あっちから変なの出てきた

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第四章 【 ユーナの冒険譚 その1 】


 眷族の召喚は体力を消耗する。
 レシェラが言うには、ユーナには眷族を保有するキャパシティが他の二ツ目族より優れており、多重召喚や長時間の召喚にも十分耐えうる資質を持っているという。それが本当だとは信じきれないユーナであったが、やはり眷族を所有したことのないユーナにとって、召喚はまだまだ慣れないものだった。
 グロウリン宮殿をソラ・トンベルクとともに脱出してから十四日間ほど経過していた。ユベリア大陸を北上するにつれ気温も下がりつつあったが、目的地へは時間の経過と移動距離に見合った分、近づいている。
 ユーナには目的が二つあった。ひとつは地下牢で共にした囚人コロタリの故郷へ向かい、家族にコロタリは無事であると伝えること。事実、コロタリは牢で亡くなってしまったが、コロタリの遺言どおりに彼女は健在であると伝えるつもりだった。
 伝えた後、ユーナは二ツ目族の解放軍である帝国旅団と接触するつもりだった。レジスタンス、解放軍として名を知る者は多いが、名称を「帝国旅団」と置き換えると、とたんに人々は首をひねるか、一部の事情通であれば怪訝そうな顔をして耳をふさぐ集団である。
 そして、ユーナが奏の住んでいた異世界へ渡航する際、名目上、偽りの肩書きとして使用していた団体でもある。
 コロタリから聞いた彼女の故郷は、通常であれば徒歩で二月ほどの距離であるが、ソラ・トンベルクのおかげで大幅に短縮された。
 コロタリの故郷は大陸の北部に存在する、タクラカル半島と呼ばれる岬にある。周囲を海に囲まれるその地域は漁業が盛んであり、コロタリの村も漁村だという。
 おそらく、漁村の近くには三ツ目族の役所か、駐屯地、街などが存在し、厳しく漁の成果や二ツ目族の生活を監視しているはずなので、近づくためには細心の注意を払わなければならない。
 目的のコロタリの故郷へ近づくにつれ、ソラ・トンベルクでの接近が困難になった。理由はいろいろあるが、この気温の低さで上空を飛ぼうものなら数分で体が凍ってしまうし、低空を飛ぼうものなら、強力な力をもつ眷族は三ツ目族に見つかってしまうだろう。それに、コロタリから譲渡されたトンベルクを、コロタリの故郷の家族に見つかってしまうのも恐れた。そのため、最後の数日間は道なき道を歩くことになり、森の中はもちろん、険しく隆起した岩の大地も横断した。
「コロタリのことをどうやって説明する気だ?」
 道なき森林地帯を行く間、ハザマの世界には戻らず、ユーナにずっと付き添ってきたレシェラが声をかけてきた。
 洞窟を見つけ、今夜の寝床を作っていたときだった。
「説明って、コロタリは元気で生きていますと伝えるだけ」
「そんな説明をしたら、逆に家族はいぶかしむ。そんなことをわざわざ伝えに来る人間がおると思うとるのか?」
「じゃあ、偶然を装ったら……」
「偶然立ち寄った漁村が、たまたま知り合いのコロタリの故郷だったと? そんな偶然はありえんな」
「どうしてそんな意地悪なことばかり言うの? 私はコロタリが無事だって伝えたいだけなのに」
「意地悪を言っておるのではない。伝えるのにも、信憑性を持たせなければ遺言は果たしたことにならぬ。そう言っておる」
「じゃあどうすればいいのよ」
 ユーナが口を尖らすと、白銀の狼であるレシェラはあくびのような舌なめずりをした後に言った。
「ユーナは身分を偽る必要がある。ユーナはこれから『ウィンディア』の肩書きを持て」
「ウィンディアになるの?」
「そう。そうでなければ、おぬしのような若い女が一人で旅をしている理由にならぬ。おぬしは、はぐれてしまったウィンディアの後を追っていることとする。その過程で、知り合いの漁村が近くにあると知ったおぬしが立ち寄ったことにすればよい」
「ふうん」
 ユーナが興味なさそうに鼻を鳴らす。レシェラは狼らしくないため息を漏らすと、諭すように言った。
「わしはおぬしの何十倍も長生きしておるのだぞ。助言は聞いておいて損はない」
「わかりました」
 不服を隠そうともしない投げやりな返事。子供を相手にしているようだとレシェラは再びため息を漏らす。
 洞窟の中で布に包まって寝る準備を整えたユーナにレシェラが尋ねる。
「今まで尋ねなかったが、ユーナよ、なぜおぬしは地下牢に閉じ込められておったのだ」
 すでに眠気眼のユーナは、けだるい声を出す。
「それより、コロタリはどうして牢に入ってたの?」
「彼女は違法な医療行為を繰り返していたために捕らえられた」
「違法な医療行為って?」
「おぬしにも施したであろう。呪具を取り外す手術や、わしを召喚しての眷族での医療行為」
「呪具……」
 ユーナは思い出したように体を起こす。
「そう。呪具。あれは何だったの?」
「おぬしが生まれたと同時に、おぬしを主人に服従させるための洗脳装置だ。おぬしがグロウリン宮殿を脱出できたのは、呪具を取り外したおかげである」
「あんなの、みんなに取り付けられてるの?」
「グロウリン宮殿にいる二ツ目はほぼ、主人にあたる三ツ目族に施術を施されているだろう。三ツ目族にとっては取り外してはならぬものを、コロタリは取り外して回っていた。だから捕らえられた」
「やっぱりコロタリはすばらしい人……。私はなんとしてもコロタリの遺言を達成しなくちゃならない」
「決意を改めるのもいいが、わしの質問が回答されておらぬ」
「私が投獄された理由……」
「そうだ。なにをやったんだ」
