あっちから変なの出てきた

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第一章 【 そしてルーツへ 】


 行雲途山修行へ向かうためのチョモランマまでの長い道のりは割愛するが、伊集院照子がチョモランマに行くために利用したのは中国の旅行者が主催するツアーだった。
 二日間かけてチョモランマのあるチベット自治区のラサまで来ると、高地順応のためにここで足止めを食らった。
 ラサは思っていたより都会の様相だった。ラサはチベットの首都であるだけのことはあり、都市部は車の往来や人の多さに印象を裏切られた。
 事前に知識を頭に入れてきたわけだが、そうだとしても現代のチベットは普通に発展都市である。
 目を見張ったのがラサでの宿泊先であるホテルで、チベット仏教の独特な装飾は見られたが、日本の高級ホテルと変わらない。テレビさえ見れるのだ。ニーハオトイレの事情は知っていたが、ホテルのトイレは立派に水洗である。
「体調は問題ないか?」
 市街地を歩きながら伊集院照子がつぶやいた。高山病を心配しているのだ。琴はとくに息切れを覚えるようなこともなく、いたって体調は良好だと答えた。
「私が前にここに来たときは一帯には何もなかったが、今は物にあふれてるな。体調に問題なければ少々観光でも楽しもうではないか」
 ここは標高3650mの高地。富士山頂に匹敵する標高である。高山病の恐れはあったが、今のところ琴も伊集院照子も体調に変化はない。ホテルにおいてきた中国娘と黒服の付き人にも高山病の症状は現れていない。
 ラサ都市で三日間の足止めを食らったものの、いざチョモランマに登るための高山病予防(ツアーではチョモランマBCまでしか行かない)とのことだったので、ツアーでなくても数日は都市に滞在し、高所に慣れなければならない。
 ツアーガイドは片言の日本語をしゃべった。そのガイドについていって、伊集院照子と琴はラサの観光の真っ最中である。どうせ足止めを食らうのなら、ラサの町を観光しようと伊集院照子の提案どおり二人はガイドを連れてラサの街中をぶらついていた。(なお、中国娘と黒服はホテルに残ると言うので置いてきた)
 露天や商店が立ち並ぶ商店街はにぎやかだ。中国の独特な漢字が並ぶ看板、人々の服装は、やはり異国の雰囲気が漂っている。
「食事はホテルで食べるね。買い食い、お勧めしないね」
 ガイドが言うには、ホテル以外の飲食は衛生面で保障できないと言う。
 ラサの市街地から少し離れた高台にあるポタラ宮という場所に案内された。マルポリの丘という高台の場所の上に立っており、ラサ都市内のどこからでも見ることのできる。いざ丘を登り、間近でポタラぐうを見たときは、琴は感嘆のため息を漏らさずに入られなかった。
 丘の上からは広々としたポタラ宮広場が見え、そのさらに向こう側にはラサの全容が見下ろせる。空を見上げれば、青く透き通った空に浮かぶ雲が、手を伸ばせばつかめそうである。まさに天空の城だ。
 遠目からはお城のように見えていた建物も、近くで見ると仏教の建築物であるとわかる。壁画や装飾は日本でも見れる京都や奈良のお寺に近いが、しかしレベルが違う。全体的にオレンジ色の色調に感じたが、壁画や絵画に描かれる色彩と緻密さ、建物のユニークな構造は美術館をめぐるような印象さえ受ける。
 迷路のような建物内をガイドに案内されて歩き回ったが、あの部屋に入るのに料金を支払い、あの場所に行くのに料金を支払いと、何度も中国元を支払う羽目になった。神聖な場所であるはずなのにあこぎな商売をする。伊集院照子は気にせず行きたい所に行くので、琴は後からついていって財布をしまう暇さえなかった。
 伊集院照子が観光に満足して、飯でも食ってホテルに戻ろうというときだった。ガイドに「ホテル以外で食事を摂るな」という忠告も無視して入ったレストランの一角が売店となっており、琴は何気なく興味を引かれて視線を移した。
「伊集院さん、あれは何でしょう」
 琴が指差した先にはさまざまな絵画のようなものが売店の壁を埋め尽くしている。
「タンカだな。私が前に来たときもあったぞ」
