あっちから変なの出てきた

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第九章 【 ディザーテッド・タウン編 自警団長 】


 運命とか、時間とか、大きな流れの中に一人の青年が歩みを進めている。
 青年が孤独に歩く場所。それは炎天下の荒野である。木々が枯れ、地面がひび割れ、随所に残る旧時代の建造物は、ほとんどが原形を留めていない。道なんてものは皆無だし、旧時代の標識は何の役にも立たない。標識通りに進んだとしても、その先に示される場所はすでに存在しないのだ。この世にあるもので、人を導いてくれるような代物は一切ない。
 彼がこれから体験する事柄は、最初から予め決まっていた必然なのかもしれないし、あるいはただの偶然という歪なのかもしれない。いずれにしろこれかr青年が訪れる、とある町から始まることには間違いなかった。ただし、当の本人には何も分からなかったし、その場所が、永久という奈落の底に通じる蟻地獄であることにも気づかなかったし、些細な予感なども感じ取る事は無かった。
 一人の青年が見えない大きな渦の中心に近づいていく。運命という舞台の上で。
 
 
 
 荒野に立ち入って一番辛かったのは、昼の焼け付くような暑さと、針のような冷たい風の吹く夜だった。昼の陽射しは殺人的で、ナイフが降り注いでくるほうがまだましだと思った。
 それでも水は十分に持ってきたし、食料も十分だった。――いや、結果的には十分でなかったのだ。
 そもそもこの荒廃した荒野の真ん中に、まだ政府に発見されていない眷族の聖域があると出所不明の噂を信じてやってきたのが間違いだった。風評の場所にはすでに政府公安の役所となっており、立ち入る事が出来なかった。引き返そうと思ったとき、絶望感に打ちひしがれることになる。
 想像以上の苛酷な環境の荒野。用意した水も食料も底をついた。まさか、こんなところで死ぬのか、と恐怖に震え上がったとき、想いかけず、ひとつの町にたどり着いたのだった。
 
 
 タモンはこれまでにも二ツ目族の町は見た事があったが、どれも政府の管理下の置かれて、住む人間は誰もが絶望に暮れた顔をしているのが常だった。
 とくにこの地域一体の川や池、井戸にだってきれいな水はなく、浄化された水は売買される。この付近の土地は、遠い昔に汚染されてしまったらしく、気が遠くなるほどの時間が経たないと、綺麗に浄化されないらしいのだ。
 ここは荒野。雨もほとんど降らず、井戸を掘って水源を見つけるくらいなら、こんな所に住まないほうが利口だ。
 例え過酷な場所でも人は住もうとする。酷い状況下でも人はそれに順応し、何とかして生活を築いてしまうのだ。荒野でも極寒の氷の島でも、半ば無理矢理にでもそこに住む。人の生命力は計り知れない。
 砂煙の立ち昇る、破壊されつくした旧時代の街並み。建物は砂塵に埋もれ、大抵屋根しか見えない。どれも破壊されたのか、風化したのかは分からないが、崩れ去って鉄鋼の骨組みをさらけ出し、形状を留めているものは皆無。荒野に広がる誰も住む事の無いゴーストタウンは旧時代の名残を残してはいるが、元の姿がどういう物なのか、はっきりと知る人間は居ない。
 半ば地面に埋まる看板や建造物には文字と呼ばれるものが書かれている。言葉の意味は分かるし、それが道標や広告になることは知っているが、それが人間達に利用されていた時代のことは誰も知らない。
 知っているのは三ツ目族や四ツ目族だけだ。やつらは旧時代の様々な資料や文献、美術品を抱え込んで、決して二ツ目族や一ツ目族の目に露されることはない。旧時代の秘密はすべて政府が飲み込んで、丹汁一滴も吐き出すそぶりも見せないのだ。
 秘密にする理由までは分からなかったが、そこまで隠蔽したがる旧時代の文献、美術品を二ツ目族が所持していると大変な重罪となり、確実に処刑の運命を辿る。
 二ツ目族の大嫌いなところは自分達を神にでも選ばれた人間だとでも思っている事だ。やつらは二ツ目族の命を自由に出来る特別な存在だと信じている。嫌いだからと言って確実に力は三ツ目族や四ツ目族のほうがはるかに高く、誰も逆らえないし、誰も逆らわないし、タモンも逆らわない。
 それでも、タモンが一番恐ろしく思っているのは、政府などではなかった。
 身の毛がよだつほどに恐ろしいのは軍隊だ。あくまで噂でしかないが、軍隊に入った人間は、強化人間の開発のための実験道具にされるらしい。あくまで噂の域を出ない話ではあったが、タモンにはそれが恐ろしくてたまらない。
 だからこそ、こうして放浪の旅を続けて三ツ目族や四ツ目族の管理下から逃れ続けているのだ。
 
 
 荒野に孤独に存在する町は、周囲を大きな塀で取り囲んでいた。
 途方もなく大量の木材を繋ぎ合わせて塀を造り、町の規模で要塞築いているのだ。
 思いのほか大規模な町に、タモンは驚いた。愕くほどに大きな町の全体を塀で囲ってしまう労力にも驚かされた。
 汚染され、自然の実りもない高配した土地に町を築いたのは、おそらく三ツ目族や四ツ目族の目から逃れるためだろう。事前にこの荒野に入るために調査をしたタモンでさえ、こんな町があることを知らなかった。
 ただ、わざわざ大規模な要塞を気づいたのは何故だろうか。ひょっとして、三ツ目族や四ツ目族がやってきたら篭城して迎え撃つつもりなのだろうか。
 三ツ目、四ツ目の脅威以外に考えられるとしたら風除けだ。荒野は四六時中乾いた風が吹いている。乾いた風が砂を運び、長い年月を掛けて建物を埋めてしまう。この壁でそれが防げるのかどうかは分からないが、それくらいしか利用価値を見出せない。
 タモンは二日前に食料が底を突き、昨晩には、ついに水が無くなった。乾いた風が、タモンの顎鬚をなびかせて通り過ぎる。
 二十メートルはありそうな塀の前にタモンが立った。町からは何の音も聞こえてこなかった。町は無人なのか。タモンの来訪に気づいて、息を潜めているのだろうか。
 不安に胃が痛くなったが、幸いにも無人でないことはすぐに分かった。
「誰だかは知らないが、町に入れるわけには行かない。悪いが引き返してくれ」