 ユーナは悲しそうに眉をひそめ、自分の両膝を抱え込んだ。まるで幼女のように小さく見える。こんな姿を見るたびに、グロウリン宮殿を脱出した果敢な女だとは信じられなくなる。普段接していても同様。どうしようもなく心が弱く、幾度もくじけそうになるたびにレシェラが励まさなければ、ユーナはここまで来る間に何度、命を失っていたかわからない。
 ユーナは口を開かない。まだ心を開いていない。そうレシェラがあきらめかけたとき、ユーナは口を開いた。
「私はご主人様の命令で、異世界に渡航した」
 異世界? 妙なキーワードにレシェラは尋ねてしまいそうになったが、せっかく口を開きかけているユーナの意思に水を差すこともない。レシェラは黙って聞くことにした。
「あのお方が開発された、異世界へとつながる扉の実験として。たくさんの二ツ目族が犠牲になった。私は何番目だったのか。火の中に虫を投じるような残酷な実験の繰り返しの中、とうとう私の番になった」
 グロウリン宮殿では、支配する三ツ目族が二ツ目族を利用した人体実験を繰り返しているのは知っている。内容はうわさ程度にしか知られていないが、さまざまである。眷族を封じる実験などはかわいいほうだが、二ツ目族の生きたまま生体解剖するなどの話や、医療実験のモルモットにされるなどは聞くに堪えない。
 実験だけではない。三ツ目族の娯楽としての無益な殺生や、猛獣の餌にされるなどの話もある。聖域に住む四ツ目族の保有する軍隊では、二ツ目族に薬を投与し、狂戦士を作り出す実験を行われているとか。
「私は成功してしまった。異世界に渡れたの。もしかしたらもっとたくさんの二ツ目族が渡航に成功しているかもしれない。私が異世界に渡った時には、すでに何人もの二ツ目族が行き来していたのかもしれない。でも、わたしには何もわからない」
 レシェラは黙っているのも限界と、口を挟んだ。
「異世界とは何だ。私の住むハザマの世界とは違うものか?」
「その辺のことがよく分からないの。私たちの住む世界と、もうひとつの世界があって、その間には精神世界って呼ばれる中間世界があるって」
 そう話をしながら、ユーナは何か悲しい出来事を思い出したように瞳を潤ませた。
「私は異世界に渡った。身分を偽って。ちょうど今みたいに。私はレジスタンスとして異世界に渡った。あっちの世界には私たち二ツ目族のような人間がいて、私たちと同じような言葉を使ってた。いろんなものを見てきたの。想像を絶するような光景、もの、人。私たちとは違う力を持っていて、とても知的で優しい人たち。そうでない人たちもいたけど、少なくてもこの国よりは、人々は平等で平和で……」
「おぬしは異世界に何の使命を帯びて渡ったのだ。何を目的に」
「一ツ目族を暴れさせるため。私は二体の一ツ目族をおなかに入れて、異世界に運んだの。私の役目は、一ツ目族を暴れさせて異世界の力量を測ることだったんだと思う。だけどほかにもあるはず。たぶん、ご主人様は私の想像もよらないようなことも考えていたと思う。本当のところは私にも分からない」
「腑に落ちん。それでなぜおぬしが投獄されるのだ。こうして無事戻ってきたのだろう」
 ユーナは顔を伏せた。
「私は裏切ったから。ご主人様を裏切ったから投獄されたの。本当ならご主人様を筆頭にたくさんの三ツ目族があっちの世界に渡る予定だった。私の手引きでね。でも、私はミスを犯した」
「ミスとは?」
「手引きとしての使命を果たせなかった。私は異世界の人間に見つかることなく、ご主人様と異世界への穴で落ち合い、異世界の様子を伝える使命を担ってた。でも、できなかった。異世界の人々は私たちの襲撃を知って、軍隊を異世界への穴の前に配備したの」
「うむ……にわかには信じられんが……」
「それでも、ミスはあらかじめ予想されていた範疇だったの。私が異世界の人間に捕らえられ、もし軍隊が待ち構えられるような事態もご主人様は想定し、準備していた。だから、結果的に私は最低限の使命を果たしたことになる。けど、私は報告を拒んだの。報告を拒んだことが、私の投獄された理由」
「なぜ拒む必要があった? 異世界の人間に情を移したのか?」
「うん……。でも、ご主人様の前では私は無力になった。逆らえないの。必死に口を閉ざしてるしかなかった。だから、私は死を選ぶしかなかった。あの人の世界を守るため。あの人を守るため。私は口をつぐんだ」
「あの人……?」
 ユーナが呻きだした。慟哭している。何がそんなに悲しいのか。あの人。その人のために悲しんでいるのか。
「でも私は……あの人も裏切った。私のことをあんなに助けてくれたあの人を裏切って帰ってきてしまった」
 ユーナが悲しむ原因はそこにあるのか。レシェラは悟る。
「遠いの。私はあなたを想っています。そう伝えたい。あの人のため、あの人の世界を守るために私はなんでもする。命なんかいらない。でも、遠すぎる。もう二度と会えない、絶対に会えないことが、こんなに苦しいなんて。もう一度だけでも、あの人に会いたい……」
「そのための投獄、それに脱獄。そういうことか。その人間が、ただ唯一おぬしの行動理由であるのか」
 まさか、ユーナの行動理由が異世界を守ることにあったなど予想だにしなかった。異世界と言うもののイメージはまだまだぼやけているが、要するにユーナはたった一人でこのユベリア大衆国を敵に回そうとしているのだ。こんな小娘が。力も持たないたった一人の小娘が。紛れもなく反逆者になろうとしている。
「ユーナよ、聞かせてくれ。その異世界で、いったい何があった? なぜ使命を捨てることとなったのだ」
 レシェラは尋ねた。だが、返答がない。様子を見ると、どうやら眠ってしまったらしい。やれやれとレシェラも体を伏せる。
