あっちから変なの出てきた

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第三章 【 行雲途山 】


 運命はパクパの思い描く通りには進まなかった。
 その日、エレーナが想い人に愛を伝えには行かなかったし、その次の日がいつもどおりやってくることもなかった。
 以前から、この地に仏教の復活の兆しがあると聞きつけ、訪れる僧侶が増えてきていた。ところが逆に、この地を去るものも居るのである。
 去っていった者のその後のことを知る由はない。だが、去っていった人間のうち誰かが、他国でこの地のことを口にしたかもしれないし、またはこの地に住まう人間のことを口にしたかもしれない。
 それは悪意ある流言だったかもしれなければ、善意のある布教活動だったかもしれない。いずれにしてもこの地のうわさはチベット内に浸透していくことになる。
 時は宋王朝の時代。宋は北の遼からの大群の侵略に脅威を感じていたころ、グゲ王国と呼ばれるチベットと、宋と呼ばれる中国との交流はほとんど存在しなかった。ところが群雄割拠の時代、各地域に領土を主張するチベットの権力者たちは大国である宋との交流を深め、チベット全域の支配を優位に進めようと画策するものも少なくなかった。
 そのひとつ、吐蕃王朝の王族崩れの一人が建国した小国が、過去の栄光を取り戻そうと宋王朝との交流に向かう際、百人近くの女を宋王朝への土産としようと考えた。
 各地で美しい女性狩りが横行したのである。それは自国内にとどまらず、チベット全域から噂に麗しい美女をてあたり次第にさらい始める。
 宋と隣り合わせにある小国――ホルタ王国にまで噂をとどろかせた美女がチベットの高地に住んでいる。それは緑色の瞳を持った絶景の美女だという。ホルタ王国の隠密が天空の町にやってきたのは、トレチャーク、コート、エレーナがやってきてから一年半が経ってからのこと。
 三人が多大な犠牲を払って手に入れた平穏な生活は、一年半で奪われることになった。
 ホルタ王国人の隠密は五人でやってきた。当然、正体を隠してのことである。五人の隠密は天空の宮の噂を聞きつけて、修行をしたいとやってきたのである。いでたちも僧侶そのもので、僧侶としての知識、礼儀、たしなみも十分に備わっていた。
 それまでも何人もの僧侶志願者がやってきていたし、それまでは問題ひとつ起こっていなかった。ところが、トレチャークもコートも、平穏な暮らしに慣れすぎてしまったのか。危機感が薄れていたことは否めない。
 五人のホルタ王国人がエレーナを攫ったのは、やってきて七日目の深夜。エレーナが攫われた事実は、翌日の昼まで判明しなかった。
 その日は朝から厚い雲が天空を多い、氷のような風が吹いていた。嵐の前兆。一年半も住めば、誰もが知っているこの地の吹雪。
 その日、吹雪に備えて早々に仕事を切り上げたトレチャークの元に一人の女がやってきて「朝からエレーナを見かけないけど、どこに行ったのか知らないか」とたずねられ、心配になったトレチャークとコートが寺院、町を探し回ったが見つけられず、いよいよ行方が分からないと分かったころ、先日やってきた五人の修行志願者の行方も分からないことが分かった。
 トレチャークもコートも、すぐに気づいた。
 故郷で奴隷狩りに遭い、家畜同然の扱いを受けた世界で生きてきた彼らは、すぐに危機本能を思い出す。
 ほぼ確信に近い感情をもって、二人はパクパの元へ赴いた。
「パクパ様、エレーナが攫われました」
 開口一番、トレチャークがパクパに伝えると、さすがのパクパも取り乱したように表情を硬くした。
「攫われたとは、いつのことだ」
「夜半過ぎのようです。みなが寝静まったころだと思われます」
「それで、いったい誰がそのようなことを」
 トレチャークとコートはお互いを見合った。牽制のような空気が流れたが、口を開いたのはコートだった。
「七日ほど前に修行志願者として寺院にやってきた五人が、同様に朝から行方知れずとなっております。おそらくは……」
「僧侶を騙った野蛮人……」
「残念ですが……」
 ふむ、と唇を強く結ぶパクパ。
「すでに半日が過ぎておるか……。おそらく、まもなくこの地域一帯は豪雪が降るだろう。それを見越しての所業に違いない」
 パクパは暗に「慌てて追いかけたりするな」と咎めている。いま追いかけたとしても、追いつく前に高地の吹雪に巻き込まれ、崖ばかりの山道で遭難、転落などの事故を起こす危険が大きい。
「おっしゃりたいことは分かります。山の吹雪の恐ろしさは知っています。しかし、いま追わなければ追いつけません。他国に入られては追いつくことはさらに困難になります」
「わかっておる。だが、嵐の中を行くのは無謀を通り越し、ただの自殺行為だ」
