桃色くも


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第四章 〔 事象 〕 


  船上パーティは四階にある『フォーチュンホール』と呼ばれる巨大なホールで行われる。船内に四つあるホールのうちのひとつで、規模としては一番大きい。
 メインエントランスのインフォメーションカウンターでパーサーに確認したところ、招待客は全部で52名で、クルーやショップの店員、代理店の添乗員などを合わせると520名乗り込んでいるそうだ。あわせて572名。圧倒的にクルーが多い。ただし、本当の営業航海が始まれば、クルーは千人を超えるらしい。その分、乗客のキャパシティも千名を超えるのだから驚きだ。
 52名はフォーチュンホールに納めるには十分な広さを持っている。おそらくは招待客が、半ば義務的であろうが、全員集合する最初で最後のイベントになるだろう。
 小山内も邑崎も来るはずだ。秋は早く腹の内をぶちまけたくて仕方が無かった。
 プロムナードデッキ(船舶を縁取るように外周を一周する通路)を歩き、遠ざかっていく港のターミナルを眺めつつ、本当に出帆したのだな、と改めて思った。
 まだ漁船や商船などの船影がいくつも見える水平線は、ノスタルジックにはまだ程遠い。遮蔽物の何も無い、かすかに湾曲するパノラマの水平線を眺めたときの、戦慄に似た全身に走る電気刺激は快感だ。はたしてそれをゆっくり眺めることが出来るのか、不安であったが、絶対に見るのだと心に誓った。
 幸運にも海は凪いでいて、強烈な晴れ空と、巨人の背中のような入道雲は美しく壮大だ。後ろを歩いていた星名ひゆりと白波瀬凛子を振り返り、水平線を指差す。秋が指差すまで、彼女らは全く海原など気にもかけていなかったらしい。ひゆりは初めて気づいたかのように柵まで駆け寄ると、巨大な雲を見つめて目を見開いていた。
「秋さん」
 ひゆりが秋を呼びつけながら、遠くを指差している。船体に波が打ちつける音が聞こえてくる中、ひゆりが指差すほうを眺めてみる。水平線と入道雲と、いくつかの船影。それ以外に指差すものは無い。それのどれかだ。
「何か見えますか?」
「あの雲、こっち見てる」
「はい?」
 雲がこっちを見ている、という表現はいかがなものか。秋が見ると、なるほど顔の形に見えないことは無い。気づくと、隣で凛子が同じ雲を眺めていた。風が髪をなびかせ、隠れていた顔が見えた。無表情だ。だが、初めて彼女の顔を見た気がした。秋が凛子に話しかける。
「この海の向こうに日本じゃない大陸があって、たくさんの知らない人たちがいるよ。どう? 見える?」
 凛子は秋を見た。何も言わず、秋の顔を眺めている。
「見えないよな。見えないから、何があるのか想像する。見えてるのは海と空だけなのに、彫りの深い金髪青年が海岸で日光浴してたり、見たことも無い木が茂ってたり」
 何も答えない凛子。
「クルーズは楽しい夢と想像の旅だよ。海原を海鳥みたいに飛び回ったり、海底に潜ってみたり。僕はいつもそんなことを想像しながら船に乗ってた。僕が乗ってたのは、足元もおぼつかない小さな漁船だけどね」
 凛子は再び水平線に視線を戻した。
「わたし、子供じゃない」
 ようやく口を開いたと思えば悪態か。秋は興ざめして「そろそろ行きましょう」とひゆりに伝えた。ひゆりは「わたし、海鳥みたいに飛びたい」と呟いた。
「はいはい、そうですね。飛べたらいいですね。それじゃあパーティに行きますよ」
 ひゆりは秋の態度が気に入らなかったのか、目を大きくして口を尖らせた。そのとき「ああ!」と大きな声がして、秋やひゆりだけではなく、周りにいた乗客たちも声のしたほうを注目した。
「星名さん! こんなところにいたの!」
 顔が四角くて、パーツが中央に寄った福田という大学生が、わざとらしくも思える「心配したぞ」という表情を顔に貼り付けて駆け寄ってきた。ひゆりの傍まで来ると手をとった。
「なにやってたの? セレモニーには参加したの?」
 ひゆりは首を横に振って「秋さんの後に……」と呟いた。
 福田は秋を見た。その福田の顔が、秋は強烈に不愉快だった。非難するでもない、怒りをぶつけるわけでもない。まるで通路で肩をぶつけ合った他人を振り返ってみるような視線。軽蔑するような顔とでも言おうか。立場上仕方が無いこともあるが限度はある。
「アルバイトとどこに行ってたの?」
 福田が改めてひゆりに尋ねる。
「部屋の鍵を受け取りにフロントに行きました。それと壊れた部屋にも行って、お掃除を」
「掃除!? 鍵を取りにフロント?」
 福田が四角い顔を再び秋に向けた。
「お前どういうつもりだ。なんで星名さんに掃除なんか手伝わせてるんだよ。お前の仕事じゃないのか」
 秋の仕事であるかもしれないし、無いかもしれない。そんなことは問題ではない。掃除していたのは秋だけで、ひゆりはソファーに腰掛けて、凛子と一緒に部屋のテレビを眺めていたのだ。それも秋が望んだことではない。ひゆりが勝手にそうしていただけだ。それを言いかけたが、福田はさらに口を開く。
「セレモニーは綺麗だったよ。旅の初めに印象的なイベントだった。それを見れなかったなんて、お前のせいで星名さんはせっかくの一生の思い出を」
 そんなに憎まれ口を叩いて星名ひゆりに好印象を与えられると、この男は信じているのだろうか。秋はもう聞きたくなくて、言葉の途中で無理やり「すみませんでした。軽率でした」と言葉を挟んで頭を下げる。福田は一瞬、戸惑ったかのように口を閉ざしたが、何か言おうと唇を震わせる。だが、そのとき吐こうとした言葉を一旦飲み込んで、一瞬、思案したかのように視線を泳がせた。その後、福田は目を細めて、かすかに微笑んだかのように唇の端を吊り上げた。
「頭を下げられても困るぜ。今後、気をつければいいことだ。楽しんでくれて構わないけど、自分の仕事は自分でやっててくれれば文句は無い」
 まるで雇い主のような台詞だ。秋の下手な態度に優越感を抱いたらしい。非常に屈辱的であったが何も言い返せない。情けないが、仕事とはあらゆることを我慢することだと、この数年で学んでしまった秋は押し黙っているしかなかった。
 雇い主が自分の叔父でなければ……などと考えながら、秋は「気をつけます」と言った。
 福田は秋の謝罪など聞きもしないで「ほら、星名さん、行こう。案内するよ」と手を引いて、プロムナードデッキを歩いていってしまった。残された秋と凛子は、二人の背中を眺めて、しばらく呆然とした。何度目になるのか、重い溜め息をつくと「言った通りだろ。僕に付いて来たって楽しいことなんて何も無い」と凛子に愚痴をこぼした。
「わたし、あの人、嫌」
 凛子が呟いた。なんとなく凛子に腹いせをしてもらったような気分になり、秋は少しだけ救われた。
 
 
 
