あっちから変なの出てきた

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第八章 【 現世−千年前の真実 】


「コート、行雲途山修行のこと、知っているか?」
 暗闇の中。
 天空の宮の地下には強固な地下牢が五室存在し、入り口から一番近い、隣り合う二室にコートとトレチャークは監禁されていた。
 監禁されてから半日ほど、コートとトレチャークは互いに会話を交わすことはなかったが、お互いに眠っていないことは分かっていた。
 コートはじっと考えに耽っていた。ともすれば、別の現実に行っていた、と言っていいほどの妄想の世界へ没頭していた。
 その深い思考の数々の中にトレチャークの言った「行雲途山」も含まれていたので、コートはすぐに「知っている」と答えることができた。
「あそこは最終関門を越えると、不死の妙薬を与えられると聞く」
「言葉のそのままの意味を受け入れることはできないけど、何かあるのは間違いないと思う。最終関門まで行き着いた人間が、果たしてどれほどいるのか分からないし、行ったとしても誰も口を開かない」
「もし最終関門までたどり着けなくても、何らかの悟りはあるとは思わないか。俺は早急にエレーナを救うだけの力を手に入れなければならない。お前も考えていることは同じだろう」
「ああ」
 コートは自分にできる方法を必死に考えていた。行雲途山修行は、トレチャークの思いつきそうなことでもある。だが体力、身体能力に劣るコートは早い段階で行雲途山の選択肢を断念していた。
「実は前に、僕は行雲途山修行に挑もうと思ったことがある。そのときに文献を調べたが、不死の妙薬について書かれているものはなかった。だけど、口伝によってまことしやかに囁かれる噂。これに根拠が無いなどとは言い切れない」
 可能性は低い。だが、いくつかの選択肢のうち、何を選ぼうとも正解の確立など万に一つである。
「トレチャーク、僕はひとつ、思いついていることがあるんだ」
「行雲途山以外にか? この情報も物資も遮断された土地で、それ以外の有効な方法などあるのか?」
「古代の文献のひとつに、チャクラの開発を書いた本があった。もちろん、禁術さ。詳細には書かれていない。だけど、パクパ様の書斎には、その禁術を詳細に記載した文献があると聞く。僕はそれを研究し、チャクラの力を持ってエレーナを追いたいと思う」
「なるほど、コートらしいな。俺には出来ない業だ」
 間違いないのは、どちらも命がけ。
 エレーナにはそれだけの価値があり、それだけの大切な人。
 エレーナの心はどこにあるのか、誰を愛しているのか、そんなことはどちらでも良かった。今は、エレーナのあの笑顔をもう一度……。
「この地下牢から出る方法だが……」
 目的が決まれば、行動を起こすしかない。
 まずはこの牢から出ることが先決。
「コート、お前の知能で、ここから出る方法を思いつかないか?」
「あるにはある。だけど、脱出するだけではだめだ。トレチャーク、僕のことを思い切り殴りつけることはできるかい?」
「殴りつける? それが最善だというのならやるが、一体……」
「簡単な話さ。君は今から泡を吹いて苦しむ振りをする。その次に僕が、大声で僧を呼ぶ。君は牢から出されて治療を受けるが、この天空の宮に僕より腕のいい医者はいない。僕が手当てをするため、上の階に誘導するから、君は僕を殴って逃亡するんだ」
「……なるほど。だが、その後お前はどうする?」
「言ったろ、僕はパクパ様の書斎の文献を手に入れなければならない。ここに残るよ。その代わり、君は裏切り者の汚名をかぶり、僕はここに残る決断をした救世主になる必要がある。君は恨まれる損な役回りだけど、できる?」
「殴られるコートのほうが損な役回りな気がするぜ。俺の拳は硬いぞ」
「覚悟してる」
 トレチャークがふふ、と微笑む声が聞こえてきた。
「……何があってもエレーナを連れ戻す。エレーナなくして、僕らの理想は成り立たない。そうだな、トレチャーク」
「もちろんだ。俺は行雲途山。コートはチャクラだ。どちらかが成功すればエレーナを救えるはずだ。そろそろやるぞ?」
「よし」
 覚悟が決まった。
 コートは大きく息を吸い込む。
 そして、魂の底から叫んだ。
 
