あっちから変なの出てきた

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第十五章 【 孤独 】


「さて、行くか」
 イイ・シトがそう言いながら立ち上がった。トレミが「まだタモンが戻ってこないぞ」と指摘すると、イイ・シトは人懐こい笑みを返してきた。
「待つ必要もない。タモンはアリスを助けられない。そういう運命なんだから」
「え? 運命?」
 トレミは首をかしげた。シエルも頭の上にトレミが乗っていなかったら首をかしげているだろう。
「イシト、お前、タモンの仲間だろ」
「おっと、それがそもそもの間違いさ。タモンの味方になった覚えはない。俺は最初からユーナちゃんの味方だ。それに、タモンはアリスとキーファを助けられない運命だって言ったろ。これは曲げられないんだよ。どうやっても」
「意味が分からないぞ。タモンを裏切るのか?」
「なにもしないだけさ」
 イイ・シトは自分の身長ほどもある長剣を背負いなおす。
「じゃあな、ウサギくんとちびっ子。お前らは愉快なやつらだった。久しぶりに心が和んだよ。なにかの縁でまた出会ったら、今度は運命について、深く話し合おうじゃないか」
「ちょっと待て。ユーナは助けるのか?」
「もちろん。そう占いに出たからな。そうせざるを得ないし、結構、自分でもそうしたいと思ってる。ユーナちゃん、可愛いからな」
「占いってなんだ? ユーナを助けたら、アリスとキーファも助ければいいだろ」
「そうじゃない。助けようとしても助けられないんだよ。たとえば、トレミは右手で右手を掴めるかい?」
「右手で右手を? 無理に決まってるだろ」
「そう。無理。そういうこと。頑張れば自分で自分の背中くらいは見えるだろうけど、直に後頭部は見ることはできない。見ようとすれば死んでしまうしね。表を裏にすることはできない。東を西にすることはできない」
「意味が分からない!」
 イイ・シトは穏やかに笑みを作る。
「空を海だと信じることはできても、実際に空が海になることはない。タモンやアリスを助けられたとしても、それは幻想だ。なにも変わったことにならない。最終的に行き着く先が同じ場所であれば」
「その理屈は……」
 シエルが震えた声を上げた。トレミが掴む耳も、ぶるぶると震えている。
「お、その顔。ウサギくん、もしかして知ってるのかい?」
 イイ・シトが意外そうに目を丸くしている。
「知ってるって、なにがだ」
 トレミは「言ってみろ」シエルの耳を引っ張る。
「全ての理を知る人間がいます。その人は全ての運命を知ることができ、そしてすべての運命に干渉できない人です。運命の流れは一方通行。戻ることはできず、減ることはあっても決して増えることはない……」
 イイ・シトが手を叩いて「そうそう」と嬉しそうにはしゃぐ。
「知ってるんだな、ルウディを。世間は狭いね。そう、俺はルウディに言われて、ユーナを見守ってた。森の中でユーナが襲われそうになったので姿を現す羽目になったが、これでも隠密が専門だ。本当は剣術なんかより、隠密、潜入が俺の得意技」
 やはり分からなさそうなトレミ。
 シエルが凍えるように震えているのだけが伝わってくる。
「お前らも運命に乗せられた口だな。こっちの世界に来ると、絶望しかないぞ。やめとけやめとけ。いまのうちに元の世界に戻れ」
「意味の分からないやつだな! さっきから運命運命って! そんなの知るか! カナデはそんなの蹴散らしてきたぞ! どんな危険だって切り抜けてきたんだ!」
 イイ・シトは再び驚いたように口をすぼめた。
「お前らが探してるの、カナデってやつなの? なんだよ、早くそういえばいいのに」
「知ってるのか?」
 思わずシエルのミミを掴む手に力が入ると、シエルが「いてててっ」と悲鳴を上げた。慌てて「ごめん!」と手を離す。
「なるほど、残念ながら、お前らは運命の渦にもうどっぷり巻き込まれてるのか。なら心配ない。すぐにカナデには会えるだろう。俺も名前しか知らないが、そいつ、ここに来るはずだ」
「ここに!?」
「ああ。思ったとおりに行動しろ。それが神様の指示だ。そうすれば運命は渦の中心で重なり合う。その運命の渦の中心がここだ。全ての運命が今、ここに集結しようとしている。それぞれ離れ離れになっていたはずの運命の奴隷たちが、どんどん渦の中心に集まってくる。そして、その運命の渦の命運を握るのがカナデだ。ルウディがそう言ってた」
 そのとき、飛翔船のほうから空気を痺れさせる振動音が聞こえてきた。
「おっと、時間だ。置いてかれちまう」
「ちょっと待て。話はまだ終わってないぞ」
「心配するな。お前らが運命の奴隷ならば、また出会うだろう。そして、おのずと直面することになる。この世の絶望と」
 そう言って、イイ・シトは振り返らずに飛翔船に走っていった。特に周囲を警戒する様子もなく、軽い身のこなしで飛翔船の外縁通路に飛び乗った。
「シエル、ルウディって誰だ?」
「ルウディはプティシラ――私の宿主の宿敵です。ルウディは人の行動を自由自在に操る極悪人です。温厚に見えますが、その実はとても恐ろしい、運命の操り手です。彼が指を挿せば、人は逆らうことができずにその方向に歩いていき、その先に崖があろうとも火の中であろうとも、逆らえずに進むしかなくなります。プティシラはそんなルウディを退治しようと長い間追いかけていますが、いまだに捕まえることができません。少し前にルウディを見ましたが、おそらく、ここが運命の渦の中心であれば、プティシラも近くに居るかもしれませんね」
「ふうん、とにかく、悪いやつなんだな。見つけたら退治だな」
「ええ、見てくれの人格に惑わされないでください。一説には、ルウディは世界を崩壊させる力があると聞きます。その気になれば世界を壊せるのです。出会ったときは、くれぐれも気をつけてください」
「……なんてやつだ! すごいやつだな! ルウディってやつは!」
 飛翔船から聞こえてくる機械音が、さらに大きくなる。明らかに飛び立つ直前のように思えた。
「どうしますか、トレミさん。このままではみんな、飛翔船に乗って飛び立ってしまいます。そうなれば助け出すことはできないでしょう」
「ううん、どうするか。タモンはなにをもたもたしてるんだ!」
「様子を見に行きますか? 私たちならたとえ飛び立ったとしても、空を飛んで逃げられます。もしかしたらタモンさんは今、困った事態になっていて、戻ってこれないのかもしれませんし」
「そうだな! タモンはわたしたちを頼りにしてたしな! 頼りにしてきたやつは助けないとな!」
「そうです。いい人は助けないと」
「よし、そうと決まれば早速行くぞ! タモン救出作戦だ! いけ、シエル!」
 トレミは大声を上げながら、馬の手綱を引くようにシエルの耳を引っ張った。
「いてててっ」
 
 
 
 さあ、起きろ。
 そろそろ、運命の時間だ。
 絶えず流れ続ける運命という名の巨大な渦が、散らばっていたパズルのピースを中心に呼び寄せる。
 君はそこに向かわなくてはならない。
 その渦の中心へ。
 僕は君に答えを教えたよ。
 運命を変える扉の鍵を与えたよ。
 さあ、起きろ。
 
 
 
 奏はうっすらと目を開く。
 視界は最初ぼやけ、次に霞み、一度暗転してから徐々に光を取り戻した。
 きれいな青空だった。
 紺碧の空に、霞のような雲が流れている。
 穏やかな空だった。
