桃色くも


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第二章 〔 客船 〕 


  待ち合わせは港最寄のJR横浜駅である。朝とはいえ真夏の日差しは殺人的だ。秋は扇子で首筋を扇ぎながら、約束の時間、約束の場所――「ブロンズ像の少女」の前――で小山内一行を待った。
 さて、船に乗り込むまでの段取りは次のとおりである。午前九時に駅前で待ち合わせ、点呼をとった後、九時二十分発の送迎バスに乗り込む。一旦、港の待ち合わ施設に乗客が集められ、十時より乗船開始である。秋は待ち合わせの場所に二十分も早く到着し、小山内一行を待った。
 現在の時刻は九時十分。送迎バスには幾人かの招待客がすでに乗り込んでいたが、秋が唯一知っている顔の小山内の姿は見当たらなかったし、学生らしい出で立ちの人間も見当たらなかった。
 要するに遅刻である。しかも、そろいもそろって全員遅刻である。秋がただ一人、待ち合わせ場所を間違えているのか。それは違う。待ち合わせ場所は電話連絡でも全員に入念に伝えたし、段取りをまとめた用紙も郵便で全員に送付した。秋が待ち合わせ場所を伝え間違えたわけでもないし、勘違いするような待ち合わせ場所が他にあるわけでもない。
 横浜駅東口の構内「ブロンズ像の少女」の前。ひとつしかないはずである。こんなとき携帯電話があればと思うのだが、金も身分証も無い秋に携帯電話の契約は出来ず、今日、小山内がプリペイド式の携帯電話を届けてくれるまでは連絡手段が無い。公衆電話に赴いて自宅に連絡してみる手があるが、誰一人も着ていない事実。この場所に秋がいなかったら目印がなくなってしまう。
 責任者であり、招待者の小山内がやってこない。冗談ではなかった。送迎バスはもう出発してしまう。秋は仕方なく、待ち合わせ場所を離れて駅前のロータリーに三台が連なって停車している送迎バスまで出向いて運転手に事情を伝えた。運転手は快く事情を聞いてくれた。
 とりあえず時間通りに送迎バスは目的地に向かうという。もし遅れる人がいるのなら、一旦また戻ってきてくれるという。秋は丁重にお礼を言って、再び待ち合わせ場所に戻ってくると、そこには滝のように流れる汗を、せっせとハンカチでぬぐっている小山内が秋を発見し「案内役が遅刻とはどういうことだ」と息巻いた。秋は非常に腹を立てた。小山内は自分が遅れてきた身分でありながら、わざわざバスの運転手に謝りに行っていて、席をはずしていた秋を遅刻者扱いしたのである。憤怒が喉まで出掛かったが押し留めた。
「誤解です、叔父さん。バスが出発してしまうので少し待ってもらうようにお願いに行っていたんですよ」
 勤めて冷静に伝えると、小山内は急に済まなそうに頭を掻く。
「そうか! いや、誰もいないもんだからちょっと苛立ってな。それで送迎バスは待ってくれてるのかい?」
「いえ、それが運転手さん融通が利かなくて、もう出発しちゃいましたよ。どうやら港には許可された送迎バスでしか入れないらしくて、僕たちはどうやら、もう船には乗れないようです。残念ですが」
 大真面目な顔をして嘘八百を伝えると、小山内は目を丸くして秋を捲し立てた。
「なぜ待っていてもらうようにお願いしなかったんだ。生徒たちは今日をどれだけ楽しみにしてたと思ってる。ああ参ったな」
 秋の言葉を信じて困惑したように額を撫でた。
「と、言われたんですが、どうにかお願いしたら、三十分後にもう一度だけ送迎バスを駅前によこしてくれるそうです。九時五十分までに間に合わなかったら、今度こそ本当に船に乗れなくなっちゃいますよ」
「なぜ、それを先に言わない」
 小山内は立腹しながら「生徒たちに連絡を取ってくる」と言って、携帯電話片手にどこかへ消えていった。専用の送迎バスでしか港に入れないというのも嘘である。観光地、憩いの場として開かれた第三埠頭ターミナルは乗客のみならず、一般の出入りも許されている。秋はやれやれとブロンズ像の少女の前に設置されているベンチに腰掛けた。小山内に八つ当たりしても仕方が無い。学生たちが来なければ、秋が必死に作ったプログラムも無駄になるし、短期間で必死に溜め込んだクルージングの知識も、アルバイトの話も無に帰すことになる。それにしても全員遅刻とは何たる様か。秋は呆れ返った。
 
 蒸し暑さにうなだれる中、不意に陽気な中年男が隣に座る。残バラ髪に無精ひげ、タバコ臭いスーツに緩められたネクタイ。男はおもむろにタバコを加えると、渋面しながら火をつける。強いタバコらしく、ひと吹きで周囲に煙が立ち込めた。秋も喫煙者だが、他人の煙は煙たいのに変わりは無い。
 ここは駅の構内で、禁煙であると伝えるほど親切ではないし、エチケットを守れと注意する度胸も無い秋は席を立とうと思ったとき、中年男が話しかけてきた。
「あんた、他の乗客と違うな」
 この男も、今日乗船する招待客なのか。ならばあからさまに邪険にすると後が面倒だ。どうやら先方は秋が招待客だと知っているらしい。もしかしたらそれなりの地位のある、客船会社の人間かもしれないので、秋は慎重になった。なぜ自分の顔を知っているのか。たずねることもできずその場に座り続けた。秋が戸惑っていると、タバコの煙を吐き出すというよりはくゆらせながら初めて秋の顔を見てきた。
「いや、これから乗船するんだろ? 違ったかな。乗船チケットもってたように見えたから」
「乗りますけど……失礼ですが、どちらさまでしょうか」
「俺も乗船するんだ。今回のテストクルーズにな。挨拶でもしておこうと思って」
 なにやら不審な気配。まさか、財布を狙っているのではないのか。
 男はタバコの紫煙にしかめ面しながら、嘗め回すように秋の全身を見やった。
「あの船に乗るお客様にしては品がねえな。他の連中がどんな人間が来るか知ってるのか? 高尚な上流社会の先生がただぞ」
 品が無いなどとは、初対面で失礼である。失礼を承知で、あるいは失礼を故意に働こうとして、この男は近づいてきたのだ。なぜそんなことをするのか、目的をかんぐったのも一瞬、もはや関係なくなり「表にいた浮浪者の方ですか?」と皮肉っぽくソサエティーを気取って言った。中年男は苦笑すると、加えていたタバコを携帯灰皿に押し込み、すぐに新しいタバコを加えた。だが、火はつけない。
「失礼した。かく言う俺も場違いな気がしてな。お仲間に見えたもんだから、ちょっと話しかけたくなってな」
 お仲間。ということは身分はたかが知れている。だが同類などにされたくない秋は、突き放すように言った。
「お仲間って、僕はあなたみたいにロリコンではありません」
 秋の言葉に、中年男は訝しげに眉をひそめる。何のことを言っているのか分からないのか、あるいはなぜそれを知っているんだ、という表情。秋がこちらを見ている中年男の隣に座る女の子を指差した。中年男は指差された方角を見ると、初めて隣に座る少女、といってもおそらく15歳から17歳くらいの女の子に気づく。少女は明らかに、救いを求めるように中年男を見ている。
「ちがうよ。こいつは俺の妹だ」
 苦しい嘘だ。二十までは行かないでも、それに近いくらい歳が離れているはずだ。娘にしては成長し過ぎているし、妹にしては若すぎる。中年男は秋の目を覗き込むように見ると、まるで心まで覗き見たような口調で言った。
「俺はあんたが思ってるほど年寄りじゃねえぞ。俺はこう見えても二十七だ。妹は十七。十離れてりゃ不自然じゃねえだろ」
 少女が妹なのか娘なのかロリコンなのか、すでにどうでも良い問題で、なによりこの男の無礼さ辟易した。
「俺は邑崎だ」
 邑崎と名乗る男はスーツの懐から名刺を取り出して差し出してきた。有限会社カラーエージェント、代表取締役、邑崎政宗。
 いったい何の会社だ。
「あんたは? 何でまたこんなところにいるんだい?」
 もちろん秋は名刺など持っていない。
「僕はアルバイトです」
「客船の従業員か。なぜ従業員がこんな場所にいる? 船の近くにいなくていいのか? 客船までの先導役や係員にしては服装がラフ過ぎると思うが」
 秋は不愉快そうに邑崎を睨みつける。どうしてこの男は他人の自分を詮索するような真似をするのか。もちろん、この中年男の推理はあさっての方向を向いているが。
「……邑崎さん」
 隣に座っていた女の子が邑崎の袖を引っ張り、訴えかけるような視線を向ける。やっぱり妹なんて嘘っぱちだ。兄のことを苗字で呼ぶ妹はいないし、父親のことを苗字で呼ぶ娘もいない。邑崎は女の子に何かを口ずさむと、こちらを向き直って言った。
「言い忘れてた忘れてたが、妹は妹でも義理の妹なんだ」
 苦しい言い訳だった。
 
