処女+童貞=○○の法則

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四章 《 放出後の虚無感に対する新説 》


 サイレンが聞こえていた。頭痛を伴うサイレンーーいや、これはベル。警報ベルだ。警報ベルが頭の中にいつまでも鳴り響いている。
 夢の中。覚醒しているのか眠っているのか分からない混濁とした意識。咳き込むような臭気と警報ベルで、渦巻きの中心にはまり込んでいくような混沌とした感覚ばかりが胸を支配する。
 わんわんわんわん。
 うるさい。うるさい。耳障りだ。誰かこの音を止めてくれ。
 呼吸が止まりそうな刺激臭。鼻の奥をドリルでねじりこまれているような鈍痛。
 わんわんわんわん……!
 うるさい。うるさい。
 わんわんわん……。
 
 
 
 手が見えた。神に祈りをささげるように組まれている手。それが自分の手だと認識するまでに数秒。組まれた手の向こうがわが小石が集まった砂利であることに気づくのにまた数秒。そして、自分が小さな折り畳式の椅子に腰掛けてうな垂れていることに気づくのに、さらに数秒を要した。
「いつまでぼんやりしてるんだよ! 早く逃げる準備をして!」
 天見の怒鳴り声。まるで水中の中にいるように、不要和音に響く声。
 目の前に消えかかった焚き火。その向こう側で、あわてた風にテントをたたむ天見が見えた。
「天見……なにしてるんだ?」
 天見が幽霊でも見たかのような顔で振り返った。
「なにをしてるのかだって!? 逃げる準備をしてるんだ! 座り込んでないで手伝ってよ!」
「手伝うって……」
 六郎はようやく周囲に目を向けた。夜の川辺。水の流れる音と、天見がせわしなく砂利の上を動き回る音。
 あれ……。
 俺は確か……。
 天見が早々に身支度を終え、最後に六郎の座っていた折りたたみ椅子を畳むと、それらをすべて詰め込んだバックを担いだ。
「川べりを歩いていった場所に廃旅館がある。そこまでいくよ」
 天見が歩き出したので、六郎もあわてて後をついていく。
 天見の後を無言で付いていく。
「急がないと警察が来る。警察はたぶん、学校の周囲も捜索するはずだから、一刻も早く離れないと」
「なんで……」
 何で俺はここに? 俺はトイレで扉を必死に押さえ込んで……。
 砂利を踏みしめる等間隔の音だけを聞きながら、あまり視界の聞かない川べりを歩く。
 歩いていくうちに、いつの間にか土手の上を歩いていた。土手は雑木林に挟まれ、夜歩くにはおどろおどろしい。
 正体不明の虫の音が左右から容赦なく圧迫してくる。どこまでいくのだろう。廃旅館? そんなものあっただろうか。
 いよいよ森の獣道の様相を呈してくると、出し抜けに空間が開けた。
「ここまで来れば大丈夫だろう」
 天見はそういって、背負っていたバックから懐中電灯を取り出した。
 先頭を歩きながら懐中電灯を暗闇に突き刺す天見。ライト光線のぼやけた円形が、限定的に世界を明確化する。断片的に垣間見るライトの先に、建物らしき影が出現する。
「おっぺ荘っていう民宿。この先にある川に釣りをしに来る人が利用する民宿だったけど、だいぶ昔に潰れたらしいよ」
「何でこんなところ知ってるんだよ」
「学校の女子トイレへ深夜に侵入するリスクを考えたら、有事の際の逃亡先もリサーチしておくのは当然だろ」
 ここまで徹底した危機管理が当然かどうかの議論は後回しにして、六郎はおどろおどろしい廃旅館に入っていけるのかどうかが問題だった。
 天見は暗闇が怖くないのだろうか。暗闇に住む異界の住人が恐ろしくないのだろうか。
 問う間もなく、慣れた様子で歩いていく天見。旅館に続くアプローチは雑草が茂っているものの、行く手を阻むものといえばそれくらい。
 旅館の入り口は閉まっていたが、施錠されている様子は無い。廃旅館なので盗まれるものは無いだろう。そもそも、窓ガラスはすべて割られているのだから、この際セキュリティを心配しても仕方が無い。