「なんて無防備な寝姿だろう。仮にも国を敵に回そうとする人間が。この様子じゃ野獣に襲われても目をさまさんだろうな……」
 そうつぶやきながら、レシェラも重くなったまぶたを閉じた。
 
 
 
「レシェラは私なんかよりずっと長生きしていて気高いのに」
「なんだ、突然」
 山道を歩き、コロタリの故郷の漁村にも程近くなってきたころ、ユーナが口を開いた。
「だから、レシェラはどうして私なんかに服従してるの? 人格もあって、知性もあるのに私と一緒にいる理由がわからないの。もちろん、たくさん助けてくれてとっても感謝してるし、いつまでもそばにいてくれればいいなって思ってるんだけど……」
「なぜ、そんなことを疑問に思う必要がある? 簡単な理屈ではないか」
「その簡単な理屈でも、わたし馬鹿だから分かんないの」
 すねたような声を上げるユーナ。
「私がご主人様に使えるのと同じなの?」
 ユーナのその言葉で、危惧していることがわかった。自分の奴隷という立場と、レシェラの境遇を重ね合わせているのだろう。
 レシェラは説明する。
「話したことがなかったか? おぬしらの言葉を借りればわしは『眷族』となるな。眷族とは、ハザマの世界の住人であるのは知っておるな?」
 ユーナがこくりとうなずく。
「ハザマの世界では個は全、全は個である」
 そういった瞬間、ユーナがほほを膨らませる。わかりやすく説明しろという仕草だ。
「要するに、ハザマの世界にいる間は、わしは個としての人格を保てないのだ。ずっとおかしな夢を見ている状態に似ているし、まどろみのような心地よさもある。だが、人間の媒介なくして我々は人格を保てることができないし、この世界にも具現できない。そんなハザマの世界に漂いながら、眷族はただひたすら個の確立を願っておる。それに人間と契約できるチャンスもほとんどない。私が私でいられるためにはおぬしの存在が必要だ。だから一緒におるのだ」
「だからって、こうやってずっと私に付き添ってくれてなくても大丈夫なんでしょ? ソラ・トンベルクみたいに、普段はそばにいなくても」
「それについては個人差がある」
「個人差?」
「おぬしは危なっかしいのだ。わしらと契約関係にある認識が足りん。おぬしがいなくなれば、わしは再びハザマの世界で漂わなければならぬことになる。だからこうして付き添っておる。それに、おぬしと同じ。ただの契約関係であるならばずっと一緒にいる必要はないが、そうでなければずっと一緒にいても苦にならぬ」
 ユーナは首をかしげると、人差し指を顎に当ててしばらく考え込む。
「それって、つまりレシェラは私のこと、好きだからそばにいてくれてるってこと?」
 そう問われて、今度はレシェラが逡巡する羽目になる。
「まあ、丸く言えば、そういうことだ」
「ふうん」
 ユーナは鼻を鳴らすと、レシェラに向き直って言った。
「私も好きだよ。レシェラのこと」
 レシェラと契約を交わしてから、初めてユーナが笑みを作った。コロタリと契約していたときとは、違う感覚がレシェラを包む。
 人間とは契約関係だ。必要なとき、召喚される以外は契約者に対してなんの義務もない。だが、過去の契約者の中にはどうしても相入れない相手がいたことも確か。
「おぬしが考えていることを知りたい。夕べ、話が途中になったな。これからおぬしはどこへ行こうとしている。具体的には何をしようとしている。おぬしが旅してきたという異世界を守ると言っておったが」
「ヴァル様は、異世界の支配を目論んでおられると思うの」
「支配か。だが、たかだか一国の副王であるあやつが、どうして異世界を支配できようか」
「たぶん、単純な話じゃないと思う。ヴァル様のお考えを全て知ることなんてできない。だけどヴァル様はすべての世界を支配しようとしているんだと思う。それが最終目的なのか、過程のことなのか分からないけど」
「確信はないのか?」
「あのお方は、自分の考えていることを他人に話すような人じゃない。たぶん、すべては自分の胸のうちだけにあるの。ずっとそばでお仕えしてきた私には、なんとなく感じる」
「もし、おぬしの考えが真実であるならば、おぬしの言っていることはこういうことになる。『異世界を支配しようとしているこの国を敵に回し、一人異世界を守るために戦う』と」
 レシェラの言葉に回答しないユーナ。やけに息苦しい沈黙に、レシェラは言葉を続ける。
「おぬしは国を滅ぼす気か? そして、それができるとでも思っておるのか?」
「そんな大それたこと考えてないよ。方法なんて分からない。だって、まだ手探りみたいなもので、私だってどうしていいか分からないし。でも、きっと困難なことばかりだと思う。だから、少しでも私は力を付けたい。力を付けるには眷族との契約が必要。それに仲間も」
「仲間……、それは帝国旅団のことか?」
「……うん」
 この国を支配する三ツ目族、四ツ目族など、ろくなものではないが、二ツ目族が統括する帝国旅団が果たして三ツ目、四ツ目族よりマシな集団であるかどうかは、非常に疑問である。実際に目の当たりにした事はないが、うわさで聞く帝国旅団は、古きユベリア教を崇拝するカルト集団の印象だ。
「ゆっくり考えるからさ。とりあえずコロタリの故郷へ――」
 コロタリの故郷へ行こう。そう続けようとしたユーナは絶句していた。もちろんレシェラは「どうした?」などとは答えない。
 ユーナが気づくより、一瞬早くレシェラも気づいたからだ。
「不穏な空気……」
 ユーナがつぶやく。
 ここは森の中。この森を越えた場所にコロタリの故郷がある。先ほどまでなんら異常のなかった森が、突然、冥界にでも様変わりしたような重々しい空気が支配した。