 時間は正午の十分前。南中の太陽が照りつける屋外のプロムナードデッキは少々暑い。直射日光は無いが、海からの照り返しも目に悪い気がしたので、早々に屋内に入ろうと思った。船上パーティが開かれるはずのフォーチュンホールは四階の船主側にある。全長350メートルを超える船内を移動するのも一苦労だ。
 海ばかりを眺める凛子を従えてデッキを歩いていくと、海の家を思わせる屋外ラウンジがあった。幾人かの乗客が南国風味を聞かせて色の付いたカクテルを飲んでいたが、中に一人知り合いが見えた。榊巻だ。すぐにナルシストと分かる、長い前髪と引き締めた口元と力を込めた目が印象的だった。なにをしているかと思えば、ラウンジの従業員であろう若い女に声をかけている。女もまんざらではないようで、口を押さえながら控えめに笑みを作っている。
 赤嶺美紀と懇意のように思えたが、秋の勘違いだったのだろうか。問題だけは起こしてくれませんように、と祈りながら屋外ラウンジを通り過ぎると、前方から赤嶺美紀が挙動不審に歩いてくるのが見えた。明らかに誰かを探しているようなしぐさに、秋は一抹の不安を覚える。
 陳腐な悪戯心も芽生えた。このまま知らぬふりをしていれば、もしかしたら修羅場が発生するかもしれない。だが、これ以上クルーたちの笑いの種になるのは勘弁だった。秋は直ちに引き返し、屋外ラウンジまで戻ってきた。凛子もしっかり付いてくる。
 ラウンジではカウンター越しに、榊巻が店員と会話に花を咲かせている
 さてどうしたものか。秋はラウンジの客を装って、何気なくカウンターに近寄っていくと、来客の気配に気づいた店員の女が慌てて愛想笑いをして「いらっしゃいませ」と会釈した。榊巻も仕事の邪魔になるまいと脇へどこうとしたが、秋に気づくと踏みとどまった。
「なにしてんだ、お前」
 無表情の裏側に、明らかに迷惑そうな感情が見て取れた。
「いや、暑かったもので飲み物を。あ、店員さん、ウーロン茶ありますか?」
「ウーロン茶ですね。かしこまりました。お持ちしますので、お好きなテーブルでお待ちください」
 店員はそういって、カウンターの奥へ消えていった。榊巻は訝しげに秋を見ている。
「お前、わざとだろう。わざと邪魔したな? どういうつもりだよ。なめてんのか?」
「いえ、そんなことは」
「じゃあ、なんだ。俺はお前と関わりたくないんだよ。先生が連れてきたアルバイトだかなんだか知らないが、全く必要の無いやつ連れてきて、意味わかんねーよ。こっちはいい迷惑だ。−−ん? なんだこのガキ」
 榊巻が凛子に気づいた。明らかに秋の連れと分かるように傍にいれば、それは気づかれるだろう。
「あんた、人の邪魔しといて、自分はちゃっかり女の子を口説いてんのか。不愉快だな。ここに遊びにきてんのか」
 酷い言われようである。どうしてこんな人間の面倒を見なくちゃいけないんだ、と秋はうんざりする。
 そのとき、ラウンジの前を赤嶺美紀が通りかかり、秋と榊巻を発見した。赤嶺美紀は陽が射したかのような笑みを浮かべると、手を振りながら近寄ってきた。秋は横目で榊巻を見る。内心うろたえているのが分かるが、その動揺を想像して、秋は復讐を果たす。
「美紀、なんだよ。どうしたんだ?」
「どうしたって、探したんだよ。パーティ一緒に行こうよ」
 赤嶺美紀は親しげに榊巻の腕にしがみ付く。修羅場は回避されたが、口説いていた女店員を意識して赤嶺美紀を引き剥がそうとする榊巻を見て、秋は内心細く微笑む。
「分かった。行こう」
 榊巻は、女店員に見つかる前にこの場を脱出する気だ。女店員への希望は後へ繋ぐ算段だろう。
「秋くんは?」
「僕は後から行きます。先に行ってて下さい」
「うん。あれ? まだその子一緒にいたんだ」
 赤嶺美紀も凛子に気づく。
「その子、ホント誰なの? ナンパしたんじゃないの?」
 悪戯っぽくたずねてくる赤嶺美紀の腕を引いて、榊巻はラウンジを出て行った。一足違いで口説かれていた女店員がウーロン茶片手に姿を現した。営業スマイルを秋に向けながら、いなくなった榊巻の行方を気にしているのが分かった。榊巻の思惑は成功したようだ。少々悔しいが問題になるよりはましだ。
「ウーロン茶飲むか?」
 凛子にたずねると、凛子は喉が渇いていたらしく、素直にうなずいて見せた。
「ちょっと休んでいくか」
 乗船一時間にして、秋はくたくただった。小山内と仕事内容について話しなければならないし、天井を破壊したことの報告もあるし、邑崎を見つけて凛子を押し返さなければならない。いろいろ面倒ごとが残っているが、少々休憩しなければ、気力も沸かなくなってきていた。
 
 
 
 凛子がウーロン茶を焼酎のストレートか何かと勘違いしているかのように、ちびちび飲んでいるので、横取りして一気に飲み干すと、信じられないくらいの憎しみの一瞥を凛子に食らった。
「また飲ませてあげるから。今は時間が無いんだ」
 そんなに飲みたかったのかと思いながら席を立つと、伝票をカウンターまでもって行き、料金を払った。よくよく考えれば秋のおごりである。船内に入ると、冷房の冷ややかな空気がたまらなく快感だった。フォーチュンホールに行くためだけの螺旋階段の手前には、中央が吹き抜けとなったラウンジが囲んでいる。所々にソファーやテーブルが置かれており、中央の楕円形の吹き抜けの下の階には吹き抜けの楕円と同じ形をした舞台がある。その舞台で何らかのイベントが行われる時、ここから見下ろせるようになっているのだ。残念ながら今回のクルージングで、そのステージでイベントが行われる予定はない。
 フォーチュンホール専用の螺旋階段を登る。鉄の枠組みにガラス素材の階段は、下からのぞくとスカートの中が見えてしまいそうだ。凛子は少々怪訝そうにスカートを抑えて階段を登る。階段を登りきると、先ほどのラウンジを更に高い位置から望める室内テラスがあり、反対側には十メートルはありそうな天井から床まである巨大な扉の前で、にこやかなサービスクルーが待ち構えていた。
 朗らかに会釈をすると、入室を促した。開かれた両開きの扉の向こうには、船首の形をかたどったかのようなパーティホールが見えた。クルーと乗客合わせて百人近くの人間がいるように思える。まだ、パーティの開催前らしく、和やかにホールは活気付いていた。
 ホールはU型をしている。入り口からホールを望むのならば「∩」の形である。湾曲部は全てガラス張りになっており、180度パノラマの大海原が一望できる。その先端部には舞台が作られており、無数の花々に埋もれるように「オーナ・キャプテン主催パーティ」と吊るし看板が見えた。天井には巨大な、星の形をしたペンタグラムが象徴的に描かれている。
 ホールに無数に置かれたテーブルには様々な食事やフルーツが並べられているが、まだ誰も手につけていない。幾人かのサービスクルーが乗客にシャンペンを配って回っていた。どうやらパーティ開催前に間に合ったらしい。
 秋と凛子はホールに立ち入ると、入り口を入って右手に待ち構えていたブラスバンドが、秋と凛子を歓迎するかのように華やかな楽曲を演奏しだした。
 単なる、パーティ開始の合図だったのだろう。ものの数十秒で演奏は終わり、次にグランドピアノだけの独奏が始まった。今度は優雅で落ち着いた曲だ。
 居場所に困っていた秋と凛子を、現れた邑崎が手招いた。邑崎は入り口付近で、二人がやってくるのを待っていたようだった。
「こっちだ」
 邑崎の友好的な笑顔が憎たらしい。秋と凛子が邑崎の傍まで寄り、いよいよ秋が文句のひとつでもほえてやろうと思った時、ホール前方の舞台に立つ二人の男が、マイクに向かって挨拶を始めたので口をつぐんだ。
 この客船のオーナーは、小山内の友人である。ここで自分が失礼を働くわけには行かないと、秋は挨拶の言葉を暗記するかのように、真剣に聞いた。最初にキャプテンが舞台上のマイクの前に立った。オーナーはキャプテンの背後に控えて、微笑を称えている。キャプテンは自己紹介と、幾人かのクルーの紹介、航海の予定を簡単に話した。服装は船長のそれであったが、細身の身体、声変わりを忘れてきたような細い声は、船長の威厳を多少なりとも軽減させている。
 船長の挨拶が終わり、入れ替わりに前に出たオーナーこそ、船長たる風格を身にまとった屈強な大男だった。白黒のひげを蓄え、主張するかのようにハト胸を突き出した姿は畏怖堂々としたものだ。
 彼が叔父さんの友人か、と想像しながら、小山内のことを思い出し、ホールを見渡してみた。見える限りに小山内の姿は見つけられなかった。大学生たちはみな集まっているのだろうか。早めに赤嶺にカードキーを渡さなければならない。オーナーは招待客全員にプレゼントがあると発言し、拍手と歓声を浴びていた。その発言を合図に、待機していたサービスクルーが小さな箱のようなものを乗客たちに配っていた。
 秋と凛子、邑崎も受け取った。
「タロットカード?」
 邑崎が不可解そうに眉をひそめた。
「この船は、コンセプトを『タロットカード』としてるんですよ。カードゲームを遊べる施設もたくさんあって、大掛かりなカジノもあります」
 秋が説明してやると、邑崎は「なぜ知ってる?」といぶかしんでいる。
「事前に調べたからに決まってるじゃないですか」
 不愉快になった秋は、そっぽを向いた。そっぽを向いた先に、よく見知った顔を発見して、秋は目を見開いた。よく知っている顔だ。秋だけではない。隣にいる凛子も邑崎も、ここにいる招待客、クルーたちも知っているはずだ。大物若手歌手の加賀山瑞穂だ。容姿の美しさに、デビュー当時はアイドル並みに騒がれていたが、ひとたび歌い出せば歌唱力と美声に、一年を立たず本物のアーティストと認められてしまった。デビューして五年ほどたつが、デビューが十八歳のときだから、まだ二十台そこそこのはずだ。
 純白のドレスを着て、オーナーの言葉に聞き入っている横顔は、常人とは違う、華やかなオーラを放っている。
「失礼だろ。あまり見るな」
 とっくに加賀山瑞穂に気づいていた邑崎が秋を嗜める。確かにそうだと思い、視線を正面に移す。ここで浮かれて握手やサインなど求めたら、晴れて問題児集団に仲間入りになりかねないが、別世界の住人だと思っていた大物歌手を目の前にして、一言でもいいから言葉を交わしたくて仕方が無かった。ちらちらと加賀山瑞穂のほうを見ていると、彼女の傍に立っていたマネージャーらしき、気難しそうな男に藪睨みを食らって、秋は慌てて目をそらした。
 やがてシャンパンも乗客に配り終わったのか、オーナーがステージ上でグラスを持ち上げて乾杯の音頭を取ると、いよいよパーティの始まりだった。とたんに歓声を上げて食事に食らい付いている人間が目に留まった。笹川と赤嶺だと分かって溜め息が漏れる。節度ある乗客たちは、乾杯の直後に食事にがっつくようなまねはしない。
「楽しいな、お前のお仲間は」
 邑崎が皮肉った。
「ロリコンも、充分愉快ですよ」
 皮肉で返したが、邑崎は一笑に付しただけだった。
「そんなに憎まれ口を利くなよ。お前が悪いやつじゃないことは分かってるよ。凛子の顔を見れば」
 凛子は突然名前を出され、戸惑ったかのように目をぱちくりさせた。
「また凛子に船内を案内してやってくれよ」
「保護者みたいですね」
「そうだ。ロリコンじゃない。親みたいなもんだ」
 そう言われて、凛子は気にいらなそうだった。秋は大学生たち全員の所在を把握しておきたい。ホールにいるはずだから、探そうと思い、邑崎に言った。
「僕は本当に仕事しなくちゃならないので、凛子ちゃんをお返しします。未成年なんですから、シャンパンじゃなくてウーロン茶を飲ませてあげてください」
「お前も保護者みたいだな」
 言われてみればそうだ、と秋は思った。わずか一時間かそこらで、すっかり保護者のような心境が身に染み付いてしまっている。秋は邑崎と凛子に別れを告げて、まずは小山内を探し回った。横目で豪華な料理を見る。今日はまだ何も食っていない。腹が減っていたが、まずは小山内を探そうと思い我慢した。
 広いホールをだいぶ歩き回ったが、小山内は見当たらなかった。途中、福田と星名ひゆりを見かけた。福田が必死に星名ひゆりに話しかけていた。反応の薄い星名ひゆりに対して、一生懸命になっている福田は、その時だけは好感が持てた。福田に付きまとわれているひゆりは無表情だったが、特に迷惑そうにもしていなかったので、問題になるようなことはなさそうだと思い、引き続き小山内を探した。
 見れば乗客たちはみんな正装している。スーツにドレス。ラフな格好をしている自分が少々恥ずかしい。他の乗客が秋の事を見て、くすくす笑い声を上げることは無かったが、目立ってしまっているような気はする。
 小山内はホールに来ていないのではないか、そう思い始めたころ、少しくたびれた気がして、秋は窓際にあるソファーに腰掛けようと歩いていった。そのとき、サービスクルー同士がなにやら小言で会話しているのが聞こえてきた。
 ――山根がいないんだ。無線も応答しない。
 ――クックベーカーの川口もいないらしい。山根と仲が良かったからな。二人でサボってるんじゃないのか?
 ――二人とも新米か。まったく、ちゃんと段取り理解してるのか。
 ――とにかく探しに行って来る。船室で居眠りしてるのかもしれない。
 サービスクルー二人の会話で、ふと思い立った。小山内は、客室で眠りこけているのではないか。ありえる気がして、秋は涙が出そうになった。せめて小山内だけは優良児であってほしい。
 