 立て付けの悪くなった玄関の戸を開くと、埃臭い空気が漏れてくる。天見は振り返りもしないし、躊躇もしない。先に廃旅館に入っていくのにただ付いていく六郎。
 周囲の状況は暗闇のためはっきりしない。廃旅館の奥に入り、おもむろにどこかの戸を開く。天見は中の様子を伺っていたようだが、問題が無かったのか、なにも言わず入っていく。六郎もついていくと、バックを下ろしている天見が見えた。
「この部屋は割りときれいなんだ。僕が事前に掃除しておいたし。それに窓も無いから、明かりをともしても外に漏れない」
「掃除したのか?」
 関心を通り越して唖然としていると、天見は「利用するの、初めてじゃないんだよ」と言い放った。といっても誰かと、たとえば彼女とホテル代わりに利用しているわけではないだろう。
「僕は……なんていうか、閉塞的空間マニアというか……。狭くて息苦しい場所が大好きなんだ。焚き火をした川べりも、開放的に見えて周囲を背の高い雑草地帯に囲まれてたろ。それに川って言うのは見えない壁みたいなもので、それ以上先にはいけないし、向こう側からもこちらにこれない。それが閉塞的で好きなんだ」
 分かるような分からないような趣味である。
「座って。畳の上はきれいだから。採取した尿は持ってる?」
 天見に指摘されて、本来の目的に立ち戻った。尿を採取する、そのために冒険したことをしばし忘れていた。
 ズボンのポケットに手を突っ込んで小瓶を引っ張り出す。中には液体が収められている。
「いろいろあったけど、これで真実が分かるよ。もうこりごりだね、こんなこと」
 天見は妊娠検査キッドと携帯の蛍光灯式ライトを取り出す。部屋の全容が分かる程度に明るくなる。この部屋はおそらくリネン室などの寝具や清掃道具をしまうような部屋。窓が無いので客室ではないだろう。
 せっせと妊娠検査キッドを用意する天見。ケースから取り出すと、一本の棒状の器具。
「妊娠は、受精卵が子宮に着床することを示す。そうするとhCGっていう物質が胎盤から分泌されるんだ。それは尿にも含まれていて、その物質に反応を示すのが妊娠検査薬なんだよ。想像妊娠や他の原因では反応しないし、この検査で陽性を示したら、ほぼ間違いなく妊娠しているといえる。ここにくぼみがあるだろ。ここに尿をかけて、縦の線が浮き出ると陽性。つまり妊娠しているってこと」
 天見の分かりやすい説明は、緊張感を増す効果があった。
 いよいよである。鮎川が妊娠しているかどうか。これで分かる。根も葉もない噂は、煙が立っていなかったわけではなかったとの証明になる。
 天見が妊娠検査薬を持って、待ち受けている。六郎は小瓶のコルク栓を抜いた。後はこれをかけるだけ。間違っても落としたり、こぼしたりしてはならない。まるで爆弾を移動させるかのように、慎重に小瓶の口を妊娠検査キットに近づけていく。
 狙いはそれることなく、妊娠検査キット先端のくぼみに滴った。再び小瓶に栓をすると、二人して妊娠検査キットに顔を近づけて注目した。
 静かな室内。薄暗く、空気の流れも無い。奇妙な沈黙。閉塞的な空間。この世ではないどこかの狭間の世界に迷い込んでいるかのよう。確かにこの孤独感、いや孤高感というべきか。これは絶叫マシーンに引けをとらない刺激的な快感に思えた。
「決まったね、六郎。感想は?」
 結果を確認した天見が六郎の顔を覗き込んだ。
「感想……。いや、なんか……」
「なんだよ」
 この感覚はなんだろう。嬉しいわけでも苦しいわけでもない。
「なんか……夢から覚めた気分」
「夢から? どういう意味?」
「なんだ、こんなもんか、っていうか。知りたいと思っていたけど、本当は知りたくなかったのかもしれないなって思った。これは現実なんだなって突きつけられた感じ」
「ふうん、なるほどね。噂は噂だから甘美なのかもね。ふたを開けたらそれはただの事象だからね。拍子抜けしたってこと?」
「いや、なんか不安になったよ。それに心配になった」
「なにが?」
 妊娠検査薬の反応は、はたして陽性だった。あまりにもよどみなくくっきりとした縦線が、間違いなくそこには存在した。
 鮎川藍子は妊娠していた。噂は真実だった。