「装備をすれば、どうにか追いかけることができます。ですので――」
「あれを出せというのか。しかし、あれは高僧が荒行に使用するもの。間違えてはならぬ。あれは魔法などではないのだぞ」
「しかし、いまはそれしか……」
 あれ、とはチベットの高地にだけに咲き、門外不出の花のことである。その花を乾燥して煎じ、他の薬草と調合することにより寒さを感じなくさせるというもの。
 極寒の地で荒行を行う修行僧に対し、凍死の危機に陥った場合に使用する気付け薬であり、使用を厳しく制限されている秘薬である。体内から強制的に新陳代謝を高めて体温を向上させるもので、通常時に使用すれば高熱を出して脳がやられる。良くて脳障害、悪くて植物状態になる恐れがある劇薬なのだ。
「ならばどうすれば……! ほかに方法があるというのですか!」
「秘薬を使ったとしても、雪は雪であることは変わらぬし、嵐が去ってくれるわけでもない。秘薬を使用しても凍傷は防げぬし、険しい山道は平らにはなってくれぬ。ただ寒くならぬだけの意味のないものと言っておる」
 トレチャークが立ち上がった。火口から噴出そうとする溶岩を思わせる立ち上がりかただった。おおよそ、故郷から逃亡を決意したとき以来の激しい怒りを感じたコート。
「我々は秘薬をいただこうと、いただけまいと、いずれにしてもエレーナを追うといっているのです」
「トレチャーク、そしてコートよ。どうか冷静になっておくれ。わしは正直、二人には特別な感情を抱いておる」
「特別な感情?」
「そうだ。二人とも、この地にとって欠かせぬ大事な宝だ。この地にやってきた二人を見たとき、菩薩が遣わした平和の使者だと感じた。トレチャークの指導力、コートの医師の経験と豊富な知恵。天空の地にとって、おぬしらは宝なのだ。いま失うわけには行かぬ」
 これにはコートも口を閉ざしてはいられない。
「エレーナは宝ではないというのですか」
「エレーナは至宝だ。美しさと優しさを兼ね備えた得がたい宝石のようだった。そんな宝を三人同時に失うわけには行かぬ。いま追えばおぬしらは間違いなく命を落とすと知っているのに、追わせる道理はない。つまり秘薬は出さぬということ」
「言ったでしょう。いずれにしてもエレーナを追うと。我々を大切に思ってくれている皆の思いは痛み入る思いです。しかし、エレーナを失うということは、我々にとっては体の半分を引きちがれると同等のことなのです。パクパ様には大変申し訳ないが」
 コートも立ち上がる。
 二人は静かにパクパを見下ろして言った。
「お世話になりました。この地で受けたご恩は一生忘れません」
 二人がパクパに背を向けたとき。
「行かせぬ!」
 齢八十を越える老人の声だとは思えない怒声が室内に響いた。だが、二人は驚かなかったし、エレーナを追う足取りが止まることもなかった。
 ところが、二人の歩みを止めたのはパクパの怒声ではなく、前方に立ちはだかった僧侶たちだった。部屋を出たところに僧侶たちが立ちはだかり、思いつめたように二人を見つめている。
「どいてくれ。急いでるんだ」
 僧侶たちは物言わずただ立ち尽くすのみ。
 二人は構わず前進しようとするが、僧侶たちに引く様子はなかった。
 すると背後からパクパの声。
「どうやら、思いはこの老いぼれと同じようだ。誰もおぬしらを行かせたくないらしい」
 トレチャークは目の前にいる僧侶たちに向かって大きな声を上げる。
「君らはむしろ、俺たちと同じ気持ちのはずだ。エレーナを失おうとしてる今、我々は協力してあいつらを追わなければならないんじゃないのか」
 苛立ちはコートも同じ。コートも一歩踏み出すと怒鳴った。
「あれほどエレーナを慕い、敬ってきただろう。君らにとってエレーナとはそれだけのものだったのか? 自らが危険になれば手のひらを返したように、エレーナを見捨てるというのか」
「そうじゃないよ、コート」
 こう答えたのはウンチャクという若い僧侶。
「僕らはみんな、身を切られる思いなんだ。エレーナを失って取り乱してるのは君らだけじゃない。だけど、それでも君らを行かせる訳にはいかないんだ」
「なぜだ。同じ思いなら、一緒に追いかけてエレーナを救いに行こうじゃないか」
「噂で聞いてるんです。近隣諸国のある支配者が、宋に取り入ってかつての吐蕃王朝のごとく国を統一しようと画策する動きがあると。エレーナはおそらく、吐蕃王朝の王族崩れが作ったホルタ王国に攫われたんじゃないかと……」
 ホルタ王国。群雄割拠時代の大きな国のひとつ。
「トレチャーク、コートといえども国を相手にするには分が悪すぎる。僕らには戦う力なんてひとつもないんだ」
 戦う力を持っていない。この言葉はトレチャークにとっても、コートにとっても衝撃的な一言だった。
