桃色くも


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第十章 〔 実体 〕 


 緊張感に干渉されて、今だけ疲れや眠気が麻痺した。それは理解できた。後数時間の体力。気を抜けば、二日酔いを何倍にも下気分の悪さが襲ってくることは分かっている。
 秋はエキストラルームに戻ると、まだ起きていた邑崎に小山内から聞いたことを伝えた。傍では布団に包まったひゆりも耳を傾けていた。
「非常事態です。人が失踪しているのは間違いなく事実で、乗客からも何人かの失踪者が出ています。僕も笹川さんを見つけることが出来なかった」
 さすがに邑崎も深刻そうな顔をした。邑崎は今にも泣き出しそうなひゆりをちらりと見やると、唇を一度引き締めてから言った。
「よくうろたえずに教えてくれたな。それだけ冷静を保てるなんて大したもんだ」
 邑崎はそう言ったが、そう言った邑崎こそ落ち着いている。邑崎の言葉は、秋への気遣いだ。これから問題児軍団に事態を話して聞かせなくてはならない。果たして落ち着いていられるか心配だったが、事情を知っている邑崎は秋に自信を持たせようとしたのだ。
 悟った秋であるが、指摘している暇は無い。
「エキストラルームに置かれた備蓄食料や、非常用の毛布はすべてダイニングルームに運ばれます。この部屋はクルーたちであわただしくなるので、すぐに移動してください」
 どこに? などと邑崎は聞かなかった。即座に「この姉ちゃんの部屋しかなさそうだな」と結論付けた。ひゆりの部屋である。非常事態に空き部屋の鍵を用意している余裕はクルーたちには無い。今いける部屋は確かにひゆりの部屋だけだ。
 緊急性を即座に理解してくれた邑崎に感謝したかった。いや、おそらくもう気づいていたのだ。事態は深刻であると。
「一緒に行きましょう。僕はみんなをひゆりさんの部屋に連れて行きます。そこでもう一度今の話をします」
「そうだな。それなら俺もフォローしてやれることもあるだろう」
 秋は邑崎が好きではない。だが、その言葉がどれほど秋を心強く思わせたか。荷が重いのだ。一人では背負いきれない重圧だ。これから誰もが他人など気遣う余裕も無いほどに切羽詰ることになる。おそらく、この邑崎もだ。どこまで秋の面倒ごとに付き合ってくれるか分からないが、今は心強い味方である。
 邑崎は凛子を起こそうとしたが、不機嫌そうに身をよじらせるだけだ。諦めて、邑崎は凛子を担いだ。
 秋はひゆりを見た。ひゆりは不安そうに眉をひそめている。
「星名さん、心配ありません。僕の言うとおりにしてください。絶対に僕から――僕だけじゃなくて、知っている人のそばから離れないようにしてください」
「はい」
 ひゆりは意外としっかり答えた。気丈に振舞っている。ひゆりも秋に気遣っている。それに気づいて、秋は顔の緊張を緩めて、無理に微笑んで見せると、ひかりも微笑を返した。
「行くぞ、アルバイト君」
 邑崎が言ったので、秋が立ち上がるとひゆりも立ち上がった。
 
 
 
 ひゆりのデラックスルームに向かう途中、メインエントランスを忙しく歩き回るクルーの姿を見た。直前まで明かりを落とされていたホールは、昼間のように明るい。だが、人が少ない。乗り込むときにはこのエントランスには埋めつくほどの乗客とクルーたちがいた。秋たちがエントランスを横切る際、すれ違ったクルーの数、三名。
 錯覚を起こす。広いメインエントランスで、たった三名のクルーがあわただしく動き回ろうと、重大な危機感を覚えるような光景ではない。
 分かっているのだ。少ないのは、人数がいないから。失踪してしまったから。動き回るクルーも恐怖と戦いながら、どうにか自分の職務を全うしているのだ。本当は安全地帯で息を潜めていたいに違いない。
 秋たち四人は、一言も口を利かずにひゆりの部屋に向かった。部屋にたどり着くと、邑崎はひゆりに断ってベッドに凛子を寝かせた。
 デラックスルームは居間と寝室の二部屋からなっており、寝室にはベッドが二台ある。片方のベッドに凛子を寝かせ、多大な意志の力を要して、秋は大学生たちを呼びに向かった。
 時刻は深夜二時近くなる。眠っているに違いない。どんな敵意をむけられるのか。考えるだけで胃が痛くなる。
 割合気が楽な赤嶺未来の部屋の前に立ち、インターフォンを押した。しばらく反応が無かったので、秋はもしや赤嶺未来まで、と不安に思ったころ、ドアが開いた。
「あ、赤嶺さん」
 明らかに眠っていたと分かる眠気眼で、ぼんやりと「由利子見つかった?」と赤嶺が尋ねてきたが、秋が首を横に振る。
「実は、そのことも含めて、お話があるんです。眠ってたところ無理やり起こしてしまっても申し訳ないんですが、星名さんの部屋に来て頂けませんか? 皆さんもこれから呼ぼうと思ってるんです」
「今から?」
 さすがに怪訝そうな顔を隠しもしない赤嶺。
「大事な話があるんです。こんな時間の無理を承知のお願いに察してください」
「何の話なの?」
「部屋に来ていただいてからお話します」
 赤嶺はふうとため息を漏らしてから、頬に手を当ててしばらく停止した後「分かった。十分後に行くから」と承諾した。
 赤嶺の次は、榊巻の部屋に向かった。榊巻が部屋から出てくるまでに五回もインターフォンを鳴らさなければならなかった。一回一回が榊巻の怒りを増長させる思いがして、秋は本当に自分の役回りが嫌で嫌で仕方がなくなった。
 榊巻は鬼のような形相で部屋のドアを開けると、少しでも秋が変なことを言えば、すぐにでも怒鳴り散らして秋を殴りつけようという殺気を全身から発しているようだった。
「夜分遅く、何度もすみません。実はちょっとお話がありまして」
 榊巻は物言わず、充血した目で秋を睨みつけている。暗がりから覗く榊巻の顔は末恐ろしく、間違えば本当に命の危険を感じた。
「本当に申し訳ないのですが、至急、星名さんの部屋まで来ていただきたいんです」
 早口でそう言った。その口調で榊巻に察して欲しい。そう願った。
「分かったよ。行けばいいんだろ。ちゃんとした事情があるんだろうな?」
 割と素直な反応に秋は内心ほっとする。
「ええ。出来るだけ急いでください」
「十分で行く」
 そう言って榊巻は扉を閉めた。
 重い溜息を吐いて、次は問題の福田の部屋に向かおうと振り返ったとき、秋は驚愕して飛び跳ねた。
 振り返った先に、すぐ目の前に、物言わず福田が立って秋を睨みつけていたのだ。秋は弾き飛ばされたように距離を置く。
「ふ、福田さん」
 福田はまるで鬼の角が生えたかのように額が腫れ上がっていた。赤く充血した双眸を恨めしそうに三白眼で睨みつけてくる。暗がりにその様子は秋を戦慄させた。
「福田さんにもお話が」
 勤めて冷静を装って口を開くが、福田は口をだらしなく半開きにしたまま、獣のように秋を睨みつけてくるばかり。
「あの」と秋が再び口を開こうとしたとき、福田がくるりと背を向けて、物言わず歩き出した。
「福田さん」
 呼び止めたが振り返りもせず、福田はおもむろに星名ひゆりの扉の前に立つと、インターフォンも鳴らさずに室内に入って行った。
 秋と榊巻の話を聞いていたのか、ひゆりの部屋に集合してくれという意思は伝わっていたらしい。
 秋は全身に嫌な汗を掻きながら、自らもひゆりの部屋に向かった。
 
 
 
 二十分ほどして、赤嶺未来と榊巻伸二がひゆりの部屋に訪れると、そこにいた邑崎を不審がった。二人とも邑崎の顔を知っているはずだ。加賀山瑞穂に迷惑をかけたときに、邑崎に一度窘められているからだ。
「事情をお話します。皆さん、どこかへ腰掛けてください」
 デラックスルームはリビングとベッドルームに別れており、ベッドルームに寝かせている凛子以外はリビングに集まった。邑崎はリビングからベッドルームに寝る凛子を見渡せるドリンクカウンターに腰掛け、リビングを半周するソファーに榊巻、赤嶺、福田、ひゆりが座った。秋は四人の大学生を正面に、邑崎を背後にするように立っている。
 赤嶺が不安げに秋を見ている。榊巻の表情は険しい。福田は伏せた顔を起こそうとはせず、ひゆりも唇を引き締めて秋を注目している。
 緊張と戸惑い。あまり人に注目される場所でしゃべったりしたこともなければ、こんな重大な責務を背負わされたこともない。果たして堂言葉を吐けば、みんなをあわてさせたり、取り乱させたりせずに説明できるのか。
「俺がフォローするから、好きなように喋れ」
 背後の邑崎が呟くように言った言葉に、秋は意を決する。
「夜分にお呼びだてしてすみません。実は、どうしてもお話しなければならない重要な事があります。どうか、冷静に訊いて欲しいのですが」
「いいから話せよ」
 榊巻が苛立った声を上げる。
「由利子のことなの?」
 赤嶺の声は震え、今にも泣き出しそうだ。
「由利子に何かあったの? ねえ、由利子はどこにいるの?」
「うるせえ」
 榊巻が赤嶺に怒鳴ると、理不尽そうな赤嶺は顔を真っ赤にして下唇を咀んだ。
「由利子が心配じゃないの!?」
「うるせえって!」
「なんなの! 何でいつもあんたは頭ごなしに怒鳴りつけるわけ!?」
「ああっ!?」
 榊巻がおもむろに赤嶺の髪の毛を掴むと、乱暴に振り回した。
「てめえはいつもぎゃあぎゃあ騒ぎ立てやがって。てめえがそうやって身勝手にキンキン声を立てるから、いつも俺が苛立ってんのがわからねえのか」
「痛い痛い」
 ひゆりが恐ろしげに二人を見ている。
 なんなんだと、秋も戸惑った。冒頭からこの混乱振り。
「落ち着いてください。どうか、僕の話を」
 落ち着いてください、などという単語は、実はこの場では相応しくなかった。俺は落ち着いていると、榊巻の感情を逆撫でしただけだ。感情的になった榊巻は、悲鳴を上げる赤嶺の髪の毛を掴んだまま立ち上がると、そのまま思い切り投げ飛ばした。秋は慌てて飛んできた赤嶺をキャッチした。
 赤嶺は子供のように嗚咽を漏らしながら泣き出し、榊巻は鬼のような顔のまま、ソファーに腰を下ろした。
 ひゆりが慌てて赤嶺の傍により、二言三言声を掛けてなだめる。
 秋は愕然として口を開くことも忘れてしまった。なんなんだ、この現状は。これを秋にどうしろというのだろう。
 榊巻は不機嫌そうに手をも見合わせている。ひゆりが赤嶺の肩を抱いて同じソファーに座ると、ひゆりは視線で話の続きを促した。
「……僕がお話したかったのは」
 そう口を開いたとたん、榊巻が「めそめそしてんじゃねえ!」と、傍にあったクッションを思い切り赤嶺に投げつけた。ところが、クッションは方向をそれ、ひゆりの顔面に当たった。ばし、と鞭打つような音がして、ひゆりの首から上が弾けると、ひゆりは溜まらず顔面を両手で覆って呻いた。
 びりびりと、秋の感情が静電気を帯びた。秋の胸の奥に或る水溜りが静電気で熱を帯び、ふつふつと沸騰し始める。
 秋の脳裏に、榊巻を押さえつけ、顔面に何度も拳を打ち込む映像が浮かぶ。
「よせ」
 背後から、秋の肩を掴んで邑崎が呟いた。我に返る秋。振り返ると無表情の邑崎の顔。まさか、背後から秋の感情を悟ったとでも言うのか。
 秋はひとつ深呼吸をする。ひゆりを見ると、酷く疲れはてたようにうなだれ、榊巻はばつが悪そうに顔を外らしている。
 落ち着け。取り乱すな。感情を抑えろ。
 呪文のように胸の中で繰り返す秋。
「僕の話は、今この客船内で起きている異常事態についてです」
 榊巻が秋を見た。顔を伏せていた赤嶺さえ、顔を勢いよく上げて秋を見た。その先に或る福田の様子が変らないことに、秋は一抹の不安を覚えつつ、話を続けた。
「実は、いま客船内で、クルーから失踪者が出ています」
「失踪者?」
「そうです。さきほど、叔父さん――小山内先生より聞いた話に寄れば、500人居たクルーが、いまは150人程度しか残っていないと」
「なんだそれは。どういう意味だ」
 榊巻が目をむいて腰を上げる。秋はひるむ気持ちを抑えて話を続ける。
「居なくなったクルーの350名がどこに行ってしまったのか、まったく分かりませんし、原因も分かりません。ただ、キャプテンは船舶を安全な海域で停止させ、救助要請を出すことに決めたそうです」
「救助? まさか、俺たちは難破したって言ってるのか?」
「そうです。これ以上、クルーがいなくなると航海不能に陥るそうです。船が制御不能になる前に停止させ、海上保安庁の救助船を待つそうです」
「お前、なに言ってんだ? なんでクルーが居なくなるんだよ」
 榊巻はまるで喧嘩腰で秋に詰め寄ってくる。
「だから、原因は分かりません。分かるのは失踪者が多数出ていることだけです」
「由利子は!?」
 赤嶺が悲鳴のような声で訊ねてくる。秋は深重に言葉を選んだ。
「分かりません。僕が捜した限りでは見つけることは出来ませんでした」
 そう答えた途端、赤嶺は目を剥いて、眉をへの字にゆがめると、見る見る青ざめていった。人が戦慄して顔面蒼白になる姿を目の当たりにし、秋は恐ろしく思った。
「なんでクルーが居なくなるんだ。救命艇で先に逃げたんじゃないのか」
 榊巻が詰め寄ってくるが、だから原因は分からないといってるじゃないか、と怒鳴りつけたい気持ちを抑えて「分かりません」と答える。
「アルバイトじゃ話にならねえよ。先生はどうした。どうしてここに居ない?」
「小山内先生は、今後の対策のためにオーナーやキャプテンと一緒にいます」
「生徒の俺たちを放っておいてか?」
「心配なさって、僕に伝言を頼んだんです」
「なんじゃそりゃ。先生は俺たちよりも船が大事ってか?」
「そうじゃありません。先生はオーナーやキャプテンの友人なんです。傍にいて、クルーやゲストたちを支えようと」
「最低よ」
 赤嶺が暗い声を出した。
「だって、由利子だっていなくなってるのに、先生は私たちのことより偉い人たちのことを優先したんでしょ」
「違います。先生は皆さんのために、避難場所の確保とか、食料の確保などに翻弄なさってるんです」
「詭弁は聞きたくない」
 赤嶺は頭を振って、秋の言葉を拒否した。
「それより、クルーは何でいなくなったんだよ」
 同じことを何度も訊いてくる榊巻。何度も答えている。どうして理解しないのか。
「失踪の原因は分かりません。ただ、これ以上の被害を出さないためにーー」
「てめえ秋バイトだろうが。今すぐ責任者のところに行って原因を聞いて来い。それから、いつになったら港に着くのかも訊いて来い」
 船は停止して、救助を待つと説明したのに。
 秋は眉間に寄りそうな皺を必死に堪えながら口を開く。
「小山内先生の指示は、皆さんが集まって、ダイニングルームに非難するようにとのことです。ゲストとクルーは、船が停止した後、全員ダイニングルームに非難して、救助を待つそうです。そこには先生もいると思いますし、榊巻さんのお聞きになりたいことはダイニングルームでキャプテンから説明があると思います」
「思いますだと?」
 榊巻が憤怒の様子で、秋の胸倉を掴んで締め上げた。
「お前の意見なんてどうでもいいんだよ」
 秋の言葉尻を持ち上げて、言いがかりをつけてくる。感情の捌け口にされたほうは堪らない。
 榊巻は胸倉を掴み上げたまま、秋を壁に押し付ける。
 赤嶺の非難の声を無視して、榊巻は凄んでくる。
「先生を連れてこい。話はそれからだ」
「だから先生は」
「口答えするな。俺に口答えするな。次に口答えしたら、こんなに優しくねえぞ、俺は」
 くそ。腹立たしい。思い切り股間を蹴り上げてやろうか。海の男の気性の荒さを知ってるか? 縄張りを守るために、海の男は拳で戦いあっていることを知ってるか? そこで秋が何年も生きてきたことをお前は知ってるのか?
 秋は拳を固めると、榊巻の肝臓を叩こうと腕を引いたとき、拳が突き上げられるより早く、邑崎の腕が榊巻の腕を掴んだ。
 途端、榊巻が悲鳴を上げて秋から手を離した。榊巻は邑崎に左手の親指を掴まれ、ねじり上げられている。今にも泣き出しそうに悲鳴を上げる榊巻を見て胸が透いたが、一瞬後には不安になる。まさか、そのまま親指を折ったりはしまいか。
「お前らの先生も、お前ら四人の面倒だけ見てりゃ、そりゃ楽だろうよ。だけど、それよりも重大な責任を背負った場所に居て、最悪の事態を防ごうと懸命に走り回ってる大先生に対して、お前らは少しも尊敬の念を抱かねえのか?」
 邑崎は言いながら、放り投げるように榊巻をソファーに押し戻して座らせた。
「俺も大人の一人なんで言わせてもらうぜ。パニックっていうのは伝染するんだよ。お前らのうち一人でも取り乱してみろ。周りに居る全員が感情的になって、自分勝手な行動を取り始めたりしたら、もう収拾はつかねねえ。お前みたいに暴力を振るい始めるやつ、泣き叫ぶやつ、誰かに八つ当たりして非難の声を上げるやつ、救命艇を勝手に引っ張り出して、我先に逃げ出そうとするやつ。様々だろうが、最悪は死を身近に感じて、性的衝動に走る人間や、混乱に乗じて窃盗や破壊衝動に駆られる人間も居るってことだ。その引き金になりたいか? お前が一人利己的な行動をしたせいで、その他大勢が混乱をきたして、殺しあうような現状の原因になりたいか?」
「そんなことになるわけないだろ」
「なるんだよ。いま仮に俺が利己的な考えに支配されたとしたら、そんな大混乱の因子になりそうなお前は、早々にこの場で殺しておいたほうが良いと判断するぜ。自分が殺される前にな。そう考えて、何か不自然か? 四方八方を海に囲まれた孤立無援の状態で、誰も助けてくれない状況で、攻撃をしてくる人間に対して、自分を守るために相手を殺して何が悪い」
 榊巻が唇をわななかせ、微かに邑崎に距離を置いた。邑崎が赤嶺を見ると、赤嶺は悲鳴を上げてひゆりに抱きついた。
「このアルバイト君の話は俺も聞いておきたい。今後冷静な行動をするためにな。邪魔するやつは許さねえ」
 邑崎がそう言って、定位置のドリンクカウンターに腰掛けた。榊巻は、ねじり上げられた親指をさすりながら、悔しそうであるが落ち着きを取り戻しているようだ。
 恐怖と痛みで、人はすべき行動としてはならない行動を覚えていく。そんなもの、二十歳を越えた成人に言って聞かせることではないはずだが。
「館内放送で、ダイニングルームへ集合するようにキャプテンから指示があるはずです。それまではここに皆さんじっとしていてください。失踪者が多発している事実は本当です。ゲストからも何人か出ています。事態は深刻なんです。どうかみなさん、気をしっかり持ってください」
 誰も答えなかった。ひゆりさえ顔を伏せたままだ。クッションをぶつけられた事がそれほどにショックだったのか。
 ふと振り返って邑崎を見る。邑崎は辛そうに額を撫でていた。邑崎も一つ一つの行動に体力と神経を削がれているのだ。頼り切っていたら邑崎でさえ、いつ暴発するか分からない。
 秋は気づく。邑崎のフォローは大学生たちの沈静が目的ではない。
 秋が感情的になり、耐え切れず暴発しそうなとき、邑崎はフォローを入れてくれたのだ。感情的になるな。気をしっかり持て。そういうメッセージを含んでいる。
 秋は地べたに座り込んだ。
 しばらく誰も口を開かなかった。
 ふと顔を上げると、榊巻はテーブルにつっぺしており、赤嶺もひゆりに凭れるように寝息を立てていた。ひゆりは薄くなった目で秋を見ていた。ひゆりの向こう側に居る福田は変らない体制で顔を伏せており、眠っているのかどうか不明だ。
 視線を邑崎に転じると、カウンターに肩肘を着いたまま、邑崎は目を閉じている。
 一時の安息かもしれない。秋は時計を見る。
 午前二時半。夜明けまではあと三時間程度。救助船が来るのは何時間後になるのだろうか。船はもう泊まったのか。ダイニングルームへの非難の段取りはもう済んでいるのか。キャプテンからの館内放送は何時ごろなのか。
 秋は足腰に鞭打って立ち上がる。その様子をひゆりが見ている。秋は目配せでひゆりに心配ないよと伝えると、隣のベッドルームに入った。中では薄暗い照明の中、凛子が寝息を立てている。その向こう側の窓の向こうには漆黒の海。空と海の境目は分からない。ただ、秋は知っている。あの漆黒は決して優しくない事を。
 秋は戦慄を覚えて身震いした。酷く気分が悪い。休まなければ身が持たないが、眠ってしまったら館内放送を聞き逃してしまう。せめて、ダイニングルームへの移動が終わるまでは目を開けていなければ。
 凛子が眠るベッドの反対側のベッドに腰掛けながら、秋は溜息を漏らした。
 その時、ベッドルームが少し暗くなった気がした。ベッドルームはリビングからの木漏れ日によって明るさを保っていたが、入り口に誰か立ったらしい。秋は入り口に視線を転じると、リビングの照明を背に、入り口に立っているシルエットが見えた。
「秋さん……」
 押し殺したようなひゆりの声。
 どうしたんだろう。そう思うよりも、ひゆりに傍に来て欲しいと思った。ひゆりを腕に抱き、あるいはひゆりの腕に抱かれ、眠りに落ちる事が何よりの幸福に思えた。
「大丈夫……ですか?」
 ひゆりが小さな声を上げる。大丈夫だろうか。自分の身体。それからこれからのこと。
 頭が回らない。全身を簀巻き状に束縛されている不快感と、緊張と恐れと不安。感情だけがぽっかりと大きく、思考は停止している。嫌らしい妄想ばかりが頭を駆け巡り、現実から逃避を試みようとしている。
「どうしたんですか?」
 言葉を吐く事が億劫だ。辛うじてつむぎだした言葉に、どうやらひゆりは安心してくれたようだ。
 ひゆりはベッドルームに入ってくると、秋の傍に腰掛けた。薄暗いベッドルームで、近づいてきたひゆりの顔。リビングからの光で、ひゆりの双眸が濡れたように煌めいている。
 抱き寄せてもいいのだろうか。そのままベッドに押し倒し、唇を重ね合わせてもひゆりは受け入れてくれるのだろうか。ひゆりの服の中に手を入れ、体中を撫で付けてもーー。
「星名さん」
「はい」
 秋はひゆりの瞳を見る。その奥に見える自分の顔を窺い見る。
「僕はどんな顔をしてますか?」
「疲れてます。辛そうです」
 慰めてくれますか? そうは言えなかった。秋の疲労は、ただでさえ薄っぺらな秋の理性に亀裂を入れる。
 痛みを知らない子供? 本当はひゆりも分かっているのではないか。男と女の関係だ。お互いを求め合うのが正常だ。
 秋はひゆりから視線を外らす。外らした先に、凛子の寝顔。薄暗い室内に凛子の横顔は彫刻のように美しく、少し濡れたように見える唇は魅惑的だった。あの柔らかそうな髪を撫で、唇を押し当て、肉欲の限りに……。
 ひゆりに対して抱く欲情は、そのまま凛子にも向かう。これは紛れもなく野生の本能だ。人の感情ではない。
「ひゆりさん、このベッドで少しお休みになられてください。僕は館内放送を待ってます」
「でも……」
「お願いです、休んでください」
 秋は憤りを、自分の右手で解消することを選んだ。ひゆりが寝静まってから、独りで自分の猛獣を吐き出さなければならない。
「寝るまで……」
 ひゆりが秋の腕を掴んだ。
「寝るまで、傍に居てくれますか?」
 ひゆりが悲痛そうに訴えた。ひゆりから伝わる体温が、秋の下半身を膨張させる。
「傍に居るだけでいいの?」
 秋が訊ね返した言葉には別の意味も含んだ。傍に居るだけ。それ以上の行為は求めないのか。
 ひゆりは頷いた。それは肯定か否定か。
 或いは、秋が求めれば、ひゆりは受け入れてくれるのか。
 ひゆりは布団にもぐりこんだ。秋はベッドの横に座り込む。布団に埋もれたひゆりは、身体を秋のほうへ向け、枕の上にほほを乗せている。
 何も言わず、秋を見ている。胸が苦しくなる。愛おしいのだ。もう、嘘は吐けない。胸の中にある心臓が、ドクンドクンとシグナルを送る。
 この人を守れと。
 ひゆりの目は、徐々に閉じられていくが、時々気づいたように目を開く。まどろみと現を行ったり来たりしながら、ひゆりは徐々に夢の中へうずもれていった。完全に瞳が閉じられると、秋はしばらくひゆりの寝顔を見つめた。
 ひゆりの髪を撫でても、罪にはならないだろうか。
 ひゆりの唇に触れることは。ひゆりの頬に触れることは。
「感情的になっては駄目だ」
 秋はひとりごちた。欲情に身をゆだねることと、激昂に我を忘れることは同意義だ。理性の幕は一度破られれば、復活はしない。ひゆりの身体を求めることと、無様に狼狽えて、ひとり逃げようと海に身を投じることは同じこと。
「僕はまだ大丈夫だ」
 言い聞かせると、睡魔が襲ってきた。
 もう逆らえない。
 戦い続けても、勝てる見込みのない相手だ。だから「魔」なのだ。
 何時あきらめるか。それだけだ。
 もう、どうでもよい。
 秋はひゆりのベッドの傍らで、静かに瞳を閉じた。
 