 塀の上の声がした。見上げるとライフル肩に抱えて、下品な顔を肩の上に乗せた中年男が、塀の上の監視小屋から上半身を乗り出していた。銃口はまだこちらに向いていない。
 タモンは逆光の太陽に手を翳して渋面しながら言った。
「ここはやはり町なのか? 三ツ目や四ツ目は?」
「この町には二ツ目族だけだ。だからと言って入れてやる事も出来ない」
「町に入る気はないんだ。少しだけ、水と食料を分けてくれないか?」
「悪いがそれも出来ん。分け与えるほどの食料はない。それに町の規則で、旅の者には何も与えない事になってる。分かってほしい」
 閉鎖的な小さい町は旅人に対して、大抵このような反応をする。
「あなたは?」
「私はこの町の自警団長だ。町長を兼ねている」
 得体の知れない旅人を、易々招き入れるほうが返って怪しい。通常の反応だ。
 ――自警団長か。
 これは骨が折れるな、とタモンは思った。
「自警団長さん、この町には政府の連中は来ないのか?」
「いや、いない。ここに政府や軍隊は来ない」
 三ツ目族が徘徊する町は、旅人や商人にとって天敵だ。やつらは町に入り込む病原菌を待ち侘びているのだ。人に向けて自慢の通力を発揮したくて溜まらないのだ。なんだかんだと言い掛かりをつけられ、身体を粉々に吹き飛ばされるのはごめんだ。
「やっぱり政府の管理下にない町なのか? 一体どうやって政府の目を逃れてるんだ?」
「なぜこんなところに町を築いたかを考えれば分かるだろう。いいか、引き返せ。そして荒野を出たら、この町のことは綺麗さっぱり忘れるんだ」
 つげ口して賞金を稼ぐつもりもない。なにより今欲しいのは水と食料だ。
「物々交換でどうだ? 俺は珍しい物をたくさん持っているし、情報も持っている」
「そういう交渉は無駄だ。町には入れん。しかし、この先、北に行けば政府の役所がある。眷族の聖域を封鎖している役所だ。そこへ行って三ツ目族に頼めば軍隊に入れるかもしれんぞ。少なくとも食事の心配は要らなくなる」
 軍隊は地獄だ。あそこは自警団長の言う通り金も食料も尽きて、女房子供にも逃げられ、後は餓死するしかなく、行けば地獄と分かっていながら、それでも生きたいと思う人間が行く場所だ。タモンは生きて地獄を選ぶより、死んで天国を望む。
「冗談じゃない、誰があんなところに……」
「なら諦めてくれ。私がライフルを肩に抱えているうちに引き返してくれ」
 もちろん引き下がれる訳が無かった。この荒野地帯に二ツ目族の町が存在すること自体が奇跡に近いのだ。しかも政府に見つかっていない町。ここで水も食料も手に入れられなかったら、間違いなく体液を蒸発させて死んでしまう。
「ちょっと待ってくれ」
 タモンは抱えていたバックを弄った。そこから一つの荷物を取り出す。それを塀の上にいる自警団長に投げて渡した。
 自警団長は飛んできた物体をお手玉にしたが、無事に掴むとそれを目の前で回転させながら観察してみせる。
「これは何だ?」
 自警団長はそれを掲げてタモンに訊ねた。
「俺も良く知らないが、旧時代の遺跡品だ。美しいだろう。それを振ってテーブルの上に置くんだ」
 それは半球形のガラスの置物だった。中は水で満たされており、振ると銀色のちりが舞って、中にある小さな家に降り注ぐ。
 そのガラスの置物を割って、中の水を飲んでやろうと何度も思った。
「美しいものを見ると、心も充実するものだ。あんたがいま持っているものは、この世に欠けている旧時代の良き遺跡品だ。良かったらそれをやる」
「……確かに美しいな。こんな珍しいものは初めて見た。――しかし、こんな物を持っていたら……」
「隠し持っていればいい。まだ色々持っている。これからは有料だけどね。俺は悪人じゃないし、あんたの町に長く居座ろうって気も無い。ただ少しの水と食料を分けてくれるだけでいい。この荒野を抜けられるくらいの」
 自警団長は口元に手を当てると、眉間に皺を寄せた。迷っている。自警団長は迷っている。もう一押しするべきか。
 タモンが逡巡していると、自警団長が塀の上から何かを投げて寄越した。それはタモンの目の前に砂を跳ね上げて転がった。
「悪いが町の中に通すわけにはいかない。ただ、それはほんのお礼だ。少ないがそれが精一杯だ」
 そこに着地したのは古ぼけて、凹凸だらけの鉄の水筒だった。手に取ると、水筒の半分ほどに水が入っている。
「君が悪い人間ではないとは思うし、出来れば入れてやりたいが……分かってくれ」
「……いいんだ。これだけしてもらえれば十分だよ。言っただろ、中に入れてもらう気はないって」
 タモンが自警団長に手を振った。自警団長も手を持ち上げて答えた。
 荒野に入って、この町まで来るのに五日間かかった。この水で五日間は持たない。
 タモンは高さ十五メートルの塀に背を向け、ゆっくりと歩き出した。
 もちろん、立ち去るそぶりは見せているが、このまま諦める訳ではない。フェイクである。タモンは後ろから声を掛けられることを待っている。声が掛けられなければ、もう一度引き返して交渉するしかない。交渉がまとまらなければ夜になって町に侵入し、少々物資を頂戴する算段もある。
 しばらく歩いたが、なかなか声は掛けられなかった。タモンがもう一度引き返して、交渉しようと思ったとき「ちょっとお待ち!」と嗄れた声がした。
 タモンは嬉々として振返る。
「ドロレス!」
 そう叫んだのは自警団長だ。
「下がってくれ、ドロレス。こんなところまで登ってきたりしたら危険じゃないか」
「危険だと思わせたのはあんただよ。いつもはすぐに銃を向けるじゃないか」
 タモンはその様子を黙って見上げていた。
 ドロレスと呼ばれていたのは白髪の老婆で、皮と骨だけで作られた蝋人形のような風貌だった。タモンはお辞儀をしてみせる。
「これはあんたのか?」
 うんざりしたように額を撫でる自警団長を他所に、老婆がガラスの置物を掲げてタモンに問い掛けてきた。
「そうだ」
 タモンはそれだけ答える。
 自警団長がドロレスに何かを必死に語り掛けていたが、老婆はまるで介さなかった。もしかしたら中に入れてもらえるかもしれない、とタモンが期待した頃、願いが通じてドロレスが「門を開け」と大声を上げた。
 地響きを立てて、砂煙を巻き上げながら、巨大な塀が割れた。人が一人通れる幅まで開くと、塀の割れ目から三人の男が姿を見せた。