 
 
 伊集院照子は琴が行雲途山修行から戻ってきた夜より酒を断っていた。
 それは酒を利用したS級札を復元する極秘作戦が終わったからだったし、なにより琴の話を真剣に聞くためだった。
 この土地の至宝、あるいは象徴といえるS級札が伊集院の手によって復元(消失)された事実は、いまのところうまく隠し通せている。いつまで隠し通せるのか神のみぞ知るが、今は伊集院照子も倉敷も、琴の話に耳を傾けていた。
「ここまでは伊集院さんの話のとおりです。トレチャークとコートはそれぞれの目的のために地下牢を脱出し、トレチャークは行雲途山へ、コートは天空の宮に残り、チャクラの研究を始めました」
「ふん、私の話に間違いはない」
 伊集院照子はふてぶてしくテーブルに足を放り投げて、腕を組んでいる。
「伊集院さんの話は、その後、トレチャークが行雲途山修行でなんらかの知識を手に入れ、それをコートの元に持ち帰り、チャクラを得た。その力でトレチャークはエレーナを連れ戻す旅に出た、でしたよね」
「ふむ。そうだ」
「私も修行の中で知りました。行雲途山の最終工程まで進むと、妙薬にかかわる重要な情報が与えられるそうです」
「私の話は間違ってないではないか」
「間違っていません。私は結末が違うと言ったんです」
「なら、その結末を話せ。どんな結末をたどったというのだ」
「すべては言えません」
「なぜだ」
「結末を話せは、未来が変えられなくなるからです。話さなかったとしても、未来が変えられるかどうか分かりません」
「言っている意味が分からん」
「伊集院さんなら理解できるはず。あなたはそういう宿命の下に生まれてるのだから」
 伊集院照子の顔色が変わったのが分かった。
 じっと威嚇するように琴を睨みつける。琴といえば、決して臆することなく伊集院照子の双眸を見返している。
 しばらく緊張の時間が続く。
 最初に緊張の糸を断ち切ったのは伊集院だった。
「本当に知ったのだな、お前は」
 伊集院照子は瞑想するように俯いた。
「ならば聞こう。話せる範囲で話せ」
 本当の意味で、伊集院照子は聞く体勢を整えたといえる。耳と心を澄ませ、余計な邪念を取り払い、素直に琴の話を取り込もうと眼を瞑っている。
「はい……」
 琴は言葉を選ぶかのように、慎重に話し始めた。
 
 
 
