あっちから変なの出てきた

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第三章 【 そのころ現世で! その1 】


 十一月二日 十一時二十三分に隔世より超A級の人外が渡来してからちょうど一月が経った。同時に鳴音奏がイスカ領域を通って隔世に旅立って一ヶ月。
 青空公園に再び人外の渡来があった。今度は早乙女町全体が封鎖されることはなかったが、青空公園には再び物々しい厳戒態勢が敷かれたことは言うまでもない。
 前回、不発弾回収の名の下に、青空公園と周囲一キロメートルの住宅街から住民を退避させたのと同様、今回は残りの不発弾が残っていないかの調査、捜索が表向きの名目である。
 もっとも、今回は予告なしの渡来ではなく、前回、銀髪の人外が渡来したときに人外特殊災害対策室の室長である鳴音奏顧問役が再会談の約束を取り付けた結果である。
 このイベントは、日本の行政機関である自然管理委員会の采配の枠に収まる事態ではなく、国際連盟の主要各国の大御所もずらりと面子を並べた。
 青空公園の内外には自衛隊、在日米軍の物々しい厳戒態勢に、近辺の交通整理と、近隣に設置された外国要人を収める施設の警護に警察庁が張り付いている。
 自然管理委員会の役割は、主に渡来する人外に対する直接会談、直接交渉、進行、リアルタイム連携など。つまるところ、主導権は自然管理委員会が握っている。
 会談内容は公開されないが、日本の各機関の高級官僚、外国要人を収める近隣の市民会館の大型スクリーンには、プロジェクターより投影された映像、音声がリアルタイムに流れるようになっている。
 そこには伊集院照子も居た。映画館のように、正面のスクリーンに向かって緩やかなくだりの傾斜に、扇状に並ぶ座席の中、一番後列の端に座席が用意されている。
「VIPなのか、爪弾き者扱いなのか、はっきりしてほしいところだな」
 伊集院照子のボヤキを聞いているのは、隣に座る鳴音琴だった。琴は伊集院照子のアシスタントとしてこの場に呼ばれることになったが、単なるいち術師である琴にとって、このような場所は明らかに場違いである。
「伊集院さん、あまり私語は……」
 伊集院照子は態度悪く、前の座席に足を投げ出し、手を後頭部で組みながらふてぶてしく欠伸を掻いている。
「なにが私語だ。会談の予定時間の二時間も前からこんなところに閉じ込めやがって。結果は後から書面なりで報告して来ればよいものを。私たちはこんなことをしている暇などないのだ」
「こんな重要なイベントなのに、ほかになにをする必要があるんですか?」
 伊集院はあきれ返ったように目を丸くする。
「なにを言う、琴。お前ら弟子どもの鍛錬が最優先だ。私には時間がないのだ。こんなところで油を売っているより、一刻も早く弟子を見繕って行雲途山に修行に行かねば」
「まだ許可が下りてないじゃないですか。いずれにしてもまだ動けませんよ」
「相変わらず大型組織は動きが鈍いよなあ」
 そう言って再び大あくびをすると「始まったら起こせ」といって居眠りを始めるのである。
 こんな破天荒な人間のアシスタントなど務まるのだろうか。正式に自然管理委員会より辞令が下り、伊集院照子の身の回りの世話をすることになった琴であるが、どんな高位の人間であろうと失礼千万な態度は変わることなく、そばに居る琴がストレスで胃に穴が開きそうになる。
「伊集院さん、あなたには重要な役割があるじゃないですか。イスカ領域が開いたら連絡しないと」
「そんなもん、人外が渡来すれば分かる。知らせるまでもない」
「またそんな……」
 本気らしい。伊集院照子に目を開くような気配はない。
「さて、約束どおり人外が再渡来したとき、果たして平和的な交渉などするだろうか、どうおもう、小娘」
 伊集院照子は琴のことを「小娘」と呼ぶ。初めは気になったが、もはやどうでもよくなっている。
「どういう意味ですか?」
「軍隊が乗り込んできたら? お前の親父は最悪を想定して準備しているらしいが、心もとないな」
「どうして軍隊を送り込んでくるなんて思うんですか?」
「まだそんなことをいうか、小娘。お前になにか意見してもらおうかと思ったが、まったく成長しないな」
 また皮肉。本人はいいが、毎日のように聞かされているほうのみにもなって欲しい。琴の心情を知ってか知らないでか、伊集院照子は揚々と語る。
「早々に委員会の上層部はきっちり頭を切り替えてるぞ。和平条約を結んでいない別の国……いや、別の世界が、現世にとって脅威でないと言えるのか? 我々の世界は複数国家による均衡によって成り立ってる。人間関係と同じさ。どこかの誰かが、別の誰かに殴りかかれば、第三者が止めに入るかもしれないし、あるいはどちらかの味方となって、片一方を徹底的に袋叩きにするだろう。そんな関係線を綱引きしあって均衡が取れている。そんな緊張関係のない相手が攻め込んでくる危惧は大いにありえるね」
「ですが、現世に攻撃を仕掛けようとしていたのは隔世側の一部のレジスタンスと呼ばれる集団のはずでしたよね。あのヴァルアラトスという人外はそれを阻止して、和平交渉に来た隔世の国際連盟という話でしょう。だからこそ、人外襲来の危機は回避された。本当に危険があるのでしょうか」
「隔世の事情はわからないし、銀髪の人外が抜かした和平交渉という名の御託も事実とは限らん。もし本当だとしても、欲を出した銀髪の人外が率いる国家が、現世を支配しようと侵略してきても不思議はない。人間世界の常識から言えば、力も思想も分からない新しい国家の出現は、脅威意外に他ならない」