 
 
 首筋に冷たいものを押し付けられ、秋は全身を凍りつかせて目を開いた。瞬間、酷い悪寒。なかなか焦点の合わない視界が重なり合うのを待ち、秋は周囲を窺った。
 しん、と静まり返り、まるで異世界空間と錯覚させるような薄暗闇と耳鳴り。
 秋が背後を振り返ると、ベッドに腰掛ける凛子がいた。凛子は秋と目が合うと、嫌そうに眉を顰めた。
 秋は腕時計を見る。深夜二時五十分。
 少し考え込む。長い時間かけてある結論に至ると、秋はうめき声を上げて天を仰いだ。
「どうしたの?」
 自分の声なのかも定かではない声で凛子に訊ねると、案の定、凛子は何も答えない。
 秋はリビングのほうに目を向ける。同じ体制で、カウンターに肩肘を付いて目を瞑る邑崎の姿。ただし、この位置からではリビングのソファーに座っているだろう大学生たちはうかがい知れない。
 一度はうんざりしたものの、凛子に起こされなければ船内アナウンスを聞き逃していたかもしれない。
「どうしたの?」
 再び訊ねたが、凛子は顔をそむけたまま答えない。ある意味、恐い。
 凛子の居るベッドと反対側のベッドに、ひゆりは寝息を立てていた。起こさないように静かに立ち上がる。全身が筋肉痛であるかのような重さが襲う。もっと休みたいが、小山内に頼まれたことは遂行しないとならない。小山内も疲れているはずだ。
 秋はリビングに向かった。リビングに入って、まず初めに戦慄することになる。全身の筋肉が一瞬にして硬直した。
 福田の血走った双眸が、秋を睨みつけていたからだ。
「起きてたんですか、福田さん」
 声を掛けたが、物言わず顔を外らす福田。
 秋は振り返ってベッドルームを見ると、いぶかしげに秋を見る凛子。どうしてみんな秋のことをそんな風に見るのか。
 榊巻も赤嶺もソファーにうずもれ寝息を立てている。
 秋は再び腕時計を見る。もうすぐ午前三時。船内放送はまだなのか。
「声がする……」
 おもむろに聞こえた声に、秋は声のほうを見た。赤嶺だった。眠っていなかったのか、虚ろな顔を持ち上げると、秋の腰付近を見ている。
「声?」
「大勢の……」
 そう言ったきり、赤嶺は泣き出しそうに口元をゆがめると、両手で顔を覆った。
「何ですか? 声が何ですか?」
 秋は不安になって訊ねる。赤嶺は両手で顔を覆ったまま、くぐもった声を出す。
「悲鳴とか、うめき声とか……。なに? 何が起きてるの?」
 声は静かだ。悲鳴を上げて取り乱したりする様子はない。
 幻聴だろうか。緊張と不安がありもしない声を聞かせるのか。
「モータ音とか、波が船に当たる音じゃないですか?」
 気休め程度だと思ったが、赤嶺は「本当?」と聞き返してくる。
「夜の船内はいろんな音が聞こえてくるんです。海鳥の泣き声、風の音。地上に居て耳にする音とは違う音が聞こえてくるから、あまり海に出なれてない人は音で不安になるといいます」
 赤嶺が顔面から手のひらをはがすと、にこりと笑った。
「ありがとう、秋くん。秋くんって、本当にいい人だよね」
 少なからず赤嶺の言葉はうれしかった。秋は少しの元気を取り戻す。
「少し、眠ってもいい?」
 赤嶺が訊ねたので、秋は少し笑って頷いた。
「秋くんはずっとここに居る? 起きてる?」
 不安なのか。不安な気持ちは良く分かる。
 ふと、ベッドルームのドアから顔を覗かせる凛子に気づいた。凛子はいぶかしげにリビングルームを覗き込んでいる。その視線の先には福田が居た。
 赤嶺も、福田に不穏な気配を感じているのだろうか。だから眠らなかったのか。
「起きてます。少なくとも、皆さんをダイニングルームに連れて行くまでは。そのときに起こしますから、どうぞ休んでください」
 赤嶺は「ありがとう」と消え入るような声を出すと、すぐに眠りにおちていった。
 振り返って凛子にも「僕が起きてるから、寝てて大丈夫だよ」と伝えると、凛子は嫌悪そうに後ずさりした。
 凛子は後ずさりしたまま、ベッドに戻る。ところが、戻ったのはひゆりのベッドたった。なんの戸惑いもなく、当たり前のようにひゆりのベッドに入り込んで行く。
 ひゆりが目を覚ました。ベッドにもぐりこんできた凛子に驚いた様子のひゆりであったが、秋と目が合って、秋が微笑んで見せると、ひゆりは何かを悟ったのか、自ら布団をはいで、凛子を招きいれた。
 凛子はひゆりに寄り添うように包まると、ひゆりも包み込むように布団を被せる。
 凛子はなぜ、ひゆりに寄り添うのか、秋には分からない。最初からひゆりに対しては心を開いていたとまでは言わないが、秋に対するように嫌悪感を向けたりしなかった。
 考えても分からないし、考えるのも億劫だったので、秋は地べたに座り込んで、船内放送を待った。
 どうやって眠気を乗り切るか、秋はそればかりを考えた。
 
 
 
 一時間経った。時刻は午前四時。そろそろ、東の空が白み始める頃だ。
 船内放送はまだなかった。苦痛なほど静寂の埋めるデラックスルームで、館内放送が聞こえてこないはずはない。
 嫌なイメージが浮かぶ。
 静寂は、このデラックスルームに限らず、今や客船全体を覆っているのではないだろうか。
 あるいは、すでに自分たちこそ行方不明者に数えられた失踪者なのではないのか。すでにこのデラックスルームは異世界に切り取られ、虚無ばかりの埋める虚数空間に漂っているのではないのか。
 あのデラックスルームの玄関の先は、深い暗闇の埋める永遠というなの宇宙空間。自分たちはこのデラックスルームで、孤独と恐怖に嘖まれながら、餓死を待つ運命なのか。
 恐ろしい想像を振り払おうとする。楽観的な想像をしようともがく。ところが、頭を埋めるのはバミューダトライアングルの伝説。或る海域では、船舶、航空機などの失踪が相次ぐ地帯がある。
 そしてそれは日本の海域にも存在する。
 はたして、自分たちは次元の境目に取り残されてしまったのか。
 誰もが寝静まるルーム内。起きているのは、おそらく秋だけである。すでに邑崎や大学生たちは二度とは目覚めないのではないのか。幾ら許し起こそうが、すでに息絶え、生存しているのは秋だけ。永遠の孤独ばかりが埋める窮屈な空間で、生きているのは秋だけ。
「あ」
 秋は声を上げてみる。それが唯一の現実との接点に思えた。そのとおり、現の抜けた幻想から秋は脱出した。現実が脳内に蘇る。
 ――気をしっかり持て。
 立ち上がって、伸びをしてみる。何をするのも苦痛が伴う。高熱を出したときの皮膚の不愉快さと、関節と筋肉の痛み。
 確認すべきか。デラックスルームを出て、ダイニングルームへ様子を見に行くべきか。
 秋は福田を見やる。変らぬ体制でうなだれており、顔は髪の毛に隠れて、起きているのか眠っているのか判別しにくい。
 誰もが寝静まっている場所で、福田とみんなを残して行くことに不安を感じた。邑崎を起こすか。邑崎に頼りすぎるのは駄目だ。邑崎が居なくなったら、秋こそ正気を保てるかどうか自信がない。
 ――邑崎が居なくなったら。
 恐ろしい想像だった。この窮屈で異常な空間に、邑崎が唯一の理性に思えたからだ。邑崎が暴発したら。そんな恐ろしい結末はごめんだ。
 待つしかない。この両目が何時まで開かれているかは分からないが、起きつづけて、船内放送を待つしかない。
 秋は天井を仰いだ。ぼんやりと天井を視線で嘗め尽くす。
 日が昇り、それが没むまでには、この異常な空間が嘘だったかのように、心地よいベッドの中に包まっていられるのだろうか。
 
 
 
