桃色くも


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第七章 〔 軌跡 〕 


  秋が客船アカシックレコード号に乗船するより半月前。
 邑崎と凛子は、まず万里夫が運ばれたであろう町の総合病院に赴いた。二年余りも万里夫を追っていた邑崎には想像が付いていたが、町一番の大きな病院には万里夫の運ばれた記録も入院の記録も、はたまた記憶さえ残っていなかった。
 レンタカーを乗り回して、街中に二つある病院と、周囲の市町村まで足を伸ばしてあらゆる病院を二日かかりで当たったが、果たして万里夫への手がかりは一切見つけることが出来なかった。
 凛子の話を信じるならば、救急車に乗った事は事実である。邑崎と凛子であたったいずれかの病院に運び込まれたことも、また事実である。だが、見つけることも、手がかりさえ微塵も無い。
 邑崎は凛子に万里夫との生活の詳細を聞いた。その中で、万里夫は学校で用務員の仕事をする前に、日本中を旅していたという話を凛子は聞いたらしい。凛子に、万里夫が過去に行った場所について聞いたかと尋ねると、ひとつだけ覚えている地名があった。『くるきり村』。そのキーワードのみ、凛子は思い出した。どこか田舎の農村だと言う。そこで数週間万里夫は滞在し、そこで一人の少年にあったという。
 少年の名前は『しょうたろう』。
 『しょうたろう』は夢のある少年で、宇宙のことや、怪奇現象などの超現実の世界が大好きだったという。万里夫もその手のことに嗜好があり、非常に少年と話が合って、楽しい思い出になったと凛子に話して聞かせたらしかった。
 その少年は、中学時代の邑崎に似ていたという。
 
 
 
 邑崎は凛子とともに近くの図書館に赴いた。モダンな造りの古い建物で、二階建ての小さな図書館であるが、立地と平日昼間の時間帯のせいか人は少なく、インターネットの出来る端末を使用することが出来た。
 愛想のない司書のいるカウンターで、インターネットをしたいと申し出ると、一言も口を利かない気難しそうな中年女から使用承諾書を書かされ、端末に案内された。
 司書がいなくなると、すぐに邑崎はパソコン画面にブラウザを開き『くるきり村』のキーワードを検索エンジンに乗せた。
 ヒットは一件。ヒットした文言は『やがてくるきり、村の外では……』などという、オンライン小説の一文に引っかかった。全く関係が無い。『きり』は『霧』の変換ミスであろう。
 実在しない村。凛子に、『くるきり村』という名称は間違いないのか尋ねると、首を横に振って見せる。自信は無いらしい。
 ちなみに、『くるきり村』の『村』はずして検索すると、『歩いてくるキリン』『見えてくるキリン』などの、キリンの記事が引っかかる。
 邑崎は『くるきり』の漢字を当ててみた。『来切』『久留桐』『九流霧』『来木理』、いずれもそれらしいものは引っかからない。
 だが、ひとつだけ邑崎が目を見張った記事が引っかかる。『来霧村』で検索したときである。
 検索で引っかかったのは二件。どうやら、いずれの検索結果も同じウェブページのようだ。
 ただし、読みは『ライム村』。開いたサイトは、怪奇系の記事を扱う月刊誌のホームページで、『ライム村』とは、あるゲームに出てくる村の名前らしい。改めて『ライム村』で検索すると、ゲームソフトの攻略サイトが多数引っかかった。ゲームは五年ほど前に流行したサウンドノベルといわれる、文章を読み、選択肢を選んで物語が分岐するタイプのアドベンチャーゲームのようだ。ジャンルは基礎を本格ミステリーとして、選択肢によって恋愛ストーリーやホラーに分岐していくテレビゲーム。
 まさか、万里夫がゲームの世界の話を現実世界のように凛子に話して聞かせたのか。
 五年前にひそかに流行したこのパソコンゲームも、マニア受けしたが販売数を伸ばせず、今では絶版になっており、ほしがるマニアの間でプレミアが付いているようだ。
 確かにサイトで紹介されているゲーム画像は、現在の高性能のゲームとはかけ離れて、少々見劣りする。
 このゲーム中に登場する『ライム村』が、物語のメイン舞台らしい。
 これが関係あるのだろうか。
 おおよそ、かかわりがあるようには思えない。
 邑崎の傍でパソコン画面を覗いていた凛子が大あくびをしている。
「凛子、『くるきり村』について万里夫はほかに何か言ってなかったか? 観光地だとか、雪が降っていたとか、海が近かったとか」
 凛子はあくびの後の涙目をくるりと泳がせると「森」とぼそり呟いた。
「森?」
「大きな森があって、たくさんの怖い話があるって。幽霊がいたり自殺の名所だったり」
 短絡的であるが、邑崎は青木ヶ原の樹海を連想する。だが、くるきりでもライムでも、そんな地名は存在しない。あるいは過去にそんな地名が存在したのかもしれないが、もはや過去のことになるとお手上げだ。
 ふと思い立って、邑崎は『来霧村』で最初に引っかかった怪奇雑誌のサイトをもう一度参照した。
 ひっかかったキーワードは、おおよそ二年前の怪奇雑誌『遠幻郷』の紹介ページで、二年前の九月号の見出し部分である。
『ライム村は実在した! 某県に実在したライム村(来霧村)を取材班が目撃!』
 内容は取材チームが訪れた来霧村の写真や、詳細な情報を掲載しているらしい。詳しくは雑誌を買ってから見よ、ということだ。
 古い月刊誌、しかも二年前の代物である。古本屋に赴いたところであるとは思えない。
 ただ、バックナンバーの販売は行っており、インターネットからの二年前の九月号購入は可能なのだから、この世に存在しないわけではない。
 読んでみるか。切り捨てるか。
 こんな記事を当てにして、わざわざ購入するのは滑稽である。しかし、邑崎が二年がかりで少しも見つけられなかった手がかりが、怪しいが目の前に存在する。どんな馬鹿げた三文記事であろうと、もはや食いつかないわけには行かなかった。
 妖季舎と呼ばれる出版社である。都内の大田区蒲田に事務所を構えているらしい。ここから車を走らせれば二時間ほどで行ける。今日中の営業時間に間に合いそうだ。
「凛子、今から東京に戻るぞ。お前はどうする?」
 凛子は突然のことに首を伸ばして、目をぱちくりさせた。
「行きます。戻るんですか?」
「そうだ。この出版社に行って、二年前の九月号の『遠幻郷』を買いに行く」
 凛子は顔を渋らせた。訳が分からないのだ。
「車の中で説明してやる。とにかく、家に電話してこい。うまくいけば、数日間は家に帰れないぞ」
 邑崎の表情に希望を見出したのか、凛子は興奮的な目をして力強く頷くと、直ちに立ち上がって電話をかけに向かった。
 
 
 
