あっちから変なの出てきた

----------------------------------------------------------------------
PREV                          NEXT
----------------------------------------------------------------------

第四章 【 真実の部屋 】


 歓迎される理由は分かったが、ちやほやされる息苦しさを感じながら、花見のように広場に輪になって食事を摂って、酒や踊りやドンチャン騒ぎを始める始末に、琴はややうんざりしかけた。
 なぜこうまで歓迎ムード全開なのか不思議だが、人も訪れない辺鄙な土地に住まう人々にっては来客そのものが一大イベントなのかもしれない。
 伊集院照子は行雲途山の人々の大歓迎にすっかり乗せられて、酔っ払っていい気分になっている。あの様子だと、千年前の話の続きを聞けそうにもない。
 琴は倉敷を探した。倉敷は若い東洋人の女に囲まれて鼻を伸ばしていたが、手を引いて強引に引っ張り出すと、にへらにへらといやらしい笑みを浮かべながら「お琴さんも僕と飲みたいのかい?」と調子に乗っている。
「お琴さんって呼ばないでください。私たちは遊びに来たんじゃないんだから、ちゃんと目的を果たさないと」
「目的は僕には関係ないよ。僕はただの道連れなんだから」
「でも、あなたしか通訳できる人がいないの。お願い、通訳して」
「お琴さんの頼みなら、やらいでか!」
 すっかり酔っ払って上機嫌である。この勢いで「お琴さん」の呼び名が定着しなければ良いが、と懸念しながら倉敷の腕を引っ張って、どう見ても位の高そうな老人のところに向かった。
 如法衣をまとった高僧らしき老人は、台のような上に胡坐をかいて座っている。その前で、倉敷と並んで正座した。
 高僧らしき老人は見下ろすように二人を見やる。
「倉敷さん、私の言葉、訳して伝えてください」
「まかせておけ」
 気の大きくなった倉敷をよそに、琴は合掌しながら一礼する。仏教の作法を知らない琴は、礼節がこれで正しいのか分からないが、とりあえず伝えたいことを伝えなければならない。
「私たちは先を急いでいます。もちろん、ここへ来た目的は行雲途山修行のためです。こんな大歓迎、とても感謝していますが、どなたかに修行場まで案内いただけないでしょうか」
 倉敷が訳して高僧らしき老人に伝えたが、老人は黙して二人を見下ろしている。老人の左右に控えたボディーガードのように体格の良い僧侶二人も、銅像のように微動だにしない。
 いや、私は本当に銅像に話しかけているのかもしれない、と疑い始めたころ、老人はそばにいた別の僧侶に、なにやら耳打ちをした。老人の言葉を聴いた僧侶が代弁する。それを倉敷が訳して琴に聞かせる。
「高僧様に、ここの集落の説明をしろと、あの坊主は命令されたらしい。いま、ここの集落の説明をしている。ちょっと待って、ふむふむ、なるほど」
 倉敷は僧侶の話に耳を傾け、一通り話が終わった後、再び琴に訳を伝えた。
「ここには二百人近い人間が住んでいるそうだ。みな、お琴さんみたいな術師であるが、ほとんどは仏教にはかかわりのない人間で、仏教徒であるのは全体の十分の一。つまり二十人程度しかいない。ほとんどは俗世の人間で、こんなところに閉じ込められて鬱憤も溜まっているので、どうか我慢して一晩付き合ってほしいそうだ」
 ああ、なんて寛大な僧侶だろう。いやいや、とんでもない生臭坊主だ。一晩、ドンチャン騒ぎに付き合えと? ここは神聖なる天下の行雲途山である。こんなおちゃらけた場所では決してないはずだ。浮かれてお酒なんて浴びてたら天罰が下りそうである。
 琴はついでに、いろいろ質問してみることにした。
「どうしてこんなところに二百人もの人が住む必要があるんですか? 修行者を迎えるだけなら十人程度でもいいのでは?」
 倉敷が高僧の言葉(実際は脇に控える付き人の言葉)を訳す。
「ここの土地が、それだけ重要であるということ。住人の半数は行雲途山を警備する目的で住み込んでいる。世界に無数に存在する術師たちのメッカである重要な土地。二百人でも足らないくらいだそうだ」
 なるほど、それもそうだ。この乱痴気騒ぎに麻痺しているが、ここは術師たちの最も重要な土地。
「私たちより前に来た修行者は、どれくらい前になるんですか?」
 これは聞きたかった質問。これほど来客があって浮かれるくらいだ。いつぶりの来客なのか。
「二十年ぶりだそうだ」
 倉敷の言葉に、琴は目を丸くする。
「二十年ですって? その間、誰も来なかったってこと?」
「そもそも、通常の手続きをしても行雲途山修行はできないといっているぞ。修行を申請しても、ほぼ百パーセント、許可は下りないそうだ」
「許可が下りないって……。それじゃあ、誰も来ないのは当たり前じゃないですか」
「そうらしい。行雲途山修行に来るためには、無許可で強硬手段を用いてやってくるしかないそうだ。そもそも、ここはそういう土地だって。ここまでやってくるのも修行の内。まずは数々の障害を跳ね除けて、ここまでくることが修行の第一関門らしい」
 琴は眩暈がしてぱったりと倒れてしまいそうだった。そもそも許可なんて絶対に下りないのである。ここに来るためには無許可で強行突破するしかなく、それも修行のひとつであるということは、中国政府も自然管理委員会も承知の上である可能性が高い。
 無許可であれば、行雲途山修行で死んだとしても責任は個人にあるし、保障をこうむる心配もない。なるほど、上手いやり方といえば上手いやり方だ。
