。でもこれは予定調和。出来レースの茶番劇なのである。
 そのはずだ。邑崎はその場にいる予定はなかったが、星名ひゆりが福田に襲われるシナリオは、発生するしないはあったとしても、確かに用意されていたシナリオ。
 朝日が差し込み、まるで理想的に描かれた絵画のように明るく美しいと形容できるベッドルーム内に、福田に羽交い絞めにされ、ナイフを突きつけられる星名ひゆりの姿。
 福田は気の狂ってしまった様子を演じ、星名ひゆりは怯えて悲鳴を上げる演技をしている。
「やっと戻ってきやがったな、アルバイト」
 福田が人の変ってしまったような声を出す。細かいセリフは定められている訳ではない。だが、場面の主旨は存在する。これまでのシナリオで少なからず親睦を深めた星名ひゆりの危機に対し、月原秋がどう反応を示すか。その診断のために各々のセリフは随時オペレータより決められ、オペレータから通信がなければ演技者たちが不自然な間が開かないように相応しいセリフを吐く。
 福田が取り乱して見せ、ナイフを振り回してみせ、月原秋に恨みの言葉を投げつける。
 星名ひゆりは弱肉強食の搾取される側の小動物のように怯え、警戒し、悲鳴を上げる。
 混乱するこの現状を、邑崎は呆然と眺めていた。演劇を眺める観客のように、ただ視界に流れ込んでくる情報を取り込んでいく。
 オペレータに指示をされ、何らかのセリフを吐いた気がするが上の空だった。
 邑崎が関わったのは、なにも知らない凛子がベッドルームで怯えていることを気に掛け、呼び寄せるときにのみで、それ以外は自分がこのC級ホラー映画の登場人物だということを忘れ去っていた。
 音声が低く、聞き取りにくい人形劇のようだった。子供だまし。誰かに媚るような演劇は、大人が見れば失笑ものである。
「ちくしょう!」
 それまでで一番大音響の怒号が聞こえ、邑崎は現実に回帰した。
 回帰した現実は相変わらず出来の悪いアニメの様相であったが、少なくとも自分が子供だましのアニメの登場人物であることを思い出した。
 邑崎は必死に状況を把握した。
「黙れ、クソったれ! 甘ったれたことを抜かすな! 何が傷ついただ。何が愚か者の集団だ!」
 邑崎は目を見張った。月原秋が血走った目で福田に怒鳴り散らしている。
 驚いたが、意外には思わない。これまで良く我慢した。理性とは裏返せばストレスだ。極限状態に置かれた場合、人は取り乱さなければ人格を保てないように出来ている。いままで抑えた分の反動で、取り乱し様も大きくなる。
 ただ、月原秋の懐のナイフは少々鋭い。調和を整えるために常に出っ張りを削り取っているこいつのナイフ。
「いいのか! この女を殺すぞ!」
 福田がナイフを掲げて威嚇して見せるが、火が点いた月原秋はもう止まらない。
「ふざけるな! 僕がお前を殺してやる。その子に傷ひとつでもつけたら、何があろうとお前を殺してやる。逃げても、絶対に見つけて殺してやる。謝っても絶対殺してやる」
 坦々とした口調。撫でるようにゆっくりと肌を切り裂いているようだった。
 秋はじりじりと福田との距離を縮めていく。恐怖感が麻痺している。オペレータから状況を見守れと指令が入る。
 この中で確かな事がひとつある。
 どんな言葉を吐こうとも、どんな態度を示そうとも、リアルなのは月原秋だけである。
「いいか、一度だけしか言わないぞ。ここでその子を放して反省するか、傷つけて逃げるかの二つだ。お前はきっと逃げる方を選ぶ。そしたら、お前は一人だ。よく知らない、誰一人も居ないこの船内を逃げる羽目になるんだ。知ってるか? この船に残ってるのはもう、僕たちだけだ。他には誰も居ない。みんな居なくなった。誰も助けないし、誰も見ていない。そして、僕は逃げたお前を追いかける。勝手知ったる船だ。誰にも僕は見つけられない。僕はすぐにお前を見つけて、極上の苦痛を与えてやる。いいか、お前はその子を傷つけた瞬間から、僕達しかいないこの船で、たった一人の孤独で、自分が次の失踪者になる恐怖と、僕が殺しに来る恐怖を感じ続けながら逃げ回るんだ」
 なんてやつだ。どんだけ暗い人生を歩んだらこんな言葉が出てくるんだ。ただ一人台本を持たない生の言葉だ。
 月原秋の背中から透けて見える暗闇。
 うず巻いて、虚数空間に消えていく暗闇は際限なく現れては吸い込まれていく。
「……この野郎。お前、絶対後悔させてやるぞ。俺にそんな口を利いたお前だけは絶対に許さない。憶えておけ、俺は、お前だけは許さない」
 オペレータからの指示どおりのセリフ。オペレータからの指示通りの行動を次に起こす。
 福田は星名ひゆりを解放すると、逃げ出すように部屋を出て行った。
 取り残され、沈黙を守る演技者たちと主人公。
 これが現実だったら、月原秋の行動は正しかったのか。
 邑崎には分からなかった。
 
