あっちから変なの出てきた

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第八章 【 グロウリン城塞都市 その2 】 


 巣窟。
 そんな言葉が奏の脳裏をよぎる。
 これから行こうとしている場所を、生きては帰れない洞窟をイメージして、ファミリアの洞窟を思い出す。
 あの時は夢中だったのか、これほどまでに恐怖を抱かなかった。
 ーーいや、違う。
 思い出す。あの時、奏はどうでもよかったのだ。なにもかもが。ユーナを救うということも、自分の命さえも。隔世までやってきて、一番最初にめぐり合った心優しいプエラ。そして、ウィンディアと呼ばれる旅人集団。
 あそこでの出来事は、現世にてぬくぬくと生きてきた奏にとって、あの状況と結末は絶望的だった。
 あの瞬間、奏は病んでしまったのかもしれない。その後のことはまるで夢の中のようで、ファミリアの洞窟内でも命の危機は何度もあったはずなのに、恐怖は濃くなかった。むしろ、いよいよ最後のときだと胸が浮かれたような感覚さえ覚えた。
 ということは、いま恐怖に震える全身は、間違いなく生に対する執着がよみがえってきたことを物語っているのだ。
 行きたくない。城塞都市などに入りたくない。このまま踵を返して、佐々倉のもとへもどり、そのまま現世に帰る方法を探すのが一番。なぜ俺はこんなところに? 奴隷逃れのため、ウィンディアとして放浪する人間もいるのに、どうして俺は自ら奴隷を望むのか。融けるとわかっていて、灼熱の溶岩に手を突っ込むような行為。
 生の執着が足を竦ませる。まだ絶望に打ちひしがれていたときのほうがよかった。少なくとも、あのタイミング、あの状況、あの心境であったからこそ、奏はファミリアの洞窟に入っていくことができたし、生きて戻ってくることができたのだ。
 
 グロウリン城塞都市の周囲に広がるのは荒野だ。ところどころ岩場や細い樹木が生えているのみで、こんなところを歩いていたらすぐに三ツ目族に見つかってしまう。
 できるだけグロウリン城塞都市方面からは死角になるよう、迅速に移動した。
 照り付けてくる日差しは、奏の水分を急速に奪っていく。水は十分に持っているとは言えない。二ツ目族が外出するときにいつも使用するルートは、あらかじめラリルドに聞いていて、おおよその位置は把握していたが、そこに二ツ目族が通過するタイミングまではわからなかった。
 
 結論からいえば、奏は二日間、その場にうずくまり続けた。
 日中は灼熱の直射日光を耐え、日が暮れてから夜通し寒さに耐えた。
 座り続けて最初に日に水は尽き、当然、食料は始めからなかった。
 永久に代わり映えしないのではないかと思われる荒野を眺め続け、ひょっとしたらここが自分の死に場所になると予感し始めたころ、二日目の日暮れに、遠くから人々が歩いてくるのが見えたのだ。
 何度も通って踏みならした筋が大地に残る。その線上を沿うように、徐々に近づいてくる。
 あれか……。
 意図して、二日ぶりに声を上げようとしたが、乾燥した砂に喉が張り付いており、声が出せなかった。
 唾も出てこない。だが、声を出すよりも先にやらなくてはならないことがある。奏はミイラのように干からびてしまった印象の腰を起こし、亡者のように岩陰に隠れる。
 この二日間、さまざまなシミュレーションを繰り返した。遠くから巨大な夕日を背負ってこちらに歩いている集団に入り込むために、さまざまな判断が必要だ。
 あそこに三ツ目族がないこと。
 二ツ目族だけの集団であり、かつ取りまとめているような人間が奏を信用し、一向に加えてくれなければならない。
 集団が通り過ぎた後、こっそり集団に紛れ込むという作戦もあったが現実的ではない。異物が混じれば、気づく人間も出てくるはずだし、グロウリン城塞都市にたどり着いたときに点呼を取られて、人数が違えば問題になる。
 二日間考えた結果、一番有効であろう作戦を決行することに決めた。
 いずれにしても安全な道はない。あとは覚悟の問題だけである。
 ラリルドが言うには、この通りを三ツ目族が利用することはない。あの集団は二ツ目族だけの集団であることは(ラリルドを信用する限り)間違いないはずだ。
 そう思わなければ、この干からびた足腰は言うことを聞いてくれなそうだ。
 行くしかない。
 まだ距離のあるうち、奏は道をふさぐように大地に体を横たえた。この位置は、あの集団が通る道筋である。
 顔は伏せたまま、日差しに熱された大地にうつぶせになる。焼けるように皮膚が痛んだが、我慢しなければならない。地面に耳を押し付け、二ツ目族の集団の到着を待つ。
 熱い。長い。まだ来ないのか。
 耐え忍ぶ時間は通常より長い。日が落ちかけているため体の背面は太陽に焼かれる心配はないが、日中熱された大地に体の正面は焼かれ続ける。このままでは奏のレアステーキが出来てしまう。
 意識を保つのも限界に感じてきたとき、大地に押し付けていた耳に、かすかな振動を感じた。無数の足音だ。よかった。早く。
 足音を感じてから、奏の近くまで集団がやってくるまで、途方もない時間が流れた気がした。
 奏が倒れている場所から、おそらく十数メートルの位置で、集団の足音が止まった。奏は集団から繁多方向を見ているので、様子は伺えない。だが、小声で何かを話し合う声が聞こえる。