「じゃあ、攻めてくるってことですか?」
「いずれはな。私の印象では、銀髪の人外レベルの人外が三百体もいれば日本を支配するくらいはできるだろう」
「まさか、三百体で? 何か根拠があるんですか?」
「簡単さ。この国は在日米軍、自衛隊の主要基地が大体二百程度。残り百体で政治の中枢をつぶす」
 あまりにも突拍子もない回答に、琴は少し安堵する。
「日本は混乱しても、国際国家なんですから、海外の応援だってあるでしょう。いずれ制圧できます」
「小娘、何の幻想を抱いてる? 世界がそんなにやさしいと? 日本が混乱に陥れば、アメリカ、中国が正義、支援の名の下に日本を自治化しようと侵略してくるのは目に見えている。悪意ある諸外国は、やがて人外の強力な力を認識し、その力を取り込まんと考えるが道理。我先にと競って人外の人権を保障して共存の道を歩もうとする。そうなれば人外の国を日本に据え置くことになる。あと人外どもがやらなくちゃならないのは、同盟を組んだ大国と協力して、近隣諸国の侵略戦争を始めることだな。人外の立場は向上して、国際力も増し始める。やがて何万、何十万、何百万の人外が現世にやってくるようなことがあれば、たちまち下克上が起こって同盟国家、はては世界など支配が始まる。現在のアメリカ合衆国のようなリーダ国となれば、世界を支配したのと同意義」
 伊集院照子の話はただの B級映画のシナリオのようだった。やはり、強引なこじつけに聞こえる。
「そんな簡単な理屈で支配できるでしょうか」
「これは一例だがな。支配へのプロセスなんて無数に存在する。まったく想像もよらない別のアプローチで支配を目論むかもしれない。いずれにしろ方法なんてたいした問題じゃないさ。もっと根本的な問題」
「人外には通常兵器が通用しない、ってことですか?」
「それもひとつ。だがもっと重大な問題があるだろう。気づかないのか? 人外には侵略されるべき国家が、この世界には存在しないんだぞ。世界が混沌することでの食糧難、エネルギー不足などの諸問題はありえず、人外どもは腹が減れば隔世に戻ればいいんだからな」
「なら、こちらから隔世に攻めることができれば……」
 琴は自分で言って気づいた。伊集院照子は指をぱちんと鳴らして「そのとおり!」と口の端を吊り上げた。
「要するにイスカ領域なのさ。イスカ領域を、人が通れるくらいに人工的に開ける技術。それがすべての鍵。それだけじゃない。時間の問題もある」
 そうか。イスカ領域を人工的に空ける技術。それは隔世にしかない。そうだとしても、人間がやすやすと負けると思えない。
 琴は負けじと言った。
「話によれば、A級札と改良型の戒具を急遽大量生産したらしいです。それだけじゃありません。自衛隊や世界各国の術師が連結して、短期間に相当量の訓練プログラムをこなしたということです。通常兵器が人外に効かないといっても、武器はあるんですから、抵抗はできるはずです」
 伊集院照子は鼻先で笑い飛ばすと、再び絶望的な理屈をしゃべり始める。
「御札をいくら生産しようが、絶対数が圧倒的に少ない。御札の原材料を考えれば無理もないが、A級札を解禁しても、生産量はピストルやミサイルの数には遠く及ばない」
「そうなんですか? 製造工場の絶対数の問題ですか?」
「いや、御札を作るために必要な原材料不足さ。小娘、御札の原材料を知っているか?」
「原材料……。知りませんし、それは禁忌です。知ってはいけないものです」
「硬いことを言うな。御札の原材料は重要な問題だ。問題の把握は戦略を練るのに必要な要素だ」
「戦略を練るのは私の仕事ではありません」
「そんな術師ばかりだから世界は駄目になるんだよ。私のお付になるなら、私からしっかり学べ。御札の原材料も知っておくべきだ。ところで小娘、私が百年の間、どうしていたかもう知っているな?」
「伊集院さんがですか? 特殊な術である男を封じ込めていたと聞いています。その間、新陳代謝が止まり、仮死状態であったとのことですが」
「そう。私はあいつを封じるため、圧縮能力を使ったのさ。人間が使えうる最大の封印術だな。私は自らを圧縮し、その中にあいつを封じ込めた」
「圧縮ですか。それが仮死状態であったと?」
「ああ。自ら圧縮し、石化することによって二度とあいつが外に出られないようにした。そうして生まれたのがS級札」
「S級札ですって!」
 声が高かったか、幾人かの海外要人、高級官僚が怪訝そうに琴を振り返った。琴は肩をすくめて、小さな声で「すみません」と謝る。伊集院照子はさして気にも留めない。むしろ、怪訝そうに振り返った連中への嫌味のように、先ほどよりも声も高々に話を続ける。
「S級札とは、圧縮能力者が自らを圧縮し、石化した状態のものを示す。そのS級札が御札の元祖だ。その構造をある程度解析した昔の人間が、見よう見まねで複製したのが現在の御札」
「……伊集院さんの言いたいことが分かりました。それ以上は言わないでください。御札の原材料が極秘にされている理由は分かりましたから」
 周囲に聞かれていないかと、あわあわと取り乱す琴を見て、性根からサドだと思わせる笑みを浮かべた伊集院照子は、うれしそうに言った。
