あっちから変なの出てきた

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第五章 【 ユベリア宮殿の研究所 】


 奴隷の中から三十人ほどが選ばれ、グロウリン城塞都市内にあるユベリア宮殿の研究所行きが決まった。研究所行きまでに奏に残された時間はたった一日。
 そして最後の仕事の日。その日の夕暮れには研究所に運ばれることが決まっている運命だ。はたして、研究所とは何なのか。行き着く先で待ち受ける運命は何なのか。
 いつもどおり終着点の酪農地帯が奏の職場に選ばれたことは幸運だった。酪農地帯の監督官である44番は終始嫌らしい笑みを奏に向けていたが、もうそんなことは気にもならなかった。
 他門が幽閉されている岩山の小屋までたどり着く。奏の気配に気づいたタモンが牢の中から「カナデか?」と声をかけてきた。
 心を許した人間の一人。
 タモン、君も202番のように俺を裏切るのかな。
「どうした、カナデじゃないのか?」
「……俺だよ、タモン」
「どうした、なぜ返事をしないんだ」
 君は牢の中。俺は牢の外。
 でも今は、とてもタモンがうらやましく思える。
「元気がないな。病気になったのか? なら今日は猟に出なくていい。ここで時間まで休んでいろ」
「……優しいね、タモンは」
「……カナデ?」
 奏は牢の扉の前に胡坐を掻く。
「優しい人はいままでも居たよ。プエラとか、202番とか。でも、最後には俺を裏切った。守りたいと思ったのに……。結局、俺を裏切った」
「カナデ……何かあったのか? 話してみろ。聞かせてくれ」
「聞いてどうするの? 牢の中からなにができるの?」
「話せば楽になることもあるだろ。俺はお前を裏切らないよ。裏切りようがない。こんな牢の中じゃ。安心して話せ」
 でも、信じられないんだよ。
 もう、人との交流はごめんだ。俺は一人で良かった。最初から一人を受け入れていれば、こんな思いをしなくて済んだんだ。
 ずっと孤独だったはず。孤独は俺を苦しめなかったはず。自然管理委員会のスクールでも孤独だった。劣等性だった俺は誰にも相手にされなかった。それで良かった。それが心地よいと感じていたはずだった。
 ユーナに出会ってから、人の温もりが愛おしくて堪らなくなった。触れていたい。関わっていたい。見つめ合っていたい。そんな思いが胸で膨らみ続け、いつしか人を求めるようになっていた。
 俺は子供だったのだろう。人とずっと接してこなかった分、人より人間関係に未熟であったのだ。もっと早く知っていれば。人と人は針のむしろのように抱き合えば傷つけあい、傷つけられるのを防ぐあまり、人を攻撃するものなのだと。
 心を冷ややかに、漣を立てないよう、はじめから何も期待しないよう……。
「絶望するな、カナデ」
 牢の中から聞こえてきた声に、奏は面を上げる。
「絶望するななど、俺に言えた義理じゃないが、俺も味わったことがある。生きていかれないほどの絶望を」
「生きていかれないほどの……? でも、君は生きてる……」
「生きているのではないんだ。俺はただ死ねないだけ。死ぬほどの絶望があったとしても、俺はそれを抱き続け生きなくてはならない。それが俺に科せられた運命なんだ」
 運命。
 今一番聞きたくない言葉を上げるとすれば、運命。
「君にはまだ、探し人が居るはずだろ。君が希望を抱く大切な人が世界に存在するんだろう。その人を救うために、君は奴隷にまで身を落としてやって来たんじゃないか」
 ユーナ。
 何度も何度も迷ってばかりでごめん。俺は絶望と希望の堂々巡りを繰り返しながら、徐々に心をそぎ落としてしまっていたようだ。
 もう心は残り少ない。
 心を失ったとき、俺に君と会う資格があるのか。偉そうに救うなどという資格があるのか。
「俺はすべてを失った。救うと約束した人を救えず、身勝手な正義感を振りかざして、それまでのすべてを無に帰してしまった」
 プエラ。そしてプエラの子供たち。帝国旅団。ウィンディア。白髪の老婆。ルウディ……。
 駆け巡る思考。そのどれも、奏の胸を切りつけては通り過ぎていく。
「居るはずだ。君にはまだ信じれる人間が」
 ユーナ。そしてナユタ。
 クユスリ。佐々倉。プティシラ。コソボ・カユウ。ラリルド。ラナ・カン。トレミ。
 父、兄、姉、弟。伊集院照子。
 切りつけられた傷口を、優しく撫で付けて癒していく記憶。
「いいか、カナデ。よく聞け。君はいま気づいた。『まだこの世も捨てたもんじゃない』って。まだ愛せる人間がいるって。そうだろ? 君が信頼する人は思い出したかい?」
 奏はゆっくり立ち上がる。
 ありがとう、タモン。思い出したよ。
「タモン、ごめん」
「謝ることはなにもない。俺はこの中から君の話を聞くくらいのことしかできないが、それでも俺は君を裏切ったりしない。信じろ」
 どこかで交わした覚えのある会話。
「ありがとう。でも違うんだ。謝ったのは別の理由。事情が変わったんだ。もう、ここへは来れなくなったんだ」
「来れなくなったのか? それはいい。これないのはいい。だが、なにがあったんだ」
「研究所行きが決まった。こう言って、君は理解できるかな」