 すると、ひとつの足音がこちらに近づいてくるのがわかった。心臓が跳ね回るようだ。間違えれば恐怖で体がピクリと動いてしまいそうなのを必死に耐える。
 奏の手前で、足音が止まる。すぐ傍。奏には気配で相手が三ツ目族なのか、二ツ目族なのか判別できない。
 そのとき、奏は肩を蹴られる。呼吸が乱れそうになる。呼吸が乱れれば、狸寝入りを見破られる。心拍数を落として呼吸を落ち着かせなくては。
 再び、つま先でつつくように奏を蹴る。肩口、わき腹、足、と順に蹴っていく。最後に、力強く肩口を蹴っ飛ばすと、奏は仰向けにされた。
 うつ伏せより仰向けのほうがより恐ろしい。弱点をさらしているかのように感じる。このまま奏の腹や胸を剣で突き刺されたりしないか。その瞬間がやってこないことを神に祈りつつ、目を瞑り続ける。
「どうだ?」
 声がした。同時に近づいてくるもうひとつの足音。
「生きてるみたいだ。二ツ目族らしい」
「なぜこんなところに? 城塞都市も近いこの場所に倒れているのは不自然だな」
「城塞都市から脱出してきたのだろうか」
「……ありえるな。起こせそうか?」
 奏は何度かほほを叩かれ「おい、おい」と耳元で怒鳴られたが、狸寝入りを続けた。
「水はあるか?」
「もう空だ。このまま放置しておいても一時間もしないうちに干からびるだろうが、城塞都市から逃亡してきた奴だとしたら厄介だ。連れて行って聖神様に報告しよう」
「よし」
 声の主は、誰かに命じて、奏を背負うように命じた。奏は誰かに起こされ、数人係で担ぎ上げられた。
 奏は目を瞑り、意識のない者らしく脱力し続ける。
 これは、うまくいったと思っていいのだろうか。
 奏は細心の注意をはらい、万が一にも狸ね入りが知られないよう、絶対に目を開かなかった。この先はしばらく、盲目の中、聞こえてくる声と音のみで奏は状況を想像することになる。だから、この集団の人数もわからなかったし、それぞれの容姿もわからなかった。
 しばらくすると、足音が変わる。風が下から吹いてくる。目はあけられないが、ここが橋の上だとわかる。丈夫な橋ではない。粗末なつり橋のように足元が覚束ない。
 つり橋が終わると、おそらく石畳のような地面だと想像される足音。奏を背負う人間から振動で伝わる地面の硬さ。
 がんがんがん。
 音がした。
 しばらくすると、何かが擦れる音。
 気温はだいぶ下がっている。つい先ほどまでは灼熱に干からびそうになっていたはずだが、夜が訪れれば、今度は凍てつく危険と戦わなければならない。
 ずずずず。
 これは、重い扉を開く音。
 集団が再び進行を始めた。
 空気の流れが止まる。足音が周囲から反響する。室内に入ったのだ。おそらくは、城塞都市を囲む城壁内部だ。
 再び立ち止まり、今度は集団の周囲を誰かが歩き回っている気配。
「この男はどうした」
 誰かの声。それが二ツ目族なのか、三ツ目族なのかはわからない。
「へい、この男は実は、すぐそこで拾ってきたんです」
「拾ってきただと? 関係ない人間を連れてきたのか?」
「ええ、ええ。ですが、おかしいと思いましてね、一応連れてきたんです。だって、城塞都市のすぐ近くに倒れてるんですよ。もしかしたら城塞都市から逃げ出した二ツ目かも知れやしないかと思いましてね」
「ふうむ、そんな連絡は受けていないが、確認してみよう。その男は牢に入れておけ。聖神様に確認してくる」
 牢に? また牢か。
 だが、このままだと目を覚ますタイミングがない。牢に入れられて、それとなく目を覚ますしかない。
 位置関係はまったくわからないが、奏は背負われたまま、室内を延々と運ばれた。しばらくして鉄のぶつかり合う音が聞こえると、乱暴に地面に下ろされた。腰や肩をひどく打ちつけたが、痛みにうめくものなら狸ね入りがばれる。必死に痛みに耐えながら、ごつごつした岩場のような地面に横たわり続ける。
 再度鉄のぶつかり合う音が聞こえると、おそらく施錠をする音。
 足音は遠ざかり、遠くのほうで扉を閉める音。
 ――静かになった。
 そろそろ目を開けても大丈夫だろうか。もう少し様子を見たほうがよいだろうか。
 奏は集中して耳を澄ます。聞こえてくる音は、おそらく松明であろう火がはじける音。地面近くを流れる空気の音。
 他は? どんな些細な音も聞き逃すな。
 この音はなんだろう。一定間隔で聞こえる。ひょろ、ひょろと弱弱しく笛を鳴らすような音。ほんのかすかな音だ。聞き取ることが出来たのが、奇跡だと思えるくらいの小さな音。
 音の正体を探るため、さまざまに脳裏に像を結ぶ。壁にあいた小さな穴に空気が通る音か。風に揺れる金属が擦れる音か。
 自分の呼吸音、心音を出来るだけ最小限に抑え、音源を探る。
 一時間は辛抱強く探り続けただろう。
 かつ、かつ、かつ。
 すぐ間近である。
 突然、無だと思っていた場所から足音が聞こえたのである。その足音は、遠くから近づいてきたのではない。むしろその逆。すぐ傍から遠ざかっていったのだ。
 奏は全身に針を突き刺されたかのようにぞっとした。
 誰もいなかったはず。呼吸音や服の擦れる音さえしなかった。なのに、忽然とその場に現れた足音。
 まさか、ずっといた?
