あっちから変なの出てきた

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第二章 【 廃墟の街 その2 】


 奏とプティシラが出て行った後、佐々倉はせっせと身支度を開始した。なんて馬鹿なやつ。あんな女の言うことを信じるなんて。佐々倉には初めから分かっていた。プティシラが嘘八百を並べて自分たちを巻き込もうとしている意図を。いち早く見破っていた佐々倉は、奏の意見に賛同する振りをして二人を先に行かせたのだ。見事に出し抜いてみせた。数分後、あの二人がラリルドとかいうわけの分からない暗殺者を目の当たりにした後、すっかり騙されたと気づくだろう。その痛快極まりない瞬間を目撃できないことは悔しいが、あいつらがのうのうと囮になっているうちに、俺は安全地帯まで逃亡する計画。
「なにしてるの? ササクラ」
 ふと、テーブルの上で眠っていたはずのトレミが眠気眼をこすりながら声を上げた。舌打ちしたい思いを堪え、佐々倉は答える。
「もう出発するんだよ。町を出るんだ」
 トレミは眠っていたため、作戦内容を聞いていなかったはず。ここは適当なことを言って丸め込もうと思った。
「町を出るの? あれ? カナデは? あのうるさい女は?」
「先に出て行った」
「なんで? トレミを置いていっちゃったの?」
 ああ、面倒だ。ガツンと頭を叩いて気を失わせようか。そんな佐々倉の心模様を悟ってか、トレミはちびっ子の癖に、一著前に不振そうに佐々倉をにらみつけた。
「なんか怪しいぞ、ササクラ! カナデをどこへやった、ササクラ!」
 机の上で地団駄を踏んで怒鳴り散らすトレミ。所詮はネズミがチュウチュウ鳴いているようなもの。佐々倉はトレミをむんずと掴みあげる。
「なにするんだササクラ! 放せササクラ!」
「いいからおとなしく俺について来い」
「カナデはどうした! ササクラ、カナデを裏切ったな!」
 佐々倉の手の中で必死にもがくトレミ。がぶりと音を立てて佐々倉の親指に噛み付いたが、抓んだ程度の痛み。こんな小さくて何の力もない小人でも笹くらいが生きていくのには必要である。握り潰すわけには行かない。
「いいか、トレミ。俺たちが生き抜くには甘ったれた根性の奏と決別しなくちゃならない。あんな平和ボケした理想論者に付き合ってたら命がいくつあっても足りないんだよ!」
「なんだとー! カナデはいいやつだぞ! カナデを裏切ったりしたら、トレミ、ササクラのことただじゃ置かないからな!」
「ほほう、そんなちびっ子で非力なお前に何ができるって言うんだ。せいぜい親指に噛み付くくらいなもんだろ」
「もっといろいろできる! いろんなちから持ってる!」
 憤怒した様子で、何度も佐々倉の親指に噛み付く。いつまでもこうしてはいられない。間抜けどもが囮になっている間に、一刻も早く町を出なければ。
 佐々倉はトレミを掴んだまま、荷物を背負い込んだ。
「まてササクラー!」
「待たねえよ」
「このー! もう、トレミ、怒ったぞー!」
 トレミの非力な怒りなど気にも留めずに歩き出す。部屋を出て、夜の廃墟の街に足を踏み出したとき、トレミを掴んでいた右手に違和感を抱いた。
 トレミを掴んでいる右手を見る。トレミが口を尖らせて、ウンチを気張る子供のように顔を真っ赤にしている。
 なにかおかしい。佐々倉は立ち止まった。なにか雰囲気がおかしい。何がおかしいのかは分からない。今まで掴んでいたトレミの感触とは違う。
 なにが……。
 かすかであるが、トレミを掴む感触が変化していく。例えるならば、手に握った風船を膨らまされているような……。
「お前、まさか……」
「ふぬー!」
 トレミが力いっぱい声を上げたとき。佐々倉の嫌な予感が的中した。手の中に握られていたはずのトレミは、今はもう片手では掴みきれないほどに膨張し始めた。思わず掴んでいたトレミを取りこぼすと、床に落ちたトレミは見る見る膨張していく。
 数秒もたつと、トレミは普通の人間サイズまで膨張し、ぜいぜいと息を付きながら恨めしそうに佐々倉を睨んでいた。
「ササクラー!」
「お、お前、大きくなれるのか?」
 詰め寄ってくるトレミは、成人とはいかないまでも立派な女の姿である。着ていた服は当然破れ、何一つ身にまとっていない姿。だが、その裸体に描かれる曲線は明らかに子供のものではない。
「待て、トレミ、落ち着け」
「何を落ち付けだとー! カナデを裏切るのかー!」
 怒り心頭のトレミはつかつかと佐々倉に詰め寄ってくる。同じだけ後ずさりする佐々倉は「冗談だ! 冗談だよ!」と声を張り上げると、ようやくトレミの前進が止まった。
「冗談?」
「そう、ただの冗談だよ。真に受けるなよ、トレミ」
「そうなのか? ササクラ、カナデを裏切らない?」
 きょとんとした表情のトレミ。
「もちろんだ。これからカナデを助けに行く。お前も行くだろ?」
「当たり前だ! トレミも行くぞ! カナデ、ピンチなのか?」
 ああ、トレミが馬鹿でよかった。いくら女の腕力でも、人間大であると考えると厄介である。
 しかし、どうするか。このままカナデを助けに言ったって、共倒れが目に見えている。
「なにか企んでる顔してるぞ、ササクラ」
 トレミに指摘されて、あわてて表情を引き締める佐々倉。人間大になったトレミにいったいどんな力が隠されているか分からない。慎重にならざるを得なかった。
「それよりササクラ、おまえ、縮んだな!」
「は?」
「お前、縮めるんだな! トレミ、初めて知ったぞ!」
「なに言ってるんだ、お前」
「ササクラこそ、なに言ってる。お前、トレミと同じくらいになってるじゃないか」
「馬鹿、お前」
 こいつ、ひょっとして自分が巨大化したのに気づいていない? まさか、自分が大きさを変えられることを知らないのか?
「いいか、トレミ。周りを良く見ろ。大きさが変わったのは俺か?」
 トレミは不審そうに周囲を見渡す。右見て、左見て。佐々倉を見て。右見て。左見て。最後に佐々倉を見たとき、その表情にはなんともいえない動揺した表情が浮かんでいた。
「さささささササクラ! 世界が縮んでる!」
 あわあわと声を上げて、まるで地獄を見てきたような顔で慌てふためいている。
 お前が大きくなったんだよ、トレミ。そう説明することがばかばかしい。
「ササクラ、ササクラ! どうしよう! みんな縮んじゃった!」
 佐々倉にしがみついてくるトレミ。ひどい力で爪を立てて腕を掴んでくる。
「落ち着け、トレミ。だからお前が大きくなったんだって!」
 えっ、という文字を表情にしたような顔をしてトレミが唖然と佐々倉の顔を見る。しばらく恋人同士のように見つめあってから、佐々倉はしがみついていたトレミを引き剥がす。
「まずはなにか着よう、トレミ」
 そう言うと、トレミがあごを引いて、自分の体を見た。
「トレミ、裸だ」
「そう、裸だ。なにか着れば落ち着くさ」
「なんでトレミ、裸?」
 何でって言われても……。お前は裸を恥ずかしがったりしないのか。
 なんなんだ、ちくしょう。
 異世界だからって、なんでもありなのか。
 
 
 