 理想郷を作り出そうと、争いごとのない世界を作り出そうと、ここまで尽力してきた二人にとって「戦力はない」はとても理想的な言葉であり、絶望的な言葉でもあった。
 戦力を持たないということは、相手の攻撃に対してただ蹂躙されるしかない。
「それでも……俺は行く」
 そう言って、トレチャークとコートが一歩前へ踏み出したとき、パクパが悲痛そうな声で言った。
「仕方がない、皆の者、二人を捕らえ、地下牢へ」
「パクパ様……それは……!」
 ウンチャクが慌てるが、パクパはゆっくりと首を横に振る。
「自殺行為を見過ごすわけにはいかん。分かっておくれ」
 トレチャークもコートも、絶望的な思いで二人を捕らえようとにじり寄ってくる僧侶たちを見つめるしかなかった。
 
 
 
「美女狩りですか」
 琴がポツリと呟くと、伊集院照子は「けったいな話だが」と前置きして言った。
「中国への貢物として、美しいと噂になってる女を百人近く集めたらしい。まったく、いつの時代も女は道具や飾り物くらいの扱いしか受けん」
 ヤクで進むこと一時間程度、平坦に近かった道のりも、徐々に傾斜がきつくなる。そろそろヤクでの移動は困難になるかもしれない。
 ヤクでも乗り物酔いして顔面蒼白な倉敷を横目に、琴は伊集院照子の話で気になった点を質問することにした。
「女性蔑視の問題も重要ですが、伊集院さんの話で気になったのは、問題のトレチャークがそれほど悪人であるようには思えないところです」
「私はトレチャークを極悪非道の大悪人だと言った覚えはない」
「ですが、これまではそんな印象を受けていました」
「存在が悪なのであって、私はトレチャークの人格の問題まで言及した覚えはない。トレチャークは存在することが最悪の出来事で、災厄なのだ」
「存在するだけで悪だなんて、いったいどんな存在なんですか? 人外のように、人間に悪影響を及ぼす瘴気を発しているというんですか?」
「そんな問題ではない。これは世界レベルでの話だ。あいつが存在していることで、世界がなくなってしまう恐れがある。だからこそ、封じる必要がある。いわば、誤魔化しているに過ぎないのだが……」
「誤魔化している? やっぱり意味が分かりません」
 話の途中申し訳ないが……と言いながら、倉敷が追いついてきて言った。
「そろそろヤクを降りて、徒歩で移動しないか? 僕から言い出したことで恐縮だけど、もうこれ以上、揺れる乗り物の上は耐え切れそうにない」
 倉敷は飛行機でも青い顔をしていたし、チョモランマBCまでの悪路でも車酔いをして何度も胃の中の物を戻していた。乗馬などで乗り物酔いをしたなどという話は聞いたことがないが、倉敷の死人のような青ざめた顔を見る限り、これ以上のヤクでの移動は可愛そうだ。
「あと歩いて二時間ほどだ。徒歩でも問題ないだろう」
 伊集院照子の判断で、ここでヤクを降りることにした。ガイドと別れ、この先は徒歩になる。次のC1エリアに向かう登山者の目を避けるように道を外れ、伊集院照子の後を付いていく。
 さすがにここまでくると空気の薄さが身にしみてくる。少し歩くだけで息切れし、とても口を開く余裕などなかった。伊集院照子も同様で、先頭を歩いているものの振り返ったり、口を開いたりすることもない。
 トレチャークのその後の行方が気になったが、散歩しながら会話するような軽々しい道のりではなかった。
 時々、酸素ボンベから酸素を補給しながら、進むこと三時間。伊集院照子の見積もりを一時間オーバーして、たどり着いたのは渓谷のような小さな山間部。ちらほらと周囲に雪が積もっていた。
 日が暮れ始めており、琴はてっきりここでビパークするのもだと思ったが、そうではなかった。ここが目的地らしい。
「ここが行雲途山ですか?」
「そうだ」
「見る限り、なにもないですよ。右も左も山しかありません」
「そうだ。ちなみに行雲途山とは読んで字のごとく、雲に行く途中の山という意味。いま左右にそびえる峰が修行場だ。まず、どちらの峰に行くかの選択を迫られる」
「そんな選択があったんですか?」
「まあ、ここまで来た人間にしか教えられないことだ。付いて来い。あそこに入り口がある」
 言われたとおり付いていくと、少し歩いたところに大きな岩があった。球体の岩は琴の身長の四五倍はある。
 伊集院照子はその岩にそっと触れ、目を瞑った。膠着すること一分弱、なにが起こるのかと目を見張っていると、岩の向こう側からひょっこり人が現れたのである。
 こんなところに人が? と疑問に思う間もなく、現れた人間に対して別の疑問が浮かぶ。現れたのは小さな女の子である。東洋人のようである。年のころ、十に満たないような少女。
 なんでこんなところに小さな女の子が?
