あっちから変なの出てきた

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第十章 【 現世−伊集院照子の憂鬱 】


 中国から日本への帰りの飛行機、琴は本当に一言も口を開かなかった。
 琴が伝えた千年前のチベット、中国で起こった悲劇の逸話。
 暗い結末で話を終えたあと、琴が事前に宣言したとおり、誰もが感想を口にすることを禁じ、質問をすることを禁じた。それ以来、四人の間は必要最低限の会話を交わすのみで、世間話はおろか、意志の疎通すら首を横に振ったり、手をかざしたり、ジェスチャーで受け答えすることが多くなった。
 それほどの重い話。倉敷にはただの陰気な話にしか思えなかったが、元来、おしゃべりだった三人の口を閉ざしてしまうほど深刻なものだったらしい。
 倉敷は、それよりも伊集院照子が行雲途山でしでかした聖域荒らしのような行為のほうが深刻だったが、どうやら帰途に着くまで、御札とかいうやつを復元させた所業は、聖域の住人たちに知られることはなかった。あるいは知っていて見逃したのかもしれないが。
 しかし、本当に琴は変わった。
 見てくれこそ変わらなかったが、あの行雲途山での修行で、まるで別人のように琴は変わった。
 倉敷は飛行機で、隣の座席に座って寝息を立てる琴の寝顔を眺めながら、そう思っていた。
 あるいは、大人になった、とも形容できるか。確かに修行から戻ってきた琴はしっとりと湿り気を増して、以前より色っぽく見えるようになった。
 転じて、おてんば娘で中国マフィアの一人娘であるワン・スーリンしかり、修行から帰っていたあとは口数も減り、ずっとむすりとしている。
 伊集院照子も相変わらずを装っているが、琴とスーリンがこの様子なので、必然的に口数も減っている。行きの道のりは遠足のようににぎやかだったが、転じて帰路といえば、やけにシリアスさが増している。
 飛行機を降りて最初に心配したのは、中国マフィアの監視である。ところが、伊集院照子が倉敷に荷物を持てと命令しながら言った。
「話はついてるはずだ。帰りの飛行機前に自然管理委員会に連絡を取って――といっても鳴音弦にだが――事情を説明して、話をつけてもらってるはずだ」
「じゃあ、ボスは追ってこない?」
「お前は知らないがな。少なくとも、スーリンはしばらく自然管理委員会が保護する。お前は好きにしろ」
 おいおい、ここまで連れまわしておいて、いまさら放置はないだろう。
「通訳として、リスクを負わせて連れまわしたんですから、責任とってくださいよ」
「責任といわれてもなあ」
「このまま放り出されたら、中国マフィアに拉致られて拷問されて殺されます。その自然なんとかかんとかの組織で、俺も保護してくださいよ。ほら、スーリンの通訳だって必要でしょう?」
 ううん、と唸って悩む伊集院照子。背後からは無言で琴とスーリンがついてくるが、会話に加わろうとはしない。
 空港を出て、正面のロータリーでタクシーを拾う。ワゴンタイプのタクシーで、四人乗っても余りある広さであった。
「まあ、いいだろう。こうなったら自然管理委員会で働けばいい、倉敷。口を利いてやる。ちょっと鳴音弦にも借りを返さなけりゃいけないしな。忙しくなりそうだから、琴と一緒に私の補佐となれ」
「補佐ですかい」
「秘書ですよ」
 琴が久方ぶりに口を開く。
「とっても大変ですからね、伊集院さんの秘書は。覚悟したほうがいいですよ。マフィアに追われるほうがましだと思うくらいかもしれません」
 固唾を飲み込まずにはいられない。伊集院の破天荒ぶりは承知である。
 伊集院照子は苦笑しながら「倉敷は当面、スーリンの世話役だ。日本での生活の手助けをしろ」と言った。それならいままでとなんら変わりはない。ほっと胸をなでおろす。
 隣にいたスーリンに、中国語で話しかける。
 以下に交わされた会話は、全て中国語である。