「タペストリーみたいなものですか? 描かれているものは何でしょう」
「如来や菩薩だろうな。過去の偉人や神、歴代のダライ・ラマが多いな。なにか気になったのか?」
「いえ……」
 気になったのだ。いくつかのタンカに描かれている「あるもの」について、琴は焼け付くような興味を引かれた。実はタンカだけではない。町ですれ違うラマ僧や仏像にも同じ特徴がある。
 その特徴が、琴をそわそわさせ、それを口にすることがためらわれた。
「気になることがあるのなら言ってみろ。私が前にここにきたときは数年前――いや、実際には百年以上経っているが、チベットの基礎知識は頭に入れたつもりだからな」
 勉強家な伊集院照子のことだ。聞けば答えられるのだろう。
 あの絵はただの点。だけど、あの絵は明らかにそれを示している。
「絵に描かれてるのは人物が多いですが……人の額に描かれてるものは……」
 恐る恐るたずねると、伊集院照子は半ば琴の言うことを想定していたかのようにいやらしく笑みを作った。
「あれは第三の目」
 第三の目……。やっぱり……。
「なんでもありません。気にしないでください」
 琴が会話を断ち切ろうとするが、意地悪な伊集院照子は許してくれない。
「せっかくいい観点を指摘したんだ。勉強しろ。あれはアージニャーチャクラというものだ。眉間辺りにあるチャクラのことだが、超越した能力の持ち主を明示する印みたいなものだ」
「……実在したんですか?」
「したと思うか? お前は第三の目を持つ人間を見たことがあるか?」
「ありません、そんなの」
 答えて、琴は自分の言葉が嘘であることに気づく。
 琴を救うように、店員が食事を運んできた。ガイドは同じ席についていたが、食事に手をつけようとしない。むしろ、約束を守らない日本人にご立腹の様子。
「その話は修行が終わったらしてやろう」
「別にいいです。私はできれば何も知りたくないです」
「私と一緒にいる以上、それは無理な相談だ」
「それならいっそのこと、全部教えてください」
「全部と言われてもなあ」
 伊集院照子はあごに人差し指を当てて視線を中に泳がす。
「そもそも、伊集院さんが封じていたあの男は誰なんです? どうして封じていたんですか? あの男と、術師の歴史にどんな関係があるんですか?」
「知りたくないといった直後に質問攻めか。どうしたものか。まだ知るには早いと思っていたが……」
 やっぱり「まだはやい」と言いながら教えてくれないつもりだ。そう思いきや、伊集院照子はあさっての方角を見ながら口元をぬぐうしぐさをすると「全ての始まりはここ、チベットからだ。いや、現代のロシアと言うべきか」と話し始めたので琴は目を見張った。
「最終的には中国でソウ・リュウメイに封じられることになる。私も全て知っているわけではないが」
 話の段取りを考えているのか、伊集院照子は一拍の間を取る。
「ルーツは約千年前のロシア。約千年前にロシアはルーシ族に支配されることになる。ものすごく割愛するが、要するにルーシ族――ヴァイキングに支配された一部のスラブ人の奴隷が国外逃亡を図り、モンゴルを通じてチベットまで逃げてきたのさ。その一人があの男だ」
「あの男は……千年前のスラブ人……?」
 歴史はそれほど詳しくない。それもロシアやチベットの歴史となればからっきしだ。だが、ひとつだけ分かったことがある。
「あの男は普通の人間なんですか?」
「まあ、その当時は普通の人間だっただろうが、結論から言ってしまえは普通の人間じゃなくなる。このチベットでな。お前が知りたいのはどの部分だ? ロシアで奴隷として生きたあの男の話か。チベットで変貌した話か。中国でソウ・リュウメイに封じられた話か」
 そんなことを言われても……。
「じゃあ、このチベットでどうやってあの男が変貌したんですか」
「なるほど。どうせチベットに来たんだ。ご当地話のほうが臨場感があるというもの。それじゃあ話してやろう。いかにしてあの男が誕生したか」
 まさか、このタイミングで聞くとは思わなかった。チベットの小さな子料理店の、昼時の喧騒の中、小さなテーブルと質素な食事を囲んで。
