あっちから変なの出てきた

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第一章 【 廃墟の街 その1 】


 クユスリに描いてもらった地図には、グロウリン城塞都市までの道のりが書かれている。
 おおよそであるが、道のりに存在する町や施設、大河や谷の位置が書かれており、そこを渡る際には充分な注意と準備が要ると助言された。
 その地図に書かれている最初のチェックポイントは廃墟の町。
 その廃墟の町をとりあえずの目的地とした。
 歩いて十日の距離。
 聖域の洞窟を出てからというものの、丸一日中歩き詰めを、あわせて十日間も続けた。
 最初の五日間ほどは足が棒のようになるし、足の裏の川がずる剥けてひどい有様だったが、慣れてくると一日中歩き詰めでも動けなくなるほどの疲労ではなくなった。
 最初のうち、奏の背後を歩く佐々倉に、うんざりさせられるほど愚痴や文句、伊集院照子に対する恨みつらみを聞かされ続けていたが、二三日すると口数を減らした。口を開くだけ不毛。体力温存のほうが優先となるのだ。
 広大な大地に浮かれていたトレミも、延々と続く同じ風景に退屈するようになり、次第に眠っている時間が長くなった。
 無言で歩き続ける。人間も他種族も動物もいない荒野。歩き続けること十日目のこと。 ようやく、本当に要約と思えるほどの距離を歩き続け、ついに最初のチェックポイントである廃墟の町にたどり着いた。
 遠くに見えているうちは廃墟かどうか分からなかったが、近くまで来て初めて理解できる。長い間、雨風にさらされた町並みは廃墟そのもの。人の営みの気配は全くなく、通りや建物は荒野の乾いた砂塵に埋もれかかっている。
 三分の一ほど砂に埋もれた建物は、どれも石造りベース。この町に人が住んでいた時代も、とても裕福であったとは思えない。
「現世で言うところの、中東の紛争地域って言ったところか」
 佐々倉のいう通り、建物には破壊された形跡が幾つも残っている。中には背の高い建物も点在し、建築技術はそれほど悪いわけではなさそうだ。これが奴隷の町だったというが、暮らしは悪くなかったように思える。ひょっとしたら普通の建物は三ツ目族の住処で、二ツ目族はもっと劣悪な環境で生活していたのかもしれない。
「だれもいないね」
 トレミが佐々倉の頭の上から声を上げる。奏と違って、長髪の佐々倉の頭は居心地がよさそうである。落ちないように身体を縛り付ける髪の毛が長いおかげだろう。
 町の中央であろう大きな通りを歩いていく。人の気配はまったくない。見える限り、色彩の少ない砂色の世界。荒野であるが気温が低いため、見える風景はやけに寂しく見える。
「仮にも人が住んでいた場所だから、何か使える道具があるかもしれない」
 奏が言うと、佐々倉は「期待できないな」と首を横に振る。
 取り合えず今日の寝床はこの廃墟の町。寝床の場所を決めて、町の探索をしようと思った。
 悪意のある誰かが訪れた場合を考え、人目に付かない場所を探す。人目につかない、目立たない場所、といえば佐々倉の得意分野らしく、いい場所を見つけてきた。
 家が密集する地帯。四方を背の高い建物に囲まれ、いい感じに封鎖的で安堵感がある。雨風も防ぐことができ、砂塵の浸食も少なかった。
 以前は誰かが住んでいた家屋。外見は石造りであるが、内装は木造だった。壁や床には木の板が張り巡らされており、寒暖対策として機能している。家具やテーブル、椅子なども残っており、荒らされている形跡がなかった。
「俺は水源と食料を探してくる。できれば動物を狩れればいいがな。お前は明かりになるような燃料、道具があれば探して来い。それと、使えそうな寝具があればベストだな」
 佐々倉がそう言って、トレミと一緒にいなくなった。やはり佐々倉は頼りになる。はっきりそう聞いたことはないが、佐々倉には過酷な状況を想定したサバイバル訓練がされているのだろう。文句や愚痴が多いし、落ち着きがないが、なんだかんだいって不測の事態に対して冷静なのだ。
 奏も荷物を置いて、まずこの家の探索を始めた。二階へ続く階段があったが、上階は破壊されてなくなっている。一階部分に部屋は三つあった。寝室らしい部屋があり埃の積もった布が重ねられていた。持ち上げると、乾燥した気候のせいか、下部にあった布は割といい状態である。厚手の布を抱えると、寝床の部屋に持ち帰る。
 この十日間、気温の低いこの地域に対し一番困ったのが寝具である。身体を包む布はなく、焚き火を起こせるような火種もほとんど落ちていない。
 結局、身体を丸めながら寒い夜間をしのがなくてはならず、なかなか疲労も抜けなかった。
「次は明かりになるような道具か……」
 この世界には月がない。夜は本当に暗くなるため、明かりが必要だとかねがね思っていた。
 迷って寝床に戻れなくなる事態を心配しながら、慎重に周囲を徘徊した。渇いて冷たい風が吹き続ける廃墟の街には何の音も気配もない。
 それにしても何の音もせず、視界の中に動くものはなにもない。物悲しい雰囲気は、世界の終末を描いた映画のようであり、恐怖心さえ抱かせる。
 恐怖と格闘しながら被害の少ない家屋に入り込んでは、何かないと物色する。ある家屋に入り込んで本棚を見つけた。本を開いてみる。未知の言語で書かれており、まったく内容が分からない。言葉は同じでも、文字は違う。本の内容は役に立たないが、焚き火などの火種になればと何冊か掴んだ。
 本棚の横に別の小さな棚がある。引き出しを引いて開けてみると、奇妙な感覚に襲われた。立ち眩みのような、眩暈のような。
 それは臭いか。いや、臭いじゃない。確かに饐えた様な臭いが漂ってきたが、それが原因ではない。
 色だ。引き出しの中の色が奇妙に揺らいでいる。引き出しの中にあったのは、宝石とは言いがたいが、何らかの鉱物でありそうな黄色い石。
 いや、石は黄色ではない。石から水蒸気のように漂っている色が黄色いのだ。
 なぜ石から色が湧き出しているのか。何らかの有毒ガスか。だが、体調に異変はない。
 なにより、先ほど形容した通り、これは色の付いた空気が立ち昇るのではなく、文字通り色が立ち昇っている。一番近い表現を用いるならば『黄色い光が漏れている』という形容が正しいかもしれない。
 奏は好奇心に負けて手を伸ばす。手に持ってみると、紛れもなく石の感触。持ち帰って佐々倉に聞いてみよう、そう思って石をポケットに入れようとしたときだった。
 手の中から石が飛び出した。まるで石が意志を持ったかのように、奏の手の中を逃げ出し、砂の積もった地面に転がった。
 驚いて足元の石に注目すると、石が振動していた。周囲の砂を撒き散らし、地震に揺れる水面のように波紋を作る。
 小さく振動する石は、爆発の予兆のようにも思え、奏は数歩の距離を後ずさる。
「なんなんだ、この石……」
 奇妙に思ってさらに距離を置いた。そのときだった。
 ぱん、とはじけた音がして奏は反射的に身を竦めた。
 石がはじけ飛んだ。やっぱり爆ぜた。