「お嬢、君は日本の政府に保護されて、しばらくこの国で過ごすことになるとのことだけど。お嬢は承知なのかい?」
 スーリンはむしりとした顔で答える。
「私はもう、自分のことがわかったから。倉敷も修行をすれば分かるよ。私は日本で、あの伊集院という女と一緒に、悪いやつを倒す」
「父上は……」
「本当の父じゃない。でも、育ててくれた。ちゃんと感謝してる。だから、ちゃんと会って、話する。倉敷のことも私が何とかする。大丈夫」
 中国マフィアのドンの娘であろうと、実のところ組織運営、組織思想に対して、なんら権力がないのが実情である。スーリンが守るといっても、なんら期待できないのである。
「倉敷……いろいろ面倒見てくれて、ありがとう」
 スーリンのその言葉に、ぎょっとする倉敷。
「いえ……僕はお世話するのが仕事だし」
「だけど、あんなところまでついてきて、ずっと心配してくれてありがとう」
「どうしたってんだい、お嬢」
 あんなおてんばで、人の迷惑など顧みない根っからのマフィアっ子が、なんて変わりようだろう。あの修行には、人格強制のプログラムでもあるのだろうか。
 だが、実際にスーリンが修行していたのは二晩程度である。伊集院照子も舌を巻いたが、たった二日で第四の試練をクリアし、戻ってきた人間は、過去にも類を見ないのではないかと言っていた。倉敷はスーリンのことだから第四の試練をクリアしたなどただの虚言で、入り口付近で二晩潜んでいて、さも修行したかのように戻ってきたのではないかと言ったが、伊集院照子には嘘か本当か分かるらしい。
 このスーリンの変わりよう。確かに、あの中で何かがあったのだろう。内容については、まったく語らないが、倉敷を除く女子三人の中で強烈ななんらかの共通意識が生まれたことは間違いない。
 伊集院照子がタクシーの助手席から言葉を投げかけてきた。
「飛行機に乗る前に、弦に連絡を取ったとき、面白いことを言ってたぞ」
「兄さんが?」
「ああ。公にはされていないらしいんだが、どうやら術師が次々に失踪しているらしい」
「ちょっと、伊集院さん」
 琴が伊集院照子をたしなめた。ここはタクシーの中である。当然、運転手は何も知らない一般人。
「心配するな。なにを言ってるかなど理解できるものか。話を続けるぞ。術師の失踪は、イスカ領域で起こっている。行方が分からなくなるのは、イスカ領域の担当術師が、日課の見回りをしているときらしい」
 物騒な話である。イスカ領域というものがなんなのか、倉敷には一切分からないが、人が失踪するなどという話は、古今東西、いつ聞いても末恐ろしい。
「言っている意味、分かるか、琴」
「ええ……。あのとき……、隔世から人外がやってきた日、イスカ領域を通って隔世に渡った佐々倉さん。あのことと同じ……」
 伊集院照子は助手席から身を乗り出して、後部座席を振り返った。
「おい琴、おまえ、佐々倉が隔世に渡ったことは覚えてるのか?」
「え、ええ。それがなにか?」
「なら、なぜ奏でのことは忘れてるんだ? なぜ、佐々倉のことは覚えているのに……」
「さあ……、私には……」
 伊集院照子は不可解そうに顔を引っ込めた。
「まあいい、そのとおりだ。佐々倉想平は自らの意志――でもなかったが――少なくとも渡るべくして渡ったが、これらの一連の失踪では術師の意志は関係なく、イスカ領域に飲み込まれたと推測できる」
「イスカ領域に飲み込まれるなんて、今までそんなこと一度だってありませんでした」
「そうだが、いままでと同じ状況ではない。向こうから人外が渡ってきた事実があるんだからな。ユーナ、ナユタ、ラナ・カン、一ツ目、そしてヴァルアラトスと付き添いの人外。これらを踏まえると、この失踪事件、人為的なものを感じないか?」
 琴が倉敷を見た。なぜこちらを見るのか分からなかったが、倉敷に推測結果を求めている。そう感じて、ためしに答えてみた。
「あっちから、なにかが手を伸ばして、ぐいっと術師を引きずり込んだ……、ってことですかね」