 妖貴舎のサイトに載っていた住所まで来ると、JR蒲田駅西口から程近い、細い路地に古びた雑居ビルがあり、通りから見える三階の三枚の窓ガラスにカッティングシートでそれぞれ「妖」「貴」「舎」と文字が張られていた。
 現在でもその雑誌は発行されており、それなりの発行部数を持っているが、所詮事務所などこんなものなのだろうか。
 有料駐車場に車を止めると、助手席で寝息を立てていた凛子を起こした。
「着いたぞ」と声をかけると、出発時から二時間あまり熟睡していた凛子は、眠気眼のまま倒していたシートを起こし「行きます」と言った。
 車を降りると、二時間ぶりの夏の熱気を思い出した。
 本当に動くのか怪しいエレベータの横に設置された郵便受けに取り付けられた黒ずんだプレートに『妖貴舎』と書かれていた。
 エレベータのボタンを押すと、一階に停まっていたエレベータが口を空ける。二人乗ったらいっぱいのエレベータは饐えた臭いが立ち込めている。扉が閉まると、考えられないくらいにエレベータの箱は振動する。落ちてしまうのではないかという恐怖と戦いながら、三階にたどり着くと、エレベータが開いた先には狭い空間にドアが二つ。片方のドアには見知らぬ会社の社名が書かれている。そしてもう片方に『妖貴舎』と掛かれたドアがある。どうしていいか戸惑ったが、とりあえず邑崎はドアをノックした。
 室内から女の声が聞こえてきて、しばらくしてドアは開かれた。開かれた先にいたのは、凛子と背丈のあまり変わらない、化粧の濃い女だった。脱色を繰り返された頭髪が整髪料の臭いを発している。
「あ、どちらさまでしょう?」
 年のころ、三十台半ばの女は表情を変えず尋ねてきた。
「私、インターネットでこちらの出版社のサイトを拝見しまして」
「ライターの方? 今、編集長はちょっと外出してるの。一時間くらいで戻りますから、どうしましょう。中で待っていただいてもいいし、出直してきてもらってもいいし」
 そう言って凛子を見ると、怖がらせてはならないとにっこりと笑って見せる。見てくれのドギツイ印象からすれば、それなりに人当たりがよいようだ。
 邑崎は誤解を解こうと口を開く。
「実はこちらの発行されてる『遠幻郷』という月刊誌なんですが」
 女は訝しげな顔をする。普段、雑誌を買い求めに出版社まで訪れる人間などいないのだろう。
「二年前の九月号がほしいんです。ご迷惑と思ったんですが、もしこちらに在庫があればお売りいただけないでしょうか?」
「雑誌を買いに来たんですか?」
 女は事務所内を振り返る。女の背後に垣間見える事務所内。床やディスクの上にはさまざまな雑誌や書簡が配達された状態のまま置かれていた。
 女が振り返ったのは、もう一人の従業員であろう若い男だった。花柄のシャツとジーンズ姿。太縁のメガネをかけており、右耳にはリングのピアスが見える。頭の形がよいのか、坊主頭の曲線が美しいと邑崎は思った。
 男に促され、女は事務所内に引っ込んだ。代わりに男が邑崎たちの対応に当たった。
「さ、どうぞ、汚いですが、中へ」
 二人は事務所内に入り込んだ。
 事務所内は狭く散らかっているものの、来客スペースは確保してあるらしい。見たところ、事務所にいる人間はさきほどの女と二人だけのようだ。
 部屋の中央を天井まで届く棚をしきりにして、窓側と手前に区分されている。手前側が黒皮のソファーの置かれた来客間らしい。
 案内されると、男が名刺を差し出してきた。
「茶山といいます。フリーライターです。『妖貴舎』専属の」
 社員ではなく、フリーライターが来客の対応をするとはおかしな話である。
 指摘するつもりは無いが、少々不愉快だった。
 それよりも、気になることある。
 茶山と自己紹介した男の言葉。
 内容ではなく、その口調。
「あら、可愛らしいお嬢さん」
 喋るときに、微妙に腰の辺りを捩じらせる。
「可愛らしいお嬢さんと、二枚目のダンディが、こんな辺鄙な出版社に何の用かしら」
 同性愛者か。
 邑崎は凛子を見た。
 凛子は姿勢正しくソファーに腰掛け、まっすぐに茶山を見ている。
 表情から感情は窺えない。
「二年前の九月号の『桃源郷』がほしいって聞こえたんですけど、それ、本当ですか?」
 茶山は言いながら、邑崎に座るように促す。
 凛子の隣に腰掛けたときに、さきほどの女がお盆に茶を載せて現れた。
「バックナンバーの販売をしているようなので、在庫はこちらにくればあるかと思いまして。すぐにほしいので直接お伺いしました」
「そうですか。それはご苦労様です。あの雑誌、この出版社の目玉ですからね。時々はバックナンバーの纏め買いされる読者の方もいますが、これまで『桃源郷』は定期購読を?」
「いえ、実は読んだことはあまり……」
 あるならさっさとよこしやがれ、と邑崎は内心腹を立てる。
 そんな内心を知らずに、茶山は口を開く。
「そうですか。そうなると不思議ですね。どうして購読もされていない、三流怪奇雑誌なんか、しかも、二年前の九月号なんてほしがるんですか?」
 なぜそんなことを聞かれなければならないのか。
 立ち上がって、帰ろうかと思い始めたころ、茶山は慌てていった。
「ごめんなさい。失礼でしたよね。いきなりこんなこと聞いたら、誰でも気分を悪くしますよね。ごめんなさい」
 邑崎の憤怒の気配を悟ってか、慌てて取り繕うように茶を勧めてくる。
「二年前の九月号。たしかにサイトでバックナンバーの販売を歌ってますが、実は、もう在庫は無いんです」
「無いんですか?」
 詐欺である。売ると書いておいて、わざわざ出向いたのに、本当は在庫がないだと? それはあまりにも人を馬鹿にしすぎている。
「あ、怒らないで。実はあのサイト、私が作ったんです。いや、この出版社には内緒でね。インターネットで『来霧村』ってキーワードで検索してくる人をターゲットに開設したんです」
「なんだと?」
 邑崎は思わず腰を持ち上げて、茶山に向かって詰め寄った。
「あんた、『くるきり村』のこと、何か知ってるのか?」
 一瞬、邑崎の迫力に気おされたようにあごを引いた茶山だったが、次には真剣な表情で「落ち着いてください」と邑崎をなだめた。
「それじゃ、やっぱり『らいむ村』のことを調べてたんですね? サイトを開設して一年半たちますが、初めてです。リアクションがあったの」
「あんたは何を知ってるんだ?」
「あなたこそ、何を知ってるんですか?」
「知り合いがそこを過去に訪れたことだけしか知らない。ところが調べてもそんな村、どこにも無い。それより、『くるきり村』とは何だ?」
「二年前、私が調べた村です。確かに実在はしませんけどね」
 女が邑崎の大声に心配そうに覗き込んでいた。邑崎は自分を落ち着けようと、用意された緑茶を一口含む。
 一呼吸おいて、改めて茶山を見る。茶山は少々おびえたように邑崎を観察している。落ち着いたと分かったのか、茶山は居心地悪そうにソファーを座りなおしながら言った。
「在庫は無いんです。でも、雑誌自体は事務所に保管されているのが一冊あります。持ち出しは出来ませんが、こちらで読まれて帰るのは構いません。読みますか?」
 もちろん読ませていただくと、邑崎はうなずいた。
 茶山は心配そうに覗き込んでいた女を見る。女は話を聞いていたので、目線の合図だけで用事を悟った。
 すぐに問題の二年前の九月号『桃源郷』を持ってきた。何度も読まれたのか、冊子の四隅は擦れてめくれている。表紙に描かれた、いかにもおどろおどろしい廃村らしき絵も色あせている。
「どうぞ。巻頭の12ページをカラーで特集してます。私が書いた記事です」
 邑崎は受け取ると、最初の一ページ目を開く。
 茶山の様子を窺うと、茶山は邑崎の顔を興奮気味に覗き込んでいた。どうやら、邑崎が雑誌を読むことは茶山にとって歓迎すベき、興奮的なことらしい。邑崎の反応を興味深そうに見ている。
 邑崎は再び雑誌に視線を落す。
 横から凛子も覗き込んだ。
 果たしてこの中に、万里夫の行方につながる手がかりは発見できるのか否か。
 1ページ目に書かれていたのは一枚のカラー写真と、大きなゴシック体でかかれた見出し。
『ライム村は実在した! これが現実に取材班が目のあたりにしたライム村の写真である!』
 そこには表紙に描かれていた廃村と同じような写真があった。
 写真の下方に、小さな文字が羅列して、取材の様子を詳細に描写している。
「これは……」
「説明しましょうか?」
 茶山の申し出に「頼む」と答えた。茶山は喋りたくて仕方なかった子供のように、興奮して活舌悪く説明した。
「要約すると、山梨県にある廃村の写真と、村の様子が延々と解説してあります。取材するきっかけになったのは、葉書で読者からの投稿があって、近隣の村に住む若者が、この村に一時期多くの人が住んでいたと言うんです。おそらくは一ヶ月くらいの期間。三十年以上前に過疎化で廃村になった場所が、一ヶ月くらいの間、まるでそんな事実が無かったかのように、多くの人が住み、生活を営んでいたと言うんです。でも、ある日からまるで煙に巻かれたかのように誰もいなくなって、誰かが生活をしていた気配など一切残さず、消えうせてしまったらしいんです。集団失踪事件ですが、それ以前に、どこからともなく人が発生すると言う、前代未聞の怪事件の匂いがして、私は取材に行きました。通俗的に神隠しと呼ばれる事件はいくつかありますよね。日本でも十三年前に、風木島にいた人間がすべて消えてしまうという驚愕の事件がおきましたよね。でも、これは失踪ではなくて、発生なんです。手紙をくれた少年の話は信用するに値するほど信憑性があって、実際にらいむ村に住んでいた一人の男性と親しくなったと言うんです。どう見ても虚言癖のあるような少年には見えないん」
「少年だと? 今、お前は少年と言ったか?」
 茶山はすっかり邑崎に恐縮してしまっている。まずい兆候だと思い、邑崎は自分を落ち着かせて、穏やかに「少年の名前は?」ともう一度聞いた。
「すみません、口外はなしにしてくださいね? 本来、情報提供してくれた人の名前なんて言えない事なんですから」
「分かった」
 邑崎が答えると、疑いの眼差しで茶山は邑崎を見ていたが、次にはしぶしぶと手帳を取り出してめくりだす。
「ええ、と、金谷庄太郎。当時小学五年生」
「金谷庄太郎……しょうたろう」
 邑崎が凛子を見た。
 自分が見られていると気づいた凛子は、顔を上げて邑崎を見返すが、その表情には疑問符が浮かんでいる。おそらく、雑誌に夢中で邑崎と茶山の会話はほとんど聞いていない。
 ほぼ間違いない。茶山の言っている村が、万里夫が過去に訪れた村である。
「凛子、喜べ。近づいたぞ」
 邑崎がそういうと、初めて明るい表情を見せる凛子。
 近づいたが、やはり不可解なことだらけである。
 実在しない村?
 邑崎は茶山に向き直る。
「廃村であったとしても、過去に実在した村なら記録に残ってるはずだ」
「廃村前の村の名前は『清里村』です。くるきりでもライムでもありません」
 邑崎は眉間に深い皺を寄せる。
「怖い顔しないでくださいよ。説明しますから。いいですか? あの村は三十年も前に過疎化の影響で廃村になっています。間違いありません。廃村から三十年の間、あの村は全く人目にも晒されず、放置状態で荒れ放題でした。でも、そこに近隣の村の好奇な少年が肝試し気分で訪れたそうです。少年はそこで信じられないものを見ます。人が住んでいないはずの村が活気付いていたというんです。詳しく聞いてみると、少年は村に入り込んである男と知り合いになります」
「その男の名前は?」
 茶山は再び手帳をめくり始める。それくらいのデータは、PCなどで管理しておけ、と内心邑崎は苛立つ。
 目的の項目を見つけた茶山は「少年の知り合った男の名前は、『黄瀬』と名乗ったそうです。黄色の黄に、瀬戸際の瀬です」
 万里夫の姓ではない。万里夫の姓は緑川である。偽名である可能性も高いが、今は何とも言えない。
 茶山は話を続ける。
「私は直接会って話がしたいと思って、少年の住む山梨県某村まで出向きました」
 山梨県某村。ふと凛子の話とつながった。
 凛子は、近くの森、悪いイメージの多い森、自殺の名所などのキーワードを発し、邑崎は青木ヶ原樹海をイメージしたではないか。
 山梨県某村とは、樹海のある村である。
 話がつながって、いつまでも解けなかったなぞを解いて、次に進む快感が邑崎の全身を振るわせる。
 だが、その次にやってくるのは不安だ。今までの二年を振り返れば、手がかりがあったことすら奇跡に近く思える。はたして、この順調さを手放しで喜んでいいものか。
「少年の家は、村の中央付近にありました。まあ、特に変哲の無い場所です。大きな門を構えていて、広い敷地の庭を進むと、大きな長屋があります。私が窺ったときは、少年は縁側で祖母と寛いでいるときで、丁度良いと挨拶をしながら少年と少年の祖母に話を聞きました」
 茶山の話を要約すると、廃村である山奥の村に人々が住み、活気付いていた事実は村の誰も知らないことだと言うこと。少年だけしか目撃しておらず、少年だけしか廃村の住民と会話していない。
 はれて狼少年の称号を得た少年は、信じてもらうための苦肉の策で、『桃源郷』の投稿欄に葉書を送ってきたのだ。
 茶山は少年の話を信じたわけではなかったが、少年の話が妙にリアルに感じ、興味をそそられ廃村へ調査に出向いたという。
 ところがその廃村、近い過去に使用された形跡など全く無い。廃村の範囲はおおよそ山半面。住宅は十軒あまりしかなく、自給自足の生活を物語る小さな畑の後が、所々にあったという。住宅は廃屋の称号ふさわしく、あまさらしの住宅は風化して、屋根は落ち、壁は剥げ、室内は荒らされたかのように色あせた生活用品が散乱していたという。
 廃村、廃屋のおどろおどろしさに数枚の写真を撮って茶山は退散した。少年に人の住んでいたような形跡は何一つ見つからなかったと教えると、がっくりと肩を落したと言う。
 茶山は東京に戻ってきた後、念のため『黄瀬』という人物も探してみたという。廃村の周辺に『黄瀬』などという姓の人間はおらず、やはり苗字だけでは人探しなど無理と諦めたらしい。
 それで茶山の話は締めくくられた。
 唖然とする邑崎。
「結局、少年の言っていたような事実は無かったと?」
「はい。見た限りでは」
 邑崎は無精ひげを撫でて、深く考え込んだ。凛子が邑崎を覗き込んでいる。凛子も今の話は理解できたであろう。だが、凛子にはこの先の探求力は無い。聞いた話を整理して、進むべき道を見つけることの出来ない未熟な子供だ。次の行動、正解を邑崎に託している。
「妙だな」
 邑崎は呟くと、茶山を見た。茶山は動揺しない。自分で話していることに不可解さがあることは百も承知らしい。まるで邑崎が疑問に思うのを待っていたかのようだ。
「廃村に人が住んでいた事実が無いのなら、なぜあんたはそれを記事にした? いや、記事にしたことまでは理解できる。言っちゃ悪いが、三流週刊誌。胡散臭いネタだって、裏づけなど取ってなくとも面白おかしく掲載するもんだ。だけど、なぜ少年が証言したような事実が見つからなかったのに、あんたはこの取材にこだわってるんだ? なぜこっそりインターネットにサイトを開いて、誰か知っている人間を引っ掛けようとした?」
 茶山は少し笑ったように見えた。邑崎の指摘した言葉が、まるで茶山の性感帯をくすぐったかのような反応だ。
「実はこの記事、掲載されてません。嘘の号です。サイトに乗せてたのはフェイク。二年前の九月号は全く別の記事が載せられました」
「なに? 現にここにある九月号はなんだ?」
 テーブルの上に乗せたられた九月号を人差し指で叩いてみせる。
「試し刷りとでも言いましょうか。一回ゲラ刷りして、校正を行います。でも、その時点でこの記事は発売が中止されました。だから在庫が無いんです。その記事が載ってる二年前の九月号は、この世にそれ一冊しかありません」
「発売中止?」
「そう。突然、大手出版社からの潰しがありました。バッシングとでも言いますか。つまり、こんな胡散臭い記事を載せるなと。出版業界全体の信用問題だから、その記事を発売したらお前の出版社をつぶしてやる。分かりやすく言うと、こんなとこですね」
 邑崎はあえて反応せず、茶山の話しを促した。
「こんなこともまれにあり得ますが、でも、こんな三流出版社の発行部通が二千部程度の雑誌記事を目の敵にして大手出版社がつぶしにかかるなんて、妙だと思いませんか? 記事が人目に触れたら、少人数であろうと気のふれた若者が肝試し気分であの村を訪れるかもしれない。中には真剣に調査めいたことを始めるやつもいるかもしれない。もしそうなれば、わたし一人では見つけられなかった、『人が住んでいた』という事実を見つけられてしまうかもしれない。そうなると非常に困る人間がいる。誰か? それは分かりません。政府の陰謀? 宇宙人の侵略? この出版社ならそう騒ぎ立てたいところですが、どうやらもっと深刻なようです」
 政府の陰謀、宇宙人の侵略より深刻だと言うことは、もっと事態は生々しく身近であると茶山は言いたいのだろうと邑崎は勘ぐる。
 民間企業の犯罪行為、宗教団体の闇の儀式、そんなことに利用され、隠蔽された?
「なぜ深刻だと思う?」
 茶山は股間を刺激されたかのように、顔を上気させて紅潮した。
「実はね、庄太郎君がね、ある人を見たと教えてくれたの」
 茶山の口調が、急におねえ口調になる。本性が出るくらい、興奮している証拠だ。
「胡散臭さに拍車をかけるような証言だったわ。あのね、庄太郎君、来霧村である人を見たんだって。みんながよく知ってる人。もちろん、あなたも知ってると思うし、そこのお嬢ちゃんも知ってる。誰だと思う?」
「焦らさずに言え」
 邑崎が凄むと、茶山は興奮冷めて、咳払いひとつすると言った。
「アイドル歌手の加賀山瑞穂。彼女が居たというの。少年の妄想丸出しみたいな胡散臭い証言でしょ? でも、私は引っかかった。そんな馬鹿げた話を、庄太郎は大真面目に話してた。少なくとも嘘は言ってないとわたしは思う」
 加賀山瑞穂がいた事実があったとしても、それが一体どんなつながりを持つのか、邑崎には想像できない。
「加賀山瑞穂がいたからって、なんで引っかかる?」
「私はフリーライター。怪奇ネタに芸能スキャンダルの組み合わせは鴨ネギよ。怪奇映画にアイドルタレントが付き物みたいにね」
 邑崎は再び凛子を見た。
 見られた凛子も邑崎を見る。
 邑崎は次の行動を考える。
「この辺のシティホテルを予約して、一泊しよう。明日、山梨へ向かう。いいな?」
 邑崎が言うと、凛子が神妙にうなずいた。
 慌てた茶山が言った。
「ちょっと待ってよ。私が情報提供したんだから、あなた方も私に何か情報を頂戴よ」
「情報?」
「さっき、あなた方は知り合いがライム村に訪れたと言ったわよね。それは一体誰? もしかして、庄太郎にあった男って言うのが、あなた方の知り合いなの?」
 邑崎は思案した。これからこの男には詳細な村の居場所と、さらに知っている事実があるならば、それを聞き出さなければならない。
 邑崎が情報提供するにしても、どの範疇まで話せばいいのか。まさか、凛子の体験も話して聞かせるわけには行かない。
 邑崎はあごひげを撫でながら口を開く。
「俺が今探している人間は、中学時代の同級生の緑川万里夫という男だ。その男を追っている最中に、この女に行き当たった。この女は万里夫に会ったことがるらしく、万里夫から『くるきり村』の思い出話を聞いたという。思い出話は、庄太郎と言う少年と友達になったことくらい。それ以外の事実は知らない。そこで『くるきり村』に漢字を当てて、『来霧村』でインターネット検索したときに、あんたのサイトにぶつかったんだ」
 茶山は太縁メガネの奥の瞳を光らせる。
「あの村が実在していたという証言に等しいわね。やっぱり、あの村は一時的にせよ、復活してた。何のため? それは分からないけど、やっぱり私の勘は当たってた」
「あんたの記事は、何年か前にはやったゲーム中の村が実在していたと書いてたな。なぜそう思う?」
 茶山は口を開き、何か言おうといたが、ふと思い出したかのように口人ざし、右斜め下に視線を向ける。何かたくらんでいるかのような表情に、邑崎は「どうした」と声をかけると、茶山は顔を上げて邑崎に近づいてきた。
「ねえ、取引しましょ。あなたがた、明日に山梨まで行くんでしょ? 私と同行する気ない? 一緒に行ってくれたら、私の知ってる情報すべて提供するわよ」
「冗談じゃない」
 邑崎は即座に却下した。
 邑崎は凛子のお守りで手一杯だ。もう一人荷物が増えるとなれば、ますます万里夫への道が遠くなりかねない。
「条件が飲めなければ、私の知ってることはこれ以上喋れない」
「村の場所が分かれば十分だ」
「庄太郎には会いたくない? 近隣の村ってだけじゃ、探すのに苦労するわよ。それに、まだあなたに話してない情報はたくさんある。どう?」
 凛子を見る。いくら凛子を見ても、凛子の顔に答えが書いてあるわけではない。凛子は邑崎と同じように、答えを求める視線を送ってくるだけだ。
 茶山はここぞとばかりに言った。
「私と同行すれば、旅費はこの出版社の経費で落すことも出来るわ。どう?」
「フリーライターだろうが」
「フリーだって、あそこにいる子に頼めばどうにでもなるわよ」
 と、茶山はさきほどからこちらを除き見ている女従業員を指差した。
 女は訝しげに「そんな都合よく行くわけ無いでしょ」と呟いたのを邑崎は聞き逃さない。体裁を取り繕うように、茶山は両手をはためかす。
「大丈夫大丈夫。何とかするから。私と同行して、得すること秋だろうけど損することは何にも無いわよ」
 邑崎はやれやれと額を撫でる。
「いいか、勝手についてくるのは構わない。だが、あくまでも俺たちは俺たちで動くぞ。お前の都合で振り回されるのはごめんだからな」
「いいわよ。どうせ行き先は一緒なんだから。なんなら今夜の宿泊先の面倒見ましょうか」
 邑崎は一度大きく息をつく。
「頼む。俺たちは朝一番で山梨に来るまで山梨に向かう。お前はどうする?」
「私も同乗するわ。いいでしょ? 高速代くらいはおごるわよ」
 凛子はどう思うのか。凛子を見ると、話は聞いていただろうが、これといった拒否反応は無い。
 ふと思う。この女は相手がオカマだと警戒しないのか。これはこれで都合がよい。
「それじゃ、朝七時にホテルのロビーに居てくれ」
「了解」とオカマはまぶしいほどの笑顔を作って、ウインクして親指を立てた。
 見知らぬ男に警戒したのは凛子ではなくて、邑崎のほうだった。
 