 どこの誰かが分からない偽造許可証でここまでこれたのも、もしかしたら出来レースだったのかもしれない。私たちは最初から行方を監視されていて、無許可の渡航は、その実はお上に見逃されていただけ。
 よく考えれば辻褄が合うのだ。最初にこの地に訪れたとき、まるで琴たちがやってくるのを知っていたかのような歓迎ぶり。待ってましたかのように宴会が始まったのは、初めから琴たちがやってくるのを事前に知っていたからである。この酒と料理が都合よく出てくるわけもない。
 どっと疲れが襲ってきた。
 もういいや、どうせなら一晩ゆっくり休んで、明朝に修行に向かってもいいじゃないか。
「おお、生臭坊主! お前も飲め!」
 大きな個を上げて近寄ってきたのは伊集院照子。
 琴はぞっとして振り返る。
「後ろのむさくるしい男も、たまには飲んで羽目をはずしたらどうだ」
「ちょっと伊集院さん……!」
 伊集院照子の無礼な態度を咎めようとしたが、僧侶たちは想像も付かない反応をした。伊集院照子の登場に、老人の高僧初め、その場にいた僧侶たちが一様に伊集院照子に対して頭を下げたのである。
「ええい、堅苦しい。如法衣をまとったやつらは百年間と変わらんな」
 琴が呆然と僧侶たちを見てから、再び伊集院照子を見る。
「なんだ、琴、その意外そうな顔は。私は偉いんだ。坊主どもが頭を下げたからといって驚くんじゃない」
「偉いって……どうして……」
 僧侶たちは地面に額を押し付けたまま面をあげない。
「私はいわば、術師たちの祖のようなもの。こいつら生臭坊主にとっちゃ高尚な存在なのさ。まあ、私のことを知っていただけ評価してやる。それより、琴。私は少々疲れた。こいつらに寝床を用意させろ」
 お酒が入って、唯我独尊に拍車がかかっている。ため息を漏らしながら立ち上がると、ぺしゃりと伊集院照子に頭をはたかれた。
「さっさとする! 私の弟子がしゃきっとしてなかったら示しが付かないだろう」
 はたかれたところをさすりながらしぶしぶ、高僧に尋ねる。寝床はすでに用意されているらしい。来客用の住居を好きに使ってくれとのことだった。
 やれやれと三人は住居に向かう。来客用の住居も、他の住居の例に漏れず洞窟の側面に埋め込まれるように建っていた。洞窟の側面をくりぬいて住居としているらしい。
 入ってすぐのテーブルに、スーリンが一人で座っていた。
「お嬢、どこに行ったのかと思ったらこんなところに」
 倉敷がスーリンに近寄ろうとすると、やってきた伊集院照子に気づいたスーリンは飛び跳ねるように立ち上がり、中国語で何かをわめき散らした。
「小僧、小娘はなんて言っている?」
「ああ、いや、どうやらお嬢はここでずっと伊集院さんを待っていたようです。待ちくたびれてヒステリックを起こしてるだけですね」
「私を?」
 スーリンは部屋の中央にあるテーブルに座れと、伊集院照子を促す。
「どうやら千年前の話しの続きを聞きたくて、ずっと待っていたみたいです。早く続きを聞かせろとせがんでいます」
「そんなにあせらなくても、全て話してやるというのに……。さて、どうしたものか。私は少々眠い」
 倉敷は申し訳なさそうに手を合わせた。
「伊集院さん、すみませんが少しだけお嬢に付き合ってもらえませんか? あの様子だと、お嬢は一晩でもヒステリックを起こし続けます」
「確かに、そりゃ迷惑だが……」
 渋っている伊集院照子に、様子を見ていた琴も口を挟んだ。
「もう少しで終わりそうでしたよね。私も明朝から修行に向かおうと思っています。それまでに話は聞いておきたいです」
 やれやれ、仕方ないな。と欠伸をひとつはさんで、伊集院照子はテーブルに着いた。伊集院照子の眠気覚ましになればと、台所で湯を沸かしてお茶を入れた。(ちなみにヤカンもコンロもちゃんと整備されている)
 お茶が入ったころ、伊集院照子は話し始めた。
「たしか、トレチャークがエレーナを奪い返しに中国へ向かい、コートは寺院に残ったところまで話したな。そうだな、トレチャークのその後だろう、お前らが気になるのは」
 どちらかというと、琴はエレーナのその後が気になった。そして、エレーナが思いを寄せていた相手は誰なのか。
 願うような気持ちになる。エレーナの運命が、残酷なものではないことを祈るように伊集院照子の話に耳を傾ける。
「エレーナが攫われてから、三十日経っていた。急いでも、追いつくには倍以上の時間がかかるだろう。トレチャークは山を下った。コートの施したといわれる施術により、チャクラを増したトレチャークは吹雪で極寒の山を乗り越え、ホルタ王国に向かった。道のりは厳しかっただろう。実際に、ホルタ王国にたどり着くまでに半年を要した。さらにエレーナの行方を掴むまでに半年かかった」
「どうして知ってるんですか? 文献が残っていたんですか?」
「口伝だ。私は前代に聞いた。文献など残っていない」
 口伝。千年もの間語り継がれてきたのか。口頭で受け継がれてきた話が、果たしてどれほど正確なのか。
 伊集院照子は話を続ける。
