桃色くも


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第五章 〔 告白 〕 


 秋が乗船するより一月ほど前、邑崎と凛子は長瀞にやってきていた。
 長瀞温泉街。凛子の故郷である。凛子が万里夫に出会った場所でもあった。
「つれてきたぞ、凛子」
 約束は、凛子を一緒に連れて行くこと。連れて行った先で、凛子は邑崎にすべてを話すという。行き先が凛子の住む町。家に帰るということで、邑崎は凛子の条件を承諾した。真夏の温泉街はシーズンとしては下降気味の時期だが、人は少なくない。といっても人の多さは関係ない。二人は観光できたわけではないのだ。
「まずは家に帰るか」
「まだ帰りません」
 凛子は正面だけを見据えて口を開く。家にはすでに連絡を入れているという凛子。その様子を邑崎が見たことはない。連絡していなければ家族が警察に捜索願を出している可能性は限りなく100パーセントに近いし、そうなれば行方不明少女と一緒に居る邑崎は誘拐犯扱いされかねない。
「一度家に帰れ。安心しろ。お前をおいてどこかに行ったりしない」
「……分かりました」
 素直に頷く凛子。いぶかしむ様子もない。
「送っていこう。タクシーを捕まえる」
「いいです。お兄ちゃんに迎えに来てもらいます。お兄ちゃん、多分夏休みだから」
「兄ちゃんは学生なのか?」
「大学生。うち、家族でお兄ちゃんしか車持ってないし」
 二人はこじんまりとした長瀞駅前のベンチに腰掛けた。長瀞といえば数々の岩畳とよばれる渓谷美を堪能できる観光地として有名であるが、駅前は観光地のそれではない。もちろん、この昭和の時代から変わらない機械色の全くないトタン屋根、木造駅舎、無人改札などの情緒も、ひとつの観光であるといえる。
 真夏の陽射しに焼かれる建物やアスファルト、青々とした自然の草木は、じっと耐え忍ぶようであり、萌えるようでもあり、時間が止まっているかのようでもあった。
 セミの逢引、遠くの陽炎は久しく忘れていた夏のイメージを鮮明に邑崎の脳に思い描かれる。見える風景は、遠くに山々の輪郭。その手前には商店街がある。観光地よろしく、お土産ややレストランが立ち並び――。
「お兄ちゃん、駅前まで迎えに来て」
 風景に見惚れていた邑崎の隣で、凛子が携帯電話片手に兄に電話している。二言三言会話をすると、凛子は電話を切った。
「待ち合わせ場所を決めよう」
 邑崎が言った。
「明日、どこかに待ち合わせよう。どこか都合のいい場所はあるか?」
 凛子は一瞬だけ邑崎を見ると、ぼそりと言った。
「岩畳の前にある『岩畳前』バス停」
「バス停? なぜバス停?」
「私がいつも使ってるバス停だから。バス停のベンチなら日よけになるし」
「……まあいいだろう。待ち合わせはそこでいい。時間は午前中がいいな。九時はどうだ?」
「もっと早い時間が良いです。七時」
「七時? まあ良いだろう、七時だな。都合が悪くなったら携帯電話に連絡しろ」
 凛子は頷いて見せると、遠巻きにやってきた車をみた。見知った車なのだろう。間違いない、兄の車だ。邑崎は腰を上げる。
「俺は行く。近くの旅館か何かに泊まってる。それじゃあな」
 凛子の返事を待たずに、邑崎は目の前の車道に向かって歩き出した。凛子の希望だが、邑崎の存在は家族に秘密にしたいらしい。確かに調査の存続を占えば秘密にしておいたほうが賢明かもしれないし、邑崎もぜひそうしておきたいが、別に気掛かりもある。
 車道の傍に立ちながら、邑崎は駅前にやってくる車を意識する。車は平凡な国産車。確かに若い男が乗っているが、内装を窺っても高級感は感じられない。装飾のかけらもない車内と、タンクトップ姿の兄の姿。一般的な中流以下の家庭だと想像できる。それ以上のことは分からない。車から降りた兄の表情はいくらかの緊迫感が見える。
「凛子、お前――」
「お兄ちゃん、ありがとう」
 明らかに兄は責めた立てるように何かを言おうとした。傍では邑崎が聞いているのを意識した凛子は、兄の言葉をさえぎるように言葉を重ねた。
「もう暑くって」
 兄は何も言わず、憮然と腕を組むと「まあいい。とにかく車に乗れ」とあごをしゃくって促した。凛子は促されるがままに助手席に乗る。立派なもので、凛子は一切邑崎に視線を向けない。車が来た道を引き返し、やがて見えなくなると、邑崎は懐からタバコを取り出し、火をつけた。旅館かホテルを取る必要がある。まずは腹ごしらえと思い、目の前に羅列する商店の数々を眺めた。
 
 
 
 駅から程近いレストランで昼食をとった後、電話で近くの旅館に予約を取った。それから本屋を見つけたので立ち寄り、地図を開いて岩畳前のバス停の位置を確認した。前もって場所の確認をしておこうと思い、割と近い、そのバス停まで向かうことにした。商店街をまっすぐ行けば荒川に突き当たる。
 都内の通勤ラッシュ時に比べれば、快適と思える人ごみを行き、途中にあったお土産屋で購入した扇子をはためかせながら歩いていくと、商店街を越えたあたりで荒川が見えてきた。
 通りの突き当りがコンクリートの下り階段になっており、やや遠くに見える階段の先が荒川である。ここから見るとコンクリートの階段や岩畳が白く見え、太陽光線を反射してひどくまぶしい。思いのほか岩畳と呼ばれる、要するに岩で出来た川岸は広く、凹凸の高低差があり険しそうだ。
 見下ろす形で流れる荒川は、対岸に茂った緑を反射して同じ緑色をしている。実際は無色透明の清流である。ラインくだりをしている船がところどころに窺え、歓声も邑崎のもとまで聞こえてくる。
 観光客が川を下っていくさまを見ながら、邑崎は階段の手前で止まる。目的は岩畳ではなく、近くのバス停である。地図で見た限りではこの付近である。邑崎は一旦道を引き返すと、運良くバス停に止まっているバスを発見した。
 川沿いの道であるが、バス停からは川と通りの間に茂っている樹林が遮って、川の様子は窺えない。道幅は広くない。観光地にできた一角の死角のような場所で、今は昼の陽射しがあたりを明るくしているが、左右を樹林に挟まれた通りは、夜ともなれば少々、おどろおどろしくなるだろう。
 邑崎はバス停を確認するとベンチとアクリルで出来た屋根が見えた。おおよそバス停として機能を果たしているようには見えない廃れようである。ベンチの塗装は剥げ落ち、腐りかけた板は、座った邑崎の体重を支えられるとは思えない。寂れていることを象徴するかのように、草木に侵食されたアクリル屋根の下は、丑三つ時の異世界のように暗い。
 それでもバス停としての役割は果たしている。なによりバスが停車のだから間違いない。邑崎はアクリル屋根が太陽をさえぎるエリアまでやってきた。
 凛子がここを待ち合わせにした。凛子の事情に、この場所が深く関わっていると想像するに容易い。凛子はここでレイプされたのか。確かに犯罪行為を誘発するような暗がりである。世間の死角。街灯の届かない夜の路地裏、有刺鉄線で囲われた廃屋、夜の公園の公衆便所、それらと似た雰囲気を持つ。
 四つの鉄棒が垂直に立てられ、その上にアクリルの屋根が載っている。一面だけベニヤ板の壁が設けられている。あるいは、凛子はここで万里夫に会ったのか。ここでレイプされている凛子を万里夫が助け出したのか。
 見る限り、廃れた雰囲気を感じるものの、とりわけ異常があるわけではない。ベンチの足に針金で空き缶が巻きつけられている。針金も空き缶も黒くさびて、商品だった時代の面影は無い。現在は灰皿の用途に使用されているようだ。邑崎は一服しようと思い、恐る恐るベンチに腰掛けると、正面の道路とガードレールをはさんで、樹林が生い茂っているのが目に映えた。
 このバス停には時刻表がない。視線をめぐらせると、邑崎の座るベンチの右手の壁に、黒い壁とほぼ同色の紙切れが貼ってあるのにきづいた。縦横のマトリックスが見える。おそらく時刻表であるが、雨風に晒されて変色した用紙の内容は読み取れない。
 寂れているだけだ。いくら捜しても異常は発見できない。邑崎はタバコに火をつけると煙を一口の見込み、思考をめぐらす。
 ――万里夫はここにやってきたのか。
 このバス停にやってきたわけでないにしろ、この町にやってきたのである。何の目的があって長瀞にやってきたのだろう。ここは有名な観光地である。目的があるとしたら観光のほかにない。だが不可解だ。万里夫は――。
 邑崎は今から二年前、交通事故に遭った。小さな交通事故である。青信号で横断歩道を渡っていた邑崎の横から、信号無視の乗用車が邑崎をはねたのだ。
 都内の住宅街の一角。大きな通りではない。車の運転手も、暴走したがる若者ではなかったし、忙しく外回りをする営業マンでもない。相手は中年の女性で、日ごろから安全運転を心がける近所の専業主婦だ。直前に掛けたフルブレーキのおかげで、自転車に当てられたくらいの衝撃だったし、したたかめにアスファルトに頭を打ち付けた程度だった。専業主婦はすぐに救急車を呼び、気を失っていた邑崎が目を覚ますまで傍に居た。
 その後、邑崎の頭の精密検査でも異常がないことが分かり、一晩の入院と一週間の通院で済んだ。その間、職場までやってきて邑崎を見舞う中年主婦に対して邑崎は心をほぐし、入院費と通院費の面倒だけ見てもらうことで示談を成立させた。今は何の関わりもない生活を送り、邑崎にも何の恨みもつらみもない。ただし、その日から邑崎の生活が一変し、何もかもが排他的な生活を送り出したのは間違いない。
 それから探し続けている万里夫。二年掛かって、プロの私立探偵が捜索したとしても、万里夫について分かったことは「何も分からない」ということだけなのだ。
 万里夫には何かある。中学時代、確かに同じ学校に通っていたはずの万里夫。しかし、当時の万里夫が住んでいた家は、現在はコンビニが立っており、以前住んでいたはずの緑川万里夫の住民記録は全く残されていない。学校の記録にも、邑崎の持っている卒業アルバム、写真の一切合財が何も残っていないのだ。万里夫の行き先を知る人物もおらず、邑崎の調査は難航した。万里夫の行方は故意に閉ざされているか、あるいは邑崎の頭がおかしいかのどちらかだ。
 万里夫など居ない。邑崎の幻想。邑崎が都合よく作り上げた記憶。そう思い始めてきたころだった。凛子が現れ、万里夫の名を口にしたとき、自分が狂人でないことを確信した。今まで住民登録や、万里夫が従事しそうな職業をあたったものの、まるで消息はつかめなかった。いくら探偵業を生業にしていようとも、スタートの情報がゼロの絶望的な調査は初めてであった。