 ずっと近くに、一時間も立っていた? 何の音もさせず、じっと立ち尽くしたまま、倒れている奏を観察し続けていた?
 足音は遠ざかり、やがて遠くから扉を閉める音。
 奏は全身が凍りつく思いだった。いったい何者なのか。奏が狸ね入りをしていると疑って、気配を建って観察し続けていたのか。もし、奏が誰もいないと起き上がっていたら? 直ちにそいつは奏の狸寝入りを見破って、曲者と命を奪われていたかもしれない。
 恐ろしい。これでは目を覚ますことが出来ない。かといって、いつまでもこのままでいるわけにも行かない。まだ誰もいないと確実になったわけではない。気配を殺して奏を監視し続ける人間が一人とは限らないのだ。
 いったい何者だったのか。ここまで警戒心が強いのか。やはり、奴隷には自由などない。常に監視され、警戒されている。
 この先、どうしたらいいのか。本当に思ったとおりに行動できるのだろうか。二度とここから出ることはかなわず、虫けらのように死んでいくのではないのか。
 唯一、幸運だったことがある。
 奏はそのまま動かなかったことで、いつしか眠りについてしまったのである。そのことで、奏は次に目覚めるとき、より自然に目覚めることが出来たのだった。
 
 
 
「お前に選択させてやる」
 声が聞こえたのは、夢の中だった。だが、浅い眠り。その声が夢の中からではなく、現実から聞こえてきたことが分かると、急速に奏は眠りから覚めていった。
 目を開く。思いのほか、明るい周囲。眠りに落ちる直前と同じ体制で横たわっていた奏は、隆起した床に体中を圧迫され、ひどく痛んでおり、動き出すまでに時間を要した。
「このまま奴隷になるか、安楽死を選ぶか」
 ゆっくりと崩れやすい泥人形のような体を起こす。
 声のほうを見る。
 鉄格子が見えた。等間隔に並ぶ鉄の棒の向こう側に、男が一人、胡坐をかいて座っている。
「すぐに答えを出せ。お前は城塞都市からの逃亡者でないかと疑われ、城壁内の牢に入れられている。それが今のお前の状況だ。だが、点呼をとった結果、城塞都市内の二ツ目族は一人としていなくなっていないことが分かった。連れてきたのは俺だが、あのまま放置していてもお前は干からびて死んでいただろう。お前に選ばせてやる。これは俺からのせめてもの好意だと思え」
 頭が朦朧とする。まだ半分夢の中にいるようだ。ひどい気分の悪さ。喉の渇き。目にさえ水分が行き届かず、ひどく眼球が乾いている気がする。
「このまま死にたいのなら、楽に死ねる方法を教えてやる。だが、奴隷となってまでも生きたいと思うのなら、水と食料をやる。断っておくが、奴隷になったらお前は死ぬよりも苦しい絶望を味わうだろう。どちらにするか」
 頭は整理がつかないが、迫られている選択の答えは、いずれにしても決まっている。
「水……を……」
 乾燥して張り付いてしまった喉を必死にこじ開けて水を懇願した。
「奴隷として生きる。そう言ってると思っていいな? 俺は関知しない。お前の下した選択だ。だが、今一度問う。本当にいいんだな?」
 こくりとうなずいてみせる。
 すると、男は鉄格子の間から出納に入った水と、粥のような白濁の食料が入った器を差し出した。
 食料よりも、まずは水だ。奏は水筒を手に取り、まずは張り付いてしまった喉を潤すように一口だけ口に含み、少しずつ喉に水を通していく。
「冷静なようだな。喉が潤ったら次の質問に答えろ。お前はなぜ、城塞都市の近くにいた? 城塞都市に近づく二ツ目族などいない。お前はどうしてあそこに倒れていた?」
 この答えはあらかじめ用意してある。ラリルドに入れ知恵されたとおりに答える。
「と、盗賊に身包みをはがされて……」
「そこに放置されたってわけか」
 水を飲んだことで幾分冷静さがよみがえる。ぼやけていた視界も徐々に回復する。
 目の前にいる男は、大量のひげを蓄えた年のころ四十後半から五十前半。ひげをそり落としたらひょっとしたらもっと若いかもしれないが、痩せ細った体にしては、それを思わせない屈強な印象を耐える男。
「ここで生きていくにはいくつかルールがある」
 話題が変わった。どうやらあそこで倒れていた理由については納得したらしい。ラリルドの言うとおり、盗賊に城塞都市周辺に捨てられるのはよくあることのようだ。
「まず、すべての眷族を解約すること。お前は眷族を持っているか?」
 眷族。奏の持っている眷族はトレミ。それにおそらく……。
「隠しても、後で調べるから知られることになる。ここでは一切の嘘が通じない。嘘などつけば見破られて地獄行きだ。ここで生きていくコツは、嘘をつかないこと。それに、嘘をつく必要のないように、やましいことは何もせず、聖神様に常に服従であること」
