桃色くも


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第六章 〔 異変 〕 


  秋は何度か自室のエキストラルームに戻ったが鍵が開いておらず、呼びかけても誰も返答せず、仕方なくキャビンの集まる四階の一角にある小さなレストルームでぼんやりしていた。レストルームと馬鹿にしていたが、どうしてなかなかソファーのすわり心地は良好で、ぼんやりと天井を眺めていると眠気が襲ってきた。
 秋はひどく疲れていた。一日でこれほどの徒労感を覚えたのは、青森で漁に出る漁船に初めて乗り込んだ日以来である。秋は荒れ気味の海にゆれる船上で船酔いを起こし、倒れこんでしまった。船の上に居る限り船は揺れ続け、仕事を終えて陸に戻るまでの五時間、地獄を味わった。ようやく陸に戻ったときは足腰が立たず、二度と漁船になんて乗るものかと思ったが、船長の言あった一言が秋の胸を打った。
「海の音と波の光と潮風の匂い。何度も船で沖を出て海と格闘してるうちに、それらが身体にしみこんで漁師は海の男になる。一度しみこんだ海の羽衣は絶対に洗い落ちたり、無くなったりしない。漁師なんて気の荒い連中の集まりで、四六時中縄張り争いだの女のいざこざなんかで喧嘩ばかりしているが、みんな家族であることは間違いない。一度海の羽衣を羽織れば、お前はもう家族になる。海の男ならば誰でもお前が同じ人間だと気づくようになる。朝焼けの水平線、水の上で描かれる光の幾何学模様、神の怒りのようなうねり渦巻く巨大な波、天の怒りのような嵐、女神の訪れのような雲の切れ目から海を照らす光の筋。海の男にならなければ見れない光景だ。お前は見たくないか?」
 要するに漁師としてとりあえず一人前になるには、船酔いを克服することだと船長は言いたかったのだ。船酔いは何度も体験し、慣れることでしか克服できず、秋が船酔いを克服するには二桁の乗船が必要だった。そのたびに地獄を味わったが、やがて訪れる女神の光の筋を見たくて秋は耐えた。誰もが通る苦難の道なのか、船長は倒れて使い物にならない秋を咎めたりしない。
 そして十数回目の乗船で見た、女神の光の筋。
 感動と呆然と、驚愕。
 言い表せない誇り高い気持ち。
 海は友達ではない。
 神に等しい不条理な存在であり、悪魔に等しい残虐な悪戯好きな生き物である。海のうねりと波は自然の流れと同じで、流れを意識し、逆らわずに利用していく。立ち向かっても叶う相手ではない。友達になりたくても、融通の利かない相手だ。
 思い出を回想し、外に広がる広大な海を想像し、光の届かない深海の未確認の新種生物を想像し、海と対にして存在する大空を想像し、彼方に存在する灼熱の星、氷の星、暗闇の星を想像し、人間以外の宇宙に存在する知的生命体の存在を渇望し、とめどない想像が頭の中に張り込んでは胸の中を心地よく撫でて去っていく。なんて素晴らしい安らぎだろうと思った。いつまでもこの時間が続いてほしかった。
 それが続かないのが、現在の秋にとって最大の悩みである。
 心地よさを感じた次の瞬間から、心配事と不安が秋の胃袋をちくちくと刺激する。
 まだ初日で、しかも初日もまだ終わっていない。睡魔を堪えなくてはならない事がとてつもなく不快で、しいては大学生たちを恨みだす気持ちも生まれてくる。
 そろそろ夜のパーティの時間である。われわれは招待客であり、ある程度のオーナー側サイドの都合に合わせなければならないことは多いだろう。今回のクルージングは、旅を楽しむと言うよりは、いわば船の誕生日会である。主役は船で、招待されてケーキを振るわれるゲストたちは、やはり贈り物を用意しているのだ。主役を差し置いて、それぞれ楽しむわけにも行かない。
 秋は閉じていた目を開く。
 天を仰ぐように仰け反って、ソファーに浅く腰掛けていた秋は身体を起こすと、秋の座るソファーに向かい合うようにして、星名ひゆりが座って居眠りをしていた。
 呆然と星名ひゆりのうつらうつらとかしげる寝顔を眺めた。
 いつの間にそこに座っていたのか。そもそも、一緒に居たはずの福田はどこへ行ったのだろう。
 ぼんやりと星名ひゆりの寝顔を眺めていると、つくづく整った顔立ちをしているなと秋は思った。これで問題児でなければなと思う。
 もう少しふっくらした方が秋好みであった。ひゆりは少し線が細すぎる。豊かな日本に住んでいるのなら、もう少し栄養をつけるべきだ。
 そう。豊かな日本であるはずなのに、これまでの秋の三年間で、飢餓に苦しんだことは何度あっただろうか。そんなことを回想しながら、少しだけひゆりの平和そうな寝顔が恨めしくなる。どこぞの資産家の令嬢なのだろう。箱入り娘の世間知らずの甘ったれが、よだれをたらして無防備に居眠りをしている。胸の一つも揉んでやろうかと思ったとき、ひゆりがはっと顔を上げ、うつろな目で周囲を見回した。視界に秋が捉えられると、ひゆりがにっこりと笑った。
 どくん、と秋の胸がひとつ鼓動した。ひゆりが見せる、初めての笑顔だ。
「どうしたんですか? 福田さんはどうしたんですか?」
 秋がたずねると、ひゆりの笑顔は消えうせて首を傾げて見せると「知りませんけど」と答えた。
 あれほど嫉妬に狂うくらいなら、どうしてもっとひゆりの傍に居て、この問題児の面倒を見ないのだろう。
 秋がひゆりを見ながら、自分の口元を指差して見せる。不思議そうにひゆりは秋の口元を見ていた。
「よだれ」と秋がいうと、ひゆりは初めて気づいて、自分の口元を手のひらでぬぐって見せた。よだれを拭いたひゆりが、少しでも恥ずかしがってくれれば可愛らしいのだろうが、何の反応もなく、無表情のままだ。
「どうしたんですか? 僕に何か用でも?」
「どうしてそんなことを言うんですか?」
 少し腹を立てたのか、責めるような目つきのひゆり。一体なぜ怒るのか。
「だって、いや、いいんです。用事がないのなら、それでも別に」
「どうしてそんなことを言うんですか? パーティに連れて行ってくれるといったのは、秋さんじゃないですか」
 確かに言ったが、一人で行ったら良いじゃないか、とは口に出来ない秋は、どうしてひゆりは自分にこれほどまでに依存するのだろうと考えた。保護者か何かだと思い込んでいるようだ。いつもなら傍にくっついている執事のような世話役がいるのだろうか。
「そうですね。行きましょうか。僕も正直、お腹がペコペコです。今日はまだ何も口にしてないんです」
「何を口にするんですか?」
 秋は戸惑った。
 秋が口にした言葉に対する、ひゆりの質問は解読不明である。ひゆりは一体何を聞きたいのか意図が全く分からない。
「食事を口にしてないんです」
 そういうと、ひゆりは再び笑って「食べてないってことですか?」と言った。
 はて、と秋は首をかしげた。
 そういえば、会った時からひゆりは秋の言葉を理解しずらそうにしていたことを思い出す。それに舌足らずな口調。まさかと思い、秋はひゆりに聞いた。
「星名さんって日本人ですか?」
 星名ひゆりはどう考えても日本人の名前である。あまりにも間抜けな質問だったと、秋は恥ずかしくなった。
 それでもひゆりはまじめな顔で答えた。
「日本人です。生まれたのは埼玉県です」
「そうですよね。当たり前ですよね」
「でも、六歳のころからドイツに暮らしていて、日本に帰ってきてからまだ三ヶ月くらいです」
 秋は思案した。
 つまり、ひゆりは十数年も外国で暮らしていたと言うことか。
「もしかして星名さん、日本語分からないとか?」
「日本語はまだよく分からない時があります」
 合点がいって、秋は長年解けなかったクイズの回答を導き出したかのような快楽を味わった。
 ひゆりは日本の文化や人に戸惑って、カルチャーショックでも感じているのだろうか。だから世話を焼いてくれる人間に依存的なのだろうと思い至った。
 いずれにしても、わだかまりが解けて、少しだけひゆりを理解できたことで、気心が知れず不安に思っていた壁は崩れた。秋は安心して、ひゆりの笑顔に対して笑顔を返した。
「おいしい食事が待ってます。偉い人の長い話だけ我慢できれば、高級レストランのフルコースが待ってます」
「はい。我慢します」
 我慢、ということろは軽いジョークのつもりだったので、素直に返事をするのは少々不謹慎であろうと思ったが、それも星名ひゆりの愛嬌に感じ、秋は立ち上がった。疲労は本物だと思った。足腰の反応が鈍い。思えば今日一日歩き詰めだったと思い出す。
 となりでひゆりも欠伸をした。
 小山内を探して、食事を取ったら部屋で休むことを伝えようと決めた。
 秋はひゆりを先導してダイニングルームに向かった。
 ダイニングルームは、乗船するときに入ったメインエントランスの隣にある。二人は広大な船内を歩いて、メインエントランスまでたどり着くと、エントランス内がにわかに不穏な空気が漂っていることに気づいた。
 招待客たちがにぎやかにダイニングルームを目指している中、クルーたちの表情に、微妙だが緊張感が混じっていることに気づく。それに気づいているのは秋だけだ。ひゆりは立ち止まった秋を不思議そうに見ている。
