あっちから変なの出てきた

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第五章 【 虚無 】


 佐々倉は自宅の前に立っていた。
 自分の家であるにもかかわらず、入っていくことができない。
 この嘘の世界に迷い込む直前の記憶は、佐々倉にも無かった。どうしてこの世界に迷い込んだのか、まったく理由は分からなかったが、隔世での記憶は残っていた。
 最後に残っている記憶は、グロウリン城塞都市の周囲を囲む渓谷を進み、途中で出会った老人に、佐々倉の持っている眷族の能力を教えられた。
 それは探し物のありかを教えてくれる眷族。物であっても、人であっても。宿主が記憶する物や人が、原形をとどめて世界に存在する限りにおいて、その場所を示してくれる。
 そして、佐々倉はまず最初に妻と娘の居場所を、眷族に探させたのである。ひょっとしたら、もしかしたら、少ない可能性であるが……。現世において最初から存在していなかったかのように消失した妻と娘は、隔世に存在しているのではないか。
 はたして。
 妻と娘の行方を、佐々倉は知ることになった。
 鶴のような動物を思わせる眷族の鳥は、翼を大きく広げると、前方を包み込むように翼を折りたたむ。その中心に発生する半透明の玉。見たことがある。眷族の聖域で、佐々倉が手に触れた奇妙な球体と同じ。
 そのシャボン玉のような球体に、映像を映し出すのである。
 家族を失ってから三年が経っていた。娘は成長し、妻は隔世での生活での気苦労か、やせ細って見えた。
 そこは集団で監禁される大きな地下空間だった。鉄格子の檻に閉じ込められ、母子が身を寄せ合っている。暗い表情。ここでの二ツ目の種族の処遇は、嫌というほど分かっている。
 よく生きてくれていた。
 佐々倉の身体の心から、熱い血液が沸き起こり、全身を循環した。どんな栄養より力をみなぎらせる熱い血液。
 喜びと恐怖と不安が一度に佐々倉を襲ったが、どの感情も佐々倉に確かな意志と活力をもたらした。
 現世で神隠しに遭った妻と娘。もしかしたら、イスカ領域から隔世に迷い込んでしまったのではないか。そんな想像をしたのは一度や二度ではなかった。
 やはり二人は生きていた。
 やはり自分の中にある妻と娘の記憶は本物だった。
 佐々倉は事情をトレミに説明すると、どんな事情もかなぐり捨てて直ちに行動した。
 妻と娘の場所は、鶴の眷族が教えてくれる。言葉ではなく、イメージで。
 北に位置する森の中。そこにある四ツ目族の研究施設らしい建物の、その地下に妻と娘はいる。
 もちろん奴隷として。早く行かなければ、二人がどうなるか分からなかった。
 すぐに北へ向かい始めた。
 ところが、そこで記憶は途切れている。その後どうしたのか。妻と娘には再会できたのか。
 ――再会したからこそ、今こうして家族と一緒に現世で生活しているのだ。
 佐々倉はその幻想に身をゆだねることを選んだのである。なにより、捜し求めていた妻と娘が、この世界には存在し、傍にいたからである。
 何も無かったかのように。行方不明になったこと事実など存在していなかったかのように。佐々倉が熱望していた理想の世界がここにはあった。
 世界に甘んじることで、この世界こそが真実であると思い込もうとした。
 妻と娘に再会したとの喜びと感動を、今でも覚えている。二度と失うものかと心に誓った。二度と傍を離れないと、命を賭して家族を守る決意をした。
 そして、再び別れが訪れる。
 あの二人が本物ではないことは、最初から分かっていた。
 だからといって、心の底から見つけ出したいと思っていた家族と、もう一度別れなければならないことは、半身を引きちぎられる思いだったし、魂を削り取られるような苦痛だった。
 別れなど言えるわけが無い。このままいつもどおり家に帰って、そのまま日常を過ごすことが、最良の選択に思える。
 
 ぐにゃり
 
 家の正面にある塀が、奇妙に歪んだように見えた。
 目の錯覚か。
 目に涙がたまったために、視界が歪んだのか。
 ところが、歪みが生じたのは塀ばかりではない。
 近くにあった電柱が、渦に飲み込まれるように奇妙な蛇行を描いた。
 隣の家が、まるで立ち上る炎のように揺らぎ始める。
 ――分かっている。
 最初から分かっていた。世界が希薄であることは。佐々倉の記憶にある現世とは、もっともっと世界が詰まっていた。色鮮やかな生々しい存在感に満ちていた。薄い墨汁で描いた絵画のようなこの世界とはまったく違う。
 
