あっちから変なの出てきた

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第十六章 【 虚無の前に 】


 琴が修行に向かってから三日経った。
 その間、伊集院照子は行雲途山の住人たちと毎晩のように宴会を開き、馬鹿騒ぎしては昼間はずっと眠りこけるようなことを続けていた。
 スーリンは退屈さに、行雲途山の洞穴にいる同年代の女の子と友達になって、洞穴の外に出て遊んだり、家に篭って女の子の遊びをして過ごしている。
 ここでただ一人、倉敷だけが三日経った今でも馴染むことができずにいた。伊集院に浴びるほど酒を飲まされ二日酔いが続き、とにかく一日中散歩したり、ぼんやりして時間を潰して琴の帰りを待つしかない。
 三日前、一合目で琴を見送ってから集落に戻ってきても、伊集院照子はなにも聞かなかった。琴に突きつけられた二択の内容も、どちらを選択したのかも、一切聞かなかった。気にはなっているようである。口にしないものの、倉敷が琴のことを心配すると、決まって伊集院照子は落ち着きなく口元を触ったり、酒を飲んだりして誤魔化すのである。
 琴が修行に向かってから四日目の早朝だった。
 あてがわれた家で眠っていた倉敷を、伊集院照子が起こした。
「起きろ、通訳」
 明け方だったし、昨晩は夜更かししたわけではなかったのですぐに目は覚めた。ただ、伊集院照子の息が異様に酒臭かった。
「何ですか? また朝まで宴会してたんですか?」
「ああ。それより起きろ。ちょっと私に付き合え」
「酒はこりごりですよ」
 上半身を起こしてあくびを一発かましてから伸びをする。
「ほんと、よくまあ毎晩毎晩あれだけ酒が飲めるもんですね。感心しますよ、まったく」
「ただ飲んでいたわけではない。目的があったんだ。今日決行する。だから付いて来い。お前に頼みたいことがある。ここで中国語と日本語が分かるのは、お前一人だからな」
 目的? 毎晩明け方まで続くドンチャン騒ぎに何の目的が?
 問う前に伊集院照子に背中をぴしゃりと叩かれた。
「時間はそれどない。いいから準備しろ」
 倉敷は仕方なくベッドから降りて着替えた。歯を磨いている途中で、待ちくたびれた伊集院照子が「早くしろ」と促すので、髭も剃らずに家を出た。
 家を出た先にある広場では、飲みつかれた住人たちがその場で一様に眠りこけている。見渡す限りに活動している人間は居ない。僧侶たちも家に引っ込んだのか、洞窟内は静まり返っている。
 前を歩く伊集院が小声で言った。
「三日間でこいつらの生活パターンは大体把握した。今は早朝五時。七時になると子供たちが起き出して、学校に向かう。学校といっても広場の一角で先生らしき女が勉強を教えるだけだが。僧侶どもは夜更けに家に引っ込み、朝六時くらいに寺院に向かい瞑想を始める。幾人かの大人は夜通しでこの集落や周囲を警備するため歩き回り、それ以外の広場で飲んだ暮れて眠りこけてる連中は、朝方眠りについて、昼まで目を覚まさん。言っていることが分かるか?」
「いえ、さっぱり……」
「昨日は、警備係りの人間を宴会に引き込んで、無理やり大量の酒を飲ませた。広場で眠りこけている人間の一人になってる。要するに、いまこの集落で目を覚ましているのは私とお前だけ。僧侶が置きだす六時までの一時間だがな」
「……つまり、伊集院さんは何か企んでるってことですか? この集落の人間をみんな眠り込ませて、何かやらかそうって……」
「そういうことだ」
「じゃあ、僕は何のために起こされたんですか?」
「私がある文字を紙に書き写すかもしれないから、それを翻訳してほしい」
 伊集院は洞窟の奥まった場所、明らかに住宅とは違う様相の建物の前で立ち止まる。いくつもの木彫りの菩薩像が立ち並び、とびらにも菩薩や如来が描かれているところを見ると、どうやらここが伊集院照子の言っていた「寺院」らしいと分かった。
「鍵が掛かってないことも確認した。今から寺院に入り込んで少々調べごとをする。言わなくても分かってると思うが、集落の人間に知れたら大事になるし、このことは決して口外するなよ」