 なんの苦労も苦痛も苦難もない、突き抜けるような空が広がっていた。
「目が覚めたかい」
 声がした。
 聞いたことのある声。
 奏は空から視線を移すことなく答える。
「ルウディ、君はいったい、なにをしたいんだ?」
「目覚めの一言がそれかい?」
 奏は上半身を起こした。身体の上に乗っていた塵や、木材がばらばらと落ちる。周囲には崩壊した建物の瓦礫。見る影もない。この状況で、奏は良く生き残ったものである。
 最後の記憶は、煙を吐いたナユタに近寄ろうとして、弾き飛ばされたときのもの。次の瞬間には意識を失い、そして今に至る。
 視線を転じると、瓦礫の上に座っているルウディが微笑んでいた。
 日差しに無防備に思えるほどの白い肌。転じてよく目立つ赤い唇。全身に何種類の色の布を巻きつけたような服をまとい、頭にはターバンを巻いている。以前に出会ったときのまま、空虚な瞳。
「暴走だよ。自分の許容量以上の眷族と契約したナユタは、力を抑えきれずに暴走した。チリル・ルイサが出現し、四ツ目族の聖域を破壊しまわったのさ。これがその成れの果て」
 でも、いまは落ち着いている。快晴の空の下、建物が破壊しつくされた光景は静寂に包まれている。
「ルウディ、君はなんでも知ってるんだったな。それからどうなったんだ? チリル・ルイサとラナ・カンは」
「眷族は力を使い果たし、ハザマの世界に戻った。とりあえず平穏が訪れた。だが、終わったわけではない。君は行かなければならない」
「……どこに?」
「絶望を味わいに」
 くそ。
 ルウディと会話すると、いつもいやな気持ちになる。見たくもない現実を突きつけられたような。
「君はユーナを救えない」
 ルウディがおもむろに言った。
「もちろん、僕がそう言ったの、覚えてるよね」
「覚えてる。しっかりと。でも、そんなの決まったわけじゃない」
「いや、決まってるさ。君はユーナを救えず、彼女は終わる。これが僕の占いの結果。絶対に間違わない占い結果。君はそれを聞いて、どうするんだったのかな?」
「ユーナを救う。なにも変わらない」
 ルウディは赤い唇を吊り上げた。
「そう。それにはタモンを救わなければならない。タモンを救うことが、ユーナを救うことに繋がる。だけど、タモンを救うのは至難の業だ。なんていったって運命がそれを望んでいないのだから。運命は君とタモンを近づけない。それは君の相手がタモンでないからだ」
「もう理屈はいいよ。タモンはどこに居る?」
 ルウディは貼り付けたような薄ら笑いを浮かべ続けながら、ゆるゆると腕を持ち上げ、ある方向を指差した。
 指差された方向を見ると、研究所の敷地の外に茂る森の木々の上から、よほど巨大なのだろう。ここからでも暗影の湾曲する上部が覗える。
「あれは……グロウリン城塞都市で見た……」
「飛翔船、と呼ばれる乗り物だ」
「どうしてここに? 城塞都市から飛び立つのを見たけど……」
「それも、いずれ知ることになるだろう。もう、急いだほうがいい。僕はとくと見物させてもらう」
 ルウディはゆるり、と揺らぐように立ち上がる。
 片腕を開くように持ち上げると、手のひらを空に向け、さあ行けと促した。
「最も重要にして、最後の運命の分岐点だ。これが輪廻の無限軌道を抜け出す唯一の分岐。カナデ、選択を間違うな。正しいような道は、実は運命の誘い水かもしれないし、あるいはそれが運命を切り開く、唯一無二の選択かもしれない。いいかい、『選択を誤るな』」
 ルウディの空虚の瞳に、暗黒の渦を見た。
 吸い込まれるような目だった。その瞳から目が離せない。精神を汚染される。心を壊される。そんな危機感を抱かせる瞳だったが、逸らすことができなかった。
「奏!」
 ルウディの瞳に魅入られていたとき、現実に引き戻す声がした。
 声のしたほうを見ると、こちらに向かって走ってくる人が見えた。
「奏!」
 その人は再び奏の名前を呼ぶ。
「佐々倉さん!」
 佐々倉だった。佐々倉は瓦礫を乗り越えながら、奏のもとへやってきた。
「どうしてここに!?」
「お前こそ! なんだこの現状は! なぜ研究所が崩壊してる?」
「眷族が暴れたらしいんです。ですが今はもう安全です」
 佐々倉は肩で息をしながら心ここにあらずの様子。こうして奇跡的に再会できたものの、それ以上に切羽詰ったような状況を物語る緊張した面持ち。
「どうしたんですか? なにかあったんですか?」
 佐々倉はおもむろに奏の肩を掴んだ。
「いきなりで悪いが、助けてほしい。今すぐに!」
 ひどい焦りようである。佐々倉は背中に何かを背負っていたのが分かった。それが何かは、奏には分からなかったし、質問できる様子でもなかった。
 奏は思い出したようにルウディの居た場所を振り返る。ところがルウディは初めから存在しなかったかのように消えうせていた。
「妻と娘が瘴気に中てられた。命が危ないんだ」
「瘴気に?」
 嘘を言うような状況ではない。だが、佐々倉の家族はずっと隔世で生活してきたはずである。
「お前のことをトレミが探しにいったが、会わなかったか?」
「いえ、会ってません。でも、瘴気に中てられたって、なんでいまさら」
「理由は分からない。とにかくそうとしか考えられない。俺のときと同じように、トレミの眷族にならなくては妻と娘が危ない。あいつらはどこにったんだ、くそったれ!」
 トレミの行き先。
 ふと、奏は漆黒の暗影に目を向けた。
 運命の渦は、中心点に囚われの断片たちを集結している。
 あの黒い黒点が、渦の中心である。
 ならば、あそこに行けばトレミは居るのか。
 まるでいざなわれるように。
「それと奏」
 佐々倉に向き直ると、出し抜けに胸倉をつかまれた。
「お前、トレミとの契約を解除したな? それに、自分が逃げ切れないと分かってて俺たちを逃がしたな? ええ?」
「いや……、ナユタは俺をちゃんと解放するって言ってたし……。事実、そうしようとしてたんです」
「なら、この現状はなんだ? どうして研究所が破壊されてるんだ。眷族がやったって、どういうことだ」
 奏が残ったことと、研究所が破壊されていることに因果関係はない。
「チリル・ルイサっていう眷族を、ナユタに譲渡したんです。ナユタはその力を抑えきれず、力が暴走したんです。これをやったのは、暴走したチリル・ルイサという眷族です」
 佐々倉は話を理解するのも面倒くさそうに胸倉から手を離す。
「とにかく、二度とこんなまねをするんじゃねえぞ。俺に貸しを作ったつもりだろうが、こんなの貸しでもなんでもない。ただの裏切りだ。お前の自己満足だ。誰も喜びやしない。今度やったら俺が殺してやる。いいな」
 奏は神妙に頷いた。
 トレミは佐々倉が変わったというが、確かに以前ならこんなことに真剣になって怒ったりしなかった。
「いいか、トレミを連れ戻す。今はそれしかない。あいつらの行き先に心当たりはないか?」 
 渦の中心。
 ルウディが手を差し向けた方向。
「それは……たぶん」
 奏が指差したのは、木々の上から上部だけ顔をのぞかせる、暗黒の物体。
「あれは……」
「現世で言うところの飛行船のようです。原理が同じかどうかは分かりませんが、あれだけ目立ってるんです。トレミたちは様子を見に行ったかもしれない」
「くそったれめ。行ってみるしかないか。時間がない。急ごう」
 佐々倉は有無を言わさず、瓦礫を乗り越えながら飛翔船の方角へ進み始めた。
 その背中を見ながら、奏は自分のやったことを振り返った。結局、自分の選択した決断は誤っていたのだろうか。