 周囲に黄色い光が発散した。強烈な光を放つ電球の破裂を見る思いだった。光が奏の目を焼き、一瞬、奏の視界を奪った。
 うめき声を上げて目を押さえる。視界がホワイトアウトして、身動きが取れなくなる。徐々に煙が晴れるように、視界が回復してくるのを待つ。
 ――さっきの石は……。
 石のあった場所を見ると、砂塵の積もっていたところだけ砂が吹き飛ばされ、フローリングが見えていた。
 石は爆ぜて四散してしまったようだ。一体、あの石はなんだったのか。
 奇妙な体験だった。こんなだれもいない廃墟の町の家屋の中。一人で体験したこのことを佐々倉に聞かせたところで、ふうん、と鼻を鳴らされて終わりそうだ。
 ここは隔世。自分の住んでいた現世とは違うのだ。理解できない奇妙な出来事が起こったとしても、難しく考えないほうがよいのはすでに経験して学んでいた。やれやれと家屋を出ようと背後を振り返る。
 振り返ってぎょっとした。「あっ」と悲鳴を上げようとして口を開いたが、喉から出てきたのは空気だけ。
 奏の振り返った背後には、女が尻餅をついて驚愕の表情でこちらを見ていた。
「な、なんで……!」
 そう言ったのは奏ではなく、目の前で尻餅をつく女。
「なんで分かったの!?」
「な、なにが……?」
 女は目を真ん丸くして、奏を見上げている。
「なんで分かったの!?」
 女は再び言った。何のことは分からないが、女の腰に装着された細身の短剣を見つけ、奏は警戒した。
「き、危害を加えるつもりはないんだ。君はいつからそこに?」
 もしかしたら奏より若い女。だが、警戒は緩めることが出来ない。二ツ目族のようだが、二ツ目族だからといっていい人間というわけではない。
「いつからそこにですって? こっちの台詞よ!」
 女は砂埃を上げながら立ち上がると、腰に装着した短剣に手を置いた。奏は弾かれるように距離を置くと慌てて言った。
「待って! 落ち着いて! 君はこの廃墟で一体なにを? 俺は旅の途中に立ち寄っただけなんだ」
「嘘を言え! ただの旅人が、どうして分かった?」
「だから、なにがだよ」
「だから、どうして石が分かったの!? それよりなぜ、解除できたの!?」
「なんのことだか分からないよ! 石って、さっき破裂した黄色い石の事?」
「黄色いって……! なんで分かったの!? それよりなぜ、解除できたの!?」
 さっきから同じことばかり言う。
「ちゃんと説明してくれ。俺は敵じゃない。あの石はなんだったんだ?」
「なんだったんだって、なんなんなのよ!」
「なんなんなのよじゃ分からないよ! 説明してくれって言ってるだろ!」
「こっちが説明を聞きたいのよ! ちゃんと説明しなさい! なんで分かったの!? それより何で解除できたの!?」
 駄目だ。堂々巡りだ。
 落ち着け。深呼吸だ。
 奏は一度大きく深呼吸すると、冷静な声でたずねた。
「まず、あの石。黄色い光を放ってたあの石。不思議だったから仲間に見てもらおうと思って掴んだんだ」
「仲間がいるのね! ずるいわ! 私をどうするつもり!?」
「どうもしないよ!」
 思わず声が大きくなる。
 落ち着け。深呼吸だ。
 もう一度一呼吸おくと、出来る限り冷静な声で言った。
「俺にわかるのは、手に持っていた石が突然震えだして、破裂したところまで。そして帰ろうと思って振り返ったら君がいた」
「なにをわけの分からないことを!」
「これのどこが、意味が分からないんだ!」
「私が聞いてるのは、どうして分かったかということよ! あなたはさっきから石が光ってるとか、持ち帰ろうとしたとか……あ」
 なんだ。最後の「あ」はなんだ。
 女は訝しげな顔で「もしかして分かってないのね」と言った。幾分冷静な声。やっとこの堂々巡りから脱出できる予感。
「こっちこそ説明が欲しいんだ。君はなにを言ってる?」
 女は気難しそうにうなって見せる。だが警戒は解いたようで、短剣の柄から手を放す。
「あなたはどうしてこんな廃墟にいるの?」
 などとさっきまでの動転ぶりはどこへ行ったのか、平静な様子で聞いてきた。
「だから旅の途中に立ち寄ったんだ」
「こんな国の辺境に?」
「国の南のほうだっていうのは知ってるけど、正確な位置は分からない。とにかく北を目指してる」
「ふうん、珍しい」
「珍しいって、なにが?」
「なぜ、わざわざ三ツ目族の中心地へ向かうの?」
 ユーナを見つけ出すため。わざわざそんな説明の必要はない。
「君こそ、若い女の子がこんなところでなにをしてるんだよ」
「だから……」
 説明しようとした女は、ふと背後を気にした。
「やばい、ばれちゃったかも」
「ばれちゃった?」
「あなたが解除するからよ。このままやり過ごそうと思ってたのに」
 意味が分からない。この子は一体何なのか。
 彼女は深刻そうな顔で「あなた、眷族は持ってる?」とたずねてきた。
 真正直に答えていいものか分からず口ごもっていると「そう、持っているのね」と内心を悟られた。
「その眷属は強いの?」
「どうしてそんなことを聞くんだ?」
「相手が強いからよ。あなたが敵じゃないのなら、私の味方になって。どうせ、あなたも殺されるわ。なら私と一緒に戦って」
 殺されるってどういうことだ。
「気づかないの? この雰囲気」
「雰囲気ってなんだよ」
「鈍感なのね。まあいいや、とりあえず隠れよう。戦っても勝てる相手じゃないし」
 彼女はそういうと、奏の手を掴んで走り出した。家屋の外に出ると、小さな裏路地のような場所を走る。
「おい、どこに――」
「しっ、黙って!」
 何で黙らなくちゃいけない。だが、ただならぬ雰囲気。彼女は何から逃げているのか。
「逃げるなら、俺の仲間のところに行こう。見つかりにくい場所があるんだ」
 彼女は突然立ち止まると振り返った。期待に満ちたまなざしで「本当?」と詰め寄ってきた。身体の位置が近い。
「あっちだよ。とにかく急いでるなら行こう」
 今度は奏が彼女の腕を掴んで走り出した。
「名前は?」
 腕を引かれながら彼女が尋ねてくる。
「鳴音奏」
「ナルネカナデ?」
「奏でいいよ」
「カナデ。私はプティシラ」
「よろしく、プティシラ」
 なんで自己紹介など交わしているのか。周囲に背の高い建物に囲まれた封鎖的な家屋に逃げ込むと、先に戻っていた佐々倉がいた。佐々倉の頭の上に乗っていたトレミが「おかえりなさいー」と平和な声を出す。
「やっと戻ったか。どこで油売って……」
 椅子に腰掛けたまま振り返った佐々倉が振り返った体制のまま硬直した。肩で息をする奏が説明しようとした途端、佐々倉が立ち上がって手を背後に回す。
 戒力を発動した、と気づいた。
「佐々倉さん、この子はプティシラといって……」
「またお前は……」
「説明させてください。この子は敵じゃないんです。それに、なにかを知ってるようなんです」
「知ってる?」
 背後でプティシラが「私を擁護してくれるの?」と小声で呟く。だって仕方ないだろう。このままでは佐々倉がプティシラに戒力をぶつけるだろう。