「また無許可ですか……」
 伊集院照子が扉を引いて開く。中から冷えた空気が流れてくる。暗闇だと思われた屋内は、いくつも立てられた蝋燭が灯っており、視界は悪くない。
 入って正面に二メートルほどの高さのやぐらのようなものが立てられており、おそらくその上に高僧などが座って瞑想する代になっていのだろうと思われた。
 その先には全長四五メートルほどの仏が胡坐を書いて、冷ややかに二人を見下ろしている。冷ややかに見えるのは倉敷の主観であろう。僧侶たちから見れば、やさしく見守る穏やかな表情に見えるのだろう。
 巨大な仏像の背後に回ると、そこにも扉があった。伊集院照子はためらいも鳴く扉を開くと、その先もいくつもの燭台が立てられており、廊下のようなアプローチを照らしている。
 奥行き十五メートルほどのアプローチの両脇には、ひな壇のような段差の付いた台があり、座布団が等間隔で敷かれている。通路を挟んで向かい合うように僧侶が並んで座り、瞑想でもするのだろうか。会議室、そんな印象もある。
 通路の突き当りにはやはり、一人だけ据わることのできる台座がある。位の高い僧が座る場所なのだろうと想像に容易いが、今はこの空間に人一人居ない。
「伊集院さん、一体なにを?」
「黙っていろ。ここは神聖な場所だ。無駄口を叩くな」
 その神聖な場所に、無断で侵入しているのはあなたでしょう。そう言ったところでなにも解決しない。伊集院照子は足音もさせずに通路を歩いていく。
 突き当りの台座まで来ると、やかり台座の背後に回った。
 再び扉。しかし、今度は鍵が掛かっている。倉庫に付ける様な古びた南京錠である。
 伊集院照子は髪の毛の中から一本の針金を取り出すと、南京錠の鍵穴に差し込んで、なにやらカチャカチャやり始める。
 いよいよ泥棒の様相を呈してきたなと思ったころ、南京錠が解かれる音がした。
 伊集院照子は終始無言。南京錠を取り外すと、扉を開く。長らく開いたことがないと分かる誇りくささが周囲に立ち込める。今度こそ、扉の先は暗闇だった。伊集院照子はそばにあった燭台を手に取ると、暗闇を追い払うように燭台を掲げながら扉の先に侵入していく。
 後を付いて行く倉敷。視界は燭台を持つ伊集院照子の姿だけ。その先は闇に溶け込んでいる。
 伊集院照子が燭台を右、左とかざしている。蝋燭の明かりに照らされるのはいくつもの箱や、埃をかぶった絵画、彫刻品。ここは何らかの倉庫であろうか。寺院の宝を収めた倉庫。伊集院照子はやはり宝泥棒をしようとしているのか。
 伊集院照子は目的のものを発見したのか、奥の暗がりに歩を進める。立ち止まった伊集院照子が無言で何かを見つめていた。倉敷は背後から覗き込むと、そこには四人の女性が背をくっつけあって、手を天に掲げるようにした台座があった。四人の女性の手のひらが一輪の花のように開かれ、その上に二十センチ四方のガラスケースがあった。
「これがソウ・リュウメイの御札か……」
 伊集院照子が小声で呟く。
 ガラスケースの中には、小さな金属片のような塊がひとつ。
「案外、セキュリティーが甘かったな。こんなにすぐに見つかるとは」
「なんですか、これは。何かの鉱石ですか?」
 伊集院は微動だにせず答える。
「世界で最初の御札だ。トレチャークを封じたとされるソウ・リュウメイの化身」
「トレチャークって、あの話に出てきた男ですよね。確かに御札化とかいうので封じたという話でしたが」
「そう。そこに矛盾がある。初代がトレチャークを封じ、ここに御札が存在するのなら、私が封じていた男は一体誰だ。逆に、私が封じていたのがトレチャークならば、この御札は一体なんだ。偽物か、別の誰かが封じられているのか。どう思う?」
「どう思うといわれても僕にはさっぱり……。調べる方法はないんですかね」
「ふむ」
 伊集院照子は胸元に手をやると、襟口から何かを取り出した。取り出したのは金属片のような塊。まさに、ガラスケースに入っている塊とそっくりな。
「偽物の是非は見れば分かると思っていたが、さっぱり分からん。かくなる上は、確かめる方法はひとつだけ」