 
 
 邑崎は女の子に促されるまま、何の挨拶もなくいなくなった。煩わしさは解消されたし、果たして女の子は邑崎の妹でも娘でもないことがはっきりしたが、だからといって問題が解決されたわけではない。小山内は電話をかけに行ったまま戻らないし、大学生の連中は誰一人としていまだ訪れていないのだ。
 時計台の前を行き交う無数の人々。雑踏というのだろうか。無数の話し声と足音と駅員のアナウンス、それから目の前を右往左往する人通り。目が回りそうだった。人ごみには慣れていないし、三年余りの一人旅も、自然の豊かな田舎町ばかりだった。めまぐるしく変わる目の前の風景を脳みそが処理しきれない。
 ふと、こちらに歩いてくる人が目に止まった。目立つ女性である。目立つといっても、派手な格好をしているとか、人より体格が大きいというわけではない。雑踏の中、おもわず目が惹かれるほどに美人なのだ。ひょっとしたら一緒に客船に乗り込む、例の美女なのかと期待したが、手に持っている荷物が長旅にふさわしくないハンドバッグひとつである。どうやら違うようだ。さすが神奈川の中心地だけあって女性は美人だと思った。
 歩いてきた女性を観察する。膝辺りまでの白いズボンをはき、ピンク色の半袖シャツという出で立ち。肌に密着する服から想像すると痩せすぎな体だった。秋は思わず細い手足、細い腰、細い首、白い肌と視線を巡らす。男のどす黒い視線に女は敏感である。舐めまわすように見るのは相手に失礼だと感じ慌てて目を伏せた。女は秋の傍までやってくると、同じベンチに腰掛けた。美女の香りが漂ってこないかと鼻の穴を大きくしてみる。美女は空中に漂う空気を眺めるようにあたりを見渡すと、しきりに首を捻っていた。
 何か困っているのは分かった。もしかしたら、この女性が小山内の言っていた例の美女かもしれないと改めて勘ぐり始めた秋は、話しかけようか話しかけまいか迷った。彼女は秋に気づいた。秋は見られていることを意識した。顔は正面に向いていても、視界には隣に座る美女がこちらを見ていることは分かる。
「……あなたはどちら様ですか?」
 美女は恐る恐るそう聞いてきた。警戒心の強そうな口調だった。秋は美女を見た。もし客船に乗り込む大学生の一人だったとしても、見ず知らずの相手に、あなたはどちら様ですか? なんて聞き方をするだろうか。口調はとても舌足らずで、飴玉でも口に含んでいるようだ。その声に聞き覚えがある。秋は少し緊張しながら「小山内先生の生徒の方ですか?」とたずね返すと、彼女は日射にしかめた様な顔で頷いてみせる。初対面の人間が苦手なのか、少し卑屈だ。
「ああ良かった。僕は月原秋といいます。電話でお話しした通り、小山内助教授の甥っ子でして」
「……そうですか。私は星名ひゆりと申します。今日からよろしくお願いします」
 と、彼女はゆっくりとした気品のある動作で頭を下げた。優雅といえば聞こえはいいが、甘ったるい喋り方をする女性だと思った。でも確かに、事前の電話連絡で一度耳にしたことのある声と口調である。それは間違いない。どこかで聞いた話しだが、舌が長いか短いかすると、人は飴玉を舐めながら喋っているような口調になってしまうらしいと聞いたことがある。
 どこかの大富豪のお嬢様か何かだろうか。洗練された上流社会の清楚を感じる。実際に清楚であるかないかは別にしておこう。
「大学の方ですか?」
 星名ひゆりが尋ねた。声を出すのが辛いのではないかと思うほど、か細い声だ。でも怪訝そうな表情は無くなって、いまは無表情だ。
 さっき自己紹介したのに……。そう思いながら、秋はもう一度自己紹介する。
「いえ違います。年齢で言えば同じくらいでしょうけど、僕はもう学生じゃありません」
「それじゃあ、お仕事をなさってるんですか?」
「身分はフリーターといえば聞こえはいいんですけど」
 高校中退の無職に、有名大学の学生はどういう顔をするのか気になったが、特に変化はなかった。
「どんな船ですか?」
 どんな船? 唐突な質問の意味を一瞬読みとれなかったが、ふと気づく。これから乗る船の話だ。
「大きいんですか?」
 興味もなさそうな口調で質問を重ねる。ただの沈黙を埋め合わせるだけの会話か。それでも別にかまわなかったので秋は答える。
「全長350メートルの大型客船です。客室が1000近くもあって、巨大なダンスホールとか、宴会場、バーなどもそろってます。アメリカ映画でよく見るような豪華客船を想像してもらえれば、今回乗る船も遜色ないほど豪華です」
 星名ひゆりは返事もしなければ、頷きもせずに秋の事を見ている。まだ話しの続きがあると思っているかのようだ。そのうち話が終わったのだと理解した美女は、ゆっくりと視線を前方に戻した。
「私、船に乗るの、初めて」
 ひゆりは、聞き逃してしまいそうな声で呟いた。
「初めてですか? 船酔いとかは大丈夫だと思いますけど」
「乗ったことがあるんですか?」
 今度は、割合しっかりとした調子で訊ねてきた。
「新潟と青森で漁場漁船のアルバイトをしてた事があるんです。毎日毎日船酔いばかりで、それはもう地獄のようでして」
「ぎょじょうぎょせん?」
 まるで宇宙人が発した呪文を聞かされたかのような顔で聞き返してくる星名ひゆり。
「漁船のアルバイトです」
「アルバイト?」
 アルバイト? 秋は戸惑う。一体どういう意味の疑問符だろうか。『あるばいと』って、何? という意味だったらどうしよう、と心配になる。
「そう、アルバイト。やった事ないんですか? アルバイト」
「ないです」
 彼女は素っ気無く答え、そっぽを向いてしまった。なにか気に障る事でも言ったのかと不安になった。掴み所のない女性だ。あまり表情や口調を変えて喋らないので気心が知れず、胸をそわそわさせる。
 だが、こういう女性が秋の知らないソサエティーな人種なのかもしれないと思い、ひとつ尋ねてみる。
「今回は五泊の旅ですが、星名さんは外泊したことがあるんですか?」
「私、外泊するの、初めて」
 意図せずに、会話が止まった。その後の言葉が出てこない。初対面で住んでいる社会性の違いを突きつけられてしまった印象の秋は、その後、何を言っても間を埋めるだけの陳腐な会話になってしまいそうだと思った。
 美女であるが、そばにいると息苦しさがある。小山内の言うとおり美女であったものの、気心が知れないのはちょっとやりづらい。
 次の送迎バスが来るまで、後十分程度である。小山内も戻ってこない。本当に大丈夫だろうか、と秋は先が思いやられ、湿度の高いため息を漏らした。
 
 
 
