あっちから変なの出てきた

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第十六章 【 孤独 】


 両腕を大きく広げたままのイイ・シトは「なにを選択しようと君の自由」と体中から訴えている。
 確かに選択の自由はある。だが、自分の自由を促しながらも、結局、道は限られている。道は二股にしか分かれていないのだ。二者一択である。三人を救うか、帝国旅団に協力するか。
 タモン、アリス、キーファを解放し、しかもユーナは帝国旅団に協力する、という選択肢はない。
「どうして……私にそんな選択をさせるの?」
「必要だからだよ。どうして必要なのか、選択したそのときに分かるだろう。もちろん、君には選択しないという方法もある。タモンもアリスもキーファを解放しないし、帝国旅団にも協力しない。そんな選択肢もある。でも、それは許容できない。残るのなら帝国旅団はユーナちゃんを全力で支援するし、支援もしてもらう。出て行くのなら、帝国旅団はユーナちゃんとの縁を切る。新たな救世主を探して、再び長い旅に出る。なぜなら、ユーナちゃんが選択して帝国旅団として仲間になるという選択肢を選ばなければ、ユーナちゃんは我々の救世主たる資格を得ないからだ。必要な決断なんだ。タモン、アリス、キーファを選んだユーナちゃんに、救世主たる価値はない。帝国旅団はもう君には関わらないだろう」
 どうしてそうなるのか。
 せめて、その理由を教えてほしい。でも、教えてくれないだろう。
 これは私が下すべき決断。
 帝国旅団についていくか、三人を助けるか。
「三人はいまどこに?」
「船内に居る。狭い船内だ。行けばすぐに出会える」
「私が残った場合、三人はどうなるの?」
「従うのなら、厚遇するだろう。逆らうのなら、容赦がないだろう」
「私が出て行ったら?」
「さっきも言ったが、追い詰める気はない。船を下ろして解放する。その後は自由にするといい」
 ここに残り、協力してもらえるよう必死に説得すれば、三人は分かってくれるだろうか。それとも、裏切り者とののしるだろうか。
 この選択の意味は?
 どちらを選択することが正しいのか。
 私はなんのためにここにきた?
 アリスとキーファを救うため? 連れて行かれそうになったアリスとキーファの身代わりになるためにアリスを偽ってメルスについてきた。でもそれは、そもそも私が帝国旅団に用があるため、利害の一致があったからに他ならない。私はいま望んでいたとおりになっている。どうして私が救世主なのか。実感はまるでないものの、私が望んだ「奴隷として酷遇される奴隷の解放」。一人では成し得ることのできない重要な目的のため、帝国旅団と手を組む決心をした。
 ――突然理解が訪れた。
 三人を救い、帝国旅団と決別する。これは、二ツ目族を三ツ目族から解放する、というユーナの最も重要な目的も捨てなければならない。
 三人を犠牲にして、帝国旅団とともに二ツ目族解放の目的にまい進する。これはつまり、あの人が私に教えてくれた良識を捨て去ることになる。
 まさに取捨選択。私はあの三人か、自分の目的か、どちらが大事であるのか、天秤にかけられているのである。
 目的を達成するためには、もう脇目も振らないと覚悟した。
 その道のりに、犠牲がつき物であろうとも、私は迷わないと決心した。
 私が進もうとしていた道に、いつも立ちはだかっていたあなた。
 あなたはいつでも、全ての犠牲を許さなかった。
 一番重要な目的がそこにあったとしても、あなたは小さな犠牲を見過ごすことはなかった。
 あなたがいたから。
 私は私でいられた。
 でも、コロタリは生きていたとしても、それでも数々の犠牲になった二ツ目族を見てきた。
 ユベリア宮殿の研究所で、人体実験の道具として屠殺されてきた無数の二ツ目族。彼らの絶望した瞳が、無数に私の胸を駆け巡り、通り過ぎていった。
 それでも私は生きている。生きている私のこの手には、奴隷となっている二ツ目族を救うという選択肢がある。その目的のために命を費やせるという選択肢がある。一歩間違えば私は十まで生きられず、おもちゃのように三ツ目族に壊されていたかもしれない。でも、こうして生きている。数々の犠牲の上に、こうして生かされている。
 だから決意したのではなかったか。
 私は自分を捨て去ると。
 もう、あなたに笑顔で再会できる私ではなくなる。そう思うと胸が張り裂けるようであったが、それでも私は戦わなければならない。この弱い私を捨て去らなければならない。ひどく悲しく苦しい決断だったとしても。死んでいく中で私に最後の希望を託した人々のために。
「……私は残ります」
 心の中の、大切に守ってきた部分に亀裂が入る音が聞こえた。
 
 
 
