あっちから変なの出てきた

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第九章 【 グロウリン城塞都市 その3 】 


 肺がひどく痛み、息を大きく吸い込めない。浅く息を吸いながら、左足を引きずってひとつの小屋にたどり着くと、小屋の中には先客がいた。
「ここは俺のだ! 出て行きやがれ!」
 小屋内では見たことのない動物に、牧草らしき餌を与えていた大柄な男に怒鳴られる。これ以上殴られては堪らないと慌てて別の小屋を探す。
 次に見つけたのは割と大きめな畜舎をだった。中を覗くと、二人の男がせわしく動き回っている。
 入らずに引き返した。これ以上の暴行は耐え切れない。
 おそらく、これは競争だったのだと遅ればせながら気づく。ヒニルのいた場所がスタートラインとすると、そこから近い場所の畜舎はすべて占有されている。
 時間を無駄にしている場合ではない。ここから一番遠い場所は……。
 周囲を見る。大小さまざまな畜舎がある中、ひとつだけ離れた場所に建物が見える。それは切だった岩山の山頂にあった。岩山といっても高さは二十メートルほど。地面から生まれ出でようとしている巨大な岩の天辺に小屋があるのだ。
 奴隷たちが慌てふためいたように走り出した理由は、あの小屋を選びたくないためだ。
 奏は悲痛な思いで歩き出す。
 途中、もうひとつの飼育小屋を見つけたが、中にははやり先客がいた。その先客が202番だったので、奏は中をのぞいて202番に声をかけた。
「なにやってるでし! もう時間がないでしよ!」
 慌てた風な202番にまくし立てられた。分かってる。だが、聞きたいことがあったのだ。
「あの岩山の上の小屋、あれも畜舎なのか?」
 尋ねると、ああ、と202番がうめいた。
「先に説明して置けばよかったでし……。あそこに行きたくないから、みんな急いで別の小屋を占領するでし」
「あそこにはどうやっていけば……岩山を上る方法は?」
「簡単でし。近くに行けば縄梯子があるでしから、そこを登れば簡単にいけるでし。ただ、あそこの小屋に行きたくない理由は別にあるでし……」
「行きたくない理由? あそこにはなにが?」
 202番は苛立った表情で背後を振り返る。
「もう時間がないでし! 僕も仕事があるから、後で説明するでしよ! すまないでし!」
 そう言って、仕事に戻る202番。仕方がない。行ってから確認するしかない。
 奏は岩山の小屋へ向かう。202番の言ったとおり、岩山の上にある小屋には縄梯子が垂れ下がっており、登るのはそう難しくない。
 奏は左足をいたわりながら縄梯子を登る。下から見たときはそうでもなかったが、登っていくうちに思いのほか高いと気づく。落ちたら大怪我程度では済まされなさそうだ。
 登りきると、小屋の前に小さな空間。平面の岩には、岩にもかかわらず草が生えている。
 ふと、周囲に広がる景色に目を奪われる。高い位置から見た城塞都市の様相が展望できる。
 見える限り、東の方角に城壁が近くに見える。この場所は東端に位置していると分かる。西側の城壁ははるか遠く、霞んで見ることはできない。おそらく半径は数十キロはあり、敷地内の約半分が耕地や水産地帯、酪農地帯となっており、城塞都市の中央部が三ツ目族の住処になっていると思われた。
 目を奪われている余裕はない。奏は小屋に入っていく。
 扉を開くと、ひどい臭気。小屋はせいぜい五平方メートルほどの面積しかなく、扉から小屋の置くに続く一本の通路と、両脇に部屋があるくらいなもの。だが、中に入ったとたんに感じる異質な空気。
 ここは何か不自然。何が不自然か。ひとつに窓がなく、小屋の中は暗闇であること。次に畜舎というにはあまりにも不自然な構造。二つある部屋には扉がひとつづつあるだけだったし、その扉にも穴が開いている風でもなく、餌を与えるような作りになっていない。異臭はするが、これまでの畜舎で感じた家畜特有の獣臭ではなく、別の何かの臭い……。
 そして、なんの音もしない。
「いったい……」
 扉の前に立つと、もうひとつの異常に気づく。この扉にはドアノブらしき取っ掛かりがない。壁の一部のような扉である。
 扉を手で押してみるが、微動だにしない。ふすまの様に横にずらす扉なのかもしれないと勘ぐったが、前に話したようにこの扉にはなんの取っ掛かりもないのだ。
 だが、奏は気づいたのである。扉に手を触れたとき感じた、あの感じ。覚えている。近い過去。奴隷逃れのため、国中を放浪する集団である、あのウィンディア。ウィンディアが放浪に使用するあの巨大な一軒家のような馬車。
 ウィンディアで殺人事件があり、犯人に疑われて牢に閉じ込められた。あの時、一緒に捕らえられていたクユスリは、特殊な眷族を所有していたが、牢に細工された特殊な効果を生む素材により、眷族の発動を封印されていた。
 あの素材。あの素材の正体は廃墟の町で明らかになったように、二ツ目族の人骨だったわけだが、ここの扉にも同じ素材が使用されている。
 眷族の発動を抑える素材の使用された部屋。
 ようするに、ここには人間が幽閉されている?
 どういうことだ。仕事は家畜の世話ではなかったのか。
 部屋は二つある。ということは二人いる? 眷族を封じる牢なのだから、閉じ込められているのは間違いなく二ツ目族。
 ここで、いったい何の仕事をすればいいのか。食事の配給なら扉に配給口があっていいはずだし、そもそも配給すべき食糧はどこにもない。
 どんっ!
 だしぬけに扉から激しい衝突音。
 奏は口から心臓を吐き出しながら飛び上がった。
 やはり中に誰かいる。
 足がすくみそうになる。
 どんっ!
 再度、中から扉をたたくような音。
 いったい何者が幽閉されているのか。
 どうしていいかわからず、奏は無造作に周囲を見やる。
 やはり何もない。
「……はやく」
 声だ。中から声が聞こえた。
「……はやく」
 再び声。はやく? 早く食料をよこせという意味か。だが、食料など持っていない。奏は扉の向こう側に向かって声をかける。
「あの……なにも食料を持ってないんだ」
「……とって来てくれ。はやく……」
 とって来てくれ? どこから?
