処女+童貞=○○の法則

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二章 《 龍宮城と浦島効果の見解 》


『紀乃原の始まりの一日』

 学校は夏休みに入った。
 夏の季節よろしく、純白の雲と透き通る青がコントラストをなす晴天の空の下、本日待望の日となった。
 紀乃原は六郎にきつく言われたとおり、今日は絶対に喧嘩をしたり、周囲の人間をやぶにらみしたりしないと誓わされた。これには逆らえない。今日の約束を取り付けたのは六郎なのだ。
 それから、身に着けるのもスーツとか革靴はやめて、高校生らしくポロシャツにジーンズが良いのではないかという提案どおり、先日購入した。
 ただし髪の毛はオールバック。ここは譲れない。でもサングラスに伸びた手は止まった。
 天見の分析によると、彼女、村瀬芙由子ちゃんは勤勉でまじめ。ささやかな夢を持っており、あまり目移りなどしない直線的な性格であろうというのだ。もしかしたら恋愛などは興味はないといわないまでも、少なくとも学生の間は恋愛に目を向けず、勉強に集中しようとしていると考えられる。
 根拠は? と紀乃原が尋ねると、天見は「僕と同じタイプだ」と言った。
 なるほど、と紀乃原も根拠のない理解をした。とにかく天見は頼りになるのだ。こんなひ弱そうな天見は、頭脳明晰で運動神経抜群の容姿端麗な珍しい男。人の心を気遣わない無神経な言動を別にすれば、女の子にモテてしかるべきなのに、いつも勉強ばかりしている。
 ふと思い出した。
 そんな天見が俺と六郎と一緒につるんでいる。
 そういえば、俺も天見も六郎も、おおよそ重なり合わない別人種に思える。こんなへんてこな三人をつなぎ合わせたのは紛れもなく六郎だ。
 こうやって動物園デートを企画して、俺達の絆を保ち続けているのも六郎だ。こんな交友を保ち続けることに何か意味があるのかといえば、あるのかないのか。少なくとも天見はもっといけ好かない優等生連中とつるんでいたって不思議はないし、俺だってもっと頭をトサカにした連中と喧嘩に明け暮れる日々を過ごしていたって不思議はない。でも、俺が六郎に出会わなかったら……。
 今日は楽しい一日になるはずだ。感傷に浸りかけた紀乃原は気を引き締めた。
 
 

『天見の始まりの一日』
 
 ――読みたい本があったのに。
 天見はいつまでも出かける決心をつけられず、冷房の効いた部屋でぼんやりしていた。身支度は済んでいるが、身体は鉛のように重く、椅子から立ち上がることが出来ない。どうして動物園など行かなければならないのか。
 六郎たちと付き合い始めてから、僕は自分のしたいことの半分を犠牲にしているような気がする。そこまでして人付き合いをする意味が分からない。女子高文化祭のときもそうだ。あんなところに行って、なにが自分に有意義に働くのか。それならあの時間に一冊の本を読んで、新しい未知の世界の発見をしたほうが楽しいに決まっている。
 何度目かのため息をついた後、さびしくなった頭を触る。六郎にきつく言われたとおり、今日までに散髪に行き、髪の毛を短く切ってきた。でもコンタクトレンズが目に合わないため、メガネだけは譲れない。
 また苦痛な一日だ。それでも紀乃原のためだと、涙を呑んでくれと六郎に頼まれた以上、無碍にするわけには行かないのだ。
 なにより六郎には何の悪意もない。性欲の権化であることに変わりはないが、あのひたむきな人格に、天見はいつでも迷惑をこうむってきた。
 はっきり言って、僕と紀乃原はどう考えても肌が合わない。一緒に居ること自体不自然なのだ。考え方も頭の回転も人格も違う。あんなやつと関わっても、きっといつか騒動に巻き込まれて、僕の将来さえ脅かしそうだ。
「明良ちゃん」
 部屋をノックする母親の声がした。
「どうぞ」
 入ってきた母親は、まるでお手伝いさんのようにニコニコしている。
「お昼はどうするの?」
「友達の家で勉強するから、今日はいらない」
 勉強、の漢字二文字は、母親にとって有効なカンフル剤だ。とたんに母親は上機嫌になって「そうそう。帰りは何時くらい? お夕飯はなにがいい?」と尋ねてくる。
 分かってる。僕は将来、両親や兄弟の期待の星なのだ。どんな職業を選ぶか。お金儲けの方法はいくらでもある。
「カレーでいいよ」
 そういうと、母親は笑顔でうなずいたが、次には笑顔が巣に戻りかけて「あの、紀乃原君とか月波君の所じゃないの?」と女の勘を働かせてきた。母親は二人のことを快く思っていないし、僕だって思っていない。
 両親につく嘘など、微塵の罪悪感もないので「違うよ」と母親を安心させてやった。
「ならいいのよ。暑いから気をつけてね。水分を良く摂るのよ。帽子をかぶっていきなさい」
 適当に相槌を打って、僕は鉛のようになった体をやれやれと起こした。
 すがすがしい夏の晴天とは裏腹に、天見の心は薄暗く淀んでいたのだった。
 