「理解できるとも。何てことだ。それはいつのことだ?」
「今夜。だから、君に会うのもこれが最後。だから……」
「冗談じゃないぞ!」
 タモンは牢の内側から扉を叩いた。
「甘んじて受ける必要はない! 逃げるんだカナデ! 行けば間違いない死が待ってる。それなら命を賭けて逃げるんだ、カナデ!」
「そんなことはできない。俺が逃亡すれば、ほかの人間が代わりに連れて行かれるだけ。それに、逃亡の連帯責任を負わされた集団全体が処刑されてしまうかもしれない」
「そうだとしても……!」
 いいんだ、タモン。それより俺は……。
「タモン、聞いてくれ。俺はここに来るのが最後になる。君に問いかけるのもこれが最後。最後なんだ。だから聞いてくれ」
 タモンは返答しなかった。奏はそっと扉に触れる。
「……いろいろ考えた。君の眷族は空を飛ぶことができる。それから粘着質の糸を吐くことできる。だけどサイズは小型。君を乗せて飛ぶことはできない。これではどうにもならなかった」
「なにを……言っている?」
「だけど、よく知ってる。この小屋の素材は眷族を封印することに重きを置いてるから、素材は案外弱いんだ。だから力のある――」
「まて、カナデ。なんの話だ」
 奏は一度息を吸い込んで肺に空気を貯めた。
「だから……君をここから脱出させる方法を」
「脱出? なにを考えてるんだ」
「初めから考えてた。だけど、どうしても方法が思いつかなかった」
「余計なことは考えるな。今は自分の身を案じるんだ」
 奏はタモンの言葉を無視して続けた。
「少なくとも、初めてここに来た時点では打つ手がなかった。いくら道具を持ってきても、俺の力じゃこの扉を破るのは無理。だけど、今は最初に居なかった仲間が居るんだ。力の強い仲間が」
「カナデ! 俺の話を聞け!」
「タモンが俺の話を聞くんだ!」
 奏はしたたかに扉を殴りつけて怒鳴り返した。
「これはタモンに対する親切じゃない。契約をするんだ」
「契約?」
「タモンをここから出してあげる。だから、俺と約束してほしいんだ」
 もっと準備したかった。より確実な方法を実践したかった。だけど、仕方がない。また一か八かになってしまうが。
「時間がない。タモン、約束してくれ」
 返事はない。
 奏は何度も扉を殴りつけて「返事をしろ」と怒鳴る。
 やがて牢の中から声。
「いいだろう。約束しよう。だが、ここを出たら有無を言わさず一緒に逃げるぞ。君が断ろうと構わない。無理やり連れて行く」
「……約束は守るんだね」
 奏はそう言って、血がにじむ拳を扉から引き剥がす。
 奏は背後を振り返った。まずは森に向かうつもりだった。背後の扉を開け放つと、つり橋に続く森。
「ネロ……」
 ネロはつり橋のところで奏を待っていた。
 奏を見つけるなり、体を起こして何度か吼える。
「待ってたのか……」
 つり橋を渡ってネロの元へいく。ネロは歩く奏の腕に体を擦り付けてくる。
「ネロ、今日はお別れを言いに来たんだ。ごめんな、足高兎をとってやるのも今日が最後だ」
 言葉を理解はしていないだろう。だが、ほんの少しでいいから気持ちが伝われば。
「……ネロ、なぜだかお前が一番、心が通じてる気がする。人間と獣なのにな」
 奏は最後の獲物をとってやろうと最初のポイントにたどり着いたとき、ネロが突然、奏を追い越して先を歩き出した。
 すると、少し先で立ち止まったネロはこちらを振り返り、うおんうおんとうなり声を上げた。
「どうしたんだ、ネロ」
 近寄っていくと、奏は目を見開いて驚愕した。
 そこには三匹の足高兎が並べられている。
「これ……お前が狩ったのか?」
 ネロがうなずいたように見えたが、奏の気のせいだろう。
「……そうか。これがお前の別れの挨拶か? もう自分で狩ができるって言いたいんだな」
 するとネロは、三匹のうちの一匹を前足ではじいて、奏の足元に転がしてきた。
「一匹くれるのか?」
 ネロがうなずいたように見えたが、奏の気のせいだろう。
「餞別か。貰っておくよ。そういえば俺は足高兎を食ったことなかったな」
 奏は気づいて、そばに焚き火を起こした。火の起こし方はスクールで習った。知っている方法は三種くらいあるが、奏は棒を板切れに対し、横にこすり付ける方式を選んだ。
 焚き火で足高兎を焼いて食う。久々の上等のたんぱく質に、奏は暫時、幸せを味わった。
 食べ終わると火を消し、そばで横になっていたネロに近づいた。
「ネロ、ひょっとしたらここに居たほうが、お前にとって幸せかもしれない。だけど、お前は元住んでた場所から無理やり連れてこられたんだろ? また人間の都合になるけど、お前をここから出してやりたいんだ」
 ネロに反応はない。
「行こう、ネロ。協力してほしいんだ」
 言葉を理解したのかどうかは分からない。ネロはむくりと起き上がると、奏の後についてきた。
 
 もうすぐ日が暮れる。
 急がなくてはならない。
 つり橋のところまで戻ると、ネロを振り返る。
「お前の苦手なつり橋。怖いのは分かるけど、ここを越えないと帰れないぞ」
 ネロはらしくなく、弱弱しい声を上げる。
「ほら、大丈夫だからついておいて」
 奏は先につり橋を渡りきり、小屋側からネロを呼んだ。
「カナデか? 戻ってきたのか?」
