あっちから変なの出てきた

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第十一章 【 ユーナの冒険譚 その3 】 


 キーファには夢がある。それはそれは壮大な夢だ。キーファの実験は夢がかなうまで終わらないし、夢がかなったとしても次の夢は用意してあった。
 キーファは姉が居た。とても変わり者の姉で、容姿端麗であるばかりか、不思議な力を持っている魔法使いであるのだ。誰も信用しないし、信用してほしくない。知られてしまったら、きっと姉の魔法は三ツ目や盗賊団に悪用されてしまうに決まっているからだ。
 以前はウィンディアという放浪集団とともに生活をしていたが、同じ二ツ目族にも悪いやつはいる。姉の美しい容姿を付けねらう男たちがウィンディアにもいて、夜な夜な何度も姉を襲おうとするので、キーファは姉を連れて森の中に逃げてきたのだった。
 この世界のどこにいたって悪党はいる。三ツ目族はもちろん、もっと数が多く、はじめから自分が悪党であることを自負する集団がいる。
 マーメイド盗賊団のやつらである。やつらはもともと巨大な水溜りの上で盗賊家業を商いとしていたが、近頃は大陸まで足を伸ばして、陸の上でも徒党を組んで悪さしているらしい。
 きれいで若い女は、盗賊団に奪われ、三ツ目族に税金のように徴収されてしまう。どんなにキーファーが努力しても、自分には姉一人守る力もないことをよく知っている。だから探し出す必要があった。誰も来ない。誰も立ち入らない場所。
 そしてこの森を見つけ出した。通称「魔の森」という安直な名前がつけられたこの森は、政府である三ツ目族が金網を張り巡らし、通称「役所」とされている政府管理下におかれた立ち入り禁止区域だ。
 この森には怪物がいる。そんなうわさと、政府の戒厳令が敷かれた立ち入り禁止区域とあいまって、誰も立ち入らない森だった。隠れ家としては最適である。
 姉には秘密がある。美しい容姿ばかりではない。姉はとても不思議な力を持っているのだ。キーファやほかの誰にも理解できない不思議な力だ。
 以前からこの森にこっそり立ち入っては、目的の材料をこっそり探し回っていたキーファは、この森に一切人気が無く、三ツ目族どころか物の怪の類さえ居ないことを知っていた。なぜ「死の森」と呼ばれたり、怪物が住んでいるなどといううわさが蔓延っているのか、原因は定かではないが、森に暮らし始めて半年ほどたっても、獲物となる野豚や羊など以外に猛獣も居ない。
 それに、キーファが望むものがそこらじゅうに落ちており、生活するためのものはすべてそろうのだ。ここは楽園に等しく、三ツ目族の役所でありながら三ツ目族はおらず、噂にあった化け物もいなければ、盗賊団もいない。これほど安全が約束された場所はほかに考えられなかった。
 冬の差し迫ったその日も、キーファはまき広いと一緒に、金目のものを物色し、または目的の材料を探し回り家に帰ってきた。
 住処にしている家は、朽ち果てた小屋をキーファが自ら改築、増築を行い、二人が住める広さの家を作ったのだった。
 なにより冬に間に合ってよかった。後は雪が積もる前に暖炉用の枯れ木と食料の調達をしなければならない。
 家は積雪にも耐えうるよう考えた。大木に寄り添うように家を建て、樹齢数百年にもなりそうな大木の強靭な肉体と生命力にあやかった。奇妙にS時に折れ曲がった大木が雪をよけ、風をよけてくれる。まるで父親のような存在だと思った。
 実は姉のアイデアである。家の建て方も、立てる場所もすべて姉が指差した通りにした。最初はわからなかったが、住んでみて姉の指差した方角がいつも正しかったと思い知らされた。
 家に入ると、キーファは暖炉に暖められた部屋にほっとした。暖炉の前にはキーファお手製のルッキングチェアに腰掛けて、腰掛をひざに被せて本を読む姉が居た。キーファが帰ってきたのに気づくと、優雅に顔を上げて姉はにっこりと微笑んだ。
「ほえぇり」
 とぼけた声を出す。あくびをしながら何かを言ったようだが、聞き取れない。
 姉もキーファも教養は無い。一家に本というものも無く、あるとすれば政府が発行している分厚い経典くらいだが、字も読めないキーファは暖炉の火付けダネとして、一枚ずつ破っては使用しているが一向になくなる様子は無い。
「また黙って外に出たの?」
 キーファが眉をひそめて尋ねる。姉には毎日毎朝、勝手に表に出るなと口の中が腫れ上がるほど繰り返し言っているにもかかわらず、目を離すととたんに森へ繰り出してしまう姉。退屈なのはわかるが、姉のためなのだ。仕方ないのだ。
 姉はとぼけたように暖炉に枯れ木をくべた。聞こえなかったことにしたいらしいが、そうはいかない。部屋には姉が森の中で拾ってきては収集した品々の数々が壁や棚の上に並べられている。それはそれは奇妙なものばかりだ。姉の悪趣味な頭の中を、そのままこの部屋に置き換えたような有様。
 十字の形をした台座に貼り付けられた人間を象った金属や、何を象徴したのか、素材さえも不明な不気味なお面、紫色の透明な石。文字なのか、奇妙に弾けた絵柄の金属の筒や、小汚い木箱や、用途不明な機械。機械はきっと古代の文明品だとキーファーは睨んでいる。きっとこの世界は、過去にとんでもない高度な文明があったのだ。それはきっと、千年前の三ツ目族襲来に合わせて失われた。キーファーはそう信じて疑わない。
 高度な文明品であろうと、あっても意味のない道具には違いない。家の中に不用品があふれる前に処分しろと幾度となく姉に進言したが、姉はほほを膨らませて首を振るばかり。
「その本、森で拾ったんだろ」
 キーファが尋ねると、姉は胸にうずめるように手にしていた本を抱きしめて、キーファを睨み付ける。
「取り上げないよ。何が書いてあるの?」
 姉はキーファの様子を見て安堵したのか、にっこり笑って本を開いて中を見せてきた。キーファは上着を脱ぎながら本を見やる。奇妙な図形と添えられた文章。
「何が書いてあるかわかるの?」
 姉は一度うなずこうとしたが、躊躇したように首を横に振る。どういう意味だろう。姉はあごに人差し指を当てて、難しそうな顔をしている。
 前にも言ったが、キーファも姉も教養は無い。ただし、なぜか姉は字が読める。初めて見る言語も、しばらくすると読めるようになっている。誰かに教えられたわけでもないのに、読めてしまうからくりがキーファにはわからない。これは姉の魔法のひとつなのだ。字を読めたり、人の心がわかったり、時々キーファの理解できない呪文を唱えているときもある。
「書いてあることはわかるけど、意味がわからないの」
 姉が言った。そう言った姉の言葉のほうが意味がわからない。
「風が吹いて、空気のバランスが偏って、空に浮かぶんだって」
「なにそれ」
 姉が不機嫌そうな顔をして、わかんないよ、と近くにあった毛糸の玉をキーファに投げつけた。
「空に浮かぶって、どういうことだよ」
 姉が空中を眺めてから、ふふう、と息を吐きながら両手の手のひらを合わせた。合掌させた手を目の前に突き出すと、くいっと横にひねった。右手が上、左手が下。
「私の手が空気だよ。下にある左手の空気が強くなると、右手の空気が上に上がるでしょ」
 姉は手を合わせたまま頭上に持ち上げ、後は手を放して万歳してみせる。
「ほら、空に浮かんだ」
「分かんないよ」
「だから」
 姉は苛立った声を出すと、本のページを一枚切り取って突然たたみ始めた。キーファは不思議そうに見ていると、姉は切り取ったページを先端のとがった形にして、空中に投げてみた。折った紙が宙に舞う。
 キーファは目を見張った。折った紙は一度天井近くまで舞い上がったのだ。あごを突き上げてその様子を眺める。天井に当たって、部屋を旋回しながらゆっくりと降下してくる紙。これはまるで――。
「ね」
 どうだ、と姉が誇らしげに口を尖らす。キーファはそれどころではなく、ふわりと落ちてきた折り紙をキャッチした。まるで壊れやすい宝石を抱えるように、まぢまぢとその物体を眺めた。先端を尖らすようにして、三角形に折られたその形は、キーファが漠然と思い描く、夢の形そのものだったのだ。
「姉ちゃん!!」
 キーファが突然大声を出すものだから、姉はロッキングチェアをきしませて縮み上がった。
「その本!」
 鬼気迫るようにキーファが詰め寄ると、取り上げられてはたまらんと、本を守るように背を向ける姉。
「その本には何が書いてあるの? ねえ、姉ちゃん!」
「イヤッ」
 姉は昆虫のようにすばやい動きで隣の部屋に入り込んで、ばたんと扉を閉じてしまった。キーファは呆然としながら、手の上に載る奇妙な折り紙を見た。折りたたまれた紙を慎重に開くと、ページに書かれたものを目にした。
 もちろん、文字は読めない。それでも、図柄はなんとなく理解できる。夜な夜な何度も夢をみてきた、あの物体の設計図らしきものが描かれているのだ。
「とっ鳥だぁ!」
 キーファは飛び上がって歓喜した。その様子をドアの隙間から伺っていた姉が戦慄していたことも知らずに。
 
