桃色くも


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第八章 〔 騒動 〕 


  時計を見ると、ダイニングルームで大学生たちがイベントを行う二十一時まで、あと十数分しかなかった。
 秋の現在の使命は、笹川由利子の捜索と、小山内の捜索結果をキャプテンに伝えることと、加賀山瑞穂に邑崎が会えないと謝罪すること。この順番が優勢順位となる。
 ダイニングルームに戻ってくると、舞台上では専属バンドが陽気な楽曲を演奏している。
 会食パーティの人々の騒がしさと、陽気な楽曲があいまった喧騒を縫って、控え室に向かった。控え室の扉の前に控えているクルーは顔見知りだ。会釈をして控え室と言う名のオープンデッキに出ると、大学生の集まるテーブルをみる。赤嶺美紀、福田守、榊巻伸二の三人が本番前の緊張感から落ちつかなそうに専属バンドの楽曲が終わるのを待っている。
「すみません」
 秋が赤嶺の声をかけると、赤嶺は「ああ、秋くん。由利子、見つかった?」と聞かれ「申し訳ありません。見つからなかったです」と謝罪した。
「仕方ないね。三人でやるしかないか。まあいいや。大丈夫。ありがとう秋くん」
 意外なあっさりとした態度に、拍子抜けする。福田や榊巻も、秋を非難するような態度はない。
「とりあえず、まだ探してみますが」
「うん。よろしく」
 そっけない赤嶺の返事。もうとっくに笹川抜きでの催し物のプランは立てたようだ。今は本番前の緊張で、秋の相手などしていられないのだろう。
 秋は挨拶をして控え室を出た。
 加賀山瑞穂の歌を生で聞きたかったが、二十時からだといっていたのでもう終わっているだろう。秋はそれが残念でならない。
 つまらない思いをしながら、それでもこれから国民的美女の加賀山瑞穂に会いに行くと思うと、夢のようだった。
 確か、二十一時に客船の最上階にあるサンデッキで待っていると言った。
 もう数分で二十一時になる。急がなくてはならないと、秋は早足でダイニングルームを出てエレベータに向かった。
 まるで初デートに向かう高揚感の中、不意に加賀山瑞穂に会う目的を思い出す。加賀山瑞穂の会いたい人間である邑崎の都合が悪くなり、それを伝えるのと謝ることだ。加賀山瑞穂が待っているのは秋ではない。
 少々落胆する気持ちと、それでも沸き起こる期待を胸にエレベータの最上階ボタンを押した。
 エレベータが浮上する間、秋の頭を埋めたのはクルーが行方不明になっていると言う事実。はたしてそれは、どれほど深刻なのだろうか。
 客船は最低でも数人のクルーが居れば動かせると言うし、もし神戸港に行き着けなくても、この先進国で難破するとは考えにくい。時間通りに神戸港に着かなければ誰かしら気づいて救助に来るまでには時間も掛からないだろう。
 このまま海の真ん中で迷子になって、命を終えるほどの深刻性はないだろう。
 最上階の着いて、エレベータが開くと目の前にはエレベータロビー。そこに加賀山瑞穂は居ない。
 サンデッキに入っていくと、秋は郷愁感を味わった。
 ビニールハウスのような、前面ガラス張りのサンデッキは照明が落とされ、併設しているコーヒーショップも閉店している。
 ガラスを通した夜空には、雲ひとつない満点の星空が広がっていた。
 星光がほのかにサンデッキ内を照らし、天然のプラネタリウムとなっている。
 この幻想的で、雄大な景観をほぼ独占する快楽はなにものにも変えがたい。
 漁船で数日間沖にでいている間に、幾度となく目にした星空。
 降ってくるようで、遠ざかるようで、近いようで遠い光の粒。
 サンデッキに入った瞬間から、静寂の中で夜空を見上げていた秋の耳に、くすぐるような声が聞こえてきた。
 歌声である。
 伴奏も、音声の拡張機もない生きた声。
 涼風のようにそよいできた美声に、秋は星空より視点を移す。
 サンデッキより、黒く壮大な海を眺めるように立つ女性。加賀山瑞穂の背中が見えた。
 まるで現実味がなかった。
 美声を放ち、静かに歌うその背中は、やはり手の届かない高貴な存在に思えた。
 カナリアにたとえられる鈴を転がすような声。
 静かなバラード。
 夜空の元、自然そのものに感じる旋律と、囁くような恍惚の世界に誘う声。
 秋は時間を忘れ、聞き入った。
 伴奏もマイクもない、主旋律だけの歌が、これほどまでに胸をくすぐり、時には痛みを覚え、さまざまな感情を呼び起こすものだと、秋は始めて知った。
 思い出される初恋の相手。思い出されることのなかった、悲しい思い出。
 歌声は嘆くように震え、囁くように掠れ、喜ぶように跳ねる。
 秋の心が同調して揺れる。
 快美とはこの事だ。
 やがて歌は心を震わせるような高調を見せ、やがて眠り入るように消えていった。
 このひと時。まるで宝石のようだった。
 秋は心に、希少で貴重な感情のひとつをプレゼントされたような気持ちになった。
 賞賛するよりも感謝したい。
 加賀山瑞穂に声をかけ、彼女の神秘性を損なわせることに罪悪感があり、秋はしばらくその場に立ち尽くしていた。
 歌い終えた彼女は、静かに顎を引いて俯いた姿勢で静止すると、不意に振り返る。その場に立っていた秋に気づくと、顔を上げた。
 秋は思わず両手を挙げて、必死に手を叩いて拍手した。
 加賀山瑞穂は目を丸くして、一瞬驚いたような顔を見せると、次には恥ずかしそうに顔を伏せた。
「聞いてたの?」
 加賀山瑞穂は美しい声で尋ねてきた。
 秋は動揺して言葉にならず、幾度か頷いてみせる。
「声かけてくれればよかったのに」
「い、いえ。そんなことは」
 そんなことできる訳がなかった。
 秋は邑崎の伝言も忘れ、口を開く。
「思わず聞き入ってました。なんか、不思議に思いました」
 加賀山瑞穂は顔を上げ「不思議って?」と尋ねてくる。
「伴奏とか、マイクとか、そんなのなくても凄く綺麗で、透明で、素敵な声なのに、どうして発売される曲って必ず伴奏があるんだろうって」
 加賀山瑞穂は不思議そうに秋を見た。
「ないですよね、伴奏のない曲って。歌声だけのCDが発売されたなんて、あまり聞かないですし。伴奏に邪魔されない、加賀山さんの歌声だけのCDがあればいいのに」
 加賀山瑞穂は微笑むと「そうですね」と言った。
 秋は喋りすぎたことを後悔して「すみません」と謝ると、顔が熱くなった。
 本来の目的を思い出す。それを伝える前に、加賀山瑞穂が言った。
「嬉しい。本当に嬉しいです。曲を褒めてくれるんじゃなくて、声を褒めてくれるなんて」
「いえ」
 秋は全身に汗を掻いた。
「歌声だけのCDなんて。そんなこと言われたこともなかった。わたし、アイドルみたいな扱いだし、みんなが聞きたいような可愛らしい曲しか歌えなかったし、そんなこと言われたの初めて。歌声だけの曲が発表できたら、そんな嬉しいことないです」
 神秘的な天の使いの様に見えていた加賀山瑞穂が、急に痛々しく見えた。胸が締め付けられて、抱きしめたくなる衝動に駆られたが、もちろんそんなことをする度胸などもっていない。
 秋は体裁を取り繕うように言った。
「あっあの、実はですね。邑崎さんなんですけど」
「来れなくなったんですか?」
 急に、かげりのある表情で加賀山瑞穂は口を開く。
「そんな予感がしてました」
 秋は慌てて言った。
「いえ、邑崎さんは来たがってたんです。でも、本当に抜けれない事情が出来まして。本当に来たかったけど、来れなかったんです」
「ありがとう」
 加賀山瑞穂はそう言って、ニッコリと笑ったが、悲しさを隠しきれて居ない。
 こんなに悲しませるなら、無理してでも邑崎を来させるべきだったと思った。
「ごめんなさい。せっかく来てくれたんですけど、実は私のほうも用事が出来てしまって、もう行かないと行けないんです」
 加賀山瑞穂は申し訳なさそうに言った。
 だが、その言葉は嘘だ。加賀山瑞穂が会いたかったのは邑崎である。代役の秋が訪れたところで、加賀山瑞穂がここにいる意味はない。早々に立ち去るつもりなのだろう。
 秋も笑顔を作って「いえ。申し訳ありませんでした」と謝った。
「謝らないで。何も悪いことなんてしてないんだから。むしろ、伝えに来てくれてありがとう。でも、本当に時間がないの。ごめんなさい」
 何度もあやまる加賀山瑞穂に対して、首を振って気にしていない意思表示をした。
 その時、サンデッキに訪れる人があった。
「瑞穂ちゃん、こんなところに」
 背後を振り返ってエレベータロビーのほうを見ると、眉間に皺を寄せた女がハイヒールを鳴らせながら近づいてきた。
「どれだけ探したと思ってるの? 船長やオーナーにご挨拶しないと」
 秋は思い出す。乗船して、オーナー主催のパーティで加賀山瑞穂の傍に居た女だ。おそらく、彼女のマネージャー。
 加賀山瑞穂は両手を合わせて「ごめん、ちょっと用事があって」と舌を出して見せる。
 女は不機嫌そうに「一言相談があっても……」と加賀山瑞穂に小言を飛ばす。その女の関心が秋に向く。
「あなたは?」
 怪訝そうな顔だ。何のゆかりがあってそんな顔を向けられなければならないのか、内心不愉快に思いながらも「ただの乗客です」と答えた。多少の不愉快だと言うアピールの混じった声になった。
「ちょっとやめてよ。この人は船で友達になったの。お話してただけ」
 加賀山瑞穂のフォローが嬉しかった。時間がない、と言った加賀山瑞穂の言葉も真実であったことが嬉しい。
「ほら、急いでるんでしょ。会場に行きましょう」
 そう言って、加賀山瑞穂がマネージャーの肩を押した。
 一度加賀山瑞穂は振り返って、秋に手を振った。
 秋は手を振り返すと、やがて満天の星空の元には、秋一人になった。
 
