あっちから変なの出てきた

----------------------------------------------------------------------
PREV                          NEXT
----------------------------------------------------------------------

第四章 【 虚無 】


 その後、佐々倉に乱暴に家を追い出された奏とトレミは、しぶしぶ家路に向かった。
 不思議な体験だった。自分の知らない人たちが、奏の名を呼び、そのたびに奏の魂に触れるかのような電撃が全身を襲う。
 トレミの言っていることは真実なのか。
 真実だとする場合、おそらく佐々倉は覚えている。そして、奏たちを歓迎していない。
 この世界が幻だとしたら、いま周囲に見える人々も偽者だというのだろうか。奏の想像が作り出した産物? それにしては、すべての人物、物体がリアルすぎる。
 あの家の軒下、あの歩道の脇に生えた雑草、すべてが想像の産物というにはきめが細やか過ぎないか?
「たぶんね、この世界はカナデがそこに意識を向けた瞬間に作られてるんだよ。だからわたしには良く分からない部分もあるんだ。でも、カナデにとっては見えない場所はなくてもいい場所だから、わたしにはぼんやり見えるんだよ」
「全部かな? 全部俺の想像?」
「ササクラの想像もあるんだよ、きっと。それに、ぜんぶカナデの想像じゃなくて、この中の誰かの想像も混じってるんだよ」
「中には本物もいるって言うのか?」
「たぶんね」
「なんでお前はそんなに詳しいんだ?」
 トレミが泣きそうな顔をカナデに向けた。
「知らないだろ、カナデは。トレミ、ずっとこの世界にいたんだぞ。ずっとカナデとササクラを探してたんだぞ。カナデがこの世界にやってきてからすごした時間と同じだけ、トレミはこの世界で迷ってたんだ」
 この世界の始まりを、奏の目覚めからとするなら、実に半年以上も……。
「いろんな人に会ったよ。いい人、悪い人、たいていはいい人だったけど、いやらしい人もいたし、生きていく知恵をくれた人もいた。わたし、前より喋るのが上手になった。この世界でいろんな人と話したから。とてもいい世界。奏の言ったとおり、みんな親切で優しい世界。でも、偽物なんだ。うその世界なんだ。わたしは知ってる。だから戻らないと。もどって、本当の奏の世界に行くんだよ」
 戻った世界。そこは一体どんな世界なんだろう。この現実が消えてしまう? 慣れ親しんだこの世界が? はたして、それが幸せなのか。そもそも、この世界が嘘だなんて信じれらるわけが……。
「トレミ、これからどうしよう。俺はまだ何も思い出してないし、まだ本気でこの世界が嘘だなんて信じられない」
「大丈夫。焦らなくていいよ。きっとまだ時間はあるから」
「でも、君はどうするんだ?」
「トレミは大丈夫。ずっと一人で生きてきたんだから、この先一人だって大丈夫」
「そんなこと言っても……」
 こんな女の子を放り出してもいいものか。どうにか琴を説得して家に置けないものか。
「わたし、住処があるから。時々、カナデが会いに来てくれれば、それで大丈夫だよ」
「住処って?」
「橋の下の、紙の家」
 橋の下の……ダンボールハウス? 要するに浮浪者か。させられるか、そんなもの。
「俺の部屋に居れば、たぶん大丈夫。親父はほとんど帰ってこないし、弦兄ちゃんも本部の傍に下宿してるし、昼間は姉ちゃんも階も学校だから」
「カナデの部屋?」
「うん。誰か入ってきても、クローゼットに隠れれば大丈夫だし。このまま俺の家まで帰ろう」
 トレミは顎に手を当てて「う〜ん」と悩む。
「やっぱいいや」
「なんでだよ」
「だって、不安だから」
 なんだって? それは奏が夜な夜なトレミを襲うかもしれないといっているのか。
「閉じこもりたくないの。できればすぐに動けるような場所がいい。こそこそしてたら、何かあってもすぐに動けないから」
 いまいち釈然としない理屈。でも、トレミの言うことを真実だと仮定すると、トレミはまったく知りもしない異世界に放り出されて、右も左も分からない毎日をたった一人で過ごしてきた。トレミなりの生活があるのかもしれなかった。
「分かった。場所を教えてくれれば、飯の差し入れをするよ」
「……ありがとう」
 