「なにか危険な敵がこの廃墟にいるらしいんです」
 佐々倉は油断せずこちらを睨みつけている。そこまで警戒しなくても……。そう思っていると、佐々倉も思いがけないことを言った。
「お前はだから愚か者だって言うんだ」
 そう言って戒力を消した。
「不穏な空気は俺も感じてる。少し前から重苦しい気配が町全体を覆ってるみたいだ」
 佐々倉は感覚が鋭い。嘘を言っているようには思えないので、その言葉を真実だと仮定するとプティシラの言っていることも信憑性を帯びる。
 佐々倉が呆れたように言った。
「その女が、不穏な空気の正体かと一瞬疑ったが、どうやらただの女のようだな。まあ座れ。話を聞いてやる」
「なに、この偉そうな人」
 プティシラが小声で奏に耳打ちした。ところが、神経過敏な佐々倉にはどんな超音波も察知されるようで、憎しみの篭った一瞥を奏に食らわせてくる。
 何で俺が……という理不尽な想いを押し殺して、プティシラを近くの椅子に座らせた。
「ここはおそらく見つからないだろう。しばらくはな。おとなしくしてろよ」
 佐々倉はそう言いながら、肩に乗っていたトレミをテーブルの上に放り投げる。テーブルの上でころころ転がったトレミが佐々倉にブウブウと非難を浴びせるが、佐々倉は取り合わない。
「聞こうか。この怪しい気配の正体はなんだ?」
 佐々倉の神経質そうな鷹揚のない問いに、プティシラはまるで怖気つくことなく答える。
「暗殺者。ラリルドっていう奴。三ツ目族よ」
「三ツ目族だって?」
 奏が椅子から腰を上げながら聞き返すと、佐々倉に「大きな声を出すな」と叱られる。
 佐々倉が続けて質問する。
「その暗殺者は、どうやら目に付く人間、なんでも殺してやるってな気配をぷんぷんさせてる。俺たちも巻き添えを食いかねない。だが、そいつが狙ってるのはお前一人のはず。お前が一人犠牲になれば、なんの罪もない俺たちは見逃されると思わないか?」
 なんて無常なことを言うのか。ところが、ケロリとした顔でプティシラは答える。
「駄目でしょうね。ラリルドはもう、この廃墟に三人の人間がいるって気づいているよ。きっと私の仲間だと思ってる。容赦しないと思うよ」
 佐々倉はうんざりしたように額を撫でた。
「これで分かったか、奏。不用意に誰かに関わればこんな目に遭う。頼むから学習してくれ」
「す、すみません……」
 恐縮すると、プティシラが噛み付いた。
「さっきから偉そうに。何様よ! いずれにしてもこの廃墟に立ち入った時点で狙われる運命だったのよ! カナデのせいじゃない。むしろカナデが私を連れてきたことで、あなたは敵の貴重な情報を得られたのよ!」
「分かった分かった」
 呆れたように頷く佐々倉。
 子供をいなすような態度に憤慨したプティシラが勢いよく立ち上がると「頭きた」と言って、大きく息を吸い込んだ。
「おい、ラリルド! 私はここだぞ! 掛かって来い!」
 天井に向かって怒鳴りだしたプティシラに対し、佐々倉は慌ててプティシラの口を塞いだ。なおも癇癪を起こして声を上げ続けるプティシラに、さすがの佐々倉も「俺が悪かった」と口先で謝った。
 すると、先ほどまでの憤慨はどこへやら、ケロリと平静に戻って椅子に座りなおす。
「ということで、私たちは一蓮托生。出会っても出会わなくてもラリルドに命を狙われていた事実は変わらない。だったらこの際、手を組んでこのピンチをともに乗り越えようじゃないか」
 プティシラが演説ぶると、佐々倉がため息を漏らして額を撫でた。
「そこのササクラという奴」
「俺のことか? 呼ぶなら『さん』を付けろ」
「ササクラは眷族を持ってるか?」
「『さん』を付けろと言ってるだろ。俺は持っていない。そこのカナデが一匹眷族を飼ってる」
 プティシラが期待の篭った目で奏を見た。
「持ってるのは持ってるけど……」
「どんな眷属? トンベルク? 強いの、その眷属」
「さあ……。元気はいいけど」
「見せてよ。呼び出して見せて」
 すでに呼び出しているし、この眷属はいつまで経っても消える気配はない。
 奏は重々しい気持ちで、ゆっくりとトレミを指差した。指を差した先を見たプティシラは一瞬、意味不明そうに首を傾げるが、次に気づいたのか「はあ」と声を上げて溜息を漏らす。
「あれが眷属?」
「はい! トレミです! カナデの眷属です!」
 トレミはテーブルの上で、飛び上がるように手を上げて自己紹介した。
「ちなみに聞くけど、トレミちゃんは何か特別な力を持ってるの?」
 聞かれたトレミは「ちから?」と首をかしげてしばらく逡巡する。頭から湯気が出るほど考え込んだが、どうやら答えは見つからなかったようだ。
「やっぱり、ただのペット……」
「トレミ、ペットじゃない! トレミ、ちから持ってる! すごいの持ってるよ!」
 存在価値を消されて溜まるかと、トレミが必死に訴えかける。佐々倉が「いいから、トレミ、少し声のトーンを落とせ」と言っても聞き分けがない。
「トレミ、すごいこと出来る! ほんとにすごいこと出来るよ!」
「へえ。ぜひ見たいわ」
 まったく信じていないプティシラがトレミを煽ると、トレミは顔を真っ赤にして「見てろよー!」と突然、身を低く構えた。何をするのだろうと思って奏も注目していると、トレミは突然テーブルの上を走り出した。
 テーブルの淵まで来ると、「とう」と声を上げて走ってきた勢いそのままテーブルの外へとジャンプした。
 まるで空をとぶかのように両腕を万歳させたまま、そのまま床へと落下していった。度肝を抜かされた奏が、床に衝突する前に、慌ててトレミをキャッチした。
「危ないだろ、トレミ! 落ちたら怪我するじゃないか!」
 奏がたしなめると、手の中で悔しそうに涙を流すトレミが「だって……!」と涙声を出す。
「プティシラ、言いすぎだ。トレミは俺たちの力になってくれてる。佐々倉さんだって、トレミに命を助けられてるんだ」
 プティシラもまさかトレミがテーブルを飛び降りると思っていなかったのか、ショックでしゅんと肩を落とした。
「ごめんさない。そんなつもりじゃなかったの」
「このバグダン娘が」
 佐々倉がここぞとばかりに嫌味を漏らすと、プティシラも肩を振るわせ始め、しまいにはシクシクと泣き出した。
 手の中ではトレミが悔し泣きし、隣ではプティシラが両手で顔を覆って泣いており、佐々倉はばつが悪そうにそっぽを向いている。
 一体なんだって言うんだ。
 ああ、めんどくさい。
 
 
 
「プティシラは、どうして三ツ目族の暗殺者なんかに追われてるんだ?」
 プティシラが落ち着いてきたころ、ころあいを見て奏が尋ねた。
「そんなのわかんないよ」
 むすりと答えるプティシラ。
「分かんないって、自分のことだろ」
「自分のことだって、わからないものは分からないもん」
「じゃあ、いつから追われてるんだ?」
「分からないよ。気づいたら追われてたの。初めて命を狙われたのもいつか分からない」
『分からない』ばかりを繰り返す。もしかしたら言いたくないのかもしれない。