「エレーナは攫われてホルタ王国に連れてこられた後、一年間幽閉されていた。百人の美女が集まるまでの猶予の時間だったが、トレチャークが居所を見つけたときは一足違いだった。トレチャークがエレーナの居場所にたどり着いたときは、すでに美女は百人集まり、宋へ移送されてしまっていたのだ。だが、一足違い。まだ間に合う。ホルタ王国は三千の軍隊を率いて、百人の美女の移送をしているらしいから、移動速度はそれほど速くはないと踏んだ。そのころ、百人の美女はホルタ王国の国境を越え、現在の中国である宋に入っていた。そこからの道のりはわけしい。険しい中国大陸を横断しなければならない。美女たちも全員が無事に宋の開封市まで行かなければならない。距離にして六千キロを越える道のり。知っているかどうかは分からんが、決して中国は平坦な大地ではないし、陸路だけで横断できるような道のりでもない。天候だっていつでも恵まれていたわけではないし、食糧問題も深刻だっただろう。ある程度計画はしていただろうが、実際、そこからさらに一年を費やしても百人の美女は首都開封市までたどり着くことは出来なかった。長いたびの末、トレチャークが追いついたのはちょうどそのころ。開封市まであと少しというところだった」
 どんなつらい道のりだったのか、想像すらできない。しかし、エレーナに追いつくために二年かかるとは。長い年月に聞こえるが、巨大な中国大陸に加え、いまのように舗装された道もなければ、ガソリンで動く高速の乗り物もない。二年は驚くべき速さなのではないか。
「さて、数千の軍隊と百人近くの美女集団に追いついたトレチャーク。そこはちょうど、山を降りたところにある小川のほとり。あと山を二三越えれば開封市の場所。そこで、いったいトレチャークは何をしたと思う?」
 話に集中していた琴は、突然たずねられて目をぱちくりさせた。
「何をしたかって……たぶん、こっそり忍び込んで、エレーナを救ったんじゃ……」
 琴がそう言うと、スーリンが何かを言った。いつもどおり倉敷が訳す。
「トレチャークはチャクラを得て強くなったのだから、三千人の軍隊を皆殺しにしたんじゃないかと言っています」
 伊集院照子は一笑に付す。チャクラを得て強くなったといっても、三千人の訓練された軍隊を一人で倒すなど、漫画やアニメの世界の話である。だが、ただこっそり忍び込んで、助け出したわけではないとすると。
 もっと現実的に、そして少しだけ破天荒に考えると……。
 琴が答えを出す前に、伊集院照子は正解を言ってしまった。
「正解だ、琴。トレチャークは深夜、こっそり野営に忍び込んでエレーナを連れ出したんだ」
「え? 正解?」
 こんな簡単な正解ならば、わざわざ問いかける必要などなかったのではないか。何のために謎掛けをしたのか。
 スーリンは答えが外れて不満そうだった。だが、伊集院照子はとんでもないことを言う。
「スーリンも正解だ。二人とも正解」
「正解って……」
 二人とも正解って言うのはおかしくないか、というよりも、三千人を皆殺し? そんな馬鹿な。
「トレチャークは深夜に野営に忍び込み、エレーナを探した。ところが、見張りの兵隊に見つかってしまうのさ」
 両方正解、という意味はわかったが、三千人の軍隊を皆殺し? まさか、そんな強大な力を得たというのか。しかも、そんな危険人物を現代に放っているというのか。伊集院照子の言うとおり、こんな危険人物を野放しになどしておけない。
「二年という短い期間でトレチャークが軍隊に追いついたのは、チャクラで力を増していたからだろう。ほとんど寝ず、休まずに走り続けたという。そして、軍隊に忍び込んで見つかったトレチャークは、おそらく自分自身の力に、そのとき初めて気づいたのだろう」
「本当なんですか、三千人の軍隊を皆殺しにしたなんて……。千年前のことです。口伝が誇張されて伝わったという可能性は……」
「無いとは言えない。文献は残っていないからな。千年前から代々、圧縮能力者が語り継いでいくうち、途中の馬鹿が話を大きくした可能性は捨てきれない。だが、ほかに信じれるものは無い。正確な事実を知る者などいないのだからな。そもそも、歴史などそんなものだ。今存在する事実と信じられている歴史も、どれだけ正しいのかわかったものではない」
 もしかしたら、三千人が三百人だったかも知れず、そもそもそんな大それた事実など存在しないかもしれない。考えにくいが、三千人ではなく一万人かもしれないし、十万人かもしれない。
 結局は、口伝を信じるしかないのである。確かめようが無い以上は。
 倉敷が口を開く。
「スーリンが気にしています。三千人を殺戮したかどうかはどうでもよく、トレチャークは結局、エレーナを救い出せたのかと」
「エレーナは救い出せなかった。それが結論だ。三千人の兵士を殺戮し、エレーナを救い出したときにはエレーナは瀕死だった。戦闘により傷ついたのではない。長い旅路の過労、そして不衛生な生活で、エレーナは健康をわずらっていたという。エレーナは意識も無く、トレチャークとの再会を喜ぶこともできなかった。トレチャークにとっては悲劇だな。三千人をたった一人で虐殺し、やっとの思いでエレーナに出会えたと思えば、エレーナは危篤状態で意識が戻ることなく死んでいった」
 スーリンが「ばん」と音を立ててテーブルを両手でたたいた。怒り心頭の様子。結末が気に入らないらしい。
「事実であるから仕方が無い。ここで都合のよいハッピーエンドを聞かせれば、口伝は誤った事実を伝え続けるだろう。スーリン、頭を冷やせ。お前もいつか、この話を次の世代に語り継がなくてはならない」
「でも伊集院さん……」
 エレーナが死んでしまったのは悲しい。トレチャークの慟哭がどれほどのものだったのかを思うと胸が痛くなる。
 しかし、まだ話は終わっていないのである。問題は、トレチャークがなぜ封じられなければならなかったのか。どんな大量の軍隊を用いたとしても、トレチャーク一人を葬ることはできなかったのか。できなかったからこそ、伊集院照子はトレチャークを封じていたのだ。