「入ってくおれ」
 ドロレスがそう叫ぶ。
 自警団長が空を仰ぐように手を挙げると、塀の上から姿を消した。
 タモンは門へ歩いていくと、訝しんでいる三人の屈強な男がタモンの前に立ちはだかる。タモンより頭一つ大きい男たちは、揃って頭を剃りあげ、胸の筋肉を主張するかのように腕を組んでいる。三人は似た顔をしていた。恐らく三つ子なのだろう、とタモンは勘ぐった。
 三人は何か言いたそうにしていたが、タモンは視線を合わさないように門の割れ目を越えた。越えると同時に、タモンの目の前へ銃口が当てられた。タモンはひたり、と歩みを止める。
 塀を降りてきた自警団長が、鋭い眼光でライフルをタモンの眉間あたりに向けている。タモンは唯一の味方であろうドロレスに視線を送ったが、塀の側面に組み立てられた階段を、慎重に降ってきている途中だ。
「いいか、長居はするな。それから町の人間とも話しをするな。あんたのバックに入っている自慢の品々はこの町の中では一切見せることを禁じる。あんたのバックの中身は、持っているだけで重犯罪行為だ。処刑されてもおかしくない。絶対に約束しろ。町の人間を動揺させたくはないからな」
 自警団長が、刃物のような目つきでタモンを睨みつけた。
 ようやく追いついたドロレスが、タモンに向けられていた銃身を掴んで持ち上げると、鋭い剣幕で怒鳴り散らした。
「私が招いた客だ。私の家で面倒見るよ。あんたの立場も分かるが、水を与えたあんたも規則を破ったんだ。文句は言えないはずだ」
「しかし、ドロレス……」
 暫時、重い空気が流れたが、妥協したように自警団長が銃を下げると、ドロレスはタモンに笑いかけ、背中を押した。
「さあ、私の家に来るといい」
 タモンは愛想笑いを返しながら、素直に好意に甘えることにした。
 
 
 町はタモンの入ってきた門から、中心部に向けて大通りが伸び、その先にある大きな広場を囲むように、旧世界の名残を留めた家屋が立ち並んでいる。途中には馬小屋があり、三頭の馬がタモンにお辞儀をした。
 ドロレスと先頭に、四人の男に囲まれながら歩く。タモンを不審そうに見詰める群衆。囁きあうような話し声が集まって、あたりに不気味などよめきが広がっている。
 割と大きな町だし、立ち並ぶ家屋は、草臥れているものの、雨風は防げそうだ。見える限り人口も多い。三ツ目族や四ツ目族の目を逃れ、環境の厳しい荒野にこれほど栄えた町がある事は驚きだった。
 乾いた風が旋風となって群れをなす人々の上を通りすぎていった。そんな中、群衆は一様に陰気な表情をしているようにタモンは思えた。女子供は寄り添い合いながら怪訝そうにタモンのことを噂しているし、男達は目に警戒の色を称えている。
 綺麗な服装をしている人間は一人もいない。多少繁栄しているといっても、決して裕福ではないようだ。それもそうだろう。政府や軍隊の目を逃れるためにこんなところに作られた町だ。この町には田野町との流通は皆無だろう。乾いた荒野で水にも困っているだろうから、洗濯などに費やす水も無いはずだ。
 ところが、政府や軍隊の目を逃れ、これだけの人口をどうやって生活させているのか。タモンには不思議で仕方がない。
 貧相な群集と違って、ドロレスという老婆だけは小綺麗な服や装飾品を身に纏っている。ビーズで刺繍のされた小奇麗なドレスや宝石などをあしらったネックレスが見える。白髪にも櫛が通され、タモンを取り巻いている町の人間とは、明らかに存在感が違っていた。その事は、そのまま権力の違いを表している。
 規律を失った世界で、集団の権力を手にしているのは大抵男、タモンの横を歩く自警団長のような下品な顔をした中年男だ。このドロレスという老婆に、何か特別なものがあるのだろうか。
「大丈夫だ! みんなそれぞれの仕事に戻れ! この男はただの旅人の二ツ目族だ!」
 自警団長がそう叫んだが、誰も動きそうに無かった。
「まあ、私の家に入って姿が見えなくなってしまえば、そのうち散らばっていくさ」
 ドロレスがタモンに笑いかけながらそう言った。
 ドロレスの家はタモンの見てきた限り、一番上等な二階建てのお屋敷だった。腕力を持たない老婆が一体どういった経緯で権力を持つまでに至ったのか、タモンは興味しんしんだったが質問はしなかった。
「さあどうぞ」
 ドロレスに含みのある笑顔で促されると、タモンは玄関前の数段の階段を登り、両開きの玄関扉をくぐった。
 自警団長も付いて来る。スキンヘッドの三人の男は玄関前で立ち止まる。
「何であんたもついてくるんだ」
 ドロレスが咎めると、自警団長は銃を肩に掛けながら答えた。
「昼食に招待したのはあんただろう。それまで居させてもらう。それに得体の知れない男を町に入れただけでも充分一大事だ。警備させてもらおう」
 ふん、とドロレスが鼻を鳴らす。
「客間でゆっくりしていておくれ。マリィに茶を入れるように言ってくる」
 ドロレスは言い残して「マリィ」と叫びながら家の奥へ消えていった。
 玄関を入ったエントランスの中央に、幅の大きな階段があり、その脇に迷路のような刺繍入りソファーがあった。ソファーも家自体も、それはもう美術品だった。タモンはそれらを目に出来ただけで感涙しそうだった。あちこち見て回り、触って回りたい衝動に駆られたが、タモンの背後で自警団長が目を光らせているので、タモンは大人しくする。
 玄関先の階段手前を右に折れると客間があった。客間と言っても、エントランスから扉、壁といった境はない。玄関を入って右側の空間が、そのまま客間になっている。かろうじて仕切りの板が一枚立ててあるだけだ。客間には小さなテーブルを囲むように椅子が数個置かれている。そこから見える窓の外には、覗き込んでいる町の人間が見えた。
 客間には踏むのが申し訳ないくらいの刺繍入り絨毯が敷かれている。旧時代のものだろうが、こんな物を持っていたら政府公安局が三つある目を飛び出させて驚くだろう。
 客間にある本棚の上に、様々な置物が並べられていたが、一見するだけでガラクタと分かる代物でタモンはがっかりした。
 椅子は木造で、尻を置く部分と背もたれの部分に見たことも無い動物の刺繍が入っている。テーブルクロスに関しては、見る限り何の柄なのかは分からない。分からないのが古代の美術センスだ。
