あっちから変なの出てきた

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第十三章 【 現世−伊集院照子の憂鬱 】


 千年前の逸話が。
 どこか遠い世界の話と感じていた、あの悲劇的なエピソードが、まさに現実に現れた瞬間だった。
 あれが、千年前にソウ・リュウメイに封じられたトレチャーク。
 心から愛する女性と、半身であるともいえる友人を失った男。
 トレチャークは上半身だけを起こし、下半身を掛け布団の中にうずもれさせている。
 その緑色の視線はまっすぐ伊集院照子を捉えており、伊集院照子の双眸もまた、トレチャークを射抜くように捉えている。
「スーリン、あれがお前が封じるべき相手。だが、あせるな。いまのお前には封じることはできない。今は動くな」
 さすがのやんちゃなスーリンも、硬直したように動かない。
 川本クリスティーヌはさらに、ベッドの傍らに置かれた花瓶置きの上においてあった紫色の水晶を手に取ると、握りつぶすように消失させた。
 すると――形容するならば静電気の風のように――三人に刺々しい向かい風が吹いてきた。
 琴は思わず防御するように両手を顔の前で交差させたが、伊集院照子とスーリンは微動だにせず、トレチャークをにらみつけている。
 結界を解いた?
 いままで、トレチャークの気配を殺すために、結界で彼を覆っていたのだろうか。
「やはり、ここに居たか、トレチャーク」
 一歩、足を前に踏み出す伊集院照子。
「いくら結界で気配を遮断しようとも、運命の流れには逆らえぬ。隠れようとも、われわれは必ずお前にたどり着く」
「確かに潜んでおりました。それは、彼がまだ力を取り戻していなかったから。以前のような力を取り戻すためには、数年の歳月が必要でしょう。ですが、私はその期間を短縮する方法を思いつきました」
「短縮だと……。なんのために……。お前にはその男が誰だか分かっているのか」
「もちろん。まだ大家貴信先生が『ご存命』だったころ、われわれは彼を必死に探しました。見つけるために、先生は個人資産のほとんどを投げ打たれました。そうして、先生とトレチャークは何度も話し合いをした後、こうして協力し合うこととなったのです」
「協力だと……。なんて愚かな。そいつこそ、人類の……、いや、この世の全ての敵となるものだぞ」
「いえ、味方となるものです。長い時間、本当に長い時間、先生はトレチャークとの話し合いに命を削り、そして、結論を出したのです。彼こそが、今後起こるであろう人類未曾有の危機、『人外襲来』に対する、最大で最後の危機を救う救世主になると」
「トレチャークの戦闘力は、この世の何者も叶わぬ。それは確かなことだ。だが、操ることは不可能。それは、トレチャークの意志すら関係ない。よせ、むやみなことを考えるな」
「ほうら」
 ベッドの脇に置かれた花瓶置きに、なにかが盛られた皿が置かれている。それを手に取り、こちらに見えるように掲げてみせる。
「これがなんだか、お分かりですか?」
 皿の上に積まれているのは、御札である。その上に、先ほど圧縮された術師の御札を乗せる。
「これは、先ほど急襲してきた人間たちです。私が全て圧縮して御札化しました。精鋭の通力の高い術師のものも含まれています。これはとても栄養豊富ですね」
 栄養豊富。
 その形容の仕方に、琴は極寒の風が体内に吹きすさぶよな寒気を感じた。
「きさま……。そこまで堕ちたか。お前のしようとしている事は――」
「さあ、トレチャーク様、召し上がれ」
 さらに乗った御札の山を、トレチャークに差し出した。トレチャークはそれを受け取ると、その中の一つを手に取った。
 まじまじと眺めると、おもむろに御札を口の中に放り込んだ。
 スナック菓子を食するように、氷を噛み砕くように、トレチャークは御札を食したのである。
「やめろ。そいつらは生きた人間だぞ。まさかきさま、これまでも……」
「術師を異世界からの干渉に見せかけて、浚ってきては御札化してトレチャーク様に捧げました。術師たちもトレチャーク様の血肉となり、この世界を救うことを担うのです。彼らも本分でしょう」