 岩陰から現れた女の子は、ニコニコ笑みを浮かべながら、何かを口ずさんで琴の手をとった。
 困ったように伊集院照子を見るが、岩に手を置いたまま目を瞑っている。振り返って倉敷とスーリンを見るが、二人とも呆然と琴を見返してきただけだった。
 少女が琴を見上げて何かを言っているが、言葉が分からない。すると、倉敷が通訳してくれた。
「どうやら歓迎しているらしい。ここに人が来るのは久しぶりなようだ。こっちに来てと誘っているが……それより、こんなところにどうして少女が?」
「集落が形成されている。この岩の下にな」
 伊集院照子が瞑想から戻ってきてそう言った。
「中国政府も黙認している。ここには術師の郷があり、私が前に来たときには五十人近くの術師がここに住んでいた。彼らは修行をサポートするためにここに常駐しているのさ」
「まさか、こんな少女が?」
「中国やチベットの民間の術師組織が支援してる。ここに来客のある術師を厚くもてなすように彼らは言われてるのさ」
「伊集院さんはいま、なにをやったんですか? 岩に手を当てると、彼女が出てきたようですが」
「インターフォンのようなものさ。我々がやって来たことを知らせた。私が来たときはむさ苦しい男が出迎えたが、まあ、誰だっていい。その娘に案内させよう」
 琴は少女に手を引かれるまま歩き出すと、実は巨大な球体の岩の後ろ側には地下に下るような階段が隠してあって、その階段を下っていくとちょっとした開けた空間があり、なんと電気が通っているらしく明かりが点っていた。洞窟内のような印象は全く無く、立派に建築、装飾された部屋だ。奥に通じる扉の前に机が置かれており、パソコンらしき端末も置かれているし、壁には本棚があり、数々の本が並んでいる。ちょっとした事務所のような印象。
 来て来て。
 そう言ったのかは分からないが、浮かれた様子で少女がディスクまで誘う。
 ディスクの引き出しから書類を取り出して、人数分並べた。少女はペンを差し出してくる。何かを記入しろというのか。
 ここでも倉敷が通訳する。
「入室許可申請のようなものらしい。氏名年齢国籍住所を書いて、拇印をしてくれと言っている」
「そんな面倒な手続きができたのか」
 伊集院照子がぼそりと漏らす。
「私のときはこんな部屋も無かったし、もちろん、電気など通っていなかったがな」
 百年も経てば変わるものは変わる。
「じゃあ、とりあえず書類に記入しましょうか」
 中国語で書かれた書類に、氏名年齢国籍住所捺印を施し、四人分の書類を少女に渡した。倉敷が少女の言葉を通訳する。
「ここで待ってろってさ」
 少女は扉の向こうに消えていった。
 なにがなんだか分からないままの琴は、伊集院照子、倉敷、スーリンと顔色を伺う。
「伊集院さん、この先はどうなってるんですか?」
「たしか、穴のような形状の洞窟に集落がある。壷の中のような形状だった。天井の一部に穴が開いていて、昼間はそれなりに明るいが、夜は暗かったな。私も一泊しかしてないので、記憶はおぼろげだが」
「一泊するんですか?」
「私が一泊したのは修行から帰ってきてからだ。疲労しきっていたからな。休まなければ一歩も歩けもしない状態だった。本来なら、一週間ほどは足腰も立たないほどに疲弊していたが、私には目的があったので、翌日にはここを離れた」
「目的って、トレチャークですか?」
「ああ。今回と同じ、私もトレチャークを取り逃がしたんだ。再度捕まえるためにここで修行をし、力をつけてトレチャークを追った」
「へえ、そのときの話も聞きたいですね」
「取り逃がしたのは失態だった。自分の恥をさらすような話はごめんだな。だが、私の数々の伝説は、トレチャークを追う過程で生まれたのは確かだ」
 自分で伝説といってしまうところが、伊集院照子の唯我独尊ぶりが垣間見れる。
「私がいかにして英雄として祭り上げられることになるかは、機会があれば話してやろう」
 そうだ。いまはトレチャークの話を聞かなければならなかったのだ。たしか、宮殿の地下牢に閉じ込められることになったトレチャークとコート。その先で、どうしてトレチャークは変貌を果たすのか。
「伊集院さん、トレチャークとコートはその後、どうなったんですか? 牢に閉じ込められるんですよね」
 すると、倉敷が言った。
「伊集院さんの話を、スーリンに通訳していたんですが、スーリンも続きが気になっているようです。まあ、そういう僕も気になりますが。ちょっとしたラブストーリーみたいですから、スーリンみたいな乙女にはたまらないでしょうね」
「ラブストーリーね。この話は世界の崩壊を招く史上最悪の人間を作り出す結末だと知っている私は和めないけどね。言っておくが、この話に都合の良い結末を期待するなよ。話し終わるころには三人とも戦慄して凍り付いていることになる。話してやるのはやぶさかではないが、落語や逸話のような娯楽話ではない。覚悟して聞け」
 そう言われてはさらに興味を惹かれる琴。伊集院照子はまるで紙芝居に夢中になる子供を相手にしているかのようにため息を漏らすと、その後の話を始めた。