 秋の叔父にあたる小山内助教授が戻ってきたのは、星名ひゆりとの会話が止まって五分ほどしてからである。なぜか満面の笑みを浮べて「すまんすまん」と手刀を掲げて駆け寄ってきた。シャツの脇から胸にかけて汗でぐしょぐしょに濡らしている。最後に会った三年前は、あんなに腹は出ていなかった。中年になるのが怖い。自分もあんなに腹が出てしまうようになるのだろうか。それを恥ずかしいとも思わなくなってしまうのだろうか。秋は不安になった。
「全員連絡が取れてな。とりあえず青海と金谷以外は後数分で来れるそうだ」
「青海さんと金谷さんはどうするんですか?」
「寝坊二人組みは仕方が無い。来たいのであれば、途中で停泊する神戸港まで自腹で来いと伝えておいた。来るかどうかは分からんが、とりあえず神戸港で乗ってきても大丈夫なように準備だけはしておいてやってくれ」
「それは構わないですが、そんなに登場を遅らせて、勿体つけてるつもりなんでしょうか、叔父さんの生徒たちは」
 秋はもう一時間も待たされている。嫌味の一つも言いたかった。
「まあ、そう言うなよ。バイト料は文句ないだろ? それにほら」
 小山内助教授は無精ひげの顎をしゃくって、ひゆりを指す。
「美女がいるってのも本当だろ? どうだ? どんな感じだ? もう口説いたか?」
 なんてデリカシーのない男だろう。本人の目の前でそんな風に言われたら、口説けるものも口説けないじゃないか。
 小山内は目立ち始めた腹を揺らしながら、やがてくる送迎バスの運転手に謝罪と挨拶をしに駅前のロータリーに向かった。再び留守番の秋は溜息をついて、ベンチに腰掛けた。とたんに訝しげなひゆりに「私を口説くんですか?」と尋ねられてたが苦笑いを返すしかなかった。
 数分して二人の学生が姿を現した。夢中に会話しながら、こちらに気を留める様子も無く、雑踏の中を歩いてくる。その背後から、女が二人が続いて歩いてきた。声を押し殺すように、ニヤニヤながら会話をしている。前を歩く男二人の噂話でもしているのだろうか。事前に小山内から聞いていた容姿と照らし合わせると、どうやらあれが今回一緒に船旅をする大学生たちらしい。
 男女、計四人は遅れたことに対して、まったく気に掛ける素振りも見せず、星名ひゆりと陽気に挨拶などを交わしている。あからさまに無神経で不躾な若者の色を漂わせている連中だった。同い年か、あるいは年下になる秋でさえ、今現われた四人の幼稚な雰囲気に、この先やっていけるかどうか、ひどく不安を感じた。
 
 
 
 送迎バスの待つロータリーまでやってくると、強烈な陽射しの暑さと、面倒臭さにうな垂れて呻き声を上げている四人は、早速小山内のお叱りを受けた。一時間弱の遅刻。合計一時間半、秋は駅で待ちぼうけを食らった。遅刻の挙句に詫びれるそぶりを見せない連中に、謝られたとしても秋は機嫌を直す気はないぞ、と思った。
 小山内はまず男二人を嗜めた。二十歳を過ぎて人に注意されるのは気分のいいものではない。そんな感情を表情から隠しもせず、仏頂面の二人の男が送迎バスに乗る準備をしていた秋とひゆりの傍までやってきた。
 男二人のうち、やけに顔幅の広い男は、体内が羽毛になってしまったような軽い足取りで近寄ってきた。
「星名さん、ほんと、君が来るとは思わなかったよ! 来るなら来るで、俺に電話してくれれば車で迎えに行ったのに。何できたの? 電車? タクシー? そんなのお金がもったいないじゃんか。星名さんって外泊とか、船に乗るの初めてなんだろ? 客船の過ごし方なら任せてよ。何度かクルージングの経験があるんだ。ほら、荷物持とうか?」
 顔幅が広くて、だが目と鼻と口がやけに中心に寄った男はまくし立てるように良く喋った。秋は煩わしく思った。しかも、そばに秋がいるというのに、大量の言葉の中に待たせたことへの謝罪は一切含まれていなかった。
 顔幅が広くて、顔のパーツが中心に寄った男は、星名ひゆりのハンドバッグを持とうとしたが「でも、持ってくれる方がいらっしゃるから」と、控えめに断られる。「え?」と声をあげて、顔幅が広くてパーツが中心に寄った男は顔をはにかませた。会話を聞いていたのか、顔幅が広くてバーツが中心に寄った男の背後で小山内が声をかける。
「その子は私の甥っ子だ。月原秋くん。私がアルバイトに雇った。いわゆる雑用係。荷物の積み降しなら、彼に手伝ってもらうといいよ」
「小山内先生の甥っ子?」
 猫の死骸でも眺めるように、横目の視線でつま先から鼻先まで舐めまわすように見られてから「よろしく。福田です」とポツリと漏らした。秋はぺこりと頭を下げる。福田の顔つきは、体育会系の典型的なそれであったが、身体の線は細い。スポーツ、武道とは無縁そうだ。
 続いて、小山内にお叱りを受けた女性二人がやってきた。そこでも自己紹介し合ったものの謝罪の言葉はとうとう聞かれなかった。
 −−我慢我慢。
 女の子二人は赤嶺未来と笹川由利子。それからもう一人の男は榊巻伸二という、整った顔立ちの二枚目だった。物静かだが、どこかポーズを決め込んで、他人の視線を意識してしかめつらしているようなナルシストの印象を受けた。気難しそうで取っ付きづらく、榊巻というこの男だけは、秋と挨拶を交わさず終いだった。
「さあ雑用係。みんなの荷物をバスに乗せてくれ」
「ハイハイ」
 秋だけは遊びに来たわけではなく、一人だけ豪華クルージングに金を稼ぎに来ている。いまだに秋というアルバイトがこのクルージングに必要なのかどうか釈然としない。雑用が係りという名の、別の目的で秋は面集されたのではないか。
 秋は言われるままに、皆の荷物を送迎バスの運転手と一緒に、バス側面の荷台へ移し始めた。
「こりゃ楽でいいな。飯の用意もしてくれるのか?」
 汗だくになって働いている秋の横で、嫌味を聞かせながら福田が言った。百倍の嫌味で返したいところであったが、秋は感情を押し込めた。
「別に食事を作っても構いませんけど、ちゃんとクルージング会社からディナーが用意されてますよ。きっと美味しいですよ」
 そう言うと、なぜか気にいらなそうな表情で福田が言った。
「まあ、それはいい。飯の心配より、別の心配をしなくちゃならないしな。俺たちはただ遊びに来てるわけじゃない。とにかくゼミの一環だ」
「へえ」
 小山内はただのリクリエーションだと言っていた。その小山内の指令で、研究室のメンバーとの関係はうまくやってくれと言われている。話をしたくなければそれでも良いが、話し掛けられたときに邪険に振舞うのは問題だ。秋はどうやって、あたり障りなく四日間を過ごすかを必死に考えたが、仕事に集中するのが一番だと答えを出して、秋はせっせと荷物運びに精を出した。
 荷物を乗せ終えた頃には、シャツは汗で身体にまとわりつくほどだった。陽射しは相変わらず殺人的だ。日焼けは免れられない。秋が働く間、エアコンの利いた車内で寛いでいた連中は、ようやく出発だと待ちくたびれたように肩を竦め合っていた。
 全員がバスに乗り込むと、運転手が座席側を振り返って、営業スマイルを振りまきながら挨拶した。
「わたくし、本日皆様を港までご案内させていただきます『クルージング・コーポレーション』運転手の鹿島と申します。本日は当社クルージングプランをご利用いただき、まことにありがとうございます。ただいまより出発いたします。お忘れ物はないですか?」
 おのおのが頷く。『クルージング・コーポレーション』とは、今回のクルージングを企画した乗船会社の社名である。
 それにしても港までの十数分の付き合いなのに、やけに丁重で堅苦しい挨拶だ。
 送迎バスが大きな身体を重そうに振動させると、鉄の箱は前進を始めた。運転者は車内アナウンスで予定を報じる。
「今からおおよそ十五分、十時十五分に港に着く予定です。まずは港の待合施設にご案内しました後、お客様がたの乗船券を拝借いたしますので、事前にご用意ください」
 乗船券は、まとめて秋が管理している。
「客船アカシックレコード号は十一時の出港を予定してございます。船内までは当社の係員が案内いたしますので、お間違いないよう、よろしくお願いいたします」
 車内はにわかに修学旅行の出発時のような浮かれた雰囲気をかもし出しはじめた。秋は理解できる。大学生たちが、これまでどんな生活をしてきたか知らないが、さすがに豪華客船クルージングなどはあまり経験できるものではないだろう。
 動き出してすぐにクルージング会社のCMアナウンスが流れる車内で、赤嶺未来と紹介された女の子が「お疲れ様」と、秋にジュースを差し出した。
「小山内先生の甥っ子さんなんだって?」
 と尋ねられて秋は頷く。星名ひゆりとは違って表情の明るい女の子だったので、秋はほっとした。髪の毛は五センチほどに短く切られていて、赤く染められていた。おそらくミュージシャンやバンド方面に嗜好があるのだろうと想像した。
 赤嶺未来は秋の横に座って、オレンジジュースの匂いのする口で言った。
「それじゃあ、小山内先生は婿養子なの?」
「そう……ですね」
 小山内のことを話すのは気が進まなかった。秘密でもなんでもないのだろうが、小山内の生徒たちに話する事ではない。それを悟ってか、赤嶺未来はそれ以上詮索しなかった。
「秋くんは? 秋くんっていうんだよね。漢字はどうやって書くの? 季節の秋でいいの?」
「季節の秋です」
「ふうん。それで秋くんはふだん何をやってる人なの?」
 答えにくい。学歴コンプレックスの塊である秋にはつらい質問だ。
「アルバイトです」と答えると、赤嶺にまじまじと顔を覗かれた。赤嶺未来は「何のアルバイト?」と尋ねる。秋が「大学生のクルージングの案内係り」と答えると赤嶺未来はくすりと笑った。とても愛らしい笑い方だった。
「学生じゃないんだ」
 納得した赤嶺未来は視線を窓の外に向けた。窓の外はビルの側面のコンクリートしか見えない。
 離れた席では、男二人、福田と榊巻が浮かれたように冗談を言い合っては下品に笑っている。窓の外に海が見えてきたころ、小山内はやけに静かに、遠くの水平線を眺めている事に気づいた。すまして寡黙なひゆりも、同じように遠くの水平線を眺めていた。
 
