あっちから変なの出てきた

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第十二章 【 そのころ現世で! その2 】 


 伊集院照子がとんでもないことをしでかした。
 破天荒という言葉には収まりきらない所業である。
 琴は伊集院照子のお付きになってからというものの目が回りっぱなしで、すでに正常な判断もできず、濁流に飲み込まれたかのように為すがまま、パニック状態のまま流されていくしかないのである。
 どんでもないことの最たるものは、世界的パニックに追い込んだとある事件。
 今となっても、琴にはまるで現実味のない世界規模の事件を巻き起こしたのである。
 日本で連日特集を組まれるまでになった事件のあらましを説明すると以下のようになる。
 発端はアメリカのカルフォニア州のとある田舎町。人口1万人ほどの小さな町である。
 まことに不可解な事件だったが、一番最初に目撃証言のあった地域はアメリカのカルフォニア州の大学キャンパス
 1500エーカーを越える敷地面積の、ほとんどを自然の緑に囲まれた大学。
 大学敷地内にある寮があり、その屋上に正体不明の怪奇現象を目撃したとの証言が相次いだ。
 イーサン・デイビス、十九歳の寮に住む学生の証言。
「僕は早朝にいつもランニングに出かける。大学のキャンパス内にはきれいな湖があってね。そこの外周を二周するのが毎朝の日課なんだ。時間でいえば午前5時くらいかな。朝の湖畔は、靄が立ち上っていて、気味が悪いと近寄らない人もいるけど、僕はあの風景が大好きなんだ。もしかしたらこのまま、不思議の世界へ迷い込んでしまうかもしれない。そんな奇妙な感覚が、僕の好奇心みたいなものをくすぐって、ランニングにも精が出る。わかるかな。大好きなものを目の前にしたら疲れを忘れて必死になってしまうような感覚なんだ」
 イーサン・デイビスはふと思い出したように目を丸くして震えた声をあげた。
「そう。その日は湖まで行けなかった。僕は宿舎のまで準備運動しようと背中をそらした時だった。まだ白銀に近い空。心なしか薄暗くて、寒々しい空。大きくのけぞった僕は、宿舎の屋根――三角屋根のてっぺんには風見鶏がいるんだけど――風見鶏のトサカの先から奇妙な〈靄〉が立ち上っていたんだ。湖畔に掛けられたシーツのような靄じゃない。あれはまるで下からライトを当てたみたいな、上のほうに向かって膨らんでいく形の靄。そう、噴水が空に向かって噴き出しているような……」
 靄が立ち上っていようと、ひょっとしたら換気扇から噴き出す蒸気だったり、ちょっとしたぼやが招いた煙だったかもしれない。イーサン・デイビスがそう考えてもおかしくなかった。ところがそう考えずに怪奇現象めいた印象を受けたのは、その〈靄〉が一定の人間にしか「見えなかった」からである。
 イーサンは最初、のけぞったままの上下逆転した視界のまま、靄の正体を掴もうとじっと睨みつけた。どうにも正体が判らなかったイーサンは体制を元に戻し、今度は目を細めて靄を睨みつけたが、とうとうそれが何なのか正解を導き出すことはできなかった。
 イーサンは寮で同室のランディを起こして外に連れ出すと、靄を指差して「あれはいったいなんだ」と尋ねたが、ランディは眠気眼をこすって「なにが?」と首をかしげるばかり。
 日が昇っても靄は相変わらずそこに存在しつづけていたので、イーサンは寮から出てくる人間すべてにランディに向けた問いを投げかけた。
 大抵の人間は首をかしげ、ランディと同様の反応を見せたが、一人だけ意味深な反応を示した人間がいた。
 アルフレートというドイツからの留学生だ。まだ英語が喋れないアルフレートは屋上付近を指差してドイツ語で何かをまくしたてていたが、当然イーサンには分からない。
 その靄は夜になると消えてしまったらしいが、翌日のキャンパスでちょっとした話題になった。
 靄の目撃者はイーサンとアルフレートのみだと思っていたが、ほかにも何人か存在することが分かったのだ。
 翌日、最初はキャンパス内のおしゃべりから始まり、そのうち自分を見たと言いだす生徒たちが増えた。
 さらには教員の中にも目撃したという人間が現れ、一時、カレッジ内は騒然となった。
 誰が呼んだのか、オカルト雑誌の取材や地方のテレビ局までが大学に押し寄せて、この奇妙な事件を騒ぎ立てた。
 
