あっちから変なの出てきた

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第六章 【 鎖に巻かれた生命体 】


 ごごごごっ!

 進むにつれて大きくなる轟音。何の音なのか。想像をめぐらすうち、ひとつの回答に思い当たる。
 聞こえてくる音は、人の声である。不特定多数の人々の歓声なのだ。この通路の先に、千人、いや万を超える人間が思い思いに声を上げている。
 さまざまな想像をめぐらし、この先の出来事に備えようとするが、地鳴りのような轟音がいたずらに恐怖心をあおり、なにも考えられない。
 いい考えなど何一つ浮かばないまま、突然に視界が開けた。暗闇の中で顔にライトを向けたれたかのように目が眩む。
 通路から出た場所は昼間のように明るかった。地鳴りのように聞こえてきた轟音は、衝撃波のように奏たちを痺れさせた。
 視界が白一面。なにも見えない。囃し立てるような人々の歓声や怒声。奏は悲鳴を上げていたかもしれないが、自分の声さえまったく聞こえない。
 視界が回復してくる。
 目の前にひしめく奴隷たちの背中。
 その向こう側に巨大な光の球体が空に浮かんでいる。それが昼間のように明るくさせている正体。その球体そのものが何なのかはまったく分からないまま、回復しつつある視界で周囲の状況を確認した。
 ――闘技場。
 奏の脳裏に走り抜けていく単語。
 過去に誰かが言った。奴隷で出世するための近道は闘技場で活躍することだと。しかし――。
 志願したわけでも、選ばれたわけでもない。ここにいる十数名の奴隷たちは、ただ研究所行きという「死を決定された」施設への強制連行された人間たちである。
 入り口に立つ奏から見渡す限り、野球場ほどの広さがある円形のフィールドに、やはり野球場ほどの観客席が囲んでいる。観客席を埋め尽くす人の群れは、最初、隔たる壁のように見えた。目の前に立ちはだかる壁のように見えたそれは、よく観れば傾斜のある観客席に立ち並ぶ人々の姿。
 顔を振り乱して周囲を見渡すが、360度を無数の人間たちに囲まれ、そして観られ、罵声を投げつけられている。
 背後で扉が閉まる重々しい音がした。
 ぞっとして振り返ると、今やってきた通路は二枚の鉄板が閉ざしていた。数人が悲鳴を上げて鉄の扉を叩いて何かをわめいていたが、間近の距離でもお互いの声は聞こえない。
 五万人か、それ以上。
 観客席にいるのは、みな三ツ目族であろうか。腕を振り乱し、飛び上がり、興奮してぎらついた十万の瞳が、十数人の奴隷たちに向けられている。
 奴隷たちの顔。こんな表情をする人間を、奏は見たことがない。そう思ったのもつかの間、奏は気づいてしまう。
 あるのだ。一度だけ。見たことが。
 隔世にやってきてから初めて出会った人が、最後の最後、気が触れてしまう直前に見せた顔。
 その人は恐怖に蝕されて、最後には最愛であるはずだった子供たちを打ち捨てて、投げ捨てて、気が狂ってしまった。
 心に深く傷と作った思い起こしたくない記憶が、奏の精神を再び痛めつけた。
 
 
 
 地鳴りのようにとどろいていた声が、突然、間近で起こった雷鳴のように爆発した。十数人の奴隷たちは一様に凍りつき、スタジアムを振り返った。
 何かが起こる。
 確実に何かの予兆である爆発的な大歓声は、十数人にとっては体の内部から破壊されていくような絶望を孕んでいる。地獄に迷子になった子供のように、ただ戸惑いながら首を振り乱して周囲をうかがい、泣き出しそうになりながら母親の名を呼ぶ。
 五万の観客が期待するものは、すぐ直後に登場したl。
 円形であるスタジアムは、奏たちが入ってきた入り口から対照に位置する場所に、もうひとつの入り口がある。
 そこから、何かが出てきたのである。
 新たに登場した「それ」に五万人の観客たちが歓喜の声を上げたのだ。
 ――まさか……。
 奏は声を上げたが、自分の声は聞こえず、ただ喉が震えただけに思えた。
 
 ずしぃぃぃん
 
 ずしぃぃぃん
 
 距離があっても、この大歓声の中であっても、「それ」の足音は、確実に奏の鼓膜まで届いてきた。
 地獄に音があるとすれば、奏は確実に地獄が迫ってくる音を聞いていた。
 
 ずしぃぃぃん
 
 ずしぃぃぃん
 
 ぎゃおおおおおおおおっ!
 