 小山内が車酔いして、顔面を蒼白にしていた以外は、特に問題も無く港にたどり着いた。たった十五分の乗車で酔ってしまう小山内は、四日間のクルージングに絶えられるのだろうかと心配になった。
 待合施設は空港のロビーのような施設で、無料のスナック菓子や飲料が置かれていた。立食パーティのように和やかに会話に花を咲かせている招待客たちは、誰もが身なりが高級で、あからさまに秋達とは階級の違いを見せつけられた。
 それもそうだ。普通に利用すればワンナイトプランでもウン十万は掛かる豪華クルージングの旅。テストクルーズといえども、招待客は社会的立場も地位も、秋からすれば霞んで見えるほど高い位置にありそうだ。
 気品をかもし出す招待客の中へ、なんの気負いもなく乗り込んでいった大学生たちは、歓声を上げながら無料の菓子や飲みもに食らいついた。お上品な雰囲気に、にぎやかな若者たちの歓声は否応なしに目立ち、上流社会に怪訝そうな視線をぶつけられる。当人たちは気づきもせず、あるいは気にもせず、菓子や飲み物片手に賑わい始めた。
 秋は恥ずかしかった。相手は十代の高校生ではないのだ。空気を悟って大人しくするくらいの気位と要領の良さは欲しかった。
「叔父さん」
 訴えかけるように小山内を見ると、小山内は車酔いから復活できないまま、蒼白な顔で「言いたいことは分かるが、あれくらいは若気の至りだ。気にするな。偏見を持つなよ。世間の大学生はもっと大人だ」と言った。
 その後小山内は、挨拶回りに行ってくると、上流社会エリアに踏み込んでいった。秋は一人……いや、傍に星名ひゆりがいる。お上品な上流社会エリアに耐えられるとしたら、唯一この美女だけだろう。星名ひゆりを脇に歩き回れば、秋もそれなりの人間に見てもらえそうだ。
「お菓子も飲み物も全部無料ですよ。喉が渇いてるんじゃないですか?」
 ひゆりに声をかけると、夢から覚めたような顔で彼女は秋を見る。
「喉ですか?」
「そう。喉は渇いてないですか?」
「渇いてます。どうしたらいいですか?」
 どうしたらいいですか? とはどういうことだ。この美女は、一人で飲み物の飲み方さえ分からないほど世間知らずな箱入り娘なわけでもないだろう。まさか、飲み物を彼女にせっせと運ぶのも仕事のうちだと言うのだろうか。そう思いながら、秋はバーテンダーのいるカウンターまで星名ひゆりを案内した。
 バーテンダーの背後の棚にはバーボンやウィスキー、ブランディも並んでいる。小山内一行に未成年はいないが、まさかここで酒を飲み始める人間はいないだろう。そう思いつつも不安になった。
 秋はバーテンダーに、置いてある飲み物の種類を聞く。フルーツジュース各種に、お茶の類。何でもある。
「何を飲みたいですか? 大抵のものあるようですよ」
 秋がひゆりに尋ねると、ひゆりは人差し指で下唇を触りながら「何を飲んだらいいですか?」と逆に尋ねられた。何を飲むのかも決めなければならないのか。それも仕事のうちか? なんなら口移しで飲ませて差し上げるのも仕事のうちだと思っていいのだろうか。
「甘いものは余計に喉が渇くから、お茶はどうですか? 冷たいほうがいいですか?」
「はい」とひゆりは頷く。お茶の種類まで尋ねると、また質問で返されそうだと思い、勝手にウーロン茶をバーテンダーにお願いした。市販でよく見る銘柄のウーロン茶を2つのコップに注ぎ、差し出してきた。秋が早速渇いていた喉を潤すと、同じように星名ひゆりもウーロン茶を飲んだ。
「星名さんはみなさんとお話しないんですか?」
 ひゆりは心なしか眉間にしわを寄せると、首をひねって見せた。迷惑な質問だったのかと思い、秋は話題を変えようとしたところで、待合室に係員らしい人が入ってきて、乗船を開始しますと声が掛かった。
 ようやく乗船だ。飲みかけのウーロン茶が心残りだったが、船内に行けば飲みもはいくらでも手に入るだろう。
 
 
 
 本来、横浜港の大さん橋埠頭は、国際ターミナルである。入り口を入ったロビーは国際線の空港ロビーと同じ雰囲気を持っている。
 1859年の安政6年に開港された由緒正しき大桟橋ふ頭は、『庭港』をコンセプトに再開発事業に乗り出す。平成元年に始まった再整備事業計画は14年の歳月をかけ、現在の美しい新ターミナルへと変貌を果たした。
 ターミナル内は1階を駐車場、2階を出入国ロビーとし、2階は広場やレストランやショップなどが立ち並ぶ中心となっている。2階のターミナル先端部分に存在するホールは圧巻で、柱や梁などという遮蔽物は一切ない広い空間が広がっている。全面床が総板張りで乗客、観光客の憩いの空間となっている。3階は屋外となっており、送迎デッキだ。出向する船を見送る空間が広がっている。全面芝生に覆われており、夜に来れば客船の美しい電飾で飾られた姿を見ながら、ベイブリッジ、みなとみならいの美しい夜景をパノラマで望むことが出来る。
 昼間でも一般客が無料で自由に出入りできるターミナルは地域からも憩いの場として愛され、『庭港』のコンセプトどおり、優雅で美術的な空間だった。
 さて、小山内助教授一行は、これらの憩いをすべて無視して、ターミナルに入るとただちに4番乗船口から乗船することになった。
 
 
 