 伊集院照子はこちらを振り返った。
 その顔に浮かんだ暗い影。
「動くなよ。私がトレチャークを封じる。だが、封じれたとしても短い期間。力の大部分を失った私に封じれるのは、せいぜい数十日から数ヶ月だろう。スーリン、その間に力をつけろ。封じる方法を考えろ。今から私が見本を見せる」
 暗いよどんだ瞳が、決意の篭った光を放った。
 見えないマントを翻すようにトレチャークを向き直る伊集院照子。
 もうなにも言うまい。
 琴はスーリンを見た。スーリンは言わずとも悟っていた。熱いまなざしで頷いてみせる。
 もし、伊集院照子が危機に陥れば、黙ってみてなど居られない。私は全力でトレチャークを倒しにかかる。
「見てろ、スーリン。トレチャークはこうやって封じる」
 伊集院照子が動いた。下から上に空中を斬るように振り上げると、『なにか』がベッドの上から落下した。
 それは目に見えない『なにか』だった。
 ベッドの上に横たわっていたトレチャークは瞬時に身を翻した。
 ベッドが悲鳴を上げて押しつぶれた。川本クリスティーヌは衝撃で吹き飛ばされ、壁に背中を打ち付ける。そのまま崩れ落ちて意識を失った。
 衝撃を避けたトレチャークは、部屋の隅に立っていた。なにも身に着けていない。全裸のトレチャークは心なしか首を傾げたような仕草でこちらを見ている。
 伊集院照子は続けざまに下から上に薙ぐように腕を振り上げると、同時にトレチャークは前転するかのようにその場を飛びのいた。
 次に轟音。
 がうおん
 という巨大な鐘を力強く打ちつけたような轟音が聞こえたと思うと、トレチャークの立っていた床が落ち窪んだ。
 すごかった。伊集院照子が全力で力を発揮するところなど見たこともなかった。あの技はなんなのか。上から超重力を落とすような攻撃。
 攻撃の手は休まらない。
 トレチャークが逃れた場所めがけて、次々に超重力の技を落としていく。部屋中の床に十もの陥没を作ったころ、トレチャークは身を低くして構え、床を強く蹴って伊集院照子に向かって疾走した。
 突進する途中、伊集院照子に何かを投げつけるように手を伸ばす。その手のひらから閃光が走った。目の眩むような閃光ではない。実際には蒸気のようなものが噴出したのだ。
 噴出した蒸気の中から、なにかが飛び出した。琴には黒い鞭上のものに見えたが、良く見ればそれは、十数本の生物である。
 トレチャークの手のひらから、黒く毒々しい蛇の束が飛び出したのである。
 ――眷族。
 トレチャークは行雲途山の十段階の試練を全てクリアしているのである。眷族を持っていても不思議はなかった。
 ところが伊集院照子は動じない。右から左に腕を薙ぐ動作一つで、出現した眷族を消失させたのである。
 通力無効の術。
 伊集院照子も眷族の存在を知っていたのだ。さきほど琴が眷族を出現させたときも、驚いていたものの「そのようなものは知らない」とは一言も言っていない。琴が眷族を得ていた事実に驚愕したのだ。
 十数本の黒い蛇が居なくなった場所に、トレチャークの姿はなかった。
「後ろ!」
 スーリンが声を上げた。
 言われずも承知の様子で、伊集院照子は頭上に手を上げる。伊集院照子の背後の床が、轟音を立てて陥没した。
 飛びのいたトレチャーク。
 ゆっくり背後のトレチャークを振り返る伊集院照子。
 人知を超えた、強力な力のぶつかり合い。
 なんて戦いだろう。
 戦いは間髪いれず継続する。
 トレチャークが手のひらを伊集院照子に突き出したかと思うと、その手のひらに蒸気のしぶきが上がり、中から何らかの生物が――。
 なにか、とてつもなく凶悪な容姿のものが飛び出そうとしたが、その前に伊集院照子が瞬時に眷族の召喚をキャンセルした。
 その手を苦々しく握り締め、怒りをあらわにするトレチャーク。
 優勢である。トレチャークの攻撃をことごとく防ぎ、かといって防戦一方でもない。二人の表情を見れば、優勢は明らかである。
 ところが琴は気付く。
 結局は、お互いにジリ貧の攻撃を繰り返しているだけ。伊集院照子の攻撃も通じなければ、トレチャークの攻撃も通じない。
 これは遠距離戦。距離を開けた戦いである。