 それが凛子の登場で一変する。万里夫を知り、会った事のある人間が向こうからやってきたのである。逃す理由はなかった。明日、この場にやってきた凛子はすべての情報を提供するという。それまでの時間がもどかしいくらいである。
 邑崎は吸い終わったタバコを空き缶に放り込んで立ち上がった。得るものは何もなかった。やはり明日、凛子に全てを聞き出さなければ何も始まらないようだ。
 邑崎は来た道を引き返し始めた。
 
 
 
 翌朝。明けきらない朝。山の上だからだろうか。六時早朝の荒川沿いの道は霧掛かっており、旅館を出て通りを歩くと、それだけで空気が肌にまとわりつき、小雨同等に髪が湿気を吸って柔らかくなった。だが、視界を眩ますほどの霧ではない。
 駅に程近い旅館を後にし、商店街を通るが人影はない。気温は低く、肌寒いとまではいかないが、汗ばむほど暑くない。昼間のにぎやかさとは一変して、息を潜めたかのような静寂。清清しさもあるが、これより対面する事実は少々耳障りなものかもしれず、邑崎の胸の内は霧同様に晴れはしない。
 自転車の新聞配達員が正面からやってきて、背後に去っていく。少ないながらも、早起きの人間が車で邑崎を追い越していく。人の営みから外れた地域であるわけではない。観光地といえども、そこに住む人の営みが毎日繰り返される。繰り返される変わり映えのしない日常の片隅に燻った悪夢。
 人が足元を気にもしないのと同じように、隅の方で隠れるように息を潜める悪夢にも、また無関心である。今日すれ違った人間たちの、いったい何人が死んだのかなど気にする者はいないし、歩くことで踏み潰した虫けらや微生物の数を気に掛ける人間も存在しない。指を弾く刹那の瞬間に死んだ人間。生まれた人間。
 行方不明者の現在。突然消えうせてしまった昔の友人の現在。事件に巻き込まれ、どこかに監禁されているのか。それとも借金苦に夜逃げしただけなのか。重大な罪を犯し、社会復帰のために別の姓を名乗っているのか。見ることの出来ない事実は存在していないことと同じで、邑崎の背後から追い抜いていく車もまた、邑崎を追い越し、視界に捉えられるまでは存在しない空虚なのである。
 空虚は見ることで形を確定し、知ることで現実となる。これから行く先。数日後か数年後か、たどり着いた先で発見し、何もない空間に模られる現実は、取り込まれてしまった闇なのか、夢なのか。
 バス停にたどり着く。バス停には一人の少女。二十メートルほど手前から、凛子がアクリル屋根の下のベンチに腰掛けて、目の前に広がる現実を見つめているのに気づいた。バス停沿いの通りは、左右に樹林に挟まれ、湾曲している。凛子のいる場所から左右を見たとしても、見える範囲はせいぜい二十メートルほど。
 誰の目にも触れられない空虚な世界になる瞬間が、多く訪れる場所だ。近づいてきた邑崎に凛子が気づく。凛子が泣いているのが分かって、邑崎は黙って凛子の隣に腰を掛けた。
「……ここに座っていると、思い出してしまいます。怖かった。悲しかった。誰も助けてくれなかった」
「襲われた場所は、ここなのか?」
 邑崎の問いに、凛子は機械仕掛けのように頷いた。ここが現場ならば、凛子がここで一人で待つことは耐えられない恐怖のはず。なのに約束の三十分以上前に、この場に一人で座していたのはどうしてなのか。
 その理由を、凛子は自ら語る。
「怖かったし、どうしようもなく悲しかった。でも、あんなに怖くて悲しくて、絶望的な出来事は、まるで無かったことみたいになってしまいました。何も無かった。何も起こらなかった。夢の中の話。妄想の中の話」
 凛子の意図する話の筋を、邑崎は掴めずにいた。
「日直って分かりますか? 分かりますよね。クラスで生徒たちが順番に勤める当番です。授業が終わったら黒板を綺麗にして、授業が始まる前には先生のところまで行ってプリントとか、教材を運んだりします」
「知ってるさ。俺だって学生だった時代はあるからな」
 凛子はしっとりと湿った視線を数秒間だけ邑崎に投げかけると、正面に向き直って話を続けた。
「その日、私は日直の当番でした。日直は男女組になります。組になった男の子は私の事を好きだった男の子。本人から聞いたわけじゃないけど噂で知ってた。私は好きじゃなかったけど、好きになってくれる気持ちは嬉しくて、少しその男の子と話しをしたり、ウサギ小屋の掃除を一緒にしたりしてあげたかった」
 おそらく、これから凛子が話しをする重要な部分とは何も関係ない話題であろう。邑崎は悟ったが会話に付き合った。
「好きでもない男に対して、話しをしたり掃除を一緒にしたりするのが楽しみだったのか?」
「はい。私を好きになってくれたのなら、何かしてあげたいと思いました」
 女性の持つ奉仕や慈善の気持ちだろうか。邑崎には思春期の少女の気持ちは理解できない。
「日直当番は朝早く学校に行って、ウサギ小屋の掃除をしたり、教室の花の水を変えたり、教室の机整理をします。朝、皆が学校に来る前に綺麗に机を並べるんです」
 凛子は必死に、核心的な話をしようと試みている。だが失敗し続けている。告白するにはあまりにも心の力を必要としたのだろう。
「学校に行くには、このバスに乗ります。高校まではバスで四十分くらい。普段は七時半くらいのバスに乗りますが、日直当番の日は、このバスの始発に乗ります。七時五分のバス」
 凛子は言葉を詰まらせた。凛子の頬は濡れている。悲しみではない。恐怖だ。邑崎の胸が詰まる。喋らなくていい。思い出さなくていい。邑崎の口から出掛かる言葉。
「今、周りを見てくれれば分かりますよね」
 凛子の声が震えている。小さな肩が小刻みに震え、見ていられないほど痛々しい。釣られるように邑崎の動悸も激しくなる。凛子は胸を大きく上下させ、必死に息をつく。
「普段、始発のバスには誰も乗っていないし、ここから誰も乗りません。見ての通り、車も人も通りません。誰もいません。助けてくれる人はいませんが、悪いことをする人もいません」
 周囲が明るさを強めてくる。太陽光線に退けられるように、空間をおぼつかせていた朝霧も立ち退きを始める。鮮明になりつつある風景。見えなかった風景が、明るみに這い出てゆく。
「バスは時間より、少し早く到着しました。そんな日もあります。信号にうまくぶつからなければ、バス停には早めにやってきます。その日はいつもより五分くらい早かったです。私はバスに乗り込みました。いつもと同じバス。行き先も間違いありません。ただ、いつもと違ったのは、乗客がいたことです。いつもはいない、男の人が五人……」
 凛子の言葉尻は消え入りそうに掠れた。成熟しきらない小さな身体。その中にいったいどれほどの悲痛を抱えて、心はどんな風に壊れてしまっているのか。ここで胸のうちを打ち明ければ、少しは凛子の心は救われるのだろうか。
 凛子はいったん口を閉ざしたまま、黙り込んでいる。凛子は目を丸くして、目の前のアスファルトを睨みつけていた。目には涙の膜が張り、口元は呪文を唱えるかのようにわなないている。額には粒の汗がにじみ、死人の様に青ざめた顔に、紫色の血管の筋が浮かんでくる。
 凛子の歳は十六歳だったか。まだ少女だ。少女が死を選ばないのは、単純に未熟であったからに他ならない。凛子の表情は苦痛だらけだ。もう止めるべきか。だが止めるすべを邑崎は思いつかない。心の知れない少女に、肩を優しく抱いて「もういいんだよ」と優しく呟けばいいのか、このまま全て吐露したほうが、彼女のためになるのか。どちらの選択も邑崎にはまったく自信がない。
 彼女を救ったという万里夫。――同じだ。俺も万里夫に救われた。万里夫と同じように、邑崎には少女を救う自信は無かった。
「私は一番前の席に腰掛て……」
 凛子が再び口を開く。断末魔のうめき声のような声。少女は今、首を絞められるに等しい苦痛を抱いている。邑崎は拳を作って、ひざの上に押し付けた。
「すぐにバスは出発して……いつもの道を……」
 その時、バス停にバスがやってきた。バスは停留所で待つ二人を発見し停車した。油圧式の運転手の入り口が開き、さあ中に入れと促している。運転手の姿が見える。男である。凛子を蹂躙した男のわけはないだろう。邑崎は乗る意思が無いことを運転手に伝えようとすると、凛子が邑崎の腕を掴んで止めた。凛子は立ち上がると、強烈な腹痛を耐えるような表情で「乗ります」と言った。
「凛子、乗る必要はない。乗らなくても話は出来る」
「乗るためにこの時間に待ち合わせたんです」
 だから、それは何のためなんだ。邑崎の思いは声にならなかった。少女の悲痛な意思は充分伝わってくる。どうするべきか、決めるのは邑崎ではなく、全ては凛子に決定権がある。凛子は物言わず、バスの入り口に足を掛けた。凛子の後ろで、邑崎が様子を注目する。ためらわず入り口に立った凛子は車内を見渡している。外にいる邑崎に乗客の有無は分からない。同じ悲劇がもう一度起こることなどありえない。今乗り込んだバスに見知らぬに男の乗客が五人。――そんなことは、ありえるはずはない。だが、そう分かっていながらも恐怖があるはずだ。いま凛子が、問題の場所で問題の時間にやってきた問題のバスに乗り込むなど出来ることのほうが、ありえないと思った。邑崎に知識はない。だが、ゼロではない。トラウマとは――。
「乗らないんですか?」
 促してきたのはバスの運転手である。運転席から、バス入り口で立ち尽くす邑崎に対し、訝しげに眉を顰めている。
「すみません。乗ります」
 慌てて乗り込む邑崎。車内に人はいなかった。ただ一人、凛子が最後部座席に座して、邑崎のことを見ている。邑崎は凛子に踏みよって、隣に座ったところでバスが発進した。車内に響くアナウンス。次の停車駅と、地域の観光名所を紹介している。前から後ろに滑っていく窓の外の景色。車内に冷房は効いていないようだ。朝の気温の低さのせいだろう。
 凛子は無表情に戻っており、汗も引いている。震えている様子もなく、まるで隣にいる邑崎の存在を忘れ去ってしまったかのように寡黙に取り澄ましている。邑崎も口を開かない。空気のように凛子の隣に座っている。凛子が口を開いたのは、バスが次の停留所に停車せず、アナウンスが次の停留所の案内をし、次に車内が静まり返ったころだ。窓の外に見える風景は、すでに夜が明けた朝の風景そのもので、人々が活発に動き出している。
「今、女の人のアナウンスが終わって、道が直進になって静かになったときです。私はあそこ、運転手さんのすぐ後ろの席に座ってました」
 凛子は力のない腕を、ゆるゆると持ち上げ、座っていたという最前列の席を指差す。凛子が最後部座席を選んだのは、車内が一望できる場所だからだろうか。