『月波六郎の始まりの一日』
 
 月波六郎は後悔していた。
 先日の決意はどこへ行ったのか、夕べ、また新たな「デラべっぴん」を購入してしまったのだ。もう写真の中の君とは別れを告げたじゃないか。それなのに、未練がましくまたこうして再会してしまった。
 今度こそ本当のお別れだ。庭のいっと缶にデラべっぴんを放り込むと、ライターオイルを振り掛けた。
 昨日買ったばかりなのに。
 未練がましい六郎を振り払い、火のついたマッチ棒をいっと缶の中へ放り込んだ。
 
 
 
 あんたは何度言ったら分かるの! と母親に怒鳴り声を背後に、俺は颯爽と家を出た。
 なぜ動物園を選んだかといえば、新聞の勧誘にもらった動物園の無料チケットがあったからで、彼女もそれを快く了承したからだ。
 彼女、とは可愛らしいマッシュルームカットの咲本沙耶ちゃんで、童顔で小柄な痩せ型の豊胸な美少女だ。
 あんな子が、俺に気を持ったりするのだろうか。そう思うと胸がくるしおしいほどの不安を覚えるが、もし、あの乳を揉め……いや、いちゃいちゃできたら、きっと夢のような気持ちになることだろう。今日はそんな下心を表に出さないように勤めなくてはならない。
 嫌われないようにするためには、暗い人格は駄目だし、しつこいのも駄目だ。そう、男の余裕。男の余裕とは、常に股間の緊張をゆるくしておくことだ。
 今日はひとつの誓いを立てた。
 絶対に股間を硬くしないぞ。硬いのは決意だけだ。
 

