あっちから変なの出てきた

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第二章 【 約千年前 】


「約千年前のチベット……」
 喧騒の中でも、伊集院照子の声は鮮明に聞こえた。それはことの集中力のなせる業だった。
 話に耳を傾け、集中していくうちに自分が千年前の世界に入り込んでいく予兆を感じた。
 これは体験に等しかった。これから綴られる千年前のエピソードは、琴の擬似体験記。
 琴は話の世界に引き込まれていく――。
 
 
 
 ――そして約千年前のチベット。
 荒野を歩く七人。男は五人、女は二人。
 それから、ひたすら続く無言。
「天空の町はまだか……」
 沈黙を打ち破るように、ときおり誰かが声を上げたが、砂交じりの乾いた風に溶けて消えていく。
 七人は一様に足元ばかりを見て、ひたすら歩を進めていたが、先頭を歩く男だけが頑なに正面ばかりを見続けた。男の目には悲壮な決意の色が見え隠れする。かならずたどり着く。そんな決意が絶望と失望の中、ちらほらと。
 足腰は力が入らず、体中が干からびてしまったかのように関節も曲がらない。杖代わりの棒切れがなければ立つこともままならず、いくつも野山を越え、さらに前方に大きな山脈が立ちはだかった。
 男は絶望に打ちひしがれ、絶望と言う名に違いない山脈の前でひざまつく。
「もう……無理よ」
 女――リザヴェータが呟いた。男――トレチャークの耳に声は届いていたが、もう反応すらできなかった。もう無理。そんなこと、言われなくても分かっていた。
 もう一人の男がトレチャークの隣に立つ。色白のやせた男。色素の薄い髭を伸ばし、女のような顔立ちの男が静かに口を開く。
「どうする。引き返すか」
 小さな声しか上げられないのは、乾燥した大地に喉がやられてしまったからだ。しゃべることさえ苦痛なのだ。
「ここまできたら……行くも地獄、引き返すも地獄。ならば前向きな地獄を選ぶ」
 領土としてはチベット内に違いない。ところが、聞いた話では現在チベットは無数の権力者が犇めき合う群雄割拠の状態で、チベット仏教は消滅してしまったと言う。
 期待していたチベット仏教の教え、救いは道半ばにして崩れ去ったにもかかわらず僅かな期待だけでここまでやってきた。
 ――やはり、神はいないのか。
 国を亡命する際、六十人はいた仲間たちも目的を違えては別れ、あるいは道半ばにして死に別れ、今では七人。
 トレチャークは振り返った。
 もう、半ば死んでしまっているかのような六人の男女。一様に生気なくうなだれる中、一人だけは確かなまなざしを向ける女がいた。エレーナである。エレーナはまだ若く、美しい容姿に、トレチャークと同じ緑色の瞳を持った妖麗な女だった。性奴隷になる直前に亡命を図り、黙って付いてきた女である。一言も口を利いたことはない。だが、この女だけはいつも面を上げ、トレチャークの言葉を熱心に聴くのである。
 性奴隷になる直前に助け出し、この旅の道連れとなった。亡命集団の中でも若く美しいエレーナは幾度となく襲われかけたが、トレチャークが何度が助けたことがある。目の届かないところまでは知らないが、それからというもののエレーナは今のような熱心な視線をトレチャークに向けてきた。
「強制はしない。俺はあの山を登り、天空の町に向かうつもりだ」
「行こう。一人では無理だろう。僕も行こう」
 そう言ったのは先ほども「どうする」とたずねて来た色白の男――コートだ。コートの豊潤な知性と医学知識は、この逃亡の旅に多大な貢献をした。彼の天才的な直感と知性で、幾度となく危機を回避し、怪我を負うようなことがあってもどうにか進み続けられた。危険な盗賊、小国の軍隊などと出くわすことなくここまで来れたのはコートの助言のおかげといっても過言ではない。
 コートが付いてきてくれるなら、これほど心強いことはない。トレチャークは心からそう思った。
「わ……わたしも……」
 エレーナがそういいながら手を上げた。そういうと思ったトレチャークは、一抹の不安を覚える。何度かエレーナを助けてしまったために、彼女はトレチャークを慕い、依存してしまっている。
「エレーナ、付いてくるのは構わないが、この先は今まで以上に過酷な道のりとなるだろう。お前が遅れをとれば、我々は自ら前進することを優先する。つまり置いていくということだ。覚悟はできているのか?」
 一瞬、ひるんだような表情を見せたエレーナだったが、次には覚悟したように頷いてみせる。
 結局、そこで二人と別れる。山脈を登り、天空の町を目指すべく残ったのはトレチャークとコートとヴォルグ。それに女性二人のエレーナとリザヴェータ。
 五人が山を登り始めてしばらくして、荒野を振り返る。荒野を引き返していた二人の仲間たちが高台の位置から見下ろせた。
「仕方がないさ。彼らの選択が間違っているとは言えない」
 コートがなだめるように言った。そうだとしても、トレチャークは付いてきてほしかった。だが、今となっては、この亡命を企てたトレチャークの信頼も失墜していることは理解している。六十人近くを先導して、こうして五人にまで減ってしまってはトレチャークの選択こそ、間違っていたのではないかと思える。
「最初から厳しい旅路だと言うことはみな知っていた。死んだ仲間たちだって納得して死んでいったはず。お前が気に病む必要などないんだ」
 納得できる死などありえるはずがない。だが、トレチャークは黙ってコートの言葉に頷いておいた。
 亡命から一年が過ぎようとしているいままで、とめどない思考の時間だけはあった。生まれた境遇という、それだけの違いで命の重さが天と地ほどに違うこの世界。不条理にうちひしがれ、理想郷を求めてここまでやってきた。
 旅の途中で幾度となく聞いた天空の町――理想郷が果たしてこの先にあるのか。自信はなかったが、信じるしかなかった。
 山を登り始めて七日目に、ヴォルグが死んだ。
 栄養失調と疲労と高山病が重なり、夜明けに目を覚まさなかったヴォルグは永久の眠りに付いていた。
 何人目の死を目の当たりにしたのだろうか。このまま鉄の塊になってしまうのではないかと思うほどの重い慟哭と謝罪の念。
 岩ばかりの山腹で、埋葬してやることさえできない。ヴォルグをそのまま残し、さらに山を登る。
 周囲が雪で白み始める。雪は降っていなかったが、高山と言うこともあり気温も下がり、足元もおぼつかない。
 体を横にして、人一人ようやく通れる崖の細道で、リザヴェータが転落した。高さで言えば数百メートルはある崖をまっさかさまに転げ落ちるリザヴェータが助かったとは思えない。
 短い悲鳴だった。「あ」とリザヴェータが声を上げたと思うと、トレチャークが振り返ったときはリザヴェータの悲鳴がはるか下方で聞こえてきた。
 トレチャークも、コートも、エレーナにも言葉はない。崖の岩肌に叩きつけられながら人形のように落ちていくリザヴェータを見て、ただ戦慄するしかなかった。
 十五日目にコートが動けなくなった。
 意識も朦朧とし、うわごとばかり口にするようになる。それから二日間、トレチャークはコートを背負って山を登ったが、コートは最後にポツリと言った。
「俺を置いていけ」
 もちろん、受け入れがたい提案だった。
「俺が半ば意識がないのは自覚してる。また意識がはっきりするとは思えない。俺が俺であるうちに、提案を受け入れてくれ」
 コートは願うように訴えた。
 エレーナが悲痛そうにトレチャークを見る。視線に気づいていたが、トレチャークはエレーナを見なかった。
 コートを失うことは、自分の半身を失うことに等しかった。それほどまでに一年間の逃亡生活で、トレチャークにとって心のよりどころだった。コートなくして自分の生などありえるのか、そう思いつめるほどコートは重要な存在だった。
「コートがいなければ、俺はここまでこれなかった。お前を置いていくくらいなら死を選ぶ」
 トレチャークは本気だったが、コートはゆっくりと首を振る。
「お前は俺たちの希望だと知らなかったか? 俺たちは自分の生命以上に民族の誇りを重要視した。誰か一人でも理想郷にたどり着き、生き抜いて子孫を残していくことが俺たちの願いだ。それに、エレーナがいる。エレーナまで俺たちの運命に巻き込む必要はない」
 トレチャークははじめてエレーナを見る。
 緑色の瞳。トレチャークも同じような緑色の瞳を持っているが、エレーナの瞳は宝石のように美しかった。ところが瞳以外にも美しかったはず顔は、肌が乾燥し、ひび割れ、地獄のそこから覗き込んでいるような風貌に様変わりしている。
「必ず戻ってくる」
 トレチャークはコートとそう約束して出発した。
 いよいよ、二人だけになった。トレチャークとエレーナの二人。交わされる会話は皆無。冷たい風に身を切られながら、ひたすら歩き続けた。
 三日後、二人は町にたどり着いた。
 山間部に溜まる水溜りのように、建物が密集しているのが見えた。だが、そこはすでに廃墟と化し、戦乱に荒らされたと分かる物悲しい風が吹き乱れていた。
 人影のない町を歩きながら、絶望感に打ちひしがれるトレチャーク。
 たしかに天空の町は存在した。だが、この世には理想郷などありえない。物悲しい廃墟の町を歩きながら、ここが死に場所になると漠然と悟ったころ、エレーナがかすれた声を上げた。
「あれを……見てください……!」
 弱弱しく持ち上げられたエレーナの腕は、人差し指を突き出して一点の方向を指した。
 エレーナが指し示す方角を見る。
 そこは天空の町よりさらに高台にある丘の上。
 まるでお城のような巨大な建物の周囲に、人の影を発見する。
 トレチャークとエレーナはお互いの目を見張った。
 お互いに何の合図もせずに、二人は同時に走り出していた。
 
