あっちから変なの出てきた

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第十四章 【 虚無へと続く道の途中 】


 夜明けにラナ・カンが召喚状態を解かれ、奏の左腕に毛皮となって巻きついた。完全にハザマの世界に帰るわけではないようだ。
 まだ太陽が昇りきらない朝の沼地は、大地に綿を被せたかのように靄が掛かっている。
 歩き始めて、数時間で濡れた地面が乾燥し始める。やがて草木が目立ってくると、夕暮れ前には魔の森の敷地を知らせる金網に進路を阻まれた。
「ここからが通称『魔の森』です」
「本当に警備とか、誰もいないんだね」
 金網の向こうの森の中は、紫色の霧によどんでいるように見えた。森の奥から流れてくる空気は、なんとも言えない悪意の含んでいる気がする。
 よじ登って金網を越える。越えて魔の森の地に足をつけた途端、悪寒に身震いした。これは恐怖だ。呪われた森。
 恐怖は自分の精神が勝手に作り出したおぞましい想像の産物である。そう自分に言い聞かせたし、事実、そのとおりだと分かっているが、恐ろしいものは恐ろしい。
「大丈夫です。進みましょう。魔物が居るというのはただの迷信です。数々の二ツ目族が侵入している森ですが、魔物を見たという確たる証言も証拠も、何もありません」
 シエルが頼もしく思えた。戦闘になってもシエルには戦う力は無いが、孤独という名の強敵に対しては、強力な味方になってくれる。
「どこへ行ったらいいと思う?」
 シエルに尋ねると、そうですね、と逡巡したあと言った。
「四ツ目族の研究所は避けましょう。森の東側に研究所があるので、とりあえず北西に向かいましょう。キャンプを張るなら、西にある海岸が良いでしょう。四ツ目族がやってくる危険が少ない場所です」
 シエルの提案を受け入れ、森を歩き出す。
 日が暮れ始めると、空気が冷えだした。森の内外では温度差が相当あるように思われた。灼熱の荒野からやってきた奏には防寒具の装備がない。森で夜を明かせるよう、防寒具の用意が必要だと思った。
 海岸線には日暮れ前にたどり着いた。大きな岩が左右に割れて、道を作っている。そこを越えると砂浜が三十メートルほど続き、その先に黒く染まりかけた大海が見渡せた。
「隔世にも海が……」
 波が海岸に打ち寄せる音を聞きながら、奏が呆然と呟く。
 砂浜を歩くと、馴染みのある砂の踏み心地。見たことのない動植物ばかりの世界で、砂浜から望む大海原は、現世のものとなんら変わりがない。故郷に帰ってきたかのような郷愁が奏の胸を締め付ける。
「日が暮れます。枯れ木を探して、森側から陰になるような場所で焚き火を起こしましょう」
 シエルが提案した。奏は一時の感傷を振り払い、現実に戻った。
 砂浜には流れ着いた枯れ木が豊富に落ちている。集めるのは容易だろう。あとは森から死角となるような場所であるが……。
「カナデさん、ちょっと待ってください」
 シエルが奏を呼び止めた。もう陽はほぼ沈み、視界が利かなくなるまで時間の問題だと思われた。
「見てください。私は夜行性なので人より目が利きますが、カナデさんは見えますでしょうか」
「なにを?」
 シエルに近づくと、空中に浮かんでいるシエルは自分の足元を見ている。シエルの視線を追って足元を見ると、シエルが気にかけている正体が分かった。
「足跡だね」
 奏が言うと、シエルは口ひげを撫で付けながら「新しいですねえ」と息を漏らす。
「四ツ目族が近くに居るってことでしょうか……。でも、海岸線に何の用が……。それに不可解なのはもうひとつの足跡です」
 宙に浮いたシエルが音もなく高度を下げ、身体を地面と水平にさせると、足跡に鼻先を近づけて、鼻腔をひくつかせた。
「やっぱり」
「なにか分かった? やっぱり四ツ目族?」
「いえ、二ツ目族です。それに、もうひとつは獣の足跡。犬か、それに属する獣ですね。しかも眷族です。そう遠くない過去に、ここを二ツ目族と眷族が一緒に歩いています」