 
 
 それから一週間、奏はいつもどおりの生活を送った。学校帰りにはトレミに会いに行き、河川敷でコンビに弁当を食べながら隔世での出来事を聞いた。
 トレミとすごした時間はほんの少しの間。ファミリアの洞窟での冒険、三ツ目族という隔世の一国を支配する種族とのかかわり、その種族の住むグロウリン城塞都市への潜入。そこでトレミと行動を分かつことになり、トレミもその後の記憶が曖昧だという。
 何のきっかけで、この嘘の世界に迷い込んでしまったのか。迷い込む直前は、一体なにをしていたのか。その辺の記憶が無いという。
 トレミには最初から隔世の記憶が残っており(トレミが言うには、現世の記憶が無いからこそ、忘れなかったらしいが)、世界が偽物だということはすぐに気づいたらしいが、奏の住む世界の幻影だと気づくには百日ほどかかったという。
 かろうじて言葉の通じる人々に助けられ、浮浪者に食事のありつき方を教わり、交通ルールを教わり、移動手段を教わり、町中を練り歩いてようやく奏を見つけ出したという。
 この世界は、人も物も嘘であるが、存在していないわけではないというのがトレミの理屈。食事をしなければ腹が減るし、衰弱する。人に迷惑を掛ければ叱られるし、良いことをすれば褒められる。
 人間関係を築き、経験を重ね、それは記憶として残っていき、さまざまな記憶の集合体が世界の中で構築され、生活が成り立っていく。
 言葉足らずながら必死に説明するトレミの言葉を聞くうちに、説得されていくのを感じるが、それでも記憶は蘇らなかった。
「カナデが本当の世界に帰りたいと、心の底から思えたとき、きっと記憶が戻るんだよ」
 トレミはそう言った。
 ならば、カナデはこの嘘の世界に未練があるということになる。
 隔世での生活は熾烈を極めたと聞く。ならば、この平穏な世界から抜け出したくないと思ってしまうのは仕方ないことだ。
 隔世での奏の重大な目的とは、一体どれほど奏の心を支配していたのか。まったく実感できない。だが、こうしてトレミの話を聞きに毎日足を運んでいるのは、カナデもこの世界を疑っている証拠に他ならない。
 釈然としない何か。その正体は一体何なのか。この世界が嘘であるということが正解なのか。
 でも、この世界が嘘だとしても、このままでいいのではないか。
 このまま、放課後のトレミとの交流と、家に帰ってからのテレビ鑑賞、家族との会話。翌日の学校。友達との交流。十分に充実した毎日。
 嘘であったとしても、幸せであれば……。
 ふと、優奈の顔が脳裏をよぎる。
 優奈という存在の一点において、この世界で奏は苦しみを抱えている。
 トレミと別れ、夕暮れ時の土手を歩きながら、奏は強烈な寂しさを感じていた。トレミの言う隔世に戻るとなった場合、それはこの世界と、この世界の人々に別れを告げることになる。それも悲しいが、トレミの話が真実の場合、接している人々はみな、幻ということになる。本物ではない。偽物。その事実はあまりにも受け入れがたい。
 家に帰るなり、琴が居間から飛び出してきた。
「ああ、奏! いいところに帰ってきた!」
 なにやら焦っている。嫌な予感を抱きながら、琴は早口に言った。
「早乙女町の青空公園の術師から応援要請が入ったの。急遽、隣町担当の私達が応援に行くことになったの。すぐに行かないといけないから、夕食は出前をとって」
「青空公園?」
「そう。人外が発生したらしいの。目撃されているだけで五体も。駆除に手間取ってるから応援に行ってくる」
「五体も? 何級の人外?」
「全部C級の人外みたい。あそこの担当は術師が二人しか居ないから駆除に難攻してるみたい」
 かろうじて公園に結界を張ったが、公園内の人々の避難もできない状況らしい。人を傷つけるタイプの人外ではないらしいので、大騒ぎせずに処置するとのことだ。広い公園なので、人外を探し回るのに人手が居るのだろう。それで近場に居る琴にお鉢が回ってきた。
 ちょっとまてよ。
 奏は気づいた。
 出かけようと、玄関で靴を履いていた琴の背後から声を掛けた。
「姉ちゃん、ひょっとして助っ人って、姉ちゃんの上司の人も来るの?」
「佐々倉さんのこと? 来るわよ。あの人が来れば安心だしね」
「ふうん」
 七日前にトレミと尋ねてから会っていない。あれから二度、佐々倉を訪ねたが、居留守を使われて話もできていない。
 琴が家を出てから一時間後、奏は悩んだ挙句に術師の道具を持って家を飛び出した。
 青空公園は、奏が担当する予定のイスカ領域のある公園。かつては青空公園で人外が出没するのは稀で、人外向けの結界札で罠を作って、夜中に掛かっているか見に行く程度の仕事で十分だった。出現してもC級(攻撃性の無い小動物、植物の類)の人外が一月に一度、現れるか現れないかの場所であったのである。
 ところがあそこに人語を解する人外が出没してからというものの、頻繁に人外が発生する場所として、二名の術師を青空公園に常駐させることとなった。(奏がトリノス貝を見つけたことも大きく起因した)
 来年度からそこに奏が加わって三名体制となる予定だが、こんなことでは先が思いやられる。
 そこまで考えて、ふと奏は奇妙な感覚に襲われる。
 この先?
 そんなもの、あるのだろうか。
 奏が来年の四月から、青空公園配備の術師になった後の心配なんて……。
 もう、何を信じていいのか分からない。
 何を感じていいのかも分からない。
 もう、本当に良く分からない。
 