 この家にいるだけで、犯罪者になってしまいそうだった。
「座れ」
 後ろから自警団長の鋭い声が聞こえ、タモンは素直に椅子の一つに腰掛けた。
「驚きだな。こんな家なんて、旅をしていても滅多にお目に掛かれない。さすがに政府から見つかってない町だな。ほら、あの絨毯とかソファーとか、この椅子とか旧時代の美術的な建築物そのものだろ?」
 タモンが訊ねると、自警団長はあっさりと無視をした。
 タモンは居心地を悪くしていると、客間に女が入ってきた。女は「どうぞ」とテーブルに、水の入った鉄製のコップを置いた。
 タモンはゆっくりと水を口に含み、味わいながら乾いた喉を潤した。
 体の中を水が浸透していくのが分かる。身震いしそうなほどに充実した瞬間だった。今度はコップの水を一気に飲み干すと、女にお代わりを要求した。
 おかわりを要求して驚愕とした。口をあんぐりと開いたタモンは、その瞬間、時間が止まったように思えた。
 タモンは危うくコップを落としそうになり、我に返った。女はタモンのうろたえた理由を悟ったかのように、穏やかに微笑んだ。
 美しく素直で長髪のブロンド、ブルーの瞳を持った妖麗な美女だった。
 自警団長が銃を構えた。
「下手なことを考えるなよ。この人はドロレスのお孫さんでーー」
「ルフィです。珍しいお客さん」
 声も美しい歌のようにタモンの耳に届いた。黒いドレスを身に纏い、優雅に口元に手を当てて、コロコロと笑い声を上げている。
 タモンは硬直しながら、口の端を釣り上げて、ようやく笑顔を返した。
 ルフィは自警団長に対して優雅に会釈をすると客間を後にした。
 タモンがルフィの残像を眺めていると、自警団長が銃に手を掛けながら言った。
「見とれてるんじゃない。彼女に疚しい気持ちを持つなよ。彼女だけじゃない。この町の人間、全てに関わりを持たないでくれ。それを破ったら命はないと思え」
 自警団長の双眸には只ならぬ殺気が篭っていた。見られたところが切れてしまいそうな眼光だ。
「あんな美しい人を初めて見た。――不謹慎な質問で申し訳ないけど、安全なのかい? 盗賊団とか政府とかには?」
「……さっきも言ったが、奇跡的にこの町は政府や軍隊の目を逃れ、生活する事が出来ている。それ以上は詮索するな。もう黙っていろ」
 自警団長にそう言われて、タモンは黙り込むしかなかった。
 再び部屋に女が入って来る。今度はルフィではない。その女の後ろからドロレスが現れる。
「とろとろ仕事をしてるんじゃないよ、マリィ。大事なお客さんだよ」
「すみません」
 使用人らしいマリィは卑屈に幾度も頭を下げながら、自警団長とタモンに水を差し出した。頭が三倍はありそうな頭巾を被り、綿が詰まったステテコのような作務衣を纏っている。ドロレスやルフィに比べると、酷い体たらくだった。
 タモンが「ありがとう」と礼を言うと、マリィは顔を伏せたまま、逃げ出すようにいなくなった。
「ドロレス、断っておくが、こいつを町に置いておくのは一日だけだ。明日の早朝には出ていってもらう。これだけは妥協できん」
「分かってるよ。うるさいね。あんたは規則規則とそれに囚われすぎだ」
「規則が無かったら、町の平穏は守れん。それとな、今夜この家に自警団の人間をつけさせてもらうぞ」
「なにも、そこまでしなくてもいいだろう」
「ここがその辺の民家なら、そこまでしないだろうさ。でも、この家には女が多いしな」
「男もいるだろ。ルビウスに、ロビンとバビットが。あの双子は夜でも起きている。大抵夜通し研究しているから」
 自警団長が眉を顰める。
「得体の知れない男の前で、お喋りが過ぎるんじゃないか、ドロレス」
「大したことじゃないさ。あんたは神経質すぎるんだ。そろそろ帰ってくれ」
「そうもいかない」
「あんたの仕事はここだけじゃないだろ。ほら、表を見てみろ。男どもが乱闘騒ぎを始めるぞ」
 振返って窓の外を見た自警団長が、弾けたような舌打ちをした。タモンも習って窓の外を見ると、確かに窓の外では数人の男が怒号を上げながら、取っ組み合っている。
「自警団員どもは何をしてるんだ」
 自警団長は勢いよく立ち上がると、鋭い眼光でタモンに一瞥をくれる。
「お前が訪れただけで、この騒ぎだ。すぐに戻ってくるからな。妙な真似をするなよ」
 自警団長は置き台詞を吐いて、家から飛び出していった。
「まあ、ゆっくりしていっておくれ」
 ドロレスが幼い子供のように笑った。窓の外では自警団長が絶叫しながら乱闘の中心に飛び込んでいったのが見えた。
 
 
 タモンは食事の接待を受け、少女のように目を輝かせるドロレスに、散歩をしたいと申し出た。ドロレスは道案内をすると言ったが、老人の歩調に合わせる気はなかったので、丁重に断った。ドロレスの目的は分かる。世にも珍しいタモンのコレクションをぜひ目にしたい、または、手に入れたいと考えているのだ。
 その話しはまた今夜、とはぐらかし、纏わり付くようなドロレスの視線を振り切って表に出ると、後ろから使用人のマリィが付いてきた。
「奥様に言いつけられまして……」と、卑屈に俯きながらそう言うマリィに、タモンは仕方なく町案内を受け入れた。マリィは体のいい監視役だろう。タモンがいなくなってしまわないように、ドロレスに見張りを命令されたのだ。
 町の人たちは落ち着いたのか、皆それぞれの目的に足を運びはじめていたが、それでもねっとりとした視線がタモンに張り付いてくる。すれ違う人間全てがタモンのことを振返って噂話をする。そんなに旅人が珍しいのだろうか。タモンは訝しむ。
 材木を担ぐ男が、タモンをちらりと見やってから通り過ぎていく。露店で買った米の麻袋を肩に担いだ中年の女が、鋭い視線をタモンに送り、目が合うと慌てて逸らした。
 見知らぬ人間を見ると、喧嘩を売りたがったり珍獣を見るような視線を送ってくるような輩は今までに何度も遭遇した事はあったタモンだが、この町はそういうのとはどこか違う雰囲気を持っている。
 町案内を申し出たマリィといえば、屋敷を出てから一言も喋らず、ひたすらタモンの後をついてくる。
 タモンは、民家が立ち並ぶ前の大通りを歩きながらマリィに訊いた。