 死を覚悟した。本当にもう死ぬのだと思った。あの状況では奏の眷族を引き換えに、佐々倉たちを逃がすしか方法がなかった。その上、自分も生き延びる可能性なんてひとつもなく、佐々倉の言ったとおり、自らを犠牲にして佐々倉たちを助けた。
 奏は漠然と考えていた。佐々倉やトレミ、シエルは、命が助かれば嬉しいはずだと。助けられたほうは心から安堵し、命があったことを喜ぶはずだと。だからこそ下した選択だったし、まさか佐々倉が怒るなんて思わなかったし、せっかく逃がしたトレミが戻ってくるなどとは思わなかった。
 ある意味、自分は佐々倉たちを侮っていたのだろうか。自分の選んだ選択は誤っていたのだろうか。佐々倉たちを愚弄する結果になったのだろうか。
 ――俺は人を信用していない。
 そんな核心めいた言葉が脳裏をよぎる。
 人と人の間にあるはずの関係。結ばれるはずの絆が、奏とその周囲の人の間には存在しないのではないか。手と手をとって繋がる信頼関係がまったく存在していない。だからこそ奏は佐々倉やトレミを頼らなかったし、二人が奏を助けてくれるようなアイデアを出してくれるなどという期待は一切していなかった。自分が助けなければならない。自分が犠牲にならなければならない。
 つまりこれは、誰にも心を許していないことに等しいのか。
 誰も頼らず、まるで聖人のように人を助けたところで、それは俺の身勝手な独りよがり。きっと、奏が佐々倉を信じなかったこと、頼らなかったことを佐々倉は怒っているのだ。
 ――俺はおろかだ。
 こんな自分だから、ユーナを救えないとルウディに言われてしまう。
 でも、どうしていいか分からない。
 あの牢獄に閉じ込められた奏と佐々倉とトレミ。
 あの場面から、全員が無事に脱出する方法なんてあったのだろうか。
 なにも分からない。なにが正解なのか、どうすればいいのか。考えれば考えるほど、前進に巻きつく戒めの縄はきつく締まっていくばかり。
 どうしたらよかったですか、佐々倉さん。答えを求めるように佐々倉の背中を見ると、ふと、佐々倉が背中に背負っている奇妙な箱が再び気になった。
「佐々倉さん、それ、なにを背負ってるんですか?」
「ああ、これか。奏と別れた後、たどり着いた洞窟にあったんだ。もしかしたら何かの役に立つんじゃないかと思ってな」
「役にって、なんの役にですか?」
「さあ……、直感っていうかな。あそこにあったものでなにか持っていけるとしたら、これくらいしかなかったんだ」
「なにか、道具みたいなものですか?」
「翼だよ。いま翼は収納されてるが、ボタンひとつで広がる仕組みだ」
「まさか、そんなものが?」
 この隔世という世界は、空を飛ぶソラ・トンベルクのような眷族がいれば飛ぶことができる。わざわざこんな飛行技術が必要なのだろうか。
「とにかく行くぞ」
 佐々倉が飛翔船に向かって走り出した。道のりは楽ではない。破壊された施設の瓦礫が行く手を阻む。
 その背後を追う奏は、佐々倉が背負っている箱を見ながら不思議に思った。
 ――パラグライダーのような仕組みの翼だろうけど、佐々倉さん、どうしてそんなものを? 直感?
 佐々倉が大きな瓦礫に足をかけ、飛び越えたとき。
 その瓦礫が崩れた。
 佐々倉はバランスを崩したが、どうにか体勢を保つ。
 足場が不安定だ。時間がロスしてしまうが、慎重に進まないと危険だ。
 そう思った矢先の出来事。
 崩れた瓦礫が微妙なバランスで支えていた壁が、奏に向かって倒れ掛かってきたのである。
 足元を見ていた奏にはそれに気付いていなかった。
 ふと、足元が翳ったと気付いたときにはすでに遅い。見上げたときには数トンはありそうな壁が目の前に迫っていた。
 恐怖も覚悟もない。突然の出来事。不用意だった奏は一歩も動くことができなかった。
 ――死?
 その一文字だけが漠然と頭に浮かんだ――直後、奏は後方に吹き飛ばされていた。
 奏はなにも目撃していなかった。あまりにも突然の出来事。
 後方に吹く飛ばされ、尻餅をついた瞬間、つま先の数センチ先で轟音を立てて壁が倒れこんだ。
 砂煙が舞い上がり、視界が失われたと思うと、息ができなくなった。砂煙の中、口を押さえて何度もむせ返る。
 命が助かったことだけは分かっていた。それしか分からない。なにも見えない、呼吸もできない状況で、ただ混乱していた。
 やがて風に流れて煙が払拭されると、近くに居たはずの佐々倉を探した。
 あの時、迫ってくる壁を呆然と見上げていた奏の胸を、誰かがしたたかに押した。壁の下敷きになっていたはずの奏は、そのおかげで難を逃れたのである。
 誰が突き飛ばしたのかは見ていなかったが、あの状況で奏を助けられたのは一人しかない。
 佐々倉は、すぐ近くに居た。
 下半身を倒れてきた壁に押しつぶされて、うつぶせに倒れていたのである。
「佐々倉さん!」
 駆け寄ると、佐々倉の肩を掴んでゆすった。意識はあるが、苦痛にあえいでいる。
「佐々倉さん……! 俺のことを……!」
「お前が……ぼんやりしてるからだ……!」
 やばい。
 下半身は倒れてきた壁の瓦礫に埋もれている。
 こんな病院もないような異世界で重傷を負ったら致命的である。
 瓦礫はコンクリートを思わせる重厚で硬い物質でできている。瓦礫をどかそうとしたが、びくともしなかった。この瓦礫の下で、佐々倉の下半身はどうなっているのか。最悪の場合……。
「おい……! 奏……!」
「すぐに助けます! 心配しないでください!」
「それよりも……」
 必死に瓦礫をどかそうとする奏の肩口を掴んで、佐々倉は奏の身体を強引に引き寄せた。
 耳打ちするように佐々倉は言った。
「俺はいい。この瓦礫はどかせない……。それよりも、一刻も早くトレミを連れ戻して、妻と娘を眷族契約してくれ……」
「でも、それじゃ佐々倉さんが!」
「大丈夫だ……。骨の一つや二つは砕けてるかもしれないが、死にはしない。頼む、妻と娘を助けてくれ。もう、お前にしか頼めない……!」
 奏は胸がぎゅっと捕まれるような痛みを感じた。
 現実的に考えてこなかった、仲間の死。
 その予感が、恐怖となって胸を掻き毟ったのだ。
 大怪我をすれば致命的。そして、この世界は助けてと叫んでも誰もやってこない。隔世に来てから病院や医者など、これまでひとつも聞いたことがない。
 そして周囲には誰も居ない。
 自分の力で、佐々倉を救うこともできない。
 いま、瓦礫の下で下半身がつぶされ、大量に出血していたとしても、何もできることがない。
 誰も居ない。なにもできない。
 まさかこれが――。
「頼む……! 妻と娘を頼む……! もうお前しか居ないんだ……!」
 佐々倉にとって、頼れるのは奏しかいない。
 一人では生きていけず、助け合わなくては誰にも幸せは訪れない。
 ああ、これが――。
 ――これが孤独というものか。
「すぐに戻ってきます。トレミをつれて、すぐに!」
 奏に言えることはそれだけだった。
 それは佐々倉をこの場に置き去りにすると宣言していることに他ならない。
「頼んだぞ……!」
 頼んだぞ。
 この言葉は重かった。
 奏にはいえなかった言葉。
 人を信頼しない奏には、口にできない言葉だ。
 家族の命の危機に身動きもとれず、自分自身も危うい状況で発した「頼む」の言葉のなんたる重圧。
 そして、信頼を受けることの緊張、恐怖。
 自信がない。
 もし、佐々倉の家族を救えなかったら?