「私は何も感じなかった。悪い予感とか、虫の知らせとか。このまま学校に行って、私のことを好きな男の子と会話してあげて、少し喜んでもらう。そんなことを想像してました」
 顔色に変化がない。バスに乗る前の蒼白な表情はなりを潜めている。少女の思惑が邑崎には想像できない。
「少しの悪い予感も感じないまま、あの人たちは私に近づいてきてた。最初は二人。スーツ姿のおじさん。お腹の出っ張った、白髪混じりのおじさん。もう一人は大きなメガネをかけた痩せた大学生風の人。髪の毛が脂ぎっててかてかしてた。私が何かの気配に気づいたのは、私の後ろの席に若いメガネの大学生が座ったときでした。不自然ですよね。車が動き出してから、バスの中で席を移動する人なんていない。私は少しだけ気になりました。だけど怖いとか、嫌だとか思いませんでした」
 淡々と話を続ける凛子。邑崎は同じ時間、同じバス、同じ場所で起こった悲劇を聞き、前方に見える最前列の席に座る凛子と近づいていった中年男と、大学生風の男を想像した。想像は現実の映像のように、目の前の風景にダブって見えた。
「私の後ろから、お腹の出っ張ったおじさんが私の口を塞ぎました。私はびっくりして悲鳴を上げました。でも、おじさんの力は強くて、私には振り解けません。お父さんくらいの歳のおじさんは、私の耳元で『しい』と呟きました。次に私の目の前に大学生風の男の人の顔が見えて、人差し指を唇に当てて、やっぱり『しい』と言いました。私のお兄ちゃんくらいの歳の大学生の人は、髪の毛の油の臭いがしました」
 口調も表情も鷹揚としている。凛子の気心が知れず、邑崎は凛子に対して戦慄を覚えた。肌が粟立つと同時に、少々寒くなる。
「突然、私の後ろから口を塞いでたおじさんが『だまれ』と怒鳴りました。私はびっくりして動けなくなりました。とても大きな声で、私の耳は一瞬、何も聞こえなくなりました。何も聞こえなくなると、目に見える風景が、なんだがスローモーションみたいに思えて、夢でも見てるのかと思いました。でも夢じゃない。大学生風の男の人は、私の両膝を触りました。最初はくすぐるみたいに撫でまわします。鳥肌が立って、気持ち悪くなりました。私が気持ち悪そうな顔をすると、大学生の人は目を大きくして笑いました」
 凛子の話は鮮明に邑崎の頭の中で具現化され、ひどい嫌悪感が胸の奥で渦巻き始めた。凛子の目的は、自分に起こった悲劇を、邑崎にも体験させる気なのだろうか。そうだとすれば、それは半ば成功している。
「大学生の人は、突然力を込めて私の両膝を左右に開きました。私は驚いて足を閉じようとしましたけど閉じれません。力がすごく強いんです。どうにかして逃げたかったけど、後ろから抱きつくおじさんの力も強いんです。私は蛇みたいに身体をくねらせれば逃げられるんじゃないかと思って、必死に身体を捩じらせました。そしたら、おじさんが『たまらん』と言ったんです。おじさんの息が私の顔に何度もかかって、私は本当に嫌で、気持ち悪くて、おじさんの指を噛みました。おじさんは悲鳴を上げて手を離しました。私は思い切り悲鳴を上げました。助けてと悲鳴を上げて、車の後ろのほうを振り返ったんです。見えました。三人の男の人。一人はスーツ姿のおじさん。でも新聞ばかり読んでて、私のことを見えてないみたいに無関心。もう一人、高校の学生服姿の若い人も、窓の外をぼんやり眺めてばかり。もう一人、お爺さんが居ました。八十歳くらいのお爺さんですけど、眠りこけて、私がいくら悲鳴を上げても目を覚ましてくれません」
 夢か現か。凛子の話は事実なのか。虚言癖を発症するのも、このくらいの思春期だろう。少女が思い描く、こうありたいという不幸で可愛そうな少女を、想像の中で作り上げてしまっただけなのか。
 ――俺も同じことを思ったはずだ。
 万里夫を探す過程の中で、記録上、最初から存在していなかったように跡形もない万里夫の存在が、自分の作り出した虚像なのではないかと疑いだしたとき、自分は間違ってなかった現実を証明してくれたのは紛れもなく隣に座る小さな少女だ。
 少女は子供のように身長が低い。だが胸が大きい。大きな瞳に可愛らしい童顔。見てくれの清純に惑わされる邑崎ではないが、凛子の話は信用に値すると思いたい。確信ではなく願望だ。
「メガネの人は、私の股間をずっと見てました。ずっと、ずっと見てました。私は自由になる手で必死に見られてる場所を隠しました。でも、指を噛まれたおじさんが怒ったように私の腕を掴みます。やめてください、って何度も言いました。でも、おじさんが怖いことをたくさん私に言うんです。殴るとか、殺すとか、海に捨てるとか。私はおじさんの言葉を信じたし、殴られるのも殺されるのも海に捨てられるのも嫌だった。なんども謝ってると、いつの間にか傍に来てたスーツ姿の人が、私の胸を掴んだんです。物凄い力で掴むので、胸が潰れてしまうと思って、私は悲鳴を上げました。運転手さんは私の声が聞こえてるはずなのに、バスを運転してます。窓の外は、いつも見る緑や建物やお店」
 邑崎は酸素が足りない気がして、鼻から大きく息を吸い込んだ。
「窓の外と、バスの中は別の世界で、バスの中は地獄。窓の外はいつもの日常。私は窓の外に行きたかった。そうすれば助かると思った。しつこく胸を触られながら、窓の外を見てました。怖かったのが、本当に怖かったのが、スーツ姿の人が、大きなハサミを出したときです。私は胸を切られるのだと思いました。スーツ姿の人は、ちょきんと私の胸を切りとって、家まで胸を持って帰るのかと思いました。やめてと叫びましたが、スーツ姿の人の顔は、なんだか迫ってくるような真剣な顔に見えて、本気だと思いました。でも、スーツ姿の人がしたかったのは、私のブラジャーを切ることです」
 バスは走り続けている。凛子の話はリアルタイムなのだ。それを意図して、凛子は話し続けている。
「スーツ姿の人は、学生服姿の人を呼びつけました。学生服姿の若い人は、少しおどおどしてて、心配そうに近づいてきました。私はメガネの人が股間を見つめて、おじさん二人が私の胸をいじくる現状を見て、学生服姿の人が私を助けてくれるんじゃないかと思いました。それは、私のことを好きになってくれたクラスメートを連想したからです。でも、違いました。スーツ姿の人が、学生服の人に言います。『ほら、見たことないだろ』って。『見せてやるからこっちに来い』というと、学生服の人は走ってきた後みたいに息を付いて、私のことを見てます。その人の目は、私のことを、まるで人形でも見ているかのように思えました。助けてくれない、そう思いました。スーツ姿の人が、私のブラジャーの真ん中にハサミを通すと、ぱちんと切りました。切れたブラジャーを左右に分けて、私の胸がみんなに見られました。スーツ姿の人は、学生服の人に『触っていいぞ』と言いました。私の胸なのに。私は良いと言ってないのに」
 邑崎は凛子の話に聞き入っている。そのスーツ姿の中年、メガネの大学生、学生服の青年、中年太りの男が何者なのか、そんな疑問さえ浮かんでこない。
「学生服の人は、私の胸を触りました。やめてくださいと何度も言いましたけど、学生服の人は取り付かれたみたいに私の胸を触ります。両手で両方の胸を触って、寄せたり、分けたり。その時、メガネの人がハサミを受け取ると、私のパンツを切りました。真ん中から切って、私の股間を、みんなに見られました。恥ずかしくて、気持ち悪くて、もう許してほしくて、悲しくて、辛くて、苦しくて、何をしたら許してくれるのか、必死に考えました。舌を噛んで口から血を流したら、驚いて許してくれるかもしれないとか、死んだふりをしたら驚いて許してくれるかとか、でも、どれも実行できない。怖くて仕方が無かった。嫌な思いをたくさんさせられた後、殺されることが恐ろしくて仕方がなかった」
 バスの運転手に、今の会話は聞かれているのか。バス内はエンジン音が響き、距離のある運転手まで声が届く心配はないだろうが、バックミラーで運転手は車内の様子を窺うことは出来る。今、凛子は取り澄ましながら話を続けているが、いつ取り乱し、いつ泣き出すのか。
「突然、舐めたんです。汚いとか、不潔だとか思わないんでしょうか。私の股間を、飴玉か何かと勘違いしたみたいに、メガネの人が獣みたいに唸り声を上げて舐めるんです。『気持ち良いか』と、荒い息遣いでおじさんが尋ねてきます。気持ち悪いだけです。私が首を横に振ると、スーツ姿の人が突然怒り出して、私の髪の毛を掴むと、乱暴に振り回して『気持ち良いだろうが』と怒鳴りました。私が慌てて『気持ち良いです』と答えると、スーツ姿の人は髪の毛から手を離してくれました。学生服の人が私の胸を口で吸ってきます。赤ん坊みたいに。気持ち悪かったですけど、怒られるのが怖いので我慢しました。気づくと、お爺さんは目を覚ましていて、私の隣で裸になっていました。異様な感じがして、私は吐き気がしました。優しげな顔をしてるのに、お爺さんのあの目は忘れられません。世の中のお爺さんはみんな女の子には優しいと思ってたのに。私のお爺さんはいつもわがままを聞いてくれて、優しく頭を撫でてくれたのに」
 身の回りに居る家族。両親や祖父母。兄弟。現在の凛子からそれらの人物は一体どのように見えているのか。凛子から見える世界。邑崎には想像を絶する世界が広がっているのか。
「お爺さんの股間が大きくなってました。怪物のように見えました。痩せて皺だらけで滲みだらけの身体。でも何か突き出てる。私にはない部分。スーツ姿の人がおかしそうに笑うと、私の手を掴んで、お爺さんの大きくなったところを掴まされました。やわらかくて、薄い皮が移動する嫌な感じ。水風船を思い出しました。私の手を強引に動かして、お爺さんの大きくなった部分を刺激すると、お爺さんは変な声を上げて、先っぽから何か出しました。嫌な臭いのする液。生臭い液。私の手に付いて、糸を引いてる、あの気持ち悪い液体」
 凛子は手のひらを顔の前に広げる。イソギンチャクのように動かして見せる。
