あっちから変なの出てきた

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第一章 【 虚無 】


「奏、今日は卒業試験よ」
 琴が奏の両肩をひしと掴み、大きく揺らした。
「いろいろ問題があったけど、お父さんと伊集院さんが手を尽くしてくれて」
 父と伊集院照子のおかげで、術師の卒業試験を受けれることになった。人外襲来の危機を未然に知ることができ、準備できた功績として、奏を擁護してくれたらしい。
「一ヶ月も眠り続けてるときは、どうしようかと思ったんだから。こうしてこの日を迎えられたのは奇跡なのよ。分かってる?」
「分かってるよ」
 家の玄関先で、琴が奏の襟を正したり、ネクタイの歪みを直したりなど、弄繰り回している。うざったそうに琴の手を跳ね除けると、奏はつまらなそうに口を尖らせる。
「試験を受けれるようになったからって、どうせ落ちるんだから、張り切ったってさ」
「馬鹿なこと言わないの」
 琴が奏の頭をぺチンと叩く。
「実務研修の監督官の私が、研修合格だって判を押してるのよ。卒業試験であんたがこけたら、私の評価にも繋がるんだからね。あんたが人外と逃亡してたときと同じように頭を使ってよ。あんたには確かに通力が足りないけど、一人にはない機転っていう才能があるのよ」
 術師の世界では通力が前提である。機転だけ良くてもどうにもならないのである。そう言ったら琴をまた怒らせそうだったので、奏は口を噤んだ。
 家を出ると、休日の住宅街の風景。正面の家の子供が友達と壁に向かってボールを当てている。その少年の父親だろう男が、駐車場で自家用車を洗っている。
 犬の散歩をする主婦。休日の部活に向かう中学生。顔見知りの人たち。
 ――卒業試験など、受かるはずもない。
 明日には一般人となり、いま見ている人たちと同じように、人外など気にもしない一般生活を送るようになるのだ。
 そしたら普通の高校生みたいに友達と遊んだり、絵を描いたりして過ごしたい。普通の生活でいいのだ。人外を連れて逃亡劇を繰り広げるなど、いま思えば正気の沙汰ではなかった。
 住宅街を歩いていくと、三件隣りの民家の前で、ジョギングから帰ってきた女の子が奏に手を振った。ひとつ年下の幼馴染である。
「奏さん、おはよう。日曜日の朝からどこに行くの?」
「ああ、別に大した用事じゃないよ」
 そっけなく言うと彼女は奏の格好を見て「おデート?」と尋ねてきた。
「そんなわけないだろ」
「怪しいなぁ。おめかししてさ。奏さんはモテそうだもんね」
「そういうお前は、朝っぱらからジョギングして、デートのひとつもしないのか」
「大会が近いからね」
 そういえば、近々ソフトボールの大会があると言っていた。
「今日も部活?」
「うん、このあとね」
「そう。まあ、応援してるからがんばって。俺はもう行かないと」
「うん、じゃあね」
 卒業試験に向かう奏の背後で、彼女は手を振った。
 振り返って「そういえば」と問いかけると、彼女は首をかしげる。
「お前、同級生のサッカー部の背の高い奴に、告白されてたよな」
「ああ、うん」
「あれ、どうなったんだ?」
 彼女はきょとんとしたまま答えない。じっと奏を見ている。
 してはいけない質問だったか。
「奏さんには教えない」
「ええ、なんでだよ」
「なんでも。急いでるんでしょ? ほら、いってらっしゃい」
 そう言って、笑顔で手を振る。
 煮え切らない思いだったが、急いでいるのは間違いない。
 奏は仕方がないと手を振った。
「じゃあな、優奈」
 
 
 
 卒業試験は何も難しいことはない。午前中に面接と筆記試験。午後に実務試験を行う。実務試験は懸垂、腹筋、垂直飛び、反復横飛び、マラソンなどで御馴染みの体力測定から、戒具を使った通力測定。実践を模して、戒具や御札を使用して模型人外の駆除の実演などを行う。
 実際に活動している時間は短いが、五十人程度の卒業試験者がいっぺんに試験を受けるため、順番待ちが長いことが辛かった。
 試験を一通り終えた奏は、疲労困憊で家路に着く。合格発表は後日郵便で通達される。
 家に帰るなり、待っていた琴が玄関まですっ飛んできた。
「どうだった? 失敗しなかった? 面接官の質問にはハキハキ答えた?」
