あっちから変なの出てきた

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第九章 【 現世−千年前の真実 】


「コートは身支度を調え、その夜のうちに天空の宮を後にしました」
 そこまで一気に話し終えると、琴はひどく口が渇いていることに気付き、お茶を一口飲んだ。
「緑目の魔物、眠れる美女。この言葉は初耳だが、まだ私の話との乖離はないが?」
「まだ話は続きます。天空の宮を離れたコートは、道を急ぐためにさまざまな手段を講じました。トレチャークと違い、考えうる最短ルートにて宋に向かったんです。それは危険な道のりでしたが、機転の利くトレチャークは、明晰な頭脳で数々の難所を切り抜けていきました。エレーナに追いつくまで二年かかったトレチャークと違い、コートはたった百日間で宋にたどり着きます。それも薬もチャクラも使わず、ただの人間として」
 伊集院照子はもう茶々を入れてこない。黙って話を促す。
「宋にたどり着いたコートが、さらにうわさを頼りにトレチャークにたどり着くまで、さらに三十日……」
 
 
 
 ここまで、人生の半分の年月がかかった気がした。
 天空の宮を出てから、数々の国の越境を果たし、ようやくトレチャークの元へたどり着くまでに体重は半減し、ほとんど生きているか死んでいるか分からない状況だった。
 肉体的にも、精神的にも。
 宋の国内でも眠れる美女を連れた魔物の噂はどこででも耳にすることができた。その足取りが、徐々に西――天空の宮のある方向――へ向かっているのも分かった。
 トレチャークは帰ろうとしている。
 あの穏やかな毎日に。
 気苦労があったとしても、前向きに生きれたあの暮らしに。
 宋の西端の国境に程近い、成都府の原生林が広範囲に生い茂る奥まった渓谷。数々の湖が点在し、いくつもの山が連なる山間部。
 たどり着いたとき、コートの目に映ったのはこの世のものとは思えない、美しい風景だった。
 湖は空の青を映し出し、水底に宝石をちりばめているのではないかと思われるほどの紺碧が広がっていた。
 鏡のように磨かれた水面に、大空や新緑の緑、連なる山々が反映し、そこには地面という概念すら存在しない神秘的な情景が広がっている。
 コートがエレーナを見つけたのは、その湖畔。
 天然の洞窟の入り口に、毛皮に包まれたエレーナが横たわっていた。
「おおお……」
 声にならない声がのどから漏れた。
 すでに老人のようにしわがれた声は言葉を発することも敵わず、痩せ細った身体は彼女の元まで駆け寄っていく気力もない。
 這うようにして、湖畔に横たわるエレーナの元まで向かう。
 徐々に近づいていくエレーナ。
 不意に、これまでの天空の宮での暮らしが蘇り、コートは胸が苦しくなって涙を流した。
 子供たちと戯れるエレーナ。
 ターラー菩薩になぞえられ、美しく描かれたエレーナ。
 声をかけると、愛らしく笑うエレーナ。
 会いたかった。
 君がいなくなってから、どれほど君に会いたいと思ったか。
 エレーナまであと数メートル。
 そのときだった。
 背後から、身の毛のよだつような豪気を感じ、ぞっとして振り返った。
 そこには全身から棘を発するかのようにたたずむ一人の男。
 その要望は、まさに魔物。
「……トレチャーク……、なんという様だ」
 コートが老人のような声でつぶやくと、こちらに向かってこようとしていた男の足取りが止まる。
「察するぞ、トレチャーク。お前がここまで歩んできた道のり。お前の容姿をそこまで変えてしまった暮らし……」