「こんな荒野で、どうやって水と食料を手に入れるんだい? 三ツ目や四ツ目から逃れるなら、田野町との流通は完全に絶ってるんだろ?」
 マリィははっと顔を上げるが、すぐに俯むいた。
「言えないの?」
「はい。奥様に、何も喋るなと……」
 それじゃ町案内なんて出来やしないじゃないか。タモンは心の中で呆れる。色々訊ねたいことはあるが、この調子ではなにも答えてくれないだろう。
 まとわり付くような人の視線は不愉快だが、三ツ目や四ツ目の脅威を感じなくて良いのは素晴らしい開放感だった。
 こんな町があるなんて。
 政府管理下を逃れるためにウィンディアと呼ばれる旅の集団がいることはタモンも知っていたが、こうやって定住して政府の目を逃れている町は初めて見るし、これまで一度も聞いたことはない。
 再び沈黙を守りながら通りを歩く。すれ違う人々がタモンに気づくと、悪い菌が歩いているみたいに慌てて避けて通る。
「なんで、こんなに俺のことを避けるんだ?」
「……」
 そうか、何も喋れないのか。とタモンが思ったとき、マリィは口を開いた。
「……この町に入れるのは、ディストート旅団だけ。あなたのこと、それだと思ってるんじゃ……」
「ディストート旅団? なんだそれ?」
 尋ねた途端にマリィは口篭もる。ディストート旅団など、今まで聞いたことも無い。ウィンディアだろうか。
 二メートルはありそうな大男でさえ、タモンを避けて通る。マリィの言った通り、ナントカ旅団に間違われているのだろうか。
 ナントカ旅団がどれほど恐れられているのか知らないが、これでタモンがただの旅人だと知ったら、どんな反応を示すのだろう。
 歩くうち、大きな講堂の前にやって来た。大通りとは外れた小さな通りで、辺りは人の住むような建物はない。大講堂と同じように公共施設らしき建物が立ち並んでいる。大講堂は良く手入れをされている建物で、タモンの予想では、おそらく旧世界に存在していた宗教の施設である教会のなれの果てだろう。その昔、世界中に布教された宗教の一つの、聖域的な建造物だ。
 タモンは別の場所で教会を一度だけ見たことがあった。この町から、遥か東にある都市だ。そこに眷族の聖域があると聞いて赴いた。政府の立ち入り禁止指定がかかった鉄柵を越え、侵入した時に発見した。完全な状態で残っていた訳ではないが、それでも高い天井と純白の壁、様々な色彩のガラスを張り合わせた女の絵や、絶望的で象徴的な男の肖像は忘れることが出来ない。ユベリアという国の名前が示す宗教が、古代には世界中に布教されていた。おそらくユベリアが三ツ目族に倒された当時に伝道師は抹殺され、前にも言ったが、文献や情報は全て政府が隠蔽してしまった。
 政府が配布している教典もある。高額であるにもかかわらず、尻を拭く紙くらいにしかならない。内容は、政府こそが神で、それ以外には有り得ないと、独りよがりな興奮気味の文章で書かれている。それを信仰する二ツ目族も確かに存在していて、そういう人間は大抵、軍隊に入隊する事になる。
 大講堂の中からどよめきが聞こえてきた。野次のような叫び声も聞こえてくる。タモンは気になって、窓から講堂を覗いてみた。
 高い天井、詰め込めば千人は収容できそうな広い講堂。間違いなく宗教施設だ。
 大講堂には何百という人間が、一番奥にある演壇に立つ男に質問を浴びせている。演壇に立つ男は自警団長だ。自警団長が大勢に詰め寄られながら、必死に説明している。
「だから、あの男はただの旅人だ! ドロレスの独断で町に入れた。危険はない。我々も細心の注意で監視するから、どうか静まってくれ!」
「ただの旅人だったら、なぜ町に入れたんだ!」
「何か隠してるんじゃないのか!」
 罵声を浴びせる群衆を押し返すように自警団長が怒鳴る。
「一晩、ドロレスの家に泊めるだけだ。明日の早朝には町を追い出す。だから、みんなは自分の仕事に戻って、家族の者にもそう説明してくれ」
 それでも収まらない群衆は、そのうちに暴動でも起こしそうな雰囲気だった。
 恐れるのも無理はない。群衆がなによりおそれるのは町が三ツ目族に見つかってしまうことだろう。タモンが三ツ目族でないことは証明できるが、タモンが町をあとにしたあと、賞金目当てに政府に密告しない保証もないのだ。そう言った意味では、この町にいる限りタモンの身も決して安全とはいえない。
 マリィが不安そうに爪を噛んでいるのに気づいた。
「一人、知らない人間が町に入ってきただけで、この騒ぎかい?」
 マリィは大講堂を覗きながら、今にも泣き出しそうな顔をしていた。何か起こる前に立ち去りたそうに足踏みしている。タモンもマリィに触発されたのか、嫌な予感がしてきたので、早々に退散することにした。
 纏わりつく視線をかわしながら歩いていくと、活気付いている露店街に入った。
 出店が立ち並び、通りで商業が行われている。露店街に紛れれば、きっとタモンへの視線も紛らわせるのではないかと思った。
 人込みに入っていくと、人込みよりも先に、食事を配給している場所が目に入った。広い空き地にみそぼらしい身なりの人間が列を成していた。
 配給係であろう痩せ細って顔色の悪い男が、大きな鍋から容器にスープを流し込んでは行列の人間に手渡している。だが、この露店街の人間は誰一人として食事を貰いに行こうとはしない。息苦しい人込みにも拘らず、露店街にいる人間は、大きく開けた広場に立ち入ろうとしないのだ。
 おや? と思ったタモンはマリィに訊ねてみた。
「この町は、食事を配給するのかい? 売買とか物々交換とか、狩りや農業とか、仕入れとかは誰がやってるんだ?」
「いえ……。食事の配給があるのは、貧しい人だけ。病気の人とか、ヒンミンガイの人だとか……」
「ヒンミンガイ?」
 マリィはいま目覚めたかのように目を丸くして、後ろめたそうに口を噤んだ。
「ヒンミンガイってなんだい?」
 マリィは俯いたまま答えない。タモンは諦めて再び露店街を歩いていくと、露天の店主が声を掛けてきた。
「あんた、石はいらないか! 綺麗な石だ。どうだ、見ていかないか」
 見ると、初老の白い髭を貯えた男が嗄れ声を張り上げている。地べたに胡坐を掻き、目の前に広げた風呂敷きに石を並べている。
 たしかに綺麗な石ばかりだった。
「へえ、本当に綺麗な石だなあ。原料はなんだい? ガラス?」