 とりあえずトレミには寝床に用意していた布を体に巻かせ、しぶしぶ目的地へ歩みを進めていた。
「トレミ、元の大きさに戻らないのか?」
 期待をこめてたずねるが、トレミは首をひねって「戻り方わかんない」と予想通りの答え。こいつは確か、何百年も生きているはず。それなのに、自分の体の大きさを変えられることを知らなかった? どうも不自然だ。何百年もあの洞窟の奥でこっそり生きてきた世間知らずの箱入り娘とうことだろうか。
「トレミ、なんだか体が重い」
「そりゃそうだ。同じ型で大きくなれば体は重く感じるだろう。今の体の形であと十メートルも巨大化すると、重くて立ってもいられなくなる」
「どうして? 体の形は変わってないのに。すこし胸が大きくなったけど」
「そういうもんなんだよ。お前に理由を説明したって理解できないだろうよ」
 おぼつかない足取りで佐々倉の後を付いてくるトレミ。
 佐々倉は上空を見上げる。日が落ちる。日が落ちきって暗闇が訪れれば、目標物が見えなくなり、狙撃は困難だ。
 こうしよう。日が落ちきる前に奏たちがラリルドを呼び出すことができたら、仕方がない、協力することとする。逆に、日が落ちてもラリルドを呼び出すことができなかったら、トレミの言い分などもう関係ない。見捨てて逃げさせてもらう。
 そう決めて、目的の建物に侵入した。建物の中は暗闇。室内より明るい屋外を、窓が縁取っているのが見えるのみ。
「見えないよ、ササクラ」
「俺はかろうじて見えてる。俺の肩を掴んでろ。後を付いてくれば危険はない」
 佐々倉の視覚を持ってもかすかにしか見えない階段を上る。三階分のぼると屋上に出た。日はさらに傾き、上空から刻々と暗闇が降りてくる。さて、間に合うか。
 屋上から奏たちのいるはずのとおりを見る。そのときだった。
 まるで大型客船の汽笛のような音が聞こえた。耳元で聞こえた気がして肝を冷やしたが、これは作戦通りであることを思い出す。馬鹿女が呼び出した眷族で大きな音を出し、ラリルドを呼び出す。
「なに、この音。すっごい音」
 トレミが両耳を押さえている。なので回答を言っても聞こえないだろうと思い、聞き流す。佐々倉は直線が続く大通りを屋上から見下ろした。
「やっぱりな」
 汽笛のような音は徐々に縮小し、やがて聞こえてこなくなる。佐々倉は目を細め、標的のいる方角を凝視する。
 答えは出た。この距離では、いくら完全に日が暮れる前であろうと標的が分からない。加えて背の高い建物に囲まれている通りは影っており暗い。かろうじて人影が見えるが、それが奏なのか、馬鹿女なのか、標的なのかも判別できない。
「ここから狙うの?」
 トレミには作戦のあらましを説明してある。いまさら作戦を中止するとうるさそうだ。この際、博打である。あの人影が奏であろうと馬鹿女であろうと知ったことか。お前らの作戦通り、矢を放ってやろうじゃないか。
 佐々倉は戒力を発動した。狙いを付けると気づいた。人影は三つ見える。三つのうち誰が誰なのかは分からない。体格も判別できないし、ラリルドの気配も判別できない。
 さて、どれを選択するか。どれを選択してもほぼ確実に射止めることはできる。ここは「どれにしようかな、神様の言うとおり」とルーレットを回すべきか。
 逡巡している間にも日は暮れる。作戦では、馬鹿女がラリルドの通力を封じた後、俺が矢を放つ手はずになっている。しかし、通力を封じたその瞬間が分からなければ、佐々倉はトリガーを引くタイミングを計れない。
 ああ、もういいや。こうなったら、三本の矢をそれぞれ三つの人影にはなってやろうか。それが一番せいせいする選択ではないか。
 佐々倉はゆっくりと矢の照準を三人に合わせた。
 
 
 