 聖神様とは、これまでも何度か聞かれた言葉。なんのことか分からなかったが、その意味を尋ねるのは愚の骨頂である。あくまで奏は隔世での二ツ目族と偽らなければならない。
「眷族は持っていれば、無理矢理『抜かれる』ことになる。思い入れのある眷族は、解約しておくことを勧める。それと、次のルール。城塞都市内での二ツ目族には階級が存在する。ソル、ヒニル、コッシだ。最下級はソル。次にヒニル。最上級はコッシだ。この中で、命を保障されているのはコッシだけ。逆に言えば、コッシになれば命が保障されるということ。だが、あくまで聖神様に服従であることが条件だ。コッシといえども所詮奴隷。聖神様のご機嫌しだいで命を落としても文句は言えない」
 奏は黙って聞いていた。ここで生きていくためのルール。聞き漏らすわけにはいかない。
「ほかにもルールはあるが、説明してもしかたがない。お前長く生きている保証もない。ここで生き残っていけたなら、生きながらルールを覚えろ」
 コッシであると名乗った男はおもむろに立ち上がると、牢を開いた。
「ようこそ、この世の終焉へ」
 男の無機質な口調が、しばらく頭にこびりついて離れなかった。
 
 男に促されるままついていくと、城壁内にある一室にたどり着く。薄汚れて窓のない黴臭い部屋。部屋の中央にはベッドのようなものが置かれている。
 視線をめぐらせると、台車のような台の上に見るもおぞましげな器具が並んでいる。短絡的に拷問道具を連想した。
 部屋には薄汚い前掛けを身につけた男がおり、コッシと奏が部屋に入ると振り返った。男は頭と口元に布を巻きつけており、まるで忍者のような様相。
「心配しないで。ただの身体検査だから」
 忍者のような男が言った。無言で手を出してベッドへ横になれと促す。コッシという男にしたたかに背中を押され、奏は数歩前に出る。
 忍者のような男は、手にハサミともペンチともつかない道具と、先端のとがったヘラのようなものを持っている。
「大丈夫よ、痛くしないから。病気がないか調べるだけよ」
 体格や声は明らかに男のそれ。だが、口調がおかしい。
 奏は黙ってベッドに横になる。
「口をあけて」
 言われるがまま口を開く。
 天井にあるランプが見える。その視界に忍者のような男の顔が入り込んだ。顔と頭は布に包まれ、目しかうかがい知れない。その目が興奮したように見開かれている。
 舌や歯を抜かれるのではなかろうかと不安になる。
 ペンチのような道具で奏の開いた口を固定させ、先端のとがった器具で奏の口の中を弄繰り回す。
「あら、珍しい。すべての歯がきれいに残ってるわね。汚れもない。あなた、箱に入れられて育ったの?」
 奏は口に道具を突っ込まれているため何も答えられない。
 しばらく口の中を弄繰り回された後、目、鼻の穴、耳の穴と調べられる。
「さあ、次は裸になって。服を全部脱ぐの」
「ふ、服を?」
「早く。こう見えても、私結構短期なのよ」
 そういって、医療道具であろうか、ナイフのような器具をちらつかせた。言うことを聞いておいたほうが無難だ。ここは人の命の価値など虫けら同然の世界。
 奏は上着を脱ぐ。
 ふと、忍者のような男の、唯一外界にさらされている眼球がぎょろりと動いた。男は嘗め回すように奏の上半身を見ている。口に巻かれた布が、呼吸の粗さを物語るように膨らんだり萎んだりする。
「下も脱ぐの。早く!」
 全身に薄気味悪さが広がる。奏は男に背を向けて、すべての衣服を脱ぎ捨てた。
「丸くてきれいなお尻……」
 奏の背後から男が踏み寄ってくる足音。
 奏は天に祈るような気分だった。
 男の指先が、奏の首筋に触れる。言い知れぬ気分の悪さが神経を通って全身に駆け巡る。指先が首筋から背中、尻へ伝っていく。男の指先から毒薬が注入されているかのように気持ちが悪くなる。
「前のほうはどうなってるのかしら……」
 男がそう言って、突然力いっぱいに奏の右尻をつかみ上げた。奏は悲鳴を必死にこらえる。
「おい、ピクシー。いい加減に仕事をしろ」
 入り口付近でたっていたコッシの男がたしなめた。すると、ピクシーと呼ばれた男は舌打ちすると「仕方ないわね」と低い声を出した。
「じゃあ、調べるわよ。ベッドに仰向けになって」
 全身が震えだしそうだった。自分の卑小さが思い知らされる気分だった。自分の命など虫けら同然である世界で、自分の権利を訴えることもできない。何をされたとしても耐え忍び、命だけでも助かりたいと願うばかり。
 奏はその後、全身をまさぐられ、穿り回され、長い時間弄ばれることになった。
 身体検査が終わり、奏が服を着ると「最後の検査よ」と奏は室内にある椅子に座らされた。