 巨大建設重機の稼動音のように、耳を劈く咆哮を上げたのは、全長が十メートルは越える巨人だった。
 見たことがある。
 それはこの世界ではない、現世と呼ばれる奏の故郷で。
 
 ぎいやあああああああっ!
 
 空を突き破らん限りに、斧を叩きつけるような奇声。巨人は巨大な拳を天高く振り上げると巨大な口を縦に大きく開く。大きく息を吸い込む音が聞こえてきたと思うと、次には再び咆哮を上げた。
 奏のそばにいた奴隷たちはいっせいに壁にへばりついた。逃げ出そうと壁をよじ登ろうとするが、よじ登るための取っ掛かりは一切無い。アリ地獄にはまっていくアリ同様、哀れに手足をばたつかせるだけである。
 
 ――一ツ目族……!
 岩のような肌。頭を上下で二分するかのような巨大な口。そして、一つだけ存在する巨大な目。
 奏は一ツ目族の全容を初めて目にした。過去に二度も一ツ目族に遭遇しているが、いずれも夜だった。明るく照らされる闘技場内に姿を現した一ツ目族は、その特徴を露にしている。
 頭部に毛は無く、代わりに瘤のようなものが無数にある。以前は気づかなかったが、人のような耳は無く、頭の側面に穴がぽっかり開いているだけである。
 体系は、小柄で筋肉質な体系の人間をそのまま巨大化したと考えると想像に易い。
 体にはなにも身にまとっておらず、全身を樹木のような深緑の体毛が覆っている。
 
 ずしぃぃぃん
 
 ずしぃぃぃん
 
 ぎいやおおおおおおおっ!
 
 同じだ。現世にやってきた一ツ目と同じ、理性を失っている。一つだけ存在する瞳は絶えず上下左右に揺れ動き、そのたびに粘着質な液体が周囲に飛び散る。
 大きく開いた口の中はブラックホールを思わせる暗闇で、人と同じような歯がきれいに並んでいるのが見える。
 咆哮をあげるたびに、頭蓋を上下に真っ二つに割るかのような口が大きく開き、それがなんとも言えず恐ろしい。
 ――なにより。
 絶望的だったのは、二体目の一ツ目が現れたときである。
 一体目の一ツ目の背後から、頭を抱えるようにしてもう一体の一ツ目が現れたのだ。
 一ツ目がこの闘技場に登場した理由は明らかである。見るからに理性を失っている一ツ目は、現世で出くわした一ツ目同様、ただ足元にうろちょろする人間を踏み潰さんとするだろう。
 一ツ目族をこの闘技場に送り込んだ側の人間たちは、当然、それを期待しているのである。
 奏はただただ愕然と立ち尽くしていた。
 二体の一ツ目族は、苦しげに頭を抱え、そして奇声を発しながらスタジアム内を闊歩している。
 五万人を超える観客の期待していることが手に取るように分かる。奴隷たちは二体の一ツ目族に追い掛け回され、踏み潰され、握りつぶされる残酷ショーを見にやってきているのである。奴隷たちが恐怖に震え、絶望に悲鳴を上げ、無様に小便を漏らせば漏らすほど観客は喜び、興奮し、歓喜する。
 俺は一体何を考えていたのか。
 奴隷たちを助け出す?
 202番の身代わりになる?
 ユーナを救い出す?
 この絶望的な現状は、そのすべての愚かさを物語っている。
 間違いなく、この場で虫けらのように踏み潰されるこの命。
 逃げ道も無く、立ち向かう力も無く、ただ蹂躙され、踏み躙られ、最初から存在していなかったかのように忘れられ、そして喪失する。
 自分が失われる。
 死ぬ。
 全身が震えた。
 もうだめだ。心の底からそう思った。
 
 
 
 観客席を見上げると、一人の観客と目が合った。
 子供だった。
 子供は目を向いて、こちらに向かって罵声を浴びせている。
 何を言っているのかはもちろん聞こえてこないが、間違いなくこう言っている。
 ――死ね。
 あるいは
 ――早く死ね。
 そればかりを繰り返している。取り憑かれたように、狂ったように。
 ほかの観客と目があった。
 若い男だった。
 その男は冷ややかに奏を見下ろしていた。
 こんなショーなど見飽きていて、辟易している様子。ショーが始まる前から興ざめしており、つまらないバラエティー番組をぼんやりと眺めるような目。
 その観客からすれば、その程度の出来事。フィールドに立つ奏がいくら絶望に打ちひしがれようとも、慟哭しようとも、四肢をもがれて激痛に悶えようとも、その若い男はやれやれと肩をすくめるだけ。
 女の観客と目が合った。若い女だった。女は楽しそうにそばにいた女と会話している。ときどきフィールドに視線を向けるが、これから起こる残酷ショーの顛末を予想しあっているのか、誰が最後に生き残るのかと賭けでもしているのか、会話する口が閉ざされる様子は無い。
 ふと気づく。
 気づいたところで、何の意味も無いこと。でも、気づいた。
 観客席の中に、中年、老人と思われる人間は一人もいなかった。
 