 
 
 悲鳴に近い声が聞こえて、何事だと秋は立ち上がった。一瞬、騒然とするホール。声のしたほうを、乗客たちが一様に視線を向け、クルーたちも事態を確認しようと、にわかに慌てだした。何かあったのか。まるでお化けでも見てしまったかのような女の悲鳴だった。
「え? 加賀山瑞穂?」
 傍にいた見知らぬ乗客の会話が聞こえてくる。
「さっき見たろ、加賀山瑞穂。誰かが彼女を見つけて、驚いて悲鳴を上げたらしい」
「なんだよ」
 はた迷惑な悲鳴を上げられて、乗客は不愉快そうに眉間にしわを寄せる。秋の全身に悪寒が走った。乗客たちの人ごみで現場は見えないが、まさか騒ぎの元凶は大学生たちではないのか。秋は慌てて人の間を縫って、さきほど加賀山瑞穂が立っていた場所に向かい始めた。現場までやって来ると、果たして騒いでいるのは笹川由利子と赤嶺美紀、榊巻の三人で、代わる代わる加賀山瑞穂と握手しては興奮気味に歓声を上げている。加賀山瑞穂の困ったような笑み。
 乗客たちに注目を浴びて失笑、嘲笑を受けているのも気づかず、三人は目の前の有名人に夢中だ。
 −−だめだ。他人のふりをするしかない。
 秋に、三人の渦中へ飛び込む勇気は無かった。さきほど秋に対して藪睨みを利かせてきたマネージャーらしき人間は傍にいないようだ。興奮しきっている三人を止める人間もいない。秋は自分の胸に尋ねてみる。ストレスの度合いはどれほどだ。まだ持つか。胃に穴が開くほどではない
「なにやってんだよ、アルバイト。お前の出番じゃないのか?」 
 声をかけてきたのは邑崎だ。おかしくて堪らないように上ずった声だ。秋はむすりと口を尖らす。
「あなたはそうやって笑ってればいいですけどね」
「お前らの本当の保護者に恥をかかせちまうぞ」
「分かってますよ。うるさいな」 
 邑崎は笑いをかみ殺すと、口元を撫でなでる。
「仕方ねえな。凛子の面倒を見てもらったお礼だ」
 真顔に戻った邑崎は秋の肩に手を置くと、そのまま渦中へ歩いていった。なにをする気だと注目していると、邑崎はおもむろに加賀山瑞穂の隣に立ち「こら、ガキども」と、浮かれ調子の三人に詰め寄った。
「中学生かお前らは。分別ってものを知らないのか。この方に迷惑が掛かってるだろうが」
 大学生三人の表情がみるみる怯んでいく。慄くように一歩二歩後ずさりする。邑崎の極道面は役得である。
「相手のことを気遣えないのか? 楽しむのはお前たちだけじゃないんだ。みんなに不自由が無いように、みんなが思いやる。簡単な道徳だろ」
 怯んだ大学生たちに、次に訪れたのは反抗心だった。見ず知らずの中年に突然動揺させられたことへの怒りだ。
「周りを見りゃ、すぐ分かるだろ。お前らいい笑いもんだ」
 反抗心を抱いた大学生たちに、次に訪れたのは羞恥心だった。三人は一様に顔を真っ赤にすると、後ろめたそうに俯いた。加賀山瑞穂は慌てたように仲裁に入った。
「いえ、いいんですよ」
 朗らかに笑みを作ると加賀山瑞穂は大学生たちに踏み寄った。
「そんな顔をしないで。あ、そうだ。後で私のキャビンにみんなで遊びに来てください。ほかにお友達も一緒に来てるんでしょ?」
 思いがけない申し出に、三人は言葉を失う。嬉しいような、後ろめたいような。秋にも気持ちが分かる。邑崎が赤嶺の額を指で突付いて「こら、返事をしろ」と促した。赤嶺は申し訳なさそうに「いいんですか?」と尋ねると、加賀山瑞穂は「喜んで」と光り輝く笑みを浮かべる。羞恥心に泣き出しそうだった三人は救われたように安堵した表情を見せると「騒いですみませんでした」と素直に謝った。加賀山瑞穂が首を横に振って、気にしていないことを伝えると、三人は頭を下げながらホールを出て行った。
 呆然と眺める秋。三人がいなくなると、ホールにいた乗客たちもそれぞれの会話に戻っていく。その中で、邑崎が加賀山瑞穂に「でしゃばった真似を……。失礼しました」と謝罪していた。加賀山瑞穂は「いいえ」と可愛らしい笑みで答える。
 どちらからいらしたんですか? 船にはいつまでご滞在ですか? 何をされている方ですか? などと世間話を始める二人。邑崎は会話に夢中で、こちらに戻ってくる気配は全く無い。秋は一瞬、邑崎に尊敬の眼差しを向けかけたことを、心底後悔した。
「あのやろう、赤嶺たちをダシに使いやがったな」 
 気に入らないのは凛子も同じようで、秋の隣で強烈な殺気の篭った視線を、加賀山瑞穂と邑崎に向けている。秋も凛子の真似をして、殺気を込めた視線を邑崎に向けた。邑崎は殺気に気づいて、一瞬こちらを見やるが、まるで何事も無かったかのように、平然と加賀山瑞穂との会話に戻る。
「凛子ちゃん、部屋の鍵もってるよね。あのおやじを部屋から締め出してやろうね」
 凛子は力強くうなずいて、初めて秋の言葉に頷いて見せたのだった。
 