 
 
 高台の上にあったのは立派な寺院だった。至る所が破損し、破壊の後が見られたが袈裟姿の人々が修復作業をしているのだった。
 呆然と近寄っていくトレチャークとエレーナを見つけた袈裟姿の男たち――僧侶たちがぎょっとして作業の手を止めた。
 敵意はない。そう意思表示するため、二人はかぶっていたフードの脱ぎ、膝待ついて両手を広げた。
「誰か……われわれに害意はありません。どなたか話を聞いていただけないだろうか」
 一人の僧侶がおろるおそる近づいてくる。不振そうであったが丁重な口調で何かを語りかけてきたが、言葉はほとんど分からない。
「我々は北からやってきました。この地を目指して一年もの間、旅をしてきたのです」
 言葉は通じていないだろうが、気持ちは伝わると思った。僧侶はトレチャークの肩に手を置くと、さあ、と促すように寺院内へ促した。
 室内に入ると暖かい湯を差し出され、二人はゆっくりと飲みほす。部屋には壁一面に見たこともない壁画が描かれており、天井を見上げてもそれは同じだった。
 部屋には僧侶が三人いた。それぞれが何かをたずねてきたが、言葉は通じない。トレチャークは木のテーブルの上に指を走らせ、やってきた道のりを説明する。通じたのか、僧侶たちは一様に目を丸くし、トレチャークやエレーナの肩を抱いた。
 だが、トレチャークは労わってほしいわけではない。一刻も早く引き返し、コートを迎えに行かなければならないのだ。コートを置いてきた場所を必死に指し示し、必死に説明するとようやく僧侶たちに事態が通じた。
 僧侶たちはその場で輪を作り、なにやら相談を始める。長い議論で、感情的になる場面も見られた。
 そのうち、一人の僧侶が振り返ると言った。
「分かった。君の仲間を助けに行こう」
 実際にそう言ったと分かったわけではなかったが、トレチャークは確かにそう言ったように聞こえた。
 
 
 
 エレーナを寺院に残して、僧侶三人とトレチャークで、コートを置いてきた場所まで戻った。三日間の道のりだったが、山に詳しい僧侶たちに案内されると、一日半程度でコートを置いてきた場所まで戻ってこれた。
 コートはそのままの場所にいた。僧侶たちがコートを取り囲み、生死を確かめる。振り返った一人の僧侶が安心しろと微笑み、何度も頷いた。
 コートは生きていた。意識はなかったが、置き去りにしてから四日以上、この場でコートは生き続けていたのだ。
 喜びもひとしお、四人でコートを寺院まで運ぶ。
 戻ってきたトレチャークを迎えたエレーナは、涙をこぼして笑顔を作った。水分と栄養を補給し、若さと美貌を取り戻したエレーナの笑顔を、トレチャークは初めて見た気がした。
 三日後にコートが目を覚ましたとき、トレチャークも涙をこらえることができなかった。
 俺たちはやってきたんだ。差別も争いもない理想郷に。そう言って、コートと強く抱き合った。
 