 馬鹿が。昼行灯が。黙っていろ、愚か者。
 罵声が跳んでくるまえに耳を塞いでしまおう、と思っていた倉敷に聞こえてきたのは、なんとも落ち着いた伊集院の声。
「そのとおりだ、倉敷。お前も少なからず私たちと行動をともにし、考え方が柔軟になってきたようだな」
 意外にもお褒めの言葉をもらい、不覚にもうれしくなる倉敷。いかんぞ、こいつらのペースになっては、自分も良くわからないオカルトの世界に引きずり込まれてしまう。そう自分を戒めた。
「隔世が、現世を知るために干渉し始めた。この戦争が、いよいよ本格的に始まった、と捉えるべきだろう」
「戦争が……」
「そう。あまりにもこちら側に分の悪い戦争がな。あちら側にイスカ領域という通路を握られている以上、こちらとしてはジリ貧の防衛を続けるしかない。やがて相手が、こちらの世界のことを把握できたとき、現世の終わりが訪れるだろう」
 倉敷にも良く分からない話である。だが、やたら不安をあおる話であることは伝わってきた。口をつぐんではいられない。
「伊集院さん、そのイスカ領域ってやつが通路なら、こちらから渡れないんですかね。入り口も出口も一緒でしょう」
「それができないから現世は敗北すると言っている。情報戦の時点ですでに敵わない。こちらからイスカ領域を作り出したり、広げたり、閉じたりすることはできないんだよ。技術もなければ、今のところ、理論も糸口もない。このままでは敗北必死だ」
「伊集院さんでも、何も思い浮かばないと……?」
「ないな。だが、私たちの使命は、隔世からの侵略の防衛ではない。私たちの役目は、トレチャーク。こいつは隔世の侵略などという甘いレベルの敵ではない。少ない希望だが、隔世の侵略に対して現世が対抗できる可能性はゼロではない。だが、トレチャークだけは野放しにしておけば、間違いなく世界は終わる。分かってるな、琴」
 琴は返事をしなかったが、その瞳は伊集院の言葉を全面的に肯定している。
「だが、ちょっとは協力してやろう。鳴音弦にはスーリンを見つけ出す手伝いや、行雲途山修行でも、いろいろ手を焼かせた。さすがに借りを返しておかないと目覚めが悪いからな」
「その前に……」
 倉敷は恐る恐る提案した。
「ちょっとくらい、休みやしませんか? スーリンが日本にやってきて、中国に帰って、さらに日本にやってきて、その間、中国の人民解放軍の警備を不正に通らされるわ、山を登らされるわ、心労はかさむわで……」
 伊集院が助手席から振り返り、怪しげににんまりと笑った。
「その辺なら抜かりないわ。行雲途山修行は熾烈を極める。少し休み、英気を養わなければな」
「ほほう。なにかお考えが?」
 伊集院の怪しい笑みに、倉敷好みの画策が感じられた。
「自然管理委員会の金で、このまま熱海で一週間ほど療養しようじゃないか」
「熱海!」
 倉敷はパチンと指を鳴らしたあと、伊集院に親指を突き出して見せた。
「話が分かるのう、倉敷は」
「ええ。休養は大事ですからね。温泉は実に疲労回復によいですし」
 琴が肩をすくめているのをよそに、タクシーはそのまま熱海温泉まで直行するのであった。
 
 
 
「それで、術師失踪事件のほうですが……」
 熱海温泉の高級宿で、仏頂面の伊集院照子と膝を突き合わせて気難しい顔をしているのは、緑眼の持ち主、鳴音弦である。
 弦は、帰国した伊集院照子の足取りを調べて、熱海温泉の高級宿に先回りしていたのである。温泉に着くなり、まるで宿の従業員のように伊集院照子一行を出迎えた弦は、有無を言わさず、そのまま客室での打ち合わせに入ったのである。
「伊集院さん、休養は構いません。ですが、事態は一刻を争います。ですのでこの宿の予約はキャンセルしませんでしたし、諸経費は私の部署で持ちます。ですが、日本に帰ってきた今、良く考えてほしいのです。私があなたのわがままを遂行するために払った犠牲を」
「分かってる。分かってるから、せめてひとっ風呂くらい浴びさせろ」
