桃色くも


-------------------------------------------------------
0/1/2/3/4/5/6/7/8/9/10/11/12/13/14/00

-------------------------------------------------------

第三章 〔 探偵 〕 


 船の出港より、一ヶ月ほど前。
 主に社内の雑用、経理をお願いしていた優秀であった女性の秘書と、興信所時代から付き合いのある同業者から派遣してもらっていた派遣社員二名を、二年ほど前にリリースしてから、本職の私立探偵業はほぼ廃業していたに等しかった。
 雑居ビルの一室を借りて開いていた事務所も、今となっては訪問客も皆無だ。なんらかの古いチラシでも掘り返して、邑崎の探偵事務所に相談しに来る客がいたとしても、荒れ果てた事務所内を一望すれば、そこがまともに営業していないことは一目瞭然だ。面会の後に乙沙汰がなくなるか、親切な人間なら、翌日に依頼断りの電話を一本してくる。
 若いながらも、持っている名刺には小さな探偵事務所の「代表取締役」と銘打っている邑崎が、排他的な生活を送るようになったのは二年前の事故に起因した。
 交通事故だ。職務中の事故で、労災も適用された。入院は二週間ほどで、今はまったく後遺症もない。五体満足だし、その事故で誰かが死んだわけでも、誰かが不幸になったわけでもない。小さな事故だったし、今では示談が済んでお互い関係のない生活を送っている。そうだとしても、邑崎が労災で降りた保険金と、それまでの貯蓄のみで仕事もせずに生活してきたことは確かだし、その切掛けがあの小さな交通事故であったことも確かだ。
 さて、そんな廃れた探偵事務所に奇妙な客が来たのは真夏を直前にした七月の中旬。エアコンも故障し、窓を開けても向かいのビルの側面しか見えない、暗く湿った蒸し暑い事務所に一人の来客があった。
 客はセーラー服を着ていた。もちろん邑崎が呼びつけたコスプレ有りのデリヘルではないし、身内の人間が遊びに来たわけでもない。紛れもなく相談者だ。
「失礼します」
 瞭かに子供のそれの声で、邑崎探偵事務所の扉を開けた少女は事務所内に篭っている熱気と男臭さに一瞬躊躇したように足を止めたが、次には意を決したように事務所に入り込んでいた。
 枯れた観葉植物に挟まれたディスクに足を投げ出し、空間にたゆたう紫煙を眺めながらぼんやりしていた邑崎は、意外な来訪者に言葉を失った。
 少女は無表情に、控えめに会釈をすると、どうしてよいか迷っているかのように事務所を見渡して見せる。
 邑崎は煙草の吸殻が山盛りに詰まれた灰皿に煙草を押し付けると、新しい煙草を取り出しながら言った。
「ここがどこか分かってやって来たのかい?」
 彼女は不審そうに眉をひそめたが、はい、と唇を動かして肯定いて見せた。邑崎は苦笑すると煙草に火をつけて、吸い込んだ煙と一緒に言葉を吐いた。
「ここは探偵事務所で、不倫調査や家出人探し、親不孝な子供の素行調査などを依頼者に代わって行う人間がいる場所だ。それらをお願いするには金がいる。君の年齢からすれば目玉が飛び出る金額だ。さて、君はここに何をしにきたんだい?」
 邑崎は故意に鷹揚のない声でそう言った。ここは大人の闇の部分が色濃く支配する背徳の世界で、君のような股間に膜が張った少女が来ていい場所ではないし、間違えば危険な目に会う場所だ、そう印象付けて、セーラー姿の少女に帰って頂くためだ。場違いであると意識してもらえたのか、少女は微かに肩を張っている。邑崎に対して嫌悪か恐怖か、あるいは両方か、胸に抱いているのは間違いない。
「調査のお願いをしに来ました」
 小さな声だ。だが大丈夫だ。ここは何の音もない。小さな声でも容易に邑崎の耳には届く。邑崎はディスクに両足を投げ出したまま、首を捻って関節を鳴らして見せる。少女に対して威嚇しているつもりだが、少女はじっと邑崎を見詰めているだけだ。その目に賛えられる少女の意思が邑崎には読み取れなかった。自分の瞳は力を持っていると重大な勘違いしている思春期の少女か、それとも悲痛な覚悟で不潔な男に挑もうとしている少女の瞳か。読み取れなかったが、そのどちらかであることは間違いないようだ。
 邑崎はディスクから足をおろし、今度は両肘をディスクの上について、組んだ手の上に顎を乗せる。
