あっちから変なの出てきた

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第二章 【 虚無 】


 合格通知に喜びの感情も抱けないまま、奏は家路に着く。
 帰り道には優奈の家の前を通ったが、ソフトボール大会のことを謝るのは、もう少し時間を置いたほうがよいだろう。それに少し時間を置かないと、優奈にタックルしたもっともな言い訳を思いつきそうにない。
「ただいまー」と声を上げて玄関を入ると、普段、琴の「おかえりー」の返答のあるはずの居間のほうが、しんと静まり返っている。
 明かりは点いているようだ。
 まさかとは思うが。合格を聞いた琴が合格祝いなんかを計画して、クラッカー片手に居間で息を潜めているのではないか。
 一抹の不安を抱きながら、今のドアノブをつかむ。
 ドアを開けると、その先には明かりのともった居間。
 奏の想像を裏切って、琴は台所で夕食の支度をしていた。
 なんてことはない。日常の風景。
 ところが。
「お帰り、奏さん」
 居間のソファーに腰を掛け、無表情でこちらを見ていたのは優奈だった。奏は居間に入るなり硬直し、立ち尽くすしかない。
「どうしたの? 座ったら?」
「あ、ああ」
 あからさまに怒っている。そりゃそうだ。大事なソフトボール大会。あんな形で台無しにしたのだから。言い訳だってまだ用意していない。
 奏は機械仕掛けのようにぎこちなく、ソファーから離れた食卓の椅子に腰掛ける。
 優奈はじっと奏を見ている。奏は居心地悪そうに襟首あたりをいじくるしかない。
 救いの女神のように琴が居間に戻ってきた。
「あら、奏。帰ってたの。あんたもお茶飲む? 優奈ちゃんがあんたのこと待ってたのよ」
 琴はのんきにテーブルにお茶を置いている。琴は事情を知っているのだろうか。
「どうしたの? ほら、あんたもこっちに来なさいよ」
 琴が、優奈の座るソファーのほうへ無邪気に手まねている。
 優奈は物言わず、ソファーに腰掛けている。
 優奈はいったい、どういうつもりできたのだろうか。謝ってほしいのか、怒りをぶつけに来たのか。
 謝るしかないのだ。ただひたすら頭を下げてみるしかない。
 奏は鉛のように重くなった腰を上げ、優奈とテーブルを挟んで向かい合うようにソファーに腰掛けた。
「優奈ちゃん、このチョコレート、おいしいのよ。ほら、食べてみて」
 琴がテーブルの上のチョコレートを優奈に薦める。優奈はにっこりと笑ってチョコレートを受け取ると、口に運んだ。
 口をもごもごと動かせながら、視線を奏に戻す。もう笑っていない。無言のプレッシャーだ。
「ごめん」
 奏はたまらず声を上げた。
 琴が不思議そうに奏を見た。
「誰に謝ってんの? あんた、何かしたの?」
 琴がきょとんとする横で、優奈はやはり口を利かず、奏をじっと見つめている。
「本当に、ごめん」
 再度謝るが、琴は優奈の顔を見たり、奏の顔を見たりしている。
 せめて、優奈に何かしゃべってほしい。怒りでも悲しみでもいいから、感情を見せてくれないと恐ろしくて仕方がない。
「……どうしてあんなこと、したの?」
 優奈が静かで、重々しく口を開いた。
「ど、どうしてかな」
「だって、変でしょ。大事な大会だって知ってたはずだし、奏さんは邪魔するような人じゃないし……」
「なんか、俺、おかしくなってたのかもしれない」
「おかしくって?」
 琴が首をかしげている。やはり事情を把握していないらしい。何事だろうかと戸惑っている。
 後でゆっくり言い訳を考えるつもりだったのに。なんて理由付けたらよいのだろうか。脳はフル回転するが、熱ばかり発して空回りし続ける。
「やっぱり邪魔したかったの? でも、どうして? 応援してくれてたんじゃなかったの?」
 優奈の声は徐々に刃物じみてくる。
「邪魔したかったわけじゃ……応援してたのは本当だし」
「じゃあ、なんで? なんで試合の邪魔したの? 私のことがそんなに嫌いだったとか」
 琴がたまらず横槍を入れてきた。
「邪魔したとか、嫌いとか、奏、あんた何したのよ」
「いや、俺は……」
 言いたい。この場に優奈がいなければ、大声で本当の理由を叫びたい。
 突如、目の前の優奈が目に涙を溜め始めた。悔しそうに下唇をかみ締め、わなわなと肩を震わせる。
「もういい。奏さんの気持ちはわかったから」
 そう言って優奈は立ち上がると、早足に居間で出て行った。慌てて追いかける琴。玄関先で優奈といくつか会話を交わしていたが、優奈は家を出て行ったらしく、琴が一人で居間に戻ってきた。
「あんた、いったい優奈ちゃんに何したの? あんな強い子が泣くなんて。ちゃんと説明しなさい」
「だから」
 優奈の帰った今、正直に話ができる。
 今日の昼間、起こった出来事を洗いざらい琴にぶつけると、琴も困ったように額をなでた。
「なるほどね。ソフトボールの試合で、同点のチャンスをタックルで潰したと。何も知らない人から見れば、ただのとち狂った奇行よね。あらら。面倒なことになったわね」
「どうしたらいいと思う、姉ちゃん」
「あんたはどうしたいの? もちろん、本当のことなんて言えないんだから嘘つくしかないわよね。いい機会だから聞かせなさい。あんた、優奈ちゃんのこと、どう思ってるの?」
「どうって……」
「幼馴染ってことは知ってるし、仲がいいのも知ってるけど、恋心はあるのかって聞いてるの」
「こ、恋心って……」
 奏も高校一年生。立派に恋だってしてもいい思春期の少年。
 だけど、優奈をそんな風に見たことなんてない。
「いい、奏。大事な大事な試合を潰された奏のことを、優奈ちゃんは尋ねてきたのよ。それは、あんたに何か理由があって、そんなことをしたんじゃないかって優奈ちゃんは思いたかったの。どうでもいい相手だったら、ただ嫌いになってさよならなんだから。あんたが優奈ちゃんをどう思ってるか知らないけど、大切な人なら、必死になって謝りなさい。言い訳は一緒に考えてあげるから」
「……うん」
 恋心云々はわからないが、こんなことで絶交なんてしたくないのは確かだ。
 