 琴はここが外国であるということもあり、まるで現実味のないおとぎの国に迷い込んでしまったかのような感覚に陥った。
 ごくり、と喉を鳴らして伊集院照子の言葉を待った。
 
 
 
「正確な時代はわからない。おおよそ千年前のことだ。ロシアの農村の若者だった男、名はトレチャークという。シヴィチェ村という河川沿いの農村は当時支配階級として幅を利かせていたルーシ族に奴隷狩りにあった。男は労働力、女は性奴隷として狩り出され、国の栄華とは間逆に暗い時代を生きてきた。中世の暗黒時代とはこのときのこと。ある地域で奴隷として君主に仕えていた数人の男たちと女たちが逃亡を図ることになる。当初の目的は中国だったらしいが、千年前のこと。正しい道順も分からなければ、方角だったおぼろげだっただろう。行き着いた先はモンゴル。そのころには数十人いた仲間たちも半数以下に減っていた。当時のモンゴルはまだチンギス・ハーンが活躍する少し前。契丹王国時代のころだろう。詳細は分からないが、荒涼とした大地を進む限りに、逃亡者の彼らに追っ手や異民族の脅威はなかった。だが、彼らが目の当たりにしたのは自然の驚異。極寒の荒野の道は彼らの仲間を奪った。チベットに到着するまでには仲間はさらに半減していただろう」
 古代ギリシャ正教、キリスト教という宗教が生活の一部だった彼らにとって、モンゴルで触れたチベット仏教が、チベットに向かうきっかけとなった。彼らはチベット仏教に救いを求め、チベットの中心地、現代のラサを目指すことになる。
「富士山の頭頂部に等しい海抜3670メートルの高地にやってくるまでにも彼らはさらに仲間を減らす。最終的にチベットにたどり着いたのは七人のスラブ人だった」
「七人……たったそれだけ? 数十人もいたのに……」
「道中の詳しいことは分からないが、顔かたちの違うアジアを放浪することは、彼らにとって奴隷以上の迫害があったかもしれないし、どこまで行っても痩せ細った大地、極寒の荒野は避寒、食料にも困っただろう。七人と言う数字はチベットや中国に残されたわずかな文献から推理したものだが、私はむしろよく七人も残ったものだと思っている。世界はヨーロッパを中心とした暗黒の時代だった。現代の戦争や紛争などというものが可愛らしいと思えるくらい、侵略、略奪、迫害が横行した時代だ。七人のスラブ人といえども、悪事に手を染めなかったとはいえない」
 千年前のチベット。実は歴史的な文献はほとんど残っておらず、中国の古文書などから推測される大まかな歴史しか分かっていない。
「チベット入りを果たした彼らに待っていたのは、チベットにとっても暗黒の時代。群雄割拠の時代とも呼ばれる。それまで栄華を極めていた吐蕃王朝が反乱軍によって倒れてから、七人が救いを求めてやってきたチベット仏教はほぼ消滅状態に近かった。チベットは王を失い、群雄割拠の混沌とした時代にたどり着いた天空の町。そこから始まるのさ。この世界を揺るがす『存在してはならぬ者』の誕生」
「存在してはならぬ者?」
「そうだ。七人の中の一人、トレチャークという男は世界に存在してはならなかった。だからこそ、ソウ・リュウメイが封じ、千年もの間、代々の圧縮能力者があいつを封じてきたのさ」
「でも、おかしくないですか? いままでの仮説だと、行雲途山にあるS級札はソウ・リュウメイが御札化したものだと」
「仮説は仮説。私が話していることが正しいかも分からん。それを確かめるためにここまで来たのだ。とにかく暗黒の時代にあって歴史的文献はほとんど残っていない。口伝とわずかな文献からの推理でしかない。それをこれから紐解いていこうと言うのだ。だから琴、お前にはそれを手伝ってもらうために、予備知識として全てを知れ。中世のチベットで起こった全ての始まりを」
「でも……私の本当の使命は襲来する人外に対しての準備では?」
「何度言わせる。人類の敵は人外などではない。人類の敵は人類しかありえない。それを肝に銘じて私の話を訊け」
「……分かりました」
 とにかく訊いてみなければ分からない。伊集院照子が見ているもの。目指しているもの。それらを全て聞き出してから、琴はどうするか決めるべきだ。
 
 
 