 倉敷は固唾を呑んだ。緊張感が額を濡らす。この緊張感は、伊集院照子が発している雰囲気によるものだ。何らかの能力者であれば「気」とでも形容するのか。なにより、伊集院照子が一番緊張し、そして恐怖している。そんな「気」が伊集院照子から発せられている。
「何をするつもりですか? 伊集院さんの昔話が本当だとすると、この御札、この地にとってとてつもなく貴重なものじゃ……」
「察しがいいじゃないか。その通りだ。この寺院の象徴のようなものさ。あるいは菩薩や如来より重要な……。なんていったって、術師の祖がこの御札の中にいると信じられているんだからな」
 だから、なにをしようとしているんだと聞いている。琴も戻ってきていないし、スーリンだっている。不祥事を起こして監禁されるようなことはないだろうな。辺鄙な土地。エベレスト山という土地で、不祥事を起こしたわれわれを処刑したって、誰にも知られやしないし、埋める場所なら幾らでもある。
「確かめる方法はひとつ。圧縮能力者にだけしか出来ない、唯一確かめる方法。御札状態の解除」
「解除ですって? 解除ってどういう意味すか?」
「御札状態から、元の姿に戻すってことさ。解除して、ソウ・リュウメイが姿を現せば、本物ってこと。出てこなけりゃ、偽物ってわけだ」
「そんな安直な……。もし、本物のトレチャークも一緒に出てきたらどうするんですか?」
「そのときは私が身を挺して再び封じるさ。所詮、千年も封じられてたらバケモンも力を失っている。私にも封じるのは容易だろう。私は御札化するだろうから、お前に後を頼むために同行させた」
「そんな無責任な」
 伊集院照子が振り返ると、穏やかとも形容できそうな笑みを浮かべる。
「心配するな。十中八九、偽物だろう。トレチャークのようなバケモンがそうそう居てはかなわんしな」
「でも、もし本物だったら、僕らはこれからどうしたらいいんですか」
「スーリンに修行をさせて、山を降りろ。スーリンは自分の使命を理解していると思うが、おそらく周囲の人間が許さないだろう。お前が琴とともにスーリンを守り、トレチャークを封じるのだ」
「世界を滅亡させるほどの怪物でしょ? 無理ですよ、そんなの」
「おや、信じてるのか。私の昔話も、世界最悪の化け物の存在も」
 う、と喉を鳴らして言葉を失う倉敷。
 そういえばそうだ。まるでマインドコントロールでもされているかのように、伊集院の話を素直に飲み込んでしまっている。
 伊集院は一笑を残すと、御札に向き直った。
「メッセージでも残っていると思ったが……倉敷、ちょっと下がっていろ。それに、出入り口を死守しろ。少々大きな音がする。誰かが気づいてやってきたら必死に扉を押さえていろ」
 なんの断りもなく、こんな騒動に巻き込むなんて。伊集院照子の唯我独尊ぷりは重々承知していたと思ったが。
「さて」
 伊集院照子は腕まくりをすると、ガラスケースに向かって手をかざす。
 御札化の解除。その先に何が起こるのか。倉敷は後ずさりするように扉の前まで引き返す。
 燭台の淡い光に照らされた伊集院照子の姿だけが、暗闇にぽっかりと浮かんでいる。暫時、そのまま時間が止まったかのように何事も起こらなかった。
 しん、と静まり返った闇が息苦しく感じてきたころ、それは起こった。
 
 ぼふううんっ
 
 意外と湿気た音がした。ゆるい太鼓を叩いたかのような余韻を残して、煙があたりに充満し始める。
 埃くささとともに、煙に巻かれて姿の見えなくなる伊集院照子。倉敷は裾で口元を覆って、即席のマスクにした。
 密閉された空間。換気など皆無。充満する煙が晴れる気配はない。
「伊集院さん! 大丈夫ですか!?」
 声を上げるが、返答がない。
 煙がもうもうとガラスケースからもれてきたのは見えたが、爆発というほどではなかった。直接的な怪我は負っていないはず。煙だって、有毒であれば倉敷だってとっくにやられている。
「伊集院さん!?」
 返事をしない理由は、ただ無視しているだけか、あるいは御札化を解除された怪物が、すでに伊集院照子を食い殺した?