 タモンが鍵を解錠し、扉を開け放った瞬間、アリスが両手を広げてタモンに抱きついてきた。アリスの着ていた上着のレースが羽のように舞い上がり、一瞬、タモンの目には確かに女神が映りこんでいた。
 ふわり、と音を立ててタモンを抱擁するアリス。アリスの肩越しにキーファがいた。キーファも同じだった。泣き出しそうになるのを必死に堪えて下唇をかみ締めているキーファは、紛れもなく男の顔をしていた。
「キーファ、お姉ちゃんを守ったな」
 そう声をかけると、キーファは堪えていたものを吐き出すように、唇をへの字に歪めて泣き出した。
「まだだ、キーファ。船を下りるまでは油断するな」
 タモンに抱きつくアリスを引き剥がす。
「アリス、船を下りる。エンジンが始動してるんだ。すぐに行くぞ」
「ええ……。タモンさんについてゆきます!」
 その言葉がタモンの内臓を締め付ける。
 否応なしによみがえる、荒野の町で出会ったマリィとカイヤの笑顔。そして、マリィが最後に見せた侮蔑の表情。応えられなかった彼女の期待。助けると約束したのに。幸せにすると約束したのに。
 タモンの手足が、鉛の枷を科したかのように重くなる。
 だめだ。めげてはだめだ。もう二度と繰り返さないと決意した。絶対に二人を助け出す。なにがあっても迷わず、振り返らない。そう決意したはずだ。
 タモンはアリスの手を取り、「キーファ、付いて来い」と声を掛けて外に出た――出ることができなかった。
 タモンが入ってきた扉の前には、人型の暗影が立ちはだかっていたからだ。黒衣の女。全身黒尽くめで、髪の毛も瞳も漆黒のようである。無表情にこちらを観察する眼差しは、その人間に心がないことを物語っているようだった。
 ――帝国旅団――。
 死なない集団。
 特殊な薬を服用し、常人には考えられないような回復力、生命力を得ている連中。
 タモンは入ってきた出口を諦め、とっさに踵を返した。
 反対側の出口へ向かうために廊下を疾走――できなかった。
 廊下の反対側にも、黒衣の暗影があったのだ。
 長身の黒髪の男。黒い瞳。陰湿な唇。
「ルビウス……!」
 良く知っている顔だった。
 一年以上も前、荒野の町にドロレスの護衛として仕えていた男。
 ――この男はナイフを使う。
 体中を何十箇所と突き刺された痛み。忘れはしない。あの痛み。
 沸き起こる憤怒が、我を忘れさせようとしている。アリス、キーファの存在を忘れ、今目の前にいる男をただ殺せ、と腹の奥底から暗黒のタモンが命じている。
 互いに傷つけあい、致命傷を負ったにもかかわらず、その傷跡すらない。おそらくルビウスだけではなく、背後にいる黒衣の女も同様だ。
 こいつらは多少のダメージでは死なない。
「久しぶりだな、タモン。俺は嬉しい。あのときの怪我から復活するまでに数ヶ月を要した。あそこまで俺を追い詰めたのは、お前だけだ」
 タモンは返答をしなかった。ルビウスが無駄口を利いてくれたおかげで、むしろ落ち着きを取り戻した。
 タモンにはアリスとキーファがいる。そのことに立ち戻ることができた。
 いま、この場を切り抜けるにはどうするか。そのことに頭がフル回転し始める。
 正面にいるルビウスを打ち破ったとしても、その先には操舵室がある。おそらく帝国旅団がそこにいる。背後にいる黒衣の女を打ち破り、表に飛び出すとともに船を飛び降りる。多少高さがあっても、タモンが二人のクッションとなれば大怪我は免れるはず。
 覚悟を決めた。その気配をルビウスが敏感に察知した。でも遅い。ルビウスが動き出す前に、タモンは瞬時に振り返る。
「アリス! キーファ! 俺の後を付いて来い! 絶対に立ち止まるな!」
 声を張り上げながら、船外への出入り口に立っていた黒衣の女に向かって突進した。
 黒衣の女は意表を付かれたものの、とっさに懐から刃渡り十五センチほどのナイフを取り出す。身を低く構え、突進してくるタモンを迎え撃とうとナイフを掲げた。
「ミミリア! 油断するな! そいつは――」
 ルビウスの助言より早く、タモンは顔を突き出すようにミミリアに突進する。ミミリアがナイフを腰より低く下げて、先端を上に向けた。
 突進してくるタモンの喉を下から上に突き上げる。
 タモンの誘いに、見事までに引っかかったミミリアは、タモンの喉もとを突き刺すはずのナイフが空を切ったのに気付く前に、頭に強い衝撃を受け、卒倒したのである。
 タモンは、喉もとに迫ってきたナイフの軌道を読み、身体をひねってかわすとともに、腕を振り上げた状態になったミミリアの顔面を掴んで、そのまま後部の壁に思い切り押し当てたのである。ミミリアは後頭部を壁に激突され、なにが起こったのかわからないまま気絶した。
「走れ!」
 アリスとキーファも怯まなかった。勢いそのままに船外に飛び出すと、強烈な風に足元をふらつかせた。
 目の前にはすぐ頭上から膨らむ漆黒の気球部分。
 その下に広がっていたのは、はるか下方に広がる大地の姿だった。
 タモンは欄干を掴み、風に吹き飛ばされそうになるアリスと抱え込んだ。キーファを掴み損ねたときは一瞬ぞっとしたが、キーファは風に飛ばされながらもどうにか外縁通路の欄干を掴んで身体を固定した。
 ひどい風である。方向は定まっていない。四方八方から縦横無尽に強風が三人を弄ぶ。
 ――もうこんなに高く――。
 ――船内に戻るか――?
 その選択肢はなかった。
 たった今、飛び出してきた出入り口にはルビウスが壁に手をついて風に吹き飛ばされないように立っていたからである。
 足元で泡を吹いているミミリアを苦々しそうに見下ろしてから、氷のように冷たい黒い瞳をタモンに向けた。
「やってくれるな! 体術は相変わらずだな! だが俺は知ってるぞ! ミミリアのように油断はしない!」
 強風のうねりの中、ルビウスの声が遠くに聞こえる。
 この強風の中では、ルビウスも容易には船外に出てはこれない。だが、ジリ貧である。上空では逃げ道がないのである。狭い船内を逃げ回るのも限界がある。アリス、キーファを守りつつ、戦うのも圧倒的に不利な状況。
 ――また俺は約束を守れないのか!
 タモンは外縁通路から地上を見下ろした。こんな上空から大地を見下ろしたような経験はない。雲の高さまで上昇しており、雲が地上はかすんで見せている。いったいどれくらいの高さにいるのか想像もつかない。
 ルビウスが懐からナイフを取り出し、船外へ一歩踏み出した。長身で体重のあるルビウスは、身を低く構えればこの風でも吹き飛ばされることはないようだ。転じてタモン、アリス、キーファは、欄干から手を離そうものなら木の葉のように吹き飛ばされ、はるかかなたの大地へ落下していく運命だ。
 ルビウスが絶対的な優位を確信した。ルビウスはゆっくりとタモンに近づき、動けない無防備なタモンにナイフを突き立てるか、突き落とすだけで勝利をつかめる。
 ――ここまでか!
 せめて、アリスとキーファを。
「ルビウス! アリスとキーファは――」
 助けてくれ。そう言うことができなかった。
 ルビウスはタモンが言い終わるより早く、ナイフをタモンに投げつけてきた。ナイフはタモンの胸の中心に突き刺さった。背中まで突き抜けるような痛みに、タモンは絶句した。
 胸に突き刺さったナイフを引き抜こうとしたとき、ルビウスの放ったナイフが続けざまに二本、タモンの腹部を貫いた。
「がっ、っぐ」
 それでも訴えようと声を上げたが、言葉にならない。
 ルビウスの顔には恍惚の笑みが浮かんでいた。
 この、悪魔が。
 もはや、なにも耳に届きはしない。
 帝国旅団。
 俺はこの組織と、従属するすべての人間を許しはしない。
 帝国旅団を滅ぼす。
 それだけが、俺に残された最後の使命。
 タモンは胸に突き刺さったナイフを抜き放った。
 同時に胸からほとばしる血しぶき。
 風に舞った血しぶきは赤い霧となってかなたへ消えていく。
「ル・ビ・ウ・スゥゥゥ!」
 このナイフをルビウスの胸へと深々と突き刺す、その目的が何よりも重要になった。もう誰も救えない。なら、刺し違えてでもこのルビウスを。
 前へ出ようとしたのを阻止したのはアリスだった。
「タモンさん! 駄目です! 血が!」
 アリスは自分が血で汚れるのもいとわず、タモンに抱きついて前進を止めた。胸から流れる血を自分の身体で止めようとしたのだ。
「血が! 血が!」
 その位置。
 アリスがタモンの正面から抱きついている位置は、その直線上にルビウスがいる。ルビウスとタモンの身体の間には、アリスがいる。
 ま・ず・い!
 ルビウスは次のナイフを放つ体制をとっている。
 もはや執念に捕らわれたルビウスは、相手がアリスだろうと躊躇しないだろう。
 タモンはアリスを抱え込むと、身体を入れ替えてルビウスから盾になろうとした。
「タモン兄ちゃん!」
 タモンが身を翻すより早くルビウスはナイフを放ち、同時にキーファがタモンの名を叫んだ。
 ルビウスの放ったナイフは強風をものともせず回転しながらアリスの背中に突き刺さった。腕の中にいたアリスが「ううっ!」と唸ったのが聞こえた。
 同時にキーファを見た。キーファはアリスにナイフが突き刺さる瞬間を目撃していなかった。キーファはこちらではなく、別の方向を見ていたからである。
 タモンは身体を翻し、ルビウスからアリスの盾になるように身体を入れ替えた。
「アリス!」
 アリスは苦痛に顔をゆがめている。アリスの背中に突き刺さったナイフを抜きにかかる。ナイフに手をかけた瞬間、タモンの背中に走る激痛。続けざまに二本のナイフがタモンの背中を突き破り、内臓まで達したが、歯を食いしばってアリスの背中に刺さるナイフを抜く――駄目だ。
 抜いたら出血する。
 出血したらアリスは持たない。
「タモン兄ちゃん!」
 再びキーファの声。
 少し離れた場所のキーファを見ると、キーファはその腕の中に何かを抱えていた。小動物のようである。耳の長い――。
「シエル……!?」
 再び背中とふくらはぎに激痛。
 こいつ、何本ナイフを持ってるんだ。
 そして続けてナイフが投げられようとしたとき、アリスの身体に力が篭ったのが分かった。
 アリスは思いがけない行動をとる。
 タモンが先ほどやったように、タモンと身体を入れ替えたのである。ルビウスから自らの身体を盾にするかのように。
 今度はキーファが目撃していた。
 ルビウスの放ったナイフが縦回転しながら、アリスの背中に迫る。
「お姉ちゃん!」
 キーファの声は届いていた。
 タモンは聞いていた。
 二本目のナイフが、アリスの背中に突き刺さる音と、アリスの短い悲鳴。
「やめろ!」
 ――君にはアリスは救えない。
 なんの脈絡もなくよみがえるルウディの声。
「やめろ!」
 再び怒鳴ったとき、アリスの身体が力なく崩れた。崩れたと思うと、まるで巨人がその手を伸ばし、アリスを攫うかのように、強風がアリスを吹き飛ばした。
 宙に舞うアリス。
 とっさにアリスを掴もうとしたタモンの手が空を切る。
 アリスの飛ばされた先。
 そこはなにもない上空。
 アリスの身体が、外縁通路の外へ――。
 欄干を越え――。
 ――そして、君にアリスは救えない。
「うるさいぞ! ルウディ!」
 絶対に救う。
 タモンは欄干から手を離す。
 船外に飛び出したアリスに手を伸ばす――届かない!
 きりもみ状態で、アリスの身体が落下していくのが見えた。
「アリスー!」
 叫んだところで、アリスは戻ってはこない。
 タモンはとっさにキーファを見た。
 助けれなかった?
 また俺は同じ過ちを?
 キーファが姉を失う?
 キーファの顔が、見る見る青ざめていった。
 キーファ、俺は――。
 キーファが抱えているシエル。
 そのシエルが抱えている箱。
 その箱。
 なにも考えていなかった。
 混乱した頭ではじき出した答えは、きっと不正解であったに違いない。
 だが、キーファの、まるで自己を喪失したかのような様子を目の当たりにして、その結末だけはあってはならないと思っただけだった。
 シエルが持っていた箱を奪い取った。
「兄ちゃん……!?」
 自分はどんな顔をしていたのか。
 ただただ必死だった。
 シエルの持っている箱を背負い、外縁通路の外に広がる大地を見た。
「キーファ、すまない。許してくれ」
 タモンは祈った。
 ただし、手を組み合わせて祈っている時間はない。
 欄干に足をかけ、はるか下方に見える大地に向かって飛び上がりながら、タモンは同時に祈ったのである。
 ただ、当てもなく。
 ただ、祈った。
 