 短絡的に、それがユーナでないかと想像した。
「カナデさん、この足跡がユーナさんのものかもしれない。わたくしは周囲をもう少し調べますので、カナデさんは薪を集めてキャンプの準備をしてください」
 一緒に調べたいと思ったが、宙に浮いているシエルと違い、奏は足音を残して場を荒らしてしまう。シエルが調べやすいよう、奏は傍を離れた。
 海岸線は砂浜が続いているが、森側は地面が隆起して、丘になっている。砂浜より森側は三メートルほど土地が高いのである。丘の下にキャンプすれば、森からは焚き火の光が漏れづらくなるだろう。一番高い丘を見つけて、その下をキャンプ場所にした。高波が覆いかぶさろうとしているかのような形状の丘は、雨風も防いでくれそうだ。
 そこを拠点に薪を拾いに出かけ、持ちきれなくなったら戻る。それを繰り返すと、近くの枯れ木は採り尽くしてしまい、少し足を伸ばして遠出する。
 枯れ木を探して海岸線を歩くと、奇妙な場所にたどり着いた。砂浜から突き出た突起物が無数に乱立している。近づくと、何の変哲もない、腕ほどの太さの棒が砂浜に突き刺さっている。
 観察してみると、ただの棒でないことに気づく。棒には何か文字のようなものが刻み込まれているのである。なんて書いてあるのかは分からないが、この棒の数々を突き刺したのは、人であることは間違いないようだ。
 しばらく観察していると「カナデさん」と背後からシエルの声が掛かった。すくみあがって振り返ると、暗がりにシエルの暗影。
「驚かせてすみません。足跡の痕跡をたどってきたら、ここにたどり着きました」
「シエルは足音がしないから、びっくりするよ」
 シエルは奏の横を通り過ぎ、突き立てられている棒のひとつを観察した。
「クルナ・レイルと書かれています。これは人の名前です。他の棒にも同じように名前が刻まれています。どうやら、これらの棒は墓に模しているようですね」
「墓?」
 奏はぞっとして足元を見る。何も知らず、墓の上を土足で踏み躙っている。
「大丈夫です。『墓に模している』と言ったとおり、本当の墓ではないようです」
「どうして分かるんだ?」
「この砂浜の下には、何も埋まってないからです。少し離れたところでこれを見つけました」
 シエルが掴んでいた布切れを奏に見せる。
「この布には、木の墓を作った人のメッセージが書かれています。内容は、三年ほど前に近くの村が怪物たちの襲撃にあって、滅びてしまったとのこと。生き残った一人の少年が、ここに村人の死体を埋めて、自らも墓穴に入り込んだと書いてあります」
 字は読めないが、そのメッセージに、この墓を偽物と証拠付ける内容は見当たらない。
「ここに死体を埋めたと書かれているのに、死体は一切埋まってませんし、掘り起こされたような形跡もない。ちなみに、わたくしは人が発する通力の痕跡を嗅ぐことが出来ます。普通の匂いより、通力の痕跡はより強く、長い時間、その場にとどまりますから、間違いありません。ここに人が埋められていれば、匂いで分かります」
「人が埋められていないのに、なぜ墓が? そのメッセージは嘘なのか?」
「おそらく嘘でしょう。ここは魔の森の敷地内です。ここに二ツ目族の集落を作ることなどありえませんし、人が住んでいた匂いも一切ありません。ですが、人が居た形跡はあります」
「なんのために?」
「目的まではなんとも……。とりあえず、キャンプに戻りませんか? 本格的に冷え込む前に、火を起こしたほうが良いかと思います。わたくしは大丈夫ですが、カナデさんは暖が必要でしょう」
 その通りだったので、奏が見つけたキャンプまで戻ると、火を起こしながらシエルの話を聞いた。
