処女+童貞=○○の法則

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序章 《 夢想の決別と生殖本能 》


 君たちのことは大嫌いだし、僕の家族も君たちの事を煩わしく思ってる。君たちに会わなければならないと思うとうんざりするし、またいつトラブルを起こすのかと冷や冷やしてる。いい加減にしてほしいし、僕と付き合うのならもっと良識のある大人になって欲しいと思う。でも、こんなふうに思ってるくせに、それを他人に言われるとものすごく腹が立つんだ。
 この夏、そう言った天見の言葉が、なによりも印象的だった。

 


 素晴らしい快晴だった。
 青い空と遠くに聳える山脈のような純白の雲。見渡す限り全ての色彩が鮮やかに映え、空も雲も空気も宝石のように輝いているように見えた。
 思春期の青春時代を思い起こさせるような木々の緑。初恋の人を思い出すような色鮮やかな花々。
 太陽が作り出す宝石の数々に囲まれ、この素晴らしき日に俺は全てを捨て去る決心をした。
 全てを失うことになる。それはとても恐ろしいことだったし、全てを捨て去った瞬間、はたして正気を保っていることができるのか、自分自身でもまったく分からない。
 想像もつかない一寸先の未来。取り返しのつかない苦悩が襲い掛かってくるかもしれない。ひどい慟哭とともにあふれ出す絶望感に、自分の命すら投げ出してしまうかもしれない狂気をはらむ行為である。それがどれほどの苦しみを伴う常軌を逸した決断だとしても、悲痛な覚悟を持って意を決しなければならなかった。
 いま俺の周囲に取り巻く世界は、妄想や都合の良い物語ではない。紛れもなく正真正銘の現実なのである。なによりも現実を生き抜くために、俺はここに夢を捨てる。絶対に後悔などしないと誓う。いや、そうではない。決意した以上、後悔は覚悟しなければならない試練なのだ。後悔より素晴らしい希望の未来のために、俺は全てを捨て去る決心をした。
 一斗缶の中には古雑誌。何度も何度も孤独な夜を慰めてくれた百人余りの女性たちだ。いつでも同じ笑顔で迎えてくれ、いつでも都合良く現れては誘惑的な舌なめずりをする写真の中の君。
 さようなら。今日から俺は現実の女に生きる。慰めてくれた君たちに、こんな仕打ちはひどいとは思うが、こうでもしなければケジメが付けられない惨めな俺をどうぞ罵ってくれ。
 コンビニで購入したライターオイルを躊躇なく一斗缶の中の女性たちに振り掛ける。ふと気づく。エロ雑誌の中に付録として挟まれたCDROMの数々。再生する媒体を持たなかった俺は、何枚ものCDROMの中身を鑑賞せずに燃やそうとしている。いつしかPCを購入し、中にあるエロ画像の数々を干渉してやろうと夢見ていた俺。いいのか燃やしてしまって。土壇場で躊躇している自分が情けない。覚悟を決めたのではなかったか。
 俺は目を瞑って天を仰いだ。南中の太陽が瞼をオレンジ色に染めている。無数の女性たちの顔。人差し指を噛みながらM字に開脚して、どうぞいらっしゃいと準備万端でいてくれた君。恥ずかしげもなく滑々な尻を突き出して、どうぞ召し上がれと奉仕してくれた君。
 さようなら俺の青春。ようこそ現実の女たち。意を決してマッチを摺ると、一斗缶の中へ火種を投入した。

 

 干した布団に煙がかかって臭いが付いたと母親に激怒された後、煙が充満していると近所から舞い込んだ苦情の電話に対応し終えた俺は颯爽と家を出た。夏休みを直前に控えた土曜日。学校は休み。
 ところがこの日、近所の女子高は一般人に門を開いているという夢の一日の始まりであることは、周辺の高等学校では割と有名な話である。実家から程近い女子高で本日、夢の文化祭が開催され、しかも普段は遠巻きに眺めつつ爪を噛むしかなかった、女子だけが犇く禁断の花園へ入園が許される日なのだ。
 六郎たちは女子高に程近い天見の家に集合した。天見の家にはすでに紀乃原もいて、あれこれと天見に情報を吹き込んでいた。エアコンが利いて涼しい部屋で、天見の扇子で喉元を扇ぎながら話の内容を聞いた。
「お前がボトルネックであって、ポイントなんだよ」
 必死に訴えかける紀乃原こそ、俺にはボトルネックに思える。今日のために気合を入れてきた紀乃原は、髪の毛をオールバックにがっちり固めて、真っ白な下地に黒い縦縞ストライプの入ったスーツを着込み、紫色の開襟シャツで決め込んでいる。お前はチンピラか。そう突っ込みたい。ところが当のチンピラは天見の容姿を必死に批判するのである。
「シャツは外に出せ。そのビン底メガネを外せ。髪を切れ」
 天見の格好は浮浪者のそれと変わりない。クセ毛の髪は伸び放題で、前髪は鼻先まで覆い隠している。あまり身長の高くない天見は中学時代から同じ服を着ているらしく、着ている物が小さくなろうが破けようが色褪せようがまるで気にならないらしい。
 紀乃原の言った「お前はボトルネックであり、ポイント」の「ボトルネック」の部分は以上の通りだ。では「ポイント」はといえば、今から紀乃原が実践しようとしている。紀乃原がバックから整髪剤のハードムースを取り出した。嫌な予感に身じろぎする天見をよそに紀乃原は手に泡をためると、抵抗する天見を押さえつけて残バラに乱れた髪を掻き揚げてムースで固めた。次にメガネを剥ぎ取ると、何も見えなくなって不安げな声を出す天見を押さえつけて無理やり服を剥ぎ取った。性犯罪の現場のような光景の中、紀乃原は用意していた自分の洋服を、拒み続ける天見に着せた。
 天見はガリ勉を漫画に書いたような容姿をしており、印象通り非常に勤勉で成績優秀な優等生であったが、天は二分を彼に与えたのだ。天見は女の子のような端正な容姿の持ち主だった。それが「ポイント」たる所以で、今回の女子高文化祭突入作戦ではなくてはならないものだった。
「息苦しい」
 額が日光に当たることを強烈に拒む天見は、体に張り付く洋服も影響して苦しそうに喘いだ。きれいな洋服だ。センスも良い。なぜこの洋服を紀乃原は自分で着ないのか。
「お前だって女にモテたいだろ」
 俺が言うと天見は「僕は別にモテたくない」と言い放った。紀乃原が恐ろしい顔で「このままじゃお前は一生童貞だぞ」と脅したが、言った本人だって童貞だ。かくいう俺も童貞だが、こうして百人の女を捨てて現実の女に目を向けようという向上心がある。向上心と格好付けて言ってみたものの、このやる気のないガリ勉野郎の容姿に頼らなくてはならない俺と紀乃原。
「とにかく出発だ。いくぞ」
 これから決闘に向かう悲壮な決意で立ち上がった紀乃原に、俺は天見の腕を引いて立たせた。