 ぐにゃり
 
 足元のアスファルトすら、海上の波のように不安定になる。
 ――分かってる。分かってるから。
 この幻想の世界が崩壊しつつあるのである。
 幻想であると意識してしまった瞬間から。
 この世界を根底から構築する主である佐々倉(そしておそらく奏)が疑問を抱いた瞬間から、この世界は形を保てなくなっている。
 世界が失われるのは時間の問題。
 決断しなければならない。
 佐々倉は足を踏み出し、意を決して玄関を開く。
 佐々倉は玄関先で呆然と立ち尽くすことになる。
 扉の前には妻と娘が手をつないで立っていたのである。ずっとその場で、佐々倉の帰りを待っていたかのように。
「麻由美……沙紀、どうして……」
 茫然自失とする佐々倉をよそに、妻と娘はにっこり笑った。
「おかえりなさい、あなた」
「おかえりなさい、パパ」
 佐々倉は言葉さえ口をついてこない。
 この二人を、再び失わなければならないのか。
 くそったれの神め。
 それがどれほどの苦しみか、お前に分かってたまるか。
「あなた、いいのよ。私たちは大丈夫」
 妻が癒すように笑みを作った。
 妻と娘の背後にある階段が、永遠の奥行きを持つ渦のように歪んだ。居間に続くドアも、伸びたり縮んだり、膨らんだりしている。
 歪んでいく風景の中、二人の姿だけ鮮明である。いろんな絵の具を混ぜ合わせてかき混ぜたような背景に、二人が優しく佐々倉を見ている。
「ご、ごめん、麻由美……! 沙紀……!」
「いいんだよ、パパ!」
 沙紀が声を上げる。
 心なしが、距離が遠ざかっている。
「パパは、また私を迎えに来てくれるよね? ね?」
 涙が溢れた。
 同時に喉から「ああ」と声が漏れる。
 妻が娘を抱き寄せ「ほら、パパにバイバイして」と耳打ちすると、娘が手のひらを見せて横に振る。
 見る見る遠ざかっていく妻と娘。
 やっぱり間違っていた。
 俺は、この世界を見捨てるべきではなかった。
 今でも遅くない。
「待ってくれ!」
 手を伸ばすが、足は踏み出せない。
 もう、そこには世界が存在しなくなっている。
 消え行く世界に、二人は取り込まれようとしている。
 嘘だったとしても、この世界で妻と娘は本物として形成されていったはずだ。それを構築していったのはこの自分。自分の愚かさが作り上げた妻と娘という、たとえ虚像であっても、真実の二人を消すことなどできない。
 だが、世界はもう、それ以上の進入を許してくれない。虚像を拒否したのは紛れも無く自分。前進を拒んでいるのも自分。
「戻ってきてくれ!」
 声さえも世界にかき消される。
 薄れていく二人の存在感。
 悲しげな笑みを浮かべ、こちらに手を振る麻由美。
 消えていくその瞬間。
 麻由美と沙紀は、消え去るその瞬間を感じたのか、無表情になった。
 ――それが最後だった。
 
 
 