「ちょっと待っててタモン」
 そう言って、ネロに向き直る。
 ネロは拒否するように何度も首を横に振っている。
「ほら、ここまで来て。つり橋は壊れないよ」
 ネロは奏の期待にこたえようと、何度か前足をつり橋に乗せるが、断念したように引っ込める。
 奏は必死に励ますと、何度かのトライの後、ようやく体重をつり橋に乗せた。ぎしり、と軋むつり橋。
 ネロは一歩、一歩つり橋を渡る。実際、つり橋がネロの体重を支えきれるかどうか分からなかった。そんな心配は表に出してはいけない。
「がんばれ、ネロ。もう少しだ」
 つり橋の中腹。
 ぶちぶち、とロープの細かい繊維が断裂する音が聞こえる。だが、あせったらいけない。少しずつだ、ネロ。
 徐々に近づいてくるネロ。
「あと少し。ゆっくりだ、ネロ。そうそう」
 三分の二まで来た。
 相変わらずロープの繊維が切れる音が聞こえる。
 どうか、ネロがここにたどり着くまで耐えてくれ。
「あと少し……」
 手を伸ばせば届く距離。
 奏の近くまで来たことで、ネロにも安堵が生まれたのか。ネロは一気につり橋を渡りきろうとした。
「待て! まだだネロ!」
 叫んだがもう遅い。ネロが踏み出そうと後ろ足に力を入れた瞬間、つり橋のロープが完全に断裂した。ネロの背後から地面に落下していくつり橋。
 ネロは手を伸ばし、奏の元へ跳躍した。
 ネロの巨体が視界いっぱいに広がる。
 気づけば奏は仰向けに倒れ、その上でネロが心配そうに見下ろしているのが見えた。
「やった……」
 つり橋を見ると、小屋側でつながれたつり橋が地面に垂れ下がっている。ぎりぎりだった。
「よくやった、ネロ」
 ネロは誇らしげに胸を張って見せた、様に見えたのは奏の気のせいだろう。
「なにが起こってる、カナデ」
「ネロを連れてきたんだ」
「ネロを? なんて無茶なことを……!」
 奏はネロの首筋をなでながら言った。
「タモン、扉の配給口を開けるから、そこから手を出せる?」
「配給口から? なにをするつもりだ」
 たぶん、本当のことを言ったら手を出さないかもしれない。
「握手をしたいんだ。タモンと」
「……いいだろう。だけど、これを最後の握手とするつもりはないからな」
「分かってるって」
 配給口を開くと、中からタモンが右手を出してきた。
 奏は小声でネロに「匂いを嗅いで」と伝えると、ネロは腰をかがめて配給口から出たタモンの手の匂いを嗅いだ。
「なっ、なんだ。なにをしてるんだ?」
 タモンは俺が匂いを嗅いでるとでも思っているのだろうか。
 辛抱たまらんと手を引っ込めるタモン。
「ネロ、今の匂いがタモンだ。俺たちの仲間だよ。分かった? 何かあったらタモンを助けるんだ」
 任せておけと、ネロが胸を叩いたように見えたのは、あながち気のせいではないだろうと思われた。
「さて、ネロ。この音を聞いて」
 奏は二度手を叩く。
「この音が聞こえたら、この扉を破るんだ。分かるか? この音だ」
 再び手を二度打ち鳴らす。
「それまでは動いちゃいけない。できるよな」
「カナデ、なにを話してる。なにをしようとしてるんだ」
 奏は扉に向き直る。
「タモン、俺の話を聞いて」
「もちろん聞く。だが、俺にも教えてくれ。なにをしようとしてるんだ」
「ここから逃げ出す方法だよ。だけど、牢から出ても城塞都市はでっかい城壁に囲まれてる。それを越えないとならない」
 奏は配給口から、二つの物体を部屋に押し込んだ。
「なんだこれは」
「これは御札って言う道具。扱いに気をつけて。その中にはとんでもない力が封じ込まれてるんだ。大きさを見てほしい。小さいほうが物体操作の力が入ってる。大きいほうには衝撃波が入ってる」
「この中に……? そんな道具など聞いたこともない」
「でも、俺を信じてほしい。御札の表面に紋様がついているはず。触ってみて」
「……確かに」
「紋様に尖った部分があると思う。そこの部分を歯でかじって、筋を入れる。尖った部分を伸ばすイメージ。すると、中の力が発動する条件がそろう。十秒以内に発動するから、衝撃波のほうを発動するときは五十メートルは離れてほしい。実際に試したことがないんだ。できる限り遠くに」
「ちょっとまて。どうしてこれを俺に預ける?」
「いいから聞いて。小さいほうの御札は、仕掛けた物体が一度浮かび上がる。次に徐々に効力が薄れていくにつれて、物体は徐々に下がってくる。これをネロに使ってほしい。ネロがこの岩山から降りるために使うんだよ」
「それは構わない。だが」
「いいから聞いて! 時間がないんだ。大きいほうの衝撃波の御札は、かなり強力だから気をつけて。それを使えば城壁を破壊できる。破壊した城壁から外に出て、逃げ出してほしい」
「いいか、もう黙ってられないぞ。これを使用するときはお前と一緒だ。そうでなければ使うつもりはない」
「それでも使ってほしい。俺は逃げるつもりはないんだ。俺がここに来た目的は話しただろ。俺は宮殿に行って、会わなくちゃいけない人間が居る。助けなくちゃいけない人が居る。君とは一緒に逃げれない」
「出直せばいいだろう! こんな強力な道具が作れるのなら、出直して準備したほうがいいに決まってる!」