 自分はそんな罪を背負いきれるのか。
 佐々倉は再び奏の身体を引き寄せた。
「俺たちはこの腐れた世界で、数々の裏切りを見てきた……」
 意識が薄れかかっているのか、吐息のような声だった
「良く分かってる……。お前の感じてきた苦しみや後悔……。一方ではお前の信じてきたものも、今となっては理解できる……。家族と再会した今なら……」
 佐々倉はなにを言おうとしているのか。表情を見ると、何度も落ちそうになる意識を必死につなぎとめながら、声を絞り出している。
「それでも、お前の周囲にはいつも信頼できる空気が満ちていた……。お前が決めたことなら、きっと実現されるような期待感があった……。裏腹に抱えた孤独や悲壮感……。一緒さ、みんな。お前だけじゃない……。いいか、そんなお前の気持ちを理解できちまった以上、なにがあってもお前を恨んだりしない……」
 奏が今、孤独を感じているように、佐々倉も孤独を思い知っている。それは人と近くなればなるほど、感じる孤独である。
 このことに気付くまでに、奏も佐々倉も時間を要してしまった。ここまでかかってしまった。だが、奏と同じく悠久の孤独地獄に突き落とされる前に気付いた。佐々倉は妻と娘の再会を通して、忘れかけていた孤独を思い出し、そして助け合わなければならないことを思い出したのだ。
 奏にも分かる。佐々倉が感じている奈落の底のような孤独。
 それを理解し、行動できるのは、いま自分一人だけしかいない。
「これを……!」
 佐々倉の意識は、もはや半濁としている。瓦礫の崩壊を免れた上半身をうねらせて、背負っていた箱を奏に渡す。
「これを……もって行け。なぜ、これを持ってきたのか。……これが重要な気がした……。なんの根拠もない直感だった……。必要になるかもしれ……」
 佐々倉はそれ以上喋ることができなかった。
 ほとんど意識のない佐々倉から箱を受け取って、佐々倉の思いと一緒に背負った。
「必ず助けます。待っていてください!」
 奏はそれだけを言って立ち上がった。
 必ず助ける。自ら発した言葉の重みは理解している。
 ――助けられない結末。
 そんな不安が足元から脳天まで這いずり回る。
 初めての感覚である。
 人を助けようとする行為そのものが、奏の足腰を重くする。
 助けられなかった結末を考えると、今すぐこのまでしゃがみこみ、なにもかもから逃げ出したくなる。
 木々の上部から除かせる黒い楕円の上部を、まるで宿敵のように睨み付けた。
 いくんだ。
 救うんだ。
 佐々倉が本当の孤独に落ちてしまう前に。
 自分自身が孤独の暗闇に飲み込まれてしまう前に。
 奏は走り出した。
 一秒でも早く。一瞬でも早く。
 
 
 
 ユーナが案内されたのは、この飛翔船の操舵室だった。
 そこに案内されたのはおそらく、この船内で一番広い場所だったからだろうと想像された。操舵室にはおそらく、乗組員が全員集まっており、航路図を広げたテーブルを囲むように一同が顔を合わせた。
 出迎えたドロレスと、ルビウスとミミリアという二ツ目族。それから三ツ目族のメルスと、他にも三ツ目族が四人居る。三ツ目族はいずれもこの飛翔船を運航するための船長、副船長、操縦士、技師、航海士などであろうと想像がついた。
 後は船の昇降口に二人の見張りがいて、それで全員だと思われた。総勢十名。これがこの船の乗組員の全て。
「まず、お話しておきたいことがございます」
 ドロレスという老婆が、丁重な口調で説明する。
 この場で全て話をする約束である。ユーナの疑問は積み重なるばかりで解消されない。この場で全て確認するのだ。
「おそらく勘違いなさっていると思われますので最初に申し上げておきます。いまこの場には、三ツ目族は一人もおりません」
「え?」
 またさらに、疑問の累積をされる。このまま積み重なっていくようであれば、ユーナの頭は破裂してしまいそうである。
 どう見ても三ツ目族としか思えない。メルスにしろ、船長にしろ、副船長にしろ、額にある第三の目が偽物とは思えない。二ツ目族とは比べ物にならないほど強烈な気を持っているのだから。
「ミユナ様はきっと、四ツ目族をご覧になるのが初めていらっしゃるのでしょう。この船にはいま、二ツ目族と四ツ目族しか乗っておりません。つまり、ミユナ様が三ツ目族だと思われているのは、全て四ツ目族です」
「でも……、第四の目が……」
「第三の目が、そのままの意味の『目』であるから誤解が生じているのでしょう。ミユナ様は第三の目の正体をご存知でしょうか。この目はいったい何からできているのでしょうか」
「なにからできているって……」
 種族の特徴なのだから、当然、生まれたときからそこに存在する目であろう。なにからできているなどという質問が理解不能である。
「この第三の目は、一ツ目族の目の基底部にある結晶体の組織から作られています。一ツ目族の目の中には、二ツ目族の目の大きさほどの硝子玉のようなものがあるのです。それが額の第三の目となります」
「……どういうことでしょうか。もっと分かりやすくはできませんか?」
「すぐに理解していただけるとは思えませんが、要約してお話しすると、つまり、この世界に三ツ目族、四ツ目族などという種族は存在しないのです。現在、三ツ目族と呼ばれる種族は、もとは全て二ツ目族です。二ツ目族の知性や創造性と、一ツ目族の強さや寿命の長さを掛け合わせたもの。それが三ツ目族なのです」
「掛け合わせた……? 掛け合わせたって、どうやって? もともと三ツ目族なんていないって、それはつまり」
「作られた種族です。生まれてきた二ツ目族の額に手術を施し、一ツ目族の目を移植します。そうすることで、人は強力な力を得ます。普段、抑制されて制御されている力を、解放できるようになる、と表現すべきでしょうか」
 ユーナはだまされているのであろうか。到底受け入れがたい話を信じ込ませて、なんらかの悪事に利用としているのではないか。
「強靭な生命力、長寿、回復力を得る代わりに、それまでの記憶と眷族との契約能力を失います。一説には眷族との契約には、生命に対する道徳心や良心が眷族との契約に影響すると言われています。心の領域とは思いやりや優しさに比例して大きくなる。大きくなれば心的世界との繋がりも、より深くなる。第三の目を埋め込むことにより感情や良識が希薄になることで契約能力を失うのではといわれています」
「ちょっと待ってください。あなた方は本当に帝国旅団なんですか? 帝国旅団は一ツ目族と二ツ目族の解放軍だと思ってました」
「間違いありません。かつてユベリア帝国として統治されていた一ツ目と二ツ目の種族の国を取り戻すのが、我々の悲願でございます。ミユナ様のおっしゃりたいのは、なぜ四ツ目族が仲間なのだということでしょうか」
「それもありますが、私はあなた方が帝国旅団だと信じることができません。だって、四ツ目族という方々が一緒に居て、しかもヴァル様が外交に使用される飛翔船を使ってます」
「ミユナ様、それは――」
「それともうひとつ」
 ユーナはドロレスの話をさえぎって、人差し指を立てた。
「私のことをミユナと呼ばないでください。私はユーナです。そう呼んでください」
 ドロレスは不思議そうに口ごもった。
「それはどうして?」
「かつてのヴァル様に召し使っていた私は捨てました。私は彼の方に与えてもらったこの名前を一生涯、名乗っていきます。ですので、私はユーナです。それに救世主でもありません」
 困惑気味に、ドロレスや黒服のルビウスらが顔を見合わせる。
「分かりました、ユーナ様。今後はそうお呼びいたしましょう。それに、ユーナ様は紛れもなく救世主様でございます。それはユーナ様がこの世に誕生したときから決まっておりました。ここにユーナ様がいらっしゃることがなによりもの証拠」
 意味が分からないことだらけ。ここに居るから、どうして救世主なのか。
 そのとき、どろんどろんと飛翔船が唸り声を上げた。部屋全体が痺れて、操舵室の窓がガタガタと音を立てた。
「これは……?」
「そろそろ出航でございます」
「出航? いったいどこへ……」
「ご心配なさらなくても、グロウリン城塞都市ではありません。強いて言えば目的地はありません。ユーナ様にはこれから、ユベリアの国内を回っていただきます」
「ちょっと待ってください。私は行くと約束した覚えはありません。それに、アリスとキーファはどうなるのです」
「それは俺が答えよう」
 声がしたのは操舵室の出入り口からだった。新しい来客。そこに居た誰もが、その声の主を一斉に見た。入り口で長剣を杖代わりにして、場違いな笑みをたたえた男が立っていた。長髪長身で長剣の持ち主。ユーナは良く知っていた。
「イイ・シトさん!? どうしてここに!?」
 イイ・シトはわざとらしく悲しそうな顔をして肩をすくめた。
「ユーナちゃんは、俺のことをイシトくんと呼んでくれ。くん付けが肝だ。俺はちゃん付けで呼んで、ユーナちゃんはくん付けで呼ぶ。この関係性がたまらん」
 呆然とするユーナをよそに、イイ・シトは人差し指を左右に振りながら喋り続ける。
「ある二ツ目族の男と、ある二ツ目族の女との約束でね。それぞれの思いを汲んで、実は君をずっと隠密に護衛してた。君がグロウリン城塞都市を出てからずっとね。見つからないように付けるのは結構大変だったんだよ。クロスの腹心の隠密も居たからね。彼にも見つからないようにさ」
 もう駄目だ。何もかも分からない。誰も順序だてて話をしてくれない。いったいなにがなにで、どれがどうなっているのか。
「おっと、ユーナちゃん、そんな切ない顔をしないでくれ。俺も心が痛くなるよ」
「いい加減におし、イイ・シト。ユーナ様になんて口の聞きかただい?」
「まあ、いいじゃないか、ドロレス。俺だって使命を果たそうと必死なんだよ。ルウディから言い渡されてる。まずはその約束を果たさせてくれ。その約束を果たしたら、次は二ツ目族の女との約束を守る」
 ドロレスは苦々しくも口を閉ざす。
 ルウディとは?