 
 
 天空の町には住民は一人もいなかったが、寺院には百人以上の僧侶たちと同じくらいの女性がいた。もちろん、子供も若者の多く、活気もある。
 女性は袈裟を着ていないところを見ると、僧侶になれるのは男性だけらしいことは察しが着いた。
 痩せ細った荒野が広がる地域で、作物も実り難いだろう。決して楽な暮らしには見えなかったが、人々の表情に暗さや悲壮感はなく、誰もが助け合い、笑い合い、愛し合うすばらしい人々だった。
 三ヶ月もするとエレーナは言語を覚え、寺院の女たちと楽しげに会話を交わすようになった。
 トレチャークとコートは不可解さに肩をすくめざるを得ない。
「女はしゃべるのが仕事だと言うが、言語習得能力には度肝を抜かれるな」
 コートが感嘆としてため息を漏らす。まったくだと頷くトレチャークは、まだいくつかの単語しか理解できない。
 トレチャークもコートも袈裟を羽織っている。字は読めないし、言葉も分からないが、ここの人々の平和と平等を愛する姿に、なんの抵抗もなくチベット仏教になじむ努力を惜しまなかった。
 笑いつくした様子のエレーナが、笑顔から元に戻らなくなったような微笑をたたえ、二人の元にやってきた。
「みんな、私のことを女神のように言うんです。ツェリンが私の肖像画を寺院の壁に描いてくれたんですよ」
 まるで子供のように浮かれている。
 性奴隷のままヴァイキングに蹂躙されてたとしたら、この笑顔は生まれていなかっただろう。今はエレーナの笑顔が、トレチャークの深い罪悪感をいくらか癒してくれていた。
「でも、数年前に吐蕃王朝が倒れて、いまこの国は空中分解状態だそうです。各地の権力者が領土を主張して、それまで浸透していた仏教も消滅してしまったそうです。彼らはこの地から再び仏教を呼び覚まそうと、寺院の修復にいそしんでいるんですって! みんな申し合わせたわけでもないのに、自然とこの地に集まったそうです。なんて素敵な話でしょう!」
「そこまで言葉が分かるようになったのかい?」
 コートが目を丸くしている。得意げなエレーナは「通訳してあげます。誰かと話したいときは教えてください」とにっこりと笑った。
「我々ももっと親睦を深め、言葉を交わせるほどに勉強しないとな。それにここにいる限り、我々も修復作業に参加しなければならないな。エレーナ。口を利いてくれるか? 我々に手伝えることはないかと」
 まかせておいてくださいと、エレーナはかぜのようにいなくなったかと思うと、風のように現れて、仕事をもらってきたと報告してきた。
 それから二人は寺院の修復作業を手伝うようになり、僧侶たちとも親交を深くすると、おのずと言葉の習得も早まった。
 寺院に住み始めて一年も経つと、少しずつ修復されていく寺院を見て、喜びを感じるようになった。
 この地を一から立て直し、また人々の住める理想郷にすることがトレチャーク、コート、エレーナの夢となり、目標となった。
 トレチャークはそのころになると、持ち前の行動力と指導力を発揮し、修復作業の指揮を執るようになる。コートが寺院の構造を図面に起こし、さまざまな修復の必要な箇所を洗い出して、トレチャークが修復順序と担当割りを行って現場を指揮しはめると、修復作業の進捗は驚くほどに進みだし、寺院の長老といえるパクパにも多大な信頼を受けるようになった。
 コートは医学知識を利用して、人々の病気や怪我を見て回り、酪農、農業はもちろん、狩もなどの方法についても助言した。そのころには人々の信頼も受けられるようになり、家族の一員として当たり前の生活を送れるようになった。

 トレチャークとコートは休憩時間に、窓の大きな一室で椅子に腰掛けながら会話することが多く、その日も例に漏れず休憩時間を二人で過ごした。
 ところが、その日にいつもと違ったのはコートの言葉だった。
「トレチャーク、エレーナのこと、どう思う?」
 ここ最近は故郷の言葉は使っていなかったが、万が一にも周囲に聞かれたくない内容なのか、コートは故郷の言葉を話した。
「エレーナがどう思うって? どうしてそんなことを聞く?」
「どうしてって、この一年、お前はエレーナに優しくしてやったか? お前がエレーナにかかわるときは、決まってエレーナが危機的状況のときばかりだ。平和になったらエレーナなど関心はないのか?」
「どういう意味だ、コート。俺がエレーナに関心がないと? 同じ苦楽をともにしてきた仲間だ。もちろん、特別な感情は持ってるさ」
「なら、どうしてもっと声を掛けてやらない? エレーナの気持ちはお前だって気づいてるだろう」
 そう指摘されては次に出てくる言葉のないトレチャーク。
「エレーナは待っている。最近は女神さまなんていわれて祭り上げられて人気者のエレーナだが、いつだってお前ばかりを見ている。みろ、あの壁画」
 コートが指差した先に、僧侶が描いた美しい壁画があった。それは紛れもなくエレーナを描いたものだった。
「美しいだろう。そう思わないか、トレチャーク」
 確かに美しい。
 日々、若返っていくように美しさを増すエレーナは、男たちの胸の内を締め付け続ける存在だ。
 だからこそ。
「ひょっとして、トレチャークもエレーナを女神様だなんて思ってるんじゃないだろうな」
「そんなことはない。そんなことはないが……」
 人々に安らぎや潤いを与え続けているエレーナを、誰かの腕の中に収めてしまってもいいのだろうか。神への背徳にも似た罪悪感を覚える――なんだ、コートのいうとおりではないか。
 トレチャークも、エレーナを女神のように感じていたのだと思い知らされる。直接的ではなかったが、少なくとも間接的には。
「女神様も女だってことを忘れるなよ、トレチャーク。そしてお前も男だ。そろそろ女神様の願いも叶えてやったらどうなんだ」
「やけにおせっかいを焼くじゃないか。コート、お前もひょっとして」
「勘ぐるな。だが、お前がもたもたしてるようなら、分からないぞ」
 コートがトレチャークの肩をぽんぽんとたたく。
 コートは一人仕事に戻り、静かになった部屋で、窓からの光を浴びたエレーナの壁画を眺める。
 天空の町の人々には、エレーナはあんなふうに見えている。母性の女神のような男たちを癒し、慈しみ、活力を与える存在。
 窓の外から声が聞こえて振り返る。
 中庭に位置する広場に生身のエレーナがいた。エレーナは子供たちに囲まれ、楽しそうに何かを会話している。子供たちは我先にとエレーナの手をとろうともみ合い圧し合いしている様子がなんとも滑稽だ。
「……女神か……」
 トレチャークは一人ごちると、自嘲気味に一人笑いした。
 
