処女+童貞=○○の法則

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三章 《 吊橋理論による性的興奮の検証 》


 五月。
 六郎にとっての五月は、夏の始まりというよりは春の終わり。五月病という病が蔓延する季節よろしく、梅雨もそろそろ始まる身体のだるさに加え、新しい環境での自身のポジションも決定し、友達の人数も決定されてくる。
 この時期に漠然とした学園内でのランキングも決まる。良く目立って、女子とだって活発に交流できる男子は上位ランク。上位ランクの男子はいつだって海や雪山が好きだ。転じて女子とも会話できず、陰気にエロ話ばかりしているしか能の無い男子は下位ランク。下位ランクの人間は決まって二次元的なアニメキャラや隠匿で閉塞なインターネット世界が好きだ。そして、下世話な噂話に喜び、ひそかに思いを寄せる女子に彼氏ができただの別れただの一喜一憂し、可愛らしい女子生徒を調べ上げて、組や名前の情報をメモ帳にランキングし始める六郎は最下層の暗闇の住人。海も山もネットも二次元にも目をくれず、現実の女で陰湿な妄想をするだけの六郎は、ただひたすらがらんどうな暇人である。
 五月のゴールデンウィーク。特に予定も無い暇な高校生は、友達の少なさを親に指摘される間もなく、颯爽と家を出た。
 時刻は夜に近い夕暮れ時。
 親には友人の家に宿泊すると嘘をつき、向かう先は我が母校である。目的はもちろん、渦中の事件の主人公である鮎川藍子の妊娠の真偽を突き止めるためである。
 アンダーグラウンドの暗闇を冒険するような心境だ。タブーを犯すことへの高揚感。やってはいけないと言われている禁忌の行いは、逆説的に気持ちのいいことばかりである。
 なぜ一番セックスをしたい時期に、世の中はそれを背徳と決め付けてしまうのか。道徳教育の馬鹿野郎。性教育の馬鹿野郎。法律の馬鹿野郎。大人たちの倫理観もおまけに馬鹿野郎。
 学校にたどり着くころには日が暮れていた。
 連休中の学校にはまだ部活動にいそしむ生徒たちがいる。そいつらが全員帰った後、いよいよ学校に忍び込む。
 ぞくぞくと膀胱がきしんだ。
 緊張感と恐怖と期待が、なんともいえない快楽を呼び込んで全身に駆け巡る。
 中学生のころ、子供たちだけで遊んだ深夜の花火大会。
 子供たちだけの川べりのキャンプ。
 子供たちだけの夜の焚き火。
 似ている。誰もが寝静まった夜の世界を、自由に感じたあの時間。
 学校の周囲は、片側を広大な水田地帯、もう片側を、土手を挟んで河川が流れている。
 六郎は石ころだらけの川べりにやってくると、テントを張り終えた天見が焚き火を起こしていた。
「よう」
 声をかけると、焚き木を持った手を持ち上げて返事をする天見。
 折りたたみの小さな椅子が二脚置かれており、焚き火を挟むように置かれている。天見が用意したものだろう。腰掛けると天見が言った。
「時々、ひとりでキャンプをするんだ。ここの河川敷じゃないけど、もっと上流の、誰もいない川岸でキャンプを張る」
「へえ。なんか楽しそうだな」
「楽しそう? 君にも分かるんだ、この感覚」
「分かる。釣りをして、釣れた魚を焚き火で焼いたりするのも楽しそうだな」
「僕は読書をする。誰にも邪魔されないで、静かな川べりで。焚き火のはぜる音や水が川岸に打ち付ける静かな音を聞きながら。心が落ち着くんだ」
 静かな声。穏やかな空気。
 それでも胸を膨らませる高揚感は収まらない。
「夜が更けたら学校に侵入する」
 天見が焚き火に薪を放り込みながら言った。
 そう。そのために集まった。焚き火に照らされた空間は、暗闇の世界にぽっかりと開いている。その球体の中で、天見の佇まいは少し異様に見えた。その異様さを説明する言葉を必死に探す六郎の傍で、天見は続けて口を開く。