「これからあなたが所持している眷族を調べるわ。所持している場合、抜かせてもらうから」
 やばい。確かにコッシの男は「眷族は抜かれる」と話していた。
「解約してもいいわよ。その椅子は特殊でね。そこに座ってる限り、眷族を発動できるわ。でも、それで私を攻撃しようとしても無駄だからね。眷族を召喚した途端に『抜く』から」
 解約できるのか。
 だが、奏は眷族との解約の方法を知らない。
「解約しないの?」
「け、眷族は持っていません……」
「本当かしら。嘘をついても分かるのよ。まあいいけどね。いずれにしても抜くから」
 まずい。奏が所有する眷族は二つ。ひとつはトレミだ。トレミがいなくなったら、瘴気から佐々倉を守るものがいなくなってしまうし、なにより、あれほど外の世界に出たがっていたトレミを、またハザマの世界に送り返してしまうことになる。
 もうひとつ。この腕に巻きついた大切な友人。
 これはラナ・カンの欠片。もしかしたらラナ・カンは生き返るかもしれないのだ。ここで無理やり抜かれてしまったら、ラナ・カンが本当の意味で消えてしまう。
「さあ、いくわよ」
 ピクシーが手を伸ばし、奏の胸の中央に当てた。静かに目を瞑り、念仏を唱えるように何かを口ずさんでいる。
 やばい。
 どうすればいい。防衛できないのか。心を閉ざせ。眷族を隠せ。
 奏は強く目を瞑って、懇願するように祈った。
 風が吹いた。下方から沸き起こるような風。ピクシーがおいた胸の辺りが光りだし、靄も様なものが立ち上る。
 何が起きたのかと目を見張っていると、胸に置かれた手のひらの間から小さな動物のようなものが数匹出現した。全部で五体。ピクシーの指の先から、毛むくじゃらの蛇のような動物がうねり出て、奏の胸の中に埋没していく。
 奏はとくに何も感じない。五本の指から出現した毛むくじゃらの蛇(おそらくフェレットのような眷族)が胸の中で蠢いていたが、不思議と痛みも感覚もない。
 その状態は一分も続かなかった。ピクシーが胸から手を離すと、メジャーを巻き戻したかのように、眷族が吸い込まれていった。
 ピクシーはつまらなそうにため息をもらす。
「本当に眷族は持ってないみたいね。それでよく生きてこれたものね」
 え?
 思わず声に出そうになった言葉を飲み込む。
「珍しい眷族だったらいただいちゃおうかと思ったんだけど」
 見つからなかったのか? 心を閉ざしたのが功を奏した?
 ピクシーは振り返ると、窓際に控えていたコッシの男に「終わったわよ、次につれてって」とぶっきらぼうに言った。
 コッシの男は無言で指を押し曲げ、こっちへ来いと仕草で訴える。
 奏は逃げるように椅子をたって、男と一緒に部屋を出て行った。
 
 ひょっとしたら、具現化されている眷族は見つからないのかもしれない。奏はひとつの結論に達した。トレミ、ラナ・カンともに発動されている状態だ(ラナ・カンはもともと獣族であるが)。その状態では、おそらくピクシーの検査には引っかからないのだ。
「お前、出身地はどこだ?」
 無言で城壁内の通路を歩く途中、コッシの男が背後から声をかけてきた。奏はラナ・カンの毛が巻きついた二の腕を撫でながら思考状態から現実に戻ってくる。
「お前のように、体に傷ひとつない男を、俺は見たことがない。それに眷族すら所持していない。お前、これまでにどこで生きてきたんだ?」
 なんて答えようか。今までと同じように記憶喪失だと言えば、それで済むのか。
 奏の逡巡をよそに、コッシの男は「まあいい。身の上など聞いても意味がないからな」と会話を自ら切り上げた。
 通路の突き当たりにたどり着く。コッシの男が奏を追い越して、突き当たりにあった扉に手をかける。
「ここから先が城塞都市内だ。お前は住む寄宿舎まで案内するが、絶対に顔を起こすな。周囲を見るな。何も聞くな。いいな?」
 コッシの男の振り返った顔。
 絶対に振り返ってはならないイザナギの心境。
 コッシが扉を上げた瞬間、奏は慌てて顔を伏せた。何も見てはいけない。何も聞いてはいけない。振り返ってはいけない。奏の周囲にはおぞましい化け物が蠢いて、奏をじっと監視している。奏が顔を上げた瞬間、食らってやろうと犇いている。
 前を歩くコッシの男の足だけを見て歩き続ける。周囲の情報は一切入ってこない。ひたすら歩く。
 いくつか、扉を開けて塀を越えた。
「顔を上げていいぞ」
 コッシの男の声がして面を上げると、目の前には奇妙な建造物。土で山を持ったようなふくらみに、いくつかの木材らしきものが突き出ている。
「ここがお前の住む家だ」
「ここが……」
「かつて俺も住んでいた。ここは地か奥深く掘られていて、中には二百人以上の二ツ目族が住んでいる」