 周囲に羅列する木々たちも、不安をささやきあう様にざわめいている。
「動物の気配が消えた」
 そうつぶやいたのはレシェラ。直前まで聞こえていた小動物や虫の鳴き声が止んでいる。不穏な空気を感じて息を潜めているのか。
「何が起きたの、レシェラ」
「わしにも分からぬ。森が沈黙した。そうとしか表現できん」
「……先を急ごう」
 不穏な空気の正体を掴めないまま、一刻も早く先に進むことを選択する。
 最初は歩調を速めただけだが、やがて不安に追い立てられるように駆け足となった。森は代わり映えのない風景を、前方から広報へとスライドしていく。
「レシェラ、なにかが付いてきてない?」
「付いてくる?」
 レシェラは走りながら森を振り返る。振り返っても見えるのは森ばかり。
「何かが居るような気がするが、はっきりとしない。いや待てよ……」
 この森。ひょっとして。
 だが、もし今、思い描いている想像が正しいとすれば、その森は外郭を封鎖されているはず。物々しい有刺鉄線で立ち入りを禁じ、立ち入ろうものなら政府役人が飛んでくるはず。
「ユーナ、ひょっとしてここは、噂に名高い『魔の森』では?」
「魔の森って?」
「コロタリに聞いたことがある。故郷の漁村の近くに、人を寄せ付けない森があって、政府役人が封鎖している森があると。そこは『魔の森』として恐れられている場所で、魑魅魍魎が跋扈しているらしい。魑魅魍魎などばかばかしい怪談話だと思っていたが、もしその森だとすれば……」
「それがこの森なの? でも、封鎖線なんて越えてないよ」
「ああ、確かに」
 やはり思い違いか。だが、圧迫するように気圧を押し上げている不穏な空気は、三ツ目族とか四ツ目族といったものとは違う、『何者』かの気配であるといってよい。ならば、この気配の正体は何なのか。
 レシェラの知らない、何らかの種族のものか。ハザマの世界に住む異界の者か。
 突如、ユーナが立ち止まった。気づいて、レシェラも立ち止まる。まだここは森の深部。出口には程遠い場所だ。なぜ立ち止まったのか。レシェラはユーナを振り返る。ユーナも背後を振り返っている。見えたのはユーナの後頭部。
「どうした、ユーナ」
「やっぱり何か来る。ものすごい速さで。レシェラ、逃げられないよ」
「なにが来るというのだ。わしの嗅覚には何も引っかからんぞ」
「でも、何か来る。私たちを追ってるんだ」
 レシェラは鼻をひく付かせてみる。残念ながら、今居る場所は風上である。となると、頼りになるのはユーナの感覚だけ。
「……よし、ユーナを信じよう。ではユーナ、追いかけてきている者との距離は分かるか?」
「近いよ。どうしよう、レシェラ。私、襲われても何の抗う力もない」
「わしもだ。戦う力はない。ソラ・トンベルクで逃げるか?」
「でも、この近くは政府の役所があるんでしょ。それに大都市も近い。三ツ目族に見つかっちゃったらそれこそお終い」
「……ならばどうする? 追っ手が話の通じる者だとは思えん。隠れるか?」
「隠れても無駄だと思う。だってこうして私たちを追ってきてるんだから。気配を見られてるんだと思う」
「じゃあ八方塞だな。ここで死ぬか?」
 そう言うと、ユーナは今にも泣き出しそうに口元を歪める。救いを求めるようにレシェラを見つめてくるが、いい案は浮かばない。
「ユーナ、こうしよう。背に腹は変えられない。ソラ・トンベルクを召還しておくのだ。迫ってきている相手に害意があれば、三ツ目族に見つかるのを覚悟で上空に逃げよう。もし相手が話の通じる者ならば、交渉を試みてみようじゃないか」
「……うん」
「しかし忘れるな。召還しただけで、ソラ・トンベルクはエネルギーを発散する。もし近くに三ツ目族がいれば、我々の居場所を知られるだろう。逃げることはできても、コロタリの漁村はあきらめるんだ」
 ユーナは答えない。答えないだけではない。ソラ・トンベルクを召還しようともしない。声をかけようとしたとき、かすかにレシェラの聴覚がなにかを捉えた。
 人の声? いや、叫び声のようだ。ひょっとしたら猛獣の類の鳴き声。
 ひとつ、ふたつ、みっつ……。
 徐々に声は明確になり、数も増幅していった。まだ、ユーナの聴覚には届いていない。この金属をこすり合わせたような声。
「見て!」
 だしぬけにユーナが大声を上げた。見ると、前方の森を指差している。レシェラはしびれるような緊張感とともに指差される方角を見る。一瞬、垣間見えた人影。
「人が居たよ、レシェラ」
「どんな様子だった?」
「子供みたいに見えたけど……」
「子供?」
「うん、追いかけよう!」
 ちょっとまて。レシェラが静止する暇もなく、ユーナは駆け出した。
 ユーナを追いかけながら嗅覚に意識を集中する。確かに人間のにおいがする。それも子供の人間だ。ユーナが見たものは間違いなく二ツ目族の子供。
 こんなところに子供。ここが魔の森だとすると、子供が居るわけがない。ということは、ここは魔の森ではないということになる。
 前方には人間の子供。後方からはただならぬ不穏な気配が迫る。
 前方を走るユーナに声をかけた。
「ユーナ、子供にかまうな。森を出るのが先決だ」
「だめだよ。ただでさえ、なにか気持ちが悪い雰囲気なのに」
「子供を捜して、助けるつもりか? 忘れたのか、我々には戦う力はないのだぞ」
「逃げる力はある。さっきの子を探して、ソラで逃げよう」
 その言葉とは裏腹に、ユーナはソラ・トンベルクを召還する気配がない。いや、ソラを召還するつもりが毛頭ないのではないか。どんなことがあってもコロタリの故郷へたどり着くつもりなのだろう。
「見て」