 
 
 その後すぐに伊集院照子が日本酒の一升瓶を持って訪れてから、奏が卒業試験に合格した旨を知らせた後は、優奈のことなど忘れ去ってしまった琴が、やれ祝いだ、やれパーティだと食事を用意し、伊集院照子と一晩中酒を酌み交わした。
 夜中に疲れ果てて寝床に入った奏は、やっと心を落ち着けて、優奈に対する言い訳を考える時間ができた。
 あの時、優奈のほうにボールが飛んできたから、とっさにかばったんだ。
 ……だめだ。そんな嘘、現実的ではない。
 あの時、優奈を狙うスナイパーの凶弾から守るため、とっさに飛び掛ったんだ。
 ……それこそ、三文ドラマのくだらないシチュエーション。信じるわけないし、さらに嘘の上塗りを続ける羽目になる。
 あの時、無性に優奈が愛おしくなって、抱きついただけなんだ。
 ……ただの変態だ。最悪の結果を招きそうだ。
 前の晩、ホームベースにスライディングする君が大怪我をする夢を見て、正夢にさせるものかと君を止めたんだ。
 ……これなら、愛のある言い訳になる。だけど、関係が修復できるほどの説得力はない。
 あの行動は、君を守るための行動だった。理由は言えない。だけど、信じてほしい。あれは君のために……。
 想像をめぐらせるうち、奏はいつの間にか眠り入っていた。
 
 
 