「そうだな、琴。トレチャークはなぜ封じられなくてはならなかったか。それは、誰もトレチャークを殺せなかったからだ。三千人の軍隊の中には、開封市に近いこともあって宋王朝の軍隊も同行していた。その重大な事件はすぐに王朝にも報告され、トレチャークは中国全土で指名手配となった。しかし、トレチャークの力は強大すぎる。たとえトレチャークを発見できて大量の兵士を送り込んだとしても、捉えることも殺すこともできなかった。そうして数年が過ぎるころ、宋王朝にソウ・リュウメイと名乗る道士が現れた」
「道士?」
「中国の道教を信奉する者のことを、道士という。中国の術師とは、この道教の道士の事を指すといってもよい。チベットでは僧侶。日本では宗教に並べてカテゴライズされることは無いが、神仏習合の文化が指し示すとおり、情力と戒力が神道と仏教に例えられるように日本の術師文化は割りと柔軟だったようだ。だが、術師の起こりは中国。そして道教を祖とする。この最初の術師であるソウ・リュウメイが開祖なのだからな」
 それは現代の文献が物語っている事実だ。琴もスクールで習った。
「お前らが使う御札という呼称も、道教を祖とするためだ。ソウ・リュウメイも人外退治にお札を使用したという。ただし、紙のお札だがな。今言ったとおり、ソウ・リュウメイはそれまでも人外と呼ばれる、この世のものではない存在と戦い続けていたため、中国全土にもそれなりに名が通っていた。宋王朝にトレチャーク退治を申し出たときも、すぐに受け入れられ、ソウ・リュウメイはトレチャークの情報を得ることができた。トレチャークが潜んでいると思われる場所、そしてトレチャークが次に何を起こすか」
 何を起こすか。その言葉に琴は引っかかるものを感じた。トレチャークは中国全土で逃げ回っているのではないのか。
「わかってる、琴。お前の疑問はちゃんと説明してやる。トレチャークはエレーナと死別した後、宋王朝に追われる身になるが、繰り返しトレチャークを葬るべく刺客が送られてくる中、トレチャークは逃亡者から、宋王朝にとっての明確な『敵』として認識されるようになる。それは、トレチャークが反撃に出たことによる。トレチャークは随所に存在する王家を襲い、軍関連の施設を襲っては壊滅していった」
「なんて大胆な。トレチャークは宋王朝を滅ぼそうとでも思っていたのでしょうか」
「思っていたんだろうな。たった一人で。だが、いくらトレチャークと言えども宋王朝を倒せるほど力を持っているわけではない。トレチャークの、現代で言うテロともいえる活動も、宋王朝にとっては所詮、蚊に刺されたようなものだったろうが、それでも王家ばかり狙う犯行に、王朝は少なからず恐怖を抱いただろう」
 トレチャークが明確に敵視されるようになる。だとしてしても、一人で三千人の兵士を皆殺しにする力の持ち主だ。いくら刺客を送っても倒せない。そして、ようやく琴は疑問に思ったのである。
 どうして道士が? 人外を相手にする道士が、なぜ人間相手に登場するのか。
「伊集院さん、トレチャークが得た力とはいったい……。一人で三千人を倒せる力とは……」
「ようやく疑問に思ったか。しかし、琴の想像を裏切る力だろう」
「私の想像を裏切るってなんですか。私がどんな力を想像したと?」
「手から衝撃波を出したり、超能力のように物体を操作したり、もしくは目から光線を出したり、催眠術のように相手を眠らすように殺したり、などかな」
 外れてはいない。想像はめぐらせて、どんな力だろうと思いついたのは今並べたとおり。例外を言うならば、先日にスーリンが見せたような圧縮能力なら、大量の相手でも抵抗できる。
 しかし、きっと簡単に思いつくような力ではない。琴は半ば冗談めかして、ありえ無そうな回答をしてみた。
「異世界から怪物を召喚するとか」
 そう言ったとたん、伊集院照子の顔が曇った。
 その顔は……。
「ち、つまらんな。正解だ、琴。トレチャークは異世界から見たことも無い怪物を召喚するのだ」
「そんな馬鹿な……」
「何が馬鹿なものか。自分で言ったのだろう。それに、怪物を召喚するのは間違いない。私がこの目で見ているのだからな」
 そうだ。伊集院照子はトレチャークと対決し、そして勝利することで御札化していたのだ。
「実際に見たんですか? 怪物を召喚するところ」
「見てる。あいつは手を空中に凪ぐ仕草で、光の龍を出現させる」
 光の龍……。急に幻想物語めいた話になる。
「それは例えですか? トレチャークの発する力が龍に見えるという……」
「違う。既存概念は捨てたほうがいい。情力とか戒力といった力とは根本的に性質が違う。あいつは文字通り『怪物』を召喚するのだ。あいつは手を正面に差し出す仕草で、手のひらからケルベロスのような黒い犬を出す。その犬は人間を食いちぎり、一瞬にして数十人を葬ることができる。それだけではない。あいつは念じるだけで、巨大な鶴を出現させ、空を飛ぶことができる」
「信じられません」
「信じられなくても、真実だ。私が見たのはその三つの力。それ以外に持っていたとしても見たことが無い。口伝で伝わっているのは、トレチャークは負った傷を回復させる化け物も召喚させるらしい。いいか、トレチャークはその人間そのものも、すでに化け物なんだよ。いくら重傷を負わせても回復されてしまう。しかも、最初に話したころとは比べ物にならないほど悪意を秘めたな」
 エレーナの死、そして宋王朝に追われる生活がトレチャークを変えてしまったのだろう。おそらく、人間すべてを忌み嫌うように。
「ソウ・リュウメイは、トレチャークが王家を狙うという情報を得て、罠を張ってトレチャークを待った。罠とは、琴も知っているだろう」