 
 
 レシェラがユーナの顔をペロペロ舐め回すので、くすぐったくて目を覚ました。これはレシェラ流のユーナの起こし方。
「なあに? どうしたの、レシェラ。
 眠気眼をこすって上半身を起こすと、部屋の隅ではイイ・シトがまだ眠り続けている。
 窓はすべてふさがっていたが、板の合間から光が筋を作って部屋に差し込んでいるところを見ると、廃漁村は孤独な朝を迎えたようだと分かった。
「何か音がした。距離にして百メートルのところ」
「音? どんな音?」
「衝突音だ。自然界の音ではない」
 そんな音なんか気にしなくていいのに。ユーナは欠伸しながら思った。
「この森は早めに抜けたほうがいい。どうもいやな空気を感じる」
「いやな空気って?」
「鼻の奥に、つんと匂う腐臭のような」
 ユーナは鼻を引くつかせてみるが、何も感じない。
「とにかく、出発の準備をしよう。静かにな」
「じゃあ、イイ・シトを起こそう」
「いや」
 レシェラは一度、眠るイイ・シトを見やってから小声で言った。
「あやつは置いていこう。どうも信用できぬ」
「どうして?」
「突然現れ、同行するなど怪しすぎるではないか。なにかたくらんでおるのではないのか。懸念はないに越したことはない。あやつは置いていこう」
「レシェラがそう言うなら……」
 ユーナはイイ・シトを起こさないよう、静かに準備すると忍び足で小屋を出た。
「音がしたのはどっちの方角?」
 レシェラにたずねると、音のした方角に鼻を向けるレシェラ。
「あっちだ。逆の方角に行こう」
 ユーナとレシェラは音のした方角とは逆の方向に歩き出した。
「ここは三ツ目族の役所も近い。ソラは使わぬのだろう?」
「うん。まずは歩いて役所から離れよう」
「次の目的地だが……」
 ユーナは歩きながら逡巡した。
 どこへ行くべきか。目的は決まっている。帝国旅団の元へ行こうとしているのだ。だが、いくら情報収集しようとも、帝国旅団の居場所は誰にも分からない。三ツ目続さえその居場所をつかめてはいないのだ。ユーナが必死に探し回ったところで見つけることはできない。
「この森で、探したいものがあるの」
「まだ滞在すると言うのか。こんな森でいったい何を捜すと言うのだ」
「異世界の文明品。特にこれっていうイメージはないんだけど、なにかあればなーって思って」
 レシェラは狼なのに呆れたようにため息をついた。
「何度も言っておるが、この森の滞在は危険だ。それに、異世界の文明品を見つけたとして、おぬしにそれの使用方法が分かるのか?」
「でも、今のままじゃ帝国旅団は探せないよ。どうしていいか分からないもの」
「ならば、多少遠回りでも方法はある。この森で文明品を探すよりはましな方法が」
「え、本当? どんな方法?」
 レシェラは再びため息をつく。狼なのに。
「眷族との契約だ。多種多様な眷族の中、人を探す能力に長けた眷族もいるだろう」
「本当? どんな眷族? どこにいるの?」
「唯一、その眷族がいる場所を一箇所知っているが……」
「どうしてもったいつけるの? 教えてよ」
「教えたところで、おぬしには行けぬ。だから情報収集すべきだ。同種の眷族と契約できる聖域を探すのが、今できる最善の方法だと思わぬか?」
「ほら、もったいつけてる。行けないかどうか私が判断するから、居場所を教えて」
 三度目のため息をつくレシェラ。狼なのに。
「グロウリン城塞都市の渓谷だ」
 レシェラが言った瞬間、ユーナは肩を落として落胆した。
「そうだね……。行けないね……」
「気を落とすな。そのような眷族が存在すると言うことは分かっておる。ならば別の聖域にも当然、住んでいるはずだ。その場所を探すのだ」
「でも、どうやって? どうやって探せば……。帝国旅団を探すために必要な眷族の住む場所を探す。なんか探してばっかりだね。その眷族を探すために必要な眷族を探そうとしたら、ああ、もうよく分かんなくなっちゃった」
「一人で勝手に混乱するな。おぬしは決して楽な道を選んだわけではないことは承知しておるはず。ならば覚悟を決めろ」
「そうなんだけどさー」
 ユーナが不満げにほほを膨らませたとき、レシェラはふと背後を振り返る。不穏な空気。
「どうしたの?」
「いや……すまぬ。大したことではない。異質な空気を嗅ぎ取った。人でもなく、昨日の化け物でもなく、別の……」
「……なんだろう」
 ユーナの不安そうな顔を見たレシェラは「気にするな。森を早く出よう」とユーナを促した。
 
 
 