「うろたえるな」
 伊集院照子が煙の中から姿を現した。
「大丈夫なんですか?」
「なんともない。それより、逃げるぞ。騒ぎをかぎつけて人が集まる前に」
 倉敷は伊集院照子に腕を引かれて、先ほどやってきた道のりをそのまま引き返した。寺院を出た先の広場には、やってきたときと同じように無数の人間が飲み疲れて眠りこけている。誰にも見つかることなく、自分たちの寝床まで戻ってきた二人は、慎重に表の様子を伺いながら息を潜める。
「気づかれて様子はないな。偽物も置いてきたから、しばらくは誤魔化せるだろう」
「それより、御札を解除したんですよね。化け物は? ソウ・リュウメイは?」
「そんなもの出てこなかった」
「じゃあやっぱり、偽物……」
 伊集院照子はカーテンの隙間から外を眺めながら、口を閉ざしている。
 しばらくするとカーテンを閉じて、倉敷を振り返った。その顔にたたえられるいい知れぬ表情に、倉敷は鳥肌を立てた。
「御札は本物だった。紛れもなく、圧縮能力者が身を挺して作り出した究極の圧縮術」
 でも、何も復元されなかった。
 伊集院照子はテーブルに腰掛けると、ため息ひとつ漏らしてから言った。
「本物だと言ったが、ソウ・リュウメイが御札化したものだとは言っていない。否定も肯定もできん。ただし、御札からは何も出現しなかった。これにもっともらしい理由をつけるとしたら何だ? 千年の年月に、圧縮された化け物もろとも干からびてしまったのか」
「そういえば、復元したとき、やけに煙が舞いましたからね。風化してしまった化け物が塵になって舞ったのかも」
「ふうむ。少々楽観的過ぎる気もするが、そうなのかも知れん」
 伊集院照子は腑に落ちない様子だが、なによりもう無茶な行動は簡便だった。こんな意味のわからない世界に放り込まれて、意味のわからない無謀行為に巻き込まれて、エベレストの冷たい大地に埋められるようなことは勘弁してほしかった。
 
 
 
 伊集院照子の破天荒な行動はそれとなく琴に聞いていたが、なにより破天荒な行動に対して一切の同様をしないのが、この女、伊集院照子である。術師とかいう不気味な集団のメッカといわれる土地の、最も重要な文化財であるS級札とかいうやつを復元して消失させ、そのあと何食わぬ顔でこの集落の人間たちと酒を酌み交わすのである。なんたる図太い神経。
 一週間もたつと、スーリンはすっかりと集落になじみ、まるでこの土地に生まれ育ったかのように違和感をなくしている。子供たちの集団にまぎれるスーリンを見つけ出すのが大変なくらいだ。
 一方、まったく馴染めない倉敷は、ひたすら琴の帰りを待った。琴が帰ってきさえすれば、この奇妙な旅も終わりに近づく。中国マフィアのボスに対する言い訳を考えておかなければならない。スーリンと口裏を合わせておかないと。拉致されたことにして、ずっと傍でボディーガードしていたと言えばいい。
 心配事は尽きない。
 琴が修行から帰ってきたのは、七日後の夕暮れだった。
 修行場の門を見張る一人の僧侶がなにやら大声を上げた。人々がなだれのように修行場の門へ押し寄せた。
 琴が帰ってきた。そう思った倉敷も大慌てで修行場の門へ詰め寄った。
 人の雑多で、門のほうは何も見えない。
 門が開いたのがわかった。とたんに色めき立つ周囲。
 琴が門から出てきたのか。倉敷は意を決して人々の波を押し分けて前に出た。
 一定の距離を置いて、人々に囲まれる琴の姿があった。
 一週間ぶりの姿。
 少し痩せたか。来ていた服は入っていったときと違っている。中国の民族衣装のようだ。
 なにより、琴に対して感じた変化はその表情である。入ってきたときは別人……いや、まだ残っていた幼さが払拭され、大人びた湿り気のある表情、そして力を増した瞳。
 感情は……悲しみ?