 奏の手の中で、泣きつかれて寝息を立てるトレミを起こさないように、テーブル上のたたんだ布の上に置く。
 奏は質問を変えてみる。
「俺たちもプティシラと一緒にいたら危険なんだろ?」
「私と一緒にいる二ツ目族は全部仲間だと思われるよ。もう気づかれてると思う」
「君はいつも、そのラリルドっていう暗殺者からどうやって逃げてたんだ?」
「だから、あなた、見たじゃない。いつもああやって身を隠してたのに、あなたが解除するから見つかったのよ。大ピンチよ。どうしたらいいか分かんない」
「解除?」
「石化は一度やると、次にやるまで一日以上は待たないと続けて出来ない。だから最低一日以上はこのままの姿で逃げ回らないといけないの」
 石化。
 プティシラは確かにそう言ったか。石化って、ひょっとして棚に入っていた小さな黄色い石のことか。
「君はひょっとして、あの小石……」
 プティシラは訝しげに奏を睨む。
「今さらなにを言ってるのよ」
「君は小石になることが出来るのか? あの棚に入ってた黄色い小石、あれは君が変化した姿だっていうのか?」
 気づくと、佐々倉が会話に注目している。プティシラは苛立たしげに奏を指差した。
「あなたが驚くことじゃないでしょ。あなただって同じ能力者じゃない」
「同じ能力者? 俺は小石にはなれないよ」
「嘘よ。だって、私の石化を解除したじゃない。解除できるのは同じ能力者だけ。黄色い波動が見えてたんでしょ。間違いないよ」
 ふと、奏は擬視感を覚えた。変化した物体を、以前にも解除したことがある。
「圧縮能力者……」
 呆然と奏が口遊むと、プティシラが手を叩いて「そう!」と声を高くする。
「圧縮能力者。よくそう言われる。世界にも二人しかいない能力者よ。一人はこのまえ死んじゃったから、今は私一人ね。もっとも、最近はヴァルアラトス副王が圧縮技術を開発したって噂だけど」
 ヴァルアラトス。この国の副王の名前。そして現世に現れてユーナを攫っていった銀髪の三ツ目族。
 だが、それより確認したい事があった。
「君は何者なんだ? 圧縮能力者がこんなところでなにを?」
「ちょっと、圧縮能力者だからって偏見を持たないで。私は私。どんな能力を持ってたって、私は自由に生きるの」
 自由に生きるのは構わない。だが、圧縮能力者は隔世でも英雄的存在として崇められると聞いた。
 だから、圧縮能力者はきっと三ツ目族なのだろうと勝手に解釈していた。
「俺も同じ能力者だと?」
「そうよ。だから言ってるじゃない。圧縮状態を解除できるのは、圧縮能力者だけ。――ねえ、本当に分かってないの? あなた、希少価値の高い、もの凄い能力を持ってるのに、それに気づいてないの?」
 伊集院照子の持っている能力。それと同じ能力が俺にも備わっている? 伊集院照子は言っていたじゃないか。伊集院照子の御札状態を解除した奏に、伝えなければならない事があると。それはもしかして、圧縮能力の引継ぎ? その能力を発揮する方法の伝授。
「……教えてくれないか?」
 奏は静かに言った。
「俺にその能力の使い方、教えてくれないか?」
「使い方? そんなの分からないよ。私だってどうやってるか、理屈で理解してるわけじゃないし」
「お願いだ。これからきっと俺に必要になってくる能力だと思うんだ。教えてくれるならお返しは――」
「奏、待て」
 佐々倉が会話の腰を折った。
「いまはそんな話をしてる場合じゃない。この馬鹿女を追って来た暗殺者の野郎からどうやって逃れるかだ。いつまでもここにいられない。俺たちの気配を辿って、いつかは見つかるだろう」
 そうだ。いまは目の前の問題がある。
 佐々倉が「相手の情報を教えろ」とプティシラに訊ねると、プティシラはツン、と顎を突き上げてそっぽを向いた。
「命令しないで。教えて欲しいならちゃんとお願いしてよ」
「なんだと、このクソ女」
「私はクソ女じゃないもん」
「馬鹿女」
「馬鹿女じゃないもん」
「アバズレが」
「へえ、教えて欲しくないんだ、相手のこと。じゃあ何も知らないまま死んじゃえばいいんだ」
 この佐々倉とプティシラの言い合いこそ不毛である。奏が交戦中の二人に割って入る。
「いずれにしたって、俺たちと協力しなきゃ君も逃げられないんだろ。相手のラリルドって奴のこと、ちゃんと教えてくれ、プティシラ」
 そう言うと、プティシラはしぶしぶ話し始めた。
「ラリルドは三ツ目族の男で、高い通力を持ってる。炎や衝撃波の通力を使う。力は普通の三ツ目族より数段レベルが高くて、まともに戦ったらまず勝てない」
「強いって、どのくらい強いんだ?」
「その気になれば、私たちなんて一発で粉々にできるくらい。あいつに抵抗できるとしたら眷族しかない。でも、大した眷族も持ってないみたいだし」
 トレミが起きていたら、また一悶着起きそうな発言である。
「そういえば、その眷族ってハザマの世界に戻らないの? いつまでも現世にいたら、宿主が消耗するはずだけど……」
 確かにトレミは、出会ってから一度もハザマの世界に戻っていない。奏の身体にも特に変調がないので構わないが。
「そういうわけで、状況は絶望的。一日逃げ回れれば、あなたたちも石化してあげられるかもしれないけど、逃げ切るなんて無理。ラリルドは標的を殺すまで、どこまででもしつこく付きまとうわよ」
 佐々倉が勢いよく立ち上がると、プティシラを食わんばかりに大口を開けて怒鳴った。
「お前、他人事のように言ってるが、少しは俺たちを巻き込んで申し訳ないと思わないのか!?」
「そもそも、私の石化をカナデが解いたのが悪いのよ。そうじゃなかったら、ラリルドもこの町を通り過ぎてたかもしれないのに」
「お、俺?」
 巨悪の根源の矛先を向けられて戸惑う奏。さっきは佐々倉に責められた奏を擁護してくれていたのに。
「ソラ・トンベルクとかあれば飛んで逃げられるのにな。私の眷属はあまり戦闘に向かないし」
「プティシラの眷属って?」
「私の眷属は連絡係りみたいな奴と、ヌルチっていう鳥みたいな奴」
「連絡係りみたいな奴って……」
「ノエルっていうウサギみたいな奴。用もないのに呼び出すと怒るから呼び出せないけど」
「ヌルチって言うのは?」
「海にいる鳥みたいな奴。飛べそうなくせに飛べない奴だよ。声はでかいけど。呼び出すとうるさいから呼び出せないけど」
 ヌルチとノエル。連絡係りと飛べそうで飛べない奴。確かにあまり役にたたなそうだ。
 どうしよう。何か方法があるか。
 佐々倉が言った。
「俺にもラリルドの正確な位置が把握できない。おそらく相手は自分の居所を特定させないために不気味な気配を振りまいてるんだろう。プティシラ、お前にはラリルドの居場所が分かるか?」
「わかんない。周囲にある種の煙幕みたいなものを張って、自己主張しならが居場所を隠すようなのはあいつの常套手段なんだ。殺す相手を怯えさせながら殺すのが好きな嫌な奴」
 方法がない。こっそり町を出るなんて事は出来ないのだろうか。だって、今だって居場所は見つかっていない。
 そうだ。佐々倉が「この場所はしばらく見つからない」と断言したのはなぜだろう。