 衝撃音とともに、木の枝で眠っていた男は飛び起きた。
 彼の眠っていた大木が振動し、上から葉っぱや昆虫が落ちてくる。
 何事だと顔を上げた。
 朝が訪れている。森はまだ眠っているようで、薄い布をかぶるように靄がかかっている。まだ眠りについていた森をたたき起こすような衝撃音と、大木が揺れるほどの衝撃。
 何が起こったのか。
 確かにこの森は「魔の森」と呼ばれ、出所不明な不気味な噂をよく聞いた。だが、この森に訪れるのは初めてではなく、一年以上前にも一度訪れたときは猛獣すら住まない森閑としたただの森だった。
 彼は周囲をうかがう。
 衝撃音の出元は……。
 木の根元だった。男が眠っていた大木の根元に何かが散乱していた。目を凝らすと、何らかの骨組みと布。
 木に激突した衝撃で粉々になった「それ」は、もはや原型は分からない。
 彼が寝床にい選んだ巨木は、丘陵になっている開けた空間の下部に位置する。男が寝床にした枝は、ちょうど丘陵の天辺の高さと同じくらいの高さである。
 その骨組みのある場所から、丘陵の天辺に向かって地面に跡があった。奇妙に蛇行した跡は二本あり、いまや残骸となった骨組みがあの丘陵の天辺から滑り落ちて、この巨木に激突したのだと分かった。
 いったい何なのか。しばらく様子を見たが、人の気配はない。だれかが丘陵の天辺から何らかの物体を落としたのだろうということは間違いない。
 小一時間ほどして、男は大木を降りる決心をした。
 大木に絡まった蔓を取っ掛かりに地面に降りると、残骸になった骨組みをまじまじと観察する。
「これは……」
 見える限り、凧のように骨組みに布を張った物体が二つある。
 そして――。
 思考を続ける前に、男はあることに気づく。
 布の張った凧のような骨組みを持ち上げると、その下敷きに人の姿があった。今は気を失っているようで仰向けに口を開いて泡を吹いている。
「子供か……」
 何でこんなところに子供が……。それに、この骨組み。
 何らかの乗り物に乗って、子供が丘陵の上から坂を滑り落ちた。そう考えるのが妥当だ。だが、なんのため? ただのお遊び? 魔の森の真ん中で?
 考えても分からない。
 男は子供を抱き起こすと、ほほを叩いて気付けした。うめき声を上げながら薄く目を開く。
「大丈夫か? どこか痛い場所はあるか?」
 返事はなかったが、薄く開かれた目が徐々に見開いてくる。その目が大きく円を描いたとき、少年は「う、うわああ!」と悲鳴を上げて逃げ出そうとした。
 抱き上げていた男の手を離れ、あわてて駆け出そうとしたがすぐに前のめりにすっころんだ。
 少年は悲鳴を上げて左足を掴んでいる。
「捻挫か? 見せてみろ」
 男が近寄ると、野生の小動物のように警戒していたが、足の様子を見るうちに落ち着いてきたようだ。
「骨に異常はないみたいだ。だが、これじゃあ歩けないだろう」
 警戒した相貌は変わらない。
「なぜ、こんなところに一人でいるんだ? どこに住んでいる?」
 質問に答えずただ目をまん丸にして男を睨みつけるばかりの少年。やれやれと肩をすくめ、男は懐から布切れを取り出す。
「これを足に塗れ。あとは板切れか何かで足を固定し、しばらく安静にしてろ。十日もあれば歩けるようになるだろう」
「と、十日も……?」
 少年ははじめて口を開く。
「どうした。親はいないのか?」
「い、いない。そんなもの」
「親じゃなくても、家族や仲間は?」
「い、いない!」
 強く否定した。
 仲間や家族はいるのだろうが、隠したがっている。男は悟ったが、あえて指摘しない。
「なら、一人でどうするつもりだ。俺はお前をここに置き去りにしてもかまわないが……」
 意地悪に冷たく言い放った。少年は不安そうに眉をひそめる。
「……もうすぐ冬なのに……」
 つぶやきは男にはうまく聞き取れなかった。
「こんな足じゃ……」
「お前が望めば、住処まで連れて行ってやるが、望まないのなら俺はもう行く」
 少年は答えない。卑屈にうつむいたので、男は背を向けて歩き出すそぶりを見せた。するとあわてた風な少年は「待って」と声を上げた。
「た、助けてください」
 男は振り返って少年の様子を伺う。
 改めて疑問に思う。なぜ、こんな少年が「魔の森」という大人でも誰も近づかない森にいるのか。
「家は近いのか?」
「……はい」
「家に家族は?」
「い、いません」
 嘘を言っている。だが、追求するつもりもない。一人ではないのなら、怪我をした少年を介抱する仲間がいると言うこと。それが分かれば十分である。
「家まで送ろう」
 男は人差し指と親指で輪を作った。それを口に含み、思い切り息を吹き出すと、甲高い口笛が鳴り響いた。
 がさり、と近くの茂みから音がした。
 少年が目を向けると、そこにはなにやら巨大な黒い影が……。
 少年は黒い影の正体に気づくと悲鳴を上げた。
「落ち着け。俺の仲間だから心配ない」
 少年の両肩を掴んで少年をなだめる。この森には三ツ目族の役所があると聞く。悲鳴に気づいて三ツ目族がやってこないとも限らない。
 茂みからのそりと現れたのは巨大な猛獣。
 全身黒い毛に覆われた熊だった。
「この熊はネロと言う。大丈夫だ。人を襲ったりしない」
 そう言われても、少年は口をあんぐりあけて、わなわなと顎を震わせている。
 男は少年を抱き上げると、黒い大熊の背中に少年を乗せた。
「ネロ、少年を家まで運ぶぞ」
 ネロはぐるんと一声鳴いて返事をした。
「おい少年」
 熊の背中に乗せられた少年はこの世の終わりを見たかのような顔で男を見た。
「君の名前は?」
 少年は恐怖に引きつったままの顔で「き、キーファー」と答える。
「キーファー。俺の名前はタモン。よろしくな」
 キーファーはただ、震えているかのように何度も頷いて見せるしかなかった。
 
 
 