「……向かい側にある扉の向こう……。とって来てくれ」
 向かい側の小屋。
 奏は振り返る。反対側の小屋には取っ手があった。開閉可能なようだ。
 扉を押し開く。瞬間、光が舞い込んできた。
「なんだ、これは……」
 部屋があるものと思っていた扉の向こう側は屋外だった。扉の先には心もとないつり橋があり、反対側の岩山につながっている。反対側の岩山は奏のいる岩山より大きく、岩山の上なのに樹林が生い茂っている。
「……そこで捕獲できる足高兎が唯一の食料だ……」
「アシダカウサギ……」
「……頼む。もう何日も食事ができていない……」
「捕ってくればいいんだね。分かった」
 奏は慎重につり橋を渡る。切だった岩山の上にできた森。不思議な光景だ。どれくらいの面積があるのか、ここからでは推し量れない。
 つり橋を渡りきると、雑草が行く手を阻む。しばらく誰も踏み込んだ気配はない。
 足高兎。名前から言って、兎のような動物だろう。
 雑草を掻き分けていくと、徐々に草の類は減り、木々もまばらになる。奥行きは思いのほかあって、結構歩いても岩山の反対側にはたどり着かない。
 息を潜め、動物の気配を探る。
 兎どころか、ほかの動物の気配もしない。こんな岩山の上にある森になど、動物がいるのだろうか。
 奏は時間を意識した。時間はゆうに一時間は越えている。戻ったら、どんなひどい目にあうのだろうか。いずれにしても、成果なくして戻るより、仕事を果たして戻ったほうが罰則はゆるいに違いない。
 戻る道筋を見失わないよう、木々に目印の傷をつけながら森を歩き回る。三十分も探し回っただろうか。ふと、草木が揺れる音がして、奏は足を止めて音のほうを見た。
 何かいる。
 木の陰に隠れてよく観察すると、小動物が森に生えた雑草を食べているのが見える。
 耳が二本立っている。毛並みは茶色く、周囲の木々の保護色となっているようだ。ただし、後ろ足が四本ある。前足とあわせれば全部で六本の足。それもバッタやコオロギのように自分の全長より長い足である。おそらく、数メートルの高さを跳躍できる強靭な足に違いない。
 あれを捕まえるのは厄介そうだ。
 どうやって捕まえるべきか。
 足高兎は草食動物の例に漏れず、目は顔の左右についている。背後まで視界が広く見えるようになっているのだ。
 だが、背後に気を使うあまり、正面は死角になると学校で習わなかったか。物は試し。正面から近寄ってみよう。
 奏は足高兎に見つからないように、兎の正面まで移動する。
 やってみるしかない。失敗しても命がとられるわけではない。
 奏は木陰から忍び出る。距離にして十五メートル。まだ気づかれた様子はない。足音を立てないように忍び寄っていくと、距離は徐々に縮まり、十メートル。九メートル、八メートル……。
 足高兎は草を食うのに必死で、奏には気づかない。
 七メートル、六メートル、五メートル……。
 残り一メートルになったときだった。
 ふと、足高兎は首を八十度程度傾いだ。
 目が合った――気がした。
 その後は、ほとんど本能に突き動かされていた。
 足高兎は上半身を百八十度ひねったと思うと、跳躍するような気配を見せた。奏は二の次を考えず跳躍していた。ホームベースにヘッドスライディングするように前方に両手を伸ばす。
 足高兎が跳躍した。
 軽やかに飛び上がろうとした足高兎の後ろ足二本を掴むことができたのは、ほぼ奇跡に近かった。
 掴んだと思った矢先、当然足高兎は抵抗する。必死に暴れる様は、日本の玩具である空気を送って飛び上がらせるカエルのおもちゃを思わせた。
 足高兎は思い出す。自分には掴まれた後ろ足二本のほかに、もう二つの足がある。
 奏は残った二本の後ろ足で反撃を食らった。鋭い爪で手の甲や腕、額や頬を引っかかれる。
 それでも離すわけにはいかない。だが、このままではやられたい放題だ。奏は立ち上がると、どうにか押さえつけようと身構える。
 身構えたときだった。
 風が吹いた。
 生ぬるい風には色があって、目の前を吹き抜けると同時に、奏の視界を黒一色に染めた。
 唖然とする一方、両手に掴んでいたはずの足高兎がいない。
 傷だらけになった自分の腕を眺めながら狐につままれたような心境で周囲を見る。
 左側に黒い塊があった。奏が両腕を広げても余りある大きな黒い物体である。
 黒い塊はなにやら蠢いており、同時に何かを砕くような音がする。
 悟る。
 奏は獲物を横取りされたのである。あの黒い物体に。正体は分からない。だが、あれがこの森に住む別の生物であることは、足高兎を咀嚼する音で分かる。
 奏は戦慄してその場に凍りつく。
 明らかに肉食獣と分かる獰猛な気配。
 今見えているのは肉食獣の背中である。あいつが振り返って奏の姿を見とめた瞬間、奏は足高兎と同じ運命をたどるに違いない。
 ゆっくりだ。落ち着け、ゆっくりと下がるんだ。
 奏は一歩、一歩後ずさりする。黒い肉食獣はまだ捕食中だ。足高兎を平らげる前までに、奏は肉食獣から十分な距離を置かなければならない。
 一歩、一歩……。
 肉食獣からの距離は、狂おしい頬に緩やかである。だがあせってはいけない。あせって走り出そうものなら、足音に気づかれ、一瞬にして追いつかれるに違いない。
 一歩、一歩……。
 ようやく黒い肉食獣から十分な距離が置かれ、死角に入ったとき、奏は一目散に駆け出していた。
 左足に負った足枷がもどかしい。この足さえまともに動けば!
 背後を振り返る。
 肉食獣が追いかけてきてはいまいかと心配だったが――はたして肉食獣は追い掛けてきていたのだった!