 声を掛けようと人ごみを掻き分けてきたはずの倉敷は、ことに近づくことさえためらわれた。周囲の賑わいに反して、琴は口を開くこともなくまっすぐに歩いてくる。
 倉敷の正面まで来ると、ようやく琴は口を開いた。
「疲れたの……」
 ことはそれだけ言うと、その場に膝から崩れ落ちた。慌てて抱きとめた倉敷は、どうしていいか分からず周囲をうかがう。
「行雲途山修行から戻ってきた人間など、そんなものだ。寝床まで運んでやるといい」
 気づくと酒の入ったビンを片手に、伊集院照子が傍に立っていた。うつろな目で倉敷の上での中でうなだれる琴を見下ろしている。
「さて、何合目まで行ったのやら。修行の様子は、琴が目を覚ましてからゆっくり聞こう。今は休ませてやれ。琴も修行場で重要な使命を帯びてきただろう。おそらく、これが最後の休息となる」
 そう言って、伊集院照子は酒をラッパ飲みしながら宴会に戻っていった。
 倉敷は仕方なく琴を背負って寝床に戻った。寝床の家の前まで穴倉の住人たちが琴を称え、ドンチャン騒ぎながら付いてきたが、部屋までは入ってこなかった。
 琴はチャイナ服のままだったが、まさか服を脱がせてやるわけにもいかずそのまま別途に寝かせ、布団を掛けた。
 七日間も、あの先でいったい何をしてきたのか。見れば顔も首筋も傷や痣だらけ。食事もろくに取れていなかったのだろうと分かる憔悴様。
 こんな細い体で……。
 意味もなく自分の弱さを突きつけられたような感覚になる。
 彼女が妙に力強く感じられ、生命力にあふれているように感じられ、思わず彼女の顔に顔を近づけた。
 このままでは唇が重なってしまう。
 いや、そのつもりで顔を近づけたんだ。
 彼女の吐息が顔にかかり、倉敷は現実に戻る。
 キスぐらい、したっていいだろう。どうせ眠っているのだから覚えちゃいない。
 だけど、違う。
 彼女に近づきたいが、こんな方法ではない。
 倉敷は琴から離れると、近くのソファーに腰を掛けた。
「なんちゅう旅だ。こんなところで女を好きになるなんて」
 倉敷はため息を漏らすと額をなでた。
 その後、なんだか妙に可笑しくなって、一人、自嘲気味に笑った。
 
 
 
 目を覚ますと、ソファーに座ったまま眠っていたことに気づく。上半身には毛布が掛けられている。
 ベッドのほうを見ると、眠っていたはずの琴の姿はない。
「傍にいてくれたのね」
 声がしたほうを見ると、いつもの洋服に着替えた琴が鏡台に向かって髪を梳かしていた。どうやら風呂に入ったらしく、髪が濡れている。
「よく寝てたよ。私よりぐっすり眠ってた」
「もう少し休んでていいんじゃないか?」
 琴は鏡越しに倉敷を見る。
「眠ってる間に、いやらしいことされちゃ堪んないからね」
 と言われ、あからさまにうろたえて見せると、琴が目を丸くして振り返った。
「まさか……!」
「いや、何もしてないぞ」
「どうしてそんなに慌ててるの? 私の眠ってる間になかしたの?」
「してない。断じてしてない」
 琴が立ち上がってこちらに詰め寄ってきた。
「なにしたの? この卑怯者」
「してないって言ってるだろ。いや、しようとしたさ。やけに寝顔が……」
 詰め寄ってきた琴が足を止めてる。
 さほど怒った様子もなく、少しだけ首をかしげながら倉敷を見下ろしている。
 妙な沈黙が流れる。
「……本当に何もしてない。ちょっと何かしようかなって思った下心がバレたのかと思ってうろたえただけだよ。本当に」
「しても良かったのに」
 琴の重大発言に、倉敷は硬直した。
 すると、いたずらっぽく笑みを作った琴は鏡台に引き返していった。
 呆然と琴の背中を見る。
 ……この女、修行に行って帰ってきてから、確かに変わったぞ。
 
 
 
 なんとも気まずくなって表に出た倉敷は、まずスーリンの姿を探した。
 腕時計を見ると時間は午前三時を示している。もうすぐ朝を迎える深夜。こんな時間にスーリンは遊びほうけているとは思えないが、寝床にもいなかった。
 広場では飽きもせずに宴会が開かれていたようだが、まだ酒を飲んでいるのは数人で、多くは広場で雑魚寝している。ここが極寒のエベレストだとはとても思えない光景だ。