 質問攻めである。リビングに入ってソファーに座っても琴は追いかけてきて、試験の様子を聞いてくるものだから、奏はうんざりした。
「並の成績だったと思うよ。通力の測定以外は平均点。通力測定ではほぼゼロ点だから、これで術師に合格したら、それこそ裏の繋がりを疑われても仕方ないね」
「なに言ってるのよ。通力測定の成績が悪くったって、合格することはあるって言ってたわよ。そんなもので諦めちゃ駄目。自然管理委員会だって、奏に通力がないことは知ってるわよ。それでも卒業試験が受けられるってことは、術師の水準に至ってるってこと」
 気休めにしか聞こえない奏は、ようやく義務的な試験から解放されて、一息つきたかった。
「コーヒー淹れてよ」
 琴にねだると、質問したりなそうだったが、台所に消えた。ようやく訪れた静寂。
 この家には普段、父親と琴、奏と弟の階の四人暮らしだ。長男の弦は自然管理委員会本部近くに下宿し、普段は帰ってこない。
 母は奏が幼いころに亡くなった。母の記憶はおぼろげであるが、確かに覚えている。母が居なくてさびしいと思ったことはないが、居たら琴のようだったのだろうかと想像することはある。
 そう思うと、奏を心配してくれる琴のことも、少しは相手にしてあげないと可哀想かと腰を上げた。
「姉ちゃん」
 台所でコーヒーを淹れる琴に声をかける。
「なに? どうしたの」
 奏は気を紛らわすように指先をいじくったり、後頭部を掻いたりする。
「ずっと眠ってる間、姉ちゃんが付きっ切りで看病してたって聞いた」
「なによ、いまさら」
 人外襲来の日、一人の強大な力を持つ人外がイスカ領域から現れ、一番近くに居た奏が瘴気に当てられ、こん睡状態に陥ったのだ。それから一ヶ月、琴が付きっ切りだったと聞いた。お礼も言えてなかったのだ。
「眠ってる間、ずっと夢を見てた。内容はほとんど覚えてないけど、姉ちゃんの声はずっと聞こえてた気がする」
 琴はなにも答えない。奏に背を向けてコーヒーの準備をしている。
「卒業試験……落ちたら、ホントごめん」
 琴が不思議そうに奏を見ていた。
「あんたがどうして謝るのよ。自分のために受けた試験でしょ」
 そうじゃない。
 奏は琴に背を向けて居間のソファーに戻る。
 姉ちゃんが、期待するから試験を受けたんだよ。
 そうは言えなかった。そう言ったら、琴はまた怒るかもしれないし、なにより恥ずかしくて口に出来なかった。
 
 
 
 学校は夏休み。
 毎日が休日であるが、友達の居ない奏は冷房の聞いた部屋で絵を描いたり、粘土で造形にいそしんだりするのが日常だった。
 夏休みも中間に差し迫ったある日、三件隣りに住む優奈がソフトボールの大会を迎える日だと気づいた。
 応援に行く約束をしていたが、何時から試合開始なのか分からなかった。
 奏は準備をして家を出ると、優奈の家までやってきた。インターフォンを押すが、誰も出てこない。もう大会に行ってしまったのか。
 試合開始に遅れたら、優奈、怒るかな。
 奏は高校に程近い青空公園に向かった。大きな公園で、敷地内にはレジャー施設が豊富である。プール、体育館、野球場、陸上競技を行うためのトラックもある。そして何より、二ヶ月ほど前に人外襲来のあった場所でもある。その場所は、今でも有刺鉄線に囲まれ、立ち入り禁止区域となっている。
 公園の入り口付近で、交通事故が遭ったようだ。パトカー数台が連なり、現場検証している。公園に入ろうとした奏は制服警察官に呼び止められた。
「すみませんが、公園内へは西の入り口をご使用ください」
 ここから入れないようである。
「交通事故ですか? けが人が居るんですか?」
「さあ、どうでしょう」
 制服の警察官は、とぼけて見せる。青空公園は、奏が術師に合格すれば、管轄することになる場所である。何かあったのなら知っておきたいが、術師の仮免許も持ってきていない。事情は後ほど本部に問い合わせて確認しよう。
 通りかかるとき、事故にあった車が見えた。車のフロント部分がかなり豪快にひしゃげている。事故車は一台だけなので、自爆事故だろうと周囲に電信柱を探した。電信柱も、ガードレールもない通り。民家は傍にあるが、道と民家を隔てるブロック塀に、衝突された形跡はない。
 この車、どこに衝突したんだ?