「墓が偽物である理由は分かりませんが、とりあえず砂浜で見つけた足跡の件です。あそこで見つけたのは二ツ目族が二人、眷族が一体です。分かったのは、一人は女性で、もう一人は男性。女性は身長百五十センチから百六十センチほどで、年齢は十代かか二十代。男性のほうは二メートル近い長身で、年齢は二十五から三十。足跡の大きさ、歩幅、沈み具合、臭いなどで総合判断しています。ほぼ間違いないでしょう」
 身長と年齢が、ユーナに一致する。ユーナの年齢は知らないが、おそらく奏と歳はさほど変わらないはずだ。
「ユーナか?」
 一縷の望みを抱いて聞き返したが、シエルは首を横に振る。
「ユーナさんに一度でも会ったことがあれば判断できますが、この匂いがユーナさんのものかどうか分かりません。申し訳ありません」
「謝ることないよ。でも、シエルはすごいね。そんなことまで分かるなんて。優秀な眷族なんだね」
 そう言うと、シエルは恥ずかしそうに「そんなことは……」と謙遜した。
 だが、ユーナである可能性だってある。特徴は一致しているのだ。奏の重々しかった心を、少し軽くしたことは間違いない。これは明るい兆しである。
「一緒に居る男と眷族は、女の仲間なのか?」
「おそらくそう思います。争っているような痕跡はありませんでしたし、少なくとも同意の上で一緒に行動しているように見えます。それとですね、足跡は墓場でしばらく徘徊して、森に消えています。正体は分かりませんが、少なくとも足跡はものすごく新しいです。わたくしなら痕跡をたどって、あとを追うこともできるでしょう」
 奏は火起こしの手を止め、宙に浮かんでいるシエルを両手で掴んでいた。
「シエル!」
 奏が声を上げると、シエルが目を丸くして奏を見返した。
「すごいよシエル! すごいよ! これがもしユーナだったら、シエルのおかげでユーナに追いつけるかもしれない!」
 爛々と目を輝かせる奏に、シエルは戸惑うしかない。
「本当にありがとう。もし、ユーナを見つけることが出来たら、シエルも大変な眷族なんて止めて、好きなことをしたらいいよ。プティシラに相談して、シエルがずっと召喚していられるようにしようよ。本読んだり、勉強したり、自分の好きなようにするんだ」
「わたくしの好きなように……? しかし、わたくしは眷族。宿主を守り、仕えるのが役目」
「そうだけど、みんなが目的を果たしたら、平和に暮らしたらいいじゃないか。俺がユーナを見つけて、プティシラがルウディを見つけたら、また一緒に居ればいい。俺が代理召喚するから、ずっと好きなことをしていたらいい」
「カ、カナデさん、お気持ちは嬉しいですが、それはあまりにも夢物語じみていて」
「そんなことないよ」
 シエルを掴む手にいっそうの力が篭る。
「約束する。目的を果たしたら、きっと現世に戻って君を召喚してあげる。今みたいに、ずっと君を召喚してあげる。現世はとても平和な世界だから命の危険なんて心配することもないし、いろんなものや情報に溢れてる。君にとっては勉強の宝庫のような場所だよ」
「よもや、そんな世界が……」
「本当だよ。俺と一緒に帰ろう。ユーナやプティシラ、ラリルド、コソボ婆、トレミ、佐々倉さん、クユスリさん、みんなで帰るんだ」
 シエルがわなわなと口元を震わせる。
「本当に、自由な世界が……?」
「本当だよ。俺が連れて行く。絶対だ。約束だよ」
 シエルは目を潤ませると、おおお、と声を上げて涙を流し始めた。
「な、なんて優しい方でしょうか。わたくし、こんなお優しい言葉をいただいたことなど、一度もありません。本当にそんなすばらしい世界があるのなら、ぜひわたくしも行きたいです」
 うんうん、と奏がうなずくと、うんうん、とシエルがうなずく。
「カナデさんの約束は忘れません。ですが、少々冷えてきました。焚き火を起こしましょう」
 シエルの言葉に、奏は寒さを思い出す。掴んでいたシエルを解放すると、奏は火を起こし始めた。
 背後で、シエルが呟いた。
「忘れません。本当に、カナデさんにいただいた言葉は……」
 その言葉は、奏の耳には届かなかった。
 