 
 
 奴隷たちは泣き叫び、壁をよじ登ろうと足掻くが、取っ掛かりの無い壁をよじ登れるわけも無く、指先が裂けて壁に赤い線を幾重にも描くだけ。
 一人の奴隷は頭を抱えてうずくまり、一人の奴隷は気がふれてしまったのか、呆けてよだれをたらしている。
 一人の奴隷は観客席に怒鳴り散らし、一人の奴隷は大口を開けて泣き叫んでいた。
 奏の全身は、すでに神経の通わないゴムの固まりになってしまったかのようで、指先一つ動かせなかった。
 気持ちが悪い。
 胃の中のものを吐き出そうと腹筋が痙攣するが胃の中にはなにも入っていない。いっそのこと、腹に詰まっている内臓を吐き出せたら楽になるのに。
 気を失いそうだ。絶望に耐え切れなくなった奏の精神が肉体を飛び出してしまいそうだ。
 
 ずしぃぃぃん……
 
 フィールドを歩き回っていた一ツ目族の足跡が止んだ。
 不吉を伴う風が、奏の前髪を揺らす。
 奏はゆっくりと、悲壮な思いでフィールドを振り返った。
 一ツ目族の二体が、こちらに顔を向けている。
 見つかってしまったのである。
 顔の中央に一つだけ存在する円らな瞳が、確実に奴隷たちを捉えている。
 フィールドの片隅で足掻いていた奴隷たちが、いよいよ一ツ目族の瞳に捕捉され、確実な死を宣告されたように絶望的な黒い空気が周囲を覆った。
 にげろ。
 奏の中のサイレンが鳴り響き、警告を発した。
 だが、指先一つ動かない状態は先ほどと変わらない。
 石像のように動きを止めて、じっとこちらを見ている一ツ目族。
 距離にして五十メートルほどか。
 に・げ・ろ
 再び、奏の中の誰かが警告を発する。
 全身は痺れている。
 気持ちが悪い。
 動かない筋肉に反して、すべての内臓が腹の中で暴れまわっている。
 ここから出せと腹や胸を叩く内臓たち。
 体がはじけ飛んでしまいそうだ。奏を信じなくなった体中の組織が四散して破裂しそうだ。
 に・げ・ろ!
 奏の精神が発した、最後の警告だった。
 次の瞬間、恐ろしいことが起こった。
 石像のように動かなかった二体の一ツ目族の体が微妙にかしいだと思うと、どしん、どしん、どしんどしん、どしどしどしどし、どどどど、と走り出したのである。当然、こちらにめがけて。
 見る見る加速して巨大化していく二体の一ツ目族。
 奏の背後で悲鳴を上げて逃げ出す奴隷たち。
 奏も悲鳴を上げていた。
 悲鳴が体の呪縛を解いたのか、気づくと一目散に駆け出していた。背後は壁。横に逃げるしかなく、闘技場の壁沿いに必死に走った。目の前には三人の奴隷たちが走る背中が見えた。その背中は見る見る遠ざかる。栄養も足りてないような骨と皮だけの奴隷であっても、奏よりはるかに足が速い。
 ところが、明暗を分けたのはその足の速さだった。
 奏の視界いっぱいに巨大な肉体が広がった。前を走っていた三人の奴隷たちに、一ツ目族が頭から突っ込んだのである。
 そのまま一ツ目族の巨体が闘技場の壁に激突するが、巨大な地響きと轟音を立てただけで、壁はヒビすら入らなかった。
 愕然と立ちすくむ奏の目の前で、一ツ目族が巨大な手を地面につけて立ち上がろうとしている。
 緩慢ともいえる動きで立ち上がった一ツ目族の体の下からは、無残に押しつぶされた三体の奴隷の亡骸が。
 一ツ目族の肩口の辺りに、奴隷たちの血や肉がこびりついているのが見えた。
 
 ぎゃおおおおおおおおっ!
 