 行雲途山修行を終え、トレチャークが天空の宮に戻ってきたのは二ヵ月後。着ていた衣服も下半身を覆う以外のものは失い、髭は伸ばし放題。唯一持っていたのは、二つの棒である。
 ひとつは、芯となる木材に、紙を巻きつけた軸物。
 もうひとつは、金属製の棒。長さは三十センチほどで、剣の柄のようである。円筒状の表面には巻きつくように描かれた竜のような生物。棒の先端には小さな牢屋をあしらったような箱。先端部分は桃の形状を思わせる。
 二つの棒を両手に握り締め、トレチャークは天空の宮へ帰ってきた。
 もちろん、この土地を裏切った身。正面から入って歓迎されるわけはなく、トレチャークは夜を待って侵入を試みた。
 深夜、専用の書斎で研究に耽っていたコートの元に訪れたトレチャークは、コートの涙ながらの迎えを受けた。
「よくぞ生きて戻ってきた」
「死ぬものか」
 お互いに抱きあい、それから夜通しお互いの成果について語らい合った。
 この二ヶ月間での天空の宮で起こった出来事。その中でもコートが語った一番の衝撃的な事実は、高僧のパクパが病床に伏せたことである。この土地の知識、法律、象徴、すべてを担うパクパが失われれば、この土地の復興に不可欠な仏教を失うに等しかった。
「病床に伏せられてから一月。回復の兆しはない。これは天寿だろう。人が抗うことの出来ない仏の意志」
「やはり……コートはこの土地に残るべきだ。パクパ様が失われた場合、代わりを務められるのはお前以外にいないだろう」
「僕だって、エレーナを救いたい気持ちは一緒だ」
「エレーナは俺が連れ戻す。そのときに、帰る場所が必要だ。コートはここで、俺たちの帰る場所を守ってくれないか」
 苦渋の選択だった。
 だが、幸運か。自分たちは二人いる。エレーナを連れ戻す役割と、エレーナの救う術を指し示し、帰る場所を守る役割。白と緑。コートは白。トレチャークは緑。
 コートは微笑むと言った。
「そうだったな。僕たちは半身同士。二人で一体のようなもの。これも悟りか。どんな完璧な人間でも一人では成し遂げられないものを、半人前ずつの我々なら実現できる」
「そうだ。すべて元に戻す。エレーナのいたこの寺院の暮らしを。平和で穏やかな理想郷の再建を取り戻すんだ」
 二人は再び、決意の固さと強さを感じさせる握手を交わす。
「後は、君の持ち帰ったものだが……」
 コートはトレチャークから巻物と金属性の棒を受け取った。トレチャークは金属性の棒を手に取りながら言った。
「この棒は、用途が分かっている。あの方との約束で、教えることはできないが……」
 あの方とは? とは尋ねないコート。行雲途山修行の内容は、おそらく口外することは出来ないだろうことは想像できていたからだ。
「いいんだ。こっちの軸物だな、問題は」
「ああ。俺は行雲途山の最終工程まで終えた。そこまで行けたことは、いま考えても奇跡に思えるが、十段階の試練を乗り越えた最後に譲り受けたのがこの巻物。かならず重大な意味がある」
「分かった。読み解いてみよう。少し時間がほしい。その間、トレチャークは……」
「俺のことは心配するな。少し、試しておきたいこともある。この棒の使い方に慣れておきたい」
「……分かった」
 二人は最後に固く抱き合い、意志を確認しあった。
 トレチャークが出て行ってから、コートはほとんど眠ることもせずに巻物の解読に耽った。少しでも早く。少しでも正確に。
 七日七晩掛かって読み解いたのは、書かれている内容はある薬の処方箋であるということ。その薬にどんな効能があるのか、どんな傷、病に効く薬なのか、まったく説明がされていない。
 噂にある、不老不死の妙薬。
 果たして、そんな薬が存在するのだろうか。
 コートはパクパの看病の傍ら、寺院にいる幾人かの僧侶を使って、薬の材料を集めさせた。