 個性的なデザイン、最高峰の建築技術、類を見ない空間美と名高いターミナル内を見物できなかった小山内助教授一行は、同時に『アカシックレコード号』の外観も見損ねたことになる。
 口々に不満を漏らしながら乗船する小山内助教授一向に、ターミナル内や船の外観を見物できなかったことに、おそらく一番不満を抱いている秋は「見たかったのに……」と心底残念がった。
 一向は、直前までの不満はどこへやらに吹き飛んだようで、船内に足を踏み入れた瞬間、思い思いに歓声を上げた。ロビーにいた時の比ではない。悲鳴のような声で騒ぎまわり、周辺の乗客たちの肩を震わせ、振り返させた。
 四番乗船口から船内に入ると、目の前に広がったのはメインエントランスだ。事前に知っていたものの、実物はまるで規模が違う。エントランスの広さは小学校の体育館ほどの広さと高さがある。十二階建ての客船の、二階から四階までの吹き抜けとなっており、中央に大きな螺旋階段が高い天井を突き抜けている。三階、四階部分はエントランスを囲むように通路が設けられ、さまざまなショップが立ち並んでいるのが窺え、そのショップの店員たちであろう、綺麗に着飾った人間たちが笑顔で規則多々しく立ち並んで、出迎えの拍手している。
 自然光と人口の明かりとがエントランス内をまばゆく照らし出しだし、まるで英国のお城のようだった。
 足元がおぼつかなくなるほどの柔らかく美しい刺繍の絨毯が全面に敷き詰められ、乗船口から一列に、乗務員たちが笑顔で出迎えている。招待客たちが入ると、さまざまな楽器を抱えた演奏隊が華やかな楽曲で出迎え、艶やかな制服を着飾った乗務員たちが「ようこそいらっしゃいませ」といっせいに頭を下げる。すごいすごいと声を上げる大学生たちをよそに秋は呆然とする。本当に無料で乗船してしまってよいのだろうか。直ちに気分が極限まで興奮し、その場でくるくると回りながら天井を見上げて喚起の声を上げたくなる。
 通路の先では客室係りであろう、純白のタキシードをまとった青年たちが、招待客たちの手荷物を受け取りながらチケットを受け取り、客室まで案内を始めている。一様に興奮気味に目を剥いた笑顔を浮かべながら、客室係の後を付いていく。
 客室係は大学生たちを案内しながら、説明を始めた。
「皆様のキャビンは、お一人様一室づつ、4階のデラックスルームをご用意してございます。これよりご案内いたしますので、ご自分のチケットに明記されてございます、ルームナンバーのチェックをお願いいたします」
 美男子ではないが、朗らかで好印象の青年である。清潔感があり、選抜された接客係りであるということは間違いない。
 浮かれた気分のまま、赤嶺美紀が「幾らくらいする部屋なんですか?」などと不粋な質問をしている。朗らかな微笑を寸分もくずさず、客室係りは快く答える。
「プランにも寄りますが、ワンナイトプランで十から三十ほどになります」
 は? という顔を大学生たちは一様に浮かべた。十から三十という数字が理解できなかった訳ではないだろう。それもワンナイトプランでの話である。想像を絶する値段だった。
 ステートルーム、デラックスルーム、スイートルーム、貴賓室と四段階のランクがあり、デラックスルームは上から数えて三つ目のランクである。それでもこの値段である。世界一周のプランを選んだら、ゼロの桁は七つを超えてくる。ところが、残念ながら秋はここで大学生たちといったん別れなければならない。なぜならアルバイトの身分である秋にデラックスルームはおろか、テストクルーズで空きまくっているはずのステートルームさえあてがわれていないのだ。
 さて、秋がこの豪華客船ですごす船室はというと、一階のメインエントランスに程近い、20平米ほどのエキストラスームだ。通常運航の場合、まったく使用されることのない部屋である。何の目的で存在するかといえば、この客船が万が一、難破船の救助活動などを行った場合に、救助された人々を格納するエリアである。すなわち目的に使用されない場合、エキストラルームには備蓄食料や大量の寝具が置かれている物置部屋なのだ。
 そこを一人で占有する。果たして喜ぶべきが否か。大学生たちはふかふかのベッドで、窓の外の太平洋を望みながら優雅に過ごすのだろうが、秋は窓もなく、段ボール箱の詰まれた無駄に広い空虚な空間に寝泊りすることになる。
 ――屋根があるだけましだ。
 秋は本心でそう思った。布団があり、明かりがあり、空調があり、天井がある。秋の過ごした放浪生活で、年間屋根のある場所に寝泊りできるのは何度あっただろう。それを考えれば、上等すぎる待遇であった。
「僕もいったん荷物をまとめてきます」
 小山内にそう告げると、隣で聞いていた客室係が言った。
「お荷物がまとまったら、いったんプロムナードデッキの方までお越しください。出港セレモニーが御座います。場所はキャビンの見取り図をご参照ください」
 軽く会釈をして返事をすると、ひどく疲れた気分がして、少し休みたくなった。おそらく、秋がエキストラルームに向かうことを客室係は知らない。エキストラルームに、見取り図などという気の利いたものはないだろうが、プロムナードデッキの場所は頭に入っている。秋は今来た道を引き返し始めた。
 
 
 
 目が痛くなりそうなエレベータで、先ほど入ってきたメインエントランスまで戻る。招待客は全員乗船したようで、乗船口は閉じられており、豪華に出迎えてくれた演奏隊も姿を消していた。幾人かの客船スタッフが歩き回っていたが、秋のことを見ると微笑を浮かべ会釈をしてくる。秋はまっすぐエントランス内のインフォメーションカウンターに向かう。高級ホテルのフロントのようだ。
 カウンターの前で立ち止まると、航空会社のCAのような美しい女性が問いかけるように微笑みかけてくる。
「エキストラルームを利用したいのですが」
 問いかけるとフロントパーサーは隣にいる同僚に視線を向ける。少し戸惑っているようだ。蝋人形のように生気のない化粧をしたパーサーは「少々お待ちください」と言って、手元の端末を操作し始めた。
「ええっと、邑崎様でよろしいですか?」
「いえ、月原ですけど……」
 突然、知らない名前を出されて秋は戸惑う。いや、知っている。邑崎だ。横浜駅の構内待ち合わせ場所で声をかけてきた、あの無精ひげのロリコン男だ。
 ――まさか。
「月原様ですね。お伺いしております。三名様のご利用でよろしいですか?」
 また、予想外の言葉を吐く美女。
「いえ、何も聞いてないんですが……。三名なんですか?」
「ええ、そのようにお伺いしております。三名様は……オーナーの特別乗組員? ……ええっと……少々お待ちください」
 パーサーはそう言うと、きびすを返してバックヤードへ消えていった。数秒でパーサーが戻ってくると、男を一人連れてきた。細くて背の高い男だ。パーサーの上司であろう。
「月原様ですね。エキストラルームのご利用と言うことで」
「はい」
「こちらがエキストラルームの鍵となっております。オートロックでは御座いませんのでご注意ください。ルームの明かりは、入り口を入ってすぐ右手に御座います。出入りは自由ですが、なにとぞ他のお客様を招き入れるようなことはご遠慮ください」
「ああ、わかった」
 返事をしたのは秋ではない。声の主は、秋の背後から腕が伸ばすと鍵をつかんだ。秋はぎょっとして振り返ると、秋より頭ひとつ大きい無精ひげの男が立っていた。見覚えのある男。横浜駅の「ブロンズ像の少女」前で会った邑崎である。
 邑崎は秋の肩に手を置くと「よろしくな」とはにかみ笑った。邑崎のスーツにしみこんでいるタバコの匂いが漂ってくる。
「なんであんたが……」
 言いかけると、邑崎の背後に立っている少女がいぶかしげに秋を見ているのに気づいた。どうしてそんな目で見られるのか、秋は不思議に思ったが、まさか問い詰めるわけにもいかない。秋はパーサーの上司の男を振り返ると「鍵はひとつだけなんですか?」とカウンター越しに身を乗り出した。
「申し訳ありません。お出しできる鍵はそれひとつとなっています」
「そんな」
「心配するな」
 邑崎は秋の肩に置いた手に力を込める。
「俺達は神戸までしか行かない。一晩の付き合いだ」
 だからって……と言いかけると、邑崎は強引に秋をフロントから引きはがす。秋はメインエントランス中央、ちょうど天井から二十メートル頭上につる下げられた豪華なシャンデリアの真下まで邑崎に連れてこられた。秋は首に回った腕を振り解く。
「なんですか。あなたは誰なんですか? 何でこの船に乗ってるんですか?」
 多少の憎しみを込めたつもりだが、邑崎に微塵の動揺も見られない。
「乗ってちゃ悪いのか。お前はどうなんだよ。お前だっておおよそこの船には似つかわしくねえぞ」
「招待客としてきたわけじゃありません」
「ああ、なら俺と一緒だ。だから同じ体たらくなのさ。特別クルーと称したお荷物だ。お荷物はお荷物らしく、荷物置き場に入れられるんだよ」
 一緒にするな、と言いたいところだが事実一緒にされている事実に目は背けられない。
「とりあえず部屋に行こうか」
 邑崎は鍵を持ってる強みがある。少女を連れてエキストラルームまで歩き始めた。そうなると、秋は付いていくしかない。
 