 こんなことを、何のために俺は追い求めていたのか。遊び半分で踏み込んでいい領域をとっくに通り越していたことにようやく気づかされる。
 胃の辺りが鉛の詰め物のように重くなり、罪悪感と贖罪したい気持ちがあふれ出す。
 天見がため息ひとつもらすと言った。
「これは僕らだけの秘密だね。誰にも口外できない。もちろん、本人にも。これは彼女の問題だから、これ以上は詮索できないね」
「いや」
 罪悪感は確かにあった。夢中でここまでやってきてしまったが、ひょっとしたら人の道をそれる行為だったかもしれないが、それでもこれは真実の一片。まだ謎は残されている。
「まだだよ」
「まだ調査する気? 本当に君はどうかしてる。僕はこれ以上付き合わないからね」
「俺が彼女の相手じゃないかって、調査するんじゃないのかよ」
「するよ。でも、君の手伝いは終わり。ここまで来れば納得するんじゃないかと思ってたけど、君は真性の軽薄者だよ」
「じゃあいいよ。ここから先は俺だけで調査する。お前にはもう頼らない」
「ああ、喜んで賛成するよ。もしこの先で警察に捕まっても、僕が協力してたことを誰にもしゃべるなよな」
「さあ、保障できないな」
「しゃべったら、僕は全身全霊で君をつぶすからね。脅しじゃないよ。もういくつか君を貶めるプランはあるんだ」
 これまでの天見を見てきた六郎には、この言葉は有効な脅し文句だった。一瞬ひるんだが、後退した気持ちを押し返すように言った。
「俺は最後まで調査する。抜けるのはかまわないけど、邪魔だけはするなよ」
 天見は返事をしなかった。この瞬間、一週間続いた天見との奇妙な交流は絶たれたといって等しかった。
 それから二人は一切会話を交わさず、廃旅館を後にした。
 
 
 
 思いかけず、ゴールデンウィークの後半が開いた。することもなく、部屋のベッドの上で寝転がりながら妊娠検査薬の縦筋を眺めて一時間弱。
 鮎川藍子は事実、妊娠していた。いろんな想像をめぐらせる。意外にも頭の中に駆け巡るのは卑猥な想像などではなく、彼女の気持ちについてだった。
 妊娠という事実を抱えながらも、部活動に励み、その事実を感じさせない様子で日常生活を送っていた。彼女は両親に妊娠の事実を話して聞かせたのだろうか。自分の胸の内に抱え込んで、じっと耐えているのだろうか。
 相談相手もおらず……。
 いや、待てよ。
 本人は知っているのだろうか。知らないわけがない。だって、彼女は唯村の遠い知り合いに相談したことがきっかけで六郎が妊娠を知ることとなったのだから。
 産むつもりなのだろうか。堕胎するとしたら早いほうがよいのではないか。この検査薬は妊娠の事実は教えてくれても、妊娠何ヶ月であるのかは知らせてくれない。
 男の六郎にとっては、身ごもった女の心など理解できない。ひょっとしたら身ごもったひとつの命を流すことは彼女にとって重大なことかもしれない。新しい命を殺すような行為に彼女は罪悪感にさいなまれる。
 身ごもることのできない男は、その重大性を理解しにくい。他人の体に宿った命。どこか他人事のように冷めている。
 ひょっとして、産む気なのだろうか。迷ったり躊躇したりしているのではなく、彼女はすでに決意を固めているのかもしれない。
 他人の俺。杞憂してもなにもならない。どんなに考えたって、自己満足以外に何も生まれない。
 胸に渦巻く得体の知れない黒い渦。
 俺はいったい、何を知りたかったのか。彼女の妊娠の真偽を確かめて、何をしたかったのか。
 鮎川藍子の体に宿った新しい命の父親は誰なのか。その男は今、どこでなにをしているのか。
 チャイム。
 家のインターフォンが聞こえてきた。普段なら気にならない、来客を知らせるインターフォンだが、妙に胸騒ぎを覚えさせた。
 これが虫の知らせか。六郎の予感は的中した。来客に対応した母親の階段を上ってくる音が聞こえたと思うと部屋がノックされ「六郎、友達が来たよ」とドアを開けた。
 六郎は妊娠検査薬を布団の中に隠して「誰が来たの?」とたずねると「天見君っていう子よ」と返答が返ってきた。
 天見が?