 一転、近距離戦となった場合――。
 思うより早く、戦いは近距離戦となった。
 疾風のように伊集院照子に迫るトレチャーク。伊集院照子は構える様子もない。トレチャークは距離が迫る直前、床をけって左に飛んだ。伊集院照子は動じない。確かにその目でトレチャークを追っている。
 トレチャークの拳が、伊集院照子に襲い掛かる。トレチャークの拳が伊集院照子の顔面に炸裂するかと思われた瞬間、吹き飛ばされたのはトレチャークのほうだった。
 後方に二回転して、伊集院照子が作ったくぼみに背中から落ちた。
 すぐに立ち上がるトレチャーク。
 トレチャークの胸には赤い穴があいていた。胸が破裂している。抉られた胸からは破壊された白い肋骨が浮き上がり、肺や心臓と言った臓器がミンチにされている。
 琴は眉をひそめて目を伏せそうになる。
 それでもトレチャークは動いた。
 ダメージを追う前と替わらないすばやさで伊集院照子に迫る。手のひらを伊集院照子に向けた。――眷族。即座に眷族の召喚をキャンセルしたが、余った左手で再度眷族を召喚する。すぐさまキャンセルさせたが、トレチャークの突進は止まっていない。
 次には右手で召喚――キャンセル――左手で召喚――キャン――間に合わない。
 伊集院照子は吹き飛ばされた。
 壁に全身を打ち付けて、床に落下すると、傍には川本クリスティーヌ。川本クリスティーヌは意識を取り戻していた。都合よく吹き飛んできた伊集院照子にしがみつくと、その動きを封じた。
 伊集院照子の表情に焦燥の影。
 川本クリスティーヌを引き剥がそうと拳を振り上げたとき。
「このままやってください!」
 川本クリスティーヌの悲鳴のような声に、伊集院照子はトレチャークを振り返った。
 伊集院照子の目の前にトレチャークの手のひらが覆うように存在した。
 蒸気の噴出。眷族の召喚。
 ――誘いだった。
 伊集院照子が吹き飛ばされたのも、川本クリスティーヌの傍に落ちたのも。無理やり川本クリスティーヌを引き剥がそうとしたものの。
 トレチャークの手のひらから出現した眷族は全身を長い毛で覆われた黄色い猛獣。ライオンだ。
 凶悪な牙を剥き出しにしたものの、眷族が噛み砕いたのは川本クリスティーヌの胴体。
 伊集院照子は?
 トレチャークの首に腕を回し、足を胴体に絡ませた伊集院照子。
 トレチャークは伊集院照子を背負う形で羽交い絞めにされた。
 その時点で、トレチャークが召喚した眷族はキャンセルされて消えうせている。
「スーリン、見ていろ!」
 伊集院照子が叫ぶと、トレチャークが咆哮のような声を上げて苦しみだした。
 伊集院照子の手が、トレチャークの顔面を覆う。
 トレチャークの悲鳴。
 ばちばち
 電気がはじけるような音。
 トレチャークと伊集院照子の姿をゆがめさせする力の磁場が発生する。
 トレチャークは拳を作って、背中に張り付く伊集院照子を殴打した。伊集院照子の顔面に、硬い拳が何度も炸裂する。
 だが、怯まない。
 ごつ、ごつ、という骨を打ちつける音と、ばち、ばちという電気がはじける音が断続的に聞こえる。
 トレチャークは立っていられず、とうとう膝を突く。
「諦めろ!」
 顔が腫れ上がり、流血で真っ赤になった伊集院照子が吼える。
 トレチャークは絶えず悲鳴を上げる。陥没した胸の穴から血がほとばしる。
「早く……!」
 伊集院照子の苦悶の表情が見て取れた。
 ばち、ばち、という音の感覚が徐々に開いてくる。
 音の迫力もなくなって、今にも。
「だめなのか……!」
 そのときだった。
 スーリンが伊集院照子の背後にいた。
 琴の傍にいたはずだった。いつの間にそこに移動したのか。まったく気付かなかった。
 スーリンは伊集院照子の背中にふれる。それに気付いた伊集院照子が叫んだ。
「だめだスーリン! 私とお前の力を合わせて封じたとしても、次がない! 私の力が尽きたら、封印が解けてしまうぞ!」
「しらない。そんなの。わたし、自分の好きにする」
「御札化が解けたとき、お前も力を失うぞ! そうしたら誰がこいつを封じるんだ!」
「そんなの、そのとき考える!」
「馬鹿が!」
 そのときだった。