 何かあったのだろうかと勘ぐる。ただの開かれるパーティ直前の緊張感であろうか。なにやら不穏だと思い、秋はフロントの傍でクリップボード片手に何かをチェックしていたクルーに話しかけた。
「何かあったんですか?」
「いえ、どうしてですか?」
 勤めて笑顔で答える中年男性のクルー。その笑顔の裏腹に何か潜んでいるかどうかは、秋に判断付かなかった。
「なんか、皆さんの顔が緊張しているように見えたから」
「そうですね。大きなパーティですからね。クルーもこの船での始めての勤務ですし、緊張もあるでしょう」
 作業中に、快く秋の相手をしてくれたクルーにお礼を言ってから、二人はダイニングルームに向かう。ダイニングルーム内には招待客たちが集まり、穏やかな音楽が流れる中、和やかな賑わいが聞こえてくる。オレンジかかった明かりが、天井の高い室内を夢の中のように幻想空間にしている。
 天井からぶら下がる幾つものシャンデリアが、十字の光の輝きを放っている。いい雰囲気だと、秋は胸を高鳴らせる。
 不穏な空気は、秋の思い過ごしだったのだろうか。
「どうしたんですか?」
 ひゆりがたずねてくる。何も分からない秋は「いえ」と曖昧に濁らせるしかない。
 ダイニングルームで作業をするサービスクルーは笑顔だ。
 ダイニングルームの一角がバイキング形式のビュッフェになっており、クック・ベーカーたちが招待客たちに注文された料理を皿に盛っては配っている。
 なにか起こった様子は見て取れない。何か思ってしたとしても、混乱を避けてクルーたちがひた隠しにすることも間違いないだろう。何もなかったとは言い切れない。
 わだかまりを残したまま、ダイニングルームからの料理の香りに誘われるように二人は足を踏み入れた。
 とにかく腹ごしらえだと思ったが、ダイニングルームに入ったとたん、この船のキャプテンに声をかけられた。
 皺ひとつない整った制服を身にまとったキャプテンは「君は、小山内さんの……」と声をかけてきた。
 秋は会釈をすると、キャプテンは声変わりを忘れてきたような細い声で言った。
「小山内さんがどこへいったか知ってるかな。探してるんだが」
「先生ですか? こちらには来ていませんか?」
「探したんだが、ここには来ていない様だ」
「先生に何かお話でも?」
「そうなんだ」
 キャプテンは勤めて平静を装っている、と感じられる冷静な態度で「小山内さんに少し相談があってね。いや、船のことは関係ないんだが」と、周囲をわずかに気にかけながら口を開く。秋は勘ぐるが、指摘するのはよくないと思い「探してきましょうか」と提案すると、そう言ってくれるのを待っていたかのように「お願いしても良いかな。私はパーティ中ダイニングルームに居るから」とかすかに笑みを作った。
 小山内にキャプテンを一度紹介されているせいで顔を覚えられている。こんなときのために、小山内はキャプテンに秋を紹介したに違いない。大人とは小賢しく卑しいものだ。
 内心舌打ちをしながら、表情は愛想笑いで「それでは探してまいります」と快く承諾した。キャプテンは秋の肩に手を置くと「申し訳ない。お礼はするよ」と言ったので、キャプテンは一体どんなお礼をしてくれるのか、非常に興味を持った。
「君の彼女かい?」
 キャプテンは傍らに立っているひゆりを見た。
「いえ……彼女は」
「可愛らしい彼女だな。隅に置けないな、君も」
 などと、キャプテンは悪戯っぽく秋の肩を叩いた。キャプテンはそれを別れの挨拶にして秋に背を向けていなくなった。
 秋はキャプテンの背中を見送ると、となりのひゆりを見た。
 ひゆりも秋を見ている。
「彼女って……わたしは彼女ですよね」
 日本語の微妙なニュアンスと解釈を説明する気力もなく「気にしないでください」と答える。ひゆりが秋の親密な相手でないことはキャプテンも百も承知であるはずだ。依頼を引き受けてくれた秋に対しての、ささやかなリップサービスである。いちいち反応している暇はない。それより秋はこれからどうしようかと逡巡するのに忙しい。
「ひゆりさん、僕は小山内先生を探してこなければならないので、こちらで食事を摂っててください。ほかの生徒たちも来ているはずですから、困った事があれば探して合流してください」
 ひゆりが嫌そうな顔をした。すると思っていた。そんな顔をされても、連れて行くのもお荷物だ。
 自立してほしい。今すぐ、飛躍的な成長をしてもらい、一人で生きていけるようになってくれないかと、秋は本気で願った。ひゆりだけではない。他の大学生連中も同様だ。
 こんなとき福田が現れてくれればいいのに。そう願ったが、福田は都合よく現れない。
 秋は周囲を見渡すと、近くに榊巻を見つけた。一人でカウンターに並んだ料理を眺めている。ローストビーフをくれと、クックベーカーに頼んでいる後ろから声をかけると、愛想のひとつもない顔で振り返る。
「なんだよ、アルバイトか。何の用だよ」
 どうやら好かれてはいないようだ。だが、そんことは秋にとってどうでも良かった。
「すみません、お楽しみのところ。お一人ですか?」
 榊巻は小さく舌打ちをして「そうだよ、悪いかよ」と不機嫌そうだ。なにをそんなに苛立っているのか。
「すみません、ほかの皆さんは?」
「控え室だよ」
「控え室?」
 榊巻は秋を睨みつけると、ケダモノでも見るように足元から脳天まで一瞥しながら「お前、アルバイトの癖に知らないのか?」と嫌悪感を示す。
「何かあるんですか?」
「初日の夜に、俺たちサークルのメンバーは、パーティで出し物をするんだよ」
「何かするんですか? ステージの上で?」
 秋は何も聞いていなかった。いや、小山内にアルバイトを頼まれた際、口説き文句のひとつであった話題を思い出した。
 −−初日の夜に、ちょっとした催し物がある。
 榊巻はクックベーカーが皿に盛ったローストビーフを受け取ると、席に着こうと周囲を見渡していた。空いているテーブルを見つけたのか、歩き出した榊巻に付いていく秋。ひゆりも一緒に付いて来る。不愉快そうにあっちにいけと手を振る榊巻に、秋は気にせずに尋ねる。大学生たちの動向は把握しておく必要がある。
「皆さんは何をするんですか?」
「うるせえなあ。出し物だって言ったろ。俺たちのサークルの名前、知ってるか?」
「確か、超能力研究会」
「そうだよ。専行は心理学科だけど、有志を集めて超能力について、死ぬほど大真面目に研究してるサークルなんだよ。それこそ最新機器を使って、スポンサーに高い金もらって研究してる」
 スポンサー?
「なにか、実験のようなものをするんですか?」
「いや、ちがう」
 榊巻は席に座って、ローストビーフを咥えこんだ。じれったく思いながら、次の榊巻の言葉を待つ。
 榊巻は口に肉を詰め込んだまま、もごついた声で言った。
「手品みたいなもんだよ。今回はエンターテイメントだからな。客に喜んでもらうためさ。あわよくば、この場でスポンサーを見つけるため」
「手品? スポンサー?」
 秋は、そのキーワードから導き出される答えを想像した。
「手品じゃないけどな。手品は、トリックや錯覚、暗示を使って相手を欺くもんだけど、俺たちのはちょっと違う。いや、見た目は変わらなくても、やってることはぜんぜん違う」
「何をするんですか?」
 榊巻は突然、食事の手を止め、じっとりと横目で秋を睨んだ。
「お前、ちょっとうるさいな。気分悪いぜ」
「申し訳ありません」
 秋は即座に謝罪した。だが、秋は失敗したと後悔した。謝罪の仕方があまりにもぞんざいだった。これでは逆に相手を不愉快にさせる。
 榊巻は大きく声を出してため息を吐き出すと、何もしゃべらなくなった。秋を拒むオーラを放つ榊巻の背中は、もう何を聞いても答えてくれそうにない。
 とりあえず諦めて、秋は榊巻のそばを離れる。
 時計を見た。パーティが始まるのは十九時からだ。後十分ほどしかない。
 大学生たちの披露するイベントは、秋の興味を引いた。何をやる気なのかとても気になる。
 ダイニングルームは二百人は収納できそうなほどに広いが、空間にゆとりを持たせるように配置された、結婚式場を連想させる丸テーブルのそばには、おそらくほとんどの招待客たちが集合しつつあった。
 秋はひゆりを見た。ひゆりも秋を見返した。何も言わずただ見ていると、ひゆりは首をかしげて「なんですか」という仕草をした。とても可愛らしく見えて胸が高鳴ったことは脇にどけて、秋はひとつ名案を思いついた。
「星名さん、ひとつお願いしてもいいですか?」
「はい」
「僕の仕事を手伝ってほしいんです。いいですか?」
「はい。いいです」
 本来、ルール違反か。秋は思ったが、ひゆりを引き剥がすには最良の手段に思えた。
「僕の仕事は招待客の大学生たちのお世話をすることです。知ってますよね」
 ひゆりは真剣な眼差しで頷いて見せた。ひゆりに何らかの使命感を与えてしまったらしいと思い、少し不安になった。
「僕は小山内さんを探さなくてはいけません。その間、星名さんが大学生たちのことを見ていてくれませんか?」