 とはいうものの、食事も終わったことだし……。
 と、伊集院照子は話を中断して小料理屋を後にした。ここまで来ては話の続きが気になって仕方ない琴であるが、時間はある。行雲途山に修行へ向かうまでは後二日間、高地慣れするためにとどまる必要があるからだ。
 ホテルに戻ってから話しの続きを聞けると思っていたが、それどころではなくなる事件が起こった。
 王絲琳――ワン・スーリンが彼女の名前。中国マフィアの親分の一人娘である。ここまでついてきたスーリンは、ホテルでずっと篭っていたものの、今日になって中国マフィアの黒服たちが追いついてきたのだ。
 ホテルを占拠するかのように大人数の黒服たちがホテルを取り囲んでいたのである。ここまできて揉め事は勘弁してほしかったが、ホテル前までやってきたことにはどうすることもできない。
 タクシーからホテルを見る限り、ホテル正面に十数名の黒服、周囲に停車している車にはさらに多くの黒服が控え、おそらくはホテル内にも黒服はいるに違いない。
 なかば浚うようにスーリンを連れてきてしまった我々は、中国マフィアに怒りを買っている可能性は絶大で、このままでは日本から遠く離れた異国の地で誰も知らないまま土中に埋められて行方不明者扱いされるに違いない。
「伊集院さん、とりあえず引き返しましょう」
「なぜ引き返さなくてはならない。あんなやつらに行動を決められる筋合いはない」
 そう言うと思っていたが、琴こそ引いている場合ではない。
「多勢に無勢です。まさか戒力で追い払うわけにもいきませんし」
「このままむざむざスーリンを引き渡すのか? あれでも七十億分の一の選ばれた人間だ。お前の家族が死に物狂いで世界中を駆けずり回って見つけた人間だぞ。そんな簡単にあきらめてもいいのか?」
 伊集院照子が珍しくまともな理攻めをしてきた。確かに鳴音一家が苦労して、世界中に混乱を招きながら見つけたたった一人の選ばれた人間。琴にはその人間を行雲途山へ連れて行かなければならない重大な責任がある気がした。だがしかし、そのとんでもない世界混乱を支持したのは紛れもなく伊集院照子だったし、ここで死んでしまえば使命もへったくりもない。
「こんなことなら一緒に連れて行けばよかった……」
「嘆いても遅い。とにかくスーリンを奪還し、予定より早く行雲途山へ向かうとしよう」
「でも、どうやってあの中からスーリンを連れ出すんですか?」
「ううむ……」
 さすがの伊集院照子もあごに手を当てて悩みこむ。
 すると、にわかにホテルロビーがどよめきだした。車の中からホテルをうかがうと、なにやら叫び声が聞こえる。
「なにが起きてる、琴」
「いえ……私にもなんだか……」
 スーリンが暴れているんだろうか。
 目を凝らすと、ホテルの入り口あたりから数人の黒服が転げるように逃げ出してきた。穏やかじゃない雰囲気だ。だが、逃げ出してきたのは数人だけで、その数人は車に逃げ込むと走り去っていく。
 まだホテル前には黒服たちの車は多く止まっていたし、それ以上の騒ぎが起きる気配もない。
 琴はじっとして様子を伺っていると、琴が座る反対側のドアが開く音が聞こえて振り返る。車道側から外に出た伊集院照子が、車を半周してホテルの入り口に歩き出している。
「ちょっと、伊集院さん!」
 ガイドの運転手に待っていてと断りを入れて、琴も車を飛び出す。
 慌てて伊集院照子に追いついたときには、もうホテルロビーの前だった。
「どうしたんですか、伊集院さん」
「この気配……誰かが通力を使ったらしい。しかも……」
 伊集院照子の様子も尋常ではない。心ここにあらずといった様子。ロビーに入っていくと、高級ホテルのロビーにはところどころに黒服が倒れている。黒服だけではなく、フロントでは従業員がカウンターにつっぺしてたし、ロビーのソファーやラウンジでは宿泊客も眠りこけるように意識を失っていた。
「これは……」
「気をつけろ、琴。敵かもしれん」
 誰も居ない、物静かなロビー。人の営みがないだけで、まるで廃墟のような印象だ。
 伊集院照子がそばに倒れていた黒服の様子を伺う。