 さて、騒ぎになったもののしょせん田舎の大学の小さな事象。これが世界的パニックに陥る要因となったのは、靄が世界中に発生したからに他ならない。
 アメリカ全土はもちろん、世界主要の十六カ国で同じような事象が無数に報告されたのである。
 宇宙人の警告か、よからぬことの起る前兆か、神の啓示か。
 終末思想の強い一部の集団が暴徒化し、世界経済までも脅かし、世界中の株価が暴落し、世界は大恐慌寸前まで追い込まれた。
 連日ニュースで世界各国の〈靄〉の目撃例が報道され、それは大学のキャンパス内に限らず都心のオフィス街、歓楽地、行楽地、観光地までに及んだ。
 その正体不明の靄の正体はいったい何なのか。最初のうちは娯楽的要素の強い特別番組などで取り上げ、国民の興味を煽って視聴率取得合戦を繰り広げていたが、靄の正体が分からないまま、目撃証言だけがつみあがっていく現状に、いよいよ世界中の報道メディアは戦慄を覚えだしたのである。
 報道が激しくなるにつれ、最初は笑顔で事象を報告していたレポーターも徐々に鬼気迫る表情で報道するようになった。
 テレビ画面を通しても、靄は見える人間と見えない人間がいる。家族の中で見える人間とそうでない人間がいれば、その不可思議さにみな寒気を感じたはずだ。
 謎がとかれないまま時間だけが過ぎ、人々のフラストレーションがたまり続けたころ、デマや流言が流れ始める。
 それはどれも暗いものだった。宇宙人が地球侵略に使用している信号、終末を予言する神の啓示などオカルトめいたものから、テロ国家の陰謀説、世界同時細菌散布説、天体異常説(太陽フレアやハレー彗星の影響説など)まで、深刻に論議されるようになり、あたかも信実かのように人々を恐怖に陥れた。
 オカルトめいた説が最も多く飛び交う中、日本の昼のワイドショウで冷静なコメンテーターがこう語っていた。
「これらの〈靄〉の目撃例は、世界各国のさまざまな場所で存在しますが、共通点がいくつかあります。それは〈靄〉が発見されるのが、大学や首都圏の駅や役所などの公共の場所であるという事。人目に付かない場所では発見されづらいことがそう思わせている可能性もぬぐいきれませんが、今までに〈靄〉が見つかっているのはどれも発展国の主要都市や人々が集う場所。中国の途上地域や東南アジア、アフリカなどの国々からは〈靄〉の目撃例は存在しません。これは明らかに人為的なものを感じませんか? 目的は全く分りませんが、これは誰かの手による大規模ないたずら、もしくは世界の終末を杞憂する組織的集団のキャンペーン……」
 
 琴はテレビを眺めながら、この女性コメンテーターの鋭い指摘に感心していた。
 今までのコメントで、一番正解に近いからである。
 高級ホテルのスウィートルームでの巨大スクリーンからは、まだコメンテータの発言が続いていたが、琴はそれより、背後のソファーに横になっているバスローム姿の伊集院照子の反応が気になった。
 この世界中を巻き込んだ騒動の元凶が、さして詫びれる様子もなく欠伸をしている様子を見て、いつだって世界を巻き込んだ重大事件を起こす人間は、伊集院照子のような人間なんだろうな、と琴は漠然と納得した。
「どうするんですか、伊集院さん」
「どうするもこうするも、後は待つだけだ。これだけメディアで報道されれば、世界中の人間がアレを目撃することになる」
「まさか、本当にここまでの騒動になると予想してことを起こしたんですか?」
「当然だろう。テレビ、報道、インターネットなどのメディアを利用するのが一番手っ取り早いと確信した。世界は何とせまくなったものか。ほんの小さな地域で起こった出来事が、翌日には世界中の人間が目撃できる。よくこれまでメディアを利用した大規模犯罪が発生しなかったものだ」
「間違えれば、これは世界に向けたテロ行為ですよ。こんなことをした人間は今までいません」
「当り前だろう。前人が実行済みの偉業を繰り返して、なにが伝説だ。最初にやるから伝説なのだ」
 確かに伝説に残る。
 これまでの騒動。かれこれ一カ月近くたっているのに、報道がさめる気配はない。それは「謎」が大きな要因である。これほど大きく騒動になったのもすべては「謎」が生んだ効果なのだ。
 この「謎」が究明されない限り、報道はいつまでも続き、いつまでも世界中の人間を憂鬱にさせるだろう。
 さらに可哀そうなことに、世界中の人間が、世界に同時に発生したこの奇妙な事象の謎を知らされることはあり得ないということ。この謎は謎のまま、永久に人々を弄び続けるだろう。
 伊集院照子は頭に巻いたバスタオルを脱ぎ捨てると、ソファーの上で猫のように伸びをしながら言った。
「ごくごくごく一部の人間が、あの〈靄〉の正体に気づくことだろう。それが人々に知らされることはない。なぜならば『そういうふうに』あの〈靄〉を作ったからだ」
「本当に現れるんですか? これだけ時間がたっても、あの靄についてほんの少しも信実に近づく噂は聞きませんよ」
「問題ないさ。〈靄〉には世界でも数人から皆無までの人数しか読み取れないようにメッセージが仕込んである。しかも、重要な部分はさらに強力に隠匿してある。それでも一人くらいは謎の正体に迫るものが出てくるだろう。もっとも謎が解けたところで、本人にとってはあんなもの、謎でも何でもないだろうがな」
 そう。これは伊集院照子が言っていた「オーディション」なのである。手っ取り早く世界中の人間から救世主となりうる資質を持った能力者を探すため、伊集院照子は世界を巻き込んだ大事件を起こしたのである。
 琴はまだこの事態を現実的に受け止めきれない。琴にできることは、世界的大不況が襲ってくる前に能力者が現れてほしいと願うことだけだ。
 あの〈靄〉は、実は伊集院照子が仕込んだメッセージが書かれている。4段階あって、1段階目は文字通り〈靄〉が見える者。これはある程度の能力の資質を持つが、人街襲来の未曽有の危機を救うほどの資質は持っていない。一般人に毛が生えたほどの能力者である。
 2段階目は、いくつかの断片的なメッセージの解読。おそらく英語で書かれたメッセージのいくつかが見える。だが、そこから文章の意味を読み解くことはできない。
 たとえば以下の文章。ここでは日本語とする。
 ■え■に■げ■は■ん■く■と■。
 こんな風に見えるメッセージから文章は想像できない。これが2段階目。それなりの能力者と思料されるが、即戦力としては不足するため、不合格。
 そして、問題の三段階。上記で示したメッセージ「■え■に■げ■は■ん■く■と■」で■に隠されたすべての文字を読み解くことのできる人間だ。
「みえたにんげんはれんらくもとむ」
 見えた人間は連絡求む、となる。しかし、3段階目ではここまでしか読み取れず、どこに連絡していいのか分からない。
 ここまで見れる人間が世界中でゼロから十人未満。ただし、世界中で大多数の〈靄〉の目撃証言がある中、ごくごく少人数が「文字が見える」と訴えたところで、誰も信用しない。ただの目立ちたがり屋の狂言として相手にされないだろうというのが伊集院照子の意見。
 そんな状態でさらに4段階目。
 より強力に隠匿された最後のメッセージである連絡先を読み解ける人間だ。これが救世主となる資質を持った人間だということ。
 さて、仮に百歩譲って読み解けた人間がいて、本当に連絡をよこすだろうか。普通の神経の人間ならば恐ろしくて、連絡などしないはず。それを伊集院照子に指摘すると、平然と答えた。
「すべてのメッセージを解読することのできる人間は、間違いなく変態だ。琴が想像するような一般的な思考や倫理、良識や道徳の通用しない相手である。そんな人間が、連絡してこないはずがない」
「……そんなものですか」
「そんなものだ。まあ、仮に見つからなくても、結局隔世のことは何も分かっていない。案外、隔世の敵は軟弱かもしれないしな」
 そんな楽観的な事態でないことは百も承知のはずなのに。
 ここまで世界を混乱に導いておいて、見つかりませんでしたでは済まされない。
 琴は胃がキリキリ痛みだしたのを感じた。
 