 ばち、ばち、というはじける音が大きくなったと思うと、瞬時に膨れ上がった。三人の周囲を、刃物のように飛び交う稲妻。
 琴は思わず後ずさりした。
 後ずさりした背中に、なにかが当たる。
 振り返ると、そこには弦の姿があった。
「これは……!」
「兄さん!」
 呆然とする弦にしがみついて訴えた。
「兄さん! 助けて! 二人が……!」
「なにが起きてるんだ、琴」
「二人が……、このままだと封じても数日か数ヶ月だって!」
 言葉がまとまらない。
 唇はわななくばかりで、うまく説明できない。
「つまり、あの光景は二人がトレチャークを封じている。その理解でいいんだな、琴」
 何度も頷いて見せる琴。
「そして、封じたとしても数ヶ月。阻止すればどうなる?」
「トレチャークが自由になって……」
 トレチャークが自由になったとき、その被害はどのようなものなのか。
「見守るか、阻止すべきか、ということだな?」
 現状を確実に言葉にして、理解しようとする弦。琴はうなずくだけである。
「なら、阻止すべきなのか?」
 弦の問いに、琴は返答に窮した。
 そんなの、私だって分からない。
 でも、止めたらトレチャークが自由になる。
 でも、このままにしたら封印はすぐに解け、力の失ったスーリンや伊集院照子はすぐに殺されてしまうだろうし、封じる手立てがなくなる。ただの問題の先延ばしになってしまう。
「琴、答えろ。経緯を知ってるお前しだいだ。このままにするべきか、封印を阻止するべきか」
 トレチャークは大家貴信の手によって、ほぼ完全に復活を遂げていたに違いない。伊集院照子やスーリンの力がなければ、あの力は際限なく放出され、どれだけの犠牲者を生んでしまうか分からない。
 数十日、数ヶ月だとしても、時間が稼げるならば、その間に復活したトレチャークを別の方法で封じる手立てを考えられるのではないか。
 しかし、そのアイデアを出すための、優れた頭脳の持ち主はいない。伊集院照子に頼ることはできなくなるのだ。
「琴! 臆するな! 決断しろ!」
 弦が琴の両肩を掴んで激しく揺らした。
 分からない! 分からないよ!
 でも、この場面に遭遇した弦こそ、分からないのである。
 私の決断が、どんな結果をもたらすのか。
「伊集院さん!」
 伊集院照子に答えを求めようとしたが、トレチャークの背中にしがみつく伊集院照子はもうなにも見えていない。声も届いていない。
 決断。
 決 断。
 けつだん。
 け つ だ ん?
 考えれば考えるほど、意味が分からなくなってくる。
 決断とは苦しみだ。
 それが重要であればあるほど。
 ふと、伊集院照子の歩んできた人生を想った。
 彼女はいつでも、重要な決断を下してきた。
 自分を犠牲にしてでも、世界を守るために重い決断を下してきた。
 そんな人の前で、決断が下せないと、甘えたことを言えるか?
「兄さん」
 琴は弦を見た。
「兄さん、阻止して。あのままトレチャークを封じさせてはだめ。痛みを伴う決断かもしれない。トレチャークを自由にしたら、多くの犠牲があるかもしれないけど、あの二人はいま、必要な人」
 弦は琴の双眸をじっと睨み付けた。
 その瞳の奥に何かを見つけたのか、弦は頷いて見せた。
「お前のその重責、俺も背負う。心配するな」
 弦はそう言って、前へ足を踏み出した。
 弦の背中。
 なんて大きく見えるのか。
「琴、お前、俺が戒具を使ったときの能力、知ってるか?」
 ふと、そう問われた。
 考えてみれば、弦の能力を琴は知らない。
 弦は懐から戒具を取り出した。
「伊集院が開発した従来の五倍の戒具。これを使えば、どうにか阻止できるかもしれない。失敗したときは、まあ、そのとき考えるか」
 弦はおもむろに戒具を掲げた。
 暫時、なにも起きなかった。
 呆然と弦の背中を見続ける琴。
 だが、このままであるわけがなかった。
 避雷針のように、頭上に掲げた戒具は、文字通り避雷針だった。
 三人の周囲を取り囲んでいた稲妻の嵐の端が、急に尖りだした。その先端が伸びだと思うと、弦の戒具に吸い込まれていったのである。
 糸を引くようだった線が、徐々に太くなり、走る稲妻が次々に弦の戒具に吸い込まれていく。