 
 
 食事でもしようとテーブルに置かれた豪華食事の数々を眺めていると携帯電話が鳴った。まだ陸に近いのか、携帯電話を耳に押し当てると、かけてきたのは小山内だった。
 ――何をやってる。ホールには来てるのか? ちゃんと働いてるんだろうな。
 これが小山内の第一声である。頭にきた秋は、その場では口答えしなかったが、何らかの形で小山内への復讐を誓った。秋の隣で食事に食らい付く凛子を横目に腹の虫を鳴らしながら「用件は何ですか?」と尋ねた。
 ――ホールにいるのなら、ちょっと来てくれないか。ステージの前にいるから。
 小山内はホールにいるようだった。すぐに行くと伝えると、隣にいる凛子が気になった。一人にしてしまって良いものか。邑崎は相変わらず加賀山瑞穂と話している。そこまで考えて、秋は凛子を気にかける理由など何も無いことに気づいた。もともと何の縁もゆかりも無いのだ。そうだとしても、黙って凛子の傍を離れるのも忍びなかったので「僕は移動するけど、君はここで食事してる?」と尋ねると、凛子は秋の顔を見ただけで、何も答えなかった。秋は一人でステージ前にいるという小山内の元へ向かった。
 小山内は言った通り、ステージ前のテーブルを囲んで、船長やオーナーと会話に花を咲かせていた。その場に秋が割り込んでいくのは気が進まなかったが、仕方なく近寄ると小山内に声をかけた。
「ああ、来たな」
 小山内は秋の肩に腕を回すと「私の甥の月原秋です」と船長とオーナーに紹介され、秋はぎこちなく会釈する。
「オーナーの灰野です。どうぞよろしく」と握手を求められ、緊張しながら握手に答える。
「それでは、私は勤めがありますので……」
 そう言ったのは船長だ。秋がやってきたのをきっかけにするように船長は席を離れた。ステージ前のテーブルには秋と小山内、灰野の三人になった。
 オーナーの灰野は、間近で見ると威圧感がある。秋より二十センチは身長が高い。秋はなんのためにオーナーに紹介されたのか気になった。
「君の事は聞いてるよ。小山内に頼まれてアルバイトで来たんだってな」
「ええ」
「歳はいくつなんだ?」
「二十歳です」
 答えると、オーナーは低い声で笑った。
「小山内が自慢することだけのことはあるな。二十歳の青年にしては落ち着いたもんだ。第一印象が良い」
 褒められてむず痒くなった。
「もっと話をしたいところだが、いろいろ挨拶まわりもしなくちゃならない」
 小山内が灰野の肩に手を置く。
「気にするな。引き止めて悪かったな」
 灰野は笑顔で返事をすると、済まなそうに手を掲げて、挨拶回りに出かけていった。二人だけになったテーブルで、秋は不審そうに尋ねた。
「なんで僕を呼んだんですか?」
「なんだ。せっかく紹介してやったのに。気に入らないのか?」
「気に入らないんじゃなくて、気掛かりなんです。何か僕にさせようとしてるんですか?」
「勘ぐりすぎだ」
 小山内は笑って、果物を口に含んだ。
「お前を呼んだのは、きっかけになってもらうためだよ。オーナーもキャプテンも、席を立ちづらそうにしてたもんでな」
「席を去りづらいほど、叔父さんに後ろめたいことがあるんですか?」
「つっこむな。これも秋くんの仕事だと思ってくれれば良い」
 一体この先、どれほど都合よく秋は利用されていくのか、ほとほと不安になった。
「それじゃあ、聞かせてもらおうか。そろそろ秋くんも役割を理解してきたころだろう。生徒たちに会った印象を聞かせてくれ」
 印象どころか、すでに幾つも問題発生の実例がある。間違えば報告ではなくて愚痴になってしまいそうだ。
「まずひとつ。エキストラルームを割り当てられたことに不満は無いですけど、同室の人間がいるなんて聞いてません」
「ああ、彼か。あの人はオーナーが頼んだ調査員らしい。直前に乗船が決まってな。部屋が用意できてないんだよ」
「部屋だって、いっぱい余ってるはずでしょ」
「部屋はあるが、管理ができないのさ。必要最低限のクルーしか乗り込んでいない。部屋のメイク、メンテナンスに必要な人数しかな。使用される部屋数が増えればクルーに負担がかかってしまう。まあ、ほとんど部屋にはいないそうだから、あまり気にするな」
 事情は理解したが、オーナーが頼んだ調査員とはどういうことだ。
 いぶかしむ秋を、不満の表情と受け取った小山内がなだめる様に言った。
「探偵なんて特殊な人間がいたら気になるだろうが、どうしても気になるんなら客室を割り当ててもらおう」
 今、必要最低限のクルーしか乗ってないと言ったばかりではないか。そう言われてはわがままをいえない秋。
「大丈夫です。今日一日だそうですから。それに僕も部屋に戻ることはほとんど無いでしょうし」
「そんなに忙しいか?」
「今のところは忙しいですが、空いた時間はやっぱり船内を楽しみたいですし。それより二つ目です。赤嶺さんと笹川さんのことなんですが」
「問題か?」
 小山内は悟っているらしい。やはり、秋がアルバイトに呼ばれたのは、忙しい小山内に代わって面倒ごとの後始末をするためだ。
「客室の天井に穴を開けました。穴が開いたのは赤嶺さんの部屋の天井で、穴を開けたのは笹川さんです。フロントで頼んで、赤嶺さんの部屋は替えてもらいました。穴を開けてしまったことは快く許してもらえて、弁償問題にはならなそうです」
 告げ口みたいで気分が悪い秋だったが、仕方の無いことだと自分を納得させた。
「分かった。後で叱っておこう。やれやれだな」
 罰の悪そうな顔をしながらも、呆れつつ笑っている。「他には?」と促してきたが、他には特には無い。細かいことはいちいち報告しなくても良いだろうと口を閉ざした。とくに先ほどの加賀山瑞穂の件は、三人の名誉のために黙っていようと思った。
「報告するようなことは以上です。ただ、聞きたいことがあるんです」
「なんだ?」
「僕のアルバイトの仕事は何ですか? 問題児たちのお守りなんですか?」
「違う。そんなつもりで君を呼んだわけじゃない。ただし、生徒たちがいろいろ手を煩わせてくれそうなのは予想してたし、私一人じゃ手に負えないので手伝ってほしい気持ちもあるが、秋くんに望むのは生徒たちの引率係り、荷物持ち、雑用係り、インフォメーションなどなど」
「それなら船のサービスクルーがいるじゃないですか」
「そこはテストクルーズ。私たちはタダ乗りしてるんだよ。クルーたちの目的はあくまでテスト。ついでに人を乗せて、実際のクルージングのシミュレーションをしている。さっきも言ったが、必要最低限の人数のクルーたちに乗客の世話をしている余裕が無いのは予想していたし、金も払ってないのに客面して、あまり迷惑もかけたくない。せめて自分たちの面倒ごとは、身内で済ませたいじゃないか。君に諭すまではないと思うが、ゲストにはゲストとしてのマナーや礼儀がある」
 なるほど律儀である。大人である紳士らしい発想といえば発想だと思ったが、言葉のすべてを鵜呑みには出来ない。言葉を巧妙に変えただけで、秋が面倒ごとの後始末要員として、都合良く働く人間として呼ばれたことには間違いなかったし、そうだとしても不満を漏らせるほど少ない給料でもない。
 小山内はにっこりと笑って、秋の肩に手を置くと「空いた時間は楽しんでくれ」と言った。もちろん、そうするつもりだと秋は思っている。
「次のプログラムは?」
「今日はとくにイベントはありません。夕暮れに、いまと同じようなパーティが開かれます。もっとエンターテイメント色は強くなるでしょうね。何も無いといっても、出港と同時にショップ類はほとんど開店してるはずですし、カードルームやカジノも開いています。デッキもサンルームも開放されてます。映画上映にエステ、スポーツクラブにテニスコートにマッサージに大浴場と、リラクゼーションも豊富です。篭りたければテレビゲームにビデオ鑑賞となんでもあります。退屈なんてしようと思ったって出来ないところですよ、ここは」
「そうかそうか」
 満足げにうなずいた小山内であるが、憂いそうに目を伏せると「陸と大して変わらないな、ここは」と暗い声を出す。秋は気になって「楽しんでないんですか?」と尋ねる。
「そうじゃない。……いや、そうだな。豪華なんだが、どうも興味が沸かなくてな」
 陸と変わらない。小山内の言葉を秋は理解した。船とは本来移動手段であり、目的地に人間を運んでくれるものであり、船自体は目的地ではない。移動手段で楽しむこと自体に違和感があるのだ。船の楽しみ方を知らない人間がここにも一人いる。
「あと数時間の辛抱ですよ。船が沖に出たら、デッキに出て海を眺めてください。ほかの船影なんてまるで見えない透明度の高い水平線を望めます。イルカや鯨は見れないかもしれないですけど、沖に数キロ出れば透き通った海が見れますよ。僕は夕暮れに夕日が沈んでいくまで、何時間でも眺めていられるほど大好きな光景です」
「船酔いしないのか? すぐに乗り物酔いしてしまうほうなんだ」
 本音はそこにあるらしい。豪華客船の旅に心から浮かれることが出来ないのは、船酔いの恐怖があるからだ。そういえば小山内は港までのバスに乗っただけで車酔いを起こしていたことを思い出した。
「商船や漁船じゃないんですよ。スタビライザーって知ってますか? 船の横揺れを抑えてくれる装置です。もちろん船の構造上、縦揺れもありませんし、力学的にも上下の揺れもありません。船上は波の影響をほとんど受けずに常に水平です。酔うとしたら、それこそ本当の気の迷いですよ」
「本当か?」
 叔父さんの瞳に、光が射す。
「本当に酔わないのか? 私は一回酔ってしまったら、乗り物を降りるまで直らないんだぞ。デッキなんて出て大丈夫なのか?」
「大丈夫です。嵐が来たとしても、絶対に酔わないと保障します。せっかく海の上なんです。海の音を聞いてください」
「そうか」
 小山内の豪華客船の旅が、たった今始まったかのように、晴れやかな表情を浮かべた。これこそ、秋の本来の仕事である。ようやく本来の職務を全うした喜びがあったが、仕事をしたのが小山内に対してでは意味が無い。
「それじゃ、僕は皆さんの様子を見てきます」
 そう言って、一人にされるのが寂しそうな小山内を残して、秋はその場を去った。
 とりあえず食事をしたかった。
 