 
 
 助手席に凛子、後部座席に茶山を乗せ、朝七時に出発した。目的地は山梨県某村である。
 高井戸インターより中央高速道路に乗って、三時間程度で目的地に着く予定だ。
 高速道路を走らせること一時間をまたず、周囲は田園風景に様変わりし、やがて真夏の青々とした山林が周囲を囲み始めた。
 談合坂サービスエリアに寄って、小休止を取る。まだ午前中であるが、車から出た瞬間に蒸し暑さが全身を湿らせ、たちまち不快感を催す。
 広い駐車場には、ほとんど車は止まっていない。サービスエリアの施設前に数台のアメリカンタイプのオートバイが止まっており、離れた場所にバスが三台並んでいる。その他の車はまばらである。
 早朝の出発のせいか、凛子は終始助手席で寝息を立てていた。後部座席の茶山も同様で、挨拶をして出発地を確認した後は、後部座席で横になり、死人のように眠っていた。
 邑崎運転手は、運賃でも徴収したかった。
 サービスエリアの施設の前に立ち並ぶ自販機を横切りながら施設内に入ると、冷房が効きすぎなほど空気を冷やしており心地よかった。
 施設内に入ると、直ぐにフードコートである。いたるところにテーブルといすが並べられており、一見レストランのような風貌である。施設の奥側には店舗のカウンターが並んでおり、ラーメン、うどん、丼物、さまざまな食事が売られている。
「食事をしておくか」
 邑崎が凛子に言うと、凛子はうなずいて見せた。凛子に千円札を渡し、好きなものを買ってくるように言うと、果たして戸惑ったかのように邑崎を見上げる。
 せめて、一人で食事くらいは出来るようになって欲しい。そう思いながら「何が食いたい?」と尋ねる。
 凛子はあごを引きながら、ガラスケースに入った蝋でできたイミテーションsのラーメンを睨みつけた。
 邑崎は凛子の手を引いて、ほとんど人もいないフードコートを横切ると、自動販売機で食券を購入して、ラーメンコーナーに差し出した。
 意外と若い青年が「ラーメン一丁」と声を上げると、邑崎はやれやれと振り返った。どこかに座ろうと思ったのだ。
 振り返った先に、茶山が不思議そうに二人の様子を眺めていた。
「なんだよ」
 すごんで見せると、茶山は動揺して両手をはためかせた。
「いえ、ちょっと不思議な光景だと思って」
「何がだよ」
 食欲の無い邑崎は近くのテーブルに腰を掛けた。
 同じテーブルに腰掛ける茶山。凛子はラーメンの出来上がりをカウンター付近で待っている。
 茶山は興味津々そうに目を輝かせた。
「あの子、最初から誰だろうと気になってたけど、本当に妹さんなの?」
「ああ? お前に関係あるか」
「だって凛子ちゃん、あなたのこと『邑崎さん』て呼ぶじゃない。他人でしょ?」
「記者はこれだから付き合えねえ」
 邑崎は三日ほど洗ってない頭をかきむしった。
「邑崎さんは探偵さんでしたっけ? なら、もしかしてあの子は依頼人?」
 女のような鋭い指摘に、邑崎は不愉快になる。知られてしまっても問題の無い事実であるが、抉るように探りを入れられると気分が悪いものである。
「依頼人だ。だけど、それ以上のことは聞くな。この際はっきりしよう。目的については情報を共有してやるが、依頼内容、依頼人のプライベート及び調査員の素性を尋ねたり、調べたりするのは厳禁だ。いいな?」
「そんなこと言ったって」
「それから記事にしたら殺す」
 邑崎がそう言うと、茶山は口をつぐんで、ふてくされたように席を離れた。
 凛子が不器用にラーメンの器の縁を指先で支えながら邑崎の座る席まで歩いてきた。普通に持つと熱いのだろう。今にも落としてしまいそうである。
 そう思っていたら見事にラーメンを床に落とし、派手な音を立てた。ラーメンが床にぶちまけられると、動揺した凛子は泣き出しそうな顔で邑崎を見た。
 邑崎こそ泣きたい気分だった。
 
 
 
 店員に謝罪して掃除をしてもらうと、改めて凛子の昼食を買った。罰としてラーメンではなく山菜うどんである。
 凛子が一本一本、ちまちまうどんをすすっている横で、邑崎はタバコに火をつける。
 タバコの煙を凛子に吹きかけてやると、凛子は不愉快そうに目の前で手のひらをはためかせる。
 もう一度、煙を吹きかけると、信じられないという非難の目を向けて、凛子は背を向けて後ろのテーブルでうどんを食い始めた。
 離れた席で茶山がビールを煽っているのが視界に入り、非常に不愉快になった。
 ため息をついて、邑崎は施設のガラス張りの正面から駐車場を望む。
 時々駐車場に入ってくる乗用車が太陽を反射して邑崎の目を焼く。広々とした駐車場は光り輝いて白の雪景色と見間違うほどに煌々としている。
 駐車場の向こう側には連なる山々が青々とそびえており、人の存在など皆無である自然が空を縁取っている。
 邑崎はあくびをし、肩肘を突いてぼんやりと風景を眺めた。
 ここ数日、忙しく関東甲信越を駆け巡っている。時々は無駄とも思える空虚な時間が必要だ。
 邑崎は背を向ける凛子の後頭部にタバコの煙を吹きかけると、凛子は真っ赤になった顔を勢い良く振り返えらせて、堪忍袋の緒が切れたかのように箸で摘んだうどんを邑崎に投げつけてきた。
 邑崎の額から右頬に掛けて熱い麺が張り付いて、熱さにたまげて邑崎が飛び跳ねると、投げつけた凛子が慌てて目を丸くした。邑崎が「このやろう」と怒鳴ると、凛子は茫然自失と床に落ちたうどんの麺を眺め、次に憤怒している邑崎の顔を見ると、まるでいたずらを成功させた子供のようにころころと笑った。
 邑崎はでかかった文句を飲み込まざる終えなかった。
 いつまでもけらけらと笑う凛子。さぞおかしそうに肩を震わせている。
 邑崎の胸を縦横する、膿んだ傷口がじくりと痛んだ。
 ――加奈子。
 脈絡なく、その名が脳裏を埋めた。どうやら治らない傷口を抉るような真似をしてしまったらしい。
 邑崎は腰を下ろすと、凛子からそっぽを向いて不貞腐れた。
 凛子は邑崎の様子に笑うのを止めて、不安そうに眉をひそめた。凛子はしばらく邑崎の様子を見つめていたが、そっぽを向いて振り向かない邑崎に諦めて、再び背中を向けるとうどんをちびちびすすり始めた。
 
 
 
 再び車に乗り込み、目的地に向かう。某村まではあと一時間といったところだろう。
 目的地に近くなると、茶山が口を開く。
「私が前に村へ行ったのは二年前だから、当時十二歳だった庄太郎も、今は十四歳。中学二年か三年生か。子供の二年は大きいから、あのときのこと本当に覚えてるかどうか」
 茶山の言葉に、邑崎は胸騒ぎを覚えた。悪い予感ではない。
 邑崎は昨夜ホテルで報告書をまとめている間、気になった事柄を今のうち茶山に尋ねておこうと思った。もちろん、茶山が答えるかどうかは分からない。
「茶山、お前が以前に村へ行ったとき、来霧村が復活して消えてなくなった直後だったのか? それとも、ずいぶん後だったのか?」
「一月はたってないわ。庄太郎の証言を信じるならね。復活していたはずの村が消えていて、数日後に出版社に葉書を送った。葉書を受け取ってから私が村を訪れるまで一週間も無かったから、半月ってとこかしら」
 すべてを真実と受け入れるのは危険すぎるが、もし事実であるならば、万里夫は二年前にくるきり――あるいはライム村に滞在していたと言うことになる。古い情報だ。それ以降、凛子に会うまでの間、一体何をしていたのか。
 邑崎はさらに尋ねる。
「来霧村の記事を書いたとき、なぜお前はマイナーなゲームに登場する舞台と重ね合わせた? そもそも、くるきり村を、どうしてライム村と読んだ?」
「それに答えたら、もち、そちらも情報をくれるのよね」
「記事にしないならな」
「記事にはしないわ。というより、多分出来ないわ。一度記事にしようとして潰されてるからね」
「お前は何のためにくるきり村を追ってる? 記事にするためじゃないのか?」
「記者が記事のためだけに動くと思うの? 大間違い。普段からの情報収集が肝心なのよ。広くアンテナを伸ばしてれば、何か記事に出来そうなことが発生したとき、一見不可解でも、色んな事実からアプローチして謎解きできるじゃない」
 一理あるが、疑わしい。
「分かった。俺と凛子の目的はもう話したと思うが、人探しだ。お前が会った庄太郎と言う少年が友達になった男が、おそらく俺たちの探し人だろう」
「どんな関係なの? その男と」
 やはり精神は女か。情報とは関係ない、興味本位の質問が飛んでくる。
「俺にとっては古い友人だ。ずっと音信不通で、居場所が分からなかった。ようやく掴んだ情報と言うことだ」
「せっかく掴んだ情報なのに、ずいぶんと古い情報を掴んじゃったのね」
「だけど、かえりみる価値はある。それほど情報が少ない。――次はお前の番だ」
「特にたいした情報じゃなかったわね。あんたたち、本当に何も知らないで近づいてきたのがよく分かった」
 茶山は運転席と助手席のシートの間から身を乗り出した。助手席に乗っていた凛子が、ぼんやりと茶山の横顔を見上げる。邑崎は前にも思ったが、凛子は茶山には警戒しない。凛子はあまり男女を隔てて警戒するわけではない。邑崎は凛子の態度が不可解だった。
「庄太郎少年は村のことを『くるきり』と発音してた。でも、あの子は村の漢字も知ってた。友達の男に教えてもらったそうよ。漢字で書いたら『来霧村』。私はすぐに連想した。何年か前にひそかに流行ったサウンドノベルゲーム『森の怪』。グラフィックもお粗末だし、読み取り速度も遅い遅い。でも面白い。のめりこんでしまう文章のテクニックに、場面にどんぴしゃにはまった音楽。その場にいるような妙な臨場感。矛盾してるけど、荒唐無稽で迫真的。作者不詳、出所不明でオンライン上で交換されてコピーされて広がったゲームの、その舞台が『ライム村』なの。ゲーム中では、『ライム村』と表記されていて、『来霧村』とはでてこないんだけど、ゲームデータに添付されていた壊れたファイルがあって、どうにも見とれないんだけど、マニアが復元を試みたのよ。どうやらストーリーの概要だったようだけれども、復元できたのは20%ほどで、その中に発見された文字『来霧村』。もちろん、このゲームをやった人なら、誰もが『ライム村』と読む」
「どうしてゲーム中の村と結びつく?」
「最初、連想はしたものの、共通項なんて無かったし、本当にただ連想しただけだった。でも、似てるのよ。ゲーム中のライム村と、実在するくるきり村。ゲーム中のライム村の特徴を言うわ。よく聞いててね」
 邑崎は運転しながらも、話に耳を傾けた。凛子は話を理解しているだろうか。していてもしていなくても、凛子は邑崎が万里夫に会わせてくれるのを待っているだけだろう。
「いい? ゲーム中のライム村の人口は30人。戸数が12戸。家はどれも昭和の時代に建てられた木造の古めかしい長屋と数軒の文化住宅で、山の中にひっそりと集落がある。傍には広大な森が存在し、『迷いの森』と呼ばれていて、奥には誰も行かない。住民は自給自足の生活を送っていて、ほとんどが老人ばかりだったけど、美しい美女が一人だけいる。村は貧困ではなかったが過疎化が進み、村は老人が8割を占めていた。洋風の文化の取り入れられた文化住宅は、家主の裕福さを物語っているが、若者も子供もいないので閑散としている。これが大まかなライム村の概要。じゃあ、次、くるきり村ね」
 茶山がそういったころ、邑崎がタバコを加えて火をつけた。すかさず凛子が助手席のパワーウィンドウを開いた。
「全部、庄太郎の証言に基づいてることを前提にして、人口はおおよそ30人。戸数は12戸。建物はどれも昭和初期に建てられた掘っ立て小屋のような家屋。ただし、文化住宅は無い。青木ヶ原樹海が隣接する。青木が原樹海は地磁気が乱れていて、コンパスが利かない場所があるの。一度入ったら出られない、なんてことは滅多無いけど、樹海も『迷いの森』として有名よね。くるきり村も田畑で野菜を育て、家畜を育てて自給自足の生活をしていたそうで、ほとんどが老人ばかりだったそうよ。ども、一人だけ美しい女性がいた。もう話したと思うけど、加賀山瑞穂がいたんだって」
「庄太郎がゲームをなぞらえて、虚言してないという確証は?」
「あんなマイナーなゲームを知るきっかけは、インターネットからしか考えられない。もちろん、庄太郎の家にはインターネットの出来る環境はなかったわ。庄太郎が触れる機会があるインターネット端末は、近くの小学校の特別教室に二台。でも、厳重に監視されていて、特別な授業のときしか触れないし、それでも自由に触れるわけじゃない。この村にインターネットはほとんぞ普及していないに等しくて、庄太郎もネットの概念はよく分かってなかったわ。ゲームをなぞらえて嘘ついてるなんて、まず考えられないし、実際話してみて、嘘ついてるなんて様子も無かった」
「誰かに吹き込まれた可能性は? 誰かに話を聞いて、庄太郎がありもしない村を見た気になっているだけかもしれない」
「その可能性があるとすれば、庄太郎の友達だと男の存在よね。あなたたちが捜してるっていう男。そいつが感受性の高い少年の心を操作した可能性もある。それにしては庄太郎の話には写実性があった。なにより、記事が潰しにあった事実が説明つかない」
 疑ったらきりが無いが、茶山が事実を話しているとも限らない。潰しにあったという話も、実は編集長が気に入らない記事を削除したくて、体裁をとり作った嘘かもしれない。
 だが、凛子の話との共通性がある。偶然ではない。くるきり村が実在していたとしても、しなかったとしても、少なくとも庄太郎と万里夫が接触していたことはほぼ間違いないだろう。
「ゲーム中の舞台と、突然あらわれたくるきり村との関連性はそれだけか?」
「今のところね」
「ゲームの舞台が現実に現れる。この意味の無さは何だ? どんな意味があるっていうんだ」
「誰かがふざけてゲーム舞台を現実に作って見せた、とか。もしかしたら、ゲームの原作者が現実にアドベンチャーゲームを実現して見せたのかもしれないわね」
「だから何のためだ?」
「そんなの決まってるじゃない。ゲームよ? 道楽のためでしょう。現実世界でゲームでもやってみたかったんじゃないの?」
「だから、何のためだ。金もかかるだろう。手間もかかるだろう。人でもいるだろう」
「実際、何の目的か想像の域を出ないの。もしかしたら、どこか極秘機関の実験だったかもしれない。むかし、どこぞの大学の研究で、潰れた刑務所を使って、一般人に看守役と囚人役を演じさせて心理実験を行ったことある。それと同じかもしれない。廃村を使って、民俗学の研究家が何かが村の生活の研究を行っていたのかもしれない。全部想像。だから確かめに行くんでしょ? もし、庄太郎の話が真実だとすれば、どこかの誰かが村ひとつ作り出して、そのあと何事も無かったかのように、廃れた廃村に復元していなくなった。これはミステリーよ。誰だって正解が気になる」
 その謎を紐解けば、万里夫への道が開かれるとでも言うのか。
 邑崎は釈然としない。
「とにかく、行ってみることよ。まずは庄太郎と話してみればいいじゃない。私は口を開かないわ。横で聞いてるだけ。今のところ、私の望みはそれだけね」
 茶山は邑崎たちがたいした情報を持っていないとわかって、これから起きる新事実の発見に期待を向けたようだった。
「凛子ちゃんはこの髭おじちゃんとどんな関係なの?」
 おもむろに茶山が凛子に尋ねた。
 邑崎は反射的に茶山に掴みかかろうとするが、高速道路で運転中だ。よそ見するわけには行かない。
 凛子はぼんやりと茶山を見る。
「関係?」
 凛子がのんびりとした声を出す。
「そ。関係。お友達とか、恋人とか、兄弟とか」
 凛子は黒目をくるりと一回転させると「お友達」と答えた。邑崎は即座に「友達じゃない」というと、凛子は不愉快そうな顔をする。タバコの煙を吹きかけてからかった件で、凛子はすっかり邑崎に対して不満顔である。
「依頼人じゃなかったの?」
 茶山が悪戯っぽく尋ねると「依頼人」と凛子は訂正した。
 茶山は愉快そうに「恋人と答えてくれたら興奮したのに」と凛子をからかったが、凛子は「恋人じゃない」と無表情に答えただけだ。
「なんか変な子。ねえ、凛子ちゃんは歳幾つ? 十六歳くらい?」
 凛子はこくりとうなずいて答える。
「十六歳か。ねえ、処女?」
 邑崎は運転席から拳を震わせて、茶山の額あたりをしたたかに殴打した。ごつん、と音がして茶山が後部座席に飛んでいった。
「いったあい! ちょっと、洒落にならないわよ!」
「洒落にならないのはお前だ、オカマ野郎。相手は子供だ。もっと言葉に気をつけろ」
「いいじゃない。大丈夫よ、十六歳は大人よ。それより、おでこにタンコブできたじゃない」
「鼻先に食らわして、鼻を潰してやっても良かったんだ。殴られたくなかったら、今後は言葉に気をつけろ」
 確かにデリカシーの無い質問だったと思ったのか、茶山は口答えしなかった。
 ところが凛子は後部座席を振り返ると「私、処女じゃありません」と答えた。凛子の神経が理解できない。
「あら、そうなの! 可愛らしい顔してやることはやってるのね」
 邑崎は、許されるなら高速で走る車内から茶山を放り出したかった。
「凛子ちゃん、むさくるしい髭おやじの隣じゃ息苦しいでしょ? 後部座席に一緒に来て、お話しましょうよ。ほら、初体験を聞かせてよ。私は二十歳のとき。相手は男だったけどね。女も経験あるわよ」
 凛子が身を乗り出して後部座席に移動しようとしたので、邑崎は凛子の肩を抑えて制止した。
「おとなしく助手席に座ってろ」
 凛子はとくに不満そうにするわけでもなく、乗り出した体を助手席のシートに戻す。
 邑崎は不意に不安になったのだ。凛子の表情が気になる。
 もう一人の凛子が現れる予感がした。
 もう一人の凛子が現れることが良いことなのか、悪いことなのか、判断が出来ない以上、現れないに越したことは無い。
「あら、ずいぶん凛子ちゃんに対して傲慢じゃない? このくらいの年頃はいろんなことに興味があるのよ。親じゃないんだから、大目に見たら?」
 茶山の言葉を邑崎は無視した。茶山に言って聞かせる問題ではない。
 茶山はつまらなそうにシートに背中をうずめると「あのさ」と口を開く。
 そのまま黙っている茶山をバックミラーで見ると、茶山は険しい顔で、高速で滑っていく窓の外を眺めている。
「ひとつだけ、言っておきたいことがあるの」
 急にあらたまっている。
「私の感覚なんだけれども、ちょっと不安なのよね」
「不安?」
「前は村に一度取材に行っただけだし、滞在も数時間だった。記事が潰しにあったときも、大して逆らったりしなかったし、それ以上おおっぴらに追求したりしなかった。ネットの世界でこっそり探りを入れてたくらい」
「何が言いたい?」
 邑崎が言うと、茶山はバックミラー越しに邑崎を見た。
「多分、この先を深く追求すると、ちょっと危険かもしれない」
 それはうすうす邑崎も感じている。すべて真実だと仮定したら、難しい話ではない。手間暇かけた村の再現と、再現前の状態の復元。有名アイドル歌手の存在。誰も知らない。公式ではない。記事の潰し行為。
 死を感じさせるような危険ではないが、調べようとすれば何らかの忠告や脅しがあるかもしれない。だが、あったとすれば好都合である。
「ま、何も分からないんだけどね」
 茶山はそう言って、後部座席に横になって目を瞑った。まだ寝る気だろうか。
 結局、今の時点では何も分からないと言う結論に至る。
 すべてはたどり着いてから。
 万里夫の手がかり秋のか無いのか。そこで手がかりが途切れる可能性だってある。そこで途切れたら、また振り出しに戻る。
 