 こらあああ……。
 誰かが怒鳴っている声に気づいたのはレシェラだけではない。ユーナも気づき、背後を振り返った。
 このやろおお……。
 森の奥から聞こえてくる怒声。声は山彦のように幾重にも反映し、実際どこから聞こえてくるのか正確な位置がよく分からない。
 ユーナは思わずレシェラを見た。
 まちやがれえええ……。
「来ちゃった、レシェラ」
「ああ、イイ・シトが起きたらしいな」
「どうしよう」
 問われても、逃げるしかない。
「こっちだ」
 レシェラが走り出した。ユーナは慌てて後を追う。
 なんでにげるんだあああ……。
 遠くからイイ・シトの声。あんなに大きな声を出したら、近くにある役所の三ツ目族に気づかれてしまう。
「どこに行くの?」
「声とは反対方向だ」
 耳のいいレシェラのこと。ユーナにはよく分からない声の方角も正確に捉えているのだろう。
 レシェラの後をついていくと、徐々に生い茂っていた木々の感覚が疎らになってくる。おそらく、森の出口が近いのだ。
 ユーナは障害物の少なくなった森の様子を伺う。
 その時だった。
「待って! 見て! レシェラ!」
 ユーナが短く声を上げた。レシェラは慌てて立ち止まる。遠くからはまだイイ・シトの声がこだまして聞こえてくる。
 レシェラを促すように森の一角を指をさした。何事だと指差された方角に視線を移すレシェラ。
 巨木が見えた。大小さまざまな樹木が茂っていたが、確かに目を引く大木であったものの、この緊急事態に足を止めてまでも注目する意味が分からない。
「よく見て」
 巨木は奇妙にS字を描き、根元付近に近づくにつれ幹の太さを増している。その根元。
「なんだあれば」
 レシェラも気づく。
「家……かな?」
「ふむ。行ってみよう」
 見とれている暇はない。今は一刻も早く隠れる場所がほしかった。一見して家とは気づきにくいあの場所なら、身を潜めるのに最適かもしれない。
 巨木の根元にやってくると、ユーナの思ったとおり幹に扉がついている。
「誰か住んでるのかな?」
「扉を叩いてみろ。とにかく急げ」
 ユーナは神妙に頷いてから、とんとんと扉をノックする。中から反応はない。再度ノックしようとしたとき、レシェラは「あけてみろ」と鼻を突きあげた。
 ユーナは扉の取っ手に手をかけると、ゆっくりと引いてみた。
 ずず……かすかに音がしたものの扉は殆ど抵抗もなく開く。
 中は薄暗い。だが、何も見えないほどではない。
「入るんだ。イイ・シトが追いついてくるぞ」
「うん……」
 そこまでして逃げなくてもいいのに。そう思うユーナだが、何百年も生きているレシェラの勘だ。信じよう。
 ユーナとレシェラは家の中に入り込み、扉を閉めた。
 扉を閉めた瞬間、この部屋の密閉度の高さに気づく。一切の空気の流れが止まり、まるで異世界に迷い込んだかのように外界の音が遮断された。
「なんだろう。生活のにおいがするね……」
 ユーナがささやくように言った。レシェラは鼻を利かせてみる。確かに人間のにおいがする。間違いない。これは二ツ目族の住処である。
「よくできておる。おそらく越冬のために工夫して造られた家だろう。今は家主が居らぬようだが、しばらく身を潜めさせてもらおう」
「家主が帰ってきたら説明しないとね。レシェラも協力してね」
 ユーナが説明力や交渉力に長けているとは思えない。協力と言うより、主にレシェラが交渉をやる羽目になるだろう。
「ほら、暖炉。まだあったかい」
「夜のうちに火がくべられたらしいな。おそらく、家主は早朝から狩猟にでも出かけたのだろう。しばらく帰ってくるまい」
 ユーナは耳を澄ませてみる。イイ・シトの声はまったく聞こえない。
「レシェラ、イイ・シトの声は聞こえる?」
「いや、まったく。不思議なものだ。この家は外気を遮断するだけではなく、さまざまな邪気も遮断している。これはこの大木の精がなす効果か」
「精?」
「気にするな。精と言うのは人間の魂みたいなものを差しておる。大木の魂がこの家を守っておるようだ」
「じゃあ、ここは安全なの?」
「完全ではないがな。少なくとも、先に出くわした化け物のような者に対しては有効な隠れ家となろう」
 ふうん、と鼻を鳴らして、ユーナは部屋の中を探索する。さまざまな物が置かれているが、それらの意味や用途がユーナにはまるで分からない。
 ふと目に止まる。
 棚の上に、本が開かれて置かれている。そこには文字がびっしりと書かれていたが、一角にはある絵が描かれている。
「これ、なんだか見たことがある……。なんだっけ……」
「何を見つけた?」
 ユーナは本を持ち上げ、レシェラにページが見えるように傾ける。
「すまぬ、ユーナ。我ら眷族……いや、獣族は識字能力が極端に弱い。そこに文字が書かれているのは分かるが、内容までは分からぬ」
「違うの。ここの絵を見て」
 ユーナが指差す場所に描かれた絵。それはレシェラには楕円形のパンのように見える。
「見たことがあるの。よく思い出せないけど」
「なぜ気にする必要がある。それが重要なのか?」
「気になるの。重要かどうかは分からないんだけど……」
 ずずっ……。
 出し抜けに聞こえてきた音に、ユーナもレシェラも度肝を抜かれた。
 何の前触れも前兆もなく、突然部屋の扉が開かれたのだ。
 外気が舞い込んできて、朝日が部屋を照らす。開かれた扉の前に誰か立っていたが、逆光で黒いシルエットにしか見えない。
 この部屋が、外界の音や気配を完全に遮断する性質のせいだ。誰かが家に近づいてきても、扉を開くまで何も気づかなかった。野生の聴力や嗅覚をもつレシェラにさえ。
 部屋には入ってきた人は後ろ手で扉を閉める。
 再び部屋は外界から遮断される。
「ふふん、ふん、ふふふ、ふんふん」
 その人は鼻歌を歌っていた。何のメロディーなのかはまるで分からないが、鼻歌からすると女性らしい。
「ふん、ふふーん、ふんふん、ららら、そうね、私は〜、ふふふん」
 突然意味のある言葉が混じって鼻歌に回帰する。女性は立ちすくむユーナの横を通って、先にあるロッキングチェアに腰掛ける。
 ユーナとレシェラはお互いに見合っていた。その間、女性はテーブルの上にあったランプに手を伸ばし、火をともすと膝の上にブランケットを掛けた。そして細い腕を持ち上げて、棚の上に手を伸ばす。
 そこにある物をとろうとして、女性は必死に手を伸ばすが、何もつかめない。なぜなら、そこにあったはずのものをユーナが持っているからだ。
「あれ?」
 女性がきょとんと声を上げる。すると、顔を振り回して、そこにあったはずのものを捜す。やがて目に止まる探しもの。
「あ、あった。うふふ」
 見つけることができてよほど嬉しかったのか。おもちゃを見つけた子供のように探しものに手を伸ばして掴んだ。
 それは本である。ユーナが持ったままの本。
 女性はそれを引き寄せると、ユーナの手を一緒に引っ張られた。ユーナは手を離してそれを引き渡すと、女性は何事もなかったかのように膝の上に置いた本に視線を落とす。
 そして過ぎること十数秒。
 女性がふと振り返った。女性はユーナを見るなり、唇をわななかせて何かを言おうとした。ユーナも説明しようと口を開くが唇はわななくばかり。
 そして、ユーナと女性は同時に――。
「ごめんなさい」
 と言ったのである。
 女性は慌てて本をユーナに返した。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
 何度も謝る女性に、ユーナも「ごめんさない。ごめんなさい」と繰り返す。
「あなたの本なのですね。ごめんなさい。勝手に持ってきてしまって」
「いえ、こちらこそごめんなさい。あなたの家に勝手に入ってしまって」
 レシェラから見ると、その光景は滑稽きわまった。女二人がお互いにペコペコと頭を下げあっている。
 先に、現状のおかしさに気づいたのは女性のほうだった。
 ふと気づいたように手を合わせると「えっと……」と合わせた手を唇に当てる。
「あなたは……」
「ごめんなさい。あなたの家に勝手に入ってしまって……」
「私の家……ああ、ここは私の家」
 思い出したように周囲を見渡す女性。
「私、ユーナと言います。実はこの近くの漁村に用があってやってきたのですが、えっと、あの、それが……」
 やはりしどろもどろになるユーナ。レシェラはとりあえず黙っていた。なにより、女性がまだレシェラの存在に気づいていない。今声をかけたら脅かしてしまうし、人間からすれば言葉を発する狼は珍しいらしいから、その説明をしなければならない手間も惜しんだ。
 おろおろとうろたえながらレシェラを何度も見るユーナを無視すると、ユーナは覚悟を決めて話し始める。
「ちょっとの間だけでいいんで、匿ってもらえませんか?」
 たったそれだけのことを言うのに、ずいぶん時間がかかった。
 女性はきょとんと立ち尽くして、ユーナを見返すばかり。
「匿うって……なにからですか?」
「えっと、男の人です。私とレシェラが追いかけられてまして。ちょっとの間だけでいいので」
「レシェラ?」
「はい。私の友達です」
 友達と言う表現が適当なのかどうかは別にして、ユーナはレシェラを指差して紹介した。
「まあ、きれいな狼さん」
 おや、とレシェラは不思議に思った。この女、怖がらない。犬と間違えられることは度々あるが、レシェラを「狼」と認識し、これほどまでに動揺を見せない人間と初めて会った。
「ねえ、ユーナさん。撫でていい? この狼さん。きれいな銀色」
「え、ええ。レシェラ、撫でたいって。いい?」
「別にかまわぬ」
 レシェラはぶっきら棒に答えると、女は嬉しそうに「わあ」と声を上げてほほを高潮させた。ばたばたと足音を立てて近寄ると「いい子ねー」とレシェラの頭を撫でる。女の何百倍も長生きしているレシェラに「いい子」はない。噛み付いてやろうとかと逡巡していると、突然、女が動かなくなった。
 ちらりと見上げると、笑顔がそのままの形で凍りついている。
 どうしたのだろうと見上げていると、女は口元を経の字にまげて「ひああああ」と声を上げるではないか。
「しゃべったあ。狼さんがしゃべったあ」
「いまさら驚くな! 驚くならしゃべったときに驚け!」
 おもわずレシェラの声が大きくなる。
「うひゃあああ、またしゃべったああ」
 レシェラはうんざりして体を伏せた。あとはユーナに任せよう。そう思ったが、女は一瞬驚いたものの、すぐに気持ちを立て直し、次にはレシェラに抱きついてきた。
「しゃべる狼さん〜。銀色の狼さ〜ん」
 と歌いながらレシェラに引っ付いてくる。呆れ顔のレシェラのそばで、ユーナが戸惑いながら「噛み付いちゃだめだからね」と目で訴えている。
 匿ってもらっている手前、今だけは我慢しよう。
 レシェラは諦めてため息を漏らした。
 