「スクールで習ったとおりなら、人外を退治するために有効とされた結界術。ですが、あれは人外のためだったと教わっています」
「まあ、人外のためさ。要するに、トレチャークの召喚能力を封じたわけだ」
「そもそも、召喚している化け物は人外なのでは?」
「既成概念を捨てろといったはず。情気、戒気とは異質の力だし、もちろん、人外ともまた別の力。封じたのはトレチャークの召喚する化け物の力ではなく、トレチャーク自身の能力さ」
「そもそも伊集院さん、異世界から怪物を召喚するって言うことは、隔世以外に異世界があるってことですか?」
「あるのだろう。この前に読んだ科学書では、世界は泡沫状にできているらしいじゃないか。シャボン玉を吹いたごとく、世界は無数に存在するとのことだ。隔世以外で世界があったとしても不思議ではない」
「なら、トレチャークは隔世以外とのイスカ領域を作り出すということになります。そんなイスカ領域など今まで存在しません。やはり、トレチャークの力が龍や犬、鳥に見えるだけのことじゃないんですか」
「疑り深いやつだな。まあ、いずれにしても私には説明できない。ひょっとしたら琴の言うとおり隔世の人外を召喚しているのかもしれない。確かなことは言えない以上、議論しても仕方ないだろう」
 確かに言うとおりだが。
 そんな聴いたことも無い未知の力と戦えというのか。
 琴の杞憂をよそに、伊集院照子は話を続ける。
「王家の家屋に、人外の力を封じるお札を張り巡らし、そこにトレチャークがやってきたところを、ソウ・リュウメイは捕らえようとした。だが、力を弱めることはできても、完全に封じることはできず、ソウ・リュウメイ側は劣勢にたたされる。トレチャークは王家の人間を殺そうと暴れまわり、それを必死に防ぐソウ・リュウメイ。しかし、このままでは負けてしまうと悟ったソウ・リュウメイは捨て身の行動に出た」
「それが自らが御札化して、トレチャークを封じるという手段……」
「トレチャークは倒せない。戦った私も、封じる前に倒せるのではないかと手を尽くしたが、どんな手段を持ってもトレチャークは倒せない。封じる手段のほかに方法は無いのだ」
 封じる方法は無い。
 しかし、それは百年前までの話ではないのか。現代の高度な技術力、科学力なら人間一人、どうにでもできそうな気がする。琴は疑問を素直に口にする。
「現代の銃器の火力なら、トレチャークを倒せるんじゃないですか?」
「無理だな。百年前と現代で、それほど火力が強くなったとは言えない」
「なってないんですか」
「小型化、連射化、高性能化は進んでも、重火器に人間を殺すための力は昔から十分にあった。だが、人間を殺せるならばそれ以上の力は必要ないだろう。人間以上の強敵が現れるのならば話は別だが。そういうわけで銃は昔に比べて強くはなっていない。銃では無理だ」
「あの……あくまでたとえばの話ですが、残酷なようですが火炎放射器で燃やしてしまうとか……」
「過去に、火を使ったことが無いと思うのか? 無理だな」
「それなら液体窒素で凍らせてしまうとか」
「いい線をいってるな。考えるのは大事だな、琴。その調子で方法を考えてくれ。スーリンが私と同じ運命をたどらないのなら、それに越したことは無い。超低温で凍らせるという手段は、確かに百年前には存在しなかった。問題は凍らせた上で、それを長期間、そのままにしておけるかということ。自然管理委員会が金を出して管理してくれるのなら、もしかしたら可能かもしれない」
 ほかにも硫酸で溶かすなどの方法が浮かび、残酷さに胸糞が悪くなる。
「もっと重大な問題として、人を殺せるのか、琴。殺す方法があったとして、世間は人殺しを許容するのか」
 もっともな意見。警察官でもなんでもない人間が、例え凶悪な人間だとしても殺してしまったら重罪である。
「まあ、まだ時間はある。トレチャークの封じる方法はまた後で談義すればいい。とにかく、千年前の中国でソウ・リュウメイによりトレチャークは封じられ、一連の事件は幕を閉じた」
「これで終わりですか? 結局、何の救いも無い話じゃないですか」
「だから、言っただろう。これは甘い恋物語じゃない。化け物が生まれるきっかけを話している。トレチャークが封じられなければならない理由を説明しているだけのことだ」
 封じられなければならない理由。
 それは、倒せないから。放置しておけば、人を殺すから。
 それはよくわかった。だけど、それでも疑問は残る。
「いま、トレチャークを放置しているのはなぜですか? そんな危険人物なら、今すぐにでも行動しなければならないんじゃないんですか」
「トレチャークの行方はお前の父親に探させている。捜させなくても、大体の位置はわかるが。前に取り逃がしたときにも、トレチャークは約一年間ほどの潜伏期間があった。それはつまり、御札から復元したトレチャークは、しばらくのあいだ力を失っているということだ」
 気づくと、スーリンが居眠りしている。夜も更けている。無理も無いが、話しの続きを聞きたがったのはスーリンだ。倉敷が代弁するように言った。
「エレーナが死んだとわかった瞬間から、スーリンはもう居眠りしてましたよ」
「まったく、後継者の自覚が足りん。これから厳しくわからせてやらないとな」
「分からせるのもいいですが、お嬢は本当にマフィアの頭の一人娘ですよ。このままだと本当に命を狙われます。いい加減、お嬢を帰さないと本格的にやばいですよ」
「マフィアの一つや二つ、どうにでもなるだろう。国家権力がバックだ。お前こそ気をつけろ。私や琴、スーリンに何かあったら日本政府に暗殺されるぞ」
 倉敷は手のひらをひらひらさせて「分かりましたよ」とまったく信じてない様子。