 デラックスルームから望める窓が白み始めた。秋はぼんやりと白む窓の外ばかりを眺めていた。様々な想像が通り過ぎて行った気がするが、大半は覚えていない。
 窓の外を見てみようと立ち上がる。相変わらずの気分の悪さ。リビングの窓は大学生たちが座るソファーの向こう側になるので、秋はベッドルームに入った。
 布団に埋もれた凛子とひゆりの姿は見えない。
 ベッドルームの窓に踏み寄ると、窓の外を窺った。
 大海原が、夜の闇に染められた黒から、徐々に灰色に変る。海と空の境目が朧げに分かれ始める。
 秋はベッドに腰掛け、窓の外を見続けた。
 微かに湾曲する水平線の向こう側が仄かに青みを増す。扇状に青が伸びて行く。浮かぶ雲が温かみのあるオレンジ色に発光し始め、空に広がり続ける扇状の光は更に範囲を大きくする。
 遠くの海の輪郭が、光り始めた。紫とも、赤とも付かない色。
 夜明けである。
 ある一点が星の輝きのように光った。すると、地球の輪郭をなぞるように光が左右に伸びた。空に広がる碧い扇状の光の内側から、更に強い光の扇が、まるで空に解き放たれるかのように広がった。
 急速に広がり始める光。夜の支配は終わった。闇を追い払うかのように、直視できない光が支配を広める。
 美しかった。青と赤の色彩が絡まりあい、直線的に四方八方に放たれ、秋の顔に当たり、船の側面に当たり、地球に当たり、空に解き放たれ、世界が色彩りを取り戻す。
 世界が輪郭を取り戻す。曖昧からの遺脱。失われていたかのような世界が白日の下、明らかになる。
 背後の世界。振り返るまで確定しない世界さえも、存在を感じさせてくれる。
 秋は現実に立ち返る事が出来た。
 やらなくてはならないことは沢山ある。疲れたとうなだれている場合ではない。
 秋は振り返った。その先に、ひゆりが上半身を起こしてこちらを見ていた。窓から差す光を浴びて、気品すら感じさせる表情で秋を見ていた。
 どうして。
 どうして、こんな美しい人が、こんなところにいるのか。
 不可解に思った。
「秋さん、どうなったんですか?」
 どうなったか。
 どうなったのだろう。
「これから、ダイニングルームのほうへ様子を見てきます」
「ダイニングルームに?」
「昨夜も話しましたけど、避難場所になってるんです。船も停止したみたいですし、ちょっとどうなったのか見てこようと思います」
「大丈夫ですか?」
 大丈夫なのか。胸が重くなった。
「私もーー」
「大丈夫です。準備が整っているようだったら呼びに来ます」
 ひゆりの言葉に被せる様に言った。あまり不安がらせてはならない。いや、不安に感じて欲しくなかった。
 夜は明けた。暗闇の脅威はもうない。恐怖はなかった。
 ただし、不安はある。秋はリビングに入ると、気が重かったが邑崎を起こした。邑崎は物言わず、体制も変えずに目を開いた。しばらく考えにふけるように、眉間を指で押すと「どうした?」と訊ねてきた。
 邑崎は窓の外に眼をやり、それから秋を見る。途端に「寝てねえだろ、バカが」と悪態づいた。
「大丈夫です。それより、ちょっと様子を観てこようと思うんです。起きててもらえませんか?」
「なんで起きてる必要がある?」
 答えづらい質問だった。まごついていると、邑崎が「分かったよ」と多くは訊かなかった。
「だけど、様子を見にいくったって、お呼びが掛かるんじゃねえのか」
「館内放送がまだないんです」
「まだないのか?」
 邑崎は腕時計を見やる。
「朝五時か。緊急事態にしては反応が鈍いな」
 しばらく、邑崎は口元に手を当てて考え込む。待っていられず、秋は「よろしくお願いします」と告げて、デラックスルームを出た。
 そこの見慣れた廊下。決して世界は失われていない。エレベータホールに向かって歩き出した。
 エレベータで下った正面にあるメインエントランスに、ダイニングルームは隣接する。エレベータを降りて、メインエントランスに降り立つと、異常な静けさに、秋は忘れていた恐怖を思い出した。
 朝日のせいか、麻痺していた不安を思い出す。
 広いメインエントランスの絨毯には、様々な荷物が着き重ねられている。エキストラルームにあった備蓄食料や、寝具である。ところが、人の姿は一切ない。
 いや、少なからず予想していたはずだ。
「まさか」
 声に出さずには居られない。
 不安が実現する。
 秋は深重に足を踏み出す。インフォメーションカウンターに立ち寄る。誰の気配もしない。
 秋は天井を見上げた。メインエントランスから三階分が吹き抜けになっており、エントランスを囲むように通路が走り、ブティックやショップが並んでいる。もちろん、上方を顧みたところで、人の気配はなかった。
 シャンデリアが音もなく、光もなく佇んでいる。微動だにしないシャンデリアを見て、秋は改めて納得した。
 難破したのだ。
 秋は次に、ダイニングルームへの重たそうな両開きの扉を見た。映画館の出入り口のような印象。ゆっくりと扉へ向かう。
 常に周囲に気を配る。誰の気配もしないし、音もしない。海は凪いでおり、エンジンも止まっているはず。
 扉に手を伸ばす。それを押し開いたとき、ダイニングルーム内に淀んでいた悪意の溶け込んだ空気が秋の前髪を跳ね上げた。
 開いた先は薄暗く、ただっ広い空間が広がっていた。何もない。存在していたはずの椅子やテーブルは片付けられ、照明が落とされている。そこには何もない。東側の窓から朝日が差し込み、光の筋をつくって、窓の形にオレンジ色の絨毯を照らしている。
 昨夜、ここでキャプテン主催のパーティが開かれ、様々なエンターテイメントの催し物が行われていた。
 嘘のようだ。まるで廃墟のような印象。
 秋のつま先から脳天にかけて、言い表しようのない悪寒が襲った。それこそ無数の手で弄繰り回されているような恐怖が脳天を突き抜けたとき、膝の関節が抜けて、その場に尻餅を付いた。
「誰も居ない……」
 果たしてこれは現実か。
 ひゆりのデラックスルームで、ベッドにも凭れ掛けながら見ている夢の中ではないのか。
 途端に恐ろしくなる。
 逃げなければ。本能がそう命じた。
 逃げるって、どこに?
 自分が失踪する。
 早く隠れなければ、何らかの恐ろしい現象によって、自分が消滅する。それはすぐ背後まで迫っているかもしれない。振り向いたその先に、想像も付かない悍ましいものが牙をむき出して、秋を食らおうとしているかもしれない。
 深閑としたダイニングルームの一番奥にある闇。その片隅に燻っている闇から、全身が緑色づくめの妖怪が這い出てきて、四つんばいのまま這って来きたと思うと、それは恐ろしい速度で襲い掛かってくるかもしれない。
 秋は這うようにダイニングルームを後にすると、メインエントランスを全力で横切った。積まれていた備蓄食料に体当たりし、ダンボールと一緒に絨毯に転げながらもエレベータに走った。
「誰もない」
 秋は取り憑かれたように呟く。
 小山内も、キャプテンも、オーナーも、クルーも、ゲストの家族も、誰も居ない。どうして誰も居ない? 秋はずっと起きていたはずだ。陸に停泊したはずはないし、救命艇で海に脱出するにしたって騒々しく音がするはず。救命艇がまだ本当にデッキ上に残っているかどうかは分からない。だからって確認に向かう勇気はない。
 嫌な予感が秋を襲う。
 まさか、デラックスルームに残してきた大学生たち、邑崎や凛子までも消えうせては居ないだろうか。そうだとしたら、秋はたった一人、客船に取り残されたことになる。
 いや、想像したではないか。
 失踪したのは自分以外ではなくて、自分自身なのだと。
 他の人たちにとっては、秋は失踪者の一人。失踪した人間たちは、皆いまの秋と同じような状況に放り出されたのではないか。
 誰も居ない客船。
 エレベータは動いた。キャビンエリアまで秋を運ぶと、秋はまるで波打つ絨毯の上を走る心境でひゆりのデラックスルームに向かった。
 神に祈るような心境だった。お願いだから、居なくなっていませんように。たった一人残された孤独に耐え切れるとは思えない。
 秋が震えそうになる手をデラックスルームの取っ手に伸ばしたその時だった。
 悲鳴がした。
 秋は思わず、いま走ってきたエレベータホールを振り返った。
 いや違う。悲鳴は室内からだ。
 秋はドアノブをひねり、ドアを開けようとしたが開かない。キャビンの扉は自動ロックだ。カード型のキーを通すか、中から開くかしなければならない。
 再び悲鳴が聞こえた。誰の悲鳴か。ひゆりの悲鳴に聞こえたが、赤嶺のものかもしれない。
 中から家具がずれる音や、何かがぶつかり合う音がする。
 秋はドアを叩いた。
「開けてください。どうしたんですか?」
 中から秋のノックに対する反応はない。
 鳥肌が立った。今まさに、デラックスルーム内では失踪者が生まれようとしている。何が起きているのか。未知の怪物が、大口を開けて大学生たちを次々に食らうイメージが脳裏によぎる。思わずドアを叩く手が止まる。
 中の怪物に、自分の存在が気づかれる。気づかれたら次に襲われるのは自分。
 秋は扉から一歩二歩、後ずさりする。
 中から聞こえていた悲鳴がやんだ。ぶつかり合うような音もやみ、再び訪れる静寂。
 もう、みんな食われてしまったのか。
 怪物は食い終わった後の、血の滴る口元をぬぐっている。怪物はふと気づく。ドアの向こう側の気配。まだ人が残っている。怪物は一歩、足を踏み出す。
 足音がした。明らかに室内で玄関に向かってくる足音。
 口の中が一瞬に乾いた。気管が詰まって息を吸うとひゅうひゅう音がした。
 冷たい汗が全身を濡らしたとき、扉が開いた。
 開いた先に居たのは邑崎だった。
 秋の呆然とする心境をよそに、邑崎は秋を見るなり「早く入れ」と短く言った。
「なにか……」
「いいから早く入れ」
 不穏な空気。秋の想像は裏切られたものの、あの悲鳴と物音の説明はなされていない。
 秋がデラックスルームに入ると、不穏な空気はさらに濃くなった。
 榊巻と赤嶺が驚愕の表情で立ち上がっている。二人の視線はこちらには向かない。
 二人は同じ方向を見ている。心なしか目を剥いて、口を半開きにしている。視線の先はベッドルーム。
 リビングにいないのは、凛子とひゆり。ベッドルームに居る凛子とひゆりに何かあったのか。
 いや、福田が居ない。
「福田さんは?」
 秋の呟きに、邑崎が答えた。
「福田とかいう小僧の暴走だ」
 そう言って、焦ったようにベッドルームのドアの前に立つ。秋も追いかける。
「どうしたってんだ、福田」
 榊巻が呆然と声を出す。
 声の向けられた先に、秋は信じられないものを見る。
 朝日の差すベッドルーム。二台置かれたベッドとベッドの間。ひゆりが立っている。人を見下すように顎を突き上げている。
 凛子がベッドに隠れるように、ちょうど窓の下あたりで踞っているのが見えた。
 ひゆりは……一人で立っているわけではない。
 ひゆりの喉元に光る、銀色。
 果物ナイフ。
 認めたくなかったのだ。この現状を、どうにかして違うほうに解釈したかった。だから、意図的に秋はひゆりの喉元に付きたてられたナイフと、その背後にそびえる、四角い顔を認識くしたくなかった。
「なんで……」
 秋の呟きは、誰も答えてくれなかった。
「やっと戻ってきやがったな、アルバイト」
 名指しを受けて、秋は福田を見た。待っていた? 何のために?
 秋がふらっと、足を踏み出そうとすると、赤嶺が慌てて「気をつけて!」と叫ぶ。
 ナイフを持っている? 一体どういうことだ?
 福田が、持っているナイフを高く持ち上げ、ひゆりの頬に当てがった。ひゆりは顎をしゃくるように上向いて、視線だけはナイフを向いている。彼女は頬に押し付けられたナイフの冷たい感触に身震いした。
「一体どういうことだ、福田。なんでそんなこと」
 榊巻が上ずった声で訊ねると、福田は黒目と白目が分からないほどに充血した目を榊巻に向ける。榊巻は思わず後ずさりし、口を噤んだ。
「なんでそんなこと? なんでそんなことだと? 分からないのか? いや分かってるはずだ。分かってて『なんでそんなこと』とか言って、知らない振りしてるんだ」
 福田は声を押し殺したように、早口で言った。明らかに取り乱している。
「福田くん、そんなことはやめて! 理由は分からないけど、良くないよ!」
 赤嶺が気丈に説得にかかる。効果があったかどうか分からないが、福田は言った。
「なにが良くないんだ? 良くないことは分かってやってるんだよ。女の子に刃物を向けて脅したら、犯罪だって言うんだろ? 俺を馬鹿にしてるのか? やめて欲しいのなら、もっと気の利いた台詞を吐きやがれ」
「どうしたんですか、福田さん。なんで突然そんなことを」
「だまれ!」
 福田がひどい剣幕で怒鳴った。反動でナイフが揺れ動き、間違えれば刃が頬に切り込むかもしれない。
「アルバイト! お前は喋るな! 一切喋るな! いいか、俺がいいというまでお前は喋るな! わかるな? 俺はお前に一番むかついてるんだ。お前のせいでひゆりさんはこんな目に遭ってるんだぞ! 分かってるな? 全部お前のせいなんだ!」
「分かった」
 邑崎が秋の正面を障るように立ちはだかった。
「アルバイト君は喋らない。喋らないから教えてくれ。どうしたっていうんだ?」
「どうしたって? 俺が質問する。お前は誰だ。でしゃばるな」
「分かってる。俺は部外者だ。だけど、そこに俺の連れが居る。分かるだろ。その子をこちらに呼びたい。いいだろ」
 邑崎が指差した方向を福田が一瞬だけ見やる。凛子を確認した福田は邑崎に視線を戻す。
「勝手にしろ。好きに出て行けばいい。だけど、この部屋には一歩も入るな。一歩でも誰か入ってきたら、言わなくても分かるよな」
 邑崎は慎重に頷くと、凛子に向かって「こっちに来い」と言ったが、凛子はベッドの陰に隠れるように首を横に振った。怯えてしまっている。
「どうしてなんだ。なんでそんなことをしてるんだよ」
 榊巻が再び問いかける。
「だから馬鹿にするなと言ってるんだ。分かってるくせに、白々しく訊くんじゃない。アルバイトだけじゃない、お前もだ榊巻」
「わかった。俺が悪いのなら謝ろう。だから、教えてくれ。俺たちは何をしたんだ? それを教えてくれないと、謝りようがない」
「謝る? だから、馬鹿にするなと言ってるんだ。どうせ、この場を取り繕おうと、口先だけで謝るだけだろう? 俺は冷静なんだ。そんなことぐらいは分かるんだよ」
 榊巻は言葉を失う。何を言っていいか分からないのだ。そもそも理由が分からない。ひゆりの瞳から涙が頬を伝い、押し付けられたナイフの所で止まる。ひゆりは怯えきって、震えてるのが秋からも見て取れる。
 赤嶺が子供に語りかけるような、柔らかい口調で言った。
「とにかく刃物は捨てて。刃物なんか危ないでしょ? そんなものがなくても話は出来るよ」
「畜生。どこまで俺を馬鹿にすれば気が済むんだ。いいか赤嶺。俺は知ってるんだぞ。大学に入学したても頃、お前は派手だから良く目立ってた。それに引き換え俺は地味で目立たなかった。だけど超能力研究会に入って、赤嶺がいたとき、なんだ俺と一緒じゃん、って思ったんだよ。それなのに俺の気持ちを裏切りやがって。お前は俺の気持ちを知っていながら、これ見よがしに榊巻と付き合いやがったんだ。それに陰で俺の事を馬鹿にしてやがっただろう。俺が歩いてくると、お前と笹川は肘を突き合って、くすくすと笑いやがったんだ。ほら、見てよ、馬鹿が来たよ、あいつ私に惚れてるんだって、気持ち悪い、ってな具合に。どうだ? 図星だろう? ざまあ見ろ。俺は知らないようでなんでも承知してるんだよ。ばーか」
 赤嶺の表情が凍りつく。図星を指されたからかどうかは分からない。だが、好き勝手能書きを並べられて、赤嶺は頭に来たのだ。それでも赤嶺はじっと感情を押さえ込んだ。
「そんなことない。私、福田くんの事を嫌いだなんて思ったこともない。それに、伸二と付き合ったのだって――」
「別に、お前なんかもういいよ。どうでもいい。死んでくれてもいい。それくらいどうでもいい。せめて死ね、て思うね。化粧が落ちたら大した事ないしね」
「ひ、ひどい……」
 赤嶺は目に涙をため始めた。怒り泣きだ。唇をわななかせて何かを言おうとしたが、邑崎がかぶせるように言った。
「福田くん。君が落ち着いてるのはよく分かった。だけど、なんでその子なんだ? 本当にその子を傷つけたいわけじゃないだろう」
「うるさい、部外者!」
 福田の顔が紅潮し、充血した目から涙が零れた。福田の涙がひゆりの髪に滴り落ちる。福田の声と同時に、ひゆりも小さく悲鳴を上げる。彼女には生きた心地のしない一瞬。
 福田は瞬きしないまま、今度は絶叫のように言った。
「なにを必死な顔してやがるんだ! 誰がオヤジの言うことなんて訊くかばかやろう! 俺のことを馬鹿にして見下してるだろ! 正直に認めろ! ああ、誰だって、図星を突かれたらいい気分はしないさ! それくらい分かってる! ホントのことでも認めたくねぇよな! でも、認めろ!」
 酷い剣幕だ。邑崎は悲痛そうに眉を顰めたが、次に言葉が続かない。いつ、福田の持つナイフの先がひゆりの喉に突き立てられるか分からない。
「おいアルバイト!」
 福田の怒りの矛先が、再び秋に向かう。
「星名さんが開いたドアが俺の額に当たったとき、そんなに可笑しかったのか!? ええ!? そんなに可笑しかったのか!? そんなに俺の失態が笑えたか!? 涙が出るほど可笑しかったか!?」
 ひゆりの目の前でナイフが高速で振り回される。合わせてのひゆりの悲痛な声。一瞬先には死が待っているかもしれない。秋は居ても立ってもいられない。しかし、喋るなと言われている。喋ったら福田を触発しかねない。
 榊巻は地面に向けた両手の手のひらを上下させて、落ち着け、という仕草をしながら言った。
「勘違いだ。誰も笑ってない。可笑しくなかった」
「嘘ついたな? 嘘だけはついちゃならなかったぜ榊巻よ。俺はしっかりと見てたんだよ。ドアが俺の顔に当たってとき嘲笑ってやがったな。あの時、俺がどれだけ傷ついて、どれだけ恥を掻いたか、お前に分かるのか!? どうしてお前が嘲る権利がある!? お前はそんなに偉いのか!? お前は俺より、偉いのかって訊いてるんだ!!」
「俺が偉いわけがない。福田と一緒だ。研究会の会員だ。何の上下関係もない」
「適当なこと言いやがって。俺は綺麗事が嫌いなんだ。せめて正直に言ってくれた方が分かりやすいぜ。今のお前の心内を俺が代弁してやろうか? お前はこう思ってる。『とうとうとち狂いやがった。前から危ないヤツだと思ってた。いつ飛び掛って、押さえつけようか。適当なこと言って、油断させよう。捕まえたら縛り上げて、殴りつけてやろう』。ええ? 図星だろうが。それに自分の立場を利用して、あわよくば自分の株を上げようとしてるな。俺のことを倒して星名さんを救えば、お前はヒーローだからな」
「そんなことは思ってない」
「ああ、お前、もういいよ。もう喋るな榊巻。お前の偉そうな講釈なんて聞きたくないね。どうせ、俺のこと見下してたんだろ? まさか、こんな事ができるほど根性があるとは思わなかったろ? でも、いざとなったら俺もするんだよ」
「俺は――」
「喋るなって言ってるんだ。お前は馬鹿なのか? 俺の言うことが理解できない馬鹿なのか? 俺が喋るなと言ったら、喋るな」
 榊巻は『うぐ』と呻くと、口を閉ざした。
 なんて事態だ。まさか、福田がここまで暴走するとは。
「アルバイト。俺が一番殺したいのはお前だ。そして、一番俺を傷つけたのもお前だ。信頼してたのに、裏切りやがったな」
 福田は大粒の涙をぼろぼろと流し始めた。口調が棒でも噛んでいるかのような涙声になって、悲痛そうに言った。
「なんで関係ないお前がここに来たんだ。お前さえ来なければ、俺と星名さんはうまく行ってたんだ。お前は俺を応援してくれたよな。なのになんでお前は星名さんといつも一緒にいるんだ?」
「あれは――」
「まだ喋っていいなんて言ってないぞ! いいか、次に勝手に喋ったら、俺はどうするか分からない。手元が狂って、ナイフで何かを切ってしまうかもしれない。分かったな? 分かったら頷いて返事をしろ」
 秋は言われた通り頷いて見せた。
「お前は一体どんな気分だったんだ? 俺の女と一緒に居て、どんな気分だったんだ? いい気分だったか? 俺を出し抜いて快感だったか? みんなそうなんだよ。俺を裏切って、騙して、喜んでやがるんだ。みんな腐ったエゴイストなんだ。自分では善人だと思ってる、愚か者の集団なんだ。アルバイト、お前がいい例だ。いつでも俺のような、大人しいやつが損をする世の中なんだ。他人は自分以外の人間を見下す事しか考えてないし、いかに自分か魅力的かを主張するのに、他人を見下して馬鹿にしたりするんだ。おとなしいやつが的にされて、いいダシに使われるんだ。嘘つきばかりがいい思いをして、正直ものが馬鹿を見る。お前みたいなやつが、何の気兼ねもなく、人を蟻のように踏む潰すんだ」
 福田はそこまで言うと、声を上げて泣き出した。ひゆりは固まったまま、じっと大人しくしている。視線はナイフに投げかけたままだ。誰もが黙って見ているしかない。
 しばらく、福田の泣き声だけを聞いていた。
「もう、やめてください。恐いんです。ナイフが。やめて」
 小さな声でひゆりが言った。邑崎が唇に指を当てて「喋るな」と仕草で訴える。
 無視してるのか、それもと、気づかなかったのか、ひゆりは言った。
「何に怒ってるのか、私、日本語よく分からないから、分からないですけど。何か飲んで、休んだら、きっと良くなります。休んでください」
 ひゆりの嗚咽まじりの言葉に、福田はさらに慟哭する。
「もう、遅いよ。なに言ったって」
「大丈夫だ。俺たちは誰にも喋らない。こんなの友達同士の喧嘩と一緒だ。赤の他人同士の喧嘩なら警察沙汰になるけど、友達同士なら、笑って仲直りできたりするだろ?」
「安っぽい説得なんてするな榊巻! 何度言ったら分かるんだ! 俺が喋っていいって言うまで喋るなと言ったよな! 言ったよな!!」
福田が激怒した。感情がつかめない。何をするか分からない。
「お前は俺が喋るなと言ったのに、喋ったな? どうなるか分からないと俺は言ったよな? いいか、今から俺がやることは、全部お前らのせいだ! 俺は悪くない! 星名さんは、お前らが作り出した犠牲者だ! 全部お前らが悪い!」
 秋は耐え切れず叫んだ。
「何をする気なんですか! 僕に恨みがあるのなら、僕は何でもしますから!」
「なんでもする? 格好つけんな、この馬鹿。自分を犠牲にして女の子を救うのが美しいとでも思ってんか? ――よし、じゃあ、俺の言う事を訊け! お前はそこに立って、一歩も動くな! 俺は今からお前らの目の前でこの女のまんこに、おれのちんこを挿入してやる! 全部お前らのせいだ。そこに突っ立って後悔しろ! 悔い改めろ!」
「そんなことやめて!」
「赤嶺、お前も後で犯してやる。そこで待つか、逃げてもいいぜ」
 赤嶺は後ずさった。赤嶺を怯ませるには強烈な言葉だった。脳裏に焼きついたに違いない。福田に乱暴される光景を。
「やめて……」
 ひゆりの悲痛な声が秋に届く。福田は、ナイフを音々の頬から滑らせて、胸のあたりで止めた。ナイフを掴んだままの手で、そのままひゆりの胸を掴み上げた。
「痛い!」
 ひゆりの悲鳴。歯がゆい。今にも足が動いて、福田に掴みかかりそうになる。
 ――どうする? どうすればいい!?
 福田の手が、ひゆりの服の裾から服の中へ潜り込んでいく。ひゆりが身体をくねらせて抵抗した。すぐにナイフを目の前にちらつかせられて、ひゆりは凍りつく。
「やめて……どうして? どうしてこんなこと……?」
 音々の絶望的な声。胸が痛くなる。この声を聞いても、福田は何も感じないのか。歯がゆすぎる。これは、あまりにも歯がゆすぎる。
 福田の手が服の中に入り、胸のあたりでもぞもぞと動き出す。ひゆりは力なく、唸りながら泣いている。
「ちくしょう!」
 唐突に秋は叫んだ。
 驚いた邑崎が振り返った。赤嶺も呆然とした顔で振り返る。福田も秋を注目した。
「なんだ、アルバイト。悔しいのか? 悔しいんだろ? これで俺の気持ちも理解できるってもんだ」
「黙れ、クソったれ! 甘ったれた事を抜かすな! なにが傷ついただ。なにが愚か者の集団だ。自分の落ち度を世間のせいにしたり、大人のせいにしたがる中学生と一緒じゃないか!」
「なんだと、こ――」
「だまれ! お前みたいなやつの声も聞きたくない」
「いいのか! この女を殺すぞ!」
「ふざけるな! 僕がお前を殺してやる。その子に傷ひとつでもつけたら、何があろうとお前を殺してやる。逃げても、絶対に見つけて殺してやる。謝っても絶対殺してやる」
「やれるものなら――」
「うるさいうるさい! 殺すって言ったら殺す。今すぐその子を離せ」
 秋は頭を振り乱して福田に踏みよった。正面にいた邑崎が身を引いて道を開く。福田がたじろいだのが分かった。福田に手を伸ばせば届く距離になると言った。
「この船は小さいんだ。僕はこの船のことなら隅々まで知ってる。どこにいこうと、必ず見つけ出せる。早くその子を離せ。早くその子を離せ!」
「うるさい! 俺はもうどうでもいいんだ!」
「いいかげん、お前の態度にはうんざりする。ナイフを捨てて、今すぐ土下座して謝れ」
「本当にこの女を殺すぞ」
「その子は生きてるから人質なんだ。殺したら僕がお前をそれ以上に残酷な方法で殺してやる」
「殺さなくても、傷つける事ならできるんだぞ」
「だから傷をつけたら殺すと言ってるんだ。爪を剥ぐ。皮を剥ぐ。目を潰す。舌を切る。それでも人は死なない」
 秋は大幅な足取りで福田に踏み寄った。福田は、秋が踏み寄った分だけ後ずさりする。
「そ、そんなことできるわけがない。そんなことしたら、お前こそ、死刑になるぞ」
「ここは大海原の真ん中だ。回りは全部海だ。おまけに失踪者の雨あられだ。お前ひとり居なくなったところで、ただの失踪者の一人になるだけ。ああ、もう。説明するのがめんどくさい。とにかくお前は殺す。早く決めろ、その子を離せ」
「はったりがうまいな。だけど、もう一度よく立場を考えろ。俺はこの女の首にナイフを突き立ててる。この女はものすごく怯えてるのに、さらに脅かすような真似をして、俺をも挑発してるんだ。本当にどうなってもいいんだな?」
 手を伸ばせば福田に届く距離にいた。福田の言葉などどうでも良く、はたして耳にも入ってこない秋は低い声を出す。
「いいか、一度だけしか言わないぞ。ここでその子を放して反省するか、傷つけて逃げるかの二つだ。お前はきっと逃げる方を選ぶ。そしたら、お前は一人だ。よく知らない、誰一人も居ないこの船内を逃げる羽目になるんだ。知ってるか? この船に残ってるのはもう、僕たちだけだ。他には誰も居ない。みんな居なくなった。誰も助けないし、誰も見ていない。そして、僕は逃げたお前を追いかける。勝手知ったる船だ。誰にも僕は見つけられない。僕はすぐにお前を見つけて、極上の苦痛を与えてやる。いいか、お前はその子を傷つけた瞬間から、僕達しかいないこの船で、たった一人の孤独で、自分が次の失踪者になる恐怖と、僕が殺しに来る恐怖を感じ続けながら逃げ回るんだ」
 福田は、さらに後ずさりする。明らかに動揺の表情が見て取れた。福田は押し殺すような声で言った。
「・・・…この野郎。お前、絶対後悔させてやるぞ。俺にそんな口を利いたお前だけは絶対に許さない。憶えておけ、俺は、お前だけは許さない」
 福田がそう言った瞬間、ひゆりを秋の方に放り出した。秋はひゆりの身体をキャッチする。瞬間、福田は駆け出した。そのまままっすぐに出口に向かった。
 ドアを開け、走り去る福田の足音。
 残された者たちは、呆然と福田の去った玄関のドアを見つめていた。
 