 
 
「私は残ります」
 確かな口調で、ユーナはそう答えた。
 イイ・シトはゆっくりと瞬きをした後、柔和な笑みを作って頷いて見せた。
 その後、ゆっくりと片膝を付くと、頭をもたげた。
「歓迎いたします、ユーナ様。あなたはたったいま、われわれ帝国旅団の救世主たる資格を得ました。このイイ・シト。命を賭して、あなたのお命を守り抜く所存です」
 態度の豹変振りに驚いたが、ユーナはもう戸惑わなかった。
 この人たちが救世主というのなら、私はそう振舞うべきだ。
 私はたったいま、私を捨てたのだから。
「イイ・シト。ありがとう。あなたが私のために命を賭してくれるのなら、私は全ての二ツ目族のために命を賭します」
 ユーナはそれまで口を閉ざしていたドロレスをはじめとする一同を見た。
「みなさん。みなさんが私を救世主と呼ぶのであれば、私は救世主でもなんにでもなります。それは二ツ目族を救うための手段であれば、私は全力でなりきるでしょう」
 そう言うと、ドロレスは感激のあまり涙を流した。老婆は崩れ落ちるように片膝を付くと、ユーナに対して敬服の態度を示す。続いてなだれ込むようにその場にいた全員が膝をついてうずくまり、ユーナに対して後頭部をさらした。
 正直、気おされるものがある。とつぜん自分が救世主として祭り上げられ、帝国旅団という暗黒側に住まう反逆者たちを率いて三ツ目族を打つなんて、まだ現実的に捉えることができない。
 だが、それにどんな意味があろうとなかろうと、私は進み続けると決めた。立ち止まらない。振り返らない。
 胸の中に詰まっていたなにかが、すうっと抜けていくような感覚が襲ってきた。まるで心の奥底に存在していた栓が抜けて、満たされていたものが外へ流れ出て行ったかのようだ。
 急に心が落ち着いてくる。いままで感じていた気苦労や緊張、迷いが消えて失せて、確かなる決意だけがくっきりと浮かび上がってくる。
「私には、全ての生物を眷族にできる能力がある。そして私は心的世界への窓口となって、みんなに戦う力を与えることができる。そうですね、イイ・シト」
「そのとおりでございます。そして、いまユーナ様はこの世の最強の眷族、チリル・ルイサを眷族として従えてございます。この眷族は、ユーナ様の姉に当たるトレミが従えていた眷族で、一度はグロウリン城塞都市を壊滅寸前までに追い詰めた恐ろしい力を秘めた眷族。この眷族を制御できるのはトレミとユーナ様だけです」
 自分が最強の眷族を保有している。いま分かった。ここに来る途中、ナユタという少年が私に抱きつき、私の胸の中に何かを流し込んだ。あれは経験がある。眷族の譲渡である。
 そうか、少年はあの眷族を制御しきれず暴走させて、四ツ目族の聖域を破壊する結果となったのだ。
「これから私はなにをすれば?」
 その問いにはドロレスが答えた。
「これより、この飛翔船で国中を回って、同胞に救世主の誕生と、決戦の喚起をします。最後の戦いは近い、救世主の下へ集まれ、と」
「分かりました」
 話の途中、船長と副船長が慌てたふうに操舵室を出て行くのが見えた。
 出て行く背中を目で追っていくと、その視線の先に立ち上がっていたイイ・シトの姿が映った。
「最後に聞かせてください」
「最後に……? なんでしょうか」
 イイ・シトはひどく深刻そうな双眸をユーナに向けた。
 
 
 