 日が落ちてくる。いくら目のいい佐々倉でも、暗闇の中で正確に標的へ矢を射ることは不可能に思われた。
 目の前に立つラリルドは、悠然と両腕を万歳させて、なにか罠があるのならやってみろという仕草。
 額にたまった汗が流れて目に流れ込む。それを拭っている余裕はない。
「どうした、少年。逃げないところ見ると、何か策があるのだろう? やってみろ。なにをみせてくれるのか楽しみだ」
 ラリルドが口を開いた。まるで青年が歌うような澄んだ声だった。亡者のような風貌からのギャップ。
 プティシラが痺れを切らして足を踏み出したところを、奏は慌てて制した。
「だめだ……」
 通用しない。ラリルドには小手先の作戦など通用しない。こうして直に対峙してよく分かった。現世に現れたヴァルアラトスほどではないにしろ、間近に迫ってラリルドの瘴気の濃さを思い知る。
 浅はかだった。付け焼刃の通力無効化の力など通用しないし、おそらくフルパワーの佐々倉の戒力さえ通用しない。象に針を刺すようなもの。近づいてみて、その皮膚の硬さ、分厚さに気づいたのだ。
「どうしたの、カナデ」
 小声でプティシラが訊いた。奏は答える変わりに、ラリルドに話しかけた。
「なぜ、プティシラを狙うんだ?」
 奏がたずねると、ラリルドは「おや」と眉を吊り上げた。
「攻撃してこないのか?」
「話をしたいんだ。なぜプティシラを狙う? 彼女が何をした?」
「そのような問いに答えると思ったのか。もう一度、たずねる。貴様らは攻撃してこないのか?」
 すぐにでもラリルドの掲げられた大きな手のひらから衝撃波が放たれ、瞬時にして奏たちを肉片に変えそうな予感。
 みしっ
 どこからかきしむ音が聞こえてきた。
「カナデ……!」
 プティシラの必死な声。見てはいないが、表情も容易に想像できる。彼女の額には汗の玉が浮かび、もしかしたら涙ぐんでいるだろうと想像できた。
 幾つかの糸が、ラリルドの胸から伸びている。この糸は選択肢。どれかを引けばラリルドはいずれかの行動をする。だが、どの糸を選択して引っ張ればいいのかはまったく分からない。
 まさに博打。だがこの博打の勝率は? 考えたくもない。
 みしっ
 どこからか音がした。場所は分からない。
 奏は口を開く。
「どうせ死ぬなら、理由を知りたい。自分が死ぬ理由くらい、教えてくれたっていいだろ」
 ラリルドは興ざめしたように、挙げていた腕をだらりと下ろした。まるで失望に肩を落とすような仕草だ。
「ここまでどれだけ時間がかかったと思ってる?」
 ラリルドがおもむろに口を開く。
「三年だ。国より特命を受けて三年間、俺はその女を追いかけ続けた。ようやく追い詰めたと思ったら、これが最後? 冗談じゃない」
 ラリルドはなおも口を開く。奏の引いた糸。とりあえず当たらずも外れず。
「いいか、最初はこんな特命、冗談じゃないと思った。それにすぐに済むと思った。だがいざ追いかけて見れば掴んだ水のように手の間からすり抜けていきやがる。こいつを追いかけるのは簡単だ。所在が確かなルウディの周囲を洗えば必ずこの二ツ目は近くにいる。だが、もう数え切れないほど、こいつに出し抜かれてきた。こいつの首根っこを掴もうと手を伸ばした瞬間、目の前から忽然と消えやがる。この歯がゆさが分かるか?」
 思ったより、ラリルドという男はお喋りらしい。奏が動揺してしまうほど絶えず口を動かしている。
 会話の中には重要な情報もあったと思うが、今は別のことに気を取られている。
 みしみしっ
 先ほどから聞こえる軋み音。ついに捕らえた。右側から音がする。そのたびに鼻腔をかすかなきな臭さが刺激する。軋みが聞こえる間隔は徐々に狭まっているし、軋み音も徐々に危険なものへと変化していっているのがわかる。
 倒壊する。
 間違いない。数秒後か、数分後か。奏たちのすぐ傍にある三階建ての建物だ。果たしてどのように倒壊するのか。増したに崩れ落ちるのか、こちら側に倒れこんでくるのか。あさっての方向に倒れこむのか。
 間違いないのは、きっかけはヌルチの声。あの声が、微妙なバランスで倒壊を免れていた建物に致命傷を与えたのだ。軽い一押し。ドミノの最初のピースを倒すかのように。
「この二ツ目のおかげで、俺は三年間も宮殿に戻らず、国中を放浪させられている。こんな誰もいないような辺境の地までな」
 よほど孤独で過酷な旅だったのだろう。これから殺そうとする相手に愚痴をこぼすくらいだ。話し相手だっていなかったに違いない。
「そんな旅を続けるうちに、徐々に苦痛は喜びに変わっていった。いや、楽しみに変わったというべきか。お前のような下等種族にも理解できるだろう。まるで難解なパズルに挑むような楽しささ。あの手この手を思案して罠を張り、この女を出し抜こうと工夫した。それでも捕らえられない苦悩。ふと俺は気づく。これはゲームだと。この小ざかしくも逃げ足の速い二ツ目の女を捕らえることができたときの、極上の喜びを想像することが俺の生活の糧になり、目的となった」
 屈折した精神論は延々と続く。
 だが、そのときはまだ訪れない。プティシラも微動だにしないでいる。恐怖で動けないのか。あっけにとられているのか。
「実を言うとな。こいつを追いかけて三年たってしまった今、俺はもうのこのこと宮殿には戻れない。どういうことか分かるか? 三年たっても特命を果たせない俺なんて、もうお払い箱ってことだ。いまさらどの面さげて戻れって言うんだ? 戻った瞬間に処刑されるに決まってる。簡単な任務を三年かけても達成でいない俺なんか、生き残ったって嘲笑われるだけ」
 悲しい話は続く。
「だからこそ、俺の生きる目的はひとつだけに絞られた。俺を三年間も苦しめ、帰る場所を奪ったこの二ツ目の女を捕らえることだけが、俺にとっての最後の唯一の意欲。生きる意味だった」
