処女+童貞=○○の法則

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六章 《 純潔は紙一重で性犯罪 》


 傍観を決め込んだ僕らの耳に、ひとつの事件の話が舞い込んできた。その噂の発端は、やはりいつものとおり、唯村だった。
 だが、今回は様子が違う。唯村は朝登校してくるなり、険しい顔で六郎を呼び出した。
「ちょっと六郎、顔を貸してくれるか?」
 明らかにいつもと違う様子に、六郎はただ無言でうなずいて立ち上がる。周囲も多少違和感に気づいて、何事だと物欲しそうにしていたが、こっそりついてくる人間もいなかった。
 何か唯村の気に触ることをしでかしただろうか。ひょっとして殴られるんじゃないかと不安になりながらつれてこられたのは教員が使用している駐車場。前に六郎が天見を強請した時に使用した場所で、教員も生徒も普段は一切立ち寄らない学校の死角である。
「お前に頼みがあるんだ」
 改まった様子の唯村は、こぶしを振り上げるどころか、急に泣き出しそうな顔をして懇願してくるではないか。拍子抜けした六郎は唖然とする。
「これから言うことは誰にも言わないで欲しい。約束できるか?」
 ぞくぞくした。誰にもいえないような秘密を、唯村は俺に告白しようとしている。いったいどんな内容なのか。期待と焦燥に思わずにやけてしまいそうになったが、どうにか真顔を顔面に固定して、神妙そうにうなずいて見せた。
「絶対に誰にも言うなよ。友達だと思って話すんだ。裏切ったらただゃおかないからな」
 正直「いいから早く教えろ」と罵声を吐きたい気持ちを必死に押さえ込んで、六郎は「何か困ってるのか? 俺に力になれるか?」と唯村の口が滑らかになるような呪文を唱える。
 するととたんに唯村の顔が崩れだす。本当に泣きそうな雰囲気だ。
「実は……」
 そう言って唾を飲みこむ唯村。その数秒の沈黙がもどかしい。唯村はたっぷりと逡巡して六郎を焦れさせてから、ズボンのポケットをまさぐり始めた。
 ポケットから取り出したのは携帯電話。険しい顔で携帯電話を操作する唯村。
 唯村の行動が読めない。突然、携帯をいじり始めてどうするつもりだ。
「本当は見せたくないんだけど、きっと見せたほうがお前も本気で考えてくれるはず」
 携帯に保存されている何かを見せたいらしい。やがて、唯村は意を決したように携帯の画面を六郎に向けた。
 六郎が画面に注目すると同時に、唯村は携帯の中央付近のボタンを押す。すると、画面に動画が流れ始める。
 黙って小さな画面をにらみつける。唯村は再びボタンを操作し、動画のボリュームもあげていく。
 ――やめて!
 女の悲鳴が六郎の耳に飛び込んできて、六郎は目を見張った。流れてきた動画は、例えるならば安いアダルトビデオ。
 画面にはおそらく後ろ手に縛られている制服姿の女子高生。不安そうに眉をひそめ、必死に「やめて!」と悲鳴を上げている。
 夕暮れなのか、すべての輪郭ははっきりしないが、動画を撮っている人間が女の子に手を伸ばし、髪をつかんだり、襟をつかんだりしているのが見える。
 ――でかい声だすとぶん殴るぞ。
 男の声がした。同時に画面のこちら側から伸びた手が、女子高生の両頬をつかんで揺する。
 ――なんなの!? やめてよ! 帰して!
 ――黙れって言ってるだろ。本当にぶん殴るぞ。
 動画は続く。画面越しにみえる唯村の表情は、深い慟哭を絶えるかのように歯を食いしばっている。
 しばらく「やめて」「うるせえ」のやり取りが続いたころ、カメラを持った男が唐突に女のブラウスを掴むと、力いっぱい左右に開き、女子高生の上半身があらわになる。
 ブラジャーに包まれた豊満な乳房。その向こう側にある神秘に期待しそうになったとき、ふと気づいた。
 気づいた瞬間、ちんけな興奮と背徳を同時に抱いた。
「これは……美佐子ちゃん?」
 知っている女の子だ。
 会ったことはないし、話したこともない。だけど、よく見知っている女の子だった。
 なぜならば、震える手でカメラを持つ唯村が、自分の彼女であると自慢げに写真を見せてきたのは、一回や二回ではないからだ。
「おい、これって……」
「最後まで見てくれ」
 苦しげな声。
 六郎は画面に視線を戻す。
 ――これからお前を犯すところをビデオにとってやる。騒ぎやがったらビデオをばら撒いてやるからな。
 男の声。言葉の内容。
 そして、六郎だからこそ分かってしまった男の声の主。
 レイプ、よその学校の女子生徒、ビデオ撮影。
 まさか、そんな。
 ――これからひとつ質問をする。正直に答えろ。嘘を付きたかったら付いてもいいけど、どちらの答えが正解かは教えない。だけど、どちらかが正解だ。正直に答えろよ。
 そう言って画面が女子高生の顔をアップにする。ここで確信を持つ。間違いない。美佐子ちゃんだ。
 ――お前、彼氏はいるか?
 男の質問。カメラは極限まで彼女の唇に近づく。その映像がなんとも卑猥に思えたが、表情ではそんな感情を隠し通す。
 ところが美佐子ちゃんは何も答えない。携帯電話からは荒々しい美佐子ちゃんの息遣い。やはり卑猥であるが、できるかぎりスケベな感情は脇にどける。
 ――いいから答えろ、コラア!
 とつぜん大声がして、携帯の音声が割れる。
 美佐子ちゃんは痛々しい悲鳴を上げると「います」と答えた。震える唇。息遣い。ひょっとしたらあえぎ声のようにのぞから漏れる声。
 男が「なるほどね」と妙に高揚した声を上げたのが分かった。
 ――よし、次の質問。お前は処女か?
 処女か? なんて質問だ。俺は知ってる。唯村が童貞を捨てた日を知っている。だからこそ、この質問の答えを知っている。
 こんどこそ、美佐子ちゃんは答えを言い渋った。
 逡巡しているのだ。この質問の意図はきっと見ているほうより、その場にいる美佐子ちゃんのほうが理解している。
 レイプされようとしているとき、男が「お前は処女か?」と尋ねている。答えは二通り。処女であるか処女ではないか。
 答えによって、運命が決まるかもしれない。この選択に彼女は逡巡しているのだ。この男がもし、処女を嗜好する変態であるならば、処女と答えた瞬間に最悪の結末を迎える。だが、逆の場合、つまり処女が嫌いな場合、彼女は処女と答えれば救われる。
 ――しょ、処女です。
 どんな気持ちでその選択をしたのか。必死に男の心理を読んだに違いない。正直に話していれば彼女は処女ではないのだから、これは嘘である。
 すべては「彼氏がいる」と答えたときに聞こえてきた期待と高揚を表す男の「なるほどね」という言葉。この男は処女は狙わないのだ。
 ――くそ!
 男は女の顔を掴んでいた手を乱暴に離す。
 ――彼氏がいて処女なのかよ!
 悔しそうに声を上げる。
 ――処女は血を垂れ流して汚えから嫌いなんだよ!
 理不尽に怒鳴り散らす男。スピーカから漏れる声はことごとく割れる。
 ――二度目だぜ、二度目! 冗談じゃねえよ! 前はたしか西高の女だった。あいつも処女だった。くそ!
 ――西高の女って……。
 カメラ越しの美佐子ちゃんが震えた声を上げる。
 ――ひょっとして鮎川さんじゃ……。
 ――ああ? 知ってんのか?
 六郎は鳥肌を立てた。
 なんてことだろう。まさか、こんなところで鮎川の名が出てくるなんて。
 意思とは関係なく、天見の言った言葉がよみがえる。真実は待っていれば向こうからやってくる。そう言っていた。まさに天見の予言が実現しようとしている。
 天見はこのことを分かっていたのか。なぜ? なぜ知っていたのか。
 いや、それよりも。
 小さな携帯電話の中にいる美佐子ちゃんと男の会話は続いている。
 ――いいか、このことは誰にも言うんじゃねえぞ。鮎川って女も処女だっていうから犯らなかったが、替わりにしこたま腹を殴ってやった。お前もぶん殴られたいか?
 美佐子ちゃんは必死に首を横に振る。
 ――誰かにしゃべったら殺す。いいな?
 美佐子ちゃんはやはり必死にうなずく。最後に画面がぶれる。めちゃくちゃに動き回る画面の中、最後の一秒ほど、男の顔が映った。
 携帯の画面が、動画の終了をブラックアウトで知らせた。
「紀乃原……」
 六郎が声を上げると、痛々しげに唯村は携帯を閉じた。
「六郎に鮎川のこと話したことがあるよな。あいつ、妊娠してるかもしれないって。襲ったのは紀乃原、四天王のやつらだ。あいつらがレイプしたんだ」
 そうだったんだ。真実は待っていればやってくる。まさに天見の言葉通り――いや待てよ。
「唯村、ちょっと待て。美佐子ちゃんは……」
「幸い、何もされなかったみたいだ。美佐子に問いただしたときの様子からすると間違いない」
「ってことは……」
 どういうことだ。よく分からない。考えがまとまらない。
 真実が口を開いたかのように見えたが、実はここに重要な謎が新たに生まれることに気づく。
 ということは、一体何なんだ?
 頭が混乱してきた。
「これを見たお前に頼みがあるんだ、六郎」
 混乱から目が覚める。答えは見つからないが、唯村にはこの動画を俺に見せた真意があるはず。ますはそれを聞くべきだと頭が切り替わる。
「紀乃原を……潰す」
 静かな怒号。そんな声だった。唯村はまるで六郎を恨んでいるかのように睨み付ける。
「このことを何人かの友達に話してるんだ。でも、動画を見せたのはお前だけ。鮎川の話をした手前、お前には見せるのが筋だと思ってな」
「それはいいけど、紀乃原を潰すって……」
「人を集めてる。このまま見過ごせるもんか。美佐子、気丈に振舞ってるけど、きっとおびえてる。外に出るのだって怖いはず。自分の女がこんな目に合わされて、黙ってられるかって言うんだ。紀乃原を呼び出して思い知らせてやる。お前なら分かってくれるはずだ。親身になってくれるだろ? 一緒にやってくれないか?」
 気持ちは分かるけど……。正直、否定的な感情が胸に広がったが、それを口に出すのは気が引ける。
「四天王に手を出すってことだろ。やばくないか?」
「いつまでもあいつらにビビッて暮らすわけにはいかないだろ。あいつらはたった四人なんだ。絶対負けるわけがない」
 断れない。
 四天王に関わって災いが降りかかることは恐ろしいが、ここで否定的な感情を示すのもまた恐ろしかった。
 どう答えるべきなのか。
「もし一緒にやってくれるなら、あさっての夜の七時に四面公園まで来てくれないか? そこに紀乃原を呼び出す手はずになってる。あいつは一人で来るはず。この件で脅してるから」
「もし四人できたら?」
「それでも問題ないくらいの仲間が募ってる。大丈夫、問題ない」
 唯村の悲壮な決意のこもった目。
 正義は間違いなく唯村にある。だが、正義だろうと悪だろうと選択肢に優先度はない。
 実際、よく分からない。四天王の恐ろしさは目のあたりにしたことがあるわけでもないし、実は四天王に対するみんなの畏怖は虚像なのかもしれない。
「返事はしなくていいよ。当日、お前を待ってる。来るか来ないか、ゆっくり考えてきてくれ。でも、これだけは言っておく。いつまでも四天王とか言う最低なやつらに遠慮して暮らすか、あいつらを潰して不安のない高校生活を勝ち取るか、他人任せじゃいけないんだ」
 唯村が誰を集めたのかは知らない。だが、ここで間違いないのは、あさっての夜七時に四面公園に行かなかった瞬間、俺と唯村の友人関係は失われるだろう。
「じゃあ、期待して待ってる」
 唯村はそういい残して、一人で立ち去った。
 六郎はしばらく呆然と立ち尽くしていた。頭がうまく整理できない。要するに何なんだ? 何が答えなんだろう。
 天見だ。とりあえずあの有機コンピュータに情報を打ち込んで、アウトプットされる答えに期待しよう。
 そう決めて、ホームルームの開始を知らせるチャイムの音を聞きながら、重い足取りで教室まで戻っていった。
 