 
 
 青空公園に着いたころには日はすっかり暮れていた。
 時間はまだ十八時半。公園内には人通りが多い。こんなところに人外がうろついている。もっとも、人外は人の目には見えないから、居たとしても気づかれない。ただ、目に見えないといっても物体は存在するため、何かに触られた、ぶつかったなどといった怪奇現象の種になりかねない。
 公園に立ち入ると、空気が変わった気がした。公園を覆うように張られた結界のせいだろう。微妙に空気の流れが変化する。
 公園を歩いていくと、中央に位置する噴水公園にたどり着く。
「ここは……」
 胸の中に沸き起こる、ざわついた感覚。
 ここに、人語を介する人外が……。
 人語を介する人外?
 奏はその人外の瘴気に中てられて、操られ……。
 その人外はどんな容姿をしていた? 何体いた?
 覚えていない。記憶のロープをよじ登ろうとすると、たどり着く付近のロープには油が塗られ、滑ってそれ以上登れない。
「カナデさん」
 女の声で声を掛けられた気がして、周囲をうかがった。奏の横を通り過ぎているスーツ姿の男、小学生の集団、家路を急ぐ買い物袋を持った主婦。誰も奏の名を呼んだ様子はない。
 誰の声か。
 優奈の声。
 そう思えた。
「なにか……ここには、何かある」
 思い出せそうな気がする。ところが、記憶の扉を越えようとすると、目の前でバタンと扉が閉められてしまう。
 別の扉を探すが、目線を送った途端に、次々と記憶の扉が音を立てて閉ざされていく。
 奏は夢中になって公園を歩き回った。記憶の糸をたどるきっかけになるものはないか。奏の中のなにかが失われていることは、はっきりと分かる。その失われた部分が、ごく下らない記憶なのか、トレミの言ったことを真実だと裏付ける記憶なのか。
 そのまま青空公園を北に突っ切ると、公園の最北に位置する茂みに、人外を捕獲する結界の仕掛けを発見した。
 そこには二体の人外が掛かっていた。
「まさか……」
 人型の人外。
 成人と思われる女の人外が、二人身を寄せ合い、結界の中で震えていた。
 
 
 