 天を食らうかのように上空を仰いで雄たけびを上げる一ツ目族。
 人知を超えた神がかりな巨体を見上げる奏。
 もう、恐怖など通り越している。
 どうしたら死の瞬間を味わうことなく、死に行くことが出来るか。そればかりが頭をめぐる。
 追い立てられる恐怖と絶望を感じ続けるくらいなら、いっそのこと死んでしまったほうが楽なのだ。その絶望的な瞬間を目撃しないように目を瞑り、蹲り、やがて知らずに死んでしまうことが、この瞬間でなによりもの幸福に思えた。
 一気に踏み潰されてしまうのを期待し、哀願するように一ツ目族の巨体を見上げる。光の球体の逆光で、黒くシルエットに見える巨体は、夕暮れの空に立ち込める巨大な暗雲を思わせた。
 悲鳴が聞こえた気がして、背後を振り返る。
 離れた別の場所で、もう一体の一ツ目族が地表すれすれを手で凪いだ。熊が激流で鮭を捕獲するかのように、巨大な掌を横凪する動作だけで、奴隷の二人が宙を舞った。ブーメランのように回転しながら三十メートルは吹き飛ばされた二人の奴隷は、空中で肢体を四散させながら地面に落下した。
 生きている望みは無い。
 それを観た観客が、爆撃されたかのような大歓声を上げる。
 今のショーは観客に受けたらしい。人がぼろきれのように吹き飛ばされ、空中で血と肉を撒き散らす様は、観客たちの快楽を刺激したらしく、それまでよりいっそう、歓喜の声が空間を痺れさせる。
 生きている奴隷はあと何人いるのだろうか。
 自分はまだ生きている。
 だけど、それはほんの少しの猶予。
 もう見たくない。
 もう、こんなこと終わらせてくれ。
 一刻も早く死に誘ってもらおうことを期待するように一ツ目族を振り返る。
 近くにいたはずの一ツ目族はすでにその場にはおらず、十数メートル離れた場所の空中にいた。
 奏が目撃したのは、一ツ目族が跳躍した直後だった。その刹那に垣間見たのは、巨体を飛び上がらせた一ツ目族の巨躯と、その下の地面に尻餅をつく一人の奴隷の姿。
 奴隷は呆然と頭上から落下してこようとする一ツ目族を見上げている。一瞬後の死、一瞬後の喪失。その奴隷はその瞬間に何を思ったのか。何を願ったのか。恐怖を感じたのか、絶望を感じたのか、希望を感じたのか、解放を感じたのか。
 
 ずががん!
 
 その瞬間を目撃することは出来なかった。
 顔を背け、強く目を瞑る奏。
 一ツ目族が着地した衝撃で地面が大きく揺れた。奏は立っていられずひざを突く。そのままうずくまり、頭を抱えて泣き出した。流れる涙は、自分の意思ではもはや制御できない。なんの癒しももたらさないあふれる涙は、ただただ苦しいだけである。
 なんなんだ、これは。
 なんなんだ。
 なぜ俺は隔世なんかに来てしまったのか。
 あのままユーナに出会わないまま、あるいは青空公園で結界に閉じ込められたユーナを助けたりせず、そのまま抹消していたら、俺はこんなところでうずくまって泣いてなどいなかった。
 ユーナに出会わなければ。
 ユーナを抹消していれば。
 もっと冷酷な心があったら。
 もっと狡猾な頭脳があったら。
 もっと。
 もっと、力があったら。
 こんな思いなどしなくてすむ、強力な力があったら。
 なんでも思い通りに出来る力があったら。
「どうして俺はこんなに弱いんだ……」
 
 ちりる
 
 奏は顔を上げた。涙と鼻水と泥で汚れた顔を上げる。一ツ目族二体は、奴隷を追い回している。奏からはだいぶ離れた距離。
 観客たちの歓声はよりいっそう増して、空間さえ砕きそうなほどに膨れ上がっている。
 ――いま……。
 
 るいさ
 
 奏は背後を振り返った。
 そこにはスタジアムの側壁があった。
 もちろん、誰もいない。
 奴隷の姿も、一ツ目の姿も。
 
 ちりる
 
 すぐ耳元でささやかれるような声。
 聞いたことのある、記憶に新しい声。
 
 るいさ
 
 間違いない。聞こえる。
 天が落ちてきそうな大轟音の中でもはっきりと。
 風が吹いた。
 奏の着ている服を波立たせ、前髪を巻き上げる風。
 それは足元から吹いてくる。
 