 あのまま帰ってしまって良かったんですか?
 このまま別れなんて悲しいです。
 一言でも声を掛けたほうがよかったんじゃないでしょうか。
 今からでも引き返して――。
 などと、背後から声を掛けてくるチリル・ルイサ姉妹の言葉に傷口を弄くられながら、奏は肩を落としつつ、トレミの居る河川敷に向かって歩いていた。
 あの後、奏は優奈に一言も声を掛けられず、黙って踵を返してしまった。
 だって、あの状況でなんて声を掛けられるっていうんだ。
 とぼとぼ歩いていくと、視界の片隅に違和感を覚えた。
 もう日はすっかり落ち、住宅街の道は、ところどころの街灯によって視界を保たれている。
 その街灯のひとつが、波打ったかのように見えたのだ。
「眼の錯覚……?」
 疲れているのか。気味が悪い。
 ところが、歩いていくうちに違和感は幾つも生じた。
 近くに居た飼い犬がほえた瞬間、犬の咆哮はエレキギターの高音のように細くなり、吸い込まれるように消えた。
 傍に見えた一軒家が、まるでプリンでできているように波打っている。
 まっすぐに見えていた道が、曲がりくねったり、登ったり下ったりしている。
 奏はめまいがして立ち止まる。
 背後を歩いていたチリル・ルイサ姉妹も立ち止まった。
 振り返って姉妹を見る。姉妹は不思議そうに奏を見返している。
「なにが……起こってる?」
 チリル・ルイサ姉妹の背後の世界も、物体それぞれが歓喜に踊り狂うかのように揺らいでいる。
「ああ……もう始まるのね」
 チリル・ルイサ姉妹は心なしか悲しそうに目を細めた。
「始まるって……なにが?」
「急いだほうがいいですよ。もうすぐ、世界が失われようとしてます」
「世界が?」
「この世界は、あなたの記憶と想像に支えられています。あなたがこの世界を疑った瞬間から、この世界は形を保てなくなってるんです」
「なにを……」
 嘘の世界。すべてが幻想であるのだ。夢の中と同じ。目覚める瞬間――現実に戻る瞬間――は必ず夢の世界は終わりを告げる。
「巻き込まれます。急いで。このままでは、あなたの記憶に、あなた自身が飲み込まれて、自我を失ってしまいますよ」
 チリル・ルイサ姉妹が、したたかに奏を押し出した。
「早く。戻る方法は私たちには分かりませんが、もうここに居ないほうがいいです」
「どういうことだよ。一緒に来ないのか? 君たちだって――」
「私たちの大部分はあなたの想像です。私たちの世界はここです。あなたが元に居た世界には行くことができません」
「そ、そんな。それじゃまるで、俺が君たちを勝手に生んで、勝手に消すみたいなもんじゃないか」
「消えませんよ。大丈夫。だってこの世界を構築するのは、記憶の集合体なんだから」
 そう言って、さあ、と奏を促す。奏を安心させようとしているのか、二人は優しく微笑んでいる。
 そんなことはできない。
 奏は二人を掴もうと手を伸ばしたとき。
 二人が遠ざかった気がした。
 二人が下がったのではない。
 空間の歪みに合わせるように、彼女らの位置もずれている。
「そ、そんな……」
「カナデさん……」
 二人の声は、もうあまりよく聞こえなかった。
「虚像だとしても、カナデさんが私たちを助けてくれたとき……私たちは本当にうれしかった……カナデさんの世界に生まれてよかったと……」
 二人の口は動いていたが、もう声は聞こえてこなかった。
 
 
 