 おととい別れたばかり。それ以降、もう話すことはないだろうと思っていた。いったい何しにきたのだろうか。
 ほどなくして天見は深刻そうな顔をして部屋に入ってきた。部屋に入ってくると所在無さげに部屋の中をうかがっていたが、座布団を用意してやると、背負っていたバッグを下ろしながら胡坐をかいた。
「なんだよ、何の用だよ」
 六郎が鷹揚のない声を上げると、天見がバッグをまさぐりながら答える。
「どうしても気になることがあったから確かめに来た」
「いまさらなんだよ。俺と鮎川なら何の関係もないって言ったろ」
「昨日、いろいろ調査したんだ。僕なりに。それでさ、分かった事実がある」
「分かった事実? 鮎川についてか?」
「君についてだよ、六郎」
 そういった天見の表情が気になった。哀れむような、探るような表情。天見の目の色が、妙に六郎の感情を刺激する。
 いったい、俺について何が分かったというのだろうか。
「噂を聞いた。君の噂だよ、六郎」
「俺の?」
 誰に? とは聞かなかった。それよりも噂の内容を知りたかった。動悸が激しくなる。影口を叩かれている現場に出くわしてしまったかのような恐怖が足先を痺れさせる。
 俺の噂。やましいことなど、鮎川妊娠事件の調査以外には何もない、はずであるが……。
「四天王。そんな名前で呼ばれてる連中がいるだろ。二年生に一人。同級生に三人。それぞれ、粟生、薬師寺、春日部、紀乃原」
 突然話題の路線が変わって戸惑った。
「四天王がなんだっていうんだよ。俺の噂と何か関係があるのか?」
「僕のただの直感なんだ。ただのね。関係ないかもしれないし、関係あるかもしれない。でも、君が鮎川の妊娠の真実が気になるように、僕も気になって仕方が無い」
「なにがだよ」
「君がどうしてそんなに鮎川のことを知りたがるのかってことをだよ」
 天見がはじめて六郎を見た。
 ふと気づく。天見はメガネをしていない。
「君は、どうしてそんなに鮎川のことを知りたがる? どうしてそんなに妊娠の真偽を知りたがる?」
「三度目だ、その質問。何度聞かれたって答えは一緒だよ」
「だから正直に答えてよ」
「何も嘘なんてついてない。なにが言いたいんだよ、天見」
 沈黙が流れた。六郎の全身が動脈になってしまったかのように脈打っている。
 俺の噂って? どんな噂なんだよ。
 六郎が耐え切れず口を開く前に、天見は噂について語り始めた。
「四天王の噂って良く聞くけど、あまりいい話を聞かないよね」
「ただの不良の四人組だろ」
「ただのじゃない。薬師寺の父親は警察の高級官僚。春日井の母親は日本社会党の副党首。金もあればコネもあり、多少の不祥事なら簡単にもみ消せるバックボーンが二人にはある。この二人はその気になれば欲望の限りすき放題になってもすべてお咎めなしでやり通せるのさ」
「そんなわけないよ。いくらなんでも」
「証拠を残す犯罪を隠滅するのは無理だよ。だけど、証拠を残さなければいいし、証拠を探させないように手を回せば、犯罪なんて闇の中。高校生の欲望って言ったらそれほど多くないよね。代表的なのは思春期の押さえ切れない性欲とか。彼らは女の子を茂みに連れ込んで、強姦したとしても罪を逃れることができるかもしれない」
 それが真実だとしても、虚偽だとしても、天見が今、なぜそんな話をしているのか。六郎の噂、というやつに関係するのか。
「六郎についての噂って言うのは、君が四天王と親しいんじゃないかって噂だよ」
「四天王と?」
「そう。話しているところを見たやつがいる」
「それが何の関係があるんだよ」
「君が四天王と係わり合いがある。つまり、君は鮎川とも係わり合いがあるんじゃないのか?」
「どういう理屈だよ。四天王とかかわりがあると、どうして鮎川とかかわりがあるなんていえるんだ」
「怒らないで聞いてよ。要するに、やっぱり君は鮎川と身体の関係を持ったんじゃないか? 四天王たちと共謀して、彼女を無理やりに」
「なんだって!?」
「大きな声を出さないで。いいかい? 鮎川はレイプされたんだ。君を含めた四天王に。でも、鮎川は相手が誰だか知らない。六郎だってことを知らない。だから君は平気な顔をして学校に来れる」
「いいかげんなことを」
「想像だよ。間違ってたら否定すればいい。僕は勝手な想像を君以外の誰かに話したりしないし、もし真実だとしても誰かに話したりしない。だけど、君が鮎川に執拗なまでの執着を抱く意味が分からないんだ」
「だから、ただの興味だって」
「噂には続きがある」