「夜九時にもなれば、学校には誰もいなくなる。許可を得て合宿をしてる演劇部の女子生徒たち以外」
 焚き火の影響だろうか。焚き火の精神汚染に似た作用は、まるで目から吸引する麻薬のようだ。
「その前に話しておきたいことがあったんだ。君に」
 天見の異様な雰囲気を説明する言葉が見つかった。
 これは、放火魔だ。放火魔がいざ火をつけようとするときの目の輝きを連想した。穏やかとも形容できそうな表情の奥に、狂気の興奮状態が見え隠れする。誰にも見られてはいけない、誰にも知られてはいけない、そんなタブーを犯すときの並ならぬ集中力。
「どうしても気になることがあるんだ」
 天見の瞳が、炎に照らされて赤く光っている。
「これを確かめてからじゃないと、僕はこれ以上協力できない」
「なんだよ。何がそんなに気になるんだ」
「君がこの件について、そこまで執着する理由だよ。前にも言ったけど、やっぱり普通じゃない。その理由を教えてくれないと、僕はもうこれ以上の協力はできない」
「なにもないって言ったろ」
「嘘だ。君が何か隠し事してるのは分かる。でも、何を隠しているのかは分からない。でも想像はできるよ。聞きたい? でも、僕はできれば君の口から聞きたいんだ」
「何も隠してないし、嘘もついてない。妊娠の事実が気になるんだ。どうしても。あんなまじめな子が妊娠なんて、俺とっては天地がひっくり返るよな事実なんだよ」
「それだけじゃないだろ。ここまで僕につき合わせてるんだ。本当のことを教えてほしい」
「俺はずっと本当のことを言ってる。俺が軽薄だろうと悪趣味だろうと、嘘だけは言ってない」
「じゃあ、僕の想像を教えてあげる」
 天見が六郎を見た。赤い目で。六郎は思わず動揺して身じろぎする。天見の想像。頭のいいやつだ。何を言い出す気なのだろうか。
「鮎川藍子とセックスしたのは、君でしょ、六郎。だから妊娠しているかどうか知りたい。こんなの僕じゃなくても気づくよ」
「お、俺が?」
 何てことだ。そんなことを思っていたとは。
「言っておくけど、俺は童貞だぞ」
「六郎が童貞かどうかなんて僕には知りようがない。だけど、鮎川の相手が君だって考えれば、全部つじつまが合うんだ。正直に教えてくれよ。鮎川とセックスしたんだろ」
「鮎川とセックスできるもんなら喜んでしたいけど、残念ながらやってない。お前も突拍子もないこと言うんだな」
「別にそんなに隠すことないじゃないか。なにか隠さなくちゃいけない後ろめたいことでもあるの? ひょっとして無理やりだったとか。寝込みを襲ったとか」
「物騒なこと言うなよ。天に誓って鮎川とは何もない。ああ、くそ。なんか空しい誓いだな」
 天見は「ふう」とため息を漏らし、再び焚き火に目をおろして薪を投入する。火の粉が無数に舞い上がり、泡沫のように黒い上空へ溶けていく。
「僕はもう、これ以上は続けられないよ。君が嘘をつく限り」
「何度言えば分かる。嘘なんていってない。むしろ正直すぎるくらいだろ」
「思春期の少年の興味? 軽薄な悪趣味? そんなの、嘘を隠そうとするもっともそうな詭弁だろ」
「いいか、面倒な理屈はもういい。お前が協力をやめたら、病気のことを言いふらすといってるんだよ。お前は頭がいいんだろ」
「なら僕は、君が鮎川の妊娠の相手が君だって事、みんなに話す」
「そんなことを話したら、お前が嘘つきになるだけだ。誰もそんな話信じないしな」
「どうかな。僕は信憑性のありそうに人に話して聞かせる自信はあるけどね」
 その気になれば、天見なら他人を信じ込ませることができそうだ。それだけに質が悪い。
「そんなに信じられないのなら俺についてきて、鮎川の妊娠も、お前が俺に抱いてる疑惑も全部、解き明かしたらいいじゃないか。とにかく今、調査を降りるなんて許さない。せっかく面白くなってきたところなんだ。最後まで付き合ってもらう」