 ユーナが必死に事情を説明したが、女性は聞く耳を持たずレシェラにはっついたままだった。
 女性にとってはユーナたちの事情などどうでもいいらしい。
「私、アリスと申します。いま、弟が留守にしていますが、そのうちに帰ってまいります。そうしたらお茶を入れますので、もう少し待ってくださいね」
 自分でお茶くらい淹れられないのだろうか。そう思いながらも「いえ、お気使いなく……」と愛想笑いするユーナ。
 アリスはニコニコしている。悪い人ではなさそうだ。年はユーナより三つ四つ上に見えるが、見る限り幼女のようである。いや、お姫様だ。ユーナは自分の至った結論に満足した。
 アリスはまるでお姫様。無邪気で怖いもの知らず。レシェラに対してこれほどまで警戒心のない人は初めてだ。
「この家には弟さんといっしょに住んでるんですか?」
「はい。弟と二人暮らしです」
「こんな森の中に?」
「だって、弟ったら言い出したら聞かないんですもの。森の外は危険だからって」
「確かに危険だけど……」
 この森だって安全だとは思えない。それくらいはユーナだって分かる。でも、住めば都って言うし……。
 それにしても整った顔立ちの女性。なるほど、こんな女性が三ツ目族や盗賊に捕まったらと思うとぞっとする。アリスの弟の心配もよく分かる。
 ユーナにはアリスにどうしても聞きたいことがあった。
「アリスさん、この森はどれくらい前からすんでるんですか?」
 尋ねられたアリスは、顎に人差し指を当てて考えるしぐさをする。
「キーファーが言うには、一年位だって」
「一年……」
 漁村が襲われたのは数年前だろうとイイ・シトは語っていた。ならば漁村が襲われた後にここへ住み着いたのだろう。おそらく、事情はなにも知らない。
「ここに住んでいて、ほかに誰も見かけませんでした?」
「いえ、誰も。この森は誰もいないんですよ。静かで空気がとてもきれいで。とてもいいところです。楽しい物がたくさん落ちてますし」
「そういえば……」
 ユーナはテーブルの上に置かれた本を手に取った。
「アリスさんは字が読めるんですか?」
「字は読めません。でも書いてある内容はなんとなく分かります」
 言っていることの意味が分からない。字が読めないのに書いてあることが分かるとはどういう意味か。
「じゃあ、ここに書いてあることは……」
 ユーナが指差したページをまじまじと見つめるアリス。
「これは……なんていうかなあ。ほら、このへんにあるもの」
 アリスが平泳ぎするように手を振り回す。
「この辺にいっぱいあるもの。風とかにおいとか運んでくる……」
「空気ですか?」
「そう。空気。空気はとても複雑に動くんです。たとえばあれ」
 アリスは暖炉を指差す。
「火を炊くと煙がいっぱい出ます。でも、部屋の中は煙たくなりません」
「……ええ。煙突がありますから」
「なぜ、煙突があると煙は部屋の中に入ってこないのです」
「煙は上へ行くから?」
「そう!」
 アリスは嬉しそうに手を叩いた。
「火は暖かいです。暖かい空気は上へ行きます。だから煙も上へ行きます。分かりますか?」
 ユーナは神妙に頷く。
「その暖かい空気を風船の中にいっぱい溜め込むと、上に上に行こうと風船は浮き上がります。それがこれです」
 アリスは本に描かれた楕円形の絵を指差す。
「これはとてもとても大きいです。これよりもっともっと」
 アリスは両腕を広げてみせる。
「人を乗せても大丈夫なくらい、たくさんの暖かい空気を詰め込んで、ふわあっと空に浮かびます」
「……思い出した……」
 ユーナは虚空を見詰めながら思い出していた。
 数年前、まだユーナがヴァルアラトスの身の回りの世話をしていたころ。
 数ヶ月に一度、ヴァルアラトスは遠くに出かけていった。それは国を超えた遠くの島。ユベリア大衆国より大きな大陸に向かうとき、ヴァルアラトスはこの巨大な楕円形の乗り物に乗って、出かけて行ったのである。
「飛行船です、アリスさん。これは飛行船という空を飛ぶ乗り物です」
「飛行船……?」
「ソラ・トンベルクより高い上空を飛んで、長い長い距離を移動するものです。巨大な風船が家を吊って飛ぶんです」
 ユーナがそう説明しても、アリスはきょとんと困ったように笑っていた。
 ずず……。
 聞き覚えるのある音が聞こえて、再びユーナは心臓を縮み上がらせた。反射的に出入り口のほうを見る。
「あ、ほへえり」
 アリスがとぼけた声を上げた。欠伸をしながら何かを言ったらしい。
 出入り口にはひとつの影。
 だが、二人いる。
「姉ちゃん!」
 子供の声がした。
「女……?」
 今度は成人した男の声。だが、イイ・シトの声ではない。子供は男に抱きかかえられているらしく、その腕から地面に降りると、子供は片足でけんけんと飛び跳ねながらアリスの元に近づいた。
 不審そうにユーナを睨んでくる少年。
「あの、私は――」
「キーファー、お客さんよ。ほら、お茶を淹れてよ」
 アリスがキーファーの背中を押した。ところがキーファーは崩れ落ちるように床に転がる。
「あ、キーファー。どうしたの?」
 その問いには男が答えた。扉を閉めて、倒れたキーファーを抱き起こしながら説明する。
「森にキーファーが倒れてたから連れてきたんだ。足を捻挫してる。薬草を塗って当て木をしているけど、十日間は動かせないほうがいいと思う」
 説明すると、アリスはあわあわとうろたえて、「大丈夫? 痛いの?」とキーファーの全身をまさぐった。キーファーと呼ばれた少年は意地っ張りそうに「平気だよこんなの」とアリスの手を払った。
「まさか、女二人だとは思わなかった。ほかに仲間はいないのかい?」
 男がキーファーに尋ねている。
「仲間も何も、ここには姉ちゃんと二人で住んでるんだ。その女は知らない」
 その女呼ばわりされたユーナはきょとんと背を伸ばす。
 男にじろりと見られて、ユーナは思わず顔を伏せる。
「……まあ、いいや。邪魔したな。こんな森に住むなんて気が知れないと思ったけど、この女を見て納得したよ。危険な森に隠れ住むわけだね。誰にもこの家のことは言わないから安心してほしい。俺はすぐに出て行くよ」
「キーファー、この方に助けていただいたの?」
 アリスがキーファーに尋ねると、キーファーは気にいらなそうにうなずいた。
「なにか御礼をしたの?」
「べつに、ここまでつれてきてもらっただけだし」
「だめだよ。ほら、食事の用意をしてよ。この家にこんなにたくさんのお客さんが来るなんて初めて。みなさん、ぜひお食事でもしていってくださいな」
「なに言ってんだよ姉ちゃん。そもそも、その女は誰なんだよ」
「ユーナさんよ。いいから、なにか作ってきてよ」
 男がどっかりとテーブル脇の椅子に腰掛けた。
「実は三日間ほどなにも食っていない。お礼と言うのなら遠慮なくいただこう」
「こら、誰もいいなんて言ってないぞ」
 キーファーが男に突っかかっていったが、男は憮然と言い放つ。
「お前の姉ちゃんがいいと言ってる」
 アリスが「とっておきの干し肉を焼いてきて」とキーファーの尻をたたいた。キーファーはうんざりしながらも、仕方なさそうに足を引きづりながら奥の部屋に向かった。
「レシェラ」
 ユーナはレシェラに目配せした。レシェラは悟って頷いてみせる。置物のようにじっとしていたレシェラがむくりと立ち上がると、男が驚いて声を上げた。
「驚いた。あれは眷族かい?」
 ユーナこそ驚いた。なぜ眷族だとわかったのか。
「立派な眷族だね。おっと、自己紹介が遅れた。俺はタモン。決して怪しい者じゃないけど、疑ってもらっても問題ないよ。どうせ飯をいただいたらすぐに出て行くし」
 タモンと自己紹介した男に、アリスがうれしそうに「アリスです。ようこそいらっしゃいました」と浮かれた様子。
 よほど孤独な生活をしていたのか。はしゃぎっぷりが半端じゃない。
「そこのユーナさん。あなたはここの家の住人じゃないんだろ」
「はい……この近くの漁村に用があって」
「漁村? そんなものあったかな。俺もここに来るのは数年ぶりだから、新しくできたのかな」
 数年ぶり?
「タモンさん……でしたっけ。あなたはこの森には過去に何度も?」
「ああ、三回ほどね。最初に来たのは七年前だけど、どうして?」
 ならば、知っているかもしれない。だけど、漁村の存在を知らなかった。
「この近くの海岸線にある漁村をご存じないですか?」
「いや、さっきも言ったがこの辺に村はないはず。はるか昔から三ツ目族の役所になってるからね」
 漁村などない? 七年前以上に漁村は滅んでしまったと言うことか。だけど、コロタリが漁村を出てから七年間もたっているとは思えない。もっとも、コロタリが漁村にいたのが何年前なのか聞いたことはないけど。
 後でレシェラに聞いてみよう。レシェラは代々、コロタリの家系に仕えてきた眷族だ。コロタリが何年前に漁村を出て行ったのかくらいは知っているはず。
「越冬のために蓄えてたのに……」
 台所だと思われる奥の部屋からキーファーが歩いてきた。
 干し肉を焼いたらしい。肉から立ち上る湯気が、香ばしい香りを運んでくる。
「姉ちゃん、これで冬が越せなくなったぞ。どうするんだ」
「こら、お客さんの前でなんてことを言うの?」
「うちは他人に恵むほど余裕はないんだよ」
「命を助けてもらっておいて、恥ずかしいわ、キーファー」
「大げさなんだよ、姉ちゃんは」
 悪態付きながら台所に戻っていくキーファー。その様子にいち早くタモンが気づいた。
「あいつ、平気で歩いてるぞ。怪我をしたはずじゃ」
 今度は飲み物をお盆に載せて戻ってきたキーファーに、タモンが「足はどうした?」と尋ねると、キーファーも「あれ?」と首をかしげた。
「まさか怪我をしたふりをしていたのか?」
「え、そんなこと……なんでだろう。さっきまであんなに痛かったのに」
 もう、レシェラったら。説明してから治癒すればいいのに。
「レシェラが治したの。ごめんね、黙って治しちゃって」
「レシェラ?」
 キーファーが首をかしげている。
「その銀色の狼。レシェラって言うの。能力は治癒能力。捻挫くらいならすぐ治しちゃうの」
 キーファーは足元にいた大きな狼を見る。
「どうりで、飯を作ってたら擦り寄ってきたから、餌がほしいのかと思ったんだけど」
「レシェラは気高いの。何百年も生きてるのよ。餌なんて言ったら噛み付かれちゃうよ」
「何百年……?」
「すごい。レシェラさん、そんなに生きてるのね、いい子いい子」
 アリスはレシェラの頭を撫でてやる。話を聞いていのか。
「ところで、飯はいただいてもいいのかな?」
 タモンの発言に、アリスが「そうそう」と手をたたいた。
 アリスは改まって背筋を伸ばした。
「みなさん、ようこそいらっしゃいました。こんな狭いところですが、どうぞくつろいでゆっくりしていってください。粗末な食事ですが、お口に合えば幸いです」
「文句があれば食うな」
 キーファーの悪態が聞こえてきたが、アリスは笑顔を崩さず「さあ召し上がれ」と両手を開いた。
 奇妙な交流。まさか「間の森」の中で、これほどの人数の人にめぐり合い、何の因果か和気藹々と食事をするなんて。
 ユーナはレシェラの様子を伺ったが、レシェラは大きく欠伸をして目を細めただけだった。

