あっちから変なの出てきた

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第三章 【 虚無 】


 仕方がなかった。
 どうしようもない。
 姉ちゃんはひどく怒るだろう。
 言い訳も浮かばない。
 奏は女を実家まで連れ帰ったのである。
 帰りの遅い奏を待っていた琴は、玄関に立っていた奏と薄汚い女を見て言葉を失ったのが分かった。
 次になにが起こるかも分かってる。きっと、浴びせるような罵声。
 奏の予想は正しく、琴は奏を頭から食らってしまうのではないかと思うほどわめき散らした。
 深夜だから……。落ち着いて……。話を聞いて……。
 琴の怒りがさめるのを待つこと十五分、その間、奏と女は玄関に立たされながら下を向いていた。
「ああ、もういいわ。もう何だっていい。あんたはいつだって、動物だろうと人間だろうとかまわず拾っては家に持って帰ってくるんだから……」
 声を上げすぎて息切れした琴は、心なしか覚束ない足取りで居間に戻っていく。
 戻りがけに振り返った琴は「いいから、その人をお風呂に入れてあげなさい。話はその後聞くから」と、ようやく家の長である琴の承諾を受けることができた。
 奏は女を風呂場に案内し、とにかく体を洗えと促した。
 風呂場に押し込んだ後、居間に戻ると琴の姿はない。しばらくすると、自分の服を持ってきた琴が、奏に服を投げつける。
「私の服を着させなさい。古い服は捨てるから。彼女がお風呂から上がったらちゃんと説明するのよ」
 はい、と素直に返事をしておいた。
 女が風呂から上がってくる気配がすると、風呂場のドア越しに、用意した服を着るように伝えた。
 やがて、奏と琴の居る居間にやってきた女を見て、奏も琴も愕然とした。
「あなた、子供なの?」
 琴が呆然と言った言葉は、奏も同感だった。
 奏より年下に見える。年のころ、十三歳くらいから奏の同い年か。少なくとも上には見えない。
 琴が奏を睨みつける。さあ、説明してもらおうかとプレッシャーを掛けてきたのである。
 ところが奏も、彼女の素性については何も知らない。しかたなく、ゴミ捨て場で助けた経緯を琴に話して聞かせた。
「それじゃ分からないわ」
「俺だってわからないんだよ。事情はその子から聞こう」
「でも、この子、喋れないじゃない。喉が枯れてるのよ。うちには薬はないし、やっぱり病院に」
 琴がそう言うと、女は「あううあ」と声を上げて、必死に首を横に振った。
「とにかく事情を聞こうよ。病院はそれから」
「でも、言葉を話せないんじゃ事情も聞けないでしょ」
「字を書いてもらえばいいよ。ほら、台所のホワイトボード」
 台所の冷蔵庫には、家族同士の伝言用にA3サイズのホワイトボードがあった。琴がホワイトボードを持ってくると、水性ペンと一緒に女に手渡した。
 女はいったん受け取ったものの、困ったように突き返してきた。
「まさか、字が書けないの? 何でもいいのよ。英語でも中国語でも」
 女は再び首を横に振る。字自体が書けないらしい。
 字が書けなくても、言葉は通じている。学校で習わなかったのだろうか。そもそも、幼く見えるのに浮浪者のような格好をしているし、学校に行けなかった事情があるのかもしれない。
「埒が明かないわね。言葉も話せない。字も書けないじゃ、意思疎通もできない。悪いけど、やっぱり病院に戻ってもらうしか」
 後はジェスチャーゲームのように意志を汲み取るか。そんなことをしていては朝日が昇ってしまう。
 さてどうしたものかと悩み始めたとき、女はおもむろに奏に近寄って、奏の両手を取った。
「あうう……」
 女――少女はひどく悲しそうに涙をこぼし、奏の瞳をまっすぐに見つめた。
 少女が涙目で見つめてきたら、男ならどうにかしようと思うのが本能だろう。
 少女は次に奏の胴体に腕を回すと、きつく抱きしめてきた。
「ちょっと……」
「あうううっ」
 少女は声を上げて、奏の胸で泣き始めた。
 まるで、生き別れた恋人との再会のように。
 奏は戸惑って琴を見た。
 琴はため息を漏らしている。
「姉ちゃん、俺、どうしよう」
「どうしようって言われてもね」
 やるしかないのか。
 一度は封印した禁忌。