「トレチャークとコートは、集落にとって必要不可欠な存在になっていた。トレチャークの情熱と指揮力は天空の宮の再建築の進捗に多大な影響を与え、人々のモチベーションも引き出していた。コートの医学の知識と、そのほかの潤沢な知識は、人々の病を治し、生活の知恵を与えていた。二人がその地にとってどれほど重要な役割を果たしていたか。女神と崇められていたエレーナを切り捨てる決断を余儀なくされるほどに大きな存在だったのさ。だからこそ、地下牢に拘束した。だが、パクパのその判断は誤っていた。二人は結果的に天空の町から去ることになる。まずは閉じ込められた地下牢からの脱出」
「牢から? どうやって脱出を?」
「重要なのは牢から出て、二人がなにをしたのか、だ。牢をどうやって破ったなどたいした問題ではないし、そんなもの知らん。とにかく牢を出た二人はそれぞれ、別の道を歩む。極寒の地、加えて高い標高。山を降りるなど自殺行為であることは二人も良く分かっていたし、このままエレーナを追うにしても二人だけでは力不足を否めなかった。格闘経験も戦闘経験も無い。レーナを追うために、自分たちに足りない力を補うため、二人はそれぞれ違う目的を持つ」
「二人は別れるんですか?」
「一時的にな。だが、再び出会う約束を交わして、二人袂を分けた。二人は目的を違えたが、結果的にはお互いがお互いの目的を補完するために交錯することになる」
「交錯?」
「説明する。トレチャークは不老不死の妙薬が存在すると言われていた行雲途山修行へ向かった」
「不老不死の妙薬ですって!?」
 隣で倉敷がスーリンに通訳し、やや遅れてスーリンも琴のように驚きの声を上げた。
「そんなもの、本当に存在するんですか?」
「存在するわけがないだろう。だが、行雲途山修行を最終工程までクリアすると、不死の秘薬により不老不死になれるという伝説は昔からあり、現在でも語り継がれている。まあ、真偽のほどは最終工程までクリアした人間のみぞ知るってことだ」
「伊集院さんはいけなかったんですか?」
 伊集院照子は苦笑した。
「まあ、資質的にはこんな山などクリアして当然だったが、私は行けないんだよ。四合目までしかね」
「四合目までしか行けないんですか? 伊集院さんだから? どうしてですか?」
「私の宿命や運命って言うやつだろう。私はその先に行ってはいけない。いずれ説明するが、いまはトレチャークとコートの話だろう」
 そうだ。
 話が脱線する前に軌道修正した伊集院照子は、続きを語る。
「トレチャークは行雲途山修行、そしてコートはチャクラの研究を始めた。チャクラとは体中に存在する力の源のようなものだ。トレチャークは不死の体を得ようとし、コートはチャクラにより力を得ようとした」
「あれ、でも……」
 琴は話の矛盾に気づく。
「行雲途山修行に行こうとしていたのは、もともとコートのほうですよね。それにチャクラの話をパクパとしたのもトレチャーク……」
「いい観点だ。その通り。真実は分からないが、地下牢の中で密約でもあったのかもしれないな。お互いの長所を生かし、それぞれの道を相談して決めたのかもしれない」
「長所を生かす?」
「行動力と体力であれば、トレチャークのほうが上回った。だからこそ、行雲途山修行へ行き、知性と発想力であればコートのほうが上回った。だからこそ、学問や研究の道を選んだ。お互いがお互いの得意分野を生かし、それぞれが結果的に融合した、と言うべきか」
 スーリンがあやふやな顔をした。うまく理解できないらしい。琴も理解し切れない点がある。しかし、それは話の結末で結ばれる約束下にあるのだ。とにかく続きを聞くことが大事だと判断する琴。
「天空の宮に残ることにした「振り」をし、チャクラの研究を始めたコートと、天空の宮を後にし、行雲途山修行へ向かったトレチャーク。どちらの目的が達成されたかというと、微妙なところだが後者だった。行雲途山修行に向かい、そこで何らかのきっかけを掴み、コートの元へ帰ってくるとチャクラを得ることに成功した」
「何らかの力? それは不老不死の妙薬のことですか?」
「不老不死の妙薬などない。だが、それに準ずる何らかの知識を手に入れたことは間違いない。そこでコートの元へ戻り、チャクラを得る」
「コートはどのようにチャクラを得る方法を見つけたんですか?」
「質問ばかりしおって。私が説明しないと言うことは、私が知っていないということ。どのようにチャクラを得たのか、私が知っていれば苦労はしない。結局、何も分かっていないと言うこと」
「何も分かっていないのなら、なぜ不老不死の妙薬は存在しないと言い切れるんですか」
「前に行雲途山修行にやってきたときに、高僧に聞いた。その坊主が無いと言う以上、ここにはそんな妙薬などない」
「高僧? 誰ですか、それは」
「それについては心配するな。お前も会うことになる。この先でな」
 ここまで千年前のエピソードを明確に語らってきた伊集院照子は、ここにきてあいまいな言い方をした。知らない? いや、何かを知っていて、核心を突かない話し方をしている?