「奏!?」
 背後から明らかに琴の声と分かる歓声が聞こえ、奏は弾かれたように背後を振り返った。
「奏……! お前……!」
 奏から十メートルほど離れた場所に、琴と佐々倉が立っていた。
「奏、あんたなんでそんなところに……」
 奏は答えられなかった。
 愕然と立ち尽くし、二人を見返していた。
 奏の様子に不穏な空気を嗅ぎ取ったのか、琴は目を細めると怪訝そうに睨みつけてきた。
「奏、そこをどきなさい」
 静かで、力強く、噴火直前のマグマが気泡のふくらみを作り出すかのような声。
 琴は一歩、足を前に踏み出した。
 奏は反射的に、懐から御札を取り出していた。
 琴は目を丸くして金縛りに合う。
「あんた、まさか、それは……」
 琴は知っている。人間に有効な御札。身をもって知っているはずだ。
「また……同じ過ちを繰り返す気なの?」
 琴の表情から怒りは消えていた。
「あのあと、どれほど大変だったか……忘れたわけじゃないでしょ」
 ひどく苦しみと悲しみに満ちた顔。
 奏は胸が苦しくなった。もちろん、後悔していないわけが無い。もう二度と、琴に心配を掛けたくなかったし、裏切ったりしたくなかった。
 琴が、一歩足を踏み出した。
 奏はとっさに御札を構える。
「私を……攻撃したかったら、攻撃しなさい。私は避けないわ。もう、二度とあなたに過ちを犯させない」
「ごめん、姉ちゃん」
 琴が足を止める。琴の背後では、佐々倉がじっと奏を睨みつけてくる。
「本当にごめん、姉ちゃん。俺、全部思い出したんだ。全部。結界に閉じ込められてる人外を見た瞬間に……全部」
「全部ってなにを? 何を思い出したの?」
「俺は、本当はここに居ないってことだよ。ねえ、佐々倉さん」
 佐々倉を見ると、憮然と顔を背ける。琴が振り返って佐々倉を見ると、問い正すように詰め寄った。
「佐々倉さんがなにか関係してるんですか? うちの弟のこと、知ってるみたいだったし」
 佐々倉は答えない。やはり佐々倉はすべて覚えている。覚えていながら、ここの生活を選び、甘んじたのである。思えば、佐々倉はずっと現世に帰りたがっていた。もしかしたら幻かもしれないと思いながらも、佐々倉はずっと幻想を抱いていたかったに違いない。
 琴は奏に向き直ると「どういうことなの?」と声を荒げる。
「説明しても信じない。きっと信じない。でも、悲しいよ。また、姉ちゃんと別れなくちゃならなくなるなんて」
「別れるってどういうこと? ちょっと待って。奏、何を考えてるの? お願いだから教えて。居なくなるってどういうこと?」
 琴が動揺してしまった。目に涙を溜め、必死に訴えかけてくる。
 これも嘘なのか。
 記憶の戻った今でも、目の前のことの存在が嘘だなんて思えない。
「奏、ちゃんとゆっくり話をしよう? できるでしょ? 仕事を終えたら、ちゃんと話すればきっと大丈夫」
「話はしたい。でも、姉ちゃん。この罠にかかった人外をどうするの?」
「聞かなくても分かってるでしょ」
「……そうだよね。でも、俺はもう知ってるんだ。俺の後ろに居る人外が、隔世でどんな生活を送ってきたか。それを知ってしまった以上、この人外にこれ以上の仕打ちなんでできるはずが無い」
 そうだ。
 これが嘘の世界であっても、結界に閉じ込められる人外が嘘であっても、もう知ってしまっている。隔世を知ってしまっている。ここで選ぶ選択肢は一つしかない。
「やめて奏。忘れたの? 後悔してるはずでしょ?」
「それでも、この人外は殺させない。だからごめん。姉ちゃん下がって」
 奏は御札を構えた。
 人間に有効な御札を持つ奏。
 いま、琴と距離がある以上、優位なのは奏である。
 ――佐々倉想平が居ない限りにおいては。
 佐々倉は飛び道具を持っている。
 その気になれば、奏の動きを封じる攻撃を瞬時に繰り出すこともできるだろう。
 奏はゆっくり後ずさりする。
 慎重に御札を構えながら。
 琴は苦しげに奏を見ている。佐々倉も奏の行動に注目している。
 結界に閉じ込められ女の人外二体に向かって、奏は声を掛けた。
「言葉が通じるのは分かってる。逃がしてあげるから、俺の言うことを聞いて」
 女の人外が顔を見合わせた。
「……私たちの仲間が三人殺された……もう……」
 殺された。
 そう、抹消されたのでも、処分されたのでもない。
 殺されたのだ。
「絶対に逃がしてあげる。俺の傍から離れないで」
 そう言うと、再び二人は顔を見合わせた後、目を潤ませて頷いた。
 奏は四方に置かれた結界のひとつを破棄し、結界を解除した。
「奏……どうなるか分かってるの?」
 琴が涙を流している。
 絶望的なことをしている。それはよく理解している。
 奏は二人の人外を起こすと、背後に隠した。