 
 
 足跡を追跡するのは夜明けから。
 気が逸ったが、夜の森を徘徊するのは危険とのシエルの判断で、夜明けを待つことになった。
 疲れ切っているはずなのに、眠気は一向に訪れなかった。傍で読書を続けるシエルの傍で、焚き火を見つめ続ける。
 もしかしたらユーナに追いつくかもしれない。その希望が、奏を興奮させている。
 現世での最後の別れを思い出す。自我を失ってしまったかのようにヴァルアラトスに跪き、恍惚の表情を浮かべていたユーナ。
 まだ、ユーナの気持ちを聞いていない。ユーナが何を望んでいるのか。隔世に帰ってくることを望んでいたのか。それとも、隔世に戻ってきたのは不本意だったのか。本当は帰りたくなかったのか。そうならば、ユーナを助けだし、現世に連れ帰る。
 隔世に残りたいのなら、それで良かった。奏は何より、ユーナの気持ちを知りたかった。
 
 ざわ
 
 奏は顔を起こした。
 シエルを見ると、相変わらず読書中である。
 風か。
 波の音か。
 焚き火が爆ぜる音か。
 何かの音が聞こえた気がしたが、音の正体は分からない。
 シエルが何も感じていないのであれば、きっと異変ではない。そう思って焚き火に視線を戻す。
 
 ざわ
 
 飛び起きるように顔を起こす。
 様子に気づいたシエルが読書を止めて奏を見た。
「カナデさん、どうかしました?」
「なにか音が……」
「音?」
 シエルが二本の耳を突き上げると、アンテナのように周囲に向ける。
 
 ざわ
 
「ほら、今」
 奏がそう言うと、シエルが「これは……」と呟いた。
 なにか気づいたのか。シエルは森の方角を眺めている。
「声質からすると、おそらく二ツ目族です。近いです。これは声です」
 シエルがゆっくり、視線をカナデに移す。
 数秒の沈黙があった。
 なんの沈黙だったのか。
 奏はそれ以上発言せず、周囲の砂を大慌てで焚き火に掛けはじめた。
 誰か居る。それが二ツ目族であろうと、味方であるとは限らない。一刻も早く火を消し、暗闇に乗じて身を潜めなければ。
 火を消しきると、小声でシエルに尋ねた。
「誰の声なのか分かるの? 砂浜の足跡と同じ人間だとか」
「分かりません。こちらは風上です。音だけが頼りです」
「向こうはこちらに気づいてる?」
「分かりません。とにかくやり過ごしたほうが無難です」
 相手の正体が分からないなら、やり過ごすべき。だけど、ユーナだったら? この森にユーナが居て、砂浜に足音を残した可能性がある。ずっと探してきたユーナがそばにいるかもしれない。一か八か……。
「……遠ざかったようです。ですが、火はつけないでください。このまま身を潜めましょう」
 行ってしまった。
 今から追いかければ追いつくだろうか。
 気づくと、シエルが奏の頬に触れていた。温かい肉球が奏の頬を押す。
「分かってます、カナデさん。逸る気持ちは良く分かります。ですが、焦らないで。明日明るくなってからでも、わたくしは追跡が可能です」
「でも、今のがもしかしてユーナだったら……。もしかしたら、明日には森を出てしまうかもしれない。もしかしたら、危険な状況かもしれない」
「……否定はできません。でも、少なくとも声に緊張感は感じられなかった気がします。慎重になったほうが無難かと」
「分からないなら……最悪な可能性もあるってことだろ。もしかしたら、口を塞がれてるのかもしれない。気負うしなって運ばれてるのかもしれない」
「考えればキリが無いですが……」
 シエルは「ふう」とため息を漏らす。
「分かりました。ですが、カナデさんはここに居てください。わたくしが後を追って誰か確かめてみます。わたくしなら小さいし、夜目も利くし、足音もさせません。追跡は容易です」
「でも、シエル」
「いいんです。わたくしは戦闘能力には長けておりません。危険があれば諦めて戻ってきます。それに、空高く飛び上げれば、相手も手出しできないでしょう。夜の暗闇にまぎれて戻ってきます」
 シエルはカナデの頬から手を離す。
「いいですか、くれぐれもカナデさんは動かないで」
 シエルは微笑んだように見た。そのまま闇に溶け込むように後ろへ下がった。
「待って」
 声をかけたときは、奏の視界からシエルが消えていた。
 闇夜ではシエルの居所どころか、数メートル先からは世界が存在していないかのような黒しか見えない。
 待つしかない。
 焚き火は起こせない。暖を取れない以上、眠らずに寒さをしのぐしかない。
 夜明けまであと何時間くらいだろうか。
 奏は膝を抱えて、じっと動かずにシエルの帰りを待った。
 