 
 
 これで使命はすべて終えた。
 今、ようやく秋は仕事から解放され、ほっと一息つけた。
 無人のサンデッキで、秋はベンチに腰掛けた。
 パーティ会場の賑わいも、波の音も聞こえてこない。
 静寂の中、360度パノラマの黒い水平線と、水平線との境界が曖昧になった星空。独占する快感を味わいながら、夜空を見上げて安らいだ。
 視界いっぱいの夜空を見上げるうち、宇宙空間に漂っているような高揚感を味わった。
 ぼんやりと流れ星を探す。
 加賀山瑞穂の歌を聴き、今の秋の胸にはさまざまな感情と、記憶が呼び覚まされていた。
 記憶は頭の中で、奇妙な形を持ったイメージと化す。
 初恋は、揺らぐオレンジ色の川が流れるイメージに変化し、母親の死の悲しみは、空を突き抜けるロケットのイメージを連想させた。
 その形は夢となり、いつの間にか寝入っていた秋に夢を見させた。
 取り留めのないイメージの連続。
 やけに生々しい喜びや悲しみ、恐怖の感情が駆け抜けていく。
 人が生きている間に、本物の死の恐怖を味わえるとしたら、それは夢の中だけである。どんなに写実的な小説を読んでも、どんなに迫真的な映画を見ても、夢に勝るリアルはない。
 夢はもしかしたら、もうひとつの現実。
 夢を恐れるのは、もしかしたら現実逃避。
 表象的な眠りから現実に呼び戻したのは、女の声だった。
 夢の中まで響いてきた声は、聞いたことのある声。
 苦痛ではない目覚め。
 目を開くと、秋を覗き込んでいる顔が見えた。顔は上下逆向きである。
 秋が目を覚ましたことに気づくと、彼女はニッコリと笑って見せた。
 その笑顔の背後。
 奇妙なものが見えた。
 目の錯覚か。
 目覚める直前に見た夢の残像が夜空に映っただけなのか。
 サンルームの天井を覆うガラス。その向こう側に広がる漆黒の夜空。
 そこに奇妙なきらめきがあった。
 夜空に雲が見える。雲はほのかに発光して見えた。
 ピンク。
 桃色の雲。
 なんだあれば。
 遠くの夕焼けが、雲に反射している。そう考えるには、夕方より時間が経ちすぎている。今は夜。太陽は水平線の遥か向こう。
 何かのイベントだろうか。この船から、夜空に向かってピンク色の光を放っており、それが雲に反射しているだけ?
「秋さん?」
 ひゆりの声に、現実に戻ってくる秋。
 秋は寝そべっていたベンチから体を起こすと、改めて彼女を見る。
「ああ、星名さん。どうしたんですか?」
 秋がそういった瞬間、星名ひゆりは表情を渋らせた。
 また怒った。なぜひゆりは顔を合わせる度にまず怒るのか。
「どうしてそんな事いうんですか?」
「いえ、いや」
 うろたえて見せても、ひゆりの非難のまなざしはやまない。
「報告しろといったのは秋さんです。わたし、ちゃんと見てきたのに」
 思い出して、そうか、と納得する。
「すみません、そうでしたよね。ちょっと疲れてしまって」
 力なくそう言うと、ひゆりは秋の顔を覗き込んだ。
「大丈夫ですか? 疲れてるんですか? もう部屋に戻りますか?」
「いえ、大丈夫です。実はもう少しここでのんびりしたい気分です」
「のんびり?」
「ちょっと、昔のことを思い出したりして」
 ひゆりが、秋の座るベンチの隣に座った。
 ひゆりのことを見ると、やけに顔が近く、鼓動が高鳴った。
 どうしてこんなにひゆりは顔を近づけてくるのか。誘っているのではないか。
 いや、邑崎が言っていたではないか。
 無防備なのだ。男の暗闇の部分に対して免疫がなく、ひゆりには安全である距離感を計れないのだ。
 ちょっと唇を突き出せば口付けが出来てしまうことも、その危険があることも知らない。男に触れれば、相手の抱く感情を知らない。
 危うい。
 秋の心をざわつかせる。
 ひゆりには喜怒哀楽はあっても、好き嫌いはない。
「昔のことって何ですか?」
 訊かれて気づく。人に話す内容か。
 母親の死、十三年前の風木島失踪事件。
 思い出に登場する、初恋の女の子。でも、その女の子は、十三年前からずっと、正気を失ったままだ。
「星名さんは?」
 尋ねると、ひゆりが首をかしげた。
 肩にかかっていた髪が、さらりと落ちる。
 魅力的なしぐさだった。
 暗いサンデッキ。
 海綿体が充血する予感。
「星名さんはドイツでなにをしてたんですか?」
「ドイツでですか? 大学に行ってました。国立ST大学です。六歳のころ、数学の勉強のためにドイツに行ったんですが、博士課程を終えてから、やることがなくなってしまって、その後は医学の勉強を」
「は?」
 秋は唖然とした。
 目の前にいる奇特な女性の正体は一体何者なのだろう。
「数学って、数学博士なんですか?」
「はい」
「いつ博士になったんですか?」
「博士号をとったのは……えっと、十二歳のころ」
 秋はひゆりの顔をまじまじと見つめる。
 ひゆりは不思議そうに秋を見る。
「医学の勉強は?」
「医学? 研究のほうが熱心でした。神経系のメカニズムや組織再生の研究」
「……それはいったい?」
「えっと、えっとですね。ヒトデ知ってますか? 星の形をした海の生き物です。それと、トカゲ。それとか、えっと」
「要するに何ですか? ヒトデとトカゲが何ですか?」
「あの、ヒトデは半分に切っても、組織が再生して、二つのヒトデになるんです。トカゲは尻尾を切ると、また同じ尻尾が生えてくるんです。つまりですね、神経の量なんですが、多いと遺伝子の記憶どおりに失った部分が再生されるわけで、実際カエルでの実験では成功例もありまして」
「それを人にってことですか? 腕や足を失った人が、また腕や足をはえるように出来るような医療技術の研究?」
「そうです」
 ひゆりがニッコリと笑った。話が通じたことが嬉しいらしい。
「実現できたんですか?」
 尋ねると、ひゆりは首を横に振った。秋は少し安心した。そんな医療技術が成功させられたら、医学界の革命である。
「多分、成功すると思って論文は発表したんですが、相手にしてもらえなくて」
「発表したんですか?」
「はい。でもいろいろ難しくて。私が発表しても駄目なんです。だから、もっと偉い教授の方の名前で発表したり、ほかの医療技術の進歩とのバランスをとったり、つまりですね、えっと、腕が生えてくる技術が実現されたら、腕に機械を取り付けて腕の代わりをさせようと研究している人には迷惑なことだったり、そんなこともあるので慎重に」
 要領を得ないが、つまりひゆりはその技術を実現したと言うことか。まさか、そんなことはないだろう。そんなすごい人物がこんなところにいるわけないし、そんな凄い人物が、こんな奇特な人間のわけがない。
「脳の研究もしてました」
「脳の研究って、病気のですか?」
 秋は脳腫瘍で死んだ母親を連想した。
 たしか、皮肉にも秋の母親も脳医学の研究者だった。
「ちょっと違います。なんていうか、超能力?」
「超能力?」
「はい。まだ、分かってない部分を分かるように調べてました」
「僕の母親の言葉を借りれば、脳はそのほとんどが謎のままだって。感覚神経のほとんどないのに、どうして頭痛が起こるのかもわかってないって」
「そうです」
 ひゆりは再びニッコリ笑う。
「わたし、こんなに会話したの、初めて」
 ひゆりは嬉しそうに言ったが、まさか生まれて初めてというわけではないだろう。
「良かったですね」
「はい。良かったです。秋さんは? 何を思い出してたんですか?」
 不意に会話が戻って、どうしたものかと秋は逡巡した。
 まあいいか、と秋は話し始める。
「十三年前、星名さんはドイツに居たでしょうから知らないでしょうけど、四国のほうにある風木島っていう小さな島があるんですが、そこで失踪事件があったんです」
「知ってます。化粧品メーカーの清林堂の研究施設があった場所ですよね」
「知ってるんですか?」
 意外に思った。
「あれ、なんでしたっけ。あの、NASAでしたっけ。人体解剖ほろ、ホログラム? のシステム開発の受けてたんですよね」
 秋は研究所施設内に詳しいわけではないが、確かに、第1セッションと呼ばれるレベル1の施設内は、システム開発が主だった。第2セッションでは医療機器の開発。第3セッションでは細菌を扱ったバイオハザード付きの隔離施設。第4セッションでは動物実験や、実際の末期患者を収容した投薬実験が行われていたとかいないとか。
 第4セッションでの業務内容、研究内容についてはいまだ謎のままで、怪奇雑誌などで面白おかしく書かれていたが、本当のところは分からない。
 ただ、第4セッション内を目撃した人間の証言では、まるで病院のような印象だったらしい。いくつかの個室、ベッド。
「僕は十三年前まで、毎週のように風木島のキャンプ場に遊びに行ってたんです。僕の母親が、この島にある研究所に勤めてたんです。でも、僕の母親は滅多に家に帰ってこなくて、子供だった僕が寂しがるので、週末になると父親に連れられて、母親に会いに来てたんです」
 ひゆりがじっと動かずに秋の話に聞き入っている。訊いてくれるのは嬉しいが、少々居心地が悪い。真剣なのは、言葉を必死に理解しているためか。少し優しい言葉で話そうと思った。
「僕のためだけじゃなくて、父親も母親に会いたかったんだと思います。だから週末になるとキャンプ場に来てたわけです。当時の僕は、キャンプに行くのが一番の楽しみでした。キャンプに行けば研究所の所員の人たちが遊んでくれるし、研究所の中は、未知のものばかりで、研究所を探検するのが僕の冒険でした」
 話をしているうちに、当時の心境思い出し、気分が高揚した。
「でも、キャンプ場にいく楽しみはそれだけじゃありませんでした。島にはキャンプ場と研究所と、あともうひとつ、別荘地があるんです。そこには五つの家族が、別荘を住まいとして住んでたんです。だから、僕が毎週キャンプ場に行っても必ずいる顔ぶれというのは、研究所の所員と、その別荘地の住人でした。僕はそのうち、別荘地に住んでいる女の子と仲良くなりました。僕は、その子に会うのが楽しみで、キャンプ場くると必ず別荘地に行って、その子に会いに行きました。その子も僕がやってくると、とても素直に喜んでくれました。その子と色々な遊びをしました。オママゴトもしたし、少年みたいに島中を探検したりもしました。一番楽しかったのが、僕達用のピンクの小さなテントで、彼女の宝物を見せてもらったり、二人で考えた遊びをしたりしていた事です」
 秋は話をしながら、懐かしさとともに記憶の蔦をつたっていた。話しているうちに、忘れていた事も思い出していくのが快感だった。
「その子と会ってから三ヶ月くらい経って、僕の母親が調子を崩したんです。病院に入院してしまったために、僕はキャンプ場に来れなくなってしまいました。当時、十歳未満だった僕は、一人で島に通うにはあまりにも遠かったんです。だけど、一度だけ、僕はこっそりと一人でこの島まで来た事があります。子供ながら、母親が先の短いのを悟っていました。僕はそれが最後だと思って、家に書置きをして一人でキャンプ場にきました。一人で電車やバスを乗り継いで、フェリーに乗って、風木島にたどり着くと、すぐにその子の家まで向かいました。僕はその子を尋ねると、彼女はやっぱり喜んでくれて、その日に最後のオママゴトとか最後の探検とかをしました。でも、あまり時間がなくて、ほとんど遊べませんでした。だから時間はすぐに経ってしまって、もう帰らなくてはならなくなりました。彼女も、僕がもう来ない事を悟っていました。その別れが最後になると分かっていました。だから……」
 だから?
 自分にそう問うた。だからどうしたんだっけ?
「……だから……。そうだ。僕らはお互いに手紙を書いた。それから、自分達の宝物と一緒に箱に詰めて、それを埋めた。大人になったら、それを掘り返そうって約束をして……。そうだ、約束した。大人になったら、お互いに書いた手紙を読もうって……。僕はその箱に、自分の時計を入れたんだ。壊れた時計。埋めたそのときの時間に合わせて、その箱に入れたんだ。……すっかり忘れてた。あの時計はその箱に埋めたんだ」