「え、でも、わたし、どうしたら」
 うろたえるひゆりに「大丈夫です」と言ってから「見ていてくれるだけでいいです。これから大学生たちはステージでイベントを披露するそうです。それを見ていてください。そして、なにも問題なかったら、パーティの後、僕に様子を報告してくれますか?」
 ひゆりは興奮したような目つきで、何度も頷いて見せた。まるで放課後にスリリングな遊びを思いついた子供のような目だ。それでも可愛らしい。目を輝かせて、話を真剣に聞こうと顔を近づけてくるひゆりは、秋の胸を心地よくノックする。
 秋は、自分の胸の内の変化を意識した。今は小山内を探してこなければならないが「パーティのあと様子を報告してくれ」とひゆりに伝えたのは、自分に正直な思惑を告白すれば、ひゆりにもう一度会う口実を作りたいがためだった。
「すみませんが、よろしくお願いします」
「かしこまりました。頑張ります」
 ひゆりは胸の前で両手を拳にした。何をしていいか分からない船内で、役割を与えられたことが嬉しいのだろう。彼女の無邪気さが後ろめたい。本当はゆっくりと楽しむための船旅なのだ。秋はひゆりが楽しめるためのプランを後で考えてあげようと思った。
 ひゆりをダイニングルームに張り付かせた後、秋はダイニングルームを後にして小山内のキャビンに向かった。キャプテンが見つからないと言うくらいだから、おそらく部屋に居ないと思ったが、一度確認してみようと思った。
 客室が並ぶ一室、小山内の部屋の前まで来るとインターフォンを鳴らしたが、やはり不在だった。ダイニングルームに居ないとなると、小山内の行きそうな場所を考えた。
 当てもなく、しらみつぶしに探すにはこの船内は広すぎる。
 一度ダイニングルームを覗いて、それから大学生たちの居る控え室に行って、小山内の行方を聞こうと思った。
 キャビンから例のクラゲの水槽のあるエレベータロビーにやってくると、一人の女性とすれ違った。知っている顔だ。加賀山瑞穂である。加賀山瑞穂は心持ち気まずそうに秋とすれ違う。秋は加賀山瑞穂を吐き出したエレベータに乗り込むと、1階のボタンを押した。エレベータが閉まる瞬間、振り返った加賀山瑞穂の不安そうな顔が見え、秋は一瞬戸惑った後、慌てて扉の「開」ボタンを押した。あわてた風に扉を開くエレベータ。
 秋は「開」ボタンを押し続けたまま、加賀山瑞穂に声をかけた。
「何かお困りですか?」
 加賀山瑞穂が困っているように見えた。勘違いなどではない確信があったが、彼女が秋の親切を抵むかもしれないことは、傷つかないために予想しておいた。加賀山瑞穂は戸惑ったように言った。
「いえ……あ、いえ、あの」
 やはり何か困っている。だが、はっきりしない。
「何かお探しですか?」
 勤めて、相手に与える印象がよいと思われる表情を作ってそうたずねると、加賀山瑞穂は少し緊張を和らげたようだ。
「人を探しているのですけど、すみません、大丈夫です。ご親切にありがとうございます」
「いえ」
 何度見ても綺麗な人だ。青くライトアップされる柱型のクラゲの水槽を背景にたたずむ加賀山瑞穂は幻想的に美しい。前も感じたが、オーラが違う。人々を魅了するには、やはり常人にはないオーラを持っているものなのだろうか。それとも、人に注目される環境が、人にオーラを持たせるのか。
 秋は会釈して「開」ボタンから手を離す。程なくして扉が閉まり始めたとき、加賀山瑞穂が「あの……」と言ったので、秋は慌てて「開」ボタンを押すと、いい加減にしろと言いたそうな扉が、しぶしぶ扉を開く。するとエレベータは腹を立てたようにブザーを鳴らした。長く扉を開いていると警告音を鳴らすのだ。
「ごめんなさい、なんでもないんです」
 加賀山瑞穂は慌てて手を振ったが、秋は待たせていたエレベータを無人で先に行かせた。
「いえ、いいんです。もしかしたら、加賀山さんが探してる人、分かるかもしれないし」
「わたしのこと、知ってるんですか?」
「え? もちろん」
「へえ、意外」
 なぜ意外なのだろうか。それこそ意外である。相手は国民的アーチストである。
「パーティでは、うちの人間がご迷惑をおかけしたのを謝らなければならないと思ってました。申し訳ありませんでした」
 加賀山瑞穂は少し首をかしげると、何のことだろうと考えを巡らす仕草をした。秋は胸をときめかせる。彼女は自分の魅力的だと思われる顔や角度を、おそらくは無意識的に知っている。すなわち、それを自然に、あるいは嫌味なく熟すことがオーラの源だ。
「ああ、もしかして、あの若い人たちの……」
 思い至ったようだ。
「あれならいいんですよ。そんなに迷惑でもなかったですし」
 秋は安堵したような表情を作って見せる。
「探してるのは、もしかしてあの時の大学生たちですか?」
「大学生だったんですか? いえ、違うんです。違う人を」
「あ、すみません。違うんですか」
 エレベータで降りようとしていた秋を引きとめようとしたくらいだから、秋の知り合いを探しているのだと思ったが違ったらしい。
 いや、そうでもない。秋は嫌な予感がした。
 加賀山瑞穂と関わりがあって、秋とも関わりがある人間がもう一人居るではないか。
「……まさか」
「邑崎さん……でしたっけ。あの人がこの階に部屋を取ってるというお話だったんで、お礼にと。あなたと一緒に居たところを見たから、もしかしたら居場所を知っているかなと思って。邑崎さん、どちらのお部屋だかご存知ですか?」
 よりによって、むさ苦しい男のところに行こうというのだろう。秋の嫉妬心が頭をもたげたが、嫉妬心を発揮して知らぬ振りをしてもみっともないだけだ。
「邑崎さんは、この階に部屋を取ってると言ったんですか?」
「ええ、そう聞きましたが」
 ――くだらない嘘を……。
「そうですか。邑崎さんならきっとダイニングルームに居ると思うんですが」
「お部屋にはいらっしゃらないんでしょうか」
「……え、ええ。いないと思います」
 あるいはエキストラルームに居るかもしれないが、秘密にしておいたほうが、むしろ邑崎への恨みを晴らすことになるかもしれない。見え透いた嘘は身を滅ぼすものだ。
「それなら僕も人を探してるんです。一緒に邑崎さんも探しますから、加賀山さんはダイニングルームにいらしてください。見つけたら連れて行きます」
「でも……ご迷惑じゃ」
「ぜんぜん。邑崎さん、加賀山さんが探してるなんて聞いたら飛んでいくと思いますよ」
 加賀山瑞穂はくすりと笑った。
「ありがとう。でも、わたしこれからステージがあって、歌わなくちゃいけないんです。時間もなくて……。もし、邑崎さんに会ったら伝えてもらって良いですか?」
「いいですよ」
 加賀山瑞穂は前髪を触りながら「パーティが終わったら、サンルームに居ますからって」と伏目がちに言った。
「分かりました。必ず伝えます」
 秋が笑みを作って承諾すると、加賀山瑞穂は嬉しそうに身体を揺すらせた。
「それじゃ、僕は人を探さなくちゃいけないんで」
 そう言ってエレベータを呼ぶ。
「加賀山さんはダイニングルームに行かないんですか?」
「わたしは、このクラゲの水槽、ちょっと見ていたいなって思って。先に行ってください。それじゃまた」
 加賀山瑞穂は小さく手を振った。秋はたどり着いたエレベータに乗り込むと、閉まる扉の間から加賀山瑞穂に会釈をした。
 扉が閉まりきると、秋の表情に張り付いていた笑顔の仮面を剥ぎ取って床に叩きつけて破壊すると、ふつふつと沸き起こってくる邑崎への復讐心に火がついた。
「あの野郎は人に女の子を押し付けて、自分は国民的アイドル歌手を口説く気か」
 許せない秋は、ぶつぶつと一人ごちながら、果たしてどうしてやろうとかとエレベータの中で悩みこんだのだった。
 
 
 
 ダイニングルームに戻ってくると、すでにパーティは始まっており、50人ほどの招待客たちが和やかに会食したり、ステージ上で演奏する専属ブラスバンドの楽曲に耳を傾けたりしていた。にぎやかなパーティ会場を縫って、ステージの傍まで向かった。さまざまな食事の香りが秋の胃袋を鳴らすが、あと少しの辛抱だ。
 ステージ横に暗幕で遮られた出入り口のようなものがある。そこかと思い近寄ると、暗幕をくぐって現れたクルーに「どうしました?」とたずねられる。
「こちらは控え室ですか?」
「そうですが」
「KT大学の生徒たちが居ると思うんですが」
「関係者の方ですか?」
「KT大学の関係者です。お邪魔しても大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。ただし、KT大学の皆さん以外に声をかけるのご遠慮ください。みなさん、段取りの相談でお忙しいですから。それでは、わたしがご案内します」
「恐れ入ります」
 クルーに案内されるがまま、控え室に入る。暗幕を越えた先は、なんと屋外のデッキである。デッキにテントを張っているだけ。折りたたみ式のテーブルの上には荷物や飲み物が散乱し、パイプ椅子に今夜ステージに上がる芸人やバンドが座っていた。