「天然石さ。あんた、何を言ってるんだ?」
「天然石? おかしいなあ。天然石がそんなにあったら、あんた今頃、大金持ちだ」
「ああん?」
 主人が怪訝そうな顔をした。怪訝そうにタモンを視線で嘗め回す。その時、突然マリィに袖を掴まれて露店街を引っ張り出された。
「どうしたんだよ、マリィさん」
「ここは、あまり良くありません。他に行きましょう」
 なにが良くないんだ、と思ったが、特に未練も無かったので大人しく従うことにした。
 露店街を外れると、民家はあるものの、人波がぱったりと途絶えてしまった。
 人気の無い通りの奥に、看板が見える。
 ――立ち入り禁止区域。
「ここもあまり……」
 マリィは言いかけたが、その前にタモンは数人の男に囲まれた。タモンが町に入ってくる時、門を開いたスキンヘッドの三人組みだった。
 三人は鷹揚のない声で、口々に言った。
「引き返しな。あんたは屋敷で大人しくしていればいいんだ」
「誰も出歩いていいなんて言ってないぞ」
「明日まで屋敷から一歩も出るな。そうすれば無事に町を出ることが出来る」
 明らかに妥協の無い、威嚇した態度だった。目つきが据わっている。
 タモンはこの男達の忠告を素直に受けることにした。それに、スキンヘッド三人組はタイミングよく表れすぎたと思った。最初から尾行されていたのではないかとタモンは勘ぐり、あまり好き勝手に動き回らないほうがいいと判断した。あまり目立つと、明日には身包みを剥がされて町を放り出される危険だってあるし、うまくやればドロレスに十分な食料と水をもらえるかもしれないのだから、言うことは聞いておいたほうがいい。
「マリィさん、戻ろうか」
 マリィが心底安堵したように頷いた。
 道を引き返して暫くしてから、立ち入り禁止の札の場所を振返った。スキンヘッドの男達はまだ先ほどの場所に立っていて、じっとタモンのことを睨みつけていた。
 タモンは府に落ちない。立ち入り禁止区域とは何だ? この先に眷族の聖域があるとでも言のだろうか。しかし、鉄柵も有刺鉄線も張り巡らされていない。政府の三ツ目族には知られていない町なのだから、町が決めた立ち入り禁止区域なのだろう。マリィに訊こうかと思ったが、答えてもらえないだろうと思い、大人しく歩いた。
 
 
「マリィさん、家族は?」
 屋敷の近くに来てタモンが訊ねた。マリィは俯かせた顔を上げずに答える。
「いません。四年前に亡くなりました」
「両親も兄弟も……?」
「ええ」
「……すまない。どうして亡くなられたんだ? いや、話したくないんならいいんだけど。やはり、三ツ目族に?」
「……こんな時代に、家族を失った話しなんて、珍しくも無いでしょうに……」
 マリィは微かに顔を背けながら呟いた。
 タモンは黙った。黙っていると、マリィは言った。
「病気で……」
「病気?」
「四年前に、この町で原因不明の疫病が流行ったんです。その時に。三ツ目族は関係ありません」
「マリィさんは大丈夫だったのかい?」
「ええ」
「そうかい。辛いこと思い出させちゃったな」
「いいんです。今はとっても良くしていただいてるから」
 ――良くしてもらってるか。だったら、何でそんな卑屈なんだ。
 タモンがそう思ったその時、どこからか怒号が聞こえた。
 誰かが怒鳴っている。喚き散らすような声だ。また乱闘騒ぎかと思いった。出所の分からない怒鳴り声を探そうと二人はあたりを見渡すが、そこには民衆の白い目ばかり。やがて白い目の群れが一斉に、ある一点を振返った。タモンも民衆が見る方角に目を向けると、怒鳴り声の元を発見した。
 そこにはライフルを掲げて、全力疾走でこちらに走ってくる男が見えた。
 自警団長だ。
 自警団長は酷い剣幕で走ってくる。その様はまるで、津波でも迫ってくるかのように思えてタモンもマリィも腰が引けた。
 砂埃を巻き上げながら、全力疾走してくる馬車のように、見る見る近づいてくる自警団長。走る勢いに乗じて、銃身でタモンの頭をかち割るのではないかと思ったタモンは、いつでも逃げられる体勢で身構えた。
 姿を見止めてから、ものの数秒で間近まで詰め寄ってきた自警団長は、勢いそのままにタモンを怒鳴りつけた。
「この、とんちきめが! あれほど出歩くなと言っただろうが!」
 タモンは肩を竦めて耳を塞ぐ。馬鹿でかい声だった。
 自警団長は汗だくになって肩で息をしてる。どうやらタモンのことを町中探し回ったらしい。タモンの頭の中に言い訳が駆け巡る。
「いや……ちょっと散歩に……」
「それが傲慢というんだ! いいか、今度勝手に出歩いたらそのドタマにこのライフルで風穴を開けてやる! 脅しじゃないぞ!」
 タモンを頭から食らってしまいそうな大口で喚き散らす自警団長。
「わ、分かったって……」
 自警団長の鬼気迫った迫力に負けて、素直に従うことにした。
 自警団長は息切れ切れに屋敷を指差した。その仕草に、とっさに殴られるのだ思ったタモンは肩を竦めた。
「屋敷に戻れ。絶対に屋敷から出るな。お前にとって、あそこだけが命の拠り所だと思え。これから、お前が一歩でも屋敷を出ようとしたら、ライフルで頭を打ち抜いてやるし、お前が屋敷内でおかしな行動を見せても、ライフルで頭を打ちぬいてやる」
 タモンは逃げるように屋敷に駆け込んだ。
 駆け込むと地雷原を疾走してきたような顔で、マリィに言った。
「何なんだあの中年男は。本当に撃ち殺されるかと思った」
 見ると、マリィも胸に手を当てて、酷く目を丸くしている。
「わた私も一緒に、ころ殺されるんだと……」
 タモンより慌てふためいているマリィ。
「お帰りなさい」
 背後から声をかけられ、タモンもマリィも飛び上がって驚いた。
 迎えてくれたのはルフィだった。
「マリィ、ご苦労様。あなたは家の仕事を済ましてしまってください」
 ルフィに頼まれると、マリィは排泄を我慢している子供みたいに俯いて、そそくさと姿を消した。
 タモンもルフィの出現で、一体なぜ胸を激しく鼓動させているのか分からなくなった。
 ルフィは水色のドレスを纏い、空色の瞳でタモンを見据えながら、優雅に口を開く。
「お疲れでしょう。湯を沸かしましたのでどうぞおつかりください」
 ――おつかりください?