「佐々倉さん。なぜこの場所はラリルドに見つからないんでしょう」
「スクールで習わなかったのか? 情気ってやつは、性質上、電気とか電波みたいなもんだ。この密閉空間は俺たちの気配を外に漏れるのを防いでる。携帯電話の電波が届かない地帯、ってイメージすれば分かりやすい。だが、外に気配は漏れないが、相手もそれを知っているとすれば、密閉されているような空間をポイントに捜索されたら見つかるのは時間の問題になってくる」
「す、すごい。そんなことを考えてこの場所を選んだんですか?」
 佐々倉に睨みつけられる。
「当然だろう。お前、俺がなにも考えてないと? 藪北の人間をどれだけ過小評価すれば気が済むんだ」
 性格は悪いが、やはり優秀な人間らしい。
「ねえ、それで? どうやって逃げればいいのか、考えた?」
 プティシラが他人事のように言った。しかし、いつまでもここに居れるわけではない。ここから外に出れば、たちまち気配を悟られ見つけられてしまう。気配を消す方法なんて分からないし。
「ラリルドに弱点なんかないのかな」
 奏がぼそりというと、プティシラは首を横に振る。
「ないよ。あえて言えば、三ツ目族は第三の目が力の源って言われてる。それを潰せば勝てるかもね」
 第三の目が弱点……。貴重な情報であるが、そこから良い案は生まれない。奏は苦し紛れに、何かないかと周囲を見渡す。プティシラも釣られて周囲を見渡すと「なにこれ」とテーブルの上にあった本を手に取る。
「それは、焚き火の火種になればと思って持ってきたんだ」
「ふうん」
 プティシラは無造作にページをめくる。プティシラは隔世の人間だから、ひょっとしたら何が書いてあるのか読めるのかもしれない。
「この町のことを書いた本みたい。町の歴史と周辺の環境。近くに一ツ目族の里があるって書いてある」
「一ツ目族? どのくらい近いの?」
「ここには書いてないけど、歩いて一日程度だと思う」
 一日程度。助けを求めにいくには少々距離がある。プティシラがパタンと閉じて言った。
「一ツ目族に助けを求めようと思っても無駄よ。この町が廃墟化したの、なぜだか知ってる? 一ツ目族に滅ぼされたからなの。一ツ目族が攻め込んできて、たちまち町を破壊してしまった」
「一ツ目族が? どうして……二ツ目族の仲間じゃないのか」
「仲間のわけがないじゃない。敵対もしてないけど、普段はあまり交流しない」
「そうなのか? レジスタンスは一ツ目族と二ツ目族が組織したものだって……」
「レジスタンス? 解放軍のこと? そうだよ。解放軍は一ツ目と二ツ目が結束した集団だけど、全ての一ツ目族と二ツ目族がレジスタンスってわけじゃないし」
 そういうものなのか。
「なんで一ツ目族がこの町を滅ぼしたんだ? 一ツ目族って言うのはそんなに凶暴なの?」
 そういえば、現世に現れた一ツ目の暴れっぷりは凶暴そのものだ。気づくと、質問した奏をじっとり睨みつけているプティシラ。
「なんか様子が変だね、あなた。本のときも思ったけど、ひょっとして字が読めないの? それに、一ツ目族のこともよく知らないみたいな口ぶりだし」
 奏は思わず佐々倉を見た。佐々倉は我関せずとそっぽを向いている。仕方ない。またこの嘘をつくことになるとは。
「俺たち、二人とも記憶がないんだ。字も分からないし、この国の現状も、どんな種族がいるのかも良く知らないんだ」
「記憶喪失なの? 二人とも?」
「良かったらいろいろ教えて欲しい。この町のことは知ってるの?」
 プティシラは何かを必死に悩んでいたが、考えることに疲れたのか、ふう、とため息を漏らしてから言った。
「私も詳しくないけど、聞いた話だと、この町はもともと鉱業地帯から生まれた奴隷の町だったの。見て分かる通り、奴隷といっても結構いい暮らしのほうだったみたい。この地域は台地になっていて、幾つもの鉱物が埋まってた。たくさん穴が掘られたみたい。だけど、どんどん掘っていく内に一ツ目族の里に近づいて、一ツ目族が聖域と崇める神殿にぶつかった。もちろん、二ツ目族に鉱物を掘らせているのは三ツ目族だから問答無用に一ツ目族の神殿を潰して好物を採掘した。そこで怒った一ツ目族がこの鉱業の町を潰してしまったとさ。これがあらまし」
「その後、一ツ目族はどうなったの?」
「分からない。でも、罰は受けたけど一ツ目族の里はなくなってないみたい。だけど、二ツ目族と仲直りしたわけじゃないから、さっきも言ったけど助けを求めても無駄だよ」
「そうか……」
 鉱業の町。地下に張り巡らされた穴。それは一ツ目族の里まで続いている。
「地下の掘られた穴の入り口は?」
「ちょっと待て」
 佐々倉が奏の考えを読み取ったのか、会話に割って入ってくる。
「短絡的に考えるな。プティシラ、この台地で採掘していた鉱物とはなんだ?」
「特別な鉱物。なんでも、通力や眷族の力を封じるものとか……」
 通力や眷族の力を封じる。
 そうか。トレミ。それから腕に巻きついたラナ・カン。
「通洞ってやつはたびたび事故が起こる。当時は通洞に空気を送り込むような仕組みもあったんだろうが、今はどうか。入ったと単に酸欠で死ぬハメになりたくない。古い坑道が崩落しないとも限らないしな」
「私も賛成。中に入ったら通力も眷族も使えないんでしょ? 追い込まれたら終わりじゃない」
 おそらく、眷属は使える。坑道内で召還できないだけで、召還した状態で入り込めば言い。ウィンディアで労に閉じ込められたときと同じ理屈だろう。
 だが、駄目だ。佐々倉の言ったとおり、崩落の危険があるし、今も坑道が続いているとは限らないし、何よりトレミに出会った聖域の洞窟の記憶が恐怖を呼び覚ます。二度とあのような経験はしたくない。
 本当にどうしたらいいんだろう。こんなところで死にたくはない。圧縮能力が今すぐ使えたら。短時間で覚えられるとは思えない。どうにかラリルドを説得できないだろうか。そんな融通の利く相手ではないのか。
 圧縮能力。
 圧縮能力……。
 伊集院照子の能力。
 そういえば……。
「圧縮状態の解除は、圧縮能力者だけしか出来ないんだったよね」
「そうよ」
「圧縮状態の解除。つまり……」
 奏は佐々倉を見た。佐々倉は奏の表情を見て怪訝そうにする。
「佐々倉さん、戒力を見せてくれませんか?」
「は? どういう意味だ」
「発動して欲しいんです」
「そんなことをしたら、ラリルドに見つかるぞ」
「弱い力でかまわないんです。すぐ済みます」
「何か思いついたっていうのか?」
「ええ。でも、試してみないと」
 佐々倉は訝しげにしていたが、佐々倉も危機的状況の運命共同体には変わりはない。しぶしぶ、腕に装着した戒具から戒力を発動した。
「なにそれ。見たことないよ、そんな感じの力」
 プティシラが声を上げる。まるで空気が凍結したような紫色の物体が、佐々倉の手の甲に出現する。
「プティシラ、いま佐々倉さんが発動した力を解除してみて」
「私? 私、そんなこと出来ないよ」
「大丈夫。石化状態からの解除と同じイメージで、佐々倉さんの発動した力を解除してみて」