 大学生たちはパイプ椅子で円陣を作って、なにやら会議をしている。ところが榊巻伸二、赤嶺美紀、福田守の三人しか居らず、笹川百合子が見当たらない。
 秋は案内してくれたクルーにお礼を言うと、大学生の円に近づいた。
 すぐに福田が秋に気づいて、あからさまに嫌悪の表情をする。なぜ大学生たちはそこまで秋のことを忌み嫌うのか。
「お忙しいところ申し訳ありません」
 秋が声をかけると、秋を見たのは赤嶺だけだった。榊巻などは見向きもしない。
 振り返った赤嶺は、秋の顔を見るなり、軍隊の上官が現れたかのように起立し「いいところにきた!」と声を上げた。
 嫌な予感にさいなまれる秋。
「秋くん、お願いしたいことがあったの。本当にいいところに来てくれた。助かった!」
 秋は来なければよかったと後悔した。なんとなく予想していたのだ。大学生たちは問題の種だ。水をまけばジャックの豆の木よろしく、鬼の住処まで直ちに育ち伸びる恐ろしい豆だ。
 赤嶺は秋がこの場に訪れた理由など気にする様子もなく、お構いなしに話し始めた。
「由利子が居ないの」
 予想通りだ。笹川由利子を探せと言うのだ。
「今日、九時から私たちステージに立って、催し物をやるんだけど、由利子が居ないと話になんないのよ。そもそも、ふたり船に乗り遅れて、筋書き大幅に変えなくちゃいけないのに」
 ミイラ取りがミイラになる、という表現は、この場合こそ正しいのか。小山内の居場所を尋ねに来たのに、人探しの依頼を追加されてしまうとは。これで三人。小山内、邑崎、笹川の行方探しのミッション。果たしてやりきる事が出来るのだろうか。
「ちょっと秋くん、聞いてるの?」
「はい、笹川さんですね」
 よく考えてみれば、過去に依頼された小山内と邑崎の行方探しは本来の仕事の範疇ではない。個人的な慈善事業で、大学生にお願いされる内容こそが、秋がここに居る正式な理由である。断る理由はないし、断れない。
「分かりました。笹川さんの居場所に心当たりはありますか?」
「自分の部屋か、パーティ会場で食事してるか、よく分からない。ここで集まるのは由利子も知ってるはずだし、忘れるわけはないと思うんだけど。もうイベントまで一時間しかないの。お願い。探してきて」
 タイムリミットは一時間か。秋はなんだかひどく疲れた。今日はまだまだ終わらないのだ。
「分かりました。探してきます。十分前までに見つからない場合は、一度戻ってきますね」
「見つからなかったらは無えんだよ! 絶対見つけて来い」
 突然ひどい剣幕で怒鳴りつけたのは福田だ。さきほどひゆりの件で和解したのではなかったか。
 ふと、榊巻のこちらを見向きもしない態度との合点があった。さきほどパーティ会場にひゆりと一緒に居たことを密告されたのかもしれない。
 気にしないことにし、秋は赤嶺に小山内の行方を聞いた。
 赤嶺は黒目を一回転させると、思い出したかのように言った。
「九時に私達のイベントが始まる前までには会場に来るって言ってたから、何か用事があるんだと思う。部屋には居ないと思うよ」
 部屋にはもう行ったので知っている。
 赤嶺はしばらく思い当たる行き先を思案したが、福田に「打ち合わせの途中だ」と指摘されると、赤嶺は鼻先に手のひらを立てて「ごめんね、分からないや」と答えた。
 秋は「いえ」と笑みを作って答えた。
 秋は「それじゃ、探してきます」と言い残し、居心地が悪い控え室を後にした。パーティ会場に戻ると、とりあえず室内を見渡して、小山内か邑崎、笹川が居ないかと視線をめぐらせた。
 その三人のうち、誰も居なかったが凛子が居た。凛子は人々の体に棘でも生えているかのように、ひたすら人を避けながらおどおどとビュッフェ付近をうろついている。
 秋は無視しようかと思い悩んだ挙句、結局は凛子に踏み寄って声をかけた。肩を震わせて振り返った凛子の表情には色濃い警戒の色。何度も顔を見合わせたはずの秋の顔を見てもそれは変わらない。まるで初対面の他人に成り果ててしまったみたいだ。
「凛子ちゃん、邑崎さんはどこに居るか知ってる?」
 凛子は肩を強張らせて、卑屈そうに秋の胸あたりを睨みつけている。どうやら埒が明かないと悟った秋は、凛子の元を離れようと背を向けたが、再び向き直ると「何か食べたの?」と尋ねる。予想通り返答は戻ってこなかったが「何が食べたい?」と尋ねると、凛子は表情を変えずに一瞬、人差し指を作った。何かをとっさに指差そうとしたのだろうだろうが、その人差し指はすぐに凛子の拳にしまわれた。
「遠慮しなくいいんだよ、みんなタダなんだから。めったに食べれないご馳走だし。何を食べたってきっと美味しいから」
 そう言うと、凛子は今度こそ指差した。指差された方角を見ると、宝石の山のように彩られたフルーツの盛り合わせだった。
 秋はフルーツの前に居るクックベーカーに、適当に皿に盛って貰うようにお願いすると、皿に盛られた色鮮やかなフルーツたちを凛子に手渡した。凛子は皿に盛られた絵画のようなフルーツ盛り合わせを眺めながら、お礼の一言も無いが、期待もしていない。
「食で楽しむ。旅の基本だよ。あそこのテーブルが空いてるからゆっくり食べたらいい」
 秋が指差すと、凛子は皿の上のフルーツを落さないようにのろのろと歩いていった。
「すっかり凛子の保護者だな」
 邑崎の声がして振り返ると、タキシード姿で髭を剃った邑崎が立っていた。身なりをちゃんとすれば、二十代後半に見えないことも無い。
 とにかく探し物のひとつを発見して、秋は安堵した。
「邑崎さん」
 とっさに加賀山瑞穂の伝言を伝えようとして黒い秋が表れた。あっさり知らせてしまって良いものか。この男だけには親切をしたくない秋は喉が詰まる。
 邑崎は不審そうに「なんだ?」と尋ねる。
 加賀山瑞穂に罪は無い。仕方ないと秋は口を開く。
「加賀山瑞穂さんにさっき会ったんです」
 邑崎の眉がぴくりと動き「それで?」と食いついてくる。
「お話したいそうです。教えたくも無いですが、パーティの後サンルームで待ってると伝えてくれと言われました」
「教えたくも無いとは何だ」
 秋の皮肉に微塵も腹を立てた様子の無い邑崎。
「よく伝えてくれたな」
「いえ、彼女から頼まれたら断れませんし」
「そう邪険にするなって。そんなに嫌われるような覚えは無いんだけどな」
「ない? 人のことを下賎扱いするわ、凛子ちゃんの面倒を押し付けるわ、一言のお礼も無いわ」
「なんだ、結構根にもつんだな」
 むか、と秋の腹がなる。
 不機嫌になって、秋が邑崎に背を向けると、慌てて邑崎が秋を引き止める。
「分かった分かった。礼はする。何か困ってることがあれば手伝ってやろう」
 邑崎の申し出に後ろ髪惹かれる秋。たしかに、猫の手も借りたい忙しさだ。
 秋は邑崎に向き直ると「何を企んでるんですか?」と念のため釜をかけた。邑崎は意外そうに目を丸くした。
「おいおい、俺はそこまで信用されてないのか? 加賀山瑞穂の件はあくまで二次的な偶然でだな」
「分かりましたよ。今、確かに困ってますが、邑崎さんにお願いしてもどうにもならないですから」
「俺は探偵だぞ。困りごと解決のプロだ。それが無償で依頼を受けてやるって言ってるのに勿体無いやつだな」
「うちの生徒と先生を探してます。顔も知らないでしょ」
「知ってるさ。両方ともな。招待客のことを何も調べずに乗船するわけが無い」
 秋は邑崎の言葉に引っかかった。邑崎が自分の仕事内容の一端を告白したのが気になった。調査内容について、多少なりとも口にするようなことを、うっかりで邑崎がするとは思えない。
 それに、招待客のことを事前に調べていたとは、すなわち事前に秋のことも知っていたと言うことになり、横浜駅の時計台前での初対面で口走った邑崎の言葉は、知ってて知らぬ振りをしていたと言うことになる。
 それに、時計台前で秋の肩書きを知りながら、近づいてきて話しかけてきたと言うことは、調査内容に秋のことも含まれているのか、あるいは、秋の周囲の誰かが調査相手なのか。
 秋は勘ぐっているのを悟られまいと、口を開く。
「良いでしょう。じゃあ、二人を探してください」
「見つけたらどうする?」
 秋の携帯電話は、沖に出た今は使用不能だ。
「仕方ねえな」
 邑崎はなくなったあごひげを撫でる仕草をすると「凛子」と、テーブルでフルーツを口に運んでいた凛子の名を呼んだ。
 凛子ははじかれたように振り返り、こちらを見た。凛子の口の中にはいっぱいにフルーツが詰め込まれていた。
「部屋に戻るから、付いて来い」
 邑崎がそういうと、フルーツに名残惜しそうにしながら席を立った。
「アルバイト君もついて来い」
「何ですか?」
「プレゼントがある」
 邑崎はあいまいにはぐらかせた。勿体つけているつもりなのだろう。あまり時間も無いが、パーティ会場であるダイニングルームから、秋たちの部屋であるエキストラルームは程近い。たいしたタイムロスにもならないだろう。
 パーティ会場を後にし、エキストラルームに向かいながら邑崎が口を開く。
「あの、お前とやたら一緒にいた、いい女が居ただろう」
 ひゆりのことだろう。「それが?」と尋ねると、助平そうな顔をかにかませて言った。