 
 
 エキストラルームは想像していたとおり空虚な空間となっていた。40平米のただっ広い部屋は硬い緑色の絨毯が敷かれており、部屋の端には備蓄食料である乾パンの缶詰や飲料水のダンボールが山済みにされていた。宿泊者を楽しませるような装飾や、水平線を望めるような窓さえひとつもない。クリーム色の壁が囲み、入って右手には棚が並び、毛布や布団が収納されていた。椅子やテーブル、テレビやラジオ、ステレオなども皆無。ひとつだけ入り口に設けられた小さな下駄箱の上に、業務用電話機が一台置かれているのみだ。
 邑崎は気に留める様子もなく、心なしか薄暗い室内に立ち入ると、部屋の奥にある布団が収納してある棚から座布団を三枚取り出し、無造作に部屋の中央へ放り出した。
「まあ座れよ」
 邑崎が促してくる。入り口で秋の隣で立ち呆けていた少女は、靴を脱ぐと室内に立ち入り、用意された座布団の上に腰掛けた。
「たった一晩だが、共同生活をしなくちゃならないだろ。鍵をどうするかとか、相談しておいたほうがいい」
 それよりも別の部屋にしてもらう方法を考えようよ、そういいたい気持ちをぐっとこらえる。邑崎の連れの女の子は相変わらず、警戒するように秋のほうを見ている。居心地が悪い。
「もう名刺は渡したよな。俺は探偵だ。この船にちょっとした調査に来てる」
 探偵――なんでこの人は自分の身分を突然明かしているのだろう、と秋は不思議に思った。秋は探偵業にはまったく疎いが、テレビや映画から得ている知識を想像するところでは、あまり探偵は自己紹介などしない。
「で、今回の調査の依頼主がここに座ってる女」
 邑崎はおもむろに彼女を指差す。彼女はびくりと肩を震わす。
「フロントでパーサーが言ってたとおり、俺は船のオーナーの許可を得てここにいる。決して不審者じゃない。この女もな」
 秋は彼女に目線を向けずに言った。
「あなたが何者であろうと、僕には何も関係ありません」
「この船に何しにきたんだと、聞いたのはお前だろ」
「そうですけど……」
 秋はむすりとしながら、立ち上がった。
「いいですよ。どうせ寝るとき以外、この部屋にいることなんてないでしょうから」
 ふん、と邑崎は鼻先で笑い飛ばすと「お前も自己紹介しろよ」と尋ね返される。立ち上がって荷物をまとめようと思っていた秋は、仕方なく再び腰を下ろす。自己紹介くらいすべきだろうと思った。
 まさか邑崎の調査相手が自分だとも思えない秋は、素直に話をした。
「僕は招待客の大学生たちの世話役のアルバイトです」
「世話役のアルバイト? そりゃいったいどんな仕事だよ。あんたが面倒見なくても、テストクルーズとはいえ、300人近いクルーが乗り込んでるんだぜ」
 不思議に思うのも無理はない。秋自身、まだ不審に思っているくらいだ。
「たぶん何でも屋です。なんとなく僕も理解してきました。叔父さんが僕に要求するのは、遠足の引率係りです」
「引率係……要するにお守りか? 小学生の遠足じゃねえんだろ」
「はい。僕も疑問に思いましたが……」
 今日接してみて、秋が必要だった理由は想像がついた。小山内はあの不躾な大学生たちに苦戦しているに違いなく、そのしわ寄せを秋にかぶってほしいのかもしれない。
 邑崎は再び鼻先で笑うと、悪そうな笑みを浮かべた。見てくれはまるでチンピラだ。
「問題児集団ってことか。なんでそんな悪ガキをこんな豪華客船に乗せたのかはわからねえが、まあどうでもいいことだ。なるほど俺たちはお互い特殊な立場でここにいるってことだ。これで俺たちはお互いの事情を理解したわけだ。これから一晩、床を共にするわけだが、それでは手を打とう。お互い、これ以上は詮索し合わない。会話するのは勝手にすりゃいいが、仕事にかかわることは尋ねない」
 もともと秋に詮索する気などなかったが、邑崎が言いたいことがようやくわかったので詮索しなかった。
「じゃあ頼むわ月原君。この女と友達になってくれ」
 秋は口をあんぐりと開いた。言われた意味がわからなかった。
「お互い詮索し合わない契約は交わした。同じ部屋のよしみ仲良くやろうぜ。この女は友達がいなくてよ」
 うろたえたのは彼女のほうで、泣き出しそうな顔で唇をわななかせながら必死に邑崎に何かを訴えかけている。
「俺はちょっと出かけてくるから、おい、凛子。お前、月原君に付いていけ」
「な、何を勝手な」
 邑崎は自分の鼻先に手刀を作って、頼み込むように言った。
「頼む。一人くらい面倒が増えたって、大してかわりゃしないだろ。この女は凛子だ。俺はちょっと野暮用があって」
「僕だって仕事があります!」
 秋が腹を立てて大きな声を出すと、邑崎は逃げ出すように立ち上がる。
「いや、ちょっとでいいからよ。凛子に船内を見せてやってくれよ」
 何の縁があって会ったばかりの男に、見ず知らずの女の世話を頼まれなくてはならないのか。冗談ではない秋は「お断りします!」と怒鳴っても、邑崎は誤魔化すように「へへへ」と笑いながら、凛子に鍵を手渡した。
「わりい、急ぐんだ。じゃあよろしくね」
「ちょっと!」
 早足に部屋を出て行こうとする邑崎の背中に怒鳴りつけたが、邑崎は背中を丸めながら部屋を出て行ってしまった。呆然とする秋。腹立たしさは一分ほど遅れてやってきた。
「なんなんだ!」
 静かな室内で秋の声が反響する。凛子を見ると、睨みつけるようにいぶかしんだ視線を秋の腰あたりに突き刺していた。秋が承諾せずとも凛子が受け入れていない。それにしても押し付けがましい態度が腹立たしかった。
「悪いけど僕は仕事があるんだ。君を連れて行けないよ」
 そう話しかけても、彼女は嫌そうに少し顔を背けるだけだ。静かな部屋に沈黙が流れる。邑崎に置いてきぼりを食った凛子は、ひどく気に入らなそうだったが、同情してやる余裕はない。
「これからプロムナードデッキで出港セレモニーがあるんだ。良かったら行くといいよ。連れてはいけないけど」
 秋は返事もしない凛子を尻目に、バッグの中から小さな手帳を取り出して部屋を出た。出港前のメインエントランスは、まだ緊張が漂っている。国内旅行だとしても、このテストクルーズが事実上の処女航海である。段取りの確認に余念がなさそうで、クルーも通りかかるお客様に愛想笑いをする余裕もなさそうだ。秋はとりあえず、大学生たちの部屋に赴き、プロムナードデッキの行き方がわからない人間がいれば案内しようと思った。もちろん部屋割りは把握している。先ほど行ったくらげの水槽がある、三階のフロアに全員がいる。
 エレベータの箱に入ると凛子も同乗した。彼女も部屋に篭っているよりは出かけることを選んだらしい。だからといって行き先を尋ねたりはしない。凛子は髪の毛で顔を隠すように入ってくると、秋のいる入り口付近とは対角の端に縮こまる。エレベータの扉が閉まると、箱が三階まで秋を運んだ。秋が降りると凛子も降りる。エレベータロビーの中央には、柱のような水槽にクラゲが浮いている。凛子はそれに驚いていた様子だっが、気にかけている暇はない。