 二ツ目族の女って誰?
 それに、約束ってなに?
 なにも説明されないまま、事が進行していく。何もかも付いていけず、もはや何の疑問も口をついて出てこない。
「さて、ユーナちゃん」
 いつの間にか真顔に戻っていたイイ・シトが、長剣を壁に立てかけつつ言った。
「単刀直入に説明しよう。我々は帝国旅団は、かつてのユベリア帝国の復興を目指し、千年前に滅んでからずっと陰に潜み、活動してきた。ユベリア大衆国の歴史と同じくらいの長い歴史の中、帝国旅団もまた存在してきた。さて、この帝国旅団の創始者は、いったい誰だと思う?」
 帝国旅団の創始者はいったい誰か? そう尋ねるくらいだから、ユーナの知っている人物。
 この状況を考えると、一人だけ名前が思いつく。ところが、まさかそんな馬鹿なことは天地がひっくり返ってもありえない。
 だが、この飛翔船がここにある理由を考えると、その名前が真っ先に思い浮かばれてしまうのである。
「理屈の通る説明をしよう。君は自分の母親、父親を知っているかい?」
 両親こと。ユーナ自身が知っているのは半分だけ。
「私の母は……、かつて王宮に連れてこられた二ツ目族の女性。奴隷同士が結ばれて身ごもった――人体実験のために産まされた子供――それが私。アラトスの名を名乗ったのはヴァル様の気まぐれだった」
 思えば自分のことを話すなど、これまであっただろうか。あの人の世界に渡ったときも、ヴァルアラトスが創作した家族構成を演じ、この世界に戻ってきてからも、家族や過去など、なんの価値も持たなかった。だから省みることもなかった。
「生まれたときから十数年、ヴァル様のためだけに仕え、ヴァル様のために命を使うことを至上の喜びと感じてました。あの方に仕え、あの人の命令に従うことが私の生きる意味。ずっとそう思っていました。あの人に会うまでは……」
 初めて宮殿以外の世界に放り出されて、初めて出会ったあの人が私の呪縛を解いた。私の考え方を変えた。優しいあの人。私を元の世界に戻すために、私の命を救うために、絶対にできないようなことを、次々に実現していったあの人。
「私に家族は居ません。それは確かです」
「それは違う」
 イイ・シトの表情が真剣である。いつものたるんだ笑顔は消えうせ、心なしか瞳が赤みを怯えている気がする。
「単刀直入に言おう。君の母親は、コソビュティル・カユウ。現在でも生きており、僻地の眷族の洞窟で静かに暮らしている」
「コソビュティル……、それはクロス様の……」
「そう。クロスの母。そして、君の母でもあり、トレミ、ナユタの母でもある。君がいま知っているのはクロスだけだろうが」
「そんなわけはありません。私が生まれる前にはコソビュティル様は宮殿を追放されていて面識はないですが、クロス様は三ツ目族です。とうぜんコソビュティル様も――」
 そこまで話して、ぞっとする思いで気付いたのである。
 ――三ツ目族は作られた種族。かつてはみな、二ツ目族。
「まさか、そんな……」
「コソビュティルの子供四人のうち、三ツ目であるのはクロスだけ。クロスだけ第三の瞳を埋め込む手術を受けているだけ。さて、これを事実と受け入れてもらわなければ、話が続かない。いいかな?」
 私の母親がコソビュティル・カユウであったところで、この先の話がどんなふうに続くのか。まったく想像できない。
「そして父親。クロスとトレミは、ルルアラトス王とコソビュティルの間の子供だ。そして君とナユタは、ヴァルアラトス副王とコソビュティルの間の子供なんだよ」
「うそです!」
 ユーナは思わず、大声を上げていた。それは悲鳴に近かった。
「うそです! そんなの!」
「うそじゃない。君の父親はヴァルアラトス・グロウリン」
「だって! ヴァル様は三ツ目族――」
「三ツ目族は、もともとは二ツ目族。それはヴァルアラトスも同様だ。例外はない。いいかユーナちゃん。三ツ目族同士が子を授かった場合、生まれてくるのは二ツ目族だ。君はそれを隠され、ヴァルアラトスに召し使っていたが、それでも王族だった。ヴァルアラトスの気まぐれではない。君は通ってる血も王族のものなんだ」
 気が動転して、涙があふれ出た。
 自分の存在が、根底から否定されたに等しい屈辱。
 自分がヴァルアラトスの子供?
 そんなことがありえるなら、私は何のために――!
「知らなくちゃいけないんだ、ユーナちゃん。君がいままですごしてきたのは、偽りの生。ちゃんと最初から話そう。君がなぜ生まれたのか。なぜヴァルアラトスは君の出生を秘密にしたのか。なぜクロスは三ツ目族にしたのに、君は奴隷同然の扱いを受けたのか」
「そんなものが、なんの因果があるんですか?」
 もう聞きたくない。胸が壊れてしまいそうだ。
「あるのさ。全てに意味が。だから恐ろしいんだよ。俺はルウディから話を聞いた後、全てがそのとおりに進行しているのを目の当たりにして、心のそこから恐怖した。運命という名の一方通行の道を、ちょいと操作して、自分の思ったとおりの結末に導く。神の目を盗んでこっそりと。ルウディがやろうとしたのは、運命操作。いま、この場所で命運が明らかになる。その最初に、君が居た」
「私がなんなの……! 私はただ、世界を良くしたいだけ!」
「君に施した呪具。覚えてるよね」
「呪具? どうしてそんなものまで」
「呪具は、君を洗脳し、君の能力を押さえつけておくものだった。間違っても君が力を発揮しないよう、生まれてすぐヴァルアラトスが仕込んだものだ。君の力を押さえ込み、眷族と契約できないようにね」
「眷族と契約できないようにといっても、ずっと宮殿に居た私には眷族と契約する機会なんて……」
「できるんだよ、君には。封印しておかなければ、君は眷族と契約してしまう。誰とでもね。どういう意味か分からないだろうけど、君は万能系の召喚士なんだよ」
「万能系の召喚士?」
「君は、人であろうと植物であろうと、爬虫類だろうと昆虫だろうと、眷族として契約できてしまうんだ。契約された側は、そのことにより心的世界との繋がりが強くなることで、特殊能力を得る。たとえば今君が、僕と契約しようとしたら、できてしまうということさ」
「そんな……、そんなことって……」
「まあ、話を続けよう。君はそうして宮殿で成長するまで過ごすことになる。この先、聞きたいかい?」
 聞きたくない。そう答えたら口を閉ざしてくれるのか。
 私の胸は、いまずたずたに切り裂かれたかのように大量に出血している。これ以上血を流せば、私は話を聞いただけで死んでしまう。
「ルウディに選択させろと言われている。君が聞きたくないというのなら、僕はこれ以上は話さない。君が望むのなら、君の真実についてすべて話をしよう。どうかな?」
 私の真実。
 私の真実と言った。
 私は私ではない?