「御札は人体組織から作られる。主成分はほとんどが人骨。製造方法を簡単に言えば、死体から内臓と脳ミソを取り出して、特別な薬品を振り掛けて乾燥させ、皮と骨だけのミイラにする。ミイラになったら粉々に砕いて、これまた特殊な薬品を使用して御札の形に整形する。御札のランク付けは材料である人間の神通力の高さによる。通常の人間から作れるのは良くてCランク札。術師レベルならBからAランク札。分かるな? 人体一つから作れる御札は十から二十。御札製造のために用意できる死体も限られているし、御札を作るために人間を殺して回ったら本末転倒だしな。こういった理由で御札製造には限界があるし『時間があればある程度の量を製造可能』である理由だ」
 聞きたくなかった。琴は落ち込んで肩を落とす。この先、御札を使おうとしたとき、その手に持っているものが死体だったなんて。ああ、想像もしたくない。
「時間が必要なことはわかりました。でも、前回の人外の渡来から、もしものときのために自衛隊や術師はさまざまな訓練プログラムをこなしてきたとさっき言いましたよね。対策は立てられてるんです。伊集院さんはどうして現世の人間たちを信用できないんですか?」
「だから言ったじゃないか。ポイントとなるのはイスカ領域の開通技術と、時間だと。たかが一ヶ月間の訓練でなにができる? もっと時間が必要だ。時間があれば戦略を練れるし、お前の言う頼りになる御札も生産を重ねられる。まあ、時間がないのは相手側にも言える事だろうがな。私の予想では、今回はまだ和平交渉に落ち着くだろう。だが、お前の親父がぼろを出して、我々に隔世の人外に対する抵抗力がほとんどないことを知られれば、次回は間違いなく未曾有の人外襲来危機だ」
「どうしてそんな不安になることばかりいうんですか。もっと希望的なことはいえないんですか」
「希望は行雲途山修行にある。一ヶ月も待たせやがって。弟子募集のオーディションも遅々として日取りが決まらん」
「いくら行雲途山修行といっても、力を上げるには何年もの修行が必要なはずです。伊集院さんが言うほど希望が持てるんですか?」
「一朝一夕で力が増すはずはない。ただし、凡人ではな。私が見つけるのは、その一朝一夕で膨大に力を増す可能性を持っている人間。オーディションはそのためさ」
「そんな人間、居るはずがないです」
「何十億も人間が居るのなら、一人や二人はいるさ。潜在的に眠っているヤツがな」
「お言葉ですが、何十億人もオーディションするつもりですか? それこそ何年もかかりますよ」
「そんな不効率なことはしないさ。まあ見てろ。見つけ出すさ。奏も戻ってきたら鍛えてやらないとな。あいつしだいだが、人外襲来が現実となったとき、あいつはきっと必要になる」
 ふと伊集院照子が口ずさむ。ずきり、と胸が鳴る。そう。今回の人外の渡来により、奏は一緒に帰ってくるのだろうか。
 奏が隔世にわたって一ヶ月。果たして生きているのかどうかも、何もかも分からない。心配で仕方がない琴であるが、楽観的な伊集院照子に乗せられて、琴はどうにか悪い想像に陥らなくて済んでいる。
「伊集院さん、なぜ、奏を隔世へ行かせたんですか? 修行させるなら残しておいたほうがよかったんじゃ」
「隔世へ行かせたのも修行のうちさ。まあ死んでしまうかもしれないが」
 琴が怨霊のような視線を伊集院照子にぶつける。さすがに苦笑した伊集院照子は「悪い悪い」と謝った。
「……本当は気がかりがあってな。私の代表的な能力はさっき説明したが」
「圧縮能力ですか?」
「ああ。実はこの能力、特徴的なことがある。それは『正当な血族の女子』に引き継がれるってところだ。言っている意味、分かるか?」
「いえ……」
 伊集院照子の血族で、女子にしか引き継がれない能力。言葉の意味をそのまま捉えれば不可解なことは何もないが。
「圧縮能力者にしか私の御札化は解除できない。それに、同じ時代に二人の圧縮能力者は生まれない」
 そういえば、伊集院照子はことあるごとに「私には時間がない」と口走る。
「新しい圧縮能力者が現れたということは、世代交代の知らせ。私は死ぬか、力を失うかするはず」
「死ぬって……」
「嘘は言っていない。そういう仕組みになっている。この私だって先代から力を引き継いでいる。何度も言うが『正統な血族の女子』によってな」
「でも、伊集院さんが圧縮能力者であり、先ほどの伊集院さんの理屈で言うなら、世界に四つあるS級の御札は圧縮能力者が御札化したものでは?」
「実物を見ないと確かなことは分からないが、おそらく伝説の範疇。可能性はあるが、おそらくはそんなもの存在しない」
「S級の御札が偽者?」
「四つのS級札。単純に考えると四つの化け物が存在し、封じられているということ。あんなやつが四体も居ると思うとぞっとしないな。ありえん。おそらく歴史の時系列がずれているか、情報が間違っている。おそらく、私に力を継承した代々の能力者たちの歴史が、ゆがんで伝わっていると推測する。複数あるのではなく、実はそれぞれの時代に一つしかないのさ。S級札は引き継がれるとともに前回のS級札は消え、新たなS級札が現れる。歴史上、引継ぎのタイミングで前回のS級札が消えずに残っていることとして記録されているのが誤りの原因だろう。よく文献を読み返してみろ。同時期に発生したS級札はないはずだ」
「S級札の発生時期を時系列に並べてみると、確かに同時期には発生してません。ほかのS級札は、新たなS級札が誕生すると同時に消失してるってことですか?」
「実物を見ないと確かなことは言えんが、おそらく間違いないだろう。あとで歴史を記した古文書をもってこい。検証してやる」
 大して興味もなさそうな伊集院照子。琴は続けて尋ねる。