 

 ――もし僕らの友情が続いていたら、きっと銀杏の木下でまた会おう。木の元にタイムカプセルを埋めて、お互いに将来の自分を誓い合おう。僕らがもし誓った通りの人間になれていなかったら、この友情は終わりだからな。いいな。
 幼かった俺、幼かった陽麻里は自信満々に頷いた。三人は手や洋服が汚れるのもかまわず、銀杏の木の下に掘った穴へ収めたタイムカプセルに土を被せた。
 その間、三人とも口を利かなかったのはそれぞれ純朴な思いがあったからだ。将来の自分に疑いはなかったし、不安もなかった。
 夢は見れば叶うものだったし、選択すれば手に入るものだと信じていた。また、信じるという行為自体がとても軽んじられ、それがいかに重く難しく、とてつもない労力が必要なことなのかも判っていなかった。
 それで良かったのか悪かったのか。微笑めば良かったのか、しかめっ面をすれば良かったのか、何もかも無知で幼稚だった。
 誓いは胸を膨らませた。期待感が全身に満ちて心地良かった。思ったとおりの将来になれていなかったら友情は終わり。
 もちろん、終わるわけがないと信じきっていた。

 

 緑川芽衣のクラスの催し物は喫茶店だった。文化祭の催しとしては当たり前過ぎる気がして気が進まなかった芽衣だったが、みんなの作った店員の制服が、なかなかどうして可愛く仕上がって、現金主義よろしくやる気が漲ってきたのだった。
 ロッカールームでウェイトレスの制服に袖を通すと、とても気分が高揚した。人前に出たい。可愛い制服を披露したい。そんな欲求に突き動かされるまま、意気揚々とロッカールームを飛び出した。
 クラスの大半の生徒は、それぞれの加入している部活動の催し物、あるいはサボりでいなくなっているので、教室に残っている女生徒は十名ほどだった。十名で教室一個分の喫茶店の営業は余裕過ぎるほどで、ほとんどの生徒は暇をもてあまし、衝立を隔てただけの控え室で雑談していた。
 喫茶メニューは質素で、飲み物はインスタントコーヒーとホットとわずかなスナック菓子が数種類しかないが、出店をしている文化部から焼きそばやたこ焼きを持ち込んでも良いことになっている。メニューはいずれも100円均一である。儲けは出ないが、それが目的ではない。何が目的って――なんだろう。なにか目的を持って喫茶店を考え出したのだろうか。
 我が高の文化祭は毎年沢山の来客でごった煮返す。少しは憩いの場を提供して、休憩場所くらいのものがあってもいいのではないかという発想で出来上がった喫茶店。特に目立とうとか、一番になろうとか、そういうのでは決してない。サポート的、脇役的、そんな感じ。
 楽しかったのは教室を喫茶店風に改装、装飾する準備段階で、たくさんの夢を抱かせてくれた。将来、自分でお店を持って、誰からも愛される可愛らしい雰囲気の店を作れたら。そんな夢を馳せながらみんなで創意工夫して、教室だとは思えないような素敵な喫茶店を作り上げた。
 期待と不安を胸にいざ開店してみれば、最初のお客さんは髪の毛を銀色や金色に染め上げている下品な男の人たちの集団で、私たちはただひたすら怯えておどおどする始末だったが、女の子が接客に訪れると、若い男の人の集団は緊張しているのか紛らわすように大声で笑ったり、つまらない冗談を口にしていた。
 次に訪れたのも男の人の集団で、いったいどんな店と勘違いしたのだろうか、顔も髪の毛も脂ぎった、紙袋を抱えた集団だった。私が注文を聞きに行くと「可愛いね。それってキューティー・ハニー意識?」などと聞いてきては下品に笑う。
 開店二十分で店内はむさくるしい男だらけになった。どいつもこいつも人の名前を聞いてきたり、つまらない冗談を言ってきたりするので、午前中の営業は愛想笑いですっかりと体力を喪失してしまった。
 お昼になって交代になると、私は友達と他のイベントを見物しに行った。
「脱がないの? それ」
 春枝に指摘されたが「何が?」ととぼけた。
「着替えてないの、あんただけだよ」
 やっぱり、何が? ととぼけて見せた。
「その姿で先輩のところに行くの?」
 春枝の指摘。その先に何をいいたいのか私には分かっている。
「また他の女子に嫌われるよ」
「別にいいもん」
 廊下を歩くと、他校の男子生徒たちが私を目で追っているのがわかる。かわゆいでしょ、この制服。そう思いながらも、気にしてないふうを装って歩いていく。目的地は校庭。お昼から他校の男子サッカー部が、我が校の女子サッカー部と招待試合を行うのだ。
 校内は賑わっていた。大人の姿や子供の姿も多いが、やはり他校の男子生徒の数が多い。ガールフレンドを探しに来ているとしたら浅はかはなはだしいが、女生徒だっていい男がいれば悪い顔はしないだろう。
 校舎を出て渡り廊下を通る。文化部が使用している新校舎に入ると、旧校舎とは一味違う雰囲気をかもし出している。科学部は実験で作った鼈甲飴だの発酵食品だのを無料で配り、文学部は午前と午後の二部構成で、ミステリーの演劇を行っているらしい。十八番を奪われた演劇部は、何を考えているのかお化け屋敷を開催し、なぜかそこは大盛況だ。
 実は演劇部、この学園の名物で入部する女生徒は多い。しかも美人ぞろい。この学園の演劇部から三年前、超人気アイドルが誕生したことを端に発するが、学校側が近いうちに演劇部を規模拡大して、我が校から女優でも輩出しようと目論んでいると噂されているほど、演劇部を目的に入学してくる人間もいるというのだ。
 男たちがわんさかと列を成している。ふと入り口で受付をしている女生徒二人と目が会った。女生徒二人はいぶかしげに私を睨むと肩を突き合って噂した。
「また嫌われた」
 春枝がぼそりと言った。
「だから、そんな目立つ格好でいたら顰蹙買うって言ったじゃない」
「別に気にしないもん」
「自分が可愛いと思って鼻にかけてるでしょ」
 春枝がそう言った。私は驚いて春枝を見ると、春枝は可笑しそうに肩を揺すっている。信じられない思いで春枝を睨みつけていると「冗談だって」と春枝は私の肩を叩いた。

 

 ガールフレンド探しに出かけた思春期のもてない三人組が、のこのことチャリンコでやってきたのは私立の名門女子高だった。立派な構えの正門に装飾されたアーチを越え、甘酸っぱい期待と鼓動を感じながら華やかな女子高生たちに迎え入れられたときは、きっと助平な笑みを浮かべていたに違いない。
「お前の友達がいるんだろ。とりあえず、その子に女友達紹介してもらおうぜ」
 そう言ったのは紀乃原で、彼の言っている女友達とは、俺が小学生のときに仲の良かった陽真里のことだった。
「あいつとは小学三年の時だけ仲が良かっただけだよ。小学四年のときに転校してからそれっきりだし」
「大丈夫だって。なんだよ、意気地がねえな」
 紀乃原が俺の感情を逆撫でした。腹を立てた俺は、絶対に陽真里のところへは行かないと決めた。会いに行ったところで今の陽真里の顔が分かるとも思えない。可愛くなったのだろうか。ふと考え、感傷に浸った。
 紀乃原以外にもう一人、俺たちと一緒にやって来た男がいる。一見、中肉中背のガリ勉メガネの冴えなそうな男に見えるが、髪の毛を掻き揚げてメガネを取ればなかなか色男である。俺も紀乃原も、この隠れ美男子が今回の名門女子高で核になる存在だと踏んでいた。ガリ勉タイプよろしく、恐ろしいほど勉強ができて非常に頭の回転も良い。しかも陰湿で暗い第一印象からは想像もできないほどスポーツ万能である。心がないのではないかと思うほど冷酷な毒舌を撒き散らすときもあるが、そんなものは口を閉ざしている限り知られることはない。
 大丈夫だ、俺たちには天見がいる。こいつを出汁に使えば可憐で清楚な女子高生とは言わないまでも、もしかしたら童貞を終わらせてくれる物好きがゲットできるかもしれない。

 