「すごい……」
 封印の術の威力が弱まってきたのが分かった。
 そのため、伊集院照子も周囲の状況に気付いた。
 弦がたまらず片膝を付く。
「これはしんどい……! なんていうパワーだ」
 戒具を通して、弦は力を体内に吸い込んでいるのか。
 なら、スーリンと伊集院照子の二人分の力を吸い込んでいることになる。
 やがて。
 全ての力を吸い取ったのか、三人の周囲には微量な力さえ消えうせ、とても静かになった。
 スーリンと伊集院照子が崩れ落ちるように床に倒れると、トレチャークも四つんばいになって、荒々しく息をついた。
「きさま……やるじゃ……ないか……」
 苦しげな伊集院照子の声。
 ところが、当の弦は突然悲鳴を上げたと思うと、腹を抱えるように苦しみもだえだした。
「弦!」
 近寄ろうとすると、弦はしたたかに琴の肩を押して、琴は尻餅をついた。
 振り返った弦の顔は今にも破裂するのではないかと思うほど緊張し、体中の血管が浮き出していた。
「近寄るな……!」
 弦は、鉄のように重そうな身体を起こし、操り人形のように立ち上がった。
 おぼつかない足取りで三人のもとに歩いていく。
 弦はトレチャークの前に立った。
 トレチャークは激しく息をつきながら、近づいてきた弦に気付く。
「きさまがトレチャークか……!」
 すると、弦は戒具の先をトレチャークに向けた。
 次の瞬間だった。
 戒具の先端からほとばしる閃光。
 なにが放出されたのか、目撃していなかった。閃光に目を伏せて、再び顔を上げたときには、弦の持っていた戒具は灰となって床に散らばった。
 そこにいたはずのトレチャークがいない。
 弦はその場で尻餅をついた。
「なんて力だ……。一瞬で消し去りやがった」
「弦!」
 琴がたまらず弦に近寄ると、今度は突き飛ばさなかった。
「大丈夫なの!?」
「ああ。力を放出してしまえば元通りさ。ただ、放出される力に引き摺られて、俺の力も残ってない」
 弦がニヒルな笑みを浮かべた。顔面は蒼白だが、命にかかわるようなことはなさそうだ。
「私とスーリンの力を吸い込むとは……。たいしたキャパシティだ……」
 仰向けに横たわったまま、立ち上がることもできない伊集院照子。
 口を利いた後には咳き込んで、大量の血を吐いた。
 弦が伊集院照子に近寄り、傷の様子を確かめた。
 琴はスーリンを見る。
 スーリンは気を失っていたが、重篤である様子はない。すぐに病院に運べば命に別状はないと思われた。それより、伊集院照子である。
 顔面は殴られた傷で顔面がでこぼこになっており、見るのも忍びないほどである。
「口の中を多少切っただけだ……。それより」
 力なく、ぶるぶる震える手腕を上げ、伊集院照子が部屋の隅を指差した。
「あの女……クリスティーヌは……?」
 視線を転じると、そこには血溜りで横たわる川面クリスティーヌの無残な姿。
 恐る恐る近づいていく。
 川本クリスティーヌは僅かに呼吸していた。だが、目を背けたくなるような惨状である。川本クリスティーヌの腹部は食い破られて、腸が床にぶちまけられている。これでは……。
 でも、このままでは。
 琴は手を広げた。見えない大きな玉を抱えるように。
 下方から力の風が吹いてくる。
 煙が沸き起こり、周囲が白一色になった。
 身体が急に重くなる。肩の上に何十キロという鉛を背負わされたかのような疲労感。
 傍には白銀のクジャクが羽を広げていた。
「アルビーノ……お願い……」
 すると白銀だった羽は、エメラルドの宝石を思わせる翡翠色に変化した。斑に目のような紋様が出現すると、そこから緑色の塵を噴出させた。その塵は川本クリスティーヌの上に降り注ぎ、かすかに発光させた。
 だめだ。続かない。
 すぐにクジャクは消えうせて、琴はその場にぺたんと座り込んだ。
 川本クリスティーヌを見る。
 彼女の上には姿を覆い尽くすほどの緑色の塵が覆いかぶさっている。
 どうなる分からない。
 だけど、この緑色の粉は、回復の粉なのだ。
 もしかしたら。
 振り返えって伊集院にも同じ術を掛けて回復させようと思ったとき。
 弦がこの世の終わりのような顔をして、口をあんぐりと開けていた。