「分かってるよ。それでも、俺は人外を守る。命に代えてでも」
 琴は悲痛そうに目を閉じた。零れ落ちるしずく。何かの覚悟を決めるための一拍。次に目を開いたときには、奏を明らかな敵と認識した光を瞳に宿していた。
「ゆるして、奏。佐々倉さん、お願い」
 琴がそう言って一歩下がった。必然的に、前方に佐々倉が立つ。
 佐々倉は冷ややかに奏を睨みつけていた。
 佐々倉の持つ能力。
 手にはめられたグローブが戒具である。あそこから放たれる戒気の矢。本気で放ては人を殺せるだろう。
 佐々倉はおもむろに右手を持ち上げる。
 地面と水平になる腕。まっすぐに伸ばされた指先は、確実に標準を奏に合わせている。軌道は奏の眉間に向かって直線を描いている。
「佐々倉さん、あなたも覚えているはず」
「黙れ」
 佐々倉の唇が震えた。
 気づいているはず。この世界が本物ではないことを。
「本物じゃない。あなたの奥さんも、娘さんも」
「黙れ。殺すぞ」
「本当の奥さんと娘さんは、隔世の地下牢に閉じ込められてる。俺は覚えてる。佐々倉さんの奥さんと、娘さんの沙紀ちゃん。隔世で出会ったんだ。佐々倉さんも隔世のことを覚えてるはず。佐々倉さんは目を覚まし、本物の奥さんと娘さんを助けなくちゃいけない」
「……」
 佐々倉の眉間に刻まれたしわが、いっそう深くなる。黒い瞳が外灯の光に反射し「殺」の文字を浮かばせた。
「まだ間に合うかもしれない。今すぐに――」
「黙れ!」
 佐々倉は怒号とともに戒気の矢を出現させたかと思うと、間を空けず矢を放った。
 奏は強く目を瞑る。一瞬後に奏の眉間と鼻先と喉元を貫く――はずの矢は、一向に奏に炸裂しなかった。
 おそるおそる目を開けると、そこに見えたのは佐々倉の背中。
 矢を放つ直前、佐々倉は背後を振り返り、そこに居た琴に矢を放ったのだ。
「姉ちゃん!」
 奏は魂が抜けるような思いで琴に駆け寄った。仰向けに倒れる琴は、苦しそうに呻いている。
 良かった……生きてる。
「力を最小限に抑えた。ちょっとした電撃を食らったくらいのダメージだろう。数分で回復する」
 奏は佐々倉を振り返った。
 なんとも言えない、暗い面持ちの佐々倉が奏を見下ろしている。
「お前の言うとおり……などと死んでも言いたくないが……」
「いいんです、佐々倉さん。戻りましょう、隔世に」
 ちっ、と舌打ちした佐々倉は狂ってしまったかのように頭をかきむしった。
「隔世に戻るだと……! くそっ、なんで俺はまた隔世に……」
「いったん隔世に戻らないと、本当の現世にも戻れないですよ」
「……うるせえ。もう何も言うな。それより、隔世に帰る方法なんてあるのか。ああ、俺はなにを言ってるんだ。隔世に帰る方法? なんてばかばかしい言葉だ!」
 佐々倉にも相当な葛藤があるに違いない。馴染んでしまったこの虚像の現実と、本当の現実。信じたいものと真実、理想と現実の狭間で苦しんでいる。
「隔世に帰る方法は……たぶん、ひとつだけ思いつくことが……」
「なんてこった……! 方法があるのか! お前はなんでそんなに機転が利くんだ、くそったれ! どうせなら、隔世に戻った後、現世に戻る方法を思いついてくれ!」
 佐々倉が落ち着く様子は一向にない。
「佐々倉さん、早乙女川の河川敷にトレミが居ます。お互いに大事な人に別れを告げて、そこに行きましょう。トレミと一緒に隔世に戻るんです」
「ああ、うるせえうるせえ。こんなことなら、伊集院照子のところに行って、めちゃくちゃにぶん殴っとくんだった。どうせ嘘の世界だ」
「いいえ、佐々倉さん」
 奏はこの世界について気づいたことがある。
「この世界は本物なんですよ。空ろで希薄ですが、きっといろんな人の記憶の集合体なんです。ベースは俺たちの記憶でしょうけど、たぶん、俺たちの知っている人たちは、記憶を共有してるんだと思います」
「お前のおかしな理屈なんて聞きたくない。河川敷だな。二時間で行く」
「はい」
 佐々倉は、もはや人目などどうでも良くなったのか。やたらと喚き散らしながら公園を闊歩していった。
「ごめん、姉ちゃん」
 奏は上着を脱いで、琴に被せた。
「こんな別れになってごめん。でも、この世界での姉ちゃんも、ずっと忘れないよ」
 奏は琴の頭を優しくなでた。
 また琴と別れなければならないなんて。
 なぜ自分は、こんな世界に迷い込んでしまったのか。
 こんな悪趣味ないたずらを誰が……。
 人為的なものなのか、神の仕業かわからない。
 この世界にやってくる直前、隔世に何があったのかまったく覚えていない。
 いずれにしろ、ゆっくり考えている暇はない。
 奏は立ち上がると、身を寄せ合っている人外二人に向き直った。
「付いてきて。一緒に隔世に帰ろう」
 