「……お前はまさか……、コートなのか?」
「そうとも、友よ」
 そう答えると、男はがっくりと膝をついた。
「ゆ、夢ではないのか。コートよ、どうしてお前がここに……」
「お前のうわさを聞きつけ、追ってきたのだ。お前が大陸中を逃げ回っていると聞いて、僕は力になろうと……」
 トレチャークは四つんばいになって、コートの元まで這ってきた。
「容姿が変わってしまったのはお前のほうだ。なんという様だ。まるで老人のようだぞ」
「お前は鬼神のようだ。人の姿とは思えんぞ」
 そう言うと、トレチャークは不意に涙をこぼし、コートを力強く抱きしめたのだった。
「やせたな、コート。折れてしまいそうだ」
「そうだな。少し疲れた……。お前を助けに来たつもりだったが、これでは足手まといになってしまうな」
「なにを言う。俺がお前を見た瞬間、どれだけ救われたか、お前に分かるか? 会いたかったぞ、友よ」
 お互いが、その存在を確かめ合ったあと、コートは尋ねた。
「……エレーナは……眠っているのか?」
「……エレーナは……」
 コートの身体をいたわるように離れると、トレチャークは静かに頭を抱えた。
「……エレーナは……」
「まさか」
「辛うじて生きている。だが、どんな医者に見せても、病の原因は分からなかった。どんな薬も効かなかった……」
「病気なのか?」
 コートはエレーナの近くに寄る。獣で作った毛皮に包まれたエレーナ。ああ、エレーナ。なんという白い顔。もうほとんど生気も残っていない。
 コートは触診を試みたが、確かにエレーナの症状は、コートの知っている病状のどれにも当てはまらない。
「今となっては五日に一度、目を覚ますかどうかだ。エレーナと意思疎通ができたのは最初の数日だけだ。今となっては目を覚ましても意識があるのかどうか分からない状態だ」
「最後の会話は?」
「もう死を覚悟していた。生きる気力もつき、もう自分を残して行ってくれと。残すことができないのなら、もう殺してほしいと……」
「そんな……ここまできて」
「もう……彼女は……」
「諦めるな」
 コートはトレチャークを睨み付けた。トレチャークの眼光は、魔物そのものに変貌してしまったが、その目の奥にはコートの良く知っている、あの生命力にあふれた光が残っていた。
「われわれの希望の光を諦めるな。まだやれることはある」
「俺はエレーナを助け出してから数ヶ月、あらゆる方法を試した。だが、病状は悪くなる一方だった。エレーナ自身が、もう生きる意志を放棄している。これ以上どうしろというのだ。もう私には彼女を静かに看取るほかに方法が……」
 諦めるな、と言ったコートにも、方法はまったく思いつかない。
 だが、死なせるわけにはいかない。
 助けたとしても、自分の胸に抱くことは叶わない女神。
 その心はトレチャークだけに注がれるだろう。
 そうだとしても、彼女を絶対に助ける。
 どんなことをしてでも。
「おいコート、そういえば私が飲んだ、行雲途山の妙薬は……」
 そう。あの妙薬であれば、あるいは彼女の息を吹き返すことができるか。そう思った。
「だめだ、トレチャーク。あれは劇薬なんだ。体力の充実したトレチャークだからこそ、あの薬に耐えることができた。瀕死の彼女に妙薬を飲ませたら、その薬のせいで殺してしまいかねない」
「じゃあ、ほかになにかあるというのか」
 ほかに……。
 そんなもの……。
 思いつかない。
「思いつかない。思いつかないよ、トレチャーク……」
 コートの暗い言葉に、トレチャークも言葉を失った。
 
 
 