 
 
 甲府南インターチェンジを降りてしばらく車を走らせると、国道の標識が某村がすぐ傍だということを教えてくれた。
 茶山の案内にしたがって小道に入っていくと、道の両脇には木々が生い茂っている。そんな風景ばかりを眺めながら、空蝉峠という山道に入っていく。うねる山道は片側を山の切り立ったがけになっており、遠くに某村の全容が高い位置から見下ろせた。茶山があれだと指差す。二つの山間の石垣に日本家屋が立ち並んでいるのが見え、村を横切るように沢が流れている。
 村に向かう山道で、小さな沢をまたぐように数メートルほどの橋が架かっている。コンクリート製であるが、ガードレールは無く、橋から沢までは思いのほか高さがあり、うっかり運転を誤れば下に転落してしまいそうだった。
 人の生活感など微塵も感じられない山道をさらに進むと、やがて舗装されている道路は終わり、車のわだちの跡が残る小径に入った。幸い、道の両脇に生えている雑草や木々に車体を擦られるほど狭くなかったが、この先に本当に人の住む村があるのか、どうも怪しく思えてきた。
 茶山も最初はそう思ったそうだが、ちゃんとあるというので茶山の案内どおりに車を走らせる。
 やがて空蝉峠の観測局のボックスを通り過ぎ、その先に雑草に埋もれた、某村の境域を知らせる標識が立っていた。
「村に入ったぞ」
「道は一本だから、そのまま走らせれば、さっき遠くに見えた山間の村まで行けるわ。ひとつ忠告するけど、人里は慣れた村は外界の人間に対して極端に閉鎖的よ。目的地は分かってるけど、村に入って最初に見かけた人間に、そ知らぬ顔で庄太郎の家の場所を尋ねてね。そうすれば、相手は庄太郎の家の親族かなんかだと勘ぐってくれて、勝手に村の情報ネットワークに噂話を流してくれるわ。そうやって顔を売っておけば、後々面倒が無い」
「なんだと?」
「警戒させると、駐在所の警官が様子を見に来たり、住民の監視の目にさらされたり、色々動きづらくなるのよ。あくまで村の知り合いの住人に会いに来たことを、誰にでもいいから印象付けておいて」
 よく分からないが、邑崎は承諾した。
 車を走らせると、ようやく山間の村にたどり着いた。山の輪郭をなぞるようにふもとに連なる日本家屋。村のメインストリートは縦断する沢沿いの舗装された通りだけらしい。ゆっくり車を走らせていくと、自転車に乗る頭巾を被った農作業に向かう老婆がいたので、ウィンドウを降ろして声をかけた。
 老婆は自転車を止めると「はあ?」と顔をはにかませる。
「こちらの村に住んでる金谷さんの家を探してるんですが、ご存知ですか?」
「ああ、そうかい。金谷は私だ。いや、この辺の住人はみんな金谷だあな」
 しゃがれた声で答える老婆に、警戒している様子は無い。
「庄太郎君って言う子供がいると思うんですが」
「ああ、そうかい。それじゃあ弘光さんちだあね。弘光さんの家は、この道をまっすぐ行って、郵便ポストの先を右に折れて坂を上ったとこだあね」
 邑崎は老婆にお礼を言うと、窓を閉めて車を走らせた。
「これでいいのか?」
「ばっちり。とりあえず、自己紹介みたいなもんよ。むさい男一人と、青年一人、少女一人が村に訪れました」
「なぜその必要がある」
「探偵のくせに案外気が回らないのね。私たちはこれから廃村の調査に行く。もちろん、廃村だからって所有者はいる。今は県が所有、管理してるかな。もちろん無許可。許可を貰おうっていったって、貰えない。危険だからって理由だけど、どうだかね。私が二年前に訪れたとき、取材って理由でも許可が下りなかった。無許可で進入しようって時に、変な噂立てられたり、警官に目をつけられるようなことは極力避けたいわけ」
 なるほど、理にかなってる。後部座席で寝息を立てるだけが能ではないようだ。
「よし、それじゃあこの先もお前にホストを頼むぞ。庄太郎と顔見知りだったな。お前がまず面通ししろ」
「了解。帰るころには私を連れて来て良かったと思ってるわよ」
 茶山が胸を張ったとき、目的の家が見えてきて、あわてて茶山が指差した。
 由緒正しそうな日本家屋だ。山の斜面に立てられており、周囲を田畑に囲まれている。地方の家よろしく、おそらく見渡す限りの領域が所有物なのだろう。
 車が二台入っているガレッジが見えた。茶山が以前訪れて停めた場所に車を停めることにした。車の出入りの邪魔にならないように駐車エリアであろう整地された場所に車を止める。
 エンジンを止め、車を降りるとセミの音が聞こえた。降ってくる熱気が気分をうなだれさせる。
 邑崎ら三人は駐車場から家屋に向かった。
 自動車は二台あったので、在宅しているはずだ。
 長屋の正面に広い庭が見える。庭に入ると、石垣の階段を登った高い位置に家屋がある。その家屋を正面に見据えて、左側に無人の倉庫がたたずんでおり、開いたシャッター内を見ると、無数の白い玉のようなものが、床に並べられた箱の中に詰められている。
 繭だ。製糸用の繭が飼育されているのだ。
 庭を挟むように反対側にある建物は、今は戸が閉められているが、おそらく個人経営の製糸工場だ。
 繭倉庫と製糸工場にはさまれた庭を進むと、正面に池がある。2平方メートルほどの小さな池であるが、金色の錦鯉が二匹泳いでおり、湧き水が岩を伝って池に流れ込んでいる。
 池の両脇を囲むように石垣の階段があり、さまざまな植木を鑑賞しながら階段を上れば家の正面になる。
 家の正面まで来ると縁側が見え、置物のように縁側に座って茶をすする老婆が見えた。
 茶山が早速近づいていく。
「おばあちゃん、お久しぶりです」
 深々とお辞儀をしながら近づいていく。老婆は「あ、どうもどうも」と言いながら近づいてきた茶山を見るが、不審そうだ。おそらく誰なのかわかっていない。
 茶山は無駄に思える大きな声で「こんにちは、以前お邪魔したことがあるんですが、覚えておいでですか?」と聞いた。
 老婆といっても、まだ六十代くらいに見える容姿にしっかりとした物腰。ボケてはいないだろう。
「二年ほど前に、庄太郎君にお手紙をいただいてお邪魔したライターの茶山です」
 老婆は口をあんぐりと空けると、手を叩いて「ああ、ああ」とうなずいて見せた。
 慌てて老婆は立ち上がり、草履を履いて縁側に下りてくると深々と頭を下げて挨拶した。
「こりゃさしいわねえ。今日はどうしたけ? ああ、いま嫁を呼ぶずら」
 老婆は茶山に親しそうにそういうと、縁側から屋内に大声を出して嫁を呼んだ。嫁は「はいはい」とエプロン姿で現れた。洗い物をしていたのか、エプロンで手を拭きながら、縁側に立ち並ぶ邑崎らを見渡した。
「これはこれは。どちらさんで?」
「前に庄太郎に会いに来た記者さんじゃんけえ。覚えておらんけ?」
 老婆が聞くと、妻はうちをあんぐり開いて「ああ、あんときの記者さんずらね。あら元気にしてけえ?」
 思い出したようだ。茶山は笑顔で「元気です」と答える。予想外の歓迎振りに、邑崎は少々驚いた。
「庄太郎君はどうしてますか? 元気してますか?」
「ああ、もうおてんばで手えやいてますけ。今学校に行ってるじゃんけんどねぇ、すぐに帰ってくけら、まあ、暑いから、中でつべてぇもんでも飲みながら休んでいってくれるけ」
「すみません、お邪魔します。あの、連れがいるんですが……」
 嫁は邑崎と凛子を見ると会釈して見せた。
「これは可愛らしい子ずら。どうぞどうぞ、あがってくれるけ。息子の友達になってくれっかしら」
「お邪魔します」
 邑崎は凛子の頭を抑えてお辞儀させる。
 邑崎と凛子と茶山は縁側から上がりこんで、居間に招待された。麦茶と茶菓子を用意され、庄太郎の帰りを待った。
「その子はお子さんずらか? とても可愛い子ずらねえ」
 話し相手を得た老婆が、興奮したように尋ねてくる。茶山が「いえ、こちらの邑崎さんの妹さんですよ」と大きな声で言うと、老婆は何度も大きくうなずいた。
「孫とおんなじくらいの歳ずらか。お嬢ちゃん、幾つけ?」
 凛子は愛想も無く「16です」と答えると、老婆は何度も何度もうなずいて見せ「うちの孫は14ずら。友達になってになってくれるだよか?」と尋ねてくると、凛子は邑崎の顔を窺った。邑崎がうなずいて見せると、凛子も老婆を見てこくりと頷いた。
 嫁が台所から漬物を持って戻ってくると「お昼は食べつら?」と尋ねてくる。
「お構いなく」
 邑崎が答えるが、茶山が慌てて「実は、まだ摂ってないんですよ。どこか食べれる場所を探してるんですが」と訴えた。それはまるで昼食をご馳走してくれと申し出ていることと同じだった。
「そうか。ならうちもすぐお昼ごはんどぅから、一緒に食べていったらいいずら。旦那ももうすぐ帰ってくるし」
「いいんですか?」
「遠慮しなさんな」
 嫁は嬉しそうに台所に引き返していった。
 茶山は邑崎に向き直ると、ウインクして見せた。
 