「そうもいかないんだ。その御札は簡単には製造できない。特殊な能力者と、強力な力を持った人間が居ないと成立しない。たぶん、もう二度と作れないよ。だから、チャンスは今しかない。研究所に行って、俺は思いを果たす。できれば、君と直に会いたかったけどね。残念ながらこれでお別れだよ」
 タモンはまだ扉の前から訴え続けたが、本当にもう時間がない。
 奏は最後にネロを撫でながら言った。
「ネロともお別れだ。元気でな。短い間だったけど楽しかった」
 ネロはくるると喉を鳴らす。
 隔世に来てから、何人と出会い、別れていったのか。
 何度繰り返しても慣れることはない。
 奏が小屋を出て行こうとするとネロが後をついてくる。
「ネロ、お前はここで使命を果たすんだ」
 次に奏が小屋を出るときはもう付いてこなかった。
 これで後片付けは済んだ。後は自分の問題。
 天を仰いだ。これから先の自分の行く末を案じ、大きく息を吸い込んだ。
 そのとき、日の傾きかけた空に違和感を発見した。
「なんだ……あれは」
 遠くの茜色の空。
 赤らみ始めた西側の空に、奇妙な黒い黒点を見つけたのだ。目を凝らすと、天空に何かが浮かんでいる。それは徐々に移動をしているようで、徐々にこちらの方角に向かってきているようにも見える。
 あれは……。
 正体を判別できない。何か空を飛ぶ生物か。
 気をとられている暇はない。奏は縄梯子を降りる。
 降りてから岩山を振り返って見上げた。ネロはちゃんとできるだろうか。手を二回叩いたあと、扉を破壊する音が聞こえたらすぐに住処の洞穴に戻ろう。
 おそらく、ネロが扉を破壊するのに二十分から三十分程度だろうと予測した。今の時間なら仮にタモンが追いかけてきても、追いつかれる心配はない。
「頼むぞ、ネロ」
 呟いて踵を返した。そのまま走り出す――走り出せなかった。
 振り返った先に、立ちはだかるように立つ一人の男。
 その男は手に持った透明なガラス球を掲げて見せ、口の端を吊り上げていやらしく笑っている。
「44番……!」
 44番が掲げているのは、ヒニルになると支給される監視玉と呼ばれる道具。あれはおそらく、ファミリアの洞窟で出会ったコソボ・カユウが持っていたものと同類だと思われた。
「言ったよな。ここでは嘘や隠し事はできないって」
 44番は歯をむき出すように笑った。上半身に羽織っていた一枚を脱ぎ、その上にガラス玉を置く。次に準備運動をするように首を捻った。
 右手に捕まれた先太になった棍棒。
 治ったはずの右足がずきりと痛む。
「こりゃ、お仕置きしなきゃな」
「待ってください。俺はこれから研究所行きになるんです。どうせ死ぬんです。見逃してもらえませんか?」
「交渉するつもりか? この俺に? 馬鹿か、お前」
 44番は肩に棍棒を担ぎながら、おもむろに距離を縮めてくる。
 奏は後ずさりしたが、背後の岩山に阻まれた。
「今から死ぬ相手に、罰を与えるんですか?」
「いいや、お前は事故で死んだ。あの森でセセラギ熊に襲われてな。よくあることだ。誰も疑わないし、疑うやつがいても指摘するやつはいない。むしろ、幸運だろ? 研究所で死ぬより楽に死ねるぜ」
 事故で死ぬ?
 44番は俺を殺す気だ。
 殺す? 殺意? 俺はこれまで襲われたこともあるし、敵意を向けられたこともある。
 だけど、殺意を向けられたことはない。
 足が震えだした。あの棍棒に太ももを叩かれたときの記憶が鮮明に蘇る。あれを頭部に食らったら奏の頭は派手に弾け飛ぶ。
 歩調を緩めることなく、近寄ってくる44番。足元から始まった震えは、伝播するように下腹部、胸、脳天と突き抜ける。
 どうすれば……! 反撃する力はない。まともにやりあったって、非力な奏に勝ち目はない。
 今すぐこの縄梯子を上ってネロの元へ行けば……駄目だ。ネロにはすべきことがある。それに、ネロには手加減ができない。44番を殺してしまうかもしれない。
 ――44番の心配?
 俺は何を考えている。殺そうと近寄ってくる相手の命の心配? なんて俺は愚かなんだ。
 奏は縄梯子に手をかけた。
 ネロに助けてもらうしかない。
 しかし、手をかけたまま、奏は逡巡した。
 縄梯子から手を離し、迫りつつある44番を振り返った。
 どうして。
 どうして俺はこんなに弱いのだろう。いつも負けてばかり。いつもだまされてばかり。いつも人を頼ってばかり。
 佐々倉に頼ってばかり。この隔世にやってきて、佐々倉がいなかったら俺は孤独で頭がおかしくなってたかもしれない。
 現世との唯一のつながりが佐々倉だった。皮肉屋で時に冷酷な佐々倉は、あまり良い奴とは言いがたいけど、俺にとっては尊いものだった。
 だからこそファミリアの洞窟に挑んだし、佐々倉の狡猾さと冷静さと強さを、奏はいつも羨ましく思っていた。
 ウィンディアに投獄された奏を助けに戻ってきたクユスリ。優しく強く、頼もしいクユスリ。
 プティシラ、ラリルド、それぞれ強さを持っている。プティシラの奇抜な発想能力に特殊能力、ラリルドの桁外れな力の強さと、思いの強さ。
 あんなに小さいトレミは、底抜けな元気さ、前向きさを持っている。
 ラナ・カンの使命感。戻れない一方通行の異世界に、正義感だけでやってきたラナ・カン。