 水源が豊富で、肥沃な大地。
 食料調達に事欠かず、静かで誰もいない場所。
 情景はこの世のものとは思えず美しく、温暖な気候。
 トレチャークがエレーナの最後を看取る場所に選んだのは、そんな場所だった。
 コートは栄養と水分を補給できたことで、老人のような容姿が徐々に生気を取り戻しつつあり、トレチャークもコートが現れたことにより、絶望的な孤独が和らいだのか、以前の精悍な顔つきに戻りつつあった。
 そんな中、エレーナの病状だけが悪化の一途をたどり続けていた。
 コートがこの場所にたどり着いてから五日間。
 湖畔でただひたすら瞑想し、エレーナを助ける方法を考え続け、天啓を待ち続けた。
 五日目の朝、いつもどおり瞑想に出かけ、幻想的に美しい湖を眺めながら、岩の上に胡坐をかいて瞑想にふけった。
「コート、もうやめないか?」
 いつの間にかそばまでやってきたトレチャーク。
「私たちは、エレーナの傍にずっと着いて、彼女を看取ってやるべきじゃないのか」
「トレチャーク、君はそれで納得できるのかい? 僕には無理だ。彼女の死を見ることなんて」
「エレーナの気持ちはどうなる。われわれが傍にいなくて、エレーナを一人で逝かせる気なのか」
「僕は……エレーナを死なせない。絶対に」
 コートは隣にたって同じ湖畔を眺めていたトレチャークを見る。
「君と……、トレチャークとエレーナが結ばれ、生涯添い遂げるのを見届けるのが僕の夢だ。そうならなくてはならない。それが僕らの幸せ……理想郷のあるべき姿なんだ」
 トレチャークはなにも言わず顔を伏せた。しばらく二人の間に会話はなかった。ただ静かに、天の国のような美しい湖を眺め続けた。
 太陽が南中に達するころ、いったんエレーナの眠る洞窟まで戻って食事をとることにした。
 戻ると、エレーナが目を開いていた。
「エレーナ!」
 トレチャークが声を上げてエレーナに踏みよった。
「エレーナ、私だ。トレチャークだ。分かるか?」
 エレーナの瞳の焦点は合っていない。宙を眺めるばかり。確かな意識があるとは思えない。
 トレチャークは必死にエレーナに訴えかける。胸が痛む。張り裂けそうだ。君は僕たちを置いて一人、逝ってしまうというのか。
「……て……」
 不意に、エレーナの喉から音がした。
 音、と形容してしまうほどの、言葉にならない声。
 トレチャークは「なんだ、エレーナ! なにか言いたいのか!?」とエレーナの身体を揺する。
「……がい……」
「ないんだい、エレーナ!」
 トレチャークは震えるようにわななくエレーナの唇に耳を近づける。
「……殺……して……、お願……い……」
 その言葉はコートにも聞こえた。
 トレチャークはその言葉を聞き、天を仰いで獣のような咆哮をあげると、エレーナの胸でむせび泣いた。
「逝かないでくれ……。俺をおいて逝かないでくれ……、エレーナ」
 再び、エレーナの唇が動く。
 ――ごめんなさい。
「……くそ」
 コートはエレーナに近寄った。
 その美しかった緑色の瞳は暗くよどんでおり、なにも映し出していない。
 全身に数万本の針を突き刺されたかのような痛みが走った。
 その苦しみ。
 その嘆き。
 僕が代わってあげられたらどれだけいいか。
「エレーナ、僕だ、コートだ」
 そう声をかけると、エレーナの瞳が少しだけ揺らいだ。
「……コ、コー……ト……?」
 瞳がコートを探し戸惑うように揺れ動く。
「そうだ。コートだ。エレーナ、すまなかった。君の元にやってくるまで、こんなに時間がかかってしまった」
「コ……ト……、あなた……なの……」
 認識している。
 エレーナが自分を認識している。
 なんたることか。
 この頬を伝う熱い涙はなにを意味するのか。
 彼女にその名を呼ばれるだけで、彼女の心に自分が少しでも住んでいると知れただけで、この身体の奥底から沸き起こってくる感激は、まるで自分を不死身の超人に変身させるかのような力を与えてくれる。
 そして気付くのである。
 僕は、君のためなら自分の命さえいとわない。
「コート……なの……。本当に……」
 トレチャークが涙にぬれた顔を上げた。
 エレーナの瞳が徐々に揺らぎをやめて、一箇所に定まってくる。暗くよどんでいた瞳が、翡翠の宝石のように輝きを取り戻し、そしてその双眸にコートを捉えた。
「コート……!」
「エレーナ……!」
 エレーナが苦しそうに眉をひそめた。輝きを取り戻した瞳は必死にコートの姿を捉えようとしている。
 エレーナの目に涙があふれ出した。震えるように唇が言葉をつむぎだす。
「嬉しい……、コート。やっとあなたに会えた……」
 コートはたまらずエレーナの傍に膝を突くと、彼女の手を握った。
 エレーナの唇が、喜びに笑みの形を描く。
「コート、コート、ああ、コート。私はずっとあなたの夢を見ていました。あなたが縁側で子供たちのために作ったお姫様を奪い合う遊び道具……。あなたは困ったように子供たちの相手をしていました……」
「喋るな、エレーナ、君は」