 伊集院照子の周りには、琴、スーリン、倉敷が黙って座っている。高級料亭のような二十畳はありそうな和室の真ん中で、弦と伊集院のやりとりを見守っていた。
「この事態、電話でご説明したとおり、現在でも失踪は続いています。これまでに二十人の術師の行方が分からなくなっています」
「なら、警備を増やすなり、夜間の巡回を取り止めるなりしたらどうだ」
「それはできません。夜間の巡回をやめれば、万が一の人外の来訪を止めることができません。警備を増やすにも、日本に百もあるイスカ領域全てに警備を厚くすることは、要員数から鑑みても事実的に不可能ですし、予算もありません」
「それで私になにを期待する。私一人の力など高が知れてるぞ」
「伊集院さんが、なぜ伝説の人間として現在までも語り継がれているのか。それはあなたが単に強い術師であっただけではなく、飛びぬけた頭脳をお持ちだからです。あなたになら、われわれ凡人が思いつかないような発想で、この窮地の打開策を思いつくのではないですか?」
「そんなことを言われても思いつかんものは、思いつかん」
「そもそも考えてないからでしょう!」
 弦が思わず声を荒げる。弦が感情的になるのも珍しい。琴は興味深く二人のやり取りを眺めていた。
 弦は正座した状態で上半身を乗り出し、両拳をたたみの上で固めて伊集院に詰め寄った。
「これは日本だけの問題ではありません。隔世からの入り口がたまたま日本にあるだけです。ここの防衛が破られれば、世界が滅ぶかもしれないんですよ。伊集院さん、あなたが過ごしているこの世界がです。この温泉も、おいしい料理も、すべてなくなってしまうんですよ!」
「分かってる、そうがなるなよ」
 伊集院照子は面倒くさそうに、目の前に手をはたはたさせる。
「そもそもな、弦。私は明治の人間なんだ。現代のことはとんとさっぱりだ。核だの生物兵器だの、私より現代人であるお前らのほうが手段を講じる材料は多いのだぞ」
「なにも情報がないことが問題なのです。われわれにか学力があろうとも、相手のことが何も分からなければ、手段を講じれません」
「私だって、隔世のことはなにも分からん」
「一緒なのです。われわれも、伊集院さんも。何も分からないことは同じ。同じ分からないもの同士であれば、明晰な頭脳をお持ちの伊集院さんのほうが、より良いアイデアを生み出せるはず」
 いつもの伊集院照子なら、人に頼るな、甘ったれるな愚か者、とコケ下ろして退散させるものだが、今回は終始、伊集院は押され気味である。
「いいですか。まず考えることから始めてください。温泉に浸かりながらでもいいでしょう。食事をしながらでもいいでしょう。ですが、忘れないでください。スーリンを見つけるために世界中を巻き込んで翻弄したのは誰ですか? 世界の『霧』事件の事態収拾をしたのは誰ですか? 本来なら決して実現できそうにもない行雲途山修行をサポートしたのは誰ですか?」
「……うん。わかったよ、もう」
 すねたように口を尖らせる伊集院照子。どうやら承諾したらしい。
 伊集院照子が誰かに説き伏せられたのを、琴は初めてみた。さすが未来の伝説を築き上げていく使命を帯びた男である。その親から引き継いだ緑眼は伊達ではない。
 納得した伊集院照子の様子を確認すると、弦は立ち上がりながら言った。
「私もこの旅館に泊まりこみます。ずっといますので、何か思いついたら連絡をください」
「……うん」
 伊集院照子を子ども扱いする弦の手腕。
 恐れ入った琴である。
 
 
 
 伊集院照子の宿泊する熱海の高級温泉宿の、半径二十キロ圏内に、術師の失踪したイスカ領域が二箇所あった。
 翌朝から弦に連れ出されて、伊集院照子は視察に向かった。
 琴も倉敷もスーリンもその後についていく。
 ひとつ目の術師失踪事件の起こったイスカ領域は、森の深い渓谷にあり、滝の裏側にあった。滝に向かう小径には鳥居が立てられており、神聖な場所とあがめられているのが分かる。