「時計って?」
「当時、拾った時計です。錆びてたし、壊れて動かなかったけれど、それが僕の宝物でした」
「宝物ですか。いいなー」
「ないんですか? 宝物」
 ひゆりは視線をめぐらせると、顎を突き上げて空を見ながら思案してみせる。
「あれが欲しいです」
 ひゆりが思い立ったように夜空を指差した。
 ひゆりの指差すほうを見ると、そこには満天の星空。
 あるいは何かをプレゼントして気を惹く算段もあったが、欲しいものがあの宝石群だと、手も足も出ない。
「星が欲しいんですか」
 ひゆりは以外にも首を横に振る。
「空を飛びたいです。海の上を飛びたいです。秋さんが話してくれました」
 両手を広げるとふわりと体が浮き、吹き抜ける風が重力をなくす。顎を突き上げ天を仰ぐと、渦巻くように天に巻き上がる。体を傾けると、すべるように海面を飛翔し、傍には鳥たちが平行して飛んでいる。時には空に向かって高度を上げ、時には水面に向かって下降する。空気を切って旋回し、疲れたら浮遊して太陽を浴びる。
 幾度となくイメージした夢。
「翼が欲しいです」
「星名さんは、もう翼を持ってますよ」
 純白の発光する翼。天の使いに授けれる美しい――。
 言って後悔した。陳腐な口説き文句みたいだ。ひどく恥ずかしくなって、頭が痒くなった。
「わたし、翼を持ってるんですか?」
 唯一、ひゆりに意味が通じていないことが救いだった。
「本当ですか? 本当に私は翼を持ってるんですか? 比喩ですか? どういう意味ですか?」
 気になったのか、執拗に尋ねてくるひゆり。体を寄せてくるので、身じろぎしながら、ひゆりと体が触れ合わない距離まで離れる。
 慌てて秋は取り繕う言葉を捜した。
「星名さんは、もう何でも出来る力を持ってるということです。好きなことを、好きなように出来る。空を飛びたければ、空だって飛べる」
「本当ですか? 本当に好きなように出来るんですか?」
「もちろんです。空を飛びたいのなら、パラグライダー、スカイダイビング、小型セスナ、なんでもある。星名さん、空を飛ぶ以外で何かしたいことはないんですか?」
 その質問をしたとたん、ひゆりの顔から表情が消えた。まるで現を抜かしたように呆然とした。
 光のあった瞳が、急にがらんどうになった印象。何もない。その先には空虚しかない。だが、その空虚のさらに深層部分に、渦巻く悲しみを見つけ、秋はいたたまれなくなった。
「君は……」
 産まれたばかりの人。
 指差された方角にしか進めないカラクリ人形。
 この女性は、今まで本当に時を生きてきたのだろうか。本当にドイツに行ったのか。本当に人のいる世界に住んでいたのだろうか。
 不意に取り留めのない疑問が突風のように秋の胸中を薙いだ。
 不安になり、切なくなった。
「大丈夫ですよ。空を飛びたい。まずはそれを実現しましょう」
 空を飛ぶ、そのキーワードはひゆりの瞳に再び活力を取り戻した。
「どうやってですか? どうやって空を飛んだらいいですか?」
「オーストラリアに、山間を繋ぐようにロープを繋いで、ロープに吊られながら上空を滑空するアトラクションがあります。それと山の斜面を飛び降りるように空を滑空するパラグライダーとか」
 うんうんと頷いて興味を抱くひゆり。数学の博士になるくらい優秀でも、医学界に革命を起こしかけた天才研究者でも、パラグライダーやスカイダイビングという方法は発想できなかったのだろうか。
「パラグライダーはどこに行けば出来ますか?」
「どこだろう。調べればすぐに分かりそうだけど」
 ひゆりは質問ばかりだ。
「わたしを連れてってくれますか?」
「ええ、もちろ――」
 言いかけて、慌てて口をつぐんだ。
 今ここにいるのは仕事である。これではお客様を口説いていることと同じだ。ルール違反もはなはだしい。
 ひゆりが期待するような顔で、秋を見ている。
 ひゆりとパラグライダーをやりにお出かけ。すなわちデートだ。それは最高に幸福だし、喜んで承諾したいが、安易に頷くことが出来ない。秋の今の立場がアルバイトでなかったら……。
 迷っている秋の様子を察して、ひゆりがむくれてそっぽを向くと「もういいです」とふてくされた。
 揺さぶられる。胸が痛んだり、心地よくさせられたりする。こんな気持ちはいつ以来だろうか。
 そんな気持ちを抱く自分が嬉しくて、秋は少しはにかみ笑った。
 ひゆりの手を握りたい。そんな素朴な欲求が冷静に意識され、胸をくすぐり続ける。
 ――いつまでもこの時間が続けばいいのに――。
 インディーズ歌手が紡ぎだしそうな安易なフレーズが一瞬秋の胸を駆ける。
 秋はもう一度笑った。今度は自嘲気味の笑いだった。
「――宝物の時計。色あせて、もう壊れて動かない時計だったけど、僕の一番の宝物でした」
 秋が口を開くと、そっぽを向いていたひゆりが顔を向ける。その顔はまだ機嫌が直っていないようだった。
「止まっている時計。それが重要でした。その拾った時計。もしかしたら不思議な時計で、時間を戻したり、進めたりすれば、本当に時間が戻ったり進んだりするんじゃないかって、そう思ってました。だからずっと時計の針は動かさなかったし、宝物の時計を動かしてしまうことで、ただの壊れた時計になってしまうのが怖かった。今、僕が思ってる気持ちはそんな気持ちです」
 ひゆりがぼんやり秋を見ている。言葉の意味は、わざと読み取れないように表現した。
 今、秋はこれで満足だった。
「もう部屋に戻りましょうか。そろそろ夜も遅くなりましたし」
 秋はそう言って立ち上がった。だが、ひゆりは、しばらく黙って秋を見上げている。すると、突然何かに気づいたように「忘れてました」と必死な顔をして、秋の腕を掴むと、もう一度座れと引っ張った。
 何かと思ってると「報告がまだです」といって、強引に秋のしりをベンチに戻した。
 もう少しひゆりと一緒の時間を過ごせる。それは嬉しかったが、疲労からくる睡魔は強烈なものがあり、そろそろ限界に近かった。
 そうだとしても、秋から強引にお願いしたことだ。
「九時から研究会の方たちがステージでやっていたのは、超能力でした。不思議な力で色んなことをやってました」
「超能力ですか。凄いですね」
 半分、呆気に取られて気のない返事をする。手品を超能力と信じてしまう子供のような心は、純粋と言えば聞こえがいいが、そこまでいくと、幼稚と表現されてしまいそうだ。
「福田さんは、箱に入っている何が書かれたか分からないメモの内容を言い当ててしまう不思議な力。榊巻さんは何日も前に用意した封筒に回答を入れて、会場から選ばれた人が、封筒に入ったメモの通りに行動してしまう予言の力。赤嶺さんも凄かったです。会場から選ばれた一人の男性が、赤嶺さんはステージから一番遠い場所で、誰にも聞こえないように小さな声で何かを呟くんです。赤嶺さんは何を言ったか、当ててしまったんです。何度やっても一緒で、会場の外に出ても、小さな声を聞き取ってしまうんです」
 興奮したように喋るひかり。
 本当に驚いたようだ。
 秋に手品の種は分からないが、手品師がテレビでよくやる方法であることは間違いない。
 秋は質問した。
「研究会の方たちは、それを超能力だと言って、披露してたんですか?」
「そうです。凄かったです。私、手品のタネは大抵分かるんですが、あの人たちの見せてくれた超能力は、まったくトリックがありませんでした」
 秋は話半分で聞いていた意識を集中させた。
「星名さん、手品のトリックを見破るのが得意?」
「はい。たいていは分かってしまいます」
 数学博士、医学界の革命児。ひゆりが言っていることは、肩書きが語る根拠がある。ひゆりに嘘があるように思えない。
 そうなると、話が違ってきた。
「本当に超能力なんですか?」
「手品には思えませんでした。それに、超能力研究会だし」
 そう言っているひゆりも、超能力研究会の会員である。福田が透視能力、榊巻が未来予知、赤嶺が可聴領域拡大、ならば笹川にも何かあり、ひゆりにも何かある、と言うことになる。
 ひゆりには人並みはずれた知能がある。それはまさしく超能力と呼ぶにふさわしい。超能力研究会ならば、まさしく興味を惹く研究材料である。
 研究会のメンバーは会員自らが超能力者で、自分自身を研究材料として提供しあっている?
 それをステージで披露する事で、研究費を都合してくれるスポンサーを探すために、彼らはこの船に乗ってきた。彼らがこの船に乗船した目的は、スポンサー探しのためと思って間違いないだろう。招待客は著名な資産家ばかりである。うまく言えば、うん千万の金を動かせるチャンスだってありえる。
 そこまでは読めたが、本当に超能力者だ何てことがありえるだろうか。あれほど数多の怪奇雑誌、研究機関、テレビ特番で取りざたされておきながら、最終的に証明され、実証され、発表されることのない超能力の存在。
 こんなところで本物に出会えるものだろうか。
「星名さん、これ、分かります? もちろん、トリックがあります」
 秋は財布から千円札を取り出し、半分に破って見せた。それを重ねて再び破る。それをもう一度繰り返し、切れ端を重ねてから、再び広げると、千円札は何事もなかったように、破れたあともなく一枚の千円札に復元されていた。
 ひゆりに回答を聞くと、確かに正解した。
「テレビで、よく大型航空機や自由の女神、高層ビルなどを消し去るような手品がありますよね。あのトリックが分かりますか?」
 それも言い当てた。
 夜と鏡とカメラワークが関係するトリックは使い古されたものだろうが、それでも多くの人はトリックを知らないのではないか。
 ためしに、実際に研究生が披露した超能力を手品としてやるとしたら、どんなトリックを使えばいいかも尋ねた。
 多重封筒、複数の予言の用意、サクラの存在、人数を生かした仕草によるサインのやり取り、数々のトリックがひゆりの口から吐き出される。
「多分、研究会の方たちも、披露したことをトリックでやれることを知ってるんだと思います。そのトリックをしなければならない仕草とか、行動とか、そういうのを一切しないようにして披露してました」
 小山内に聞いてみる必要があると思った。実際見たわけではないので何ともいえなかったが、小山内の口から訊けば、信憑性も増すだろう。
「星名さん、ありがとうございました。助かりました」
「もうないですか?」
 ひゆりは秋の腕を掴んだままだ。甘菓子をねだる子供みたいに、もっとくれと訴えかけてくる。
「もう、仕事はないですか? 何かお手伝いできることはないですか?」
 ううん、と悩んで見せる秋。
 ルール違反はこれ以上踏めない。
 本格的に利用するために仕事を依頼するのはもっての他だ。
 当のひゆりはそれでも構わず、餌をねだる小動物のように期待のまなざしを向けてくる。
 その目を裏切れない気持ちもあり、秋は言った。
「明日、午前中の間、凛子ちゃんっていう女の子と仲良くしてあげれませんか? 昼間一緒に居た女の子なんですけど」
「凛子ちゃんですか? 仲良くすればいいですか?」
「はい。僕だと、どうも警戒されてしまって」
「かしこまりました。頑張ります。しっかりやります」
 ひゆりは胸の前で小さくガッツポーズを作った。
 再び胸に渦巻く罪悪感。
 これは仕事の依頼ではない。友人の紹介だ。そう解釈することにした。
「もう、今日は寝ましょう。あした、何時に起きますか?」
「何時が良いですか?」
 起きる時間を自分で決められないのか。ここまで依存的だと、ちょっと疲れてしまう。
 だが、お願い事をした手前「八時には用意しておきましょう」と答えると、ひゆりは頷いた。
 部屋に戻ろうと二人立ち上がる。
 ふと思い出して、秋はサンルームの天井を見上げた。ガラス張りの天井の向こう側に広がる漆黒の夜空。
 先ほど見たピンク色の雲はなくなっていた。
 あれはなんだったのか。
「秋さん?」
 ひゆりに声をかけられ、それぞれの部屋に向かい始めたころには、ピンク色の雲のことなどすっかり忘れ去っていた。
 