 奏はトレミを抱えながら、森を駆け抜けていた。
 体力の限界など、たどり着いてから心配すればいい。
 ただいまは、佐々倉のために。
 タモンにあの箱が届いていると祈り、佐々倉の家族がまだ無事であることを祈った。
 トレミはしきりに奏を心配したが、返事をする余裕さえない。体中から水分が搾り出され、ミイラのようにカラカラになった全身に鞭を打って走った。
 たどり着いたときには粉々に崩れてしまおうとも、足を止めるわけには行かなかった。
 トレミの指し示す方向にただ走る。佐々倉の家族がいるという洞窟に向かってひた走る。
 もうすでに思考はまとまらず、意識は朦朧としている。走っているのか歩いているのかも定かではなく、もしかしたら這いずっているかもしれないと思いながら、それでも先に進む意志は揺るがなかった。
 どうして、運命は自分に選択を求めるのか。
 どうして、最良の選択が存在しないのか。
 なにも犠牲にならず、全てが良くなる選択肢があってもいいはずなのに。
 意地悪な運命は、いつも過酷な選択を迫る。
 俺はただ、ユーナに確かめたかっただけだ。
 ユーナとナユタを隔世に戻すために、奏は現世で奔走した。ユーナは目的どおりに隔世に帰っていた。だが、戻してあげたわけではない。連れ去られたに等しい帰還だった。だからこそ、奏はただ一言、ユーナに確かめたかった。
「カナデ! もうやすめ! 死んじゃうよ! カナデ!」
 トレミの声は遠くから聞こえる。
 もうどの方向へ進んでいるのかもわからない。
 目の前には光。
 ヴァルアラトスが父と対話している。その傍にはひれ伏すユーナとナユタ。そして、身体の半分を消し飛ばされたラナ・カンが横たわっている。
 近づこうとすればするほど、ヴァルアラトスの発する瘴気が奏の前進の肉を削っていくようだった。
 それでも前進しなければならない。
 君に。
 たった一言だけ確認するために。
 止まれない。
 前に進むしかない。
 君に答えを聞くまでは。
「カナデ! 止まれ! 着いたぞ! ここだ! もう着いたって!」
「……つい……た……?」
 奏はようやく立ち止まる。
 ぼんやりと前方を見やると、切り立った崖が聳えているのが見えた。
「ここが……?」
「あそこだ! あそこに扉がある!」
 トレミの指差す方向。最初はなにも分からなかった。ただの岩肌が続く壁にしか見えず、じっと注視しなければ、その扉を発見することはできなかった。
 不可解だった。扉は木製の変哲もない扉。岩の色とまったく別の色なのに、まったく分からなかった。
「これは……」
「ササクラも言ってたけど、ここは見つけずらいってさ! それよりもササクラの家族が!」
 トレミに諭されて思い出す。
「そうだ、佐々倉さんの家族が」
 次には飛びつくように扉を開くと、中から漆黒の闇が漏れ出してきた。
 あまりにも暗いので扉を開けたままにして洞窟内に入っていく。
 しん、と静まり返る洞窟内は、明らかに外界と空気が違っている。そこだけ切り取られた異世界、とも形容できそうな異質な空間である。
 開けたままの扉からの木漏れ日で、入り口付近に横たわる二人の姿を発見した。布にくるまれた二人は、まだ息があった。苦しそうにもだえているものの、きっとトレミが眷族化すればすぐによくなるはずだ。
 奏は大きく安堵のため息を漏らした。全ての不安が口から外へ出て行くようだった。
「良かった……。本当に良かった……」
 胸が詰まった。
 佐々倉が奏に家族を守ってくれと訴えたときの悲壮感。
 それを思い出すと、涙がとめどなく流れた。
 本当に良かった。約束が守れて良かった。
 これで佐々倉は絶望しなくてすむ。
 トレミを佐々倉の奥さんの胸の上に降ろすと、トレミは静かに小さな手を胸の上に置いた。
 見た目に変化はなかったが「よし、次」とトレミが娘のほうを指差して指示する。トレミを掴み上げ、娘の沙紀の胸にトレミを置く。同じように胸に手を置いてしばらくすると「よし! おわりだ!」とトレミが奏に向かって親指を突き出して見せた。
「終わったのか?」
「情けない顔だな! カナデ! お前はすぐ泣くな!」
「いいだろ、ほっとしたんだ。それより二人は本当に大丈夫なんだな?」
「大丈夫だ。佐々倉のときと同じだ。大丈夫な気がするから、大丈夫だ!」
 根拠はあいまいだが、佐々倉を救った実績がある。きっと大丈夫だと思った。
「それより、ササクラ本人がいないぞ。どこへ行った?」
 再びトレミに諭される。
「ああ、次は佐々倉さんのところに行かないと」
「ここに居ないのか? まさかカナデ、また走るのか?」
「佐々倉さんは四ツ目族の研究所で、瓦礫の下敷きになってしまったんだ。大怪我をしてるかもしれない。早く助けないと」
 カナデは立ち上がろうとしたが、足腰がいうことを利かずにすぐに尻餅をついてしまった。
「もうやすめ、カナデ。もう走れないだろ」
「佐々倉さんのほうが大変な状況なんだ。どんな怪我をしてるか分からない。すぐに行かないと危険かもしれないんだ」
「ばかだな、カナデは」
 やれやれとため息をつくトレミ。
「忘れたのか、カナデ。ササクラは私の眷族だぞ。わざわざ行かなくても、ここに召喚すればいいだろ!」
 トレミに三度諭されて、奏ははっとした。
「そうか。どうしてそれに気付かなかったんだ」
「まったく! カナデは私がいないとほんとだめだな!」
 トレミは腕組をして、得意顔である。
 とにかくほっとした。ほっとしたら、本格的に足腰が動かなくなってきた。
 トレミは沙紀の胸の上で胡坐をかいて座り込むと、瞑想するように目を瞑った。佐々倉を召喚しようとしている。奏は沈黙を守って、様子を伺った。
「だめだな、ササクラ」
 トレミが不意につぶやいた。
 だめ? 不穏な言葉に「どうした?」と尋ねると、トレミは吐息混じりに「ササクラはだめだ」とだけ繰り返す。
「なにがだめなんだ?」
「大怪我してる。足がぐちゃぐちゃだ」
「足が? それが分かるのか?」
「あたりまえだ。だから召喚しなかった。あのままじゃ、ササクラ、死んじゃう」
「じゃあ、迎えにいかないと」
「大丈夫だよ。もうササクラはあの場所にはいないし」
 トレミは釈然としないことばかりを口にする。
「どういう意味だよ、佐々倉さんはどうなったんだ?」
「大怪我をしてるから、召喚しなかったんだ。ハザマの世界にとどまってる。そのほうが怪我がすぐ治る」
「ハザマの世界?」
 要するに、現世と隔世の間にある心的世界に送ったといっているのか。確かに眷族は召喚されていない状態では心的世界に戻っているという話だが。
「あそこの力の流れに漂ってれば、怪我もすぐ治るよ。それまで閉じ込めておこう」
 なんとも、見えない場所での出来事は不安である。本当に佐々倉は瓦礫の下から心的世界に送られたのであろうか。
 ふと、洞窟内が暗くなった気がした。
 トレミが扉のほうを見る。
「あ、あいつ」
 奏も開けたままの扉を振り返ると、そこに人影があった。外からの木漏れ日をさえぎるように立ち尽くしているのは、シルエットのままでも誰なのか分かる。
「ルウディ……」
 ルウディは静かに姿を消す。
 洞窟内には入ってこなかった。
 ルウディは森のほうへ引き返していくので、奏は廃人のように立ち上がり、ルウディの姿を追った。
 表に出ると、ルウディはこちらに背を向けて空を見上げていた。
「ルウディ、なにをしに来たんだ」
 ルウディは空を見上げたまま、口を閉ざしている。
 その背中に不穏な気配を感じる。
「ルウディ、なんとか言えよ」
「残念……。と言っておく。君には期待していたんだけど」
「残念……?」
 ルウディは空から視線を移し、ゆっくりと奏を振り返った。
 奏はルウディの、その暗い双眸を目撃して、思わず後ずさりしていた。
 その暗い瞳。
 いままでがらんどうったったその瞳に、暗い渦が満ちている。
「ほら」
 ルウディが人差し指を立てた。
 茫然とその指に注目する。
「違うよ。見てほしいのは指じゃない。その上」
 その上。指差す方向。
 つまり、上空。
 奏は言われるがまま、空を仰ぎ見た。
「ほら、絶望が降ってくるよ」
 
 
 
 ただものすごい速度で落ちていった。
 全身は見えない無数の拳に叩きつけられているようだった。
 激しい空気の殴打を受けながら、広大に広がる空中を落ちていきながら、その中にアリスの姿を必死に探した。
 アリスが落下してからタモンが飛び出すまで数秒。
 その数秒にどれくらいアリスは落下したのか。
 タモンはこの速度で地面に叩きつけられる瞬間に恐怖した。
 タモンは死ぬことができない身体である。だが、地面に叩きつけられれば痛みも感じるし、自分の身体が衝撃で破裂する姿は想像したくない。
 こんなことして意味があったのか。
 この広大な空で高速で落下しながら、アリスを見つけたとしてなんの意味があるのか。
 ああ、無意味だった。
 ただ、地面に叩きつけられて粉々になるだけ。
 地面が近づいてくるのが分かる。一見、緩やかに近づいてきているように見えても、実際は想像を絶する速度で地面に激突する。
 アリスも――。
 アリスを思うと、タモンは諦めかけた心に悲壮な決意が戻ってきた。僅かながら意志が復活する。
 頭から落下しながら、目もろくに開けられない状況。
 だが、運命のいたずらか。それともタモンの決断が正解だったのか。
 白いレースが激しくはためく、アリスの姿を発見したのである。
 信じられなかった。なにもかもが裏目に出るような運命の中、アリスの姿は一筋の光に見えた。
 奇跡。
 その言葉はタモンの忌み嫌う言葉の一つであったにもかかわらず、確実に脳裏に浮かんだ言葉である。
 ――アリス!
 名を叫んだが、当然届かない。自分の発した声も聞こえないくらいに風の切る音が、それ以外の全ての音を奪っている。
 アリスに近づきたいが、下方から吹いてくる強烈な風が行く手を阻む。もっと早く。もっと早く。
 タモンは腕と足をたたんで、身体を一直線の棒のようにして頭から落下した。理屈で分かっていたわけではない。ただ行く手を阻む空気の抵抗を少しでも軽くするべく、とっさにとった行動だった。
 アリスが近づいてきた。
 同時に、大地も近づいてくる。ただ絵の具をぶちまけたかのようだった大地は、細かな凹凸や木の形もはっきり見えてくる。
「絶対に助けるぞ、アリス!」
 地面に叩きつけられる恐怖を、払拭するように叫ぶ。
 アリスの顔が分かる距離まで近づいてきた。落下速度を緩めるようにタモンは身体を広げる。
 ――これが空気。
 ――これが飛ぶということ。
 空を飛ぶということを研究してきたタモンは、初めて空気という存在を肌に感じた。こちら側の態度しだいで、味方にも敵にもなりうる空気。
 手が。
 届いた!
 タモンが伸ばした腕の指先に、アリスの服が掠めるが、無常にも空気が邪魔をしてアリスの身体を突き放す。
 地面は?
 猶予は?
 大地までの距離を確認している暇はない。
 地面にたたきつけられるのは一瞬後かもしれない。
 アリスに集中しろ。
 必死に空気を操って、アリスに再び接近する。
 そのとき、アリスが目を開いた。
 薄く開いた双眸は、確かにタモンを捉えていた。
 ――アリス!
 聞こえているかは分からない。だが叫ぶしかない。
 アリスの唇が動いた。
 ――タ モ ン
 確実にアリスの唇はタモンの名を描いた。
 アリスが血に染まった手を開いた。タモンに向かってその手を掴むように。
 アリスの腕を掴んだ。その手を引いて思い切り抱きしめる。
 こんな状況でも、抱きしめたアリスの感触はタモンにとてつもない意志の力をよみがえらせた。
 ――俺は死なない。地面に叩きつけられたとしても。
 だが、アリスは助からない。このままタモンが地面への盾になったとしても、なんの足しにもならない。
 だが、タモンは背中に箱を背負っている。
 この箱は見覚えがある。
 キーファに洞窟へ案内されたとき、空を飛ぶために作られた一つの機械。
 最初に見たときに、これで空を飛べるなどとは到底思えなかった。
 だが、なんの手立てもない状況では、唯一の希望だった。
 アリスをしっかりと抱きしめながら、タモンは背中に背負った機械を作動させた。
 お願いだ。
 アリスを救ってくれ。
 