「私のためにみなが作ってくれた肖像画、それを見て、美しいといってくれました。とても嬉しかった。その夜、私は嬉しくて夜通し涙を流しました……」
 エレーナがコートが握った手を、かすかに力をこめて握り返してきた。
 絶えず流れ続けるエレーナの涙。
 生命力が流れ落ちているように見えて、コートはその涙をそっと掬った。
「コート……! 私、生きたい……! まだ死にたくない……! まだやりたいことがたくさんある……! 私は生きて、あなたと……!」
 自分は何たるおろかなことか。
 コートは今すぐ、自分を鋭い刃物で傷つけたくなった。
 なぜ踏み切らなかったのか。
「エレーナ……! お願いがある」
 消え入りそうだったエレーナの瞳が、再度光を灯す。
「僕はためらっていた。間違えれば君をこの手で殺してしまうんじゃないかと。でも、君を救えるかもしれない方法が、一つだけある」
 コートはポケットから一つの小瓶を取り出した。そこには茶褐色の液体が入れられている。
「これは劇薬だ。飲めば死んでしまうかもしれない。エレーナの弱った体力では、万に一つの可能性だが、もしかしたら病気を治す。だけど、もし生き残ったとしてもこの薬は、君の寿命を信じられないくらいに永らえるだろう。永遠に思える時の中、君は生きていかなければならない」
 必死にその瞳に小瓶を捉えるエレーナ。
「それは君を苦しめるかもしれない。例え生き返っても、君の大切な人が先に死んでいく苦しみを味わい続けなければならない。長い長い人生に絶望するかもしれない。それでも飲むかい?」
 エレーナの瞳が、小瓶から徐々にコートの瞳に映る。
 コートは覚悟を決めていた。
「大丈夫だよ、エレーナ。君を一人になんかしない。これを飲ませたあと、すぐに僕もこの薬を飲む。君が長い生涯を歩むというのなら、ともに僕も君と人生を歩もう」
 エレーナは嬉しそうに目を細めた。
 それからかすかにうなずいて見せると、眠るように静かに目を閉じた。
 最後の一滴の涙を流して。
「おい、エレーナ!」
 トレチャークはエレーナの肩を掴んで揺する。
「コート、エレーナは?」
 コートは握り締めていたエレーナの手首の脈を取る。
「とても弱いが、まだ脈はふれている……。だが、このままでは……」
 あと数日ももたない。
「薬を飲ませるのか?」
「ああ。僕は臆病だった。彼女を殺してしまうかもしれな薬を与えるなんて……。たとえ彼女が息を吹き返したとしても、きっと長い人生に絶望し、僕を恨むだろう。そんなのは耐えられなかった」
「だが、決意したんだな」
 コートは握り締めていた小瓶を見た。
 手が震える。
 これをエレーナに……。
 小瓶の蓋を開き、それをエレーナの口元に。
 僕が殺す。
 彼女が息を吹き返したとしても、死んでしまったとしても、いずれにしても僕がエレーナを殺す。
 茶褐色の液体が、エレーナの唇を滑って口の中に流れ落ちた。
 小瓶の中の半分が、エレーナの中に。
「コート……。お前も飲むのか?」
「ああ……」
「そうか……」
 トレチャークは立ち上がる。そしてコートに背を向ける。
「コートよ、それを飲めば、お前はこん睡状態に陥るだろう。でも、私に任せておけ。必ずお前を死なせない。もちろん、エレーナもだ」
 その背中。トレチャーク、お前……。
「そして、目を覚ましたとき、俺たちの別れのときだな」
「トレチャーク」
「エレーナの心が、ついに分かってしまったな。知りたくなかったような、知りたかったような。だが、エレーナはコート、お前を選んだ。それは間違いない。だけど、私はコートのように人間ができていない。二人の傍に、私は身を置くことはできない」
「そうじゃない、トレチャーク」
 コートも立ち上がる。トレチャークの背中に向かって決意を口にする。
「彼女と永劫の人生を共にするのはお前だよ、トレチャーク。僕が薬を口にするのは、エレーナに犯した罪を償うため。目を覚ましたとき、いなくなるのは僕のほうさ」
 トレチャークが勢いよく振り返ったと思うと、コートの頬を拳で殴りつけた。地面に転がるコート。コートは殴られた頬を押さえながら再び立ち上がる。
「僕の決意を分かってほしい」
 そう言って、妙薬の小瓶をトレチャークに投げて渡した。小瓶を受け取ると、その中身が空になっていることに気付いたトレチャークは、驚愕して目を剥いた。
「コート、すぐに吐き出すんだ! お前の決意は分かった! だが、永劫の命を得て、しかも愛する人と結ばれない運命をたどるなど……!」
「いいんだ、トレチャーク」
「愛する人と結ばれることのできなかった苦しみを、一生抱き続けるというのか。この馬鹿野郎が!」
「もう、君の声も聞こえない……」
 コートの視界は、すでに天も地も判別できなかった。背後から倒れるコートの身体を支えるトレチャーク。
「なんてことだ、コート。なんてことだ。私たちはこんな人生を歩むために国を捨てたというのか! そうじゃないだろう! 私たちはただ、幸せな理想郷を……! そのための犠牲は私一人でよかったのに……!」
 