 
 
 エベレストにある行雲途山への修行許可申請の認可が下りないまま、時間だけが無駄に過ぎていくのを苦々しい思いで待っていたが、いよいよ伊集院照子が悲鳴を上げた。
 伊集院照子は、それほどアウトドアな性格ではないらしく、一日一度か二度出かけるが、大量の書物を抱えて戻ってきては、ホテルのスウィートルームで一日中読書をしている。
 その日も、静かに難しい書籍をめくっていたはずの伊集院照子が怒号を上げたのだった。
「もう我慢できん。申請の認可は下りないのか、琴」
 怒りをぶつけられたことは、肩を竦めるしかない。
「人間どもは事態の深刻さを本当に理解しているのか? 組織のバカどもはたった山を登るだけのことに、どれほど時間を費やせばいいと思ってる。加えて仕掛けたメッセージを解読した人間も一向に見つからない。いったい、人間の神経はどうなってる。世界中の人間全員で渡れば、赤信号でも怖くないとでも?」
 救世主が現れないのは、伊集院照子の勝手気ままな騒動の結果である。誰のせいでもない。だが琴は肩を竦めて「私に怒られても……」とか細い声を上げるしかない。
「お前が不甲斐ないのだ。私の助手のくせして、毎日インターネットばかり。たまには私の役に立って、私に褒められて見せろ」
「イライラするのは分かりますが、何度も申請の認可は促していますし、エベレストまでの航路はすべて確保しています。後は自然管理委員会が認可して、中国政府との交渉に入って、数々の認可のワークフローをつぶして行かなくちゃいけないんです。しかも今回は北京条約で交わされた年齢や経験年数の制限を解除して、大人数でけしかけようって言うんですから、認可はされるにしても、時間がかかってしまうのは仕方ないんです」
「あほどもの許しを一つ一つ待っているほど私は悠長じゃない。いいか琴、もう待ってられん。お前は私の助手として、今すぐに行雲途山行きを手配しろ。計画しろ。実行しろ。許可など待つな。時間制限は一時間。できなかったらクビだ。ほら、用意、スタート!」
 理不尽にまくし立てられ、琴は目を丸くして伊集院照子を抗議した。伊集院照子は再び本に視線を落とし、時計を見やりながら時間を計っている。
 なんて人!
 あったまきた! クビで上等! これまでどれだけ伊集院照子に尽くしてきたと思ってる! あんたなんか私がいなかったら何にもできないことを思い知らせてやるから!
「もう勝手にしてください!」
 琴はついにぶち切れて席を立った。
「いつも勝手なことばかり! 伊集院さんがそんな態度を取るなら、私も考えがあります」
「ほほう、いったいそれは?」
「クビになる前にやめさせていただきます。どうぞ、気に入らないのならご自分で手続きなさってください」
 琴はバタンとノートパソコンのモニターを閉じると、怒り覚めやらぬ様子でホテルのスイートルームを飛び出した。
 悔しくて涙がにじんでくる。こんなに一生懸命に尽力したのに、あの人は文句ばかり。琴のことを不甲斐ないと罵ってばかり。
 琴はそのままホテルを出ると、実家に戻って部屋に閉じこもったのだった。
 
 
 