 
 
 ひゆりは自室のデラックスルームに戻り、秋はエキストラルームに戻った。
 エキストラルームに行く途中にはメインエントランスを通り、そこからはパーティの開かれていたダイニングルームも見える。今は十一時近い。パーティは終わり、ダイニングルームは厚い扉を閉ざし、深閑としていた。
 メインエントランスのインフォメーションカウンターにも誰もいないのが気になった。
 ふと、思い出す。行方不明者の存在。
 クルーたちの配慮か、秋の胸にはそれほど重大な危機感はなく、海の上で交通事故にあう確立など皆無なのだから、居眠りしていたって、目的地につかないことはあっても、事故はおきないだろうという思いもあった。
 エキストラルームには鍵がかかっておらず、とりあえず安堵しながら部屋に入る。
 室内は明かりが灯っており、エキストラルームを出てきたときと変わらず、布団に包まる凛子に添い寝する邑崎。
 秋は二人を起こさないように物音を立てず布団を敷く。
 ようやく休める喜びを感じながら、明かりを消しに出入り口の近くまで行くと「お帰り、色男」と声が掛かって振り返った。
 寝ていたと思っていた邑崎が上半身を起こして、秋に手を振っている。
 訝しんでみていると、邑崎は手に無線機のイヤホンを持って揺すって見せた。
 一瞬、邑崎の行動が意味不明だった。だが、次の瞬間に気づき、羞恥で全身から汗を噴出させた。
「聞いてたんですか!」
「ああ、プライベートのときはスイッチを切っとけよ。恥ずかしい会話が丸聞こえだったぞ」
 そう言いながら邑崎は厭らしそうな笑みを浮かべる。
「歌声だけのCDか。彼女、どんな顔をしてた? 案外、お前に惚れたんじゃないか?」
 秋は羞恥と怒りが交じり合って、口を利かなかった。
 秋は何も言わず明かりを消すと、布団に包まった。
「……お前があの風木島の研究所と関わりがあったなんてな。あの例の生き残りの少女がお前の初恋の相手なのか?」
 秋は無視をする。興味本位で盗聴しているなど、なんて悪趣味なのだろう。もう二度と邑崎と口を利かないと秋は心に誓った。
 すると、しばらくの沈黙の後、邑崎が小さな声で「ありがとうな」と言った。秋はやはり無視をしたが、何が「ありがとう」なのか気になった。
「あの子、星名といったか。あの子に凜子の相手をしてくれるようにお願いしてたろ」
 秋は答えない。
「お前のこと、つまんねえ野郎だって言ったこと、撤回するよ。もうあと数時間の付き合いだろうが、凜子はお前に会えて良かっただろうよ」
 要するに、初めからお礼を言いたかったのだ。それを言うがために、前半は照れ隠しのように悪態をついたのだ。
「別にいいですよ。ついでですから」
 秋はそう答えた。
 邑崎の鼻息のような笑い声が聞こえてきた。
 それから二人は口を利かなかった。
 
 
 