 奏は一人、走っていた。
 道は風にたなびく布の上のように波打ち、進行方向は右に歪んだり、左に歪んだりする。
 もう、風景は色を混ぜ合わせた渦にしか見えない。
 巻き込まれてしまう。
 それでも必死に走ると、開けた場所に出た。
 空間は歪んでいない。
 早乙女川の河川敷だった。
 ここはまだ侵食されていない?
 背後を振り返ると、今やってきた道は、混沌に似た渦に取り込まれつつある。ここが浸食を受けるのは時間の問題に思われた。
「カナデ!」
 トレミの呼ぶ声だった。眼を向けると、川をまたぐ橋の傍でトレミが両腕を必死に振っている。
 駆け寄ると、トレミが奏に飛びついてきた。
「なにが起こってる? カナデ!」
 踊るように周囲を見渡しながらトレミが悲鳴を上げている。
 混沌の渦は河川敷までやってきて、奏とトレミの周囲数十メートルまで迫っている。川は飛沫を上げて霧を撒き散らし、雨のように水を降らしてくる。
「世界が閉じようとしてるんだ!」
「世界が閉じるって……! どうするの? カナデ!」
「佐々倉さんは!?」
 周囲に佐々倉の姿はない。
 混沌の渦が巻き起こした水しぶきで視界も遮られる。
 もう時間が無い。
 でも、佐々倉を置いていくわけには……!
「奏さん!」
 トレミではない、別の声がした。
 その声に、奏は愕然とする。
 水しぶきの奥から、人影が姿を現す。
「奏!」
 もう一人の声。
 その二つの声は、ともに知っている声。
 水しぶきの中から姿を見せたのは、優奈と琴だった。
「奏! どこなの!?」
「姉ちゃん!」
 声を上げると、琴が奏に気づいた。
「あんた! どこに行くつもりなの!」
 琴が声を張り上げる背後から、優奈も姿を見せた。
「奏さん……!」
「優奈! どうして!」
「だって……! ちゃんと説明したかったから!」
 そのとき、周囲に巻き起こっていた水しぶきが止んだ。
 川のほうを見ると、混沌の渦は川を越え、奏たちが居る河川敷まで迫っていた。もう時間が無かった。
 優奈が「これはなんなの? 何が起こってるの?」と慌てふためいている。
「奏、何か知ってるの? 何が起こってるの?」
 琴が訴えかけてくるが、答えることができない。
 トレミが奏の腕を引っ張る。分かってる。もう時間が無い。
「奏さん……。ちゃんと話しよう」
「優奈。もう時間が無いんだ」
「あの人は、なんの関係も無いの。ねえ、聞いてほしい」
 関係が無い? 恋人ではないということか。
「私、馬鹿だね。こんなにも奏さんのことが好きなのに。どうして逆ばかりのことをしちゃうんだろう。奏さんともっと話がしたいのに! もっと一緒にいたいのに!」
 奏はフラッシュバックのように思い出していた。
 優奈との交流。心地よく胸を鳴らす鼓動と、優奈の見せる何気ないしぐさの愛らしさ。大切な時間だった。変えがたい貴重な貴重な時間だった。
「ごめんな、優奈」
 そう言うと、優奈は首を横に振る。
「謝らないで、奏さん。それじゃまるで……」
 最後の言葉。
「行かないでよ、奏!」
 琴が喉が裂けるほどの声を上げた。
「分かってるよ、奏。でも、行かないで! また、私に死ぬほどの心配をさせていなくなるつもりなの?」
「姉ちゃん……」
「もう嫌よ、こんな思い! 戻ってきて、お願いだから……」
 苦しげな琴は、胸を押さえて訴えてくる。
 優奈も涙をこぼしながら前に足を踏み出した。
「こんな最後なんてやだ! もっと大切な思い出を作りたかった! もう一度、もう一度やり直そうよ!」
 もう一度……。
 かつて存在した、奏と優奈の間にあったわだかまりは消えた。こんなときに。今なら、あの幸福の時間を再現できる。また、元に戻れる。
「行ってしまったら、もう私は奏を許さないから」
 琴が泣きながら怒っている。
「こんな苦しい思いをするくらいなら、あんたなんか忘れたほうがましよ!」
「奏さんともう会えなくなるくらいなら、私もいっそ奏さんのすべてを忘れたい! 昔に戻って最初から出会わなかったことにしたい……!」
 苦しい。
 別れなければならないなんて。
 どうして、神様はこんないたずらを仕掛けたのか。
 天上から、奏が苦しむ姿を見て悦に入っているのだろうか。
 この世界が虚像だとしても、生み出したのは奏である。生み出された優奈や琴は模倣だとしても、存在していないわけではない。
 二人をどうにかして……。
「迷うな、奏!」
 迫り来る混沌の渦から、佐々倉が姿を現した。
 奏の左方向から姿を現した佐々倉は、いつもの顰め面が消え、ひどく悲しみに暮れたように奏を睨みつけた。
「さっきお前が言ったとおりだった! その二人は、決して虚像じゃない! これはハザマの世界で共有される人間の記憶で構成された、想いの集合体なんだ! これは別れじゃない! ここで過ごした記憶は、いずれ持ち主に還元される! ユーナや琴に向けたお前の思いは、現実に居る二人へ、必ず届く!」
「佐々倉さん……!」
 なんてことを言うのだろう。
 この場を乗り切るための嘘八百なのだろうか。
「奏……!」
「奏さん……!」
 琴と優奈が悲痛そうに奏を見ている。
「ごめん、姉ちゃん、優奈。二人とも大好きだよ。きっと家に帰るから。きっとユーナを連れて、家に帰るから」