 
 
 どうやら、甘え上手な茶山は以前取材に来たときも食事をご馳走になり、一晩泊めてもらったそうだ。家の主人と一晩のみ明かし、息子の称号を貰った茶山は、再び訪れることを約束していたそうで、茶山の歓迎振りが納得できた。
 後で茶山に言われたのは、出来る限り、来訪の際はもてなしを受け入れるものだということだ。田舎の農村では特に、来訪者をもてなさないことは恥につながるから、軽々しく断ってはならないのだという。ある意味常識的なことに思えるが、住み慣れた都会の習慣では時間を窮することが多く、もてなしを断る場合が多い。それは恥をかかすことと同意語とはならない。
 農村での時間の流れを、都会と同じだと思ってはならない教訓だ。
 昼過ぎに帰ってきた主人と茶山は、それから地酒を飲みっぱなしで、夕暮れになった。
 茶山は人当たりが良く、飽きもせず旦那の相手をしている。愛想良く、話術も巧みで主人は終始上機嫌だった。
 邑崎と凛子は解放された縁側で夕涼みしながら、暮れていく庭を眺めつつ、庄太郎の帰りを待った。
 夕暮れに帰ってきた庄太郎はイメージしていたような少年の風貌は無く、中学二年生のサッカー少年は、声変わりも果たし、精悍な印象があった。
 庄太郎は軽く邑崎らに挨拶すると、庭先に出てサッカーボールでリフティングを始めた。サッカー少年のようで、いつまでもボールを弄っていた。
 邑崎と凛子は二人で縁側からそれを眺めていたが、庄太郎が練習をやめる様子は無かったので、日が暮れる前に邑崎は庄太郎に話しかけた。
「庄太郎君、ちょっといいかな」
 邑崎が声をかけると、一時間は落さずに続けていたリフティングをやめて、ボールを小脇に抱えた。
「邑崎と言います。帰ってきて知らない人がいてびっくりしたろうけど」
「茶山さんのこんは知ってるじゃん。前、きてもらったこんあるずら」
「そう。今回も同じ用件で来たんだ」
「くるきり村こんずらけ? もう全部はなしたずら」
「誰も信じてくれなかったんだろ?」
「おじさんは信じるずらか?」
 庄太郎は射抜くように邑崎を見る。
「ああ、もう信じてる。君の話を聞きたくて、わざわざ茶山にお願いしてきてるくらいだ。君の話を直接聞きたくてね」
「僕は何でも話するじゃんよ。秘密でもなんでもねえし」
 邑崎は凛子を振り返った。凛子は縁側に座っている。座る凛子の向こう側では、居間で茶山と旦那が大声で騒いでいる。
 話してくれると言った庄太郎だが、家族のいる前でいいのだろうか。
「気にしなくていいずら。そで話するじゃん」
 庄太郎はそう言って、縁側に歩いていく。凛子と対峙すると、意識したように離れて座る。
 邑崎は凛子と庄太郎の間に座って、まずは凛子を紹介した。
「こいつは白羽瀬凛子。俺の妹だ。一緒に話を聞かせてやってもいいか?」
「構わねえずらけんど」
 邑崎は凛子を見ると、凛子にも「聞きたいことがあれば聞け」と伝えてから、何よりも先に尋ねたかった事を聞いた。
「くるきり村のことは、茶山から大体聞いてる。俺たちが聞きたいのは君が会ったと言う、くるきり村の男のことだ」
「黄瀬さん」
「そう。その黄瀬という男は、どんな人間だった? 年齢はどれくらい?」
「歳は三十歳って言ってたけんど。でも、もっと若くめえた。髪が長くて女の人みたいだったずら」
 邑崎は凛子を見た。凛子も邑崎を見る。凛子は首をかしげて「なに?」とでもいいたそうだ。
 邑崎は庄太郎に向き直ると、重ねて尋ねた。
「くるきり村で会ったのか?」
「くるきり村に侵入したときに、声をかけられたのさ。なにょうしてるって。僕が、ここには廃村だって言いたさら、黄瀬さんが説明してくれた。映画の撮影だって」
「映画の撮影?」
 思わず、振り返って茶山の事を見る。茶山は相変わらず旦那と酒を酌み交わして大声で話している。
「茶山にはそのことを話した?」
「言ったずらよ」
 茶山は映画撮影のことは一言も言っていない。
「何の映画の撮影だったのか知ってるか? タイトルとか」
「分かりん。でも、カメラは見んかったずら」
「黄瀬は、撮影スタッフ?」
「多分」
「黄瀬とどんな話をしたんだ?」
「怪奇系の話じゃんね。化け物の話とか、超常現象の話とか」
「どんな内容の話なんだ? 妖怪の話?」
「妖怪の話もしたさ。だけんど超常現象の話が多かった。色んな不思議な話を科学的に説明したり」
「たとえばどんな話が印象的だった?」
 庄太郎はううんと唸って眉間に皺を寄せる。
「うんと話したよ。人体発火現象とか、髪の毛が伸びる人形とか、バミューダトライアングルとか」
「黄瀬がたくさんした話は?」
「バミューダの話かな。ほう。おらんと黄瀬さんで、盛り上がってうんと話した。輸送船、軍艦、航空機、戦闘機があの海域でうんと失踪してる。不思議な話。だけんど、黄瀬さんは科学的に説明してた」
 万里夫の行方と、何か関係があるのだろうか。
 いや、ある意味万里夫も失踪したようなものである。いわゆる神隠し。ただし、万里夫が失踪して、誰も万里夫を探そうとしないし、いなくなったことすら知らない。
「万里夫は二年前、次の行き先を話してなかったか?」
「ええっと、してなんだと思う。するまえに突然いなくなったよ。気づきゃあ村も元の廃村に戻ってた」
「俺たちは黄瀬の友人なんだ。行方を探してる。少しだけでもいい。行き先について少しでも分かるようなことがあれば教えてくれないか?」
 庄太郎も戸惑っている。
「撮影スタッフみたいだったから、映画会社とか、テレビ局員とか」
「加賀山瑞穂がいたらしいな。彼女は映画の登場人物なのか?」
「多分。有名人がいたから、映画の撮影だって黄瀬さんの言葉を信じたんだ。ほうか。加賀山瑞穂なら黄瀬さんの行方を知ってるかもしれんね」
 加賀山瑞穂に接触できる機会があれば、あるいは尋ねることが出来るかもしれないが、接触は困難だし、接触したとしても、今まで同様、果たして万里夫のことを知っているのかどうか。いずれにしても、次に接触するのは加賀山瑞穂だろうと決めていた。
「だけんど、黄瀬さんはまたおらんに会いにくるってこいてた。ううん、会いにくるこんになるって」
「会いにくることになる?」
「いつか、必ず会いにくるって。その必要が出来たら」
 一体どういう意味だ。含みがあり、重要そうであるが、そうでない気もする。
 そこまで聞いたとき、三人の背後の居間から、嫁が夕飯の時間だと声をかけた。
 潮時を感じて、そろそろおいとましようと腰を上げたが、茶山はすっかり顔を赤くして、夕飯をご馳走になろうと箸を鳴らしている。
 嫁は愛想良く「良かったらよばれていってね。お部屋も用意してあるから、こんばんは泊まっていってくりょうし」といった。
 邑崎は凛子を見た。いつものように、凛子は邑崎を見返しただけだ。
 断る理由はないし、むしろありがたい。
 
 
 