「学生服の人が、突然ズボンを脱ぎ出して、下半身裸になりました。お爺さんと同じです。私には付いてないものが、突き出してます。でも、お爺さんのとは違う。もっと水風船というよりは棒のような感じで。学生服の人は、何も言わずに突き出したものを私に近づけて、突きつけてきます。私が顔を背けると、スーツ姿の人がまた笑って『どうした、どうしてほしい』と学生服の人に尋ねています。『口でしてもらいたいか』という言葉が聞こえると、私は嫌な予感がして、悲鳴を上げました。口の中に、あの臭いやつを入れられると思うと、気持ち悪くて仕方がなくなりました。私が拒んでいると、私の股間を舐めていたメガネの人が舐めるのをやめて、指を私の中に押し入れました。とても痛くて、痛いと悲鳴を上げると『これじゃ噛み切られちまうな』と言って、口に入れられるのはどうにか許してもらえました。でも、学生服の人は納得いかなそうにしてます。私の胸ばかりをずっと触ってたおじさんが『ならお前が一番で良いよ』と言いました。なにが一番なのかと思ってると、メガネの人が『仕方ないな』と言って、私の股間から退きました。私は身体を縮めて丸くなったけど、後ろからおじさんが私の両膝を掴んで、子供におしっこをさせるみたいに持ち上げたんです。私の目の前にやってくる学生服の人は、突き出したものを私の股間に当てます。私の股間の辺りで擦れるのが分かって、私は一番暴れて、どうにか逃げ出そうとしました。私の足を掴んでるおじさんの腕を噛み千切っても逃げようとしました。でも、本当に駄目なんです。本当に力が強いんです。スーツ姿の人が、学生服の人の突き出たものを弄ると『ここだ』といった次の瞬間、私は股間の激痛に悲鳴を上げました。すごく痛くて、股間の中で色んなものが音を立てて裂けるような気がしました。学生服の人は私が痛がろうと、悲鳴を上げようと、同情もしてくれません。それどころか、もっと痛がらせてやろうと、何度も私の股間を突いてきます。学生服の人は泣き出したかのような声を上げると、痙攣したように動くのをやめました『中に出したのか?』という声が聞こえた後に、すぐにスーツ姿の人が、同じように突き出たもので私の股間を突き始めました。私はその間、おじさんに全身を嘗め回されて、学生服の人に、しつこく口の中に舌を入れられました。悪夢のようでした。もう、この悪夢が早く割ってくれることをじっと我慢しながら待ちました。最後に、お腹の出っ張った男の人が、突き出たものを私の口の中に無理やり入れました。私が口をいっぱいに広げて、やっと入るくらいの大きさで、あごが痛くて仕方なくて、あの臭い液を入れられるのかと思うと、気持ちが悪くて仕方が無かったです」
 本当に、凛子は自分の話をしているのか。あまりにも淡々としすぎては居ないか。だが、その様子がありえるのか、ありないのか、邑崎には分からない。極限の恐怖と悪夢を味わった人間の心理が邑崎には想像が及ばない。
「私の全身が生臭い液でべとべとでした。私のことに興味がなくなったスーツの人と、メガネの人、お腹の出っ張ったおじさんと、お爺さんは、私の傍を離れて、何か会話してました。でも、学生服の人だけはいつまでも私の胸を触ったり、口の中に舌を入れたり、股間に自分の股間を入れたり出したりします。いい加減にしろと、スーツの人が怒ると、ようやく学生服の人はやめてくれました。私は男の人たちに全身をタオルで拭かれ、服を着せられます。私の目的地の学校まで来ると、私は立たせられ、バスを降ろされました」
 そこまで話した凛子が、おもむろに邑崎を見る。覗きこむような視線だった。聞き入っていた邑崎は、現実に戻ってきたような気がして、瞬きした。凛子は邑崎の臭いをかぐように顔を近づけてくる。このままでは邑崎と凛子の顔が重なる。唇が触れ合う。邑崎は凛子の両肩を掴むと唇が触れ合うまえに止めた。
「邑崎さん」
 尋ねるように凛子が聞いてくる。そして、出し抜けに凛子は邑崎の股間を掴んだ。びっくりして、凛子を引きはがす邑崎。凛子は無表情で邑崎を見ている。
「勃ってる」
 一瞬、邑崎は凛子の行動に戸惑いを隠せなかった。だが、次に沸き起こったのは憤怒だ。凛子の行動と言葉は邑崎の尊厳を傷つけ、羞恥に至らしめられた。瞬時に沸点まで達した邑崎は、思わず凛子の頬を平手で殴打した。殴打した瞬間後、したたかに事態を後悔した。凛子は殴られた頬を手で押さえると、邑崎に非難の目を向けることも、憎しみの一瞥をくれることもなく、殴られて座席に伏したままの体勢で呟いた。
「男の人は、私が死んでしまうのかと思うくらいに怖くて辛い思いをして話ししたとしても、ただ興奮して勃起させるだけ。私の事、可愛いと思いますか? そんなにセックスしたいですか? 私が触ったとき、気持ちよかったですか?」
 人にこれほどまでに衝撃を与えられることなど、邑崎の人生で起こったことなど無いし、未来永劫、ありえる予定ではなかった。
 凛子の意図を悟った。凛子は邑崎を試したのだ。凛子の告白に、凛子の言った通り一物を硬くする人間か、本当に自分の味方になってくれる人間か。そのために、リアルタイムの同じ現場に邑崎を招き、話を聞かせたのだ。凛子の取り澄ました態度は、邑崎を試すと言う思惑があったからだ。
 そうだとしても……。邑崎を試すだけのために、自分の心の傷を乱暴にかき回す行為さえいとわないというのか。自分が悪夢をもう一度体験するに等しい告白を、邑崎を試すという目的のためだけに。
 凛子が人を信じるということは、すなわちそういうことなのだ。全てを投げ捨てなければ、人一人信用できない。同時に、万里夫に会う、そのことの少女にとっての重要性と、ただならぬ決意。これほどまでに、邑崎は人の心に触れたのは初めてだ。
 ――俺は、凛子を蹂躙した男たちと同罪か。
 凛子は座席に伏したまま、顔を上げようとしない。邑崎が座席の背もたれに寄りかかったとき、車内アナウンスが凛子の高校の前までやってきたことを告げた。邑崎は降車ボタンを押した。次でバスを降りる。
 ――万里夫を探し出す。
 そのことは邑崎が考えるより、はるかに重いことなのかもしれない。凛子は邑崎の目的を知らない。万里夫を探し出し、一体どうするつもりなのか。それを凛子に話して聞かせるときが来るのかどうか。
 
 
 
 バス停は、凛子の通う高校の正門前で停まった。二人を吐き出したバスは再び空腹になり、走り去った。高校の周囲は水田地帯に囲まれ、背景は青々とした山々が聳えている。畑仕事に繰り出してくるにはまだ早いようで、水田は無人であるし夏休みの学園に人の気配はない。正門から窺える校舎は、見た目も真新しいコンクリート造りの校舎と、由緒正しい木造校舎が並んでいる。正門入ってすぐに聳え立つ時計台は七時二十分をさしている。凛子は殴られた頬を押さえながら、俯いている。セミが今日初めての鳴き声を上げた。一匹のセミが声を上げると、呼応するかのように音はたちまち空間を埋めた。虫たちも、ようやく今日を始めたようだ。
 凛子がおもむろに歩き出す。主導権は凛子にある。邑崎は黙って付いていく。凛子は校舎内に立ち入っていく。夏休みの閑散とした学園。さすがに田舎の学校だけはあり、校庭は広々としている。サッカー場のフィールド二つは入るだろう。その校庭に夏休みの中、部活動にいそしむ野球部員もサッカー部員も居ない。あるいは校内には活動している文化部の人間、教師たちが居るかもしれない。凛子はこの高校に在籍している生徒なのだから、入り込んでも問題にはならないだろうが邑崎は違う。
 正門を入り、正面の校舎までの中庭を歩く。正面は校舎である。おそらく新設の校舎には職員室、図書室、保健室などの共用施設の校舎だろう。生徒たちが勉学に勤しむのはおそらく隣の木造校舎。凛子は校庭のほうに歩いていく。新校舎と旧校舎を繋ぐ渡り廊下を横切り、教室が羅列する木造校舎の側面にある植木畑の前にあったベンチに腰を下ろす。そこからは校庭が一望できる。
 まだ日は低いが、そのうち上った太陽が照り付ける灼熱地帯になる。邑崎は冷静さを取り戻し、少し考え事に耽った。凛子の話の中に、果たして万里夫へつながるヒントはあったのだろうか。
 おそらく、あった。なにより凛子の話は不可解極まりないのである。重要なことだ。凛子の話は、まるでアダルトビデオで男が喜びそうなシチュエーションである。現実ではありえず、願望の中でだけ存在する暗闇。それが現実に起こった。異様な現実。普段ではありえない。森の中に拉致られて暴行を受けたわけではない。人のいない廃屋の中の出来事ではない。
 公共の場。バスの中。どういうことなのか。邑崎が短絡的に行き着く結論が、もし現実のことであれば、これほど恐ろしいことはない。冷静になった邑崎の頭は、いろいろな疑問を生み出していく。不可解な、起こりえない悪夢であろうと、現実に起こったその出来事には当然登場人物が存在する。中年太りの男。メガネの若い男。学生服の男。スーツの男。老人。そして、忘れてはならないのが運転手だ。正規の運転手が車内の異常を見過ごすわけはないし、乗客すべてが偶然に性犯罪的な衝動を起こし、突発的に同盟を組むはずがない。
 邑崎は凛子を見る。凛子は明らかに邑崎に心を閉ざしている。心を開かせる必要はない。凛子は縁もゆかりもない少女。余計な思い入れはする必要がない。少女の悪夢を聞いて心が痛むのは確かであるし、彼女の苦痛を少しでも和らげることが出来るのならば、何かしてあげたい気持ちがある。そうだとしても、邑崎の現実とは、別の場所で起こった現実。接点はない。自分が何かを背負う必要はないし、背負ったところで邑崎に少女を救える力などありはしない。
「凛子。俺は話を聞いて、お前の期待通りの思いは抱いていないだろう。俺はお前に同情は出来ても、同じ痛みを感じてやることは出来ない。でも、お前がいま一番望んでることは叶えてやる。万里夫に会わせてやることは出来る。お前を万里夫に会わせるまで依頼を終えたりしない。約束しよう。だから俺を許せ、凛子」
 凛子は邑崎を見た。凛子は何も答えなかった。凛子は抑えていた頬から手を離し、ひざの上に手を戻した。
「私はバスから降ろされた後、それでも日直の仕事をしようと思って、ここまで来ました」
 凜子が再び話を始める。それが邑崎の言葉への返事なのかどうかは分からない。
「ウサギ小屋の掃除をしようと思ったけど、ウサギ小屋までいけなくて、このベンチに座り込みました。いろんなことを考えました。今起こったことは何だったのかとか、いま私が感じてる辛い気持ちは何なのかとか、私の乱れた服と、この嫌な臭いを他人に悟られないためにはどうしたらいいか。落ち着かない気持ちで、この場所でそわそわしてると、ひとつ気づいたんです。私のことを好きでいてくれていると思ってた日直の男の子は、約束の時間になっても、まだ来てないんです。私のこと好きなら、きっと約束の時間より早く来て、私のこと待っててくれるはずですよね。あんな状態で誰かに会いたくなんて無かったけど、でも日直の当番なのに、私のことが好きなはずなのに、来なかった男の子のことを考えたら、とても悲しくなってこの場で泣きました。両手で顔を押さえて、絶対に声に出さないように泣きました」