「石化から戻るときみたいに?」
 奏がコクリと頷いてみせると、プティシラは不可解そうにしながらも、じっと佐々倉の作り出した戒力の矢を睨みつけた。
「解除……解除……」
 プティシラが呪文のようにつぶやく。すると、佐々倉の作り出した戒力の矢が徐々に風化するかのように空間に消えていった。佐々倉が目を見張っている。プティシラを見ると、彼女も目を丸くしている。
「やっぱり。圧縮能力と、通力を解除して無効化する能力はセットなんだよ。プティシラは相手の力を無効化する力があるんだ。俺の知ってる人が言うには、あまり通力も必要としないから、今の君にも使える」
「すごい……! これって発想の転換よね! 私にこんな能力があったなんて!」
「前に別の圧縮能力者は、一ツ目族をその能力で封じようとしてた。これでラリルドの力を封じれるかもしれない」
 佐々倉が気難しそうな顔で考え込んだ。メリット、デメリット、実現性、利便性、その他いろいろな分析を始めているのだろう。
 プティシラは新しい力の発見に浮かれている。
「奏って頭いいね! これでラリルドから逃げられるかもしれない」
「まだそう決め付けるのは早い」
 佐々倉が暗い声を出す。
「その力、たったいま開花したばかりで、訓練もしていなければ使用した前例もなく、どれほどの威力を発揮するのかは未知数だ」
「なんで気の萎えることをいうのよ」
「冷静だと言ってくれ。さらに言えば、ラリルドの力も未知数だし、この気配から推測すれば俺たちが束になってもかなわない。もっと言えばこれから日が暮れる。相手が気配を紛らわせることが出来て、俺たちの気配は相手に筒抜けであるのならまるで勝てる見込みがない」
「……相手の居場所か……相手の居場所が分かれば、どうにかなるんでしょうか」
 佐々倉が奏を睨んだ。
「分かるとでも?」
「たとえば居場所が分かれば、プティシラが相手の力を無効化して、そこに佐々倉さんの戒力を打ち込めば……」
 佐々倉が奏を睨んだままなにも答えなかった。奏は、また佐々倉の気の障ることを言ったのかと後悔していると、佐々倉はため息混じりに言った。
「三ツ目族ってやつがどれほどの力を持ってるのか分からないが、新型の戒具でフルパワーならダメージを与えられるかもな。俺の命中率はほぼ百パーセントだ。はずす心配は要らない。じゃあ、相手の位置を知る方法になるが」
 そう。それが問題。
 答えはある。
 だが、そんなことが出来るだろうか。
「俺が囮になります」
「そう言うと思ったが」
 佐々倉が呆れたように肩を竦める。
「お前が囮になって、ラリルドって奴が姿を現したとしても、奴がおとなしく止まっててくれるとは思えない。動いている標的を狙うのは至難の業だ」
 佐々倉がそう言うだろうと予想していた奏も即座に答える。
「動く標的が直線的なら問題ないんじゃないですか? たとえば、左右に動く標的は狙いづらいけど、まっすぐこちらに向かってくるのなら」
「確かにそうだが……」
「でも、失敗したら?」
 プティシラが不安そうに尋ねてきた。
「失敗したら終わり。でも、他に方法が思いつかない」
 ううん、とプティシラも悩みこむ。
「囮になるのは俺だよ。もし失敗しても、プティシラがラリルドの力を無効化できるのなら、逃げ切れるかもしれない」
「でも、永遠には逃げられないよ。通力を封じるには、私は通力を放出し続けなくちゃならないし、通力を封じる術は、相手の動きも止めることができるわけじゃないんでしょ」
「大丈夫。通力を封じ続けながら一ツ目族の里に行くんだよ。力の無効化と、佐々倉さんの戒力があればきっとたどり着く」
 佐々倉がせせら笑いながら言った。
「お前は犠牲になるのか? たいした高尚な考えだが、俺は別にお前を止めたりしないぜ」
 がるる、とうなり声を上げながら佐々倉に噛み付こうとしたプティシラを制止して、奏は言った。
「構いません。でも、俺が死んだらトレミもいなくなりますよ」
 そう言うと、佐々倉は恨めしそうに歯軋りをする。少し意地悪だったか。佐々倉は諦めたように言った。
「いずれにしても死なばもろともはごめんだ。お前がやられたら、俺は逃げるからな」
 それでいい。俺だって死ぬつもりはない。
「ごめんね、カナデ。なんか、巻き込んじゃったみたいで……」
 急にしおらしくなるプティシラ。
「隔世に来た時点で、危険は覚悟してたんだ。君のせいじゃないよ」
「俺は覚悟してないけどな」
 皮肉を言う佐々倉。プティシラはウルウルした目を奏に向けている。
「なんて頼もしい人。でも、隔世ってなに?」
 あ、と思ってももう遅い。なんて言い訳しようかと考えていると、佐々倉が平然と言った。
「馬鹿女に説明したって理解できないさ」
 すると、プティシラが憎しみの一瞥を佐々倉に突き刺す。奏は話題を変えようと慌てて言った。
「プティシラ、相談なんだけど。この町にわき道のない真っ直ぐな道がないかな」
「え? 真っ直ぐな道? う〜ん、分からないな。あまり詳しくないし……。あっ、さっきの本に地図が載ってたよ」
 プティシラがテーブルの上に置いてあった本を掴むと、ぺらぺらとめくりだす。目的のページを見つけたプティシラは地図を指でなぞりながら一本道を探した。
「ほら、ここ。両脇に背の高い建物があって、わき道のない通りがあるよ」
 確かに。この町の中央を横断するように続く直線。道の終わりには、道と垂直に立つ建物もあり、佐々倉が狙えそうな場所もある。
「どうして背の高い建物だって分かるの?」
「印があるから。ここは三階建てなの。こっちの印は二階建て。こっちの印は一階建て」
 次々に指で印を指し示すプティシラ。
「なるほど。その中央の道路はこの場所から遠いのかな」
「そんなに遠くない。三百メートルくらいかな」
 この廃墟の町が全長1キロメートルにも満たないから、近いとも遠いとも言えない距離。
 佐々倉が地図を覗き込みながら言った。
「行動は別にしたほうがいいな。奏が囮ならプティシラと一緒に先に出ろ。俺は後から出て、出来るだけ気配を殺してこの建物で控えてる」
 佐々倉が指差したのは、中央道路と垂直に経つ建物。
「この建物の屋上か屋根で待機する。奏は通りを歩け。俺の待機している建物に向かって逃げれば、ラリルドも真っ直ぐ追いかけてくるだろう。プティシラはどうする?」
「俺と一緒に行く。別々に行動して、どちらかが狙われたら最後だから。ラリルドが現れたらすぐに通力解除を行って逃げる」
「奏は?」
「俺は動かない。佐々倉さんが戒力の矢をラリルドにぶつけるまで」
「いい度胸だが、本当に出来るのか?」
「俺が動き回ったら、相手が予想と違う動きをするかもしれないし。俺が立ち止まってれば、まっすぐ向かってくるはず」
 佐々倉が一度大きく息を吸った。
「本物の博打だな、これは」
「本当に大丈夫? 奏」
 本当を言うと、もう手足が恐怖で震えだしていた。三ツ目族が自分を殺そうと迫ってくる間、本当に正気を保っていることがd家居る?