 ちりる
 
 何かがみなぎってくる気がした。
 それはおそらく「ちから」というものであるようで、奏は煽り立てられるように立ち上がる。
 観客席を見上げる。
 奏に向かって罵声を浴びせている観客たちの無数の顔が見えた。
「お前らが……」
 沸き起こったのは力だけではなく、抑えきれない憎悪が活火山のように火口付近を真っ赤に染めた。
「お前らが、こんなくだらない茶番を……」
 奏が一人、一ツ目族の難を逃れていることが、観客たちにとって大層不満らしく、早く死ねと口々に怒鳴り散らしている。
「許せない。こいつら、全員」
 
 るいさ
 
 下方から吹き上げる風が強くなる。
「高いところから見下しやがって……! 俺たちの命を何だと思ってる。虫けら同然だとでも言うのか」
 
 ちりる、るいさ
 
 ずしぃぃん、ずしぃぃん
 
 奏以外の虫けらを全て潰し終えた一ツ目族が、最後に残った虫けらを発見した。つま先を奏に向け、にじり寄ってくるのにも気づかず、奏は観客席をにらみつけた。
「お前らに……全員、同じ思いをさせてやる。奴隷たちがどれほど恐怖して、悲しんだかを」
 
 ずしん、ずしん、ずしずしずし、どどどどっ
 
 二体の一ツ目族が加速する。奏めがけて迫ってくる。奏は迫り来る巨体に目を向けた。
 奏はその場を動かず、鳥が飛び立つかのように両手を広げた。風が砂を巻き上げ、風の形を露にする。奏を中心につむじ風が起こり、さらに大量の砂を巻き込んで奏の存在をぼやけさせる。
 風の渦の中、奏は静かに言葉を発した。
「ちりる・るいさ」
 
 
 
 地面から巨大な柱が突き出した。
 形容するなら、その表現がもっともふさわしい。
 地中から地表に突き刺さったかのように出現したそれは、実際には柱などではなく、例えるなら金属の塊。
 奏は動揺したりしない。出現は予想もしていなかったが、すでに奏の心は擦り切れ、揺らぎを失っている。奏の砦であった希薄な理性の幕は突き破られ、巨大な鉄の塊の出現にも驚いたりしない。驚いたのは、奏ではなく観客のほうだった。狂気の歓声は余韻だけを残し、無音とまではいかないが、スタジアム内が静まり返った。
 そして、太鼓を小刻みに打ち鳴らすようなどよめき。
 奏は機械仕掛けのように、目の前にそびえる「それ」を見上げた。
 銀色の鎖の塊の中、巨大な一つの瞳が奏を見下ろしていた。簀巻き状に巻かれた鎖の間隙から覗く瞳は燃え上がるように赤い。
 全長にして一ツ目族に引けをとらない大きさである。
 金属の塊に見えるそれは、人らしき輪郭を象っている。人が全身に鎖に巻かれればこのような形状になるだろう。
 頭部らしき場所から覗く赤い瞳が、銀の鎖に戒められた生命体の成れの果てだと物語る。何らかの生命体だとしても、外界に露出しているのは真紅の瞳だけ。指先、爪先に至るまで鎖に戒められ、「それ」は一歩たりともその場を移動できそうに無かった。
「ちりる・るいさ……」
 何の鷹揚も無く、感情も無い呟きが奏の口から垂れ流れる。
 マリオネットのように、見えない糸に釣られた奏の右腕が持ち上がり、弱弱しく一ツ目族を指差した。
 五十メートルほどの距離にいる二体の一ツ目族は、獲物を始末し終え、最後の獲物をその双眸に捉えている。
「一ツ目は理性を失ってる……」
 解放してやれ……。
 奏はひとりごちる。すると、奏を見下ろしていた巨大な真紅の瞳がぎょろりと一ツ目族の方角へ視界を転じる。転じると同時に、鎖の隙間は視線にあわせて「ずれ」る。
 体の向きを変えることなく、背後を振り返った鎖の塊は「ぶうん」と羽虫のような音を立てた。
 次の刹那、空を二分するかのような真っ赤な筋が走ったのが見えた。空に出現した赤い筋の先が、一ツ目族の背後にあった側壁にぶつかり、その部分から煙を発し始めた。煙の中から、赤く泥付いた液体が流れてくるのが見えた。光の筋の正体を考えるまでも無い。鎖の塊の生命体は瞳から光線を発したのである。
 スタジアムの側壁が溶岩のように赤くただれて解け落ちる。その高熱の光線が、地面と平行ににして横に移動を始める。
 側壁に赤い横線を、おおよそ二十メートルにわたって描く途中、そこには一ツ目族二体の胴体が存在した。
 一ツ目族は悲鳴を上げるまも無かった。自分の腹部に走る一筋の赤い線。それを確認するころには腰から上が徐々にずれ始め、上半身だけが地面に落下した。
 残された下半身は少し遅れて地面に倒れる。
 そのころにはすでに一ツ目族の二体は絶命していた。
 