 怪訝に思ったが、何か考えがあるのだろう。琴は話の続きを促した。
「コートの元に戻ったトレチャークは、その後どうしたんですか?」
「コートによって、チャクラの力を得たトレチャークは、エレーナを救う旅に出る」
「コートは?」
「天空の宮に残った。人々を見捨てていくことができず、コートは苦悩したが、結局は残る決意をした。コートとトレチャークの同じ理想。天空の宮を再建し、仏教を復興させる。それとエレーナを取り戻す。その二つの目的を、それぞれが担った。コートは天空の宮の再建と、そこに住まう人々の面倒を見て、トレチャークは中国までエレーナを探しに向かった」
 コートは残ったのか。しかし、トレチャークが得たチャクラとはなんだろう。どんな力なのか。それが世界を滅ぼしかねない強大な力だとしたら、それがこの話の核心ではないのか。
 そう思った瞬間だった。
 琴はある事実を連想し、雷に打たれたように全身が痺れた。立っていられないような衝撃。滝を脳天から浴びているかのようだった。
 昨日までに観光したチベットのラサ市内。そこで琴はあるものを見つけて、伊集院照子に尋ねたではないか。それはチャクラのひとつと言われ、力を持つ者の象徴のように描かれていると!
 気温の低さに反比例し、琴は額や背中に大量の汗をかく。
 この話、やはり伊集院照子が前置きしたとおり、とんでもない戦慄の結末を迎えるのではないか。
 寒い。この話しの続きを聞くのが怖い。膝が震える。
 四人が居た一室の扉が開かれた。
 その音が、食器を床にぶちまけたかのごとく轟音に聞こえて、琴は縮み上がって悲鳴を上げた。開かれた扉の向こうから現れたのは若い女。西洋人のようだった。
 赤毛を一本に結って、民族衣装を身にまとった彼女は、琴を見るなり目を丸くして、中国語で何かを早口にまくし立てた。
 次には笑顔になって琴の手をとると、まるで哀願するかのようにしきりに何かを訴えてくる。
 困ったように倉敷を見ると、通訳してくれた。
「君を待っていたと言ってるぞ。彼女は君の事を知っているらしい」
「私のことを?」
 熱い視線を向けてくる西洋人の女は、琴の手を引いて扉の向こうへ案内した。後を付いてくる三人。
 私を待っていた? 私のことを知っている? そんなわけがない。ここにくるために必要な許可は何一つ取っていないし、やってくるのだって初めてのはずだ。いや、断じて初めてだ。彼女が私のことを知っているはずがない。
 伊集院照子が何か知っているのではないかと振り返ってみるが、伊集院照子も意味が分からそうに肩を竦めている。
 扉の向こう側は短い通路を挟んで、開けた空間が広がっていた。伊集院照子の言うとおり天井は高く、見上げるとビルの五階ほどの高さがあり、一部に大きな穴が開いている。その昔は公言がその穴だけだったと思われるが、現在ではいたるところに明かりが存在し、洞穴内は非常に明るい。
 洞穴、と表現したが、そこが洞窟などとという印象はほとんどなく、ちょうどラサで観光したポタラ宮内のような宗教色の強い印象。
 中央に巨大な岩柱があるほか、ぽっかりと空間が広がっており、壁の側面に埋め込まれるように住居が作成されている。中央の岩柱からは常に水が流れ落ちており、周囲に池を作っている。その周りで女たちが選択や炊事をする様子を見る限り、そこが中心的な水場のようだ。
 空間の規模は、中央の岩柱を中心に半径が六、七十メートルほど。完全な円形ではないので正確ではないが、相当に広い印象。
 この広場以外にも空間があるかどうかは不明だが、ここは行雲途山修行の入り口と考えれば、空間はここだけではないはずだ。周囲を見渡すが、それらしい空間はない。明かりがあって見通しは良いが、死角は多い。
 明かりがあるといっても冷たく黒ずんだ壁に囲まれた空間は、まるで観光地の鍾乳洞に入り込んだような不思議な感覚だったし、やはり非日常的な幻想的な雰囲気を感じた。
 空間の神秘さに感嘆する暇もなく、琴たちがやってくるなり、洞穴内の住人たちが「わっ」と声を上げて駆け寄ってきた。琴もほかの三人も何事だと身構える。一瞬にして琴たちは洞穴の住人たちに囲まれた。総勢、三十名あまりの女や子供、僧侶たちが琴を取り囲み、笑顔を浮かべながら口々に何かをしゃべっているが、当然意味が分からない。
「こういっせいにしゃべられちゃ、なにを言ってるのか分からないな」
 倉敷が肩をすくめると、隣でスーリンがぼそりと呟いた。それに耳を傾ける倉敷がスーリンの言葉を略す。
「やっぱり『待っていた』と言っているようだ。どうやら琴さんのことを待っていたらしい。さっきの少女が案内したい場所があるといっている。ほかの女が食事の用意をすると言っている。ほかの僧侶が高僧に会わせると言っている。さて、どうする?」