 黒曜石のような潤んだ瞳をまっすぐに奏に向けるラリルド。
「それを! それをなんだ貴様! なにも罠を用意していないのか! ふざけるなちくしょう! こんなの納得しないぞ!」
 突然、頭を振り乱して怒鳴りつけるラリルド。有り余る怒りパワーとして発散された瘴気が、静電気のように奏の全身の毛を総立ちさせる。今度はプティシラをにらみつけると、プティシラは「いやあぁ」とあくびのような声を出して後ずさりする。
「なんでもいい! 反撃してみろ! 出し抜いてみろ! お前が知恵を絞って絞って絞りつくして張った罠を、さらに上回った方法で出し抜いてやる! さあ、やってみろ!」
 みしみしみしっ!
 ラリルドの怒号が倒壊しかかった建物にダメ押しする。
 みしみしっ
 がらがらっ
 ごごごごっ
 さすがに異変に気づくラリルド。何事だと呆然と、まん丸な目を奏たちに向けた後、ゆっくりと頭上を見上げるラリルド。
 きっと、ラリルドは頭上に空以外のものを目撃したに違いない。きっと、なにか巨大な暗影の塊が頭上に浮かんでいると思ったか、あるいは黒煙が上空を漂っていると思ったかもしれない。
 いずれにしても、奏もプティシラもそれを目撃しなかった。
 ラリルドが頭上を見上げた瞬間が、唯一のチャンスだったからだ。その瞬間に奏はプティシラに抱きついて押し倒していた。一緒に倒れこんだのは、プティシラの呼び出したヌルチというエイのような眷属の背中。
「プティシラ、全速力!」
 奏はそれだけを言った。奏はプティシラに覆いかぶさっているが、プティシラは奏の肩越しに上空をはっきりと見上げていた。
 まるで巨人がお辞儀するかのように、折れ曲がって落ちてこようとする巨大な暗影の姿を。
「ヌ、ヌルチー! 全速力よー!」
 プティシラの悲鳴のような声と同時に、ヌルチが「ぬぼーっ!」と汽笛のような声を上げて動き出した。
 その声に気づいたラリルドが、慌てて視線を奏たちに戻す。
 そのとき、すでに遅し。眷属は意外と速い速度で奏とプティシラを遠くまで運んだ。
「うはあ!」
 ラリルドが発した歓喜の雄叫びを聞いたのは、ヌルチの上で半身を起こしてラリルドを振り返ったときだった。
 ラリルドの頭上からは間違いなく倒壊した建物の正方形が落ちてこようとしていた。ところがそんなこと意に介さず、狂気さえ感じる歓喜の表情で、こちらに走ってくるラリルドが見えた。
 ヌルチの地面を滑っていく速度は、奏が全速力で走るよりもはるかに速い。
 だが、それをも上回る速度で、猛然とラリルドは迫ってきた。
 ラリルドのすぐ背後で、轟音を立てながら建物が地面に突き刺さった。大量の粉塵を巻き上げ、ラリルドの姿を覆いつくす。
 周囲を急速に侵食していく煙のような粉塵の勢いさえも振り切って、ラリルドは姿を現した。
 みるみる迫り近づいてくるラリルドの狂気の表情。
 追い立てられる恐怖に奏がたまらず「うわああああっ!」と悲鳴を上げる横で、プティシラが「うぎゃああああっ!」と悲鳴を上げた。
 まん丸に見開かれた目、デーモンのように頬を引き裂かんばかりに開いた大口。それが急速に近づいてくる恐怖感は、生き残ったとしても一生涯、悪夢として奏の心に刻まれるのだと確信した。
 間違いなく追いつかれる。そう覚悟したとき、ヌルチの走行速度より速く、粉塵が周囲を侵食するよりも早く、ラリルドの全力疾走よりも早いものが、ラリルドの背後から迫っていた。
 奏も迫ってくるものに気づかなかった。恐怖で盲目になっていたせいであるが、ラリルドも気づかなかった。ものすごい轟音を立てて迫ってきたにもかかわらず。
 だから、奏にもプティシラにも、見ている光景が一瞬理解できなかった。
 追いかけてきていたはずのラリルドの姿が、一瞬にして消えうせたのである。こちらに向かって獣のように笑い声を上げながら迫ってきていたはずのラリルドの姿がない。
 奏もプティシラも悲鳴をやめて注目した。
 消えた?
 そんなはずは……!
 奏はふと気づく。
 ぞっとして上空を見上げた。
 跳躍したラリルドが、上空から迫り来る――! と思ったが想像を裏切られる。頭上から迫り来るものはない。ラリルドが消えたように見えたのは、強靭な跳躍で一瞬にして視界から消えたせいだと思ったのだが。
「カナデ! 見て!」
 プティシラが叫んだ。見ると逃げてきた方角を指差している。視線を転じて、プティシラが指差す方角を見たとき、奏はようやく気づいた。
 ――この町は鉱業の街。
 ふと頭によぎるキーワード。
 この地域は、地下から特殊な鉱物が採掘できるという。それは通力を封じるという不思議な鉱物。だが、鉱物については重要ではない。
 なにより、この地域の地下には無数の坑道が駆け巡っているのだ。長年放置され、老朽化しているのは地上の建物ばかりではない。
 奏が目撃したのは、奏たちが逃げてきた大通りが、追いかけてくるように陥没していく様だった。道が陥没すると、道の左右にある建物が重心を失って、陥没した道を埋めるように倒れこんでくる。
 まさしく将棋倒し。現世にいたころ、たくさんのドミノがいっせいに倒れるテレビ番組を見たことがある。あれに似ているが、規模がドミノの比ではない。
 最初のピースから派生した倒壊は、連鎖反応を起こして町中を崩壊させるかもしれない。ギネスブックも真っ青な大規模ドミノ倒しである。
「ヌルチ! もっと必死に走れ馬鹿やろう!」
 プティシラがヒステリックに叫んでヌルチの背中をひっぱたく。
 地面の陥没と、建物の将棋倒しは、奏たちを飲み込もうと見る見る迫ってくる。これならまだラリルドに追いかけられているほうがましだった。
 もう、二人には成り行きを愕然と眺めるしかなかった。
 