「伊集院さんが封じてた人間とは、いったい何者なんです? 代々、圧縮能力者が封じていたというのならば、相当古い時代の人間ということになります。単純計算するなら、始めてS級札が誕生したのは千年も前の中国です」
 ちらり、と伊集院照子が琴を見た。
「この世の最悪を絵に描いたようなやつさ」
「それはいったい……」
「おっと、ここまで。あとは正当な跡継ぎにしか教えられん。ただこれだけは言っておく。人外襲来など比べ物にならんくらい最悪なやつさ」
「それなら自然管理委員会に報告すべきじゃないですか」
「いや、知ってるさ。特にお前の親父はすでに手を打っているはず。だが、私の力がまだ完全に戻らないところを見ると、封じてたヤツもあと数ヶ月は行動しないだろう」
「誰なんですか? 封じてた人間は。それに、伊集院さんが言っていることって、なんだか奏が後継者って言っているように聞こえるんですが」
「だから、そういうことだ。圧縮能力者にしか、私の御札化を解除できない。あいつは圧縮能力者だってことだ」
 琴は胸騒ぎを覚えた。奏が後継者であるということは……。
「そんな。奏はあなたのように御札化して、あの男を封じなくちゃいけないんですか? 奏は昔から何の通力も持たない平凡な子でした。何かの間違いです」
「それはどうかな。これほど自然管理委員会をかき乱し、混乱させ、最後には人類で初めて隔世に渡ったような破天荒な人間が、なんの力もない人間だと? 情力や戒力の強さばかりが術師の評価だと思い込んでる人間の典型的な発想だ」
 むっとした琴はなおも食い下がる。
「でも、言ったじゃないですか。奏は男の子です。能力を引き継ぐのは女子なんでしょう?」
「そう。確かにお前の言うとおり。なぜ、ここにきて男子なのか……だからこそ私は奏を隔世に……」
 顎に指を当て「ふうむ」と悩みこむ伊集院照子。しかし、ふと何かに気づいたように言った。
「おしゃべりはこれまでのようだ。イスカ領域が開くぞ」
 伊集院照子が巨大スクリーンを指差した。以前、人外が渡来したときと同じ、青空公園の噴水広場を映し出したスクリーンに異変はない。
「お前には見えないだろう。だが、すぐに強烈な瘴気が漏れ出してくる。ほら、来るぞ」
 伊集院照子がそう言った瞬間、ホールに居たある特定の人物たちがどよめいた。それは自然管理委員会の上層部連中だ。第一線を退いたとはいえ、自然管理委員会の上層部といえども術師の端くれである。数キロは離れたこの市民会館にさえ届く恐ろしい瘴気を感じ取ったのだ。
 琴も感じていた。地中から沸き起こるような悪寒。実際に青空公園にいる術師たちは生きた心地がしないだろう。
 琴はおしゃべりをやめて、スクリーンに注視した。
 
 
 
 渡来した人外は三体。
 以前やってきた銀髪の人外と、明らかにお付と分かる人外が二体。軍隊はやってこなかった。とりあえずほっとする琴。伊集院照子が言うには、この会談は和平交渉と証した化かし合い、あるいは時間稼ぎとなる。
 巨大スクリーン上には光の中に降臨した三体の人外。いずれも男性のように見えるが、映像からははっきりしない。
 三体の人外の元へ、自然管理委員会の陣外特殊災害対策室の室長、鳴音楽がゆっくり歩いていく。後方から二人のアシスタント。画面からは背中しか見えないが、一人は鳴音弦であることが分かる。もう一人は女性。誰なのかは分からない。
 会場内がどよめいている。渡来した人外を初めて見る人間も多いだろう。三人の自然管理委員会の人間が三人の人外の前に立つ。握手は交わさない。お互いの接触が害を成すと知っているからだ。
『お久しぶりです。自然管理委員会の鳴音楽です』
 スピーカーから父親の声。遅れて同時通訳で流れる女性の英語。
『ご無沙汰しております。ヴァルアラトス・グロウリン副王です』
 銀髪の人外の声。前回は意識されなかったが、思いのほかハスキーな声。若々しく、間違えば声変わりの始まった少年のような子だと思った。
 体裁を取り繕うような挨拶の後、あらかじめ用意されていたテーブルに付く六人。青空公園という屋外で、噴水広場という開けた空間のほぼ中央に、六人が丸テーブルを囲む姿は、昼間であればまるでピクニックのようにも見える。
『さて、今回の議題ですが、恐縮ながら我々のほうで議会の要約をまとめてございます』
『申し訳ないが、我々には余り時間がないことをご理解いただきたい』
『理解しているつもりです。前回と同じ時間だとすれば約十五分から二十分』
 スクリーンに集中していた琴のとなりで「ふん」と鼻息を漏らす音が聞こえてきた。見ると伊集院照子が不機嫌そうにむっつりしている。
「無意味だな、こんな会談を聞いても」
「無意味だなんて……」
 琴の心臓は胸を突き破りそうなほど高鳴っている。父と兄の身も心配だし、一歩間違えば現世と隔世との全面戦争が待っている。
 会談の内容は事前に決められている。和平への道は「力の均衡」以外にはありえず、お互いが持っている科学力や特殊な超自然科学力、文明レベルの開示。その第一歩としてイスカ領域の穴を開ける技術の提供依頼だった。
 退屈なのか、伊集院照子が会談内容を解説する。
「人外がもつ最大のカードである『イスカ領域を人工的に開通する技術』をやすやすと手渡すはずがない。現世側の交渉はその一点に固執するだろうから、おそらくお互いの主張は平行線で終わる。だが、それが自然管理委員会の目論見でもある。会談を平行線で保つことにより、時間を稼ごうとしてるのさ」
「でもそれじゃあ……」