 

  ≪ 幕間 ≫

 

 ユベリア宮殿敷地内の巨大な平地に、何本ものロープに繋がれた巨躯の怪物がいた。
 巨躯の怪物と言っても生きているわけではなく、あくまでクロスの胸の中にひらめいた例えである。
 十数年前にヴァルアラトス・グロウリン副王が開発した空を飛ぶ巨大な風船である。その巨躯の全身は真っ黒に染められており、巨躯の怪物の例えどおり、悪魔が降臨したかのように禍々しい印象があった。
 黒く染め上げなければならなかったのは、単純に気球部分の強度を増すために塗りこまれた塗料のせいである。熱に強く、雨をはじき、耐久性を向上させるため、ある特殊な樹木から取れる樹液を塗りこんだのである。
 クロスはその巨躯の怪物を見上げながら、なぜこれほどまでに巨大な物体が空に浮かび上がるのか、今でも不思議でならない。
 それに、なぜヴァルアラトス副王は、これほどまでに多種多様な発明品を生み出すことができるのか。
「四ツ目族に不穏な動きがある」
 いつの間にか横に立っていたヴァルアラトスが、クロスに声をかけた。
「四ツ目族が?」
「どうも、勝手に動き回るのが好きらしいな、あいつらは」
 四ツ目族とは、このユベリア大衆国の軍部を担っている。このグロウリン城塞都市には一人もいないが、彼らが勝手に「聖域」と呼び、都市を形成しているエリアがある。
「不穏な動きとは?」
「独立、あるいは侵攻」
 ヴァルアラトスは短く言った。だが、十分すぎるほどの説明である。
「私が国際会議に出席している間、この都市のことは頼んだぞ。四ツ目族の動向も調べてほしい」
「もちろんです。お任せください」
 三ツ目族と四ツ目族の交流はほとんどない。前にも言ったが四ツ目族はその存在のほとんどが神化されており、三ツ目族より位は高いのである。だが、実質的に国を支配しているのは三ツ目族。そこに軋轢がある。
 この国が海外からの侵略を抑えているのは、四ツ目族の力に頼るところが大きい。この国の軍部は世界有数の軍事力を誇っている。その一因にヴァルアラトスが開発した数々の兵器のおかげでもあるが、いつしか四ツ目族は自ら研究施設を持ち、自ら兵器開発や兵隊育成を始めたのである。
 それから数百年。政府は現在、四ツ目族の正確な動向はつかめていない。軍部、三権分立で成り立つ政府の力の拮抗は崩れつつあり、四ツ目族の反乱が起これば国の壊滅の危機さえありえる。
 ヴァルアラトスは四ツ目族の動向を非常に憂いでいるが、多忙なご身分、今日から一月の間、外交に出かけなければならない。四ツ目族の問題は後回しにせざるを得なかった。
 ヴァルアラトスが信用する人間は宮殿には皆無で、王であるルルアラトスさえ信用していない節がある。
 自分ががんばらなければならない。クロスは改めて意志を強く固めた。
 ヴァルアラトスは微笑を残すと、巨躯の怪物に向かって歩き出す。後を追うように十数人の三ツ目族の護衛が付いていく。ところがヴァルアラトスは思い出したように引き返してきた。
「大事なことを伝え忘れた」
「なんでしょう」
「私の留守の間だが……」
 ヴァルアラトスは顔を近づけてきた。クロスの耳元でささやくように言った。
「二ツ目族を殺すな。クロス、お前の手によって二ツ目族は決して殺すな」
 クロスは目を見開いた。なぜです? そう表情で訴えかけると、ヴァルアラトスは薄く笑ったのみだった。
 いったいどういう意味なのだろうか。自ら二ツ目族を殺すな? これまでクロスが二ツ目族の命をあやめたことはなかった。なぜならば城を警護するのが役割であるクロスの身の回りに二ツ目族が存在しないからであるし、城を攻め込もうとする二ツ目族もいなかった。
 なのに、なぜいまさらそんなことを言い出すのか。
 巨躯の怪物――飛行船に向かって歩くヴァルアラトスの背中に向かって、クロスは問い続けた。
 
 
 