 
 
 食事は出来なかった。小山内のもとを離れてすぐに赤嶺から携帯電話に連絡が入った。赤嶺、笹川、榊巻の三人は、何か面白いことが無いかと、秋に電話してきたのだ。やれやれと思いながら、秋は三人の居場所を聞いた。憩いの場であるサンルームでお茶しているそうで、秋はそこに向かうことにした。
 最上階である十二階にあるサンルームは、ドーム状の憩いの場である。この客船の「庭」だと思ってもらえばいい。天井も側面もすべてガラス張りの、文字通り太陽の広場である。
 真夏の屋外のようなサンルームにたどり着くと、エアコンが強力に効いてなければ温室と同じ広場を横切り、飲食のカウンター付近に置かれたベンチに腰掛ける三人を発見した。赤嶺がクレープを齧っていた。それを見ただけで、秋の腹の虫が鳴った。
 わざわざ電話で伝えずにやってきたのは、赤嶺に新しい部屋のカードキーを渡すためだったが、おかげでこの後、三時間あまりも三人に連れまわされることになり、さまざまなショップ、客船の見所などを案内された挙句、疲れた三人は何のお礼も言わずに、部屋に戻っていった。
 開放されたのは時刻は午後四時である。くたくたに疲れた秋は、とりあえず部屋に戻ろうとエキストラルームまでやってきたが、エキストラルームには鍵が掛かっている。インターフォンを鳴らしたものの、中から応答は無い。なんてことだろう。自室の鍵が無いとは、これほどまでに不便なのか。この客船に乗っている限り、秋はどこまでも他人の都合で動かされるのだ。
 うんざりしながら、秋は身体を休める場所を探した。さすがにこの巨大な船に招待客52人は少ないようで、あまり他の招待客を見かけない。見かけるのはクルーばかりで、どちらかといえば乗客寄りの立場であろう秋は居心地悪く感じた。
 明日の航海日は、イベント目白押しだ。コンサートにマジックショー。夜には花火を打ち上げ、パーティが開催される。招待客に通常の客船旅行に見られる自由度はない。あくまで『招待客』なのだ。豪華客船アカシックレコード号の誕生日祝いにお呼ばれされた招待客たちはツアー旅行のごとく、船内イベントの都合に半ば社交辞令的に参加させられる。その代わりに船賃、食事はほとんど無料である。
 さて、自分はそのころ何をしてるのか。夢も希望もなくなってきた秋は、ゆっくり夕日の沈む海原でも眺めようと、さきほどのフォーチュンホールとつながっているサンデッキに向かって歩き出した。サンデッキは船首にあり、やはり他の施設よろしく広い。おそらく明日の夜のパーティはそこで行われると思われるが、今は誰もいないだろう。乗客も少ないので、たった一人でデッキを占有できるかもしれない。そう思うと心も浮かれてきた。
 オーナ、キャプテン主催のパーティに向かったときと同じプロムナードデッキを歩く。プロムナードデッキの船体側は客室が並んでおり、丸い窓の向こうに客室が見える。四階はすべてステートルームで、シングルの個室である。一番多い客室だ。その部屋も使用している様子は無い。夕暮れを感じさせる空と同調して、少し寂しさを感じた。
 プロムナードの先から、子供づれの夫婦が歩いてきた。夫婦は間に子供を挟み、和やかに会話しながら歩いてくる。男の子供は両親の手にぶら下がりながら飛び跳ねたり、声を上げたりしている。胸が切なくなる思いがして、秋は不意に母親を思い出した。十三年前の冬、秋の母親は脳腫瘍で亡くなった。皮肉にも、秋の母親は脳神経医学の研究員だった。その昔、風木島と呼ばれる小さな島に立てられた総合医療研究所で、医療器具やそれらのシステムの研究、開発をしていたのだ。
 風木島は研究所が立てられていたが、同時に観光地でもあり、大掛かりなキャンプ施設があった。無人島に近い島で、民家はあったが、研究所の職員か、キャンプ場の従業員しか住んでいない。
 思い出される十三年前の夏。通称、風木島失踪事件。ある日、突然、なんの突拍子も無く、気配も前触れも前兆も無く、島にいた全員が失踪した。当時、大掛かりに報道され、数々のオカルト雑誌に現代の神隠し事件として多くの記事が掲載された。政府も調査に乗り出す大事件となったが、一切の事実は究明されなかった。現在でも、その失踪事件は謎のままである。
 
 
 