 
 
「これが千年前の真実です。三人は妙薬をそれぞれ口にしたんです」
「ちょっと待て、琴。飲んだのは分かったが、そんな万に一つしか効かない妙薬を飲んで、生き返ったとは思えんぞ」
 伊集院照子の指摘はもっともだ。
 琴は話を続ける。
「そうです。私も生き返ったとは思えない」
「エレーナは生きている、というのが真実ではなかったのか? これでは私が話した内容と変わりないではないか」
「いえ、違います」
 違うのだ。
 伊集院照子はエレーナは死んでしまった、と言った。
 だけどこの物語の結末は違うのだ。
「伊集院さん、あなたの話の間違いはここです。エレーナは死んだ、のではなく、死んだのかどうか、分からない、というのが正しいんです」
「なんだと……。行雲途山で真実を聞いてこなかったのか?」
「聞いてきました。ですが、分からないんです。エレーナが死んでしまったのか、生きているのか」
「どういうことだ。その程度も分からない無能どもが行雲途山を管理してるといいたいのか」
「お話します。これが千年前の最後のお話になります。このあと、この三人がどうなったか。よく聞いて下さい。私の知っている真実を全てお話しすることはできません。お話したとたんに、運命が本来向かうはずの方向に修正してしまうからです。だから、真実が分かったとしても、決して口にはしないでください。私たちが相手にしているのはとんでもない強大な敵です。いいですか? これが最後の話です。その話をした後、質問は受けません。感想も聞きたくありません。だから、皆さんの胸の中だけにしまっておいてください。それでは、あと少しだけ続きます。妙薬を飲んだエレーナとコート。もちろん、薬の副作用で生死をさまようことに……」
 
 
 