「勘違いしないで欲しいが、ここは犯罪行為を代理してくれるような場所じゃないし、君が悩んでいる恋愛沙汰を成就させてくれるような場所でもない。両親の虐待に対して助けを求める場所でもないし、君がしでかしてしまった失敗の後始末、尻ぬぐいをしてあげられる場所でもない」
 邑崎の言葉に対して、少女は無反応だった。動揺が見られないということは、邑崎の言葉の中に、少女の依頼内容は含まれていないということだ。ここまで邪険な邑崎の態度に、少女がその場を一歩も動かないということは、子供なりに真剣な決意があるらしい。だからといって邑崎が腰を上げて、事務所内のソファーに手招きするわけではない。
「お金はあります」
 少女は幾分しっかりした口調でそう言った。お金はあります、いつかは少女がそう口走るだろうと思っていた邑崎は、一笑に付してやる。
「これからの人生に役に立つアドバイスをひとつ。大人が金だけで動くと偏見を持ってるなら間違いだ。金は面倒ごとも運んでくる。大人が金銭より都合を優先すること幾らでもある」
「お願いです。この場所を探すのにすごく苦労したんです」
 少女は邑崎の話を聞いていない。あるいは邑崎の言葉の意図を理解するほど成熟していない。
「探偵社などほかに腐るほどある。ここだけじゃない。俺はほかの探偵社を紹介したり、地図を描いてやったりするほど親切じゃないが、探す方法は教えてやろう。小銭をはたいてインターネットカフェに立ち寄り『探偵社』とキーワードを打て」
「私はこの探偵社に依頼をしたくてここに来たんです。ここにくるまで、場所を近所の人に聞いたときに評判は聞きました。もう営業してるかどうかも分からないって。事務所には浮浪者のような男が時々出入りしてる。危ないから近寄っては駄目、って」
「そこまで分かっているなら話は早い。実際にやって来て判ったろう。ここは君が来るような場所じゃない。家に帰れ」
 もう相手にするのも面倒になり、目の前を飛び回るハエを振り払うように、手を一振りさせて見せる。口調の鷹揚の無さに、少女はたじろいで見せる。下唇をかみ締めて顔を伏せる。後ろめたさが胃袋に細い針を突き刺す。少女に対して余り冷たい態度を取ると自分の胸の中にいる神様が釘を刺す。できれば余り刺々しい言葉を吐きつける前に、少女には帰って欲しいものだ。
「邑崎さんですよね?」
 少女はうつ向いた顔から、視線だけを邑崎に向けた。
「本当に邑崎さんですよね?」
「そうだが」
 なぜ、そんなことを確認するのだろうか。少女は突然、涙を流し始めた。憎たらしそうに邑崎を睨みつけながら大粒の涙を流す。邑崎は努めて平静を装いつつ口を開く。
「実は、うちはもう依頼を受けるほど力が無いんだ。もう事務所を畳もうと思ってる。悪いが依頼があっても承けてやることは出来ない」
 邑崎の声に、多少のやわらかさが感じ取れたのか、少女は涙をためた瞳を、もう一度邑崎に向けた。
「万里夫さんを知っていますか?」
「万里夫?」
 邑崎は首を傾げて見せる。
「それは誰だ?」
 内心の動揺を押し殺してそう答える。ただし、今度ばかりは動揺を隠し通せたかどうか分からない。
「万里夫さんはあなたのことを知ってた。あなたのこと、恩人だって……」
「分からないな。俺が恩人だって? そんな人のために何かをしたことなんてないな」
「中学校の同級生の緑川万里夫さん。あなたは同級生の邑崎郁丸さん。だからあなたに依頼を頼みに来たんです。緑川万里夫さんを索してください。あの人の居所が知りたい。あの人にもう一度会いたい」
 少女はその言葉を吐くとき、涙を流さなかったことが気になった。それに少女は邑崎にとっても重要な人間であることは間違いない。邑崎は腰を上げ、ため息混じりにソファーへ座るよう促した。
「君はいったい、万里夫とどんな関係なんだ?」
 少女が座ったソファーに向かい合うように、埃の詰まれたガラステーブルを挟んだ反対側の腰掛けた。今の邑崎の言葉はすでに万里夫を認知している。
「私は万里夫さんに助けられたんです。もう一度会って、お礼が言いたいんです」
「助けられたとは?」
「言いたくありません」
 邑崎は顎の無精ひげを撫でる。宙に視線を泳がせ逡巡する。
「万里夫は確かに俺の同級生だ。君はそれをどうやって調べた?」
「調べたんじゃありません。万里夫さんに聞いたんです」
 確かに、知る方法はそれしかない。邑崎はなおも思案する。どうやら嘘を言っているようには思えなかった。
 ――万里夫と俺が同級生であると知っているのは、万里夫と俺だけだ。記録さえ残っていないはず。
「万里夫とはどこで会った?」