 事故車の周囲には、衝突した形跡のある場所はない。あれだけフロントがめちゃくちゃになっていれば、どこかに衝突の痕が残っているはずだ。
 じろじろ見ていたら、先ほどの制服警察官に睨みを利かされ、奏はすごすごとその場を後にした。
 遠回りを余儀なくされた奏は、実に五百メートル近い遠回りをして野球場にたどり着いた。
 野球場では、すでに試合が開始されている。ユニフォームで分かる。わが母校(優奈の母校)のソフトボール部が試合をしている。
 野球場を囲むグリーンネットの外から優奈の姿を探すと、ネクストバッターボックスで打順を待つ優奈を発見した。
 優奈は真剣な表情でマウンドを見つめている。ピッチャーの投球のタイミングを計っているのだろう。
 九回裏。終盤もいいところ、最後の最後である。得点は二対三で、優奈側が一点負けている。状況は、ワンアウト、ランナーなしで、優奈側の攻撃。あと二つのアウトで、優奈側の負けが決定する場面。
 試合は県内予選の決勝である。これに勝てば、本戦のトーナメントに進める大事な試合。絶対に勝つから、応援に来てねと一週間前に優奈と約束したのだ。
 いまバッターボックスに居るのは二番バッター。次に控えている優奈が三番バッターだ。試合終盤。最後の最後。優奈の最後の打席には間に合ったようだ。
 奏は家から持ってきたカメラを構えた。ファインダーをのぞき、真剣な表情で出番を待つ優奈の姿を一枚撮った。
 試合場の様子、得点ボードなど一通りの被写体を写していく。
 二番バッターが三振に倒れ、ツーアウト。追い込まれた場面で三番バッターの優奈がバッターボックスに立った。小柄な身体。バットがやけに大きく見える。
 一枚写真を撮る。
 一球目、見逃しボール。
 二球目、ファール。
 三級目、空振り。
 これでツーストライク。追い込まれた。
 四級目、高めボール。
 よく見た。
 五球目。
 金属バットが甲高い音を立ててボールを弾く。
 ボールはファールグランドを点々と転がる。
 それを目で追っていくと、途中でボールが不自然に曲がった。
 あれ? と思い目を凝らす。
 ボールがまるで、そこにあった何かに当たったかのように軌道を変えたのだ。
 不自然に思ったのは、そこには何も無いように見えたからだ。
 ボールが不自然に曲がったことを、不思議がる人は居ない。地面の凹凸にぶつかって弾かれたくらいにしか思っていないのだろう。
 奏はポケットをまさぐった。
 取り出したのはネックレス。ネックレスの先端には黒い四角形の木片のようなものがぶら下がっている。それを首にかけ、木片に張り付いていた紙切れをはがす。何気ない行動だった。特に嫌な予感を抱いたり、確信があったりしたわけではない。
 再度、ファールグランドを見た。
「まさか……!」
 ファールグランドには、二,五メートルほどの高さのある奇妙な物体が見えた。
「ベニスイショウダケだ」
 卵のような形状で、全身が光沢のある赤色に覆われている。水晶のように硬質で、卵の乗る場所に無数の触手がある。触手が奇妙に動いて、移動するのだ。
 移動できる巨大な赤い卵。そう形容するのが一番正しい。
 攻撃性は中の上。手を出さなければ攻撃してくるようなことは無いが、攻撃すると卵の頭頂部から毒ガスを撒き散らす。半径三十メートルに居る人間が毒に犯され、最悪の場合、死に至る。世間的には多くの場合、集団食中毒事件や近隣で起こった化学物質を運んでいたトラックの事故による有害物質漏洩事件といったもので片付けられることが多いが、そのいくつかはベニスイショウダケの仕業である。
「どこから来たんだ。ベニスイショウダケはB級の人外だろ……」
 青空公園にC級以上の人外は出現しない――はずである。
 どうする?