 数々の想像も徒労に終わり、実に三ヶ月以上も奏は優奈と口を利かなかった。もちろんご近所さん。顔を合わすこともあるが、優奈はそっけなく視線をそらすのである。
 夏も幻だったかのように通り過ぎ、短い秋を挟んで冬が来ようとしていた。
 来年、年度が替わるまでの猶予の時間。来年四月を迎えれば、正式に奏は術師として国に仕える国家公務員となる。
 学校にもまともに通えなくなるかもしれない。優奈とだってまともに顔を合わせることができなくなるかもしれない。
 あと三ヶ月あまりの猶予の時間。
 奏に残された、日常という高校生活。
 このまま優奈と距離を開けたまま、大人になってしまうのか。
 季節はクリスマスを迎える華やかな冬。町中いたるところに電飾が煌き、夜をカラフルに彩っている。
 奏は学校からの帰り道、遠い存在になってしまった優奈のことを考えていた。近頃では優奈が傍にいない生活にも慣れてしまい、学校ですれ違ったとしても、妙な気まずさも薄らいでいた。
 こんなものなのだろうか、人と人の関係なんて。
 家路の途中に商店街を通る。
 夕暮れの商店街は、売れ残りを捌こうと最後の活気を見せている。街灯もともっており、そろそろ夜がやってこようとしている。
 商店街の中ほどに差し掛かったとき、裏路地に折れる小径にゴミが堆く積まれている場所があった。奏は足を止めて、ゴミ山を眺める。なにも、ゴミ山が珍しかったわけではない。ここを通るたびに目にする光景である。
 ところが、その日は見慣れたゴミ山に違和感を抱いたのだ。いつもと何かが違う。
「あ」
 気づいたとき、奏は声を上げていた。
「おう、奏ちゃん!」
 奏は声を掛けられた。振り返ると顔馴染みの肉屋の店主が背後に立っていた。立花のおっちゃんである。
「どうしたい、そんなところで突っ立って」
 ポリエステル製のエプロンをまとって、店裏で食器や包丁を洗っていたらしい。
「それが……」
 奏は恐る恐る手を持ち上げて、ゴミ山を指差した。
 立花のおっちゃんは指差した先を呆然と眺める。
「なんだ、ただのゴミ山……」
 言いかけて気づいたようである。
「ありゃあ……」
 呆然と立っている二人に不振な気配を感じたのか、呉服屋の女将もそばによって来た。
「どうしたの?」
 二人の視線の先を追っていく女将。
 女将も気づいたようだ。
「死んでんのかね……?」
 立花のおっちゃんがつぶやく横で、奏は意を決して、ゴミ山に踏み寄った。
 すると、突然ゴミ山の一角が蠢いた。
「い、生きてる!」
 そう叫んだ呉服屋の女将は、大慌てで自分の店に引き返した。
「お、女か?」
 立花のおっちゃんが背後から声を掛けてくる。
「たぶん……」
 打ち捨てられた生ごみのように、ゴミ山に埋もれるのは女のように見えた。ともすれば見逃してしまいそうなほど、ほとんどゴミ袋たちに同化している。
 何ヶ月も風呂に入っていないかのようなみすぼらしい格好。長い髪は乱れに乱れ、干からびた海草のようだ。髪に隠れて容姿は見えないが、見える部分から女の骨格が伺える。
 近寄ると、酷く臭かった。人の体臭と服にこびり付いた生ゴミの腐臭である。近寄りがたい悪臭。
 女はゴミ山に埋もれ、苦しそうにうめいていた。奏は意を決して、女に圧し掛かっているゴミをどかす。立花のおっちゃんと協力して、ゴミ山から女を引きずり出した。
「汚ったねえな。ドブ川にでも漬かってきたみてえだ!」
 立花のおっちゃんが鼻を摘んでいる。
 路上に寝かしておくのも気が引ける。どうしたものかと思ったころ、呉服屋の女将が戻ってきた。
「とりあえず救急車呼んだよ」
 女将は路上に横たわる女を見て、やはり顔を背けて鼻を摘んだ。
「ひっどい状態だねえ! 浮浪者かね」
 色あせた服を何重にも重ね着している。この季節に、表で寝泊りしている証拠に思えた。
 そのとき、女が突然咳き込んだ。苦しそうに体をくの字に曲げて、息を吸う暇もなく咳き込んでいる。
 立花のおっちゃんも、呉服店の女将も驚いて三歩ほど引いた。奏は勇気を振り絞って女に近寄ると、背中をさすってやる。
「やめときな、変な病気をうつされるぞ」
「でも、苦しんでるから」
 そう言うと、困ったように顔を見合わせるおっちゃんと女将。そのうちいなくなったかと思うと、女将はコップに水を、おっちゃんは毛布を抱えて戻ってきた。
 おっちゃんが女を毛布でくるむと、女将が女に水を飲ませた。
 荒く息をつきながらも、女はよほどのどが渇いていたのか、ほとんど一瞬で水を飲み干す。
 女将が、おや、と首をかしげる。
「あんた、よく見ると若いね。歳はいくつだい?」
 女将が尋ねたとき、女はようやく現を取り戻したかのように顔を上げた。女は女将、おっちゃんと順に顔を見上げてから、最後に奏を見た。
 すると、女は大きく口を開き「あ、あ、あ」と声を上げた。恐怖におののくかのように、あるいは重大な発見をして言葉を失ったかのように。
 奏が戸惑っていると、サイレンの音が聞こえた。商店街に緊急車両が入ってくると、何事だと野次馬が集まってくる。
「あ、ううっ」
 女が呻く。救急車を拒否しているのか。奏に必死に何かを訴えかけているようであるが、女の意思に関係なく、病院には行ったほうがいい。体をきれいに洗えるだろうし、食事も摂れるだろうし、ベッドに眠ることもできるだろう。
 救急隊員がやってくると、偉いもので不潔で強烈な臭いを発する女にも嫌悪感ひとつ見せずに、せっせと担架に乗せて救急車に運ぶ。
 女は担架の上でも、奏に手を伸ばして必死に何かを訴えている様子だったが、まったく言葉になっておらず、奏は立ち尽くして見送るしかなかった。
 救急隊員に事情を聞かれ、受け答えをしたのち、すぐに救急車は商店街を出て行った。同時に集まっていた野次馬も捌けていく。
「なんだったんだろうね、あの女は」
 女将が口ずさむ横で、立花のおっちゃんが「うんうん」とうなずいている。
「おっちゃん、女将さん、面倒掛けてすみませんでした」
 奏が謝ると、二人そろって顎を引いて「奏ちゃんが謝ることじゃないよ」と、胸の前に両手を広げて左右に振った。
 本当に、どうしてあんなところに倒れてたんだろう。最初、老婆かと思ったが、塩漬けの若布のような前髪の間隙から見えた瞳は、老婆のそれではなかった。
 