 部屋に閉じこもってから七日がたったころ、部屋をノックする音に気づいて顔を起こした。
「おい、琴。起きてるか?」
 眠っていた。時を見ると午前十一時。昨夜眠ったのが深夜一時だから十時間もねむ続けてしまった。これはストレス睡眠だ。半ば現実逃避のように睡眠に逃げているのだろう。
「入るぞ」
 遠慮がちに扉を押し開いてきたのは弦だった。
「なんだその頭は」
 弦は琴の様子を見るなり、おかしそうに唇を吊り上げる。
「寝癖でメドゥーサみたいになってるぞ」
「うるさいなあ。ほうっておいてよ」
「お前、伊集院照子のところを飛び出してきたらしいな」
 ああ、聞きたくない。弦は何をしに来たのか。
 琴は枕を弦に投げつけると「出て行って!」とヒステリックに怒鳴りつけた。投げつけられた枕をあっさりキャッチすると、弦は枕を琴に投げ返しながら椅子に腰掛けた。
「俺だって伊集院照子のわがままには振り回されてるんだ。というより、鳴音一家全員、あの女に振り回されっぱなしだな。お前は助手、俺は伊集院照子の計画したとんでもないオーディションのおかげで、委員会にも極秘に世界中へ人間を派遣して、あんな仕掛けを仕込んでこなければならなかった」
 世界中に発生した〈靄〉の仕掛けを設置したのは、弦がチーフマネージャを務める「イスカ領域調査部」である。仕事上、世界中に飛び回ってイスカ領域を調査する部署であることが伊集院照子に利用された。
「親父は親父で、伊集院照子の起こす数々の事件の隠蔽に翻弄してるし、弟の階は伊集院照子のプログラミングした特別訓練メニューで毎日修行させられている。お前の気持ちもよくわかるさ」
 慰めに来たのか。長男らしく振舞おうというつもりらしい。
「あれから伊集院照子は新しい助手を雇ったらしい」
 どうせ、私は用済み。そんな話は聞きたくもない。
「雇うも雇って、現在では十五人目だ。それも今朝がた逃げ出したらしい」
「十五人?」
「ああ。誰もが伊集院照子のわがままについていけず、伊集院照子が課す数々の課題をクリアできず、クビになる者、逃げ出すものが続出し、結局十五人。誰もが一日として持たなかったとさ」
 そりゃそうだ。伊集院照子の助手という仕事が、どれほど過酷であるか。
「ほら、これ」
 弦が封筒を差し出してきた。
「なにそれ」
「航空機チケット」
「航空機チケット?」
 弦はふふ、と鼻で笑った。
「これは伊集院照子が慣れないコンピュータを操作して、自分で予約した航空チケットらしい。助手が誰もいなくなってしまったので、自分で苦心して取得したそうだ」
「あの伊集院さんが?」
「そう。それで、お前に渡してくれって」
 琴は封筒に入ったチケットを受け取ると、まじまじと封筒を眺める。
「まあ、後のことはお前に任せる。俺は伊集院照子に頼まれて、これをお前に渡しに来た。まあ、これを俺に頼むときの伊集院照子の様子を話してやりたいが、プライドの高い彼女の名誉のために黙っておこう」
 弦は席を立つと、琴の頭をなでた。
 まるで子ども扱い。
「今度、むしゃくしゃしたら俺を頼れ。話くらい聞いてやる」
 その言葉を残して、弦は部屋を出て行った。
 しん、と静まり返る室内。琴はゆっくりと封筒を開き、チケットを取り出してみせる。いくつものチケットは、行雲途山まで行くための経由するすべての航空チケットだ。一枚一枚めくって確認していくが、琴はため息を漏らさずにいられなかった。
「スケジューリングがまるでめちゃくちゃ。これじゃあ、行雲途山にたどり着けないじゃない……」
 琴は気合を入れるように自分の両頬を手で挟みこんだ。
 机の上にあったノートパソコンを久しぶりに開き、電源を入れる。
「全部やり直さないと……」
 琴はすべてのスケジューリングを引き直し始めた。
 
 
 