 ファールボールがさきほど当たったが、ベニスイショウダケに変化は見られない。さらに強い打球がベニスイショウダケに当たったら、攻撃されたと思って毒ガスを撒き散らすかもしれない。
 奏は携帯電話を取り出した。
 家に電話をかけながら、場所を移動する。グリーンネットを越えて試合会場に入り込むと、優奈がヒットを打って一塁ベースを回るところだった。
 携帯電話に琴が出る。
「姉ちゃん、大変だ。人外が出た」
 伝えると、まず琴に落ち着けと怒鳴られた。
「ベニスイショウダケが青空公園の野球場に現れた。野球場でいま、試合をしてて……あっ!」
 ベニスイショウダケが移動を始めた。三塁側のファールグランドから、徐々にホームベースへ近づいていく。
 試合を止めるか? 止めるにしたってどんな理由で?
 優奈は二塁打を放って、二塁で帽子をかぶりなおしている。客席の応援もクライマックスに熱が篭り、味方のベンチからも選手が声を張り上げている。
 誰もベニスイショウダケに気づくわけが無い。奏だって、こうして人外を見ることの出来る御札を使用しなければ、可視出来ないのである。
 ベニスイショウダケはゆっくり前進しながら、三塁ベースとホームベースの中間地点に居座った。
 やばい。
 奏は携帯電話を閉じた。本部への連絡や応援要請などは琴がやってくれるはずだ。唯一、人外に気づいている奏が、この場をどうにかしないと。
 万が一、強い打球がベニスイショウダケに当たれば、間違えば死に至る毒ガスが撒き散らされる。
 近くには優奈が居る。
 優奈。
 よりによって、優奈が。
 奏は三塁側のファールグランドまでやってきた。
 試合は進行している。二塁まで進んだ優奈をホームに帰して同点。バッターボックスでは、四番の選手が鼻息荒くバットを構えている。
「優奈!」
 奏は叫んでいた。
 優奈が奏に気づいた。
 優奈は軽く手を上げて、奏の声援に答える。
「そうじゃない!」
 なんて説明すればいいのか。
 あたふたと地団駄を踏んでいるとき、甲高い音が鳴り響いたと思うと、四番バッターが強打した打球が、三塁線に飛んだ。低い弾道。ファールかフェアか微妙なライン。
 だが、その打球の先にはベニスイショウダケ。
「くそ!」
 奏はベニスイショウダケの正面に身を乗り出すと、迫り来る打球を身を挺して防いだ。
 奏のわき腹に当たった打球はファールグランドの方角へ逸れ、点々と味方のベンチに転がっていった。
 熱く沸きだっていた試合会場が、突然の奏の登場に、水を打ったかのように静まり返った。
 大の字を描くように仁王立ちし、最終回、同点のチャンス、三塁線にとんだ微妙な打球を身体で受け止めた奏に、無数の視線が集中する。
 女とは思えない、屈強な四番バッターが鬼のような表情で奏を見ている。味方のベンチからは呆然とする表情が見える。
 そして、二塁から駆け出していた優奈は、口をあんぐり開けて、奏の奇行に愕然としていた。
 一拍の静寂の後、わが母校のソフトボール部監督(もちろん、よく知っている顔)がベンチから飛び出してきた。
「どういうつもりだ、お前!」
 奏を突き刺すように指を差しながら詰め寄ってくる監督。選手もベンチから飛び出してきて、会場からも野次が飛んだ。
 嫌な汗を全身に掻いた。
 本当の事情は説明できない。
 だが、図ったように味方のヒット性の打球を妨害したことは、何とか釈明しなければ殺される。
 客席から野次だけではなく、飲料のカップや、ゴミが飛んでくる。ベニスイショウダケに当たっては敵わんと、標的である奏はファールグランドのほうへ移動する。
「お前、どういうつもりだよ!」
「同じ学校の奴だ! なんで邪魔したんだ!」
 選手、監督、審判に取り囲まれ、罵声を浴びる。これが女子ソフトボールではなく、男子野球部などなら袋叩きにあってたかもしれない。