 
 
「すみませんでした」
 秋が皆に深々と頭を下げた。
「謝ることはない。だけど……確かに危険なことだったかもしれないな」
 邑崎は穏やかな口調でそう言った。邑崎はソファーに腰掛け、顎の下で手を組みながら、じっと考えにふけっている。それ以外の者は、赤嶺とひゆりがソファーで寄り添っている以外は、みんな立ったまま。
 赤嶺が言った。
「秋くんはひゆりのことを助けてくれたんですよ。何も悪い事なんか――」
 邑崎が言う。
「良い、悪いを言ってるんじゃない。危険だ、と言ったんだ。もっと他に対処のしようがあったはず。アルバイト君、お前だけは暴発しないと思ってたが」
 珍しく榊巻が秋を擁護するようなことを言った。
「暴発じゃない。暴発であれほど饒舌になれるもんか。危険な手段だったとしても、それをやるしかなかった。福田は本気だったかもしれない。星名さんの服の中までに手を……。誰にも止められなかったんだ。あんたにもだ。おっさん」
「いや、アルバイト君が彼女を無事に助けられたのは奇跡に近い」
 冷たく言い放つ邑崎の言う通りだった。自殺しようとしている人間に、できるものならやってみろ、というのは最後の手段だ。最後の手段だし、成功率だって高くないだろう。相手が本気でなかったときのみ、有効な手段なのだ。秋は福田を怖じ気つかせようとしただけだし、失敗すれば、元々本気でなかった福田は追い込まれて、ひゆりをナイフで突き刺していたかもしれない。それにもし、福田が本気でひゆりを傷つけようとしていたなら、今ごろ秋は腹をかっぱ割いて自決を選んでいたかもしれない。
 どんな状況であろうと、逆上に訴えるやり方をするケースは皆無に近い。テレビドラマの中だけの話だ。
 もうこれで、秋の信用は無くなったに等しいだろう。これから先、皆を導く立場で居るなんて不可能だ。それに、もうこの船には誰も――。
「でも、こうして星名さんも助かったんだ。結果的には良かったじゃないか」
 榊巻がそう言ったが、邑崎は敵意の篭った目を榊巻に向けた。
「どうかな。そう、うまくいくかな。アルバイト君の言葉は忘れてないぜ。誰もいないだと? 船に残ってるのは俺たちだけだと? この場所の何処に秩序が残ってる? たとえ誰かが船内に残ってたとしたって、この船内は無法地帯と考えても過言じゃない気がするがな」
「そもそも、本当にみんな居ないんですか? なんか現実味がないんですが」
 赤嶺の言葉に、邑崎は再び顔を伏せた。
「疑わしいなら、自分で確かめて来い。いいか、俺は確かめても居ないのに、アルバイト君が言った『誰も居ない』を簡単に信じる事が出来る。それは失踪者が多数出てたのを事前に知ってたからだ」
「本当にすみません」
 秋が再び頭を下げる。
「僕は福田さんを逆撫でして、しかも、一人で危険かもしれない外に出してしまった。皆さんも危険な状況に置いてしまった。僕の責任です」
 邑崎がゆっくりと言った。
「それを言うなら、アルバイト君がそうしなくてはならなかったもっと前に、あいつに少しでも親しい大学生連中が止めるべきだったし、年長者の俺が説得すべきだったとも言える。俺はもう少し様子を見るべきだったと思ったが、お前の気持ちも分かるさ。アルバイト君は良くやったと思うよ。誰も、お前に文句があるものもいないだろうし。それより詳しく聞かせてくれ。本当に船内には誰も居なかったのか? 数時間前まで百人以上残っていたはずだ。ダイニングルームは見てきたのか?」
 邑崎はそう言って頭をかきむしる。決して冷静ではない様子だ。
 福田の残した恐ろしい言葉が秋の脳裏の蘇る。
 ――お前だけは許さない。
 福田はやってくるのだろうか。
 
 
 
 
 秋は残ったメンバー、邑崎、凛子、榊巻、赤嶺、ひゆりの五人に船内の様子を伝えた。みんな、押し黙ったまま何も言わなかったが、しばらくして赤嶺が口を開いた。
「信じられない。本当なの? でも、気になる事がある」
 みんなが赤嶺に注目した。
「伸二とひゆりは知ってると思うけど、私、人より異常に聴覚が敏感なの。昨夜、寝る前にはいろんな音が聞こえてた。人の声だったり、波の音だったり、秋くんの言うエンジン音とか、その他の機器のモータ音とか電子音。でも、いまは何も聞こえない。本当に何も聞こえないの」
「エンジンは停止されて、船は泊まってる状態です。海も凪いでるので、確かに静かです」
 秋の言葉が影響したわけではないが、一同に重々しい沈黙が流れた。沈黙を打ち破るかのように邑崎が立ち上がり、大きな声で言った。
「確かめに行こう」
 邑崎の提案に、全員が同意した。
 とにかく、みんな自分の目で確かめなければ納得できなかった。
 六人は秋の先導で船内を歩き回った。最初に気づいたのは、空調設備が停止していたことだった。船内はむん、と湿気の帯びた熱気が篭っていた。エレベータは動いているし、照明も正常に灯るが、空調だけが止まっている。
 船内、人のいそうなところは汗だくになりながら全て回った。メインエントランスをスタートに、避難場所であったダイニングルームに数々のイベントホール、映画館にブディック通り、大浴場、テラスからプール、テニスコートを眺め、加賀山瑞穂の歌を聞いたサンルームやカジノまで覗いた。プロムナードデッキに設置された救命ボードは一隻残らず残っていたし、360度の水平線に、船舶や脱出者の影は一切見かけなかった。
 空には薄い雲がいくつか流れているだけで、快晴といえた。いや、この熱気と蒸し暑さは快適とは程遠い。
 何処にも人は居なかった。やはり居なかった。一人も居ない。途中から赤嶺が恐怖に泣きじゃくり、榊巻が必死に赤嶺をなだめた。ひゆりと凛子は終始くっつきあいながら歩き、秋と邑崎が何度も「信じられない」と呟きながら先頭を歩いた。
 常に、この現状の原因を考える。人が居なくなった。或いは、いなくなったのは自分たちのほう。海原に見える周囲は、実は合わせ鏡のように、永遠に続き、奥行きも高さもない繰り返しの空間に漂っているだけかもしれない。
 電話機、あるいは無線機を捜す、救難信号を送る。照明弾や救命灯の点灯、様々なことを提案しあったが、まずは居場所の確保が優先であると結論付けられた。
 食料と水の確保と、居場所の確保。秋が船首付近の300度の海原が窓から見ることの出来るフォーチュンホールを提案した。乗船してすぐ、オーナーとキャプテンの主催パーティが催された場所で、天井に星型のペンタグラムがかたどられたホール。大浴場や公共トイレも近い。非常に都合が良かったし、船内を知っている秋の提案に、反対する者は居なかった。
 食料と水の暢達のため、厨房の場所を邑崎に聞かれたが、良く分からなかった。おそらく、船内にあるいくつかのレストランには、それぞれ厨房が併設されている。そう伝えると、レストランのあるエリアに向かった。
 一軒のレストランに前に付いた頃には、時刻は正午前になっていた。四時間近く歩き回ったことになる。ほとんど寝ていない身体にはかなりの重労働だった。赤嶺は疲労から口数が減り、ひゆりと凛子も足元ばかり見て歩いている。
 榊巻が、女性を先にフォーチュンホールに向かわせ、休ませようと提案したが、邑崎は冷静に言った。
「賛成できない。分かれて行動するのはリスクが多いぜ。何が起きてるのか分からないんだ。女性だろうと、子供だろうと、残しておくのは良くない」
 確かにその通りだと、赤嶺とひゆりが気丈に言った。それに、レストランからフォーチュンホールに荷物を運ばなければならないのだ。男三人だけでは少々手数が足りなかった。
 ブティックで拝借した大き目のバッグに、レストランで見つけた缶詰を詰め込み、食事会でも使われた携帯コンロと、湯沸しポットも持ち出した。そこで気づいた事がある。
 水道は止まっていないが、冷蔵庫は停止している。冷蔵庫の生食品は、おそらく明日には痛んで食べられなくなるだろう。
 売店でインスタント食品や飲み物を入手し、膨らんだ幾つものバッグを凛子は一つ、それ以外は一人二つ抱えてフォーチュンホールに向かった。
 世界最大級を誇る全長350メートルの豪華客船。船内の移動だけでも容易ではない。加えて湿度の高さと熱気は体力を急速に奪っていく。
 快適であるはずの船内は、まるで灼熱地獄だ。おそらくフォーチュンホールまで直線距離にして250メートルほど。ただし、道は真っ直ぐではないし、階段もある。体感距離は倍以上になるだろう。
 プロムナードデッキを通ったほうが早いと秋が提案し、船の外周を一周する屋外の通路に出た。
 熱気は屋内とまったく変らない。六人はひたすら足元ばかりを見続け歩いた。
 時間は正午を指し、太陽は南中を迎え、みんな顎から汗を滴り落としている。寝不足も祟って、誰もがよどんだ顔を隠し切れないでいた。赤嶺の厚化粧はすっかり汗に洗い落とされ、眉のほとんどが失われており、気づかなかったニキビ痕が顔中に斑点を作っている。ひゆりは細い腕で必死に荷物を運び、秋も邑崎も榊巻も体重を二十キロは増やしながら歩いた。なにより、荷物を運ぶのは一度で済ませたいという思いはみな同じらしく、誰も何も文句は言わなかった。
 日差しは六人の体から、水分を悪戯に蒸発させる。プロムナードデッキの半分ほど進んだところでひゆりが歩けなくなった。みんな口を開かず、その場で休憩になった。
「ごめんなさい」
 ひゆりが謝る。誰も答えない。誰もが無気力にうな垂れている。ひゆりは呼吸を必死に整えている。
「もう大丈夫です。行きましょう」
 ひゆりが言って、荷物の上に腰掛けていた六人は無言でゆるゆると立ち上がる。再び歩く。デッキの足元から立ち昇る、むん、とした熱気が一番辛かった。
 もうすぐデッキが終わろうとしたとき、ひゆりの距離が遠ざかっているのに気づいた。秋は立ち止まると、みんなも気づいて立ち止まる。そのままひゆりを待つ。ひゆりがようやく追いついてくると、みんなは立ち上がり、歩みを始めた。すぐに遅れをとるひゆり。再び立ち止まり、ひゆりが追いついてくるのを待つ。
 ひゆりにとっては休憩なしの歩みになる。みんな自分の事が必死で、他人を気遣う余裕がない。秋も同様だ。遅いひゆりに苛立ちを隠せない。
「邑崎さん。先に行っててください」
 秋がそう言うと、邑崎はひゆりを見てから、諦めたように頷いた。別行動は反対だとは言わない。邑崎も疲れているのだ。秋もひゆりのペースに合わせて後れを取るのは体力的に辛かった。秋がそうしなければならなかったのは、何より小山内のせいだ。小山内が、秋に任せるようなことを言わなければ、こんなに気を遣ったり、面倒を引き受けるような立場にはならなかった。
「荷物を置いたら戻ってくる」
 邑崎そう言い残すと、四人は道を歩いていった。誰も振り返るものはいない。残された秋とひゆり。ひゆりは肩で息をしながらしゃがみ込んでいる。秋も黙って、路上に置いた荷物に腰掛けている。
 日差しはうるさいほど照りつけ、海原からの反射光で攻撃してくる。汗はとめどなく全身から吹き出す。昨夜と打って変わって、まばゆい世界。ろくに目も開けられない。風は全くなく、海も沈黙を守っていた。
 秋は静かだと思った。人の声や、人工的な機械音が無いというだけで、なぜか静けさを感じる。退屈に似た静けさ。時間の流れを忘れた静寂。
「ごめんなさい」
 ひゆりが顔を伏せたままそう言った。秋は答えない。答える気力がない。
「ごめんなさい、迷惑ですよね」
「そんなことないです」
 秋は言う。だが、ひゆりの荷物を持ってやったり、元気付けたりするようなことも出来ない。
「もう大丈夫です。行きましょう」
 立ち上がるひゆり。額の汗を拭い、下唇を噛んで荷物を持ち上げた。秋も黙って立ち上がる。少しの立ちくらみ。しばらく経って回復する。
 重い足取りでゆるゆると前進するひゆり。秋は少し前を歩く。道が果てしなく長く思える。太陽に熱された通路が足の裏を熱して、靴の中に熱湯を注がれているようだ。
 ひゆりが押し殺すような声を上げ始めた。秋は振り返ってみると、ひゆりが口をへの字に歪めて泣いていた。天才も泣くのか、と秋は思った。
「休みますか?」
 ひゆりは鼻を啜りながら、首をぶるぶると横に振る。泣いているからといって、甘ったれているわけではないらしい。歩くと言うのなら歩かせよう。
 プロムナードデッキが終わり、屋内に入る。ようやくゴールの気配。少しだけ秋の気力が回復する。
「星名さんって、なにが得意なんですか?」
 秋はそう尋ねてみる。ひゆりは長めに鼻を啜りながら言った。
「なにがですか?」
「ひゆりさんは医学博士とか言ってたじゃないですか。人体の仕組みに詳しいとか。マッサージが得意だとか」
「わたし、数学が得意です」
「そうか。数学博士でもあるんだ。じゃあ、86521かける15240は?」
「1318580040」
 無表情で、ひとつ返事で答えるひゆり。
「……そう。答えを言われても、分からないんですけどね」
 止まる会話。
 ひゆりが言った。
「秋さんは、得意なものはなんですか?」
「……うん。クイズを解くのが得意です。趣味が悪いですけど、マジックのタネを見破るのも得意です。親父の影響でしょうね。家にクイズの本やマジックの本がいっぱいあったんです。それを読み漁って……」
「クイズって……例えばなんですか?」
「例えば……絶対に誰にも出来ないことって、あるでしょうか。どんな全知全能の存在にすら、不可能な事です」
「不可能な事?」
「そうです。絶対にできない事。神様にも、仏様にも、誰にも出来ないことです」
「分かりました」
「……分かったんですか?」
 秋は驚いた。問題を知っていたのではないかと思った。
 ひゆりは言った。
「日本語の、矛盾、ていう言葉のことですよね。中国のことわざの……」
「あたり」
 ひゆりは「あたり」と言われて、嬉しそうに唇を吊り上げた。
「――楽しい。……ほかにはないんですか?」
「ほか? ……そうだな。必ず二人以上でするもので、入れたり出したりするんです。それをするととても疲れるんだけど、決して悪い事じゃない。そのあることって言うのは、通常は建物の中でしたり、車の中でしたりするんです。初めてのときは少し痛いかもしれないし、血が出ることもある。それってなんだ?」
「献血」
 ひとつ返事で答えるひゆり。なんて面白さのかけらもない回答だろう。
 楽しそうに微笑むひゆり。「次はなんですか?」と催促された。やる気は満々らしい。すぐ答えられてしまうのは悔しいので、秋は答えられないような問題を探した。
 フォーチュンホールへ続く螺旋階段に差し掛かった。ほっとしてから秋は言った。
「問題です。あなたのことが、とても気になっている人物がいます。さてそれは誰でしょう」
 ひゆりは、首を傾げた。
 螺旋階段を上りきっても、ひゆりは回答できないでいる。
 二人は扉の開放されたフォーチュンホールに入っていった。高価なテーブルと椅子が整然と並んでいる。一番奥のステージに荷物が積まれ、先に到着していたみんなは座り込んでうなだれていた。傍に寄ると、やってきた二人に気を止める様子もなく、ステージの上かテーブルに腰掛けながら口を閉ざしていた。
 それよりも、気になったのが、そこに邑崎と凛子が居なかったことだ。不審がりながら荷物を畳の上に置くと、缶ジュースを飲みながら赤嶺が言った。
「二人は布団をっ持ってくるって出て行ったの」
 力なく言った赤嶺に、秋は愕然とした。
「邑崎さんが?」
「そう言えば、寝具を用意しなくちゃならないなって、二人で出て行った」
 赤嶺はけだるそうに缶ジュースを一口含む。
 ――まさか、あの邑崎が単独行動するなんて。
「秋くんの言いたいことは分かるけど、止める気力もない。なんだかんだ言って、みんながバラバラに行動するものなのよ」
 悟ったような赤嶺の言葉。疲れている榊巻と赤嶺を気遣ったにしても、秋たちの到着を待ってからでも良いではないか。
 全てが「もしも」という、推測のもとの想像になってしまうが、ここにいる人間たち以外の、600人近い人間が消えうせてしまったのは紛れもない事実なのだ。「もしも」、この船に悪意を持った人間がいるとしたら、単独で動くなんて危険極まりない。
 秋はバッグから二本の缶ジュースを取り出し、片方をひゆりに差し出した。
 赤嶺がけだるそうに言った。
「どうするの? あの二人はほっといた方がいいのかな?」
「分かりません。とりあえずは、これ以上誰も動かない方がいいです。待つしかありません」
 赤嶺が、重い重い溜息をつく。
「私も、もう限界。早く家に帰りたい……」
 その言葉は、秋の胸に重くのしかかった。
 