 いつも守ってくれたラナ・カン。
 細い腕、小さな体で一ツ目族から守ってくれたユーナ。
 俺には何の強さもない。通力もなければ、いつも逃げ回ってばかり。
 どうして。
 どうして俺は弱いんだろう。
「なんだ、その面は」
「……人を殺すことに、なんとも思わないのか?」
 44番は立ち止まった。
「くだらねえ。お前は足高兎を殺すとき、何か思ったのか?」
「思わないとでも? 心苦しかった。当たり前だろ。お前は心がないのか」
「お前だと? ソルごときが俺にお前呼ばわりだと?」
「コッシや三ツ目族からしたら、お前はカスなんだろ。それを他人に強いて、お前は満足なのか? 自分が虐げられてるのに、他人を虐げるのか?」
 44番はいつもの薄ら笑いを浮かべて肩をすくめた。
「本当にくだらねえな。お前は家畜に向かって『食べられるのは嫌じゃないのか』と尋ねるのか? お前は歩くのにも、足元の虫けらを避けて歩くのか?」
「お前は愛した人が虐げられているとき、何を思うんだ? お前が誰かを虐げるとき、お前の愛してる人も、誰かに虐げられてるかもしれない。虐げるのはお前と同じような考えの人間だったら?」
 44番の笑みが消える。
「負の連鎖なんだ。人を恨んだり憎んだり卑んだりすれば、お前に虐げられた人間は同じように人を恨んだり憎んだり卑んだりする。それはめぐりめぐってお前に返ってくるんだ。お前が発信した負はやがて身近な人に。お前の大切な人に。そうやってみんな不幸になる。みんな、悲しいばかりになる。変えようとしろよ。間違ってると思えよ。その連鎖をお前が断ち切れよ」
 ぎり、と歯軋りの音が聞こえてきた。44番は上目遣いに、酷い憎しみの視線を奏に突き刺してくる。
「……最初から気に入らなかったんだよ。お前のそのアホ面が。そうやって綺麗事を抜かして、悦に入ってるようなアホ面が」
「甘んじてるお前がアホ面だ!」
 奏は拳を作っていた。いつしか、追い詰められているはずだった奏は44番に立ち向かっていっていた。
 この怒りは44番に向けられたものではない。44番の向こう側にいる不条理や理不尽に向けられたものだ。
 44番に迫っていくと、44番が棍棒を構えたのが見えた。だが、予想外の奏の表情に戸惑っているのがわかった。――反撃はない。
 44番はいったん防御に回るはずだ。そう直感した。
 奏の腕力では、当たり所がよくても一撃で倒せるとは思えない。そもそも勝算も作戦もない特攻。何の意味もない反撃。いったい自分は何に突き動かされているのか。
 奏は振り上げた拳をまっすぐに44番へ突き出した。44番は明らかに拳を目で追っている。――かわされる――止まれない――!
 奏の振るった拳は空を切った。全体重をかけた拳に引っ張られ、奏は前のめりに転倒する。
 すぐに体を反転して背後を振り返った。
 そこには棍棒を振り上げた44番の姿があった。
 そして、44番のはるか頭上に巨大な暗影。
 なんだあれは。
 頭上に浮かぶ大きな楕円形。生半可な大きさではない。全長にして五十メートルはあるか。
 そんなことに視線を奪われている状態ではない。気づけば振り上げられていたはずの棍棒は奏の頭上数十センチまで迫っていた。
 左目の視界は迫り来る棍棒を捕らえ、右目の視界は野獣のような44番の表情を捉えていた。
 頭がはじけ飛ぶ。
 粉砕される瞬間は、おそらく記憶には残らない。記憶すべき脳が破壊されているのだ。
 奏の右手が動いた。
 おそらく、あの棍棒の一撃に対しては何の役にも立たない防御であるが、本能に突き動かされて、奏は右腕を盾にしようと振り上げた。
 翳した右の二の腕に棍棒が炸裂し、奏の右腕を粉砕するとともに頭をも砕く。
 痛みはない。
 きっとない。
 振り上げた右腕に巻きついたラナ・カンの毛が垣間見える。
 最後。
 ラナ・カン。
 ごめん。
 棍棒は奏の右腕に炸裂したとともに、黒い塵となって消えうせた。
 棍棒は44番が持つ柄の部分だけ残して消失し、奏は右腕も粉砕されず、頭部も無傷だった。
 右腕にも痛みはなく、残ったのは愕然と奏を見る44番。
 手元に残る握り部分だけ残された棍棒。いまや武器としては用を成さない棒切れを呆然と眺め、次に再び奏を見る。
 ラナ・カン――。
 奏はすぐさま立ち上がり、再び右手に拳を作る。
 そうか。
 一人じゃなかった。
 お前が一緒にいたのに、俺は身勝手に玉砕しようとするなんて。
 固めた右拳。
 44番は防御もしようとせず、愕然とするばかり。
 その顔面へ。
 奏の右拳がめり込んだ。
 
 44番に闘志は残っていなかった。
 あるいは棍棒が黒い塵と化した瞬間から、戦意は完全に喪失していたのだろう。奏の右拳の一撃などほとんどダメージを与えていないはずである。ところが44番は殴られた鼻を押さえながら、わなわなと震えていた。
「な、なんで眷族を……! 卑怯な……!」
 尻餅をついた44番を冷ややかに見下ろす奏。
 ラナ・カンに助けられた。それは間違いない。また助けられた。
 ラナ・カンの存在を感じれた嬉しさと、やはり自分は無力だと思い知らされた悔しさが混在し、心は大いに迷った。
 苦悩する奏の表情が怒りの表情に見えたのか、44番は両手を振り乱して「もうやめてくれ!」と悲鳴のような声を上げた。