 それからさらに三日後、すべての材料がそろうと、コートは薬の調合を始めた。調合自体は簡単なものである。材料はすべて天空の宮の周辺でそろうものであり、それらを磨り潰して一晩煮込み、搾り取った液体が巻物に記されていた薬。
 作られた薬をどうするべきか。これが薬である根拠は何も無い。誰かかが服用し、効果を確認しなければならない。
 そんな人体実験のようなことを……。
 自ら飲んでみるか。
 しかし、もし失敗していたら……。
 迷っているうちに、トレチャークが再び天空の宮に姿を見せた。いつものように真夜中過ぎに進捗具合を確かめに、コートの書斎に現れた。
 この日のトレチャークはひどく全身傷だらけで、身体のいたるところに痣や腫れが目立った。
「何をしてたんだ、そんな傷だらけになって」
「修行さ。強靭な武器も使い方を誤れば、自分や味方を傷つけてしまう。俺はなるべく早く、この武器を使いこなす必要があるんだ」
 この武器。行雲途山修行で持ち帰ってきた金剛杵のような形状の棒のことであろうか。密教法具の類に見えるが、仏教の類のものとは違う気がしている。
「これが気になるか?」
 コートの心中を察したかのようなトレチャークの言葉。
「いや、どうせ明かせないんだろう」
「そうだな。明かせないのは仕方の無いことだ。コートも行雲途山修行をすれば分かるだろうが。だが、これだけは言える。あそこは仏教徒が身近に存在して、伝説を後世に残していったものの、あの中身は仏教とはまったく別の世界。あれは……なんというか……人工のもの。人が作ったものさ。あそこに神は存在しないし、成仏した仏がいるわけでもない。ただ、人知を超えたものが存在している」
 言葉を選んでいるのは理解できた。トレチャークの言葉の半分もコートは理解できていないだろうが、あえて問いただしたりはしない。
「それより、薬は出来たのか?」
 当然、トレチャークの訪問の目的はそれだけである。
 前回訪れたときは、調合できていたものの、効能が分からない以上、まだ出来ていないと帰らせたが、もうトレチャークも待つことが出来ないだろう。
「トレチャーク、薬は軸物のに書かれたとおり調剤した。ただし、これが果たしてどんな効能があるのか分からないし、もしかしたら死をもたらす劇薬かもしれない。まだ、なんの根拠もないんだ。小動物などで実験し――」
「仏教に仕える身で、生物を殺すことは罷りならないだろう。俺たちはもう仏教徒だ。この薬を別の生命に実験のために与えるなんてことはできない」
 分かっている。だからと言って、我々が一か八か飲んでみるというのは、あまりにも勝算の少ない賭けではないか。
 コートは首を横に振る。
「やはり、もう少し時間が要る」
「俺たちはもう、70日以上遅れをとっている。もう時間なんて無い。ホルタ王国の人間が吐蕃を越えて宋にたどり着くまでに追いつくには、ギリギリのところだろう。もちろん、この薬で強靭な身体を手に入れる前提での話だ」
 もう、トレチャークの目は爛々と本気を物語ってる。
 死んでしまったらどうする?
 こんなばくちのようなことに命を懸けるのか?
「コート、俺はお前を信じている。お前が解読し、お前が調合した薬さ。間違えるはずが無い」
 ひどく重責を負わされた気がしたが、トレチャークの言葉は心に染みた。
「死んでしまったとしても、俺はお前を恨まない。――当然だな。だけど、俺を死なせてしまったお前が嘆き悲しむのは望まない。だから」
 トレチャークは何を思ったのか、おもむろに立ち上がる。コートは不思議そうにトレチャークの行動を目で追った。
 トレチャークは部屋の中を見回し、背後の壁に立てかけられていた、天空の宮の改築用の木材を手に取った。
「悪いな、コート」
 トレチャークが木材を天井近くに振り上げたとき、コートはこれから起こることをようやく悟った。
 悟った一瞬後には、頭に強い衝撃を覚えたかと思うと、混沌の闇が目の前を覆ったのだった。
 