『それぞれの一日』
 
 待ち合わせは動物園の名前がついた駅前だった。当然、女の子達も同じ。女の子達は、文化祭でお化け屋敷に入ったメンバーである。
 紀乃原とお化け屋敷に入ったのは村瀬芙由子ちゃん。メガネ姿の優等生風の女の子だ。
 天見と入ったのは倉川麻美ちゃん。まるでアイドルのような風貌のこの子は、天見と一緒に居ると別次元の生物たちに感じる。この子の特徴は愛らしい声。
 俺と入ったのは咲本沙耶ちゃんで、前に話したように信じられないくらいに可愛らしい。なにより胸が……。いや、今日は彼女の胸は忘れるんだ。
 とにかく美少女三人組だ。
「沙耶ちゃん」
 俺が駅前に居た沙耶ちゃんに声をかけると、話をしていた三人が俺達を見た。沙耶ちゃんが満面の笑みで答えてくれた。
「動物園なんて、久しぶり」
 三人の女の子は思い思いに期待を口ずさむ。動物園がこんなに受けがいいなんて。
「じゃあ、入ろうよ」
 用意周到に準備しておいた入園チケットをみんなに配る俺。すばらしい気配りだと、自分自身に感心する。
 入園すると、すぐに噴水広場があった。とりあえず公園を一周してお昼を食べた後は、それぞれペアになって好きな場所にいくというのが俺の野望だった。
「私たちね、みんなでお弁当作ってきたんだよ」
 沙耶ちゃんがそう言って、バスケットケースを俺に見せた。
「ほんとに?」
 可愛らしくうなずく沙耶ちゃん。素晴らしい感動が俺を包んだ。朝早起きして、今日のために弁当を作ってきた三人の美少女。
 俺はこっそり紀乃原に近寄ると「聞いたか?」と耳打ちした。紀乃原は女の子達に見られないようガッツリと俺の手を握った。
 天見にも近寄ると、天見は強い日差しに顔をしかめていたが、俺が肩に腕を回し「青春っぽいだろ」と言うと「そうだね」と気のない返事をした。
 その反応が気に入らなかった俺は、天見の肩に腕を回したまま一緒にお化け屋敷に入った麻美ちゃんのところまで連行する。
 麻美ちゃんはアイドルのように微笑んで「髪の毛切ったんだ」と100点満点の愛らしい声を出したが、天見は「半ば無理やりね」とそっけなく答える。
 後方を歩いて、まるで輪に入ろうとしない紀乃原の背中を押して、芙由子ちゃんの傍までやってくる。でも、まるで会話しない。紀乃原に文化祭のときの積極性はない。
 それなりに著名な動物園は、さながら広い憩いの公園のような印象だ。最初に出迎えてくれたキリンを見上げて歓声を上げて、トラやライオンにおののきながら、サルの悲鳴を聞いた。
 一緒に歩いていると、他のお客が俺達を振り返る。さすがに女の子三人は良く目立った。これは優越感である。いい女を連れているというのは、意地っ張りでナイーブな男にとってこの上ない自信をもたらすステータスとなるのだ。
 徐々に打ち解けてきた六人は、話題も充実してきた。楽しく笑い転げながら動物園を一周したころ、沙耶ちゃんが提案した。
「ちょっと疲れたね。お昼にしようか」
 お金のない高校生達は飲み物を自動販売機で購入すると、芝生の敷き詰められた広場に御座を敷いてお昼になった。
 気づくと、それぞれがペアになっている。お化け屋敷に入ったペアと同様だ。
 おおよそ理想的な状況だった。妙な三角関係などない。三組がそれぞれきっちりペアになっていさかいの心配もない。それぞれも悪くない雰囲気である。
 何度も言うが、これが現実だなんて夢のようだ。
 写真の中の君。そう、もう二度と君を振り返ったりしないさ。
 広げられたお弁当。こじんまりとしたおにぎりや、手作りと分かるタコの形をしたウィンナーや玉子焼き。から揚げやハンバーグを口に頬張りながら俺は「おいしいおいしい」と連発した。
 正直に言えば冷めた弁当の味なんて分からない。だが味覚を超越した美味さが舌をとろけさすのである。
 天見は無言で食っていたが、紀乃原は小さな声で芙由子ちゃんとなにやら楽しげに会話しながら食べている。
「ねえ、三人はどうして友達になったの?」
 沙耶ちゃんが不意に尋ねてきた。
「俺たち?」
「うん。なんか、タイプが違うよね」
 尋ねられて俺は天見を見た。紀乃原は芙由子ちゃんと二人の世界に入っており、会話に興味はなさそうだ。
「何でだっけ?」
 天見に尋ねると、天見はじっとりとした視線を俺に向ける。なぜそんな目をする。
「いつからだっけ?」
 天見は心なしか口を尖らせながら「僕と六郎は高校に入ってからだよ」と答えた。
 口数の少なかった麻美ちゃんも興味を引かれたのか口を開いた。
「クラスメートだったの?」
「クラスはばらばらだよ」
 天見は満腹になったのか、箸を置いた。
「じゃあ、クラブが一緒だったとか」
「ううん」
 天見が首を横に振る。
「くだらないきっかけだよ。今考えると、良かったのか悪かったのか」
 天見の含みのある言い方が気になったのか、芙由子ちゃんは「なんか、気になるなあ」と聞きたそうだ。
 そうだ。思い出した。でも、女の子に話して聞かせるにはちょっと抵抗がある。
 話題を変えようと、俺は「午後はどうしようか」と言った。
「待ち合わせの時間と場所を決めて、自由行動にしようか」
 提案はすぐに通った。
 