 校門を入ってアプローチを歩いていくと、可憐な女子高生たちに笑顔で出迎えられ、愛らしい声で焼きそばやタコ焼きを勧められる。昼時なので盛況しているようだ。デレデレ顔の男たちが気前のいいところを見せようと、タコ焼きや焼きそばを購入している横で例に漏れず、俺たちも焼きそばとタコ焼きを購入した。
 特に食べたくもない焼きそばとタコ焼きを抱えて、どこで食べようかとさまよった。
「食うために来たんじゃねえ」
 紀乃原が言ったが、彼も女子高生の甲高い声と弾ける笑顔には勝てなかった同じ穴のムジナだ。
「売ってるくせに、食う場所がねえ」
 紀乃原の愚痴に、天見が「あれ」と指差した。校舎一階に喫茶店があった。喫茶店の前まで行くと、張り紙に持ち込みOKとなっていたので恐る恐る入っていった。
 喫茶店の内装は、目が痛くなるほどの原色の紙で壁を埋め尽くし、縫いぐるみや手作りのキャラクターが天井に吊るされている。お世辞にもセンスが良いとは言えず、まるで人形の処刑場のようだ。
 普段は教室であろう店内に入ると、迎えてくれるはずの女子高生はいない。勝手に入っていいものかどうか迷いながら入っていくと、机を四つ並べてクロスを被せただけのテーブルに腰掛ける。腰掛けた椅子は見慣れたパイプ椅子だが、普段女子高生が尻を置いている椅子だと思うと密かに胸が高鳴った。
 店内には客がいる。物騒そうな男たちが四人。どんな奴らか簡単に説明すると、紀乃原が四人いると思えばいい。
 俺たちはひとつのテーブルに腰掛ける。注文を聞きにくる女子高生はいない。見れば、よその物騒な連中と楽しげに話し込んでいるウエイトレスの女の子がいるが、こちらに気づく様子もなく会話に花を咲かせ続けている。
「無視されてるね、完璧に」
 天見がつまらなそうに呟いた。
「いいよ。居ても文句がないなら、ここでさっさと食ってどっか行こうよ」
 俺が言うと、紀乃原がおっかない顔をして物騒な連中を藪睨みしていたので、喧嘩など起こしては堪らんと慌てて紀乃原を嗜めた。
「見るなよ。頼むから喧嘩するなよな」
 紀乃原は憮然と「しねえよ」と言ったが、全く信用ならない。早々に飯を食って喫茶店を出ると校内をうろついた。クラスで共同制作した絵画の展示会、クラスで作った大鍋料理を小皿に盛って配ってる場所もあれば、お菓子を売ってる場所もある。
「つまらねえな」
 一時間ほどして、紀乃原がぼそりと呟いた。
「だから言ったじゃん。こんなところ来たって何もないって。変な希望を持つなよ」
 天見の言葉に紀乃原が眉間を顰める。いけない兆候だ。女の子たちの相手にされない紀乃原は、徐々に心を荒めていく。そのうち鋭い眼光で殺気を周囲に散布し始めると、餌に引っかかった獲物を影に引きずり込んで……という事態になりかねない。
 文化祭にやってきて、三十分ほどで俺たちは悟ったのだ。確かに他校の男子生徒と楽しげに会話したり、一緒に行動したりする女子生徒はたくさん見かけた。ただし、それは以前からの知り合いや友達、恋人同士だったりするのだ。やってくる前から行動を共にする女の子が居るやつらだけ、ここに来て楽しい思いをできる。コネもツテなく、積極的に女の子に声をかけらなれない俺たちなど、期待するだけ虚しい存在なのだ。荒んだ紀乃原が、関係のない来場客にいつ喧嘩を吹っかけるか分からない。
「まだ、お前の幼馴染が居る」
 紀乃原が恐ろしい顔を俺に向けた。
「だから何年も会ってないんだよ。探すのは勝手だけど絶対に見つけられないと思うよ」
「どこかその辺に入って、誰かにそいつのことを聞こう。名前はなんていうんだ?」
「名前? 陽麻里だよ。苗字は忘れた」
「よし、行くぞ」
 天見の容姿もまるで役に立たなかった。なんだかひどく惨めな気がして早く帰りたかったが、前方にはチンピラのように肩で風を切って歩いていく紀乃原。こっそり天見が俺に尋ねてきた。
「その陽麻里って子、どんな関係なの?」
 珍しく興味を引かれたのか、天見は近視の目を細めながらこちらを見ている。
「昔……小学校の三年生くらいだっけな。その頃の友達だよ」
「どうして今では友達じゃないの? もしかして彼女が転校したとか」
「そう。転校って言うより留学かな。海外に行ったんだ。オーストラリアに」
 天見はあご先に人差し指を当てて、何かを考えるしぐさをした。
「どうした?」
「いや、なんか名前に聴き覚えがあるんだよ。珍しい名前だからさ。何だっけな。苗字は分からないの?」
「なんだったっけな? 覚えてないんだよ」
「う〜ん」
 天見は思い悩んで口を開かなくなった。いつの間にか立ち止まっていた紀乃原の背中に当たりそうになった。見ると、まるで口から何かを生み出そうとしているかのように呆然としている。
「どうしたんだよ」
「あれ見ろ!」
 大きな声を出して紀乃原が指差したのは、きれいな新築校舎の廊下に出来た行列だった。並んでいるのは同年代の男ばかりのようである。
「何だよ。行列が何だよ」
「違う! 受付をしている女の子だ!」