 
 
「それほど細かくお前は教えられたのか?」
 伊集院照子は目を伏せたままだ。
「はい。話は一日半に及びました。すべて覚えています。ただ、言葉で伝えられたというよりは、イメージを植えつけられたような印象です。そもそも、言葉なんて通じなかったんですから」
 倉敷は堪らず口を開く。
「お琴さんは何のためにトレチャークとコートの話を聞かされたんですかね」
「術師の始まりの話だから。そしてきっと、術師の歴史を終わらせないといけないから」
「術師をこの世から消すというのか?」
 伊集院がたずねたが、琴は答えなかった。
 教えたくない、というより、答えるべきふさわしい言葉が見つからなかった様子だ。
「形を……変えるべきかもしれません。これ以上は……」
「まあいい、続きを話せ。当然、薬を飲んだトレチャークは死んではいない。生きているトレチャークを現代まで封じていた本人だからな」
「おっしゃるとおりです。トレチャークは死にません。コートを気絶させて、自ら薬を服したトレチャークはその場で卒倒したそうです。こん睡状態に陥って、目を覚ましたコートがこっそり三日三晩、トレチャークを看病しました」
「劇薬には間違いないか」
「そうです。薬は劇薬でした。おそらく、飲めば99%は死にいたる、勝ち目の無い大博打のような劇薬です。ですが、エレーナを救うという強い意志が、トレチャークに試練を乗り越えさせました。この薬は、意志を試すといわれています。地獄のような苦しみを越えて、それでも意志を果たしたいと思うのなら力を。苦しみに耐えかね、救いを求めるなら死を。あのお方はそう言っていました。ハザマの世界への扉を開く。扉の向こうに手が届く。神の領域に足を踏み入れる。そして、とてつもない力を手に入れます」
「とてつもない力って?」
 倉敷がたずねるが、答えは想像通り。
「とてつもない力です。世界を壊してしまうような、悲劇的で絶望的な……。伊集院さんは知ってるはずです」
 抽象的な表現。言葉を選んでいる。言葉は意思を伝える手段であるはずなのに、琴は理解させまいとしている。いま琴が理解している事柄を、倉敷が理解してしまった瞬間、一体何が起こるのか。どうして理解してはいけないのか。
「トレチャークは行雲途山の試練を乗り越え、そして最後の試練である劇薬を乗り越えました。目を覚ましたとき、トレチャークは全てを理解したように微笑んだといいます。コートは涙を流してトレチャークの生還を喜びました。その後は、体力の戻るのを待つことなく、目を覚ました晩にエレーナを救うために旅立ちました。天空の宮に残る決意をしたコートはトレチャークを見送った後、トレチャークとの約束どおり、天空の宮の再建に全身全霊で打ち込みました」
 倉敷は思い出す。
 伊集院照子が話した、この後の結末。
 エレーナを追いかけておおよそ二年後、中国――当時の宋の開封市手前でホルタ王国の護送軍に追いついたトレチャークはエレーナを救うために、夜営に忍び込む。ところが見つけ出したエレーナは瀕死の状態で、程なくして息を引き取った。その場で三千人いたホルタ王国と宋の軍隊を全滅させたという。
 その後、トレチャークは宋に指名手配されたが、当初国内を逃げ回る一方だったトレチャークは転じて攻勢に出る。
 国中の王家、地権者などを襲撃しまわった。「とんでもない力」を持つトレチャークがいくら暴れまわったとしても、大国の宋。蚊に刺されたくらいの痛みだろう。
 そんな無意味な暴走を繰り広げたのは、ただどうしようもない憤りをいたずらに撒き散らしていただけに過ぎないのか。
 そして、ソウ・リュウメイに封じられる最後。
 何一つとして救いの無い悲劇的な最後。
 それが伊集院照子の綴った口伝である。
「ここから、伊集院さんが話さなかった真実があります」
「ふん。言っておくが、私は琴のようにあえて隠したり、話を省いたりはしていない。私の知っている事実はすべて話して聞かせた。それでは聞かせてもらおう。私の語らなかった部分、それから私が話したものとは違う結末を」
 琴は神妙にうなずいた。
 一見、どこにでもいる一般的な日本人女性。
 意志の強さは感じるが、細身の身体、倉敷よりは頭一つ小さい身長。世界規模の真実をその口から聞かせるような使命や宿命を背負っているようには見えない。
 だけど、明らかに行雲途山修行を経験してきた琴は以前と違う。
 重責を負った?
 いや、違う。
 彼女は、悲しんでいる。
 暮れている。
 何か、行雲途山修行で悲劇的な思いをしたかのように。
 あるいは、悲劇的な何かを知ってしまったかのように。
 琴は再び、千年前の出来事を話し始めた。
 
 
 