 その後、眠りに付いた秋であったが、睡眠の世界へ吸い込まれてからものの十五分で、秋は叩き起こされることになった。
 秋を起こしたのは邑崎で、彼も寝ていたのか、酷く不機嫌そうに眉を顰めながら「呼んでるぞ」と低い声を上げた。
「はい?」
 秋はろくに開かない目をこじ開けると、周囲は真っ暗である。身体を起こして「何ですか?」と訊ねると、邑崎が「ドアの前で、お前を呼んでんだよ。うるさいからさっさといけよ」とぞんざいに言い捨てる。
 秋はうんざりする思いで、耳を澄ますと、ドアを何度もノックし「秋くん」と連呼する声が聞こえる。声は赤嶺美紀のもののようだ。
 秋は鉛のような身体を起こし、意識も朦朧とさせながらドアに向かった。
 十五分も寝ていないと気づいたのは、ドアを開けて、木漏れ日で腕時計を確認したときだった。時間は深夜二十三時。まだ航海初日の範疇である。
 ドアの向こうには心細そうな赤嶺の顔があり、服装はパジャマにカーデガンを羽織っている。
「ごめんね、秋くん、寝てた?」
「いえ、大丈夫です。何でしょう」
 寝起きの不愉快さと、赤嶺の表情から感じる問題発生の予感。ひどく気分が悪い。
「あの、笹川がね、戻ってこないの。ステージの催しでもいなかったし、いまも部屋に帰ってないみたいなの。一緒に寝る約束してたのに」
 何でそんなことでわざわざ秋を起こすのか。いや、秋の仕事である。だからといって、重労働過ぎる。朝は九時前から深夜十一時まで。人の都合にふるまわされ続けている。残業手当は付くのだろうか。
「笹川さんの部屋には行ったんですか?」
「うん。でもインターフォンを押しても出てこないの。船の中じゃ、携帯電話も事えないし」
 要するに、笹川を索してくれといっているのだ。
 榊巻はどうしているのか時になった。赤嶺の恋人である。
「他のどなたかには居場所を聞きました? 榊巻さんは?」
「伸二には……。あいつ、寝起き悪いから起こしたくないの。どうせ知らないだろうし」
「他の方は?」
「先生はいなかった。福田は知らないだろうし、星名さんも」
 誰にも聞いていない。
 自分が索すしかないのだろう。秋はうんざりした。辟易を内心に押し込めて、不安そうな赤嶺を安心させようと、秋は笑顔を作った。
「ちょっと心配ですね。ちょっと捜してきます」
「でも、いいの? 疲れてるでしょ? ごめん、やっぱりいいよ」
「いえ、いいんですよ。仕事は仕事ですけど、女の人が夜中まで帰ってこないのはやっぱり不安ですし」
 赤嶺は申し訳なさそうに鼻先に両手を合わせた。
「それじゃ、赤嶺さんはお部屋に戻っていてください。見つけたらお知ら――どうしました?」
 赤嶺は秋の言葉の途中で、突然何かに気づいたかのように右側を向いた。右を向いた赤嶺の表情が緊張している気がして、秋は不安になった。まるで幽霊の気配を感じて警戒しているような印象で、秋は寒くなる。
 秋からは見えないが、赤嶺の見ている方向には短い廊下があり、その先に観音式の扉がある。その向こうがメインエントランスである。
 秋は廊下に顔を突き出して、赤嶺の視線の先を窺った。
 照明が落とされ、小さな間接灯のみの薄暗い廊下が見える。
「どうしました?」
 秋が重ねて訊ねると、まるで現を抜かしていた赤嶺は、いま目覚めたかのように目をぱちくりさせた。
「ごめん、なんか声が聞こえるの」
「声?」
「なんか、うめき声みたいな声」
 秋は再び寒くなった。
「い、今もまだ聞こえるんですか?」
「うん。あっちの方から」
 赤嶺がメインエントランスの方角を指差す。秋は耳を澄ますが、何も聞こえない。
 赤嶺は秋の不安そうな顔を見ると、慌てて取り繕った。
「ごめんごめん、わたし、人より異常に聴力が敏感なの。多分、あっちのほうで誰かが寝てるんだと思う。多分、イビキね」
 取り繕ってるのが分かる。でも、赤嶺の表情にはそれほど恐怖や緊張の色も見られない。赤嶺自身もいびきか何かだと思っているのだろう。
 ふと、眠気からさめてきた秋の脳裏に重要な事が思い出される。
 行方が分からなくなっているクルーの存在だ。
 秋は戦慄した。
 急速に目覚めていった秋は、背筋を凍らせて言葉を失った。
 うめき声が行方不明になったクルーのものかもしれない、というわけではない。笹川の行方が分からないということは、果たしてクルーの失踪と結び付けていいのだろうか。
 秋はつま先から徐々に侵食してくるタール状の闇を意識した。秋の生命力を吸収するスライムだ。脛、腰、胸と徐々に侵食し、最終的には脳みそが汚染される前に、秋は悪い想像を振り払った。
「秋くん、どうしたの?」
 今度は秋が現を抜かしていたらしい。いま目覚めたかのように目をぱちくりさせると、取り繕うように言った。
「いえ、すみません。笹川さんは僕が捜してきます。赤嶺さんは部屋に戻ってください」
「秋くん? どうしたの? なんか急に顔色が……」
「大丈夫です。赤嶺さん、出来れば誰かと一緒にいたほうがいいです。榊巻さん……それが駄目なら、星名さんの一緒にいてください」
「それはいいけど」
 急にリアルになったのだ。
 クルーの失踪。どこか客観的に捕らえていた事態であったが、それが身近な人間に降りかかる可能性は十分にあったはずだ。クルーのボイコット、あるいは点呼ミスなどという都合のいい幻想で恐怖から逃げ回っていた秋は、いま起こっている事態の深刻さを、いま初めて理解した。
 まだどこか、まさかそんな事が起こるわけがない、そんな気持ちがある。確かめなくてはならない。笹川が本当にどこにもいないのか。
「すぐに部屋に戻ってください。夜も遅いですし、お休みになってください」
「うん……」
 赤嶺が怪訝そうに部屋に戻って行く後姿を確認してから、秋は扉を閉めた。
 再び部屋に暗闇が訪れる。
 無を意識させる暗闇。
 振り返った黒い部屋に、果たして空間は存在するのか、秋は疑惑を抱く。
 先ほどまで居た邑崎は? 凛子は? まだそこにいるのか。
 秋は明かりのスイッチに手を伸ばした。
 スイッチは失踪していない。
 明かりを付けると、天井に取り付けられた蛍光灯が何度か瞬きし、部屋を鮮明に照らし出した。瞬間にこの世に存在を明らかにするエキストラルーム。
 明かりの付いたことに気づいた邑崎が、鬼のような顔で秋の事を見た。眩しいらしい。
「邑崎さん……」
 思わず邑崎の名を呟く秋。
「訊いてたよ。ちょっと来い」
 邑崎が何かを掬うような手つきで秋を手招いた。
 近づくと、秋の顔を見た邑崎が、ふんと鼻を鳴らした。
「バカ、そんな顔してんじゃねえよ」
「でも、何か様子が……」
「お前のお客様がいなくなったって? そりゃ、ただの夜遊びだ」
「どうしてそんなことが分かるんですか?」
「クルーとの失踪とは関係ねえよ」
「どうして関係ないと分かるんですか?」
 邑崎が秋を気遣って、気休めを言っているのが分かった。
 邑崎は何かを知っているのか。失踪するクルーたちについて何か知っているのではないか。猜疑心が秋の胸を疼かせる。
「邑崎さん、オーナーと知り合いですよね。もしかして、なにか聞いてるんじゃないんですか?」
「おいおい、やめてくれよ。もちろん知ってたとしてもお前に教える義理はないが、いずれにしても俺は特に問題はないとしかオーナーには聞いてないぜ」
 秋はふう、と息を吐くと「すみません」と謝った。だからといって、猜疑心がぬぐえたわけではない。
「僕はちょっと笹川さんを捜してきます。でも、本当にクルーの失踪と関係ないでしょうか」
「関係ない。言ったろ、クルーの失踪はボイコットだ。消えうせたわけじゃない」
 クルーと同じようないい訳を言う邑崎。つまり、邑崎はクルー側の立場だと言っているようなものだ。
「もういいです。とにかく、笹川さんが帰ってきません。捜しに行って来ます。帰りがいつになるか分からないので、鍵は開けておいてもらっていいですか?」
 秋がそう言うと、邑崎は渋面して頭を掻いている。
 秋は立ち上がり、邑崎に背を向けたころ、邑崎がいらついた声を上げた。
「ああ、待て待て」
 秋は振り返ると、不満そうに口を尖らす。
「何ですか?」
「分かった。教えてやる。ちょっと座れ。笹川って女は少し待ってもらって、俺の話を聞け」
 秋は逡巡する。邑崎が信用できないわけではない。胸騒ぎがするのだ。笹川は今、本当に安全な場所で夜遊びしているだけなのだろうか。
「俺が聞いてるのは、幾人のクルーが失踪してしまったと言う話だ。船内に隠れられそうな場所はすべて探したが、どこにも居ないらしい。それとな――」
 邑崎は何か秋の知らない情報を喋ろうとしている。秋は仕方なく邑崎の正面に腰をかけた。
「とくに失踪前のクルーに変わった様子もなかった。休憩を取っていた何人かのクルーたちはトランプゲームに興じていた。ところが同僚が一瞬目を話した隙にカードゲームをしていたクルーたちは忽然と消え去り、テーブ上ルにはクルーたちが透明人間になってしまったかのように錯覚されるほど、ゲーム途中のカードが並べられていて、火をつけたばかりのタバコが灰皿の上で紫煙を昇らせていたそうだ。トイレの個室には流されないままの排泄物。しかも中から鍵がかかっていたが、個室内には誰も居ない。機関員は担当の計器を定期点検に出かけたまま居なくなり、計器の前にはチェックするはずのクリップボードに挟まったチェックシートが落ちていたという。――わかるか? 原因がさっぱり分からない。今、部屋の外に出ることがどういうことか、これで理解できたか?」
「連れの人間がいなくなってるんです。現状を理解できるからこそ、探しに行かないといけない」
「手伝わないぞ?」
「構いません。ここに凛子ちゃんと一緒にいたほうがいいですし。それに、ほかの学生たちの事も気になります」
 そう言うと、それ以上邑崎は何も言わない。
「それじゃ、行ってきます。鍵は開けておいてとお願いしましたが、やっぱり締めておいてください。帰ってくるときはインターフォンを鳴らします」
「いや、部屋の鍵をお前に預けよう」
「いいえ、大丈夫です。持っててください」
「構わないが……ならインターフォンと一緒に無線で知らせろ。鍵を開けてやる」
「はい」
 秋は立ち上がる。
 入り口まで踏み寄ると、一旦立ち止まり振り返る。
「明かりは消しますか?」
 邑崎は手を振って答えた。
 秋は明かりをつけたまま部屋を出た。
 
 
 