 奏は度肝を抜かれて、思わず悲鳴を上げていた。
 黒い塊はまるで魔法の絨毯のように体を波打たせながら、空中を泳ぐように迫ってきている。
 足音ひとつせず、風を切る音もしない。
 ハンターだ。あいつは森のプロ中のプロのハンター。足音もさせず、気配もさせず、ものすごい速度で獲物に近づいて襲い掛かる。
 足が痛いなど嘆いてはいられない。捕まれば間違いなく食われる。説得が通じない相手としては三ツ目族よりたちが悪い。
 奏の心が、命乞いするように悲鳴を上げ、涙が勝手にあふれてくる。
 死にたくない。それ以上に、猛獣に貪り食われるなどという結末は身の毛もよだつほどの恐怖。
 自分の足に「動け、動け」と指令を出す。頼むから動いてくれ。
 奏はもう一度振り返った。
 そこに森はなかった。
 ただの漆黒がそこには広がっていたのである。
 その漆黒に赤い二つの光と、生物を噛み砕くために発達した刃が見えた。
 奏はなにかに足をとたれ、背中から転倒した。
 もうだめだ!
 観念して目を強く瞑った。自分が貪り食われる瞬間を目撃したくはない。
 すべて事象から逃避して、次にやってくる肉を噛み砕かれる痛みに供えた。ところが、その衝撃はやってこない。
 恐る恐る目を開く。
 目の前には猛獣がいた。
 恨めしそうに赤い相貌で奏を睨み付けている。犬歯をむき出しにして、泡のよだれを垂れ流しているが、襲ってくる様子はない。
 なぜだ。
 奏は自分の置かれた状況を確認する。ここはつり橋の上だった。足をとられ、転倒した先がつり橋の上だったらしい。
 どうやら、猛獣はつり橋からこちらに来れないらしい。おそらく、足場が細いせいで、あの巨体では足を踏み出せないのである。
 命拾いした奏は、体の正面を黒い猛獣に向けたまま後ろへ下がる。猛獣はつり橋手前で、いつまでも口惜しそうに奏という餌を睨み付けていたが、奏は小屋までたどり着くと、災厄と封印するかのように扉を閉めた。
 戻ってきた薄暗い小屋。
 助かったことが奇跡に思え、自分が本当に生きているのか疑いたくなった。ひょっとしたら極限の現実逃避に成功して「助かったつもり」でいるだけかもしれない。
 現実を疑ったとき、頬を抓るのは人間の本能らしく、奏は頬を抓って痛みを確認する。
 痛みこそ生の証。どうやら夢の中ではないらしいことが分かると、奏は大きなため息をついて、その場に大の字に寝転んだ。
 全身の力が抜けてしまった。どうやらしばらく立ち上がれそうにない。
「……足高兎は……?」
 牢の中から声がした。
「ごめん。捕ってこれなかった。森に――」
「いい……。もう戻れ……」
 ひどく悲しみに暮れた声だった。
 申し訳ない気持ちになったが、もう一度あの森に行けといわれても、二度とごめんである。
 時間がない。
「ごめん、次があったら必ず捕ってくるから」
 牢の中からは返事はなかった。
 休んでいる暇はない。奏はぼろ雑巾のような体を起こす。すっかり満身創痍である。
 小屋を出て、岩山を降る。気は鉛より重い。成果なし、しかも時間オーバーで戻ったとき、どんな仕打ちが待っているのか。
 このまま逃亡してしまおうか。
 しかし、佐々倉が言っていたではないか。奴隷一人の行動が、奴隷全体の評価となる。逃げ出そうものなら奏のいる奴隷集団は全身が処刑されてもおかしくない。ここはそんな世界。
 絶望的な気持ちで最初の場所に戻ると、切り株にはヒニルの44番が座っていた。相変わらず肩に棍棒を担いでいる。
 戻ってきた奏を見るなり、ニタニタ笑っている。
「よく生きて戻ってこれたな。それで? 成果は?」
 奏はその場にへたり込み、土下座のような形で「なにもありません……」と報告すると、ヒニルの44番はよりいっそうニタついて言った。
「岩場の小屋での仕事は、あれひとつだ。ということは、お前は今日、仕事をしていないに等しい。それは分かるな?」
 仕置きが待っている。それは命を揺るがしかねない罰である。言い訳したいが、最初に会ったコッシの教えを思い出す。
 ――ここでは嘘が通じない。嘘をつくくらいなら正直になること。嘘をつかなければならない疚しい行為をしないこと。
「これから俺の言うことを守れるなら、罰則はひとつだけにしてやる。守れるな?」
 顔を起こすと、さげずむ用に見下ろす44番の顔。太陽が逆光になり、薄黒いシルエットに見える。
「守ります……」
「よし」
 44番が立ち上がる。反射的に身構える奏。奏の卑屈な態度に満足そうな44番は声のトーンを落としていった。
「あの小屋のことは誰にもしゃべらないこと。中で起こった一切の事を口外しないこと。条件はこれだけだ。守れるか?」
 それだけ? それだけでいいのか?