「ジリ貧だな。でもそれしかない。一ヶ月ではたいした対策は立てられないからな。もう少し時間が要る」
「相手はイスカ領域を人工的に開けるんですよ。あちらからスパイを送り込まれたらこちらの情報は筒抜けです。分の悪い作戦じゃないですか」
「そうさ。こちらに大したカードはない。精神世界の壁に隔たれた隔世の情報も皆無に等しく、自由に行き来できるのは人外どもだけ。どうにもならん不利な状態だ。時間を稼ぐ戦法しか取れないのさ。だが、相手がこちらにスパイを送り込んだとしても、現世で取得できる情報など高が知れてるという算段もあるはずだ。人外が人外である瘴気を撒き散らしている以上、人間に化けることもできないしな」
「でも、人外は普通の人間に視覚的には捕らえられません。隠密行動としては都合がよいのでは?」
「その辺の対策は済んでるらしいぞ。人外を探知する機械は開発され、主要な中央行政機関や大手企業などには設置が済んでいて、警備会社には人外を視覚的に捕らえることのできる御札が支給されているらしい」
「御札が民間人に?」
「ああ。実際は普段、身に着けているものに御札を仕込んだそうだ。人外のことを一般人に教えるわけにはいかないからな。お前の親父がお偉いさんを押し切って支給したらしいな。早々に隔世とは情報戦となると踏んだらしい」
「実際、人外のスパイは見つかったんでしょうか」
「さあな。その辺の情報は伝わってこない」
「もし、スパイが見つかってれば、こちらとしても有効なカードになるかもしれないですね」
「有効なカード?」
 伊集院照子が片方の眉を吊り上げる。
「この会談がフェアの精神で行われてるならば確かに有効なカードだが、これは戦争の前哨戦だ。力ある者が力無き者を蹂躙する結末が避けられない前提において、ルール違反を犯した程度のことを指摘して、相手に借りを作れるとでも?」
 残酷なものの言い方をする。不安ばかりが募る。
 会談は続いているが、父親が要求を伝えては、隔世の人外が否定的な答えを繰り返している。
 茶番劇。事前に打ち合わせをしたのではないかと思うほど、予定調和の会話。
『あなた方は、ユベリア大衆国内に存在する不穏分子、レジスタンスが目論んだ我々への世界の襲撃を察知し、未然に防いだという国際連盟の人間、ということで間違いないでしょうか』
『間違いない』
『ですが、ひとつ気がかりがあります。我々の世界に、あなた方の世界のレジスタンスが攻め込んでくると言っていた者がいます。あなたの世界からやってきたラナ・カンという獣族の部類に入る者です。彼も国際連盟の命を受けてやってきたと申しております』
『その獣族は、前回渡来したときに私を襲撃した者ですね。私はあの獣族を知りません。むろん、国際連盟の者でもありません。国際連盟を騙った反逆者であると思われます。むしろ、レジスタンスの手引き役だったと考えるほうが自然』
 ラナ・カンが反逆者、レジスタンス。その真相は分からないし、ラナ・カンのことを良く知らない琴は、その言葉の信憑性を推し量る情報が不足している。
『ラナ・カンは国際連盟にて開発したイスカ領域、つまり次元の穴を開ける技術を開発して、独自にやってきたとのことです。ところが、あなたが言うには、国際連盟では、イスカ領域を人工的に作り出す技術は開発していないということになります』
『そのとおりです。次元の穴を開ける技術は反逆組織だけが保有していた技術です。ラナ・カンという者が次元の穴を通ってきたと語った時点で、その者が反逆者だったという証明になります』
『ですが、現にあなたはこうして次元の穴を開けて、我々の世界に渡来しております』
『反逆組織を抑えたときに、同時に技術も押収しています。だからこうしてやってきています』
『なるほど。それでは次元の穴を開ける技術を手に入れた国際連盟では、イスカ領域を人工的に作り出すことのガイドラインは作成されていないんでしょうか』
『今のところ存在しませんが、作成されることは間違いないでしょう。もちろん、悪用を防ぎ、友好的な方法として使用することを定めるガイドラインとなります』
『その技術、我々への提供についてはお考えでないか。本当の和平はお互いの技術提供にあると考えます』
 鳴音楽がそういうと、急に押し黙る銀髪の人外。あからさまに不穏な空気を発散している。
 沈黙を打ち破るように、伊集院照子が言った。
「まったくもって不毛な会話だ。こちらがイスカ領域の人工作成にこだわる限り、和平交渉など、なんの糸口もつかめないとお前の親父も分かっているだろうな。歯がゆくて見てられん」
 伊集院照子のボヤキを無視して、琴はスクリーン上の銀髪の人外が浮かべる表情ばかりに集中する。あの顔に浮かんでいる表情は何を表すのか。不愉快、不機嫌、怒り、嘲り、見下し、マイナスな想像しか浮かばない。
「すっかり主導権を握られやがって。あの場に私がいたら、あの銀髪の人外を罵倒しまくって見下しまくって苦渋を飲ませてやるというのに」
 それでは和平交渉にはならない。そう指摘しようとしたが、今は銀髪の人外の次に紡ぎだされる発言に集中する。
『時間がない。お話は以上かな?』
 ヴァルアラトス・グロウリン副王が鷹揚なく言った。先ほどの鳴音楽の提案はどうなったのだろう。そう思ったのは琴だけではない。苦々しげな鳴音楽の内心がスクリーンから伝わってくる。
『質問がないようなら、我々の提案を聞いていただこう』
 反撃が来る。要求を伝えていた自然管理委員会側が、今度は受け手に回る。
『我々の要求はただひとつ』
 ただひとつ?