 
 
 早速、昼休みに仕入れた情報を有機コンピュータに打ち込んでみた。早々に唯村との約束を破ったことになるが、そこは軽薄な人間であるので問題ないとして、情報を打ち込んでいる相手も人間といえる心を持っているわけではないので、やはり問題ない。
 そうやって納得して、打ち込んだ情報が整理され、出力されるのを待った。
「なるほどね。そういう展開になったか」
「やっぱり分かってたのか?」
「半分くらいかな。正直、僕はもうどうでも良くなってる。後は待つだけだから。そうだな。あさっての夜七時に四面公園だっけ。そこで僕の想像が正しいかどうか明らかになると思う。一緒に行ってみようか」
「そんなことは今どうでもいいよ。要するに鮎川の妊娠はレイプされたものじゃなかったってことなのか?」
「君が感じてる矛盾は分かるよ。鮎川はレイプされていなかった。動画を見る限りそういう理屈になるよね。でも、妊娠しているのは事実。まあ、焦らず明後日を待とうよ。たった二日。それで全部分かるから。それに、やっぱり鮎川と話しする必要がある。自殺未遂は本当なのかも確かめたい」
「じゃあ、俺も行く」
「六郎も? やめておいたほうがいいって」
「やっぱりまだ疑ってるのか?」
「君がどう関わってるのか、実はまだいまいち釈然としない。実際のところはどうだったのか、ってことがね。でも、それも明後日に明らかになると思う。僕は待つから、君も待てよ」
 くそ、もったいぶらせて楽しんでいるのではないか。俺がむりやり巻き込んだ腹いせに復讐しているのかもしれない。
 天見とはそこで別れた後、二日後の四面公園まで会わないことになる。その日まで天見が学校を休んだせいであるが、六郎は天見と話したくて仕方がなかった。自力で何一つ真実を導き出せない。歯がゆさに二日間を悶々と過ごす。
 二日間の間、やはり紀乃原が唯村の彼女を襲った事件のことは押さえが聞かなかったようだ。噂は学園中に広まり、鮎川との関連性を示唆する噂も少なくなかった。
 無遠慮に耳に飛び込んでくる勝手気ままな噂話にできる限り耳をふさぎ、天見の言う「真実が明らかになる」瞬間を今か今かと待ちわびた。
 
 
 