「守ります」
「嘘を言っても分かるぞ。お前が口外しても分かる。ここでは一切の嘘が通じないからな。お前が戻ってきたとき、成果がないと正直に言ったことで、お前は命拾いをした。お前が失敗して戻ってきたことを俺は知っていたからだ。だが、お前は見込みがある。あそこへ行って生きて戻ってきたんだからな。だからこそ恩赦を与える。今日はもうなにもしなくていい。その辺で休んでいろ」
 まさか、これが先ほどまでの44番の言動とは思えない。
「ただし、罰則がひとつあるといったな。それは果たしてもらう。
「それは……?」
「それは、明日もまた、岩山の仕事につくこと。お前は仕事で成果を残すまで、あの岩山の仕事をし続けなければならない」
「まさか……でも」
「口答えするのか? お前は約束を守ると言った。この先は言わないでも分かるな?」
 44番は棍棒を右肩から左肩に背負い替える。それだけで十分に理解した。
「ただし、故意に仕事をしなかったら分かるぞ。あの森へ行かなかったり、適当に時間をつぶして戻ってきても知られることになる。嘘はつけないのさ」
 嘘はつけない。これまでに何度か聞いた言葉。自分の視界の外で行われていることが分かるとでも言うのだろうか。
 話が終わると、奏は近くにあった大きな切り株の上に横になる。
 見える大空。透き通った青。
 一瞬の休息。
 全身は鼓動にあわせてじくじくと痛み、足高兎にやられた傷は普通の怪我とは異質の痛みを与え続けていたが、昨晩一睡もしていない奏は、たちまち眠りに落ちるのであった。
 
 なぜ寒暖の差の激しい荒野の真ん中で、城塞都市内だけ自然に恵まれているのか。三ツ目族はなぜここを住処の中心に据えたのか。
 眠りながらも思考していた。
「69番、起きるでし」
 眠りながら思考している状態とは、つまり浅い眠りである。こうして202番に起こされたときも、すぐに目を覚ました。
 目を覚ました瞬間、感じたのはひどい喉の渇き。
「配給があるでしよ。眠ってたら、水も食料もなしでし。早く行くでしよ」
 奏は慌てて立ち上がろうとするが、全身が悲鳴を上げた。
「ひどく傷だらけでしね。いったい、なにがあったでしか」
「あの小屋で……」
 言いかけて、口外しない約束を思い出す。
「いや、なんでもない」
 202番は怪訝そうにしながら、食料の配給場所に奏を促した。
 配給場所は住処である洞穴のまえのゴミ捨て場。炊き出しのように奴隷たちが大きななべに向かって列を成している。
 奏は落ちていた器を拾うと、その列に参加した。
「食事の配給は夜一回だけでし。貴重な時間でしよ。これを逃したら明日の夜まで食事抜きでし」
「なあ、202番」
「なんでしか?」
 誰も口を利かない、殺伐とした行列の中、会話する二人は異質だろうか。そんなことを考えながら202番に訊いた。
「気になったんだけど……君は、歳はいくつなんだ?」
「歳? 良く分からないでしが、たぶん十二、三くらいでし」
 やっぱり。
 まだ子供である。
「ここには君くらいの子がどれくらいいるんだ?」
「う〜ん、よく分からないでし。僕もここ長くないでしから。でも、何人か見かけたことがあるでしよ」
 それに……なんで君は。
「どうして親切にしてくれるんだ? 周りを見ても、奴隷同士で助け合ったり協力し合ったりしてる様子もないし」
「不思議でしか?」
「うん」
「それは……まずいでし。ヒニルでし。黙るでし」
 そういって、そっぽを向く202番。不思議に思っていると、険しい顔で行列を観察して回る男がいる。
 ソルと呼ばれる大多数の奴隷の中で、ひとつ階級の高い立場の奴隷。
 ヒニルが近寄ると、みな一様に顔を伏せて、黙って災難が通り過ぎるのを待っている。奏も習って地面だけ睨み付けた。
 ヒニルが脇を通る。まるで威厳を押し売りするかのようにまじまじとにらみつけながら。
 ところが、ヒニルは奏の位置で立ち止まると、いつまでも奏を睨み続けている。
「お前が69番か?」
 尋ねられ、自分が69番という番号を割り当てたられていたことを思い出す。顔を起こすと、臭ってきそうな顔を近づけてきて、無言で奏を威嚇する。
「尋ねている。答えろ。お前が69番か?」
「……はい」
 コッシは顔を離すと、低い声で「ちょっと来い」と顎をしゃくった。奏は戸惑って202番を見る。
 202番は顔をそらしたまま、関わろうとしない。202番を巻き込んではだめだ。奏は「分かりました」と返事をして、いざなわれるがままヒニルの後を付いていく。
 なんだ? なんで呼び出された? あの小屋か? あそこの担当になったから?
 いろんな憶測が頭を駆け巡る。
 付いて行った先には、住処の洞窟の出入り口付近に建設された程度のいい建物。おそらく監視小屋だと思われるそこは、ヒニルやコッシのみが出入りを許されている場所。
 屋内に入り、ヒニルが一室の扉を開くと、無言で「入れ」と促される。
 言われるがまま入っていくと、室内にはテーブルひとつと、テーブルを挟んで二脚の椅子。その片方には誰かが座っていた。
 背後で扉を閉める音。振り返ると、さきほどのヒニルの姿はなく、外側から施錠される音が聞こえてきた。
 監禁されたような圧迫感を覚える中、奏は不審そうに椅子に腰掛ける男を見る。男は表情一つ変えず、澄まして奏を見返している。
「どうぞ、座って」
 手を差し向けられ、座るよう促される。奏は警戒を解かないまま、恐る恐る椅子に腰掛けると、テーブルを挟んで男と向かい合った。
「そんなにビクビクしないで。なにも捕って食おうって言うんじゃないから」
 声に聞き覚えがあった。独特のイントネーションを持つ口調。
「顔を隠してたから、気づかないかしら。昨日、身体検査で会ったわよね、69番」
 思い出したが、警戒は解けない。むしろ、なんの用だと猜疑心が募るばかり。
「あなたに用があって来たのよ。それより、いったいどうしたの? 傷だらけじゃない」
「これは……」
 言えない約束。
「まあいいわ。でも困るわね。昨日まであんなにきれいな体をしてたのに、早速傷だらけになっちゃって。ちょっと残念だわ」
 何が残念なのか。それよりも、いったいなんの用事なのか知りたかった。