 
 
 午後から別行動になった俺達は、それぞれ好きな場所を決めて散開となった。
 ここからだ。ここからが重要なんだ。グループ交際でも、ここからは二人だけのデートになる。なにか距離を縮めることのできる素敵なイベントはないものか。
「ねえ、六郎君は夢ってある?」
 二人きりになったところで、沙耶ちゃんが思いついたように言った。
「夢?」
「そう。将来の夢」
 ちょっと不思議に感じた。笑顔やはじけるような声も、今は少し控えめだ。
 急にどうしたのだろうか。
 今は少し涼もうと、出入り口近くの噴水の辺に腰掛けていた。
 突然、夢などと聞かれても思いつかなかった。
「君は何か夢があるの?」
 尋ね返すと、沙耶ちゃんは少し口を尖らせて考えるしぐさをした。
 愛らしい。その唇をちゅうちゅうと吸いたい。そう思うと股間がずきんと疼いた。
 駄目だ。妄想を振り払え。男の余裕だ。
 俺はとりあえず脚を組んでごまかした。
「結婚したいかな。子供も欲しいし」
 そう聞くと、急に胃の痛くなるような現実感が襲ってくる。
「あ、男の子って結婚の話題、嫌いだよね。そんな顔しないでよ」
 沙耶ちゃんが最高の笑顔を取り戻して、俺の肩を押した。俺は一体どんな顔をしていたのか。
「結婚はいいよね。うん」
 無理をして取り繕うと、沙耶ちゃんはにっこり笑って「うそつけ」と指で俺の肩を突いてくる。
 ああ、スキンシップ。触れ合いだ。俺もなんか理由をつけて、沙耶ちゃんの肩を突いてみようか。間違えて豊満な胸を突いてみたり――だめだ。男の余裕はどこへ行った。
「舞台やるんでしょ? いつやるの? 俺もみんなで行くよ」
「本当? でもお金かかるよ。三百円」
 たった三百円? なんて可愛らしい金額であろうか。
「絶対行くよ。沙耶ちゃんが主役?」
 そう言うと、嬉しかったのか、沙耶ちゃんが日の差したような笑みを作った。
「そう。主役。ロミオとジュリエットをやるの。私が現代版に脚本を書き直したんだよ」
 嬉しそうに話をする沙耶ちゃん。
「沙耶ちゃんが脚本書いたの?」
「文章書くの得意なの」
「へえ。舞台っていろいろ役割があるでしょ。役を演じる人もそうだけど、君みたいに脚本書いたり、演出したり」
「ねえ」
 沙耶ちゃんが不意に俺の二の腕を両手で掴んだ。
「違うところでもっと話そうよ。いっぱいあるよ。舞台って結構大変なんだよ」
「どこか喫茶店でも入ろうか」
「抜け出しちゃおうよ」
 沙耶ちゃんはいたずらを思いついた子供ように上目遣いで俺を見た。
「抜け出すって?」
「動物園を抜け出して、面白いところに行こうよ」
 動物園は面白くなかったのか。そう思ったが、悪い気分ではなかった。
「よし。行こう。後で携帯で連絡しとけば大丈夫だろ」
 そういうと、沙耶ちゃんがにっこりと笑った。
 積極的な沙耶ちゃんは俺の手を引いて、噴水広場に隣接する入園門に向かった。どこに向かうのだろう、と期待に胸を膨らませていると、入園してこようとしているカップルが目に入った。
「あ」
 俺が声を上げて思わず立ち止まると、不思議そうに沙耶ちゃんが振り返った。
「どうしたの?」
「あ、いや」
 俺の視線の先を追う沙耶ちゃん。
 そこには楽しげに入園してくる男女の二人が居た。
「あれ、緑川さんだ。六郎君、知り合いなの?」
「いや、知り合いって言うわけじゃないんだけど」
 あの二人は、文化祭の校門付近で紀乃原といざこざを起こした二人である。サッカー青年と、気の強い女。
 嫌な予感がした。
「あの女の子のこと、気になるの?」
 少しすねたように沙耶ちゃんが俺を見ていた。
「そ、そんなんじゃないんだよ、いや、本当に」
「関係ないの?」
「全然!」
「本当?」
「本当だって」
 沙耶ちゃんの笑顔はなんだか曖昧だ。
「あのね、あの子、緑川芽衣ちゃんっていうんだけど、あんまりいい噂聞かないの」
 動物公園内にまぎれていく二人を遠めに見ながら沙耶ちゃんは言った。
「人の悪い噂を流したり、他人の彼氏を面白半分で奪ってみたり。なんだか男の子には人気があるみたいだけど、女の子には嫌われてるの」
 ふうん、と鼻を鳴らす俺に、沙耶ちゃんはごまかすように「ごめんね、変なこと言ったね」と舌を出した。
 それはいい。可愛いから許す、って言葉は女の子は嫌いらしいが、それでも可愛ければ許るしてしまうのが男の性だし。
 それよりも気になるのは紀乃原と、あの二人が鉢合わせになるような事態にはならないだろうか。
「あ、やっぱり気にしてる」
 沙耶ちゃんに指摘され、慌てて頭の悪い予感を振り払った。
「気にしてない気にしてない。ほら、行こうか」
 そう言って、ぽん、と沙耶ちゃんの背中を押した。
 あ、スキンシップ。沙耶ちゃんは特に嫌な顔をしていない。自然だ。男の余裕だ。
 背中のブラジャーが手に当たり、むずむずと下半身が疼いたのは秘密だ。
 