 そして、唯村と約束した日になった。唯村が紀乃原を公園に呼び出し、話をつける日である。
 その日、唯村は学校を休んだ。唯村だけではない、天見も休んだ。最後に天見と話をできなかったのが多少不安要素である。
 天見が言うには、今夜すべての真実が明かされるという。鮎川の妊娠は真実である。だが、その相手はまだはっきりとは分からない。なにより、天見が考える「全ての真実」とは、一体何なのかも良く分からないのだ。
 俺はその瞬間を、合格発表のような心境で待った。合格発表のような心境だったのは、そこに期待と恐怖が混じっていたからである。
 じりじりと蒸すようにゆっくり流れる時間に、勉強も身に入らない。カチ、カチと時計の秒針が時を刻む音が意識され、日常とは違う空気が六郎の周囲を取り巻いている。
 何かが変わってしまうのではないか。今夜、全てが明らかになったとき、これまで当たり前に過ごしてきた日常が様変わりしてしまうのではないかという不安が、脳天から圧し掛かってくるようで、いつまでたっても緊張感は和らがない。
 やがて学校が終わり、長い一日に疲労感を覚えながら自転車で家路に向かう途中、見慣れた風景がいつもと違うことを意識した。違うのは風景ではなく、自分自身の意識であることは分かっていたが、やはり今夜、いままで過ごしてきた日常が様変わりしてしまう予感がそうさせているのだろう。
 家に帰ってから天見に電話を掛けたが留守だった。天見と連絡が取れないことが一番不安である。本当に今夜、天見は四面公園へやってくるのだろうか。
 落ち着かない気分で、約束の夜七時を待つ。なにも手に付かず、退屈に似た長い時間をすごす。テレビをつけても集中できず、緊張して一眠りも出来ない。ただ机に向かいながら手を組み合わせて、ひたすらに秒数を数えながら時間を待つ。
 何度も時計を見ても時間は進まない。時間を潰すすべも無いまま、ひどい長い置換を待った気がする。
 約束の七時に近づき、六郎は家を出た。体が重かった。徹夜明けのように疲労感が下半身を鉛のようにしている。これは、深層心理では「行きたくない」と暗示しているのではないか。
 ――真実を知るのが怖い?
 女子高生の妊娠。この事実が、どれほど軽んじて傍観していたのか。改めて思い知らされる。鮎川の心境は? 自殺未遂を図った彼女の、その気持ち。絶望感。その禁断の領域に踏み込み、自分は一体なにを思うのか。
 妊娠、強姦、自殺。ごく近い距離で起こった出来事であるが、しかしそれは分厚い壁をひとつ隔てた向こう側の出来事でもある。鮎川との交友は一切無く、会話を交わしたことも無い。分厚い壁にあいた小さな穴から覗き込んだ向こう側の出来事が、急速に身近な出来事に近づいてくる。関係者の一人になる。起こった出来事、悲劇、恐怖が六郎自身の体験に摩り替わろうとする。
 いつもと雰囲気の違う夜だった。胸が狂おしいほどに鼓動している。いつもの違いがうまく意識できない。何が違うのか。強いて言えば、いつも目を向けない暗がりが、より鮮明に見えている。そんな感覚。
 全てが明らかになる。
 胸のわだかまりが全て解消される。
 だが同時に、避けて通ってきたはずのリアリティを突きつけられる。
 六郎は四面公園に近づくと、やはり怖気づいた。公園正規の入り口からではなく、茂みのある場所から金網を乗り越えて進入する。
 腰を低くして茂みを掻き分けていくと、約束の場所にたどり着く。公園の全長はせいぜい百メートルほどのもので、自然に取り囲まれた敷地内に、要所要所に開いた場所がある。
 そのひとつに、大勢の人間が集まっているのが見えた。周囲に住宅は少なく、近くを通る国道からも生い茂る木々が視界をさえぎっている。
 おらつらえの場所。六郎は茂みに隠れ、様子を伺っていた。見える限り十数人の男たち。私服であるが、みな高校生だろう。
 唯村を見つける。唯村は集団に囲まれるようにして、一人地べたに胡坐をかいている。その表情に浮かんでいるものは怒り、そして決意。緊張している。見たこともない唯村の顔。
 出て行ったほうが良いだろうか。逡巡していると、約束の七時となった。
 時計を気にしだす集団。
 周囲を見渡すが、紀乃原が訪れる様子はない。同時に、天見の姿もない。
 紀乃原がばっくれたのなら、六郎も安全だろう。
 六郎は茂みから這い出てきて、集団のほうへ歩いていった。
 すると、近づいてきた俺に警戒したように敵意を向けてくる集団。紀乃原と思ったのか、俺は内心、びくびくしながら近寄っていくと、唯村が俺に気づいた。
「六郎! 来てくれると思ったぜ!」
 立ち上がった唯村は俺に駆け寄ってくると、嬉しそうに肩を抱いた。
 そのときだった。
 集団が緊張したのが分かった。
 特段、誰かが声を発したわけではない。いや、むしろ静まり返った。少なからず会話を交わしていた集団が、いっせいに沈黙した。
 気配に気づいた唯村と俺が周囲を見渡す。
 ――来た。
 公園に点在する外灯。
 暗闇の中に、転々と世界を明確にする外灯のひとつ。程近い外灯の下に紀乃原が立っていた
 一人である。
 紀乃原はポケットに手を突っ込んで、この人数にも物怖じすることなく、斜に構えてこちらをにらんでいた。
 唯村が仲間に「あいつで間違いないか?」と確認していた。唯村が黙って頷くと、周囲が殺気立ったのが分かった。
 本当に一人できたのだろうか。六郎は一人、疑っていた。少なくとも四天王の四人が来るだろうと思っていたのに。
 紀乃原は自分に視線が集まっていると確認すると、恐ろしい眼光でにらみつけながらこちらに歩いてくる。
 物怖じひとつ感じさせない態度に、十数人いる集団の誰もが内心では気おされるものを感じていたはずだ。
 集団の間を抜けるようにして、先頭に立つ唯村。畏怖堂々とした姿。唯村も紀乃原に対して怖気づくような様子はない。
 唯村は一人、集団を残して唯村に近寄っていく。
 唯村と紀乃原の距離が一メートルに近づいたとき、二人は立ち止まり、無言で殺気をぶつけ合う。
「美佐子って女、知ってるよな?」
 唯村が低い声を出す。
「あれは俺の女だ。お前、説明しなくても、何で呼び出されたか分かってるだろ」
 紀乃原は唇の片方を吊り上げると、鼻先で笑い飛ばして、足元に唾を吐いた。
 それに触発されるように、唯村の全身から静電気のようなものが発せられるのを見た。
 唯村がひじを曲げて、硬く固めた拳を振るった。
 ところが紀乃原は腰をかがめてあっさり拳を交わすと、勢いあまった唯村は前のめりに倒れこんだ。
 紀乃原は馬鹿にしたように嘲笑している。
 瞬間だった。
 十数人の集団がいっせいに躍動したように見えた。
 相変わらずポケットに手を突っ込んだままの紀乃原に向かって、集団が一斉に襲い掛かる。
 その場に取り残された六郎は、呆然と立ち尽くしていた。
 いや、取り残されたのは俺だけではなかった。
 ふと、そばに気配を感じて視線を転じると、そこに立っていたのは天見だった。
「天見、来てたのか!」
 天見はこちらを見もせず言った。
「うん。君が茂みに隠れてたのも気づいてたよ」
 そんなこと、わざわざ指摘しなくてもいいのに。
 そう思いながら、視線を集団に移す。
 集団がうごめいて怒号を上げているのは見えるが、どれが紀乃原なのかは全く分からない。
「いくら紀乃原でも、あの人数は無理だね」
「それより、こんなんで本当に真実は明らかになるのかよ」
「なると思うよ。でも、それには熱くならず、暴力に頼らず、絶対に傍観者でいることが条件だけどね」
 俺はいま、完全に傍観者である。唯村との友情を考えるならば、六郎はあの集団の中で紀乃原を足蹴にしなければならない。
 後ろめたい気持ちが胸に広がる。
 だが、足は前に出ない。
「君があの集団に加わらないのは、いい判断だと思うよ」
「ただビビッてるだけだよ」
「普段ならそう思うかもしれないけど、今の君はそうは見えない……ついさっき、新しい事実を知ってしまったからね」
 新しい事実って何だよ、とは尋ねなかった。
 密集していた集団が、徐々に広がっていく。
 集団の外側にいた人間から、徐々に四散していく。
 人がばらけていくと、中央の様子が見えてきた。
 集団は完全に見物し始めている。集団に囲まれた中央では、唯村が紀乃原に馬乗りになって、何度も拳を振り下ろしていた。
 やがて、無抵抗になった紀乃原。集団の一人が唯村を制する。両脇を抱えられ、怒り覚めやらぬ様子の唯村を紀乃原から引き剥がすと、顔面血だらけでピクリともしない紀乃原が残された。
「なんで紀乃原……一人できたんだろう」
 俺のつぶやきに、天見はなにも回答をよこさない。
 代わりに別の話を語りだす。
「僕には二通りのシナリオが見えていた。ひとつは表面を撫で付けたような真実。鮎川は紀乃原にレイプされて、妊娠した挙句に唯村の恋人まで毒牙に掛けようとした。そんな不条理の話」
 やがて、集団が紀乃原から離れていく。
 唯村は俺の存在など忘れ、集団と一緒に公園からいなくなった。
「そして、もうひとつのシナリオは虫唾が走るような見たくも無いもの。しかも、僕はとんでもないピエロ役」
 残されたのは、唯立ち尽くす六郎と天見。そして、公園の広場に大の字になって横たわる紀乃原。
 これが結末? これが真実?
 六郎は紀乃原に近づいていく。後から天見が付いてきたのが分かった。
 紀乃原に近寄って、そばにしゃがみ込む。
 紀乃原の顔の形は変わってしまっている。怪物のようにまぶたがはれ上がり、鼻や口からは血が流れ出ている。