 並べれば百をくだらないこちらの要求。優先度の高い要求、提案事項を厳選するのにひどい労力を消費したはず。そんなこちらの苦労などいざ知らず、一切の要求を跳ね返した人外側の要求することはただひとつ。
「悟られてるな」
 伊集院照子がつばを吐くように言った。
「なにが悟られてるんですか?」
 琴が尋ねると、伊集院照子は腹立たしげに言った。
「こちら側が感じてる恐怖をだよ」
 恐怖。
 鳴音楽個人の判断が有効であれば、会談の内容はもっと戦略的に行えたかもしれない。ところが自然管理委員会の代表にとどまらず、全世界の代表として会議の弁を担っている立場。世界各国から質問内容について厳しく圧力がかけられ、自分の言葉など何一つしゃべっていないだろうと想像できる。
 結果、イスカ領域の技術提供にこだわる会談内容となり、隔世側とすればただ恐れている現世側の様子が、鳴音楽を通して見透かされてしまっている。
 巨大スクリーンの向こう側ではこう着状態が続いている。「要求はただひとつ」と行ったきり、続きを言わないヴァルアラトス。
 どうした、なぜ何もしゃべらない、なにを要求する気だ。会場内でそんな各国の言語で動揺の声が上がる。ヴァルアラトスはまるで世界の動揺を弄ぶかのように口を閉ざしている。
 鳴音楽も続きを促さなかった。鳴音楽のプライドか、戦略か。ただ一人、動揺したそぶりを見せず、世界の代表は背筋を伸ばしてヴァルアラトスの相貌をしっかりと見つめ続けた。
 ふっ、と音を立てたようにヴァルアラトスが笑みを作ったのが分かった。その表情を見た伊集院照子が、反射するように言った。
「こちら側の要求は一切受け付けない。それが我々の要求だ、ってところかな」
 伊集院照子の呟きが聞こえてきた直後、ヴァルアラトスが言った。
『あなた方の要求を、我々は一切、受け入れない。それが我々の唯一の要求である』
 琴は驚愕の思いで伊集院照子を見た。ヴァルアラトスの言葉を予言して見せた伊集院照子が得意満面でいると思いきや、実際は眉をひそめて怪訝そうにスクリーンを睨んでいる。まるで予言が当たって欲しくはなかった言わんばかりに。
『それは、どういうことでしょうか』
 鳴音楽の声。スクリーンに目を戻すと、ヴァルアラトスは席を立っていた。座り続ける鳴音楽を見下ろすように、淡々と言葉をつむぎだす。
『いま言ったとおり、我々はあなた方の要求を呑むつもりはない。だが、我々に宣戦布告の意志はない。それだけは確かである』
 伊集院照子が「けっ」と悪態づいた。
「宣戦布告の意志はない? なにを眠たくなるようなことを。現世に攻め込んでくる気満々の目をしやがって」
「攻めてくるんですか?」
 不安に胸が締め付けられる。どうあっても避けられないのか。人類と人外との全面戦争など想像を絶する。戦争が起これば間違いなく戦場は現世となるし、高い確率でそれは日本で起こる。日本が戦場になる? 世界の犠牲となるよう、日本が矢面にされるのは目に見えている。そうなれば、日本はいったいどうなるのだろう。
「これは、もはや人外特殊災害対策室の枠に収まらない。いよいよ世界が乗り出す。日本は騒々しくなりそうだな。早々に国を出たほうがよさそうだ」
「そんな。母国ですよ。どうにかできないんですか?」
「まあ、時間はあるさ。相手だって軍隊を送り込むには大きく、長時間あいたままのイスカ領域が必要だし、それは一つや二つでは足りないだろう。こちらにも準備する時間はあるさ」
 会場は騒然としている。いたるところから罵声が飛び、会場内は爆発的な怒りと恐怖が渦巻いた。
 イスカ領域に戻ろうとする人外を引き止めるように鳴音楽が言った。
『次の会談の日取りを決めたい』
『会談の日取り?』
 ヴァルアラトスは一笑に付すと言った。
『次は流動的ですね。我々が訪れるときは、事前に誰かを派遣しましょう』
 鳴音楽の歯軋りが聞こえてくるようだった。怒りを必死にこらえるように、鳴音楽は低い声を出す。
『それでは、派遣していただく方は、またこの場所にお越しいただくということでよろしいかな』
『……いいでしょう』
 それだけ答え、イスカ領域にきびすを返す人外三人。
 またこの場所に訪れる。なんて不確定な言葉。そんな保証はどこにもない。相手がイスカ領域をどんな場所にも開けることができるかもしれないし、次は軍隊を送り込んでくるかもしれない。
 会談の終わり。会場にいた官僚、海外の要人たちは慌しく席を立ち、携帯電話を手に怒鳴り散らしたり、周囲の人間と深刻そうに何かを話している。
 そんな中。
『待ってください!』
 スクリーンから鳴音楽とは違う声がした。
 会場が一瞬、静まり返って、全員がスクリーンに注目した。
 映像は鳴音弦を映し出している。声を上げたのは鳴音弦だ。
「兄さん……」
 スクリーン上で必死な形相の兄は、怒鳴るように言った。
『待ってください。最後にひとつだけ』
『もう空間が閉じます。これが最後にしてもらいましょう』
 振り返るヴァルアラトス。その表情は氷のように冷ややか。
『私を……私を一緒に連れて行っていただけませんか?』
 弦がそう言った時、会場内が騒然とすたのはもちろん、スクリーン上の父親の表情もこわばったのが分かった。
『貴殿を……? 我々の世界に?』
『そうです。私を一緒に連れて行ってください』
『やめろ、弦』
 父親の制止を振り切って、弦はなおも食い下がる。
『我々は分かり合えるはずです。分かり合うためには文明に触れ合う必要があります。私自身があなたがたの世界に赴き、知ることで我々の間の壁が取り払われるはず』
『……なるほど。だが、我々が貴殿を歓迎するとは限りません』
『構いません。戻ってこれなくても構いません』
 戻ってこれなくても構わない。
「なにを言ってるのよ、弦!」
 琴は思わず立ち上がり、スクリーンに向かって怒鳴っていた。
「怒鳴ったって聞こえないよ」
 伊集院照子がのんきに言っている。そんなの分かってる。でも叫ばずには居られない。
『私はあなた方ともっと対話がしたい。十分かそこらで、お互いが分かり合えるはずがない。もっと長い時間が必要です』