 行列の先頭で来客に名前を書かせている女の子が二人見えた。
「知り合い?」
「可愛い……」
 紀乃原の呟いた言葉。まるで少女が愛らしい小動物を発見したかのような瞳。俺は鳥肌を立てた。
「いくぞ」
 陽麻里を探す目的はどこへやら、紀乃原は列の最後尾に並んで苛立たしそうに体を揺すりはじめた。後に続いた俺と天見は肩を竦めた。でも紀乃原の言うとおり、受付に立っている二人の女の子は二人とも可愛らしかった。
「何の行列だろう」
 俺の疑問に「お化け屋敷みたい」と天見が答えた。
「しかも女の子とペアで中に入れるらしいよ」
 紀乃原が全身からエナジーを発するように振り替えると、天見の両肩を掴んで揺すった。
「本当か? どうして分かった?」
「どうしてって」
 立ち眩みを起こした天見が指差したのは壁に張り出された宣伝広告。
 ――女の子と手を繋いで肝試しはいかが?
 それを見た瞬間、天見の肩を掴んだまま紀乃原が硬直した。そのうち我に返った紀乃原が雄叫びを上げる前に、俺はすかさず言った。
「どうだか信用ならないんじゃないか?」
 目を回している天見が「でも、ほら」と別の方向を指差す。行列の向こう側に、肝試しを終えて出てきた男たちがいる。その恍惚とした表情から察するに、宣伝文句は真実らしいことが頭脳明晰な天見でなくても分かった。
「なんか変だろ。ここは学校だぞ。手を繋ぐだけだって、ちょっと胡散臭くないか?」
「何を疑う必要がある!?」
「い、いや」
 紀乃原の迫力に気おされて、それ以上何も言えない。
 だが、俺だって気乗りしないわけではない。お化け屋敷にかわいらしい女の子と手を繋いで入る。これは夜な夜な想像を繰り返す夢のひとつに他ならない。
「僕はいいから、二人で行っておいでよ」
 天見がつまらないことを言った。当然、俺と紀乃原が許すわけはない。俺たちは焦れながら順番を待った。いよいよ次に俺たちの順番になったとき、石化の魔法を掛けられたかのような紀乃原が黙って、受付の女の子の前に立った。まるで機械仕掛けのような声を出す。
「こ、ここは誰と入るかは、え、選べるのかな?」
 受付の女の子はお互いを見合った。一人の子が戸惑いがちに「希望があれば」と言うと、紀乃原は石でも飲み込んだように喉仏を鳴らすと、震える手で受付の女の子を指差した。
 メガネを掛けた優等生風の女の子だった。可愛らしいが、一番特徴的なのはその肌で、透き通るような肌とは彼女のための言葉だろうと思った。
「風俗か、ここは」
 天見の呟きは紀乃原には届かない。メガネの女の子は困ったように隣の子を見たが、隣の子は「分かりました」と無理矢理メガネの女の子を立たせた。
「でも、私……」
「ここは私一人で大丈夫だから」
 そう言って背中を押すと「どうぞー」とお化け屋敷内に促した。何だかロマンスの予感。この文化祭に来てようやく女の子との接触。
 次は俺の番だ。受付の女の子は含み笑いを浮かべ「ご希望がありますか?」と尋ねられた。俺は「別に」と答えたが、中に入ってそれが幸運だったことを知った。
 俺のペアになってくれる女の子が、室内に入ったところで笑顔で出迎えてくれた。「ようこそー」と弾けるような声を聞く限り、おおよそお化け屋敷に入るような心境ではない。
「か、可愛いね」
 俺は開口一番そう言った。言葉に窮した俺が苦し紛れに吐いた言葉だったが、素直な言葉だったことには間違いない。
「本当?」
 彼女が嬉しそうに笑って見せた。事実、可愛いのだ。何たること。受付の二人といい、目の前の女の子といい。どうしてこんな可愛い子ばかりなのだろうか。
「さ、いきましょ」
 そう言って彼女は手を差し出してきた。いいのだろうか。俺は差し出された手を握ると、その手を引かれお化け屋敷に入った。暗幕をくぐると、ほぼ闇一色だった。
「ああ、怖い。実際入るの初めてなの」
 女の子の声が聞こえた。冷たくて柔らかい手。でも暗くて良かった。硬くなった下半身は、お化け屋敷を出るまでに緊張を解かないとならないなと焦った。
 数々の写真の中の君。やはり君たちより、現実の柔らかい手のほうが良い。
「どうしてこのお化け屋敷をやってるの?」
 尋ねると「どうしてって?」と尋ね返される。
「何かの部活?」
「うん。演劇部なんだ」
「演劇部なのにお化け屋敷なの?」
 そう言うと彼女はころころと笑った。
「そういう意味か。実はね、お化け屋敷の出口でチケット渡してるの。私たち夏休みに公民会館で舞台をやるの。お化け屋敷はそっちのほうのお客さんを集めるのが目的なんだよ」
 やけに素直にネタばらしをするな、と少々勘ぐった。少々幸運な状況を疑いたくなったのだ。マイナスに考えてはいけない。この卑屈さが、今までの数々のロマンスを取りこぼしてきた事実は否めないのだ。
 お化け屋敷の癖に、お化けが出てこないなと思っていると、彼女が暗闇の中で突然手を引いた。
「最初はこっち。箱の中に入るの」