 まずは赤嶺美紀だ。エレベータロビーから一番近い部屋にいる。左右に部屋の扉が羅列する廊下は思いのほか狭い。二人がすれ違うには充分だが、何から何までスケールの違う船の印象にしては地味だが、居住空間は地味で正解だ。あまり派手でも落ち着かない。
 3012号室が赤嶺美紀の部屋である。続けて順番に大学生たちの部屋がある。扉の右手についているインターフォンを押すと、秋はしばらく待った。中から物音が聞こえる。赤嶺は在室しているらしい。中から声が聞こえてくる。一人ではないようだ。おそらく笹川由利子も一緒だ。豪華な部屋に驚いて、二人して騒いでいるのだろう。
 玄関が開くと警戒したような表情の赤嶺美紀の顔があった。
「なに……?」
 怪訝そうである。今は別に深夜であるわけではない。雑用係の秋が部屋に訪れたって不思議はないはずだ。
「良かったら、プロムナードデッキに案内します。みなさんそろって行かれてはどうかと思いまして」
「ああ、そう。ありがとう。大丈夫、一人で行けるから」
「はい。中には笹川さんもいらっしゃるんですか?」
 赤嶺は秋から室内を隠すように、部屋の中を顧みると「いるよ。伝えとく」と言った。
「そっか。月原君は仕事で来てるんだよね」
「はい。仕事しないと、おじさんに怒られますから。本当に何でも言ってください」
「それじゃあ……」
 赤嶺ははにかみ笑って秋の事を見ると、人差し指を立てて「早速、お願いしてもいい?」と来た。一抹の不安。だが、秋は営業スマイルを崩さずに「なんなりと」と返事をする。
「とりあえず、入ってよ」
 秋は赤嶺に部屋に招きいれられた。――いやそれは、女性の部屋に入るのは……。そんな戸惑いの表情を悟ってか、赤嶺は明るい表情で秋の肩を叩いた。
「大丈夫よ。まだ荷物紐解いてないし。エッチなものはないから」
 そんなことを言われると動揺してしまう。仕方なく秋は赤嶺の部屋に立ち入った。部屋は、奥の大きな窓から指す陽光で、夢の国のように明るかった。入ってすぐ横にあるドアはユニットバスの入り口だ。玄関からすぐに存在する部屋には、部屋の角の形に合わせたソファーと、棚に収納されたテレビ、ガラステーブルなどが目に付いた。
 部屋は落ち着いた雰囲気で、板張りで統一されている。25平米の部屋でシティホテルで言えばツインルームより1クラス上の部屋だ。ソファーには笹川が腰掛けており、心なしか後ろめたそうに秋のほうを見ている。
「ねえ、月原君。お願いがあるんだけど、ああ、その前に……」
 赤嶺は不意に、秋の背後を指差す。その方向には今入ってきた玄関があるはずだった。秋は振り返って目を丸くした。赤嶺がしかめた笑みを浮かべながら「誰、この子」と尋ねてくる。凛子が立っている。何の断りもなく、赤嶺の部屋に秋とともに入ってきたのだ。凛子は秋の腰あたりを睨みつけている。赤嶺と秋が注目しているとわかると、凛子は髪の毛を手で梳かして顔を隠した。
「知ってる子?」
「はい。いえ、いや、顔は知ってますが……」
 さすがにうろたえた。どうしていいかわからない。凛子は秋に付いて来たのだ。邑崎の言い付けどおり、本位ではないが仕方なく秋の後を付いてきた。嫌そうなのが表情でわかる。秋は凛子に踏みよると、距離を保つように凛子は後ずさりする。
 ――そんなに嫌なら、なぜ付いてくるんだ。
 凛子は近寄りがたい雰囲気を必死に振りまく。
「この子は凛子ちゃん。さっき知り合いになって。気にしないでください」
「き、気にしないでって……。どうしたの、この子。まさか乗船して三十分で、もうナンパしたの?」
 そう言われると思っていた秋だったが、返す言葉は用意していない。とりあえず凛子は放っておくことにした。
「知り合いからちょっと預かってるだけです」
「別にいいけどさ」
 奇妙な空気を払拭するように赤嶺が秋を振り返る。
「お願いがあるの。実は、ちょっと問題があって」
 やっぱり問題だ。きっと秋が呼ばれるときは、問題が発生したときだと思っていた。秋は出掛かった溜息を慌てて飲み込んだ。
「すごい部屋だったものだから、ちょっと浮かれちゃって。悪気があったわけないし、すぐ知らせようと思ったんだけど」
「いいですよ。何ですか? 何があったんですか?」
「実は……」
 赤嶺は申し訳なさそうに、室内のドアを指差した。あのドアの向こうに何があるか、秋は知っている。寝室である。いったい何をしでかしたのだろう。笹川がソファーで秋に注目している。今にも泣き出しそうな笹川の表情は、秋の不安を増長させる。
 秋は寝室のドアを開いた。すぐに問題とわかる惨状。背後では赤嶺と笹川が不安そうに秋の背中を見つめているはずだと思い、秋は落胆していた表情を素に戻すと振り返った。
「いったい何をすれば天井に穴が開くんですか?」
 皮肉を込めてはならない。必死に考えて口にした言葉だった。赤嶺は少し肩をすくめて、誤魔化すように可愛らしい笑みを浮かべた。
「由利子とベッドで飛び跳ねてたら、由利子の頭が天井に突き刺さっちゃって」
 笑い事である。鼻先で一笑に付して、思いつく限りの皮肉で笹川を罵倒してやりたい気分だった。まだ出港すらしていない。乗船して三十分しか経っていない。それなのに寝室の天井にはぽっかりと穴が開き、破片がベッドや絨毯に散乱している。この現状は一体なんだ。
 秋は悲しくなる思いで言った。
「判りました。それじゃ、僕が小山内先生と係りの人に知らせてきます」
「え? ほんと? どうにかしてくれるの?」
 赤嶺は秋がどうにかしてくれると思っている。
「じゃあ、私は出港セレモニーに行ってていい? 後は月原君にお願いしてもいいのね」
 ――おいおい、お前も一緒に謝るんだよ。
 言いかけて秋は逡巡する。たぶん、これが秋の業務内容であるのだ。このストレスを小山内の変わりに負うことで、あの破格の給料を得ることができるのだ。
「わかりました。それじゃ赤嶺さん。プロムナードデッキの場所はわかるんですよね」
 赤嶺は希望を取り戻したかのような目の輝きを取り戻すと「わかる、わかる」と何度も頷いた。
「とりあえず、ほかの皆さんを連れて、出港セレモニーに参加してください。お願いしてもいいですか?」
「もちろん。――ねえ、先生には内緒にしてくれる?」
 内緒? 腹の底から沸き起こってくる溜息を再び押しとどめると、その分が秋のストレスに変換されて胃を刺激する。
「先生には知らせます。どうせ知られますよ、秘密にしても」
「やっぱそうよね」
 赤嶺は溜息をつく。
 溜息をつきたいのはこっちなのに。
「じゃあ、私はみんなをセレモニーに連れて行くね。しかと頼まれた。後はよろしくお願いします」
 赤嶺の言葉に秋が頷くと、後ろめたそうな笹川も「ごめんね」とようやく口を開く。ようやく聞かれた謝罪の言葉に、秋は少しだけ気を鎮める。
「構いませんよ。皆さんは気にせず、イベントを楽しんでください」
 気の強そうな笹川が優しげな笑みを浮かべた。優しげな笑みを浮かべることで、面倒ごとを被ってくれた秋に奉仕しているつもりなのだろう。
 金のためとはいえ自分はなんて心が広く、紳士的なのだろうと思い込むことにした。
 
 
 