 男は改まって座りなおすと、薄笑いを浮かべて奏を見つめた。
「当然、分かってるわよね?」
 おもむろに理解不能な言葉。何が分かっているのか? 自分がこの男と何か約束を交わしたというのか。そんな記憶はまったくない。
「あら、とぼけちゃって。言ったじゃない。ここでは嘘や隠し事は一切できないって。ひょっとして、私が気づかなかったとでも? そんなことあるわけないじゃない」
 ぞっとした。
 あれは、ひょっとして。
「気づいた? 私はあなたのためにわざと見逃したのよ。分かる?」
 奏は口を利けなかった。
 見逃したということは、見返りを求めている。暗に男はそう物語っている。
「あなたは二つの眷族を持っていた。ひとつはその腕に巻きついてるものね」
 知られていた。具現化した眷族は見破れないなど、甘い考えだった。やはり、ここに抜け道のような都合の良いものはない。改めて確信する。
 だが、それより問題なのは「なぜ見逃したのか」という部分。
「いずれにしても、ここでは眷族は役に立たない。発動できないからね。でも、あなたにとっては思い入れの強い眷族だった。違う?」
 正しい。ラナ・カンの存在もトレミの存在も命を剥がされると同等の大切な存在である。
「あなたの大切な眷族。私が守ってあげたの。本来なら、あそこで眷族を抜いてしまうのが私の仕事。分かる? 私はとんでもないリスクを犯して、あなたを助けてあげたのよ。これの意味するところ、分かるでしょう」
 嫌な予感がする。
 この男は、そのリスクの代償にいったい何を要求するのか。半ば悟っている。だが、それを認めたくない。願わくば、男の口から奏の想像するものとは別の見返りが聞こえてくることを願った。
「……あなたが望めば、今後もそれなりに優遇された生活が送れる。階級もすぐに上がるわよ。ソルの待遇は最低ね。私だってソルから始まったんだから良く知ってるわ。でも、階級を上げるには生まれ持った素養があって、それは誰にでもできることじゃない。あなたのように生まれながら持っているものがなければね」
 眷族を抜かれなかったための代償。それは大きいはずだ。だが、覚悟を決めなければならない。それほどにラナ・カンもトレミもかけがえのない存在なのだ。
 ラナ・カンは奏から離れれば、おそらく消えてしまう。トレミはあれほど忌み嫌っていたハザマの世界に戻らなければならない。
 それなら、自分が嫌な思いをするくらいで済むのなら……。
「他人を利用すること。それと、手にあるものはすべからず利用すること。それがここで生き抜くためのコツよ。あなたは生まれ持った美しい体を持っている。そしていい香りのする尻を持っている。ここで、私の愛人になれば、私はいろんな意味であなたに手心を加えることできるわよ」
 やっぱり……! 悪い想像は裏切ってはくれなかった。
 しかし、甘んじて受けなければならない。断ればラナ・カンとトレミを失うのだ。男に抱かれる。そんな苦痛を味わうだけで、ラナ・カンとトレミは救われる。しかし、このどうしようもない嫌悪感。
 耐え切れない。想像するだけで絶望的な気持ちになる。
「いいのよ、よく考えて。すぐに答えを出せとは言わないわ。そうね、三日間あげる。三日後、また尋ねてくるから、そのときに答えを教えて。先に言っておくけど、選択を間違わないでね。ソルの生活は最悪よ。でも、あなたの不遇な環境は、コッシである私の手心ひとつで改善することができる。それだけはよく肝に銘じておいてね」
 そして、断れば眷族を失う以上の仕返しが待っている。
 選択肢はない。
 男が立ち去ると、少しして先ほどのヒニルが扉を開けた。
「戻れ、202番」
 低い声で命令され、奏は重い足取りで建物を出る。住処の洞穴の前では、すでに配給は終わっており、奴隷たちは住処へ引っ込んだ後だった。
 夕暮れが世界を赤く染めている。
 ここがグロウリン城塞都市。
 ユーナ。
 ここが君が生きてきた世界か。俺は身をもって感じている。君が現世にやってきて、自分の命が矮小であると感じていた理由も、投身的で絶望的で退廃的な考え方も。
 君の元へいけるのか。
 きれいな体のまま、たどり着けるとは思っていない。薄汚れ、体のパーツをそぎ落としながら出なければ通れない道だということは分かってる。
 だけど、何を失おうと君の元へたどり着く。そして現世へ連れて帰る。
 死んではならない。どんな目に遭おうと生きていなければ、君を救えない。
 奏はユーナの顔を思い浮かべ、自分を振るい立たせることでしか、自分の存在を感じることができなかった。
 
 その晩も、奏は汚物の山の前でたち続けて夜を明かした。
 不潔を恐れたのではなく、汚物の中で眠ることでの感染病を恐れたのである。生きるためにしなければならない苦痛は、全て受け入れる覚悟だった。
 汚物まみれになろうと横たわって体力を温存したほうが翌日の仕事が楽になるに違いない。そう思いながらも、奏は必死に立ち続けた。
 翌朝も強烈なサイレンに目を覚ました奴隷たちは、無駄口を一切利かずに立ち上がった。
 隣の間からヒニルが現れ、定例の朝礼会のように声を張り上げている。
「昨日、二名の脱出行為があった!」
 脱出行為。こんな環境なら逃げ出したいやつもいるだろう。だが、その二人の行く末が強烈に気になった。
「幸運にも脱出行為は未然に防がれたが、二人とも処刑処分となった。今回は聖神様は大目に見てくださり、二人の処刑で免れたが、一歩間違えばこの集落の全員が連帯責任として処刑されてもおかしくなかった! 分かるな! お前ら一人でも疚しい考えを持っているなら、全員が危険にさらされる。おかしなことを考えるな! 必死に働けば、やがてヒニルに、コッシになれるかも知れん」
 これが、奴隷たちのモチベーションとしてすり替えられる。本来、奴隷という不遇の環境であるにもかかわらず、三ツ目族の用意した上位の階級が甘い蜜のように見えてくるのだ。
 自由と権力を得るために、奴隷たちは三ツ目族に強いられているはずの酷遇を見失う。時には命を失い、虫けら同然に打ち捨てられる存在だというのに。
 気力や覇気というものは皆無。この中では革命は起こらない。
「昨日、食事摂れなかったでしね。昨夜も寝てないみたいでし」