 さきほどの調子だ。バスの中と同じ。取り澄ました態度。それでも微妙に違う。涙は流していないが泣いている。
「私が泣いてると、足音が聞こえたので、私はどうか、歩いてきた人が私に構わず何処かへ行ってしまう事を祈りながら、ずっと顔を伏せてました。だけど、放っておいてはくれませんでした。私に気付いたその人は、私に近づくと『どうしたの』と声を掛けてきました。その人が、万里夫さんです」
 邑崎は、万里夫の現在の容姿、体格、声や髪型などを詳細に尋ねたい気持ちを押さえ込んだ。今は黙って凛子の話を聞くのが得策だろう。
「万里夫さんは最初、心配そうに私を見てました。私の服装は乱れてなかったし、ただ泣いていただけだから、きっと最初はちょっとした悲しい出来事があって、悲しんでるんだろうくらいの気持ちだったと思います。私はその時、万里夫さんが凄く煩わしかった。放っておいてほしかった。いなくなってほしかった。でも万里夫さんは私の隣に座ると、もう一度『大丈夫?』と尋ねてきました。私は少しだけ顔を上げて万里夫さんを見ました。万里夫さんは竹箒を持っていました。ねずみ色の作業着を着ていて、深く帽子を被っていたものだから、私は怖くなって、何もされませんようにと祈りながら硬くなってました」
 用務員。学校にいる、雑用をこなす用務員だ。万里夫はこの学校に就職していたのか。
 現在は? もう、いないのだろう。学校に残っていれば、わざわざ凛子が万里夫を探してくれと、邑崎の元にやってくるはずもない。
「万里夫さんは気付きました。私に何があったか。どうして気付いたのか。体中に染み付いた、あの生臭さに気付いたからだと思います。万里夫さんはしばらく何も言わず、帽子を脱ぐと額を撫でていました。そのうち、万里夫さんは『警察に行くか?』と聞いてきて、そのとき、私はなぜかひどく悲しくなって、耐え切れなくなって声を出して泣きました。万里夫さんは困ったように泣き顔みたいになって『ごめん』と何度も言いました。私は万里夫さんが怖かったので、謝ってくれるより、早くどこかにいなくなってほしかった。でも、万里夫さんはどこへも行かず『もうすぐ、先生方や生徒たちが登校してくるよ』と言いました。私は胸が鉄の固まりになってしまったような気がして、凄く苦しくなりました。息が出来なくなって、全身から汗が噴出して、おしっこがしたくなって、体中の皮を剥かれたみたいに、全身が痛くなって、どうしようもなくなりました。万里夫さんは、どうしてそんな意地悪なことを私に言うのだろうと思いました」
 万里夫に会っている。実在する万里夫に会っている。二年間、全く掴めなかった万里夫の足取り。
「万里夫さんは『みんなに見つかりたくなければ、用務員室に行こう』と言いました。割れたガラスを拾い集めるみたいな、おどおどした声で、万里夫さんも怖がってると思いました。私は顔を上げられなくて、立ち上がれなくて、何も出来なくて、自分のことが何も分からなくて、胸の中で膨らんでくる嫌なものが外に出てくれなくて、どうしたら良いか本当に分からなくて、ただ両手で顔を隠してるしかなくて、万里夫さんが一回いなくなってることにも気付きませんでした。いなくなって、もう一度戻ってきた万里夫さんは、持ってきた毛布を私に被せてくれました。毛布で、私のことを全部覆い隠してくれました。頭から体全部に毛布をかぶると、なんだかたった一人になれた気がして、私の体に染み付いた嫌な臭いも、外に漏れなくなった気がして、私は顔にくっついて離れたなかった手を、顔から放してみました。顔に空気が当たると、とても不安で怖くなります。なぜだか分かりません。顔を両手で追ってることが、何かから防御してるみたいな気持ちです。でも、その役割を毛布がしてくれてます」
 邑崎に少女の気持ちを理解してあげることは出来ない。だから、掛けるべきふさわしい言葉もまた、思いつかない。万里夫はそのとき、少女に対して最良の行いをしたのだろう。
「万里夫さんは『行こう』と、凍えたような声で言いました。幽霊みたいな声でした。怖がってます。万里夫さんは私が怖いんです。私のことを怪物だと思ってます。私は立ち上がろうとしてみると、足ががくがくします。足の関節がいっぱい増えてしまったみたいでした。うまく立てません。どうしてか分かりません。私は万里夫さんが私に触れてくるのではないかと不安になりましたが、何もしません。万里夫さんは私に触れたら、殺されてしまうと思ってるみたいでした。だから、立ち上がった私に向かって『こっちだ』と手を叩きます。私は頭から毛布を被っていたから周りは何も見えません。スイカ割のときみたいに、万里夫さんは手を叩いて私を誘導します。私は万里夫さんの声と、手を叩く音を頼りに歩きます。時々段差があると、万里夫さんが知らせてくれます。それでも段差につまずいたり、壁にぶつかったりしながら、私はやっと用務員室に付きました。万里夫さんは私を怖がっていました。だから、私は用務員室に入るのが怖くなかった。私は誰にも見えない場所にいけると思うと、少しだけ安心しました。ほんの少しだけです。あとはぐちゃぐちゃに潰れてしまった胸の中が苦しくて仕方なかっただけです。もう、一生直らないと思いました。一生苦しいままだと思いました」
 万里夫に出会った凛子は運が良かった、と言えるのか。不幸中の幸いなどという言葉が陳腐に思える。果たして四肢をなくして、光や音、味覚や触覚を失った人間がいたとして、かろうじて命を繋ぎとめたとしても、そこに幸いなどありえるのか。それでも生きてさえいれば……。
 それは考えてはならない禁断の領域か。触れてはならない禁忌の暗闇か。
「万里夫さんは『僕は仕事に行ってくるから、二時間は戻らない。シャワーも飲み物も食べ物もあるから』と言って、用務員室を出て行きました。用務員室のドアが閉まって、しばらくじっと音を聞いてました。いなくなると言っておきながら、影でじっと身を潜めてるんじゃないかと思って、私は毛布から出ることが出来ません。私はそっと毛布の隙間から用務員室を見ると、誰も居ませんでした。私は顔だけ毛布から出して、しばらく部屋の中を見ていました。畳の狭い部屋は日が入らなくて、少し暗いです。テレビと丸いテーブルがあって、あとは何もありません。台所の隣にドアがあって、そこがトイレかバスルームだと思いました。私はシャワーを浴びれば、少しは汚いものが洗い落とせるかと思って、ぜんぜん気が進まなかったけれどシャワーを浴びました。何度も何度も体中を擦って、赤くなって血が出てくるほど擦りました。全身の皮を剥いでしまいたかったです。私は股間が痛くて、ちゃんと洗えないのが悲しかったです。シャワーを当てただけでも涙が出てきそうでした。口も何度もすすいで、顔も洗面所にあった軽石で何度も擦って洗いました。顔も身体も血だらけになって、血が排水溝に流れていくと、なんだか汚いものも洗い流されていく気がしました。でも、いくら表面だけ洗っても、中身がぜんぜん綺麗にならない気がします。体全部入れ替えられたら、どんなに嬉しいだろうな、って想像しました。私はバスタオルで身体を拭くと、バスタオルが真っ赤になって、万里夫さんに怒られるのが怖くなりました。怒られる前に出て行こうと思ってバスルームを出ると、万里夫さんが丁度帰ってきたところでした。私は裸を見られて、恥ずかしいと思うより先に気持ちが悪くなって、その場で吐きました。私のことを見て、万里夫さんはひどく慌てて『なんてことだ』と何回も言ってました。壊れたラジカセみたいに『なんてことだ、なんてことだ、なんてことだ』って、何回も、何回も。私は全部吐き終わると、万里夫さんが私の首筋を掴みました。私は悲鳴を上げたかったけど、万里夫さんの顔が物凄く痛そうで、辛そうで、物凄く泣いていたので、意味が分からないって気持ちと、怖い気持ちで口が聞けなくなりました。それから万里夫さんは私の顔を掴んだんです。プロレスの人が、米神を掴んで攻撃するみたいに、私を目隠しするように掴みました。私はやめてと言いましたが、万里夫さんはやめてくれません」
 間違いない。万里夫は試みたのだ。試みてなお、凛子が告白を続けている現実がある。
「殺さないで、と私が言ったとき、万里夫さんは手を離してくれました。万里夫さんは全身をぶるぶる振るさせて、顔中から水を噴出して辛そうにしています。手のひらで何度も何度も顔の水をふき取って、ひいひいと泣いてます。どうして泣いているのか、ぜんぜん分かりません。『自分を傷つけちゃ駄目だ』と言った万里夫さんは、押入れみたいなところから救急箱を取り出して、私の体中の傷を消毒してくれました。軽石で擦りすぎて、赤い皮の下が見えて、血が止まらない場所には包帯を巻いてくれました。万里夫さんはどこからか持ってきたジャージを私に差し出して、着るように言いました。万里夫さんがそっぽを向いてる間に、私はジャージを着ました。あの、生臭い臭いはしませんでしたが、私の鼻の奥にはまだ液が残っていて、呼吸をするたびに生臭さがします。私はなにか棒がないかとあたりを見ました。棒を鼻にさして、液を掻き出したかった。テーブルの上にあったボールペンを掴むと、先端を自分の鼻の穴に向けました。万里夫さんが驚いて、私の腕を掴むと、ボールペンを取り上げてしまいました。私はひどく腹が立って、万里夫さんを非難しましたが、万里夫さんは首を横に振るだけです。万里夫さんが私の正面に腰を下ろしました。私は何をされるのかと思って、逃げようとしましたが、万里夫さんが私の腕を掴んで、逃げるのを止めました」
 日が高くなってきた。朝日が正面から二人を刺すように照らしてきた。服や髪の毛が熱を吸って、焼けるように熱くなる。
「万里夫さんは言いました。『何があった』と。私は話すことが出来るわけがなくて、ただ首を横に振ると、万里夫さんは『誰にやられたんだ』と聞きました。分かりません。あの男の人たちが誰だったのか、私には分かりません。バスの中で、走るバスの中で、始発のバスの中で。私はそう言うと、万里夫さんが『まさか』と言いました」
 まさか? 万里夫は何かを知っていたということか。
「その後、『警察には行きたいかい?』と聞いてきたので、行きたくないと答えると、『どうしたい? 帰りたい? 病院にいきたい?』と質問ばかりしてくるので、分からないとわたしが怒ると、万里夫さんは悲しそうに俯きました。『なら、好きなだけここに居て良いよ』と言いました。わたしは嬉しくも嫌でもなく、万里夫さんがこれ以上質問しなければ、それで良いと思いました。それから二人は、ずっと、ずっと口を利きませんでした。一週間たっても、会話はしませんでした」
 一週間?