「間違いない。これは通力を食らったんだ。しかも……」
 人が人に対して通力を発っすることは禁忌中の禁忌。だが、それは自然管理委員会に属する、いや、世界に存在する全ての術師たちの共通意識だ。世界で人間に対して通力を使って攻撃するような事件はまず起きない。
 これは、自然管理委員会か、この国の同等の機関に報告すべきか。中国には国家レベルの術師の組織は存在しない。いや、しないわけではない。行政機関である国務院には、この手の事件を担当する部署もあるはずだ。公安部あたりだろうか。
「伊集院さん、ここはとりあえず警察へ」
「馬鹿なことを言うな。我々は極秘の渡航をしてきたんだ。通報すれば我々も強制送還が落ちだ」
「でも、ほうっておくわけには……」
 そのとき、ホテルロビーの奥から女性の悲鳴が聞こえてきた。
「琴、いいから付いてこい。いずれ大事になる。その前に現状を把握するのだ」
 琴の返事も聞かず走り出す伊集院照子。後を追っていくと、悲鳴が聞こえたのはホテルのレストランからだった。
 悲鳴に聞こえたのは、実はスーリンのわめき声だったと分かった。レストランにいた宿泊客たちはテーブルにつっぺして(中には床につっぺして)気を失っている中、若干二名だけ口論をしている様子。
 スーリンと通訳の日本人である。
「おい、小娘」
 伊集院照子が声を掛けると、ぎょっとしたスーリンがこちらに顔を向けた。スーリンは反射的に飛びのくと、こちらに向けて両手を差し出した。
 そのとき、風が吹いた気がした。
 ところが、その風を振り払うかのように伊集院照子が腕を横なぎにすると、風がやんだ。風がやんだ向こう側でスーリンが驚愕の表情でこちらを見ている。
「とんでもない騒動を起こしてくれたな、小娘」
 つかつかとスーリンの元へ歩いていく伊集院照子は、スーリンの目の前に立つなり、思いっきりスーリンの横っ面をひっぱたいた。スーリンは呆然とたたかれたほほを押さえながら伊集院照子を見上げる。
「とにかく来い。すぐに公安が来るぞ」
 伊集院照子はスーリンの腕を掴んで、強引にホテルを出た。それについていくしかない琴と通訳の日本人男。
 表で待っていた車に乗り込むころには、スーリンは酷く叱られた子供のように泣きじゃくっている。
「あの……伊集院さん、いったいなにが?」
 琴が混乱したまま、伊集院照子に答えを求める。
「この騒動は、ぜんぷ小娘の仕業だ」
「スーリンの……? こんなこと、いったいどうやって……」
「うるさい!」
 伊集院照子が苛立ったように怒鳴った。
「私だって混乱してるんだ! 少し黙ってろ琴」
 伊集院照子が取り乱している。尋常じゃないのか、この事態は。
「こうなったら、高度順化などしている場合じゃない。すぐにでも行雲途山に向かうぞ。高山病になったやつは構わず見捨てていくからな。おい、ガイド! チョモランマBCに向かえ!」
 ガイドはなにやらまくし立てていたが、伊集院照子の迫力に負けて車を発進させる。
 チョモランマまで向かうまで、琴は口を開くことができない。苛苛したように何度も舌打ちを繰り返す伊集院照子と、泣きじゃくるスーリン。そして収支額をなでながら蒼白な顔をしている日本人通訳。
 いったい、なにが起きたのか。ホテルのロビーでどうして人が倒れていたのか。それはスーリンの仕業だというが、そうだとしても伊集院照子の取り乱しようは説明が付かない。
 琴は我慢強く口を閉ざしながら、チョモランマへの到着を待った。
 
 
 
 伊集院照子が行雲途山へ向かった時代からはかけ離れ、現代ではチョモランマへの道のりはだいぶ舗装も進み、かなりのところまで車でいける。
 途中(これは極秘中の極秘)、事前に琴が調べておいたツガツェまでの道中にある小さな集落で、偽造の許可書を人数分作った。高額な料金を取られたが、これ以上進むには致し方ないし、許可を取ることの苦労に比べたら易いものだ。この旅路は決して正当なものではなく、観光や登山でもない。
 一緒に登山に必要な道具一式をそろえ、トランクに詰め込んだ。
 めまいがしそうな犯罪行為に手を染めてしまった琴の、それからの道中は心臓が耐え切れないほどの緊張の連続になる。