 六郎が食って掛かろうとするのを制するように、天見は話を続けた。天見の思惑通り、六郎は口をつぐむ。
「一ヶ月ちょっと前、君は竹やぶに行ったよね。それは間違いない?」
 あのときのこと。なぜ天見が知っているのか。
「行ったよ。エロ本をとりに」
「そこでなにがあった?」
「……なんでそんなことを聞くんだ?」
「いいから答えてよ。君は見たはずだろ。四天王の連中に襲われてる女の子を。君はそれを見つけて、どうしたんだ?」
「どうもこうもないよ。別に女の子は襲われてなかったし、なにもなかった」
「嘘だ。あの時、一緒に竹やぶに行った男子生徒の一人が、心配で竹やぶの外で君を待っていたのを知ってるか? その男子生徒は、服のはだけた身なりの女子高生が、竹やぶから飛び出してきたのも目撃してる。しかも、君は四天王の一人と談笑しながら竹やぶから出てきたのも目撃してる。僕が導き出す結論は、君はそのときも強姦に参加したんじゃないのか? だから口を閉ざしてる。同時に……」
 天見は言葉を区切った。
 次には意を決したように、六郎を睨んだ。
「そのとき襲われた女の子が鮎川だった。だからこそ鮎川の妊娠は君にとってとても重要な係わり合いのあることなんだ。だからそれほどまでに執着する。妊娠の相手は、強姦したときにできた子供かもしれない。後ろめたい君は真相を知らないわけには行かない。そうなんだろ、六郎」
 六郎は答えなかった。
 呼吸は全力疾走の後のように乱れ、額や胸や背中には雨に降られたかのようにぬれていた。
「鮎川に特定の男がいる気配はない。なのに妊娠の噂が流れるのはおかしい。しかも部活に忙しい彼女は、いつも帰りが遅い。特定の日に遅くなっても両親はいつものことだと心配も薄い。そんな状況を利用したんじゃないのか。でも、君は薬師寺や春日井、粟生、紀乃原たちのように、罪のない女の子をレイプして、平気でいられるほど冷酷じゃない。罪の意識にさいなまれてる。悪い言い方をすれば、自分は悪くないと思いたがってる。妊娠してないと分かれば君は安心するし、妊娠していたとしても君はきっと言い訳を用意してる。あの時、レイプしたのは俺一人じゃない。春日井の子かもしれない、薬師寺、粟生、紀乃原、誰でもいい。自分の子ではない、そう思いたい。だから、妊娠しているかどうか知りたいんだ」
 しばらく硬直して動けなかった。六郎は金縛りを説くかのように口を開く。
「……俺も天見の噂を聞いた」
 天見が顔を起こす。
「お前、ちょっと被害妄想が激しいらしいな。中学のとき、暗殺者に狙われてるとか、授業中叫びだしたりして、しまいには学校に爆弾を仕掛けようとしたんだってな?」
「……唯村だな、しゃべったの」
 天見が「ち」と舌打ちをして、うな垂れながら額をなでる。
「今、天見がしゃべっていることはそのことと同じだよ。ただの誇大妄想だ。ありもしないことを勝手に想像を膨らましてしゃべってるんだ」
「そうだと思うなら、ちゃんと弁解しろよ。竹やぶでなにがあった? ちゃんと説明しろ」
「なにもない。確かに四天王の連中はいたけど、どこかの女子生徒と話してただけだ。俺は声もかけずにそのまま帰った」
「僕が聞いてる話と矛盾してる」
「お前の聞いたその噂が間違ってるんだ」
「君は僕の弱みに付け込んで、犯罪めいたことを強制させるような人間なんだよ。僕が君を易々と信用すると思うのか。僕にこれだけ協力させた君はきっちり説明する必要があるんだ」
「説明したとおりだよ。竹やぶでは何もなかった」
 天見はいぶかしげに六郎を睨む。
 それから天見は一度、強く目を瞑った。
「やっぱりそうか……」
 天見はめがねをずらし、眼球をもむように目をこする。
「君は……覚えてないんだよ。竹やぶのこと。そうだろ?」
「覚えてない?」
「そう。君が覚えてるのは、多分竹やぶで四天王が女の子を襲っているときまで。それ以降は覚えていないんだ」
「そんな馬鹿な話……」
「君は覚えていない空白の時間、何があったのか知りたい。そういうことなんだろ?」
「お前、勝手なことを言うのもいい加減にいとけよ」
「じゃあ、聞くけど、君はおととい、学校のトイレに忍び込んだことを覚えてる?」
「は? 覚えてるに決まってるだろ」
「君の様子がおかしかった時間帯がある。よく覚えてるよ。君が記憶を失っている時間帯は、鮎川たちにバレて、トイレに閉じ込められてるときだろう。あの後、君はどうやってトイレを脱出したのか、覚えるかい?」
「どうやってって……」
 外からドアを押す鮎川たち。冷たい汗をかきながら、必死にドアを押さえる俺。
 わんわんわん……!