 多少の酒を飲み、寝床を用意された後はすることが無くなった。時刻は九時を回ったところで、時間延長のナイター中継を放映するテレビをぼんやり眺めていた。夕暮れに聞こえていた鈴虫の音も途絶え、網戸の閉められた縁側から見える夜の庭は森閑としている。蚊取り線香の煙が無風のせいでまっすぐ空に立ち上り、煙をはさんで凛子と庄太郎がなにやら二人で会話している。
 茶山は家の主人と村に一軒しかないスナックにのみに出かけ、祖母は早めの就寝。嫁は台所で翌日に息子と旦那に持たせる弁当の下ごしらえにいそしんでいた。
 縁側の床の間に座り込みながら、邑崎に背中を見せて会話する凛子と庄太郎。田舎の切り取られた日常の風景。本来凛子に与えられた当たり前の空間。思春期の男女が、夜の風景を眺めながら交わす一つ一つの会話は心地よく胸をくすぐり、時間を忘れ、期待し、思い出になる。
 邑崎は少々の酒が回ってか、うとうとし始める。
 そのうち、折りたたんだ座布団に顔をうずめ、寝息を立て始めた。
 目覚めたのは数分後か、数時間後か、まどろみの中、目を開けると凛子と庄太郎の背中に、茶山の背中も追加されていた。
 何か話しているが、聞こえては来ない。テレビは延長されていたナイター中継を終え、続く番組を放映していた。
 邑崎は再び目を瞑り、睡眠と覚醒の間を行ったり来たりしながらまどろむ。
 次に目を開けたときには、庄太郎の背中がなくなっていた。
 凛子と茶山が何かを話している。
 凛子と庄太郎ならまだしも、凛子と茶山を二人にすることに危機感を覚えた邑崎は心地よいまどろみを払拭し、覚醒することを選んだ。
 重くなった体を起こすと、目を擦ってから二人の背中を睨んだ。
 茶山が邑崎が目を覚ましたのに気づいて、凛子になにやら耳打ちする。
「おいこら。凛子に何か吹き込んでんじゃないだろうな」
 邑崎が凄むと、凛子が邑崎を振り返る。
 その目には涙がためられており、頬には涙の伝った後がはっきり見て取れた。激しく動揺する邑崎。
 茶山は凛子の頭を軽く叩くように撫でている。
「なんだ? 何で泣いてる」
 邑崎の問いに、茶山が答えた。
「あんたなんかには教えないよーだ。ねえ、凛子ちゃん」
 凛子が頷いてみせると、涙がほろりと落ちた。室内の蛍光灯に反射して、きらりと光を放つ。
 邑崎は不審そうに茶山を睨みつけるが、茶山は凛子の頭を胸に抱くと「よしよし」となだめた。
 茶山が凛子に触れても、違和感は無い。茶山が本当に同性愛者かどうかは確信は無いが、凛子の様子を見る限り、悪戯するようにも、されたようにも見えない。
 だが、胸騒ぎがする。凛子の感情を揺さぶる茶山は、あるいはもう一人の凛子を呼び覚ます引き金になりそうだ。
「凛子、もう寝ろ。子供が起きてる時間じゃない」
 そう言うと、凛子は茶山の腕の中を離れ、おとなしく従った。
 凛子が寝床に消えると、茶山が非難を向けてきた。
「凛子ちゃんはあんたの奴隷じゃないのよ」
「奴隷じゃないな。でも子供だ」
「馬鹿ね。あの子が子供に見えるの?」
 邑崎は再び茶山を睨む。距離があるせいか、拳が飛んでくる心配のない茶山はひるまない。
「あの子は立派に大人じゃない。命令口調は控えたら?」
「逆らいたければ、逆らえばいい。あの娘は大人なんだろ? だったら、自分の意思で決めりゃいい」
「そういう意味の大人って言ってんじゃないのよ」
「じゃあどういう意味だ」
 邑崎は、まさか凛子が陵辱された体験を聞きだしたのかと危惧した。凛子が邑崎に体験を告白したときは、涙を流さなかった。
 今の凛子は泣いていた。
「茶山おまえ、凛子に何か聞いたのか?」
「特に凛子ちゃんのことは何も聞いてないわよ。なによ、何かあるって言うの?」
「なぜ泣いてた?」
「私が感動のお話を聞かせてあげたの。でも、私のプライベートなことだから、あんたには内緒」
 本当だろうか。
 邑崎はいぶかしんだが、聞き出すほど今の邑崎に体力が残っていない。
 邑崎はテーブルの上に乗ったタバコを取り出すと、一本口にくわえた。
 火をつけて煙を吸い込むと、タバコを挟んだ指で茶山を指差しながら言った。
「お前に忠告しておく。もう、凛子に近寄るな。あいつに何も話すな。何も聞くな。今度おまえと凛子が二人でいるところを見たら、お前とはそこでお別れだ。いいな?」
「どうしてそんなに凛子ちゃんのことを囲むの? 私が信用できないから?」
「そうだよ」
「わたし、ゲイだから凛子ちゃんをかどわかそうって気なんかないわよ」
「そうじゃない。あいつは特別なんだ」
「何が特別なのよ。普通の女の子じゃない」
「そう見えるだけだ。あいつは人との接触で、ひどく動揺するんだ。表には見せなくても、内心は」
 茶山が邑崎の言葉を、ふんと鼻を鳴らして一笑に付した。
「普通よ。人と触れ合ったり、会話したりすると心が揺れるのは当たり前じゃない。何を心配してるの? 他人のあなたが」
 邑崎は苛立つ。数発殴りつけて、おとなしくさせるのが得策に思えるが、いくらか茶山には役に立ってもらってる義理もある。
「あの女は、二つの人格を持ってる」
「二つの人格?」
 茶山に聞かせてしまってよいものか。邑崎は逡巡したが、理解してもらうのが一番と判断した。
「あの女は、事情があって卑屈で臆病な人格と、男に対して色目を使うような人格が共存してる。本当のあいつは臆病な子供の女だ。できればもう一つの人格を呼び出したくない」
 茶山は再び高い声で笑った。人を小ばかにしたような笑い方だ。
「茶山さん、自分で言ってておかしいと思わないの?」
「なにがだ」
「おとなしい女の子が本当の姿で、色目を使う女の子は偽者だって? ばかばかしい。それじゃまるで、女に理想を見てる中学生みたいよ。女は男の前に立ったら、自分を可愛く見せようと意識するのは当たり前じゃない。だから言ったでしょ。あの子は大人の女の子だって。女は二面性があって当たり前。二つとも本当の彼女なのよ」
「おまえは分かってない」
「あの子、処女じゃないのは分かる。女の色気を感じるもの。でも、ちょっと早すぎたみたいね。ただそれだけのこと。今は不安定なだけ。まだ彼女が成長途中なだけの話よ。何も特別じゃない。年頃の女の子には普通のことなの。あんたはあの子のことを異常者扱いしてるのよ」
「異常者扱いだと?」
「あれで普通の女の子だって言ってるの。ある程度の監視と抑圧は必要だとしても、あんたは過保護すぎる。心配なら、もっとあの子の言葉に耳を傾けてあげたら?」
「傾けてないと言ってるのか?」
 茶山が縁側の床の間から四つんばいで今まで貼ってきた。笑顔は消え、睨みつけるように邑崎を一瞥する。
「あの子、あんたを信頼してる。あんたみたいなエイゴイストでサディストをなんで信頼するのか知らないけど、その信頼は今のところあの子の夢の中。想像の中で、あなたがヒーローなのよ。あんたがエゴイストでサディストで汚い大人だとしても、絶対に凛子ちゃんの前でそんな姿を見せないでよね。今の信頼はかりそめ。凛子ちゃんがあなたへの信頼を失ったら、あの子、絶望を味わうわよ」
 茶山に気圧されているのに気づき、邑崎は襟首あたりを弄った。気持ちを立て直すと茶山を睨みつける。
「お前」
 ずい、と茶山に詰め寄ると、茶山が身を引いた。
「お前、凛子と何を話してたんだ?」
「なによ、睨みつけないでしょ。感動のお話だって言ったでしょ。嘘じゃないわよ」
 邑崎はふてったようにそっぽを向くと、ごろりと横になった。
「ちょっと、私の話、分かったの?」
 邑崎は茶山を無視した。
 反論できない自分がいて、気に入らないので不貞寝するしかない。
 凛子は万里夫に、邑崎に救われたと聞いたから、邑崎の後を付いて回っているだけだ。それは正しいし、それでいい。
 凛子は加奈子ではない。
「おい、茶山」
 声をかけると、茶山は「何よ」と不機嫌そうな声を上げる。
「明日、くるきり村に行く。凛子と庄太郎も連れて行く。ただ、廃村なだけあって、多分危険も伴うだろう。凛子の面倒、お前に任せるぞ」
 そう言うと、茶山の返事は聞こえなかった。
「分かったのかよ」
「分かったわよ。責任もって、凛子ちゃんに怪我させない様に面倒見てあげるわ」
 邑崎は起き上がると、茶山を睨みつける。
「お前の言ってることは一理ある気がするが、それでも凛子は普通とは違う」
「分かった。ちゃんと見てる。それでいい?」
 邑崎は気に入らないような気分はなくならなかったので、そのまま返事をせず立ち上がると、寝床に向かって歩き出した。
 台所の前を通ると、嫁が大きな背中をゆすりながら弁当の下ごしらえをしていた。
 不意に自分の両親を思い出しそうになり、慌てて記憶を押し込める。
 寝床に入ると、客間には布団が二枚しかれており、二つの布団はしっかりとくっついて並べられている。枕元には行灯型のライトが部屋を薄紅に染めていた。
 二枚の布団の片方にはすでに先客が布団に包まっていた。
 邑崎はその場にしゃがみこんで頭を抱えた。
 これではまるで新婚初夜の夫婦の寝室だった。
 兄弟と思われているので、当然といえば当然だが、邑崎は凛子の横に寝ることが滑稽でならない。
 それに凛子だ。
 不意に、凛子が頭まで被っていた布団を剥いで、顔を見せた。
 まん丸な目で邑崎を見上げた。その目にはすでに涙はない。
 邑崎は硬直する。
「どうしたんですか?」
「……いや」
「寝ないんですか?」
「……いや」
「どうしたんですか?」
「……いや」
 壊れたレコーダーではない。堂々巡りの質疑応答を繰り返しても仕方が無い。
「俺は居間で寝るよ。お前はここで寝たらいい」
「どうしてですか?」
「どうしてって……」
 十六の娘に意識する邑崎がおかしいのか。
 そうだとしても、布団は離すべきだろう。
 邑崎が布団の端を持って、凛子の眠る布団から距離を離す。
「何をしてるんですか?」
「……いや」
 凛子が布団を這い出して、正座姿で邑崎を見つめている。
「なんだよ。お前はもう寝ろ」
「寝ます。邑崎さんは寝ないんですか?」
「本を読みながら寝る」
 そう言うと、枕元におかれていたバッグから、小説を取り出す。
「何を読んでるんですか?」
「小説だよ」
「読まないと寝れないんですか?」
「習慣なんだよ」
 邑崎は凛子に背を向けるように布団に包まって、文庫本を開く。ずいぶん前から中断している小説だ。どこまで読み進めたかも覚えていない。この際、どこでもいいと思い、適当に真ん中を開くと、それらしく文字を目で追った。
 しばらく沈黙が続いたが、不意に背後で凛子が口を開く。
「寝ましたか?」
 無視してると、再び流れる沈黙。
「もう寝ましたか?」
 凛子が再び尋ねてくる。
 もう、狸ね入りしようと思い立ったころ、再び凛子が
「寝ましたか?」と聞いてくるので、邑崎は振り返った。
 凛子は布団の上で正座しながら邑崎を見つめている。
 行灯型のスタンドライトの淡い光が凛子の瞳を反射している。
「なんだよ。寝れないだろうが」
「……ごめんなさい」
「眠れないのか?」
 凛子が頷く。
「車の中であれだけ寝れば、そりゃ眠れなくもなる。今度から昼間は頑張って起きてろ」
「分かりました」
 不意に、凛子の従順な態度に苛立ちを覚えた。
 さきほどの茶山の言葉が影響していることは理解できる。
「もう寝ろよ。羊を数えてれば、そのうち眠くなる」
「はい」
 凛子は布団に包まる。
 やれやれと、邑崎は再び布団に包まり、凛子に背を向けるように本を開いた。
 しばらくすると、睡魔が襲ってくる。
 まどろみの中で、さまざまなイメージが頭の中に浮かぶ。羊が一匹――。羊が二匹――。羊が横になる邑崎を飛び越えていく。
 羊が十匹。羊が十一匹。
 羊は際限なく飛び越えていく。
 羊が二十匹。羊が三十匹。
 邑崎は目を開けた。
「羊が五十匹。羊が五十一匹……」
 振り返ると、凛子が天井を見つめながら、呪文をとなるように羊を数えていた。
「こっちが眠れないだろうが!」
 邑崎が思わず大きな声を出すと「羊が五十二ひいっ」と悲鳴を上げて、凛子が布団の中で飛び跳ねた。
「心の中で数えるんだよ」
 凛子が鼻まで布団を被って、卑屈そうに邑崎を睨みつけた。
 邑崎は凛子に出会ってから癖になりつつあるため息をつくと「心の中で数えるんだぞ」と念を押してから再び横になる。
 疲れているせいで、睡魔はすぐに訪れる。
 吸い込まれるように落ちていくと、不意に頬に冷たいものが当たり、飛び起きる。眠りから無理やり呼び覚まされることはストレスだ。
 目を開けて頬を触る。
 何事かと周囲を見ると、凛子が邑崎の枕元までやってきて、正座して座っている。おびえたように邑崎を見ている凛子。
「何だってんだ。なんだ? 冷たかったのは手か?」
 凛子はうつむいて、何も答えない。
「いいか。おとなしく寝ろ。もう次はないぞ。いくらなんでも怒るからな」
「ごめんなさい」
 凛子はぼそりと呟いて、自分の布団に戻った。
 頭で布団を被った凛子を、疑わしそうに監視する邑崎。
 凛子が恐る恐る布団から顔を見せると、すかさず「寝ろ」と怒鳴る。慌てたように顔を引っ込める凛子。
 再び様子を窺っていると、また顔を這い出させた凛子に「寝ろ」と怒鳴ると、もう顔を見せなくなった。
 やれやれと布団に戻る邑崎。
 極楽のような布団の中で、ようやく安らげる安堵を抱きながら目を瞑った。
 数分して、今日何度目からの睡魔が降臨してくると、三度凛子に起こされることになった。
 今度は凛子が布団の中に入ってきたのだ。
 驚いて布団を這い出ようとすると、凛子が「行かないで」とかすれた声を上げた。
「お願いです。一緒に寝てください」
 布団にもぐってきた凛子は、冷たい手で邑崎の背中を触った。
 動悸が激しく胸を叩く。
 凛子は消え入りそうな声で呟く。
「怖いんです。ずっと夜眠れなくて。邑崎さんが傍にいる車の中しか眠れなくて。お願いです。そのままでいいです。一緒に寝てください」
 邑崎は返事が出来なかった。
 これは果たして正しいことなのか。
 邑崎はやっとの思いで声を出す。
「どっちだ? 今はどっちの凛子だ?」
「どっち? 私は私です。迷惑ですか? 嫌ですか?」
 凛子が布団の中で寄って来る。
 凛子の胸が、邑崎の背中に当たる。
 下着の感触はない。
 邑崎は不意に意識する。
 客間は居間からも、家族の寝室からも離れている。
 凛子の体温が伝わり、柔らかな肉の感触が背中を圧迫する。凛子の太ももが邑崎のしりをさする。
「邑崎さんのこと、好きです」
 凛子の吐息が首筋を撫で、凛子の手がわき腹を這う。
 わき腹からへそを撫で、ゆれる凛子の胸が邑崎の背中で弾力を主張する。
 全身が脈打ち、邑崎の股間が膨張する。痛いくらいに腫れ上がった股間は、ズボンを突き破って、肉の割れ目に突き刺そうといきり立つ。
「邑崎さん……」
 凛子の唇が邑崎の首筋に触れ、唇でつまむように耳たぶを挟む。
「凛子……」
 振り返り、力の限り凛子を抱きしめ、膨張した股間を凛子の太もも、腹、胸に押し付けるイメージが邑崎の頭を埋める。凛子の胸を掴み、好きなだけ揉みしだき、乳首を口に含み、舌で転がし、凛子の喘ぐ声を聞きたい。
 凛子の口内に股間を突き刺し、充分汚してから下の口に突き刺す。やがてあふれ出す精子を凛子の中に流し込むまで、獣のように腰を振り続け――。
 ――凛子に絶望が訪れる。
 信頼とは、なんだ。
「凛子」
 理性はどこにある。本能を押さえつける理性とは半透明の希薄な膜だ。
 凛子の手がズボンの上から、膨張した邑崎の股間を優しくさすった。
「勃ってます……」
 凛子が手を動かそうとしたとき、邑崎は凛子の手を握った。
「凛子」
「……なんですか?」
 邑崎は何度か息をつき、凛子に正面を向けた。凛子の顔が数センチ先にある。凛子の大きな瞳は半分閉じられ、唇が誘うように光っている。
 まどろんだような表情。
 愛らしい。触りたい。
「俺はお前に勃起してしまうような最低な男だ」
「どうしてですか?」
 凛子が再び邑崎の股間に手を伸ばす。邑崎はその手を握り、顔の前まで持ってくる。
「正直に言う。俺はお前を犯したい」
「犯してください」
 ぞくり、と邑崎の全身に微電流が駆け巡る。理性はたやすく破られる。理性の膜を強固にするものは何だ?
「凛子、お前にまだ言ってなかったことがある」
「なんですか?」
「俺が万里夫を探す理由だ。まだ言ってなかったな」
「私は万里夫さんが好き。でも、万里夫さんが好きな邑崎さんも好き」
 恍惚とした表情で唇を近づけてくる凛子。
 逆らえなかった。凛子と唇が重なる。凛子の濡れた柔らかい舌が邑崎の唇に触れたとき、邑崎は凛子の顔を遠ざけた。まるで生命力を削るような決意だった。
 邑崎が身じろぎすると、邑崎のひじが凛子の胸に触れた。凛子が「あ」と喘ぐ。抑圧された肉欲が全身を突き破ろうとする。苦痛だ。何が正しいことなのか分からなくなってくる。
「俺の話を聞け」
 願うような声だった。悲痛そうな声に、凛子が邑崎の頬に手を触れ「大丈夫ですか?」と尋ねてくる。
「俺の話だ。万里夫と初めてあったときの話」
 邑崎は搾り出すように言葉を吐き出す。
「万里夫と初めて会ったのは、中学二年の夏。ひと夏だった。万里夫が夏の初めに転校してきたのは覚えてる。でも、夏休みが明けたころにはもういなかった。いついなくなったのかは覚えてない。それどころか、夏の終わりには万里夫など最初からいなかったかのように生活を送っていた」
 話を聞いているのか聞いていないのか、凛子は邑崎の胸あたりに顔をうずめ、唇で喉元を愛撫する。快楽が全身を駆け抜ける。邑崎は凛子を抱きしめるように頭を抱え込んだ。これ以上の凛子の行為に耐え切れそうにない。