 
 
 佐々倉とトレミは目の前で起こっている事態に、なにもすることができなかった。ただ大口をあんぐり開けて、呆然とするしかなかったのだ。
 高い位置から町中を望めるこの位置から、二人はすべてを目撃していた。
 町の中心部が地響きを立てて崩れ去るのと同時に、まるでブラックホールが出現したかのごとく、中心部に吸い込まれるように黒い円が広がっていった。
 地獄の門でも開いたかのように、中央に出現した暗黒が、急速に侵食を広げながら町全体を飲み込もうとしている。
 あまりにも絶望的な光景。確かに一瞬後の死を意識した。
 直系にして一キロメートルほどの街が、断罪のごとく闇に落ちていく。あの断罪の闇が、この場所までやってくるまでに数秒とかからないだろう。
 この悲劇から逃れるすべは、瞬間移動か飛翔能力しかない。
 大予算パニック映画でも観たことのないディープインパクトの中、飲み込まれようとする奏とプティシラを気にかける余裕などない。
 最後に目撃したのは、崩落と同時に巻き上がる粉塵に奏とプティシラの二人が巻き込まれたところまで。それ以降、二人が瓦礫に押しつぶされたのかどうかは分からないし、端的に言ってそんなのたいした問題ではなかった。
「く、くるな……!」
 佐々倉の全身を満たす意識は、まさに「くるな」のそれだけである。
 巨大津波のように迫り来る絶望的な崩落が、佐々倉の立っているこの建物まで、どうか届いてくれるな。そう神に祈ることしか頭にない。
 まだ人間大のままのトレミがササクラの腕を掴んだ。
「カナデが!」
「カナデを気にしてる場合じゃないだろ!」
「でも! カナデが!」
「うるさい! もう逃げる暇はない! 眷属だったら空を飛んだりできないのか!」
「できないよ!」
 見る見る迫りくる暗黒。崩落した場所は、奈落の底としか描写しがたい暗黒世界である。
「ササクラ! くるよ!」
「こない! ここまではこない!」
「でも!」
「俺は運が強いんだ! 大丈夫! あれは絶対ここまで来ない!」
 自分自身にいい聞かせるような怒号だった。
 崩落という名のブラックホールが、すべての物理を飲み込まんと、佐々倉たちのいる建物の足元まで迫った。
 地響きが激しくなり、二人とも立っていられなくなる。佐々倉がうずくまると、トレミを抱きつくように佐々倉にしがみついた。
 ひどい揺れ。平衡感覚、ともすれば上下間隔にさえ混乱をきたすひどい揺れの中、倒壊する建築素材にミンチにされる自分を目撃したくなく、佐々倉は強く目を瞑った。
 暗闇の中。
 地響きの中。
 轟音の中。
 何度か体が投げ出され、どこかに体を打ちつけた。
 ただ体をちぢ込ませて、目の前にあるものを抱きしめた。
 轟音が止み。
 地響きもやんだ。
 だが、暗黒は晴れない。
 死んだ。
 半ば覚悟した。
 だが、かろうじて意識を現実にとどめているのは、佐々倉の腕の中で小刻みに震える肉の感触。
 胸に感じる体温。肩越しに聞こえる息遣い。
 目を開く。
 トレミが佐々倉に抱きついている。同様に佐々倉もトレミを強く抱きしめている。
 痛みはあるか。
 あるのかも知れないが、この極限状態では何もかもが麻痺している。
 瓦礫に四肢のひとつくらい潰されていても不思議ではない。
 間違いないのは、崩落がやんだということ。
 そして、確かにまだ生きているということ。
「トレミ……無事か?」
 声をかけてみる。
 ふうふうと息をつき、熱を持ったトレミは何も答えない。
「おい、トレミ。無事なのか?」
「……無事って……トレミは無事?」
「どこか痛い場所は?」
「あちこち痛いよ」
 トレミは佐々倉に張り付いたまま離れない。おかげで周囲の様子も伺えない。引き剥がそうとしても、接着されたように剥がれない。
「トレミ、いいから離れろ」
「だって……」
「もう崩落はやんだ。助かったんだよ。抱きつかれてると首が回せない」
「ほんとうに? ほんとうにもう大丈夫?」
「大丈夫だ」
 ようやくトレミがゆっくり離れる。だが、近くで瓦礫が崩れる音がすると、引き合う磁石から手を離したように、がっちりと佐々倉に抱きついてくるトレミ。まるで女だ。いや、見た目は女である。
 それからどうにか説得して、首を絞めるように抱きつくトレミを引き剥がすと、ようやく佐々倉は息を深く吸い込んだ。
 周囲を確認する。
「屋上だ。少し傾いているが、この建物は崩壊しなかったらしい」
 佐々倉の願いが神に通じたのか。街に広がった崩落は、街の端にある佐々倉のいる建物までは及ばなかったらしい。
 屋上の縁から町を見下ろす。
 大地に大きな穴が開いていた。一キロ四方を縁取るかのように幾つかの建物が倒壊を免れているが、九割は暗黒に吸い込まれてしまったようだ。
「カナデは? プティシラは?」
 トレミが痛いほど腕を掴んでくる。
「この様子じゃ、期待しないほうがいいな。ラリルドってやつの瘴気も感じない。あの崩落の中で生き残ったとしたら奇跡だ」
「でも、トレミ、消えてない。消えてないってことは、契約したカナデはまだ生きてる!」
 契約者が死ねば、眷属はハザマの世界という場所に帰らなければならないらしい。ということは、トレミの理屈は確かに的を射ているようだ。
 だが、まだかろうじて生きているだけかもしれない。
「契約者が重篤になると、トレミにどんな変化が起こる?」
「ジュウトク?」
「大怪我するとどうなるかってことだ」
「たぶん、分かると思うよ。契約したことないから分かんないけど」
「今はどうだ? 変化は?」
「トレミ、でっかくなってる」
「それは崩落前の変化だ。大きくなった後、変化はあるか?」
「う〜ん……。分かんない。だぶん、平気」
 あいまいだな。
 いずれにしても、この建物も安全とはいえない。
「街を離れて、夜明けを待つ。夜が明けて明るくなったら、二人を探す。それでいいな、トレミ」
「いますぐさがそうよ! きっとカナデとプティシラは待ってるよ!」
「この暗闇じゃ探せないし、俺たちが二次災害に遭う可能性が高い。俺たちに何かあったら、奏とプティシラを探す人間はいなくなるってことだ。我慢して安全に探せる朝を待て」
 トレミは眉をへの字にゆがめて泣き出しそうになった。だが反論しなかった。それなりに佐々倉を信頼し始めているらしい。
 佐々倉が建物を出ると、トレミもおとなしく付いてくる。崩壊の恐れがないように、街からはかなり距離を置いた場所にキャンプをとることにした。
 薪を用意し、焚き火を起こして寝床を用意する。その間、トレミは一切手伝わなかったが、不安そうにしながらずっと押し黙っていた。
 人間大になったままのトレミは、元の大きさに戻る様子もない。
 気にかけても、こちらが神経をすり減らすだけである。ほうっておくことにした。佐々倉こそ、九死に一生を得たばかりである。周囲のことにかまっている余裕はない。
 それにしてもよくあの大規模な崩落を生き残ったものだ。やはり、俺にはツキがあるのは間違いない。なんだかんだいって、ピンチを乗り越えて生き抜いていくタイプなのだ。
 背後に神秘的な守護神の存在を感じることで恐怖と緊張を和らげ、佐々倉はひと時の休息を得ることに成功したのだった。
 