 
 
 天見の隣には押し黙って歩く麻美がいた。天見があまりにも口を利かないものだがら、麻美もどうしていいかわからなそうだ。
 気持ちが分かる。何らかの義務のようなものがあるのだ。僕が六郎や紀乃原と腐れ縁で付き合っているかのように、彼女も帰るというに言い出せず、義務のように僕と一緒に歩いている。
 足も自然と動物園の出口に向かい、今は入園口のすぐそばを当てもなく歩いていた。
 休日の動物園。人の通りは多く、夏の日差しにも負けない元気な子供たちが走り回って歓声を上げている。
 陽気な昼下がり。
 こんな休日を、コミニュケーションも図らない男と一緒にすごしても彼女にとって無駄な一日になるのは間違いない。僕のほうから帰ると言ってあげたほうが親切だろうか。
「君のこと知ってるって……」
 不意に麻美が口を開いた。遠巻きに動物ふれあい広場が望める場所に居たときだった。
 彼女の声は非常に特徴的である。ある種の嗜好者が好みそうな幼い少女のような声。天見の嗜好アンテナには引っかからないが、彼女が多くの男性をひきつける魅力を持っているのはよく理解できる。
「文化祭で、私のこと知ってるって」
「ああ……うん。知ってる」
 彼女はかすかに唇を引き締めた。
「それって……」
「セックスすると死ぬってやつ。君と関係を持った男はみんな死ぬんでしょ?」
 界隈では有名な話だった。確か紀乃原が噂していたはずだ。話した本人はすっかり忘れ去っているだろうが。
 一種の都市伝説のようなもの。事実かどうかは分からないが、お化け屋敷に入ったときは卑下な興味も乗じて、真相を聞いてみようとも思ったが、今となってはまったく興味が失せている。どうせ下らない噂の類。デマや風評に惑わされるのは愚か者の証明だ。気にしないほうが賢明。
「結構、みんな知ってるのかな?」
 麻美が細い声を出す。見ると気まずそうにうつむいている。良く六郎に指摘されるが、少しは相手の心を気遣った言葉を選ばないと、いつか自分に不幸が返ってくるらしい。何の根拠もない因果話であるが、僕だって冷血漢なわけではない。気遣いの言葉だって選んで吐ける。
「どうだろうね。一時期はみんな噂してたけど、人の噂もうんたらかんたらって言うし」
 精一杯の思いやりの言葉だと思ったが、彼女は顔を背けた。これでも駄目か。天見は多少、頭脳を回転させて、相応しそうな言葉を紡ぎ出してみる。
「みんな、噂は知ってても顔は知らないだろうし。いちいち名前だって覚えてないだろうし。ただの噂なんでしょ?」
 彼女は答えない。だめか。気分を害したみたいだ。それならそれで怒って帰ってくれればいいのに。そうしたら六郎や紀乃原にも言い訳できるし。
 そう思っていると、麻美は僕を見て笑って見せた。なんだか不自然に思えた。怒ってもいい場面だ。
「ねえ、信じる? 本当だと思う?」
「噂のこと?」
「そう。私とすると死ぬ」
「信じないよ」
 麻美の顔から笑顔が消えた。そのほうがよほど自然だ。しばらく続いた沈黙の後、おもむろに麻美は「あっち行こう」と指差した。指差した先には小動物ふれあい広場がある。ウサギや子ヤギなどと触れ合える広場である。
 仕方なくついていくと、柵で囲まれた場所にウサギが放し飼いにされている。別のエリアには犬や猫、子豚や子ヤギも居て子供達に大盛況のようだ。
 その様子を遠巻きに眺めながら、麻美は無表情で口を開く。
「ねえ、天見君て頭がいいんでしょ?」
 それにどう答えろというのだろうか。うん、頭いいよ、と頭のいい奴が答えると思っているのだろうか。
「試してみる? 私とセックスすると死ぬかどうか」
「は?」
 僕は思わず呆けてしまった。なんてことを言う女だ。
「どう? エッチしてみる? 噂は信じないんでしょ?」
「し、信じないけど、いきなりそんな」
 うろたえてしまった自分が許せない。
 彼女は近くにあったベンチに腰掛ける。
「それとも、怖い? 死んじゃうかもしれないから」
「そんなことはないよ」
 ムキになって言い返してしまった自分が情けない。
 僕は気を取り戻そうと言った。
「セックスすると死ぬなんて、そんなことある分けない。どうしてそんな噂が立ったのか知らないけど、本当に死んだ人が居るわけじゃないんだろ」
 麻美は思わせぶりに沈黙した。
 まさか、居るのだろうか。
 火のないところに煙は立たないという格言どおり……。
「行こうか」
 麻美は立ち上がると、僕の手を握った。
「い、行くってどこに」
「どこか」
 そう言って、麻美は強引に僕の手を引いた。
「ちょっと、まって。本気? え、ええ!?」
 麻美は振り返って笑みを浮かべただけだった。
 