「その夏は、俺の中で特別で、思い出したくもない最悪なときだ。その夏の出来事は、両親の死。俺は良かったが、まだ小学生だった妹にとって、それは耐え切れない出来事だった。夏休みの終わり、俺と妹はそれぞれ友達の家に遊びに行っていた。俺は万里夫の家に遊びに行った。その間、家には両親の二人。そこに暴漢が進入した。バットで滅多打ちだった。全身の骨を砕かれ、大きな刃物で喉や胸、背中を刺されていたそうだ。第一発見者は、悲鳴を聞いたと近所の主婦から通報を受けた警察官だった」
 凛子は腕を邑崎の体に回し、抱きついてくる。太ももを持ち上げ、邑崎の股間に押し付けてくる。体を摺り寄せ、くねらせ、肉欲をそそる。
「俺と妹は親戚の家に養子に貰われていくことになる。俺の記憶の中に万里夫が登場するのは、両親の死からさかのぼって二ヶ月ほど前からだ。転校してきた万里夫のことは覚えてる。内気そうにクラスメイトの前で挨拶してた。小さな声だった。おとなしい性格の万里夫は、俺が声をかけても、最初のうちまるで返事もしてくれず、ほかの人間が声をかけても同じで、何日も一人で過ごしてた。休み時間も一人。放課後も一人。口も利かない。笑いもしない。そんな万里夫と親しくなるきっかけは、今思い出しても奇妙だった。東京でも田舎のほうにある中学校は、みんな徒歩か自転車での登下校だ。学校帰り、俺は一人、片側をブドウ畑、もう片方を桑畑に挟まれた小さな通りを歩いてた。夕暮れだったかな。人も車もろくに通らない小道の端にうずくまってる万里夫を見つけた。俺はなんだか声も掛けづらくて、こっそり万里夫に近寄った。万里夫が何をしてたかというと、物凄く辛そうに泣いてたんだ。それこそ死にそうな目にあったくらい、壮絶な泣き方だった。驚いて大丈夫かと声をかけると、振り返った万里夫は血だらけだった。最初は驚いたけど、よく見れば万里夫の血じゃない。血は、万里夫の抱いている子犬から流れる血だった。万里夫は震える声で『なんでこんなこと』と泣いていた。子犬は無残な姿だった。刃物で裂かれたように腹が切れていて、内臓が飛び出していた。目玉はくりぬかれたように潰れていて、前足一本と、後ろ足一本が切断されていた。子犬はそれでも生きていたけど、もうすぐ死のうとしていた。万里夫は子犬を抱きながら、震えて泣き続けてる。でも、悲しんでいるというよりはひどく怯えていて、顔が死人みたいに青かった。俺はしばらく言葉を失ったまま見ていると、万里夫は『死んじゃった』と言った。浅く息をついていた子犬は、もうぴくりとも動かなくなっていた。万里夫はふらふらと立ち上がって、どこかへ歩いていくので、俺は黙って万里夫の後を付いていった」
 凛子はまだ腕の中で身を捩じらせて、喘いだような声を出している。
「万里夫が向かったのは、水田地帯の奥にある雑木林で、万里夫は素手で穴を掘り始めた。子犬を埋葬するのだと分かった俺は、それを手伝った。木片を持ってきて、出来るだけ深く穴を掘って、俺と万里夫は一言も口を利かずに子犬を埋めた。埋め終わるころには万里夫は泣き止んでいて、しばらく埋めた後を見下ろしながらぼんやりしてた。結局、その日は一言も口を利かないまま、俺たちは分かれた。次の日だ。同じ通りを家に帰ろうと歩いてると、前の日に万里夫が子犬を抱いて泣いてた場所に、数人の同じ学校の上級生たちがたむろってたんだ。子犬が流した血の後を珍しがってるのかと思ったけど、そのまま通り過ぎようとしたとき、上級生たちの会話が聞こえた。『ここに捨てた犬、いなくなってるじゃねえか』『なんだよ、せっかくどうなったか見に来たのに』『死体を誰かかたづけたんだろ』――子犬を残酷にいたぶった犯人が目の前にいた。通り過ぎようとしたけど、俺は振り返った。振り返った先には数人の上級生たち。でも、その向こう側に、偶然通りかかって立ちすくむ万里夫も見えた。俺は万里夫と目が合った。万里夫と何か合図したわけじゃないけど、俺と万里夫は同時に上級生たちに掴みかかってた。数分後には返り討ちにあって、俺と万里夫は子犬の血たまりの傍で倒れこんでたよ。子犬の復讐は果たせなかった。その時、万里夫は初めて口を開いた。『どうしてあんなに残酷なことが出来るんだろう』。俺も同じことを思ったけど、きっと万里夫ほど強い気持ちで思ったわけじゃないと思って、口を開かないでいた。『あの子犬は、物凄い痛みと、苦しみと、恐ろしさの中で死んでいったんだ』。万里夫がそういったとき、胸がちくりと痛んだのを覚えてる。まるで俺が取り返しのつかない犯罪を犯してしまったような気分になった。俺が『動物は、死ぬ直前は心をなくして、痛みも恐怖も感じないまま死ぬんだ』と、半分気休めのように言うと、万里夫は頑固として『違う』と言い張った。俺もムキになって『犬の気持ちなんて分かるのか』といったら、万里夫のやつ『分かる』と言い張りやがった。それからは『分かるわけない』『いや、分かる』の言い合いで、しばらくその場で口げんかしてると、不意に万里夫が『同じクラスだよね。名前は?』と聞いてきた。『邑崎』と答えると、万里夫は手を差し出して『緑川万里夫』と言った。差し出された手を掴むと、俺も『邑崎郁丸』と答えた。二人は仏頂面のままだったけど、その時友達になったんだ」
 凛子は動かなくなっていた。あるいはそのまま眠ってしまったのか。
 邑崎は構わず告白を続けた。
「俺たちは学校での休み時間、下校時、一緒にいるようになった。万里夫が聞かせてくれる不思議な話は興味深くて、いつも聞き入った。色んな話だ。髪の毛の伸びる人形の話し、人体自然発火の話。庄太郎が言ってた通りだ。俺は思わず、庄太郎に自分の姿を重ねたよ。そうして親しくなった万里夫と過ごした二ヶ月弱。別れのときは、突然やってきた。俺には兄弟が一人いる。加奈子と言う三つ年下の妹だ。俺になついていて、万里夫と遊ぶときは時々ついてきた。でも、そのころ妹に笑顔がなくなってきてることに気づいた俺は、万里夫に相談した。万里夫は喜んで俺の相談に乗ってくれるといい、俺と一緒に妹に会いに家に向かった」
 俺はそこで言葉を区切った。
 今までこのときのことを言葉にしたことは一度だってない。
 誰かに聞かせたことなど、当たり前だが、今だかつてない。
 初めて告白する。
 それには決意が必要だった。
「夏休みも終わりに近かった。妹に家にいるように言っておいてから万里夫をつれて家に帰った」
 体が震えた。凍えるように寒くなり、腕の中にいる凛子がまるで太陽のように感じて、抱きしめる腕に力がこもった。
「家に入ると、母親が出迎えた。だけど、どこかよそよそしい母親。ばつが悪そうに俺と万里夫を居間に案内してお菓子とお茶を用意した。俺が母親に妹の居場所を聞くと、母親は『友達と遊びに行った』と答えた。そんなはずはないと言っても、母親は居ないと言い張る。おかしいと思った俺は妹の部屋まで向かおうとすると、突然母親が悲鳴を上げて、俺を止めたんだ。俺はびっくりして母親を見ると、母親は鬼のように怒って、生まれて初めて俺に手を上げた。それもこっぴどく。俺は顔や腹の痛みにうずくまると、万里夫が慌てて母親を止めていた」
 体の震えが止められない。凛子は腕の中でぴくりとも動かないが、今凛子が腕の中から居なくなったら、おそらく邑崎はこの間で舌をかんで死ぬだろう。
「万里夫が母親を止めてる間に、俺は妹の部屋に向かった。妹の部屋のドアを開けると、部屋は真っ暗だった。最初はやっぱり妹は居ないのだと思った。でも、不自然なんだ。昼間、カーテンを閉めたって、あんなに真っ暗にはならない。雨戸を閉めて、すべての光を遮断しなけりゃ、あんなに暗くはならない。俺は不安になって妹の名前を呼ぶと、突然暗闇から黒い影がぬっと現れた。その影は思い切り俺を突き飛ばすと部屋を出てきた。父親だった。パンツ一枚の姿の父親。忘れない。膨らんだ股間。激しい息遣い。俺は『加奈子はどこ?』と叫ぶ。父親は答えない。鬼のような顔をして、俺の胸倉を掴みあげると、何度も殴りつけた。床にうずくまった俺が見たのは、不安そうにシーツに包まりながらドアの間からこちらをのぞき見る加奈子の姿。加奈子は裸だ。シーツの下は何も来ていない。なぜかそう思った。父親は妹を部屋へ押しやって、ばたんと扉を閉めた」
 寒い。苦しい。悲しい。寂しい。誰かのぬくもり。愛。優しさ。欲しい。欲望の限りを尽くせる激しい肉欲。
「――妹は父親にレイプされていた。……レイプ。それが正しいのか。小学生の妹。やはりレイプか。今はすべて分かる。そのときのことが。俺の父親は妹を溺愛したんだ。溺愛しすぎた結果、愛情は肉欲の方向に進んだ。一種の病気だったのかもしれない。母親は父親の奇行を黙認し、父親は自分を抑える術も助けもないまま、妹を犯し続けた。一体いつからだったのか、今となっては分からない。でも、一番愚かしかったのは、妹がその愛を受け入れてしまったことだ。父親が妹を愛するのと同じくらい、妹も父親を愛した。そして、それと同じくらい、母親も父親と妹を愛した。そこに強制だとか、憎しみだとかはなく、ただ愛情があった。妹は苦しんでいたのかもしれない。もちろん、両親も。止められなくなった愛情の過ちは取り返しのつかない場所までやってきて、あとは崩壊しかなかった。そのときの俺はただ激情しかなかった。妹を救うことしか頭になかった。俺は玄関まで行くと、傘立てに刺してあった金属バットを掴んで妹の部屋まで戻った。妹の部屋に飛び込むと、廊下からの光で、汗に濡れた父親の背中が見えた。俺はその背中に向かって金属バットを打ち下ろした。背骨の骨に当たったバットは、かん、と甲高い音を立てた。父親は悲鳴を上げて床の上に転がった。暗闇の部屋で、廊下課の光に反射して父親の目が光った。でも、それは愛情の光。受け入れていた。俺がバットを振り上げたとき、父親は引き返せない地獄への道を叩き壊してくれる俺の存在を受け入れた。俺がバットを振り下ろす瞬間、父親の唇が震えた。『ゆるしてくれ』そういったかどうかは分からないが、そう言ったように思えた。金属バットは父親の額を殴打し、やはり、かん、と甲高い音を立てた」
 激しい動悸と息遣い。間違いなく凛子に伝わっているはずだ。
 この告白は凛子を苦しめるだろうか。
「父親の額が割れて、血が噴出した。父親は言った。『もう一度だ』。俺は父親の言うとおり、もう一度バットを振り上げた。その時、母親が悲鳴を上げて部屋の前に立っているのに気づいた。俺はバットを振り上げたまま、絶望的な悲鳴を上げて父親を守ろうと覆いかぶさる母親の背中に向かって、バットを振り下ろした。どん、という音がした。うう、と母親は唸った。『もう一度』。母親はそう言った。あるいは俺の幻聴か。俺はもう一度バットを振り上げた。その時、俺の目の前に妹が立ちはだかった。妹は全裸だった。両手を広げて、俺の目の前に立ちはだかって『やめて』と叫んだ。妹が俺を非難していると思うと、絶望的な気持ちになった。お前を救おうとしているのに、なぜそんな目をするんだ。俺はそう思った。でも違う。俺が呆然とバットを床に落すと、妹は言った。『お兄ちゃんは、何も悪くない』。妹は自分の机に踏み寄ると、引き出しを開いて、大きな包丁を取り出した。俺は驚いて、妹から包丁を取り上げようとしたけど、妹は刃先を自分の首筋に当てて『動かないで』と言った。俺は動けなくなった。妹は震えながら涙を流して『ごめんね』と謝った。お前が謝ることは何もない。そういいたかったけど、声にならなかった。妹は絶望的な悲鳴を上げると、横たわる両親に向かって、狂ったように包丁を突き立てた。最初は母親の後頭部。次は父親の首。何度も刺した。俺が妹を止めるころにはもう両親は死んでいた。妹が自分の首に刃先を向けたとき、俺は包丁の刃を掴んで止めた。手に激痛が走ったけど、構わなかった。妹が死ぬことのほうが何倍の痛みだからだ」
 邑崎は涙を流した。顔中、体中から体液が噴出し、凛子の体を濡らす。涙が幾つも凛子の髪に落ち、水滴を作った。
 体中から熱がもれ、布団の中は炎に包まれたかのように熱い。
「万里夫がその場に現れたのはその時だ。万里夫は呆然と部屋の前に立ちすくみながら、『どうして』と呟いた。俺は万里夫を見て『お願いだから、妹を助けてくれ』と万里夫に訴えた。万里夫は泣き出した。涙を流しながら、俺と妹の傍に近寄ってきた。『どうしてこんなことに?』万里夫はそう尋ねたが、答えられない。妹は刃先を首元に向け、俺はそれを必死に抑えてる。『妹を助けて』俺は何度も万里夫に懇願した。万里夫は悲しそうに頷いて見せた。『せっかく友達になったのに』万里夫はそう言って、突然加奈子の顔面を手で覆った。瞬間、万里夫が叫び声をあげてその場に蹲った。同時に加奈子が力なくその場に蹲った。加奈子は意識を失って、両親の血の海の中に倒れこみ、万里夫はこの世の終わりのように叫び声をあげて頭を抱えながら蹲った。俺は何が起きたのかわけがわからず呆然としてると、万里夫が絶望的な顔を俺に向けた。万里夫は吐息のような声で言った。『僕は本当に正しいことなのかどうか分からないんだ。もう、嫌だ。もうこんなことは嫌だ』それから万里夫は『もう嫌だ』と何度も呟いてた。俺も泣いていた。それしか出来ない。万里夫は悲痛そうに言った。『ずっと出来なかった友達が出来た。でも、こんな終わり方ってあるか。どうしてこんな悲しいことばかりなんだ』って。俺はごめんと謝っていた。こんなことに巻き込んでしまった万里夫に、本当に申し訳がなかった。万里夫は言った。『お別れだ』って。それから万里夫は両親の血で真っ赤に染まった手で、俺の顔を覆った。次の瞬間だった。俺の意識はぶっ飛んで、気づいたら近所の土手で横になっていた」
 凛子、聞いているのか。聞いていなくてもいい。振り返る必要があった。口にしなければ、いつしか風化してしまうかもしれない。もう一度、凛子はこの現実と振り返る機会を与えてくれたのだ。
「土手で目を覚ました俺は、すべてを忘れていた。信じられるか? 何もかもだ。妹が父親にレイプされていたことも、両親をバットで殴りつけたことも、妹が両親を刺した事も、何もかもだ。そして、俺は万里夫のことも忘れたんだ。万里夫の存在自体。一緒に過ごした二ヶ月の時間を失った。俺は何もかも知らないまま家に帰ると、警察の人間に保護された。両親が何者かに殺害されたと聞いたときは、信じられないほどショックだったし、絶望もした。それは妹も同じだ。妹もすべて忘れていた。自分が父親にレイプされていたことも、両親を刺した事も、何もかも。俺たちは突然舞い降りてきた、何者かによる両親殺害の事実を他人から聞き、そして両親を失ったショックで何日も寝込んだ。なあ、凛子、分かるか? 俺は親殺しだ。でも、万里夫によって記憶をなくされた。それがどういうことなのか、正しいとか間違いだとか、そんなことを言うつもりはない。でも、妹が今でも生きて、普通の生活を送っている事実が、何よりも俺には大事だ。その生活を与えてくれたのは万里夫だ。どんな犯罪行為があったにしろ、俺は万里夫に救われて、妹は何もかも忘れたまま一生を過ごして、そのまま死ぬ」
 邑崎の震えが止まった。
 きつく抱きしめていた腕の力を抜く。
「お前は俺を軽蔑するかどうかは知らないが、ひとつだけ信じろ。万里夫は不思議な力を持ってる。人の記憶を消すことが出来る力だ。万里夫は俺と妹の辛い記憶を消して、救ってくれた。俺がその忘れていた記憶を呼び起こすきっかけになったのは、二年前の交通事故だった。車に引かれて頭を打ったとき、全てを思い出した。俺の万里夫探しはそのときから始まったんだ」
 二年前の交通事故。あれがなかったら、邑崎は一生親殺しの事実を知らないまま、生涯を終えていただろう。あの事故に遭ってよかったのか、悪かったのか、まるで分からないが、願わくば妹の加奈子は一生記憶を失っていてほしいと願った。
「俺と妹を救ってくれる前にも、万里夫は以前にも誰かのためにそれを繰り返してきたんだろう。誰かの記憶を消すたびに、自分を知る人間の、自分の記憶を消しまわっては姿を消して居場所を転々としてきたんだ」
 だからこそ、不可解なのだ。いま腕の中にいる凜子の存在。
「なのに、なぜ万里夫はお前の記憶を奪わなかった? お前を救いたいのなら、記憶を奪う方法を万里夫は取れる。なぜ万里夫はそうしなかった?」
 凛子が顔を起こした。
 凛子は眠っていなかった。
 目を瞑っていたが、その閉ざされた瞳からは涙が溢れ出していた。
「邑崎さん……」
 消えてしまいそうな声で凛子が唇を動かす。
「悲しいです」
 邑崎の胸がこれ以上ないくらいに痛む。
 凛子の呟きに、答えることは出来ない。
「万里夫と、記憶を失う直前に約束――」
 約束したことがある。
 その約束を果たしに行く。
 それを凛子に伝えるべきか。
 今はまだだ。
 邑崎は口を閉ざした。
「俺とお前はこれで運命共同体だ。お前が俺にどんな感情を抱いてるのか知らないが、俺は多分、お前に妹を重ねてるんだと思う。どうあっても、俺は妹に償いが出来ない。それをお前で――」
 凛子が邑崎の体に抱きついてくる。
「私は邑崎さんの妹です」
 怯えて乱れていた邑崎の心が落ち着いてくる。
 妹だ。それでいい。
 これで、俺は頑強な理性を手に入れられる。
 父親と同じ過ちは絶対に踏まない。
「妹だから……一緒に寝ても……」
 凛子は消え入りそうな声で呟く。
 そのままなにも言わなくなった。
 もう体を押し付けてくることも、卑猥な声を上げてくることもない。
「今日だけだ。一緒に寝てやるのは」
 そう言って、邑崎も目を閉じる。
 これは安らぎなのか、胸騒ぎなのか。判別できない感情のまま、邑崎は深い眠りに落ちていった。
 