 成都ラサからチベット第二の都市であるツガツェまで、荒涼としたチベット平原を進む。その間、幾度となく人民解放軍の検問に出くわし、琴のウサギのような心臓はびくびく痙攣してばかりいた。
 ツガツェで一泊すると、続いて向かうのはチョモランマBC。機能までの舗装道路などはなく、車でいけるとしてもとんでもない悪路となる。
 途中、何度も日本人通訳が「俺を置いていってくれ!」と悲鳴を上げたが、伊集院照子は平然と首を横に振る。
 幸いにして伊集院照子、琴、スーリン、日本人通訳にも高山病の兆候はなく、ここまでは順調である。
 何度か日本人通訳が車を降りて嘔吐した以外は特に事件もなく、チョモランマBCにたどり着いた。
 そこには東洋人、欧米人の観光客が幾人か散見された。みな、チョモランマ峰を眺めながら感嘆のため息を漏らし、絶景に見惚れていたが、琴たちにそんな余裕はない。なにしろ無許可でここまでやってきた犯罪者たちだ。これからとんでもない犯罪行為をもうひとつこなさなければならない琴は、絶景などに目をくれる余裕もない。
「なにも、山頂を目指すわけじゃない。ここまで車で来れるなら後は少し歩けば目的地さ」
 と楽観的な伊集院照子。場所を知っているのは伊集院照子だけ。嘘だろうと本当だろうと、それを知るのは伊集院照子だけ。
「すぐに出発するぞ。真正面からの登山はできん。しかし、心配いらん。私が以前通ったルートで行けば、検問には引っかからん」
「冗談じゃない。こんな辺境まで連れてこられて! 俺はここで引き返す!」
 日本人通訳は、途中で買った民族衣装に着替えている。さすがに黒服のスーツ姿では怪しまれるからだ。
 スーリンといえば、ホテルでの事件以来、ずっとおとなしい。口数も少なく、ずっとあさっての方向ばかり見ている。
「ここで引き返してもいいが、許可書は渡さないぞ。無許可で引き返せば、人民解放軍に捕らえられる。どんな仕打ちを受けるか知らんが、ろくなもんじゃないだろうな」
「俺は法治国家日本の国民だ! 強制される筋合いなどない! いいか、今すぐ許可書を渡さないと、すぐに公安へ通報してやる!」
「ひどく高尚な理屈だが、こんな場所で権利をほざいたところで言葉も通じない。それに、スーリンをほうって一人で逃げれば、マフィアに命を狙われること必至。お前には付いてくるしかないのさ」
 伊集院照子の理攻めに屈服した日本人通訳はその場で膝から崩れて頭を抱えた。
 ここまで付き合ったガイドを解放し、いよいよ四人になった。
 
 
 
 チョモランマBCにいる観光客から隠れるようにして登山準備を始めた。言っておくが、誰も登山経験のある人間など居ない。通常、登山には付き添うプロのガイドが必要だ。ところが、全員登山素人。しかも無許可。これは自殺行為ではないのか。
「気温は低いが、行くのはせいぜいベースキャンプからC1までだ」
 地図を広げて説明する伊集院照子。
「標高6000か。ここまでは車で来れたが、やはり徒歩しかないのか?」
 そう尋ねたのは日本人通訳。ここまできたら腹を決めたようだ。
 日本人通訳はルートを理解すると、一人でどこかに消えていく。スーリンを残しているので逃げる心配もなかったので好きにさせる。
「登山経験者が居なくても大丈夫なのでしょうか」
 琴は素直に懸念を口にする。
「登山者はほかにもたくさん居る。もしだめだったら、周囲の登山者に助けを求めればよい。C1までならただの斜面を歩くだけのもの。雪もないだろう。問題ない」
 その楽観視が不安なのだ。登山をなめたらどうなるか、などは時々テレビニュースで見る。山を甘く見て遭難し、人々に迷惑を掛けてバッシングを受ける素人登山家などのニュースによる浅知恵しかないが、それでもプロの登山家が聞いたら頭から湯気を立てて怒りだしそうな無計画さ。
 しばらくすると日本人通訳が戻ってきた。
「途中まではヤクでいけるらしい。それらしいガイドも雇ったから、一緒についてきてもらおう」
「おい、通訳。勝手なことなどするな。これは普通の登山ではない。我々は登山して風景を眺めて戻ってくるわけではない」