 
 
 悲鳴が上がったのと同時に、奏が入ってきた入り口と、一ツ目族が入ってきた入り口からスタジアム内に無数の人間が入ってきたのが分かった。
 それをただただ目で追う奏。
 漠然と人数を数える。
 数え終わる前に、奏の足元に衝撃波が衝突し、砂煙を上げた。別の衝撃波が奏の肩口をかすって、背後の側壁に衝突した。
 青いモザイクに見えるいくつもの衝撃波が奏の頭上、足元、耳の横を通り過ぎ、背後の壁に激突する。青い衝撃波のうち、一つでも直撃すれば奏に命は無い。頭の片隅のどこかでそう理解しているが、恐怖心はまるで無く、そして衝撃波が奏に当たることは無いと思われた。
 衝撃波が当たらないなど、何の根拠も無かったが、事実、奏の想像は正しく、衝撃波は奏の目の前まで迫ると進路を変え、背後に消えていくのである。
 ぶうん、と音がする。
 鎖の塊の生命体が、奏に迫る衝撃波をいなしているのだと分かった。
 青い衝撃波を発しているのは、スタジアム内に入り込んできた人間たちであると気づく。見渡す限り五十人近い制服姿の男たちが、絶えず奏に向かって衝撃波を発している。
 第三の目は確認できないが、三ツ目族であることは間違いない。
「この程度なのか……」
 衝撃波の雨を、潮風くらいにしか感じない奏は、落胆の声を上げる。
「三ツ目族の力は、この青い衝撃波だけなのか……。弱い……。こんなに弱いのに、なぜ奴隷たちは大人しく言うことを聞いているのか……」
 観客席からフィールド内に落下してくる三ツ目族の姿が見えた。一人や二人ではない。ばらばらと三ツ目族が落ちてくる。我先にと逃げ惑う人々に突き飛ばされ、押し出されてフィールド内に落下してくるのである。
「ちりる・るいさ……もう行こう」
 奏がそう言うと、再び「ぶうん」と音を立てた。
 十メートルを超える巨体だった鎖の塊の生命体は、見る見る大きさを縮めた。風船から空気を抜くようにしぼみ、奏と変わらないくらいの背丈まで縮んだ。
 大きさが小さくなっても、青い衝撃波が奏を掠めることすらない。奏が歩き出すと、鎖を引きずりながら「それ」も付いてくる。
「弱い……弱いよ、三ツ目族は……」
 そんなことを繰り返しつぶやきながら、奏は遠巻きに攻撃してくる三ツ目族を尻目に、入ってきた入り口からフィールドを後にした。
 鎖を引きずる音と、観客の悲鳴が水中のようにどもって聞こえてくる中、正面から新手が現れる。
 三人の制服を着た三ツ目族。奏の姿を発見すると、はたと足を止めた。
「止まれ! 止まらないと命の保障は無いぞ!」
 奏はその言葉が滑稽に感じ、笑ってしまいそうになった。
「貴様! 聞こえないのか! 眷族を収めろ!」
 それを聞いて、奏は堪えきれず噴出した。
 言うに事欠いて命の保障は無い? 眷族を収めろ? なんだそれは。三ツ目族なら、奴隷に対峙したら有無を言わさず青い衝撃波で殺すんじゃないのか。どうして警告する必要がある。
「怖いのか?」
 奏は一歩足を踏み出した。警戒して後ずさりする三人の三ツ目族。
「どうした三ツ目族。お前たちがさげずんで、虫けらのように殺してきた奴隷だぞ。どうして攻撃してこない」
 奏はためらわずに前進する。距離を保つように後ずさりする三ツ目族たち。なんだそれは。三ツ目族は聖なる神じゃなかったのか。聖神様などと呼ばれる高貴で高尚で偉大な種族じゃなかったのか。
 なんだその顔は。
 悔しいのか? 奴隷などに気圧されて悔しいのか?
 やがて三ツ目族を押しやるように出口を超えると、研究所の敷地内。公園を思わせる開けた空間には、走り回る三ツ目族たちの姿。おそらく、いつもは都市部で暮らす、こぎれいに着飾った三ツ目族たち。中には奏の姿を見つけて、悲鳴を上げて逃げ惑う三ツ目族もいる。
 悲鳴を上げて、恐怖におののき、逃げ惑う。
 まるで奏自身が絶望の訪れのように。
 なんなんだ。
 三ツ目族とは、ただの見掛け倒しなのか。
 制服姿の三ツ目族――おそらく宮殿の敷地内を警護する警備兵――の一人が、痺れを切らして攻撃して来た。奏に向けて手のひらを差し向け、衝撃波を発した。青いモザイクが高速で奏に迫ってきたが、奏の鼻先一メートルの場所で衝撃波は脆くも弾けて消えた。
「ちりる・るいさ……脅かしてやれ。ただし、当てるなよ」
 命ずると「ぶうん」という音。次には音も無く光線が放たれ、三ツ目族の足元の地面をえぐった。
 三人の三ツ目族が悲鳴を上げて退散すると、奏に敵意を向けてくる者はいなくなっていた。
「斬首の塔……」
 奏は呆然とつぶやく。頭の片隅にかろうじてくすぶっていた何らかの記憶に突き動かされ、今いる位置からも伺える、二つ並んだ塔をぼんやり見やる。
「あそこへ……」
 もはや、知性さえ消えかけていた。奏の体中に駆け巡るのは三ツ目族に対する憎悪と、不条理な世界に対する憤り。
 どうするべきか、奏に明確な考えは無い。
 自分は奴隷である。69番である。虐げられていた。殺されかけた。ただの道具のように打ち捨てられ、ただの雑魚のように目をそらされ、ただの虫けらのように踏み躙られかけた。
 その元凶は、全て三ツ目族である。全ての三ツ目族に報復すべく、同じ思いを味あわせるべく、奏は行動しなければならなかった。
 だが、ただ一つ、その行動に歯止めをかける「とっかかり」、あるいは「ひっかかり」があって、まずそれを解消しなければ、次の行動に移せなかった。
 まずは斬首の塔へ……。
 奏は亡者のように歩き出す。
 