 202番が声をかけてきた。
「大丈夫。心配ないよ」
「そうは言っても顔色が悪いでし」
 ヒニルが番号ごとに割り振られた仕事場を発表している。昨日と同様の配置らしい。それもそうだ。奏は今日もあの岩山に行かなければならない。
 昨日のリプレイのように行列を作って職場へ向かう。
「昨日も聞いたけど……」
 前を歩く202番に声をかけた。
「なんでしか?」
「君は……なんで俺に親切にしてくれるんだ?」
「それは……69番がいい人に見えたからでしよ」
 いい人に見えたから。なんて信用のならない言葉。何かたくらんでる。それは間違いない。
「いい人なら、誰でも親切にするのか?」
「そうでしね……。それはないでし。でも、僕の見立てどおり、69番は悪い人ではないでし。こうして僕と会話してくれるでしね」
 それは奏も同感だった。なんでもない会話でも、こうして202番とのコミュニケーションは希薄になってしまいそうな自我を保つことができる。
 今はそれでいい。202番が何かを企んでいようとも、この交流は必要なものである。
 今回、202番は昨日の場所まで行く前に、途中の農地で別れた。奏は昨日の話どおり、終点である畜舎が集まる地帯までやってくると、昨日と同じように切り株に腰掛けた44番がいた。
「まずは家畜への餌やり。制限時間三十分。ちなみに69番は夕暮れまでに戻ってくれば良し。さあ行け」
 44番の合図とともに走り出す二ツ目族たち。
 今日はその中で、戸惑いがちに立ち尽くす男がいた。走り出そうとしない。戸惑ったかのように周囲を見回している。
 やばい。あれはおそらく新入りだ。
 44番に気づかれたら、昨日の自分の二の舞になる。
 奏はすばやく男に近寄り、耳元で口ずさむ。
「俺に付いてきて……!」
 昨日、44番に打たれた左足の痛みは、まだほとんど回復していない。足を引きずりながら走り出すと、背後から男が付いてきた。
 良かった。44番に気にかける様子はない。
 スタート地点から一番遠い畜舎を覗くと誰もいないようだった。
 奏は後を付いてきた男に言った。
「ここが今日の君の職場だよ。三十分以内に餌やりをするんだ」
「餌やりって……どうすれば」
 それは奏にも分からない。小屋の中には無数の鳥が飛びまわっている。おそらくここは食肉用の鳥小屋か。
 周囲を見ると、木箱に大量の穀物の実が詰まっていた。
「たぶんこれだと思う。適当に餌をやったらすぐに戻るんだ。そして次の仕事もこなす。そうすれば大丈夫だから」
 奏より年上であろう男は戸惑いながら「次はどんな仕事なんだ、どうすればいいんだ」と質問ばかり繰り返す。
 昨日やってきたばかりの奏にはなにも分からない。
「ごめん、俺も行かなくちゃ」
 残酷なようだが、できるだけのことはした。
 奏は岩山に走る。たどり着いた岩山の縄梯子を上り、小屋に入る。
「待ってて。今日こそ足高兎を捕ってくるから」
 扉越しにそれだけを伝えて、反対側の扉から森に入り込む。
 その日、二度、足高兎を見つけ、昨日と同じ展開で捕獲した。
 ところが、その二回とも獲物を掠め取られたのである。もちろん、横取りしたのは昨日の黒い猛獣。最後は追い掛け回され、撤退を余儀なくされた。
 小屋に戻ってくると、奏は扉越しに「ごめん、今日も捕ってこれなかった」と不猟であったことを伝えると、奏は小屋を後にしようとした。
「……昨日と同じやつか?」
 尋ねられ、出ようとしていた小屋を振り返る。
「そうだけど……」
「……そうか……」
 声はそれ以上聞こえなかった。
 奏は表に出て、岩場を降りると戻るまでの時間、睡眠をとった。今夜も洞穴で立ち続けて世を明かさなければならない。眠る時間はこの時間しかない。
 しかし、今日のあの黒い猛獣の様子。
 あの動物は賢い。
 覚えたのだ。奏の後をこっそり付いてきて、奏が獲物を捕獲したと同時に横取りする。
 あいつは俺を生かしている。俺が利用価値があると知っている。俺の後についてくれば、勝手に獲物を取ってくれる。それを横から掠め取ればいい。実に効率的な猟である。
 最後、満腹になれば奏を追い掛け回し、森から追い出すのだ。
「あいつめ……」
 足高兎を捕獲するコツは掴んだ。あとは黒い猛獣との戦いである。どうやってあいつを出し抜いて獲物を獲得するか。
 考えているうちに眠りに落ちた。
 
 成果なしであったが、お咎めもなしだった。ヒニルの44番はなにも言わなかった。おそらく、44番はあの小屋の仕事が過酷を極めると知っている。
 帰り道に考える。なぜ、あの岩山の小屋の仕事は、あのような仕組みになっているのか。わざわざ小屋と森をつなげて、足高兎を捕獲するような仕組みにしなくてもいいはずだ。
「69番」
 背後から呼ばれて振り返ると、202番がいた。
「どうでしか、仕事は。今日も傷だらけでしね」
「大丈夫。コツが分かってきたから」
「へえ……」
 奏の顔をまじまじと見上げる202番。なんだ、と戸惑う奏に202番が言った。
「奴隷らしからぬ顔をしてるでしね。何かいいことでもあったでしか?」
「いいこと?」
 言われて驚く。俺はどんな顔をしていたのだろうか。
 いいことなんて何ひとつない。だが、確かに生きる気力は蘇りつつあった。
「202番。聞きたいことがあったんだ」
「なんでしか?」
「階級を上げる方法。どうやったら階級を上げられる? あまり遠回りしてる時間はないんだ。すぐに階級を上げられる方法ってないのか?」
「すぐに? そんなのないでしよ」
「ないのか?」
「うん……でも、あるにはあるみたいでしが、誰も成功したことがないでし」
「誰も? それはどんな方法?」
「知りたいでしか? でも、知ってもどうにもならないでしよ」
「それでも知りたいんだ」
「うん……それは闘技場でし。闘技場で活躍すれば、階級だけはあがあるでし。でも、誰も行きたがらないでしよ。階級が上がったって、闘技場で死ぬまで戦わされるでししね」
「……現実的じゃないな」
 最初に会った奴隷である、コッシの髭男。あの男が言いよどんでいた階級を上げる方法とは、おそらく闘技場のことだろうと気づいた。言いよどんだのは、それがあまり薦められない方法だったからだろう。