 
 
 おっちゃんと女将に挨拶して、再び家路を歩き始めたときはすっかり日が暮れていた。商店街を抜けて、実家のある閑静な住宅街を歩く。
 奏の実家の二軒隣にある優奈の家の前に人影があった。優奈だろうか。奏はどうしようか迷ったが、意識するほうがおかしい。そのまま歩く。
 傍まで来ると、果たして家の前にいたのは優奈だった。だが、一人ではない。もう一人いる。優奈とそのもう一人は楽しそうに歓談していた。
 もう一人は男、それも奏の知っている学校の同級生である。以前、優奈に告白をしたサッカー部の長身の男。
 優奈は楽しそうに笑いながら、親しそうに男の肩を押したり、口を押さえて恥ずかしそうに拗ねたような表情を見せる。
 傍を通り過ぎるとき、優奈は奏の存在に気づいた。一瞬だけ、奏と優奈は目が合った。ところが、奏のことを空気か何かだと思ったかのように、優奈はそっけなく目を逸らすと、男との会話に戻った。
 ――信じられなかった。
 優奈のそっけない態度が信じられなかったのではない。
 何の前触れもなく、まるで予期せずに突如として、自分の胸の中にあふれ出した感情が信じられなかったのである。
 その感情は激しく地面を揺るがし、立っていることもままならず、どちらが上で、どちらが前なのか、まったく分からなくなった。
 優奈に目を逸らされた瞬間、世界が終末を迎えたかのように暗転した。胸にあふれる感情が圧力を上げ、胸を破裂させようするので、奏は必死に胸を押さえて穴が開くのを防いだ。
 ――そうなのか。そうだったのか。
 奏はようやく気づいたのである。
 奏の世界を模り、喜びと活力を与えていた根源が何だったのか。
 失われた瞬間、生きていかれないほど重要で大切なもの。
 自分がどれだけ、それを想っていたのかを。
 思い起こせば、ずっと期待していた。
 優奈が再び奏の家を訪れ、ごめんと謝ってくれることを。再び以前のように関係に戻り、大切な時間を二人で築き上げていくことができるのだと。
 自分の本心がそう望んでいるのだということも気づかずに。時間が流れるにしたがって、徐々に失われていくとも知らずに。
 自分がいかに卑屈で、馬鹿だったかを思い知る。
 二人の傍を通り過ぎたあと、とめどなく溢れてくる熱い涙が、これが終わりであることの証拠のように奏の頬を伝った。
 