 日付は変わっていないが、深夜である。果たして大海原の沖合いで時間の感覚がどれほど重要なのかわからないが、十二時を回っていないことは、いくらかの安心材料にすることが出来た。
 薄暗いメインエントランスにやってくる。見渡す限りに人影はない。秋はカウンターに近寄って、呼び鈴を鳴らしてみた。森閑とした空間に、よく通る呼び鈴の音が響き渡る。
 ホテルサービスクルーは二十四時間体制で勤務しているはずだ。ところがパーサーは現れない。
 カウンター内には奥の事務所に通じる開け放たれた出入り口が見える。その向こう側にパーサーが待機する事務所があり、カウンターに取り付けられた監視カメラを窺いながら来訪するゲストのために待機しているはずである。
 秋は何度か呼び鈴を鳴らすが、やはりパーサーは姿を見せない。
 一抹の不安。
 まさか、パーサーもいなくなったのだろうか。
 秋はフロントを離れ、エレベータに向かった。
 誰もが寝閉まりかえった時間。物音ひとつない。海上のうねりも感じず、船体を叩く波の音も聞こえない。
 船にたった一人になってしまった孤独感が、秋の膀胱に鈍痛を走らせる。
 誰かの姿を見たいが、いくら首を回しても人影はない。
 秋はエレベータに乗り込み、四階に向かった。キャビンエリアである。とりあえず、学生たちの所在を確かめ、小山内に会うつもりだった。
 四階にたどり着くと、エレベータロビーの中央に円柱型のクラゲの水槽。横を通り過ぎ、伸びた廊下の左右に存在するキャビンの扉の羅列。
 小山内の部屋にたどり着き、インターフォンを鳴らした。室内からインターフォンの男が聞こえてくるが、誰かが出てくるような気配はない。思えば秋が小山内の部屋を訪れて、小山内が在室していたことなど一度もない。
 続いて、笹川の部屋のインターフォンを鳴らした。果たしてリアクションはなく、誰も出てこない。
 寒気が秋の背中を撫でる。まさか、もうすでに誰もいなくなっているのではないか。
 秋は榊巻伸二の部屋の呼び鈴を鳴らす。
 反応はない。
 本当に消えうせてしまったのか。
 まさか、そんなことがありえるのか。
 ところが、しばらくして部屋の中から物音が聞こえてきた。
 続いてドアの鍵を開ける音。
 ゆっくり開く扉の向こうには、寝巻き姿の榊巻がいた。
 どうやら眠ってはいなかったようで、居間で寛いでいたようだ。
「なんだよアルバイトか。何の用だよ」
 やはり邪険な態度の榊巻。
「いえ、何も変わりはないですか?」
 そう尋ねると、榊巻は顔を渋らせて「それだけか?」と尋ねてくる。
「実は、笹川さんが戻ってこないらしいんですが、榊巻さんは何かご存知ではないですか?」
「知らねえよ」
 そう言って、榊巻はばたんと扉を閉めてしまった。
 腹を立てるところだが、人の存在に触れられたことは秋に安堵感を抱かせた。
 続いて福田の部屋の呼び鈴をならす。
 福田の反応は早かった。室内で走るような足音が聞こえてくると、インターフォンを鳴らしてからものの数秒でドアが開かれた。
 開いた先の福田は目を血走らせており、心なしか高揚したように見えたが、秋の顔を見た瞬間、榊巻同様に渋面する。
 一体誰の来訪と勘違いしたのか
「なんだよアルバイトか。なんの用だよ」
「夜分にすみません、実は笹川さんなんですが……」
「笹川が何だよ。俺には関係ねえだろ」
「そんな。同じ研究室の――」
「ああ、うるせえなあ」
「笹川さんがいないんです。居場所をご存じないですか?」
 福田は急に黙り込み、据わった目で秋を睨む。
 秋は不思議に思って硬直すると、何の前触れもなく、ばたんとドアを閉められてしまった。
 なぜそこまで毛嫌いされるのか。秋には不可解でならない。
 秋は次に星名ひゆりの部屋に向かった。
 部屋の前に立つ。男の部屋に訪れるのとは違い、少々、勇気がいる。少しためらいの間を空けていると、不意に隣の部屋である福田の部屋のドアが開いた。
 部屋を出てきた福田は手に何かを抱えている。何を抱えているのか分からない。ひゆりの部屋の前に立つ秋をいぶかしんで現れたのかと思ったが、そうではなかったようだ。福田は部屋に出て気と戸締りを確かめると、初めて秋の存在に気づいて、かすれた悲鳴を上げた。
「あっアルバイト、お前、そんなとこでなにやってんだよ」
「星名さんに笹川さんの居場所を聞こうかと思ってたんですが」
「ばかやろう、今何時だと思ってる。女性の部屋に邪魔する時間じゃないだろ。非常識な野郎が。早く部屋に戻って寝ろ」
 さすがに不愉快になる秋。
「福田さんこそ、どちらにいかれるんですか?」
 福田が目を剥いて、秋を睨んできた。福田を不愉快にさせようとして干渉してみたまでだ。睨まれたとしても動揺したりはしない。
「まさか、星名さんの部屋に?」
「お前に何か答える義理はない」
 福田が胸に抱えているのはテーブルゲームと、恋愛心理テストの本である。明らかに男の部屋に向かうための装備ではない。
 福田は秋の元へ歩いてくると、秋の胸を叩いて乱暴に跳ね除けて、まるで汚物を見るように秋を睨みつけてから、ひゆりの部屋のインターフォンを鳴らした。
 今度は済ました顔で、ひゆりが部屋から出てくるのを待っている福田。秋は隣で福田の横顔を眺めていると「なに突っ立ってやがる。部屋に戻ってろ」と命令口調だ。
 腹が立って仕方ない秋は「星名さんに笹川さんのことが聞きたいんです」と口答えすると、福田は笑い飛ばすように鼻を鳴らして顔を背けた。
 ひゆりが部屋から顔を見せた。恐る恐ると言ったように開かれたドアから不安そうなひゆりの顔が見えた。
 十センチほど開かれたドアの隙間から、ひゆりが最初に見たのは秋の姿だったはずだ。扉の正面に立つ福田はドア自体が遮り、部屋の中もひゆりの姿も見えない。
 ひゆりは秋と目があった瞬間、安堵したようにため息をつくと、次に笑顔を作って扉を押し開いた。
 同時にドアの隙間に、勢いよく顔を覗かせようとした福田の顔面にドアの縁が衝突し、派手な音を立てた。
 ドアにカウンターパンチを食らった福田は、手に持っていた装備を空中にばら撒くと、背中から仰向けに卒倒した。
 秋は愕然と倒れこんだ福田を見た。
 慌てて駆け寄ると、ドアの縁に当てた額を押さえながらもんどり打った福田に「大丈夫ですか?」と尋ねた。
 ひゆりも倒れこんだ福田に気づくと、隣にしゃがみこんで「大丈夫ですか?」と声をかけた。
 福田は手をかけようとした秋の手を振り払ったが、痛みに悪態をつく余裕はないようで、蹲りながら身もだえしている。
 騒ぎに何事だと廊下に出てきた榊巻が、廊下に蹲ってる福田を見て「女を襲って、逆襲にでもあったのか?」と皮肉った。そこに赤嶺も部屋から出てくる。
「どうしたの? 何の騒ぎ?」
 と寝巻きで不安そうな赤嶺に、榊巻が「ひゆりでも襲って、金玉蹴られたんじゃねえか?」と言うと、赤嶺が口を押さえて噴出した。
 思わず秋も笑ってしまうが、慌てて無表情を作ると、福田を介抱しようと視線を転じる。
 秋はぎょっとした。
 顔面を押さえる両手の隙間から、福田の涙が滲み充血した瞳が垣間見れたからだ。暗闇でも真紅と分かるその瞳には憎しみの炎が赤く灯っており、物言わず福田は「見たぞ」と物語る。
 秋は背筋を凍らせると、福田は不意に立ち上がった。
 顔面を押さえたまま、物言わず歩き出すと、ぶちまけた装備品をそのままに、自分の部屋に入っていった。船全体がしびれると思われるほど大きな音を立てて扉を閉める。
 呆然とその様子を見ていた秋に、呆れ顔の榊巻が「どうしたんだ?」と尋ねてくる。
「ひゆりさんが開いたドアに頭をぶつけたみたいで……」
 そう言うと、赤嶺が「いい気味」と吹き出した。不謹慎だと思いながらも、秋もそう思った。
 秋の言葉に驚いたのはひゆりで、「たいへん」と言いながら、慌てて福田の部屋に駆け寄ると、謝ろうとインターフォンを押した。
 顔を見せない福田。みんなの前で恥を掻かされた福田が、いま部屋を出てくるとは思えなかった。
「ところで、由利子は見つかった?」
 赤嶺があらたまって聞いてきた。秋は首を横に振る。
「広い船ですから、歩き回って探し出すのはちょっと難しいです。何か知らないかと、みなさんの部屋を回ってたんですが」
「本当、どこ行ったのかな。船の外にはいけないから、船の中に入るはずだけど。あたりまえか」
 不意に、クルーが次々と行方不明になっている事実を伝えようかどうか迷った。
 明日には神戸港に着く。それは間違いないようだ。ならば、いま彼女らを動揺させるのは無意味だ。
「お騒がせして申し訳ありません。みなさん、もうお部屋にお戻りください。それと」
 出来る限り、相手に不信感を持たせないように言葉を選んだ。
「船の中ですけど、戸締りはきちんとしてくださいね」
「言われなくてもやるけどな」
 榊巻が興ざめしたように、その言葉を残して部屋に戻っていった。
「秋くん」
 赤嶺が秋に近寄って、口元に手を当てた。小声で耳打ちしたいのだと思い、秋が身をかがめて耳を近づける。
「……福田、危ない奴だから、ひゆりをあんまり近づけると犯られちゃうよ」
 驚いて赤嶺を見ると、ウインクひとつして「好きでしょ、ひゆりのこと」と人差し指で秋の肩口を突付いてくる。
「いえ、そんなことは」
「嘘つくなよ。ひゆりのほうは脈ありだとおもうよ。あんなに人になついてるの、初めて見るもん」
「それは、僕がアルバイトだから」
「そう。それが良かったんだね。いい人そうに見えるもん、秋くん。一緒にいても、安心感があるし」
 そうか。と思った。邑崎が言っていた「つまらない野郎」とは、赤嶺の言う安心感だろう。
「今日会ったばかりですから。まだそんな」
「バカンスなんだから、出会いからの時間なんて関係ないよ」
 秋は困り果てた。そんな風に印象を与えると、これから先の仕事がやりづらくて仕方が無い。
 いや、仕事も明日の朝までだ。神戸港に着いたら、おそらく仕事も終わりだ。
「それじゃ、由利子のこと頼むね」
「かしこまりました」
 赤嶺はそれ以上突っ込まず部屋に退散してくれたので助かった。
 何より、人の気配に触れられて、秋は安堵していた。
 秋はしつこく福田の部屋のインターフォンを鳴らし続けるひゆりをみた。ひゆりは申し訳なさそうに秋を見ると「福田さん、出てくれません」と泣きそうな声を上げる。
「心配要りませんよ。明日になったら声をかけてみましょう」
 そう声をかけると、ひゆりは諦めて、肩をがっくり落としながら戻ってきた。
「明日謝らないと……」
 そんなに気に病まなくても……。そう声をかけようとしたが、口から出た言葉は違った。
「星名さん、福田さんのこと、どう思ってるんですか?」
「……どうって、何ですか?」
 しまった。そう思って、秋はひどく後悔した。急に顔が熱くあり、全身にじっとりと汗を掻いたのが分かった。
「なんでもないです」
 慌てて言うと、ひゆりは訝しげに眉をひそめる。
「なんですか? なにがなんでもないんですか?」
「なんでもないんです。ほら、星名さん、部屋に戻りましょう」
「どうしてですか?」
「どうしてって……」
 やはり、掴みどころのない女性だ。
「明日にしましょう。今日はもう遅いです。しっかり戸締りをして、チェーンをかけておいてください。誰か知らない人が尋ねてきても、招き入れちゃ駄目ですよ」
「部屋に戻るんですか?」
「そうです。部屋に戻って寝てください」
「私じゃないです。秋さんがです。秋さんは部屋に戻るんですか?」
 秋はどう回答しようか迷った。これから笹川由利子を探しに行くと言ったら、秋に付いて来ると言い出しそうな予感があった。
「僕も部屋に戻って寝ます。休まないと、明日持たないですよ」
 引き離そうとしたが、逆効果だった。
「私も行きます」
 そう答えたひゆりを、秋は呆然と見た。
 ひゆりは責め立てるように秋を見ながら、もう一度「私も行きます」と言った。
「部屋にですか?」
「そうです」
「どうしてですか?」
「どうしてって……どうしてもです。こんな知らない部屋で、一人で眠れません。秋さんのお部屋は、人がたくさんいるんですよね」
 怒ったかのようにそう言うひゆり。まるで、一人で寝なければならないことが秋の責任かのように。
 不安だ。秋は膀胱がびりりと痛んだ。
「赤嶺さんと一緒には寝れないんですか? 僕からお願いしましょうか?」
「赤嶺さんは、親しくありません」
「そんなこと言ったって、今日会ったばかりの僕よりは、ほかのみなさんのほうが気心が知れてるんじゃ――」
 秋は言いかけて思い立った。
 警戒心の薄いひゆりは、自らを面倒見てくれる秋同様、なにかと気にかけてくる福田の部屋にゆき、一緒に一夜を過ごす選択をするかもしれない。
 秋の胸の中を、どす黒い嫉妬心が渦巻き始める。ベッドの中、絡み合いながら体を擦り合わせ、濃厚に唇を重ね合わせる福田とひゆりの二人を想像すると、締め付けられるような痛みが胸を走り、それを阻止したい黒い秋が湧き出てくる。
 そして、その思いは同時に福田の思いであると理解した。福田が秋とひゆりを見て想像する嫉妬となんら変わりはない。秋と福田に変わりはないのだ。
「それなら……凛子ちゃんと一緒に寝てください。僕は……」
 自分が欲望の権化でないと思いたい。ひゆりが本当に秋に気があって、夜を共にすることで濃密な体液の交渉を望んでいるのなら、それならばいいが、どうやらそうではない。夜中に暗闇が怖くて、父親の布団にもぐりこむ幼い娘の心境と同じなのだ。
 だからと言って、福田と一夜を過ごさせることは、悪魔の秋が許させない。
「僕はどこか、ソファーのあるロビーで寝ますから」
「ロビーですか?」
「とにかく、部屋に行きましょう」
 秋の心境は暗かった。
 暗かったのは表情も同じだったようで、心配そうに様子を窺うひゆりの顔が見えた。
 胸がちくりと痛む。心地よい痛みだ。ひゆりが時々見せる陰りのある表情が、とても魅惑的に見えるのだ。意地の悪い人格が、もっとひゆりを心配させてやろうと主人格に相談してくる。秋が笑顔を作らずに、いつまでも暗い表情をしていたら、ひゆりはもっと心配して、秋にもっと近づいてきてくれるかもしれないというのだ。
 だが、主人格の秋は別の意見だ。
 さきほど、部屋を訪れた秋を見た瞬間、笑顔を作ったひゆり。秋と目が合うたびに、にっこりと笑顔を見せるひゆりに、秋は心をほだされてきた。
 瞳を濡らすひゆりより、目を細めて優しい顔をするひゆりを選択したい。そう思った秋は、ひゆりに笑みを見せる。
 ひゆりも安心したのか、唇を結んで微笑んだ。
 