 紀乃原は目を瞑っていたが、不意に口元をゆるめた。血に濡れ、腫れ上がった唇は、まるで笑ったような形に。
 それはすがすがしく、難所の高山に打ち勝ち、頂上で浮かべる達成の笑みのように。
「何がおかしいの? 性犯罪者のくせに」
 天見が六郎の背後からそう言った。
 紀乃原は顔を起こす。
 六郎と天見がそばに寄ってきていたことに気づいていなかったらしい。
「何の用だよ。まだ殴り足りないのか?」
「別に。言っとくけど君の敵じゃないよ。味方でもないけどね」
「なんなんだ、てめえは」
 紀乃原は起き上がることなく、夜空を見上げたまま答える。
 天見は六郎の横に並ぶと、紀乃原の顔を覗き込んだ。
「僕は、くだらない物語の顛末を見届けに来たんだ」
「物語だと?」
 物語……。六郎は天見の横顔を見る。二通りのシナリオ。天見はそう言った。
 天見は無表情。冷ややかに紀乃原を見下ろしている。
「そう。思ったとおりの展開だったけど、こんな最悪な結末、僕だったら選ばない。君は何のためにそこでぼろぼろになってるの? 不可解でならないよ」
 紀乃原は身体をいたわるように身体を起こす。顔だけではない。半袖から出た腕も、所々赤くはれ上がっている。
 うめき声を上げながら上半身を起こした紀乃原は、何度か咳き込んだあと「どういう意味だよ」と声を出す。
 天見は肩をすくめる。
 天見が語り始める。それは六郎たちがいままで調査してきた内容だった。
「ずっと調査してたんだよ。鮎川藍子。彼女が妊娠したっていう噂。最初は興味本位だった。六郎が依頼してきてね。六郎も興味本位だと思ってたんだけど、本当は最初から疑ってた」
 紀乃原は血の混じったつばをはき捨てながら、話をする天見をにらみつけている。天見は動じる様子もなく話を続ける。
「聞きたくなかったら、今から話す僕の言葉を遮ってくれていいよ。でも、聞きたかったら大人しく聞いて」
 天見はそう前置きして話し始めた。
「ここでの事実は、彼女が妊娠しているということ、自殺未遂を図ったという二つの事実。それ以外は事象だけ。順序だてるとこう。
 鮎川が妊娠した。これはだけは分かっている真実。あとはただの噂。
 噂ではレイプされたときにできた子供らしい。
 でも彼女は普通に振舞って生活している。だからこそ、噂にとどまっている。
 彼女のことに対して、まことしやかな噂が流れはじめる。どうやら彼女を襲ったのは四天王の連中らしい。
 自分の犯行を隠したいあまり、噂をとめるために元凶をつぶしまわる紀乃原の存在が噂になる。相手は紀乃原なのか。当然そういう想像に至る。
 彼女の自殺未遂が怒った。
 そして、これは知られていない真実。彼女は流産したんだ。
 次に発生したのは紀乃原のレイプ未遂。唯村の彼女だよね。携帯電話でビデオ撮影してるから、これは噂ではなくまぎれも無い真実となる。レイプが未遂で終わったのは彼女が処女だったからだったよね。
 処女が嫌いな紀乃原。
 鮎川の噂を含め、君がすべての犯人だと確信した唯村が君を呼び出し暴行する。
 君が真相を告白する。鮎川は処女だったために、君は何もしていないという。
 だから、鮎川の妊娠もレイプも全て間違いだったという結論に至って、噂は決着する」
 ここまで紀乃原は一切口を挟んでこなかった。ただ黙って聞いている。その様子を確認した天見は話を続けた。
「簡単だけど、これがこれまでのあらすじ。さて、この順序だてた前提と事象は君がすべての元凶だって示してるけど、いくつかの矛盾があるよね。
 君は犯行を隠したいために、噂を流す人間の口封じをした。おろかだね。自分が犯人だと宣伝しているようなもの。君は馬鹿すぎる。
 それに、彼女が処女だったからレイプしてない? 君はそう言ったよね。それもおかしいね。これは僕らしか知らない事実だけど、彼女は処女じゃないし、事実妊娠してる。じゃあ、本当に紀乃原が鮎川をレイプして、妊娠させたのは真実だった? 責任逃れをしたかったから嘘をついた? 違う。君の一連の行動を、一番納得行く形で論理的に解析すると次のようになる」
 天見は、二ツ目のシナリオを話し始めた。これを聞いている間、紀乃原は口を挟まなかったものの動揺を隠し切れずに、何度も舌打ちをしていた。
「君は鮎川がレイプされ、妊娠している事実を最初から知っていた。それは君の犯行ではない。だけど、噂が流れることで鮎川に不名誉な事実が漏洩することを恐れた君は『彼女の名誉を守るため』に事実を隠蔽しようとする。
 最も愚かしい方法でね。噂する人間を恐喝して口封じをするなんていう馬鹿げた行動だったけど、案の定、噂は止められなかった。むしろ蔓延する噂。
 そして君は自分に疑いが、自分に向けられていることに気づく。
 それを利用しようとした。
 君は『レイプ未遂』という不名誉を代償に背負うことで、鮎川の噂を消そうとしたんだね。
 鮎川にいたずらしようとしたのは自分。だけど処女だったので何もしていない。だから、彼女は妊娠もレイプもされていない。
 君が望んだ事実は、こういうことだね。それを身を犠牲にして作り出した。
 その事実を真実に変えるために、君は唯村の彼女を襲って、自分に矛先を向けさせた。
 そして今。
 君はぼろぼろになって土をなめている」
 二ツ目のシナリオを話し終えたとき、紀乃原は初めて口を開く。
「鮎川藍子……孕んでなんていない。犯してないし、あいつは処女だ」
「なぜ言い切れるの? もしかしたら鮎川藍子にはちゃんとした彼氏がいて、セックスだってしてるかもしれない。そんなの誰にも分からないはずなのに、どうして処女だって言い切れるの?」
「そんなことまではしらない。少なくても、俺が襲おうとしたときは処女だった」
「もう演技はいいんだ」
 天見が語気を強めた。憤ったように眉間にしわを寄せる。
「彼女はレイプされた。身ごもってる子も、レイプされた際にできた子供。そうだよね、紀乃原」
「違うって言ってるだろ。いい加減なことを言ってるとぶっ殺すぞ」
 天見は聞く耳を持たない。紀乃原を無視して自分の話したい話を続ける。
「もう面倒だから結論から言うよ。君は鮎川を襲ってない。なぜなら妊娠の相手は春日井と薬師寺。君は二人が鮎川をレイプする現場を見た、あるいは、その事実を知ってるんだね。鮎川も、紀乃原が全て知っていることを承知してる。そうだよね」
 紀乃原は拒否するように顔を背ける。
「鮎川は紀乃原に『全て黙っていてほしい』と言ったんだね。このことが学校の人間や両親に知られるのが怖かったからだ。紀乃原は警察に届けようとしたのかどうなのかは知らないけど、結局は彼女の思い通り、口を閉ざすことにしたんだ」
 紀乃原はもはやなにも言わない。黙って天見の言うことを訊いている。
「まだとぼけるの? 別にいいさ。これはただの作り話なんだから。ただの悪者になって、性犯罪者扱いされる明日からの生活を省みない、馬鹿でおろかな主人公の作り話。やり方もあきれるほどこっけいで不器用。僕ならもっとうまい方法を選ぶ」
「いいかげんにしろ……もういい。聞きたくない」
「言いたいんだよ」
 そう言ったのは六郎だった。紀乃原が六郎を見上げるが、すぐに顔を背ける。
「俺を覚えてるか、紀乃原」
 紀乃原は顔を背けて無言である。その横顔に向かって六郎は話す。
「紀乃原、俺と初めて会ったときのこと、覚えてるか? 俺はよく覚えてる」
 天見が思い出したように口を挟む。
「紀乃原と六郎。その出会いがあったから、僕はこんな面倒ごとに巻き込まれたんだ。思えば、六郎がはじめから僕に正直に話してくれれば、最初から迷わず真実が分かったんだ」
「天見……」
「最初、六郎が僕に調査依頼していたとき、本当に軽薄な人間だと思った。なんて最低で低俗な奴なんだろうって思った。でも六郎は最初から分かってたんだよ。鮎川の妊娠も、相手が誰なのかも。知ってて僕に依頼してきた。全部知っていながら、見事に知らないふりをして僕を振り回した。六郎も紀乃原も、なにもしていないって最初から話してくれていれば、こんな見たくもない泥臭い恋愛物語を見させらずに済んだんだ。見事にピエロ役を演じさせられた。本当に勘弁してほしいよ」
「……そのことを誰かに言ったのか?」
 紀乃原が顔を背けたまま、ぼそりとつぶやいた。
「誰にも言っていないし、誰にも言わないつもりだよ。僕も六郎もね。君がせっかくぼろぼろになってまで守ったんだ。『鮎川は処女』っていう事実を。僕の趣味じゃないけど、口は閉ざすよ。でも、君は本当にそれでいいの? 『鮎川は処女』という事実と引き換えに、君は『レイプ魔』っていう最悪な汚名を被るんだよ」
「……俺は男だ。強いんだよ。それくらいどうってことはない」
 認めた。やはりそうだった。六郎は胸が苦しくなった。六郎が思っていたとおりだった。
「そんなわけないだろ」
 六郎は身を乗り出した。
「本当は何もかも言いたいよ。鮎川藍子に警察にいくように言って、紀乃原はすべて彼女を守るために演技したんだって証明したい」
「俺は粗暴な不良キャラなんだよ。不名誉な勲章が一つくらい増えたっていい。だけど彼女はごく普通の女なんだよ。その不名誉ひとつで人生が終わっちまう」
「そんなの不公平だ」
「これが公平なんだよ。あまたの高さをそろえるのが公平なんだ。俺は強いが彼女は弱い。強い俺がたたかれて、彼女と同じだけ傷つく。公平だろ」
 なんてことを言うのだろう。
 やはり、紀乃原は優しい人間だ。
 六郎の思ったとおり、強く優しく、そして純粋。
 