「なあ、普通にやって、だいたい、どれくらいかかるんだ、ヒニルにあがるには」
 202番は口を尖らせて考え込んで見せる。
「……そうでしね。個人差はあるでしが、聞いた話によれば、だいたい早くて五年」
 五年か。そんなに待ってはいられない。階級を手っ取り早く上げるのは無理か。なら、別の方法を考えないと。
「でも、僕は二年でヒニルになろうと計画してるでし」
 202番を見ると、心なしか目を輝かせている。
「僕、ひとつ案があるでし。誰にも言わないと約束するなら、69番だけに教えるでし」
「案が……? もちろん、誰にも言わないけど」
「本当でしか?」
「うん」
 上気した顔で奏を見る202番。
「この城塞都市でまだ未開発な産業があるでし。僕はそれを狙ってるでし」
「未開発な産業?」
「水産でし。まだ、城塞都市内では魚の養殖が未開発なんでし。海や川の漁に頼って、まだ聖神様に安定供給ができてないでしよ。だけど、僕の住んでた村では養殖の技術が発展してたんでし。その技術を使えば、ここでの出世も夢でないでし」
 奏は城塞都市に来て、初めて笑みを作った。
 こんな場所でも希望はあった。それが三ツ目族に与えられただけの偽りの希望であったとしても。
 奏は素直に同調し「成功すればいいな」と心から言葉を送った。
「今日の朝、言ってたでしね。なぜ親切にするでしかって」
 確かに言った。202番は小声になって言った。
「実は仲間を探してるでし。いい人そうな人を見繕って、この計画を一緒にやってくれる人を探してるでし……」
 202番は奏に熱い視線を送った。
「69番は信用できるでし。もし、計画が実行になったとき、協力してくれるでしか……?」
 奏は頷きかけて逡巡した。
 奏の目的はここで生き抜いていくことではない。
 だが、せっかくの希望に水を差すこともないと奏は笑顔でうなずいた。
 
 その夜も汚物の前で一晩立ち続け、夜を明かした。
 そしてグロウリン城塞都市にやってきて三日目の朝。いつものようにサイレンがなり、一日が始まる。
 蟻の集団のように規則正しく列を結び、それぞれの職場に向かう。
「ヒニルになると、聖神様の召使になれるでし。そうなると、こんな洞穴暮らしから開放されて、聖神様と同じ家に住めるでし」
 202番がさまざまな情報を提供してくれるようになった。
「都市部での生活は想像も付かないでしが、配給される食事も水粥のようなものではなく、もっとましな固形物らしいでし。どうやって選ばれてるのかは分からないでしが、ある意味奴隷たちにとっての目標でもあるでし」
 直接三ツ目族に仕えることが目標。ねじれた目標であるが、奏はあえて口をつぐむ。
 なお、この三日間で学んだのは「聖神様」とは三ツ目族を指すらしい。城塞都市内ではこの通称で呼ばなければ、罰則が発生する。
 だが、有意義な情報。ヒニルになれば、都市部にいける可能性があがる。
「ほかにはあるのか? 都市部で働けるような仕事」
「都市部ででしか? いろいろあるでしよ。信用がもらえればの話でしが」
「たとえば、宮殿の仕事とかもあるのか?」
「宮殿……それはないでしね。ただ……」
 202番は言いよどんだ。
「ただ……なに?」
「いや、なんでもないでし」
 なんでもないなんてことはない。しつこく続きを聞こうとしたとき、202番はヒニルに呼び出され、ここで分かれることになった。
 ただ……。その続きはなんだ。
 今夜、また尋ねる機会があるはずだ。
 
 黒い猛獣と三度目の対決となった。
「今日こそ獲物を捕ってくるから」
 牢に幽閉されている男に、扉越しから伝えると、反対側の扉から小屋を出た。
 今日はある程度の覚悟を持って挑みにきた。毎回獲物を掠め取られてはいられない。
 相手は賢い生き物だ。相手の行動を予測して出し抜かなければならない。
 森を歩いている間、黒い猛獣には出くわさない。それは分かっていたことだ。きっと今日も気配を殺して後を付いてきているはず。奏が獲物を捕らえた瞬間、横から掠め取るために。
 だが、二日間の経験から奏はある程度の行動予測を立てていた。
 森を小一時間ほど歩き回り、いつも足高兎が現れるポイントに近づいた。
 今日もいる。この辺は森の陽だまり地帯で、雑草が多く茂っている。それを狙った足高兎がやってきて、それを狙った奏がやってくる。そしてそれを狙った黒い猛獣がやってきて、小さな食物連鎖を築いているのだ。
 奏は一匹目の足高兎をあっさりと捕まえる。もう慣れたもので、後ろ足で蹴られて傷を負わないよう、片手に二本ずつの後ろ足を掴んで捕らえる。
 すると、いつものように「右方向から」黒い猛獣が迫ってくる気配。いつものように「右方向から」、寸分野狂いもないタイミングで。
 ところが、今回は素直に獲物を捕られるわけには行かない。
 黒い猛獣が奏の手中にある獲物に喰らい付こうとした刹那。
 猛獣は突然、前進を阻まれた。
 足高兎に飛び掛る直前で、背後から引かれるように立ち止まることを余儀なくされた。黒い猛獣は首に輪を通され、それを背後の木に括られている。
 奏は死角になるように蔓で作った輪を木から吊るしておき、正確な軌道でやって来る黒い猛獣を捕獲したのである。
 黒い猛獣は前足で必死に首の輪を取り払おうとする。だが、取れない。計算づくである。この輪は一回締まれば緩まないようにできている。
 木に繋がれた飼い犬同様、行動範囲を限定された黒い猛獣。
「おい」
 正面に立って声をかけると、黒い猛獣はいったん首の輪を取るのを諦め、奏に襲い掛かろうとしたが、鋭い爪の付いた腕は空を切る。
「おい、俺の話を聞け。毎回、俺の獲物を横取りしやがって」
 そんなことを言っても、言葉を理解するわけではない。
「お前はこれがほしいのか?」
 黒い猛獣の前に足高兎を掲げて見せる。猛獣は怒り心頭の様子でうなり声を上げている。
「取引だ。お前も一生繋がれたままは嫌だろう。俺と取引しよう」
 聞く耳など持たない黒い猛獣は、奏に一矢報いようと鋭い爪を何度も振るい、奏を襲おうとする。
「お前はこれが目当てだろう。これがほしいんだろう。ならくれてやる。受け取れよ」