 秋の記憶が際限なくあふれ出す。いつもそうだ。ふと寂しさを感じるとき、それは幾度も記憶の中で蒸し返され、忘れることも消し去ることも出来ない記憶となってきた。実は風木島にいた全員が失踪したわけではない。一番最初に風木島の異常を発見したのは、キャンプ客をフェリーで運んできた船長と、そのフェリーで風木島に訪れたキャンプ客七名が発見したのだった。忽然と消え去った人々。フェリーの船長らはすぐさま警察に通報し、大々的な捜索が行われた。いったい何名の警察官が導入されたのか、捜索を開始して三日目、生存者は皆無と誰もが諦められたころ、一人の生存者が発見された。
 当時、シーズン中という事もありキャンプ客は百二十三名いた。別荘に来ていた所有者は三家族の十三人。研究所所員とキャンプ場従業員の百九十名。あわせて三百二十五名から唯一の生存者一名を除いた、島にいた人間がごっそりと消え失せてしまった。死体も発見されず、キャンプ地、別荘地、研究所も争った形跡も荒らした形跡も全くなかった。それこそ、いつも通りにキャンプを楽しむ人達が、一斉に何の前触れもなく、煙となって消えうせたごとく、いなくなってしまったのだ。キャンプ場では、バーベキューの途中だったのか、食べかけの肉や野菜が鉄板の上で焦げていたというし、テーブルの上には飲みかけのジュース、化粧の途中を思わせる開いたコンパクトが置かれていたという。洗い場の水道は流しっぱなしになっていて、たくさんの食器が長時間水を浴びていた。
 なかでも特に不可思議であったのは研究所である。コンピュータの電源は入りっぱなしで、何かの作業中の画面が保存される事もなく残っていた。会議室では、今の今まで会議が行なわれていたかのように、テーブルに配られた資料と、灰皿の上には少し吸って置いたままされたタバコの灰が、タバコの形のまま残っていたという。トイレなどは中からカギが掛かっていたにもかかわらず、中には誰もいなく排泄物が異臭を放っていた。研究所内には、特定のIDカードをもった人間しか入れない施設がある。すべての部屋に誰でも出入りできるものではないのだ。個人の身分を示すIDカードなしでは研究所敷地内さえ立ち入ることが出来ない。IDカードリーダーにカードを通すと、マグネットストライプからセキュリティシステムに個人の情報が読み込まれ、データベースにログが蓄積される。いつ誰が研究所に入り、どの部屋に入り、何時何分に部屋を出たか。そして、いつ研究所を後にしたか。事細かに記録されるのだ。もちろん、その出入りの状況を蓄積したファイルも調べられたらしいが、どの部屋も入った形跡はあっても、出た形跡がない部屋が大部分だったという。記録上では入所した失踪した所員に表に出たような履歴は残っていないのだ。
 研究所は無数の密室の集合体だった。それなのに、研究所にさえ誰一人として発見されなかった。
 何の抵抗もなく、何の因果もなく、人が消えうせるものだろうか。未だに何の謎も解かれていない。事件後数年は、この風木島はしばらく封鎖されていたが、そのうち時の流れとともに島を管理するものも途絶え、島に出入りしたがるものを咎めるものはいなくなった。島の所有者は、総合医療研究所を所有する「清林堂」という化粧品会社だ。事件後、すぐに島を売却しようとした会社は、不景気のあおりを受け、売却するわけにも行かない事情ができた。バブルで高騰した島の土地は、バブル崩壊とともに急降下し、すずめの涙ほどの金額にしかならない。タダ同然で明け渡すよりは、どうにかこの無人島を生かして利益につなげようとした。事件のあった研究所を残し、いつしか怪奇事件の名所として観光地にすることを企んでいるのか。さすがに、事件からまだ十三年しかたっていない。事件で失踪した遺族の心情もあり、観光地にはできずに現在は放置状態の有様だ。
 当時、怪奇事件として異常なほど騒がれることになった引き金は、島でただ一人、発見された少女の言葉のせいだった。おそらく、混乱を巻き起こしかねない事件を隠蔽しようと政府や警察機関が動いてもおかしくなかった。だが事件は衝撃的なテレビ局の報道で、一躍全世界の話題となったのだ。
 当時、一人の女の子が全国放送で、ブラウン管の前に映った。生中継であったし何より女の子は被害者であって顔にモザイクを入れられることはなかった。秋もリアルタイムでその様子をテレビで見ていた。意識の混濁。秋はそのとき初めてそれを見た。
 夜の島。テレビ局の人間たちが幾つものライトを焚き、夜の森の中は昼間のように明るい。その場の騒然とした雰囲気は、テレビの前にいる秋にも半分くらいは伝わってきた。
 突然、森の中の映像が画面に映され、カメラマンの動揺を反映しているかのように画面は揺れ動き、乱れた画像が数秒間映った。体勢を立て直したカメラは、半回転して女性のレポーターを映し出した。その際、ほかのテレビ局のカメラを抱えるカメラマンや、レポーターが、どっと沸いたように騒ぎ出した。秋は目を見張る。何が起こったのかと食い入るように画面を睨みつけると、レポーターが叫び声のように、鬼気迫った声でレポートした。
 ――生存者です! 生存者が発見された模様です! えー、見えているでしょうか!
 そう言ってレポーターは一歩脇へ逸れ、背後の森の視界をカメラに明け渡し、指を差した。そこから数人の制服姿の警官たちが姿を現した。
 ――ご覧ください。えー、ただいま入りました情報では、発見されたのは、女の子……。幼い少女のようです!
 制服の警官たちが、阻むようにカメラから少女を覆い隠した。手をはためかせて報道陣をどかそうと顔を渋らせて怒鳴っている。
 ――少女の状態は、いったいどうなんでしょうか! 元気なのでしょうか! それがとても心配されます!
 警官隊の間から発見された少女が姿を見せた。
 ――あ! あの子です! 発見された少女です! ああ、なんてこと!
 レポーターが悲鳴を上げる。警官の一人に抱きかかえられた女の子は、体中が真っ黒であった。顔も真っ黒だ。その顔の中で目だけがぎょろりと泳ぐ。
 ――とても汚れています。大丈夫なんでしょうか。捜索開始から三日目の今日。何も飲まず食わずだったのでしょうか。戸惑っているようで、彼女に表情はありません。
 少女が姿を見せたことにより、気遣いからか、レポーターは声を抑えてそう言った。
 ――いま、警官の人に連れられて、彼女が救急車に乗り込みます。フェリーでやってきて、待機していた救急車です。島に病院はありませんから、救急車が臨時の病院というわけです。おそらく、救急車に乗せてフェリーで本土に帰るなど、悠長なことはしないと思われます。診察を受けて、動かせる状態ならば、警察のヘリで本土まで乗せていくことになると思います。
 救急車がエンジンをかけた。その音に、まだしゃべり途中のレポーターを無視して、カメラが救急車に向く。救急車が発進すると、誰もが緊張の面持ちでそれを見守った。ところが突然、救急車はエンジンを切った。
 切ったのではなくエンジンが止まってしまったのだ。救急車は再びキーを回して、きゅるきゅるとセルの音を鳴らしたが、まったくエンジンは無反応だった。エンジンの異常だということはすぐにわかった。
 レポーターは、その状況を必死に説明する。熱心なレポーターは業を煮やして、画面から外れたカメラマンをつかみ上げると、引っ張って救急車の近くに寄っていった。この積極的なレポーターの努力の甲斐あり、そのテレビ局は伝説的な怪奇事件として、世間を震撼とさせたあの言葉をマイクに捉えるのである。カメラの前に警官が立ちはだかって手をかざした。警官の手のひらが画面いっぱいに広がり、その指の間から少女の顔が映った。エンジンがかからず、少女を移動できないと悟った救命士が、少女を抱き上げ救急車から出てきたのだ。
 レポーターの女は、ここぞとばかりに声を張り上げた。
 ――お譲ちゃん、大丈夫?
 声は大きかったが、とても優しげで不安げな声だった。
 ――怖くなかった?  ほかの人はどこに行ったの?
 レポーターは偏った使命感を抱いていたのだろう。この異様な雰囲気の中で、少女へのいたわりを忘れてしまったとしても、それは仕方がないことだ。レポーターは、警官に押さえつけられながらも、手に持ったマイクを必死に少女に突き出した。マイク秋奇妙な声を拾った。少女は、呆然と虚空を見つめたままだ。
 ――え!?
 よく聞こえなかったレポーターは、ひどくいぶかしんだような鬼面で聞き返した。少女は呆けたような表情のまま、唇をかすかに震わせた。
 ――変えるの。
 少女のそう言った声が聞こえてきたし、彼女の唇も言葉どおりに動いた。
 ――何を変えるって?
 労りを忘れた追求するかのようなレポータの声。
 ――灰色の世界を、白と黒に分けるの!
 少女にマイクを向けたまま、呆然とするレポータ。何を言っているのか。理解できず脳機能が停止したのだろう。
 救急隊員が報道陣でごった煮返す人ごみを掻き分け、カメラのフレームから消えていっても、レポータは立ち尽くし、呆然としていた。
 カメラマンに「おい」とどやされ、自我を失っていたレポータは亡霊のように画面よりやや後方を見やる。
 ――最初に『ももいろくも』って言ったの。ねえ、なに? 『ももいろくも』って。
 カメラに映っていることも忘れ、内輪の会話をしだすレポータ。
 そこでカメラの映像はスタジオに戻る。
 スタジオでは冷静を保とうとする司会者が取り繕うように少女を心配する言葉を朗読したが、その内容までは秋の記憶にない。
 後の警察の発表では、その後、ショック状態で言葉らしい言葉ははかなかったというし、ショックで口を開く事はおろか、意思表示もまともにできない精神状態に陥って、病院に入院した。警察は、彼女から有力な手がかりも得られず、それどころか彼女とは日常の会話さえできなかったという。三文週刊誌で時々取り上げられた「風木島失踪事件」のその後を特集したものがあったりする。信憑性はまったくないが、事件は「継続」という形で幕を落とされた。時効が成立しようとしている今、当時の事件を取材した記者たちが面白がって、さまざまな雑誌で特集を組んでいる。島には実は地下の町があって、そこに失踪した人たちが暮らしているだの、失踪の原因は神隠しにあるとして神隠しの歴史を延々と特集していたりしている。
 その少女。その少女の記事もあった。現在、某精神病院で、現在でも入院治療中であると書かれていた。当時のトラウマは今でも彼女を癒すことはなく、何もしゃべらぬままベッドの上で、天井だけを睨みつけながら呼吸をしているだけの日々だという。秋にとって、その唯一の生存者である少女の記憶とは、そのテレビ画面だけのものではない。秋の胸を締め付け、甘酸っぱくさせる記憶にも登場する少女だった。
 