 ひどく空しさが胸をかきむしった。これが勝利。きっとそう。これがここでの強者の立場。力あるものが力ないものを見下し、敗れた弱者は卑屈に命乞いをする。
 見たくもないリアリティを押し付けられたようで、気分が悪かった。自分はこんなちんけな勝利を望んでいたのだろうか。そもそも俺は何を望んでいたのか。
 突然、この辺一帯を覆っていた影が晴れた。
 日差しを遮っていた頭上の物体が通り過ぎたのだ。
 空を見上げると、東の城壁の向こうに消えていこうとする巨大な物体が見えた。
「あれは……」
「このとおりだ!」
 44番の張り上げた声に視線を戻すと、44番は地面に額をこすりつけてひれ伏していた。
「もうお前にかまったりしねえ。お前のやろうとしてたことは俺の胸に収めておく! だから勘弁してくれ!」
 奏は反応できない。胸を駆け巡る正体不明な感情を理解しようと躍起になる。
 人が自分にひれ伏している光景を見たことがない。こうして降伏を認め、助けを哀願する人間に、どうしていいか分からない。
 嫌悪感が全身を痺れさせた。44番に対するものではない。自分自身に対する嫌悪感。悪魔に魂を売ったかのような背徳感。
 俺はなんてことを……。
 
 44番に、先に戻っているように言って、奏はその場に残った。
 どうせ、戻っても研究所行き決定の身分。少しくらいルール違反を犯したところで神様も咎めやしないだろう。
 44番が見えなくなってから、奏は岩山の下で手を二回叩いた。
 ネロが扉を破壊する音が聞こえてきた。
「頼むな、ネロ」
 奏はつぶやいて、踵を返した。
 住処へ戻るため、奏は走った。走りながら考える。
 宮殿内にある研究所とは、いったいどういう場所なのか。選ばれた人間があれほど絶望感に打ちひしがれるような場所。ところが、いった人間は戻ってこないのだから誰も真相は知らない。
 奏は御札を全て失っていることを意識した。御札は奏にとって最後の砦だった。最後の砦で最強の切り札。あれがあったからこそ、奏はまだどうにかなると楽観的でいられた。
 御札を失ったいま、奏に残されているのは右腕のラナ・カンだけだ。
「力を貸してくれ、ラナ・カン」
 右腕の白い毛を触る。
 力はほしくない。そう思った。44番が俺を見上げたときの顔。あれを思い出すと、力というものの恐ろしさが思い知らされる。44番が恐怖に蝕された表情で奏を見上げたときに感じた、なんとも言えない嫌悪感。
 自分はあれを望んでいたと言うのか。44番を叩きのめし、俺が上であると思い知らせようと俺は拳を振るったのだろうか。
 あの一瞬、44番を見据えながら激しい憎悪に支配されていた。全てを思い通りにできる力を欲していた。
 それが信じられなかった。ただ、相手を傷つけるために力を欲したなんて。
 住処に戻ると、洞窟の前では食事の配給がされていた。見る限りに202番はいなかった。もういまさら202番に対して何かしようとも思わない。俺はタモンのおかげで立ち直ったはず。いつまでもめげていたら、あれほどたくさんの言葉を掛けてくれたタモンに申し訳が立たない。
 なにより、202番とは利害が一致したのだ。単純な構造だ。202番は研究所に行きたくなかった。俺は研究所に行きたかった。だから交代したのだ。どちらにとっても損がない決断をしたんだ。
「……そう思おう」
 まだ研究所行きの点呼は取られていないようだ。ならばその前に配給を食べるくらいの時間はあるだろう。
 奏は配給の列に並びながら思案する。正直言えば、あの時は感情に任せて研究所行きを志願してしまったが、正直これからどうしていいのかわからない。
 研究所が宮殿の敷地内にある。たったそれだけだ。正確な位置も分からなければ、ユーナが幽閉されているという斬首の塔から近いのかどうかも分からない。
 自分の配給の順番が回ってきて、いつものお粥をもらいうけようとしたが、食事を配給していたヒニンが「もうねえよ」と冷たく言い放った。
 奏はため息を漏らす。最後だって言うのに、まずい食事すらできないのか。
「研究所行きのソルは監視小屋前に集合しろ! いいか、来なかったら聖神様の名の下に処刑が執行される! 十分以内に集合だ!」
 ヒニルの男たちが、いたるところで怒鳴り散らしている。いよいよか。奏は監視小屋に向かう。これからのことを考える時間もない。
 監視小屋には三十人ほどの奴隷が集まっていた。みな一様に影を背負ったような顔をしており、一人残らず俯いている。
 誰が誰なのか区別できないほどにみな痩せ細り、髪や髭が伸び放題で、身に着けている衣服はところどころ破けてみすぼらしい。
 これから死にに行く姿である。自分が死ぬと分かっていながらも逆らえず、ここに来るしかなかった人々である。
 こんなことがずっとずっと繰り返されてきたのだ。いったいどれほどの奴隷たちが同じ思いを味わって、そして死んでいったのか。
「三人足らないが、どうやら自殺を図ったようだ」
 ヒニルの男二人が、なにやら会話している。
「大至急、三人調達して来い。補欠の人員から誰でもいいから連れてくるんだ。時間がない」
 自殺者が出たのか?