 山の中腹に穴が開いており、そこが出入り口であろうと思われた。
「おそらくお前と会うのもこれが最後だろうから話しておく。この中はやさしい世界じゃない。さっきも説明したが、お前の階級はソル。その上の階級であるヒニル、コッシからすればごみ同然だ。だが安心しろ。命まではとられない。曲がりなりにも奴隷は聖神様の所有物。奴隷が殺してしまうことはまかり通らない」
 なんてことを言うのだろう。奴隷同士にも階級が存在し、差別しあってる。
「老婆心ながら、最後に助言してやる」
 コッシの男を見ると、ひどく冷たい表情をしていた。
「階級を上げたければ、選択肢は二つ。ひとつは三ツ目族に利益をもたらすこと。つまり、お前に能力があるならば三ツ目族に実りをもたらせ。より多くの穀物、果物、野菜、家畜を育てることが一番の近道。方法は自分で考えろ。地道だがめげるな」
 そういったまま、コッシの男は押し黙った。沈黙は長く続いたので、奏は「ふたつめは?」と恐る恐る問いかける。
「ふたつめは……それはやめておけ。とにかく実りをもたらすことだ。誰も方法は教えてはくれない。だが、お前に資質があればできるはずだ」
 ふたつめが非常に気になったが、聞くことができない。そんな空気なのだ。このコッシの男も良い男に見えながら、少しでも気に障った言動をすれば半殺しの目にあう。そんな空気だ。
「さあいけ。どうすればいいかは中に入ればわかる」
 コッシの男が指差す穴倉に、奏は重い足取りで向かった。
 穴に入り込む前に、一度だけコッシの男を振り返ったが、やはり冷ややかに奏を見ていただけだった。
 
 中は薄暗いどころではなく、ほぼ盲目に近い闇だった。
 足元は踏み固められた土の感触。ファミリアの洞窟を思い出す。あそこもこんな風に湿った暗闇が支配していた。
 両手を間に突き出して、ゆっくりと進む。何の男もしない。誰の気配もしない。聞こえてくるのは自分の息遣いと足音だけ。感じるのは自分の鼓動だけ。この先にいったい、どんな世界が広がっているのか。
 ここは紛れもなくグロウリン城砦都市内である。ここにやってくるのが目的だったはずなのに、手足は恐怖に震え、ひどい不安が下腹部から胸にかけて切りつけるような痛みを走らせる。
 誰も信用してはいけない。誰も頼ってはいけない。それを心がけなければ、きっと奏など一日も持たず天に召される運命。
 洞窟の奥から、かすかに生暖かい風が吹いた。それはひどい悪臭も呼び寄せ、奏は吐き気を催す。夏場の公衆トイレより数倍もひどい。体臭、糞尿が発するアンモニア臭のせいで、鼻の奥がペンチでねじり上げられたように痛み、勝手に涙がにじんできた。
 見えない膜に阻まれているかのように足取りは鈍い。この先に行きたくない。引き返して、一目散に逃げ出したい。
 逃げ出したいが、それができないことは十分すぎるほど理解している。それはただ死に急ぐ行為であることも。
 明かりが見えた。
 燃料式のランプのようである。ランプの明かりが暗闇の中で空間を縁取るように存在し、その円の中に木製の机と、そこに座する一人の男が見えた。男の向こう側には厳重そうな木製の扉。
 机に姿勢正しく腰掛けている男は、まるで骸骨のようにやせ細っている。頭の毛は申し訳ないほどしか残っておらず、目が落ち窪み、頬がこけ、唇は崩れ落ちそうにひび割れている。
 置物のように微動だにしない男は、奏が近寄ってきたことに気づくと、やはり置物のように微動だにせず、唇だけ動かした。
「69番。お前の番号。ここのルールを簡単に説明する」
 舌がないのではないかと思うほど活舌が悪く、消え入りそうな声。
「ルールその1。お前の居場所は……の……で、……の場合は……」
「え?」
「ルール……2。以下の場合、お前は……される。ソルである……ヒニルに逆らったら……によって……。また、怪我や病気……で……終わる」
「き、聞こえ――」
「……ールその……。……によって仕事が……られる。ただし……度でも遅……場合、強制的に研究所行き……される」
 奏の言葉など意に介さず、男は話を続ける。
「……その3。69ば……一番重要なこと。……」
 唇は動いているが、ほとんど声を発していない。一番重要なこと? やがて唇が静止すると、男は再び置物のように動かなくなった。
「その……重要なところが何も聞こえなかったんです。これからどこへ行けば?」
 問いかけても男に反応はない。
 こんなのってあるか。なんでこんなやつが門番みたいなことをしてるんだ。
「あの、すみません」
 再び声をかけると、男の表情が微妙に変わった。微かであるが眉間にしわがよる。それから、わななくように全身が震えだした。