 語気を強めると、天見は三度、重い重いため息を漏らした。
「そんなに言うのなら、真相を突き止めてやる。でも、後ろめたいことがあるのなら、やめるのは今のうちだよ。これ以上、事情に突っ込んでいったら、僕は見過ごすことなんてできなくなるよ」
「よし、それでいい。とにかく時間がきたら予定通り作戦結構だ」
 天見は答えなかった。六郎もそれ以上は言わなかった。
 それから二人は、一切口を開かず、作戦決行の午後九時を待った。

 

 天見の情報収集能力には驚くばかりで、どこで仕入れたのか、演劇部の行動スケジュールを把握していた。
 強制されている割には、進んで情報収集するし、いざ意を決したときに発揮される行動力は、不安など微塵も感じさせない。恐ろしくも頼もしい味方だ。
 川沿いに面した鉄柵を越えると、そこはもう校舎内である。巧妙に校舎の陰に隠れながら目的地へと歩みを進めた。
 演劇部は夜の十時になるまで演劇の稽古を行っている。来月に開催される高校生演劇フェスティバルの稽古である。稽古は体育館で行われており、終わったら仮眠室から布団を運んで、部室に寝泊りする。土曜日から始まっている合宿は二日目まで終え、あと二日を残すのみ。
 部室は、職員室に程近い専用校舎に存在し、職員室には明かりが煌々とともっている。天見の情報では職員も一緒に学校で寝泊りしているらしいとのこと。
「トランシーバのテストをするよ。イヤホン付けてる?」
 天見が押し殺した声で言った。ちょうど目的についたときだった。
 六郎は耳にはめ込んだイヤホンの調子を確かめると、こくりと頷いてみせる。
 天見は手に持ったおもちゃのような送受信機に向かって「聞こえる?」と声を上げると、目の前の天見からとは別の声が、イヤホンより聞こえてきた。
 指でOKサインを作ると、天見も頷いてみせる。
 今いるのは、部室校舎内。
 明かりはともっていないが、非常灯のおかげで視界は利く。
「誰もいないみたいだけど、物音には気をつけて」
 押し殺した天見の声は、森閑とした部室専用校舎内でよく響く。長く伸びる廊下には、等間隔で非常灯がともっており、明かりのともっていない廊下の床に反射している。片側は部室が並び、もう片側は窓が並んでおり、中庭をはさんで本校舎と向かい合っているのが見える。
 夜の学校。異様な光景。普段、人が多く存在する場所ほど、静かで人気の無い夜は異様に見える。
 ひたひたひた。
 自分たちの足音。
 意外と簡単に忍び込めるものだ。泥棒対策はどうなっているのだろう。六郎がふとそんなことを思うと、思考を悟ったかのように天見が言った。
「念のため言っておくけど、普通、校舎には無断で立ち入れないように警備会社に連動したセキュリティーセンサーがあって、無断で入ればすぐに警備員が飛んでくる。今日が大丈夫なのは、演劇部員たちが事前に申請して、合宿のことを警備会社に連絡してあるから。普段こんなことをしたら、通報されるからね」
「分かってるよ」
 分かってなかったが、妙に腹が立って見栄を張った。張った見得が見破られたかどうかは分からないが、天見は足を止めると目的の場所を指差した。
「君はここで隠れる。段取りは分かってる?」
 理解はしていたが不安だった。
 天見が指差している場所。それは女子トイレだった。天見は作戦を反芻する。
「僕はこれから、このトイレにつながる送水を遮断する。校舎裏にバルブがあるのは調査済みだし、鍵もかかってない。バルブを閉めたらトランシーバで合図するから、君は三つ並んだ個室の真ん中の水洗トイレの水を流す。そのあと君は真ん中の個室の両脇にある個室のドアに『故障中』の張り紙をする」
 この行動に何の意味があるのか。察しがよい人ならすぐ気づくだろう。