 邑崎は、凛子の話が思いがけない方向へ向かっていくことを予感した。
「万里夫さんは何も言わず、わたしを用務員室に置いていました。万里夫さんはわたしの傷の手当てをしたり、食事を持ってきてくれたりします。それでもわたしと万里夫さんはぜんぜん口を利きません。わたしは会話しないどころか、一週間、一言も声を出していませんでした。そのころにはきっと声も出なくなって、このまま一生口を利かないのだろうと考えてました。昼間も夜も、ずっとわたしの見る風景は畳の狭い用務員室だけ。昼間の間は生徒たちや先生たちが用務員室の前を通ったり、色んな声もたくさん聞こえてくるので、わたしは押入れの中にこもって、みんなが家に帰る放課後をずっと待ってました。誰も居なくなると部屋に出て、万里夫さんが食事の支度をしたり、仕事で書き物をしているのを見ていました。時々、万里夫さんがわたしに話しかけてきますけど、わたしは話しかけられるとすごく気持ちが悪くなって、すぐに押入れに入ってしまいます。だから万里夫さんはあまり話しかけてきません。一週間たつと、万里夫さんは夜になると自分の家に帰るようになりました。そのころから、わたしは夜一人で寝るようになりました。万里夫さんが居るときでも、わたしは押入れの中で寝ていました。でも、一週間が過ぎると、暗い部屋に一人です。夜の学校は誰も居ないんです。昼間はあんなににぎやかなのに、夜になると何も音がしなくなります。わたしはそれから何日か、一人で寝る生活を送っていると、夜の押入れの中で、真っ黒な暗闇に万里夫さんの顔を想像するようになりました。朝、万里夫さんが用務員室にやってくると、わたしは嬉しくなる様になりました。わたしは部屋の中で、万里夫さんの後ばかり付いていって、万里夫さんが食事の支度をしてると後ろから覗いて、仕事で書き物してるときも後ろから覗いて、トイレにも付いていこうとしました。万里夫さんに構ってほしくて、万里夫さんの目の前をうろちょろすると、万里夫さんはわたしの体の傷が治ってきてるのを見て言いました。『もう、大丈夫だよ』って。気持ち悪くなりませんでした」
 凛子は不意に立ち上がった。邑崎は驚いたりしない。次はどこへ行く気だろうか。用務員室であろうか。
 凛子が歩き出すと、邑崎も腰を上げて付いていく。
 木造校舎の前を進み、片方に噴水が見えた。噴水の周りには手入れのされた花畑が囲み、花畑の中央にモニュメントらしき、振り上げた象の鼻のような突起が見えた。邑崎はとっさに男の勃起したイチモツを連想する。だがそれは日時計である。日の傾きと、出来た影で時刻を表す。
 それを眺めながら、凛子は話を続けた。
「万里夫さんは『外に出てみないか』と言いました。わたしは外に出るのが、物凄く怖かった。外出ると、降りかかってくる不幸が怖かった。ずっと、ずっと用務員室で生活できたら、こんなに幸せなことはないと思った。でも、万里夫さんは『外に出よう』と強引にわたしの手をとって、外に連れ出しました。わたしはその時、万里夫さんに身体を触れられて、本当は気持ち悪かったんです。手を握られて、胸の辺りが気持ち悪くなったけど、必死に我慢しました。学校は夜で、もちろん生徒は居なくて、誰も居ません。田舎の学校だから防犯設備もないし、深夜に学校を歩き回っても誰も怒りません。万里夫さんはこの噴水の前までわたしを連れてきました。それから言いました。『君は間違ってる』って。何が間違ってるんだろうと思っていると、『君は世界が広いことを忘れてしまってる』と言いました。わたしは何のことだか分かりません。今でも分かりません。『今日はここまで』というと、泣き出しそうだったわたしを用務員室まで帰してくれました」
 邑崎はタバコに火をつけた。学校という神聖な領域を冒涜する行為かと罪悪感も抱いたが、今はニコチンの力が必要だ。
 凛子は噴水池の淵に腰掛ける。
「その日から、毎晩、わたしと万里夫さんはこの噴水のところまで来ました。ある日、万里夫さんは夜空を指差して言いました。『星が見えるよ。月も見る。遠いね。ずっと遠くだね』って。次に地面を指差しました。『近いね』って言いました。『物と物の間には距離がある。近かったり、遠かったりする』そう言って、万里夫さんは噴水に腰掛けるわたしから離れていきました。わたしはすごく不安になって、万里夫さんについて行こうとしましたが、万里夫さんが怒るので近寄れませんでした。そのときの万里夫さんの言葉は全部覚えてる。万里夫さんが話してくれた言葉は全部覚えてる。万里夫さんは遠くから『近づくには、頑張るしかない。何か障害物があったら、どうにかして取り除かなくちゃならない。でも、先に進むと、君は新しい発見をして、目移りをする。色んなものが見えて、君は僕だけじゃなくて、時々は隣にいる誰かを見たりする。それが正しいことだよ』って言った。不安になって、わたしは万里夫さんの名前を呼んだ。二週間ぶりに出した声だった。すごく小さくて、声が出てくる穴がちっちゃくなってたから、声を出すのがすごく辛かった。でも、万里夫さんがどこかに行ってしまうことの方が辛かった。わたしが涙を流すと『泣かないで』と言って、戻ってきてくれた」
 凛子は涙を流し始めた。
 朝の日差しの中の凛子の涙は美しくさえ見えた。
 湿り気のある悲しみ。
 今の凜子を美しく感じることは背徳だ。
「万里夫さんは優しかった。とても優しくて、温かかった。優しく笑いかけてくれた。触ってほしいと思った。頭を撫でてほしいと思った。でも、そうしてくれたとしても、わたしは気持ち悪くなって吐いてしまうと思った。でも、万里夫さんがそうしてくれるなら、我慢しようと思った。世界に万里夫さんだけだった。万里夫さんはそれからもずっと傍に居てくれた。離れようとする万里夫さんが分かったけど、わたしが悲しむと、必ず傍に戻ってきてくれた」
 万里夫が『間違っている』といった言葉の意味は理解できる。現在の万里夫も、理性的であったことが邑崎の喜びでもあった。誇らしくもあった。
 少女は万里夫の優しさに依存していたが、万里夫は受け入れなかった。万里夫は凛子との生活で何を思ったのか。何を考えていたのか。
「でも、そろそろ一月経とうとする頃、突然、万里夫さんはわたしを用務員室から追い出そうとしました。信じられませんでした。あんなに優しかったのに。わたしは必死に出ない声で『なぜ』と聞きました。万里夫さんは怒ったように『仕事の邪魔だ』と言いました。嘘だと思いました。ずっと部屋に篭ってるわたしの為についた嘘だと思いました。わたしは出て行かないと言い張ると、万里夫さんは『じゃあ僕が出て行く』と言って、出て行ってしまいました。必死に……本当に一生懸命と止めたんですけど、万里夫さんはとうとう出て行ってしまいました。それでも万里夫さんはきっと帰ってくるだろうと思って、わたしはそれから何日も用務員室で万里夫さんを待ち続けました。それでも万里夫さんは帰ってきてくれませんでした。わたしはお腹が減ったし、万里夫さんを探しに行きたいし、どうしようもなくなった頃、夜中に用務員室の外で、人の気配がしました。万里夫さんかもしれない。そう思ったけれど、外を見てみるなんて事は出来ません。わたしは押入れの中に篭って、じっとしていました。もし、万里夫さんがわたしのことを心配になって様子を見に来てくれたのなら、きっと用務員室の中に入ってくるはずです。そう思って待ちました。ずっと待ちました。一時間、二時間、よくわかりませんが、ずっと待ってました。誰かいる気配はまだするのか、しないのか、分からなくなりました。万里夫さんは帰ってしまったのか。もしかしたら、迷ってるのかもしれない。入ってこようか、やめようか。ずっと外で迷ってるのかもしれない。わたしは決意して、外の様子を見てみることにしました。そおっと玄関に近寄って、ドアに耳をつけて、音を聞いてみます。外で少しだけ吹く風の音がします。風は建物の隙間を通って、低い呻き声のような音を立ててます。それ以外の音はしません。もう、ドアを開けて確かめてみるしかありませんでした。わたしは怖くて震える手で、ドアノブをひねりました。少しだけ開くドア。外の冷えた空気が入り込んできます。わたしはそおっと開いた隙間から顔を出して、用務員室の外を見ました。正面には窓の無い側の校舎。右側には駐輪場。左側には噴水のある西門。その噴水の前に、誰か人が倒れているのを見つけました。暗くて良く見えません。でも、万里夫さんかもしれない。違うかもしれない。わたしはしばらく倒れている人の様子を伺ってました。ぜんぜん動きません。倒れたままです。倒れてるのが誰なのか、わたしは確認しないと気がすみませんでした。人が倒れてるのは、毎晩万里夫さんと一緒に行った噴水の前です。だから、勇気を振り絞れば、そこまではいけると思いました。わたしは外に出ます。初めて一人で外に出ます。とても暗くて静かです。でも、吹いてくる風が、なんだか落ち着かなくさせます。すこしずつ近づいていきます。ものすごく怖いです。周りにわたしを守ってくれるものが何も無くて、高い場所で綱渡りしてるみたいです。倒れてる人の近くまで来ると、倒れている人は作業着を着ているのが分かりました。万里夫さんがいつも着ている服です。わたしは万里夫さんだと思い、駆け寄りました。倒れて目をつぶっている顔を見ると、やっぱり万里夫さんでした。わたしは声が出ないので、一生懸命万里夫さんの体をゆすりました。死んでしまったのかと思いました。そう思ったら体中が弾けてしまいそうで、腐ってしまいそうで、わたしは泣きながら万里夫さんの体をゆすりました。万里夫さんが少し唸って目を開けたときは、嬉しくて嬉しくて、なんて言っていいか分からないくらい嬉しかったです。体中に力がわいてくるようで、何もかもが幸せに感じました。万里夫さんが目の前にいて、生きてくれている。それだけで、わたしは他に何も要りません。わたしは万里夫さんが憎かった。いなくなってしまった万里夫さんが嫌いだった。でも、戻ってきてくれた。戻ってきてくれたけど、万里夫さんは倒れたままです。どうしたのかと思うと、万里夫さんの顔が腫れているのが分かりました。地面に置かれた手も、血で真っ黒です。わたしは不安になって、何度も万里夫さんの体をゆすると、万里夫さんはようやく声を聞かせてくれました。『大丈夫だから、手を貸して』と。万里夫さんの体を抱きかかえるように手を貸しました。男の人の固いからだ。骨がごつごつしてて、筋肉が硬い。その感覚がものすごく気持ち悪くて、吐いてしまいそうだったけれども、我慢して歩くのも辛そうな万里夫さんを用務員室まで連れて行きました」