 
 
「ササクラ! 夜が明けた! 夜が明けたぞ! ササクラ! 起きろ!」
 ひどい剣幕で怒鳴られて、直前まで見ていた夢も吹き飛ばされた。体を起こすと、必死な顔をしたトレミが佐々倉の体をゆすっている。
「ほら、みろ、ササクラ! 朝日だぞ!」
「あん?」
 渋面しながらトレミの指差す方角を見ると、荒涼した地平線から太陽が三分の一ほど頭を覗かせている。眠気眼で太陽を直視した佐々倉は頭痛を催してうめき声を上げた。
「ササクラ! ほら! ふたりを探しに行こう!」
 トレミを見ると目の下に隈。
「おまえ、ひょっとして寝ないで夜明けを待ってたのか?」
「いいから、いくぞ! ササクラ!」
 やれやれと体を起こすと、体中の関節から顰蹙を買った。筋肉がやめてくれと悲鳴を上げているのが聞こえる。
 昨日、体中をどこかに打ち付けていたらしい。昨日は気づかなかったが、一晩たって気づいていなかった痛みが襲ってきたのだ。
 ところが徹夜したとは思えないほど元気なトレミは、早く来いと遠くで佐々倉を手招いている。
 キャンプをたたんで、しぶしぶ付いていく。
 街の外から崩落した街を眺める。昨晩は暗闇に隠匿されていた穴の様子が分かった。まるで膿んだ傷口のようなグロテスクな光景が目の前に広がっている。黒い海に溺れて苦しむ人間たちの静止画を見ているようで気味が悪い。
「トレミ、ずっと探してた」
 トレミが凄惨な光景を眺めながら言った。
「探してたって、暗闇の中、ここにきたのか?」
「違う。違う方法で、トレミ、夜の間じゅう、ずっとさがしてた。カナデとプティシラの気配」
 それで、見つかったのか? とは尋ねなかった。トレミの顔を見れば、見つからなかったことは明白だからだ。
「でも、トレミ、ずっとかんがえた。悩んで悩んで、かんがえた。それで、トレミひとつ思いついた」
「思いついた?」
「うん」
 不安に澱んでいたトレミの瞳が、光を取り戻した。
「私とカナデはつながってるの!」
 そう言うと、トレミは両手でメガホンを作って口元に当てた。空を仰ぐように大きく息を吸い込むと、次に空間がひび割れんばかりの大声を張り上げたのだった。
「カナデー!! トレミを召喚して!!」
 召喚。
 そういうことか。眷属と契約した人間は、必要なときに眷属を召喚できる。
 ――いやまてよ。
 トレミはすでに召喚された状態ではないのか?
 案の定、トレミに召喚される気配もないし、トレミの大声に気づいたカナデが返事をするわけでもなく、周囲には乾いた風の音だけが駆け抜ける。
「やっぱりな。トレミが契約者である奏を見つけられないのは、おそらくこの場所が、通力を封じる力のある鉱業地域だったからだ。地中に埋まった奏やプティシラの通力は完全に封じられている。お前との回線もつながっていないってことだ」
 説明すると、トレミが頬を膨らませて「ぶう」と鳴いた。
「いいもん。もうひとつ案があるから」
「なにかあるのか?」
「あるよ。でも、意地悪なササクラには教えない」
 どうせまた子供じみた発想に基づく陳腐なアイデアに違いない。
 トレミはおもむろに歩き出す。崩落の起こった穴に入り込むと、建物が倒壊して北海の流氷のごとく隆起した崩落跡に降り立つ。
 ごみ山にゴキブリが這うように、トレミは危険を顧みずに崩落地帯を進んでいく。足元は崩れ去った建物が障害となって、まともに歩けない。アスレチックランドを行くような険しい道のりを、意外と軽快に進んでいくトレミの後を必死についていく。
「どこ行くつもりだ、ドレミ」
「おしえない」
「奏の場所が分かるのか?」
「おしえない」
「怪我する前に引き返せ」
「もう、ササクラとはお話しないもん」
 ふてくされて、振り返りもしない。
 まるで山で育った野生児のように、この険しいアスレチックランドを進んでいくトレミは、不意に立ち止まった。
 建物の大きな瓦礫を、まるでロッククライミングの気分で一山超えると、瓦礫の向こう側でトレミが黙って立ちすくんでいた。
「トレミ、いつ二次崩落が起こるかわからない。戻るぞ」
「だいじょうぶ。もう付いたから」
 トレミはそれだけ言って、佐々倉に背を向けて立ちすくんでいる。いや、どうやら足元あたりをにらみつけているようだ。
 近づいてみる。
「トレミ、何か見つけたのか?」
 尋ねながら、トレミの視線の先を見ると、そこにはうつぶせに倒れる人がいた。一瞬、奏かと思ったが、よく見れば体格がだいぶ違う。下半身は瓦礫に埋もれて上半身しか分からないが、長身で細身であることが分かる。
 近づいて初めて感じ取ることのできる、僅かな瘴気。
「こいつ、ラリルドか?」
 感じる瘴気は風前の灯。生きていても、絶命寸前の状態であると思われた。
「トレミ、奏とプティシラの居場所は分からなかった。でも、この人の感じだけは分かった」
「こんな僅かな瘴気をたどってきたのか? 見つけたからってどうするつもりだ。どうせ虫の息だぞ」
「ううん。大丈夫。死なないよ」
「なぜ分かる?」
「だって、ササクラ、言ったから。ここは力を封じる場所。この人も封じられてる。だから力が小さいの」
 確かに正論。トレミなどに正しそうなことを言われて癪に障ったが、ラリルドがまだ元気であるのなら、それはそれで危険な状況である。
 トレミはラリルドの傍にうずくまり、人差し指でラリルドの頭をつつく。力なく頭が動くが、目を覚ます様子はない。
「ねえ、おじさん。私、トレミ。眷属です。カナデの眷属です。聞こえる?」
「起こすな。ほうっておけ」
「起こすの。起こして、このおじさんにカナデたちを探してもらうの。このおじさん、強いからきっと居場所が分かる」
「おじさんじゃない」
 そう言ったのは佐々倉ではない。佐々倉はぞっとして、瞬時にラリルドから遠のいた。
「あ、おじさん。目を覚ました」
「おじさんじゃない」
 ラリルドはむっくりと顔を起こした。
 まるで麻薬中毒者のような落ち窪んだ目に、瞳孔の開いた瞳。そして、額にはもうひとつの目が、ぎょろりとトレミを捕らえた。
「プティシラの仲間か……。止めを刺しに来たか」
「ちがう。トレミ、おじさんに止めを刺さないよ。おじさんに頼みがあるの」
「頼み? この俺に?」
「うん。トレミ、困ってる。トレミ、おじさんのこと助けてあげるから。だから代わりに、カナデとプティシラを一緒に探して欲しいの」
「俺に敵を助けろと?」
「敵じゃない。カナデとプティシラだよ!」
「おいトレミ!」
 佐々倉は遠い場所から、慌てて声をかけた。残念ながらこの場所では、確かに通力が封じられるらしく、戒力が発動しない。なにか遭ったら一目散に逃げ出せる距離を置きつつ言った。
「お前、自分で何を言ってるのか分かってるのか?」
 トレミが不満そうな顔で振り返った。
「邪魔しないでササクラ。トレミ、いま、おじさんと交渉してるんだから。うまくやるんだから。トレミ、ササクラの力借りないから」
「馬鹿野郎が。そいつを助けて、おとなしく言うことを訊くと思ってるのか? 助けた瞬間に殺されるぞ」
「そんなことないもん。だって、ササクラ、ここ、力が封じられるって」
「この場所だけだ。街を出れば力を取り戻す」
「もううるさい。ササクラ、だまってろ」
 トレミはぷいっとそっぽを向くと、トレミの解釈で言うところの「交渉」に戻った。
「おじさん、一人でそこから出れるの? トレミが手伝わないと出れないでしょ。トレミが助けてあげるから、代わりにトレミのこと、助けてくれる?」
「冗談ではない。お前など助けるものか」
「じゃあ、ずっとそのまま。いつか死んじゃうよ」
「敵に助けられるくらいなら、潔く死を選ぶ」
「死んじゃったらおいしいもの食べられないよ。コソボ婆が言ってた。食べることが人間の唯一、最大の楽しみだって。おじさん、おなか空かない? のどか沸かない?」
 トレミがそう言うと、ラリルドはごくりと喉仏を鳴らした。
「水、あるよ。持ってるよ。おいしい食べ物、カナデなら作ってくれるかも」
「馬鹿な。そんな安い手に引っかかるものか」
「じゃあ、知らない。トレミ、行っちゃうよ。そしたら誰も来ないよ。誰も助けてくれないよ。いいの?」
「行け。お前などに情けをかけられること自体が生き恥だ。お前などに頼らぬ」
「ふうん、そう。じゃあ、トレミ。行っちゃうから。じゃあね、おじさん。きっとお腹空くよ。喉渇くよ。寒いよ。寂しいよ」
 ふん、と鼻を鳴らしてラリルドは顔を背ける。
 トレミは立ち上がった。じりじりとラリルドから遠ざかる。
「ほら、トレミいなくなっちゃうよ。もう戻ってこないよ。いいの? おじさん、いいの? 本当に行っちゃうよ?」
 ラリルドはもう返事をしなかった。
「あ〜あ、トレミ、あきらめちゃった。おじさんのこと、見捨てることにしたよ。ほら、見て。トレミ、おじさんからどんどん離れていくよ」
 そういいながら、後ずさりしていくトレミ。なんだこの緊張感のかけらもないやり取りは。子供と幼児の交渉術。まさにその言葉がふさわしい現状。
「ほら、トレミの声、どんどん遠くなって。見えなくなっちゃうよ」
 トレミは後ずさりしながら、崩落した建物の影に体の半分を隠した。
「もうすぐトレミ、いなくなっちゃうよ。おじさんいいのー? 本当だよー。帰っちゃうよー」
 するとどうだろう。ラリルドが落ちつかなそうに身じろぎを始めたではないか。目を見張っていると、見事にトレミの誘導尋問に引っかかったのか、所在な下げにちらちらとトレミを見やる。
「これが最後だよー。さようならー」
 そういいながら、建物の影に、体を完全に隠したときだった。
「……その……条件……の……」
 ラリルドがかすかに声を上げた。
 物陰からひょっこり顔を覗かせるトレミ。
「なに? おじさん、なにか言った?」
「……だから……条件……の……」
「えー? トレミ、聞こえなーい」
「の……む。だから……たす……て」
「なになに?」
 トレミは意気揚々とラリルドの場所まで戻っていくと、耳を大きくして「よく聞こえなーい」と白々しく皮肉っている。
「お前との交換条件……飲むからここから出してくれ」
「カナデとプティシラを助けてくれるの?」
「ああ、探してやる。だから出してくれ」
「だめ。ちゃんと約束して。トレミ、おじさんのこと助けてあげるから。カナデとプティシラを見つけたら襲ってきちゃだめだよ」
「……約束しよう。とりあえず、手出しはしない。そうだな。二人を見つけたら、お前らが逃げ出せるだけの距離を置ける期間、俺はここに身をとどめよう」
「本当?」
「約束する」
 トレミはしてやったりとニンマリして、背後を振り返った。
「ほら! どうだ、ササクラ! トレミの思ったとおりになっ……」
 ところが。
 トレミの背後から、佐々倉は忽然と消え去っていたのであった。
 