 
 
 秋はその子の事を良く知っている。別荘地によくいた女の子。幾度となく一緒に森を探索し、秘密の場所での密会し、取り留めのない会話をし、二人で考えたその場だけの遊びをした。キスをしたかもしれないし、身体を触りあったかもしれない。記憶は当時を胸の心地よい高揚とともに蘇させる。多くの部分は忘れてしまっている。例えば顔や表情、しぐさや声などはもう憶えていない。ただのっぺらぼうな少女が、森の中で秋の事を呼んでいる。少女についていくと、小さな沢で手に掬った水を宙にばら撒いて、きらきらときらめく光の粒の中、ころころとよく笑っている。少女の持っていた宝箱。宝石がちりばめられたように装飾された綺麗な箱の中には、きらきらと輝く小さい石や、ビーズ、折り紙、おもちゃの指輪、ネックレスが詰まっている。秋のポケットの中には、土やチリばかりだ。少女に「宝物は?」と訊かれて、自分の腕時計を指した。腕時計は壊れている。最初から壊れていた。雨の日に学校帰りに拾った銀色の腕時計。たったそれだけのものだ。なぜそんな拾った壊れた時計に愛着を感じてたのか。たぶん理由はない。理由のない宝物。両親にもそんな時計は捨てて、ちゃんと動く時計をしなさいと、当時流行していたデジタル腕時計を購入してもらったが、一度もしたことがなかった。
 秋はその壊れた腕時計を捨てる気にもならなかったし、風呂などに入る以外にはずしたこともなかった。あああの腕時計は、今どこにあるのだろう。いつの間にかどこかにいってしまった。銀色のどこでもありそうな安物の時計。意味のない宝物。
 少女はその腕時計を見て、言った。
 ……あれ? なんと言ったっけ?
 思い出せない。秋は少女の言葉を聞いて嬉しかったはず。重要な事のように思うが、大した事でもなかった気がする。記憶の糸を手繰ろうとしても、その糸は伸びて細くなるばかりで、その先は見えてこない。あまり手繰ると切れてしまいそうなので、思い出すのをやめた。そのうち、何かの拍子で思い出すことを期待して。
 
 
 