 
 
 トレチャークが天空の町にやってきてから一年の間、百人あまりだった人口も徐々に増えつつあった。どこからか、ここに仏教の再興が始まっていると聞きつけたチベット仏教徒たちが集まってきて、人口は倍増していた。
 中には建築技術に長けた人間もおり、天空の宮{僧侶たちが修復作業をしている寺院}には収まりきらない人々を、丘の下に広がる町の家々を修復して移住させることもできた。
 人口が増えると、徐々に「町」としての形成をなしていく。
 人々の小競り合いも増えたが、それはごくごく小さい。ここでは殺人、略奪、窃盗などの犯罪は皆無で、犯罪を犯す必要のないほど人々は人が好きで、助け合い、協力し合う精神が一切の悲しみを排除しているのだ。
 トレチャークが理想とした姿がここに存在し、それが何よりの喜びで宝物だった。どんなことがあろうとこの場所を守り抜く決意ばかりが体を満たし、母を愛するようにこの天空の町と宮を愛してやまなかった。
 トレチャークはその日、破壊されて雨ざらしになっていた一室の修復に取り掛かっていた。壁や天井を建て直し、かつてそこに描かれていた壁画を、パズルのように当てはめて復活させる。
 部屋の中や外に散らばった壁の破片を拾い集めて、絵画を復活させるために組み立てていたとき、トレチャークはあることに気づき、一緒に作業をしていた若い僧侶のウンチャクにたずねた。
「ウンチャク、ちょっと来てくれ」
 ウンチャクは作業の手を止め、どうした? とトレチャークに近づいてきた。
「絵画をここまで修復したのだが……これは女。誰だかわかるか?」
「これは……う〜ん、これだけじゃ分からないよ。高僧に尋ねてみたら?」
 高僧とは、この寺院に一人だけいる齢80を越えそうなパクパという老人である。高僧は最上階にある一室で主に仏の教えを書き下ろしたり、僧侶たちに説法するのを役目としている。彼がいるから、僧侶たちの修行が成り立っているに等しく、想像も付かないほどの知恵と知識を持っていることは周知の事実。
 トレチャークは休憩時間に壁画の一部を抱えて、最上階にある僧侶たちが住まう僧坊とは別の一室に住んでいるパクパをたずねた。
 如法衣をまとったパクパは、部屋に置かれた菩薩像に向かって胡坐をかき、瞑想しているようだった。高僧の瞑想を邪魔するなど以ての外であったので引き返そうとしたトレチャークをパクパが引き止めた。
「よい。話があるのだな、トレチャーク」
 振り返った老人の相貌が見えた。白濁の瞳。パクパはすでに視力を失って久しいと言う。
「恐れながらこうして約束もなくお尋ねした無礼をお詫びいたします」
「よい。読経書もそろそろ書き終える。そうしたらもっと僧侶たちに仏の道を教える時間も増えよう。こうして個別に話を聞く時間を裂かなければと思っていたころだ」
 パクパは尻を起点にしてくるりと体をこちらに向ける。
「それで、今日は何の用かな?」
 トレチャークはパクパの正面に壁画の一部を置く。
「実は、壁画の修復をしているときに見つけた肖像画についてお聞きしたいと思いまして」
「ふうむ」
 パクパは手探りで壁画の表面をなでて「どんな絵だ?」とたずねてくる。
「女性のようです。ここにあるのは一部ですが、花を持ち、背に輪を背負っています」
「花と輪……」
「それに額には……」
「第三の目か。なるほど、これはターラー菩薩である」
「ターラー菩薩……」
「地上の骨肉の争いを憂いだ観音菩薩が流した涙から生まれた菩薩である。自愛に満ち溢れる母神。おそらく白のターラー菩薩だろう。もう一人、双子の姉妹と言える緑のターラー菩薩がいる。探せば、この宮にも描かれているはず」
「第三の目を持つ菩薩と、緑色の菩薩。自愛に満ち溢れる女神なのですか?」
「うむ。感づいているかもしれないが、おぬしの連れであったエレーナと言う娘は、女神ターラーとして崇められておるのだろう。それを確かめに来たのだな?」
 まさにパクパの指摘どおり。
「緑色の瞳が、そう思わせてるんでしょうか」
「それもあるが、それだけではない。エレーナという娘のあけすけなさと優しさがそう思わせるのだ。緑のターラー菩薩は苦しみに打ちひしがれる人の下へ颯爽と駆けつけ、助けの手を差し伸べ、白のターラー菩薩は苦しみや悲しみを見つけるために第三の目を持っている。エレーナにはその活発な側面と慈しみの側面を持ち合わせ、子供は慕い、男たちは焦がれ、女たちは敬う」
「やはり……」
 パクパがふむふむと唇を動かす。
「おぬしの苦悩は悟っておる。これでも目が見えぬゆえ、人には見えぬものが見えるでな。おぬし、迷っておるのだな」
 トレチャークはパクパに隠し事はできないと観念する。
「おっしゃるとおりです。ですが、迷ってはいません。私の心は決まっております。エレーナを我が物にしようという気は一切ありません」
「おぬしもエレーナを神聖化しておるのか? だがな、女神と言われようと菩薩と言われようと、エレーナは生身の女であることを忘れてはならぬ」
 やはり、パクパは全てを悟っている。
「しかし、私の何よりも重要な願いはこの寺院と仏教の復興です。エレーナが神聖化されて人々に慕われるのならば、ただの女にしてしまうことは決して良いこととは……」
「杞憂していることは分かる。おぬしの気持ちもな。痛いほどに感じるさ。だが、いずれ彼女も伴侶を見つけ、子を授かり、人並みの幸せを手にする。そのとき、そばにいる男はだれなのかという違いしかない。わしは仏教の復興を願う一人であるが、僧侶になり修行を他人に強要するつもりは毛頭ない。信ずるも信じないも自由であるし、この世界には僧侶だけではなく建物を築く者、作物を育てる者、子を産み、育てる者が必要だ。必要な者はたくさんあり、どれも重要で欠かせないもの。もちろん、エレーナも何らかの役割を持ち、人々に貢献しているが、なにも強要する気はない。おぬしも仏の道に順ずる者であるならば、他人に何かを期待し、強要するようなことはあってはならぬ」
 パクパの言葉をかみ締めるトレチャーク。
 良いのだろうか。
 エレーナをこの腕に抱きしめても。
 そう願っている。なによりも寺院と仏教の復興を願っているはずなのに、その実はエレーナを強く抱きしめたいと感じている。
 