 でも、少女は困っている。
 どこかに両親が居て、心配しているかもしれない。
 彼女が頼れるのは、今この世で、奏と琴しかいない。
「姉ちゃん、治癒の札、あったよね」
「治癒の札? あんた、なにを言ってるの?」
「だから、治癒の札。持ってきてよ」
 琴が目を丸くした。
「あんた、まさか! そんなことしたらどうなるか分かってるの? 一度やって反省したんじゃなかったの?」
「でも、ほかに方法が……」
「だめよ、絶対だめ。あんた、また同じ過ちを犯すつもり? 前に人外を助けて、しかも」
 人間に有効な御札を使用して、テロリスト扱いされた。もう一度、あの禁忌に手を出すことは、組織に対する重大な反逆行為。発覚すれば暗殺されてもおかしくない。
 二度目はないのである。
「姉ちゃん、お願いだよ。姉ちゃんさえ黙ってれば、誰にも知られないから」
「その子は知ることになるわよ」
「そこは姉ちゃんの機転でどうにか……」
「だめ、絶対にだめだからね。本当に一家心中になるわよ。御札は組織に配給の管理をされてるんだから、使ったら報告しなくちゃならない。いずれ知られるわよ」
「でも、言葉の喋れないこの子は、もう俺たちしか頼る人間が……それに大丈夫。使うのは御札の中身だから。破裂させなければ大丈夫」
「どうやって? そんなことできるの?」
「戒具を媒体にすれば、御札は壊れることなく、中身の効果だけ外に放出できるんだよ。御札があれば、組織も怪しまない」
 そう言うと、琴は頭を抱えるように頭を掻いた。
「ああ、なんてことなの。なんだって、あんたはいつも私を悩ませるの……? 兄弟の中で一番おとなしいあんたが、一番私を悩ませる……」
「問題児でごめん」
 そう言うと、琴は「ああ、もうっ」と声を上げながら居間を出て行った。戻ってきたときには治癒の札を手に持っていた。
「これが最後よ。二度としないと今ここで約束して」
「二度とやらない。だって、二度とこんなこと起こらないから」
 決して納得していない琴は、それでも仕方なさそうに奏へ治癒の札を手渡した。
 奏の胸で泣く少女をソファーに座らせ、奏は台所の包丁を持ってくると、御札に細工を施した。
 木炭のように黒光りする立方体の塊。その表面には奇妙な紋様が描かれている。これは言わば鍵穴。人外が持つ瘴気を読み取り、御札が破裂することで効果を発する。だが、紋様を意図的に変え、人間の情気に反応するように書き換えれば、人間に有効な御札となる。これは、自然管理委員会で二度と使用するなと誓約書に一筆書かされた。
 いま、禁を破る。
 人を助けるためなら、禁ほどくだらないものはない。
 奏は戒具を媒体にして、治癒の札の力を、少女の喉に向けて放出した。
 少女はきょとんとしたままソファーに座っている。
 さて、効果あったのか。
「喋ってごらん。喉は治ったかな」
 少女は不思議そうに声を上げようとした。一回戸惑ったかのように喉を触る。不思議と痛みが取れている。そう思ったのか、彼女は顔を起こし、口を開いた。
「カナデ」
 奏の名を呼んだ。不思議はない。これまで琴がなんども奏の名を呼んでいる。
「カナデ、わたしだよ」
「わたし?」
 少女の声は完全に戻っていない。掠れたように震えている。
「わたしだよ。分からないの?」
「知り合い……?」
「わたし、カナデを見つけるまでにすごく時間がかかった。大変だった。苦しかった。ここがどこだか分からなかった。でも、カナデの世界だと分かってから、わたし、ずっと探してた。カナデとササクラのこと」
 少女は唇をわななかせると、涙で膜の張った瞳で奏を見上げた。
「やっと会えた……。長かった……。カナデ……、わたし、トレミだよ」
「トレミ……?」
「そうだよ! ずっと一緒に旅してた! カナデ、約束した! わたしをカナデの世界に連れて行ってくれるって!」
 いったいどういうことだ。
 ササクラ?
 その名前で思い浮かぶのは一人しか居ない。
 藪北ファミリーの一人。
「ササクラって、まさか……」
 そう声を上げたのは琴である。
「まだ何も分からない。俺だって、この子に見覚えがないんだ」
「どうして!? わたしを覚えてないの? 眷族は? わたしとカナデは契約したんだ!」
「眷族……? 契約……?」