 滝が生む霧により周囲の岩肌は常に湿っており、岩に張り付いたコケを潤わせている。早朝の空気は霧により冷やされ、新鮮さを伴う水のにおいが充満している。
 弦と伊集院、琴とスーリンと倉敷。五人は滝の前に立ち、岩の上から滝つぼを見下ろした。
「どうです、伊集院さん。なにか感じますか?」
「感じますかって言われてもなあ」
 二日酔いのこめかみをマッサージしながら、しかめっ面の伊集院照子。
 琴はぼんやり滝つぼを眺めた。岩肌に叩きつけられた水が水蒸気となって舞っており、綺麗な虹を作っている。
 平日の日中帯であるが、パワースポットとしても名高く、観光客は少なくない。滝の作り出す七色の光を感嘆の声を上げて鑑賞している。
「きれいだね」
 琴が隣の倉敷に声をかける。
「そうですねえ。ここが失踪事件の場所、って言うんじゃなければ、ね。僕には不気味なミステリースポットにしか見えない」
 ふうん、と鼻を鳴らす琴。そんなものか。
 同じものを見ていても、人によって見え方は違う。先入観ひとつで風景は百八十度様変わりするのだ。
「でも、虹がかかってるよ。ほら。失踪事件のあった場所だからって、きれいなものはきれいでしょ」
「そりゃ、オカルト慣れしてるお琴さんにはきれいにも見えるでしょうが。それに、僕には虹なんて見えませんよ」
「え?」
 虹が見えない? ああ、そういえば、虹というには薄ぼんやりしているし。
「七色の光、見えません?」
「光? いや……」
「それは、私とお前にしか見えてないよ。いや、スーリンには見えてるか。行雲途山修行で第六の試練まで行くと、これが見えるようになる」
 伊集院照子が振り返って解説した。
 それよりも、驚愕の表情で振り返った弦の顔が気になった。
「琴、お前、第六の部屋まで行ったのか!?」
「そ、そうだけど……」
「馬鹿野郎、行くことができるのは第四部屋までだ。それまでは禁忌だって知らないのか? 北京条約で決定されたことだ。お前、それを他人に喋るなよ。条約違反で罰せられるぞ」
 琴の血の気が引いた。
 伊集院照子が呆れながら言った。
「私も釘を刺したんだ。第四の部屋をクリアしたら帰ってこいって。こいつ、言うことを聞かなくてな」
「だって、もっとちゃんと教えてくれれば……」
「もういい。そもそもお前の年齢で行雲途山修行に行くことでも条約違反なんだ。それにしても、第六の部屋まで行くなんてな。行こうとしても行けるもんじゃない。お前も鳴音家の血を引く人間だった、ってことだな」
 叱ったと思えば、薄ら笑いを浮かべて琴の業績を評価した。なんて答えていいものやら。
 伊集院照子が琴を手招きする。前に出て来いというのだ。
「よく見ろ。私やスーリンのようにはっきりと見ることはできないだろうが、滝の裏側にはイスカ領域がある。イスカ領域は心的世界を反映しているから、その漏れた光が見えるのさ。七色に発光しているだろう」
「ええ……」
「行雲途山修行とは、通力の強化もさることながら、ある目的を有している。もしかしたら知っているかもしれないが」
 伊集院照子が、心を見抜くような眼光で琴を見た。
「誰にも言うな……。行雲途山が存在する目的は、隔世への渡航」
 琴の耳元で囁いた。
「現世の人間が、なんの糸口も見つけられない隔世への渡航。これを弦に教えてやろうかどうか、私は迷っている」
 伊集院の顔が耳元から離れていく。
 伊集院の顔を見ると、冷笑的に唇の端を吊り上げている。
 やっぱり……。
 なんだかんだいって、この人はいつだって答えを持っている。それでいて、それを開示するかどうか、いつも慎重に考えている。
 底が知れない。
 改めて、伊集院照子の偉大さを思い知らされる。頭脳明晰で、人々を惹きつけ、なにがあろうと推進する力を持っている。
 私はこの人の傍に仕えることができて、とても幸せだ。
「こそこそ話はそれくらいにして、なにかご意見を拝聴させてもらえれば嬉しいですが」