 スーリンは友達の家に泊まっているのだろうか。敷地面積で言えば小学校ほどの空間である。自分の寝床だろうが、友達の家の寝床だろうが大差ない。迷子になったり行方不明になる心配はほぼない。
 伊集院照子が数人の男たちをはべらせて酒を飲んでいるのを発見した。近づくと「おお、小僧」と酔っ払いが手を上げた。
「お前も参加しろ。こいつらは下戸ばかりで詰まらん」
 毎晩、この酒豪に平気で付き合う男たちを下戸扱いする伊集院照子の恐ろしさ。
「スーリンを見ませんでした? すっかり眠りこけてしまって。友達の家に泊まってるんですかね」
「何を馬鹿なことを」
 伊集院照子は、片腹痛いわ、と言わんばかりに大口を開けて笑い出す。
「なにが可笑しいんですか。あの子だってまだ子供なんですから、ほったらかしにしてはられません」
「だから、馬鹿なことばかり言っているんじゃない。私を笑い死にさせる気か!」
「いったい、何を言ってるんです? 僕はスーリンの居場所を聞いてるだけなんです」
 伊集院照子は腸が捩れるほど笑いこけ、涙を流しながら言った。
「スーリンなら琴と入れ替えに行雲途山に行ったわ。友達の家に泊まったなどと、何をたわけたことを言っている。今頃、小娘は修行場でぎゃあぎゃあ泣き喚いているころだろう」
 倉敷は現実を把握できず、呼吸さえ止まっていた。
「なんだって!?」
 大きな声を出すと、くすぐられているように馬鹿笑いする伊集院照子。
「僕に断りもなく、なぜスーリンを修行場へ!?」
「そんなの決まってるだろう。お前に話したところで、反対してスーリンをつれて帰ろうとすると分かってるからさ。そんなお前の同意など得るわけがない」
 そういって伊集院照子が馬鹿笑いすると、周囲の男たちもどっと沸いたように大笑いする。
 ああ、めまいがする。
 スーリンに何かあったら……。
「伊集院さん、きっちり責任は取ってもらいますよ。スーリンに何かあったら……」
「だからたわけと言っている」
 伊集院照子はおもむろに素に戻ると低い声を上げた。
「スーリンには、家族や友人、恋人などという下らない人間関係などより、とてつもない重責を負っている。お前には分からないだろう。私が無責任? スーリンを失うことは、私はおろか、世界を失うことと同義。私がどれほどの覚悟でスーリンを送り出したと思っている。私がどれほどの恐怖と戦ったと思っている。スーリンを送り出すということは、世界の存続と滅亡を天秤に掛けるような行為。だが絶対に必要な行為。そんな重大な決断を私はしなければならなかった。身内や近い人間などにおびえるお前に、いったいなにが分かる」
 妙な迫力に気おされる。
 なんていう表情をするのだろう。冗談や都合の良い御託などではない。
 今までの話や現象を事実として全面的に受け入れるならば、伊集院照子の言っていることは最もそうに聞こえる。
 だが、真剣な表情をしていたと思った次の瞬間には、大男たちとグラスをぶつけ合いながら、酒を飲んで大笑いしているのである。
 まるで、なにかを払拭するかのように。
 どうしたらいい。
 倉敷はまた、やきもきしながら女の帰りを待たなくてはならなくなった。スーリンが戻ってくるのは何日後なのか。それすら分からないし、無事に帰ってくるのかも不明である。
 そのとき気づく。
 琴がこちらに歩いてくるのが見えた。
 伊集院照子も琴に気づいた。
 琴が倉敷の横に立つと、伊集院照子と無言の会話を交わした。声は聞こえなかったが、間違いなく伊集院照子と琴の間で、何らかの意思疎通があったことは間違いない。
「おい、お前ら。私はもう寝る。お前らも帰れ」
 伊集院照子は周囲にいた男たちを追っ払うと、その場には三人だけになった。琴はずっと黙ったまま立ち続けている。
「……さて、このまま朝まで呆けててもいいが……」
「大丈夫です。ちゃんと報告するために来ました」
「ふむ」
 伊集院照子は地べたに胡坐を書いたまま、倉敷と琴に、正面へ座れと促す。
 近くにあった座布団を敷いて、二人は伊集院照子に向き合って座った。
「何合目まで行けた? 七日間か。せいぜい、三合目までか」
「懐疑の間までです。六合目の途中で戻ってきました」
 伊集院照子の表情は変わらない。
「五合目をクリアしたと? 私は四合目に行ったら戻って来いと言ったはずだが……」