「いや、たまたま飛び出したら球に当たっちゃって……」
 苦しい言い訳は通用しない。
 監督に胸倉をつかまれ、ベンチまで引きずられていく。
「お前、今日がどんな試合で、今がどんな場面なのか、分かってるのか」
 ベンチに乱暴に放り出された奏は、腕組をする監督と女子キャプテンに詰め寄られた。
「明らかに故意の妨害行為だ。お前、誰かに恨みでもあるのか?」
 奏の捨て身の防御で、ベニスイショウダケに強打が当たらずに済み、さらには試合進行も止まっている。
 あとは本部からの応援を待つのみ。
 ところが、主審が今の打球をファールと判定し、試合再開の合図を出した。
 試合が再開される。
 その間、監督と女子キャプテンの重圧に金縛りに遭っている奏にはどうすることも出来ない。
 どうする。
 試合が再開されて、また打球がベニスイショウダケに飛んだら……。
 そこまで考えて、別のことに気づく。
 いま、ベニスイショウダケは三塁ベースとホームベースの中間地点に居座っている。
 このまま試合が再開し、四番バッターがヒットを打とうものなら、現在二塁に居る優奈が必然的にベニスイショウダケに突っ込んでいくことに……。
 奏は試合の行方を見ようと、慌てて腰を起こそうとするが、女子キャプテンに肩を小突かれて、再びベンチに尻餅をつく。
「わざとじゃないんだって。邪魔するつもりは無かったんだ」
 奏が必死に釈明しても取り合ってもらえない。
 試合は?
「話をしている俺の顔を見ろ。お前はうちの学校の生徒だな? 学年と名前を言え」
 監督がそう言ったとき、金属バットに投球が当たる甲高い音が鳴り響いた。
 奏の位置からバッターボックスは見えなかったが、二塁に立つ優奈は見えた。優奈は打球のラインを追っていくと、すぐさま三塁ベースに向かってダッシュを始めた。
 大きいヒットなのか。優奈の走りに躊躇は無い。
「くそ!」
 奏は立ち上がると、駆け出した。逃がすものかと前方に女子キャプテンが両腕を広げて立ちはだかった。
 ごめん!
 奏は心で謝りながら女子キャプテンを突き飛ばした。女子キャプテンは悲鳴を上げてファールグランドに転がった。
 一部始終を見ていた監督と選手たちが殺気立つ。一瞬遅れて事態に気づいた観客たちがどよめく。
 だが、迷ってはいられない。
 三塁ベースを回った優奈が見えた。
 そのまま全力疾走する先にはベニスイショウダケ。
 ベニスイショウダケが毒ガスを撒き散らすだけならまだいい。深刻だが、命は助かる可能性が高い。
 だけど、水晶のように硬質な物体に、全力疾走で衝突したら優奈は――。
 奏はファールグランド側からダイビングして、全力疾走する優奈に手を伸ばした。
 優奈は気づいていない。
 周囲から悲鳴。
 奏の腕が優奈の胴に巻きついた。
 優奈は何が起きたのか分かっていない。
 奏にタックルを食らった優奈は、奏もろともグランドに転がった。
 優奈に抱きついた形で地面を三回転し、ようやく止まって奏は顔を起こした。
 驚愕の表情の優奈と目があった。
「か、奏さん、なんで……!」
「ご、ごめん、優奈」
 謝ることしかできない。
 出し抜けに背後が騒然となった。
 見ると、ベンチから選手、監督が飛び出してくるのが分かった。
 だが、ベンチから奏のいる位置の直線状にあるのはベニスイショウダケ。
 駄目だ、もう。
 一瞬後にベニシュイショウダケに誰かが衝突し、毒ガスを撒き散らし、毒に苦しむ自分たちの姿が目に浮かんだ。
「止まれ! ボケどもが!」
 観念した一瞬後、とんでもない音量で怒鳴り声がした。
 目を瞑っていた奏が顔を起こす。
 そのときだった。
 奏の下敷きになっていた優奈が、思い切り奏の横っ面を平手打ちしたのだ。
 ばしぃぃん
 と派手な音がして、奏は仰向けに倒れこむ。
 仰向けに倒れた視線の先に、下唇をかみ締めて、目に涙をためる優奈が立っていた。