「ありゃ本当にいい女だ。加賀山瑞穂や、そのほかにもいい女は居たが、ありゃ別格だ。ずいぶん目立つな」
「だから?」
「お前、あの女に気があるのか?」
 秋は後ろで歩く凛子を気にしながら答えた。
「お世話するお客様の一人ですよ」
「じゃあ俺が口説いちまっても良いのか?」
「加賀山瑞穂をかどわかしておいて、まだ足りなんですか? ケダモノですか、あなたは」
 邑崎はむしろ、秋の悪態を心地よさそうに聞く。秋はまるで子ども扱いだ。
「いや冗談だ。ただな、ちょっとあの娘は見てて気になるんだよ」
「何が気になるんですか?」
「無防備さだよ。あの女、まるで壁がない。知らないおじさんが飴を上げるから付いておいで、なんて誘われたら付いていってしまうような子供のような印象がある」
 感覚で抱いていた印象を、言葉にされた気分だった。
「あの女、痛みを知らないんだよ。本当に箱に入れて大切に育てられたんだろうな。危うすぎるぜ」
「だからって何がそんなに心配なんですか」
「おまえが思ってるほど、この船の乗客はお上品じゃないってことだよ。間違いなく彼女は処女だ。挿れられた痛みを知らない、快楽も知らない幼稚なガキだ」
「その言葉、僕の連れに失礼だと思いませんか?」
「悪気は無い、すまない」
 素直に謝る邑崎を意外に思いながら、後を付いて来る凛子を振り返った。少女の前で会話が卑猥すぎる。
「凛子に対して気遣うお前を見てると、俺もお前をかまいたくなるんだよ。からかったり、冷やかしたりするつもりは無い。あの女は危うい。お前、惚れてるんなら囲ってやれ」
「惚れてるも何も、今日の朝初めて会ったばかりですよ」
「そうなのか? その割にはずいぶん親しげに見えたけどな」
 邑崎がそういったとき、エキストラルームに着いた。凛子が前に出て、鍵を開けて扉を開けた。室内は真っ暗である。昼間でも真っ暗な室内だ。
 秋はおおよそ、乗船した直後に入って以来のエキストラルームである。
 三人は部屋に入ると、明かりをつけた邑崎が自分の荷物のほうに踏み寄る様子を凛子と眺めていた。
 しばらく荷物をまさぐっていた邑崎が、目的のものを見つけて戻ってくると、手に持ったものを秋に手渡した。
「トランシーバー?」
「そうだ。小型のな。よく分かったな」
 小さな黒い箱と、そこからコードでつながるイヤホン。
「船内くらいの範囲なら、おそらくどこに居ても通信可能だ。凛子も持ってる」
「見つけたら、これで連絡を?」
「そうだ。スイッチは本体についてる。周波数は弄るな。もう合わせてある。すばらくそれをつけて行動してろ」
 邑崎が初めて探偵らしく見えた。
「イヤホンのコードの途中にある膨らみがあるな」
 イヤホンをすると、胸の前辺りのコードの途中に、プラスティックの塊がある。
「それがマイクだ。スイッチを入れた状態から、そのマイクは音を拾う。俺と凛子はそれを聞ける状態になる。三人の音は共通してイヤホンから聞こえてくる。音が共存するので、三人での会話が可能だ」
「分かりました。しばらくはつけて行動します。電池は?」
「つけっぱなしでも三日間は持つ」
 秋はスイッチを入れた。イヤホンをしてテストをするために、マイクに向かって「あーあー」と声を出す。自分の声が聞こえる。それを見ると、邑崎が自分の小型無線機を取り出し、自分の無線機のマイクを指先で叩いた。
「大丈夫です。お互い、見つけたらこれで連絡を取り合いましょう」
「それでな、もうひとつ」
 エキストラルームを出ながら、邑崎が言った。
「俺はアルバイト君の知ってるとおり、ちょっと野暮用があるもんでな。探し物は手伝ってやるが、凛子の面倒をちょっと見てくれないか?」
「お断りします」
 即座に切って落すと「そう言うな。俺からのお願いだ。悪いようにはしない」といって、秋の肩に腕を回すと、凛子から離れるように距離を開けて言った。
「正直、凛子はお前に気を許してるんだよ。こんなこと珍しくてな、お前にしか凛子の面倒は頼めない。俺に恩は売っておいたほうが得だと思うぜ」
「僕に気を許してるなんて、大きな間違いですよ。口だって一切利いてくれないし、僕の顔を見ていつも嫌そうな顔をしてますし」
「だからだよ。お前には口を利かない。嫌そうにしてる。凛子は嫌だと思う相手に、あんな顔はしない」
「言ってることが矛盾してませんか?」
「矛盾してるのは俺の言葉じゃない。凛子が矛盾したやつなんだよ。お前に好意的じゃない凛子は、お前に気を許してるってことだ」
 めちゃくちゃだ。嫌いな相手なら避けようとするし、好きな相手ならもっとかかわりを持ちたいと思う。それが人間だ。
 邑崎は続ける。
「俺は甲斐性なしでな。どうも凛子を楽しませてやることができない」
「楽しませるって、二人とも仕事で来てるんじゃないんですか?」
「あっちは依頼人だ。仕事は俺だけ」
 その割には楽しんでいるようですが、と言いかけてやめた。
「あの娘に少しは楽しませてやりたいんだよ」
 ほろりと、呟くように邑崎がそう言った。
「楽しませてあげれば良いじゃないですか。自分はこれから楽しむつもりでしょ」
「加賀山瑞穂の件も仕事の範疇だよ。本当だ。お前を見込んでの頼みなんだ。悪いようにはしない」
 一見、邑崎は真剣に見えるが、秋よりも十歳以上も歳の離れた年長者である。何を考えているか、本当のところは見えない。
 秋は背後でぼんやり立ち尽くす凛子を振り返る。秋が振り返って自分を見ていることに気づいた凛子は、あからさまに狼狽して嫌そうな顔をする。
 どう考えても、心を開いているような態度ではない。
「良いでしょう。分かりました。でも、今の僕についてきたって、僕の仕事を眺めてもらうくらいしかないですよ」
「構わない。俺と一緒に居るよりましだ」
「その代わり、僕も条件を出させてください」
 邑崎の顔が渋った。断る道理は無い。これだけ面倒を押し付けてきているのだ。
「条件次第で、飲んでも良いが」
「調査内容を教えてください。何について調べてるのか。詳細じゃなくても良いです。概要程度で良いです」
 少しの懸念。クルーたちに垣間見れる焦燥感。それと邑崎の調査となにか関係しているのだろうか。秋は気になって仕方がなかった。
「そりゃ無理だ。探偵には守秘義務がある」
「じゃあ僕が凛子ちゃんに尋ねるのは良いですか? 依頼者が喋るのなら問題ないでしょ」
「構わないが、どうして知りたい? アルバイト君が聞いても、何の関係のないことだぞ」
 関係があるかどうか知りたい。
 邑崎は納得したらしく「じゃあ、それで頼むな」と言って凛子に近づいた。邑崎の反応は軽い。だが凛子に近づいて、何も喋るなと打ち合わせるつもりかもしれないと思い、秋は邑崎に近づくが、邑崎は凛子に「お前はアバイト君についていけ」と凛子に伝えた以外は、特に不審な言動は無かった。
 凛子は眉毛をへの字に歪めて、救いを求めるように邑崎を見たが、邑崎は取り合わない。
「じゃあな、見つけたら俺はアルバイト君に知らせるだけだ。声をかけて、どこかに行かせたりはしないからな」
「分かりました」
 秋が返事をすると、邑崎はあくびと伸びをしながら、ダイニングルームの方向へ消えていった。
 残された凛子と秋。凛子は肩を張って、そっぽを向いてる。
「僕はとりあえず、ショップのほうに行くけど……」
 凛子は答えない。
 秋は歩き出すと、一定の距離を開けるように付いて来る凛子。
 邑崎の言いつけには従順なようだ。
 秋は凛子を構っている暇が無いので、ショップの立ち並ぶ二階に向かった。ショップが開いているのは、大体八時前後までである。人が集まる場所を探して、見つからなければもう一度ダイニングルームに戻るつもりだった
 笹川は自分がステージに上がることを知っているので、時間までには勝手に戻る可能性が高い。後回しにして、先に小山内を見つけようと思った。
 メインエントランスを横切って、フロントパーサーに会釈されながらエレベータに乗り込むと、凛子も乗り込んでくる。
 二階に着いてエレベータが開く。目の前はメインエントランスのある一階から三階までの吹き抜けになっており、吹き抜け部分を囲むようにショップが立ち並んでいる。
「そもそも、こんな巨大な船内を、当ても無く探せっていうほうに無理があるんだ」
 凛子が居るから独り言ではないだろう。
 秋は吹き抜けを回るように歩き出す。
 乗客はパーティに出席しているのか、ほぼ皆無に等しい。
 二階部分のショップはお土産や、雑貨屋が多い。歩きながら店内を覗いてみる。店員が退屈そうにレジの向こうで読書をしていたり、同僚と会話している。
 二階を一周したところで、手すりを掴んで吹き抜けに身を乗り出してみた。
 一階部分のメインエントランスの様子が見える。
 最初、無人だったエントランスに走り抜けていくクルーの姿が見える。反対側からもう一人のクルーが姿を見せ、お互いが立ち会うと、何かを会話した。
 何か問題が発生したとわかる動揺ぶりに、秋は傍耳を立てた。
「何人居なくなった?」
 何人居なくなった?