「分かってますよ。だからガイドとはC1の途中で別れましょう。リスクは少ないといっても、高山病はさすがに怖い。体力温存を図って、途中までヤクで行きましょう」
 ヤクとはチベット高原に生息する、要するに牛である。ヤクでC1の途中まで行き、それからは徒歩になる。
「どうやら、その先もそれほど険しい道のりではないようだ。なにも山頂を目指すわけ出じゃない。酸素ボンベと食料があればどうにかなるそうだ」
 さすが中国語をしゃべれる男だ。他の中国人にでも情報収集してきたのだろう。
 伊集院照子も否定はせず「まあいいだろう」と提案を承諾した。
「私の時代とは違う。それは認めるべきだろう。ここまで車で来れたことといい、登山者がこれほど居ることといい、私の時代とは比べ物にならないな」
 日本人通訳の案内で、ヤクを貸し出している商人の元へ向かう。
「名前はなんていうんですか?」
 琴が日本人通訳にたずねる。日本人通訳は「おや」という顔で琴を見た。
「僕の名前に興味が?」
「名前を聞いただけです。一緒に行くんだから、名前くらい知らないと不便です」
「ふうん、そう。別にいいけどね。僕は倉敷俊作といいます」
「倉敷さん、ごめんなさい、こんなたびにつき合わせてしまって」
 琴が詫びると、今度こそ男は目を丸くしてあごを引いた。
「いまさら謝るのかい? これまで強硬な態度だったくせに」
「それは伊集院さんです。私だって巻き込まれた口なんですから……」
「そうえいば、君はどうしてこんなところまで? お嬢と同じですか」
「私も行雲途山修行に行くんです」
「へえ、こんな可憐なお嬢さんがねえ……」
「可憐と言ってくれてありがとう。でも、本当にいいんですか? この先、なにがあるか分かりませんよ」
「ここまで強引に連れてきたのはあなたでしょう。お嬢が行くって聞かない限り、僕は引き返せません。まったく、どうしてエベレストに上る羽目になっているのやら……」
 倉敷は肩をすくめてため息を漏らす。普通の青年である。なぜ、中国マフィアの通訳などやっているのか。
 ヤク商人からヤクを借り受けると、承認はそのままガイドとして付き添うそうだ。
 準備が整うと、ようやく登山開始。
 検問で偽造で作成した登山許可証を提出する。すんなり通行許可が下りる。他の登山客とともに荒涼の斜面を進みだす。
「なんだかんだいって、ずいぶんずさんなんだな、警備も」
 伊集院照子がヤクにまたがりながら呆れている。
「高額な料金を取られましたからね。それなりじゃないと納得できません」
 先頭を行く伊集院照子が振り返って言った。
「このガイドだって許可を取って先導しているわけじゃないだろう。この辺の地元商売人にも人民解放軍は目をつぶっているのだろうさ。まあ、そんなものさ、人間の警戒心など」
 ヤクに揺られながら、四人を乗せた四頭はガイドの先導で荒涼とした斜面を登り続ける。他にもヤクを引いた登山客は居るが、大抵は徒歩のようだ。
 相変わらず口数が少ないスーリンを横目で見ながら、琴は伊集院照子に尋ねる。
「伊集院さん、そろそろ教えてください。ホテルのロビーでのことです。なにがあったんですか? どうしてみんな倒れていたんですか?」
「ああ、そのことか」
 ふうむ、と口元をなでる伊集院照子。
「正直、私も混乱した。かといって、いまとなってもまだ明確な答えは出ていないが……」
 スーリンが元気をなくした原因もある。あんなに喜怒哀楽の激しいスーリンがおとなしくなってしまう原因が。
「これは話したと思うが、ホテルのロビーの一件は、すべてスーリンの仕業だ。まさにこれがスーリンの力といっていい」
「人を失神させる力ですか? 七十億分の一の人間ですから、それくらいできても不思議はありませんが、そうだとしても伊集院さんの様子は説明できません」
「私の様子ねえ。あの時、私はどんな様子だったというんだ」
「混乱してました。スーリンが起こした事態といっても、普段から冷静な伊集院さんが取り乱すほどじゃないと思います。通力を人に使う倫理的な問題で伊集院さんが取り乱すわけはないし、世界規模の事件を巻き起こす伊集院さんが、いまさら数十人が倒れたからといって驚くわけがない」