 耳に残るあの音。
「説明できないでしょ。君は覚えてないんだ。僕が君を助けに行ったときも、君はまるでショック状態みたいに放心状態だった。僕はあの時、いくつもの発煙筒を学校に投げ込んで、彼女たちや先生が表に逃げてから、君を助けたんだよ。覚えてる?」
 六郎は答えられない。あの時と同じような冷たい汗が背中をぬらす。
「君の記憶が元に戻るのは、多分、キャンプに戻ってから。そうだろ?」
「……覚えてるよ。嘘じゃない」
「もういいんだ。君は心因性の記憶障害を患ってる。僕は神経症を診断されてから、その手の病気をたくさん調べたんだ。君はショックな出来事があると、記憶を喪失するんだ」
 六郎は高熱を出したときのようなひどい悪寒に襲われていた。
「だけど、君は知っている。記憶を失うときは、いつでもストレスを感じたときだ。その空白の時間帯、きっと悪いことが起こっていたのだということを君は知っている。竹やぶで四天王たちと出くわしたとき、君は何もなかった、すぐに帰ったと言うのは、君は「何も覚えていない」から。だけど、記憶を失っている以上、その空白の時間に君は非常に強いストレスを受けたんだ。君はなんだったのかと想像する。ひょっとすると、君は現場で四天王に脅されたのかもしれない。このことをしゃべったら殺すと。でも、もっと悪いことも想像できる。四天王は君に口を封じるために自分たちの犯罪行為の片棒を担がせた。つまり、強姦行為に君を参加させることで、君を共犯として、口を閉ざさせたんじゃないか? 鮎川が身ごもってるのはそのときの子供じゃないか、と君は恐れている。だから君は鮎川の妊娠が気になるんだよ」
「……いいかげんにしろよ……」
 膨れ上がる感情。今すぐ天見の胸倉をつかんで、上にのしかかると無抵抗の天見を殴り殺す想像が胸を掻き毟る。
「あの時いた女の子は鮎川じゃなかった……」
「確信がある?」
 確信があるか。
 顔を覚えているか。
 覚えていない。
 鮎川だったのか、他の誰かだったのか。顔を確認している余裕などなかった。
「君は、ひょっとしたらあのときの女の子が誰だったのか良く分かっていないんじゃないか。もしかしたら鮎川だったんじゃないかと思ってる。夕暮れで容姿も確認できない薄暗闇。そんななかで唯一確認できた特長がメガネ。たぶんそれが竹やぶで襲われた女の子と、鮎川に共通する君の記憶。違うかい?」
 答えられない。確かに竹やぶの女の子が誰だったのか、六郎は判別できていない。
「ここまで想像して、僕は君に対する怒りなど忘れた。僕も同じような思いをしてきたからね。誇大妄想だなんていわれて、頭がおかしいといわれて、最後には四天王になる前の薬師寺と春日井に袋叩きにされたんだ」
 あの唯村の噂。
「お前、四天王のこと昔から知ってるのか?」
「薬師寺と春日井はね。同じ中学だったから。僕は彼らのせいでひどい目にあった。僕は二人に嫌がらせを受けてたんだよ。君の想像もできないような凄惨なイジメだったよ。来る日も来る日も彼らに痛めつけられて、僕にとってあいつらは僕を殺しに来た暗殺者だった。でも、いくら僕が助けを求めても周りは僕を異常者扱いする。僕が苦痛から逃れるのは、苦痛の根源である学校を消し去るしかなかったんだ」
「あの噂……本当だったのか?」
「君は信じてくれたんだろ。唯村に言ってくれたんだろ。僕の言ってることは真実だって。唯村に聞いたんだ」
 確かに言った。本心だったかどうかは分からないが、あの時はそう答えた。