 奏は足高兎を差し出すと、一瞬戸惑いを見せたかのように動きを止める黒い猛獣であったが、一瞬後には鋭い爪で足高兎を捕らえると、奏の見ている目の前で獲物を貪り食い始める。
「お前にはもう少しそのままでいてもらうからな」
 奏はそういい残し、再び足高兎を探し始める。
 別のポイントで再び足高兎を捕らえた。当然、繋がれたままの黒い猛獣は襲ってこない。
 足高兎を捕らえた奏は、先ほどの黒い猛獣のいるところまで戻ってくる。猛獣は怒り覚めやらぬ様子で、奏の姿が見えるなり犬歯をむき出しにして威嚇してくる。
「知ってるよ。お前は足高兎二匹で満腹になる。ほら」
 差し出すと、今度は躊躇なく獲物に噛み付く。
「まだ待ってろよ」
 そういい残し、再び足高兎を探す。足高兎は繁殖力が強いのか、相当量がこの森に住んでいるらしい。
 三匹目をあっさり捕らえると、三度猛獣の元へ戻ってくる。
 満腹になった猛獣は、当然獲物には興味がない。憎しみの篭った眼光で奏を睨み、隙あらば喰らい付こうと覗っている。
「さあ、交渉開始だ。お前は足高兎が二匹で満腹のはず。そうだろ。三匹目は必要ないはずだ。なら、これは俺がもらってもいいよな? これから毎日、お前に二匹の足高兎を提供してやる。その代わり、三匹目は俺がもらう。この条件が飲めれば、お前の首輪をはずしてやる」
 交渉の通じる相手ではない。
 奏はまっすぐに黒い猛獣の目を見据える。赤い相貌。その奥に理性のかけらさえ見つけることができない。
「今から近寄ってお前の首輪をはずしてやる。ただし、襲ってきたら交渉決裂だ。お前は一生そこに繋がれたままになる」
 動悸が激しくなった。
 覚悟は決めたはずだが、直面すれば気は動転する。
 一歩、黒い猛獣に近づくと、自分の武器である爪の射程距離に入った奏を容赦なく襲ってきた。
 奏は慌てて後ずさったが一瞬遅く、奏の肩には三本の爪あとが刻まれる。ひどい痛み。血液が流れ落ちる音が聞こえるようだ。
「言っただろ。襲ってきたら交渉決裂だ。俺を殺したら、お前はそこに縛られたままなんだぞ」
 すると、今まで立ち上がって自分の大きさを誇張していた猛獣は、前足を地面に下ろした。
 犬歯をしまいこみ、威嚇をやめてぐるぐると唸りだす。
「もう一度近寄る。襲ってくるなよ……」
 相手は賢い生き物だ。その賢さに期待するしかないのだ。
 奏は黒い猛獣の爪の射程距離に入った。黒い猛獣はうなり声を上げているものの、爪を振るってはこない。
 慎重に、慎重に黒い猛獣の首に巻きつけられた輪に手を伸ばす。手が輪に触れそうになったとき、黒い猛獣は奏の腕に噛み付こうとした。慌てて手を引く。
 これ以上は心臓が耐え切れそうにない。呼吸が乱れる。めまいがする。
 もう一度、首の輪に手を伸ばす。
 輪に手が触れる。
 今度は噛み付いてこない。
 輪の結び目にある細工をはずすと、黒い猛獣を戒めていた束縛が解かれた。
 ――次の瞬間だった。
 開放されたと分かった猛獣は、前足を上げて高く聳え立つ。身長は奏の倍を軽く超える。
 やっぱりだめか!
 観念して目を瞑った瞬間、つむじ風。
 つむじ風は奏の前髪を揺らして、すぐ横を通り過ぎていった。
 愕然と立ち尽くす奏。
 目の前からは黒い猛獣はいなくなっていた。
 背後を見ると、走り去っていった猛獣の姿はもうない。
 奏は脱力して、その場にへたり込んだ。
 何時間も吸っていなかった空気を肺に送り込むように、大きく息を吸って、そして大きく息を吐き出した。
 
 小屋に戻ってくると、早速幽閉されている男に成果を報告した。
「やったよ。捕獲しました。立った一匹だけど」
「……捕まえたのか?」
「うん。でも、どうやってこれを渡したら? どこかに穴があるのかな」
「配給口がある……。ドアの下だ。暗くてよく見えないだろうが、押せば口を開く」
 言われたとおりドアの下部を押してみると、ドアの一部が向こう側に開いた。そこから獲物を押し入れると、配給口は自然と元に戻る。
「……ありがたい。六十日ぶりの食料だよ」
「六十日ぶりって……」
 少なくとも、以前に獲物を取ってここまで運んできた者がいるってことだろう。
「どれくらいの期間、幽閉されてるんだ?」
「……言ったろう、六十日だって。要するに投獄されてからはじめての食料だ」
「六十日間なにも?」
「ああ」
 ドア越しの会話であるが、会話の相手はいったいどんな人間なんだろうか。
 幽閉されている男は、口の中に獲物を頬張りながら言った。
「初めてなんだよ、獲物を取ってきたやつは。聞いてもいいか?」
「うん」
「いままでのやつは、取ってきてくれと依頼したまま、誰も戻ってこなかった。なぜだ?」
 戻ってこなかった?
 やっぱりそうなのか。
「たぶん、森の中で猛獣に襲われたんだと思う」
「猛獣? そんなものがいるのか?」
「知らないの?」
「なにも……。ただ、ここに幽閉されたとき、食事がほしければここに来た者に『足高兎を取ってきてくれと依頼しろ』と言われただけだ」
 このシステムはなんなのだろうか。なぜわざわざこんな面倒なことを。
「気の毒なことをしたな……。そうとは知らなかったが、俺が殺してしまったようなものか……」
「悪いのは環境だよ。状況だよ。あなたはなにも悪くない」
 返事はなかった。
 ただの気休めに聞こえたのだろう。
 しばらくたって、食事を終えたのか「腹が膨れた。ありがとう」と聞こえてきた。
「またあした、取ってくるから待ってて」
「……いや、事実を聞いてしまった以上、もう頼めない。もう行かなくていい」
「でも、飢え死にするよ。俺なら大丈夫だから」
「いいんだ。俺より自分の身を案じろ」
 こんなことを言う人がなぜ幽閉されているのだろう。猛烈に気になって尋ねた。
「なぜ幽閉されてるの? 何か悪いことをしたの?」
 返答がなかった。聞いてはいけない領域だったか。答えたくないものを無理に利きだすのも気が引けたので、それ以上は尋ねなかった。
 会話はなくなった。
 なんでも良かったので人と交流していたかったが、そろそろ睡眠をとらなければならない。
 奏は小屋を出て、岩山の下で休息をとることにした。

 

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