 翼が開く。
 
 一瞬のこと。
 
 強烈な風に、広がった翼はひしゃげて。
 
 翼は弄ばれるように。
 
 もぎ取られ、空中に飛び散った。
 
 ――だめ。
 聞こえてきたのは、アリスの声。
 
 タモンはもう強く目を瞑るしかなかった。
 このまま地面に叩きつけられ、アリスは死ぬ。
 タモンは死なず、生き延びる。
 ――君にアリスは救えない。
 ルウディの声が、タモンに絶望をもたらした。
 君の気持ちが、ようやく分かったよ、ルウディ。
 
 ――だめ……。あなたは死んではだめ……。
 この風きりの轟音の中、アリスの囁くような声が聞こえてくる。
 
 許してくれ、アリス。
 許してくれ、キーファ。
 俺は結局、同じことを繰り返した。
 こんなことなら、最初から関わるべきではなかった。
 変えられない運命なら、直面して対峙しても、心を壊されてしまう。
 こんな思いをするくらいなら、運命に対して第三者として。
 係わり合いをもつのはもうごめんだ。
 ルウディ。
 すまなかった。
 君はこんな絶望を何百年も。
 
 ――あきらめないで……。あなたが私を助けてくれたように。
 アリスの声。幻聴だと思った。
 自分の弱い心が作り出した都合の良い想像の声。
 落下していく中で、タモンはアリスを見た。
 アリスは悲痛そうに唇を動かした。
 ――私があなたを救います。
 
 アリス越しに見えていた大地。
 ある時点から、急速に迫ってきた大地は、もう目前。
 叩きつけられるのは一瞬後。
 
 大地から数十メートルの距離で、それは起こった。
 地面に叩きつけられるまで、0コンマ何秒の世界だった。
 それが起こったことを、タモンは認識しなかった。
 認識するまもなく。
 地面に叩きつけられる直前、アリスとタモンは消え失せたのだ。
 いや、消えうせたという表現は正しくはない。
 アリスはタモンを救うため、自分でも理解をしていない力を使った。
 そして――運命はこの形を望んでいた。
 運命の思い描いた筋書きは、このとき見事に成就したのだった。
 
 
 
 愕然と空を見上げる奏の足元に落ちてきたのは、茶褐色の黒い塊だった。
 直前まで、人が二人、きりもみ状態に落下してきたのが見えていたが、地面に落下する直前に、突如姿が消えうせたかと思うと、奏とルウディの間に、何かの欠片が落ちてきたのである。
 ルウディが上空を指差して、空を仰ぎ見た瞬間から今まで、なんの理解も訪れない。いったい今、なにが起こったのか。
「奏、これが運命だ。よく見ていたかい?」
「運命……? いま、人が落ちてきたように……。あれはタモン? でも、消えた……?」
「消えてはいない。いま君の足元に落ちてきたもの。それがタモンだよ」
 確かに落ちてきたものがある。
 奏は腑に落ちないまま、落ちてきた物体を拾い上げる。
 茶褐色の、木片とも金属ともいえないかけら。奏はこれに良く見覚えがある。
「これは……御札?」
「御札……と呼ぶのだな、君は」
「どうしてこんなものがここに……」
「これが運命が描いた筋書きなんだよ。僕はこうなってほしくなかった。だから君にタモンを救ってほしかった。その結晶体は、アリスとタモンの成れの果て。良く見ておくといい。これが君と僕の因果めいた理さ。どうあがいても逃れられない紙の描いた遊戯曲」
「なにを……言ってるんだ?」
 言い表しようのない感情が足元から脳天まで満ちていった。
「君のいま感じている感覚。それは君だけのもの。それは君が運命の筋書き通りに行動した結果。君は正しい行動をした。運命にとって都合の良い選択をした」
「正しい……。それなのに、なぜそんな顔をするんだ、ルウディ」
 正しいと言いながらも、奏の胸には後悔に似た感情が渦巻く。
「僕にとっては、腐るほど見てきた絶望が、ただ繰り返されただけ。運命は変えられないと、改めて突きつけられてしまった。この永遠に続く輪廻の中で、何度味わってきたことか。僕にとって君とタモンは最後の希望。その最後の希望さえ、刈り取られてしまった」
 どうしてそんな顔をするんだ、ルウディ。
 そんなに悲しそうにする人間を、奏は見たことがない。
「彼女は運命の流れを受け入れ、運命がその指し示す方向へ、より早くたどり着くように促した。でも、僕はその流れを阻止しようと、君やタモンを導いた。でも、タモンや君のように抗う意志を持っていても、結局は運命に逆らえなかったね」
 いつもと同じ、ルウディの言葉は理解ができない。ところが、今日のルウディの言葉は胸の奥に重く響くのである。ルウディの失望したようなくらい声は、まるで取り返しのつかない失敗をしてしまったかのような不安を、否応なしに押し付けてくる。
「彼女……エレーナは、もう助けることができない」
「エレーナ?」
「もう、終わりだよ、奏」
 ルウディの瞳から暗黒の渦が消えて、その代わり禍々しい斑点が浮かんできたのが見えた。
「この世界を終わらせる。こんな下らない世界、運命が僕らを消し去る前に、僕が壊してやる」
 世界を壊す。
 そんなこと、ルウディ一人にできるわけがない。頭ではそう思った。
 ところが胸には強烈な絶望感が渦巻き始め、奏は目の前のたった一人の優男に、世界が本当に終わってしまうのではないかと恐怖を覚えた。
 この男になら、世界を壊すことができる。
 それを教えられなくても、奏は知っているのである。
 
 
 