 クロスに幼いころの記憶はない。
 失われてしまったのだと、ヴァルアラトスに説明を受けた。
 クロスが覚えている一番古い記憶は、医療施設のベッドの上からだった。
 目を開いたとき、一室のベッドに寝かされていたクロスは上半身を起こす。同時に走り抜ける頭痛。
 頭を触ると大げさに巻かれた包帯の感触があった。どうやら頭を怪我したらしい。その怪我のせいで記憶を失ったのだ。
 母と名乗る人物にあったのは、その病院。最初で最後だったため、顔はあまり覚えていない。
 母は泣きながらクロスを抱きしめた。よかった、よかった、と何度も耳元でつぶやいていたが、クロスの言った一言に母は愕然とした。
「あなたは……誰ですか?」
 母に向けてはなった最後の言葉。
 翌日から母は行方知れずとなり、クロスの前から姿を消した。後から聞いた話によれば、母は自ら辺境の眷族の聖域の番に志願したのだという。
 相変わらず記憶は戻らなかったものの、自分はどうやら三ツ目族であるらしいとわかり、目の数の少ない二ツ目族や一ツ目族より位の高い存在であると分かってきた。
 二ツ目族は三ツ目族に無条件に従い、逆らったりしない。
 自分は偉いらしい。
 初めて生まれた境遇に安堵した。二ツ目族に生まれずに良かった。瞳が三つあって良かった。心のこそから喜びを感じた。
 やがて、クロスは力を認められ、ユベリア宮殿の警護任務に付いた。クロスの最大の技は剣術であったが、最大の力はその防御力だった。
 ユベリア宮殿はクロスが任務についてからこれまで、外部の脅威にさらされたことは一度もない。歴史を振り返ってみても、ユベリア宮殿が攻撃を受けたり、侵略を受けたりなどの危機は一度だってなかった。
 クロスの出世が遅れたのはそんなことが要因だった。
 ところがユベリア宮殿の警護隊内部で、訓練目的の闘技大会が開催されるようになった。その年より毎年開催される闘技大会であるが、初回の大会での優勝者はクロスであった。
 その次の年も、次の年も。
 王座を防衛すること十回目。クロスはようやく実力が認められ、ヴァルアラトス直属の護衛官となった。
 ヴァルアラトス城に住まい、常任護衛官となり、やがてグロウリン城塞都市全域の公安の司令塔となった。
 すべての城塞都市の安全はクロスに一任され、クロスは猛勉強を繰り返して城塞都市の隅々まで把握することができた。
 都市のどこに誰が住み、どこになにが存在するのか。
 もはやクロスに知らないものはない。
 クロスの最大の誤算と言えばひとつだけ。
 クロスが力を認めたラリルドと言う男がいる。通力の強さだけで言えばルルアラトス王や、ヴァルアラトス王に匹敵する力の持ち主だったが、いかんせん、おつむが良くない。だが、その力を認めたクロスが直属の部下に任命した。
 部下であるうちは、ラリルドの強大な力は安堵感以外の何者でもない。ラリルドの攻撃力、クロスの防御力があればこの城の防衛は完全に思えたのだ。
 だが、ラリルドが推薦してきた三ツ目族が、城の警護に付くなり城の貴重品を盗んで姿を消した事件だけは、クロスの護衛官人生に黒い影を落とした。
 クロスは六十日間、独房に閉じ込められ、ラリルドは独房に加え、毎日鞭打ちの刑が処された。
 その刑に耐え切った二人は、再び同じ職に戻ったが、二度と同じ失敗を繰り返すまいと誓った。
 やがて数年前にヴァルアラトスからじきじきに下った勅命に、ラリルドを派遣することにした。
 クロスはラリルドを試したかった。力は強いが、少々頭の弱いラリルドの能力を。
 ヴァルアラトスの勅命は「プティシラという女を捕らえてつれて来い」と言うものだった。クロスはラリルドを派遣し、プティシラを追わせることにした。
 それから数年たち、ラリルドからはまったく音沙汰がない。心配する気持ちもあったが、おそらくラリルドはうまく立ち行かなくなった任務を報告できず、ただ帰ってこれないだけだろうと考えた。
 勅命を果たせないクロスに対し、ヴァルアラトスは何の苦言を呈さず、毎月発行する報告書に進捗状況「進展なし」と書いて提出しようとも、何の反応も示さない。
 先に痺れを切らしたのはクロスのほうで、クロスは独断で一人の隠密をラリルド捜索に差し向けた。
 ところが、帰ってきた隠密の報告は、クロスの予想をはるかに裏切るものだった。
「帝国旅団。若はご存知か?」
「帝国旅団?」
「知りませぬか。実は、私も知りませぬ。ついこの間までは」
 帝国……。いやな響きだ。
「こう言ったら分かりませぬか? 解放軍……」
「解放軍。二ツ目族の反乱因子のことか?」
「そうでございます。二ツ目族がひそかに組織する解放軍。その実体が帝国旅団だと言う話です」
「実体が帝国旅団だとして、それがどうしたというんだ」
「その帝国旅団ですが……今からお話しするのは一年前のこととついこの間のことでございます……」
 ラリルドを追っているうち、必ず出会う男がいたと言う。その名をルウディ。青い目をした色白の男であると言う。
 隠密は自身で目撃した二つの出来事を話して聞かせた。
 一つ目は一年前、遠く荒野に存在したと言う二ツ目族だけの塀に囲まれた都市。グロウリン城塞都市のように高い塀が町全体を覆う都市があったという。そんな都市が存在したというのにも驚きであるが、その都市が一夜にして壊滅したのだと言う。
「壊滅したのが、先にお話申し上げた帝国旅団という謎の集団でございます。帝国旅団は町に住む子供たちをすべて奪い去り、町の人間を根絶やしにして最後に火を放って消え去りました。注目すべきはその手法」
 帝国旅団は以前から、その町の繁栄に貢献してきたという。数年前に町を襲った疫病の特効薬を開発し、汚染された井戸を浄化する薬を開発し、町に優秀な政治家を残し、町の生活を潤した。
 その代わり、毎年、人柱を要求したという。人柱は数名の子供だ。二ツ目族どもは帝国旅団の要求に逆らえず、毎年子供たちを提供していたが、最後の晩、一人の若者が帝国旅団に抵抗を試みて、町を壊滅に導いてしまったという。
「帝国旅団は町の集団心理を巧妙について、毎年子供たちを搾取したのでございます。しかも、それも限界と悟るや否や、あっさり町を切り捨て、根絶やしにしたのでございます。鳥瞰しておりました私には分かります。その事件の中心にいたのは紛れもなくルウディという男。すべての事象を操作し、思ったとおりの結末を描き出した首謀者」
「その男はどこに?」
「わたくしめが殺めたでございます」
「殺したのか?」
「ええ、実はついこの前に、ラリルドを追う工程でウィンディアに遭遇いたしました。そこにて、まるで再現のごとく、同じような事件が起こったのでございます。ウィンディアに得をもたらしつつ、決して逆らえないように操作する男がおりました。それがルウディという男。ルウディはそこでも一人の男を巧みに利用し、ウィンディアの子供たちを搾取することに成功したのです。子供のいなくなったウィンディアはその後、帝国旅団の手によりすべての人間が焼き殺され、消失しました。その際、私はルウディに接触したのでございます」
 そこで、解放軍=帝国旅団の話をルウディから聞いたのだという。隠密は政府を脅かす危険因子だと判断し、その場でルウディを暗殺。
「暗殺の方法は?」
「十数か所、急所を突き刺しました。内臓、動脈、脳。生きてはおりますまい」
 思わぬ情報が飛び込んできた。
 ヴァルアラトスに即座に報告すると、ヴァルアラトスの反応はクロスにとって満足できないものだった。
「たかが二ツ目族の反乱因子になにをうろたえている」
 ヴァルアラトスは冷たく言い放った。
 確かにそのとおりである。だが、些細な不安要素も取り除いておくべきだと考えるクロスは、その答えが納得できなかった。
 ヴァルアラトスは提案した。
「ならば、帝国旅団とやらはお前の裁量に任せるとしよう。私が命令を下すことはない。だが、お前のやっていることには目を瞑ろう。言っていることが分かるな?」
 もちろん、分かっていた。
 通常業務をすべてそつなくこなした上であれば、何をしようと構わないというのだ。要するに、帝国旅団の調査にわざわざクロスに時間を割り当てないといっている。
 後ろ盾はないが、お咎めもなし。
 充分だった。クロスは納得し、帝国旅団の調査を始める。
 