 研究所行きとは、それほどのことなのか。死を選ぶほどの苦痛が待っていると言うのか。
 日が暮れようとしている。ヒニルたちはあせっていた。十数分後には三名の補充を終える。補充された三名はたまったものではない。研究所行きから逃れられたと思って安心していたところに、とつぜん引っ張り出されたのだ。彼らには自殺を選択する自由もない。
 三十人あまりがヒニルを先頭に行進を始める。いよいよ研究所に向かうのだ。この様子だと、44番は本当に何もなかったことにしたらしい。どうせ研究所行きの奴隷の身分だ、とでも思ったのだろうか。
 ユベリア宮殿内にあるという研究所。そこからはいまよりもずっとユーナが幽閉されていると言われている斬首の塔に近いはずだった。何も情報がない以上、作戦の立てようがないが、あらゆることを想像して準備しておく必要はある。
 奴隷たちは一様に足元ばかりを見ている。誰も何もしゃべらない。
 重々しい雰囲気。これから死にに行くものの発散する独特の緊張感。
 それは自分自身も例外ではなかったが、それが隔世であるのだ。二ツ目族は三ツ目族に弄ばれて最後には殺される。それが隔世。二ツ目族など道具同然で、使用価値がなければ葬られる。それが隔世。ユーナのような女性も、ナユタのような子供も関係なく。
 それが隔世……。女性も子供も……。
 そういえば……。
「あの……」
 奏はそばにいた奴隷に声を掛けた。奴隷は聞こえていたはずだったが、俯いたまま何も答えない。
「あの……」
 再び声を掛けると、男がものすごい形相で奏を睨んだ。
 怯んではいられない。
「奴隷には……女性や子供がいると思うんです。それはどこに……?」
「話しかけるな……この場で殺されるじゃないか」
「ヒニルからは離れてます。教えてください。女性や子供はどこに?」
 奴隷の男は「ちっ」と舌打ちすると、早口に言った。
「女には女の使い道があるだろうが。肉体労働は男だけだ。子供は知らねえ。一部は軍隊に流れるが、他は知らねえ。研究所には女子供もいるらしいが……。これ以上は話しかけるな。ぶっ殺すぞ……」
 女には女の使い道がある。
 聞いてぞっとした。その使い道で連想できることがひとつしかなかったからだ。
 子供の一部は軍隊に? たしか、この国は三ツ目族が政治を担い、軍事は四ツ目族が担っているという話だった。
 子供たちの末路。想像して奏の足取りが重くなる。集団から徐々に遅れだす。
 女は女の使い道。子供は軍隊に流れる。研究所には女性も子供もいる。
 手が震えた。
 手の先から始まった震えは、全身に伝播し、奏は立ち止まってしまった。
「俺は何かを忘れていた……?」
 愕然と立ち尽くしていた。
 さっき、研究所行きの決まった奴隷の数名が自殺したと聞いたとき、俺はなにを思った? 単純に研究所に対する恐ろしさが増しただけ。
 自分はすっかり、この環境に慣れ、運命を受け入れていたのか。自殺した奴隷がいると聞いても、憤りを感じることもなかった。
 ここにいる奴隷たちが死行く運命だとしても、俺はただ一人脱出する方法を考え、ユーナを救うことばかり考えていた。
 ――脇目も振らず、まっすぐにユーナ様を目指せ。
 ラリルドの言葉が蘇る。
 道のりに倒れて苦しんでいる人がいようが、必死に奏に助けを求める者がいようが、ただユーナの元を目指せと言っている。そうでなければ、到底たどり着ける道のりではないとラリルドは知っていた。
 いま一緒に歩く三十人の命。無残に屠殺されると知っている。行けば、誰も生き残れないと知っている。
 悲壮な行進。この行進は、自分の墓穴を掘っているに等しい。
 空しく悲しい歩み。
「いいのか……これで」
 集団が目の前から離れていく。
 しんがりを勤めているヒニルが背後から迫ってくる。ひどい目に合わされる前に、奏は慌てて集団に追いついた。
 それでいいのか。
 ユーナを助けるために隔世に渡ってきた。隔世に戻ったユーナの境遇を心配し、そして助けるために。
 だけど、ここにいる奴隷たちはみなユーナと同じではないのか。
「馬車に乗れ」
 ヒニルの声に顔を上げると、行進の先に馬車があるのが見えた。巨大な馬が二頭引いている馬車だ。馬車の荷台には三十人が乗るには余りあるスペースがあった。
 奏は、あの巨大な馬に見覚えがあった。ウィンディアにやってきた帝国旅団が使っていた馬である。
 奴隷たちは無言で荷馬車に乗っていく。ここでもし、ヒニルから馬を奪い、荷馬車に乗った三十人とともに逃亡を図ったら?
 ぶるり、と体の芯から震えが襲ってきた。
 三十人の奴隷が荷台に乗ったところで、馬を引くヒニルから馬を強奪し、走り出す。どこに? 城塞都市は城壁に囲まれている。それに、どちらの方角に逃げればいいのか。
 考えているうちに三十人の奴隷たちは全員に馬車に乗り込んだ。思い思いの場所に座り込み、一様に背中を丸めて俯いている。
 馬が一声鳴いたのを合図に、馬車が走り出した。
 戦場に向かう戦士の心境に似ているのだろうか。死ぬかもしれない。だけど、行くしかない。この先の運命に引き裂かれそうになりながら、そのときをひたすら待つ。
 ――戦士ではない。
 奴隷たちは自分の運命を自分で切り開くことはできない。この先に勝利はないし、敗北もない。
 ただ無残な死があるのみ。
 隣にいた奴隷が声を押し殺して泣いている。ひいひいとのどを鳴らしながらも、ただ孤独に泣いている。誰も慰めたり肩を抱いたりはしない。
 泣いているのは一人ではない。
 数人の啜り泣きが聞こえる。
 もう、現実からの逃避が成功した数人はただ呆けて虚空を見つめ、数人は凍えているかのようにただ震える。
 時間がたつに連れ、それぞれの症状は悪化していく。
 ここにいる誰もが人生を持っており、子供のころに母に抱かれた記憶もあれば、誰かを愛したり、片想いに苦しんだりしたこともあるだろう。大声で笑ったことも、美しい風景を見て感動したこともあるだろう。