「カナデはこの世界にわたしを連れてきてくれるって約束した。でも、違うのカナデ。これは本当の世界じゃない。お願い、思い出してカナデ!」
「本当の世界じゃないって……そりゃ、どういう意味……」
「わたしも良く分からない。でも、絶対に違う。へんなの。ずっとカナデを探しながら、変なところがたくさんあった」
「変なところって?」
「うまく説明できないよ、カナデ。でも、行けないところがあるの。道はたくさんあるけど、道は続いてるけど、その先にいけないところがあるの。たぶん、この世界はカナデのもの。カナデの世界。だから、カナデの行ったことのない場所は、わたしも行けないの!」
 戦慄を覚えた。
 この子はいったいなにを言っているのか。
 大真面目にそんなことを言っているのか。
 ひょっとして、どこかの精神病院から脱走してきたのでは?
「ほんとうだよ、カナデ。行こう。行けない場所があるんだ。そこに行けばカナデもきっと信じる。わたしと行こう」
 奏は琴を見た。琴は怪訝そうに首をかしげている。
 その様子に、トレミはさらに声を上げる。
「信じて! お願い! これはきっと夢! カナデの夢の中! 奏はまだユーナも助けてないんだ!」
「優奈? お前は優奈を知ってるのか?」
「カナデの助けようとしてる人だよ。カナデはユーナのために、ずっと隔世を旅してたんだ。わたしと一緒に!」
 隔世……? 旅……?
「まだ旅の途中だよ! 何も終わってない! わたしも全部は覚えてないの! お願いだから思い出して!」
 旅の途中……優奈……ユーナ……。
 そういえば、夢を見ていた。
 長い長い夢。
 奏が人外と逃亡して、捕らえられ、意識を失い……。
 記憶が曖昧だ。
 人外と逃亡? その人外はいったいどんな姿をしていた? 名前は? 意識を失っていた一ヶ月あまり、長い夢を見ていた。
 その夢は……。
「奏!」
 突然、琴が大きな声を上げると、奏の両肩を掴んで揺すった。
「しっかりしなさい! これは現実よ! 私を見なさい!」
 琴が真剣な相貌を奏に向ける。
「いい? この子が何者なのか分からない。でも、あんたはこの現実に生きて、生活してる。隔世なんていってないし、優奈ちゃんは二軒隣の家に住む女の子よ。分かってるでしょ?」
 姉ちゃん……何をそんなに必死になってるんだ。そんなこと分かってる。この女の子の言葉を信じるわけ無いだろう。
 トレミと名乗った女の子は押し黙ってしまった。だが、訴えかけるような視線は奏に向けたまま。
 何か思い出しそうだった。そして、なにか腑に落ちないものが喉を支えている。
「奏、あんた……」
「心配しすぎだよ、姉ちゃん。信じたわけ無いだろ。ただ、この子が俺のいろんな事情を知っているように思えたから驚いたんだ」
「そう……なの」
 琴は奏の両肩から手を離す。
「とにかく、この子は病院に送ろう。これ以上は面倒見れない。それでいいわね、奏」
 それでいいのか、奏。
 自問する。
 いや。
「姉ちゃん、まだ会話は終わってない。まだ何も話せてないよ」
 奏は少女に視線を戻す。
「トレミちゃんっていったっけ」
「うん。トレミだよ」
「君の言っていることはとても信じることはできないけど、とにかく今日はこの家に泊まっていって。一晩、この家で休んだら、明日は病院に行く。約束できる?」
 少女は訴えかけるように奏を見上げている。
「大丈夫、君の話はまだ聞くよ。でも、約束できないなら、今すぐにも病院にいってもらう」
「わかったよ、カナデ。トレミ、あした病院にいく」
 奏は琴を見た。琴は観念したように頷いた。
「姉ちゃん、なにか彼女に食べさせてあげて」
 府に落ちなそうな琴は、しぶしぶ腰を上げて台所に消えた。
 奏は少女に向き直る。
 奏はどうしていいかわからなかった。とにかく、明日まで時間を引き伸ばすことしかできなかった。
 このトレミという少女が言っていることは何もかもがおかしい。それは分かっている。でも、なにか引っかかる。思えば永い眠りから目を覚ましてから、ずっと心の中にわだかまりがあった。ひょっとしたら、この少女が答えをくれるかもしれない。
 何の根拠もない。
 ただ、奏はそう予感しただけ。
 そう期待しただけ。
 