 
 
 シエルを止めなかったことについて、後悔したのはそれからすぐ。
 暗闇の中、孤独に身震いした瞬間、冷静な奏が戻ってきた。
「お、俺はなんてことを……」
 なぜ、シエルを一人で行かせてしまったのか。危険だと分かっていた。いくらシエルが足音をさせないからといって、危険なことには何の変わりもない。
 なぜ、必死に止めなかったのか。
「気配がユーナだと思って、シエルのことなど何も考えずに……」
 その考えに至って、奏は絶望的な気持ちで頭を抱えた。
 自分の目的のために、シエルを危険な目に遭わせるなんて。
 自分は行こうとするシエルを止めようとしたはずだ。だけど、止めようと伸ばした手は、戸惑うように宙を揺らいだ。
 それは、分かっていながらシエルを行かせた証拠。私利私欲のために、シエルを利用したのは間違いなかった。
「俺は馬鹿だ」
 奏は立ち上がった。
 こんなところで膝を抱えて小さくなっている場合ではない。
 一刻も早くシエルを見つけて、連れ戻さなければ。
 奏が暗い森を振り返ったその時。
 
 あああああああっ!
 
 遠くで悲鳴。
 全身の細胞が死んでいくような悪寒を覚えた。
 今のはシエルの悲鳴。
 シエルの悲鳴!
 間違いなかった。
 シエルの声を聞き間違えるはずはない。
 森に残響するシエルの悲鳴。
 シエルに何かあったら――。
 足元からミキサーで削られていくような気分だった。
 奏はシエルを召喚したときのカードを取り出した。
 召喚を解くつもりだったが、はたしてやり方がわからない。どうやったらシエルの召喚を解けるのか。
 カードを額に貼り付け、祈るように念じた。
 シエル、戻って来い。
 シエル、戻って来い……。
 何度も念じたが、シエルが戻ってきた実感はない。戻ってきたのか、戻ってきていないのか。まったく分からない。こんなことなら、戻し方を聞いておくんだった。
 奏は考える前に走り出していた。
 丘を駆け上ると、森に入っていく。
 シエルに何かあったら――。
 もう一度想像して、恐怖が衝撃となって全身を打ち付けた。
 悲鳴はどの方向から?
 おぼろげな記憶を頼りに、森の中をひた走る。
 息が切れ、気管が乾燥して張り付く。息がうまく吸い込めない。
 奏は木の根に足を引っ掛けて、前のめりにつっぺした。途端に咽こみながら空気を貪り食う。
 こみ上げてくる咳の衝動に、呼吸がうまく出来ない。
 
 ああああああっ!
 