 成田に向かったのは、伊集院照子のスウィートルームと飛び出してから十五日後のことだった。
 タクシーを降りると、航空機が滑走路を飛び出る騒がしい音。そして人の波。あれから伊集院照子とは会っていなかったが、まずは手配しなおした新しい航空機チケットを渡さなくてはならない。
 ところが、ターミナルに入ったとたんに探さずとも伊集院照子を発見することができた。
 ターミナルのど真ん中で、伊集院照子はいつもの様子でわめき散らしていたからだ。伊集院照子を囲むように男女の職員が囲んで宥めていたが、怒り覚めやらぬ様子で伊集院照子は大声を上げている。
 周囲の冷たい視線にも気づかず、わめき散らす伊集院照子に駆け寄ると、周囲の困り果てた様子の従業員たちに何度も頭を下げて、周囲から怪訝そうに取り巻いていた一般客にも頭を下げながら、伊集院照子を待合ロビーまで引っ張っていった。
「あの愚かものどもが、私を誰だと思っている。外国語ばかり口にしおって。話がまるで理解できん」
「伊集院さん、ほかに人は? まさか、一人できたんですか?」
「一人で来て悪いか」
「手続きなんて助手に任せればいいじゃないですか」
 そう言うと、じろりと琴をにらみつける伊集院照子。
「……助手はいない。みんなクビにした」
「全員? 一人も?」
「そうだ。とうとう、委員会も人を派遣してこなくなった。私は心底委員会に愛想を尽かした。あんな組織など頼ってられん」
 要するに、愛想を尽かしたのは委員会側と言うことだろう。
「分かりましたから、まずチェックインを済ませましょう」
「ちぇっくいん? お前まで外国語にかぶれているのか」
「はいはい。いいから手続きを済ませましょう」
「なんだその呆れたような態度は」
 伊集院照子の手を引いて、自動搭乗手続き機でチェックインを済ませさせた。まったく手の焼ける人だ。終始、憮然と不機嫌そうな伊集院照子を連れて、ターミナル内のレストランに連れて行くと、ソフトドリンクを飲ませた。
 よほどのどが渇いていたのか、用意されたオレンジジュースを一気に飲み干すと、ため息ひとつもらしたが、どうやら少し落ち着いたようだ。
「空港とは、まるで祭りのようだ。人がわんさかいて、ぎゃあぎゃあと声を上げている。世界の危機だと言うのにどいつもこいつも浮かれおって」
「仕方ないですよ。みんな海外旅行に行く直前で浮かれてるんです。いいじゃないですか、楽しんだって。世界の危機に怯えて暗い顔をしてるよりましですよ」
「現在の日本国民には、自分が住まい、生活しているこの世界に対して真剣味が足らんと言っている」
「だから、人は人。私たちは私たち。それぞれの目的があっていいじゃないですか。ほら、次はなに飲みます。それとも何か食べます?」
「誤魔化すな。お前も見てみろ、あいつらの腑抜けた面を。きっと世界が危機に陥ったとき、真っ先に死ぬのはあいつらだ」
 もう、また文句ばかり。
「いつまでも文句ばかり言ってると、私、帰りますよ」
 そういった瞬間の伊集院照子は、顔面を蒼白とさせ、この世の終わりを見たかのような顔をした。
「ま、まて。それとこれとは話が別だ!」
「同じです。そんな様子だから、助手はみんな伊集院さんのもとを離れてしまうんですよ。いくら伝説の偉人だからって、相手のことを思いやらないと本当に一人になっちゃいますから」
「ふ、ふん。私はもとより孤独。一人で戦ってきたのだ。いまさら一人になろうと――」
「じゃあ、勝手にどうぞ。私は帰りますから」
 そう言って席を立とうとすると、蛇が獲物を捕らえる俊敏さで、琴の腕を掴む伊集院照子。
「どうしたんですか?」
「い……な……」
「はい? よく聞こえません」
 聞き返すと、伊集院照子は真っ赤な顔をして、頭から湯気を上げながら言った。
「私が悪かった……。行くな……」
 琴はにっこり笑うと、腰を席に戻した。
「分かりました。帰りません。行雲途山までお供しますから」
 伊集院照子は心底ほっとしたようにため息を漏らす。
「さあ、出発の時間まで何か食べましょうか。私はおなかペコペコです」
 伊集院照子はトイレを我慢する子供のようにうなずいた。
 
 
 
「実は一人連絡があってな」
 伊集院照子がカルボナーラを頬張りながら言った。
「連絡って、誰からですか?」
「暗号を解読した人間から」
「え!? 本当ですか?」
「たぶんな」
 たぶんって。
「それでどうしたんですか? その人は?」
「よく分からん。携帯電話にかかってきた電話に出たものの、なにやら外国語のようで聞き取れなかった」
「まさか……居たんですか、あれを解読した人間が」
「まあ、よく分からんと言ったとおり、いたずら電話かもしれん」
「でも、誰も伊集院さんの番号は知らないんですよね」
「知らないが、適当に番号を押しただけかもしれない。とにかく、電話の相手に日本語で『今日、成田に来い』とだけ伝えておいた。これ、見えるか?」
 伊集院照子はフォークを持った右手の甲を琴に向ける。そこにはなにやら紋様のようなものが書かれている。
「これは、あの〈靄〉と同じ仕組み。あれを解読できたものだけが、私の居場所を特定できる」
「私には何も見えません。見える人には、それがどう見えるんですか?」
「私の脳天から、巨大な電話番号が浮かんでいるように見える」
 琴は頭上を見上げてみるが、先に言ったとおり何も見えない。
「運がよければ来るだろうが、外国語だったからな。伝わってないかもしれん」
「なぜ外国語の分かる人間に代わらなかったんですか?」
 そうたずねると、伊集院照子は不機嫌そうに口を尖らせた。
 ……代われるような人間がそばにひとりも居なかったのだろう。
「まあ、これもオーディションのひとつ。ここにこれない人間であれば、能力がなかったと判断する。そもそもやってくる気がなくても、素質なしと判断する」
「それにしても……」
 琴は周囲を見渡してみる。
「ほかに修行志願者は居なかったんですか?」
「ほかに?」
「せっかくの行雲途山修行です。年齢制限も解除したんでしょう? それなのに、行くのがたった二人だなんて」
「何を言っている。年齢制限など解除しておらん」
「どういういみですか? なら、年齢的に私も伊集院さんも行雲途山修行はできませんよ」
「お前はそもそもの認識を間違っている。ひとつ、私は修行などしない。ひとつ、誰がいつ許可を取ったなど言った?」
 琴はフォークにパスタをまきつけて、口に運ぼうとしたままの体制で固まった。
「まさか……」
「まだ許可など下りていない。だから誰も連れてこれなかった。お前以外はな」
 琴は全身が凍り付いて行くのを感じた。
「そんな……じゃあ、これって……」
「無許可だ。もう嘆いても遅いぞ。お前は行くと私と約束した。弟子はお前一人。修行を受けるのもお前一人」
 まただ。
 やっぱりだ。
 少しは反省したと思ったのに、この人の破天荒ぶりはまるで変わっていない。めまいがしそうな犯罪行為に、知らずに手を貸そうとしていた自分を恐ろしく思う。
「心配するな。私が何とかする。すべて任せておけ」
 なんて信用の置けない言葉。
 琴は目の前が暗転していくのを感じた。
 