「人を化け物みたいに言うな。だが、お前の推測もあながち間違っては居ない。ただ、通力によって人が失神していた『だけ』なら私は驚かない。だが、あの時、スーリンが使った力に問題がある。あの力は良く知っている力だ」
「それは……?」
「簡単なこと。圧縮能力さ。正確に言えば、その一歩手前。圧縮する能力を弱めた力」
「圧縮能力って……あの、御札化する……」
「御札化は極限状態だ。その前には相手の力を抑える能力がある。一ツ目族が一ツ目ボタン蟻になったように、ラナ・カンが子猫になったように」
「ホテルのロビーに倒れていた人は、みんな力を抑えられたってことですか?」
「そういうことだ。一時的に力を圧縮された人々は、体内の情力や戒力を失った状態になり、意識を失った」
「でも、七十億分の一人なら、それくらいできても……」
「そうじゃない、琴。ありえないのさ。圧縮能力者としての代表は伊集院照子こと、私のことだが、同じ時代に圧縮能力者は二人生まれない。これは大原則だ。しかし、こうしてもう一人、スーリンという圧縮能力者が生まれている。これはどういうことだ。確かに圧縮能力者の交代時期に、同時に二人の圧縮能力者が存在する僅かなタイミングがあるが、私はいずれ力を失い、引き継がれることになる。しかし、そうだとしても私以外に圧縮能力者が二人居る計算になる」
「伊集院さん以外に二人? スーリンともう一人がいるというんですか? それは誰ですか?」
「なにを血迷ったことを言っている。もう一人は奏だろう」
「奏……? それは……」
「まさか忘れたとは言わせん。奏が私の正当継承者だったはず」
「奏……?」
「なんだその顔は。もういい。要するにだな、今現在、私以外に圧縮能力者が二人いることになる。一人は奏、そしてここにスーリン。これの納得いく理屈が思いつかない。だから混乱したのだ」
 すると、後ろを歩いていた倉敷が口を挟んできた。
「お嬢はこんな力など持っていませんでした。どうしていまさらあんな力が」
「開花したのだろう。私との接触で。だが、まだ甘い。力の制御がなっていない。だからあんな事故を起こす。これから行雲途山で修行すれば力の制御も可能となろう。力の制御はその小娘のためにもなる。自分で自分の力に驚いたのだろう。いまは放心しておるが、そのうち元気を取り戻す。しかし……」
 やはり納得いかなそうな伊集院照子。
「よもや、トレチャークのような男がほかに居るというのか……」
「トレチャーク……、伊集院さんが御札化して封じていた男のことですよね。そういえば、その男の話も途中でした。たしか、千年前に七人のスラブ人がチベットのラサにたどり着いたというお話でしたよね」
「ああ、その話か。そうだな、道中の暇つぶしに話してやろう」
 伊集院照子はヤクを琴の横につける。
「正確に言うと、チベットにたどり着いたのが七人だ。ラサに向かう途中に三人に減る。まあ約千年前の話だ。どこまで正確かは分からんが……」
「それでもお願いします。気になって仕方がないんです」
「ふん。道のりは長そうだ。最後まで話してやる」
 伊集院照子は大きく息を吸い込んで、長い長い話を始めた。
「ヴァイキングの奴隷狩りから逃れるようにアジアを旅したスラブ族の人間たちは、モンゴルを越え、チベットの地にやってくるまでに七人に減った。やがてラサの地へたどり着くまでに三人にまで減る訳だが……」
 やっと続きが聞ける。
 伊集院照子が執拗なまでに警戒する男。百年もの間、御札化して圧縮し、それは千年前の中国から繰り返されてきたリレー。
 その謎が解き明かされる。その歴史はおそらく、我々術師の誕生と存在意義までさかのぼる。術師は如何にして生まれ、そして何の目的でここまで発展してきたのか。全てのルーツがトレチャークにあるというのだ。
 いったい、なぜ封じる必要があったのか。いったい、あの男にどんな恐ろしい力があるというのか。
 琴は覚悟して聞く必要があると思った。

 

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