「ここはもういい。次に行こう」
「なにも収穫なしですか?」
「一箇所だけではなにも分からん。とりあえず、次の場所だ」
 そう言って、踵を返してきた道を戻りだす伊集院照子。弦は肩をすくめると、おとなしくついていった。
 ――行雲途山が存在する目的は、隔世への渡航……。
 伊集院の言葉が耳についてはなれない。伊集院が第四の部屋以降にいくなと言った理由が、この辺りにあるのだろうか。
 釈然としないのも確かである。なにがどうして隔世への渡航に繋がるのか。それに、なぜ秘密にする必要があるのか。その事実を知っているのは伊集院照子だけなのか。
 スーリンが何かをつぶやいた。中国語だったため、倉敷の顔を見た。
「なんて言ったの?」
「ああ、鳴音弦、って言ったっけ、君のお兄さん」
「うん」
「彼が嘘をついてると言ってる」
「嘘?」
 再びスーリンが何かを言った。倉敷の通訳を待つ。
「君の兄さんは、ここで術師の失踪事件があったというが、それは嘘だといっている」
「どうして? 理由を聞いて」
 倉敷が理由を尋ねようとしたが、なにも言わず、スーリンは伊集院のあとをついていってしまった。
「どういうこと……?」
 倉敷も首をひねっている。
「僕にもさっぱり……。またオカルト的な感覚ですかね」
 なぜ弦が嘘をついていると断言できるのだろうか。圧縮能力者であるスーリンには分かる、なんらかの感覚があるのだろうか。
 スーリンが分かっているのなら、伊集院照子も分かっているはずである。
 
 
 
 それから一時間あまり自動車を走らせてやってきたのは、小さな農村にある神社であった。由緒正しそうな拝殿と本殿からなる、小さな神社である。
 近くにある社務所が術師の寄宿舎となっており、一人の老齢の術師が出迎えた。術師、兼、神社の宮司らしい。装束は宮司そのものである。
 案内されるがまま、イスカ領域まで向かう。
「ここです。あの青空公園での事件の後、人員強化で派遣されてきた若い術師が深夜の見回り中、行方が分からなくなりまして……」
 イスカ領域は、本殿の中にあった。本殿の観音開きの扉を開け放つと、かび臭い暗闇の中に、ぼんやりと七色の光が見えた。
「ねえ、全てのイスカ領域を、こんな風に建物に囲んでしまえば、人外がイスカ領域から来ても、出てこれないんじゃない?」
 琴の提案に、弦は暗い顔を向ける。
「その議論は、もちろんなされている。だが、踏み切れないだろうな」
「どうして?」
「どれくらいかかると思う? 全国に百以上のイスカ領域を囲むための費用と、そして時間」
 ああ、お金の問題か。
「国が危機感を感じ、本腰を入れるまでにどれだけの議論を繰り返せばいいのか。仮に予算が通っても、それを囲むまでにかかる時間と費用。そこに費用を割くよりも、もっと術師の育成や新規術具の開発に予算が回されている。その提案は、とても現実的じゃないってわけだ」
「諸外国は……?」
「介入を許してない。というより、連盟の要求も無茶はなはだしいがな。もう少し妥協案を出してくれれば、日本も素直に受け入れしやすいんだがな」
「どんな要求なの?」
「基本的には、主導権は日本にある。連盟の発行している議定書には、こういった危機レベルのルールがこじんまりと書いてあってな。万が一、隔世からの脅威が発覚した場合、発生したその国が責任を持って収拾に当たること、うんたらかんたら。要するに、危機が発生した国が損失をかぶる、費用を出す、リスクをかぶる、というルールさ。そのとおり、日本は膨大な予算だけ支出させられて、しかも諸外国の人員の介入を要求されてる。ようるするに、諸外国は口だけ出して金は寄こさないという構図が出来上がる。日本からすればこういうやつらはただの輩だな。このルールの改善がなされなければ、日本は受け入れたくても受け入れられない状況なのさ」
「外国は予算を出さないの?」