 口の端からは泡のようなよだれがたれる。「んんん」とうなりだしたところで、奏は悟る。
 怒っている。
 これ以上刺激してはいけない。奏はそばにあった扉に手をかけた。重い扉を体重をかけて押し開く。
 すると、今まで以上の悪臭が扉の向こうからもれてきた。粘着質な土気色の空気が腐臭と糞尿の匂いを運んでくる。
 扉の向こうにある空間は広かったが、そこにはひしめくように人が居た。防空壕に避難する人々のように、ある人間は膝を抱え、ある人間は胎児のように丸まっている。
 呼吸音は聞こえてくるが、誰一人喋っていない。
 入り口に立ったまま、奏はたちつくしかない。人に溢れた空間は足の踏み場もなく、それ以上進めなかった。
 奏はそこにひしめく人間たちの僅かな隙間を縫って、空間の中へ進んでいく。眠っている人間を蹴ったり、踏みつけたりしないように。
 やがて、間続きに別の空間があった。こちらは少しだけ明るい。人もひしめくほどではない。
 そこに立ち入ろうとしたとき、奏は呼び止められた。
「駄目でしよ。そっちから先、ヒニルの住処でしよ…」
 背後を振り返るが、声の主はわからなかった。
「君、ソルでしか? あの扉から入ってくるの、新入りでしから」
 声の主がわかった。ひしめく人の中に、ひとり胡坐をかいて座っている人影が見える。
「君の場所はあそこでし」
 シルエットがある一角を指差す。
「新入りからあそこに行くルールでし。行くでし」
「あ、ありがとう」
 奏は指差された方角に向かう。すると、一角に開けた空間があった。ところがそこは、さまざまな汚物にまみれた毒の池のような場所。
 排泄物の山。ここは、便所か。
 一定の距離を置いて、周囲には誰も居ない。だが、開いている場所に汚物がまみれていない場所はない。
 そのとき、一人の男がその場にやってくると、おもむろにしゃがみこみ、大便と尿を排泄した。便はまるで泥濘のように床に広がる。
 男はものの数秒で排泄を済ますと、尻も拭かずにひしめく人の中へ紛れていく。
 これほどまでに劣悪な環境。
 奏は立ち尽くすことしかできなかった。
 
 眠ることなどできやしない。奏は一晩中、汚物の池で立ち続けた。
 窓もなければ、隙間すらない洞穴のような場所で、朝も夜も分からない。汚物の上で立ち続けること数時間後、突然、空間内に耳を劈く轟音が聞こえてきた。まるで耳元でサイレンを鳴らされているかのような爆音に、両手で両耳を押さえる。
 周囲を見ると、地面と同化したように蹲っていた無数のシルエットが、墓場からよみがえる亡者のように起き上がる。
 目覚ましのサイレン。奏はそう結論付ける。こんな耳障りなサイレンが、毎朝起床のために鳴らされるのか。
 サイレンはゆうに五分は続き、発狂しそうになったころ、余韻を残してサイレンが止む。
 サイレンが止むと同時に、奥の部屋から数人姿を現す。ヒニルの部屋と言われる奥の間だ。
 ひしめき合う人々は、ヒニルの部屋から出てきた男たちに、一様に注目している。
「1番から50番までは鉱山。51番から120番までは北地区の果樹園。残りは中央の農業地区に向かえ。詳細な配置は現地で指示する」
 これは仕事の指令。ヒニルからソルへこうして仕事が言い渡されるのか。
「われわれ十番壕は、近頃鉱山による収穫が減少している。新たな鉱脈を見つけなければ、われわれは規定に届かない危険がある。昇格したければ今がそのときだ。全員、心して作業にかかれ」
 不思議な光景。まるで朝の工場で従業員が整列して朝礼を行っているかのようだ。
「農地勤務でしね。僕と一緒でし」
 そう声をかけてきたのは、声からして昨夜、俺を排泄物地帯へいざなった男だ。みると、驚いたことに身長は奏の方の位置より低い。
「分からないことがあったら教えるでしよ。僕、ここ長いから」
「あ、ありがとう。よろしく、俺はかな――」
「名前はいいでし、69番。僕は202番。よろしくでし」
「あ、ああ、よろしく」
 ヒニルの話が終わると、人々が動き出した。昨晩、奏が入ってきた扉とは逆の方向だ。
「行くでし。遅刻するとひどい目にあうでし」
 そういえば、扉の前でいすに座った男が言っていた。
「ここからは無駄口はなしでし。とにかく黙ってついてくるでし……」
 言われたとおりにするしかない。温和な口調だし、小柄な男であるが、ふとした奏の態度が気に障れば豹変するかもしれない。
 ついていくと、巨大な鉄格子の扉が上方に持ち上がり、道を明けた。誰も口を聞こうとしない。ぞろぞろと音を立てて同じ方向へ向かっていく。
 光が見える。おそらく、その方向が出口である。
 表に出ると、暗闇に馴染んだ視界がしばし失われる。ほとんど何も見えないまま歩いていくと、前方で集団が三股に分かれているのが見えた。