「最後に……、聞きたいこと?」
「ええ、あなたが救世主として本当に資格を得たか、確認させていただきたいのです。よろしいでしょうか」
 少しの不安。なにを聞かれるのか。
 イイ・シトが口を開きかけたとき、船長である四ツ目族が慌てた風に操舵室に戻ってきた。何かを言いたげだったが、とっさに平静を装って、イイ・シトに何かを耳打ちした。
 イイ・シトは一瞬、表情を曇らせた。だが、一瞬だけだ。四ツ目族の船長に何かを指示し、飛翔船の運航を仕切らせ始めた。
 なにやら不穏な空気に、回答を求めるようにイイ・シトを見やる。イイ・シトは一度頷いて見せてから説明した。
「タモンとアリスが脱出を図り、この高度から二人とも船外に落下したと報告を受けました」
「なんですって……」
 ユーナは床が波打ったように感じて、数歩よろめいた。
 落下した? この高さから?
「サイコロは、どうやら最悪の目を出したようです。この高さからではおそらく……」
「死……」
 目の前が暗転していくようだった。
 考えたくない。
 その結論に至っては駄目だ。
 私が壊れてしまう。
「ユーナ様。これがあなたが選んだ選択です」
 ユーナが必死に考えないようにしていたことを、イイ・シトが無常に突きつけた。
「そんな」
 ユーナの胸の中にあった大切ななにか。縦に一本亀裂が入ったと思うと、クモの巣状にひび割れていく。
「ユーナ様。これが選択です。これから先、このような決断をいくつもしなければなりません」
 これが崩壊の音。
 大切な大切な部分が破裂したように粉砕した。
 痛みはない。むしろ、その大切な部分は痛みだった。ユーナが進もうとすると、いつもチクリと痛みをもたらしていた。
 粉砕した部分は塵となり、空間に溶け込むように消えていく。
 物悲しさと解放を一度にもたらしたかのよう。
 慟哭と冷静さを同時に感じたかのよう。
 イイ・シトは倒れこみそうになるユーナの身体を支えた。
 目が回っていた――はず。
 ところが、イイ・シトに支えられた瞬間、世界は突如として明確さを取り戻す。
 夢から目を覚ましたかのように。
 現実が、現実として認識されたかのように。
 イイ・シトが静かに尋ねた。
「最後に聞きます。この地域にカナデという少年がたどり着いています」
「え……?」
 イイ・シトが穏やかともいえそうな表情でユーナの双眸をじっと見つめる。
「カナデとは、ユーナ様が異世界で知り合った少年です。彼はあなたを心配して、異世界からこちらの世界に渡って、ついにここまでやってきました。あなたが隔世に戻ってきた後、すぐに追いかけてきた彼は、長い時間をかけてようやくあなたにたどり着こうとしています」
「……私に……」
「恐るべき想いの強さです。あなたを想う、それだけで異世界からこちらの世界に渡り、ただひたすらあなただけを探し求めてきました。あなたがヴァルアラトスに攫われるようにこちらの世界に戻ってきた、たったそのことが気がかりだったために。あなたにたった一つだけ、確認したいために……。この世界で彼が経験した凄まじいまでの生活は、この私でも想像を絶します。全知全能の運命に阻まれながらも、何度も傷つき、絶望し、諦めかけながらも、彼はとうとうユーナ様へあと少しのところまでやってきています。私は正直、この少年の想いは敬意に値すると思っています」
 イイ・シトの瞳に、なんらかの熱い感情が沸き起こってきたのが見えた。
「ユーナ様、あなたの自由意志を尊重します。そして、この先は私も使命を忘れます。あなたがカナデのもとへ行くとおっしゃるのなら、帝国旅団に仇をなす結果になろうとも、私はあなたをお守りするためにお供します。どうか正直に答えてください。すべてのしがらみを忘れ、心の赴くままに」
「カナデ……」
「ユーナ様、行かれますか? 残りますか?」
 決断を迫られた。再び。
 この先、なんども要求される選択。
 ユーナはイイ・シトの腕の中から離れ、自分の足で立った。もう眩暈もしなければ、床が波打つような感覚もない。足の裏には確かに踏みしめる床があり、それは揺るがないものに感じた。
 ユーナはゆっくりと背後を振り返った。そこには操舵室の大きな窓から、晴天の青空が伺えた。
「……誰ですか?」
 ユーナの発した言葉に、イイ・シトは目を細める。
「誰、とは、どういう……」
「異世界で知り合った……? カナデ……。思い出せません。その人は私とどんな関係なのでしょうか」
 そう答えると、イイ・シトはゆっくりと目を瞑る。ともすれば悲痛、とも思えるしぐさ。
 胸に手を当てて、イイ・シトは何かをつぶやいたが、その声はユーナには届かなかった。
「なんですか? なにか言いましたか、イイ・シト」
「いえ、ユーナ様がそうおっしゃるのなら、私の思い違いでしょう。親しい方だと思いましたが、まあ捨て置きましょう」
「……ええ」
 カナデ、という名前に、胸の奥底を針でつつくような痛みが走った気がしたが、すぐに収まった。二度とぶり返さない痛みなのだろうとユーナは思った。
 もう、そんな小さな痛みに構っている暇などないのだ。
 この先に二ツ目族の解放があるのなら、私はもう余所見をしてはならない。
「せめて……、私にタモンとアリスを弔う時間を……、喪に服す時間をください。私が産んでしまった犠牲……。最後です。お願いします」
「もちろん」
 イイ・シトはやさしく笑った。この心遣いが嬉しかった。
 ユーナは再び、窓の外に広がる広大なユベリア大陸に目を移す。
「まだ信じられません。これから大きな戦いが起きるんですね」
「ええ。もちろん、その中心にはユーナ様がいて、あなたの力なくしてはこの戦い、勝てはしません。ユーナ様の決断に敬服いたします」
 ユーナは少しだけ微笑んで返答した。
 心のどこか奥まったところで誰かが悲鳴を上げている。
 私が閉じ込めた牢獄で、誰かが嘆き、慟哭している。
 だけど、私が閉じた蓋は、その悲鳴すらかき消した。
「行きましょう。この国を取り戻し、二ツ目族を解放しましょう」
 ユーナが決意を表明すると、イイ・シト、ドロレス、メルス、船長らは再び頭を垂れて、ユーナに敬服の意を示したのだった。
 
 
 