 疲労は感じなかった。眠らずにいられた。力が漲るようなことはことはなかったが、身体は鍛えれば鍛えただけ強靭になり、衰えることが無かった。
 減らない宝石箱のようだ。大切なものを詰め込んでも、浪費したとしても宝物が減ることが無い。
 吐蕃の最も西に位置する小国、ホルタ王国(関東地方ほどの面積)に、エレーナが幽閉されていると聞きつけ、ホルタ王国首都のエツィリ都までやってきたトレチャークは、一足違いでエレーナが護送されてしまったことを知る。
 王都といえども、発展している様子もなく、古代に立てられた石造りの軒並みに、乾いた様子の人間たちが陰気そうに暮らすのみで、首都の中心に位置する王宮も、かつて古代の王朝が建てた遺跡を使いまわしているようだった。
 百人の美女を宋まで運ぶために多くの兵士を費やしているためなのか、王宮に侵入するのは容易だった。
 深夜忍び込み、一人の立番していた兵を締め上げると、エレーナを含む国中から集められた百人の美女たちは宮殿を後にして、宋に向かったのが一月前と知る。
 休むまもなくホルタ王国を出たトレチャークは、国境を越えて百人の美女が護送された軌跡を追う。
 東洋人と顔かたちの異なるトレチャークは目立つのを懸念し、大都市を避けたため、険しい道を余儀なくされたせいで追跡は困難さもあったが、休まず動き続けられる強靭な身体は困難を困難としなかった。
 ところが気はあせる。ここまで一年を費やしてしまっている。
 目的地である開封市にたどり着くまでに、追いつくことが出来るか。トレチャークはますます休むことなく一行の後を追った。
 宋の北に位置する別の大国、西夏、遼からの侵略に警戒する宋は、開封市近くの宋北部に多くの軍を配備しているため、護送軍一行の追跡は宋軍から隠れてのものとなる。
 護送軍は黄河沿いを進んでいることは間違いなく、いくつかの夜営あとには、過酷な旅に息絶えた美女の亡骸を多く見かけた。トレチャークは黄河沿いに放置される、美女たちの遺体の中にエレーナがいないことを丁寧に確認した。
 軍隊を避け、大きな町を避け、足跡のように残る力尽きた女たちがエレーナで無いことを確認していく追跡は、トレチャークの足かせとなる。
 トレチャークがホルタ王国の護送軍に追いついたのは、さらに数ヵ月後のことだった。エレーナが攫われて、実に二年が経過していた。
 
 
 