「出したくても出せないだろう。表舞台には出てこない組織だからな。一般的に援助金を求めたくてもできない。どの国も、日本と同じ水準の予算はないんだよ」
「軍事的な国防予算ばかり跳ね上がって、現世の人間同士、いがみ合うのが忙しいんだろう」
 そう皮肉を言ったのは伊集院照子だ。
 仮にも世界レベルの危機だという認識が、まだどの国にもないのだろうか。まだ現世の人間同士、けん制しあうほうが重要だという認識なのだろう。
「相手の情報がある程度知ることができ、イスカ領域にどのような『囲い』をすれば有効なのかが分かれば……。加えて、この術師失踪事件が、隔世からの魔の手であると証明できれば、あるいは日本も柔軟に動くかもしれないが……。いまは結界の術の強化に重点が置かれている。あのヴァルアラトスをも封じれる結界の実現……。これがもっとも現実的な対策だろう」
「無理だな」
 伊集院照子が切って落とす。
「無理とは?」
「国は動かない。お前が言った言葉が全てさ。お前はどうにか国が予算を委員会に回すよう、その材料集めをしているに過ぎない。だが、残念だが、お前の『嘘』はすでにお見通しだ」
 ――嘘。
 先ほどのスーリンの言葉を思い出す。
 弦が憮然と「嘘?」と低い声を出す。
「そうだ」
「おっしゃってる意味が……」
「術師失踪事件など起きていない。全てお前の詭弁だ」
 伊集院照子がイスカ領域に背を向けて、こちらを見た。
「いま見てきた二つのイスカ領域。これらは虫一匹さえ通れる穴さえ開いていない。術師という通常より大きな情力を持った人間が通るとなれば、それなりに大きな穴を隔世から開けたということになる。となれば当然、その形跡は残っているはずであるが、ここには瘴気の残り香もなければ、イスカ領域がこじ開けられたあとの歪みも乱れもない。つまり失踪事件など、ただの虚言だ」
 まさに、スーリンはこのことを言っていたのか。
「おい、弦。正直に答えろ。本当に失踪事件は起こっているのか? お前が国に予算を回してもらうためのネタを作るために、事件を捏造しているだけではないのか」
「滅相もない!」
 そう声を上げたのは、ここを管理する老齢の術師だった。
「失踪したのは本当です! 嘘などつきません。仮にも若い術師が失踪してしまっているんです。嘘と片付けられてはたまりません」
 老齢の術師の必死な訴え。同調するように弦が言った。
「術師失踪事件は真実です。なんの偽りもありません。信じてください」
「ふうむ」
 伊集院照子は前書きを掻き揚げた体勢で逡巡する。
「ならば……術師失踪事件が隔世からの干渉ではない。というだけの話。この失踪事件は、現世の人間の手によるものだ。弦には残念な結果だろうが、これは国に予算をまわしてもらうために、弦ではない誰かが画策した茶番か、あるいは……」
「あるいは……?」
 五人の視線が、伊集院照子に集中する。
「……さっぱりわからん」
 五人いっせいに、落胆のため息を漏らす。
 気を取り直すように弦が言った。
「少なくとも隔世からの干渉ではない、と判明しただけでも成果です。正直、俺はほっとしています。隔世からの干渉だとしたら、全面戦争は間近と言えますからね」
「そうとも言えん。目に見えているほうが、よほど安心だろう。対策も講じれるしな。むしろ見えない場所で情報戦が始まっているとしたら、そのほうがよほど恐ろしい」
 伊集院照子がさらりと不安をあおる。
 本人に悪意はないだろうが、弦一同、重い空気が流れる。
「じゃあ、これで私の仕事は終わりだな。宿に戻って休養の続きとしゃれ込むか!」
 ぱん、と邪気を払うかのように手を叩く伊集院照子。
 この人の危機感のなさは、余裕なのか諦めなのか他人事なのか。
 さっぱり分からなかったが、弦もこれで諦めるしかない。
 琴はそう思ったが、そうもいかなくなる事態には、すぐに発展することになる。


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