 
 
 伊集院照子の携帯電話がなったのは、食事を終えて伊集院照子がゲップを一発かました直後のことだった。
 おもむろに電話に出た伊集院照子は「なんだ」とぶっきらぼうに言った。
「ああ? 何を言ってる。まったくわからん」
 不思議そうに伊集院照子の様子を窺う琴。
「だから、日本語で話せ。まったく通じん」
 伊集院照子が呆れた風に肩を竦め、通話を切ろうとした瞬間、琴は気づいた。
「ああー!」
 突然琴が大声を上げたのものだから、伊集院照子は肩を震わせて驚き、周囲の一般乗客たちも不審そうに琴を見た。
「伊集院さん、替わってください」
 手を差し出すと、伊集院照子から携帯電話を受け取る。
「もしもし?」
 携帯電話を耳に押し当てると、なにやらまくし立てる声。女のヒステリックな声のようであるが、まったく解読できない。
「たぶん、中国語……。でも言ってることはまるでわからない」
「いい。日本語の通訳くらい用意できないやつだ。切ってしまえ」
「そういうわけにはいきません。七十億分の一の人ですよ。兄さんがあの仕掛けを世界中に設置するのにどれだけ苦労したと思ってるんですか」
 そのとき、ターミナル内の一角が騒然となった。
 伊集院照子と琴はいっせいに騒動の先を見た。
 騒動は、待ち合わせロビーにできた集団が元凶らしい。まるでアリの軍団のように黒服がひしめき合い、その先頭で少女らしき女がわめき散らしている。
 少女の背丈の倍はありそうな黒服の屈強な集団は、少女を守るように周囲を警戒しており、その少女と言えば、なにやらこちらを指差しているようにも見える。
 なにより、少女の片手に握られた携帯電話。
「あの子だ……!」
「なに? あの集団か?」
 琴はとりあえず通話を切った。すると、少女と黒服の集団は琴のいるレストランまで大挙して訪れ、レストラン内を黒色に染めた。
 愕然としていると、都市で言えば十五、六の少女が琴に向かってまくし立てる。少女が指差すのは伊集院照子の脳天。少女はどうやら怒り心頭の様子で、ただでさえ意味のわからない中国語は、まるで聞き取れないラップ音楽のように聞こえた。
「うるさい、小娘!」
 伊集院照子が一括すると、少女は顔を真っ赤にして押し黙った。
「黒いのはお前の部下か何かか? 大挙して現れやがって。お前は礼儀と言うものを知らないのか」
「まことに申し訳ありません」
 黒服の一人が、少女の前にずいっと出てくると、伊集院照子に対して深々と一礼する。
「お嬢はお転婆でして、どうか勘弁願えないだろうか」
 伊集院照子はじろりと男をにらみつけると「いいから自己紹介でもしろ」と言い放つ。
「われわれば貴方の残した文言を解読し、貴方が指定したどおりここにやってきたのです。貴方こそ、われわれを呼んだ目的を示していただきたい」
「なるほど。だが、私はこんな大人数を呼び寄せたつもりはない。それに、この中でいったい誰が暗号を解読したと言うのだ」
 あからさまに威圧的な黒服の集団の中、物怖じしない伊集院照子は、こういうときに頼りになる。
 レストランの従業員が恐々と現れた。
「あのう……お客様。他のお客様の迷惑になります。どうか、お話は別の場所で……」
 店長らしき男は手をもみしだき、腰を折り曲げて頭を下げる。「ふん」と伊集院照子が鼻を鳴らすと「琴、会計しておけ」と言ってレストランを出て行った。それについていく黒服の集団。
 国際ターミナルで、やくざのような集団が列挙したら問題にならないか。琴は心配しつつ会計を済ませると伊集院照子を追いかけた。
 出航ロビーに伊集院照子はいた。ところが、先ほどの黒服集団は一人を残しいなくなっていた。ソファーに腰掛けて伊集院照子と対峙しているのは、少女と黒服一人。
 伊集院照子に近づくと、先ほど日本語を話していた黒服と会話している。
「解読したのはそこのガキだと?」
「そのとおりです。われわれには何のことかわかりませんでしたが、お嬢が日本にいくと言って聞きませんので、こうして連れてきました。ですので、お願いですからお嬢の納得いく説明をしてもらえませんか?」
 黒服の男は、まるで日本人のように流暢な日本語を操る。
 少女と言えば、不機嫌そうに腕を組み、むすりと口を尖らせている。
「お嬢が言うには、いま世界中を騒然とさせている〈靄〉事件について、発生している全ての〈靄〉にはメッセージが書かれていると。それを読むことができるのはお嬢だけだと。ためしに書かれていた番号に連絡してみると、昨夜に貴方へと通じた。ところが言語が通じない。『成田』と言う言葉を残し、通話は切れ、その後は何度かけても通じなかった」
「まあ、これもオーディションのうち。そういった意味ではここまでやってきたお前らは合格だ。だが、まだ同行を了承したわけではない」
「同行とは? われわれはそもそも、そのメッセージの意味がわかっていないのです。ここに呼び出された意味も。大変好奇心旺盛なお嬢が行くと利かないので、こうしてやってきましたが、目的を教えていただけませんか?」
「目的は行雲途山修行。あの〈靄〉の解読ができたのはお前の隣にいる小娘ただ一人。特異な素質を持っているといえる」