 まるで氷の風が身体を通り抜けていったかのように寒くなった。
「行動は早いほうがいいな。この場所が相手に知られるのも時間の問題だ。出来る限り建物が密集している場所を通れ。大通りには出るなよ」
 奏は覚悟を決めなければならなかった。
 
 
 
 走ったほうがいいのか、歩いたほうがいいのか。奏が選択したのは後者だった。建物の影に身を潜めながら周囲の気配をうかがい、慎重に慎重に歩みを進めた。その間、プティシラが痛いほど奏の腕を掴んで後ろをついてきた。
 日が暮れ始めている。建物と建物の間から見える空が赤く夕焼けているのが分かる。動物の鳴き声も虫の音もない。乾いた風が砂を運ぶ音だけ。
 人の気配のない廃墟の町を歩きながら、奏には感じるのことの出来ないラリルドの気配を感じ取ろうと集中する。
 佐々倉はどこくらい後方にいるのだろうか。ひょっとしたらもう配置についているかもしれない。俺たちがたどり着く前にラリルドに出くわしたらどうしようと、気が気ではない。
「そういえば、プティシラはなんでこんなところに来たんだ?」
 ふと、思い出して問いかける。
「今する話かな、それ」
「気になったんだよ。こんな誰もいないような場所になんの用でやってきたんだ?」
「途中に立ち寄っただけだよ。南のほうに用があったんだ」
「南? 俺たちが来た方向だけど、南には森以外は何もなかったよ」
「ウィンディアのあとを付けてるの」
「ウィンディアの?」
 あのプエラのいるウィンディアだろうか。奏はクユスリを思い出す。クユスリは確か賞金目当てにウィンディアの居場所を政府に密告しようとしていた。プティシラも同じ目的だろうか。
「ねえ、奏。南から来たのならウィンディアを見なかった?」
「ウィンディアなんかに、何の用があるんだ?」
「ある男が一緒にいるはずなの。用があるのはその男」
「その男って?」
「イカサマ占い師なんだけど、青っ白い顔をした優男。占いと称していい加減なことを言って、人々をかどわかす悪い男よ」
「占い師……」
 まさか。
「それって、ルウディのことか?」
 そう言うと、プティシラは目を真ん丸くして「そう!」と大声を上げた。声は森閑とした廃墟によく響いた。
 奏が慌てて人差し指を唇に当てると、プティシラが思い出したように周囲を警戒した。
 今度は慎重に口を開くプティシラ。
「ルウディのことを知ってるの?」
「まあ……少し話したよ」
「本当? ねえ、詳しく知りたいの? まだウィンディアにルウディはいた?」
 ルウディを思い出すと嫌な記憶も蘇ってくる。
「いたと思うよ。でも、ウィンディアはもう出発したと思う」
「ええ、やっぱり……。せっかくここまで来たのに……。ねえ、次どこに向かったか分かる?」
「多分、南の方角だと思うけど……。君はルウディとどんな関係なの?」
「関係? そんなものないよ」
「ないの? じゃあ、どうして追いかけてるの?」
「やっつけるためよ」
「やっつけるのか? なんか恨みでもあるのか?」
「恨み? ないわよ、そんなもの」
「ないのなら、どうしてやっつけるんだよ。ルウディがイカサマ占い師だから?」
「そんなの関係ない。やっつけなくちゃいけないから、やっつけるのよ。理由なんてない」
 また意味不明なことを言っている。もしかしたら理由を言いたくないのかと思い、それ以上聞かなかった。
 彼女はラリルドという三ツ目族に追われる傍ら、ルウディを追っている。忙しい追いかけっこだが、追う理由も追われる理由もいまいち釈然としない。
 これから自分が殺されるとしたら、その理由くらい知りたいものだ。
「ねえ、カナデ、聞いてもいい?」
 プティシラが改まって聞いてきた。なんだろうと思って振り返る。
「どうして助けてくれるの? ラリルドがあなた達の命も狙ってるなんて話、本当に信じたの?」
 嘘なのか? とは聞かなかった。嘘かもしれないと思っていたが、追及する理由はなかった。
 プティシラは後ろめたそうに言った。
「私一人じゃどうにもならないから、あなたたちを巻き込むために口から出まかせを言った、とは思わなかったの? 私ひとり差し出せば、自分たちの命は助かるとは思わなかった?」
 いまさら、なぜそんなことを聞くのだろうか。
「私、素直に助けてって言えなかったし、助けてもらうにしても『あなたが悪い』とか『もう巻き込まれてる』とか言わないと、人は協力してくれないと思ってたし。でも、カナデは私のことあまり疑わないね」
「どっちでもいいんだよ、そんなこと」
 それは本当のことだ。どっちでも良かった。疑うとか信じるとかいう次元ではない。
「君を助けたかった。こう言ったら聖人のように聞こえるかもしれないけど、そうじゃない。なんていうか、隔世に来て初めて親切にしてくれた人を、俺は助けてあげられなかった」
「隔世? さっきもそんなこと言ってたけど」
 思わず口走ったが、プティシラが言葉の意味を気にするのであれば、もう黙っているつもりもなかった。
「俺にはどうしても助けたい大切な人がいたんだけど、一度諦めたんだ。見捨てて故郷に帰ろうと思った。それは、俺には誰も助けられないと思ったからだし、事実、誰一人も助けてあげられなくて、みんなが不幸になったんだ。だから、君を助けたい。助けたいなんて高尚なもんじゃない。自分を試してるんだよ。一番大切な人を助けられるかどうか、君に手助けすることで試そうとしてるんだ。俺の身勝手な考えだよ。プティシラは気にしなくていい」
 プティシラを助けられたら、きっとユーナも助けることが出来る。そんなジンクスを信じたかった。自分に確信が欲しかったから、プティシラをユーナに重ね合わせたのだ。
「ふうん、大切ね人ね。よっぽといい女なんだ。ちょっと嫉妬」
「嫉妬って……」
「私はその子の代わりなのね。なんだか侮辱された気分」
 そういえば失礼な話だ。
「ごめん」
 素直に謝ると、プティシラが「ぷう」と噴出して笑った。
「謝ることなんてないのに。むしろ、謝るのは私のほうなのに」
「巻き込まれたって言うのは君の出まかせ、っていうのは本当なのか? 本当は君を差し出せば俺たちは助かったのか?」
「半々って言ったところかな。相手は三ツ目族だから、二ツ目族なんて虫けらのようなものだし。ラリルドの気分しだいって所だと思う。だけど、私を差し出したほうが、この作戦よりはよっぽどカナデが助かる可能性は高かったかもね」
「みんなが助かる可能性が高いのは、この作戦以外にないよ。誰かの犠牲の上にある可能性なんて、もう沢山なんだよ」
「うふふ。かっこいいね。でも、ずっとずっとかっこいいままでいられる? 何年も何年も裏切り続けられても、カナデはかっこいいままでいられるの? 誰かが犠牲になることでその他大勢が救われるとしたら? その選択をしなかったせいで、みんなが不幸になったら?」
 まるでウィンディアでの奏を見てきたかのような口ぶりだった。奏の胸がずしりと重くなる。
 決意は固めたはずではなかったか。最良の結末。誰もが不幸にならない結末。
 ただひたすらに幼稚なだけであろうか。絵本に描かれるようなハッピーエンド。ただの理想論だと唾を吐かれてさげずまれるだけの戯言?