 森が開ける。だからといって森の出口であるわけではなさそうだ。開けた場所は、緩やかな丘陵となっていた。見える限り、五十メートル四方に樹木はなく、背の低い雑草が生い茂っている。
 森の中には途中に段差のようなものがあるらしく、丘陵の上からはまだ森が続いているようだ。
「どうしてここには木が生えていないの?」
「分からないな。いや、ひょっとしたら農地の跡かも知れんな。人工的に作られた空間」
「じゃあ、この辺に人が住んでるってこと?」
「いや、過去の話だ。今は誰も手入れをしておらんようだ。だが……」
 レシェラは鼻を地面にこすり付けてにおいの後を確認した。
「ここには、おそらく先ほどの子供であろう人間のにおいがたくさん付いておる。頻繁に訪れているらしいな」
「やっぱり、この森に住んでるのかな」
「住んでおるとしたら、住処を探すのは容易だろう。匂いの痕跡を追跡すればよい。だが、今は森を出ることを優先しよう」
「でも、あの子がこの森に住んでるのなら、やっぱり危険だから……」
 探すというのか。やはり、ユーナは心が優しすぎる。ただでさえこの先、多大なる困難が待ち受ける道を選んだというのに。
 いずれ、どこかで強くなる必要がある。冷酷になることが重要な選択であると知る時が来る。目的を達成するために、多くの犠牲が必要になったとき、ユーナはいったいどんな選択をするのだろうか。
「ユーナ、こうしようじゃないか。あの子供がこの森に住んでいるのだとしたら、おそらく我々より森に精通しているはずであるし、危機の乗り越え方も卓越しているだろう。子供を捜すのは、コロタリの故郷に向かった後でも遅くはない。そこで漁村の人間に助っ人を求め、子供を捜しにこようではないか」
「手遅れになったら……」
「我々が命を失ったら本末転倒。出直すのが懸命。お互いのためにな」
 ユーナは不満そうである。だが、レシェラの鋭い聴覚にこだまする不気味な悲鳴のような声の集団は友好的ではなさそうだ。
「分かった。コロタリの故郷へ行こう」
 レシェラを振り返ったユーナの目には、確かな意志が戻っている。本来の目的を思い出したようだ。
「よし、そうと決まれば走るぞ、ユーナ。一刻も早く森を出る。いいな?」
「うん」
 力強くうなずくユーナ。
 レシェラは道案内するように先頭を走る。それをユーナが付いていく。
「おそらく、森を出るまでには二キロ弱。止まる気はないから覚悟しておけ」
「うん」
 わしはなぜ、これほどまでに小娘の面倒を見ているのか。ふと自分自身が不思議に思うレシェラ。思えば歴代の宿主とはいつも疎遠であった。必要以上の会話もなければ接触もない。コロタリもしかり、呼び出されることも稀、呼び出されても会話を交わすことなく、お互いの仕事を淡々とこなす。
 なにより、ユーナには人として備わっているべき重要なものが欠落している気がする。こうしてユーナが生きていられることが奇跡としか感じられないような、大事な感覚。
 それは警戒心とか、猜疑心といったものか。ひょっとしたら何かに極端に依存的な彼女は、どこかで自分の生命をあきらめているのではないか。大きな流れに身をゆだね、流れるままに訪れる運命に対し、すべて受け入れる準備ができている。
 グロウリン城塞都市での初めて会ったときの印象通り、三ツ目族の子供に肩を吹き飛ばされたときも彼女は死を受け入れていた。レシェラが治療しなかったら間違いなく致命傷だった。
 あの時、爆発で死に掛けた三ツ目族の子供に対して見せた残虐性も気になる。あの行為は転じて自分の生に無頓着。そうとしか思えない。
 そのとき、左右の森に異様な気配を感じた。
「レシェラ、追い抜かれた」
 ユーナが、緊張感とは程遠い声を出す。
 そう。背後から追いかけてきていた不穏な気配が、レシェラたちの両脇の森をかけぬけ、我々を追い抜いていった。
 追い抜いていった理由は明白。我々の進路の先に立ちはだかる気だ。
「何者なのだ、彼奴らは」
 姿がまったく見えない分、恐怖も相乗する。感じたこともない悪意を感じる気配は、やはり二ツ目、三ツ目、四ツ目とは違うし、盗賊段、軍隊、政府役人とも違う。
 ここはやはり魔の森。人ならざる者の気配だろうか。
「どうしよう、レシェラ。もうすぐ森の外なのに」
「囲まれているようだ。四方から監視の目線を感じる。ユーナ、仕方がない。ソラ・トンベルクを発動しろ」
「でも……」
「迷ってる場合か」
「ソラ・トンベルクの発散する力は、きっとコロタリの漁村まで届くと思うし、三ツ目族にも見つかっちゃうよ」
「命には代えられん。コロタリの故郷はあきらめろ」
「やだ」
 やだ、と言ったユーナを振り返ると、彼女は立ち止まって、レシェラに非難めいた目線を送っていた。
「立ち止まるな、ユーナ」
「だって、レシェラはひどいことばかり言うから」
「お前の体を気遣っておるのだ。わかるぬのか」
「だったら、コロタリの故郷へ行く、いい方法を教えて! ソラは召喚しない!」
 駄々をこねる子供だ。この危機的状況を、ユーナは本当に理解しているのだろうか。
 レシェラはゆっくりとユーナの元へ戻る。
「ならば立ち止まっていればよい。殺されても文句は言えんな。命を落とせは、コロタリの故郷へ行くことは一生叶わん」
「どうして意地悪なことを言うの? コロタリはレシェラの宿主だったんでしょ」
「宿主だったが、親しかったわけではない。コロタリの故郷のこともよく知らんしな」
「じゃあ、私も意地悪なこと言うよ。いいの?」
 ユーナがむくれている。二人の周囲に取り巻く邪悪な気配とは、実に不釣合いな表情である。
 ユーナは言った。