「お嬢が? お情はお転婆ですが、特に変わりのない普通の少女です」
「まあいい。先に答えあわせだ。メッセージには何が書いてあった?」
「お嬢に、紙に書き写してもらった結果、どうやら日本語のようだとわかり、私が読み上げました。そこにはこう書かれていました。『人類滅亡の危機。読めたものはすぐに連絡すべし。世界一の美女より』。その後に電話番号らしき番号。これだけでは何のことか分かりません」
「まあ、文字数制限があるからな。簡素になってしまったが、いずれにしても正解だ」
「ちなみに、世界一の美女とは?」
「そんなもの、目の前にいるだろう」
 黒服の男は表情一つ変えず、伊集院照子を見た。ところがため息を漏らすと顔を伏せたのである。
「なんだその残念そうな顔は」
「……僕がこの仕事を引き受けたのは、ただひとつ『美女』の部分に惹かれただけだったのに……」
 黒服の男はおもむろにタバコを取り出すと火をつける。あからさまにやる気の失せた様子。
「失礼な! 私が美女でないとでも?」
「美女でしょうが……世界一はいくらなんでも誇張しすぎじゃあないですか……」
 なんだろう、この黒服の男は。先ほどまでの威圧的な雰囲気は消えうせ、今はただの若い青年に見える。
 それにしても何たるメッセージ。琴もメッセージの内容は知らなかったものの、『世界一の美女』などと書くとは。あきれ返って口も利けない。
「お前、ただの通訳じゃないのか?」
「ただの通訳ですよ。ただ、このわがままなお嬢につき合わされてヘトヘトなんです。『世界一の美女』が僕の唯一のモチベーションだったのに」
「失礼にもほどがある。お前に美を語る資格などない」
「まあ……いいですけどね。じゃあ、さっさと仕事を済ませてしまいましょう。それで? 行雲途山修行とは?」
「貴様、中国人の癖して、行雲途山を知らないのか?」
 中国人だって、その道に携わるものでなければ知る者は少ないだろう。
「あの、確かに知らないですが、僕は中国人じゃありません。こう見えても日本人です。だってほら、日本語上手でしょう?」
 日本人なのか。確かに日本語が流暢過ぎると思った。
「中国語を話せる日本人です」
 そのとき、少女が男をひじでつつく。中国語で何かをまくし立てている。
「早く結論を聞かせろとせがまれました。この子、こう見えても中国マフィアの親分の一人娘でして、僕も仕事をちゃんとこなさないと命が危ないのです」
 中国マフィア? また危険な香りが……。
「あなた方も気をつけたほうがいい。おかしな態度を取ると抹殺されちゃいますよ」
 琴はごくりとつばを飲み込み、周囲を窺った。あからさまに国際線のロビーに不釣り合いな黒服の男たちが、いたるところからこちらを監視している」
「琴、例のものをよこせ」
「え?」
 突然言われて、何のことだと戸惑う琴。
「念のため、追加してある二組の搭乗券だ」
 ああ、そうか。
 バックから余分に予約しておいた搭乗券を取り出す。
 伊集院照子はテーブルの上を滑らせて、二人の前にチケットを差し出した。
「搭乗時間まであと十分。だから、五分で決めろ。くどくど説明はしない。これから中国に向かう」
「中国? われわれ、その中国からたった今着いたばかりですよ」
「無駄口を利いている暇はない。その小娘に問え。世界を救うために行雲途山へ通力の修行に向かう。それは中国のチベット自治区にあるエベレストにある。ただし、無許可である上、修行は厳しいものとなる。高い確率で命を落とすことも考慮しなくてはならない。その覚悟があれば、この搭乗券を受けとれ。念のため用意しておいたチケットは二組。小娘と後一人、同行を許そう。さあ決めろ」
 黒服の男はきょとんと目を丸くしている。
 少女が肘で突くと、男は少女に中国語で説明した。説明している間の少女の顔は、最初はむすりと不機嫌そうだったが、最後には目を輝かせて、期待に胸馳せる少女の表情に変わった。
 どうやら、返事は聞かなくても分かってしまった。
「お嬢が言うには『上等だ。命の危険? そんなの屁でもねえよ』だそうです」
 そんな口調で言っていたようには聞こえなかったが……。
 伊集院照子は小指で耳をほじくりながら「じゃあ連れて行ってやる。死んでも知らん。マフィアの一人娘かなんだか知らんが、わがままを言ったら私が殺してやる」と言った言葉をそのまま中国娘に伝える男。
 少女は何かを反論していたようだが、男は面倒そうに「よろしくお願いします、だそうです」と短く略した。
 たぶん違う。少女はもっとたくさん喋っていたもの。琴はかんぐったが指摘しなかった。
「じゃあ、小娘の付き添いはお前でいいな?」
「え? 僕?」
「ほかに日本語をしゃべれるやつはいるのか?」
「……いや、いないと思いますが……でも、僕はただの通訳ですし……」
「構うものか。とにかく、大至急チェックインとやらを済ませてこい。その足で出発だ。急げ」
 男は戸惑いながらも少女に急ぐ旨を伝えると、少女はあわてた風に立ち上がり男の手を取って走り出した。
 そのとき発した言葉だけ、琴には理解できた。
 少女は「あいやー」と声を上げながら走り去って行ったのであった。
 