「こここ、琴、いまのはなんだ!」
 珍しく、弦が取り乱している。
「いまなにをやったんだ! なんだいまのクジャクは!」
 ああ、理由を説明するのも億劫である。
「行雲途山修行で得た術なの。人を眠らせて、自然治癒能力を限界まで高める力」
「じゅ、術だと!?」
「眷族だ……。お前も知っておけ……。トレチャークはこれを五種、持っているといわれている。私が見たことがあるのは三つだけだが……」
 そう代弁して、ひどく咽こんだ。
 弦は驚いてばかりいられない。
「とりあえず脱出だ。おもわず親父を呼んでしまったが、空振りにさせてしまったな。やれやれ。報告も面倒だ……」
 そう言って、弦は伊集院照子を抱き上げた。
 抱き上げられた伊集院照子は慌てて言った。
「やめろ……。少し休めば回復する……」
「そんなこといっても、立てもしないでしょう」
「だからって……。やめろ……。私に恥をかかす気か」
「なにが恥じなものですか。名誉の負傷です」
「傷の話じゃない……。せめて、この格好は……」
 お姫様抱っこである。
 伊集院照子は、これをやめろといっている。
「こうなったらかなたしですね。文句を言っても無駄です。このまま病院にいきましょう」
「この……、愚か者め……」
 そう言って、伊集院照子は目を瞑った。
 気を失ったらしい。
「眠っている様子は可愛いもんだな、伝説の英雄も」
「伊集院さんをそう言えるのは兄さんくらいなものよ。ずぶとい神経してるんだから」
「そういうな。これでも、いくつもの重圧を抱えて、胸がつぶれそうなんだ」
 そう言った弦の、伊集院照子を見下ろす表情が気になった。
「まさか兄さん……」
「なんだよ」
「……いえ、なんでも……」
「琴、お前はスーリンを連れ出してくれ。早々に病院に連れて行くぞ」
「うん」
 琴はスーリンを背負った。思いのほか重い。スーリンが重いというよりも、連続して眷族を召喚した代償だろう。全身に力が入らない。
「兄さん、トレチャークはどうなったの?」
「ああ、二人から吸い取った力をぶちまけてやった。跡形もなくなったよ」
「じゃあ……、倒したの?」
「……倒した、と言いたいところだが、どうなんだろうな。あんなに簡単に倒せるのなら、千年もの間、代々、圧縮能力者が封じるわけがない」
 それもそうだ。伊集院照子の攻撃で、胸の半分が消し飛んでも平気な様子で動き回っていたのである。
 普通の人間のものさしで計ってはいけない。
「とにかく、無事阻止できたんだ。次のことはこれから考えればいい」
 思えば、最初から伊集院照子は様子が変だった。まるでここにトレチャークがいることを、最初から知っていたかのように。自分が封じることになると知っていたかのように。遺言のようにさまざまな言葉を残そうとしていた。
 なぜ知っていたのか。知っていたのなら、なぜ伝えなかったのか。
 いや、分かっている。
 運命だ。
 行雲途山で知った真実。
 伊集院照子が追っている重責と、スーリンが追うことになる重責。
 私は……。
「いきましょう、兄さん。めげてる暇はないもの。どんどん前に進まなくては」
「急にどうした。前向きになって」
「私たちが負ってる重責なんて、彼女たちの背負ってるものに比べたら下らないものよ」
 弦は答えなかった。静かに抱きかかえた伊集院を見下ろす。
「それもそうだな。俺たちの背負ってる責任なんて軽い軽い。気楽にいこうか。人外襲来なんて、へでもないぜ」
 弦はそういいながら、鼻歌交じりに部屋を出て行った。
 琴はその様子が妙におかしくて、思わず「ぷぷ」と吹き出した。
 
 
 
 上層部への報告は、弦がうまくやってくれるだろう。気苦労の耐えない弦だが、私たちも弦に頼らなければ、今回の窮地にしろ、なんにしろ、切り抜けてはいけないのである。
 感謝しなければ。
 琴はそう思いながら、入院する伊集院照子とスーリンを尋ねた。
 自然管理委員会が経営する病院で、警察病院のほど近くに、皮肉のように建っている。
 二人部屋に見舞いに訪れると、伊集院照子は女子とは思えない大またを開いて昼寝をしていた。
 スーリンがいるはずのベッドには姿がない。