 周囲には何らかの道具であろう残骸が打ち捨てられいる。要するにごみ捨て場だ。ゴミがい落ちていない部分が道となっており、「こっちでし……」という男の後をついていった。
 小柄な男の背中を見つめる。髪は伸び放題。体は周囲の人間同様やせ細り、薄汚れた上着から伸びる腕は棒のように細い。
 だが、違和感がある。
 声といい、肌の感じといい。
 ひょっとして。
 しばらく歩くと、ゴミ捨て場を抜けて開けた空間に出る。前方に丘陵が見え、そこには斜面に幾つかの畑が見えた。見える限り、六面の畑が見え、それぞれ別々の作物を栽培しているようだ。
 現世では段々畑といわれる場所で、誰かの指示を受けて何人かがいなくなる。
「指示をしてるのがヒニルでし。あいつらは口だけで、一切働かないでし」
 男の声は聞こえていたが、返事はしなかった。
 さらに歩くと、水田地帯があった。隔世にも水田があることに驚いたが、農地、畑地灌漑技術なら現世でもはるか古代から存在したのだ。隔世にあっても不思議はない。
 そこで大量の人員が呼ばれたが、奏はそこでも呼ばれなかった。
 歩く人間は、そのころには十数人になっており、視界も広くなった。ここがグロウリン城砦都市だとは思えない自然豊かな一帯。グロウリン城砦都市がどれほどの規模なのか推し量りきれないが、おそらく周囲数キロメートルに三ツ目族の住処はないのだろう。
 ここは奴隷――二ツ目族だけの世界なのか。
「どうやら酪農地区での作業になりそうでしね」
 202番がつぶやいた。
 酪農。ということは、家畜の世話。そんなことやったこともない。
 山間部の野原のような場所に、幾つかの飼育小屋が見えた。そのころ、待ち構えていた男が声を張り上げる。
「よし、でめえら、それぞれ小屋に行ってまずは餌やりだ。三十分やる。遅れたやつは叩きのめす」
 大きな切り株に腰掛け、手に持った棍棒のようなもので肩を叩きながら男が怒鳴っている。
「44番のヒニル。あいつには気をつけて。嫌なやつでし」
 202番はそういうと、突然駆け出した。駆け出したのは202番だけではない。ほかの人間も一斉に駆け出したのである。
 奏はどうしていいかわからず戸惑っていると、切り株に座って憮然と構えている44番が奏をにらみつけている。
「てめえ、何してやがる。早く行け」
「で、でも、どの小屋に……」
 口答えすると、44番はあからさまに顔をひずめ、立ち上がったと思うと一瞬にして奏に踏みよった。
「あ? 俺の行ったことが聞こえなかったのか、クズ。早く行けってんだよ」
「どの小屋に行けば……?」
 そのときだった。
 44番はおもむろに持っていた棍棒を横にひと薙ぎした。
 衝撃が走る。
 生まれてから声までに感じたことのない衝撃だった。棍棒は奏の太もも部分を強打し、奏の体はそのまま横に一回転した。側宙のように飛び上がり、着地は正座の形で地面に激突する。
 一瞬、自分に何が起こったのか理解できなかった。だが、次に走った太ももの痛みに、それどころではなくなる。
 奏は感じたことのない激痛に悲鳴を上げて、地面をのた打ち回った。太股の心から熱湯が沸き起こるかのような激しい痛み。股関節から下はぴくりとも動かせない。
「うるせえよ、クズが。早く仕事に行けってんだ」
 神経が死んでしまったような左足では立つことすらままならない。
「早く行け、イラつくんだよ。ソルが痛がってんじゃねえよ」
 立ち上がらなくては。
 勝手に流れ落ちる涙をぬぐうこともせず、必死に立ち上がろうとする。
 その姿さえ44番には不愉快に映ったのか。44番は再び棍棒を振り上げると、立ち上がろうとしていた奏の背中に打ち下ろした。
 奏は地面に激突した。背中に走る激痛にまったく動けなくなり、胸を地面に打ちつけた衝撃で呼吸ができなくなった。
 肺がつぶれてしまったかのように咽ることもできず、奏は陸に打ち上げられた魚のように喘いだ。
「早く行けよ。イラつくんだよ、クズ。ほら、立て。早く立て」
 理不尽なのは分かってる。だが、奏は理解している。これがこの世界。
 ひとつ咳をすると、喉に線をしていたような血痰が吐き出された。その後は怒涛のごとくむせ返り、息を吸う間もない。
 肺が萎縮するのを感じながらも、奏はもがくように、あるいは44番から逃げるように這い出した。
「三十分で仕事をこなして戻ってこなかったら家畜の餌にしてやる」
 44番の言葉と、そのあとに続く引き笑いを聞きながら、ようやくここが奴隷の世界なんだと、真に思い知らされたのだった。

 

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