 
 
 紀乃原は必死にしゃべっていた。必死にしゃべっては、芙由子の顔色を伺って、興味のありそうな話題を模索した。ところが必死になればなるほど、芙由子の興味は薄れていくようで、彼女にだんだん表情がなくなってくる。
 焦った紀乃原はさらにしゃべるが、すべては裏目に出た。
「ちょっと疲れちゃった」
 芙由子が漏らしたその言葉が決定的だった。
「ごめん、楽しくない?」
 腫れ物に触れるように尋ねると、芙由子は首を横に振った。
「本当にちょっと疲れちゃったの。暑いし」
「そうだよね。夏だもんね。暑いよね」
 俺はいつからこんなだらしない男になったのか。落ち込む紀乃原をよそに、芙由子は日陰を求めて一人で歩いていってしまう。従者のように後をついていく紀乃原。
 芙由子が選んだのは喫茶店のテラスだった。座ると、芙由子はほっとしたように息をついた。
 転じて、紀乃原の心は落ち込んでいった。駄目だ。どうしてもうまくできない。今すぐプレイボーイの秘伝を知りたい。どうしたら女の子の心を射止めることができるのか。
 会話もなく、二人はしばらく座り続けていた。もう紀乃原はくたくただった。復活の予兆はない。
 絶望的な気持ちで、喫茶店の前を通り過ぎていく人々を眺めていた。家族連れの幸せそうな一家。グループ交際の同年代の若者達。どうして同じようにできないのか。夢見て思い描いていたものと現実は大違いだ。
 笑い声を立てながら歩いていく子供達、カップル。
 男女二人で来ている奴がいる。楽しそうに笑いながら。恨めしそうに睨みつけていると、ふと気づく。
 歩いていくカップルに見覚えがあった。
 あれは確か……。
 思い至ったとき、悪魔の紀乃原が顔を出してきた。うまくいかない現状。すさんでくる心。
 うさばらしするには丁度良く、大義名分もある相手が目の前を通ったのだ。これは不幸の中の幸運としか言いようがない。
 俺がうまくいかないのに、他がうまくいって良い訳がない。あれほど俺に屈辱を与えた二人が、のうのうと幸せそうに笑っているなど、神が許しても俺が許さない。
 ふつふつと黒い紀乃原を育てていると、不意に芙由子が口ずさんだ。
「紀乃原君って、いい人だよね」
 驚いて芙由子を見ると、芙由子はうつむいて手元を眺めている。
「なんか、ごめんね。楽しくなかったでしょ」
「そ、そんなことない」
「ちょっと、色々あってね。落ち込んでたの」
 直前までの黒い紀乃原は早々に引っ込んでしまった。
「落ち込んでたって、なにがあったの?」
「うん、いろいろ……」
 話したくないのだろうか。
「色々って、良かったら……」
 彼女はちらりとこちらを見る。
「私、将来女優になりたいの」
 突然、夢を語り始めた芙由子。彼女の事情と関係あるのだろうか。
「だから、まず演劇の勉強をしようと思って演劇部に入ったんだ。知ってる? あの学校の演劇部って、ちょっと有名なんだよ」