「私が殺されたら、レシェラはハザマの世界に戻らなくちゃいけないんだよ。もどったら、新しい二ツ目族とだって契約できるかわからないよ。聖域だって、いまは三ツ目族に封鎖されてて、契約の機会だってない」
 ユーナの言っていることは、半分正解である。しかし、半分は認識不足である。
 二ツ目族と眷族が、対等な立場である理由は別にある。眷族は二ツ目族に従順する奴隷ではないのだ。
「わかった、ユーナ。別の方法を考えよう」
「……ごめん、レシェラ、意地悪なことを言って……」
 今度は泣き出しそうな顔。まったく、手の焼ける宿主だ。状況は良くない。果たして我々を取り囲もうとしているやつらは何者なのか。
「ひとつだけ、気になることがある。ユーナ、ひとつ試してほしい」
「試すの?」
「うむ。グロウリン城塞都市を脱出する際、おぬし、死んだ女から眷族を譲渡されたはず。今ここで出現させてみよ」
「眷族を? でも、三ツ目族に見つかってしまうんじゃ……」
「心配いらん。三ツ目族に見つかるような高い力を持つ眷族を、高々奴隷の女が持っておるはずがない。だが、状況を打開するのに有効な眷族かもしれん。出してみなければ、どんな眷族かわからん。とりあえず召喚してみろ」
「うん、わかった」
 素直に従うユーナ。ここでも駄々をこねたらどうしようかと悩ましかったレシェラであるが、とりあえずは安堵する。
 ユーナが手を組み合わせ、神に祈るように目を瞑る。おそらくあまり期待はできないが、状況を打開するために役立つ眷族であってほしい。
 そんな期待のまなざしをユーナに向けていたが、ユーナはゆっくり目を開くと言った。
「ごめん、呼び出し方がわかんないよ」
「わしやソラを呼び出したときと同様だ。願え」
「願うって言われても、眷族の名前も知らないし」
「名前は必要ない。イメージできれば良い。どこで誰に譲渡された眷族か」
「うん……」
 ユーナは再び祈るように目を瞑る。これはだめか。失望にレシェラは腰を落とすと、ユーなの周囲に風を感じた。
 顔を起こすと、ユーナの髪や着ている服の裾や袖が風にたなびいている。
 うまくいった。召喚される。そう思ったときだった。
「しゃあっ!」とどこからか水でも噴射するような音が聞こえた。反射的に身構えて周囲を見渡す。
 音はユーナの集中力をも乱し、召喚されようとしていた眷族は成りを潜めてしまった。
「なに? 今の音」
「気にするな。おぬしは召喚に集中せよ」
「でも引っ込んじゃったよ」
「もう一度だ」
 レシェラの声に合わすように、再び「しゃあっ!」と音がした。
 蛇が敵に威嚇するような音。
 近くの茂みが騒ぎ出したときは、よもや戦う以外の選択肢がないことを悟った。
 茂みから何かが飛び出してきた。どすん、と音を立てて「それ」はユーナたちの目の前に着地する。
 不穏な空気を撒き散らし、周囲を取り巻いていた「何者か」の正体が姿を現した。
「しゃあああああっ!」
 大口を開け、叫び声を上げたそいつは、腰を低く構え、逃げ道を塞ぐかのように両手を広げている。
 ユーナは愕然と立ち尽くしている。必死に何かを言おうと口元を動かしているが声にならない。
 レシェラは全身の毛を総立ちにさせて、犬歯をむき出しにした。
 目の前に姿を現したそれは、人のそれであるようで、人のそれではなかった。鎧のようなものを体に纏っているのを見ると、知性のない猛獣の類ではない。
 髪の毛は伸び放題に乱れ、前髪に垣間見える瞳は炎のように赤い。顔の半分以上も開かれた口の中には綺麗に揃った歯が見えたが、歯茎や舌といった口内は濃い紫色に変色している。
 口の中だけではない。老人のように皺が刻まれる顔にはひび割れたかのような血管が縦横しているが、それも紫色だった。
 手や首などの見えている皮膚も、ひび割れのように紫色の血管が浮き出ており、その者の血液が紫色であることを物語っている。
 どしん、と背後から音が聞こえた。振り返ると同じ風貌の者が背後に立っている。「しゃあああっ!」と不気味な声を上げ、威嚇している。
「レシェラ!」
 ようやく声の出たユーナは悲鳴を上げてレシェラにしがみ付いてきた。
 どこからか飛んできた三体目が目の前に現れる。着地の瞬間の「どしん」という地響きは重量があることをレシェラに知らせる。三体目には頭髪がなく、おぞましい風貌が露わとなっている。
 皺の多い顔。やけに大きい口。紅い目。浮き出る紫色の血管。
 だが、その風貌はまるで……。
「万事休すだ、ユーナ。ソラを召喚するんだ」
「だっだめだよう……!」
「本当にここで死ぬ気か?」
 一体の化け物が「のし」と音を立てて詰め寄ってきた。
 仕方がない。戦うしかない。レシェラは体を低くして身構えた。現れたのは三体。どれほどの力を持っているのかは不明だが、足止めくらいはできる。
「ユーナ、わしが足止めをする。その隙に森を出るのだ。わしが合図したら振り返らずに北の方向に全力で走れ」
「レシェラを置き去りにできないよ」
「大丈夫だ。わしは眷族。危険になったらハザマの世界に戻ればよい。だが、おぬしはそうはいかん。おぬしさえ生きておれば――」
 話し終わる前に「しゃああっ!」と声を上げて、一体の化け物が襲ってきた。
 顔を突き出すように見る見る迫ってきた化け物に、レシェラは反射的にユーナを突き飛ばす。悲鳴を上げてしりもちをつくユーナ。
 レシェラは襲ってきた化け物の出鼻をくじくように跳躍すると、のど元にめがけて牙を剥いた。
 のど元に食らいつくことに成功したレシェラと化け物一体がもみ合いになって倒れこむ。
 怪物はレシェラの毛と皮を掴み、叫び声を上げながら引き剥がそうとする。すると残りの二体が、折り重なるようにレシェラに覆い被さった。三体の化け物がうごめくようにレシェラを襲う。
 
 
 