『悪くない案ですが、それはできません』
『なぜです!』
『簡単な理屈。我々の国では、貴殿を招き入れる用意ができていない。私は最高責任者ではない。我々の世界に来た瞬間、貴殿は処刑されてもおかしくないし、私にそれをとめる権限はない』
『それでも構いません』
 ヴァルアラトスは再び笑みを作る。
『貴殿の命、そんなに安いのか?』
 ヴァルアラトスが諭すような声を出す。
『貴殿が我々の世界にやってきて、命を落とすようなことがあれば、薄氷の上を歩くような和平の道が崩れ去る危惧がある』
 鳴音弦が喉を詰まらせたように唇をわななかせる。
 その通りである。鳴音弦が隔世に渡ることのメリットは何ひとつない。大きなデメリットが張り詰めた水風船のように存在するだけだ。
『分かっていただけたなら、我々は戻るとしましょう。さすがに時間がない』
『お手間を取らせてすまない』
 鳴音楽がそう言って、ヴァルアラトスが笑みひとつ残すと、会談は本当の終息を向かえた。
 琴は安堵して腰砕けに鳴った。座席に座り込むと、伊集院照子はけらけらと笑った。
「弦の度胸は買いたいがな。残念ながら人外の言う通り。即刻全面戦争につながりかねん愚行だったな」
「そんなことより、よかった……。弦まで隔世に行ってしまったら……」
「まあ会談としては最低だったな。こりゃ、自然管理委員会は世界からバッシングを食うかもしれん。しかし最低限のラインは守った。時間は稼げたようだ。人外のヤツが言ったとおり、とりあえず状況は流動的だ。これから隔世からスパイが続々送られてくるだろう。それをどれだけ我々が阻止できるか、それが全面戦争を先延ばしにするキーになるだろう」
 琴はくたくたになりながら尋ねる。
「先延ばしにするだけですか? 戦いは免れないんですか?」
「相手のことが分かればある程度の策略は立てられるがな。残念ながら、こちらに隔世へ渡る方法が見つけられない限り、策の立てようがない。全面戦争をどれだけ先延ばしにし、準備期間を設けられるか。我々に残された選択はそれしかない」
「そんな……」
 日本は過去に重大な戦争を敗北した後、六十年以上を平和に過ごしてきた。戦争は起こらない。この日本は永久に安全である。そんな幻想に寄りかかって安心していなかっただろうか。
 家族、友人、恋人。身近な人々を失うような悲劇がこの日本に訪れるというのか。
 不意に奏の顔が脳裏によぎる。そのときの感情。不安、心配、苛立ち、焦り。いろんな感情が胸をかきむしる。だが、一番胸を埋めた感情に、琴は不思議な感覚を抱いた。
 これは、期待。奏が今ここに居たら。奏なら、ひょっとしたらイスカ領域を空ける技術を開発できるのではないか。そんな期待が胸を渦巻いたが、心の奥の闇に消えていく。
 ここに奏はいない。
「私、なんでもしますから」
 琴は顔面を両手で覆いながら言った。
「なんでもします。戦争を阻止するためなら」
「阻止、ねえ」
「考えます。必死に考えます。だから、伊集院さんも協力してください。私は強くなります。行雲途山修行でも何でもします。ただし、それは戦争阻止のため。なにも起こさないため。絶対に方法を見つける」
 伊集院照子があら笑うように胸を震わせた。琴はむっとして伊集院照子を睨む。
 だが、伊集院照子の表情に浮かんでいる表情は、けっして琴をあざ笑うようなものではなかった。
「どう考えたって不可能な事柄を、解決する方法を見つける。なるほど、まるでどこかの誰かの台詞ようだ」
 伊集院照子は前の座席に投げ出した足をたたむと、席を立った。
「ならば考えてみよう。お前の言う戦争阻止の方法を。不可能を可能にする。これほど英雄冥利に尽きる行動理由はない。面白いじゃないか、琴。お前が言い出したことだが、その初志、貫徹できるか?」
 琴は全身があわ立った。思わず琴も席を立った。
「もっもちろんです!」
「よし、じゃあ私に付いて来い。死ぬほどつらいだろうが、覚悟して付いて来い」
 伊集院照子がそう言って目を細めた。まるで聖母の微笑みのようだった。
 心が囚われていくのが分かった。不思議な魅力のある伊集院照子。ひょっとしたら、この人なら実現してしまうのではないかという期待を抱かせてくれる。
「そうと決まれば、行雲途山修行と全世界弟子オーディションの開催だ。忙しくなるぞ、琴。しっかりサポートするように」
「はい」
 琴は力強く返事をした。
 
 
 
 世界的未曾有の危機であろうと、人外襲来の情報は、一切公表されることはない。この辺が世界情勢の判断を鈍らせる要因のひとつであるが、国家、あるいは国際レベルの極秘作戦の履行によって、世界的危機を回避した例など過去無数に存在するだろう。未曾有の人外危機もまた、その枠組みのひとつ。大国同士の戦争回避、核戦争の回避。危機的状況さえ表ざたにされない極秘裏に、この未曾有の危機も処理される。
 テレビニュースは代わり映えのない経済、犯罪、芸能、スポーツの情報を流し続け、その中には一切の異世界にかかわるワードは引っかからない。
 不思議な感覚に陥る。だが、これが正解なのかもしれない。すべての危機にいちいち世界中が動揺していたら、世界という血脈は流れない。あえて腫瘍やウイルスといった病魔の危険から目を背け、体内の免疫機能を信じ、体裁的な健康を保っている。
 いずれ死ぬ。それはどうしようもない原理に基づく事実である。要するに、死病をどう予防し、精神を健やかにすごせるかにかかっている。やがてやってくる死をどれだけ遠ざけることができるか。ジリ貧だとしても、そうやって生きていくしかない。
 今回、この世界を襲った病は、果たして世界を死に至らしめるのか、ごく一部の免疫機能が病魔を撃退するのか。人類は一刻も早く病魔に対するワクチンを開発しなければならなかった。
 
 
 
 鳴音楽いわく、人生最大の汚点と称する人外との和平会談が終わってからというもの、アメリカと中国の間で、未曾有の人外危機に対する主導権争いが勃発。戦争が起こるとしたら戦場の舞台は日本である。戦力派遣と称して実質日本を自治化しようとする中国と、それを阻止、あるいは日本をアメリカの州のひとつとして取り込もうとするアメリカの押し問答の間で、当事者であるはずの日本は蚊帳の外にすっ飛ばされた。