 そのとき、琴と優奈の背後から迫り来る渦に、二人は吸い込まれるように消えていった。
 予想していなかった胸の痛みが奏を跪かせた。暫時、奏を動けなくする。
 混沌の渦は、周囲数メートルに迫っていた。
 佐々倉とトレミは四方八方から迫り来る渦に、絶望的な思いで立ちすくんでいた。
「奏! お前言ってたよな! 戻る方法がひとつだけあるって!」
 奏は必死に胸の痛みをこらえながら立ち上がった。
「それはまだやれるのか!?」
 奏はトレミを見た。
 トレミは子供のように泣きじゃくりながら、周囲から迫り来る絶望に震えていた。
「確実じゃない……。でも、ひとつだけ思いついたことが……」
 佐々倉は奏の胸倉を掴むと、顔を近づかせて怒鳴った。
「お前の軟弱なところが、本当に大嫌いだ! 前向きになったと思うとすぐにいじけて絶望したり、そう思ったら次にはもう復活してたり! お前のそういうところが大嫌いだ! でもな! 隔世でもお前の機転は見事だったと言うしかない! 本当に言いたくないが、俺はこんな状況でも、お前がどうにかしてくれるんじゃないかと期待してるんだよ!」
 俺が……どうにかする……?
 頼ってくれているのか。
 佐々倉が?
 あの佐々倉が……。
 奏は頷いてみせる。
「……分かりました。やってみます」
 佐々倉が奏の胸倉から手を離す。
 奏はトレミに向き直った。泣きじゃくって怯えるトレミの両肩を掴んで、引き寄せた。力いっぱいに抱きしめる。
「佐々倉さんもトレミを抱きしめて」
「トレミを?」
「早く」
 正面から抱きしめる奏の反対側から、佐々倉がトレミを抱きしめた。
 胸の中で体中をこわばらせて震えるトレミにささやく。
「大丈夫だよ、トレミ。俺たちが付いてる。今までだって、三人でどうにかしてきたろ。怖いことなんてなにも無いんだ」
 トレミが腕の中から奏を見上げた。
「この事象は、すべて作為的に仕組まれたものだと仮定するよ。誰かの仕業だとういことにするんだ。そのことに何らかの目的があるとするなら、きっとどこかに制約がある。これを仕組んだやつは、目的を成し遂げるために俺たちを閉じ込めた。この世界におぼれてしまったら俺たちの負け。抜け出すことができたら俺たちの勝ち。つまり、どこかにこの世界を抜け出すことのできる扉がある」
「……カナデがわたしの世界に来たみたいに?」
「そう。そしてね、その鍵となるのが、きっとトレミなんだ」
「……わたし?」
「うん。どうして、トレミはこの世界に居るんだ? 記憶を失うことなく、もともと、現世での俺や佐々倉さんの記憶に存在しないトレミが。トレミがこの世界にいること自体に違和感がある。それはトレミが鍵だっていう証拠だと思うんだ」
 混沌の渦は、もうすでに奏や佐々倉の背中をくすぐるところまで迫ってきている。だめかもしれない。決意するのが遅すぎたかもしれない。奏の想像はまったくの見当違いかもしれない。
「俺は、グロウリン城塞都市で眷族を強制解除する二ツ目族に会った。そのとき言われたんだ。俺の持っている眷族は二体だって。一体はチリル・ルイサ。もう一体はラナ・カン。なら、トレミは? ずっと分からなかったけど、やっと分かったんだ。トレミは俺の眷族じゃない」
「そうだよ。カナデは私の眷族だもん。カナデが眷族なんだ」
 佐々倉が不可解そうな顔をしているが、説明している暇はない。
「そうだよ、トレミ。俺がトレミを眷族にしてるんじゃないんだ。トレミは俺と、佐々倉さんを眷族として契約してるんだ。思えばずっとトレミはそう言っていたよね。俺と佐々倉さんはトレミの眷族だって。真剣に取り合って聞いてなかったけど、それは本当だったんだね。だから佐々倉さんはトレミの力に守られて隔世でも生きていけるし、俺はどうしてもトレミを召喚状態から解除することができなかったんだ」
「おい、奏……。そりゃ、要するに……」
「隔世とこの世界のつながりを持っているのは君だ、トレミ。君がこの世界と隔世を橋渡しするんだ」
「でも……どうしたらいいか分かんないよ」
「大丈夫、信じて。念じるんだよ。トレミは今から俺たちを召喚するんだ。ここではなく、隔世に」
「二人を?」
「トレミの実体は今でも隔世にあるはず。俺たちを召喚することで、隔世との結びつきを強めるんだ。そしたら俺たちはみんな、隔世で目覚めるよ」
 混沌の渦は、奏や佐々倉の背中の衣服を破り、皮膚を剥がしていく。
 それでも耐える。
 その中心にいるトレミを守るために。
「やって……! トレミ!」
 長くは持たない。いずれ渦が奏、佐々倉の肉を削ぎ、骨を破壊する。
「早く……!」
 佐々倉が苦痛そうな声を上げた。
 そのとき、トレミが決心したように言った。
「分かった! トレミ! やるから! 二人を救ってやる!」
 トレミが強く眼を瞑ると、二人の腕の中で祈った。
 きっと戻る。
 トレミが戻してくれる。
 いま試みている方法のすべては奏の勝手な想像である。
 これが確実だなんて、口が裂けても言えない。
 でも、佐々倉は言ってくれた。
 お前の機転に期待していると。
 トレミは奏の言葉を信じてくれた。
 お願いです、神様。
 なにもかも苦しいばかりの世界で。
 ひとつだけでも俺たちに希望を――。


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