 調査を始めて一月ほどたった。国中に派遣した隠密たちの最初の報告書が上がってきた。その報告書を一読したクロスは戦慄を覚えた。
 こんなことがあっていいのか。クロスの派遣した隠密たちはどれも優秀で、クロス自身が選抜した精鋭たちだった。
 ところが、どの報告書も同じ文言で統一されているのである。
「調査進展なし。帝国旅団の実体、未だ掴めず」
 調査報告の用紙を掴む手が震えた。
 これは、いったいどういうことか。もしや、ラリルドを追わせた隠密の狂言? いやまさか。あいつが俺に嘘を吐くはずはない。
 帝国旅団なる反乱因子が存在するのならば、実体を掴めないこの現状は脅威以外の何物でもない。
 この事実を報告したいが、当のヴァルアラトスは外交に出かけて一ヶ月は帰ってこない。
 四ツ目族の動向どころではない。もちろん、四ツ目族の調査も進めなければならないが、薄気味悪いのは帝国旅団のほうである。
 ヴァルアラトス副王が帰ってくるまでに、何らかの実体を掴まねばなるまい。クロスは次の手立てを悩みだした。
 ところが、そんな杞憂も吹き飛ぶ事件が、この日に起こった。
 それは歴史上、かつてない事件である。
 前にも話したとおり、ユベリア宮殿は千年の三ツ目族の歴史の中で、攻撃を受けたり、敵の侵入を許したことなど一度もない。
 その千年の前例を覆す事件が起きたのである。
 隠密からの報告書を読んでいたクロスの事務室に、部下が飛び込んで来たのは、激しい爆発音が聞こえておおよそ三十秒後のこと。
 クロス自身、ファーストインパクトは地震が発生したのかと思った。
 どーんと地鳴りのような音とともに、城全体が痺れた。天井からぱらぱらと粉が降り、遠くから悲鳴のような声が聞こえてくる。
 びりびりと音を立てて痺れる地震が収まりかけたころ、事務室にクロスの部下が飛び込んできた。飛び込んでくるなり、この世の終わりのような顔をして部下は叫んだ。
「襲撃です! 二ツ目族の襲撃です!」
「な、なんだと!」
 クロスは事務所を飛び出した。
 事務室を出ると、すぐ正面は三つの城に囲まれた中心にあるユベリア宮殿を望むことができる。
 そこに、正体不明の怪物が立っていた。
 全長にして三メートルから四メートル。
 城の三階部分にあるクロスの事務室前の廊下から見下ろして、怪物の頭頂部が見えた。
「なんだあれば……!」
 怪物は三、四メートルの全身を、鉄の鎖で戒められている。その怪物がまとっている衣服のように、鎖が隙間なく全身を覆いつくしているのである。
 かろうじて、鎖の切れ目から血走った巨大な目が見えた。
「一ツ目族か?」
「違います! あれは召喚されたのものです!」
 召喚? ということは……!
 そのとき、鎖の合間から見える怪物の瞳が光り輝いた。
「クロス様、伏せて!」
 部下に覆いかぶさるように押し倒されてから一瞬後、すさまじい衝撃が城を襲った。
 ずががが! と岩を砕く轟音とともに、城が大きく振動した。天井からは大小さまざまな建築素材が剥がれ落ちてくる。
「何が起こった!?」
「目から砲撃です! あの怪物は目から砲撃してくるんです!」
 クロスは舌打ちして起き上がる。気づくと、廊下に面していた手すりが崩壊して落ちている。
 その向こう側に、巨大な瞳でこちらを見る怪物。
 全身が粟立った。恐怖に金縛りになりかけたが、自分の使命を思い出すことで立ち直る。
 これ以上、城を破壊されてはいけない。
「他の警備隊はどうした!」
「反撃を試みましたが、あの鎖のよろいにすべて跳ね返されます!」
 あの全身の鎖は、戒めではなく鎧なのか。
 クロスは腰から長剣を抜き去った。
「おい、散らばった警備隊全員に召集をかけろ。全勢力を持って敵を殲滅する!」
 部下は「は!」と声を上げると、身をかがめて走り出した。
 クロスは怪物に向き直った。
 三階部分の崩壊した手すりから、中庭である宮殿に飛び降りた。
 どしん、と地面に着地すると、そこは怪物の足元だった。足の先まで鎖に繋がれている怪物は、歩くことはできなそうだ。召喚されたその場所を動けず、ただ砲台の役割をするのみ。
 そう推理したクロスは、怪物を見上げた。
 怪物の大きな瞳は、確実にクロスを追っている。
 そうだ。俺を標的にしろ。
 周囲を見やる。
 倒れている警備官が見える。
 数が少ない。他の警備官はどこにいる?
 疑問に思ってすぐに気づく。ここには要人がたくさん住んでいる。まずは要人の非難を優先しているのだろう。マニュアルどおりである。
 そういった意味で安堵したクロスは、改めて周囲をうかがう。
 部下はこの怪物を「召喚された」と言っていた。
 つまり、こいつは眷族なのである。こんな巨大で強力な眷族は見たことがなかったが、これは紛れもなく二ツ目族の襲撃である。
 近くに二ツ目族がいるはず。眷族をたたくより、二ツ目族をたたくべき。瞬時に結論を出したクロスはすばやく二ツ目族の居場所を探る。
 だが、探すまでもなく、二ツ目族は最初から姿を見せていた。
 クロスが背後を振り返ったとき、そいつはそこにいた。
 ただたたずみ、隠れようともせず立ち尽くす二ツ目族。
「……お前か……」
 憎しみのこもったつぶやき。
 よくも、ここまで守り続けた大切な城を……!
 二ツ目族は静かに立ち続けている。
 だが、その目には言い知れぬ憤怒が見て取れた。
 見たこともない目の光。
 クロスを捕らえた二ツ目族の双眸は、憎悪に燃え上がっている。
 二ツ目族の分際にしては、大した眼力である。クロスではない三ツ目族なら、言い知れぬ迫力に気おされても不思議はない。
 それほどの憎悪を感じる。
 二ツ目族は一歩、足を前に踏み出した。
 クロスは背後の眷族の気配に注意を向けながらも、二ツ目族に向かって長剣を構えた。
 二ツ目族は瞬きもせず、ただ射抜くかのようにクロスを睨みつけたまま、ゆっくりと近寄ってくる。
 肌が痺れるような、切れ味の鋭い眼光。ふと、クロスは疑問を抱く。あんな目をした二ツ目族を見たことがない。
 この二ツ目族、いったい何があったのか。
 三ツ目族を恨んでいたとしても、同時に猛烈に恐怖しているはずの二ツ目族。この男には後者がない。
 まったく恐れていない。それどころか、クロスを間違いなく殺そうとしている。
「貴様、歴史上初めて城を襲った二ツ目族として名を聞いてやる」
 尋ねた瞬間、口が開いた。
 名を答えようとしたのではない。
 歯をむき出したのだ。
 獣のように。
 その獣は言葉を発した。
 だが、まともな言葉には聞こえなかった。
 クロスの耳に届いたのは、まるで喉が詰まってしまっているかのように、一語一語を必死に搾り出した声だった。
「な・ま・え・な・ど・な・い」
 クロスの目に、二ツ目族の全身から針を発しているのではないかと思うほどの殺気を感じた。
「お・れ・は・ろ・く・じゅ・う・きゅ・う・ば・ん」
 ろくじゅうきゅうばん?
 クロスは戸惑いながら剣を構えた。
 番号――奴隷だ。

 

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