 暗くて見えないが、恐らくダンボールか何かで作った二人が入っていっぱいの箱の中に入った。距離が近くなる。動悸がした。なんという素敵なイベントなのか。股間がズボンを貫く勢いで突起するので必死に腰を引いた。オナニー禁止からまだ半日しか経って居ないのに。
「しい。声を出さないでね」
 何が起こるのか、分からないがとても興奮的な密室の中、俺の手は彼女の乳を揉みたいと汗を滲ませるが、理性と忍耐で必死に堪える。
「なんだよ。どうなるんだよ」
「ほら、きたよ。ここ覗いてみて」
 彼女が俺の手を誘導して、箱にあいた穴を覗けと促してくる。覗いてみると、暗闇に誰かの気配。後から来た天見たちだ。
「このお化け屋敷はね、交互になってて、先に入った人が脅かし役になって、後に入ってきた人が脅かされ役になるの。ね、面白いでしょ」
 俺たちはこっそりと密室の箱を出ると、天見の後をつけた。天見とペアの女の子は立ち止まっていた。暗闇の中、出口が見つからないようだ。
「せーので後ろから驚かそう」
 ひどく興奮的だ。暗闇、彼女の手の感触、理性が薄れる。
 俺と彼女は腰を低くして近づいていくと、二人の会話が聞こえてきた。
「君のこと、知ってるよ」
 天見の声だ。
「名前聞いて、思い出した。君、噂されてるよね」
「噂って?」
 女の子の声も聞こえてきた。子供っぽい、可愛らしい声。
「だから、君とさ、アレをすると――」
「わっ!!」
 突然、俺とペアになっていた女の子が大声を上げた。すると、女の子のほうが縮み上がって、ひどい悲鳴を上げた。ところが天見はまったく無反応で、ぼんやりと俺を見ていた。
 俺とペアの女の子が懐中電灯をつけると「びっくりした?」と悪戯そうな笑みを浮かべて尋ねている。
 冗談ではなさそうな天見のペアの女の子は、心臓あたりを押さえて、目をむいて息をついている。
「ごめーん、そんなに驚くと思わなくって」
 それより、俺は彼女と手が離れてしまったことが悲しかった。俺の悲しみよそに、天見が呆れたようにため息をつく。
「こういう仕掛けか。先に来た人が後から来た人を脅かすシステム。まあ、文化祭のエンターテイメントとしてはましなほうかな」
「何をかっこつけてんだよ。本当は驚いたくせに」
「あれ? 知り合いなの?」
 俺のペアの女の子が不思議そうに尋ねてきた。
「友達だよ。俺たちより先に入ったもう一人も友達」
 ということは、紀乃原は脅される役だったことになる。暴力事件にはなってないだろうな、と心配になった。
「へえ、じゃ、友達待ってるから早く行こうか」
 ああ、終わる。先に入っていった見ず知らずの男たちの気持ちが分かる。
 どうせ束の間の夢物語。だとしても、それなりに満足だった。
 四人がそろってお化け屋敷を出ると、外で待っていた紀乃原がめがねの女の子となにやら会話している。
「僕は隣の高校の生徒で、ほら、よく勘違いされるけど、本当は純粋なんだよ」
 紀乃原は必死に自分をアピールしていた。珍しい光景に一瞬見とれたが、困ったように周囲を覗うメガネの女の子を見る限り、脈はなさそうだった。
「そろそろ帰ろうよ」
 天見が六郎に耳打ちをした。
 ううん、と悩んでから、六郎は天見に相談した。
「なあ、なんで紀乃原はあんなにあの子を気に入ったのかな」
「何でって、紀乃原が性欲の権化だからだろ」
「でも、なんかなあ」
 天見が不思議そうに六郎を見る。
「何でそんなこと気になるの?」
「なんとなく、似てるかなって」
「誰に?」
「いや……」
 六郎は言葉を濁す。似てるからって、それが悪いわけではない。
 六郎はペアになった女の子に聞いた。
「ねえ、あのメガネの子と友達なの?」
「芙由子のこと?」
「メガネの子」
「うん、まあね。同じクラブだし」
 紀乃原を見る。女の子を口説くなんて慣れていないのに必死な様子。女の子は逃げ出すことも出来ず、困って周囲に助けを求めるように視線を送っている。脈はない。絶対ないけど……。
「あの子をちゃんと紹介してくれない? いや、下心があったりするわけじゃ」
 彼女がじっと俺を見た。探るような目に思わずたじろぐ。
「私の名前は聞いてくれないの?」
 俺はわけも分からずに「ごめん」と謝ると、改めて「お名前は?」と尋ねた。
「咲本沙耶です」
 と、なぜか丁重にお辞儀されたので、俺も丁重に頭を下げる。
「いいよ。紹介してあげる。ねえ、じゃあ電話番号交換しようか。今度、一緒に遊ぼうよ」
 おお。
 何だこの展開は。
 信じられない思いで天見を見ると、彼はつまらなそうにあくびをして伸びをしていた。
 改めて咲本沙耶を見ると、彼女の可愛らしさを思い知った。マッシュルームカットの、童顔の女の子。やせがたなのに胸が大きく、身長も低い。これはまさか、二次元の世界から飛び出てきた理想的な……。
 一体どういうことだ、この下腹部から逆流する血は。
 煙や灰になって空高く舞い上がった、写真の中の君。
 さようなら。尽くしてくれた君たちのことは決して忘れはしない。そう、きっと後悔などしない。