 
 
 ひゆりとエキストラルームに向かうためにエレベータに乗った際、下降する箱の中で秋は眩暈を感じた。
 疲労だ。思えば、秋は今日、食事を一切口にしていなかったし、ほとんど休まず歩き回っていたせいでひどく眠い。
 今一番欲しているのは休息であったが、部屋に戻って眠ったとしても、疲れは癒せても、食事を摂らなかったせいで体力が低下するはずだ。それでは明日一日体が持たない。なにか栄養を保有したほうがいいと思い、深夜でも食事できる方法を考えた。
 レストランの数々は当然、店じまいしているだろう。もちろん、船上に二十四時間営業のコンビニエンスはない。そうなると深夜でも営業しているスナックしかない。スナックに食事に行くのもおかしな話だが、軽食程度なら摂れるかもしれない。金はかかるかもしれないが、仕方が無い。
 秋はエキストラルームに来ると、ドアを開けた。鍵はかかっていない。不用心だと思いながら、明かりの付いたままの部屋に入ると邑崎は帰ってきた秋を見て、呆然と口を空けた。ひゆりと一緒に帰ってきたからだ。
「女を連れ込むなんて、お前も思ったよりスケコマシ野郎だったんだな」
 今の暗い心境で、邑崎の言葉に受け答えできない。
「邑崎さん、凛子ちゃんは寝たんですか?」
「ああ? もう寝てるよ。朝まで起きねえよ。なんでだ?」
「星名さんと一緒に寝てくれないですかね」
 邑崎が口を尖らせて、顔を渋らせる。
「凛子と一緒に寝たいのか?」
 ひゆりをみると、ひゆりは秋を見返しただけだ。
 秋はひゆりを促して室内に入っていくと、秋が敷いた自分の布団に腰掛けさせた。
「星名さんは旅行とか、一人で寝るとか、そういう事に慣れてないそうで、誰か一緒にいる部屋じゃないと寝付けないそうです。凛子ちゃんの隣に寝かせてあげたいんです。目を覚ましたとき、凛子ちゃんびっくりしなければ」
「そりゃ大丈夫だろうが、この部屋には俺もお前もいるんだぞ」
「……まさか、やましいことしないですよね」
「馬鹿やろう。それを言うならお前だ。部屋に連れ込んでるのはお前だぞ」
 それを言われると何も言えない。さらに気分が落ち込む。
「僕はロビーかエントランスのソファーで寝ます。星名さんをこの部屋で寝かせてあげてください」
 邑崎は後頭部をぼりぼり音を立ててかきむしる。
「いいか、お前はこの豪華客船の招待客で一番最低の環境で寝泊りしてる。それをこの船のデラックスルームという最高級の環境をあてがわれてる女のわがままで、お前はさらに最低の環境の場所で寝泊りするって言ってるんだぞ。仕事とはいえ、そこまで我慢する必要があるのか?」
 それを訊いたひゆりが今にも泣き出しそうな顔で秋の腕を掴んだ。
「あ、秋さん、ごめんなさい。わたし、そんなわがまま言って、秋さんを困らせて。わたし、部屋に戻ります」
 立ち上がろうとしたひゆりの腕を掴む。
 ひゆりの肌に初めて触れる。ひゆりの腕は細く、力を込めれば千切れてしまいそうだった。
 秋は強烈な眠気を抱きながら、どうにか言葉をつむぎだす。
「星名さん、遠慮することはありません。迷惑だなんて思ってませんから、星名さんがしたいようにしてください」
 秋の頭が回らなくなっていることを意識した。ひゆりが自室で寝ようと、この部屋で寝ようと、もはやそんなことはどうだっていい。秋はどこでもいいから一刻も早く体を横たえ、瞳を閉じたかった。
「僕が遠慮するから、星名さんが気を遣うんですよね。すみませんでした。僕もここで寝ます。星名さんも凛子ちゃんの隣に布団を敷いて、もう今夜は寝ましょう」
「疲れてるみたいだな。まあ、俺はどっちでもいいよ。もう日付も変わるな」
「あ、僕は――」
 笹川を探さなくてはならない。そう思って立ち上がった瞬間、ひどい気分の悪さを感じた。悪臭を放つ泥沼の渦に巻き込まれたかのような不快感。口の中が、強烈な渋柿をかじったかのように感覚がなくなった。
 秋は立ち上がったまま、額に手を当てて悪寒が過ぎるのを待つ。
「秋さん? 大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
 意識を遠くに行かせたまま、どうにかそう答える。立ちくらみは食事を口にしていないせいだ。
 邑崎が布団に横になりながら、興味もなさそうに「もう休んだらどうだ?」と言ったが、秋は首を横に振った。
「心配なんです。ただでさえ……」
 行方不明のクルーたちのこと。口にしようとしてひゆりの存在を気にかけた。余計な心配をかけると面倒だ。
 立ち上がっている秋を心配そうに見上げるひゆりと目が合った。その心配は、恋心も交じり合っているのだろうか。本当に心から心配してくれているのだろうか。それなら嬉しい。
「一時間探して見つからなければ諦めます。とりあえず、フロントパーサーに気にかけてもらうようにお願いして、それから休みます」
「ご苦労なこった」
 邑崎は言い捨てると、ごろりと秋に背を向ける。
 秋が部屋を後にしようとすると、ひゆりが立ち上がって付いてこようとする。それに気づいた秋は「星名さんは休んでいてください」と制する。
 その場に貼り付けられたひゆりは怒ったように秋を睨みつける。意外とひゆりは短気だ。
 
 
 