 
 
 記憶は断片的だ。
 いつの間にか三ツ目族の姿は見えなくなった。時々、警備兵たちが立ちはだかったが「ちりる・るいさ」の光線で威嚇するとすぐにいなくなった。
 さまざまな建物を通り過ぎ、目の前に巨大な三棟の建造物が見えた。
 中央に見える宮殿を取り囲むように、石造りの三つの建造物。それは現世で言うところの城の様相だった。
 人気が無い。
 闘技場にもあった正体不明の光の球体が、夜の城を青黒く染めている。
 人気は無い。異常なまでに。
 この場所がどこなのか、奏には分からなかったし、もはや理解しようとする知性も無かった。
 ほかの建物同様、斬首の塔に向かう途中に存在しているだけ。
 通り過ぎようとしたとき、目の前に立ちはだかる警備兵があった。城と城の間から、宮殿に向かうアプローチ。
 見える限り十数名の警備兵が見えた。警備兵は最初、宮殿に向かうアプローチを進む奏と「ちりる・るいさ」を発見して、なんだろうと呆けていた。警備しているはずの三ツ目族たちは、奏の存在を危険人物と判断できなかったのであろ。
 あまりにも堂々と歩いていたためか、それとも宮殿が襲撃されるわけがないと長い平穏の中で平和ボケしていたのか。いずれにしても闘技場での騒動は、一切、宮殿の警備兵までは連絡が来ていなかったのは間違いない。
 物怖じする様子も無い奏の歩みが、警備兵の判断を鈍らせたのも確かで、一人の警備兵に呼び止められるまで、警備兵は奏のことを不審人物くらいにしか思っていなかった。
 警備兵の一人が、奏の肩に手を置こうとした。ちょうど、城と城の間を通る花畑にはさまれたアプローチだった。その先には立ち並ぶ城とは明らかに雰囲気の違う神殿に続く道。
 警備兵の手は、奏の肩に触れる前にはじかれた。ただはじかれたのではない。相撲取りのあたりを受けたかのように警備兵は優に十メートルは吹っ飛んだ。
 これも「ちりる・るいさ」の力。
 尋常ではない事態に気づき始める警備兵。すぐさま周囲にいた警備兵が集まってくる。
 二ツ目族と全身を鎖に巻かれた生命体を警備兵が取り囲む。
 ――何者だ!?
 ――近づくな! 一人やられてる!
 ――奴隷?
 ――他の警備兵は何をしてる!
 ――ここに奴隷の侵入を許すとは!
 にわかに騒がしくなったものの、それらの声は奏の耳には届かなかったし、奏の前進は止まらず、また、止められるものもいなかった。
 ――どうする!?
 ――どうすればいい!?
 ――誰か、指示してくれ!
 奏の体が徐々に宮殿に近づきつつある中、警備兵たちは一定の距離を保ったまま攻撃すらしてこない。
 ――まずいぞ、城には王室の方々が……!
 ――いま、闘技場の警備兵から連絡が……!
 ――多数の負傷者が出ているらしい!
 ――まさか、こいつが!?
 ――応援を呼ぶか!?
 ――いいから誰かあいつを止めろ! 宮殿に侵入を許すな!
 ようやく迫り来る危機に気づき始めた警備兵たちが、一斉に奏に向かって手のひらを向けた。
 そして、性懲りも無く青い衝撃はを放つのである。
 吹いてくるそよ風のごとく、気にも留めない奏。衝撃波は奏の半径一メートルほどの空中で弾けて消える。
 驚愕の表情を浮かべる三ツ目族たちの表情さえ目に留まらない。奏の視界に映るのは、ただ斬首の塔だけ。
 ――クロス様を呼べ!
 