「レシェラ!」
 ユーナはほとんど言葉にならない悲鳴を上げる。逃げろと言っていたレシェラの言葉も忘れ、ユーナは立ち上がるとレシェラを助けようと足を踏み出す。
 ユーナの出鼻を挫くかのように、三体の化け物たちに引き剥がされたレシェラは、化け物に放り出されて、近くの木の幹に激突する。地面に落ちたレシェラは体制を立て直すと、犬歯をむき出して三体の化け物に向かって唸り声を上げる。唸り声とともに口からほとばしる血液。
 白銀に輝いていたレシェラの体毛は、いたるところが赤く染まっている。レシェラの血か、化け物の血か。
 ユーナはどうすることもできず、地団駄を踏む。ソラを呼び出すか。しかし、呼び出せば近くに役所を構える三ツ目族に気づかれれるのは必死。
 ユーナが地団駄を踏んでいるうちに、三体の化け物がいっせいに跳躍したのがわかった。
 背後に樹木を背負うレシェラは覚悟を決めたように身構えた。
「レシェラ!」
 ユーナは駆け出した。三体の化け物がレシェラを襲うより早く、ユーナはレシェラをかばう様に抱きついた。
「ユーナ!」
 レシェラの怒号を聞きながらレシェラの首に抱きつくユーナは、一瞬後に襲ってくるであろう衝撃に強く目を瞑った――。
 ――衝撃は来なかった。
 変わりに肉と骨が砕けるような音と、怪物の悲鳴。
 どさり、とユーナとレシェラの傍らに怪物が倒れこんできた。見ると、怪物は顔面を半分失っており、赤紫の肉や脳漿が飛び散っている。
 何が起こったのか。
 ユーナは振り返った。
 
 
 
 信じられないものを目にしていた。
 ユーナとレシェラの盾になるように立ちはだかる人影が見えた。
 森の木々の隙間から照らされる幾つもの光明で、幾分シルエット化しているその背中な男性のものだとわかる。
 男性は背中に背負っていた抜き身の長剣をゆっくりと構えた。彼の背中越しには二体の化け物が、口から粘液質の唾液を撒き散らしながら威嚇するように唸っている。
 ユーナの目には、長剣が宙に円を描いたように見えた。次の瞬間には、二体の化け者の両腕が切断され、宙に舞った。
 化け物は悲鳴を上げると、両腕から噴水のように流れ出す紫色の血液を見て取り乱したように尻餅をつく。
「首から上も失いたくなかったら一目散に逃げるこった」
 男が警告したとおり、化け物二人は背中を丸めると、悲しそうなうめき声を上げながら森の奥へ消えた。
 一瞬の出来事。ほとんど何が起こったのか理解できないまま、目の前から化け物たちは消えうせていた。
 男は抜き身の長剣の背中に戻すと、ふと思い出したようにこちらを振り返った。男は涙と鼻水に汚れ、ぶるぶると震えるユーナと、ユーナが抱きつくレシェラを見下ろす。
「大丈夫か?」
 声をかけられたものの、ユーナは返事をすることも頷くこともできない。
「おい、大丈夫なのか?」
 目の前にしゃがみこんできた男に、距離を置くようにあごを引くユーナ。
「怪我はないようだ。間一髪だったな。俺の登場のタイミング、ばっちりだったろ」
 ユーナは相変わらずなにも言えず、涙目をまん丸にして目の前の男を見続ける。
「森を歩いてたら君の悲鳴が聞こえたんだ。気になって近づいてきたら美少女が怪物に襲われてるじゃないか。これは助けるに値する事態だと思ってな。どうだ? 助かったろう。感謝しただろう」
 無反応のユーナに、男は「ち」と舌を鳴らすと「おおい、聞こえてるか?」と目の前で手の平を左右に振った。
「おぬしは何者だ」
 そうたずねたのはレシェラだった。
「おっ、おおう! 犬が喋った!」
 男はしゃがみこんだ姿勢のまま、尻餅をついた。
「犬ではない。レシェラと申す。助けていただいたようだが……」
「……ひょっとして、眷族と言うやつか? 獣の姿をしているとは聞いていたが……喋るとは……」
 ユーナとレシェラは顔を見合わせた。
「あのう……」
 いくらか冷静になってきたユーナは恐る恐るたずねる。
「助けていただいて……ありがとうございます」
「やっとお礼を言ったな! 美少女にお礼を言われるのが俺の生きがいさ! もっと言ってくれ!」
 目を輝かせて「さあ」とお礼を促している。ユーナは「ありがとうございます……」と再びか細い声で言うと、男はぶるぶると身震いして恍惚とした。
「あの……お名前は……二ツ目族……ですよね?」
「ああ、俺はイイ・シト。二十三歳」
 年齢は聞いていないが、盗賊や密告者の類ではないらしい。
「助けてくれたことには礼を言おう」
 レシェラが言うと、イイ・シトは怪訝そうにレシェラを見る。
「犬にお礼を言われたって嬉しくないぞ」
「犬ではないと言っておろう」
「どう見たって犬じゃないか」
 レシェラは再び犬歯をむき出しにして唸り声を上げる。
 男はおびえたように距離を置く。
「レシェラは狼なの。誇り高いの。犬なんていったら噛まれちゃうよ」
 ユーナが説明すると、男は「狼ね」と取り繕うように言った。
「じゃあ、お礼の次は謝礼といこうか。助けてやったんだから当然だろ?」
「謝礼……?」
「謝礼だよ、謝礼」
 イイ・シトは手の平を突き出して、促すように「ほら」と言っている。
「あのう、私、なにも差し上げられるものは持ってないんです」
「何かあるだろう。宝石でも食料でも」
「……いえ……なにも……」
「なにもって……。じゃあ、この辺に君の住んでいる集落があるはずだ。そこまで案内してもらおう。少しは何かあるだろう?」
「私……あの、この辺に住んでるわけじゃ……」
「じゃあ、なにか? 旅の者か? 美少女が一人で? ありえない」
 男は肩をすくめて首を横に振る。