 部屋を出ると、もう何度も見た風景。ただし、深夜の静けさが廊下やメインエントランスを別の何かに変えているのは確かで、ただっ広い空間、シャッターを下ろされたブティック、窓の外の大海原は昼間には存在しない、無機質な亡霊が住んでいる。
 秋は小一時間ほど船内を歩き回って気づいたのは、夜になると立ち入り禁止になっている場所が多いことだ。三階、四階のショッピングエリアへのガラス扉は施錠されておりは入れない。各種、ダイニングルーム、リクリエーションリーム、オープンデッキなどは締め切られ、いける場所はメインエントランスと、メインデッキ、大浴場やトイレなどの共用の施設と、スナックなどの深夜まで営業している飲み屋くらいだ。船の外周を一周して、行ける場所はすべて覗き込み、最後に笹川のデラックスルームに赴いて、笹川不在を確認してから探すことを諦めた。
 笹川の部屋に訪れたときは、何もかも無気力だった。今日一日で秋は考えられないくらい疲弊し、立っていることも辛く億劫だった。船を歩き回った折に、誰一人として人を見かけなかったことにも疑問も恐怖も抱かなかった。
 秋の頭は布団に包まり、泥のように眠ることばかり。足を前へ出すことすら必死の作業で、スタビライザーのおかげで水平に保たれているはずの船内が大きく左右に傾いでいるように思えた。
 あるいは何らかの病気が発病したのではないかと思える体調の悪さ。やはり、食事より睡眠である。
 何十キロもあるように思える道のりを歩くうち、あと少しのメインエントランスで小山内に呼び止められた。
「おい、秋くん」
 背後から声をかけられ、気づいたものの無視しようかと半ば本気で思った。
 秋は足を止め、薄暗いメインエントランスを振り返ると寝巻き姿の小山内がいた。
「叔父さん、どうしたんですか?」
「いや、笹川の部屋にきたろ? 気配がしたから追いかけてきたんだ。ちょっと話しておきたいことがあってな」
「話したいこと? 明日じゃ駄目なんですか?」
「疲れてるところ悪いが、今話しておきたい」
 秋はうんざりした。表情に表れているかどうか分からなかったが、どちらでも良かった。
 小山内は秋の思いをよそに口を開く。
「ここじゃ何だから、ちょっと表に出ようじゃないか」
 そう言って手招く小山内に仕方なく付いていった。
 小山内が案内したのは二つ階層を登った、船の外周を一周するプロムナードデッキである。尖頭付近の野外に設置されたレストエリアのベンチに腰掛けた。ここでは前進する船の舳先に当たる波の音が鮮明に聞こえる。すでに見えていた月はなくなっており、明かりはレストエリアをほのかに照らす外套のみだ。
「ここにつれてきたのは、誰かに話を聞かれる恐れのない場所だからだ。実は、秋くんにお願いがある」
「お願いですか? それは明日でもいいんでしょうか」
「今からだ。申し訳ないが緊急事態だ」
 緊急事態、と言う単語に、秋の危機感が小さく芽生える。
「もう、少しは知っているだろうが、船内のクルーがいなくなっている。直前にとった点呼では、もう三分の二以上のクルーの所在が分からなくなった。船内にクルーがほとんどいないのはもう気づいてるだろう。だが、問題はゲストたちにも行方の分からなくなった人間がいる。家族で来た、あるいは友人同士で来たゲストから、連れ合いがいないとの問い合わせが殺到しているそうだ。さっき、キャプテンから内線電話が入って、これから四階のダンスフロアに最低限運航に必要なクルーを残して、クルーと乗客の全員を集め、キャプテンより状況説明を行う」
 小山内の言っていることが、思考能力のなくなっていた秋の脳に、徐々に染み渡ってくる。
「何を言ってるんですか、叔父さん」
「そろそろ、隠し通すのも限界だ。今まで、秋くんもなんとなく安心していただろうが、申し訳ないが異常事態だ。クルーがこれ以上いなくなったら運航は不可能になる。大海原のど真ん中で船は立ち往生し、放浪する羽目になる」
「そ、そんな」
 小山内は眉間に皺を寄せ、真剣なまなざし――あるいは不安や動揺を必死に押し殺す表情で重々しく言った。
「キャプテンは救難信号の発信と、本社へ警察への通報を決断するように要請した。分かるな? 事態は深刻だ」
 ようやく、秋の全身に恐怖と言う名の氷点下の血液が循環し始めた。
「僕らは難破したんですか? 最新鋭の大型船舶が?」
「船を運営するクルーがいなくなれば、船など容易に難破する。ある程度の自動制御は可能だが、監視するクルーがいなくなれば、無人で動かしておくのは危険すぎる。キャプテンは運航を取りやめ、救助がやってくるまでエンジンを止めるそうだ」
「明日の神戸までは行けないと?」
「無理だな。強行すればリスクがある。それほどまでにクルーがいなくなってるんだ。たった一日の間に、正確な人数を把握できないほどのハイペースで人がいなくなっている。原因は全く分からない。俺と秋くんも、その原因不明の事態に巻き込まれない保証はない。俺たちもいつ行方不明者に数えられるかわからない」
 小山内の言葉に、全身が凍りつくような冷たさを感じた。
「今、何人残ってるんですか?」
 小山内は首を横に振る。
「正確にはわからない。出港時に乗り込んだ人間の数はゲスト52名で、クルー520名だった。ゲストに行方不明者は分かっている数で12名。クルー全体で400百人近くが行方不明だ」
「よ、400人!?」
 秋の大声に、小山内が眉をひそめて、慌てて人差し指を唇の前に立てた。静かにしろと言われても、それは予想外の数字だった。572人も乗っていたこの船に、今は170人ほどしか残っていないと言うのだ。
「運航部の人間が、現在残っている人間で運航がぎりぎりの人数しかいない。残っているのはほとんどがサービスクルーだ。一階以下の機関部ではクルーたちに混乱が起きてる。どうにかキャプテンが押さえ込んでいるが、俺も見たが尋常じゃない動揺ぶりだ。当たり前だな。次々に人がいなくなり、次はわが身の状態だ。誰もが逃げ出したい症状を必死に押さえ込んでる。そんな状況で、例え可能でも、これ以上の運航は危険すぎる」
 ふと、笹川由利子の所在が気になった。笹川も行方不明者側の人間になってしまったのか。
 身近な人間の起こった不可解な出来事。秋はぞっとした。次はわが身。動揺するクルーの気持ちが痛いほど分かる。冷静ではいられない。
「助けはすぐに来るんですか?」
「海上保安庁の救助船が来るにしても、せいぜい、明日の正午くらいだろう。それまでに乗客を一箇所に集めて、出来る限り事態の蔓延を防ぎたい意向だ。一番広いフロアでダンスホールになる。これから総出でクルーが寝具と災害用の保存食をダンスホールに持ち込む。寝具と保存食がどこにあるかは知ってるな?」
 エキストラルーム。秋が使っている部屋である。
 小山内は額を撫でながら、悩ましげに言った。
「段取りを説明する。今、キャプテンと運航部のクルーたちが船を止めている。気象情報や海流の状況を含めて安全な場所で完全に止まるまで数時間かかる。その間、寝具や保存食をダンスホールに持ち込み、それが済んだら速やかに眠っている乗客たちを起こし、ダンスホールに集める。そこでオーナーが動揺を最小限に抑えるように話をする。その後、救助が来るまでの間、乗客たちにはそこで待機してもらうことになる。俺はこれからオーナーの元へ行き、段取りの相談に行く」
「僕に何かしろと? 問題児たちの世話を?」
「そうだ。言いたいことは分かる。前にも行ったと思うが、彼らは自分たちが大人だと思っている反面、ある種のプレッシャーに弱い。今、俺が話して聞かせたことを、秋くんのように冷静に聞いていたれるかと言ったら、おそらく取り乱して、泣き出すが怒りだすかもしれない」
 秋は自分が冷静だとは微塵も思えなかった。
 足は震える前兆で痺れを来たしている。
「秋くんは、まずエキストラルームで同室の人たちに今のことを知らせて欲しい。エクストラルームは騒々しくなるから、どこか別の場所で待機するように伝えて、生徒たちにはダンスホールに集まる前に、事前に私が今話したことを説明してあげて欲しい。出来るだけ動揺のないように。ダンスホールで騒ぎ出すことのないように、うまくやって欲しい」
「そんなの無理です。僕からじゃなくて、叔父さんから話したらいいじゃないですか」
「そうしたいのはやまやまだが、時間がない。どうやらオーナーサイドから色々動かなくてはならなそうだ」
「どうして叔父さんが船のことを考えるんですか?」
「旧友のよしみだ。力を貸してくれと言われてる。予想だにしない事態に、オーナー、キャプテンを初めとするクルーたちはみんなどうしていいか分からないんだ。当然、私もどうしていいかなんて全く分からないし、自信もない。だけど、頼りにされている以上、あいつの傍で冷静に振舞っていればあいつの力になれる」
 要するに、混乱を招かないための、船内の中枢を支えると言うのだ。そのためには細かいことを気にしていられず、生徒たちの面倒を秋に委託しようとしている。小山内同様、こんな緊急事態に、あの問題児軍団をどうにかできる自信などまるでない。
 秋を買いかぶる小山内に泣き付いて、駄目ですと泣き言を漏らしたかった。身体は疲れきって、ろくに頭も回らない。こんな状況では力になれません。そう言いたかった。そうは言わなかった。今のおじさんの状況を見れば、それは仕方ない選択だったし、叔父さんを困らせるのも申し訳ない。
「出来る限りのことはやってみます。でも、どこまで出来るかなんて保障できませんよ」
「構わない。せめて、君だけはどんなことがあっても冷静でいてくれれば、それでいい。難しいと思うが」
 ダンスホールに集められ、そのまま朝まで何も問題が起こらなければ、あるいはそれほど難しい注文ではない。ただ、思い通りにならないのが、あの問題児集団なのだ。
 胃の下の方から、身体が冷たくなるような気分の悪さが沸き起こってくる。
「分かりました。やってみます。僕の言うことなんか、彼らが訊いてくれるかどうか分かりませんが」
「ありがとう」
 小山内は申し訳なさそうに、小さく頭を下げた。
 秋は改まって言った。
「叔父さん」
 小山内は顔を上げると「なんだ?」と声を上げる。
「ボーナス、期待してますよ」
 小山内の表情が徐々に笑顔になると、苦しげにはにかみ笑って「分かった」と答えた。


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