 
 
 一ヶ月間、眠っている間にどんな夢を見ていたのか。とてつもない重要なことを成し遂げようとしていなかったか。それは自分の全存在にかかわるようなことだったような気がするのに、内容をまったく思い出すことができない。
 朝早く起きて、まだ琴が起き出さないうちに、一階の客まで眠っていたトレミを起こした。
 トレミは布団に包まりながら眠気眼で周囲を見渡して、しばらく自分がどこにいるのか考えているようだったが、思い出したように声を上げた。
「ああっ! カナ――」
 トレミの口を慌てて押さえる。
「静かに。みんなまだ眠ってるんだ。いい? 静かに」
 トレミが口を押さえられながら頷いたので、手を離した。
「……カナデ、どうした、こんな朝早く」
 トレミは声を押し殺して尋ねてきた。
「確か、君は昨日、佐々倉さんのことを言ってたよな」
「うん。旅の仲間だ。わたしの眷族だ。あいつはわたしが居ないと、なにもできないんだ」
「よし。じゃあ、物音を立てないように家を出よう。佐々倉さんに会いに行くんだ」
 そう言うと、トレミは目を輝かせて頷いた。
 忍び足で家を出る。まだ日の昇りきらない早朝。家の周囲の住宅街にも人影はない。物静かな朝の住宅街を、佐々倉の家に向かって歩き出す。
「ここが、カナデの世界なんだなぁ」
 周囲を眺めながら、しみじみとため息をつくトレミ。
「声、すっかり良くなったね」
「うん。さすが、カナデ。いつも優しい」
 トレミが奏の腕に巻きついてきた。
「おい、くっつくなよ」
「どうして? トレミ、この世界だとおっきいから、頭には乗れないし」
「おっきい?」
 家を出てすぐ、まだ住宅街を歩いているころ、奏たちの前方から、誰かが走ってくるのが見えた。
 奏の腕を抱えるトレミの力が強くなった。怯えているのだろうか。
 正面からやっていたのは、ただの早朝ランナーだった。この辺ではよく早朝にジョギング、ランニングする住人を見かける。
 優奈も習慣にしていた。
 そして、目の前からやってきたのも優奈だった。
 優奈は奏とトレミに気づくと、奏たちの正面十メートルほど離れたところで立ち止まった。呆然と、こちらを見ている。
 挨拶する習慣もなくなった。すれ違っても目を合わせなくなった。あれほど距離の近かった二人は、他人同士のようになった。
 だけど、今日の優奈はじっと奏を見ていた。
 少しだけ息を弾ませて、流れ落ちる汗をぬぐうことなく、奏を見ていた。
 奏は気まずい思いをしながらも前進した。
 すぐ横を通り過ぎる。
 優奈はこちらを見ていた。
 奏は見なかった。
 トレミはじっと優奈を見ていた。
 横を通り過ぎても、トレミは後ろを振り返って、優奈を見ていた。
 やがて角を曲がり、優奈の姿が見えなくなったとき。
「あれ、ユーナだよね。コソボ婆のところでみた……」
「なんで知ってるの? 優奈のこと」
「だってカナデ……ユーナのことも忘れたの?」
「忘れていないよ。優奈は二軒隣に住む幼馴染だよ」
 トレミは口を尖らせて逡巡する。
 合点があったのか、トレミは奏の腕を揺すった。
「思い出した。この世界は奏の想像の世界なんだ」
「想像の世界?」
「あのユーナは、カナデの想像なんだよ」
 想像だと言われても……。そんなのピンと来るわけがない。
「そういえば、昨日もそんなこと言ってたね」
「それより、本当にユーナを忘れたの? さっきユーナの横を通り過ぎたとき、振り返ってユーナのことを見てたら、とてもとても悲しそうな顔をしてたよ。どうしてあんなに悲しそうにしてるの?」
「悲しそうに?」
「カナデは、ユーナのために命がけで世界まで渡ったのに。どうしてユーナを悲しませるの?」
「そんなことを言われても……」
「覚えてなくても、気持ちは残ってるんだ。だから、いまカナデはわたしと一緒にいて、ササクラに会いに行こうとしてる」
 それは否定できない。
 一ヶ月ものこん睡状態から目を覚ましてからというものの、ずっと奏は大事な何かを忘れてしまっている気がしていた。
「だいじょうぶ。きっと思い出す」
 トレミが励ますようにそう言った。
 