 私の生は偽り?
 私がここに居るのは、ドロレスがいったとおり、何かの証拠?
「……聞かせてください。全部。すべて、私がここに居ることに繋がるんですよね」
「繋がる。全て理解したとき、最後に君はまた選択することになる。その選択によって、君は神に味方するか、神に反逆するかが決まる」
「神……?」
 話を聞けば、この不可解な言葉も理解できるようになるのか。
 周囲はイイ・シトの話を止める様子もなく、ただおとなしく耳を傾けている。このイイ・シトとの会話が、重要な意味を持つと知っているように。
「君が異世界に渡ったのは、ヴァルアラトスが送り出したからだね」
 その話も……?
 あの人との大切な交流。思い出。それまでもが汚されてしまうのか。
「君は、異世界に産み落とされた圧縮能力者を、こちらの世界に招き入れるための呼び水。そういう言い方が、おそらく正しい。君が異世界に渡った目的は、異世界に存在してしまった圧縮能力者を、圧縮すべき相手の居るこちらの世界に導くためだった」
「圧縮能力者……?」
 そんな言葉を聞いた事があるが、良く思い出せない。
「その話は、まだ早い。その話は、君が最後に決断したときに話すか話さないかが決まる。とにかく君は異世界に行って戻ってきた。異世界から戻ってきた君は、ヴァルアラトスに反逆したね。現世のことを報告する義務を捨て、投獄された。斬首の塔の地下牢にね。思い出すのもおぞましい経験だったはずだ。その地下牢で、君は決意する。この世界を救おうと。二ツ目族を救おうと。この世界の悲しみを根絶すると君が誓ったのはあの時」
「どうしてそのことを……? 私は誰にも話したことがないのに」
「さっきも何度か名前を出してるけど、ルウディって男が教えてくれたのさ。この男はこの世のあらゆる理を知る男。全ての事象を覗けるし、未来が見えてしまう可哀想な男。そして、非運命への水先案内人。この男は君が地下牢で、ある人物に出会ったと俺に話した。君の呪具を取り外し、眷族を譲渡した女がいたはずだ」
「コロタリ……」
「そう。コロタリ。彼女は死に逝く中で、君に希望をゆだねた。さて、それはなんだったかな」
「故郷に……、家族に私は元気だと伝えてくれと……」
「そう。君はそうして地下牢を脱出し、コロタリの故郷であるこの森までやってきた。そうだね?」
 なにもかも間違いなかった。
「そこで、君も感じている違和感について、ここで正解を示そう。君は、斬首の塔から脱獄するとき、どう思った? どうして警備がいないのか。不思議に思わなかったかい?」
 あの時感じた奇妙な感覚。
 牢獄の前には必ず見張りがいるはずだったし、斬首の塔の周りには必ず警備兵がうろついているはずだった。
 なぜあのときだけ、誰も居なかったのか。あのときに感じたのは、誰かにいざなわれているような感覚。
 ――私は逃がされた?
「君が異世界に渡ったことでヴァルアラトスに反逆心を持ち、地下牢に投獄されたことで、二ツ目族を奴隷から解放し、悲劇をなくそうと決意したのは、全て描かれた筋書き。ヴァルアラトスが描いた、ヴァルアラトスが自分に反逆する人間を育てるために展開した筋書きなんだよ」
 あまりにも信じがたい話である。
 だが、自分があの時感じた印象と同じ。
 これは操作されている。
 操られている。
 自分が選択したつもりで居ても、それは誰かに指差して、指し示された選択肢である感覚。
「さらに言おう。君はこの森にやってきて、コロタリの故郷にやってきた。そこには襲撃されて滅んだ廃村があった。砂浜には村人たちの墓。だが、あれはすべて作り物だ。墓の下に遺体など埋まっていないし、ヴァルアラトスが作られた、廃村に見せかけた張りぼてさ。なにしろ、君がこの森に来ればいいのだから」
「それって……」
「全てが筋書き通り。君の呪具を取り外す理由付けにしろ、ここに越させる理由にしろ、君が反逆精神を保ったまま、この渦の中心であるこの飛翔船に乗り込むまで、全てが筋書き通り。君はこのまま、帝国旅団と手を組んで、そして救世主となり、いよいよ三ツ目族との最終決戦に挑む」
「それじゃあ、コロタリは……?」
「帝国旅団の手のもの。彼女は今でも生きている。帝国旅団の人間は、すべからず特殊な薬品を服用しており、人より死にづらくなっている。大怪我をしても回復することができるのさ。そこのドロレスが、ロビンとバビットという気色の悪い双子に作らせた薬さ。ところがショックなことがあってな。失われたと思ってたその薬品の元祖が……。まあ、この話は脇においておこう。とにかく、コロタリは生きている。君を筋書き通りに――」
 突然、イイ・シトは口を閉ざした。絶句した、とも形容できそうな表情だった。イイ・シトは「驚き」を絵に描いたような顔のまま、ユーナから目を離せなかった。
 ユーナが、なんとも言いようのない表情で大粒の涙を流し始めたのである。何事かとイイ・シトは言葉を失ったのである。
「それ……本当なんですか? コロタリは生きて……」
 胸がいっぱいなのか、言葉が続かないユーナ。その表情は始めてみる喜びと安堵の表情。
「君は……、そんなにもコロタリを……。聞いていなかったのか? コロタリは君をだますために一役買ったんだ」
「でも、生きてるんですよね? いまもどこかで」
 イイ・シトは肩をすくめると、いつもの柔和な表情に戻った。
「調子が狂うな。衝撃の真実を話して聞かせてるつもりだったんだけどな。そんなにコロタリが生きていたことが嬉しいのかい? だったら、望めばすぐにでも会えるだろう」
「だって……、あまりにも悲しかったから……。コロタリの最後があまりにも残酷だったから……。あれが本当のことじゃなかったことが嬉しくて……」
 やれやれとため息を漏らしながら、イイ・シトは話を続けた。
「ほっとしているところ申し訳ないが、そろそろ選択のときも近い。話を続けよう。君はグロウリン城塞都市から逃がされた。意図的にヴァルアラトスが警備をはずしたからだ。君に反逆を決意させるためだが、なぜそうしたか。それは帝国旅団の創始者がヴァルアラトスだからだし、ヴァルアラトスはこうしていまでも、帝国旅団に協力している。ヴァルアラトスがなぜ人体実験を繰り返しているか。ヴァルアラトスは本当の意味で、二ツ目族を統治しようとしている。いや、二ツ目族が自ら進んだ文明の国を建国できるために、ヴァルアラトスはずっと優秀な二ツ目族を生み出そうとしてきたのさ」
「二ツ目族の国を作るために帝国旅団を創始して、二ツ目族を人体実験の道具として使ってきた……?」
「そう。理解できてきたね。そのための集大成として、君が運命の中心にいたんだよ。君が隔世に圧縮能力者を迎えに行き、君が帝国旅団を率いて三ツ目族に反逆し、最終戦争を起こす。これがヴァルアラトスの筋書きさ」
「でも、どうしてそんなことを? 三ツ目族の国を作ったのはヴァル様なのに」
「そればかりは本人に聞いてみないとな。間違いないのは、かつて存在した二ツ目族の国、ユベリア帝国を滅ぼした後、ユベリア大衆国を建国すると同時に、帝国旅団を創始した。最初から、三ツ目族の反乱分子を用意していた、ということだけ」
 話している内容は理解できる。だが、釈然としないのも事実。
 なんのために? という言葉がいくつも頭の中に駆け巡る。
「俺の話、理解してもらえたかな?」
「理解できたような……、できないような」
「君はヴァルアラトスに反逆しようとしている。二ツ目族を解放に導こうとしている。だが、それすらヴァルアラトスに導かれた結果、と理解してほしい。その上で、帝国旅団は君に救世主として率いてほしいと告げている。いずれにしろ、二ツ目族を解放し、国を取り戻すという目的は変わらないが、君がどう考え、そう進んでいくのか、君の意志にゆだねられる。ただ、真実を全て知った上で決断してほしい」
 どう考えればいいのか。今すぐに答えを出さなければならないのか。