 赤嶺と笹川のいなくなった部屋で、秋はしばらく呆然と立ち尽くしていた。
「出港セレモニー、見たかったなあ」
 ぼやきながら秋はソファーに座り込み、さてどうしようかと額を撫でた。さっそく起こった問題。小山内に知らせることを考えると気が重くなるし、係員に知らせることを考えると胃が痛む思いだ。ふと、入り口付近に人の気配がして、秋は驚いてソファーから尻を三センチほど浮かせた。動悸が激しく胸を叩いたが、立っていたのは凛子だ。
 ――忘れてた。
 秋は溜息を漏らした。
「悪いけど、部屋に戻ってなよ。何も相手できないよ」
 凛子は返事もせず、亡霊のように立ち尽くしている。おかしな女である。私立探偵邑崎の依頼主であるらしいが、一体なんの調査を依頼したのだろうか。確かに気になる。邑崎が「詮索はお互いにしない契約」を結んだ理由も理解できる。
 かすかに楽曲が聞こえてきた。出港セレモニーが始まったのだ。出港セレモニーは、乗客たちがプロムナードデッキより手を振りながら、港からの送迎を受けるものだ。船内の専属ブラスバンドが華やかに楽曲を演奏するのを背景に、大桟橋埠頭のターミナル屋上より、乗客に対して縁もゆかりもない一般観光客やターミナルの職員、客船の関係者たちが手を振り、乗客たちは別れを惜しんで紙テープを港へ投げつける。おそらく処女航海であるから、普段よりセレモニーは華やかで規模も大きいはずだ。
「君はセレモニーを見ないの?」
 彼女は相変わらず返事すらしない。
「セレモニーの後には、すぐに船長、オーナー主催のパーティが開かれるよ。おいしい食事がでる。食べたいだろ? でも、僕はいけそうにないから、一人で行ったらいいよ」
 彼女は首を横に振った。初めて秋に対して見せる反応である。困りものである。秋は背もたれから背中を離す。
「紙テープ投げは綺麗だよ。大量の紙テープが船と港をつなぐ。橋渡しのように。それこそ空間を埋め尽くすほどに鮮やかな紙テープが飛び交うんだ。船が出港するに連れ、乗客と陸との人間のつながりが千切れていく様子は、感慨深くて印象的で、ちょっと切なくなる。実はこの紙テープ投げ、最初は日本人が思いついて始めたんだ。それが世界に広まって、世界中の人が紙テープ投げをやってる。そんなことを考えながら大海の海原に思いをはせる。楽しそうだろ」
 凛子は俯いた顔を起こさない。
「まあいいよ。付いてきたければ付いてくればいい。なんの楽しくもない裏方が見れるだけだけどね」
 秋は立ち上がると部屋を出た。大人しく後を付いてくる凛子。秋は彼女の行動が不可解でならない。小山内の部屋に行くと、インターフォンを鳴らした。留守のようで反応はない。
「セレモニーに行ったな。くそ」
 一人ごちると、秋はきびすを返す。赤嶺の部屋から内線電話で係員を呼ぼうと思い、廊下を引き返していくと、少しだけ開いているドアがあった。開いているのは星名ひゆりの部屋である。十センチほど開いた玄関からは、星名ひゆりの片目が廊下にいる秋のことを見つめていた。秋は鳥肌が立った。後を付いてくる凛子といい、星名ひゆりといい、亡霊のような雰囲気をかもし出すのは勘弁してほしかった。
「星名さん、セレモニーに行かないんですか?」
 声をかけると、ひゆりはもう少しだけ扉を押し開き、顔を廊下に出した。ドアの隙間から頭を突き出している様は、少々間抜けである。こみ上げてくる笑いの衝動を抑えなければならなかった。
「でも……どうしていいかわからなくて……」
「好きなようにしたらいんですよ。赤嶺さんが迎えに来なかったですか?」
 星名ひゆりは首を横に振る。
「セレモニーの後は船上パーティです。かなり豪華な食事がでますよ。行かなきゃもったいないですよ」
「でも……」
「僕はちょっと仕事があるんで、デッキまで案内できませんが、一人で行けますか?」
「え……そんなの、むり」
 なら部屋に篭ってやがれ、と突き出したひゆりの頭を室内に押し戻し、扉をばたんと閉じてやったらどれほど気分がいいか。
「じゃあ、パーティの時間になったら迎えに来ます。それまで待ってられますか?」
 ひゆりは不安そうに眉を潜める。
「そんなの、わたし、むり」
 ああ、やっぱり美女でも問題児なんだ。秋は天を仰いで唸り声を上げたかった。本来ならウン百万からウン千万かかる豪華客船の旅を、彼女は満喫する術をまったく知らないのだろうか。
「無理と言われても……みんな先にデッキに行っちゃただろうし」
 その時、客室係であろうタキシード姿の若者の姿が見えて、秋は安堵したように声をかけた。
「すみません、ちょっといいですか?」
 ひゆりの面倒を見させようか、それとも赤嶺の部屋へ先に案内しようか、秋は迷った。秋は答えを導き出すと、ひゆりを振り返って言った。
「星名さん、ちょっとお願いします」
 秋が問いかけると、ひゆりは恐る恐る廊下に出てくる。
「一緒についてきてください」
 そう伝えると、客室係りにお願いし、赤嶺の部屋の惨状を伝えた。さすがに困った顔をする客室係り。とりあえず穴の開いた天井を見せてくれと言うので部屋に案内した。後を付いてくるひゆりと凛子。背後霊を二体背負ったみたいだと秋は思った。
 問題の寝室の天井を見上げるなり、客室係は唸り声を上げた。すかさず、秋は深々と頭を下げて「申し訳ありませんでした」と謝罪した。ひたすら謝ることしか秋にはできない。弁償しろといわれても、豪華客船の客室天井が幾らするのか、想像すらしたくない。
「これじゃ、この部屋は利用できませんね」
「本当にすみません」
 秋は下げた頭を上げられない。
「一体、どうして天井に穴が開いたんですか?」
 恐れていた質問をされ、秋は大量の汗を流す。答えづらい。なんて答えずらい理由だ。ベッドで飛び跳ねて頭突きを食らわしたなど、どの口から言えようか。言えるわけない。でも言わなければならない。下手な嘘は身を滅ぼす。
「実は、ちょっと浮かれて、ベッドで飛び跳ねていましたら、頭が天井に……」
 客室係りは微かに眉を顰めると、次には耐え切れず含み笑いを浮かべた。きっとクルーの間でこのことは笑い種になる。きっとなる。いくら自分たちがお客様だとしても、航海中はクルーたちの腹の中で笑いものにされ続ける。恥ずかしくてたまらない秋は、顔を上げられない。
「いや、そんなかしこまらないでください」
 客室係りの青年はそう言うと、朗らかな笑みを称えながら「大丈夫ですよ」と言ったので、秋はどうやら弁償問題にはならなそうだと安堵した。
「本当に申し訳ありません。できたばかりの客室を壊してしまって」
「いいんですよ。この部屋のお客様は?」
 この客室を破壊したデストロイヤー笹川と住人の赤嶺未来は、いまセレモニーに参加して、紙テープを港に投げつけながら悲鳴のような笑い声を上げて楽しんでいますよ。などと言えないので「ほかの係員を呼びに行ってまして……」などと取り繕った。
「そうですか。それでは他の部屋をご用意いたしますので、このお部屋のカードキーを持って、いったんメインエントランスのフロントまでお越し願えますか? 新しいお部屋のカードキーをお渡しします」
「ああ、ありがとうございます」
 秋とそれほど歳も変わらなそうな客室係りの青年が、まるで翼を背負った聖人のように見えた。秋は額にたまった冷や汗をぬぐうと、部屋を出て行った係員の背中に、何度も頭を下げた。客室係りのいなくなった部屋で、やれやれとソファーに腰をかけた秋に向かって、ひゆりが「天井を壊したんですか?」と、秋が犯人のように問いかけてきた。
「僕じゃないですよ」
「でも謝ってらしたから。壊したんですよね」
「違いますって。そんなに僕を犯人にしたいんですか」
 耐え切れず、ため息をつく秋。
「壊した人が謝るとは限りませんよ。それはもういいです。出港セレモニーも終わるでしょう。船上パーティに行きましょう」
 彼女らを案内したらカードキーを貰いに行かなくてはならない。それと、叔父さんを探さないといけないと思った。相談しなければならない。
 彼らの尻拭いしてやることが秋の本当の仕事なのか。小山内の真意を尋ねたかった。


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