 
 
 睡魔が襲ってきた午後三時。
 無線機を捜す、救難信号を出す、空調を直す、やらなければならないことが残っていた気がするが、まるで気力がない。
 榊巻も赤嶺も疲れているはずだが、目は瞑っていない。動かずにずっと虚空を見つめ続けている。
 時々赤嶺が嗚咽する。絶望的な気分が増長されるので止めて欲しかったが、止めろとも言えない。
 そして、邑崎は帰ってこない。
「消えちゃったのかな……」
 赤嶺が呟いた。数時間ぶりの発言だった。
 ひゆりが過敏に反応して、ひとつ離れたテーブルに腰掛ける赤嶺を見た。
「もうやだ。なんで帰ってこないの? 本当に現実? 本当はみんな、どこかに隠れてるんじゃないの?」
 楽観的な考え。だが、口にこそしなかったが、秋の脳裏に常に走り抜けるのは、これはドッキリ企画の茶番なのではないか。どこかに隠しカメラがあって、そのうち「ドッキリでした」と陽気な邑崎が現れて、申し分けなさそうな加賀山瑞穂が現れて、小山内が秋の肩をぽんぽん叩いてくれるのではないか。
 そんな想像でもしていないと、胸が潰れてしまいそうだった。
 もう駄目だ。
 起きてはいられない。
 まるで意識を保てない。
 もう休んでもいいだろう。邑崎は帰ってこないが、待っている道理もない。限界だ。救難信号にしろ、無線機にしろ、邑崎にしろ、少し休んでからでもいいだろう。
 秋は目が開いているものの、見えている映像は夢の中だった。
 過去の記憶と、未来の不安が融合された取り止めのない映像が次々に現れては通り過ぎていく。
 ひゆりの顔もちらつく。
 もう、意識は遠く……。
 
 
 
 激痛に、秋はうめき声を上げて目を開いた。
 もっと体力があまっていれば、絶叫を上げて飛び起きるほどの激痛だ。
 何事だと目を開くと、目の前にひゆりの顔。
「な、何なんですか。何ですか今のは」
 ひゆりが申し訳なさそうに「ごめんなさい」と謝った。
 耳に激しい痛みが走ったのだ。夢の中の出来事かと思ったが、現実のものらしく、痛みの余韻が耳にじんじんと残っている。
「何度声かけても起きなかったから……すみません」
「起きなかったから? 何をしたんですか?」
「ちょっと、耳のツボを」
 耳を抑える。耳が熱を持っている。一体何をしたのか。
「何ですか? 何かあったんですか?」
 訊ねると、ひゆりが赤嶺を振り返った。秋もひゆりの視線の先を追うと、赤嶺が床に蹲って呻き声を上げている。
 室内は薄暗かった。日が沈みかけている。もうすぐ夜の訪れ。
「うう、うう」
 嗚咽を繰り返す赤嶺の傍で、榊巻が耐え切れなそうに両手で耳を覆っている。
「何が……」
「音と声がするそうです」
「なんのですか?」
「分かりません。誰かの声と、歩いてる足音」
 邑崎と凛子か。そう思ったが、赤嶺が言った。
「荒い息遣いと、一人の足音。何かを引きづってる」
 そんなことまで分かるのか。赤嶺は踞ったまま話を続ける。
「こっちに向かってる。ゆっくり、ゆっくり」
 赤嶺の声は、すっかり嗄れてしまっている。
「のし、のし、のし……」
 赤嶺の、怪談を聞かせてるような震えた口調に、秋は戦慄した。
 ひゆりが不安そうに秋を見た。
 秋はリアクションが出来ない。
「なにが向かってくるって言うんですか」
 秋が訊ねると、赤嶺は踞ったまま首を横に振った。
「分かる。けど、恐い」
「恐いって、何が……」
「多分、あいつの足音。足音って、人それぞれ違うの。みんな違う」
「あいつって?」
「もうやめろ!」
 突然、榊巻がはじかれたように立ち上がり、怒鳴った。秋もひゆりも飛び上がるほど驚いて榊巻を注視した。
「いい加減にしてくれ! もう黙っててくれ」
 榊巻の取り乱しようは尋常に思えなかった。
 暴発する。
 秋は慌てて言った。
「海の上はーー」
「もう訊いたわよ!」
 今度は赤嶺が勢いよく顔を上げ、秋に怒鳴り散らした。
「船の上はいろんな聞き慣れない音がするんでしょ。バカにしないでよ。人の足音くらい分かるわよ!」
「誰がやってくるって言うんですか」
「あいつよ」
「あいつ」
 突然、榊巻が赤嶺の胸倉を掴むと、酷い力で締め上げて、力いっぱいに投げ飛ばした。赤嶺は周囲の椅子やテーブルを巻き込んで派手に倒れこむと、この世のものとは思えない声で呻いた。取り憑ついた悪霊の声に聞こえ、秋は全身を粟立たせる。
「もうやめろ。お前はいつも不気味なことを言いやがって」
 榊巻の目が普通ではなかった。理性を失った人間の顔。映画やテレビドラマでは見た事がある。だが、現実に目の当たりにした瞬間の悍ましさ、恐ろしさはそれの比ではない。
「福田は必ず、俺のことを殺しにくる」
 榊巻が低く静かな声で言った。
「あいつが一番恨んでるのは、間違いなく俺なんだ」
 榊巻を殺しにくる? 赤嶺の聞いていた足音とは、迫ってくる足音とは、やはり福田のことなのか。秋は振り返って、薄暗くなってきたフォーチュンホールの観音開きの扉を睨みつけた。
 本当にやってくるのか? それはいつ?
「榊巻さんは仲が良かったじゃないですか。福田さんが目の敵にしてるとしたら、僕のほうじゃ」
 秋の言葉を、思い切り首を横に振って否定した。
「あいつとは同じ高校だったけど、当時は別に仲良くなかった。話すようになったのは大学に入って、サークルで一緒になってからなんだ」
 赤嶺が榊巻を睨みつけている。
「どうして伸二が恨まれてるのよ。もしかして私のこと? 福田君が言ってたけど、彼、私のことが」
「違う」
 榊巻が悲痛そうにかぶりを振った。
「違うんだよ、未来」
 榊巻は改めて赤嶺を見た。その目に称えられているのは、直前までの怒りの色ではなく、心なしか悲しげに淀んだ色だった。
「ごめんな、未来。俺はお前の事を裏切ってた。お前には聞かれたくなかった」
 赤嶺がすっかり人相の変ってしまった顔を起こす。
「どういうこと? 私に関係あるの? 何か秘密があるの?」
「直接は関係ない」
 榊巻は、再びテーブルの上に視線を落とす。
「実は高校の頃。福田は大人しくて気の小さい男だった。どう見ても女にももてなそうな冴えない男だった。でもある日、ある噂が流れた。誰もが鼻先で笑って信じようとしない噂だった。その噂とは、学校でも一位二位を争う美人と福田が付き合ってるって噂だ。そんなことはありえない、と俺も思ってた。だけど噂は本当だった。俺も信じられなかったけど、本当だったんだ。その美人と友達の女が教えてくれた。しかも、女の方から福田に告白したらしい。それでも俺は信じられず、どうせ女の方が福田をからかっているんだろうと思ったら、そうでもない。二人は真剣に付き合ってた。――どうしてだろう。なぜか俺はそれがものすごく気に入らなかった。どうして、そんなふうに思ったんだろう。福田とその子が付き合っていること事態が、俺にはどうしても許せなかった」
 榊巻はそこまで言って、息を大きく吸い込んで、そして吐いた。
「俺は思った。福田と付き合うくらいなんだから、俺が口説いたら落とせるんじゃないかって。いや落とせると確信していた。明らかに福田より俺のほうが勝ってる、そう思って疑いもしなかった。だから俺は彼女を公園に呼び出して、口説こうと思ったんだ。付き合ってくれって言った。自分でいうのもなんだけど、俺は女の子に良くもててたんだ。高校生になって、何度も女の子から告白を受けるようになって、俺は愚かにも乗って舞い上がってた。子供だった。その子と付き合えると思ってた。何の疑いもなかった。いままで高嶺の花だと思ってた女が福田なんかと付き合ったんだから、と甘く見てかかってた。――俺は振られた。それも、きっぱりと断られた。俺のプライドはこなごなに砕かれたんだ」
 なにかを告白しようとする榊巻の喉仏が異様に上下している。喉の中に得体の知れない生物を飼っているかのように見える。
「振られて、俺は頭に来た。告白することはみんなに宣言してしまったし、後戻りもできない。福田と比べられて、下に見られるのは我慢ならなかった。とっさに俺は思った。この女は俺を振ったことを誰かに話すだろう。その話は学校中に広まるだろう。福田より魅力がない、と烙印を押され、俺は影で馬鹿にされるだろう。とにかく俺は体裁を取り繕うことを考えた。その子の口を塞ぐ方法を考えた。……俺は馬鹿だった。本当に馬鹿だった。後悔してる。本当だ」
「あんた、一体何したの?」
 赤嶺が怪訝そうに腕を組んでいる。声は怯えているように震えている。榊巻は堪えきれず、声を出して泣き始めた。
「泣いてたって分からないわよ。あんた、一体その子に何をしたの?」
「……俺は……。俺はその子を茂みに押し倒して……」
 その後は声にならない。
「言いなさい! はっきり言いなさい!」
 赤嶺に一喝されて、榊巻は子供のように両手で涙をぬぐった。
「やってしまえば……犯してしまえば……『俺は告白はしないで、犯してやった』と友達に言えば、箔がつくし、彼女の口も塞げると思ったんだ。……本当に馬鹿だった」
「なんてことを……!」
 赤嶺はいきり立つと、榊巻の頬を平手で思い切り叩いた。派手な音がする。榊巻はひい、と悲鳴を上げてテーブルにつっぺした。
「あんたは、なんて最低な事をしたの!」
 赤嶺はさらに榊巻を殴打した。テーブルにつっぺして頭を抱える榊巻に対して、両手で何度もはたき付ける。榊巻は「許してくれ」と悲鳴を上げるばかりだった。秋が赤嶺を止めなかったら、いつまで殴りつづけていたか分からない。
 赤嶺は怒り泣きしながら言った。
「なんて男なの……! 私、こんな男の傍にいるだけで嫌だわ。あんた、今すぐこの部屋を出て行って! 二度と私の前に顔を見せないで!」
 榊巻は「わあああ」と声を上げて泣き叫んだ。
「落ち着いてください。榊巻さんを追い出すわけにはいかない。それに話はまだ終わっていない」
 だが、ここまで泣いた男から、これ以上話を聞けるわけがなかった。榊巻は何を聞いてもそれ以上は何も答えなかった。そのあと、福田とその女の子はどうなったのか。福田は本当にその事実を知っているのだろうか。聞き出せないまま、みな重苦しい空気を背負ったまま、黙って考えに耽っていた。
 日は傾き続ける。夜の訪れはもうすぐそこ。そして、赤嶺の言っていた足音の主は、今何処にいて、後どれくらいでここまでやってくるのか。
「足音はまだ聞こえますか?」
「聞こえる。多分、距離は百メートルくらい」
 赤嶺の聴力を信じていいのだろうか。助けを求めるようにひゆりを見たが、ひゆりは赤嶺と榊巻のやり取りに怯えてしまって、今にも泣き出しそうに口元を歪めているだけだった。
「こっちに向かってるって、本当なんですか?」
「分からない。でも、歩き回ってるのは確か。もしかして、私たちのこと捜してるのかもしれない」
 赤嶺が恐ろしいことを言った。
 福田が、悪意を持って船内を歩き回っている? いずれここにも来るはずだ。そのときはどうしたらいい?
 それよりも本当に福田なのか? 赤嶺の聴力は本当に信じていいのか? 壁が何重にも層なっている百メートル先の足音を、果たして聞くことなんて出来るのか。
 それからは誰も口を利かずに沈黙を守っていた。榊巻はステージの上の荷物に埋もれて、赤子のように丸くなっている。赤嶺もテーブルに顔を伏せたまま動かない。
 秋はじっとしながら、重苦しい時間の流れに耐えていた。強烈な脱力感と放心状態を憶えたが、なぜか眠くはならない。不安が強風となり、眠けの森の霧を吹き飛ばしている。風をやませる方法がなければ、その森に霧は復活しない。
 視線だけ動かしてひゆりをみる。あるいはひゆりを見れば、吹き荒ぶ不安が払拭されるのではないかと思ったが、そうはうまくいかなかった。ひゆりは秋と同じテーブルの中央付近をじっと睨みつけたまま、置物のように動かない。
 救難信号。秋が小山内から話を聞いた時点で、救難信号は発信すると言っていた。もうすでに救難信号は発信したはずだろうし、状況は逐一地上の本社に連絡していたというから、連絡の途絶えた今、本社が通報して救難要請をしたとしても不思議はない。
 とにかくこの現代社会で、最先端技術が終結した豪華客船が遭難して行方不明になるなどありえないのだ。GPSは常に船の所在を知らせているだろうし、本社の管制オペレータは、常に船の動向を気にしているはずだから、何らかの事故が重なって見失ったとしても、船は停止しているのだから、遭難ポイントは予測可能のはずだ。
 いずれにしても、救助が来るのは時間の問題。
 時刻が午後六時に近づくと、いよいよ室内は暗くなってきた。300度見渡せる窓の外の海原も、徐々に夜の力で黒く染められ始めていた。
 電気を点けよう。思い立ったが、スイッチは出入り口の横の壁。赤嶺の話では、福田らしき人物が船内を徘徊して、自分たちを探し回っている。ドアに近づいた途端、福田が入ってきたら? 暗闇の中、トイレを怖がる子供ではない。そんなことに臆してどうする。理性では分かっているが、尻は椅子の張り付いたまま、引き剥がせそうにない。
 福田のことを漠然と考える。高校時代、福田は綺麗な女の子と交際していた。きっと夢のような生活だったに違いない。自分に、こんな可愛らしい女の子が釣り合うのだろうか、なんて不安もあったかもしれない。その至福も榊巻によって打ち崩された。今、その女の子と付き合いがないことは明らかだ。付き合いがあれば、赤嶺やひゆりなどに思いを寄せたりはしないだろう。
 秋は福田が気の毒になった。正直に言えば、福田の言葉の一つ一つが秋の心を揺さぶっていた。福田の悲痛な叫びは、秋の胸に深く突き刺さっていた。同意は出来ない。だが、劣等感と脆弱な心は、自分自身の心の闇とリンクした。高校時代の福田は、今のように傲慢ではなく、もっと大人しく心の優しい男だったのかもしれない。だからこそ、彼にそういう魅力を感じた女がいたのだろう。福田は可哀相だ。
 福田のこと、明日のこと、昔のことを漠然と想像しながら不安を募らせていくうちに眠りは妨げられ、悲しいような気分になってくる。なぜ、自分達はこんな目に遭っているのか。誰か――悪意のある誰かが、乗客、クルーたちを一人一人連れ去っては海に投げ捨てたのか。それともどこかに閉じ込めたのか。閉じ込めたとすれば、秋たちが入ることの出来なかった船底部分。機関室や、クルーの寝室。ブリッジや乗客の荷物を納めた、金属の厚い扉で守られた倉庫室。立ち入れなかった場所は多い。だが、そこに600人近いの人間を押し込めることがはたして可能なのか。秋はこの不可解な現状の答えを必死に考えようとしたが、放たれた思考の糸は途中で絡まって、結局思考は停止する。
「眠ろう」
 秋は呆然と言った。言葉にすれば暗示効果があると信じて。
「何時間か眠れば、起きるころにはきっと救助船が来ているはずです。眠ってしまいましょう」
 誰かに投げかけた言葉というよりは、ほぼ自分に語りかけていたに等しい。
「眠れるわけない。秋くんはどうか知らないけど、私には無理」
 眠っていたと思った赤嶺が言った。秋はゆるゆると首を傾げるように、赤嶺の方を見る。赤嶺の顔つきは、初対面のイメージとはすっかりと様変わりしていた。目の周りは腫れぼったく、肌がくすんで見える。
 ひゆりは赤嶺の隣りにいたが、薄くした目で、ぼんやりと床を見つめているばかり。
 秋は榊巻を見た。こちらに背を向けるように、ステージ上で丸くなっている。
 秋がようやくうとうとし始めたのが、それから三十分もしてからだった。
 
 
 