「全てが筋書き通りなわけじゃない。君がグロウリン城塞都市を脱出するとき、処刑された女の子。あれは筋書き外の出来事だ。いまでも二ツ目族は奴隷として命をもてあそばれ、次々に非業の死を遂げていることは紛れもない真実だ。あの地下牢の出来事も、コロタリを別にすれば、亡くなった囚人たちは全て真実。君が木に吊るし上げられ、三ツ目族の子供に殺されそうになったのもね。いまこの瞬間も二ツ目族は虐げられ、娯楽目的で命を奪われ、人体実験のために拷問を受けている。国中で旅を続けるウィンディアは明日をも分からぬ生活を送り、国中を逃げ惑う生活に疲弊している。一方、三ツ目族は自分が神であるかのように振舞い、長い寿命の中で感情も薄れ、いっそう残酷になっていく。この現状は全て真実。君はそれを理解した上で、決断してほしい」
「さっきから、決断とか、選択とか、それはいったいなんなんですか? 救世主になるかならないか、今すぐ決めろと?」
「端的にいえばそうだ。だが、決断の方法はそう単純じゃない」
「二択じゃないんですか?」
「二択さ。結論を言うと、いまこの船にタモンがアリスとキーファを助けるため、乗り込んでいる」
「タモンが……」
「そして、君がする選択はここから。我々帝国旅団には、アリスが必要なんだ。アリスの能力が必要。アリスの能力は、どんな言語であろうと解読してしまう恐ろしいまでの頭脳。科学技術が発展した異世界からの書物や道具が、この森には溢れかえっている。だけど、それらの情報を参照する知識も能力もない。それを持ち合わせているのがアリス。彼女の頭脳が、帝国旅団と三ツ目族との戦争で、必ず戦力になってくれるだろう。それにもうひとつ、彼女のある特殊能力が、ある特殊な道具を作り出すことが分かってる。君が異世界で目撃した御札、と呼ばれる道具。あれをアリスは作り出すことができる」
 イイ・シトはおもむろにユーナの背後を指差した。なんだろうと振り返ると、外に見えていたのは先ほどと少し違う風景。
 先ほどまで見えていたのは、切り開かれた森の開けた空間。ところがいまは、森の木々を上から見下ろす風景。
「すでに飛び立っている。この高さから飛び降りたら、人は死ぬ。つまり、もう誰も逃げ道はないということ。空中という要塞に閉じ込められたと思えばいい。そこで、いよいよユーナちゃんに選択の時間」
 イイ・シトはそう言うと、一歩横に動いた。横に動いたのは、ユーナに道を開けるため。イイ・シトの退いた先に、操舵室を出て行くための出口。
「ルウディに言われたことだけど、ユーナちゃんには選択の余地がある。帝国旅団は何一つ強制しない。いや、強制することなんてできない。選択するのは君。ここまでユーナちゃんのことをいろいろ話したね。いまが判断するとき。君にはいま、二通りの道がある」
 イイ・シトは扉に向かって手を指し示す。
「この操舵室を出て行き、タモンとアリス、キーファのもとへいく。その選択は、タモン、アリス、キーファを助け、いままでの生活に戻してやるという選択肢。それを帝国旅団は邪魔しないだろう。飛翔船を地上に下ろし、君たちを解放する。君も、アリスたちもいままでの生活を取り戻すだろう。ただしそれは、代わり映えもしない、三ツ目族に怯えて暮らす元の生活であることは忘れてはならない」
 次にイイ・シトはドロレスをはじめとする一同に手を指し示す。
「一方、ここに残り、我々帝国旅団の救世主としてともに国を三ツ目族から取り戻すという選択肢。その場合はここに残り、我々が国を取り戻すために必要なアリスを連れて、国内に散らばった同胞たちに決起のときを知らせて回る旅に出る。タモン、アリス、キーファはいままでの暮らしには戻れず、帝国旅団のために利用されて生きることだろう。だが、少なくともいままでの暮らしに戻って三ツ目族に恐れながら生きる生活ではなく、国を二ツ目族に取り戻すための生活に変わる」
 イイ・シトは腕を下ろし、次に腕を左右に広げた。右手側には出口、左手側には帝国旅団の顔ぶれ。
「選ぶのは君。だが、未来はなにも保障できない。どちらがタモン、アリス、キーファにとって幸福な選択なのか、悲劇的な選択なのかは分からない。公平を期すために言っておくと、タモンもアリスもキーファも現在の状況を歓迎していない。元の生活に戻りたがっている。タモンに限っては帝国旅団に恨みを持っている。三人の思いを尊重するならここを出て行き、帝国旅団との縁を切る。国を取り戻し、奴隷として家畜のように扱われる二ツ目族を解放し、国を取り戻すために我々と行くのなら残る。さあ、決断のとき。ユーナちゃん、どうする?」
 イイ・シトは、さあ選べ、と両腕を大きく広げた。
 
 
 
 奏は研究所の瓦礫地帯を抜け出すと、森を全力疾走で駆け抜けた。
 気ばかりが焦って足がついていかず、何度も転倒を繰り返しながら走り続けた。隔世にやってきてからろくに栄養も取れず、果物や草ばかりの食生活ですっかり筋力は落ち、体力は底を付いていた。
 それでも走らなければならなかった。
 この絶望ばかりの世界で、佐々倉は家族という大切な希望を見つけ出した。なんたる奇跡だろう。こんな世界でも、やってきたことで佐々倉は希望取り戻し、喜びを取り戻し、幸せを取り戻した。
 その矢先だった。その全てを奪うのも、やはり隔世という異世界。隔世と現世は隔たれているからこそ平穏を保っている。隔たりがあいまいになり、擦れあえばたちまち火を噴いて、全てを燃やし尽くしてまう。
 佐々倉の家族は、その摩擦の被害者。暗澹たる世界が身勝手に生み出した罪のない犠牲者。佐々倉の家族を救えたら、きっと自分にはユーナも救える気がした。
 佐々倉の妻と娘は隔世の瘴気に中てられて衰弱している。一刻も早くトレミの眷族にならなければ、すぐに死んでしまうだろう。その重大な目的があったにもかかわらず、佐々倉は奏を救った。
 壁の下敷きになり、絶命していたはずの奏を救ってくれた。変わりに下半身をつぶされてしまった佐々倉に対し、奏ができることはトレミを連れ帰り、佐々倉の妻と娘を眷族化することだけ。
 息が切れて気が遠くなってくる。血の気が一気に失せて、走っているというのにひどく寒気を覚えた。
 少しでも早く。一秒でも、一瞬でも早く。
 奏は立ち止まらなかった。
 あってはならないのだ。佐々倉の手に入れた幸せが失われるなどということはあってはならないのだ。せっかく出会えた。せっかく取り戻した。その希望を掠め取ってしまおうという運命など、叩き潰して丸めて捨ててやる。
 絶対に幸せにならなくてはならない。不幸なんて存在しなくていい。どうにもならないことなど、この世から消えてなくなればいい。全ての人が等しく幸せで、平和で憎しみあうことなんてない世界。そんなものありえないと分かっていても、その希望の象徴である佐々倉とその家族は、その光の一端を担っている。
 急に森が開けた。
 続けざまに視界を埋め尽くすような黒。
 晴天だった大空に、突如立ち込めた暗雲のような不吉な影。
 喉が渇いて張り付き、ひどく咽こみながら、浮かびつつある黒い暗影を見上げた。
 飛び立とうとしている。渦の中心が手の届かない深淵へと飲み込まれようとしている。
 奏は痺れて感覚のなくなった足腰に鞭打って走り出す。
 船体はまだ一メートルほどしか浮かび上がっていない。いまなら飛び乗れる。だが、飛び乗った先にトレミはいるのか。ここが渦の中心であれば、きっといるはずだ。全ての要素は中心に集まる。それが渦なのだから。
 そのときだった。
「カナデ!」
 紛れもなくトレミの声だった。
 運命はこのときだけは自分に味方した。
 声のほうを見ると、船体の外縁通路にトレミの姿を発見した。いまなら飛び上がれば外縁通路の欄干に手が届く。
「さがしたぞ! カナデ!」
 歓喜の声を上げるトレミ。トレミはシエルの頭の上に乗っており、二人そろって奏に手を振っている。
 いつもどおりだ。トレミとシエルはいつもどおり。
 なぜこんなことにほっとしているのか。
 いつもどおりの元気なトレミを見て、奏は目頭が熱くなる思いがした。
 そして気付いた。自分が如何に絶望を感じていたか。孤独に苦しめられていたか。佐々倉とトレミを牢獄から逃がしたときから今まで黒煙のような孤独が周囲を漂っていたが、トレミの声と笑顔が爽快な風となって黒煙を払拭したのである。
「トレミ!」
 奏は手を伸ばした。
「トレミ、こっちへ来い!」
 そのとき、トレミの笑顔が消えた。
 奏の伸ばした手を見つめたまま、思いつめたような顔をしている。
「だめだ! カナデ! 私はタモンを助けないと!」
「タモン!?」
 タモンがここに?