「分からないよ、ルウディ。もうなにがなんだか」
 奏はどうしようもない不安に苛まれ、その不安の原因が自分自身で理解できなかった。
「君にはユーナは救えない。そう言ったね。でも、言葉の反面、僕は君にユーナを救ってほしかった。これも何度も言ったね。僕はいつでも君の味方だったし、運命に邪魔されないように君を渦の中心まで導いた。本来、君は此処にはいない。君がもつ、最も重要な使命はユベリア宮殿にあるのだから。一度は近づいたね」
「俺の使命?」
「そう。僕らが背負っている運命は、タモンとアリスと同じ。僕は約千年前、永遠の命を得た。それは劇薬を口にしたときから始まった。僕は不老不死の妙薬を飲み、死ぬはずだった運命を捻じ曲げてしまったんだよ。美しい湖畔。僕はそこでエレーナの死を看取り、自殺をする運命だった。ところが不老不死の薬を飲んだことで『死ぬ』はずだった僕が『生きている』。前に話したかな。運命は減ることはあっても増えることはない。僕は死ぬはずが生きている。運命の筋書きは死を望んでいる。ところが僕は生きている。運命の予定調和は決して僕の生を許容しない。運命は本来の筋書き通りに戻すため、何度でも僕を殺しにかかる」
 なんの話だ。エレーナ? 不老不死?
 だが、ひとつだけ確かなのは、この話を聞きたくないということ。聞いてはいけない。聞けばそれだけで命にかかわる重篤な病が自分を襲う。
 この先は、決して覗いてはいけないパンドラの箱。
 ルウディはそれ分かっていながら、絶望的な話をその口から垂れ流す。
「僕は死ねない身体。運命はこの想定外の事態を収拾するために、世界に特異な能力者を誕生させる。殺すことができないのなら、あたかも存在しないかのように活動を停止させて、封じ込める。そのための能力者。それが圧縮能力者だよ」
 うまく理解ができない。
 いや、理解をしたくない。
 この話、これ以上聞いてはいけない。
 絶望と孤独が訪れてしまう。
「圧縮能力者に親は存在しない。世界が突然生み出した、出どこもなにもかも分からない存在。たいていは子供……七、八歳くらいの年齢で急に存在し始める。奏、君は幼少のころの記憶がないね。それは記憶を失っているのではない。そもそも、この世に誕生していないころの記憶はなくて当たり前だよね」
 地面が揺らいでいる気がした。
 自分が踏みしめている大地すら曖昧な存在に思えてくる。ルウディの話は、確かにこの地上に存在しているという根底の意義を揺るがしてくる。
 やってくる。
 孤独が。
 絶望が。
「不死人と圧縮能力者。これは必ず一対ずつ存在し、どういうわけか、男の不死人には女の圧縮能力者、女の不死人には男の圧縮能力者が生まれる。そして、不死人であったタモンに対しては、アリスという女の圧縮能力者が誕生した。アリス自身、自分の運命や能力に気付いていなかったが、空から落下するという、極限の状態に陥って『タモンを救うために』圧縮能力を使って石化し、生身のまま地面に叩きつけられることを防いだ」
 奏は手の中にある御札を見つめた。その手は意志に反して震えをきたしている。
「封じる方法はさまざま。プティシラのようになんの根拠も理由もなく、ただ僕を封じるために追いかけてくる。彼女はなぜ自分が僕を追いかけてるのか、彼女自身も分かっていない。ただ、運命に命じられるがまま、そうしなければいけないと突き動かされている」
 プティシラは圧縮能力者だった。そしてルウディを追っている。いつか、プティシラに尋ねたことがある。なぜ、ルウディを追うのか。そのとき、プティシラは回答に窮していた。理由を秘密にしていた、と思っていたが、そうではなかった。
 そもそも理由なんてなかったのだ。
 ただ運命に指図されるがまま、突き動かされていただけ。
「圧縮能力者と不死人は、運命の筋書きによって引き寄せあう。どんなにうまく身を隠しても、必ず出会ってしまう『運命』だ。タモンはそうしてアリスに出会う。だが、タモンもアリスもお互いの運命には気付いていない。それは運命が仕掛けた罠。タモンがアリスを救うように仕向け、アリスがタモンを救うために圧縮能力を使って封じる。お互いが意識することもないまま、運命は不死人の封じ込めに成功する。僕はこれを阻止したかった。僕にはできない。僕はすでに自分を封じ込めた同然に、運命に対して距離を置いた。こうしてプティシラから身を隠せているのは、圧縮されて封じ込まれているのと同様に、僕は自分自身を滅却しているからだ」
 もう、運命という言葉を聞きたくない。だが、足腰は動かない。それは疲労だけが原因ではない。
 もしかしたら、ここで答えを知ってはいけないのかもしれない。それが運命の意図する筋書き。聞いてはならない。運命の筋書きは、それを許容していない。だからこそ自分は今、言い知れぬ恐怖を抱いているのだ。
 ところが反逆するかのように、ルウディは奏をこの場に貼り付けている。運命に仇なすかのように、聞かせてはならない話を聞かせようとしている。
「君が運命に命じられるがまま封じなければいけないのは、エレーナという女性だ。彼女はユベリア宮殿にいる。僕と同時に不死人となった女性。君はこの女性を封じ込めるためだけにこの世に誕生させられ、運命はそうせざるを得ない状況に君を追い詰めるだろう。今回、君が選んだ選択と同じように、君は運命が用意した選択を選ぶだろう。そして、タモンも救えず、ユーナも救えず、運命はただ、予定調和の流れに沿って選択する」
「ユーナは……」
「救えなかった」
 再び、地面が怒りだしたかのように奏を蹂躙する。お前が失敗した。全てお前が悪い。地面、空気、木々の全てが奏を責め立てる。
「ユーナは……まさか、死……」
「生きている。だが、もうかつてのユーナは存在しない。君の存在がユーナを運命の道から救い続けていた。君の存在が胸の中にあったからこそ、今まで彼女は彼女のままでいられたんだ。だが、君はタモンを救えなかった。ユーナは心を凍結させて、今までのユーナはもう消えうせてしまった。運命の赴くままに」
「意味が」
「ユーナはあの飛翔船に乗っていたんだよ」
 奏は思わず一歩足が前に出た。
「あの時、ユーナは選択を迫られていた。捕らえられていたアリスやそれを助けに来たタモンを助けるか、帝国旅団の救世主として、ともに国を取り戻す仲間となるか。その選択をするとき、君がタモンを救っていたら彼女はタモンを犠牲にするような選択をする必要がなかった。タモンを見捨て、帝国旅団の仲間になるという結論に至ったユーナは、その後、タモンとアリスが飛翔船から落下したことを知る。自分の選択が二人を殺してしまった。ユーナはそう考えるだろう。だが、それでもユーナは前を向かなければならない。この国から二ツ目族を解放するために。三ツ目族の圧制を打ち破り、二ツ目族の世界を取り戻すために。その目的のために、ユーナは君の知っている彼女自身を捨て去り、帝国旅団の救世主として君臨することを決めた」
「ユーナが帝国旅団に……?」
「そして、彼女は心を凍結する代償として、心の中に住んでいた君という要を崩壊させた。それの意味するところは、つまり君を忘れるということ」
 ルウディは微動だにせず、唇だけを動かし続ける。
「ユーナは君を忘れてしまった。世界観を渡る、ということの代償に記憶を失っていく。もう、ユーナは君を覚えていない。君と過ごした記憶の一切合財を。そして一度失われたものは、二度と戻ってこない。……それが運命だからだ」
 心にはなんの感情も生まれなかった。
 ユーナが自分を忘れる。
 そんなことがありえるとは思っていなかった。
 ユーナが奏を嫌う、無感情になる、わずらわしく思う、そういうことはあっても仕方がないと思っていた。ユーナに尋ねて、ユーナが答えてくれればそれでよかった。
 忘れている。
 現世で過ごした記憶。交わした会話。交わした約束。
 全て忘れている。
 なら、自分が今ここに居る意味は?
 悲しい、苦しい、どこではない。
 心の中にあったはずの、大事な部分がぽっかりと失われてしまった喪失感。
「そんな……」
「残念だが、それが君の下した選択。ユーナは唯一の良心だった君を忘れ、彼女は良心の呵責を覚えることもなく、もう目的に向かって突き進むだろう。君が唯一持っていた世界への干渉の権利。君は自ら放棄してしまった。もう君になんの力もない。僕はもう君に期待することは何もない」
 ルウディはいつものように話をはぐらかしたりしない。むしろ、それが恐ろしかった。
「ユーナの目的って……」
「二ツ目族の解放。つまり、三ツ目族の殲滅。ユーナは帝国旅団の救世主として、近いうちにグロウリン城塞都市に全面攻撃を仕掛けるだろう。その結末を僕は見たくなかった。阻止するために、君のいた世界にユーナを送り込み、君を呼び寄せ、そして奏とユーナの二人の絆を信じた。だが、その絆も断裂した今、もう僕に打てる手立てはない。やはり、運命には逆らえなかった。なにがあってもね」
 ルウディは目を瞑ると、思案するように沈黙した。
 突然どうしたのか、またルウディの態度が奏を不安にさせる。
「占ってみた。君の未来。やはり、君にはなにも変えられない」
「なにも……」
 そんなことを言われても、奏には実感がない。
 ルウディには見えている結末は、奏にとってはまだこれからの未知の世界である。それが決められているとしても、悪い結末であればそこに進もうとは思わない。
「なにが見えてるんだ。ルウディにはどんな未来が見えてるんだよ。そんなに変えられないというのなら言ってみろよ」
 強がった奏の声は恐怖に震えていた。
 分かっている。ルウディのいったこと。それは全て真実となる。
 自分は、本当に未来を知りたいのか?
「変えて見せるというのか? じゃあ教えてやろう。絶望的な結末を。君は本当に知りたいか? たとえば自分が死ぬとして、そのことを知りたいか? ユーナが数分後に死ぬとしたら、君はそれを知りたいか?」
「なにを……」
「ひとつだけ教えてあげよう。もはやなにを喋ろうとも、なにを運命に知られようとも構わない。全知全能の運命には僕の浅はかな知恵などお見通しなんだから」
 ルウディは背を向けた。立ち去る気である。
「次に君に会うのはグロウリン城塞都市」
 振り返らずに言った。
「全員死ぬ。君も、君に縁がある人間全て」
「な……!」
「ユーナも死ぬ。君も死ぬ。トレミも、ササクラも、その家族も。当然、眷族も死ぬ。ラナ・カンもチリル・ルイサも」
 沸き起こる憤怒。
 もちろん、それを上回る恐怖も。
「うそだ!」
 その声は、もはや悲鳴だった。
「僕は嘘を言わない。その運命を変えられなかったのは君自身さ。タモンもユーナも救えなかった君は、最後に全員の死を招く。君には運命を変える力はない。今回、それが証明された。この運命は絶対だ」
「なら、その理由を言ってみろ。どうやって死ぬというんだ」
「さあ……知らない」
「知らない? 知らないわけないだろ!」
「どうして教えてあげなければならない? なんのために? 運命は変えられないんだ。教えてあげても仕方がない」
 奏はいよいよ怒りを抑えられなかった。もしかしたらただの動揺だったかもしれない。いずれにしても感情など、どれも違いはない。
 背を向けるルウディの肩を掴むと、強引に身体をこちらに向かせた。
「誰も死なない。俺が死なせない」
 ルウディは興味の失せた表情を隠しもしない。
「好きにするといい。なにをしようと運命は変わらない。君はもう分かってるだろう。僕の言ったことは絶対に実現する」
 奏は拳を強く握った。それを振り上げて、ルウディを殴りつけるのは簡単だったが、奏は振り上げた拳をゆっくりと下ろす。
「どうした、殴らないのか?」
「……殴らない」
 つい直前まで、怒号のように胸の中で鳴り響いていた稲妻。身体を切り裂くような雷鳴は止み、今は奏の身体の中心で雨が降っていた。
 しとしとと音を立てて。雨音はそのほかの音を消している。
 しとしとと。
 悲しい。
 ただひたすら悲しい。
 悲しくてたまらなくなった。
「ルウディ……。いつだよ。いつみんな死ぬんだ?」
「さあ……。知らない」
 冷たい雨が足元から水かさを増してくる。
 自分はいったい、ここまでなにをしてきたのか。
 なんのために隔世に渡り、ここまでやってきたのか。
 誰も死なせない。
 さっきは大声でそう叫べたのに。
 もう、自分の身体には気力と呼べるようなものはなにも残っていないことに気付く。
 がらんどうだ。
 すべて終わった。
「俺は……、選択を間違えたのか?」
「正しい選択をしたのさ。運命が指し示すとおりの道を選んだ」
「みんなを助けたかっただけなのに……」
「自分の意志を信じるということは、運命に身をゆだねる行為と一緒だ。自分が正しいと思う道を選べば、つまり運命にいざなわれてる道だ。君は自分を信じ、正解を考えなかった。全ての人を救うなどという安易な理想論を持つ君など、運命から見たらさぞ操りやすい人形だっただろう」
「それでもルウディは、俺に期待したんじゃないのか? 俺が運命を変えられると」
「そう。君はある意味、この世界の流れから外れた人間。僕側に近しい人間さ。運命が生み出した操り人形である一方、運命が自ら生み出した『余ったチーズ』でもある。君が不死人を封じて御札化しない限り、世界にとって君も異物なのさ。運命を変えるには、その『異物』でありながら、運命に『なかったこと』にされない君のような存在が必要だと思った」
 言葉のほとんどを奏は理解できていない。だが、理解などもうどうでも良かった。
「なら……、やり直せばいいだろ。何度だって。また運命が変えられるか、挑戦すればいいだろ」
「……千年間。ありとあらゆる方法を試してきた。もう手打ちなのさ。運命はどんな策をもっても出し抜けない」
「千年間……」
「そう、長い長い歳月を経て、僕もようやく知ったよ。なにも変わらないんだってね。なにをしようと、どんなものを利用しようと、運命が遣わした操り人形さえ逆手にとって操ろうとしても、運命は僕より何枚も上手なのさ」
 あの時、翼が収納された箱をシエルに渡し、トレミをつれて佐々倉の家族のもとへ戻るという選択。
 たったそれだけのことで、運命が変えられないと? たった一つの選択ミスで、なにもかもが終わると?
「クロスが君を迎えに来る。僕はもう行くよ」
「クロスが?」
「ヴァルアラトスは最後に、僕のやりたいようにやらせた。僕が失敗したとき、クロスに君を引き渡すことになってる」
「引き渡すって……、意味が分からない」
「ヴァルアラトスは、運命の流れに逆らわなかった。むしろ、運命が望むとおりの結末を導くため、ヴァルアラトスは手を貸した。一方の僕は運命に逆らう筋書きを遂行した。ヴァルアラトスはそれを許容したが、失敗したそのときは、君をクロスに引き渡し、僕は引き下がる約束をした」
「運命が望む結末って……、ヴァルアラトスが望む結末と同じ……」
「運命が定めた結末を、ヴァルアラトスが受け入れた、というべきか。僕と同じさ。かつてはともに運命と戦った仲。ヴァルアラトスは僕の最後の戦いを見届けると約束してくれたのさ」
「その結末は」
「さあ……。知らない」
 またその表情。なにもかもに興味を失い、生気のない表情。
「その結末の中心に君がいて、君が下す選択が全てを消し去る。それは幾ら考えても分からないさ。君自身が正しいと信じた選択だ。なにをしようと、君はその選択をする。結末を教えても、形を変えて同じ結末をたどる。君にできることは、ヴァルアラトスと同じ、運命を受け入れて運命に指し示されたとおり行動することだけさ」
「ルウディは……運命に身をゆだねるのか? 千年間も運命に抗ってきたのに」
「もちろん、運命に身をゆだねたりはしない。だが、第三者はもう終わり。僕は僕の方法で終わらせる」
「でも――」
「もう時間だ。この話の続きは、クロスが連れて行く場所でまた聞けるだろう」
 そういてルウディは再び背を向けた。
 振り返ることなく手を振って歩き出す。
 その背中を見つめる奏。
 もう、呼び止めるような心境ではなかった。
 いつも消えうせるようにいつの間にかいなくなるルウディは、今度は森の奥へ消えるまで、その背中を見せ続けた。
「全員……、死ぬ?」
 茫然とつぶやいたとき、「カナデ……」と声がして振り返る。洞窟の入り口付近にトレミが立っていた。
「今の話……」
 トレミも死ぬ。
 全員死ぬ。
 いったい、なにが起きるのか。
「トレミ、心配するな」
「でも……、カナデ……、顔が……」
 親指の先ほどのトレミの顔が青ざめている。
 自分は今、どんな顔をしていたのか。
 今にも泣き叫びそうなトレミの表情を見る。
 おそらく、同じ顔をしていたのだ。
 全員死ぬ。
 ルウディがそう言ったら、それは現実の未来の出来事。
 風が吹いた。
 生ぬるい風は、まるで見えない怨霊が全身を触って言ったかのような気色の悪さだった。
 死ぬのか。
 俺も、トレミも。
 佐々倉も、佐々倉の家族も。
 ユーナも。
 そして、自分にはなにもできない。自分で選んでいると思っている全ての選択は、実はあらかじめ決められていた誰かの筋書き通りに操られている。
 テレビゲームの世界の住人と同じ。
 動かされているほうは、それが誰かに操られているなどとは思いもしない。
「どうなるの? これから……」
 どうなるのか。
 答えられない。
 運命を変える?
 全ての未来を見通せるルウディが、千年かかっても実現できなかった。
 そんなこと、自分にできるのか。
 そして、運命に与えられた宿命。
 圧縮能力者がこの世に存在する理由。
 ――世界に現れた異物を、あたかもなかったかのように圧縮して封じ込める。そのために運命が生み出した、同じく『異物』の俺。
 孤独。
 漠然と感じていたこの孤独は、果たして現実に目の前に姿を現した。
 家族もいない。親がいるとすれば、それは運命という無機質で無感情な、たゆたう流れのような存在。
 なんなのか。俺はなんなのか。自分が人だと思っていた。鳴音奏だと思っていた。ところがどんな人間とも一致しない。どんな人間とも共有できない一人ぼっちの運命を背負った、運命の操り人形。
「そんな顔をしないで、カナデ。私も悲しい気持ちになるよ」
 トレミの言葉も遠く聞こえた。
 自分とは違う、『人』の言葉。
 