 
 
「あっちだ。間違いない」
 ラリルドが指を指す方向に歩みを進める間、トレミは頬を膨らませて、いつまでもプンスカと腹を立てていた。
「ササクラ、許さない。もう、トレミのともだちじゃない」
「それはいいが、あっちだ。足元を見ろ。転ぶぞ」
「だって、ササクラったら、トレミを置いていくなんて! 助けてやったのになんてやつ! おじさんのこと、トレミひとりでたすけるの、大変だったんだから!」
「分かったから、早く行け」
 トレミは肩を怒らせながら、障害をものともせずに進んでいく。もともと、小さかったトレミにとって、大きな物体の障害などありふれたものであり、このくらいの凹凸であれば日常とさして替わりはなかった。
「この下だな。プティシラの気配を間違うはずがない。人ごみの中でも、確実にプティシラの存在はかぎ分けることができるだろう」
「おじさん、プティシラのこと、好きなの?」
「好きだと? ばかげたことを。あいつは忌むべき敵だ」
「敵なの? なのにどうして助けるの?」
「貴様、自分がそれを強制させていることを、よもや忘れたとは言わせぬ」
「ああ、そうか。トレミがお願いしたんだった! ごめん、トレミ、間違っちゃった」
 この下等種族……!
 ラリルドのわななきにも気づかず、トレミはしゃがみ込むと、地面をぽんぽんたたき始めた。
「この下にいるの? どうやって助けたたら……」
「簡単なこと」
「どうやってやるの?」
「こうやってだ」
 ラリルドはトレミを脇にどけると、おもむろに地面に向かって両手を突き出した。ラリルドは「はあっ!」と気合をひとつ吐き出すと、手のひらを差し向けた地面が爆発したようにはじけ飛んだ。
 どん、と腹をえぐるような重低音とともに周囲に土煙が上がり、トレミは土煙から顔を守った。
「ちっ、この程度の力しか出せんとは……」
 ラリルドのつぶやきとともに、土煙が晴れると、地面に大穴が開いているのが分かった。トレミが穴を覗き込むと、穴の中には奏とプティシラが支えあうように横たわっているのが見えた。
「崩壊の中、偶然できた空間に閉じ込められていたらしい。よく空気が持ったものだ」
「カナデ! プティシラ!」
 トレミが必死に叫ぶと、土をかぶった奏がもぞもぞと動いたが、起き上がる様子はない。
「弱ってるな。怪我でもしてるのかもしれない」
「おじさん、穴から二人を出して」
 ラリルドがゆっくりとトレミを睨みつける。三ツ目の目は見開かれており、まるで射抜くような視線は、小動物程度なら見られただけで絶命しそうなほどに威圧感がある。
「はやく! おじさん、約束したでしょ!」
 ところが物怖じひとつしないトレミ。
「そこまでしてやる義理はない。言ったはずだ。こいつらは敵だと」
「トレミ、そんなのわかんない。約束しかわかんない。約束破るやつは、最低だってコソボ婆だって言ってたもん! 約束破ったら、おじさん悪いやつだ!」
「……っく、悪いやつだと……! 俺は聖人ではないが、約束を反故にするような輩と一緒にされたくないな!」
「じゃあ、二人を穴から出して!」
 ラリルドはしぶしぶ穴に入り込むと、まるで荷物を担ぐかのように、軽々と二人を両肩に抱えて穴から這い出てきた。
「じゃあ、このまま行くからね」
「このまま行く? どこに?」
「どこにって、どこかだよ! ササクラ、言ってたもん。ここはまた崩れるかもしれないって。だから遠くまで行く」
「だから、そこまでしてやる義理は――」
「約束でしょ!」
 トレミの一喝に、ラリルドは顔面をゆがめて汗を流す。
「ぬ、ぬぬう……!」
 額や首に筋を立てて、必死に何かに堪えるラリルド。今にも脳天から噴火しそうな雰囲気だったが「じゃあ行こう!」と歩き出したトレミの後を、憤然と付いていく。
 崩落跡を出て、平地にたどり着くと、呆然と立ち尽くす佐々倉がいた。
 遠くから「まさか」と口をあけながら愕然としている。
「ああ! ササクラ! そこにいたのか!」
 佐々倉の元へ走っていくトレミを見て、佐々倉はおどおどと後ずさりする。
「こんにゃろー!」
 走っていく勢いそのまま、トレミは佐々倉の頭をぺチンとたたいた。
「い、いってえな!」
「ササクラが悪い! なんでいなくなった!」
「お前があいつを助けようとするからだ!」
「なんでだ!」
「なんでもだ! なんでお前はそう、頭の悪いやつなんだ!」
「トレミ、あたま悪くない! むしろあたま良い! だってほら!」
 トレミが奏とプティシラを抱えるラリルドを指差す。
 ここは崩落地帯の外。もちろん、ラリルドも力を取り戻しているのである。佐々倉が感じ取っている瘴気により、すでに絶望感というウィルスが全身にはびこっている。
 ――ああ、俺、この馬鹿のせいで死ぬ。なんて後悔の多い人生だったことか。
 のし、のしとラリルドがこちらに歩いてくる。もはや悪態づくトレミの声など耳に入ってこない。世界の終焉のように迫ってくるラリルドから目を離せない。
「ササクラ……といったか」
 ラリルドが三つの不気味な目を佐々倉に向ける。それだけで気が遠くなる。むしろ自分の死ぬ瞬間を目撃しないために、気を失ったほうが救われるかもしれない。そう思い出したころ。
 ラリルドは佐々倉の鼻先まで顔を近づけてきて、まるで怒りに震えるような声で言った。
「俺は約束を守る男だ。いいか、約束を守る男だ」
 わけも分からず、佐々倉は何度もうなずいて見せるしかない。
「約束を守る男なんだ。いいか、信じるか? いや、信じろ。信じないと今すぐ殺してやるからな」
 全身に滝のように汗を掻きながら、佐々倉は必死にうなずくと、ラリルドは「ふん」と鼻息を吹きかけて、佐々倉から離れた。
 開放感と恐怖に硬直していると、トレミが「おい、ササクラ」と佐々倉の胸をたたいた。
「奏とプティシラが弱ってる。トレミ、人間のこと、よく分かんない。どうしたらいいか教えろ」
「……い、生きてるのか?」
「生きてる。二人とも、どこか怪我したのか?」
「いや、分からないが……」
 トレミはラリルドを振り返り、ササクラにぶつけていた怒りをそのままラリルドにぶつける。
「おじさん、二人を降ろせ」
「お、おい、命令口調――」
「いいからおろせ! 約束だろ!」
「や、約束……、うぐぐう……」
 強烈な腹痛に耐えるように、ラリルドは二人を地面に降ろす。トレミに命令されるがまま、佐々倉は二人の様子を伺った。
 出血の後はないし、手足の骨折もなかった。だが、二人とも後頭部あたりが晴れ上がって熱を持っているのが分かった。
「俺は医者じゃないから詳しいことは分からないが、二人とも頭を打っているみたいだ。脳震盪だろう」
 診断したとき、奏がうめき声を上げた。トレミが抱きつくように奏にしがみついた。
「カナデ! だいじょうぶか? トレミが分かるか?」
「うう、トレミ……」
 どうやら意識は戻ったらしい。
「トレミ……なんか……」
「どうした? だいじょうぶか? 痛いところはあるか?」
「あたまが……割れそうだ……うう」
 辛そうである。これはしばらく動けない。
「み、水を……」
 佐々倉は腰にかけた水筒を奏に渡す。奏は水を飲もうとして、その手を止めた。奏は隣に横たわるプティシラに気づくと、プティシラの上半身を起こして、水を飲ませてやった。
 すると、むせこみながらプティシラも意識を戻した。
「うう……」
 後頭部を抑えながら「ここは……」と尋ねる。どうやら重篤である様子はない。
「だいじょうぶか、プティシラ。あたま痛いか?」
 トレミの大声が一番辛いらしく、プティシラは顔をしかめて耳をふさぐ。
「トレミが助けてくれたのか?」
 奏が尋ねると、トレミは「うん」と誇らしげにうなずく。次に「おじさんもね」といって、奏たちの背後を指差した。
 おじさんもね? という疑問符を頭上に浮かべる二人。
 奏とプティシラはまず、お互いの顔を見合った。なんらかのアイコンタクトがあったのか、なかったのか、二人は同時に、ゆっくりと背後を振り返った。
 振り返った瞬間、プティシラは泡を吹いて卒倒した。奏はただただ呆然と長身の男を見上げるばかり。
 山脈のように憮然と仁王立ちしているラリルドに言葉はない。奏はまるで錆付いた機械人形のようにトレミに向き直ると「訊きたいことが二つある」と幽霊でも目撃してきたような顔で言った。
「ひとつ。なぜラリルドが?」
「トレミと約束したから。カナデとプティシラを助けるって」
「な、なぜ?」
「なぜ? なにかおかしいか、カナデ。約束は守るもんだってコソボ婆が」
「だから、敵のラリルドがなぜ俺たちを?」
「だから、約束したから」
 痺れを切らした佐々倉が説明した。
「ラリルドも崩壊した瓦礫に生き埋めになってた。それを助ける代わりに、奏たちを助けるっていう交換条件を出したんだよ」
「交換条件……」
 奏はそうつぶやきながら、恐る恐るラリルドを振り返る。するとラリルドは般若のような顔をして「俺は約束を守る男だ。疑ったら殺す」と殺気立ったので、慌ててトレミに向き直る。
「それはいい。いや、良くないが、とりあえずその問題はいったん忘れよう。それともうひとつだ。もうひとつ質問」
「なんだ、カナデ。質問ばかりだな! いいぞ、トレミ、なんでも答える!」
「トレミ、お前、どうしたんだ?」
「どうしたんだって? なにがどうした?」
「だから、お前、なんでおっきくなってんだ?」
「おっきく? なにいってるんだ、カナデ」
「だから、お前、前はもっとちっちゃくなかったか?」
「だいじょうぶか? あたまを打ったから変なこと言ってるのか?」
 再び業を煮やした佐々倉が、会話に横槍を入れた。
「こいつ急に大きくなったんだよ。理由は分からない。誰にも分からない。本人は馬鹿だから良く分かってない。要するにトレミのことに限っては誰も説明できないってことだ」
「トレミは馬鹿じゃない!」
 トレミが腹を立てて佐々倉に突っかかっていった。
 トレミが馬鹿か、馬鹿でないか。そんなことどうでもいいじゃないか。
 奏は背後から絶えず降り注ぐ、絶望的な瘴気のほうがよほど重要であった。
 