「僕はお嬢を寝かしてくるので、二人とも明日に備えてもう寝てください。それじゃあ、また明日」
 倉敷はスーリンを起こして、眠気眼をこするスーリンを寝室まで連れて行った。残された伊集院照子と琴は、それから交わす言葉も見つからず、お互い明日に備えて寝ることにしたのだった。
 
 
 
 目覚ましも携帯電話も無いチベットのチョモランマ中腹で目が覚める経験は、もちろん人生初めてのことであるが、仮にも家の中、そしてベッドの中で目覚めた琴は、すべての現実を一瞬忘れていた。
 まるで日本の自分の部屋で目覚めたかのように上半身を起こすと、静かな室内に、見たことも無いインテリア。
 思い出して重いため息をつく。
 ここまでやってくるのも大変だったのに、これからまだ大変な思いをしなければならない。
 気苦労と山を登ってきた肉体疲労で、体中の節々が痛んだ。体が目を覚まし、動けるようになるまで時間がかかる気がした。
 起き出して、お茶でも飲もうとリビングに行くと、伊集院照子がすでに起きており、一足先に茶をすすっていた。
「おはようございます。どうしたんですか? いつもなら遅くまで寝てるのに」
「今日はお前を送り出した後、やらなくちゃいけないことが山ほどある。静かな朝に頭を整理してたんだ」
「確かに静かですね。でも、本当に現実じゃないみたいです。伊集院さんの話がそう思わせてるんでしょうか。まだ夢の中みたいです」
「まあ、琴には苦労をかけるが、すべてが終わったらゆっくり酒でも飲み交わそう。私も英雄などと呼ばれているが、役目が終われば力を失い、ただの人になる。こんな重責から逃れて、のんびり暮らしたいものだ」
 琴は、弱音にも聞こえる伊集院照子の言葉を聞いて意外に思う。
「伊集院さんでもプレッシャーに感じることがあるんですか?」
「当たり前だろう。仮にも世界を終わらせかねない男と対峙し続けているんだ。心は磨り減ってるさ。だが、もう少しだ。スーリン、琴と立派に育ってくれれば、私も役目を終えるだろう」
 唯我独尊な態度に気づけないでいたが、伊集院照子といえども一人の人間。そして、琴とそう代わりの無い年齢の女のである。
「伊集院さんは恋とかしてないんですか?」
「恋? 何を馬鹿なことを。私は御札化から目覚めたばかりだぞ」
「御札になる前は? 恋人はいなかったんですか?」
「ふん。忘れたな。いたとしても、もう誰も生きていない。くだらないぞ、琴。朝っぱらから」
 くだらなくないのに。琴はしょげる。でも、聞いてみたい。伊集院照子が恋人の話をするとき、いったいどんな表情をするのだろう。
「そろそろ修行へ向かう準備を始めておけ。修行場まで案内する。スーリンもそろそろ起こせ」
「その前に聞きたいことがあります。昨夜、寝床についてからふと気づいたんです。伊集院さんの話の中で、ひとつどうしても腑に落ちないところがあるんです」
「私にとっても腑に落ちないところだらけさ。言ってみろ。何が腑に落ちない?」
「トレチャークが危険人物だということは分かりました。ですが、伊集院さんもおっしゃってましたが、トレチャークは間違えば世界を滅ぼしかねない存在であると。いくら大軍を用いても倒せない相手であっても、世界を滅ぼすことなんてできません。まだ教えてもらっていないことがトレチャークにはあるんですか?」
「そうか。話してなかったのか」
「それに、コートはどうなったんですか? トレチャークと別れた後のコートは何をしてたんですか?」
「コートは関係ないさ。あくまでトレチャークを中心とした口伝。トレチャークと別れた後のことは、何一つ分からない。とりあえず修行だ。お前の疑問は、修行が終わったら教えてやる。それに、私はほかの事を考えなくてはならない」
「ソウ・リュウメイのS級札ですか?」
「ああ、おそらく昨日、エレーナのタンカを見た寺院にあるのだろう」
「でも、そんな伝説の御札を見せてもらえるでしょうか」
「問題ない。昨日、見なかったのか? 坊主どもは私の命令には逆らわないさ」
 そういえば、伊集院照子に僧侶たちはみなひれ伏していた。伊集院照子も伝説の偉人といえどもそこまで偉いのだろうか。
 
 
 
 スーリンを起こして、身支度を済ませたころには、琴の緊張感はかなり高まっていた。
 命を落とすことも少なくないと聞く行雲登山修行が、いよいよ目の前に迫った。修行内容は誰も教えてはくれず、琴は心臓が高音を打ちっぱなしだった。
 スーリンは事情を分かっているのかいないのか、行くなら行ってやると鼻息を荒くしている。
 本当に危険は無いんですか? という倉敷の心配に、伊集院照子は平然と「何の問題も無い」と嘘を答えている。
 家を出ると、三人の僧侶が家の前に立っていた。どうやら待っていたようだ。僧侶たちは手を合わせて一礼すると、無言で手のひらを指し示して促した。付いて来いと言っているようだ。
 朝が早いせいか、集落に人の姿は無かった。琴、伊集院、倉敷、スーリンの四人は黙って三人の僧侶の後ろを付いていく。
 たどり着いたのは、最初にこの場に訪れたときに入ってきた出入り口とは、正反対の位置にある扉。
 僧侶たちが扉に施された南京錠をはずすと、琴たちを振り返った。
「修行するものが、この先に行くことを許されるそうです」
 僧侶の言葉を倉敷が訳す。
 伊集院照子が琴を振り返った。
「琴、お前が先に行け。スーリンには修行の心構えを話しておく。こいつは術師でもなんでもない素人だからな」
「分かりました」
 琴は緊張しながら、僧侶たちを見た。
「自分で扉を開けて、先に進むそうです」