 再び悲鳴。
 間違いなかった。シエルのもの。召喚は解けていない。シエルの元まで行き、助け出すしかない。
 息苦しさなど感じている暇はなかった。奏は地面に弾かれたように立ち上がると、今度は確かに聞こえた悲鳴の方角へ疾走した。
 暗闇の中から樹木が出現し、背後に滑っていく。
 体力の許す限り、気の遠くなる時間を走り続け、無数の樹木を追い越していった。
 突如として目の前に出現する金網。
 奏は金網に寄りかかるように倒れこんだ。
 くそ。
 魔の森の終わりを知らせる金網。
 シエルはどこだ。
 自分は今どこにいる。
 悲鳴の方向へまっすぐ走っていったと思っているが、走っているうちに別の方角へ向かってしまったのかもしれない。
 悲鳴はもう聞こえてこない。
 シエルは?
 無事なのか?
 心が折れている場合ではない。
 自分のせいで、シエルが危険な目に遭っている。
 奏は神経が断裂してしまったかのような足腰に力を入れた。
 金網を這い登るように立ち上がる。
 そのとき気づいた。
 金網の向こう側。
 大半は暗闇でよく見えない。
 だが、何かが見える。
 
 ああっ
 
 短い悲鳴だった。
 聞き逃してもおかしくなかった。
 シエルのものかどうかも分からなかった。
 だが、聞こえたのは金網の向こう。
 おぼろげに見える、金網の向こう側にある暗影。
 建築物か。
 建築物のように見える、ただの丘か。
 判断できないが、行くしかない。
 奏は金網をよじ登り、向こう側に着地した。
 耳を澄まし、足音を殺しながら暗影に近づいていく。
 傍まで来ると、それが人工的な建造物であることが分かった。
「研究所……」
 シエルが言っていた、森の東にある四ツ目族の研究所。
 金網は森を仕切るものではなかった。その先から、四ツ目族の研究所であることを区切るための金網。
 明かりは一切見えない。四ツ目族といえども、夜は寝静まるのか。
 建造物の側面に沿って歩くと窓があった。中を覗き込むが、黒い板がはめられているかのように何も見えない。
 シエルはどこに?
 建造物はそれほど大きくない。現世で言う、3LDKほどの長屋程度。だが、窓がひとつと、その隣に出入り口がある以外は、コンクリートのように冷たく硬い壁に囲まれている。
 住居だろうか。周囲には同じような建物がいくつか見える。だが、生活の匂いはしない。建物の周りに洗濯物を干す場所、生活用品などが一切ない。
 建物を離れ、奥へと歩いていく。
 小さい建物群がなくなり、周囲に正体不明な建造物に囲まれた巨大な建物が見えた。
 建物の前面は開けた空間となっており、踏みしめられた地面が広がっている。そこに人影はない。
 何の建物か。暗影しか見えず、細かい造りは見ることが出来ない。暗影から判断するに、大きさはグロウリン城塞都市で見た闘技場ほどある。
 暗影を見上げながら、奏は呆然と呟いた。
 シエル……どこに……。
 
 
 