 
 
 コートはエレーナを見ていた。エレーナは一日の半分を、他の女たちとともに炊事洗濯などに費やし、もう半分を子供たちと戯れることで過ごす。
 そして、笑顔でい続けるエレーナを見つめ続けるのが、コートの日課だった。
 見ているだけでよかった。彼女の声が聞こえ、笑顔が見え、活発に動き回っている姿を見るだけでコートは満足だった――というのは全て、そう思い込もうとしている虚実であると悟っている一方、それを頑なに認めなかった。
 エレーナの腕をつかみ、強引に抱き寄せて唇を奪いたいという気持ちは、心の奥底に存在する池に、重石を付けて沈めてある。
 なんてことはない。寺院に住む僧侶たち、そうでない男たちと同様、コートにとっても彼女は女神だった。手を伸ばすことに背徳を抱き、その反面では彼女の愛を獲得したいと渇望している。
 そうしないのは、男たちの意気地のなさと、彼女の緑色の視線が、ただ一人の男を追っているのを知っているからである。
 あけすけなく活発的で、心優しいエレーナの幸せを願う男たちにとって、エレーナが結ばれる相手としてトレチャークであれば、どうにか自分の心を納得させることができる。そう思っている。
 トレチャークはおそらく、この集落、この寺院に住まう人々の指導者的僧侶になっていくだろう。そう感じているものは少なくない。
 近々、仏教における修行も再開されると聞く。トレチャークもコートも、喜んでその修行に挑むことだろう。そうすれば、本当の意味でトレチャークもコートも僧侶として認められ、寺院に住まうチベット人たちと家族になれる。
 そのとき、エレーナとトレチャークは……。
 いつもの中庭で子供たちと戯れるエレーナを眺めながら、コートは微笑んだ。同時に沸き起こる慟哭はひた隠しにして。
「あ、コートもどう!?」
 室内にいたコートに気づいたエレーナが、コートを手招いた。
「なんだい?」
「休憩中でしょう。一緒に遊びませんか?」
「遊ぶって……」
 エレーナが颯爽とやってきてコートの手を引いた。
 連れて行かれたのは子供たちの輪の中。子供たちが一様にきらきらとした瞳をコートに向けている。
「見て、コート。子供たちが考えた遊び。五本ずつ三列並べた枝があるでしょう。合計で十五本。これをお互いに好きなだけ取っていくの。ただし、取れるのは一列のうちだけ。最大で五本ね。交互に枝を取っていって、最後に取った人の負け。ね、面白いでしょう」
 五本ずつの枝が、三列並べられている。好きなだけ枝を取れるが、一列以内に限る。
「なるほど、面白いね」
「そうなの! 子供たちみんな強くって、私一度も勝てないの。コート、私の敵をとって!」
 エレーナが腕にしがみついてきた。
 エレーナの感触が腕を伝わり、脳内で妄想が広がりそうになるのを寸前でかき消した。
「どれ、やってみようか」
 一人、自信ありげな子供がニコニコしながら、枝を三本つかんで取り上げる。次はおじさんの番だよと促され、適当に一番下の列から三本抜き取る。
 やり取りを繰り返すと、最後に残った枝を、コートが掴まされて負けになった。
 子供たちが「負けだ負けだ」とはやし立てる。むっとしたコートは「もう一度だ」と言って、子供に先に枝をとらせた。
 三度負けた。
 だが、四度目以降はコートは必ず勝つようになった。
 負けた子供は悔しそうだったが、他の子供は目をまん丸にして、尊敬のまなざしをコートに向けてきた。
「すごい、コート。もう負けなしだね。敵をとってくれてありがとう」
 エレーナに言われ、子供にムキになった自分が恥ずかしくなった。なんて大人気ない。こんな単純な遊びで。
 ところが子供たちは上気した顔で「すごいすごい」とコートを褒め称える。コートは息苦しくなってその場を後にすると、エレーナも付いてきた。
 中庭に落ちている、寺院から剥がれ落ちた木材に腰掛けると、隣にエレーナも腰掛ける。
「どうして負けなくなったの? 私は勝ったこともないのに」
「あれはパターンがあるのさ。先攻めが必ず勝つようになってる。まあ、仕組みが分かればの話だけどね」
「さすがはコートね。コートは前にはお医者様だったんでしょう? ここでも病気になったり怪我したりした人の面倒を見てるって、トレチャークが自分のことみたいに得意気になって話してたわ」
「医者じゃないんだ。研究をしていただけ。ほとんど実験もしたこともなく、書物を読みふけっていただけだから、頭でっかちで医者なんて大層なことはできないよ」
「でも、寺院にある書物も呼んで、薬草を煎じたり、看病方法もみんなに教えてるんでしょう」
「まだ文字はちゃんと読めないけど、何とかね。僕にできることはこれくらいだから」
 エレーナが突然、コートの手を握った。
「すごいことだよ。故郷から逃亡するときも、コートの知恵が私たちをたくさん助けてくれた。こうして私がここにいられるのもコートのおかげ。私が熱を出して寝込んだとき、みんなが私を置いて先に行こうとしたのを、コートだけが私に薬をくれて、最後まで希望を捨てないでいてくれた」
 そんなことが……。コートにその記憶はない。確かに不調を訴えたものの面倒を見ていたこともある。その中では回復した者、しなかった者さまざまだが、与えた薬だって気休め程度のものだった。
「コートは不思議ね。行く先々で危険を察知して私を正しい方角に導いてくれた。どうして、コートは危険なことが分かるの? 逃亡中に他民族の領土に侵入しかけたとき、コートが提案したのを覚えてる。迂回して険しい道を行こうって。だけど、幾人かコートの言葉を聞かずに他民族の領土に入っていった。その人たちは後になって命からがら逃げてきた。たった二人。その二人も重傷を負っていて、のちに死んでしまった。あの時、どうして先に進むことが危険だとわかったの?」
 思い出していた。まだ、コートも集団でたいした立場も確立していなかったころ。険しい森の道に差し掛かったとき、いやな予感がしたのである。最初は確信が持てなかった。だからこそ、幾人かがコートの意見に反対したとき、それを止め切れなかったのだ。
「なぜと言われても分からない。周囲の雰囲気、動物の声。何か暗く、先に進むことを懸念するような音が聞こえてきた。木々のざわめき、風の音」
 何かの違和感を抱いたのだ。明確ではない、悪い予感。
「たぶん、僕自身が気づいていない何かを目撃していたんだろうと思う。意識していないけど、視界には、この先が危険だという手がかりのようなものが……」
「手がかり?」
「たとえば、気づけないほどのかすかな血の匂いがして、本能が危険をかぎ分けたとか、森の木々が羅列する風景の中、意識することはなかったけど、敵意を向けてくる他民族の姿を目撃していたか。それらの無意識が、きっと本能に呼びかけたんだと思う。要するに、ただの勘なんだ。理由はない」
「ふうん」
 分かったような分からないような顔をするエレーナ。
「ごめん、こんな話、退屈だったかな」
「ううん、違うの。やっぱりコートは特別だなって思っただけ。私とは違う、なにか神様に恩恵を与えられた……聖人みたいなひと」
「そんなことがあるものか!」
 思わず声が高くなるコート。エレーナは肩を震わせて目を丸くする。
「僕にとってはエレーナこそ、神に恩恵を受けた女神様さ。君の美しい瞳や優しさや朗らかさ……」
 そこまで言って、コートは硬直した。俺はいったい、なにを言っているんだ。
 エレーナは顔を真っ赤にすると、どうしていいか分からない様子でそわそわしだし、何も言わず子供たちのもとへ駆け戻っていった。
 なんてこった。俺はとんでもないことを……。
 