 空が呻いた。
 
 苦しみ、もがくように呻いたと思うと、次には慟哭するように空が絶叫した。
 空を仰ぎ見ると、透き渡るような青空には、悪魔の大群が侵食するかのように暗雲が立ち込め始めていた。
 終末を暗示するかのような暗雲は、脅かすように雷鳴をとどろかせる。
 ――どうなるの?
 トレミが言った言葉。
 奏は立ち尽くし、やがて降り出す雨に打たれることを願い、暗雲を見上げ続けた。
 ――どうなるの?
 ――みんな死ぬ。
 ――どうなるの?
 ――トレミも死ぬ。
 ――どうなるの?
 ――ユーナも死ぬ。
 ――どうなるの?
 ――そして、君も死ぬ。
 問いと絶望的な回答が、いつまでも奏の頭の中で堂々巡りを繰り返した。
 
 
 
 ルウディが神の真似事をして作り出した運命の渦は、奏が作り出した穴に吸い込まれ、全てが流れ落ちて消えた。
 渦に巻き込まれずに残った残滓は、運命が『異物』として世界に産み落とした操り人形の残骸。
 死ぬ運命を宣告され、自分の無力さを思い知らされ、ただ悔しく、ただ空しく。
 怒号のような稲妻と、暴力のような強風と、血しぶきのような豪雨に癒しを求めてみたものの、そんなものが絶望を拭い去ってくれるはずがないことは分かっていた。
 ユーナと出会い、過ごし、育んだこの心のありかを示す宝石。
 いつもまばゆく光を放っていた宝石が、いまはどす黒く燻されて鉛のように重く。
 いまはなにも考えられず。
 失ってしまったものの重要さも実感できず。
 願わくばこのまま消えてしまえたらと思う。
 そして、最後。
 最後の戦い。
 命の最後。
 その先が溶岩の海であろうと、刃物の筵であろうと、運命は否応なしに背中を押して、その結末へと向かわせる。
 唯一、理解できたことがある。
 どうしてルウディが世界に対して第三者となったのか。
 それが分かった気がした。
 
 
 
 運命は、いよいよ最後の旋律を奏でる。
 予定された結末へ。
 回り道があったとしても、原点へ回帰する流れは、奏の旅を終わらせる。
 やがて終幕のコーダが流れ始め……。
 
 
 【第五部 解明編(選択と孤独の章) 完了】
 
 

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