 持って来た花束を花瓶に刺そうと窓際まで行くと、不意に「おい」と声を掛けられた。
 琴の気配に気付いて、伊集院照子が目を覚ましていた。
「こっそり入ってくるんじゃない」
「ノックしましたよ。眠っていて気付かなかっただけじゃないですか」
「それと、勝手に治療するな。傷モノでいたほうが、何かと都合のいいことあるだろう」
 病院に運ばれた翌日、体力の回復した琴は眠り続ける伊集院照子に回復の術を使ったのである。無残だった顔の傷もすっかり癒えて、いまは大事をとって検査入院の状態である。本人はすっかり元気で、退屈で仕方なさそうだ。
「傷モノだと、なにが都合がいいんですか?」
「委員会にたんまり金を払わせるとか、同情を買って看護婦どもを顎で使うとか」
 治しておいて良かった。心からそう思った。
「だが……今回は良くやったと、ほめてやるしかないな」
 改めて花瓶に花を刺そうと思った琴の手が止まる。
 振り返ると、伊集院照子は意味もなく壁のほうを見ている。
「よく阻止した。あのままだったら手の打ちようがなかった。よく決断した。苦しい決断だっただろう」
 持っていた花束を床に落としてしまった。
 伊集院照子が「おいおい」と琴を見ると、琴は目に大量の涙をためていた。
「なんだ、そんな顔をしなくてもいいだろう」
「いえ……すみません。良かった、そう言ってくれて」
「都合よく、弦がトレチャークを吹き飛ばしてくれたからな。時間が稼げる。あそこまで粉々になったトレチャークが果たして復活するのか、私にも分からないが、復活するにしてもしばらくかかるだろう」
「これで解決したんじゃ……」
「さあな。私もスーリンも、今のところ力を失っている。それはトレチャークを倒せたからなのか、それともただ力を使い果たしたからなのか。いずれにしても、大家貴信の野望は阻止できたといえる」
「大家貴信の野望……。そういえば、結局大家貴信はなにを企んでいたんでしょうか」
「分からないのか? 簡単な話だ。圧縮能力にハザマの世界との関係が深いトレチャーク。おそらくトレチャークがイスカ領域を広げる術を持っていると大家貴信は信じていた。あるいは、トレチャークに信じ込まされた。あるいは人外の襲来を阻止する力を持っている、対抗する力を持っている。大家貴信はそう思っていたのだろう」
「どうしてそんなことを」
「トレチャークのことを、お前は本当に知っているのか? 古代の話だとしても、三千の宋の兵を打ち破った男。加えて死なぬ。味方にすれば、とんでもない戦力になる。そう考えても不思議はない」
 トレチャークを味方にする。
 こんなこと考えても見なかった。
 だが、結果的に味方にできたのだろうか。トレチャークは自分の力を回復させるために大家貴信たちを利用しただけではないのか。しかも、大家貴信は亡くなっている。なぜ亡くなったのか。
「加えて圧縮能力。人の情力を圧縮することができれば、イスカ領域の小さな穴でも通り抜けて隔世に渡ることができる。大家貴信が我々に見せ付けたかったのは、その証明じゃないかと思う。大家貴信はこういいたかった。『お前らが指をくわえてぐずぐずしている間に、その方法を私が発見した』と。汚名を返上すべく。再びその手に権力を取り戻すべく」
「本当にそんなことが……」
「圧縮して隔世に渡る。このこと自体は理にかなっている。だが良く考えろ。圧縮して隔世に渡ったところで、その次に問題になるのは」
「復元の方法」
「そうだ。ラナ・カンが現世に渡ってきたときのことを考えろ。ネジマキ猫として十三体でやってきて、ぜんまいをまわされて復元できたのはラナ・カン一体。それに、隔世に帰ることもできない有様。つまり、まるで現実味のない妄想だってことだ。現世の人間はまだまだ隔世への渡航技術の実現には程遠いな」
「そうですか……」
 隔世に渡る技術。これが実現されるのなら、それがたとえ大家貴信のもとに行われたものであっても、それはそれでよいことなのではないか。少なくとも、今現在のところ御札状態に圧縮され、隔世に渡る方法は示された。あとは復元の方法さえ見つけられれば。
 そこまで考えて、琴は重いため息を漏らしていたことに気付く。