 
 
 それからと言うものの、エレーナはコートを見ると不自然に顔を伏せて避けるようになった。
 いつもどおり子供たちと中庭で戯れているエレーナに誤解を解こうと近寄るが、コートが近寄ってきたと気づくと、エレーナは用事ができたといなくなってしまうのである。
 その後は子供たちに遊びをせがまれ、仕舞いには新しい遊びを開発させられるのである。エレーナがそんな調子だから、子供たちは妙にコートを慕うようになり、仕事中休憩中にかかわらず、子供たちがコートの元へやってきては連れ出されてしまう。
「すっかり人気者だな、コート」
 休憩時間に、エレーナの壁画が描かれた一室でトレチャークが皮肉のように声を掛けてきた。
「なにを作ってるんだ?」
「石彫りの人形だ」
「へえ、見事なもんだ。お前には彫刻の才能もあるのか。知らなかったぞ、そんな趣味があるなんて」
「趣味なものか! これでも僕はほとほと困り果ててるんだ。どうにか子供たちが夢中になって僕を忘れるような遊びを開発しようと、躍起になってるんだ」
「それが遊び道具だと?」
「そうだ。これはお姫様。ほかに殿様や王子様、妃や兵隊を作ってる。それぞれに動き方、役割を与えて、王子様がお姫様を奪い取れば勝ちっていう陳腐な遊び道具さ」
「相手のお姫様を奪うのか?」
「いや、お姫様は一人さ。それ以外の人形は二組ずつ作って、お互い、二国間を対戦相手とする。人形は相手の人形にかぶせることで、その人形を奪うことができる。お姫様に限らずね。でも、勝敗は二通りしかない。お姫様を奪ったら当然勝ちだが、相手の王子様を奪ったら、敵対する相手がいないことになって奪ったほうの勝ち。これを升目上の台の上で交互に動かしていって勝敗を決める」
「面白そうだな。どれ、見せてみろ」
 ケースに入ったお姫様の人形を手に取るトレチャーク。
 まじまじと眺めると、不意にトレチャークが「このお姫様はターラーか?」とたずねてきたので度肝を抜かれる。
「どうして分かった?」
「ちょうど、ターラー菩薩の壁画の修復をしている。ほら、このお姫様、第三の目があるだろう」
「そのとおりさ。ターラー菩薩は慈愛と献身に溢れた女神。だが、目を持っているのは第三の目だけではないぞ。第四の目、第五の目も彫ってある」
「ターラー菩薩は二人いるぞ。これは白のターラー菩薩か?」
「区別していない。ターラー菩薩は白と緑、合わせてひとつだと思わないか? 見て気づいて憂うターラー菩薩、赴き慈悲で苦しみを和らげるターラー菩薩。なぜ、この二人のターラー菩薩が役割を担っているのか。それは菩薩といえども不完全さを物語っているのではないか。完璧ではない。欠落している。だが、お互いに支えあい、初めてターラー菩薩はひとつの愛を届けることができる。だから区別しない。お姫様は完全無欠の完璧な女でないとならないからな」
「完ぺき主義のお前らしいが、完全でないから愛おしいと思わないか?」
 コートはトレチャークを見た。
 トレチャークは微笑をたたえながら、労わるように大事にお姫様をケースに戻す。
「無理をするな、コート。俺はお前のことを半身のように思っている。お前の幸せは、俺の幸せなのさ」
「どういう意味だ」
「どういう意味も、こういう意味もないさ。女神がターラー菩薩のように二人いたらよかったのにな。だけど、二人いるのは俺たちのほうだ」
「おい、トレチャーク……!」
 トレチャークは背を向けて、手を振りながら居なくなった。
「馬鹿言えトレチャーク……。僕には彼女を幸せにする自信などこれっぽっちもないんだ……」
 声は誰も居ない部屋に溶け込んでいった。
 ただ、壁画からは第三の目を細めて、微笑むエレーナだけがコートを見つめていた。
 