 尋ねると、少女は上目遣いに邑崎を睨んだ。
「依頼を受けてくれるんですか?」
「話を聞いてから決めよう」
「受けてくれるまで、何も話しません」
 どうやら邑崎の動揺を悟られてしまったらしい。邑崎にとっても万里夫の居場所の情報は喉から手が出るほど知りたいものだ。それに気づいた少女は、足りない頭で交渉しようとしている。なかなか賢明だ。
 ――さて、子供一人あしらって吐かせるのは簡単だが。
「分かった。とりあえずビジネスの話をしよう。君の依頼内容を聞こう」
「私は万里夫さんに会いたいだけです。会ってお礼が言いたいだけです」
 少々イラついたように声を荒げる少女。
「君の名前は?」
「白波瀬凛子です」
 消え入りそうな声で答えた。
「なぜそんなに怒ってる?」
「だって……万里夫さんに聞いた邑崎さんはもっと……」
 優しい人だと思ったら、冷たい人だったから怒っている。そんなことを追求しても仕方がない。
「君は万里夫に会ってお礼を言いたい。つまり調査依頼は人捜し。万里夫の居場所を突き止めて、君に教えれば依頼完了ということでいいか?」
 彼女は一瞬、考え込んだ。
「……違います。会わせてください。万里夫さんに会いたいんです」
 この女は馬鹿じゃない。いや想いに一途なだけか。
「どうして俺じゃないと駄目なんだ。ただ同級生だけって理由だろ」
「万里夫さんは私を救ってくれたんです。その万里夫さんは邑崎さんに救われたって言ってました。だから」
 再び泣き出しそうになる凛子。
「君は万里夫のどこまで知ってる? あいつがどんな人間なのか知ってるのか?」
「邑崎さんは知ってるんですか?」
 問い返され、言葉に詰まる。
「……万里夫とは中学以来会ってない。だが」
 言いかけて、言葉を噤む。
「万里夫が、俺に救われたというのがどういうことか分からないな。むしろ救われたのは」
 再び口を噤む邑崎。言葉の先が聞きたそうな凛子の視線が耐え切れず、邑崎は席を立つと茶を入れようとポットに向かった。
「依頼、受けてくれますか?」
 今度はか弱さを主張するかのような細い口調だ。わざとやっているとしたら侮れない女である。
「そうだな。こういうのはどうだ」
 茶渋の残った茶碗に入ったぬるい茶を、少女が飲むかどうかは知らなかったが、淹れた茶を彼女の前におく。邑崎は再びソファーに腰掛けると、彼女のほうに身を乗り出した。
「お互いに持っている情報を提示しあう。それで居場所が分かるかどうかは分からない。だけど君は万里夫の居場所の手がかりを得る。もちろん交換だから金はかからない。君は懐も痛まないし、情報も手に入れられる」
「いやです。私はここにくることが精一杯でした。ここを捜すの、本当に苦労したんです。私一人じゃ、なにもできない」
 凛子は必死である。声は小さいが、悲壮な決意が伝わってくる。両親が心配してるぞ、と言い掛けてやめた。ここで両親を出すのは得策でない気がした。なるべく彼女の感情を刺激したくない。凛子がおもむろにバッグの中をまさぐり、封筒を取り出した。
「お願いします。これで」
 変哲のない茶封筒が、ガラステーブルの上を滑って、邑崎の前まで差し出される。中身は金であろうが、中身の金額が気になったので、突き返す前に中身を確認してみた。十二万円入っている。微妙な金額だ。鼻先で笑い飛ばしてやるには少なすぎるでもなく、多すぎもしない。少女にとっては大金であることは間違いないが、これでは他の探偵事務所に赴いても、ろくな調査は期待できない。
「ひとつ教えてくれないか」
 邑崎がそう言うと、凛子はあからさまに嫌そうな顔をした。邑崎は構わず尋ねる。
「腑に落ちないことがひとつある。重要なことだ。どうしても答えたくなければ、それでいいが」
「何ですか?」
 詮索されるのも嫌だが、もったいつけられるのも不愉快。そう言いたげな凛子に聞いた。
「君が万里夫に救われたとは、一体何があったんだ?」
 凛子は目を丸くする。顎を引いて、かすかに震えだす。邑崎は凛子の瞳に色濃い恐怖と、それから狂気を感じ、背筋に鳥肌を立てた。
「レイプされました。たくさんの男の人に」
 邑崎は凍りついた。そんなことが理由なら喋らなくてもよかった。邑崎はそう思った。
「やめてと言ったのに。たくさん人がいたのに。助けてといったのに。誰も助けてくれなかった。助けるどころか、みんなで私のことを」
「分かった。もういい」
 制した邑崎を無視して、彼女はさらに口を開く。