 秋がサンルームの傍まで来ると、不意にサービスクルーに呼び止められ、行き先を訪ねられた。サンルームに行こうとしていると話しすると、サンルームは明日のパーティの準備で入れないと言われた。秋はがっくりと肩を落すと、仕方なく来た道を引き返し始めた。
 どこか行く場所は無いかと思案し、同じ四階にレストスポットと呼ばれる、休憩所のような小さな空間がある。客室の奥まった場所にある。待合所のような場所と想像してもらえばいいし、そのくらいの目的しかない。
 広い船内、どこへ行こうと自由なはずなのに、行き場所を失った秋は、もうそこしか残されていない。何かを食べたかったが船内のレストランで食事をすれば、馬鹿高い料金を取られる。なんとしても無料で食事の出来るオーナー主催の夜のディナーパーティまで耐え忍ばなければならない。
 三度プロムナードデッキを歩いていくと、背後から突然腕を掴まれて、秋はたまげてかすれた悲鳴を上げた。振り返ると必死な顔をした星名ひゆりがいて、秋は急激に激しくなった動悸に苦しさを味わいながら「どうしたんですか?」と訊ねた。
 星名ひゆりは秋を責めるような、泣き出しそうな顔で「もう、わたし、どうしていいか」と顔を近づけてきた。
「秋さんのこと探したんですよ。でもどこにもいなくて」
「僕のことを? また何かあったんですか? 僕を探してたって、いつから?」
「ずっとです。パーティが終わってから、ずっと、わたし、探してました」
 必死な表情でも、舌足らずな口調は緊張感を薄める。本当にひゆりはそれほど困っているのだろうか。
「何があったんですか?」
「わたし、分からなくて……。秋さんが教えてくれると思って、ずっと、わたし、探してたんですよ」
 逃がしてはなるものか、と、ひゆりはひどい力で秋の腕を掴んでくる。
「僕に何の用ですか?」
 ひゆりは両腕で秋の両腕を掴み、詰め寄ってくる。顔が近い。相手は美女だ。加えて周囲には人影は無い。過ちを犯してしまいそうで秋は動揺する。
「あの、わたし、部屋が……どこにあるか分からなくて」
 吐息が伝わってくるほどに顔が近い。二十センチほどの距離しかない。唇を突き出せば、口付けが出来てしまう。
「部屋ですか? 何の部屋を探してるんですか?」 
 ひゆりが首を傾げる。秋の言葉が理解できないかのように「なんですか?」とたずね返してきた。
「どの部屋に行きたいんですか?」
 秋がもう一度たずねると、ひゆりは眼を大きくして「私の部屋です」と答えた。
 秋は気づいて呆然とした。まさか、ひゆりは自分の部屋の場所が分からなくなって、迷子になっていたとでも言うのだろうか。
「自分の部屋が分からないんですか?」
 ひゆりは、だからそう言ってるじゃないか、と苛付いたように口を尖らせると、頷いてみせる。一体、小山内の連れてきた生徒たちは何者なのだろう。分別が無かったり、自分の部屋が分からず迷子になったり。呆れ果てて肩を竦めるような態度をとるわけにもいかず、秋は「それじゃ、一緒に行きましょう」というと、ひゆりは胸を撫で下ろして、疲れ果てたように項垂れた。項垂れたひゆりの髪が、素肌の秋の腕に擦れ、心地よいようなくすぐったいような気がした。それは男の欲情に直結しており、このまま部屋に案内して、秋も部屋に入り込むと、そのままひゆりをベッドに押し倒す卑猥な妄想が頭を埋めた。
 ひゆりは、それこそ迷子にならないように父親の手を握る子供のように、秋の半そでの袖口を掴んで後をついてくる。
「星名さんは船内を観光したんですか?」
「かんこう?」
 ひゆりは訳がわからなそうに聞き返してくる。それほど難しい質問をした覚えは無い。
「今までどこに行ってたんですか?」
「今まで、秋さんを探してたって、言ったじゃないですか」
「今までって、いつからですか?」
「パーティの時からずっとと言ったじゃないですか。秋さん、一緒に行こうと言ったのに、いつの間にか居なくなるなら、ずっと探してました」
 探し回る心細さと、怒りを思い出したのか、不満そうに頷いてみせる。まるで「お前が悪いんだ」と言わんばかりの表情だ。いや、そう物語っている。
「すみませんでした。携帯の電話番号を渡しとくべきでしたね」
 いくら世間知らずの箱入り娘でも、電話のかけ方ぐらいは知ってるだろう。
「六時からメインエントランスの隣にあるダイニングルームで、ディナーパーティがありますよ」
「また何かあるんですか?」
 うんざりしたような顔。もう表に出るのは辟易しているようだ。
「もちろん参加は自由ですが、多分、みんな参加することになると思います。豪華食事が無料で食べられるわけですから、行って損はないと思いますし」
 気がすすまなそうである。福田は何をしているのだろうと、ふと気になった。あれほど星名ひゆりに熱を上げているのならば、困ってる今の彼女は格好の売り込み時ではないか。
 と、秋が思っていたら福田が現れた。たとえ心の中であろうと、噂をすると丁度現れるような人間といるもので、おそらく福田がそうだと秋は思った。
 福田は、秋とひゆりの十メートルほど先にある出入り口より、船内から姿を現すと、二人を見つけるなり目を丸くして「あ」と吼えた。身構えるような福田の態度と、犯罪者を発見した警官のような顔をみて、秋はこれから起こるちょっとした騒動を予感して落ち込んだ。
「なにやってんだよ、アルバイト!」
 つかつかと足音を鳴らしながら詰め寄ってくる福田。顔中に汗を掻いている。様子からすると、ひゆりが秋を探していたように、福田もひゆりを必死に探していたようであった。
「なんでお前が星名さんと……!」
 やっと見つけたひゆりが、秋と一緒に居た。しかもひゆりは秋の腕にしがみ付いているし、一見すると、もしかしたら親しげに見えないことも無い。
 ああ、と秋の胸が呻き声を上げた。福田は憮然とあごを突き出すと、腕を突き出して秋の肩を小突いできた。さすがに湧き起こる怒り。福田は捲し立てるように言った。
「お前、アルバイトだろ。なに考えてんだ? 星名さんとどこに行ってた? 星名さんに何かしなかっただろうな」
 どういう了見で、秋は所詮アルバイト扱いされているのか。深海に潜っていくように怒りを溜めていく秋。アルバイトは奴隷ではないのだ。口答えが許されない下等生物なわけではない。仮にひゆりを口説いて、親密な仲になったとしても、許されない行為ではないし、恋が芽生えるのなら、それは当然許される権利である。
 福田はひゆりの腕を掴むと、強引に手前に引き寄せた。ここでひゆりが「いやっ」と福田の手を振り解いて、秋の背中に隠れるようなことをしてくれれば良い気味だったのかもしれないが、ひゆりは全く抵抗せず「福田さんが部屋まで連れてってくれるんですか?」などと尋ねている。
 抵抗のないひゆりの態度は、福田に優越感を抱かせる。余裕を取り戻したのか、福田は一歩秋に近寄ると、顔を近づけてきた。秋は絶対に表情に感情を示さなかった。恐れたとしても怒っていたとしても、福田相手に感情的になることは負けを意味するような気がしたのだ。
「今度、星名さんに何かしてみろ。分かってるよな。俺の断りなく、星名さんに近づくな。困ってる星名さんを見かけたら、俺に声をかけろ。お前はもう星名さんと口を利くな」
 秋は口答えせず、考えをめぐらせた。極上の皮肉を口走って、とことん福田を不愉快にさせることよりも、後腐れなく福田を黙らせる方法はないか。今後、また福田に絡まれてたら、秋の胃袋はずたぼろになってしまう。福田にはとことん納得してもらうしかない。
 秋は口を開いた。
「星名さんとはーー」
「口答えするな。納得したなら黙って頷け」
「黙って聞くのはあなたです」
 多少凄みを利かせた声だった。意図したものではない。秋の声に怯んで唇をわななかせる福田。秋はそれを見て取って、一歩福田に詰め寄った。一歩下がった福田は、まるでひゆりをかばう様に、ひゆりの身体を背後に回す。誤魔化している。ひるんだ自分の感情を、ひゆりを守るためなどと、自分の感情を置き換えている。
「星名さんとはそこで会って、部屋の場所が分からなくなったというので案内していただけです。僕の仕事です。僕の仕事は皆さんをフォローすることです。そのことにとやかく言われる筋合いはありません。星名さんが困っていたら、福田さんが解決してあげるというのなら、そうしていただいて結構です」
「な、なんだよ、その態度は」
「福田さんのおっしゃるようにすると言ってるんです。星名さんが困っていたら、福田さんがどうにかする。結構です。僕は何もしません。でも星名さんが僕に何か他の頼みごとをしてきたら、もちろん引き受けます。仕事ですから」
 星名ひゆりと恋愛するなら勝手にやってくれ。横槍を入れるつもりはない。僕に文句を言うのは筋違いだ。星名ひゆりと秋との交流が許せないのなら、星名ひゆりを説得して、自分の思った通りにさせろ。そう言ったつもりだが、伝わっただろうか。
 秋は福田の顔色を窺う。思案しているのは分かるが、秋を敬遠するかのように顎を引いている。掻いている汗の量は先ほどより多い。
「僕は仕事があるので、行かなくてはなりません。星名さんは自分の部屋が分からないそうです。福田さんが変わりに案内してあげるんですよね?」
 福田は憮然と秋を睨みつけている。福田は秋という飼い犬に嚼みつかれた思いなのだろうか。どうやって自分の優位を取り戻すか、それを考えているのだろうか。
 秋は後悔した。多少感情的になってしまったからだ。秋の腹立ちが口調に表れた。どうしようかと逡巡する。秋はおもむろに福田の腕を掴んだ。手前に引っ張り、福田をひゆりから距離を置く。福田は「なにをする、はなせ!」とわめいていたが、秋は無視して、ひゆりに声が聞こえないくらいの距離を置く。
「福田さん。僕は敵じゃありません。皆さんが旅を楽しく過ごしてもらうために居るんです」
 秋が声のトーンを落してそう言うと、不思議そうなひゆりが近寄ってきたので「ちょっと待っててください」と手のひらを突き出して制すると、ひゆりは不思議そうに立ち止まった。秋は再び福田に向き直ると小声で言った。
「福田さんは星名さんのことが好きなんですか?」
 そういうと、福田はあからさまに狼狽して「な、なに言ってんだよ」とどもった声を出す。
「それなら、僕に言ってくれればいいんです。言ったでしょう? 僕は皆さんに楽しんでほしいんです。福田さんが星名さんと一緒に居るのが楽しいのなら、僕に相談してくれれば、素敵なスポットやお店を紹介できます」
 福田の顔色が変わってくる。訝しげな顔が巣に戻ってゆき、秋の話に集中し始めている。
「なんなら舞台設定をしてもいい。サンルームを二人の貸しきりにするように手配してもいいし、そこに食事や飲み物を用意しておいてもいい。明日の夜には花火があるから、ふたりで寛いで見れる場所を確保してもいいです」
 福田が秋の話に聞き入っている。その背後では不思議そうにひゆりが二人のことを覗き込んでいる。
「分かりましたか? 僕の仕事のこと。僕は敵じゃなくて味方です。福田さんのことを応援してます。困ったことがあれば、僕に相談してください。そのために前もって準備してきています」
「本当に応援してくれてるのか?」
「もちろんです」
 秋の返事を聞くと、福田は一回ひゆりのほうを振り返る。見られたひゆりは、やはり不思議そうに福田の顔を見返している。秋に向き直った福田の表情は、なんと微笑を称えていた。嬉しそうな、照れくさそうな顔だ。
「お前、本当に役に立ってくれるのか?」
「それが仕事です。僕のこと、アルバイトとして認めてもらえますか」
「ああ、そうだな」
 偽りであろうが、福田と秋の間に和解が訪れる。福田は友好的に、あるいは都合よく主人のいうことを聞く飼い犬を見る目で、秋に眉を動かして「後でよろしく頼むな」としぐさで伝えてきた。秋は親指を立てて答えて見せる。福田は踵を返してひゆりに近寄ると「じゃあ、部屋まで行こうか」と手を引いて、振り返りもせず居なくなった。
 二人の背中を見送る秋。二人の姿が見えなくなると、秋はがっくりと肩を落した。傍にベンチでもあれば座り込んでいたところだ。
「疲れる……。給料の額は、それだけ重労働だったってことか」
 叔父さんの提示したアルバイト料も、今では妥当に思えた。


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