 
 
 コートがパクパをたずねたのは、それから二日後。
 トレチャークと違い、コートは幾度となくパクパと交流を繰り返してきた。
「パクパ様。お話がございます」
 観音菩薩像に向かって瞑想していたパクパは、尻を起点にしてくるりと体をこちらに向ける。
「いつになく鬼気迫った声だな。どうしたのだ、コート」
「先日、興味深い書物を読みました」
「はて、それは?」
「この血に伝わる伝説を記した書物です。この天空の町より隣接する巨大な山脈。そのひとつに魔物が住まうという伝説です」
「……行雲途山のことか」
「ご察しのとおりです。天に届くといわれているあの山には、過去にさまざまな修行僧が挑み、そしてほとんど帰ってこないという記述があります」
 パクパは「ふむふむ」と唇を動かすと、白濁した瞳をコートに向けた。
「おぬしが、行雲途山に修行へ向かうと? そう申しておるのか」
「その通りです。ですが、この書物には伝記は描かれていても、具体的な場所までは明記されておりません。パクパ様なら、あるいは場所を――」
「知らぬ。あの場所は人を選ぶといわれている。場所は書かれなかったのではなく、書けなかったのだ。誰も場所を知らぬし、行き着いたものとて、そこがどこなのか分からぬ。あれはそういう場所よ」
「ですが、行き着いたものは少なからず居り、戻ってきたものも居る。だからこそ、この伝記が書かれて後世に語り継がれている」
「それよりコート。通常の修行さえままならぬおぬしが、どうして行雲途山修行などにこだわる? 段階を踏まえ、階級を上げてからでも遅くはあるまい」
 コートはパクパの正面に膝を付く。
「確かに私はまだまだ半人前の修行僧です。ですが、どうしようもないのです。胸が張り裂けそうなのです。このままではどうにかなってしまいそうなのです」
 コートが如法衣の胸の辺りをぎゅっと掴む。憤りを吐き出すように、コートの声も高まった。
「私の分身とも言える友人が、私に道を譲ろうとしています。ですが、私にはその者の気持ちがこうして痛いほど感じ取れてしまいます。なぜなら友人は私の半身。同じ思いを共有するもの同士、痛みや苦しみを同じように感じてしまいます」
「痛みや苦しみが同じなら、喜びや幸せも同じでは?」
「神は不条理に人を作りました。痛みや苦しみは共有できても、喜びや幸せは共有できないのです。私はこの板ばさみに押しつぶされてしまいそうです」
「それで、荒行で気でも紛らわそうと?」
「これは私の精神が未熟であるからにほかなりません。私はできるだけ早急に、この軟弱な精神を鍛え上げ、どのような苦行にも耐え抜ける心を手に入れなければ……」
「苦しみに耐えうる心を獲得し、そして何か重要なもの諦めようとしている。まったく、おぬしらは同じことを……」
 同じこと?
「行きたければいくが良い。止めることも、勧めることもできぬ。具体的な場所は分かぬのは本当のこと。あの天に届く山に向かって自分で探すが良い」
 コートは胸を掴んだまま、立ち上がる。
「パクパ様はお許しいただけると?」
「私はこの通り盲目の身。何も見ておらん。一切何も……。だが、老婆心からひとつ助言しよう」
 パクパは白濁の瞳を、まるで見えているかのようにコートの相貌に突き刺した。
「行雲途山には不老不死の妙薬が存在するという。おぬしが永久に喪失と苦しみに絶えうる覚悟が在るのなら行くが良い」
「不老不死の妙薬?」
「おぬしは強靭な精神を手に入れる代償に、永久の業を受け入れなければならない。おぬしが求めるものは、それほどまでに重要か? 今一度考え、苦しめ。それも修行のうち」
 パクパの言葉は、重くコートの頭上にのしかかってきた。
 考える。
 今一度考える。
 なにが重要か。どうすべきか。どの選択が最良か。
 
 
 