 タモンは最初、何の事だか分からなかった。
 
 
 タモンは我慢できず歓喜した。
 ルフィの後に付いていくと、辿り着いた先には、湯を貯めた箱があった。箱の中には一ヶ月は水に困らない量の湯が張ってあった。
「これ、いいんですか?」
 タモンが、湯の張った箱を指差すとルフィがにこりと笑って「もちろんですわ。その為に用意したんだから」と朗らかに微笑んだ。
 気が引ける気もする。貴重な水を、垢を落とすためだけの目的で使ってしまっていいのだろうか。町の人間に気は引けないが、神様に罰を与えられそうな気がする。
 タモンに断る理由など無く、甘んじてその好意を受け取った。
 
 
 上機嫌で鼻歌を歌いながら、一月ぶりに髭を剃った。長くなってきた髪を掻き毟りながら洗って、湯の張った箱の上で踊りを披露した。観客はいなかったが、いたら罵声や危険物を投げつけられそうな裸踊りだった。
 楽しくて、暫くそこから離れられなかった。湯が冷めてきて、くしゃみをしたところでようやく湯から上がった。
 湯から出ると、清潔なタオルが用意されていた。体を拭いているとき、突然マリィが浴槽に入ってきたので、裸を見られてしまった。
 マリィは頭巾を被った大きな頭をもたげ、決して顔を上げないように、新しい着替えを手渡してくれた。
 そそくさと居なくなったマリィの残像を眺めながら着替え終えると、行く当ても無く屋敷の中をうろついていた。
 寝室でも用意されているのなら、そこに行って寛ぐのもいいと思ったが、タモンはまだ客間と浴槽にしか案内されていない。
 屋敷一階の廊下を歩いていると、異様な臭いに足を止めた。鼻を突く刺激臭だった。嗅いだことの無い悪臭に、鼻をひくつかせながら臭いの元を辿っていく。すると、とある扉の前に来た。玄関を入って正面にある階段の裏手。木製の重たそうな扉である。悪臭は間違いなくこの扉の向こうからする。
 タモンは周りを見渡して誰もいないことを確認すると、慎重に扉を開いた。扉の向こうから闇が漏れてきた。同時に抑えられていた刺激臭がタモンの鼻を突いた。
 ――なんだ、この臭いは。
 扉の向こうを涙目でじっと見詰めると、降りの階段が見えた。
 ――地下室か?
 そう思った時、タモンの後頭部に硬いものが当たった。何が当たったかは、後頭部に目が無くても容易に想像がつく。
「お前はこそ泥か? こそ泥なのか? それなら、今すぐ頭をふっとばそうと思うのだが、教えてくれ。お前はこそ泥か?」
 自警団長の、押し殺したような声。
「……いいえ」
 タモンが慎重に答えると、目の前で地下室への扉が音を立てて閉まった。
「それなら、こそこそ嗅ぎ回るな」
 自警団長は銃口を降ろすと、くるりと背を向け、廊下の奥へいなくなった。さすがに屋敷内だと大声は出さないらしい。タモンは怒鳴られるより、むしろ淡々とした態度のほうが恐ろしかった。
 額の汗をぬぐいながら、自警団長のいなくなった廊下に向かって歩き出した。
 
 
 やはり行くあてもなく客間に向かって歩いていると、台所の前を通った。
 台所ではマリィともう一人、十二、三歳くらいの女の子が忙しそうに台所を駆け回っていた。挨拶でもしようかと思ったが、忙しそうなので止めておいた。
 客間に戻ると、ライフルを抱えた自警団長が仏頂面で椅子に座っている。タモンを発見するとあからさまに顔を渋らせた。
 下品な顔を見ていたくなかったが、行く場所も無いので、自警団長から遠く離れるように部屋の隅に椅子を運んで腰を掛けた。
 荷物をまさぐるタモンを、自警団長が黙って睨みつけている。なんとも居心地が悪い。
 居たたたまれずに席を立つと「どこへ行く?」と訊ねられたので「便所」と答えた。
「荷物を持って便所に行くのか?」
 と怪しんでいたが、素直に「そうだ」と答えると「ふん」と鼻を鳴らしただけで何も言わなかった。
 もちろん便所の場所なんて知らないし、便所など行きたくなかった。なので、廊下でドロレスに出会ったのは幸運だった。
「部屋を用意したよ。悪かったね待たせて。あまり使ってない部屋だったから、掃除させてたんだ。まあ、夜までゆっくりしていておくれ。大事な話しは、夕食の時にしよう」
 ドロレスは大声でマリィの名前を呼んだ。台所のほうからマリィの返事がする。
「客人を寝室まで案内しておくれ」
 台所にいるマリィが声を上げる。
「でも、お食事の用意で手が……」
「口答えするんじゃないよ! あたしが案内しろといったら、案内するんだ!」
 ドロレスは突然そう怒鳴る。自警団長に負けじと劣らぬ大声だ。タモンは心臓が飛び出るほど驚いたが、それは台所にいたマリィも同様で、台所からガタガタと物が落ちる音がすると、慌てふためいたマリィが姿を現した。
「すみません、奥様」
 ドロレスの10分の1くらいの声量で、深々と頭を下げるマリィ。
「ふん、さっさと案内して差し上げるんだよ」
 マリィは冷や汗を垂らして頷く。
 マリィが「どうぞ」と歩き出したので、タモンは後をついていく。
 マリィは小柄な体を更に縮こまらせて、半分だけ顔をこちらに向けるように「こちらです」とつぶやく。