 気温が下がってきたのは意識のどこかで感じている。それが夜の到来であることも、どこかで理解している。二日間、食事もろくに摂っていないことも思い出す。だが、秋の意識は四方八方に分散し、ちりぢりに散った意識はそれぞれ勝手な妄想を繰り広げ、収拾も付かなくなっている。
 最大の味方であった昼間が秋の元から立ち去ろうとしている。胸の奥のほうに、徐々に絶望感が渦巻いてくる。昼間には保てていた理性も夜の訪れとともに黒く染まっていく。
「おなか減った」
 赤嶺がぽつりももらした一言。自分以外の他人というものは、よくよく思い出したくない事を思い出させてくれた。秋は強烈な空腹を覚える。食料はある。だが、それを用意する気力はない。まったく身体が言うことを利かないのだ。食欲よりも、性欲よりも、今は睡眠欲。
「余計なこと言うんじゃねえ」
 榊巻の苛ついた声が遠くに聞こえた。
 その口調が気に障ったのか、赤嶺が興奮した声も聞こえてくる。
「何を言ったって自由じゃない。伸二だってカレーライス、食べたいでしょ? ああ、カレーライス持って来れば良かった」
 赤嶺の「カレーライス」の一言は、おそらく赤嶺の想像した以上に榊巻の精神を逆撫でした。
「頼むから黙っててくれ」
 榊巻の剣幕に、意外そうに赤嶺が反論した。
「なんなのよ。私が何をしたの? おなかが減ったって言っただけで、どうしてそんな怖い顔をするの? 男はみんなそう。ちょっと気に入らないと、怖い顔をすれば女がおとなしくなると思ってる。おとなしくならなければ、殴るのよ。あんたはいつもそう。もうあんたとは何の関係もないんだから、偉そうにしないでよね」
 静電気のような榊巻の怒りが秋の皮膚に伝わってきたが、秋にコメントはない。秋はぼんやりとその様子を眺める。榊巻が、押し殺すように言葉を吐いたところだった。
「いいか、最後に言うぞ。黙っててくれ。怒りたくないんだ」
 赤嶺は少しだけ怯んだ態度を見せたが、引き下がらなかった。
「もしかして怒ってるの? 怒ってるんでしょ。何に怒ってるの? 私に怒ってるの? 本当は自分に怒ってるんでしょ。この変態。私に当たって気が晴れるの?」
 次の瞬間、榊巻が猛獣のように立ち上がったかと思うと、固く握り締められた拳が振り上げられた。榊巻は憤怒の表情で、赤嶺に覆い被さろうとした。
 目を丸くして、秋にしがみつく赤嶺。秋はぼんやりと赤嶺を見た。
 ――榊巻の拳が振り下ろされる事はなかった。
 榊巻はその代わりに拳をぶるぶると震わせて、悲痛そうに顔面を歪めると、ようやく力を抜いて振り上げた拳を下げた。
「信じられない……なんてやつ……!」
 涙声の赤嶺の言葉に、榊巻はダメージを追ったボクサーみたいに、よろよろと背を向けた。
「秋さん。秋さん」
 傍に居たひゆりが秋を揺すった。必死に揺すったが、秋はぼんやりと視線を泳がすだけで無反応だ。
「俺はもう駄目だ」
 榊巻が言った。
「耐えられない。福田が今にもやってくると思うと気が狂いそうだ。あいつが寝静まった頃にこっそりと近づいてきて、俺の喉元にナイフを突き刺す映像が頭から離れないんだ」
 榊巻は背を向けたまま語った。涙声のように聞こえるが、どうだろうか。分からない。榊巻の声は届いていたが、秋はもう、どうしても重い瞼を開く事ができなかった。
「秋さん。秋さん」
 ひゆりが必死に秋の体を揺する。
「もう、俺は何がなんだかわからねえよ。なんなんだよ、この現状は。何で誰も居ない? 何が起きてんだ? ただでさえ訳わかんねえのに、福田が襲ってくるのをじっと待ってなくちゃならないなんて、もうごめんだ」
 榊巻は秋を見た。秋はぼんやりと、目の前のテーブルクロスを眺めている。
「正直に言うよ。お前は立派にやったよ。色々悪態づいて悪かった。必死に俺たちを先導してくれて、感謝してる。だから、最後に言いたい事がある」
「最後って……」
 赤嶺が眉をへの地に曲げて言った。
「ごめんなさい、わたし、そんなつもりじゃなかったの。本当にごめんなさい。お願い、どこにも行かないで」
 赤嶺が事の重大さに気づき、懇願するように言った。ところが榊巻は拳を握り締めて、強く静かに言った。
「だんだん分かってきた。今なら福田の気持ちが分かる。きっと同じ心境だ」
 福田の名前を出されて、赤嶺もひゆりもたじろいだ。あの恐怖が蘇る。榊巻が福田みたいになる。想像するだけで、二人は口を開けなくなった。
「もう耐えられねえ。あいつは、福田は俺の悪夢と一緒だ。俺が福田になる前にーー」
「やめて」
 赤嶺が、泣きすぎて嗄れてしまった声を上げる。
「あいつを捜してくる。出来ればどこかに閉じ込めて、安全だと分かったら戻ってくる」
「もう、やめて」
 赤嶺が涙声でそう言ったが、それが何よりの苦痛であるように榊巻は頭を抱えた。
「もう駄目だ」
 榊巻は苦しそうに頭をかきむしり、うなり声を上げる。まるで満月を見た男が、これからオオカミに変身する姿を想像させた。
 榊巻は悲痛そうな顔を秋に向ける。
「俺は福田の野郎を捕まえてくる。出来れば無線機も捜してくる。見つかったら、絶対にお前らを迎えに来るから」
 榊巻は放った最後の台詞だった。
「秋さん。秋さん」
 ひゆりは必死に秋を揺すった。榊巻を止めてもらおうと何度も揺すったが、秋は水風船のように揺れるだけだった。榊巻は三人に背を向けると、同時に駆け出した。秋はぼんやりとその背中の残像を眺めていた。
「何でこんなことに……!」
 赤嶺が顔面を両手で覆い、苦しそうな声を上げる。赤嶺には止められなかった。何より、榊巻が福田になる、その言葉が恐ろしくて、赤嶺は腰を上げられなかったのだろう。
「秋さん……」
 ひゆりの涙声が聞こえる。
 秋はぼんやり考えた。
 ずるいぞ。ずるいじゃないか。僕だって、本当は逃げ出したいんだ。
 重大な事を放棄して、一人で逃げるなんて、ずるいじゃないか。
「秋さん。榊巻さんが行っちゃった」
「うん」
 返事をした。その声は、喉が潰れたように掠れている。
 秋の頬に伝う涙。
 苦しかった。
 止めたかった。
 様々な感情が秋の胸を掻きむしり、結局理解できないものが、涙となって秋の目から流れ出た。
「ずるいですよ、榊巻さん」
 秋は亡者のように立ち上がる。
 日が暮れる。
 日が落ちる。
 嫌な言葉だった。
 周囲が赤く染まってくる。夕暮れが訪れ、無情な夜が来る。
 なんで、自分がこんな目に…・・・。
 取り留めのない疑問だった。
 全てが絶望的で、無力感だけが秋の全身に詰め込まれている。
 ソーセージの気持ちが分かる。諦念ばかりがぎゅうぎゅうに詰め込まれた悲しいソーセージ。
 秋はいま起きている。ゆっくりと光を失っていく窓の外をぼんやりと眺めながら、なんだか妙な既視感を覚えていた。聞こえるはずのない虫の音や、風のせせらぎを聞く。現実から遠く離れてしまったような感覚。退屈に似た時間の流れ。
 これから自分はどうなるのだろう。未来を考えると急に苦しくなる。そこには辛い現実が待っている気がして、できるだけ目を背けたかった。みんなもおそらく同じ心境なのではないか。一様に窓の外を眺めている。何も喋らない。
 待つ事しかできない。やがて訪れる夜と、夜に似た永遠の眠り。いっそこのまま眠ってしまえば、最後の恐怖を味わなくて済むのではないだろうか。
 ホラー映画でも見ている気分。見るもの全てが客観的で、そして、少しだけリアル。
「日が落ちる……伸二」
 声がした。
 赤嶺の声だ。
 秋は声のほうを見る。赤嶺が窓の外を見ている。やけに猫背で、開いているのか、閉じているのか分からない目で、秋が見ていた窓を眺めている。
 ――まだ、生き残ってたのか。
 漠然とそう思う。
 秋は窓のほうに視線を戻す。ほんの少しの間、赤嶺を見ていた間に、表は黒さを増していた。部屋の壁に切り取られた横に長い長方形の窓は、そこに掛けられた絵画のようにも見える。テレビ画面でもいい。
 映画のスクリーンでもいい。
 この部屋が劇場と変わり、そろそろ照明が落とされ、スクリーンには監督名やキャストの名前が並び、オープニングが始まる。
 やがて、本編へと続くころ。
 どれほどの時間が経ったのだろうか。
 部屋の照明が完全に落とされ、スクリーンの向こう側が完全に闇に落ちた。
 本編の始まりだ。
 ――僕らはこれからリアルな映画を見る。
 そして、散り散りばらばらになった意識が、一箇所に集束し始めた。
「榊巻さん……」
 秋が呟いた。
「僕はなんてことを……」
 秋はようやく事態の深刻さを理解した。榊巻が船内に飛び出そうとしているのに、何もしないで、ただ指を咥えて見ていただけ……。
 
 
 
 クライマックスの予想がつかないストーリー。映画にはハプニング、アクシデント、そして、生命の危機などは付き物である。
 最初のアクシデントは、日が完全に落ちた直後に起きた。時間で言えば、七時を回ろうとあたり。
 突然、部屋の中がガタガタと鳴り始めたのだ。まるで見えない人々が、そこら中のテーブルに着席したような音。
 たまげた赤嶺が慌てて立ちあがって、テーブルに足を掛けて転んだ。
 フォーチュンホールは真っ黒である。
 視界はほとんど利かない。
「なに、今の!?」
 ついに来た。全身に鳥肌が立つ。
 いよいよ大詰めだ。こちらは女二人に、非力な男が一人。
 始まったのだ。
 なにが始まったのか、それは分からない。
 分かっているのは一つだけ。最後に残された三人が、いよいよ失踪者の仲間入りになるための儀式が始まったのだ。
「大丈夫ですか?」
 秋は落ち着こうと勤めたが、胸に溢れる悲壮感は死を宣告された者のそれ。
 赤嶺が暗闇の中で秋の腕につかみ掛ってきて、三十センチ飛び上がるほどに驚いた。
「赤嶺さん、大丈夫ですか?」
「何の音なの!?」
 暗い。
 月のおかげで、窓辺にはほのかの明かりが発光している。落ち着いてみれば、視界はゼロではない。傍にいる赤嶺の輪郭だけが辛うじて見える。
「星名さんは?」
 秋の声に被せるように部屋のいたるところから、テーブルががたがたと音を立てた。テーブルたちが秋たちをからかう笑い声に聞こえる。
 赤嶺が狂ってしまったかのように、何度も飛び跳ねる。
「もう駄目よ! 死ぬんだ、私!」
 大丈夫だ、なんて気の聞いた台詞を吐く余裕もないし、そんな言葉が有効な場面でもない。全くどうしていいか分からない。
 邑崎が居たら、小山内が居たら、何か指示をくれたのに。誰かが「逃げろ」と言ってくれないと体も動かない。なんて恐ろしいのだろう。この音は何なんだ。見えない人間が、幽霊が、怪物が、秋たちを脅かそうと椅子やテーブルを動かしているのか。
 暗闇が煩わしく、そして恐ろしい。
 いよいよ「やつら」も大詰めに来たのだろう。残った三人を、今度は一度にしとめる気だろうか。
「星名さんは?」
 声を上げるのさえつらい。体力が欲しい。今すぐ、体力を回復させるような魔法はないのか。いや、むしろこの恐怖を感じさせないくらいの、強力な睡眠が欲しい。
「もうやめて!」
 赤嶺が悲鳴まじりに声を上げ、両耳を力の限り押さえつけると、頭を振り乱した。
 理性。理性。
 理性、なんて、一体何の事なのだろう。そんなもの邪魔なだけだ。
 まるで生命を持ったかのようなテーブルや椅子たちは、思い思いに音を立てる。
「怖い、怖い、怖い」
 赤嶺が念仏のように低い声でそれを繰り返しはじめた。
 秋の頭も混乱でいっぱいになった。首を振り回して辺りを窺うが、窓の外が室内より少し明るいグレー色をしている以外、何も見えない。
「星名さん!」
 秋は叫んだ。
 返事はない。
 居ないのであろうか。そんな馬鹿な。ずっと一緒に居たのではなかったか。まさか、いつのまにか自分達は二人になっていたというのだろうか。ずっと前から、ひゆりが居ない事に、気づいていなかったというのだろうか。
「私はここです」
 冷静な声がすぐ傍から聞こえた。
 ひゆりの声だ。すぐ傍だ。ひゆりは場所を動いていなかった。
「ひゆりさん。なんですぐ返事をしてくれなかったんですか」
「聞こえなかったんです。眠ってたから」
 冷静な返事。ひゆりにも聞こえているはずだ。椅子やテーブルが騒ぎ立てているのを。秋の腕を掴む赤嶺は、まるで踊っているかのように飛び回っている。
 ――本当に、そこにいるのはひゆりか?
「それと……」
 ひゆりはそう言って、言葉を切った。
 秋は寒気がした。
 そこに居るひゆりに幽霊のような気味の悪さを感じたからだ。なぜ、そんなに冷静なんだ? なぜ、赤嶺のように悲鳴を上げたりしない?
 ひゆりがじっと動かない。良くは見えないが、窓からかすかな月光に当てられたひゆりの肩口が見える。それ以外は闇に溶け込んでいる。それがひゆりの肩なのかどうかも分からない。どうやら、秋が座っていた椅子のすぐ隣に座っているようである。
「それと…・・・」
 ひゆりはまたそう言って、言葉を切った。
 秋は動けない。今にもひゆりがその闇から飛び出して「食ってやる」と飛び掛かってくるのではないか。ひゆりは、もう一度だけ「それと…・・・」と言ってから、ようやくその続きを言った。
「私の腕を引っ張ってるのは、秋さん……ですか?」
 ひゆりは冷静だった声から、掠れて消え入りそうな細い声を上げた。
「腕?」
 秋の左腕は赤嶺に掴まれているし、右手は何も掴んではいない。
「僕じゃない…・・・」
 秋はそう言ってぞっとした。
 ひゆりは徐々に悲鳴まじりになってくる声で言った。
「じゃあ、じゃあ、私の腕を引っ張ってるの、誰? 私の隣にいるのは誰なの? どうして引っ張るの? 私もそっちに行きたいのに」
 ひゆりの声が焦りだして早口になる。
 秋はひゆりの肩口より背後の闇に目を凝らした。自分の息遣いが荒くなっていくのに気づく。心臓が先に逃げてしまおうと「開けてくれ!」と胸をどんどんと叩く。
 その闇の向こうに、ひゆりの腕を掴む誰かが居る?
 ――そこに誰かいるのか?
「秋さん……!」
 ひゆりの声が、掠れて小さくなっていく。恐ろしさで、声帯が締め付けられてしまったかのように喉からは空気ばかりが漏れる。消える。闇に飲み込まれようとしている。
 ひゆりが左腕を秋に向かって伸ばした。その腕は、月光の悪戯か、まるで闇の中から腕だけを突き出しているかのように見える。そして冷たい月光は、その手を糸のように細く、そして白く見せた。ひゆりの体の大半部分は闇に溶け込み、飲み込まれている。ひゆりは闇の一部である。その腕を掴んだら最後、秋もその闇に引きずり込まれてしまうのではないか。
 次の瞬間、すぐ近くから悲鳴がした。――赤嶺だ。
「逃げよう! 逃げよう!」
 ひゆりの溶け込む闇とは、別の方向に引っ張られた。赤嶺は事態を悟ったのだ。その暗闇の向こうに誰か居る。
 赤嶺は、玩具売り場で玩具をねだる子供のように泣き叫んで、秋の腕にぶら下がった。
「行こう! ねえ、行こうよ! 早く!」
 秋はひゆりの腕が見える向こうの闇から目が離せなかった。
 そこには「正体」がいるのだ。
 今の今まで、欠片すら姿を見せなかった「正体」が居る。
 どんな風貌だ? モンスターなのだろうか。本当に、ホラー映画みたいに、狼男みたいな化け物なのだろうか。
 気づくと、テーブルや椅子の野次が聞こえてこない。秋の脳みそが音を遮断したのか、実際に音がやんだのか判別できない。
 狂ったかのように秋の腕を引っ張る赤嶺。意外な怪力に、秋は二歩、三歩とよろめく。その距離が秋を正気に戻した。ひゆりから離れるという、その事実が秋に勇気を与え、あるいは盲目的な無謀を与えた。
「何してるのよ!」
 赤嶺の叫びをよそに、秋はきつく掴まれた腕を振り解いた。
「やめて! 行かないで!」
 赤嶺の悲鳴。秋は一歩、二歩と、闇から突き出した腕に近寄っていく。渦巻く精神の混乱を押さえ切れない。無数の人間に非難をぶつけられているかのような騒々しさが頭の中でがんがん鳴り響いている。得体の知れない恐怖が秋の全身の筋肉の自由を奪っていく。
「死ぬのよ! その腕を掴んだら死ぬのよ!」
 秋は一度だけ赤嶺を振り返る。赤嶺は胸の前に拳をつくり、喉が張り裂けんばかりに声を上げている。
 秋はひゆりの腕を見た。
 トンボを捕まえようと恐る恐る近づいて、手の届く距離になったらすばやく捕まえる。そんな少年時代を脈絡もなく、ふと思い出した。心境はトンボを捕まえるなどという生易しいものではない。溶岩の中に手を突っ込むほどの覚悟が必要だった。一瞬なら熱くない。そんなことを考える。そんな訳がない。溶岩などに手を突っ込んだら、腕など一瞬で焼け焦げるし、灼熱の溶岩はいつまでも腕に纏わりついて、やがて腕が焼け落ちるまで――。
 秋は意を決して、ひゆりの腕を掴んだ。全身を痺れさせる恐怖を無視して、思い切って引き寄せた。心臓は意識的に止めておいた。鼓動した瞬間に「正体」を見たら、きっとショック死してしまう気がした。
 闇に潜んでいた「化け物」は、罠に嵌った秋に食い掛かる――という結末にはならなかった。腕を引っ張って、ひゆりと一緒に月光のもとに姿を現したのはテーブルだった。がたがたと音を立てて、ひゆりとともにテーブルがついてきた。
 秋は心臓が突き刺されるような衝撃の後、放心状態になった。ひゆりの上着の裾に、テーブルから突き出たネジが引っかかっている。秋の胸に顔を押し付けているひゆりをよそに、そのテーブルを凝視していた。ひゆりはまだ誰かに腕を掴まれていると思っているらしく、秋の胸から顔を上げようとはせず「うーうー」と唸っている。
 しかし奇妙だった。
 ひゆりの腕には、ネジが引っかかっているだけではない。手にはタオルが巻かれていて、良く見ればひゆりの座っていた隣の席にはバッグやタオルが積み重ねられていて、それを椅子に固定されている。この暗闇にはまるで人影に見えるかのように。
 明らかに作為的なもの。暗闇に乗じて、人をからかうためだけの目的に作られた即席の人形。
 これが多数の失踪者を生み出した正体ーー?
「やっぱりそうなのね! やっぱりそうなんだわ!」
 突然、赤嶺が叫んだ。秋は振り返る。そこには、顔面を手で覆ってる赤嶺が居る。
「いつだってそうなのよ! やっぱり男は私より、他の女を取るんだ! いつも男は私を裏切るのよ! いつも私は選ばれない。分かってたのよ。私を守ってくれる男なんて居るわけがない。性格悪いし、嫌な女だし、嫉妬深いし。分かってたのよ!」
「…・・・まさか、これは赤嶺さんがやったんですか?」
「そうよ! 私はそういう女よ! うんざりした? 殺したくなった? 殺してもいいのよ! どうせみんな殺されるんだから!」
 赤嶺はそう叫んで、頭を振り乱すと同時に、腕も振りまわした。
「やめて! もう、声はやめて! お願いだから勘弁して! もう黙って!」
 狂ったように叫ぶ赤嶺。もうすでに、ホール内のテーブルや椅子は音を立てていない。それとは違う音に反応している。
 秋は赤嶺に対して危機感を覚えた。
 理性。
 それが吹き飛ぶ瞬間。
 これからまたそれを目のあたりにする。
 秋にも、まだ理性があるとは思えない。
「秋くん、あなたは私を裏切らないと思ってたのに……。あなただけは私に優しくしてくれると思ってたのに……。分からないでしょ、私の気持ちなんか。腕を振り払われて、突き飛ばされた女の気持ちなんて」
 押し殺すような声。何かを溜めている。ジャンプするときも一旦膝を曲げて力をため込む。そんな喋り方だった。
「そんなつもりはなかったんです」
「もう、うわべだけの優しさなんて、私には聞こえない。聞こえるわけがない。そうよ、私が死んだら、全部あなたのせい。あなたのせいよ。恨んでやるから。全部あなたのせいなのよ!」
 秋が何か口を開こうとすると、当て付けるかのように「うぎゃああ!」と絶叫する赤嶺。壮絶な悲鳴だ。こんな悲鳴など、今まで一度も聞いた事がない。秋は目の前の女が恐ろしくなった。近い未来の自分を見ているような気がして、目を背けたくなった。
 暗闇が秋の全身を締め付ける。亡者の群れが、のろのろと家を取り囲むかのように秋を押し潰していく。秋は胸の奥から、違う自分が抜け出てくるような、妙な感覚を必死に押え込んだ。
 ――あなたのせい。
 頭の中に、この言葉が何度も反響する。
 突然、福田の事を思い出した。福田も言った。これから自分がすることの全ては秋のせいであると。
 ――僕が一体何をした? なんで僕がそんなに責められる?
「ふふふふ。それじゃあ、さようなら。お幸せに。ふふふふ」
 赤嶺は突然不気味に笑い出す。秋はぞっとした。いや、あるいはぞっとしたなどという表現自体が陳腐なものかもしれない。全身を剣山で撫でられたような痛みを伴うような悪寒。
 人間はこれほどまでに不気味な生物なのだと、初めて理解した。
 赤嶺の声は、大音響で掛けていたステレオが突然電源を切られて、スピーカーが妙な雑音を出したみたいな感じだった。秋は薄気味悪さを押し殺して、赤嶺に踏み寄った。多大な勇気を要した。赤嶺に踏み寄る行為は、呪われた墓石に触れるほどに恐怖だった。
「一緒に逃げましょう。僕らは三人で一つです。一人でも欠けたら僕らは生き残れない」
「馬鹿ね」
 急に冷めたように赤嶺はそう漏らした。正常に戻った? と一瞬思わせた。
 次の瞬間。
 赤嶺は弾かれたように踵を返すと、奇声を上げながら駆け出した。ものすごい勢いで部屋を飛び出すと、扉で大音響を立てながら表に駆け出して行った。
「行くな!」
 秋は思わず追いかけようとしたが、ひゆりが貼り付けられたままだった。
「畜生! なんなんだ! 僕には訳が分からない!」
 ――どこにいるのよ! 出てきなさい! 私はここよ!
 フォーチュンホールの外から赤嶺の絶叫が聞こえてくる。赤嶺はまだ生きている。まだ生きている。しかし、一人で出ていって帰ってきたものは居ない。そう、一人も居ない。秋とひゆりが二人だけになったこの場所が帰る場所だとしたらの話しだが。
 自分は、これまでずっと帰ってくる場所に居たはずだ。だが、今はどうだ? 強烈な孤独感が全身を叩き付けてきているではないか。
 赤嶺の声はまだ聞こえる。まだ生きている。まだ生きている。何を喋っているのかは、もう聞き取れない。だが「やつら」は一人になった赤嶺を餌食と決めたはず。道端に死んでいる猫をつつくカラスのように、赤嶺にたかっては食いちぎって、食い切ったら、次は秋たちの番なのだ。少しだけの間、秋たちは「やつら」の視界から逸れただけに過ぎない。すぐに思い出される。赤嶺を食い切って、まだ食い足りないな、と思った「やつら」は、すぐにまだ食っていない秋たちの存在を思い出す事だろう。
 ああ、くそ。
 心の中の悪態にも力がなかった。
 一人、叫びながら船内を歩き回る赤嶺に自分を照らし合わせて、秋はもうこれ以上はないと思っていた最悪な気分を通り越して、恐怖で死ねるのではないかと思った。
 これから、そう長くない先に、彼女は消えうせるのだろうか。
「離して……。お願い……」
 ひゆりが震えた声を上げている。
 彼女はまだ、腕を掴んでいるのがテーブルだとは気づいてはいないのだ。
 秋はひゆりの服のすそをネジからはずしてやると、手に巻かれたタオルを取ってやった。
 彼女が寝ているうちに、これを仕掛けたのだろうか。それにしても、秋にも全く気づかなかった。そんな大した仕掛けでもない。すぐに気づきそうなものだが、この状況では、こんなものでも、誰かに掴まれていると錯覚してしまうものなのだろうか。
 テーブルの音はどうしたのだろう。赤嶺一人で何か仕掛けを作ったのか。秋とひゆりがうとうとしている間に、一人こつこつ仕掛けを作ったのだろうか。
 赤嶺は別の音にも反応を示していたのを思い出す。その音の正体は分からない。赤嶺の可聴領域での話だ。
 腕が自由になると、ひゆりは秋の胸座を掴んで泣き出した。ひどく力が入っていて、胸に爪を立てられて痛かったが、振り払えるわけがない。それに痛みは少しだけ秋の恐怖を和らげてくれる気がした。僕の皮膚に、ひゆりの爪が食い込む。今はなんだか痛みが心地よく、そして気持ちがいい。
 気持ちがいい。
 その言葉が、秋の心の奥底に潜む「混沌」に存在する「扉」に、厳重に掛けられた南京錠の「カギ」となった。その時、下腹から胸にかけて、無数の素手で撫で回されるような感覚が襲った。
 秋は掴み掛って泣いているひゆりの脳天をただ見つめた。
 そこに肉体があった。柔らかく、か弱い肉体があった。卑猥な匂いがする柔らかい肉だ。腹を割いて手を入れたら、イチモツを入れたら、どれだけ気持ちがいいだろう。
 秋はひゆりを抱き込もうと手を持ち上げて、そして寒気を感じて躊躇した。
 ひゆりの体が秋の腕を吸い込もうとしているのに、秋の腕は力の限り抵抗した。腕がぶるぶると震える。
 ――どうしてだ……。
 ひゆりを抱きしめたら、秋はきっと、ひゆりを力の限り締め上げて苦しめてしまうだろう。この極限の狂った中に置き去りにされた自分を慰めるために、ひゆりを犯してしまう。首を絞めて、彼女のもだえる姿に興奮し、死への恐怖を紛らわそうとするだろう。
 秋は勃起を押さえられないでいる。抱きしめたら、その突き立った先がひゆりの腹のあたりに当たる。そしたら間違いなく、秋はひゆりを犯す。一晩中犯す。死ぬ、その時まで犯し続けるだろう。
「離れてください、星名さん」
 自分自身に、そんな感情があるなど信じられなかった。これでは福田と何ら変わりがなかった。福田が近い未来の自分の姿と重なり、再びぞっとした。
 秋は離れようとしないひゆりを突き飛ばした。
 ひゆりは反動でテーブルに腰をぶつけて、派手な音を立てて倒れ込んだ。
「痛い!」
 痛い、その言葉と、非難めいたその声が秋の下半身を刺激する。
「ごめん……。でも、仕方がないんだ。今は僕の傍に寄らないでくれ」
 自分が見つからない。普段の自分がなくなってしまった。どうしてだ? 眠っていないから? 恐怖の中にいるから? 早く、自分を見つけたいのに、いくら呼んでも現れてはくれない。何でこんな事が起こる。自分の精神は自分のもののはずだ。操るのは自分の意思だ。
 ひゆりが月光のもと、どうして? という顔を浮かべる。その綺麗な顔を切り裂いて、傷口に充血したイチモツを無理矢理ねじり込んだら……。そこまで想像して、秋は呻いた。
 これは試練だ。
 神が与えた試練だ。
 これを乗り切れば、きっと秋はもう自分を見失わなくなる。
 なぜ自らの意志とは関係なく、この欲望は膨張を続けるのか。その正体を見極めろ。探し出して、この身体から追い出すんだ。
 いっそのこと逃げ出すか? 彼女を襲うくらいなら、どこかに逃げ出したほうがましだ。逃げ出すのか? そこに、あんなに卑猥な肉があるのに。逃げてしまうのか? もったいない。でも、逃げ出さなければ、彼女を殺してしまう。どうして「殺す」なんてイメージを彼女に対して浮かべたりするんだろう。それが当たり前で、食事やセックスほどに自然の摂理のように感じる。僕はまだ逃げ出す事ができる。でも彼女がいま僕から逃げ出したら、きっと僕は彼女を追いかけずにはいられない。なら、逃げないでくれ。そばに居てくれ。胸に触らせてくれ。腹の中を見せてくれ。君の中身を見せてくれ。
「ああああああ!!!」
 秋は力の限り絶叫した。
 驚いたひゆりが鉄板の上に撒かれた生きた海老のように跳ね回った。
 自分の中の狂気を追い出そうとして叫んだのは逆効果だったのか?
 叫んだおかげで、逆に理性が吹っ飛んでしまった気がする。
 頭がすっきりとした。とてもいい気分だった。
 これが理性が飛ぶ、っていうやつなのかな?
 どこかにいる冷静な秋がそう分析した。
 助けてくれ、ひゆり。
 君の内臓だけが、僕を救ってくれそうだ。
 助けてくれ。
「逃げろ」
 心臓を見せてくれ。暖かくて、力強く鼓動する、君の心臓。
「頼むから見せてくれ。すぐに逃げるんだ」
 腸の色はピンクかな。
「いい色だろう。すごくいい色なんだろう。それは分かる。それは分かるんだけど、だけど、逃げるんだ」
 秋がじりじりとひゆりに詰め寄っていく。ひゆりは涙の溜まった目を真円にして、尻で後ずさりする。
「早く、居なくなってくれ。居なくならないのなら、せめて、僕が生まれる前にいたところに入れてくれ」
 ひゆりはただならぬ秋の態度に、低くうめき声をあげる。
「早く逃げろって! 何してるんだよ。僕が普通じゃないの、分かるだろ? 天才なんだから、何だって分かるはずだ。僕は君の腹の中に帰りたいんだよ。分かるだろ? 早く逃げろよ!」
 秋の口は、秋のもので、秋のものでなかった。
 逃げて欲しくなんかないのに、お腹の中に入れて欲しいのに、あるいは入れたいのに、秋の口は意思に反して「逃げろ」だとか「自分は普通じゃない」とか、余計な事を口走る。秋の中の違う人格が勝手に喋っている。大事なところだけ僕が喋れない。
 ひゆりの恐怖の色を濃くした目線が、秋の顔から下腹部へと移る。ひゆりが「ひゅっ」と息を吸い込んだ。
「逃げないからだぞ。逃げろといったのに」
 秋は失望したかのように顔を伏せると、右足の爪先に力を入れた。ひゆりは尻餅を搗いたまま嗚咽している。
「あ」
 ひゆりは秋の名前を言おうとしたが、最後まで言えなかった。
 秋がひゆりを捕まえようと、手を伸ばしたからだ。
 秋の動きは俊敏であったにも関わらず、捕まえたと思った秋の腕から、ひゆりはするりと居なくなる。
 勢い余って、前のめりに突っ伏す秋。
 秋はかつてないほどの怒りを覚えた。すかされた事への羞恥心と、言う事を聞かないひゆりへの苛立ちで腸が煮えくり返った。
 振り返った瞬間、意外と間近にひゆりの顔。そして、その顔は険しく、歯を剥き出している。
 次の瞬間、秋の視界が真っ暗になり、同時に「ゴツ」という音がした。
 天地が揺らぐような衝撃の後、秋はどこが床で、どこが天井か区別がつかなくなった。秋は力なくその場に仰向けに倒れた。
 耳に入って来たには、ひゆりの走って逃げる足音。テーブルや椅子に身体をぶつける音。
 行かないでくれ!
 叫んだつもりが、全く声になっていなかった。もごもごとくぐもった声を出しただけだった。
 油断をすれば、途切れてしまいそうな意識を必死に繋ぎ止めた。
 扉を開け放つ音。ひゆりは外に出てしまった。秋は止めなければと立ち上がろうと腕に力を込める。ひゆりの足音は急速に遠のいていく。
 だめだ! 行かないでくれ!
 秋は自分が正気に戻ったのかどうかも分からなかった。ただ、ひゆりがいなくなってしまう事が、どれほど重大な事かは気づいていた。
「星名さん……!」
 声が出た。だが、声が出ただけだ。秋の眩暈は回復しない。
 傍に、蓋の部分がひび割れたクーラーボックスが月光に照らされていた。秋はひゆりにそのクーラーボックスで頭を殴打されたのだ。中身が入っていたら、死んでいたかもしれない。いや、中身が入っていたら、ひゆりには持ち上げられなかったか。
 秋はぎり、と痛んだ頭を抑える。タンコブができていると思ったが、手には嫌な感触。
 へこんでいる。触るとその部分が柔らかい。それに濡れている。秋の前髪から、ぽたぽたと液体が落ち、あるいは頬を伝い、顎から滴った。秋は自分の濡れた手の平を見た。暗闇の中ではなにも確認する事ができなかった。変わりに匂いをかいでみたら生臭くて、見なくとも手に付いている液体の正体は分かった。
 秋は眩暈を押して、立ち上がる。立ち上がれなかった。
 こんなにふらついて立てない経験など一度もなかった。頭に強い衝撃を受けると足に力が入らなくなるものなのか。力が入らない、というよりは、足の関節が何個か増えてしまって、うまく操れない感じだった。上下の感覚がない。上半身を起こしたつもりでいても、頬の傍には床がある。
 ひゆりの足音は聞こえない。
 すぐに連れ戻さなければならない。連れ戻せなければ秋は一人になる。一人ぼっちだ。この船で、たった一人。亡霊が徘徊する船内の中に、たった一人残されてしまう。
 秋は手探りで壁を発見した。
 壁に体重を預けながら扉へ向かう。長い時間を掛けて出入り口にたどり着くと、観音扉は開いていて、その先にある螺旋階段がわずかに見えた。船内は闇に溶け込んでいたが、どこからかの僅かな月光に照らされて、青いグレーの世界を縁取っていた。
 その黒い青の世界に飛び込む勇気はなかったものの、ひゆりがいなくなる恐怖には及ばなかった。早く追いかけなくてはと、秋は玄関を飛び出すなりに前のめりにつっぺした。
 秋は「くそ」と吐き出す。このダメージは一体いつになったら回復してくれるのだろう。十分後? 一時間後?
 秋はもう一度立ち上がって正面を見た。
「頼むから、戻ってきてくれ」
 