 

 サッカーの招待試合に赴いた緑川芽衣は、観客の多さに驚いた。それもそのはず、超高校生級のサッカー青年が訪れているのだから。
「いいなあ。私もアルバイトしようかな」
 春枝は甘い甘いケーキが置かれた商品棚を見る子供のように呟いた。
 春枝がうらやましがるのも無理はない。私がアルバイトで働いている花屋さんに、超高校生級のサッカー選手である朝倉裕樹君が週に一度訪れるのだ。その兼ね合いで会話するようになり、顔見知りになったのだった。
 朝倉祐樹君はテレビにも時々出演する将来を期待されたサッカー青年で、美男子の癖にそれを鼻にかけないとてもいい人なのだ。しかもシャイで、花屋で私が声をかけるたびに恥ずかしそうにほほを赤らめるのである。
 歓声を上げる女生徒の中で、私は澄まして立っていた。みんなと同じように騒ぎ立てては、目立たないのは目に見えている。可愛らしいウエイトレスの制服で塩らしく立っていたら、きっと朝倉君は私に気づくはずだ。そう信じて疑っていなかった。
 実は、朝倉君は私がこの高校の生徒だと知らないで居る。そこで偶然を装って近づけば、それだけ驚きと偶然に満ちた印象的な再会になるはず。
 ところが思惑はそうそう思い通りにはいかない。試合終了後、仮設されたサッカー部の控え室に引き上げた男子サッカー部員たち。表には女子高生たちが朝倉裕樹の登場を待ちわびて群衆化している。
 これでは再会どころではない。
 しかも、しばらくして誰だかわからないサッカー部員の男子生徒が一人、控え室から出てくると、メガホン片手に「朝倉は帰りましたー。すみませーん」と報告しているではないか。
 がっくりと肩を落としている横で、春枝がうれしそうに「まあ、こういう日もあるさ」と私の肩をたたいた。私が恨めしそうににらみつけると、へこたれない春枝は「今度、そのアルバイト、私にも紹介してよ」と本気で言った。