 倉敷が言った。同時に、扉の前にいた僧侶たちが左右にはけて、進路を空ける。そこには木製の黒ずんだ扉。その場所だけ、数百年前と変わらぬ様相を呈しているかのよう。
 いったい、何人の修行者がここを通り、何人の修行者が無事に戻ってきたのだろうか。そんなことを僧侶に尋ねたくなったが、もうそれどころではない。
 進むしかなく、ひるんだ心を鼓舞するように琴は「よし」と気合を入れた。
「それじゃ行ってきます、伊集院さん」
「ひとつ言っておく」
 足を踏み出そうとしたことを引き止める伊集院照子。振り返ると、伊集院照子が指折り何かを数えている。
「そうだな、五合目だ。五合目までいけるまで戻ってくるな。五合目をクリアする必要は無い。私と同じ、四合目をクリアして戻ってこい」
「四合目ですか。約束はできませんが……」
「約束できずとも行ってこい。四合目クリアをせずに戻ってきたら破門だと思え」
 破門。それはそれで喜んで受け入れたい気持ち。
 だが、行ってみなければ分からない。琴は返事をせず、扉の取っ手に手を置いた。扉は押し開くようだ。体重をかけると、ゆっくりと前方に開いていく扉。
 扉が開ききると、その先にぽっかりと開いた暗闇。一寸先も見えない濃い暗闇が琴の行く先を拒んでいる。
 振り返る。僧侶たちが微笑みながら見送っている。伊集院照子は倉敷を介して、スーリンに何かを伝えている。もう、琴のことなど興味が無いようだ。
 行くしかない。行ってみるしかない。
 琴はこくりと固唾を飲むと、ゆっくりと前方の暗闇に溶け込んでいった。
 
 
 
 視界がまったく利かない暗闇の中、壁伝いに手探りで進む。ひんやりとした空気。気温は低いが、おそらく外気よりは暖かい。防寒対策はしてきたので凍える心配は無いが、この通路はいったいどこまで続くのだろうか。
 歩くこと、十分弱。おそらくは二百メートルほど進んだ先に、光が見えた。
 そこが出口であろう、長方形の輪郭を模った光。ほっとする琴。光はなにより琴の緊張をやわらげてくれる。
 心なしか歩調を速めて出口を越えると、そこはただっぴろい空間。琴は呆然と周囲を見渡す。まばゆいくらいに明るい周囲に、一瞬目が眩むが、徐々に視界が光に慣れてくる。
 見渡す限り、五十メートル四方の空間があるように思われた。天を見上げると、この空間がドーム状であることが分かる。
 足元は、まるで鏡面のように磨かれた床。見渡す限りに物は存在しない。
 しかし、このまばゆいばかりの空間を照らす光源は、いったいどこにあるのか。天井を見渡しても、周囲を見渡しても、照明らしきものは見当たらない。
 おそるおそる足を踏み入れる。自分の歩く姿が、足元の床に反射している。
 部屋の中央部まで来ると、改めて周囲をうかがった。自分の足音以外、何も聞こえない。空気の流れさえ止まっているように感じる。
 ふと、視界の片隅にひっかかる。いま、自分がやってきた出入り口が、黒い口をぽっかりあけているほか、二つの黒い出入り口が見えた。円状の空間の側面に、等間隔に空けられた三つの出入り口。ひとつは自分が入ってきた出入り口で、後二つはどこへ続く出入り口なのか。
 そのとき、琴とは何かの音楽が聞こえた気がして周囲を見た。
 まるでピアノの旋律のように聞こえた。三音くらいが「タラン」と音を立てたように聞こえたが、気のせいだったのか。
 いや、気のせいではない、確かに聞こえた。
 琴は確信を持って、天井を見上げた。「音を聞いた」という確信はあったものの「天井に何かある」と確信したわけではない。だから、天井を見上げたときに見えたものに、琴はしたたかに度肝を抜かれた。
 何かある。何かあるのは分かるが、それが何なのかを表現できない。例えるならオーロラのような光のきらめきが見える。天女が羽衣をたゆたわせて空中に浮かんでいるよう。
 旋律が聞こえた――いや、旋律に聞こえたそれは、実は人の声だった。美しく、透き通るような声は何かを喋っているが、まるで聞き取れない。それもそのはず、それは中国語である。
 ここにきてまた中国語。
 天井付近に、風にたなびく絹のように揺れる光に向かって琴は声を上げる。
「中国語は分からないんです。日本語は喋れますか?」
 訪ねておいて滑稽に感じる。あれが人であるかどうかも分からない。ただの揺らぐ光にしか見えないのだ。
 ところが、揺らぐ光は美しい声で、中国語を発するのみである。
 どうしよう。何を言ってるかわからない。
「あの……すみません。ちょっと待っててもらっていいですか?」
 琴はそういったものの、天井付近でゆれる光が了承したかどうかも分からない。琴はきびすを返して走り出した。今やってきた道を大急ぎで戻ると、先ほどの木製の扉を開けて、集落まで戻ってきた。
 扉を開けた先にはきょとんとこちらを見る僧侶や伊集院照子たち。
「なんだ琴。もうギブアップか?」
 伊集院照子が戸惑いながら問いかけてくる。
「違うんです。言葉が分からないんです。問いかけられたんですけど、中国語で……」
「そんなもの気にするな。私の時だって語りかけられたがすべて無視だ。分からんものは分からん。だからって先に進めない道のりではないだろう」
 確かに、進むべき道はあったが……。
「倉敷さん、一緒に来てください。通訳してください」
「え、僕ですか?」
「馬鹿なことを言うな、琴」
 伊集院照子が倉敷の前に立つ。
「修行は原則、一人で行くことがルールだ。二人で行って修行になるものか」
「最初だけでいいんです。それから先は一人で行きます。ですから」
 倉敷が困ったように、そばに控えていた僧侶に事情を伝えた。僧侶たちは顔を見合わせて困惑していたが、琴が何度も頼み込むとようやく頷いた。