 聞こえてきた声は秋の予想を絶する、驚愕の会話だった。
「今、点呼を取ったが、運航部では航海班三名、機関班六名、通信班七名、医療班三名の行方が分かっていない。サービス部ではどうなってる?」
 運航部とは、船を運用する機関士や通信士が、客の入れない地下一階以下の階層で働くクルーの部門だ。
 行方が分からなくなってるとは、一体どういうことだ。
 秋は隣に居る凛子を見た。凛子も秋と同じようにメインエントランスを見下ろしている。幸い、招待客たちがパーティ会場に詰め込まれているおかげで周囲は閑散としている。クルー二人の会話は、二人のところまではっきり聞こえてきた。
「ホテルサービスクルーについて分かってる部分で、レストランクルーが三名いない。ブティッククルーも五名いない。深刻なのがハウスキーピングが一人も見つからない。配置を変えることは可能だが、サービスクルーはもともと少人数で構成されてる。これではお客様へのサービスが行き届かなくなる」
 秋は言い知れぬ恐怖が、全身を粟立たせるのが分かった。
 人が居なくなっている。
 そんな不穏な会話をしている。
 一体、何のことだ。
 秋はクルーの会話に集中する。
「今はサービスの提供よりも、クルーが居なくなってる事実のほうが重要だろうが。招待客に行方が不明な人間は出てるのか?」
「招待客の確認は難しい。今、サービスクルーが総出でダイニングルームに集まってる招待客の確認を行ってるが、出席していないパーティ客まではまだ手が届かない」
「キャプテンの指示は?」
「招待客への発表はしないそうだ。残りのクルーで運航は充分可能なはずだから、救難信号の発信は無い。本社への報告は随時行っているそうだが、返答までは分からない。とにかく、神戸港までの航海は今のクルーだけで予定通り行う。神戸港で航海中止になるかもしれないが、くれぐれも招待客たちに悟られるなとのことだ」
「わかった。神戸港の寄航は翌十時だったな。それまでにこれ以上の行方不明者が出なければ良いが」
「いいか、個人的な意見だが、これは尋常じゃない事態だ。ほかのクルーの心配をする前に、自分の心配をしたほうがいい」
 秋の全身を、悪霊が通り抜けたような悪寒が走った。
 秋は凛子を見る。
「凛子ちゃん、一階に降りて、あのクルーに声をかけよう」
 秋は凛子の返事を聞かずに、二階からメインエントランスに螺旋階段で下った。凛子は付いて来る。
 秋がメインエントランスに下りると、秋の存在に気づいたクルー二人は、目配せをして分かれた。
 片方のクルーに秋は慌てて駆け寄ると「待ってください」と引き止めた。クルーは振り返って、勤めて朗らかな笑みで「何でしょう」と首をかしげた。
 秋は少し弾む息を整えてから言った。
「すみません、さっきの会話、聞こえてしまって」
「会話?」
 とぼけている。だが、朗らかな笑みも凍りついたのが秋には分かった。
「どういうことですか? クルーが居なくなっているんですか?」
「……いえ、お客様がご心配なさるようなことは何もありません」
 目の前のサービスクルーには気の毒だが、秋はあいまいに済ませるつもりは全く無かった。
「ほかの招待客たちに漏らすつもりはありません。教えてください。もう、会話を聞いてしまったんです。ちゃんと教えてくれれば、僕はほかの人に喋るつもりはありません」
「いや……」
 クルーは顔を背けると、面倒なことになったと、一瞬、渋った表情を垣間見せた。クルーは観念して「ここではなんですから」といって、秋をメインエントランスから続く、メディカルセンターの一角まで促した。
 メディカルセンターは、船首の奥にあり、それ以上先の通路が無く、袋小路になっている場所だ。医療施設がある以外の施設は無く、普段なら誰も近寄らない場所である。
「参りましたね。何を聞きたいんですか?」
 サービスクルーは迷惑そうな顔を隠さなくなった。
「クルーが居なくなっているとは、どういうことですか?」
「身内の恥をさらすようで話しにくいんですが、われわれも処女航海の未熟さがあって、統制を取れていないんです。それぞれのクルーがどこに居て、何をやっているかの把握が取れていないと言うことです」
 苦しい言い訳を言うくらいなら、口を閉ざしているほうがましだ。秋はそう思った。こんなところまでつれてきておいて、話を誤魔化そうなどという浅はかな考えは身を滅ぼす。不審に思った秋が、下手なごまかしで納得するわけも無く、秋を欲求不満のまま返してしまえば、秋が時限爆弾になってしまうことくらい予想してしかるべきである。
「航海中止の恐れもあると聞こえたんですが」
「航海中止はあくまでも最悪の、最後の手段です。そうなる前までにはベテランのクルーと神戸港で入れ替えるような処置がとられると思います。とにかく、ご想像しているような事件のようなことは何もありませんから、どうぞクルージングを楽しんでください」
 まさか、これで終わりにする気だろうか。秋は頭に来て、一歩クルーに詰め寄ろうとしたとき、横で沈黙を守っていた凛子が秋の前に立つ。意外に思った秋は一瞬、唖然とする。
 凛子は胸の前で両手を組んで、祈りをささげるようにクルーのことを見上げた。凛子の表情には卑屈さは無く、だが、不安に似た感情が表情を曇らせている。凛子は口を開いた。
「あなたと、もう一人の人のお話が、とても緊迫してるように見えたんです。胸がそわそわするような、怖くなるような。なにがあったのか、気になるんです」
 凛子が言うと、クルーは秋を相手にするのとは違った、急に心の温かい大人になったような表情になる。
「お嬢さん、心配ないよ。本当に何の問題も無いんだよ。このお船はね、明日の朝には神戸の港につくんだ。そうしたらこちらのお兄さんに連れて行ってもらって、神戸を観光してくるといいよ」
「でも……人が居なくなったって、さっき」
「居なくなったっていうのは、どこにいっちゃったか、分からなくなっちゃったってことなんだ。消えていなくなっちゃったわけじゃなくて、どこかに居るんだけど、どこにいるのかな、って話してただけなんだよ」
 クルーは秋を見た。その目は秋に対してのいくらかの非難を含んでいる。
「お子さんの前ですから。あまり不安にさせるような言動は慎んでください」
 まるでその手に正義を掴んだかのようなクルーの発言に、いよいよ秋は頭を沸騰させた。
 秋がひどい剣幕で怒り出す、その前に、凛子が胸の前にあった手を伸ばして、クルーの二の腕あたりを掴んだ。
「本当に大丈夫なんですか? みんな居なくなったりしないですよね」
 突然饒舌になった凛子は、今までの印象とは違う。ある意味子供らしいが、同時に妖艶な雰囲気を持つような、胸を落ち着かなくさせる態度をとっているように秋は思えた。
 行方不明者が居る、と言う事実より、秋は目の前の凛子の様子に注目を奪われた。凛子に何が起こったのか、秋は目を見張る。
 クルーはしゃがみこんで凛子と視線を同じにする。クルーは凛子の頭を撫でて「心配ない。お兄さんを信じて」といった。凛子は撫でられた頭を自分でも撫でると、その手をクルーの胸に当てた。クルーは胸に当てられた少女に手を見ると、人懐こそうな笑みを浮かべて「そんなに怖いのかい?」と尋ねる。凛子は確かに不安そうにうなずいてみせる。頷いた凛子は俯き、一歩、クルーに近寄る。数センチの距離まで凛子とクルーは近づき、思わず、思わずと言ったようにクルーは凛子の後頭部を持って、自分の胸元に凛子の顔を抱き寄せた。
「大丈夫だからね。そうだ、お兄さんが楽しいところに連れて行ってあげる。おいしいものが食べれてね、楽しい音楽が聴けてね」
 凛子がクルーの胸の中で、小さく頷いている。
 秋は、目の前の光景が奇妙に思えた。凛子は一体何をしている。何を突然、知らない男の胸元に身を寄せているのだろう。
 ある意味、信頼する大人を見つけた迷子の子供のようである。だが、言い換えれば、無防備に男を欲情させるような誘惑的な行為である。
 クルーは、おびえる子供を胸中に抱えることにより、完全に正義を手にする。少女をおびえさせた、悪の秋を哀れんだように見つめると「これでよいでしょうか。まだ何か聞きたいことが?」と言われる。
 秋が口を閉ざしていると「この子は、あなたの妹さんか何かですか?」と聞かれ、返答に困る。
「知り合いの妹ですが……」
 秋が答えると、クルーが凛子に「本当?」と確かめている。
 凛子は自分のものになり、守る使命を帯びたナイトのような態度。
 クルーは秋のことをいぶかしむように見た。
「この子はわたしが保護者の元まで送り届けましょう。そんなに気掛かりなことが終わりなら、フロントパーサーにお尋ねください」
「は?」
 秋は顔をはにかませた。
 このクルーは何の権限があって、凛子を秋から引き剥がそうとしているのか。まるで秋が迷子の子供をクルーに送り届けた人間のような状態だ。
「べつに、その子をあなたに頼むつもりはありませんが」
 秋が言うと、クルーは無視するかのように凛子の手を握ると立ち上がる。
「ちょっと、あんた」
 秋が引きとめようとすると、クルーは凛子を守るように声を荒げて秋を睨む。
「この子が怯えてるじゃないですか。ご心配なさらずとも、ちゃんとわたしが責任を持って送り届けます。それでいいよね?」
 最後の言葉は、凛子に語りかけたものだった。凛子は俯いたまま答えないが、その手はしっかりとクルーの手を握り返している。それを返事と受け取ったクルーは凛子の手を引いて、秋の横を通り過ぎる。
 秋は混乱する。秋の横を通り過ぎていったクルーと凛子の背中を見る。
 一体、これは何なんだ。なにが今起こったのか。