 
 
 六郎は思い出していた。
 エロ本争奪戦のあの日、雑木林で目撃した薬師寺と春日井。二人が岩陰で一人の女を襲っていたのを目撃した。
 明らかに無理やりだったし、それが性犯罪現場なのだという認識はあったが、六郎の手足は恐怖にすくみ、微動だにすることができなかった。
 女に張り付いている春日井の手が、器用に女のパンツをずり下ろしたときだった。女がまるで断末魔のように目を見開いて悲痛な悲鳴を上げた。
 そのことで、六郎の中に現実感を上回る現実感が目覚める。ここで知らぬ振りをしたことが、一生六郎を苦しめる結果になる。そう思った六郎は立ち上がっていた。立ちくらみのように眩暈がしたのを覚えている。目の前には目に見ることの出来ない弾力のある壁があり、前に進もうとしてもやわらかい壁が前進を阻止する。
 腹筋にいくら力をこめても絞まった喉から漏れてくるのはうめき声ばかり。
 春日井も薬師寺も事に夢中で六郎に気づいていないが、確実に見える角度と距離にいる。二人とも女の身体をまさぐるのに必死でこちらに気づいていない。
 一歩、前進する。そのたびに目に見えない電気を帯びた向かい風が吹く。もう一歩、さらにもう一歩。一歩……。
 そして、五メートルほどの距離に近づいてきたときだった。薬師寺と春日井が六郎に気づいて、ぎょっと身体を震わせた。
 まるで世界の終末を見たような顔で物言わず六郎を見ている。唇は言葉をつむぎだそうとわなないているが、突然の事態に戸惑っている様子。
 その様子はそのまま六郎にも言えることだ。
 愕然としている薬師寺と春日井の呪縛が緩んだのか、女は一目散に逃げ出した。慌てて引き止めようと手を伸ばした薬師寺と春日井だったが、手はむなしく空を切る。
 ずり落ちたパンツを押し上げながら走り去っていく女の背中。その背中を眺めながら、六郎は一瞬先に自分に降りかかる不幸を予感した。
「誰だ、てめえ!」
 春日井が怒鳴り声を上げると、絶望的な足音を奏でて詰め寄ってきた。
 そのまま詰め寄ってきた勢いのまま殴られると思った六郎は肩をすくめた。直後にほほを殴られ、激痛を感じながら地面に卒倒する自分を想像する。一発では終わらないだろう。ひょっとしたら何かの間違いで死んでしまうなんて事は……。
 ところが神は健気な少年を見放さなかった。
 強く目を瞑って肩をすくめる六郎に強烈な一発がお見舞いされることはなく、代わりに背後から足音が聞こえてきた。
 いつまでたってもパンチがとんでこないので六郎は恐る恐る目を開く。
 目の前には物騒な春日井の顔。その顔に穿たれた二つの不気味な瞳が、六郎の背後を見ている。
 六郎も背後を振り返った。
 歩いてくる奴がいた。
「なにやってんだ、春日井。薬師寺も」
「お前には関係ないだろ」
「放課後にいなかったから探しに来たんだよ」
 ち、と春日井が舌打ちをした。
「このガキを締めようとしてたんだよ。邪魔すんじゃねえ」
 背後から近寄ってきた男が六郎を見る。
「こんなやつ苛めて楽しいのか? 普通な奴じゃねえか」
「いいからすっこんでろ、紀乃原」
 果たして、紀乃原との最初の対面だった。このころの紀乃原は今より暗い顔をしていて、いつも刺すような三白眼をしていたのを覚えている。
 紀乃原はため息混じりに言った。
「別にいいけど、さっき女が走っていったぜ。あの女に何かしたのか? あの様子じゃ、警察に行かれても不思議じゃなかった。大丈夫なのか」
 春日井と薬師寺が表情を曇らす。
「くそったれ」
 春日井が近くの竹を思い切り蹴飛ばす。すると竹に住み着いていた昆虫がバラバラと落ちてきた。
「お前、同じ学校の奴だよな。忘れねえからな。あとできっちり落とし前を付けにいくからまっとけよ」
 春日井がなんとも後味の悪い言葉を残して、薬師寺と一緒に逃げていった女を追いかけていった。
 六郎は一難去って、尻から崩れ落ちそうな気分だった。
「おい」
 紀乃原が低い声を出す。
 六郎はおどおどしながら紀乃原を見た。
「おまえ、こんなところで何をしてんだ?」
「なにって……」
 大人の写真集を拾いに来た、なんて答えられる雰囲気ではない。でも、そうとしか答えられない。
「実はあっちに、捨てられたエロ本があって……」
「エロ本だ?」
 紀野原が顔面をはにかませると、鬼のような表情になる。六郎はいつ拳が飛んでくるのかと怯えながら答える。
「エロ本を拾いに来たんだ。そしたら声がして……」
「あの女」
 六郎の言葉を遮るように紀乃原が言った。
「春日井と薬師寺があの女を連れ出したって聞いて、まさかと思って急いできたんだよ。お前何か見たのか?」
「え?」
「だから、あの女だよ。何かされてたのか?」
「うん……乱暴されそうに……」
「乱暴だと?」
 再び紀乃原が般若のような顔をする。怖いのでやめて欲しい。
 紀乃原が弾けるように舌打ちをした。
「やっぱり、あいつら無理やりに……。お前、それであの女の助けたのか?」
「助けたってほどじゃないけど……」
「あいつらのこと、知ってるだろ。同じ学校みたいだし」
「知ってる」
「心配すんな。春日井と薬師寺には俺から何とか言っておく。それより、ありがとうな。助けてくれて」
 ありがとう? どういうことだろう。あの女は紀乃原の彼女なのだろうか。でも、自分の彼女が男に乱暴されそうになったのなら、もっと怒り心頭しても良さそうである。
「お前、名前は?」
「名前? ……月並六郎です」
 思わず敬語になる。紀乃原は「六郎ね」と呟きながら、次に「それで、エロ本は?」と尋ねてきた。
「は?」
「だから、エロ本だよ。どこにあるんだよ」
「どこって、あっちのほうだけど」
 六郎が指を指した方向を見る紀乃原。
「あっちじゃ分からねえよ。案内しろよ」
「案内しろって、どうするつもり?」
「どうするつもりもクソもないだろう。エロ本を見ながらすることなんてひとつしかないだろ。お前、なに言ってんだ?」
 なんだか、俺がおかしなことを言ってることになっている。
「いいから早く案内しろよ。どこにあるんだよ」
 威嚇されて、仕方なく六郎はエロ本のありかまで紀乃原を案内した。問題の場所にたどり着くと、紀乃原は歓声を上げてエロ本に飛びついた。
「すげえ」と声を上げながら大人の写真集を観賞しだす紀乃原。呆然と立ち尽くす六郎に「なに突っ立ってんだよ」と、また威嚇してくる紀乃原。
「お前も見ろよ。すげえぞ」
「それより、さっきの女の子、大丈夫かな」
「大丈夫だよ。竹林の外で後輩に送らせたから。いいから見てみろよ。なんかちょっとショッキングだぞ。お前、これ見たことあるか?」
 紀乃原が本を見開いて、六郎に向けた。確かにショッキングな写真がそこにあった。
「なんだこれ」
 六郎は思わず声を上げて、写真に齧り付いていた。
 六郎だって少しは知っていた。多少縮れ毛に覆われているだろうと想像していたものの、なんだろう、あのヒダヒダは。六郎の想像の中では一本の筋であると思われていた秘密の壷は、まるで海洋生物のように肉々しかった。
「ここに入れるのかあ」
 六郎がまじまじ写真を見ていると、紀乃原が「童貞か? 童貞だよな」と声をかけてくる。
「なあ、セックスって気持ちいのかな。入れるとどんな気持ちなんだろう。この穴の中ってどうなってるんだろうな」
「たぶん、吸盤のように吸い付くんじゃないかな」
「馬鹿言え、吸い付くもんか。きっと小さな触手みたいのがいっぱいあって、絡みつくんじゃないか?」
「触手? なんか気持ち悪いよ」
「でも濡れるんだろ。どこから液を分泌するんだよ。そう考えると触手みたいなのが液を出してると思わないか?」
「鼻水みたいなもんじゃないのかな? きっと奥から湧き出て来るんだよ」
「ふうん」
 風貌からすると、考えられないくらい無邪気な様子だ。
「ああ、セックスしてみてえな」
 紀乃原が腹の底から声を上げる。
「……さっきの女の子」
 六郎がそう言うと、恐ろしい顔でこちらを見る紀乃原。
「ひょっとして、あの子とやりたいんじゃ」
「馬鹿言え。あの子はそういうんじゃない。あの子とはもっと普通に……手をつないだり……」
「好きなの? さっきの子」
 紀乃原はまるで腹に強烈な一発を食らったかのような顔をした。
「……あんな子……薬師寺と春日井が狙ってるって話を聞いて、心配してたんだ。冗談じゃない。俺はずっと二人をつけてたんだ」
「彼女を守ってたの? 大丈夫? 彼女のこと、二人が追いかけてったけど」
「大丈夫だ。ほら」
 紀乃原がポケットから二つのキーを取り出した。
「あいつらのバイクのキー」
 そういって満面の笑みを浮かべると、紀乃原は近くを流れている沢にキーを投げ捨てた。
「それに、俺の仲間が森の外で二人を足止めする手はずになってる。追いつかれねえよ」
「やっぱり好きなんだ」
「……誰にも言うなよ」
 釘を刺され、六郎は神妙に頷いた。
「でも、あの子とセックスしたいと思うだろ?」
「正直……してみたい。だけど、その前に話したり、キスとかも……」
 言葉の末尾が、弱弱しく消えていく。風貌に似つかわしくない消極的な態度。気持ちが分からないでもない。誰だって好きな女の子に積極的になれたら幸せだろう。
「どうやったら出来るんだろう。女の子って俺たちみたいにセックスしたいって思うのかな」
 六郎が素直な疑問をつぶやくと、紀乃原は肩をすくめて見せた。
「思わないだろ。だって痛いらしいぜ。血が出るくらいだ」
「でもみんなやってることじゃないか。男がセックスしてるときは、必ず女もセックスしてるんだ。男がやりたいから女は我慢して付き合ってるだけってわけじゃないだろうし」
「いや、アダルトビデオを見る限り、女は男よりよっぽど気持ち良さそうにしてるぜ」
「見たことあるの?」
「ねえの?」
 六郎がよっぽど目を輝かせていたのか、紀乃原は初めて笑顔を作ると「こんど貸してやるよ」と言った。
「本当に?」
「親父のビデオをこっそり持ってきてやる。だけど、親父は残念ながら無修正を持ってやがらねえけどな」
 充分である。問題はビデオを借りた後、どうやって干渉するかだが。両親がいない間に、居間のビデオデッキで見るしかないが、両親が不在のタイミングなどほとんどない。
「くそ、勃起しちまった。六郎、お前ちょっと向こう行ってろよ」
「まさか、ここでやる気?」
「家まで我慢できねえよ」
「それは駄目だよ」
 六郎が言うと、意外そうな顔で紀乃原が振り返った。
「アレは外でやっちゃ駄目なんだよ」
「なんでだよ」
「だって、アレをやると、終わった後に妙な気分になるじゃないか。なんだか後悔したような空しくなるような気持ちにならないか?」
「……確かに」
「アレはきっと、あまりやっちゃいけないものなんだよ。外でなんかアレをやったらもっと気分が落ち込むと思わないか?」
「……なんだかよく分からないが、確かにそんな気がする」
「アレは家の中でやるものなんだ。きっと人間の本能がそう決めてるんだよ」
 実際は欲望を抑制するための人間の本能だという説が有効らしいが、このときの六郎には知る術もなかった。
「よし、分かった。家に帰るまで我慢しよう」
 そう言って紀乃原が立ち上がる。
「だけど、勃起したまま帰れって言うのか?」
「深呼吸すれば大丈夫」
 六郎がやってみると、紀乃原も深呼吸した。
 お互いに勃起状態を確認すると、これなら大丈夫と判断できるぐらいに萎えてから、二人は大人の写真集を手に竹林を出て行ったのだった。
 