 万里夫が好きだが、体を触れ合わせるのは嫌悪感がある。それはすなわち、肉欲を取り除いた形の愛情なのか。特殊な形がここにある。手をつなぐのも、唇を重ね合わせることもない、距離のある男女の交流。
 邑崎は噴水池のふちに腰掛ける凛子を見る。凛子は顔を左の方へ向け、用務員室のある方角を見ている。そこに、その時の映像を見ているのだろうか。
 なぜか今の凛子は魅惑的である。直前まで感じていた幼稚な印象とは違う、大人の女とも違う、桃色のオーラが包んでいる。
「用務員室に万里夫さんを運ぶと――」
 凛子が再び口を開き、邑崎は自分が現を抜かしていたことに気づく。
 この女には毒がある。
 邑崎は思って、全身が粟立った。
 この少女を不幸にすると、必ず因果応報が自分に返ってくるような不安を抱く。邑崎の胸に、危険信号が鳴り響いた。
「万里夫さんを布団の上に寝かせました。万里夫さんが苦しそうに唸っています。上着を脱がすと、胸からお腹に掛けて、シャツが血だらけで真っ赤でした。わたしは不安で怖くて、ただ万里夫さんが死んでしまわないようにずっと体をゆすってました。万里夫さんは薄目を開けて、『大丈夫だよ』と小さな声で言いました。でも、嘘だと思いました。万里夫さんは死んでしまうのだと思いました。そう思うと悲しくて仕方なくて、万里夫さんの体を必死にゆすります。万里夫さんが重たそうに腕を持ち上げて、わたしの顔に手を伸ばしました。わたしを安心させようと、頭をなでてくれようとしたのだと分かりましたが、わたしは顔を背けました。万里夫さんはわたしの頭をなでるのをやめて、『ごめんね』と謝ったので、わたしは物凄く悲しくなって、たくさん泣きました。『大丈夫だから、救急箱を持ってきて』と万里夫さんが言うので、万里夫さんの傍を離れたくなかったけれど、わたしは救急箱を取ってきました。万里夫さんが自分でシャツを脱ごうとするので、わたしも手伝うと、万里夫さんの胸からお腹に掛けて大きな切り傷があって、わたしは怖くなりました。万里夫さんは辛そうに救急箱から消毒液を取り出すと、蓋を取って傷口に振り掛けます。苦しそうに呻きながら、救急箱に入っていた針と糸を取り出しましたが、万里夫さんは諦めて、ぐったりとしました。わたしは万里夫さんの怪我を治したくて、救急箱の中に大きな絆創膏がないか探します。それを見て、万里夫さんが『手伝って』と言いました。万里夫さんは針と糸をわたしに渡して、『傷口を縫って』と言いました。できない。そう思いました。でも、万里夫さんが望むのなら、出来ないことでもしなくちゃいけないと思って、万里夫さんが教えてくれるように、わたしは万里夫さんの傷口を縫いました。縫い終われば、万里夫さんは死なない。そう思いながら必死に縫いました。傷口を縫い終わると、もう一度消毒液をかけて、ガーゼをかぶせて、その上にタオルを乗せました。それから、万里夫さんの血だらけの体を拭いて、あちこち腫れていた場所を、濡れたタオルで冷やしました。全部終わると、わたしは疲れきって、とても寒くなって、目の前がぐるぐる回りだしました。なんだろう、なんだろうと持っていると、万里夫さんが持ってきていたバッグからパンと牛乳を取り出して、『何も食べてないだろと思って』と言いました。わたしは悲しくて、嬉しくて、でもとても怒りたい気持ちでした。こんな怪我をしてるのに、わたしのために食事なんて持ってきてくれなくて良かった」
 邑崎は再びタバコに火をつける。少し冷静になる必要がある。
 不可解なことが多い。ひとつひとつ究明していったら日が暮れてしまうが、大きな不可解は、万里夫にも凛子にも、病院へ行くという選択肢が全く存在しなかったことだ。二人の生活は何を意味するのか。他者をすべて排除した密閉した生活。夢であり妄想であり理想郷であり、他者の介入は夢の終わりを意味し、また理想郷への侵略行為を意味するのか。
「万里夫さんはひどい熱を出して、三日間もうなされていました。わたしは日に二回、傷のガーゼを変えて、タオルを取り替えました。万里夫さんの体がだんだん黒くなっていきます。頬がこけて、目の周りが黒くなってきます。わたしは必死に看病して、神様にずっと祈りました。万里夫さんはそれでも微笑みながら、わたしに言います。『やせたね。顔が白くなった』って。それから、万里夫さんは話し始めました。話してくれたのは、これまでの万里夫さんのこと。万里夫さんはこの学校に来るまで、ずっと旅をしたって言いました。いろんな人に会って、いろんなかわいそうな人を見てきたって。万里夫さんはとても絶望していて、このまま死んでしまってもいい、そう言いました。わたしが泣き出すと、万里夫さんは『嘘だよ』と言ってくれます。でも、万里夫さんはもう諦めてました。万里夫さんが死んだら、わたしも死ぬと言うと、万里夫さんは笑顔で、『ダメ』と言いました。でも、ダメじゃない。万里夫さんが死んだら、わたしは用務員室で万里夫さんと一緒に死ぬ。そう決めてました。その時、話してくれたのが、万里夫さんの中学生のときの話です。子供のときの話は、それ一回だけです。中学生のとき、邑崎郁丸さんという、学校で一番の友達がいたそうです」
 邑崎は胸が熱くなった。
 中学時代が、果たして最良の時代であったか。
 少なくとも、万里夫と出会った後の十数年は最良の時を過ごせたはずだ。それは万里夫から送られた、邑崎の人生における最高の贈り物だ。
 だからこそ、邑崎は万里夫に会い、万里夫に貰った贈り物の恩返しをしなければならなかった。
「万里夫さんの親友だった邑崎さんは、みんなのガキ大将で、正義の味方だったんですって。いじめっ子は絶対に許さなくて、いじめられた子がいたら、すぐに邑崎さんがいじめっ子に仕返しに行ったそうです。邑崎さんが『いじめるな』というと、みんなおとなしく言うことを聞いて、学校の知恵遅れの女の子がからかわれてるときも、周りのみんなはおかしそうに笑っていたけども、邑崎さんだけは顔を真っ赤にしていじめっ子をぶん殴ってたって」
 凛子がころりと笑った。
 邑崎に笑いかけたものではない。楽しい思い出を回想したのだろう。
 だが、凛子の笑顔は出会ってから初めて目にした。この笑顔は間違いなく、万里夫が呼び出した笑顔だ。万里夫の行いが正しかろうと間違っていようと、万里夫が呼び戻し、与えた贈り物だ。
「邑崎さんはとても優しくて力強くて純粋で、正義の味方で……。万里夫さんが生きていられるのは邑崎さんのおかげだって。相手が高校生だって怖い大人だって、正義だと思ったことは絶対に意志を曲げなくて、時々はケンカに負けて大泣きしてることもあるけど、それでも、いつも優しくて正しかったって。それから――」
 凛子は言葉を区切った。
 視線は変わらず用務員室の方角である。
 一拍の間があり、凛子は再び口を開く。
「邑崎さんが、世間では悪だと思われている行いをしたとしても、邑崎さんのしたことは、やっぱり正義だったんだって」
 邑崎はうろたえた。
 恐ろしくも、涙を流しそうになった。
 懐かしく、恐ろしい想いが胸に溢れ出す。
 邑崎は涙の衝動を、つばを飲み込んで堪えた。16歳の少女に泣かされるわけにはいかない。