 

 まるで美少女ばかり出てくる少年漫画のような展開だ。そう思っていた六郎は、まるで宙に浮いたかのような笑顔を浮かべていると、天見に「鼻の穴が広がってるよ」と指摘された。
 かまうものか。やはり若者には平等に青い春が用意されているものなのだ。
「電話番号をばっちり聞いたぜ。その場で俺の携帯から電話したから絶対に本物だ」
「六助……」
 恩人を見るような目を向ける紀乃原。
 帰ろうと、校内を歩いているところだった。
 紀乃原が俺の手を硬く握ると「ありがとう。お前はやっぱり親友だ」と肩の関節が抜けるほど揺すった。
「もういいから、家に帰って涼しい部屋でゆっくりしようよ」
 天見だけ、やはり釈然としない。
 そのときだった。ある種、気味の悪いにやけ笑いを浮かべていた紀乃原の背後から誰かがタックルして来た。紀乃原の体で、地面に大の字ができあがった。
 あ。
 瞬間湯沸かし器のスイッチを押した。体当たりしてきたのは同年代の男で、どうやら急いでいたらしい。余所見でもしながら走ってきたのだろう。慌てて立ち止まる。
「すっ、すみません! 大丈夫ですか?」
 紀乃原はつっぺしたまま動かない。六郎と天見は硬直して、動けないで居た。
「あ、あれ? 動かない……。大丈夫ですか?」
 男は慌てたふうに、六郎や天見の顔色を伺う。
 このくらいで気を失ったりする男ではない。きっと、足元からぐつぐつと気泡が沸き起こっているはず。
 六郎は鬼を起こさないように慎重に言った。
「いや、気にしてないから、早く逃げたほうが……」
「え? 逃げる?」
 紀乃原がゆっくりと体を起こした。まるで、噴火する直前の火山の頭頂部が、こんもりと膨らんだかのようだ。
 巻き込まれてはたまらんと天見が一歩、二歩と後ずさりする。
 次の瞬間、地球にはじかれたように立ち上がった紀乃原を、六郎は同時に押さえつけた。抜群のタイミングで胴体に腕を回し、タックルしてきた男に突進しようとする紀乃原を抑えつけた。
 愕然とするタックルした男。
「そ、そんなに怒らなくても」
 よく見ると、サッカーのユニホームを身にまとっている。サッカーシューズのままバックを抱えているところを見ると、よほど急いでいたのだろう。
「うう、押さえ切れない。天見、手伝えよ」
「やだよ」
 あっさりと断る天見。このやろう。
 すると、突然もう一人の登場人物が現れる。どこから現れたのか、サッカー青年の前に立ちはだかった女が居た。
「なにやってるの!」
 開口一番、敵意をむき出してきたのはこの学校の女生徒のようだが、妙な格好をしている。
 そうだ、最初に入ったあの喫茶店のウエイトレスの制服だ。
 彼女は、まるでサッカー青年を守るように立ちはだかって両腕を広げた。
「この人に手出ししないでよ」
「ああ? こら、誰にものをーー」
 紀乃原は胴体に巻きついた六郎の腕を必死に振り解こうとする。
「君は……」
 サッカー青年がウエイトレスを見て、目を丸くする。
「花屋の……」
「こんにちは」
「ああ、こんにちは。この学校だったんだ」
「うん」
 修羅場なのに。
 修羅場なのに、なんでこいつらは挨拶してるんだ。
 ためしに、この手を離してみようか、などと黒い六郎が顔を出したが、さらに黒い六郎が、その後の惨事は身を滅ぼすぞ、と助言する。
「この人はね、将来有望なサッカー選手なのよ! あんたみたいな下品な不良とは違うのよ。ほら、行って朝倉君!」
 下品な不良呼ばわりされた紀乃原は呻き声を上げながら顔を真っ赤にした。何もそんな言い方をしなくてもいいのに。文句のひとつも言いたかったが、今は紀乃原をいさめるのが先決だ。
「このくそ女が! お兄さんは極上におっかない人なんだぞ!」
「なにがおっかない人よ。こんなところに彼女でも探しにきた馬鹿でしょ。気持ち悪い。夢の時間は終わり。私たちに関らないでよ。さっさと出て行って」
「なにをー!」
 紀乃原の剛速球を臆することもなく打ち返す女。
 その台詞はさすがに俺も腹を立てた。紀乃原を止めているのが馬鹿馬鹿しくなる。
 すると、雰囲気を悟った天見が出てきた。
「まだ校内だから問題起こすと大事になるよ。僕、この女の人を知ってるから、復讐したかったら日を改めたほうがいいと思うな」
 心を持たない天見は、普段、人を思いやらない言葉を吐き続けるが、いざ事態の収拾に頭を働かせると、相手の性質を考えた上手なものの言い方をする。
 何だかんだ言って、天見を一目置いている紀乃原は、天見の説得を聞いて、徐々に落ち着いてくる。
 どうにか収まるか、と思いきや。
「もう行こ、朝倉君。馬鹿がうつっちゃうよ」
「ぬわんだとぉ!」
 収まりかけた紀乃原に、女は再び火を点した。
「馬鹿がうつるかどうか、試してやろうか! ためしに犯してやるぞ!」
 さらに強い力で俺の腕を振り解こうとする紀乃原。非常に腕が痛い。もういいや、この女むかつくし。手を離しちゃえ。そう思って手を緩めたとき、天見がすかさず言った。
「問題起こしたらあの子に嫌われるよ」
 紀乃原の動きが停止した。
 燃え盛っていた炎が、そのままの形で凍りついたようだった。
 高温を一瞬にして氷点下にするとは。
 目の前の女は、朝倉の手を握ると、目の前から居なくなっていった。
「耐えろ、紀乃原。さわやかな青春だ。喧嘩ばかりして、どろどろと暗い青春を過ごすつもりか」
 六郎には人を説得する言葉は持っていないらしく、紀乃原は乱暴に六郎の手を振り解くと「わかったよ」と気を静めた。
 やれやれと、六郎は汗のたまった額をぬぐった。