「このトイレはタンク式になってて、一度水を流すと、設置されたタンクに水が溜め込まれる仕組みになってる。送水を止めてから君がトイレの水を流せば、そこの個室のトイレは二度と水が流れなくなる。ここまではいいよね?」
 六郎は神妙に頷く。
「君はその間、トイレの用具入れに身を潜める。僕は外から部室校舎を見張ってるから、トイレに鮎川がやってきたらトランシーバで合図する。鮎川は当然、真ん中の個室に入って用を足す。もちろん、水の流れない個室でね」
 鮎川が用を足し、いざ水を流そうとしてレバーを操作しても、乾いた音を立てるのみ。水は流れないという寸法。
 鮎川が大きいほうをしていたらどうしようという危惧はあったが、その可能性はとりあえず除外。失敗したら最終日の明日に再び決行するしかない。
「もし、鮎川以外の人間がやってきたら、すぐに僕はバルブを解放して水が流れるようにする。その場合は、用具置き場で隠れている君が再び水を流してタンクを空にしなくちゃならない。いいね?」
「大丈夫」
 そういった声が震えていた。決して緊張や恐怖のせいで震えたのではない。そう自分自身に信じ込ませようとした。
「鮎川が用を足した後が勝負だよ。水は流れない。当然、鮎川は人を呼びにいくだろう。その隙に君は真ん中の個室に入り、鮎川の尿を採取するんだ。採取したら、再び用具置き場に隠れて、僕が合図するまで隠れていること。人がいなくなったら合図するから、慎重に出てきて」
 天見の考えた作戦だ。天見が指揮するのが当然だが、一番危険な実行役はスリルという言葉では済まされない恐怖がある。
 女子トイレに忍び込んで、用具置き場で待機し、鮎川の小便を採取する。
 まるでただの変態行為に思えるこの行動は、ただひたすら、少年の純粋な探究心を満たす目的で遂行される。そうだ。趣味嗜好では決して無い。これは役目だ。仕事だ。使命だ。
 採取した尿は、天見が用意した妊娠検査薬にかけられる。
 天見は最初から気づいていたのだ。鮎川の尿を採取し、妊娠検査薬にかけてみるのが一番早い解決であると。
 それを先延ばしにして、六郎があきらめるのを待っていたらしいが、六郎の純粋無垢な探究心を甘く見た天見の負けである。
 妊娠検査薬などというものが市販されていると知らなかった六郎は、そんな負け犬の天見に頼らなければならないのだが。
「彼女たちは十時に戻ってくる。今は九時半。三十分以上、個室でじっとしていること。物音を立てないでね。これは結構大変なことだよ。できる?」
「できるよ」
 高々三十分。
 長くても二時間程度。
 深夜になれば寝静まってしまうので、作戦は明日に延期する。
 このときの六郎は楽観的だった。
 それが大きな間違いだと気づくのはもう少し後のこと。
 
 
 
 用具入れの狭さにうなり声を上げたのは、外から天見が扉を閉めたときで、トイレ内に設置された用具入れば、トイレの個室とは比べ物にならないくらいに狭い。
 モップやバケツが散乱する中、水の腐敗臭と洗剤の刺激臭に眉間の辺りをぐりぐりさせられながら、こんなところで一時間以上も潜んでなければならないのかとうんざりした。
 しかも腰をかけるスペースなど無い。ほぼ直立不動のままでいなければ周囲の立てかけられている用具に当たって物音が出る。
 ――六郎、聞こえる? こちら天見。
 イヤホンから天見の声がする。手に持っている送受信機のマイクに向かって「聞こえる」と返事をする。
 用具入れの扉を閉めれればそこは暗闇。視界は一切利かず、密閉された空間には耳鳴り以外は何も聞こえない。
 これは、結構怖い。夜の校舎。女子トイレ。封鎖的空間。
 そのあと、天見からトイレの送水を止めたとの連絡が入り、手はずどおり用具入れを出ると、三つの個室のうち、真ん中以外に『故障中』の張り紙を貼り付けた。
 無音の暗闇の中、紙ががさつく音がやけに大きく聞こえる。背後に怪しい気配を感じて振り返る。そこには燦然とした暗闇だけ。