「邑崎さんの話をしているときの万里夫さんの顔は、なんだか子供みたいで、目がきらきらしてて可愛らしくて、切なくなりました。わたしのことばかり考えてくれてると思ってた、そう思っていたかった万里夫さんは、わたしを見るよりも優しい顔をしてました。万里夫さんは『君は?』とたずねて来ました。わたしの思い出も聞きたいと。でも、わたしは過去のことは全部思い出したくなかったです。未来のことだけしか考えたくなかったです。でも、万里夫さんが聞きたいというのなら、何か話そうと思いました。わたしは出ない声を出そうと、お腹に力を入れました。喉に何か栓をされてるみたいで、声は出ませんでしたが、いっぱいいっぱい、子供を生むみたいに息んだら、かすかですけど、かすれた声が出ました。どうにかしゃべれましたが、わたしは思い出を話すよりも、わたしの万里夫さんに対する思いを伝えたくて、なんども、好きですといいました。万里夫さんはやさしい顔で『僕も好きだよ』と言ってくれました。嬉しくて嬉しくて、わたしは万里夫さんの傍で腕枕をしてもらいながら目を瞑りました。万里夫さんはわたしの頭の上で、囁くみたいに言います。『僕は君にひどいことをした人たちを知ってる』って。わたしは胸が苦しくなりました。思い出したくありません。でも、万里夫さんは続けます。『僕の力では、君にひどいことした人たちに、同じような苦しみを与えてやることは出来ないけれど、僕が君と同じように苦しんだり、痛んだりしてあげることは出来る』。わたしは分かりました。万里夫さんはわたしにひどいことした人たちに仕返しに行ってくれたのだと分かりました。でも、そんなことしてほしくない。万里夫さんが死んでしまったら、もうわたしは生きていけない。でも、万里夫さんの気持ちが胸が破裂してしまうほど嬉しくて、万里夫さんがわたしと同じように苦しんで、痛がってると思うと、独りじゃないんだっていう気がして、万里夫さんの腕の中で、なんども『好きです』と言いながらずっと泣いてました。万里夫さんの腕の中は気持ちが良くて、あったかかくて、守られてて、いつまでも続くと思いました。わたしが目を覚ますと、万里夫さんも起きていて、万里夫さんはもう、ほとんど出なくなった声で『なにか食糧を買ってきてくれ』とわたしにお願いしました。わたしは外に出るのが怖くて、出来ないといったんですが、万里夫さんは『僕は死にたくなくなった』といいました。わたしは万里夫さんの次の言葉で決意しました。『君と一緒に生きる』。わたしも同じ気持ちでした。万里夫さんと一緒に生きて、万里夫さんと一緒に死ぬ。だから、万里夫さんが生きるといったら、わたしも生きる」
 人を一人救うためには、自分の一生をかけなければ、成し遂げられるものではないのだ。人を救うということは、安易に達成できるものではない。だからこそ、間単に救ってはならない。そのことを、邑崎は成人してからひどく思い知らされた。誰かのためを思い、起こした行動だとしても、人に恨まれ、憎まれることがある。救おうとした相手にさえ、殺意を向けられる。危うく儚いのが正義という行いなのかもしれない。
 人は宿命のように人を恨むように仕組まれていて、その恨みの連鎖が人々を繋げている。
「わたしは外に出ることも怖かったですが、万里夫さんの傍を離れるのも辛かった。いけない考えかもしれませんが、万里夫さんが怪我をして、万里夫さんが一人では何も出来なくなってから、万里夫さんはわたしだけのものでした。万里夫さんはわたしが居ない間に死んでしまったらと思うと、怖くてたまりませんでした。それでもわたしは買い物に出かける決意をして、夜中にコンビニに行こうと表に出ました。一月ぶりの学校の外。学校の正面は水田が広がっていて、遠くの国道まで行かなければコンビにはありませんでした。わたしは暗闇で誰かに襲われる怖さよりも、誰かに見つかり、補導されたり、警察に連れて行かれることのほうが怖かったので、物陰に隠れながら、こそこそとコンビにまで向かいました。車が走ってくると、知らない家の軒下に隠れました。人の気配がすると、自分も暗闇になったつもりでじっと息を潜めました。コンビニにたどり着くと、明るい店内がすごく怖くて、店内に入るために長い時間考えました。万里夫さんが待ってる。万里夫さんに会いたい。その思いだけでコンビニに入りました。店員さんは若い男の人。わたしのことを見てました。万里夫さんに出会ってから、万里夫さん以外の人に会った始めての人です。わたしは汗が出て、体中が冷たくなりました。気が遠くなって倒れてしまう前に、買い物籠にお弁当やパンを詰め込んで、レジに向かいます。怖かったですが、頑張らなければ、万里夫さんが死んでしまいます。わたしのことを変に思った店員の人は、怪しいな、っていう顔をしながら、レジを打って、わたしがお金を払っても、ありがとうございました、って言いません。わたしは店員の人が怒っていて、わたしのことを殴りつけるんじゃないかと思って、買い物袋を持つと、駆け足でコンビニを出て行って、走って学校まで帰りました。店員の男の人が追いかけてきてるんじゃないかと思って、なんども後ろを振り返りました。すぐに息が苦しくなって、足にぜんぜん力が入らなくて、何度も転んで、買ったものを道にばら撒いてしまいました。お弁当はふたが開いて、飛び散ってしまったので仕方なくパンだけを持って帰りました。買い物袋は破れてしまったので、ジャージのお腹のところにパンや飲み物を包んで学校に帰りました。物凄く怖い思いをして帰ってくると、学校が明るくなってるのに気づきました。赤い光が見えます。わたしは驚いて、見つからないように木の陰に隠れて様子を見てみると、校門の前に救急車が止まってました。担架に乗せられて、運ばれる万里夫さんが見えました。わたしはどうして言いか分からなくて、その場でじっとしてました。そのうち万里夫さんを乗せた救急車が発車して見えなくなると、学校はまた真っ暗になりました。でも、夜じゃなくても、わたしは目の前が真っ暗でした。全身が鉄の塊みたいになって、立って居られなくて、そのまま尻餅をついて、肩をついて頭を地面にくっつけて、何もやる気がおきなくなって、でも涙が止まらなくて、ずっとそうしてました。学校の塀と、道端に茂る植木との間でわたしはいつの間にか眠ってしまいました」
 ふと、凛子が邑崎を見た。見られただけである。だが、邑崎は内心動揺した。さきほど、突然凛子が邑崎の股間を掴んできたことが頭によぎる。
 凛子は立ち上がり、おもむろに邑崎に近寄る。
 凛子はゆるゆると白く細い腕を持ち上げると、撫でるように邑崎の胸を触った。
「今は触れるようになりました。喋れるようになりました。わたしはどんな男の人の股間も触れるし、したことはないですが、排泄物も口に入れられると思います。嘘じゃないです。わたしは変ですか?」
 もちろん変である。だが、変であるかどうかよりも、なぜそんなことをできるようになる必要があるのだろう。男の股間を刺激して喜ばせたいのか。排泄物を口にして、究極の愛を主張したいのか。
「そうできるようにならなければ、わたしはレイプされた事実を、道で転んだくらいの気持ちで受け止められなかったんです。わたしが体験したバスの中の悪夢は些細なこと。とってもちっちゃな、くだらないこと」
 そうか、と邑崎は納得した。凛子の発する魅惑の色は、おそらくこの相手に対する抵抗感のなさだ。求めることを受け入れる体制でいる凛子の仕草だ。
 どこかでスイッチが入る。やはり凛子は二人いるのだ。人を嫌悪し、人を拒む凛子と、他人の心に存在する光をみることを諦め、相手がどんなことをしても疑わず、何も感じず、ただ受け入れる凛子。二人の凛子はめまぐるしく入れ替わり、あるいは同時に存在する。
 凛子のいうとおり、語りながら動揺したり、泣いたり笑ったりしたのは、確かに万里夫の話をしているときだけである。
 これは危険な兆候なのか。邑崎は推し量りかねている。凛子は危ういところに居るのではないか。この先、凛子に訪れる変化は、必ずしもすばらしい結果を生むのだろうか。凛子はそれを分かっているのだろうか。
 ――すべては、もう一度万里夫に会うためか。
 果たして、万里夫は凛子を救ったのか、呪縛で虜にしたのか。
「学校の前で眠ってしまったわたしが、次に目を覚ましたのは病院のベッドの上でした。でも動揺したりしませんでした。わたしは目を覚ます前の夢の中で、全部整理して目を覚ましたんです。目を覚ましたらどうしようか、何をしようか、何を喋ろうか、全部決めてから目を覚ましたんです。だから、目を覚ましてから何も覚えてない振りをしましたし、万里夫さんと過ごした一ヶ月間のことは誰にも話してません。今までどおりにはなれないですけど、家族と一緒に生活をしています。学校にも行ってちゃんと勉強もしています。成績もいいですし、運動も得意です。全部、万里夫さんにもう一度会うため。万里夫さんはわたしのことを好きだと言ってくれたんです。わたしも好きです。絶対に万里夫さんとわたしは一緒に生きていきます」
「分かった」
 邑崎は久しぶりに口を開く。
「万里夫は探す。そして見つけ出す。俺がするのはそれだけだ」
 凛子はうなずく。
「いいか。俺とお前はお友達じゃない。お前は俺を自分の都合のいいように利用すればいいし、お前が思いを遂げるための道具にすればいい。だから俺もお前を利用する。俺も万里夫に会うために、この二年を捧げてきた。お前の持ってる情報を最大限利用して万里夫を見つけ出す。これは俺とお前の間に交わされた契約だ。友達同士の約束とはわけが違う。契約は破ってはならないものだ。何があっても守らなければならないものだ。言ってる事が分かるか?」
 分かったかどうか知らないが、凛子はうなずいてみせる。
「よし。じゃあ、お前の話を聞いて、疑問に思ったことがある。それをこれから訊ねる。お前は答えられるか? 辛ければ日を改めてもいい」
「大丈夫です」
 凛子の瞳に、かすかに力の光が見て取れて、邑崎は了解する。
「それじゃあ、場所を変えよう。いつまでも学校の中で話してるわけには行かない。日も高くなってきた。俺の泊まってる旅館に行くぞ」
 凛子は黙ってうなずいて見せた。
 凛子と邑崎は、並んで田んぼのあぜ道を歩いた。
 セミの音。遠くに見える陽炎。
 田舎の夏の風景。
 喉かであるはずの風景は、今の邑崎の目からは、少々現実味の欠けた劇画タッチの絵画のように見えていた。 


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