 
 
 割愛するが、突然少女と黒服一人、そして伊集院照子と琴が飛行機に搭乗しだしたときは周囲に控えていた黒服集団が大いに慌てふためいた。
 搭乗口に黒服が殺到し、事情を知らない黒服たちは空港職員たちとひと悶着起こした。
 その後のことはよく分からないが、無事定刻どおり飛行機は空港を飛び立ち、空席の目立つ座席にはふんぞり返る伊集院照子(飛ぶ寸前は青い顔して「本当に飛ぶのか?」と琴に質問を繰り返していたが)。その横でやれやれと米神を揉みあげる琴、そして遠足気分でキャッキャと浮かれる少女と、顔面蒼白な通訳の男。
「殺される……マフィアの親分の娘をさらっちまって……絶対殺される」
 と、一心不乱に呟いていた。
 飛び上がってしまえば平然としている伊集院照子は「喉が渇いたな、琴。何か持ってきてくれ」といつもの態度。
 仕方なくベルト解除のサインが出てからCAを呼んで、ソフトドリンクを頼んだ。
「なあ、琴。この前にお前が持ってきた古文書を読んだんだが、あることに気づいてな」
 古文書とは、鳴音家に貯蔵される鳴音家の歴史を綴った本。中には人間と人外との歴史を書き綴った文献もあり、その約三分の一を伊集院照子は読破した。
 そもそも、世界に散らばるS級の御札を知るために始めた調査。伊集院照子が言うには、世界にいつつ存在するS級の御札はすべて偽物であると言う。あるいは実在しない。S級が生まれた歴史を時系列に並べてみれば、伊集院照子の先代がたどってきた歴史となるはずと読み始めたのだ。
「S級の御札は、同じ時代に二つは存在しないはず。なぜならあの男を封じるために術師が自ら御札化し、中に男を閉じ込める。それはリレーになっていて、私が受け継いだと同時に過去のS級の御札はこの世から消える。それが消えていないことになって、歴史に残っていったのだ」
 それは前にも聞いた理屈。
「それで、どうだったんですか?」
「それが、よく分からん。私が明治に引き継いだのは川原静子という女だった。御札化の力を失い、私に役目を引き継いだ。その後、川原静子がどうなったかは知らんが、私は今回のように取り逃がしてしまったあの男を苦心して捕らえ、御札の中に封じた。それは遥か昔から繰り返されてきたリレーで、同じ時期にS級の御札が存在しないと言う確かな証拠に思えた」
 S級の御札は日本に二つ。そのうちひとつは伊集院照子が封じられていた。ならばもうひとつは? あの中にも伊集院照子のような御札化の能力の持ち主が入っているという通りになるが。
「文献を読むと、どの伝説の術師も『S級の御札を使用したとき』から行方知れずとなる。どの理屈は『自らがS級札となり敵を封じたから』と説明できるが、あの男のような化け物が世界に五人いるとは考えにくい。だが、S級札を使用したとされる過去の偉人を見る限り、私の知っている者はいない。私が人外の歴史に詳しかったかと言われればそうでもなかったが、なにか腑に落ちん」
「そもそも、伊集院さんが封じていた男は何者なんですか?」
「最悪を絵に描いたような男さ。あいつを野放しにしていたら、いずれ世界が滅びる。そういう男だ」
「そんな男なのに、何ヶ月も何も起こらないですよ」
「いずれ教えてやる。今しばらくは問題ない。だが、その前に世界に散らばったS級札を調べてみる必要がありそうだ。確か、S級札のひとつは行雲途山にあるんだったな?」
「まさか……伊集院さん、一人でも中国に行こうとしていた理由って……」
「そのS級札に用があった。S級札は同じ能力者しか解除することができない。ならばこの私がじきじきに調査すれば、それが本物であるかどうかすぐに分かる」
 世界に散らばった五つのS級札。それをすべて調べると言っている。
「ついて来い、琴。お前の知らなかった世界の真実を見せてやる。そもそも、術師とは人外退治のためにいるのではない。もともとは中国で、あの男を封じるために生まれたものだ。人外退治など、術師の副業に過ぎん」
「そ、そうなんですか?」
「起源をたどればそういうことになる。だから何度も言っているだろう。人間の敵は人外などではない。人間の敵は、人間以外には存在しないのだ」
 確かに、伊集院照子が何度となく口にするその言葉。
 いったい、この世界では何が起こっているのか。伊集院照子はいったい何を知っているのか。
 琴は空恐ろしくなり、肌寒くなった。

 

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