「最初の部屋までなら同行を許すそうだ。ただしそこまで、だそうだが」
「それでいいです。倉敷さん、付いてきてください。何か重要そうなことを言ってる気がするんです。無視してはいけない何かを」
 やれやれと伊集院照子が肩を竦める。
「分かったから。倉敷を連れて行ってこい。後がつかえてるんだ。まったく、扉を越えてすぐに戻ってきたやつも前代未聞だが、二人で行きたいなんていったやつも前代未聞だ。まあ、いいから行って来い」
「はい!」
 琴は有無を言わさず、倉敷の手を取って走り出した。ものの数分で先ほどまでの空間に戻ってくる。
「ちょっとお琴さん」
「いいから来てください」
 天井付近には先ほどの揺らぐ光はなくなっていた。
 部屋の中央付近まで倉敷を連れて行く。
「しかし、何ですかね、この部屋は」
「しっ、黙って」
 はいはい、と小声で言いながら黙り込む倉敷。
 すると、再びピアノの旋律のような美しい声が聞こえてきた。
「うわあ」
 天井付近に現れた光のカーテンに、倉敷は間の抜けた声を上げる。
「倉敷さん、訳してください。あの光は何を言ってるんですか?」
「訳す?」
 戸惑いながら、美しい音に耳を傾ける倉敷。
「中国語ですかい……」
「なんていってるの?」
「いや、同じことを繰り返してます。選択を迫っているようです」
 やっぱり。昨日、伊集院照子が言ったとおり、進むべき道を選択させるために問いかけているのだ。
「訳しますよ、いいですか?」
「お願いします」
 倉敷はやれやれと脳天付近を掻きながら言った。
「ここは『真実の部屋』だと言っています。おそらく、ここが最初の関門。伊集院さんが言っていた『一合目』でしょう。お琴さんが知りたい真実を選択するように言っています」
「知りたい真実って何ですか?」
「ひとつ。『カナデ』という人について知りたければ、左側に見える道に進む」
「カナデ?」
 伊集院照子の言ったとおり、カナデという人間についてだった。
「カナデって誰なの?」
「あの光のカーテンが言うには、お琴さんにとってとても大切で、かけがえの無い人間だといっています。お琴さん、あなた『カナデ』って人を昔からよく知っているのに、忘れてしまっているようですよ」
「そんな人のことなんて知りません」
「僕だって知りません。ただ、大切な人らしいです。お琴さんにとって、自分の半身ぐらいに大事な人間なのに、お琴さんは忘れてしまっている。その自分の半身を取り戻したいなら、左側の道を選べといっています。ただし、選択しなかった場合は、一生『カナデ』という人物については思い出すことができず、多大な喪失をこうむるだろうと言っています」
 いったい『カナデ』とは誰なのか。どうして忘れてしまっているのか。自分にとってどれほど大切な人間なのか。多大な喪失? 私が心の底から愛した人なのだろうか。その人は、今いったい何をしているのか。こんなことなら、伊集院照子を問いただしておけばよかった。
 気になる。本当に忘れてしまっているというのなら、本当に自分の半身のように重要な存在なら、思い出したい。
「倉敷さん、選択肢のもう一つは?」
「これは僕もよく知ってる話ですよ。聞いたばかりですからね。僕はこっちのほうが気になります」
「なんですか? 内容を教えてください」
「昨日までに聞いた話は、正確ではないと言っています」
 昨日までに聞いた話? それはいったい何のことだろう。
「伊集院さんの話ですよ。ほら、千年前のトレチャークとか、エレーナの話」
「あの話……? 伊集院さんが話した内容は、嘘なんですか?」
「正確ではないと言っています。真実ではないと。千年前の、本当の真実を知りたければ、右側の道を進めと言っています」
「千年前の真実……」
 これが試練……。一合目で課される試練なのか。一方を選択すれば、一方を失う。そう言っているのだ。
 おそらく、『カナデ』という人物については、伊集院照子を問いただせば正体は判明するかもしれない。だが、私の中に存在するはずの記憶は決して戻らず、どれほど大切だったかも忘れたままなのだろう。
 千年前の真実についても、伊集院照子の話が間違っているのなら、ここで選択しなかった場合は、知る機会は無い。どこにも記録は残っておらず、伊集院照子の口伝だけが唯一存在する事実。
 どちらを選べば……。千年前の真実が違っているのなら、私は知るべきではないのか。そして、伊集院照子に伝えなければならないのではないか。
 なにより、琴自身が千年前の真実を知りたがっている。
「どちらを選ぶんですか、お琴さん」
「ちょっと待ってください。私だって迷ってるんです。どっちを選ぶかなんて……」
 どちらを選ぶべきか。
 伊集院照子にとっても『カナデ』という人物は重要だった。なにしろ、圧縮能力者で、スーリンが現れるまでは伊集院照子の後継者だと思われていた人物。
 千年前の真実だって、とんでもなく重要だ。なにしろ、世界を滅ぼしかねない人物の認識が百八十度変わる可能性だってある。
 どうする。
 どうするの、琴。

----------------------------------------------------------------------
PREV                          NEXT
----------------------------------------------------------------------

【訪問者】  【閲覧者】

inserted by FC2 system