 

 朝倉君はしきりに背後を振り返っていた。
「とんだ災難だったね、朝倉君。あんなやつらに絡まれて」
「あ、いや、もとはといえば俺が悪いんだし」
「朝倉君は何も悪くないよ。あの顔みたでしょ。きっと朝倉君のこと妬んでたんだよ」
「妬んでた?」
「そうだよ。有名人だもん、朝倉君」
 私は腹を立てながらも、反面、こうして朝倉君と一緒に歩いている事実を再確認した。そう悪い出来事ではなかった。こうやって再び朝倉君と会話するチャンスを得て、しかも朝倉君の高感度をアップしたのだ。
 同年代の男の子は、強く母性的な女性に憧れたりするもの。
「でも、なんだい、その格好」
「格好?」
 私は自分の格好を見た。
「あ、ウェイトレスのままだった」
 私は顔が熱くなって、じんわりと汗を掻いた。校内では良いが、これで校外に出るのはさすがに抵抗がある。
 朝倉君に恥をかかせたら。そう思うと口が利けなくなった。
「可愛いね。喫茶店の出し物でもやってたの?」
 ああ、やっぱり優しい。しかも可愛いなんて。可愛いとか、きれいだとか、いつもはいやだけど、時々は言われたい。
「ごめん、もう大丈夫だから。学校に戻らないとだよね」
「大丈夫。駅まで送るよ」
「学校は大丈夫なの?」
「大丈夫。もう仕事は終わったし」
 帰りは駅から学校まで、一人でこの格好で帰らなければならない。そう思うと恥ずかしいが、朝倉君とたくさんの時間を過ごすための代償だと思えばなんてことはない。
「そういえば、君は名前はなんていうの? 緑川さんだよね。下の名前は?」
「芽衣です。緑川芽衣」
「芽衣ちゃんか。さっきはありがとう。急いでたんだ。人に見つかると、なんていうか、いろんな子が集まってきて迷惑かけちゃうから」
「有名人だもんね。仕方ないよ」
 くすり、と朝倉君が笑った。
「ねえ、芽衣ちゃん」
 朝倉君が少し前を歩いて、顔をこちらに向けた。
「今度、どうかな、一緒に遊びに行かない?」
「私と……?」
 なんか積極的だな、朝倉君。私から誘うと思ったのに。でも積極的な朝倉君も、なんかいい感じ。
 私はじれったそうに顔を伏せてみた。嫌よ嫌よも良いの内。それは半分正解の格言。
「嫌?」
「ううん、いく。電話してくれる?」
「いいよ。携帯電話持ってる?」
 もっているが、学校においてきてしまった。私は朝倉君の携帯電話を受け取ると、自分の番号を自分で登録した。
「絶対電話するよ。それと、また花屋さんにも行くから」
 駅前で朝倉君と別れた。
 朝倉君が見えなくなってから、私はふうと息をつく。
 なにか仕事をやり遂げたような達成感があった。
「よし、春枝に自慢してやろう」
 私は早足に学校に戻り始めた。

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