 
 
 佐々倉の家は、もちろん家を出る前に調べてある。
 奏の住む町の隣町に住んでいる。電車で言えば二つ隣の駅である。
 トレミは電車に乗るのが初めてかのように怯え、それからはしゃいだ。
 電車を降りると、そこは高級住宅街。大きな一軒家が連なるハイソサエティーの集落である。
「カナデ、ここには来たことがあるの?」
「ないよ、一度も」
「ふうん、おかしいなぁ」
 トレミは周囲をきょろきょろしながら首をかしげている。
「なにがおかしいんだ?」
「だって、カナデは知らない場所にはいけないはずだもん」
「どうして?」
「どうしってって、カナデは知らない場所を知らないからだよ。わたしだって、カナデの知らない場所にはいけなかったんだ。道の先が見えるんだけど、進もうとすると力が抜けて、歩けなくなる」
「そんなことある訳がない」
「あるんだもん。しかたないじゃん」
 会話を交わしてるうち、佐々倉の家に付いた。二階建て住宅。庭を含めると二百平米はありそうだ。
 まだまだ早朝の内。周囲にも人影はない。新聞配達員か、朝早くから出勤する会社員の姿がちらほら散見される程度。
「いよいよだな、カナデ」
 トレミが胸の前で手を組んで緊張している。
 奏はインターフォンに手を伸ばし、佐々倉の家の呼び鈴を鳴らした。
 インターフォンのスピーカーから聞こえてくる鐘の音。
 しばらくすると、女性の声で返答があった。
 ――はい、どちらさまでしょうか。
 奏とトレミは顔を見合わせる。どうしようか。女性の声だ。
 奏はインターフォンに口を近づけて答えた。
「鳴音奏と申します。佐々倉想平さんのお宅で間違いないでしょうか」
 ――ええ、そうですが。
 若干、不審そうに声のトーンを落とす女性。
「僕は佐々倉さんと仕事仲間の者です。佐々倉さんはご在宅でしょうか?」
 ――失礼ですが、ご用件は何でしょうか。お約束されてますか?
 警戒している。当然の反応か。
「早朝に申し訳ありません。どうしても緊急の用件がありまして。すぐにお話したいと伺ったのですが、ご迷惑であれば……」
 ――……少々お待ちください。
 女性がインターフォンから離れる気配。佐々倉を呼びに行っているのだろうか。しばらく待つ。
 トレミがトイレを我慢しているかのように地団駄を踏んでいる。
 緊張しているのかと思ったら、本当にトイレを我慢しているようだ。
 しばらくして、再び女性の声で返答があった。
 ――大変申し訳ありませんが、想平は別件の用があって、応対できないとのことです。
「すみません。それなら、トイレだけでも貸していただけないでしょうか。連れがずっとトイレを我慢してまして……」
 ――トイレを?
「ぶしつけで申し訳ありません。不慣れな土地で、公衆トイレの場所も分からず……」
 しばらくの沈黙。
 ――仕方ないですね。おあがりください。
 そう返答があると、少しの間があって、玄関が開いた。開いた玄関の先には女性の姿。
「どうぞ。ご案内します」
 女性はいやみのない表情で家の中へ促した。
 トレミはお腹を押さえながら亡者のように歩く。
「さあ、トイレはこちらです」
 トレミは女性に案内され、玄関正面の階段脇にあるトイレに連れて行かれた。
 玄関で立ち尽くす奏。
 手持ち無沙汰に家の中を眺める。
 佐々倉には会えそうにもないが、これが最後な訳ではない。
 たちぼうけしている奏の正面を、子供が横切った。熊の人形を抱えた少女である。寝巻き姿のところを見ると、寝起きらしい。
 少女はちらりとこちらを見た。
 小さな声で「こんにちわ」と会釈する。
 おはようございます、と答えてはあてつけがましいので、奏は「こんにちは」とお辞儀する。
 少女はいったん居間に消えると、すぐに戻ってきて、奏に向かって手を差し出した。
 なんだろうと思って、少女の差し出した手を見ると、ひとつの飴玉が乗っていた。ルビーの宝石のような丸い飴玉。
 