「僕を信じると言った人間は、たぶん君一人だけ。僕が自分自身、結構単純なんだなってはじめて知ったよ。君が本心からそう言ったかどうか分からないけど、僕はそれで君に対する怒りはすっかり冷めた」
 天見の六郎を見る目が変わっていた。
 猜疑心、嫌悪感は払拭され、同情、哀れみとは違うなにかがみなぎる瞳が、六郎を捕らえている。
「僕は薬師寺と春日井に命じられて、仕方なくこの高校に入学した。今のところ、あいつらは僕にちょっかいは出してこないけど、いつあいつらが僕に何かをしてくるのか。毎日おびえながら暮らしてる」
 薬師寺と春日井。そして紀乃原と粟王。四天王と呼ばれる物騒な連中と係わり合いのある二人。
 思えば、最初からだ。
 エロ本争奪戦のあの日。
 空気に色があるとすれば、あの場面、周囲に漂っていた空気は紫色で、唯村に初めて鮎川の妊娠の噂を聞いたときも、周囲の空気が紫色だった。
 鮎川が身ごもった命に対して、何の苦しみもなく悲しみもなく、みんなに祝福されて喜ばれるような事実が存在してるのかどうか。いま、俺はそれを知りたい。
「天見、お前の病気のことは誰にも言わない。だけど、俺にこんなこと言えた義理じゃないけど、また協力してくれないか? 最後の謎、鮎川の相手の男は誰なのか」
 天見は何も答えなかった。相手は四天王の誰かかもしれない。でもそれはまだ噂の段階。何の確証も無い。
 天見はただ黙って、背負ってきたバックを胡坐をかいた足の上に載せると、中身をまさぐった。
 しばらくすると、目的のものを見つけたのか、何かを取り出しながら言った。
「僕は君のことが嫌いだ。君も言われたくないことをずけずけ言う僕のことが嫌いだろう。だけど、人と人が一緒にいる理由は好き嫌いだけじゃない」
 天見はクリアファイルに入れられた一枚の紙を取り出す。
「利害の一致、そんな理由で人は誰かと行動を共にする。要するにこれ。契約書だよ。僕は君の調査に手を貸す。変わりに君も僕が困っているときに手を貸すこと。今のところ共通しているのは四天王に対する脅威だね。お互い、四天王にかかわる困りごとは協力して解決すること。それを強制する契約書だよ。僕の拇印はすでに押してある。君に任せよう。僕が四天王に困っているとき、君は僕を助けてくれるか」
 天見は契約書を床の上に滑らせて差し出してくる。一緒に朱肉をそばに置く。
 躊躇しなかった。
 存在するのは友情でも同情でもない。
 交わされるのはただの契約。
「俺たちは友達じゃない。そうだな、天見」
「そう。ただの契約関係のある他人同士。ただ、約束の実現責任は、友達同士の口約束とは比べ物にならないほど重い」
 六郎は朱肉に手を伸ばす。
 赤い表面に親指を押し付けてインクをつける。朱肉からはがした親指は、出血しているかのように赤い。
 朱肉が赤いのは、きっと血の代わりであるからに違いない。
 契約書の天見の拇印の隣に、六郎は親指を押し付けた。
「二枚目にも拇印を押して」
 天見はもう一枚契約書を差し出した。
「お互いが契約書を持つ。どちらかが裏切ったとき、お互いが責任を追及し合えるように」
 二枚目にも捺印すると、お互い一枚ずつの契約書を手に取った。
 思いは存在しない。無機質な紙切れ一枚に命ぜられるお互いの身の保全。
 ただのお遊戯かもしれない。契約を反古したとして、社会的に何らかの制裁が下されるわけじゃない。
 だけど、天見は裏切らないだろう。確信はないが、それは確かなような気がした。

 

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