 コートとエレーナが妙薬を飲んで二日がたった。
 コートは絶えずうなされ続け、エレーナは見る見るやせ細り、薄目を開けて口を開いたままになった。
 二人はどうにか命を繋げていた。
 コートに水をやろうものならすぐさま吐き出し、エレーナに至ってはなにも口を通る気配がなく、口の中に水を流し込んでもあふれるばかり。
「絶対に死なせるものか。絶対に……!」
 妙薬を飲んだあとの、地獄の苦しみは良く知っていた。自分自身、どうやって乗り越えたのか、よく覚えていない。ただひたすら地獄を味わい続け、空気のない孤独な地獄を延々と歩いていくイメージが続いた。
 寝ずに、必死に看病を続けるトレチャークの元に、ある陰陽師が現れたのは、二日目の夜だった。
 洞窟内で火をたき、絶えず二人の身体を温め続け、絶えず水を与え続けた。
 下の世話も苦にならず、目を覚ましたとき、きれいな身体でいさせてやろうと、排泄物はきれいにふき取った。
 四六時中というもの声をかけ続け、必死に励ました。
 死ぬな。
 お前たち二人は、私の生きる証。私の自身そのもの。
 悲壮な思いだった。もし、目を覚まさなかったら?
 最悪な結末を想像するたび、狂いだしてしまいそうな慟哭が襲ってくる。こんな宿命を負わせた神を、真剣に恨みもした。
 二日目の夜、二人に声をかけ続けるトレチャークの元、ある陰陽師が訪れた。訪れを知ったのは、周囲の空気が不穏に淀んだのが分かったからだ。
「この気配は……」
 なんという不穏な気。頭の中にガンガンと鉄鍋をかき鳴らすような警告音が鳴り響く。
「こんなときに……!」
 エレーナを救い出すとき、一個師団を壊滅させた。それからというものの、宋の軍が執拗にトレチャークを追い回した。これまではどうにか撃退し、あるいは命からがら逃げ延びてきた。
 今回も宋からの追っ手であることは間違いないだろう。だが、空気が違う。この気配は、人のものだとは思えなかった。
 極楽浄土のごとく美しかった湖畔が、急に混沌へと落とされたようである。先ほどまで聞こえていた虫の音や、波打ち際の水の音が消えて、時が止まったかのような静寂が訪れている。
 何者なのか。
 トレチャークは洞窟を出た。
 空気が静止している。
 風もなく、月を映し出す湖面は僅かな波すら立てずに、鏡のように夜空を映し出している。
 そんな静寂の中、耳障りな足音が聞こえてきた。湖畔の砂利を踏みしめる足音である。
 足音のほうを見る。
 一つの暗影。
 月明かりの元、視界はゼロではない。ほぼ白と黒の無色彩な世界で、灰色の人影はこちらに近づいてくる。
「何者だ」
 トレチャークは抑えた声を出す。威嚇するように大声を出す選択肢もあったが、この異様な雰囲気に飲まれていない、と言えば嘘になる。得体の知れない相手に、トレチャークは慎重になっていた。
 影は答えない。
 ざり、ざり、と砂利を踏みしめながら、徐々に近づいてくる。
「それ以上近寄れば、命の補償はしない。まずは名を名乗れ」
 すると、トレチャークからおおよそ十五メートルほどの距離のところで影は足を止めた。
「……宋劉明と申す……」
 ソウ・リュウメイ。
 宋の民族の名である。
 声は身震いするほど低く、暗く、弦楽器の一番の低音を弾いたかのような声だった。
「……訳あって、ぬしを封じ込めなければならぬ……。許せ、とは申すまい。すでにぬしはそれほどの大罪を重ねてきておる……」
「私は多くの宋の兵士を殺めてきた。だが、それはひとえに自身と愛する人を守るため。私は罪とは感じていない」
「……そんなことではない……。ぬしの大罪は、故殺の所業などではなく、それよりもずっと重い罪業を犯しておる……」
 そのときだった。
 一瞬、トレチャークは眩暈を起こしたのかと錯覚した。
 すぐに気を取り直す。ちがう。トレチャークの幻覚ではない。
 灰色の人影が、不意に三つに分かれたのである。
「三人か……!」
「三人だが、ぬしの相手はそれがし一人よ。この宋劉明がぬしを封ずる」
 真ん中に立っていた暗影が、不意に大きくなった。
 足音もせず、地面をすべるように距離をつめてきたのだ。
 不用意だったトレチャークは、まっすぐ後ろに飛び退いた。
 トレチャークの前髪の数本が宙に舞った。次に額に感じる鋭い痛み。