 鳴音楽率いる人外特殊災害対策質は実質、解散したに等しく、矢面であるはずの日本の先端組織、自然管理委員会には多くの外国人が派遣され、もはや日本の行政機関とは思えないほど、日本人の発言力が低下して久しくなること一ヵ月後。
 鳴音学は人生最大の汚点である和平会談に悩む暇もなく、人外危機の主導権が海外に持っていかれる事態を必死に防ぐため翻弄した。
 日本が戦場になるに当たって、海外に主導権(あるいは国際的な特権)を握られては、自然管理委員会は自国民を自ら守れない腰抜けとなる。プライドの問題だけではない。軍事的な人間が日本に多く流入することでの外国スパイ、産業技術の流出、日本国民の海外流出(の斡旋行為)などなど、日本国喪失危機の悩みは尽きない。世界的な危機といえども、やはり戦場が日本であることが最後の砦となり、日本はどうにか最低限の発言力を保持しているが、それも弱まりつつある。
 すべては日本が主導的に行った人外との和平交渉での失態に尽きる。そんな鳴音楽の苦悩とは裏腹に、マイペース(もはや国家の枠に収まらないスケール)の伊集院照子は、許可も得ないまま弟子を見繕って、行雲途山修行の日取りを決めた。
 オーディションは? と琴が尋ねると修行が先だと言う。伊集院照子の思惑は計り知れないが、何か考えているようで何も考えていないことも多い人間であると、琴も悟り始めている。
 中国といっても、行雲途山は チベット自治区にあるという。
「なるほど、飛行機か。飛行機ねえ」
 都内の一流ホテルのスイートルームで、風呂上りの伊集院照子は生まれたままの姿で体を拭いている。
「おそらく、二日程度でチベットのラサまでいけます」
「全部飛行機でで?」
「はい。二回ほど乗り継ぎますが」
「ふうん」
 伊集院照子はバスタオルで頭をかき乱しながら、気の抜けた返答をよこす。
「私のころは、船と機関車と馬で二十五日間ほどかかったが」
「今は世界が狭くなったんですよ。それより、目的地はどこなんです? 行雲登山の場所は、一般的に機密扱いです。修行の許可が得られないと場所を教えてくれないんですよ。許可を得てない以上、伊集院さんの記憶だけが便りです。ラサからどういけばいいんですか?」
「ううん、道順は覚えてるんだが……たしか、山には通称で呼ばれる別名があった気がするんだ。はて、一般的にはなんて言ったか……」
「少しでいいので思い出せませんか?」
「確か……」
 伊集院照子は気難しそうな顔で窓の外を眺める。もちろん、素っ裸で。
「ちもるんま……」
「ちもるんま?」
「そう、ちもるんまだ」
 聞いたこともない。
 琴はデスクにあったノートパソコンでインターネットを検索してみるが引っかからない。仕方なく友人に電話をして聞いてみるが分からないという回答。最終的に大学時代の恩師である教授に問い合わせた。経済学の教授だが、本人が分からないまでも専門家に問い合わせてくれるかもしれない。
 だめもとで電話をしてみると、教授から意外な返答があった。
『ちもるんま? それが山の名前だって言うのなら、ひょっとしてチョモルンマのことじゃないか?』
「チョモルンマですか?」
『ああ、チョモランマ、と言えば分かるかな』
「チョモランマ……チョモランマ……」
 なんだっけか。聞いたことあるような。
『エベレスト山のことだよ』
「エベレスト……」
 エベレストって……。
「あのエベレスト!?」
 琴は思わず絶叫のような声を上げていた。居眠りしていた伊集院照子がなにごとだと飛び起きたほどだ。
『どうした? エベレストがどうしたって言うんだ?』
 愕然として現を抜かした琴を現実に引き戻す教授の声。
「い、いえ、なんでもないんです。気にしないでください」
『気にするなと言われても、その驚きよう……』
「詳しいことはまたあとで! どうもありがとうございました!」
 半ば強引に電話を切ると、呆然と伊集院照子を見た。
「い、伊集院さん、間違いないんですか? エベレストって……」
「えべれすと、なんてもんは知らんが……」
「エベレスト登山なんてできるわけないじゃないですか! 私たち、素人ですよ!」
「そんなのは知らんが、私は登ったぞ」
「百年前はどうだか知りませんが、今の時代、エベレストに登ろうとしたら何ヶ月も準備して、経験豊富なチームを編成して、中国政府に登山の許可を得るために一人何百万円も用意しなくちゃいけないんですよ!」
「また許可がいるのか? そんな面倒なのか?」
「不可能です! 行雲登山の場所が秘密にされてる理由が分かりました。そんなところ、誰も行けない!」
「そんな興奮するな。術師特権みたいなものもあるだろう。格安で登れるはずさ」
「そんな楽観的な!」
 もちろん、伊集院照子は通常の手順を踏むつもりなど毛頭ない。許可が下りない以上、強行するつもりである。
 納得した。行雲登山修行は、簡単にはできないようになっているのだ。通常に許可を得ることができるのなら、もしかしたら費用を委員会が肩代わりしてくれるかもしれないが、現在の混乱状況から言って、そんな後ろ盾はないといっていい。正式に許可を取るにはあと数ヶ月はかかるだろうし、そうこうしているあいだに、人外は襲来してしまう。
「まあ、どうにかなるさ。とりあえず『ちもるんま』の麓まで行ってみようじゃないか」
「なんの当てもなく行くつもりですか?」
「どうにかなるって。伝説の術師がそう言ってるんだ。心配しないで付いて来い」
 ああ、めまいがする。破天荒にもほどがある。エベレストに不法侵入して中国公安に捕まったりしたら国際的な恥さらしだ。
 琴は頭を抱えたまま、動けなくなってしまった。
 初志貫徹を誓ったはずだが、出だしから早々にめげてしまいそうな琴であった。

 

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