 ぞくり
 
 うなじあたりを毛先の固い筆で撫で付けられたような感覚が襲った。
 奏は少女の手のひらに乗った飴玉を見ながら、金縛りにあったかのように動けなかった。
「サ、サキちゃん……?」
「うん? うん。佐々倉沙紀です。飴、あげる」
 飴を受け取ることができない。身体をピクリとも動かせない。
 なんだ、この感覚は。
「いらないの?」
 少女が不満そうに口をふくらます。
「あ、いや、ありがとう」
 奏は石膏で固められてしまったかのような関節を動かし、少女から飴玉を受け取った。
 飴玉は少女の体温に温められ、表面が少し溶けている。
 少女は「ばいばい」と手を振って、居間に消えていった。
 呆然と飴玉を眺める奏。
「なぜ……俺は彼女の名前を……」
 水洗トイレの水を流す音が聞こえると、トレミがトイレから出てきた。
 幸せそうな顔だ。
「すごいよな、奏の世界の便所は」
 水洗トイレの音を聞きつけた女性が、玄関に現れる。
「あ、お手数おかけしてすみま――」
 
 ぞくり
 
 まただ。この感覚。
 ――あなたは、さっきの少女の母親。
 少女を必死に守り、奏に非難を叩きつけてきた母親。
 記憶というには、あまりにも取り留めのないイメージが、目の前を高速で駆け抜けていく。
「用が済みましたら……」
 女性が控えめに退室を促してきたとき、再び居間の扉が開いた。
 出てきたのは少女。
 少女に手を引かれてやってきたのは。
「さ、佐々倉さん……」
「か、奏か……」
 佐々倉想平が目をまん丸にして奏を見た。
「ササクラ!」
 トレミが声を上げると、佐々倉は殴られたようにトレミを見て、目を剥いて叫んだ。
「ト、トレミ!」
 見る見る青ざめていく佐々倉の顔色。
「な、なぜここに……!」
 トレミを知っている。
 そして、初対面のはずの奏も知っている。
 誰もが愕然とし、言葉を失ったころ、少女が誇らしげに言った。
「パパに会わせてあげるって言ったでしょ、ね、奏!」


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