 何かが米神を伝い、頬を伝い、顎から滴った。確認しなくても分かる。自らの血である。
 刃物か何かで切られたのだと分かった。だが、トレチャークにはその太刀筋がまったく見えていない。
 対峙する相手は、相変わらず灰色の陰でしかない。
「やる気なのか。私は手加減ができないぞ」
「今の一手、躱し切れなかったぬしの負けよ。六つ足蛇から抽出した神経毒の中に半年間漬けこんだこの短剣。赤黒くさび付いたこの短剣は、高濃度の毒が染み込んでおる。傷を負ったぬしが痺れるのも、このあと刹那のこと」
「なんだと……!」
 その言葉の末尾を発するころには、トレチャークは背中からばったりと倒れていた。地面にしたたかに打ちつけた背中にも、後頭部にも何の衝撃もない。それどころか、満月の浮かぶ夜空から視線も移すことができない。
 その視界の中に、月をさえぎるように男の顔が現れた。
 ――この男……、いや、その容姿は……。
 女か。こいつ。
 男に化けていたのか。
「不死身の身体といえども、神経毒に免疫はないのだな。凡人ならば、即死してもおかしくない毒だが、ぬしはただ動けなくなるだけらしい」
 ――貴様……!
 女の喉元に手を伸ばし、握力に任せるまま、喉仏を握りつぶす――ことはできなかった。腕どころか、全身のあらゆる神経が麻痺して、意識だけが宙に浮いたように漂っている。
「ぬしに恨みはない。だが、手を出してはならぬ禁忌の妙薬を飲んでしまったぬしの運命を呪うがいい。その不死という病を治癒することは、もはや叶わぬ。ぬしは未来永劫、冷たく暗い、深淵の闇で封じられ続けるだろう。身動きもできず、呼吸もできず、視線も転じることもできず、ただただ深い暗闇の中、想像を絶する孤独がぬしの唯一の意識となる」
 ――不覚……!
 このままではやられる。
 コート……! エレーナ……! 私はこんなところで……!
「死ねぬ我が身を恨むがいい。運命という名の全知全能の存在を恨むがいい。だが、これだけは申しておく。その深淵の暗闇には、それがしも一緒だ」
 お前も……一緒……?
「さあ、行こうか。輪廻の輪を外れた者よ。心配するな、それがしも輪廻の輪から外れた分際。ともに孤独の地獄へと付き合おうぞ」
 女は目隠しするようにトレチャークの顔を覆った。
 何かが起こった。
 全身を大金槌でぐちゃぐちゃに叩かれ、丸められ、さらに叩きつけられているような感覚。痛みは伴わない。だが、逆行している。これまで歩んできた人生を、急速に巻き戻されたような。
 この到着地には、なにもない。そう予感した。
 失われる。
 死よりも恐ろしい虚無の世界へ吸い込まれていく。
 コート……! エレーナ……! もはやこれまで……!
 すまない……!
 天空の宮で過ごした三人の温かな思い出がよみがえる。
 エレーナの愛らしい笑顔と、コートの暖かい思いやりに、どんなつらい過去があろうとも、私はめげることなく前へ進むことができた。
 それ以前、子供のころ、母の胸の中で安堵に包まれながら寝息を立てる自分。守られている自分。愛されている自分。
 母の胎内で、肉の壁に守られて、君と過ごした時間。
 そう、母の胎内で君と過ごした時間は、何物にも変えがたく、楽しく、嬉しく、やさしさに満ちていた。
 母の胎内で手を取り合って、われわれはずっと一緒だと、誓い合ったあのときから、私の人生は君とのものだった。
 エレーナ。
 愛している。
 心から。
 永遠に。
 
 
 
「宋劉明がトレチャークを封じた」
 焚き火が消されて、暗闇の幕を降ろした洞窟内は、二人の男の声が交差している。重低音の弦を弾くような声は、機械仕掛けが発する声のように鷹揚がなく、平坦である。
「あとはそれがしの本分を尽くすのみ」
「不死の実存はあってはならぬ」
「世界の程度は定められておる」
「あぶれた者は緘する宿命」
「それがしの相手は、エレーナである」
「それがしの相手は、コートである」
「それがしはエレーナを封ずる」
「それがしはコートを封ずる」
「ともに深淵の孤独へ」
「永劫に続く混沌の暗闇へ」
 暗闇の中で呪文のように交わされる言葉。
 太い弦を、同じ音程で繰り返し弾くように。
 そして。
 二つの暗影は世界を救った。


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