 尊いのだ。誰一人、屑のように捨てられていい命などない。人の命は尊かったはず。
 どうしたらよいか、誰かに教えてほしかった。たった一人の判断が不安でたまらなかった。お前はこうすべきだと指南する人がほしかった。
 伊集院照子の顔が脳裏によぎったが、一瞬のこと。他人に依存する自分の弱い部分が露呈しただけ。
 手が震えだした。手を組んで必死に震えをこらえる。
 馬車が道の悪い森の小径から、周囲に建物の目立ち始めた平坦な道に差し掛かる。建物といっても住宅という雰囲気ではなく、どちらかというと施設じみた冷たい印象の建物だ。人が住んでいるような生活臭はなく、角ばった建物の羅列は研究所へ向かう奴隷たちを冷ややかに監視するロボットのような印象。
 先に明かりが見える。同時に横に伸びる塀。塀の手前で馬車を停めると、無数の松明が炊かれて明るくなった塀の前に、三人の人間。
 言葉ひとつ交わされることなく、馬車を引いていた二人のヒニルが跪いた。跪いたヒニルになど目もくれず、同じ服装をした三人の男が馬車の荷台の紐を解き「降りろ」と低い声で命令した。荷台につけられた昇降台の一番近くにいた奏が最初に降りる。三人の男は同じ帽子を深々とかぶっており、表情は伺えない。三ツ目族だろうかと勘ぐるが、結局正解は分からない。
 促されるまま、奴隷たちは塀にある門の前に並ばされる。
 思いも強い雰囲気。誰一人口を利かないのはもとより、口を開かずとも絶望的な重量のある空気が脳天からのしかかってくるのが分かる。死刑宣告はすでに受けている身。いまは処刑台の十三階段を上っていく直前。
 槌のこすれる音と、木材がきしむ音を立てて門が開く。巨大な門は、奏の身長の五倍の高さがあり、三十人がいっせいに通っても余りある大きさだった。
 扉の向こう側は、巨大な敷地が見渡せた。芝のような緑地が整備され、緑地を縫うように湾曲した道が整備されている。ところどころに光が浮かんでおり、敷地内をほのかに照らし出して、視界に困ることはない。公共の施設のように綺麗に整備された敷地内は、まるで公園のような様相だった。
 遠くにはいくつかの施設めいた建物が見える。人の歩く姿も散見され、ここが奴隷たちが住んでいた場所とは毛並みの違う領域だということを強く印象付けた。
 制服姿であろう二人の男に先導され、三十人の奴隷たちが行進する。途中、浮かんでいる光を見上げると、まるで空の月のように淡い光を放つそれの正体までは良くわからない。
 最初に、円筒状の建物で住人が間引かれた。十人減った集団は次の目的地へと行進する。
 あの円筒状の建物は、いったい何の目的で建てられたのか。答えを知る術もなく次の建物にたどり着く。
 今度の建物はドーム状だった。現世にある東京ドームほど大きくはないが、武道館程度の大きさがある。中はいったいどんな施設なのか。
 そこで再び十人と別れる。ドームの中から現れた男たちに連れられて施設内に入っていく。
 奏はずっと考えていた。ここまでの道順も覚えている。施設の扉がいかにして開かれたのかも目撃している。施設内部から施錠をはずし、鉄製の扉を開いてできた男。三ツ目族かどうかは分からなかったが、おそらく三ツ目族なのだろうと思われた。
 ずっと考える。この先、奏が引き返して、このドーム状の建物、そして円筒状の建物から奴隷たちを連れ出し、逃亡を図る。さまざまなイメージを脳内で繰り広げるが、どれも現実的ではない。
 ラリルドは言った。脇目も振らず、ユーナを目指せと。
 だが、二ツ目族たちが無残に命を奪われるのを尻目にユーナの元へたどり着いたとして、果たして自分は喜び、笑みを浮かべることができるのか。
 できるはずがなかった。ユーナにたどり着くまでの道中で苦しむ人間が居るとすれば、奏はその全てを助け出すしか選択肢がないのである。そうすることしか、奏は自分を納得させることもできず、この不条理の世界で自分が失われてしまいそうで、それが何より恐ろしかったのだ。夢見がちな幼児のように、絵本を開いて訪れるお伽の国のように、奏は都合よく、理想的な現実しか受け入れることができないのだ。
 ――君にはユーナを救えない。
 胸をかきむしる言葉がよみがえる。ウィンディアで出会ったルウディの言葉。いつもことあるごとによみがえるルウディの声。そのたびに奏の胸中は前進と停滞とでひしめき合い、押しつぶされてしまいそうになる。奏の性格を暗示し、見抜いたような言葉。
 この手にもっと力があれば。奴隷たちをこのグロウリン城塞都市から救い出せるような強大な力と知恵があれば。
 残った十人の奴隷が連れてこられたのは、これまでで一番巨大な施設だった。石造りの、これも円筒状の建物だったが大きさの規模が違う。
 奴隷たちは泣き啜り、歩くことさえままならないほどに絶望しながら施設内へ押し込まれていく。
 ピラミッドのように石を積み上げて作られた施設内に入っていく。内部に入ると視界はほとんど皆無の暗闇。先頭を行く先導役の男がもつ松明だけが目印である。
 この先になにが待ち受けるのか。奏は緊張した。ほかの奴隷たちはこの先になにがあるか知っているのか。暗闇の中、男たちのすすり泣く声ばかりが聞こえる。
 前方にかすかな光。それがこの通路の終わりを示していることは分かった。あの先に待っている、奴隷たちを迎える運命はなんなのだろう。虫けら同然に扱われる命の使い道は。
 ごごごご。
 地鳴りのような音が聞こえた。
 通路の壁が痺れだし、空気が静電気を帯びたように刺々しくなった。
 そのことに気づいたのは奏だけではない。恐怖に悲鳴を上げだす奴隷たち。一人、逃げ出そうと通路を引き返した男が、しんがりを勤めていた制服の男に激しく殴打される。
「引き返す者は殺す」
 背後から、暗く恐ろしい声が聞こえてきた。その言葉に嘘がないことは、試さなくとも理解している。
 進むしかない。
 この先にはいったい……。

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