 
 
 奏は「クロス」というキーワードに、少しだけ意識が吸い寄せられた。ひと時だけ斬首の塔を忘れ、クロスという名詞に思いをめぐらせる。
 思考はまとまらず、留めようとしても手に救った水のように零れてしまう。奏はただ「クロス」というのは強力な敵である。憎むべき三ツ目族であると結論付けた。
 三ツ目族の親玉。奴隷である二ツ目族たちに長きに渡って不遇と苦しみを与え続けてきた敵である。
「ちりる・るいさ……」
 言葉で伝えずとも、鎖で前進を巻かれた生命体は奏の意志を汲み取って「ぶうん」と音を立てた。
 しぼんだ風船に再び息を吹き込んだように、見る見るうちに巨大化する「ちりる・るいさ」。
 巨大化していく様子におののいた警備兵たちが思い思いに悲鳴をあげて逃げ惑った。
 破壊しろ。
 ほんの少し、奏がそう思っただけで「ちりる・るいさ」はまぶたを開くように鎖の隙間を開き、燃え上がるような真紅の瞳から光線を発射した。
 今までとは違う性質の光線だった。弾丸のように短い光線が発せられたかと思うと、空中を駆け抜ける過程で球状に変化した。光弾は一番近くにあった城の壁に激突し、壁に大穴を明けるとともに弾け飛んで轟音を立てた。
 大地震に等しい地響きとともに、建築素材が煙となって周囲に立ち込めた。煙に覆われた警備兵たちは視界を失い、悲鳴のような声で「何が起きた!?」「どこにいる!?」と叫んでいる。
 開けた空間に出た。城の庭らしき空間。噴水を中心としてさまざまな観葉植物が茂り、軍人らしき猛々しい男の石像が数体見えた。
「ちりる・るいさ」は巨大化するとその場を移動することが出来ないようで、奏が前進しても後を付いてこない。
 砂煙が晴れるころ「ちりる・るいさ」は再び球体を目から発した。振り返った奏に見えたのは、城の二階部分のテラスが破壊される光景。テラスには誰か居たように見えたが、居たとしても特に気にもならない。
 テラスへの攻撃から逃れた一人の男が飛び降りて、庭に近いアプローチ部分に着地したのが見えた。
 背中には身長ほどの長剣を背負い、まとう軽鎧は漆喰のように黒い。長い髪の毛も黒く、まるで影のような男だった。
 その男が奏を振り返った。
 男は瞳も黒かった。
「……お前か……」
 男のつぶやきは、つぶやきであるにもかかわらず確実に奏の鼓膜に届いてきた。その声がただの声でないことが分かる。「気」がこめられた声。だからこそ、意識を剥奪された奏にも聞こえてきたのである。
 奏はもっともな理屈も無く、そして確かな根拠も無く、その男がクロスであると理解した。
 クロス――奴隷を苦しめ続ける明確な敵。
 闘技場で踏み潰された奴隷同様、同じ目にあわせるべき相手。
 殺す。
「貴様……一人でここまで来たのか。この鎖野郎はお前の眷族か」
 その声は奏に届かない。
 クロスは背負った長剣の柄を掴みながら言った。
「城塞都市千年の歴史において、宮殿を襲った二ツ目族はお前が初めてだろう。敬意を表し、葬る前に名前を聞いてやる」
 名前。
 名前。
 名前。
 その二文字が奏の思考回路に何度かインプットされるが、脳みそはなんら回答をよこさない。
 かろうじて出てきたアウトプットは数字が二文字。
「な・ま・え・な・ど・な・い」
 奏は機械仕掛けのように言葉を発する。
「お・れ・は・ろ・く・じゅ・う・きゅ・う・ば・ん」


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