 あれだけ可愛い子がそろっていれば、それは有名にもなるだろう。
「今、人気のアイドル、藤咲夢子って知ってる?」
「知ってる。そういえば、君の高校の出身だったよね」
「そう。あの子を輩出したのがあの演劇部だって言われてるんだ。だから、もしかしたらあの演劇部からまた有名人がでるかもしれない。身近に生まれたチャンスだと思った」
 紀乃原は黙って聞いていた。ところが、それ以上彼女はしゃべらなくなった。不思議に思って「どうしたの?」と尋ねると、こちらを見た芙由子ちゃんの顔を見て驚愕した。
 泣いていたのだ。
 なぜ泣いている。
 紀乃原は動揺してしまって、何のフォローも口をついて出てこない。
「ご、ごめんなさい。泣くつもりじゃ」
 一体どういうことだ。彼女はなにを悩んでるって言うんだ。
 不意によみがえる、初恋の相手。同時にオーバーラップする六郎の必死な顔。鳥肌とともに、紀乃原の内部からふつふつと何かが沸き起こる。
「なにが……」
「ごめんなさい。本当にごめんなさい」
 彼女は謝ってばかりだ。
 しばらく彼女は泣き続けていた。どうしていいか分からず悶々としたまま彼女が落ち着くのを待っていると、涙の衝動が和らいできた彼女は泣き声で言った。
「ごめんね。本当につまらないよね。せっかく遊びに来たのに」
「気にしなくていいよ。そんなの、全然。それより大丈夫?」
 彼女は首を横に振った。どういう意味だろう。
 それからしばらくして、彼女はぼそりと言った。
「帰ろう」
 俺はうなずくしかなかった。
 一体、なにがどうなったのか。分からず傷だらけになってしまったような彼女を気遣いながら動物園を出ることにした。
 彼女はハンカチを持ったまま、メガネを外して目頭を押さえ続けている。
 帰りの駅までの道すがら、会話は一切なかった。
 事情が知りたい。彼女が泣いている原因を知りたい。でも尋ねることが出来るほど、まだ親しくなれていない気がした。
 駅前まで来ると、紀乃原はようやく口を開く。
「大丈夫? ちゃんと帰れる?」
 彼女はこくりとうなずいた。ところが次には首を横に振った。
「紀乃原君……」
 そう言ったまま、再び口を閉ざす。
「どうしたの?」
「紀乃原君、迷惑じゃなかったら……」
「迷惑なんてことは何もないよ」
「本当?」
 彼女が潤んだ目で見た。ずきん、と胸が痛む。沸き起こってくるのは性欲ではない。今すぐ、彼女を抱きしめて、何も心配ないと言ってあげたい。男気スイッチがかちりと音を立てて電源が入ったのが分かった。
「時間があったら、もう少し一緒に居て」
 芙由子は消え入りそうな声で言った。
「俺でよければ、いつまでだって一緒に居るよ」
 そういうと、彼女は再び泣き始めた。


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