 
 
 目の前に口を開く闇。幾つもの窓から差し込む月光が筋を作り、鉄格子のように冷たい色をしていた。その先にはなにがあるのだろう。迷路のような巨大な船内を徘徊しでもしたら、秋はもう戻って来れないかもしれない。船内は檻の中と一緒だ。暗闇と月明かりの鉄格子で囲まれた、見えない猛獣のいる檻の中だ。その中に間違いなくひゆりは存在するし、そして「化け物」たちも存在する。
 ――行けるのか?
 秋は自分自身にそう問うてみた。答えはなかなか出ない。
 直前に船内に飛び出したのは、赤嶺とひゆり。赤嶺が飛び出したのが最初だ。化け物たちは赤嶺を追いかけている最中かもしれない。少なくとも、ひゆりはまだ生きてどこかにいるはずだ。そして、一人で闇に怯えているはずだ。
 ――僕に怯えている。
 ひゆりは秋を恐れている。何より、今は秋が背後から追いかけてこないかと怯えているに違いない。秋は腹の底から沸き起こってきた後悔に、髪を掴んで歯を食いしばった。そうしないと涙が出そうだった。秋は生まれてこのかた、これほどまでに自分を愚かしいと思った事はないし、恥ずかしいと思った事はないし、人を死の縁へと追いやった事もない。
 それに、これほどまでに……。
 それを考え様として、秋は前を見た。
 暗闇と月明かりの斑模様の向こうに、永遠に続きそうな闇。
 秋は深呼吸をする。深呼吸をしたら頭が痛んだ。顔を一瞬だけ顰める。
 秋は思った。
 光の中にある一点の闇はやたらに不安にさせるものだが、闇の中にある、一点の光りは何だ? 秋は足に力を込めた。力が入った。余計に増えた関節はいつのまにか溶接されている。
 フォーチュンホールから足を踏み出した瞬間に空気が変わる。しっとりとして、生ぬるい空気が秋の頬を撫でた。秋は足の裏の感覚を確かめるかのように歩いた。ほぼ暗闇だ。明かりは付かないのか。ブレーカーが落ちてしまったのか。見える限り、何処にも明かりが点いている様子はない。
 どこを探せばいいのだろうか。声を出そうかと思ったが、悪意のある「化け物」に聞かれたら秋が餌食になってしまうかもしれない。
 声を上げるのは得策じゃない。
 秋は歩くのをやめ、耳を澄ました。
 秋はどんな些細な音も見逃してやる気はなかった。
 
 
 
 慎重に探していたのは最初の数分だけだった。秋は沈黙と静けさに音を上げて叫んだ。
 出てきてくれと叫ぶが、やはりひゆりは姿を見せなかった。
 暗闇の圧迫感は、スポンジに染み込んでいく墨汁がごとく、秋の精神を侵食していった。時間が経つにつれて暗闇は、秋の感情を裸に剥いていく。
 秋は口をへの字に歪めて、嗚咽をあげて泣き出したが、それが情けないとも思わなかった。泣かなければならないと思った。泣いて、少しでも精神に溜まった悪いものを吐き出したかった。
 迷子になって母親を求める子供のように、泣きじゃくりながらひたすらひゆりを探す。どこかで大切なものを失くしてしまった。引き返して、手探りで探すが見つからない。強烈な悲しさ。猛烈な悲しさ。涙は際限無く流れる。
 今はどの辺か。大浴場に程近い休憩エリア。マッサージチェアが羅列し、正面に大きなスクリーンがある。風呂上りのゲストが旅の疲れを療す場所だ。まだフォーチュンホールからさほど離れていない。
 フォーチュンホールを出てまだ間もない。ひゆりはまだ存在していると信じたいが、時間の問題である。
 ひゆりが殺される姿を想像する。
「嫌だ。それだけは嫌だ」
 秋は悪意のある何者かに聞きつけられるのも気にせずに口遊む。ひゆりを失いたくない。なにがあっても、それだけは。
「もう、誰も消さないでくれ。一人にしないでくれ。一人にしないでくれ」
 呪文のように呟きながら徘徊する。こんなに願っても、悪意のある何者かは秋の前に姿を現そうともしない。獲物が一人で彷徨っているのに、目もくれないのか。
 秋は気づいて足が竦んだ。
 今の獲物はひゆりなのだ。一人さまようひゆりが狙われているから、秋は放って置かれているのだ。時間はいくらでもある。夜は長い。ひゆりをじっくり料理し、食してからでも、秋くらいすぐに食えるのだ。
 秋はひたすら船内を歩き回った。現在位置も良く分からなくなってくる。
 秋は大声を上げた。ひゆりの名を呼ぶ。僕はもう大丈夫だ。心配ない。だから出てきてくれ。
 叫びまわっても、ひゆりは現れない。
 ここは何処だ。
 どこかのキャビンエリアであることは間違いないが、客室は五百室以上あるのだ。そのどこかなど判断付かない。
 エレベータの前に立つ。四階に下りれば、メインエントランスがあるはずだ。ところが、エレベータはうんともすんとも言わなかった。
 止まっている。どうして? 船全体の電力が落ちてしまったのか。
 周囲を果てしない漆黒の海に囲まれた巨大客船は、いま暗闇に支配されている。つい十数時間前までは人に濫れ、光に濫れ、活気付いていたはずの船内は、まるで悪霊に支配された廃墟同然だった。
 秋は頭の中に船内図を思い浮かべ、階段を捜す。階段があるはずの場所に行くが、そこは行き止まりだった。
 どういうわけか、現在位置も階段の位置も分からなくなった。
 何をしても、うまくいかない。
 自分の欲望さえ抑えられなかった。
 そして、ひゆりを失おうとしている。
 そして、自分を失おうとしている。
 ――お前は一人だ。
 そう声がした気がして、後ろを振り返った。
 もちろん何も見えなかった。羅列するキャビンのドアが秋のことを監視している。前を通ろうものなら、口を開けて食らってやると殺気立っているようだ。
 足が竦んで動けなくなった。
 聞こえた声は、秋の幻聴かもしれなかったが、幻聴ならば幻聴で秋はそれに恐怖した。
 しばらく後方を振り返っていたが、もう声は聞こえてこなかった。再び歩き出す。ぐすり、ぐすりと泣きながら、必死にひゆりの姿を求めた。
 ――もう、お前は一人だ。
 また声がした。今度は悲鳴を上げて飛び上がった。
「もう、止めてくれ」
 その声が榊巻のものに聞こえて、再び粟立った。
 榊巻が化けて出ているのかと思った。
 秋は耳を澄まし、周囲を見渡す。亡霊の姿はないし声もしない。
 しかし、今度はその静けさが強烈に全身を締め付けた。
 秋は頭を抱えるように耳を塞いだ。まるで耳を塞げば、無音が聞こえなくなるとでも思ったかのように。
 うわあああ、と叫びながら、秋は盲目的に走り出した。それで壁や柱にぶつからなかったとしたら奇跡だ。
 奇跡は起きず、秋は正面から突き当たりの壁に衝突した。
 衝突の衝撃に壁は微動だにしなかったし、まさか、避けてくれたりもしない。
 秋は壁に跳ね返され、仰向けに倒れた。したたかに鼻をぶつけて、鼻の奥に鉄の味を感じた。
「痛い」
 子供のような声。秋は顔を抑えたまま、そのままだった。しばらくそのままだった。
 ――秋さん。
 ひゆりの声が聞こえた気がして、秋は勢い良く上半身を起こした。途端に頭痛がぶり返す。気が遠くなる思いだった。それでも必死に周囲を見渡したが、ひゆりの姿はなし、ほとんど暗闇しか見えない。
「星名さん?」
 秋は恐る恐る声を出してみる。
 返事はない。
「いるんですか? いるんだったら、声を出してください。僕はもう大丈夫です。さっきはどうかしてたんです。もう大丈夫です」
 必死に訴えたが、声は返ってこなかった。何度も出てきてくれと声をかけたが、それはひどい吸収力を発揮する闇に吸い込まれていった。それでも秋は喋り続けた。それしか秋に希望はなかった。
「僕はどうして、こんな目に遭ってるんでしょう。いったい、何の罪で僕は一人にされたんでしょう」
 秋は涙声になった。あるいは涙声を出せば、ひゆりが微笑んで姿を現してくれると思った。
「一体誰なんです? 誰が僕らをこんな目に遭わせるんですか?」
 ――馬鹿ね。
 赤嶺の声がした。
 秋を慰めるかのように、全てを許してくれるかのような声だった。
 しかし、この言葉は、赤嶺の最後の言葉である。
「何が馬鹿なんだ? 一体、みんなはどうして一人になりたがる? そのせいで、皆いなくなってしまったのに、なんで一人になるんだ?」
 ――人は所詮、どこまでいっても孤独なのよ。それを悟ると、団体でいる意味が分からなくなる。だから一人になるの。
 赤嶺の声で、そう返答が返ってきた。
 人は所詮孤独?
 孤独?
 なら、どうして僕は誰かを求めたりするんだ? それは誰かと居れば孤独ではないからだろ? 誰かといる限り、一人じゃないだろ?
 しかし、それには誰も答えてくれなかった。
「星名さん。僕は君になんて謝ったら許してもらえるんだ」
 秋はひゆりを思い出した。
 昨日の朝から現在までのひゆりだ。
 丁重な日本語。よほど素敵な書物や先生に日本語を学んだのだろう。
 白い肌に細い身体。ハンドバッグ一つの荷物。自分の荷物は赤嶺と一緒だったと言ったか。
 寝顔。怒ったかのような顔。近い顔。瞳に反射した月明かり。
 そう言えば、彼女はことあるごとに秋の名を呼んだ。
 ――秋さん。
 その声は秋の記憶の中にある声だ。容易に思い出せる。
「くそ!」
 秋は傍らの床を叩きつける。
 秋はその場でもう一度泣いた。
 膝を抱えて、声を潜めて泣いた。
 動けるのはここまでだ。
 もう、誰も帰ってこない。
 秋にも帰る場所がない。
 もう動けない。動きたくない。
 これ以上、動けるわけがない。動けば、向かい風が当たる。その向かい風は、血なまぐさくて、いろいろな不気味な物体を飛ばしてくる。
 ひゆりはまだ生きているのだろうか。まだ、一人でこの船内をさ迷っているのだろうか。それを想像すると、秋の胸はキリキリと痛んで、再び涙の衝動が込み上げてくる。
 ――あなたの事が気になっている人がいます。誰でしょう。
 秋がひゆりを悩ませた問題。
 答えは「福田」だ。
 