 それより五日後、パクパが篭っていた寺院の一室を出ると、一人中庭までやってきた。
 パクパを迎え入れたのは子供たちとエレーナ。
 エレーナと子供たちは礼儀正しくパクパに一礼したが、パクパが気を遣うなとでもいいたげに右手のひらを掲げた。
「よう遊んで居るな。子供は遊ぶのが仕事。めいいっぱい遊ぶがいい」
「ありがとうございます」
 エレーナが言うと、子供たちも口々に「ありがとうございます」と復唱する。
「パクパ様が外出なされるなんて、珍しいですね」
「どきどきは日の光を浴びたいと思ってな。そうだな、エレーナ。付き添ってはくれぬか。盲目の身、ひとりでは散歩もままならん」
「喜んで」
 エレーナはパクパの手を取って、散歩を補佐する。
 寺院を出て、寺院の正面にある大広場までやってくると僧侶たちが手を合わせて高僧に挨拶を残していく。
「エレーナよ、教えてくれ。この寺院、この町はどこまで復旧しておる?」
「それはすばらしい姿です。寺院の外郭はほとんど修復が済んでいて、あとは内部の壁画や像を修復しています。パクパ様にも見せてあげたい。この美しい建物を」
「心配らぬ。見えておるからな。何十年も前に心に焼き付けた天空の宮の姿」
「そのころと、同じ姿が目の前にありますよ。人々も笑顔で、活気があって、争いごともない。なんてすばらしい世界でしょうか」
 パクパは微笑むと、近くの石垣に腰掛けようと促した。
 パクパとエレーナは隣り合って座り、目の前に聳え立つ天空の宮を見上げた。
「エレーナ。正直に答えておくれ」
「正直に? なんでしょう。私でよければ何でも答えます」
「ふむ。わしはエレーナの壁画や像が作られていることを知っておる」
「恐縮です。私なんかの絵を寺院に飾るなんて……」
「良い。あれはおぬしを象ったターラー菩薩である。おぬしがそれに似ていただけということ」
「菩薩様に似ているなど……私はそれほど程度の良い女ではありません」
「面白いことを言うな、エレーナ」
「本当です。私は決して潔白に生きてきたわけではありません。故郷においては、他人のことなど構っていては生きていかれませんでした。数々の罪も犯しています。体を清浄に保つこともできませんでした」
「よければ、聞かせておくれ。おぬしのこれまでの生活」
「私は……」
 くっと唾を飲み込むエレーナ。
「私は娼婦でした。故郷の町では、数年前からヴァイキングが奴隷狩りにやってくるようになりました。スラブ族の私は捕らえられ、大国に性奴隷に連れ出されるよりヴァイキングに対しての娼婦となることを選びました」
「なんと……つらい生活を送ってきたのだな」
「つらい……確かにその通りです。ですが、私は堕落を選んだのです。不条理に抵抗して生きることも死ぬこともできず、私が選んだのは恥の人生。身ごもった子を堕胎したのも一度や二度ではありません」
 エレーナは思わず涙をこぼす。わなわなと唇を震わし、両手で顔を覆う。
「私はもう、子供を産める身体であるかどうかも分かりません。幾人もの男たちの身体に擦られながら、私の中身はきっと磨り減ってなくなってしまっているのでしょう。そんな私が描かれるなど……以ての外なのです。パクパ様、ころあいを見てあの壁画や像を」
「よく分かったよ、エレーナ。そして、私はエレーナを軽蔑したりしないし、エレーナが選んだ人生を否定するつもりもない。仏が教えるあらゆる地獄はすべてこの世にある。エレーナは仏に仕える身として修行を行っていただけのこと。おぬしの中身が磨り減っているなどとはとんでもない。苦しみを乗り越え、さらにはおぬしの中に満ち溢れる慈愛は、周囲の人間をも癒しておるではないか。もし、おぬしの過去を誰かが知ろうとも、ののしるような人間はここには一人も居らぬ。仏の教えに背く行為は何一つしておらぬのだからな。描かれ、象れられる資格は十分にあり、愛される理由も十分にある」
「私に愛される資格が……?」
「あるとも。誰よりもな」
「でも……本当の私を知れば、誰も私など……」
「だから避けるのか? 二人の哀れな男の、おぬしへの想いは悟っておるのだろう」
「二人の男……。私への想い?」
 パクパは意外そうにエレーナを見やる。
「まさか、なにも分かっておらぬのか?」
「私などに愛を向ける方など……」
 悲しみにくれた表情でうつむくエレーナ。
「そうか。だが、他人の気持ちは分からぬとも、自分の気持ちには気づいておろう」
「私の……気持ちですか?」
「人を愛するという気持ち。さきほど、私は言ったな。正直に答えてほしいと。覚えているかな」
「もちろん、覚えています」
「それでは答えておくれ。エレーナよ、おぬしはいったい誰を愛しておる?」
「誰というのは……」
「具体的に言おう。トレチャークとコート、おぬしが愛しているのはどちらだ」
 目の見えないパクパにも、エレーナの熱気が伝わってきた。
 実際、エレーナは顔を高潮させて、髪の毛で顔を覆ってしまった。
「愛しているなど……」
「私はエレーナの幸せを願っておる。ただ、二人の男とは一緒にはなれぬ。どちらか一人を選ばなければならぬのだ。トレチャークとコート、おぬしはどちらを選ぶのだ?」
 すると、エレーナから返ってきた言葉は意外なものだった。
「選ぶも何もありません……。私の想いはずっと前からずっと一人だけに向いております」
「ひとりだけ……? それはいま言った二人のどちらかなのか?」
「……はい」
 パクパに次の言葉はなかった。パクパは二人がエレーナを愛するように、エレーナも二人を愛しているのだと思っていた。エレーナはいずれつらい決断をし、どちらかを選ばなければならない日が来ると。だが、エレーナの心は、最初から片方だけに注がれていたのだ。選ぶ必要もなく、片一方だけに。
「私があの方を愛する資格があるのでしょうか……」
「当然だ。だが、いったい……お前の気持ちはどちらに注がれていたのだ」
「それは……」
 エレーナは再び顔を真っ赤にし、両手で顔を覆った。
「あのお方は、私にいつも優しい目を……。でも、本当は優しいのに、その心をいつも隠していて、悟られないようにしてる。私があの方の優しさを引き出してあげられたら……」
 パクパは悟った。エレーナが二人のうち、いったい誰のことを言っているのか。
「そうか……あやつのことを……。改めて思い知る。人とはなんて神聖で慈しみぶかいものか」
 パクパはそういって立ち上がった。
「パクパ様?」
「この寺院は隅々まで知り尽くしておる。一人で戻れるから心配要らぬ。エレーナ、おぬしはその足で今すぐ想い人の元へ行って、愛を告白するがいい」
「そっそんな、わたし、できません、そんなこと」
「おぬしが言わねばならぬのだよ。それが誰もが納得する唯一無二の方法」
 エレーナを取り合い、誰かが争ってはならなかった。それにはエレーナが選らばなければならない。
「でも……私、想いが通じないと分かったら、どうになかってしまいそう」
 男のほうが選ばぬ、そういう結末もありえる。あの男二人のこと。どちらもエレーナを選択しない結末を選ぶことも考えられる。
 だが、先延ばしにしてはならない。結末がいかなるものであろうと。
 
 
 
 そこまで聞いて、琴は伊集院照子の話に没頭していたことを知る。ヴァーチャルリアリティの世界のように、まるで自分が体験してきたような千年前のエピソードの世界から抜け出して、ふと現実に戻る。
「この話……なんだか不思議ですね」
「不思議?」
 伊集院照子はあやふやな顔をする。
「本当はもっと、残酷で耳をふさぎたくなるような話を聞くことになると思っていたんですが……なんでしょう、この胸のわだかまりは」
「ふん、まだ話は終わっていない。さて、どこまで話したか……」
 伊集院照子は話の続きを始める。
 瞬時に、琴の精神はエピソードに冒されていく。
 再び、千年前の世界へ。

 

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