「カナデはいい人だね。こんないい人、出会ったことないよ。みんなで生き残る。そんなこという人、初めて会ったよ」
 プティシラがささやくように言った頃、目的の一本道にたどり着いた。
 ごくり、と生唾を飲む。
 日はすっかり暮れて、街頭のない廃墟の裏路地の先は闇に溶け込んでいた。
「着いたよ。どうするの?」
「佐々倉さんはもう配置についてるはず。この一本道を半分くらい進んだら、君の眷属を呼び出そう。うるさいっていってた奴、いただろ」
「ヌルチを呼び出すの?」
「うん」
「ヌルチは魔法の絨毯みたいな奴よ。地面を這うように進むの。それなりのスピードが出るから移動には便利だけど、ちょっとうるさいの」
「それでラリルドを呼び出そう。ラリルドが現れたら通力無効化の術を使って、そのままプティシラはヌルチに乗って反対の方角に逃げて」
「うん……」
 プティシラは奏から数歩離れる。なんだか不安そうに振り返ると、次ににっこりと笑った。
 瞬間だった。足元から風が吹いたように、プティシラの髪の毛が巻き上げられる。着ている服の裾や袖が風に揺れる。地面から何かが湧き上がってきた。同時に「ぬぼー」という重低音。
 プティシラの正面に現れたのは、鳥というよりは……。たとえるならエイ。海に住むエイだ。地面に近い地で浮遊したまま、グレー色の物体が「ぬぼー」と声を上げている。質感はエイそのもの。両翼が奇妙にうねっているが、毛とか羽というものは生えていない。油性マジックで黒い丸を描いたような眼が二つ。口らしき穴がひし形に開いており、そこから絶えず「ぬぼー」と聞こえる。
「ヌルチ。大きな声を上げて」
 プティシラが言うと、「ぬぼー」が「ぬぼー!!」になった。なにも聞こえてこないラジカセのボリュームを上げたときの雑音のようだった。大声と言っても耳をふさぐほどの大声ではないが、遠くまで振動が伝わりそうな重低音。
 確かにうるさい。男の声の波長に似ており、奏が「プティシラ」と声をかけても、同調してかき消される。転じてプティシラが「これでいいの?」と問いかけてきた声は良く聞こえた。奏は頷いてみせる。
 ひどい大声だ。鼓膜をつぶすような轟音ではないが、眩暈を起こしそうな気が狂いそうな振動音。声は軽い衝撃波となり、周囲の老朽化した建物から建築素材が粉を吹き、周囲にぱらぱらと小石を降らす。
 ラリルドがこの一本道のどちらからやってくるかはわからない。左右を何度も確認して、ラリルドの気配を探った。同様にプティシラも首を振って、ラリルドの影を探した。
 ラリルドが姿を現したのは程なくして。予想通り、何の意外性もなくラリルドは姿を現した。奏とプティシラがやってきた方角とは逆方向から、ゆっくり歩いてくるのが見えた。
「あれがそうなのか?」
「うん。間違いない。あれがラリルド」
 奏は緊張した。佐々倉は準備できているのだろうか。気になったが、佐々倉の待機しているはずの方向に目を向けようものなら、相手に計画を悟られてしまう。
 奏は恐怖を押さえ込んで、ラリルドだけを見ていた。ラリルドが奏の予想を裏切った事柄がひとつだけある。それは「暗殺者」という言葉のイメージから奏は黒尽くめのナイフのような鋭く冷たい印象の男を想像していた。だが、こちらに向かって急いでいる風でもなく歩いてくる男はひょろりと背の高いやせた男だった。
 身にまとう衣服も黒尽くめでもなかったし、目立っているわけでもない。日が落ちたせいで色まで正確に判別できないが、白か灰色のシャツに同じ色のズボン。たとえるなら、中国の僧侶のような格好。深くかぶったターバンのせいで目線は伺えないが、ターバンの向こう側には第三の眼があるはず。
 現世に現れたヴァルアラトス以来の三ツ目族との対面。隔世で恐れられる支配階級の三ツ目族とは、一体どれほどの強さなのか。
 まだ距離がある。
 みしっみしっ
 どこからか音が聞こえた。奏は周囲の建物を見上げる。黒い建物の影が冷たく奏たちを見下ろしている。
 嫌な予感がする。奏はプティシラに向かって頷いてみせる。意味を悟ったプティシラはしゃがみこんでヌルチの背中のあたりを撫でた。
「ヌルチ、もういいよ。声を落として」
 プティシラが言うと「ぬぼー!!」から「ぬぼぅ……」と声が終息していく。
 初めて聞こえるラリルドの足音。砂地を踏みしめる音が着実に、確実に近づいてくる。
「気をつけて。あいつはとんでもない通力をぶつけて来るから」
「少しでもそんな気配を見せたら、通力の無効化を」
「分かった」
 プティシラの声も緊張しているのが分かった。佐々倉はもう戒力を発揮して、狙いをつけているところだろうか。
 距離は? 遠すぎるか? 少し退いて佐々倉との距離を縮めたほうがいいだろうか。
 ――いや、佐々倉は本当に待機しているのか?本当に佐々倉は奏のために残っているのか。
「疑うな……」
 呪文のようにつぶやく奏。プティシラには声は届いていない。
 近づいてくるラリルド。三十メートル。二十五メートル……。
 身長が高い。二メートルは越えるか。近づいてきたラリルドは、遠くから見ていた以上に線が細い。骨が布をかぶっている。そんな印象。
 ほほがこけ落ちて、半開きの口からはやけに並びの綺麗な歯が見える。だが、目が見えない。暗い影に隠れた奥の双眸が、果たして人のそれであるのか。
 十五メートル……十メートル……。
 目の前。まだ通力を発しない。
 プティシラが後ずさった。同じだけ後退する眷族のヌルチ。通力を発しなければ、プティシラも逃げるきっかけがつかめない。
 ――ラリルドは分かっているのだ。
 何か罠がある。ラリルドを見ても逃げようとしない奏とプティシラは何か企んでいると。やれるものならやってみろ。ラリルドがそう言っているように聞こえる。
 五メートル。
 ラリルドが立ち止まった。うつむき加減だった面が徐々に持ち上がる。
 双眸が見えた。奏は全身があわ立って、戦慄に尻餅をつきそうになる。
 丸い目。まるで驚いているように見開かれた双眸は、涙目のようにきらめいており、確実に奏を見ていた。
 動かない。
 喋らない。
 こう着状態。
 お互いが相手の手の内を探っている。
 これ以上、あの不気味な目を見続けたら精神が汚染されそうだ。
 もうすでに、ラリルドに見られただけで奏の心はダメージを負っている。
 逃げ出したくなる。
 奏はここまできてようやく理解した。
 この男――やばい。

 

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