 凛子を送り届けると言ったって、どうせ送り届ける先は、秋の部屋と同じエキストラルームだし、凛子が保護者である邑崎の元に行きたいのならば、自分の持っている小型無線に問いかければいい。
 この虚無感は何だ。無意味さの感情が胸を疼かせる。嫌な予感を感じるときに似た悪寒。不愉快さ。
「待ってください」
 クルーの背中に声をかけるが、クルーは凛子に何かを語りかけているばかりで振り返りもしない。
 クルーの態度が不愉快であるのは確かだが、同時に不可解だ。
 秋は立ち尽くしたまま、この不如意な感情を理解しようと、必死に胸の中をかき回した。
 
 
 
 秋はこっそりと、クルーと凛子の後を付いていく。
 サービスクルーは言ったとおり、凛子の部屋であるエキストラルームまで凛子を連れて行った。
 凛子とクルーは一緒にエキストラルームに入る。
 エキストラルームに入ったクルーはすぐに出てくると思いきや、数分待っても出てこなかった。
 エキストラルームの周囲には何も無ければ、誰も居ない。何か荷物をとりに気来る乗組員が居なければ、誰も立ち入らない場所だ。
 クルーが去ったら、秋はエキストラルームにもどろうと思っていたが、なかなかクルーは出てこない。
 何か会話でもしているのだろうか。秋には近寄っては駄目だとか、困ったことがあれば、クルーに声をかけろだとか、保護者はどこに行ったのだとか。
 それにしては長い時間、クルーは凛子と一緒に部屋に入ったまま、出てくる様子が無い。
 秋はエキストラルームに近寄った。
 ドアノブに手をかけてみる。
 ひねると、鍵はかかっていない。
 手前に引くと、何の抵抗も音も無く扉は開いた。
 部屋が暗かった。
 あれ、と秋は首をひねる。
 扉を閉めると、ほぼ暗闇で視界は聞かない。
 二人は入ってきたはずだ。なのに、なぜ明かりがついていない。
 秋はなんとなく事態を予測する。
 秋が容易に導き出す予想は、あまりにも現実離れしており、自分自身半信半疑だ。
 秋は入り口右手の壁にあったはずの明かりのスイッチに手を伸ばす。
 明かりをつけた瞬間、明るくなった空虚な部屋の中で秋が目撃したのは、秋の予想を裏切らなかった。
 部屋の中央で、凛子の上に乗って、凛子の胸元に顔をうずめていたさきほどのクルー。
 明かりが付いた瞬間、獣のような仕草で顔を上げて秋のほうを見た。
 秋も愕然とクルーを見る。
 仰向けに寝かされ、微動だにしない凛子はぼんやり天井を眺めている。またがるように上に乗るクルーの制服の胸元が開き、ズボンのベルトも外れている。
「た、他人の部屋に入ってくるなんて、失礼じゃないか!」
 クルーが大声を上げたが、秋は呆然として立ち尽くしたままだ。
「出て行ってくれ! 何なんだ! さっきからお前は!」
 秋は茫然自失から抜け出すと、現状を半分ほど理解して部屋に足を踏み入れた。それを見たクルーが「なぜ入ってくる。ここはお前の部屋じゃないぞ」と声を上げる。
「何をやってんだ、あんた」
 秋が口を開くと、クルーは凛子を見る。すぐに秋を見ると「お前に関係ないだろ。早くでていけ」と怒鳴る。
「僕が出て行ったら、お前は何をするつもりなんだ? その子はまだ子供だぞ」
「なんだ、わたしが何か悪いことをしてるのか? お前にわたしが何をしようと関係ないだろ」
「関係ある。ここは僕の部屋だ」
 この部屋が誰のものであるかどうかなど関係ない。秋はそう思うが、そのクルーにとっては重要な問題らしく、うろたえて見せた。
「嘘だ。この部屋はこの子の部屋だ」
「だから、僕とその子は同じ部屋なんだよ」
 秋は小型無線のマイクに向かって「邑崎さん、ちょっと部屋に戻ってきてください」と呼びかけた。
 いま向かってる、という返答が返ってくる。どうやら会話を聞いていたらしい。そっちを頼む、という邑崎の声が聞こえたが、返事はしなかった。
「今、誰を呼んだ!?」
 クルーが凛子から離れると、制服の乱れを直しながら叫ぶ。
「わたしは何も悪いことをしていないぞ」
「何をしてたかは見れば分かりますよ」
「別にわたしが彼女を襲ったわけじゃない。そ、それに、誘ったのは彼女のほうだ。彼女がそうしてほしいと……」
「そう言ったのか? 体を触ってくれと?」
「目で誘ってきたんだ。私の体を触りながら私を見つめて」
「もういいです。あなたの名前と所属を教えてください」
「なぜ教えなくちゃいけない」
「大事にしたければ、いくらでも出来ますよ。でも、それを判断するのはこれからここに来る人にやってもらう。僕はあなたが逃げないようにするだけ。で、名前は? 所属は?」
 秋の意地の悪い問い詰めにクルーは地面に弾かれたように立ち上がると、胸元の蝶ネクタイを首を伸ばして正しながら「私は後ろめたいことはしていない。これで失礼させてもらう」といって、こちらに歩いてくる。
 逃げようとしたら、ぶん殴ってやろうと思った。今日一日のストレスもこめて、八つ当たりのようにあご先を殴りつけてやる。
 だが、秋の出番は無くなった。
 息切れ切れの邑崎がエキストラルームに姿を現したからだ。
 やってきた邑崎に事態の説明は必要ない。
「なんだ君は!」
 クルーが叫んだが、邑崎は荒れる呼吸のまま構わず喋った。
「凛子のことを放任してはいるが、凛子には小型無線機をつけてて、ずっと様子を聞いている。お前が凛子に卑猥な言葉を囁いていたことも聞いていた。ちょっと遠くに居て到着が遅れたが、どうやら間に合ったようだな」
 間に合っていない。秋が来なかったらどうなっていたか。
 いや、その前に凛子を預かっていた秋が、一時でも凛子から目を話し、危険な目にあわせてしまった。
 秋は凛子に近寄ろうとしたとき、邑崎がクルーの横っ面を殴りつけた。
 クルーは悲鳴を上げて尻餅をついた。
「てめえはいい大人だろうが。相手の年齢を考えろ」
「あの子が誘ってきたんだ! それに答えて何が悪い!」
「いずれにしろ子供の心を考えれば、そんな行為は出来ないはずだ、クズめ」
「くっそおあ。殴りやがって。こんな顔じゃ、業務が出来ないじゃないか」
「まだわからねえか。幼児趣味の変態やろうが。誰かわからなくなるくらいぶん殴ってやろうか」
「……わ、分かった。殴られたことは忘れてやる。だから、それ以上はーー。本当に仕事が出来なくなる」
「まだ言うか、このやろう」
「邑崎さん!」
 秋が怒鳴った。
 邑崎が鬼のような形相で秋を見る。
「すみません、目を離した僕のせいです。今、そいつを殴っても良いことはひとつもありません。僕が現場を目撃してるし、邑崎さんが小型無線で聞いていたのだから、僕らが証言すればその人はどうにでも出来ますから」
 邑崎は仏頂面のまま秋を睨んでいる。クルーはこの世の終わりのような顔で秋を見ていた。
「凛子ちゃんが証言すれば、誰も疑わないでしょう。その人も、この先のことを思えば気の毒です。殴るのはやめて上げましょう」
 邑崎は握っていた拳を緩めると、目を据わらせてクルーに近寄る。
「それじゃ、このままキャプテンの所まで行くか。俺の連れに何をしようとしたか、ほかの仲間たちの前で全部吐かせてやる。俺は仕事柄、ブンヤや週刊誌の記者に知り合いが多い。会社が守ろうとしたら、会社ごと打撃を与えてやる」
 秋は心身を喪失したような凛子のはだけた胸元を隠す。体が小さく童顔で愛らしい顔。それでいて胸が大きい。肌は白く上質の絹のよう。確か歳は十六歳だったか。雰囲気の子供っぽさに反して、成熟した身体。
「君は……」
 秋はその後に続く言葉を言えなかった。
 思いつかなかったからだ。
 絶望的な表情で大量の汗をながすクルーの言っていることは事実かもしれない。凛子が男を誘うような真似をしたのか。
「……許してください」
 クルーが地面に額をこすりつけるように頭を下げた。そのまま何度も許してくださいと訴え続ける。
 邑崎は腕を組んで、仁王立ちし続ける。
「凛子の様子は?」
 邑崎に聞かれ「何もされてないようです」と答えた。
 凛子は不意に上半身を起こす。そしてはだけた胸元を見ると、目を丸くして非難したような顔を秋に向ける。
 心外な秋は、慌てて「僕じゃいぞ」と訴えたが、凛子は信じたのか信じていないのか、自分のひざを抱えると、小さくなって肩を震わせた。
「おい、あんた、もう行って良いぞ。お前のことはこれからじっくり考えるからよ。いい様にはしないから、びくびく怯えながら待ってやがれ。神戸港に着いたら、警察沙汰は覚悟しとけよ」
 クルーは青ざめた顔で、魂が抜かれたようにふらふらとエキストラルームを出て行こうとしたが、秋が「待って」と引き止めると、クルーは肩を震わせて立ち止まった。
「さっきの話の続きです。忘れたとは言わせません。さっき、他のクルーの人と話してましたよね。人がいなくなったって。詳しく聞かせてもらえませんか?」
 卑屈そうに振り返ったクルーは、ふてくされたような顔で「もう、勘弁してもらえませんかね」と声を上げた。
 何たる態度だろう、秋は腹を立てた。まるで反省していないに違いない。
「そのことは、俺が説明してやる」
 そういったのは邑崎だ。邑崎の言葉を聴くと、クルーはここぞとばかりに何の許しも請うことなく、部屋を出て行った。
 秋はあのクルーの顔を忘れないことにし、邑崎を見た。
「邑崎さん、何か知ってるんですか?」
「さっきオーナーに相談を受けた。ちなみに教えておくが、その場にアルバイト君の保護者もいたぞ」
「叔父さんが?」
 キャプテンが、小山内に用事があると言ったのは、このことだったのだろうか。
 秋は行方不明者のことを聞くより、まず初めに謝ろうと思った。秋は邑崎に対して素直に頭を下げる。
「最初に謝ります。すみませんでした。僕が目を離したから」