 どうするって言われても……。琴は少女を見た。この初めての土地で初めて出会った少女に、琴は一番心を許している。そう感じて、とりあえず少女が案内したいという場所へ行ってみようと思った。
 少女についていこうとすると、スーリンと倉敷は別の女たちに捕まって、大歓迎を受けながら別の場所に促された。
 伊集院照子は百年前にここに訪れているが、そのころに居た人間は現在、みな亡くなっているだろう。彼女を知る人もいない。初顔に等しい伊集院照子は人盛りの間を縫って琴に追いついてきた。
「やれやれ、百年で雰囲気もだいぶ変わったな。前はこんな陽気ではなかったぞ、ここの住人たちは」
「いいじゃないですか、邪険に追い払われるよりも。それより、なぜ歓迎されているんでしょうか。しかも、私を待っていたかのようなことを言ってますが」
「私にも分からん。どうやら、待たれていたのは琴だけのようだが、さっぱり分からん。私も戸惑ってる」
 少女に促されるまま歩いていくと、洞穴の中心にある岩柱の横を通り、奥にあった家に近づいていく。その間も、住人たちが一様に琴を目で追いつつ、柔和な笑顔を浮かべている。歓迎されているのはうれしいが、なんだか気持ちが悪い。自分の知らない人たちが自分を知っている奇妙さ。これが有名人の感覚なのだろうか。
 洞窟の側面に埋め込まれるように立ち並ぶ住居のうち、他の住居よりひときわ装飾された住居に案内される。
 いや、住居ではない。ここは小さな寺院である。
 室内に案内されると、オレンジ色を貴重とした壁画や彫刻、仏像が立ち並び、あまり広いとはいえない部屋の中にひしめいている。さらに奥の部屋に入ると、薄暗い部屋にたどり着いた。
 そこにはさらに数々の壁画や絵画が飾られていたが、どれにも薄いベールがかかっている。
 人の気配はなく、表の喧騒もここまでは届かない。静かな一室で、少女は握っていた琴の手を放し、部屋の奥へ歩いていく。
「まだほかにも部屋はありそうだな。おそらく、ここは美術品や歴史的文献を収めている寺院に間違いない。おそらく、初代のS級札はここにありそうだ」
 伊集院照子の声は聞こえていたが、琴は少女の行方を気に掛けていた。少女は壁際に近寄ると、にこやかにこちらを振り返り、そばにあった薄い膜のようなベールを掴む。
 それを一気に引き剥がすと、そこに現れたのは一枚のタンカ。タンカとは刺繍のように描かれたタペストリーのような絵画である。
 そこに描かれた一人の女性。
 額に第三の目を持ち、三つの瞳はどれも緑色をしている。
 肌は雪のように白く、節目がちな目は周囲に戯れる子供たちを優しく見下ろしている。
「この絵は……」
 琴は呆然と近寄っていく。
 少女が何かを口ずさんだ。しかし、聞き取れない。
 近寄ってよく見てみる。
 左手に蓮の花を持ち、右手で子供の頭をなでている。背景には正体の分からない数々の花が数珠繋ぎとなって輪を作っている。
「似てるな……」
 背後から伊集院照子の声。振り返れない。
「これ……私……?」
「なぜ、琴が描かれている? いや、ただ似ているだけか。この地で崇拝する菩薩なのか。だから、似ている琴を歓迎したわけだ」
「でも、このタンカ……菩薩が描かれたものだとしても、いったい……」
 少女が興奮気味に何かをしゃべっているが、残念ながらここには倉敷が居ない。
 だが、少女が話した言葉の中に、ある単語を聞き取って、琴は戦慄したのである。伊集院照子も聞き取った。果たして伊集院照子が戦慄したかどうかは分からないが、聞き間違いではないことは確かである。
「琴、私の聞き間違いでなければ、いまこの小娘は……」
「え、ええ。私も聞こえました」
 再び少女はタンカを指差しながら、興奮気味に口を開く。
 今度は何度か、問題の単語が聞き取れた。いや、単語と言うよりも固有名詞。
「エレーナか……!」
 伊集院照子の声が高ぶっていた。
「エレーナ……? でも、どうして第三の目が……」
 琴は自分の声が遠くから聞こえた気がした。伊集院照子は琴の隣に立つと、そばで絵をじっくりと観察する。
「しかし、琴に似ている。第三の目はおそらくターラー菩薩に照らし合わせて描かれたものだろう。本当に第三の目があった訳ではない。それにしても、絵が残っているとは……」
 そして、強烈に琴は渇望した。
 千年前、その後のトレチャークやエレーナの行方が。いったい、エレーナは攫われた後、どうなったのだろうか。
「伊集院さん。本当は全て知っているんでしょう? そろそろ、全て教えてください」
「全てを知っているわけではない。確かにあいまいに表現した部分がないとは言わない。しかし、ここにエレーナの絵があると知っていたわけではないし、しかもお前に似ているなどと、露知らなんだ」
「本当ですか? なら、エレーナは攫われた後、どんな運命をたどったんですか? トレチャークは? エレーナが愛していたのはトレチャークとコート、どちらだったんです?」