「それは、伊集院さんが四合目までしか知らないからです。その先、五合目、六合目になにがあったか。伊集院さんには分かりますか?」
「知らん。五合目は懐疑の間。六合目は真実の間。それは知っているが、実際に体験したわけではない」
「五合目以上は、伊集院さんには行けないからですよね。私は行ってみて、それが良く分かった。伊集院さんのこと」
「なるほど、お前はそっちを選んだか」
 倉敷は堪らず口を開いた。
「あの後、お琴さんはどっちを選んだんだ? カナデという人間のこと。それから千年前の真実……」
 琴はゆっくりと倉敷を見た。その瞳に称えられる色は、真実を見抜こうとする黒。まっすぐ見つめられて、倉敷は視線を逸らす。
 倉敷の質問には、伊集院照子が答えた。
「千年前の真実だな? お前が迫られた選択は、奏の記憶か、千年前の真実か。お前は千年前の真実を選択した。それが最善かどうかは、私には分からないが」
 琴は優雅ともいえる動作で、視線を伊集院照子に戻す。
「そうです。最初の選択の間で、私は千年前の真実を選んだ。そして知ったんです。伊集院さんが話してくれた千年前の伝説は、間違ってる」
 伊集院照子が目を細めた。ごとん、と石の地面に酒のビンを置く。
「私の話が間違っている?」
「そうです。正確に言えば、結末が違う。違っていたのは約千年前、エレーナが天空の宮から攫われたあと。伊集院さんはトレチャークが中国までエレーナを追いかけたけど、エレーナは瀕死状態で、結局助けられずに亡くなったと」
「そうだ」
 琴は黙った。急に口を開かなくなったものだから琴の様子を伺うと、琴は世界中の悲しみを一身に背負ったかのように涙を流していた。見ているだけで胸が苦しくなる慟哭だった。
「……終わってないんです。千年前の出来事は、まだ……」
「どういう意味だ、終わってないとは。トレチャークはまだ何かをしでかそうとしているというのか」
「そうじゃない。私は知りました。トレチャークやコート、エレーナのことだけではなく、伊集院さん、あなたのことも」
 今度は伊集院照子が押し黙った。
 まるで、威嚇するかのように睨み合う伊集院照子と琴。
「あまりにも悲しい。伊集院さん、あなたは悲しすぎる」
「何を聞いたのか知らないが、小娘に同情されたくはないな」
「あなたも、あなた自身のこと、知ってるんですよね。でも、私はそれを人に伝えることを禁じられてしまった。それが知ることの条件。だから、私が話せるのはここまでです。真実は知られることで世界が方向修正する。最善の結末ではなく、予定されたあるべき結末へ。知っている者は、予定されている結末に対して一人で抗うか、あるいはただ傍観者にならなければならない。あの方はそう言っておられました」
「あの方?」
 倉敷が尋ねる。
「修行場には、真っ白な光の輝きのようなものが存在していました。言葉を介しますが、それは光の塊のようであったり、一輪の花の様でもありました」
「なにを……?」
「うまく表現できません。でも、あそこには何かが存在していて、それは人ではなく、まったく別の解釈でしか捉えることのできない存在……」
 光の花。
 それは存在であり、人ではない。
 別の解釈でしか捉えることのできない……。
「喋ることができないのなら、それでもいい。だが、私はどう受け止めればよいのだ。トレチャーク討伐にささげた人生。お前はそれを否定しようとしているのか?」
 琴は答えきれず、嗚咽を漏らしながら慟哭した。
「ひ、否定なんてできないし、しません。ただ、あまりにも悲しすぎる……。私は今、心底後悔ています。六合目になんて行かなければ良かった。六合目の途中で戻ってきたのは、それ以上の真実を聞くことができなかったから。でも、私は自分のすべきことが分かりました。私はやらなければならない。いろんな悲劇に終止符を打つためにも」
「終止符だと?」
「この、千年間続いた物語を終わらせるんです。千年間続いた深い悲しみを終わらせるんです。この……凄まじい孤独だけが支配する輪廻を……」
 伊集院照子はもう何も言わなかった。
 その場にはただ、流れ続けた。
 琴が悲しみに嘆く声ばかりが。

 【第四部 起源編(封印と健忘の章) 完了】


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