 
 
 もう、この胸に負った深い傷は一生治らないのだろうと思った。事実、あのことから一ヶ月たった今でも傷は少しも癒えず、むしろ傷口は膿みだして、臭気を放つとともに鈍痛を響かせる。
 ずきん、ずきん。
 一日中、傷口が傷む。
 何をしていても紛らわすことのできない痛み。
 暗い。苦しい。寂しい。
 どうしようもできない。ただ耐えることだけしかできない。
 手を組んで神様に祈る。
 早く、この苦しみを癒してください。
 下を向いて歩くことが日常になる。もう、何も目撃したくない。間違っても優奈と別の男が親しげに歩く姿を見たら、自分はもう立ち直れない。地面だけ見て、すべての情報から自分を守らなければならない。
「奏ちゃん!」
 学校帰りだった。商店街を歩いているとき、突然声を掛けられた。奏の後を追ってくる暗殺者の怒号に聞こえて、奏は肩を震わせた。
 声を掛けてきたのは呉服屋の女将である。店の前で女将が奏を手招いている。
 なんだろうと、近寄っていくと、女将が神妙な顔を近づけてきて、小声で言った。
「あんた、覚えてる? 一月くらい前に、ゴミ捨て場で女が倒れてたろう」
「覚えてるけど……」
「それがねえ、近頃、その女が商店街をうろついてんのよ。前見たときとおんなじ格好でさ。どうやら人を探してるようなんだけど、もしかしたら奏ちゃんを探してるのかもよ。あんた、気をつけな。救急車に乗せられた恨みであんたを探してんのかもしれないしさ」
 救急車に乗せられた恨みってなんだろう。むしろ感謝されてもいいくらいなのに。
「ほら、病院で治療費請求されてさ、払えないから奏ちゃんに払えって脅してくるかもしれないよ」
「まさか」
「本当よ。立花さんも言ってたのよ。見かけたらしくて。どうも目がおかしいって。気が触れてるみたいに目玉を剥き出しにしてたって。恨みじゃないにしても、ほら、親切にしたから懐かれちゃってさ。ストーカーみたいに付きまとわれるかもしれないし。ああ、怖い」
 奏も恐ろしくなった。人を助けて、助けた相手に逆恨みされる話は珍しいことではない。世の中は好意が仇となることは日常に存在しているのだ。
 奏はさらに卑屈になりながら帰り道を歩いた。間違っても優奈の家の前を通らないようにルートは変えてある。
 その日はゴミ捨て場に捨てられた女には出くわさなかったが、翌日も、その翌日も出くわさなかった。
 ところが、女将に話を聞いてから三日後、いよいよ女に出くわしたのである。
 
 
 