「ありえなくても、事実だ。それに持ち物は旅の途中で失い、食料も底をついた」
 レシェラが口を開くと、必ず怪訝そうな顔をするイイ・シト。獣の類が喋ることに抵抗があるようだ。
「嘘をついてるんじゃないだろうな。仮にも俺は命の恩人だぞ」
 本当は、グロウリン宮殿を脱出したのち、なにも持たずにソラ・トンベルクでこの付近までやってきた。宮殿を出てからと言うものの、食料らしい食料はまだ口にしていない。
 二週間程度なら食料を口にしなくても体力的には問題はないが、そろそろその二週間がたとうとしていたころだった。
 レシェラが慎重に言った。
「助けてもらっておいて、なにもあげられるものはないが、本当に感謝しておる。お礼はいずれ」
「いずれっていつだよ」
「あっ」
 ユーナが思い出したように声を上げる。
「ひとつ、差し上げられるものがあります」
 イイ・シトの表情が、光が差したように明るくなる。
「本当か? 出してみろ」
 ユーナは頭髪に編みこんだ宝石のついた指輪を取り出す。
「それなりに高価なものです。これくらいしか……」
 イイ・シトは指輪を受け取ると、まじまじと観察してみる。
「慈愛石……。君、この石はどこで手に入れた?」
「え? 亡くなった父の形見だと聞いています」
「父の形見だと?」
 イイ・シトは顔をはにかませる。
「なんだか気持ちが悪いが、受け取っておこう」
 イイ・シトは指輪を懐にしまい込む。
「ところで」
 イイ・シトは立ち上がりながらたずねた。
「美少女と犬……狼さんはこれからどこへ行くつもりだ? 目的地は?」
「ユーナです。こっちはレシェラ」
 自己紹介すると、ふむ、とうなずいたイイ・シトは改めて尋ねる。
「ユーナちゃん、それと喋る狼のレシェラさんは何で旅なんてしてるんだ? 奴隷逃れかい?」
 ユーナはレシェラを見た。レシェラは助け舟を寄越すように言った。
「はぐれたウィンディアを追いかけておる。その道中」
 レシェラが機転を利かせて嘘をつく。
「ウィンディアね。なるほど、定住場所はないわけだ」
 イイ・シトは傍らに倒れている化け物に踏み寄る。
「命を助けたんだ。いくら払ったって惜しくはないだろう」
 そう言いながら化け物を仰向けにひっくり返す。
「貴様、まだ要求する気か?」
 レシェラがぐるぐると唸る。イイ・シトはひっくり返った化け物の遺体を観察する。
「いいや、そうじゃない。むしろその逆。この慈愛石、相当高価なもんだ。俺は仕事でボディーガードをすることがあるが、この慈愛石の報酬は、一回の仕事の約三倍。命を値段で換算すると、この指輪は命三つ分あるってことさ」
 死体の着ていた鎧のようなものを引き剥がすイイ・シト。作業を淡々とこなしながらも話を続ける。
「俺は等価交換を身上とする。こんなもの頂戴したら、それなりの働きをしないと気が済まない」
 鎧を剥がした化け物の体は、やはりクモの巣のように紫色の血管が張りめぐっていた。
「こういうのはどうだ? この指輪で俺を用兵として雇わないか? 仕事の期間は、美少女の命、あと二つ分。それまで守ってやるよ」
 ユーナとレシェラは再び顔を見合わせた。
「本当に?」
 ユーナが確認すると、化け物から引き剥がした鎧を麻袋に詰め込み、腰を上げながら言った。
「俺は嘘を言わない。それに……」
 それに。と言ったまま口を開かないイイ・シト。
「それに、なんですか?」
「いや、命を助けた美少女と、奇縁があって共に旅をする。これってなんだかロマンスの予感がしないか?」
「ロ、ロマンス?」
「ああ。こう、気分が高揚してこないか? わくわくするだろう。命を助けてくれた俺のこと、なんだか魅力的に見えてきただろう」
「……いえ……」
「いや、見えてきたはずさ。今は気づいていないかもしれないが、旅を続けるうちに、警戒心も解けて、だんだん俺に心を開いてくる美少女。そう。俺は最初のうち、美少女を邪険に扱うが、慕ってくる美少女に、徐々に心を許していく。最後には……」
「さ、最後には……?」
 イイ・シトはふと気づいたようにユーナを見た。ユーナはなんだか身の危険を感じて、ひしとレシェラに抱きつく。
「そんなの、知ってしまったら後が面白くないだろう。お楽しみだ」
 ユーナは不安そうにレシェラを見た。
 レシェラも逡巡した。危ない思考の持ち主のようだが、先ほど化け物を退治した手並みを見ると腕は確かなようである。旅に同行すると言うのなら、これ以上に力強いものはない。
「ユーナ、何かあればソラで逃げればよい。しばらく行動をともにして様子を見よう」
 レシェラがユーナに耳打ちする。
「レシェラがそう言うなら……」
 ユーナはイイ・シトの同行を了承した。イイ・シトはさも当然といった風に「ふ」と気取った笑みを作ると「俺のことは『イイ様』か『シト様』と呼べ」と言った。
「イイ様かシト様……」
「おぬしはユーナに雇われの身だろう。様呼ばわりとは大層だな」
「文句があるのなら『イイちゃん』『シトちゃん』でもいいぞ。そのほうが幼馴染っぽくていいしな」
「ちゃん付けですか……」
「気に入らないのか? じゃあ、こういうのはどうだ? 『イイくん』とか『シトっち』とか」
「じゃあ……シトさんで……」
「シトさん? 堅苦しいな。『イイっぺ』『シトシト』はどうだ?」
 ユーナが困ったようにレシェラを見る。今度ばかりはレシェラも助け舟を寄越さない。
 どうしようかとしどろもどろになるユーナ。さまざまな呼び名のやり取りが続く中、となりでレシェラが緊張感なさそうに欠伸を掻いていた。

 

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