 秋が謝ると、邑崎は「お前のせいじゃない」と言った。ふう、とため息をつくと、邑崎はうんざりしたように頭を掻いた。
「この馬鹿女のせいだ。この女は、自分に性的な興味を持ってる男を見ると自分から近寄っていくんだよ」
 邑崎の言葉は不可解だった。
「どういう……それはどういうことですか?」
「嫌いな相手ほど、近づいていくんだ。嫌いであればあるほど、暗闇を持つ相手であればあるほど、こいつは馬鹿みてえに近寄っていくんだ」
「だから、何でそんなことをするんですか」
「お前にも覚えが無いか? 強烈な腹痛を起こしたことは無いか? あまりの痛さに頬をつねったり、体のどこかを叩いたりして、どうにか腹痛の苦しみを紛らわそうとしたことはあるか?」
 あるような気がする。何より、あるかないかは脇にどけておいて、邑崎の言わんとしている事は理解できた。
「要するにそういうことだ。そいつは大きな胸の痛みを紛らわしたくて、自分のことを痛めつけたがるんだよ。それ以上は聞くな」
 邑崎の言うとおり、それ以上は聞かなかった。
「お前のことを嫌そうに見たり、避けたりしているこいつは、お前のことを悪い人間じゃないと思ってる証拠だ。世界中の人間が悪人だと思ってるこのバカ女は、悪人じゃない人間を見ると、相手の事が分からないから恐くなって避けるんだよ。だからアルバイト君に凛子を任せた。アルバイト君が謝る必要は無い。凛子に何かあったら、すべて俺の責任だ」
 多少救われるが、それでも責任を感じずにいられない。
 邑崎が凛子に近寄ると、変わりに秋は凛子から距離を置く。
 邑崎は凛子の様子を覗き込むと、部屋の奥から布団を取り出して乱雑に放り出した。適当という言葉が適当に思える布団の敷き方をして、凛子に寝るように促した。凛子は首を横に振ったが、邑崎は凛子の腕を掴むと、凛子が悲鳴を上げるのも構わず、布団に凛子を放り投げ、頭からシーツをかぶせた。
 凛子はシーツをかぶると、シーツが最愛の恋人かのように抱きついて、照る照る坊主のまま丸まって横になった。
「さて、凛子はこのままほうって置けば寝付く」
 邑崎はその場に座り込むと、胡坐を掻いてうな垂れた。
「アルバイト君が聞きたかったのは、行方不明者のことだったな。どうやら穏やかな事態じゃないようだ」
 秋は邑崎の傍に座り込む。椅子などと言う気の聞いたものは無いので、二人とも雑魚座りである。
 秋は邑崎の話に耳を傾けた。邑崎の口から出た事実は、秋を恐怖で凍えさせた。
「いなくなったのは主に船内の乗組員だ。招待客や委託業者はまだいなくなっていないらしい。委託業者とはショップの店員や、旅行会社の添乗員のことだ。船内のサービス系のコンサルティングやメディカルセンターの医療班もいなくなっていない。いなくなってるのは主に運航部と呼ばれる実際に船を動かしている技術屋の連中と、ホテルサービス部と呼ばれる、接客担当の連中ばかりらしい。五十人以上の行方が分からなくなってるが、原因は全く分かっていない。もちろん船外に出る手段は出港から今まで救命艇を使うしかないが、使われた様子は無い。手の空いてるクルーが総出で船内をくまなく探しているらしいが、いなくなった人間は誰一人見つかってない」
「な、なんでそんなことが」
 秋は寒くなった。
 いなくなったとは、本当だったのだ。なぜいなくなったのか。
 ふと、背後が気になった。
 何者かが秋の背後から手を伸ばし、暗闇の異次元に引きずり込もうとしているのではないか。行方不明者たちはすべからず、暗闇の住人に引きずりこまれてしまったのか。
「そうびびるなよ。誰かの死体が見つかったってわけじゃないんだ。いなくなっただけだ。聞いた話だが、今回のクルージングに集められたクルーの大半は、フィリピン人の経験の浅い人間ばかりらしい。統制がうまく取れていないようだ。もしかしたらただの点呼ミスかもしれない」
 点呼ミスだとしても、五十人の行方不明が発生するミスなど、あまり考えられたものではない。
「運航に支障はないんですか?」
「今のところは無いらしい。その気になれば、数人の技師で、全自動で航海できるそうだ。海の真ん中で迷子になる心配もないし、明日の午前中には予定通りに神戸港に到着するそうだ」
 邑崎の様子はそれほど混乱していないし、焦ってもいない。
「だいたいな、いなくなったのが全員旅客船会社の社員だってことが気に食わない。こいつはもしかしたらーーあくまで俺の想像でしかないが、これはボイコットじゃないか? 乗組員のハードな勤務状況を知ってるか? 一旦船に乗ったらほぼ無休状態で睡眠時間もままならないまま働きづめになる。フィリピン人は安い賃金でこき使われるからな。そんな待遇に対するボイコットかもしれない」
「ボイコットなら、声明を出すもんじゃないですか? 突然、なんの断りも無くボイコットなんてやったら、ボイコットした人たち、会社に訴訟を起こされますよ」
「会社もクルーもみんなそろって大打撃だろうな。まあ、本当のところは分からないけどな。残りのクルーで神戸港まで運航できても、その先はまず不可能だ。高い確率でクルージングは神戸で終わりだ。新しいクルーを積み込んで、クルージングを強行するとしたら正気の沙汰じゃない。もし続けられるようなら、アルバイト君たちは神戸で降りたほうが賢明だな」
「大学生たちは何て言うか……でも、叔父さんも知ってるんですよね。なら僕が何か言わなくても、叔父さんが判断を下すでしょう」
「いずれにしても、俺たちに出来ることは無いな。口は噤んでたほうがいい。うっかり喋って混乱を招いたら、ここは海の真ん中だ。何が起こるかわかったもんじゃない」
 混乱を防止するために口を閉ざしたからといって、招待客たちはこんな重要なことを何も知らされないままで神戸まで行かされるのか。
「とにかく、明日神戸に着くまでおとなしくしてることだ。無人でも神戸に着くってオーナーが言い張ってんだ。明日の朝までに全員いなくなることは考えられねえよ。凛子の相手をして疲れたろ。もう寝たらどうだ?」
 邑崎にそう言われて、ふと重要なことを気づいた。
 秋は人探しの途中である。
 小山内はオーナーに会っていたというので、とりあえずおいておいてもいいだろう。おそらくキャプテンが小山内を探していた目的は達しているはずだ。ならば笹川である。
 秋は腕時計を見ると、大学生たちのイベントまで後十五分しかない。笹川を探すことすらしていない秋は、このままダイニングルームまで行って、大学生たちに報告しなければならない。
「僕はちょっとまだ用事が」
 邑崎が呆れたように笑った。
「アルバイト君は用事ばかりだな。少しは休んだらどうだよ。頼まれごとなんて忘れて少し休まないと持たないぞ」
「一番僕に用事を頼んでくれた人の言葉とは思えないですね」
 邑崎は苦笑した。
「なら、頼まれごとが好きなアルバイト君に、もうひとつ頼んでもいいか?」
「言って置きますが、僕は仕事があります。邑崎さんが僕にこれ以上頼み事をするのなら、見返りを求めますよ」
「金か?」
「そんな物いりません」
 邑崎が巣に戻った表情で秋を見る。
「いいぜ。なんだよ、何がほしい?」
「もう凛子ちゃんの傍を離れないでください」
 邑崎はその場にごろりと寝転びながら「言うと思った」とふてるように言った。
「つまらねえ野郎だよ。アルバイト君は欲望が無いのか?」
「何の話ですか?」
「セックスしたいと思うか? 金がほしいと思うか? 誰かを苛めてやりたいと思うか? 他人の不幸を見たいと思わないか?」
「なんですか、突然」
「まあいいや。分かったよ。アルバイト君の要求は呑んでやる。それじゃ俺のお願いを聞いてくれるんだな?」
「内容によりますが」
 邑崎は仰向けに寝転がった状態から足を振り上げて、反動で上半身を起こす。
「俺はこの部屋で朝まで凛子のそばにいる。こいつが寝付くまで、それから目が覚めるまでここにいる。だから加賀山瑞穂に、お前が代わりに会ってきてくれ。別に口説いたってかまわねえぞ。とにかく代わりに行って、謝っておいてくれ」
 秋は呆然と邑崎を見た。邑崎は再び寝転ぶと、ポケットからタバコを取り出し、火をつけた。
 天井に向かって煙を吐き出す邑崎。
 秋は気に入らない気持ちだった。はなから邑崎は加賀山瑞穂に会いに行くつもりは無かったらしい。凛子と一緒にいろと要求した秋が、なんだか間抜けな気がして恥ずかしかった。
 ふと凛子を見る邑崎の顔に、凛子に対する特別な感情がある気がして、なおさら秋は気に入らなくなった。
「邑崎さん、凛子ちゃんとどんな関係なんですか?」
 思わず尋ねて、秋は後悔する。間抜けな質問だ。まるで詮索好きな住宅団地の中年主婦のような好奇心からの質問だった。
「ああ? 俺と凛子? 依頼主と探偵の間柄だって言ったろ」
「そうでしたいよね。はい、すみませんでした」
 恥ずかしさを紛らわすようにそういうと、再び上半身を起こした邑崎が秋を睨みつける。
 秋が居心地を悪くして、部屋を出ようとすると、邑崎は「おい」と秋を引き止める。
 秋が振り返ると、邑崎はタバコの副流煙に渋面しながら「こんな娘の依頼を、普通の感情で引き受けられるわけ無いだろ」と言った。
 邑崎はそのまま秋に背を向けるように寝転んだ。
 二人の間にあるのは恋愛感情だろうか。秋は勘ぐってみるが、理解は出来ない。依頼人と探偵、そんな渇いた関係にとどまらないのは、二人の年齢差が物語っている。
 秋は仕事を思い出し「行って来ます」と言葉を残して、エキストラルームを出て行った。


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