 ああ、そりゃ怒るよな。
 叩かれたほほを押さえながら、奏は胸を痛めた。
 地区予選の決勝。あのままだったら同点に追いついた。
「お前ら! 一歩たりともそこを動くな! 私の話を聞け! 公園の入り口で化学車両が事故を起こした。有毒ガスが撒き散らされた恐れがある! この場所にガスが流れてくる心配はほぼ無いが、念のため避難を命令する! 私の指示通りだぞ! いいか、死にたくなかったら落ち着いて、私の言うことに逆らうな!」
 拡声器で大音響に増幅された声は、聞きなれた声。
 呆然と音のほうを見ると、パトカーの上に仁王立ちして拡声器を掴む伊集院照子だった。
 伊集院照子の言葉を理解した人間が何人いただろうか。少なくとも、その場に居た全員は伊集院照子の迫力に気おされ、命令が無ければ一歩も動けない金縛り状態にさせたられたことは間違いない。
 全員が、伊集院照子の指示通りに避難を始めた。巧みにベニスイショウダケに接触しないルートを取らせながら。優奈も避難を終えると、伊集院照子がベニスイショウダケの近くに座り込む奏の傍までやってきた。
「馬鹿弟子が。もう少し利口に立ち回れないのか」
 伊集院の顔を見て、心底安堵した。
 奏の気の抜けた顔を見た伊集院照子は説教を止めて、ふうとため息を漏らす。
「私がたまたまお前の家に居たからいいものの……」
「家に? 珍しい」
「まあな。一番弟子の合格通知くらい、師匠自ら教えてやろうと思ってな」
「合格通知?」
「そうだ、馬鹿弟子。お前はようやく半人前になれたのだ。今日から正式に術師だ。正式に私の助手として、お前をこき使えるようになったということだ」
 奏は妙に可笑しくなって笑い出す。すると伊集院照子が訝しげに「なにが可笑しい」と奏の太ももを蹴り付ける。
「いや、無様だったなと思って。ベニスイショウダケが居ると分かってから、飛んできたボールを身体を張って止めたり、優奈にタックルしたり……。俺はこんなんで術師なんて言えるんでしょうか」
「ふん、半人前が術師などと言えるわけが無いだろう。半人前のお前は私のお膝元でしばらくぬくぬく暮らすが良い。お前の失敗は私の失敗。だけど、私は絶対にお前に失敗させない。心配するな。私がついてる」
 奏は伊集院照子を見上げた。
 あいかわらず破天荒だが、なんて信頼感のある人なんだろう。
 この人に任せておけば、全てどうにかなる気がしてくる。
「あとな」
 伊集院照子がベニスイショウダケの隣に立ち、赤く光沢のある表面をペチペチと叩いた。
「こいつはベニスイショウダケじゃない」
「は?」
 ベニスイショウダケじゃない? なんだって?
「こいつはトリノスだ」
「トリノス?」
「C等級の人外で、水棲生物。正式名称をトリノス貝。赤い卵の部分は貝の殻。こいつはただ、水辺に向かって歩いてただけさ」
 それは、つまり……。
「取り越し苦労と言うか、早とちりと言おうか」
 なんだってー!
 奏は脱力して、その場で仰向けに転がった。
「毒ガスは吐かないかあ」
「毒ガスは吐かないが、これだけ硬いものに全力疾走で衝突したら、軽症じゃ済まされんな。いずれにしろ、優奈は救えたな」
 奏は弾かれたように上半身を起こす。
「優奈を知ってるんですか?」
「ああ、琴から聞いた。お前の初恋の相手だろう」
 伊集院照子は別に茶化す様子もなく、ただ淡々と聞いた話を述べただけ。
 だけど、奏は耳まで赤くなった。
「まあ、トリノス貝も珍しい種だからな。このまま見張って、本部の連中が来たら引き渡そう。そもそも公園の出入り口で交通事故を起こしていた車を見たはずだ。こいつに衝突したと連想することができれば、こいつがベニスイショウダケではないことは明白で――」
 伊集院照子の声は、あまり聞こえていなかった。


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