 
 
 月原秋の心境は計り知れない。演技者もこのどろどろした汚泥の熱湯風呂に漬かっている状態は耐え切れない苦痛だ。
 これを現実だと疑惑いもしない月原秋のストレスは想像に耐えない。
 次のシナリオは船内の捜索。月原秋は船内を見回って、誰もいない事実を知っている。本当は誰もいなくなってなどいない事実を知っているのは月原秋と凛子を覗く全員。
 船内を月原秋と一緒に見回った。実際、人々が消失した後の船内を見渡すのは邑崎も初めてだ。これが作り物だとは思えない閑散とした船内。船内にいた乗客やクルーたちはどこかに隠れているはずだ。だが普通に探し回る限り人の気配など微塵も感じなかった。
 恐らくは船底にある機関部に演技者たちは集まっている。邑崎たちが唯一立ち入れなかった場所である。
『個人指令:邑崎さん、船内捜索のあと白波瀬さんと消失してください。タイミングはお任せしますが、月原秋と別行動を提案するのがよいでしょう』
 指令は邑崎たちが食料や備品を集め、フォーチュンホールに向かう途中で入った。
 程なくして星名ひゆりが遅れだし、月原秋がそれに付き合ったため、別行動になった。
 星名ひゆりが通信を受け、気を利かせたのか。
 月原秋と星名ひゆりを置いて、一足先にフォーチュンホールにたどり着いた邑崎と凛子、そして榊巻と赤嶺。
 邑崎は榊巻に声を掛けた。
「俺と凛子はこのまま無線機を捜しにいく」
 あくまで演技をした。
「分かりました。伝えておきます」
 榊巻も知っている。月原秋に聞かれる心配はない。だが、演技を続けていると、もう演技をし続けたほうが楽になるのである。月原秋の気配を心配する必要もない。
「凛子、いくぞ」
 真夏の蒸し暑い船内を歩き回り、凛子も疲弊している。
 座り込んでいる凛子の腕を引っ張り、無理矢理立たせる。
 物言わずフォーチュンホールを出ると、オペレータから指示がある。
『個人指令:プロムナードデッキを避けて、ショッピングエリアに向かってください。機関室は満員ですので、ショッピングエリアの飲食店「ラ・プール」のカラオケルームに向かってください』
 カラオケルームか。防音設備が整っているからだろうか。
 これからのシナリオに邑崎は登場しない。いや、正確に言えば登場予定はある。ただし、邑崎の描き出したシナリオの中だけに。
「どうして誰もいないの?」
 後方を付いてきた凛子が細い声を出した。ずっと沈黙を守っていた凛子。なにもしゃべるなと邑崎が言い聞かせていたからだが、なにも知らない凛子にとって沈黙は苦痛以外の何者でもなかっただろう。
「心配するな。ちゃんと説明してやる。これから向かう先でちょっと休め。話はその後だ」
 凛子はこくりと頷いた。疲れているのだ。今は疑問より先に睡眠欲だろう。
 これから月原秋は一人、一人と人がいなくなっていく恐怖に怯えながらより濃い極限へと誘われていく。アザー編の決行が決まった時点で、エンディングはひとつだけだ。不確定要素のバッドエンディングを除けば、最高にくだらないあのエンディングへ向かう。
『個人連絡:本部は邑崎さんと白波瀬さんの成果を評価しています。直前に急遽シナリオに組み込まれてご苦労があったと思いますが、ことのほか重要な役割を演じきりました。後ほどの表彰式を期待していてください』
 表彰式? 一体何のことだ。
 分からなかったが、質問し返すのは愚の骨頂だし、興味もない。
「なんか、恐いです」
 凛子が心なしか震えた声を出す。日中、真夏の日差しで明るい船内。ただし、人は誰も居らず廃墟のような印象。世界から人が誰もいなくなってしまったようだ。恐怖を覚えても無理ない。
「一緒に寝てやる。心配するな」
 凛子は顔を上げた。
「本当ですか?」
 なんだ、その嬉しそうな顔は。
 でも、お前は万里夫が――そこまで考えて、叩くように頬を撫でた。
「本当だ。一緒に寝よう」
 最後の日だ。
 俺にとって。
 お前と一緒に過ごすのも。
 これまでの俺の人生とも。
 いいかアルバイト君。選択を間違えるな。無数の選択が存在するが、素直な気持ちのまま選択して行けば、必ず生きてエンディングを迎えられる。
 間違えるな。選択肢の答えは簡単だが、間違えれば……。
 邑崎は振り返ると、凛子に微笑んでみせた。


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