「みんなが。男の人たちが怖いことをたくさん言って、脅して、叩いて、私のことをみんなで触って」
 凛子の視線が宙を浮く。凛子は大量の汗を掻き始め、自分の頭を叩き潰すかのように頭を抱えた。
「ずっと、なんども、化け物みたいに。悪魔……。みんな悪魔……。そうでしょ? 邑崎さん」
 視点の合ってない瞳で、凛子は邑崎を見た。皿のような目。血の気の引いた蒼白な顔面には青い血管が浮かび上がり、目の下には色濃いクマが覆っていた。邑崎は恐怖で戦慄した。動くことも声を上げることもできず、金縛りにあったかのように凛子の瞳を見返していた。
 突然、気を失ったかのようにがっくりと頭をうなだれた凛子。
「ごめんなさい」
 そう言って、再び顔を上げた凛子の顔には血の気が戻っていた。
 ――加奈子。
 不意に、その名が邑崎の脳裏によぎる。妹の名である。
「私、万里夫さんに救われたんです。どうか……お願いです。万里夫さんに会わせてください。お願いです……」
 邑崎は暑さのせいばかりとはいえない、顎を伝い滴り落ちる汗を拭うと、粘りのあるつばを飲み込んだ。
 それが事実だとしても、いや、事実であるからこそ、邑崎は不可解でならない。本当に凛子が捜しているのは万里夫なのだろうか。
「君は……その体験を覚えているのか?」
 凛子は、不意に殺気を感じたかのように顔を上げると、非難するかのような眼差しを邑崎に向けた。
「忘れるわけない……!」
「……いや、悪かった」
 邑崎は素直に謝罪する。彼女の言葉に嘘はない。いや、相手が子供だから心が油断しているだけか。依頼を受けてやることは出来る。邑崎探偵事務所が廃業寸前だとしても、なにより邑崎個人の現在の目的と重なっている。利害の一致だ。邑崎の目的に、凛子の思いを添付しても、それほど重荷にはならない。むしろ邑崎は近い過去に万里夫と会った重要な証言者の情報を手に入れることが出来る。
 万里夫を見つけ出す。それが簡単でないことは、この2年で理解している。目的は達成できないかもしれない。
 邑崎は思いを巡らす。何より凛子の事情は多少分かったものの、素性は分かっていない。もう少し話をするべきか。安請け合いは彼女にとっても良い結果を生むとは思えない。なおも非難の視線を突き刺し続ける凛子に言った。
「分かった。依頼を受けよう。万里夫を捜して、君に会わせてやる」
「本当?」
 彼女の表情が巣に戻る。
「依頼を受ける。正式にな。費用はこの12万でいい。ちょっと待ってな」
 邑崎はソファーを立つと、ディスクから契約用紙を持ってくる。
「その用紙の太枠に全て記入して印鑑を押してくれ。印鑑がなければ拇印でもいい。二枚重ねになってるから、拇印は両方にしてくれ」
 彼女にペンを渡すと、邑崎は事務所の印鑑はどこへやったかとディスクをまさぐった。印鑑を発見して戻ってくると、凛子はすっかりと用紙の記入を終え、契約書を差し出してきた。邑崎は内容を確認すると、今度は事務所の印鑑を契約書二枚に捺印する。カーボン紙を抜き、二枚目を凛子に渡す。
「これで契約成立だ。よほどの事がない限り、これでお互いに契約を守る義務が発生する」
 彼女は微かに口元に笑みを浮かべる。少女らしい愛でるべき表情が垣間見える。
「その代わり、君の知っていることを全て話すること。それと、あまり言いたくないが君は子供だ。保護者の承認をもらえとは言わない。だけど君の家族のことや、学校のことも聞かせてくれ。素性を明らかにして、いつでも君と接触できるように、都合のいい連絡先を教えてほしい。携帯電話は持ってるか?」
「大丈夫です」
 彼女は光が戻った瞳を邑崎に向ける。
「邑崎さんに、私も付いていく」
 邑崎は固まった。
「なんだと?」
「邑崎さんと、いつでも連絡が取れるように、邑崎さんと一緒に行きます」
 邑崎の言葉に対して、依頼人の発言など大抵は予想できる。だが、この時の少女の発言だけは、培われてきた邑崎の経験と知識をもってしても想像すら出来なかった。
 邑崎の頭脳は真っ白に初期化され、プログラムを再構築するまで、数分の時間を要した。 


-------------------------------------------------------
0/1/2/3/4/5/6/7/8/9/10/11/12/13/14/00
-------------------------------------------------------

【訪問者】  【閲覧者】

inserted by FC2 system