「心配しなくても、全て話してやる。だが、スーリンも知りたがっている。あの小娘にも聞かせてやろう。そして、どうやら聞く義務がありそうだ」
「スーリンに聞く義務が? それは七十億分の一の人材だから?」
「いや、どうやらスーリンが私の後継者のようだからさ。私の先代は言った。後継者はいつの時代も女だったと。奏が後継者だったと思っていたが、どういうわけが違うらしい」
「どうして女なんですか?」
「知らん。それが運命が定めた理だということくらいしかな」
「ソウ・リュウメイは男性でしょう? 初代は男性ってことになるじゃないですか。矛盾しています」
「お前の言うとおりだ。私も長年抱えていた矛盾さ。おそらくは、ソウ・リュウメイは、本当は女だったか……いずれにしても、トレチャークを封じる役目を負った人間は、歴代、全て女性だった。ならば私の後継者は奏ではなく、スーリンだってことだ」
 琴は、再び伊集院照子から奇妙な言葉が吐かれたことを見逃さなかった。
「伊集院さん、前から聞こうと思っていたんですが……」
「なんだ?」
 少女はベールでタンカを再び覆う。その横で、琴は伊集院の横顔を見る。
「奏とは? なんだか、私がその人を知っているかのように話しますが、私は奏という人物を知りません」
 伊集院照子の横顔が凍りついた気がした。そして、何かが沸き起こってくるかのように、徐々にこちらを向く伊集院照子。その目に称えられる驚愕の光。
「お前……なにを言っている?」
「だから、奏とは誰ですか? 私が会ったことのある人ですか?」
「あったことがあるも何も……お前、本気で言っているのか?」
「本気ですよ。ずっと聞きたかったんです。時々、当たり前のように『奏』って人の名前を出しますが、いくら考えても思いつきません。圧縮能力者の持ち主なら有名人だろうと思ってインターネットでも調べましたが、そんな人は引っかかりませんでした」
 伊集院照子は凍り付いてしまったかのように制止し、琴の相貌を見つめ続けた。気味が悪くなって「な、なんですか? 何か顔についてますか?」と尋ねると、伊集院照子は徐々に正面を向いて、独り言のように言った。
「どうやら、本気で言っているようだな。そういえば、ここ最近、奏のことを一切口にしないとは思っていたが……。だが、なぜだ……」
「伊集院さん?」
「まさか……まさか……これが神の怒り? 隔世に渡るという、神を冒涜するような行為の代償? 自然ともいえる神が創った、現世と隔世という世界とその隔たり。隔たれているからこそ、世界が均衡を保つ。それを飛び越えようとすることは神の意思に反する行為。世界の摂理を乱す罪深い愚行。確かに何か起こるのではと予感はしていたが……」
「ほら、またあいまいな言い方をして。ちゃんと教えてください」
 言っても、伊集院照子の耳には届いていない様子。伊集院照子は独り言を続けている。
「ならば、なぜ私は覚えている? 個人差がある? 琴と私の違い? 分からない。まさか、琴以外の家族もあいつを忘れている? 隔世に渡ることで、時空の復元力が最初から何もなかったかのように存在を消してしまったのか……?」
「伊集院さん!」
 大きな声を出すと、伊集院照子は夢から覚めたように琴を見た。
「教えてください。ちゃんと答えてください」
「……教えるまでもない。お前が選択するのだ」
「選択?」
 またあいまいな言い方。
「私は言ったな。この行雲途山修行とは、最初に選択を迫られると。それは真実を選ぶ二択だ。間違いない。そのときに問われるだろう。お前はどちらの真実を選択するか」
「そのときに分かるんですか?」
「お前が選べばな。だが、何度も言うとおり、選択は二択。甲乙つけがたい二択を迫られたとき、お前がどちらを選ぶか」
「もうひとつはなにを聞かれるんですか?」
「それは私にも分からない。しかし、私にも分かったことがある。ここにきて、世界がなにを起こそうとしているのか。ほんの少しだが、世界の意志が分かった気がするんだ。私はそれを確かめたい。お前が修行に行っている間に」
 何のことを言っているのか、やはり分からない。どうせ尋ねてもまたあいまいに誤魔化される。なら、いったんスーリンたちの元に戻って、千年前の話を聞こう。
 戻りましょうと伊集院照子を促して、少女とともに寺院を出る。伊集院照子は考えに耽った様に無言を貫いている。
 しかし、寺院を出るころにぼそりと呟いた伊集院照子の声は確かに琴の鼓膜まで届いていた。
 心のなしか震える声で伊集院照子は呟いた。
「恐ろしい……。運命は私が思っていたよりも、ずっとずっと残酷かもしれん……」
 琴は体の芯から冷たいものが広がってくるのを感じたが、伊集院照子を振り返らなかったし、尋ねたりもしなかった。

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