 
 
 奏は優奈の家の前に立っていた。
 そこに立ち尽くしてどれほど時間が過ぎたのか。
「あの……」
 一緒にいた人外がおそるおそる声を掛けてくる。
「ごめん、ちょっと時間がほしいんだ。でも、勇気が出なくて……」
「ここに……何があるんですか?」
「ここには……ユーナが。本物じゃないんだけど、すごく傷つけてしまって……。別れる前に、一言でも謝りたくて」
 二人は顔を見合わせる。
 そりゃ、二人にとっちゃどうでもいい話だけど。
「好きな人ってことですか?」
 少し驚いて、二人の顔を見る。
「うん……好きな人」
「うまくいかなかったのですか?」
「……うん」
 二人は再び顔を見合わせると、二人同時に奏を見て言った。
「思いが通じないのは、とても悲しいことです。私たちなら大丈夫ですから、会ってお話をしてきてください」
 なんだ、その気遣いは。
「君たちは……姉妹なのか? 名前はなんていうんだ?」
「双子の姉妹です」
 どうりで顔がよく似てると思った。
「私は姉で、チリルといいます」
「私は妹で、ルイサといいます」
 名前を言われても、どちらがどちらかなんて、見た目では区別は付かない。
 それにしても、チリルとルイサなんて、どこかで聞いたことのある……。
 ちりる……るいさ……。
 え?
「なんだって!?」
 思わず声が大きくなると、優奈の家の二階の窓が開いた。
「あ……」
 見上げると、二階の窓から優奈が顔を覗かせていた。
 思いがけない登場に硬直する奏。
 奏の背後から、チリル・ルイサ姉妹が「ほら」と優しく背中を押した。
 奏の金縛りを姉妹に解除されて、奏は勇気を振り絞った。
 意を決して足を踏み出したときだった。
 再び奏を金縛りに掛ける事態が起こった。
 窓から顔を出した優奈の背後から、見覚えのある男が顔をのぞかせたのである。
 優奈の父親でも、家族でもない。
 以前、優奈の家の前で、優奈と楽しそうに話をしていた長身の男である。
 いつのまに家に上げるまでの仲に……。
 背後で、チリル・ルイサ姉妹が息を呑む音が聞こえてきた。


----------------------------------------------------------------------
PREV                          NEXT
----------------------------------------------------------------------

【訪問者】  【閲覧者】

inserted by FC2 system