 
 
 ラリルドは離れた場所の岩場に腰掛け、監視するようにこちらを見ていたが、どうやら襲ってくるような様子はない。それでも異様な瘴気は絶えず奏たちにプレッシャーを与え続けている。
 プティシラは相変わらず気を失ったまま。トレミは相変わらず大きなまま。佐々倉は周囲に落ちている枯木を拾ってきて、焚き火の準備をしていた。
 少なくとも今日中は動けない。頭を打ち付けたダメージは奏の足腰を役に立たなくしてしまった。おそらくプティシラも同様だ。
「気づいたことがあるんだ」
 奏が声を上げると佐々倉とトレミが一斉に奏を見た。
「生き埋めになってる間、いろいろな幻覚を見たんだ。頭を打ったせいかもしれないけど」
「幻覚を見たからって、なにに気づいた?」
「たくさんの幽霊が俺とプティシラの周りに漂ってた。蒸気みたいに立ち上っては消えていく幽霊たち」
「へえ。こんな場所で怪談話が聞けるとは思わなかった」
 佐々倉が皮肉ったが、奏は気に止めず話を続ける。
「トレミが助けてくれてから幽霊は消えたけど、俺はあることに気づいた」
 トレミが奏の傍によって「カナデ、なにに気づいたの?」と尋ねてくる。
「この場所は、墓場だったんじゃないか? かなり広大な地域。墓場か、または恐らく、この辺一帯で以前に戦闘があった地域とか」
 佐々倉は嫌味っぽく一笑にふしてみせる。
「幽霊の正体は、昔にここで死んだ人間たちだと?」
「そう。それも大量に。この辺いったいの地下には人の人骨が無数に埋まってる」
「もし、その話が本当なら、坑道を作るときに無数の白骨死体が掘り起こされてるだろうな。そんなところで採掘などするか?」
「採掘の目的が、その人骨だったら?」
 佐々倉が焚き火準備の手を休め、睨み付ける様に奏を見る。奏はある意味、確信に近い思いを抱いていた。そしてもうひとつの事実にも気づいていた。
 佐々倉はあきれた様に型をすくめる。確かに一見、白骨遺体を採掘する理由は分からない。だが、奏の中でつじつまがあってしまったのだ。
「地中に生き埋めになったとき、手探りで周囲を探ったんだ。そのとき、たくさんの木片のようなものを触った」
「それが人骨だと?」
「そうです」
「トレミ、カナデを助けるとき、骨なんか気づかなかった」
「トレミが穴を開けたとき、土に埋もれてしまったんだろう。でも、間違いないと思う」
 佐々倉が焚き木に火を起こしたころ、ため息混じりに言った。
「それが人骨だったとして、どうして採掘の目的が人骨だったという結論になるんだ?」
「それはここの採掘場の目的が『力を封じる鉱物の採掘』だからです。俺はあの地中にいる間、もともとない力を封じられていたわけだけど、違和感があった」
 トレミが興味深そうに目を輝かせている。人間大になったトレミは、見たところ成人間近くらいの女性に見える。子供っぽい印象とはかけ離れた容姿だ。
「ここで採掘される鉱物は、通力を『封じる』のではなくて『吸収する』んです。三ツ目族はここで『吸収する』鉱物、つまり『人骨』を採掘してたんです」
「馬鹿な。人骨がなぜ人の通力を吸収する? 道理に合わん」
「それが合うんです。それに、間違いありません。この場所は聖域です」
「聖域だと?」
「要するにイスカ領域です。イスカ領域は人の思いが作り出すと言われています。この大地には無数の死体が折り重なるように埋まっている。無念や後悔を残した死体。イスカ領域が誕生してもおかしくない。そのイスカ流域から漏れ出す精神エネルギーが人骨に作用して、通力を吸収するような人骨となった」
「たいした想像だが、まるで根拠がない。それとも、お前には何か確信があるっていうのか? 人骨が通力を吸収するなどと言うたわごとに?」
「……佐々倉さん、現世で使用していた御札の原材料、ご存知ですか?」
「知るわけがない、そんなもん」
「御札の素材は、人体組織だと思うんです。この世で通力を封じ込めることのできる道具が、ゆいいつ御札だけなんですが、実はもうひとつあるんです。通力を溜め込めておけるのは、御札以外に……」
「人体……」
 佐々倉はつぶやくと、視線を中に泳がせた。さすがに察しがいい。
「ここの白骨遺体は、力を吸収する。つまり、御札の原材料と同じなんです」
「おい、そりゃ、ひょっとして」
「ここで御札が作れるかもしれない」
 佐々倉は思わず立ち上がっていた。
 御札が作れるだと……。そう口ずさんでしまったのも気づかないほどに動転し、全身に鳥肌を立てた。
 御札が製造できる。そんな馬鹿な。ここは隔世だ。製造方法も材料も隠匿されている御札が、ここで作れる?
 なんて破天荒な発想をするやつだ。だが、この奏と言う男は現世でもそうではなかったか。絶対に不可能と思われる状況を、なんとも不思議な発想で乗り切ってこなかっただろうか。
「だが、奏」
 佐々倉は奏のアイデアがまだリアルに感じれず、疑問をぶつける。
「人骨が御札の材料になるとして、どうやって御札の形にするつもりだ。あれは瘴気に当てられると炸裂する仕組みだったし、人骨がそれほどの力を封じ込めるほど強度のあるものだとは思えん」
「大丈夫です。御札が炸裂するためのトリガーになる紋様は分かります。それに、強度の問題も問題ありません。なにより、幸運にもここに圧縮能力者がいます。人骨を圧縮して御札化すれば、立派に現世の御札と同じ強度ものが製造できるはずです」
「圧縮……紋様……お前、本気なのか? どうして御札の製造方法を知っている? 極秘の古文書でも盗み読んだのか?」
「いえ……現世にいたとき、なぜか解読できただけです。うまく説明できませんが」
 なぜか解読できただけ? 千年間にもおよぶ御札の歴史の中、御札の成分、製造方法、仕組みを独自に解析できた人間など、皆無なはず。それを、この青びょうたんの糞ガキが……?
 いや、待てよ。本当に作れると決まったわけではない。作れるのならばそれに越したことはないが、こんなガキにやすやすと御札を製造されてしまうほど甘いもんじゃない。
 まずは本当に実現できるのかどうか見定めてやろうじゃないか。
 この目で。
 できるものならやってみろ。
 見せれるものなら見せてみろ。
 御札という、千年間の沈黙が破られる歴史的瞬間を。

 

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