 目の前にそびえる巨大な暗影。
 見上げて呆然と立ち尽くす奏。
 シエルはどこに……。
 奏は目の前の巨大な建造物に近寄っていく。
 正面には鉄製の大きな扉。
 触れると、氷のように冷たかった。
 ここはいったい……。
 この中にシエルはいるのか。だが、入る手段がない。
 奏は戸惑ったように背後を振り返ったとき、奏の小さな心臓を破裂させるようなサイレンが鳴り響いた。
 耳のすぐ傍で怒鳴られたかのようなサイレンは、奏の全身を痺れさせる。
 サイレンの直後、先ほど見た小さな住宅の密集地から、人々が飛び出してきたのが見えた。
 逃げようとした。
 だが、逃げられなかった。
 そのサイレンは、奏という侵入者を発見して鳴らされたものだったからだ。はじめから見つかっている。
 サイレンが鳴り始めてから一瞬にして、奏の周囲を取り囲む人ごみ。背後は巨大建造物の冷たい鉄の壁。
 暗闇の中、一人が正体不明の光の玉を持って奏の正面に立った。
 光の玉を頭上に掲げると、周囲が昼間のように明るくなる。
 光の玉を持っていたのは背の高い男。
 額には第三の目。
 ――三ツ目族。
 なぜ、俺はシエルの助言を聞かなかったのだろう。
 どうしてシエルを行かせてしまったのだろう。
 この結末は容易に想像できたはず。
 そのはずなのに、この事態を招いたのは全面的に奏の愚かさのせい。
「貴様か。まさか、本当に現れるとは」
 正面に立って光の玉を頭上に掲げる三ツ目族の男が、静かに口を開く。
「ここは眷族を封じている。大人しくすることだ。抵抗するなら容赦はしない」
 男の背後に控える無数の人影。
 抵抗などはなから考えていない。
 愚かだ。
 ここまで必死に生き延びてきたのに、ちょっとユーナに近づいたと分かった途端、これほどまでに心を乱し、軽率な行動をしてしまうとは。
 どれほど慎重に動いて来たと思ってる。たった一つの動揺が、これまでの全てを無意味にしてしまった。
 情けない。こんなに簡単にも、終わりを迎えてしまうなんて。ついさっきまで胸に膨らんでいた希望はなんだったのか。
 もう少しだった。ユーナの影に近づいた。
 涙が出そうだった。自分の愚かさが招いた結末。きっと、これが自分の運命。近づいたとたんに掠め取られてしまう希望。
 もうここまで。
 シエルを一人で生かせた時点で、自分にはもうなんの資格も無い。
 
 
 
 奏は抵抗など毛頭考えていなかった。
 数人の三ツ目族に抱えられ、連れて行かれたのは牢獄だった。
 隔世に来て、いったい何度目の牢獄なのか。
 巨大建造物から程近い場所に、地下へと進む階段があり、そこを降りると、まるでスケルトンのデザイナーズ住宅のように、巨大な地下空間にいくつもの牢獄があった。各牢獄を隔てるのは無機質な鉄格子だけ。その牢獄一つ一つに数人の二ツ目族だと思われる人間が詰め込まれている。
 二ツ目族がまるで……。
 広大な地下倉庫に、集荷された荷物かのように……。
 二ツ目族の、無数の無機質な視線が奏を突き刺していく。
 地下空間にはまばらに光の玉が浮かんでおり、ほのかに明るさを保っているが、すべての視界が利くほどではない。
 両脇を三ツ目族に抱えられた奏は、もう抗う気持ちも、命乞いする気力もない。ここが終わりの場所。なんとなく奏は予感していた。
 広大の倉庫の中心に程近い場所で、奏は四方を鉄格子に囲まれる牢に放り込まれる。その牢には先客が七人居て、新たな客をひどく迷惑がった。狭い空間に合わせて八人。もちろん、横になれるスペースなどない。
 だが、今まで閉じ込められてきた牢とは、明らかに違う点がある。
 それは、牢には女や子供も多いこと。
 男と女は別の牢に入れられているものの、広大な地下空間をひとつとするならば、男女比は半々に見えるし、子供の数も多い。
 見渡す限りのコンテナのような牢獄に収容された二ツ目族たちは、おおよそ二千人を超えると思われた。二千人は深夜のせいか、口数は多くない。子供も寝静まっているのか、泣き声をあげたり、喚いたりする声も聞こえない。
 奏の背後で、鉄格子が地下空間中に響き渡るような金属音を立てて閉まった。
 振り返ると、三ツ目族は南京錠をかけて立ち去っていく。
 奏は牢に閉じ込められた自分以外の七人を見た。同室の二ツ目族はすべて男。新客がやってきたとこそ顔を上げたが、今はもう興味もうせたのか、一様に顔を伏せている。
 声を掛けられる雰囲気ではなかったし、掛ける気もない。自己嫌悪の闇に取り込まれた奏は、とにかく今は涙を流すしかなかった。
 その場にうずくまり、声を潜めて泣いた。


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