 
 
 必ず戻ってくると言っていた福田も、もう死んでしまっているのだろうか。
 榊巻でさえ戻らなかった。唯一の理性だった邑崎も戻ってこなかった。
 秋が生き残れるか?
 そんな都合よく、自分だけ助かるか?
 いまさら抵抗して、希望を持ったからといって、秋が生き残れるのか?
 前の奴等と同じだ。
 秋は殺される。
 自分だけが例外であるはずがない。例外はない。たまたま、最後まで残ってしまっただけだ。最後まで生き残ってしまっただけだ。最初から最後まで生きていた人間だからといって、何も特別なわけがない。絶対に誰かが最後に残る。それがたまたま自分だっただけだ。安全地帯に包まっていたから、助かっていただけだ。臆病者だからこそ、みんなのもとを離れなかった。その見返りは「最後に独りぼっちになる」である。
 報いが来たのだ。
 逃げ回っていた代償に、一番の恐怖を味わされている。
 いつ、自分は殺されるのだろう。
 失踪者続出の件が明るみになってから、ずっと自分は帰ってくる場所にいた。みんなが帰ってくるを待つ立場だった。
 一人になって、みんなを待つ?
 今は、いなくなった連中と同じ、たった一人の闇の迷子だ。
 自分は馬鹿だ。たった一人の心の拠り所だった女の子を、恐怖に追い込んで、暗闇に追いやってしまった。殺されると分かっていて、追いやってしまうなんて、一体どんなことをすれば、この罪は償われるのだろうか。
 逃げるしかないか。
 死を持って。
 そうすれば、誰もこんな事実は知らないし、みんな死んでしまったんだから、誰も喋りはしない。秋の罪は秋が死ぬ事で、闇に葬れる。
「星名さん。本当に傍にいないのか? 僕は正気に戻りました。どうか、隠れてるのなら出てきてください。僕はこの暗闇に耐え切れない」
 涙声だった。これ以外の声がもう出せない。
 はたして返事はない。その声が誰にも届いていない事実が恐ろしく感じて、秋は喋り続けた。
「何か食べたい。眠りたい。誰かと一緒にいたい。みんな出てきてくれ。そうしたら、僕はもう何も要らない。それだけでいい。出てくるだけだ。簡単だろ」
 
 
 
 ――秋くん、私を探して。
 笹川の声がした。
 ――私を見つけてくれたら、セックスしてあげる。気持ちのいい棒を咥えてあげるし、お尻の穴を舐めてあげる。
 秋はぼんやりと目の前の衝突した壁を眺めながら、声を聞いていた。
 ――今までの失礼は詫びる。だから、俺を探し出してくれ。
 榊巻の声だ。そう、ことあるごとに秋は榊巻に不愉快な態度を取られた。でも、いまさら何とも思ってない。生きて榊巻が姿を現したら、秋はきっと無上の喜びを感じるだろう。
 ――君に言ったよね。
 今度は小山内の声だった。
 ――君にここに来てもらったのには、実は他に理由があると。
 そう言えば小山内はそんなことを言っていた。
 ――君は強い人間だ。だから僕らの事も、きっと探し出して救ってくれるだろう。こういう時のために、君を呼んでおいたのだ。
 そもそも、こんな目にあったのは、叔父さんのせいだ。叔父さんが僕を連れてきたりしなければ、こんな目には遭わなかったんだ。
 ――榊巻は見つけなくてもいいわよ。それから、福田もね。
 赤嶺の声だ。
 ――それ以外を助ければいいわ。他の人はどうでもいいの。私たちだけ助けて。
 榊巻と、それから福田は?
 ――みんな榊巻を嫌ってるんだよ。
 笹川の声。
 ――あいつは大嘘つきだから。あんな大嘘つき、見た事がない。
 ――僕が一番知っているんだよ。
 小山内の声。
 ――榊巻くん自身、自分が魅力的だと信じて疑っていない。そして、自分を特別視している、そんな榊巻くんが嫌いなのさ。
 そんなに彼のなにが悪い?
 それと、ひゆりはどうした? なぜ、彼女は探しては駄目なんだ?
 ――言っただろ? 俺達は自分を特別視している人間は大嫌いなんだ。彼女は天才であり、美人だろ? 鼻にかけてやがるんだ。だから、声を掛けても澄ましてやがる。それが気に入らないんだよ。
「もういいよ。もう何も喋らないでくれ。全ては僕の想像だ。暗闇のせいでおかしくなってるんだ」
 そう呟く事によって、声は止んだ。
 
 
 
 秋は膝を抱えて、抱えた両膝に顔を埋め、じっと待っていた。やがてくる、自分が消失するその瞬間を待っていた。もう何がどうなろうと、秋は来るものだけに期待した。殺されるのなら、それでもいい。助かるのなら、それでもいい。もう動きたくなかった。
 ――秋さん。
 ひゆりの声。
 それが、現実の声か、悪意あるものの誘惑の声か、秋の幻聴か、もう区別がつかなかったし、もう区別を付けたいとも思わなかった。
 次に聞こえたのは榊巻の声。
 ――俺達は目を背け続けてきた。目の前にある現実から、目を背け続けてきた。俺達の目の前には、確かに惨たらしい犯罪が起こっていて、いなくなった奴等は確かに帰ってこない。そして、もう帰ってくる事もないだろう。
 ――やめて。
 赤嶺が悲鳴まじりの声をあげる。
 また声が聞こえ始めた。秋は他人事のように何も言わなかった。
 ――帰ってくると思うのか? 何事もなかったように、帰り道が分からなかった、なんて笑って言い訳しながら帰ってくるとでも思ってるのか?
 ――じゃあ、死んだと思えって言うの?
 ――そうだ!
 やたらに喋りまわる幻覚がうるさくて、秋は痺れを切らして言った。
「死んだんだ、みんな。叔父さんも、榊巻も、ひゆりも。生き残ったのは僕だけだ」
 ――本当にそうか?
 今度は邑崎の声だ。
 ――自分がまだ生きていると本気で思ってるのか? 本当は、悪意のある者にひどい拷問を受けているのに、君は現実を逃避して、まだ無事でいるとでも思ってないだろうな?
「一体どういう意味だ」
 ――お前が見ている現実が、本当にその通りだと思ってるのかってことだ。お前は究極の現実逃避に成功して、実は死に掛かっているのに、まだ生きていると勘違いしているんじゃないか? 俺達の声が聞こえるんだろ? それが何よりの証拠。俺達は死んだ。君ももうじき死のうとしている。でも、君はそれを受け止めていない。その真実を先延ばしにしようとしている。これから殺される、と思ってるんだ。ほら、勇気を出して眼を開いてみなよ。君の目の前には覆面をした悪意のある者達が取り囲んでいる事だろう。そして、自分の内臓がテーブルの上に置かれて、食われている現実を見れる。そのテーブルの上には俺達の生首が並んでいる。お前はそれを見たはずなのに、見ていないと思い込んでいる。
「嘘だ」
 ――嘘じゃない。
 小山内が言った。
 ――君は星名君に頭をかち割られた後、気を失っている間に厨房まで連れ込まれて、腹を割かれたのさ。今は都合のいい夢を見ているだけだ。そこは、本当はキャビンエリアなんかじゃないし、もう、赤嶺君も星名君も生きてはいない。君は、死体を解剖するステンレス台の上で、内臓をほとんど抜き取られている。でも君はまだ生きていて、内臓が取られたのにまだ生きている自分を見たくなくて、現実逃避をしているのさ。いいから眼を開いてみろ。
「僕は眼を開いてる」
 ――それが違うって言ってるんだよ。船内は電気が回復して、とても明るいんだ。いま君の周りは真っ暗だと思ってるだろ? それは君が目を瞑ってるからなんだ。
 ――ぎゃはははははは。
 ――目を開けろ、秋くん。
 ――目を開けて、秋くん。
 ――秋くん。真実を見ろ。
 ――内臓を見ろ。
 ――そして、死んでくれ。
 ――死ね。
 
 
 秋は目を開いた。
 そこは明るくもなかったし、厨房のステンレス台の上でもなかった。
 秋はただ待てばいい。
 その時が来るのを待てばいい。
 直前になったら、都合よく気を失ってしまえば、最後の恐怖を感じなくてすむ。
 そうやって、無情な神でも恨みながら、時間を潰せばいい。
 もう、誰の声もしなかった。
 秋はぼんやりと周りを眺めてみる。壁と、三方に伸びる廊下。突き当たりは闇に溶け込んで見渡せない。その先に見える虚無。その向こうに存在する悪意のある者たち。
 どうやれば、気を失えるのだろう。
 秋は額から滴れてきた血が目に入って、視界を失った。
 目を瞑って、恐怖がぶり返してきた。
 誰もいない。
 みんな死んだ。
 僕は一人だ。
 何も見えない。
 体中が痛い。
「やつら」の正体が分からない。
「やつら」の目的が分からない。
 いつになったら、僕が殺されるのか分からない。
「誰でもいいから、僕に声をかけてくれ」
 ――秋さん。
 ひゆりの声だ。
 秋はひゆりの声を望んだらしい。
 今なら、どんな現実でも秋は作り出せる自信があった。どんな都合のいい現実でも作り出せる。僕は今、実家にある部屋のベッドの中。
 隣には裸で眠るひゆり。
 けだるそうに寝返りをうつひゆりの後ろから、柔らかい胸を揉む。眠りながら微かに喘ぐひゆり。秋は勃起して、後ろから挿入した。
 悶えるひゆり。顔をこちらに向ける。薄目でキスをせがんでくる。秋はキスをした。舌を絡ませ、長いキスをした。
 秋はそろそろ絶頂を迎えそうだった。次第に激しくなる腰の動き。
 ひゆりが喘ぎながら何かを言った。
 秋は「なに?」と聞き返す。
 ――問題です。
「は?」と、秋ははにかんだ顔を返した。
 ――問題です。
 ひゆりの声がもう一度そう言った。
 ――あなたのことが気になっている人がいます。それは誰でしょう?
 それは僕が君に出した問題だ。
 ――早く答えて。
 ひゆりはしつこく答えをせがむ。
 何度も言うが、これは都合の良い想像。
 僕のことを気になっている人がいます。
 僕のことを好きになってくれた女の子がいます。
 
 
 
「答えは君」
 秋は胸が詰まり、眉間のあたりが締め付けられて、涙が絞り出された。それは止めど無く、再現なく流れていく。
 同時に頭がくらくらと回り、秋は仰向けにばったりと倒れた。
 あの時、いやおうなく惹かれた女性を、肉としてしか見なかった。彼女を肉呼ばわりし、彼女を絶望に追いやり、闇に燃え盛る船内に放り出したのか。どうしてもっと早く認めなかったのか。もっと早く素直になれたら、あんな形で性欲の権化である人格を表に出す必要なんてなかった。
 口にしなくてもいい。ただ素直に思えばよかっただけだ。
 すぐに君が好きになった。そう思うだけでよかった。
 僕は最低だ。
 自分がこんな弱い人間だったなんて、信じたくなかったけど、そうだったんだ。
 なぞかけをした女の子はもういない。
 秋はさらに涙を流した。もう、何の涙か分からなかった。泣けば目から悪い菌が一緒に排泄される気がして、泣いた。
 ひゆりがいなくなった。
 そして秋の番だ。秋が消失せず、こんなところでぼんやりしていられたのは、きっとひゆりが獲物にされていたからに違いない。一体どんな殺され方をしたんだ? 犯されてから、腹を裂かれたのか?
 秋はどんな風に殺されるんだろう。
 一番最後。
 この世で、なにより残酷な言葉に聞こえた。
 
 
 
 考えろ。
 考えろ。どうして諦める。まだ自分は生きている。
 どうしてこうなったか、なぜ考えようとしない。
 なぞかけだ。なぜ、誰もいなくなったのでしょう。
 推理小説みたいに、今までに正当なルールによって秋は答えを導き出せるだけの情報を得ていて、真犯人は必ずどこかにいて、薄笑いを浮かべながら自分を監視している。
 いや、これは物語ではない。
 この現状の謎を解くヒントを今までに得ているはずがない。紛れも無く現実なんだ。
 自分以外の誰もいなくなった状況。誰もいなくなる前には動いていた空調が止まった。今日の朝までは、電気も切れていなかった。
 最高技術の集結した、最新鋭の豪華客船が停電など考えられない。
 誰かが血の通う指でブレーカを落としたのだ。
 そうなると、この現状は超常現象ではなくて、存在する誰かが作為的に行ったことになる。
 恐ろしい。悪意だ。これは悪戯なんてレベルじゃない。諸外国の誘拐事件であろうか。闇の人身売買の仕業か。
 海賊に襲われたとでも言うのか。
 誰にも気づかれずに、こっそりと600人近い人間を誘拐することなんて不可能だ。
 やはり、人知の及ばない現象が起きているのか。
 そういえば、あの時見たピンク色の雲。
 秋の脳裏に、何かがよぎる。
 いま、何か思い出した気がするが、手に抄った水のように留めておくことが出来なかった。
 原因は分からない。それを追求したところで、意味もない。
 生き残る方法だ。
 まだ一人ではなかった頃、やらなければならない事があったはずだ。
 無線機、救命灯、携帯電話、残っている生存者。
 秋はゆるゆると立ち上がる。
 予想通り、激しい立ちくらみ。
 足腰には相変わらず力が入らない。
 喉がからからだった。食事も摂っていない。
 喉を潤すのと、栄養補給が最優先だ。
 それから、どうにか地上と連絡を取る方法を探し、生存者も捜す。
 誰でもよい。誰か一人でも良い。人の存在が欲しい。
 一人は耐え切れない。
 秋はのろのろと歩き出す。
 現在位置は分からない。だが、どこか目印になる場所に出れれば……。頭の中には船内図は写真のように焼き付けられている。
 暗闇の中、難破船の中を漂白う秋は亡霊そのものだった。自分自身の存在感さえ感じない。ただ、抜け出すことばかり願って歩くうち、そのうち闇に溶け込みそうだ。
 通常使用しない非常階段を下ると、湿気の多さと水の匂いを感じる。この船上で水があるエリアは、屋外プールか、大浴場か、中央のレクリエーション広場の噴水か、船外の大海原。
 彷っていると、マッサージチェアの羅列したラウンジが見えた。大浴場である。ならばフォーチュンホールが近い。あそこには運び込んだ飲料水と備蓄食料があるはず。
 失われたか、継続しているか疑わしい意識の中、ゆるゆるとフォーチュンホールに向かう。
 失踪者は、その失踪する瞬間、一体なにを見たのか。蝋燭を吹き消したあとに訪れる暗闇のように、それは前触れもなく突然訪れたのだろうか。
 だとしたら、消失するその瞬間を意識することは出来ない。今だって、存在しているのか消失しているのか曖昧だ。
 秋を攫おうと、今にも背後から何者かが襲ってくるかもしれない。
 そうなれば、もう受け入れようと思った。一人でいることは辛すぎる。いっそのこと、自分も行方不明者の一人になったほうが楽になる。
 フォーチュンホールまでの螺旋階段を上っているとき、ふと気づいた。
 仄かに明るい。
 螺旋階段の上を見上げる。
 微かに光が漏れているのだ。
 ――誰かいる。
 そのことに思い至ったとき、秋の胸の中に希望が膨らんだ。
 ひゆりが戻ってきたのかもしれない。
 秋は何度も足を踏みはずしながら階段を駆け上った。
 フォーチュンホールの扉は開放されていた。自分が出てくるとき、開けっ放しであったかどうかは記憶が定かではない。
 フォーチュンホールに足を踏み入れる。光源はフォーチュンホールの一番奥に見えた。ステージ上に置かれた荷物の付近だ。
 光源がフォーチュンホールを囲むように存在する窓に乱反射し、合わせ鏡のように光の点が無数に浮かんでいる。
 秋は慌てて踏み寄る。人の姿は見えない。ただし、テーブルや椅子の陰になった場所に誰かが座り込んでいるかもしれない。
 あの光は何なんだろう。火の類ではない。蛍光灯のように青い光。
 傍まで来ると、人の姿はなかった。
 光は、電球式と蛍光灯式を併せ持ったの携帯ライトだった。
 秋は周囲を窺う。
 静寂がゆっくりと流れている。
 秋は暗闇より、自分の存在を主張する光の傍にいる事が恐ろしかった。
 光が作り出す遠くの薄暗闇と、影が恐ろしかった。
 だが、間違いなく、この明かりは誰かがここに置いたものだ。少なくとも、ここきたときにいたメンバー、邑崎、凛子、榊巻、赤嶺、ひゆりの誰かである。
 誰か戻ってきたのだ。
 秋はくそっと悪態づく。
 なぜここで待っていなかったのか。
 闇雲に出歩かず、ここで待っていれば。誰かが帰ってくる可能性を考えるのは容易であったはず。
 戻ってきたのは誰なのか。
 このライトを、一体何処で見つけてきたのか。
 どうして、今はいないのか。
 秋はライトを手にとって持ち上げてみた。
 その時、ライトの下に置かれていたものに気づく。
 一枚の用紙。
 こんなもの、前にあっただろうか。
 不審に思って、紙切れを手にもつ。
 A4サイズの紙に、手書きで文字が書かれていた。
 誰かのメッセージだ。
 秋は空腹の猛獣が獲物を食い漁るように、メッセージを見張った。
 誰のメッセージか。
 置手紙か。ひゆりが秋に残したメッセージか。
 おそらくボールペンで書かれたであろう、用紙の最初の一文を読んだ。
『月原秋様、アザー編、お疲れ様でした』
 アザー編?
「なんだこれは」
 用紙は手書き、加えて冒頭に秋の名前が宛名されている。
 秋に向けて書かれたものに間違いないが、いつ書かれたものか。
 続きを読む。
『おそらく、想像しうる最短である航海二日目にて月原様はこの用紙を手にしたことになるでしょう。ここまでの月原様の行動は予定外の事態もほぼなく、一番オーソドックスな結末を迎えようとしております』
「なんだこれ……」
 秋は胸にうず巻く言い知れぬ悪寒を抱きながら、続きを読んだ。 


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