 
 
 天見は思い出していた。
 その日の日中、天見は鮎川藍子の入院する病室を訪ねたのである。
 天見は彼女の両親、兄弟が病室を空ける時間を前もって調査してあった。彼女の姉は仕事帰りの夕暮れに来るため、日中はいない。父親は休日のみ。母親は毎日病室に通っていたが、弟が学校から帰ってくる夕方四時から六時の間は病室を空けるのである。
 その時間帯に天見は彼女の病室を訪ねた。
 夕暮れの赤い太陽が、世界を真っ赤に染めた午後四時半。
 個室の扉をノックすると、中からは返事は無かったが、スライド式の扉を開けた。
 病室は六畳一間くらいの空間で、窓際にベッドがひとつ。手前にパイプ椅子が二脚。部屋の奥には大きな窓があり、窓の向こうには川が流れているのが見えた。
 川をまたぐ陸橋には人や車が縦横している。ベッドに腰掛けながらその様子を眺めていた鮎川が、ゆっくりこちらを見た。
 天見の姿を見た鮎川は、夕暮れの景色を背景に、しばし呆然としていた。
「僕は同じ高校の……天見明良といいます……」
「な、なんの用ですか?」
 警戒したような表情。当たり前か。
「紀乃原……のことで……話が……」
 紀乃原の名前を出したとたん、彼女の表情が翳った。
 天見自身、相当の勇気を振り絞って紀乃原の名前を口にした。彼女が怒り出したら土下座でも何でもする覚悟だった。
 だけど、鮎川は夕暮れのように暮れた様子で「彼のお友達ですか?」と小さな声を出す。
「ええ、まあ……友達というか……僕は紀乃原を助けてあげたいと……
「あの人は……まだ無茶なことをしてるんですか?」
「……そうですね。無茶なことをしています」
 この時点で、まだ天見は紀乃原が一体なにをしているのか、知らないでいた。ある程度の想像はつけてきたが、まだ事実の核心には至っていない。
「座ってください……。十分くらいなら話できます……。でも、本当はもう、ほうっておいてほしい」
 彼女の左手首に、厚手に巻かれた包帯。血がにじんでいるようなことは無いが痛々しかった。
 天見はパイプ椅子に腰掛けて、静かに話し始める。
 慎重に言葉を選びながら。
「紀乃原は……あなたの絶望した原因が、自分にあるのではないかと思い悩んでいます」
「……そうですよね……。あんなに守ってくれたのに……。こんなことしたら、そう思いますよね」
 鮎川は細い腕を持ち上げて、包帯のまかれたあたりを憂いそうに眺めた。
 その言葉に、天見は半ば確信する。
 やはり、紀乃原は凶行の犯人ではない。紀乃原は鮎川を必死に守っていたのである。
「天見さん……でしたっけ? どこまで知ってるんですか? 私のこと……」
 ちらり、と伺うように天見を見る鮎川。その目を見て天見は再び確信する。彼女はまだ回復していない。回復していないどころか、まだ暗い渦の中に住んでいる。少しでも背中を押せば、たちまち渦に飲み込まれ、暗黒の混沌へと吸い込まれていくような。
 ここへ来たのは間違いだった。彼女を刺激してはならない。今すぐこの場から退散すべきだ。
「全部……知ってるんですよね。きっと」
「いや……何も知りません。紀乃原も、何も言ってません」
「私は聞きたい。紀乃原くん、どうしてますか?」
 病室を出るべき。それが最良の選択と分かっているのに、椅子に尻が張り付いてしまったように腰を上げられない。
「紀乃原は……噂を別の結論に向けようと……自分を犠牲にするつもりです」
「やっぱり……紀乃原くんの忠告を聞いておけばよかったんだ……」
 忠告とは? とは尋ねられない。いくら心が無くても、それは天見から何一つ口を開けない。
「紀乃原くんは、私があの二人に付け狙われてるとき、警察へ行くべきだと、両親に相談すべきだと、何度も言ってくれました。でも、全て私が拒否したんです。警察にも両親にも言いたくない。それから、紀乃原くんは必死に私を守ってくれました。でも、とうとう……」
 その先は、彼女が言いたくない以上に、天見は知りたくなかった。
 結局、続きを言わなかった彼女は、変わりに腕に巻かれた包帯を解き始めた。
 包帯を解く彼女の表情。
 それはわが子を胸に抱く母の表情に見え……。
 そしてやはり確信するのである。
 彼女の心の病みは消えていない。
 包帯を解き終えた彼女は、傷口に当てられていたガーゼを取って、手首の傷を天見に向けた。
「見てください。こんなの自殺でもなんでもない。傷が三つ。どれもためらい傷っていう、死ぬ気のない傷です」
 まだ抜糸もされていない生々しい傷があった。目を背けたかったが、天見は魅入られたように視線を動かせない。
「子供を堕したとき、私はほっとしました。ほっとしたと同時に、安心している自分が許せなくて、ひとつの命を奪った自分が、ほっとしているのが許せなくて、傷つけたくて……。ただ傷をつけただけ。自殺なんてする勇気なんて無いんです」
 彼女の苦しみが、三本の傷を染み出して天見の目、口、鼻から流入してくるようだった。女性にとっての堕胎。天見には想像すらできなかった。彼女はどれほどの重責と罪悪を背負っているのか。
 そしてどれほどの悲しみと戦い続けているのか。
「天見くん……?」
 彼女に問いかけられても、もう何も聞こえていなかった。
 そうか。
 心は確かに胸の中にある。
「どうして、天見くんが泣くの?」
 あふれる激情を押さえられなかった。
 怒りなのか。悲しみなのか。
 天見は振り絞るように声を出す。
「ごめん。本当にごめん。僕に出来ることなんて何一つ無いんだね」
 これは無力さを痛感した涙か。
「泣かないで。天見くんには分からないよ。私の気持ち。だから私の前で泣かないでよ」
 その通りだった。どうして泣いてしまったのか。愚かな行動だった。人生最大の誤った行為。
「もう帰って。それから、二度とこないで。紀乃原くんにも伝えておいて。もう私には関わらないでって」
「……分かった」
 天見は乾いたコンクリートのような膝や腰に力をこめて、必死に立ち上がった。
 頭をかすかに下げて別れの挨拶をし、彼女に背を向ける。
「……あの……」
 聞き逃してしまうようなかすかな声。
 天見は鮎川を振り返った。
 鮎川の浮かべていた表情。
 一生忘れられないだろう、その表情。
「……紀乃原くんに、伝えてほしいことがもうひとつ……」
 それを聞くのが天見には恐怖だった。
 彼女のいまの心理状態は、天見が蓄えてきた知識の中には、それにも当てはまらない。それほど闇が濃く、そして想像もつかない暗闇の底にいる。
 彼女から紀乃原に対する怒りや恨みの言葉が綴られたら。
 彼女から紀乃原に対する謝罪や感謝の言葉が綴られたら。
 そのいずれかでも、きっと自分は恐怖に蝕されて、どうにかなってしまうと思った。
 彼女の唇が動く。その瞬間、天見の全身が震えた。
「それと、六郎くんに……」
 六郎?
 震えが止まると同時に、天見の頭脳は一切の機能を停止した。
 無意識という扉が開いて、天見の心が無防備状態になったとき、その言葉は天見の心に入り込んできた。
「ずっと見守ってくれてありが……」
 最後のほうの言葉は、彼女の涙に溶けていった。
 言葉にならず、掠れて消えていった彼女の。
 彼女はたまらず両手で顔面を覆った。
 声にならない。
 天見は再び、自分の認識が大きく間違えていたことに気づく。
 彼女に凶器じみたものを感じてた。傷ついた彼女の、その心理が恐ろしく思えていた。
 だが違う。
 彼女は必死に隠していただけだった。
 あふれ出してきそうな苦しみと悲しみを必死に押さえつけていただけだった。
 いずれにしても、間違っていなかったことがある。
 天見は自分が今日、ここに訪れたのは大きな間違いだった。それだけは確かである。
 