 自然管理委員会の研修で、帰りが遅くなったその日。
 日付が変わる間際、奏は商店街を歩いていた。もちろん、商店街に人影はない。むしろ人が盛る昼間より、誰もいない夜が奏にとっては居心地が良かった。
 ところが商店街を足音を響かせ歩いているとき、奏は別の足音に気づいたのである。
 後ろから誰かが歩いてくる。
 いや、早足か。
 ちがう、走っている。
 背後から近づいてくる足音の間隔が、徐々に早くなってくる。
 奏は恐る恐る振り返った。
 果たして、商店街の一本道を、こちらに全力疾走してくる女を目撃したのである。
 ゴミ捨て場に倒れていた女だ。まるで百メートル走の陸上選手かのように、大きく腕を振って全力疾走してくる様は、世界滅亡がやってきたかのごとく、ひどい恐怖を連れてやってきた。
 奏は悲鳴を上げながら逃げ出した。
 商店街の一本道を全力疾走する。時々振り返ると、女との距離はまったく開いていない。
 やがて商店街が終わり、十字路に差し掛かる。道を右に折れると、女も同じ方向に道を折れた。やはり奏を追いかけてくる。
 住宅街に入って、入り組んだ道を蛇行して走ったが、やはり追いかけてくる。
 もう息が続かない。どこか隠れる場所はないかと見渡したとき、ゴミ捨て場が目に入った。
 奏はゴミ山の陰に身を潜めると、必死に息をついた。
 たったったったっ
 足音が近づいてくる。
 女は奏の姿がないことを不審に思い、ゴミ捨て場の前で足を止めた。
 奏はこっそり、ゴミの隙間から女の様子を伺う。
 女は髪を振り乱して、周囲を探している。
 奏は祈るような気持ちで息を潜めた。
 やがて。
 女は走り去っていった。
 奏はいつの間にか止まっていた呼吸を思い出し、空腹の猛獣が獲物を食らうかのように周囲の空気を貪った。
 やっぱり俺を探していたのか。
 あの様子では、どうやら友好的ではないのは明らか。
 見つからないように家に帰らなければ。
 女は奏の家を知らないだろう。知っていれば家まで押しかけてきただろうし、女が知っている奏の情報は、商店街を通ることがある、程度である。商店街を避けて帰るようにすれば、出くわす確率も低くなる。
 後のことは後で心配することにし、当面、どうやって家に帰るかを考えた。家までは数百メートル。女は周囲を徘徊して、奏を探し回ってるに違いない。
 公道を避けて、他人の家の軒下を通って帰るしかない。
 呼吸が落ち着いてきたころ、奏は恐る恐る立ち上がった。
 右にも左にも、女の姿は見えない。
 しんと静まり返った住宅街の細道。
 
 ずんっ
 
 重い音がした。
 すぐ傍で。
 すぐ隣で。
 奏は全身が硬直し、微動だにできなかった。
 蛇に睨まれた蛙、とはよく言ったものである。
 指先一つ動かせない。
 振ってきたのである。
 どこからかなんて分からない。
 どこからか降ってきて、硬いアスファルトに両足で着地した音。
 それも、奏のすぐ隣。
 奏は右腕を、信じられない力で捕まれた。
 唯一動かせる眼球を動かし、腕をつかんだ主を見ると、見えたのは血走ってまん丸に開かれた女の目。
 気が遠くなる思いだった。
 次の瞬間、奏は女のように甲高い悲鳴を上げていた。
 
 
 
 悲鳴に気づいた近所の民家が明かりをともしたのが分かった。
 そう、ここは住宅街。
 叫べば誰かが気づく。
 奏は再び叫ぼうと大きく息を吸ったとき、背後から女に口をふさがれた。
「あう、あうあうあ!」
 女はわけの分からない声を上げる。
 近くの民家から、様子を伺おうと窓を開ける音。
 口をふさがれ、声が上げられない。
「あううっ……、ううっ……」
 女が呻く。
 すると、女は奏の腕を引いて走り出した。
 押さえられていた口は開放される。いつでも叫ぶことができる。
 女は必死に奏の手を引いて走る。
 この程度の力ならば、女の手を振りほどくことは可能。
 でも、女の声が気になった。
「あうう、あうっ……」
 ――泣いているのか……。
 しばらく手を引いて走らされたあと、商店街まで戻ってきていた。
 奏は逆に女の手を引いて立ち止まらせた。
 女が髪を振り乱して振り返る。
「ちょっと待って、もう走れない」
「ああうっ! うあ!」
 必死に声を上げる女。
「分かったよ。もう逃げないから」
 そう言っても女は首を横に振る。
「大丈夫、手を離して。逃げない。約束する」
 すると、女はしばらく逡巡した後、ゆっくりと奏の腕から手を離す。
「もう分かったから。話を聞くよ。俺に用があるんだろ?」
 そう声を掛けた途端。
 女は口をへの字に曲げて、大量の涙を目に溜め始めた。
「うううっ、おううあっ」
 両手で顔を覆うと、その場にへたり込み、女は泣き出したのであった。


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