 
 
 翌朝目覚めると、胸の中にはまだ凛子がいた。長時間の腕枕で右腕がしびれている。
 凛子は寝息を立てたままだ。まだ眠っている。凛子を起こさないように腕枕をはずすと、腕をマッサージする。
 上半身を起こして、包まって眠る凛子に布団をかけると、邑崎は驚愕して悲鳴を上げそうになった。
 本来、凛子の布団の上に、茶山がひざを抱えるようにして座っていたのだ。据わっていたのは目も同様で、いぶかしむような、軽蔑するような視線を邑崎に突き刺していた。
「い、いつからそこに居た?」
 邑崎は凛子を隠すように布団をかぶせた。
 茶山はじっとりとした視線を張り付かせながら「あんたこそ、いつから凛子ちゃんと一緒に寝てたの?」などと尋ねてくる。
「おい、勘違いするなよ。俺が凛子に手を出したとでも言うのか?」
「目覚めたときに、凛子ちゃんが腕の中に居たことが、さも自然そうに見えたんだけど。一発やって目覚めた男の顔だったわ」
「馬鹿言うな。凛子は十六だぞ。ロリコン趣味はない」
「凛子ちゃんは立派に大人よ。一緒の布団の中に居て、欲情しない男のほうが変だわ」
「待て。本当に何もしてない。凛子が勝手に布団に入ってきて、一緒に寝てくれと頼まれただけだ。いやらしい気持ちはない」
「あんた、私が昨夜言った事忘れたの? 凛子ちゃんに対してエゴイストのあんたを見せたら、凛子ちゃんは絶望するって」
 茶山は殺意さえ感じる刃物じみた視線を突き刺してくる。ちょっとやそっと説明しても、誤解は解けそうにない。だからといって、このまま放っておくのも後々面倒ごとが巻き起こりそうだ。
 邑崎は冷や汗を流しながら必死に弁解した。
「いいか。凛子が起きたら、凛子に聞いてみろ。凛子をこっそり呼び出して、俺に何かされたか問いただしてみろ。何もなかったと分かる」
「凛子ちゃんがあんたを恐れて嘘つくかもしれないでしょ」
「ど、どういったらお前は納得するんだ。俺を見損なうな。凛子に手を出すほど、渇いちゃ居ないんだよ。だいたいな、こんな小娘に勃つわけがない」
「どうして? 可愛らしくて、おっぱいも大きいじゃない。私は男の精神も持ってるわよ。正直に言いなさい。やったのね?」
「やってない。断じて。神に誓って」
「証拠は?」
「しょ、証拠? 証拠だって?」
 そんなものあるわけがなかった。何を持って証拠になる。三ヶ月待って、凛子が妊娠してなかったら、それが証拠か?
 茶山がふいに四つんばいになって、邑崎に近づいてきた。
「じゃあ、確かめてあげる。ズボンを下ろしなさい。アソコの臭いをかげば、やったかどうかわかるわ」
「ば、馬鹿やろう。ふざけるな。誰がそんな真似するか」
「じゃあ、凛子ちゃんのアソコを嗅ごうかしら」
「ぶん殴るぞ」
 茶山が流し目で、じとりと睨む。
「やっぱり怪しい。どうしてそんなに拒むの?」
「オカマに股間の臭いをかがせる人間がどこに居るってんだ」
「いいじゃない、別に。ほら。ズボン下ろしなさいよ」
 茶山が詰め寄ってきて、ズボンを掴んで引っ張った。邑崎は慌ててズボンを抑えて抵抗する。
「ちょっとだけよ。ほら。一瞬で済むから。ねえったら」
「や、やめろ。本当にぶん殴るぞ」
「減るもんじゃないでしょ? なによ、自信がないの?」
「う、うるせえ。やめろ。頼むからやめてくれ」
 懇願するように邑崎が声を上げると、不意に眠っていたはずの凛子が上半身を起こした。
 ズボンを下ろそうと居ている茶山と、必死に抵抗する邑崎はそのまま硬直し、凛子に注目した。
 凛子は髪をメドゥーサのようにうねらせて、ねむけ眼で二人を見た。まだ夢の中だ。現状を理解している顔ではない。
 凛子は興味もなさそうに目を瞑ると、邑崎に抱きつくように太ももあたりに顔をうずめた。
 邑崎の膝枕で寝息を立て始める凛子。
 呆然としていると、茶山が不意にのけぞり、高笑いを始めた。
 わけが分からず茶山を見ていると、茶山は涙を流しながら言った。
「ちえ、惜しかった。邑崎さんのナニを拝めるかと思ったのに」
「は?」
「分かってるわよ。昨夜、全部聞いてたもの?」
 邑崎は再び唖然とした。
 聞いていた?
「何を聞いてたって?」
「だから全部だって。凛子ちゃんを抱きしめながら、悲しい過去の告白。私もついもらい泣きを――」
「おい。てめえ」
「なによ。寝室一緒で心配だったから様子を見にきたら、偶然聴いちゃったのよ。悪い?」
「そんなことを言ってんじゃねえ。おまえ、はなから俺をからかうつもりで、俺が眼を覚ますのを待ってたのか?」
「なにが?」
 茶山がそっぽを向いて、とぼけた。
「てめえ、俺がうろたえるさまを見て、そんなに楽しかったか?」
「お返しよ。人のこと散々馬鹿にして。でも、ナニは本当に見たかったけど」
 邑崎は茶山の脳天をガツンと拳骨を食らわした。
 ひい、と悲鳴を上げて脳天を押さえながら蹲る茶山。
 邑崎はいくらかすっとして、ため息をつく。
 茶山がひいひいと泣きながら、悪態を呟いている。
「昨晩あんたのこと見直したのに」
「あいにくだったな。俺はエゴイストのサディストなんだよ」
 茶山はタンコブの出来た脳天をさすりながら顔を起こす。
「本当に見直したのよ。凛子ちゃんが誘ってきたとき、拒んだあんたを。あんたの告白を聞いて、私も悲壮感でいっぱいになっていっぱい泣いたんだから。あんたたち二人のために、力になってあげようと思ったんだから」
「余計なお世話だ。お前に何の力があるっていうんだ、このカマ野郎が」
「ひどい。ひどすぎる。偏見にもほどがある。同性愛のどこが悪いの?」
「ああ、うるせえ、うるせえなあ、女みてえにピィピィ」
 茶山はふう、と吐息を漏らすと、あらたまったように邑崎を見た。
「実はね。全部知ってたの」
 突然、そう口を開いた茶山に、邑崎は不審そうに睨みつける。
「全部知ってた?」
「うん。凛子ちゃんは性的依存症になりかけてる」
「性的依存症だと」
「性に執着して、セックスすることて自虐的、自己破壊的な衝動に身を任せて安堵を得るの。あなたが考えてる解離性同一障害とはちょっと違うわ」
 邑崎は自分のひざで眠る凛子を見た。
「あなたと凛子ちゃんを一緒の部屋にしたのも私。凛子ちゃんがあなたを誘惑すると分かってたから。――怒らない?」
 怒りはない。話が突然妙な展開になってきたのでいぶかしんだだけだ。
「怒らない。それより説明しろ。全部知ってたっだと? 仕組んだだと? お前、一体何を言ってる?」
「あなたの人格を試したの。本当に、資格があるかどうか。あなたを一目見たときから、私はあなたを信用できなかった。あなたが自分で言ったとおり、エゴイストでサディストだと思ったのよ。でも、昨晩のあなたはすばらしかった。幼少期から変わらない正義感。なにが最良の行いか、知ってる人」
「要点を話せ。つまり、なんだ?」
 幼少期、という茶山の口から出たキーワードが無性に気になった。だが、突っ込む前に茶山の話の意図を聞きだしたかった。
「覚えてるかな」
 そう言って、あらかじめ用意してあったのか。枕元においてあったぬいぐるみを掴んで、邑崎に手渡した。邑崎はぬいぐるみを受け取る。小汚く、継ぎはぎだらけのぬいぐるみは、茶色の小動物。
「ビーバーのぬいぐるみ。その顔はやっぱり覚えてないか。そのぬいぐるみは、わたしの姉の遺品」
「遺品? どうしてそんなものを」
「あなたにもゆかりがあるものだからよ」
 ゆかり。不意に、茶山の言った「幼少期」の言葉がリンクする。
 茶山は邑崎からぬいぐるみを受け取ると、憂いそうにぬいぐるみを見つめた。
「私の姉は、二十歳のときに骨肉腫という骨のがんで死んだ。私は十六歳だった。最後の姉は左足と右手がなかったけど、残った左手で、このぬいぐるみを死ぬまで握り締めてた。大事そうに大事そうに。どうしてこんな汚いぬいぐるみが大事なのか。私には分からなかった。でも、姉の遺品として私がもらいうけて、このぬいぐるみは私の宝物になった。いつでも肌身離さず持ち歩いてると、いつも姉が傍に居てくれる気がして」
 邑崎は黙って話の先を促した。
「このぬいぐるみ。今から十三年前、姉が死んでから一年後のある孤島であった人に、ぬいぐるみの事を突然聞かれたの。その島は風木島っていうキャンプ施設と、大手化粧品会社の研究所のあった小さな島。知ってるでしょ? 例の集団失踪事件のあった島」
 覚えている。当時大々的にマスコミを騒がせ、最後には国家まで動かした前代未聞の神隠し事件だ。
「その失踪事件の直前、わたしは島にいた。キャンプ客としてね。そのとき、研究所の所員だった男の人が、私の持っていたぬいぐるみを見て、それをどうしたのかと聞いてきたの。私は死んだ姉の遺品だと答えると、その人は私の姉の名前を言った。その人は、姉の同級生だったらしいの。中学時代、ほんの少しだけ一緒に過ごしたクラスメイト」
 次の瞬間、邑崎は目を剥いて茶山の胸倉を掴んでいた。
「おい。まさかお前、その男って言うのは」
「黄瀬達郎。あなた方が探してる、緑川万里夫」
「お前! あいつに会ったのか?」
「会ったわ。言おうかどうか迷ってた。あなたが見た目どおり嫌なやつだったら話さないつもりだった」
 邑崎はゆっくりと茶山の胸倉から手を離す。
「それで?」
 邑崎は話を促した。余計な茶々を入れて、話を中断させるよりは、先を聞きたい。
「私が会ったのは十三年前。ずっと前よ。黄瀬さんは若々しくて、大学の研究生だって言ってた。研究所には研修で訪れていて、そこで夏休みの間滞在してるって」
「何度もあったのか?」
「私がキャンプ場に滞在してて三日間、何度か会って、たくさん話したわ。黄瀬さんは話が好きな人で、特に超現実世界の話とか、超常現象の話が好きみたいで、たくさん話を聞かせてくれた。私が今の職業を選んだのは、そのときの黄瀬さんの影響」
 まさか、茶山が万里夫を知っていたとは。
 これは果たして偶然なのか。
「私は廃村まであなた方を連れて行って、試そうと思ってた。でも、もう廃村に行く必要もないわね」
「映画撮影。庄太郎が言ってたな。庄太郎は村で映画撮影をしていたっていってたぞ。お前は知ってたな」
「知ってたわよ。あえて言わなかった。ミステリアスでしょ、そのほうが」
「最初からそう言っても問題ないはずだ」
「あるわよ。映画撮影だなんていったら、あなた方、ここまで来ないでしょ」
 確かに。おそらく村には訪れず、加賀山瑞穂に接触する方法を模索していたはずだ。
「それに、映画撮影だなんて嘘よ。庄太郎が嘘をついてるんじゃない。黄瀬さんの嘘。廃村で行われてたのは映画撮影なんかじゃない。だって、映画撮影なら廃村を、以前の状態に元通りに復元する必要なんてないし、第一、加賀山瑞穂が映画出演したなんて話、聞いたことないし実在しない。お蔵入りの映画だったとしても、加賀山瑞穂クラスのタレントが映画出演するのなら、クランクインの段階で発表があるはず。何もない。廃村に誰かが訪れた証拠すらない。それに、くるきり村と言う名称。出所不明のオンラインゲームと重なる共通点」
 茶山の口ぶりは、どうやらすべてを知っているわけではなさそうだ。
「わたしもね。あなた方と同じ。黄瀬さんを探してる人間の一人」
「お前も……。何のために」
「全部話してあげるわよ。私の知ってる情報を全部。あなたの事情も聞いちゃったしね。私も話さなくちゃフェアじゃない」
 邑崎は身を乗り出して、話を聞く体制をとった。
「やあね、せっかち。まだよ、凛子ちゃんにも聞かせるんだから」
「凛子には俺から知らせる。嘘は言わない。秘密にする理由もない」
「秘密はあるじゃない」
「なに?」
 茶山は人差し指を邑崎の鼻先で回転させながら、催眠術でもかけるように言った。
「約束ってなに? 黄瀬さんとなにを約束したの?」
 邑崎はうろたえたりはしなかった。むしろ疑問に思った。
 邑崎の話を聞いていたのなら、もちろん、邑崎の親殺しの罪も、万里夫の特別な力のことも聞いていたはずだ。それを気に掛けるそぶりを全く見せない。
 茶山は万里夫の特別な力のことを知っていたのか。
 不意に不安になる。
 茶山という男、一体どこまで知っているのだろうか。


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