 
 
 四面公園。三人はそれぞれ、口を閉ざしたまま物思いにふけっていた。
 それぞれの胸にわだかまる感情。一人の少女にまつわる出来事に、三人はそれぞれ、後悔と自責を思い、口を閉ざし続けていた。
 しばらく続いた沈黙を終わらせたのは六郎。
 六郎は間違えば泣き出してしまいそうな勘定を必死に押さえつけながら言った。
「……紀乃原が鮎川を襲うわけない。そう思ったんだ。でも確信はなにも無かった。だから知りたかった。前に鮎川が襲われてる現場を見たろ。そのあとに鮎川が妊娠したって聞いて……それは祝福されて起こった出来事、つまり紀乃原と結ばれて誕生した命なのか。それとも、あいつらに……」
 六郎は胸がつまり、鼻の奥から熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
 六郎の顔を見て、紀乃原が舌打ちひとつする。
 天見がハンカチを紀乃原に差し出して言った。
「六郎は記憶障害をわずらってるのだと思ったら、本当に秘密にしていただけだった。本当に僕はピエロだ。何のために謎解きをしてきたのか。こんなくだらないラブストーリーなんて二度と見たくないよ」
 紀乃原は苦々しげにハンカチを受け取り、顔の血をふき取る。
「じゃあ、秘密ついでに、このことは絶対に誰にもしゃべるな」
「紀乃原も……」
 六郎は言った。
「紀乃原も、四天王とは縁を切れよ。どうしてあんな奴と一緒にいるんだよ」
「鮎川が……狙われてると知って。俺一人にあいつらを止める力はないんだよ。近づいて、裏から手を回すくらいのことしか……でも、俺には守れなかった。悔しくてたまらない。本当なら春日井や薬師寺をぶっ殺してやりたい。でも、鮎川はそっとしておいてほしいと言う。なら、俺にできるのはこんなことくらいしか……」
 人を好きになるって何なんだろう。こんなにぼろぼろになって、自分が汚名を被って、それでも結ばれることはなくて……。
 紀乃原の心を思うと、六郎は胸が苦しくなって目頭が熱くなる。
 どうしようもない憤りが、胸を破って突き出してきそうになる。
「そんな顔をするなよ。お前の言うとおり、四天王とは縁を切る。もうこれで、俺の役目は終わったみたいなもんだしな」
「馬鹿だよ」
 天見が言った。
「もっとほかにやり方はあるだろ。懲らしめる方法ならほかにもいっぱいあるし」
「違うんだよ」
 紀乃原はゆっくり立ち上がった。
「これは、鮎川を守れなかった俺への戒めなんだ」
 紀乃原はまるで血の涙を流しているみたいだった。
「なんで……俺は鮎川を守りきれなかったんだ……そう思うと悔しくて、自分自身が許せなくて……これで償えるはずはないけど、こうするしかなくてこうしたんだ」
 六郎はたまらず言った。
「……俺は……俺たちは知ってる。紀乃原はいい奴だって。本当のことをみんなに言いたいけど、紀乃原が言うなというなら言わない。だけど、俺は知ってるから」
「分かった分かった。知っててくれて、どうもありがとよ」
 紀乃原は暑苦しそうに掌をひらひらさせる。
「それより、一人じゃ歩けそうもないんだ。悪いけど、肩を貸してくれないか?」
 紀乃原がそういって、両手を広げた。六郎は紀乃原の腕を方に回して支えた。ところが、紀乃原の広げた腕はもう片方余っている。
 六郎が天見を見ると、天見は「僕も?」と自分を指差している。六郎は黙って促すと、仕方なさそうに天見はため息を漏らす。紀乃原のもう片方の腕を取ると、六郎と天見で紀乃原を支えた。
「それと気になることがひとつ」
 紀乃原が天見を見た。
「お前、何でそんなに知ってるんだ? ただの想像だからって、言い当てすぎだろう」
「話してきたんだ。直接」
「話してきた?」
「入院してる鮎川に会ってきた。全部訊いたよ」
 紀乃原がはたと立ち止まる。
「鮎川に……?」
「たぶん、もう鮎川は紀乃原に会ったり、感謝を伝えるようなことはできないけど、紀乃原の思いや行動は、彼女に伝わってたよ。彼女は傷ついたし、自殺未遂を図ったけど、それからの紀乃原の行いは、ちゃんと彼女に伝わってる。彼女は重い傷をきっと一生抱えることになるだろうけど、たぶん、転校先で出直して健全に生きていくと思う。傷を抱えていたとしても前向きに。それは紀乃原、君の誠意が伝わったからだよ」
 この言葉に感動したのは六郎だった。まさか、緑色の血液が流れる冷血人間がそんな言葉をつむぎだすとは。
 しかし、天見は六郎のことは伝えなかった。天見は正直気に入らなかった。軽薄で低俗な人間だと思っていたのに、鮎川の口から六郎の名前が出たときから、天見は六郎が気に入らなくて仕方なかった。
 天見が今回の件で、唯一残してしまった謎。それは六郎、その男。天見には六郎が何を考えているのか、さっぱり分からない。六郎の行動や思想だけは、天見にとって何一つ紐解かれない最大の謎のまま終わったのだ。
「お前ら、ほんと変な奴だな。なんでわざわざこんなつまらない事実を暴きに来たんだ?」
 言われて気づく天見。
 本当にくだらない。
 こんな事実を暴いて、一体なにをしたかったのか。
 達成感だって何一つ無い。
 いま胸に渦巻くのは、どうしようもない不可解な感情だけだ。
「僕は六郎に巻き込まれただけ」
 天見が紀乃原越しに六郎をにらむ。
 六郎には反論する言葉はない。
 そのとおり、六郎はただ天見を巻き込んだだけである。でも、六郎は少し嬉しかった。心の無いと思っていた天見が少しだけ見せた人間味とか、やさしさが嬉しかった。
 それに、心のない天見でも感じているはずだ。
 この最悪な結末は、一人の傷ついた女の子の、最後の最後の絶望を食い止める行為であったこと。
 それはとてもとても真摯で純粋な心から生まれた最良の行いなのだと。
 