 トレチャークが旅立って二ヵ月後、天空の宮の象徴だったパクパ高僧が亡くなった。遺体は防腐加工され、天空の宮の地下に存在する一室に収められた。
 三日間にわたる葬儀の後、悲痛に暮れる僧たちはコートに促されるまま、天空の宮の再建を再開した。
 パクパの死は、天空の宮に絶大な喪失をもたらした。大きな擁護を失い、彼らは生まれたての赤子のように戸惑い、恐怖し、混乱した。
 諌めるためにコートは進んでパクパの代わりを務めようとした。完全な代役は不可能だった。パクパの位にいたるほどの経験も、深い知識も無い。表面を撫で付けたような知識しかなく、天空の宮の人々を導くのは至難の業だった。
 それでもパクパを失ってからしばらく経つと、僧たちは新たな指導者を求めるようになり、おのずとコートを信頼していくようになった。
 この土地を再び活性化し、トレチャークやエレーナと共に目指した理想郷の建築が最大の目的だった。
 パクパ、トレチャーク、エレーナという象徴や支柱を一度に失った天空の宮の建て直しは用意ではなかった。すべての役割を一手に受け入れたコートの疲弊も比例して積み重なっていく。
 それでもコートは耐え忍び、導き続けてひたすらトレチャークとエレーナの帰りを待ちわびた。トレチャークもエレーナも苦しんでいる。自分だけ怠けてはならない。二人の帰ってくる場所を守りぬかなければならない。
 トレチャークが天空の宮を後にして約一年半後、宋で起こっている妙な事件の噂が、天空の宮まで流れ着いてきたのだった。
 ――宋の大陸では、妖怪を操る魔物が人々を殺しまわっている。
 この奇妙なうわさには、ある尾ひれがついている。
 ――魔物は、一人の眠れる美女を連れている。
 ――魔物は、背筋が凍りつくような緑色の瞳をしている。
 コートの直感は、それが何であるのか、明確に理解していた。
 魔物、眠れる美女、緑色の瞳。
 コートは東の空を見た。
 あの空の下、宋の軍隊からトレチャークが必死に逃げている。
 胸が掻き毟られる思いだった。
 僕はこんなところでなにをやっている。
 天空の宮の再建?
 そんなもの、トレチャークとエレーナがいなくなってしまえば、何たる無意味なことか。
 まずは二人を救うことが、自分が理想とする世界の再建の第一歩ではないのか。
 ある夜、ウンチャクという若い僧侶がコートの部屋を訪れた。
 寝支度をしていたコートは、何事だろうとウンチャクを部屋に招き入れると、茶を振舞った。
 思いつめた様子のウンチャク。ウンチャクはコートより、はるか以前よりこの天空の宮に住み着き、最初に宮の再建に取り掛かった僧である。トレチャークとエレーナが天空の宮にたどり着き、置き去りにしたコードを救い出してくれたのもウンチャクである。
「どうした、ウンチャク。悩みがあるのなら、なんでも打ち明けてくれ。喜んで力になろう」
「ええ……」
 くちごもるウンチャク。どうしたというのだろう。
 天空の宮は物資も届かず、完全に自給自足である。やせ細った大地、加えて高地ということもあり、生息する動植物も少ない。ここの暮らしは過酷を極める。出て行きたいと申し出てくる僧も少なくないのだ。
「もし、ウンチャクがここを出て行きたいというのなら、僕は止めない。しかし、ウンチャクは僕らよりここに長く住み着き、最初に再建に取り掛かった人間だ。僕はできたら君に出て行ってはほしくない」
「そうじゃないんです。出て行くとか、そういう話じゃないんです。ただ、私たちは、あまりにもコート様に頼りすぎていると、そうお伝えしに伺ったんです」
「頼りすぎている? そんなことはない。みんながんばっている。僕だけが苦労しているわけじゃない」
「いえ、頼りすぎています。私は知っています。コート様が夕暮れになると、東の空を眺めてらっしゃるのを。憂いそうに。何かに耐えているかのように」
 はっと息を呑み、次の言葉が出てこないコート。まさか、見られていたとは。
「私はコート様がいなくては、とても暮らしていけません。そう思っておりました。しかし、どうでしょうか。コート様が導き、教授してくださった農作物の育て方、建築物の復興の仕方。この財産があれば、しばらくは私たちだけでも生きていけると思うのです」
「ウンチャク、いったいなにを言おうとしているのだ」
「追いかけてください。どうぞ、トレチャーク様とエレーナ様を追いかけてください。私たちなら大丈夫です。信頼して、留守を任せてください」
 そう言って、苦しそうに涙を流すウンチャク。コートは胸を打たれ、言葉を失った。
「われわれはなんと甘えていたのでしょうか。コート様に頼り、都合よく崇めて心の平穏を保とうとした。ですが、コート様が一人の人間だということをわれわれはすっかり忘れているのです。どうぞ、行ってください、コート様。いまは私だけの思いですが、きっとこのウンチャク、みなを説得し、導いて見せます。もちろん、ずっとは無理です。だから、必ず帰ってきてください。必ず三人で帰ってきてください。それまではウンチャク、命を変えてでも……!」
 コートは胸に熱いものがこみ上げてきた。立ち上がると、ウンチャクに右手を差し出す。
「握手してほしい。君は僕の命を救ってくれた。しかも、また僕の事を救ってくれた。これで二度目だ。握手したい」
 ウンチャクは目を丸くして、滅相もないと両手を胸の前で振って見せる。その手を強引に掴み、硬い握手を交わす。
「ありがとう、ウンチャク。僕は君に感謝して止まない気持ちでいっぱいだ。二度も救ってくれた君に対し、僕は約束する」
 コートも涙をこらえることができなかった。だが、硬い握手はそのままに、力強く言った。
「僕は必ず戻ってくる。三人で戻ってくる。絶対だ。約束する」


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