 いや、そうであったのだ。
 ルウディがいった。
 ――タモンがアリスとともに消え失せる。
 ――タモンを救うことが、ユーナを救うことになる。
 ――そして、君はユーナを救えない。
「なんてこった……!」
 隔世にやってきて、奏を何度も絶望の淵へと追いやった「選択」という地獄。払拭されていた黒煙が再び奏の周囲を取り巻き始め、黒煙の中からは見るもおぞましい怪物が奏を食らおうと凶悪な牙をむき出したり、黒煙の中に引っ込んだりし始めた。
「トレミ! 佐々倉さんの奥さんと娘さんが隔世の瘴気に中てられて、死に掛けてるだ! トレミが戻って眷族化しないと、死んでしまうんだよ!」
 言葉は通じていた。飛翔船が発するエンジン音の中でも、トレミの表情を見れば声が届いていたのは明らかである。
「でも! どうしたらいい!? タモンが!」
「アリスも一緒に居るのか!?」
「うん!」
 考えている時間などなかった。
 飛翔船は飛び立ってしまう。手の届かない距離まで浮かび上がったとき、選択肢は消えうせて、どうすることもできなくなる。
 考えろ。一瞬で考えるんだ。
 タモンを救うことがユーナを救うことになる?
 ならここでトレミとともに佐々倉の家族のもとへ引き返したら、タモンもユーナも救えない? これがルウディの指し示した運命の選択肢――。
 トレミは戸惑ったかのように奏を見ている。
 奏が「来い」といえばトレミは従うだろう。だが、その一言を言うことができなかった。
「くそぅ……!」
 この身体が今すぐはじけ飛んでしまったらいいのに。本気でそう思った。こんな選択を選ばなければならないくらいなら、もうなにもかも終わりにしたい。
 このまま飛翔船に乗り込み、タモンを救いに行けば、きっと佐々倉の家族は救えないだろう。それどころか、佐々倉自身も。
 トレミを連れ戻して佐々倉の家族のもとへ向かえば最後、浮かび上がった飛翔船に追いつく術はない。つまり――タモンもアリスも、ユーナも救えない?
 そもそも、どういう因果でユーナが救えないということになるのか。タモンを助けることで、タモンが奏にはできない「ユーナを救う」という未来があるというのか。
 徐々に浮かび上がっていく飛翔船。
「それとカナデ! あとこの船にはユ――」
 トレミが叫んだが、言葉の最後は飛翔船が発した汽笛の音で掻き消えた。汽笛は数秒間続き、耳を突き刺すような痛みに頭を抱えた。
 汽笛が鳴ったということは、このまま出航するということ。もう迷っている時間は残されていない。
 ここにいるのは奏、トレミ、シエル。飛翔船が飛び上がったとしても、シエルがいればトレミは地上に降りることができる。だが、奏の体重まではシエルは抱えきれないだろう。
 奏は乗ったら降りれない。
 奏が乗り、トレミとシエルを佐々倉の家族のもとへ向かわせる。
 駄目だ。シエルの速さでは時間がかかるし、仮に家族の下へたどり着いて佐々倉の家族を救えたとしても、二人には瓦礫の下敷きになった佐々倉自身は助け出せない。
 どう考えても犠牲が生まれる。
「くそったれ!」
 運命のくそったれ。選択肢のくそったれ。
 もう少し時間があれば、なにか思いつくかもしれない。
 その少しの時間さえ与えてくれない。
 ふと、奏は自分の背負っている箱を思い出した。佐々倉から受け取った箱。
 佐々倉が直感を抱き、目的もなく持ってきたもの。
 これが答え――?
 奏は殴られたようにシエルを見た。
「シエル、良く聞いてくれ!」
 汽笛に目を回していたシエルが、目をぱちくりさせた。
 エンジン音に声がかき消されないように大声を張り上げる。
「シエル、お前なら一人でも飛翔船から逃げられるよな!」
「ええ! 私は飛べるので!」
「これをタモンに届けてくれ!」
 奏は背負っていた箱を放り投げると、箱は飛翔船の外縁通路に落下した。
「これを!?」
「トレミはこっちに来い! 佐々倉さんの家族を救いに行くぞ!」
「私が!?」
「シエル! 頼めるか!?」
 シエルは戸惑っていたものの、次には決意の篭った目で頷いた。
「もちろんです! 必ずタモンさんに届けます!」
 これが正解か。
 これでいいのか。
「トレミ、飛ぶんだ!」
 もう奏が飛び上がっても、外縁通路の欄干には届かない。もう乗り込むことはできない。
 奏が両腕を広げると、トレミは一瞬、恐怖にひるんで眉をひそめた。
 高さにして五メートル。トレミにしてみたらその十倍の高さか。
「受け止める! こっちに飛び降りろ!」
 トレミは下唇をかみ締めた。最後にシエルの耳を引っ張って「シエル! 頼むぞ!」と声を上げて、思い切ってシエルの頭から飛び上がった。
 空中を両腕と両足を広げて落下してくるトレミ。
 トレミの恐怖に引きつった表情。
 全信頼を奏に差し向けて飛び上がったトレミ。
 絶対に受け止める。
 落ちてきたトレミを両手で掴んで、着地の衝撃を吸収するように胸まで手を引いて受け止めた。
 トレミは胸の中で、小刻みに震えていた。
「ごめん、トレミ。こんな怖い思いをさせて」
 トレミは両手の中で丸くなって、必死に恐怖を振り払おうとしている。心配になって「トレミ?」と問いかけると、次には顔を上げて奏の親指を拳で殴りつける。
「そんな顔をするな! ほら、佐々倉の家族を助けに行くぞ!」
 どれほど恐ろしかったのか。目に涙をためながらも気丈に振舞っている。
 奏は上空の飛翔船を見上げた。すでに飛翔船は二十メートルほど浮かび上がり、シエルの姿は見えなかった。
「シエル……」
「シエルは大丈夫だ! あいつはああ見えてしっかりやるやつだ! 私たちは佐々倉の家族だ!」
 トレミに発破をかけられ、奏は力強く頷いた。
「急ごう!」
 

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