 もういい。難しいことを考えるのはやめて、とりあえずは休もう。
 俵原孝司は取り逃がしたものの、今この病院には鳩谷多恵と川本クリスティーヌがそろって入院している。真相はいずれ明らかになるだろう。その調査はほかの人に任せたって罰は当たらない。
 ここまで、自分たちは本当に走り続けてきた。いま少し、なんの心配も不安も忘れて、心穏やかに過ごしたっていいじゃないか。
 琴は残っていた涙をぬぐうように目頭を押さえながら、花瓶を手に取った。ふと気付く。花瓶の置いてあった窓から中庭が見下ろせた。
 中庭では日本語を覚えたスーリンが、同年代の入院患者の女の子とベンチで話をしていた。その様子はとても楽しそうで……。
 涙が溢れてきた。
「ああ、陰気くさい。早いとこ、花瓶に水でも入れて来い」
 伊集院照子に追い出されて、琴が廊下に出ると、倉敷が立っていた。
「あ、お琴さん」
「お琴さんって呼ばないで」
「なんで泣いてるんですか? 大丈夫ですか?」
「大丈夫。ほうっておいて」
 給湯室へ花瓶に水を入れに向かうと、倉敷が後を付いてくる。
「なんて付いてくるの? スーリンのお見舞いに来たんじゃないの?」
「まあ、そうですが……」
 給湯室で花瓶に水を入れる際も、傍で見ている。
「もう。なんなのよ。先に病室に戻ってて」
「お琴さんの涙の理由を聞いたら、戻ります」
「どうして気になるの?」
「そりゃあ……」
 その続きを言わない倉敷。
 水を入れた花瓶を持って病室に戻る道すがら、後ろから倉敷が言った。
「行雲途山修行から戻ってきたお琴さんはなんだか人が変わったみたいだった」
 足を止めて、振り返る。
「ちょっと不安になった。急に大人っぽくなったもんだから」
「なにも変わってないよ」
「そう。さっき涙を見て、正直ちょっとほっとした。別に人間らしさがなくなったわけじゃないんだなあって」
「あたりまえじゃない」
 背を向けて、病室に歩き出す。
 付いてきながら口を開き続ける倉敷。
「でも、泣き顔で嬉しいってのも、おかしな話じゃないですか。だから理由を聞いてね。今度は笑顔にさせてあげたいなって」
 琴は再び足を止めた。
 今度は意図的ではなく、思わず足が止まった。
 振り返ると、倉敷が不思議そうにこちらを見ている。
 笑いかけた。
 にっこり笑って見せると、倉敷は意外な反応を見せた。
 笑って見せてあげたのに、少し顎を引いて、なにも言わないのである。
「なによ、笑ったでしょ」
「その笑顔……初めて見た。なんていうか……。そんな可愛らしい笑顔ができるんですね、お琴さん」
 琴ははっと息を吸って、慌てて倉敷に背を向けた。
「お琴さんって呼ばないで」
 そう言って病室に早足で戻る。
「すみませんね。なにか気に障ることでも……?」
「いいから付いてこないで」
「行き先は一緒ですから、今回ばかりは仕方がないですよ」
 病室に戻ると、花瓶を窓際において持ってきた花を差す。
「おい、琴。お前、なにか怒ってないか?」
「怒ってません」
 この口調が刺々しかったのか、伊集院照子は少し顎を引っ込めた。
「……あ、ああ、そうか。そうだよな。怒ってないよな」
 場を取り繕うように伊集院照子がそう言っても、琴は窓際を向いたまま伊集院照子のほうを見ない。
 さすがに気になった伊集院照子。
「さっき病室を追い出したのは悪かったが……。そんなに怒らなくても」
「怒ってません!」
 怒鳴ると「怒ってるじゃないか!」と反撃にあう。
「すみません。僕が怒らせてしまいました」
 倉敷が謝ると「なんだ、おまえのせいか。どうして怒らせたんだ?」と伊集院照子が尋ねるので、倉敷が答える前に琴は振り返った。
「なんでもないの! もう、二人して私の詮索はやめて!」
 すると、背筋を伸ばした伊集院照子と倉敷は、それ以上はなにも言わず、叱られた子供のように口をつぐんだ。
 気苦労のない生活。
 琴は結婚を夢見る少女のように、病室の窓から空を見上げながら、ただただ普通の生活が戻ってくることを心の底から願った。


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