 この世の者ではない気配。
 気のせいなのは分かってる。幽霊は信じないし、宇宙人も信じない。だけど、暗闇には何か潜んでいる懸念をぬぐえない。
 用具入れの密室に戻りたくなかった。
 ――演劇部が帰ってきた。
 イヤホンからの天見の声に、すくみ上がるほど驚いた。だが、すぐに目的を思い出す。何よりも恐ろしいことは幽霊や宇宙人ではない。
 ここは深夜の女子トイレ。そんなところに潜んでいることが、もし演劇部の思春期の女子高生に見つかるようなことがあれば、自分の青春は早々にして幕を閉じる羽目になるのだ。まだ麗しき高校一年生。こんなところで変質者のレッテルを貼られて、写真や二次元の美女たちにしか相手にされない生活を送るのは、なによりも恐怖だ。
 暗闇に対する恐怖も、突風のごとく吹き抜けた別の恐怖に払拭され、六郎はあわてて用具入れに入り込んだ。
 ――六郎。予定外のことが起こった。
 天見の声。予定外? なんだそれ。
 六郎は動悸が激しくなった。荒くなった呼吸を必死に整えようとする。息遣いで潜んでいるのが知られてしまうかもしれない。ところが、呼吸を整えようとすればするほど息苦しくなり、のどがひゅうひゅうと鳴る。
 ちょっとまて。今、女子トイレに誰かこられたら貧血を起こして卒倒してしまいそうだ。
 いやまて。予定外? なんだそれ。
 六郎は声を出せない。
 ――三人だ。演劇部の女の子が戻ってきてすぐに、三人でトイレに向かった。いいかい? 三人入ってくる。中には鮎川藍子もいるけど、場合によっては作戦中止。そのまま動かないで。
 天見の緊張した声が、心拍数を押し上げる。額やほほに伝う汗は不快だったが、ぬぐうどころか微動だにできない。
 三人やってくる。これはどういうことか。そういえば、天見は女子生徒が一人でやってくることしか想定していなかった。よく考えたら分かるじゃないか。暗闇の学校で、女子が一人でトイレに来ることのほうが不自然。
 会話が聞こえてきた。
 確かに一人ではない。全身の筋肉が硬直する。足元の床が波打ち出して、六郎を立っていられなくする。周囲の空気が水中のようにゆがんで、平衡感覚を失わせる。
 トイレのドアが開かれる音がした。同時に六郎は呼吸を止めていた。
 動くな。動いたら周囲のモップやバケツに当たり、音が出てしまう。「誰かいるの?」などといわれ、用具入れのドアを開かれたその瞬間、夢いっぱいだった青春が終焉する。
 明かりがついた。
 明かりがついても用具入れは相変わらず暗いが、扉の輪郭を縁取るように木漏れ日が挿す。
「あれえ、トイレ故障中だって。真ん中のトイレしか使えないよ」
 誰の声か。そういえば、鮎川の声を六郎は知らない。
「昼間は故障中なんて張り紙があったっけ?」
「無かったよね」
「休みなのに、誰か来たのかな」
 不穏な会話。心臓が胸を突き破ろうと、内側から激しく叩いてくる。
「休日でも用務員の人は働いてるんだよ、きっと」
「仕方ないな。一人ずつ入ろうか。みんなちゃんと外で待っててよね」
 夜中の学校のトイレを怖がる女子高生たち。どうやら不審に思ったものの納得してくれたらしい。だが安堵などできない。六郎にとって間近で交わされる彼女たちの生の声は恐怖以外の何ものでもない。薄い扉を隔てた向こう側にいる三人。少しでも音を立てれば気づかれてしまう。
 いつまでこのまま硬直していればいいのか。三人の用が済むまで六郎はここで呼吸を止めて、静止していなくてはならないのか。すでに太ももや腰の筋肉が悲鳴を上げ始めている。筋肉が緊張しているせいだ。余計な力をこめず、リラックスすればよいのだが、今緊張を緩めれば倒れてしまいそうだ。
 ――僕からトイレの中は見えない。誰が最初に個室に入るのかが問題だね。君のいる場所から、トイレに入ったのが誰か見える?