 
 
 六郎も紀乃原も、鮎川藍子に会うことはなかった。
 鮎川は後に土地を離れ、どこかの高校に転入した。転入先は分からないままだった。
 六郎は時々、天見が言った言葉を思い出す。
 この事実が地球の裏側で起こっていたことだったら、君は気に病んだりするのかい?
 答えは「気にしない」だ。
 いま鮎川は助けを求めていない。事実を誰にも触れられず、誰にも知られずにいることが、彼女にとって唯一の救いだった。
 だからこそ、紀乃原はあんな馬鹿なまねをしたのである。
 事実、鮎川の妊娠騒動、自殺未遂騒動の噂の真相は「紀乃原がレイプ未遂を図った」という真実によって幕を閉じたのである。
 だから、鮎川は妊娠もしていなければ、自殺未遂もしていない。紀乃原の凶行により傷ついた彼女は、この学校を離れていった。
 誰もがそう信じ、疑うこともなかった。
 結局、鮎川に深くかかわった三人は、直接的には何のかかわりももたないまま、騒動は幕を閉じたのである。
 
 
 
 それから数日後のこと。
 その日の授業が全て終業し、六郎は野球部の部室前に立っていた。工程では放課後の不活動にいそしむ野球部員たち。それを尻目に、六郎は野球部の部室の扉に手をかける。
 野球部の部室内は、男の汗の臭気が篭っていた。それに油や革製品、埃の臭いが充満している。
 部室の隅には二本の金属バットが立てかけられている。部の備品か、誰かの所有物かは分からないが、六郎は金属バットの一本を手に取った。
 目の前に掲げて、状態を確認する。
 傷や表面の削れはあったが、折れ曲がったりひび割れたりはしていない。
「ちょっと借りるけど、すぐ返すから……」
 六郎は呟くと、部室を出ようと振り返った。
 振り返った正面、部室の入り口に人が立っており、六郎は口から心臓を吐き出すほど驚いた。
「なにやってるの? 六郎」
 そこに立っていたのは天見だった。
「天見……どうして」
「そこで君を見かけてさ。なんだか様子がおかしかったから付いてきた」
 さすが、勘の良い天見である。
「でも、まさか野球部の部室から金属バットを持ち出すなんて思いもしなかったけどね。本当、君は僕の予想外のことをするよね」
「うるさいな」
 六郎は天見を無視して、部室を出ようとするが、天見は遮るように立ちはだかる。
「そのバット、どうするの?」
「盗んで、家で素振りの練習をする」
「へえ、野球をやりたいの?」
「まあな」
「でも、ボールは? グローブは? バットだけでいいの?」
 天見は怪しくメガネを光らせて理詰めに追求してくる。
 夕暮れ時、校庭からは野球部がボールを打つ甲高い音、そして歓声。
 体育館の方角からは、掛け声とボールが床をたたく音。
「薬師寺と春日井のところに行くつもり?」
 天見が指摘した。
 六郎は黙ってそっぽを向く。
「言っておくけど、それは契約違反だよ、六郎。僕らはあいつらに手を出されるまで、何もしてはいけないんだ。こっちから手を出すなんて論外」
「……だからって、このままじゃ……」
 六郎はバットを持つ手が震えだす思いがした。
 このままじゃ……あまりにも悲劇的過ぎた。
 誰も報われていない。
 誰も救われていない。
 ただ、凶行を犯した二人の男が、いまも平然と暮らしている。
 許せない。
 許せるはずが無い。
 六郎は悔しくて、手や胸が震える。
 天見をにらみつけた瞳には涙の膜が張っていた。
「納得できるわけないだろ。あいつらが……のうのうと暮らしてるなんて」
「じゃあ、紀乃原が必死に守った秘密を無駄にするって言うの? そっとしておいてほしいっていう鮎川の気持ちを無視するの?」
 くそ。
 分かってる。そんなの痛いほど分かってる。
 だからって、納得できるわけが無いじゃないか。
「正直、君がそんな無茶なやつだなんて思わなかったよ。なるべく表に出ずに陰でこそこそかぎまわって喜んでるようなやつだと思った。だから、いま君がしようとしてることを軽蔑したりはしないよ。でも、それでもやめるべきだよ。ね、紀乃原」
 天見が顔を右側に向ける。
 六郎には死角になっていた場所から、紀乃原が姿を見せた。
 不機嫌そうな顔だったが、反面、気まずそうに鼻を掻いている。
「まあ、やるなら俺に相談しろよ。一人で行くな。行くなら俺も一緒だろ」
 続けて天見が言った。
「今じゃない。そういうことだよ。きっとくる。あいつらにぎゃふんと言わせる時期がきっと来る。でも、今はまだ早い。だから六郎、少し我慢して」
 今じゃない。
 でもいつかきっと。
 六郎はその言葉に、手からバットをこぼした。乾いた音を立てて、金属バットが床に落ちる。
 同時に、六郎は大きく息を吐き出し、その場に崩れ落ちそうになるのを必死に耐えた。
 脱力してため息を漏らす六郎は、膝に手をついて言った。
「……正直、怖くて死にそうだったよ。膝なんてガクガク震えてさ」
 心臓は今もまだ激しく鼓動している。
 六郎は顔を起こすと、二人に言った。
「止めてくれてありがとう。怖くて小便ちびりそうだった」
 そういうと、天見と紀乃原は顔を見合わせて、はにかみ笑ったのであった。
 
 
 
 六郎は友人を失った。
 唯村という友人、そして少なからず親しかったほかの友人たちも。
 そして新たな友人ができた。
 いや、一人はただの契約関係かもしれないが。
 レイプ騒動を起こし、四天王とも縁を切って孤立した紀乃原に、親しげに近づく六郎は、唯村にとっては敵同然だったし、ほかの生徒にとっても気分の良いものではないだろう。
 そこにもともと異端児であった天見が加わると、三人はそろって学校のつまはじき者となった。
 以前は親しげに挨拶してきた生徒たちも、目も合わさなくなり、むしろ後ろ指を差して噂話をする始末。
 六郎は教室で孤立し、誰も相手にしてくれず、学校にいる間は一人読書で暇を潰す毎日となった。
 天見はもともと孤立していたし、紀乃原も最初から煙たがれる存在だった。結局は何も変わっていないように見える。
 でも、あの夜、四面公園に真実を知りに出かけたあの夜、感じた予感どおり、六郎の生活は一変した。様変わりした世界。見ていた風景が、数日前とはまるで違うことに気づく。
 それは六郎にとって苦しいものではなかったし、むしろすがすがしかった。この見えている風景は、紛れも無く真実だと思えたからだ。
 基本的に神経の図太い六郎は、蔑視や孤立は気にならなかったし、もともと忌み嫌われていた紀乃原は逆境に強い。だが、天見は冗談じゃない様子。
 でも、文句を言いながらも六郎や紀乃原を邪険に扱えず、気がつくと一緒に居るのは、真実の真実を知る唯一の三人だったからだろう。
 三人は奇妙な縁で繋がり、それは誰にも理解されない交友だったし、三人を取り巻く真実は紛れもなく最悪なものだったが、決して恥ずかしいとは思わなかった。
 こうして、三人の高校生活は奇妙に結ばれた縁からスタートしたのだった。


 〔前提事項〕 完

 〔根本原因〕 へ進む

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