 天見の声。六郎は扉の隙間からトイレ内を覗こうとしたが、体を少しでも動かせば、溜め込まれたエネルギーが暴発して、体がはじけ飛びそうだった。
 体を動かすことができない。それを天見に伝えることもできない。
「じゃあ、順番ね。外で待ってるから」
「絶対待っててよ」
「大丈夫だって。歌でも歌っててあげようか?」
 笑い声を立てながら誰かがトイレを出て行く音。そして、このトイレには女子高生が一人だけになった。いや、二人。六郎と誰か。ひょっとしたら、ある種の性的嗜好を持つ男には興奮的なシチュエーションかもしれなかったが、今の六郎には竦むような恐怖しか感じられない。
 ――あ、二人出てきたのが見えた。えっと……鮎川は……。
 天見の声と同時に、トイレの個室に入っていく音。続いて、おそらくズボンを下ろす音。
 卑猥な想像が広がった。この先、扉は隔てているものの、可憐な女子高生が自らズボンを下ろし、そしてパンツを下ろし、ぱっくりと大事なところを開いている。
 やがて聞こえてくるはずのお小水の音に耳を澄ます。
 ――トイレに残ってるのは鮎川らしい。外で待ってる二人はどちらも鮎川じゃない。とりあえず第一目標は達成だけど、油断しないで。
 うるさい、天見。今しゃべるな。
 そして。
 清涼とも形容できそうな、爽やかでスケベな音が聞こえてきたのだった。ああ。なんだろう、この充足感は。頭の中に鮮明に駆け巡る、黄金水が光り輝きながらシンクに落ちていく映像。
 鼻を引くつかせてみたが、さすがに匂いまでは届いてこない。
 やがて多少の余韻を残し、素敵な時間は終わりを告げた。このために生きてきた。この瞬間のために。ただのお小水の音。なぜこれほど嬉しく感じるのだろう。たかが水が落ちる音。ところが胸に満たされるこの清涼感は一体……。
 からからと紙を巻き取る音の後に、からん。からんと乾いた音が聞こえた。
「あれ……?」
 鮎川の声が聞こえてきた。
 からん、からんからん。
 その音で、六郎は本来の目的に立ち戻った。そうだ。お小水の音を聞くために潜んでいたわけではない。
「なんで? ここも故障してるの?」
 鮎川の不安そうな独り言。
 トイレの水は流れない。だがすでに遅し。用は足した後。
 別の緊張感が下腹部を刺激する。
 これは紛れも無く現実なんだ。場違いに理解する六郎。夜な夜な閲覧するエロ雑誌に掲載されたいつもの妄想ではない。
 鮎川が個室から出てくる音がした。戸惑ったように地団太を踏む音がした後、流し台に近づいていく。ところが、蛇口をひねっても水は出ない。
 トイレ内のあらゆる水流は止められているのだ。
「なんで……?」
 戸惑いの声とともに、鮎川はトイレを出て行った。
 ――鮎川が出てきた。
 天見の声。六郎は耳を澄ます。トイレの外で鮎川たちが会話しているが、内容までは聞き取れない。
 ――鮎川は用を足した? まだ三人はトイレの前にいる。まだ行動を起こさないで。
 天見の伝えてくる情報が頼りだ。今はじっと耐えろ。
 ずいぶん長い時間待った気がした。
 ――六郎、三人がトイレの前を離れた。チャンスだ。だけど、音は立てないで。
 天見の合図があった。ところが体は動かない。
 本当に大丈夫なのか? 天見の伝えてくる情報のみで、六郎は何一つ、自分の目で確認していないのだ。用具入れのドアを開けた先に、まるで汚物でも見るかのような彼女らの顔があったら? 天見が六郎を貶めようと嘘をついていたら?
 妙な被害妄想を振り払って、六郎は慎重に用具入れのドアを開いた。トイレ内の明かりは灯りっぱなしだった。
 明るいトイレ。ところが奇妙なことに、暗闇であったときと恐怖感は大して違わない。六郎は震えだしそうな膝に力をこめて、鮎川の用を足していた個室に忍び寄る。
 ポケットに手を突っ込んで、小瓶を取り出した。小瓶はコルク栓のされている親指くらいの大きさのもの。小瓶が小刻みに振動している。実際振動しているのは六郎の手。
 個室に入る込むと、排泄物のにおい。和式の便器の中には湿気を吸ったトイレットペーパーが落ちており、少し黄色に変色している。トイレットペーパーが貴重な尿を吸い尽くしてしまう前に、六郎は小瓶のコルクを抜いて、便器の中にたまっていた尿を採取した。
 やった。作戦成功だ。
 そう思った刹那のこと。
 ――やばい! 六郎! 三人が戻ってきた! 隠れて!
 六郎はぞっとして顔を起こした。
 声が聞こえてきた。女子三人の会話する声と、近づいてくる足音。思いのほか近かった。
 監視していたんじゃなかったのか、天見。こんなに近づいてくるまで気づかなかったなんて。
「流れないなんて信じられない」
 ――早く隠れて!
 何で戻ってきたのか。トイレは使えない。
 六郎は音を立てないように個室を出ると、すり足で用具入れに向かう。急げば一秒に満たない距離だが、音を立てるわけにはいかなかった。忍び足では、その距離は果てしなく思えた。
「私が流してくるから、ちょっと待ってて」
「バケツ重いよ。大丈夫?」
 ――六郎、隠れたのか? 彼女たちはトイレの正面にいる。どうやらバケツに水をためてきたらしい。
 解説はどうでもよかった。
 間に合う。大丈夫だ。
 六郎は用具入れの扉に手を伸ばす。
 ドアを慎重に引いた――つもりだった。
 ドアを開いたとき、用具入れ内の気圧が変わったせいか、用具入れの暗闇の中からモップがこちら側へ倒れてくるのが見えた。
 胃袋を切り裂かれるような恐怖を感じながら、倒れてきたモップを掴む。
 音は鳴っていない。
 自分の目が見開かれているのが分かる。
 こんな恐怖を何度も味わったら死んでしまう。
 ところが、倒れてきたモップはひとつではなかった。
 まるで用具入れの暗闇から遅い来る無数の怨霊のごとく、モップが次々に倒れてくるではないか。
 一つ掴み、二つ掴んだところで限界だった。掴みそこなったモップが、まるで無数のフォークやナイフを床にぶちまけたかのように思える豪快な音を立てて床に落ちた。
 トイレの前で続いていた三人の会話がぴたりととまったのが分かった。
 同時に時間が止まる。
 おそらく六郎の人生の中で、初めて経験する記憶の走馬灯。十六年の短い生涯が六郎の脳裏に駆け巡る。そうだ。走馬灯はいつだって、終わりのときにこそ見るものだ。
 これから何かが終わるのだ。
 手に持っていたモップも床に落ちる。生涯をかけて積み上げてきたものが崩れ落ちるように。
 がちゃり。
 トイレの扉が開かれる音。音を聞くまでも無い。ドアノブが向こう側からひねられている光景が目の前にまざまざと突きつけられる。
 これで終わり。
 変態のレッテルを貼られて、休み明けから学校にいけるのか? いけるわけが無い。朝登校した瞬間に突き刺さる無数の白い視線。まるでばい菌のようにみんなが六郎を避けて通る。そんな生活、堪えられるわけが無い。
 その瞬間だった。
 六郎は、向こう側から開かれようとしていたドアノブを掴むと、ドアに体を押し付けていた。
「なに? 誰かいる?」
 ドアの向こうから、鮎川たちの同様の声。
「ちょっと、誰? なにしてるのよ、そこで」
「あけなさいよ! ふざけてるの?」
 六郎は必死にドアを押さえつけた。
 ――どうなってるんだ、六郎。ひょっとして、ドアを押さえてるのか? そんなことしたってジリ貧だぞ!
 じゃあ、他にどうしろって!?
 パニックを起こした六郎は、ただひたすらドアを押さえているしかない。ここは密室。この出入り口以外に脱出口は無い。このまま一生押さえていることはできないし、いずれ開けなければならない。その人生最悪の瞬間を先延ばしにしているだけなのはよく分かってる。
 だけど、ひょっとしたら同情した神様が現れて、瞬間移動の特技を授けてくれるかもしれない。もしかしたらこれは夢で、強く願えばベッドの上で目を覚ますかもしれない。
「ちょっと、あけてよ! 誰なの? 先生呼ぶよ!」
 ドアの両脇から押し問答。少しドアが開いては、必死に押しとどめる。だめだ。ここで負けたら人生が終わる。瞬間移動能力を授けてくれる神様が現れるまで、何年だってここで粘ってやる。
「先生! 先生! ちょっと来てください! 誰かいるんです! 中から誰か抑えてるんです!」
「警察呼ぼう!」
 頭がくらくらした。警察だって? 犯罪者? そんなのって……!
 全身を侵食してきた絶望感。
 目の前が真っ暗になるとともに、徐々に意識が薄れていくのを感じた。
 終わりだ……。
 何で俺はこんなことをしてしまったんだろう……!

 

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