 客間の前を通って自警団長に見つかり、タモンの後をついてきた。
 二階に上がると踊場のような小さなスペースを挟んで扉があり、開くと更に廊下があった。その廊下は突き当たりに見える窓以外に光の入り込む隙間がないせいで薄暗い。廊下の突き当たりには台座があって、その上に何か置いてあったが、何かは分からなかった。
 廊下の突き当たり近くまで行くと、マリィが傍にあった扉を開く。
 扉を開くと、めいいっぱいの太陽光線が降り注いだ。
 窓が大きな部屋だった。中央にタモンが五人くらい横になれるベットがある。ベットに掛かっているのは布の材質かは全く分からなかったが、触ると女の柔肌のような感触がした。
 天蓋には見た事も無い色彩鮮やかな女の肖像画が描かれており、こんな所に寝たら、それだけで重犯罪者になってしまわないかと不安になった。
 窓からは日の光が燦々と射し、まるで夢の中にいるような光景だった。
 唖然としているのはタモンだけではなく、自警団長もぽかんと口を開け、呆けていた。
「い、いいの? こんな部屋に泊めてもらって」
「はい。構いません。奥様がそうしろと……」
 そう言いながら振返ったマリィが飛び上がって驚いた。なぜマリィは驚いたのか、一瞬不思議に思ったが、マリィは自警団長が一緒に付いて来ていると気づいてなかったらしい。突然下品な顔が現れて驚いたのだろう。
 タモンは部屋を見渡し、古代の美術品らしきものを発見した。それは古代の職人が彫った彫刻の石像だ。女性の裸体の曲線美を表現したもので、腕や足はなかった。
 タモンは驚愕すると同時に、鳥肌が立った。タモンが旅を続ける理由は二つある。ひとつは眷族の聖域を捜すため。それともうひとつは、古代の文献や美術品を探し回っているのだ。
 大興奮だったのは一瞬で、偽物だということがすぐに判明した。タモンは失望した。そもそも素材が石ではない。これは粘土だ。よく見れば造りが粗雑で、それ自体の美術的価値も無い。
 だが、古代美術の知識を持っている誰かが贋作したことは間違いない。政府の隠蔽で古代の美術品を見て知っている人間でさえ希少なのだ。千年前に起こった三ツ目族の叛乱により旧帝国ユベリアは崩壊したが、崩壊以前のユベリアの現状を説明する文献は二ツ目族に閲覧することは出来ない。
 千年前以前のユベリアの本当の姿を知るものは、本当のところ誰もいないのである。
「それがそんなに珍しいのか?」
 自警団長が背後から声を掛けてきた。知らないほうが身の為なので、タモンは「そうでもない」と答えると、自警団長は銃を構えて「盗むんじゃないぞ」と凄んだ。いちいちライフルを構えるのが好きな男だ。
 マリィは自警団長を警戒しながら、独り言のように言った。
「あの、すみません……。手が空かなくて、着られていたお洋服はまだ洗濯が済んでおりません。午後までには何とか……」
「いいよ、そんなことは。洗濯もマリィさんがするの?」
 マリィがこくりと頷く。それから、はっと気づいたように「済みません」と謝った。なぜ謝られたのか分からなかった。
「お洗濯は、カイヤにやらせます」
 マリィが申し訳なさそうに何度も頭を下げる。訳も分からず頭を掻いているとマリィが退散しようとしたので慌てて引きとめた。
 マリィが振返り、立ち竦む。
「使用人は二人だけなの?」
「ええ。私とカイヤだけです」
 カイヤとは、さっき台所で見かけた女の子のことだろう。
「それで、ここには何人住んでるの?」
「奥様と、ルフィお嬢様と、旦那様と……。いえ、間違えました。旦那様と、奥様と、ルフィお嬢様と、ロビンとバビットと、それから……」
「もういい」
 自警団長がそう言うと、マリィは尻に針を突き刺されたかのように、身を竦ませて押し黙った。
「こそこそ嗅ぎ回るな、と言っただろう。いらないことは訊ねるな」
 自警団長がタモンに向かってそう言うと、マリィが「済みません」と謝った。
 マリィが自警団長から逃げるようにいなくなると、自警団長は部屋に隅にあった椅子を持ってきて座った。
「調子に乗るなよ。ドロレスに気に入られたからって、俺はお前を見張っていることには違いないからな。もし、その荷物の中身が期待どうりの品じゃなかったら、おまえは明日この荒野で血液を蒸発させて死ぬ羽目になる。覚えておけよ」
 タモンは半分聞き流しながら、ベットの感触を味わっていた。
「そもそも、なぜドロレスが権力を握ってるんだ? 三ツ目族の目を逃れながらも、思ったより町は豊かだし。その辺が関係してるのか?」
 自警団長はライフルに手を掛けながら言った。
「学習能力がないのかな? 質問はするなといっただろう。俺はお前が想像する以上に冷酷だということだけ理解しておけ」
 ――はいはい。
 溜息を漏らしながら心の中で悪態づく・
「それと、今夜の食事は俺も出席する。それに部屋の前には自警団員を付けるし、食事とトイレ以外は一歩たりとも部屋を出れなくしてやる」
「俺は囚人じゃないよ。ドロレスも言ってたじゃないか。俺は客人だろ」
「俺はそう思っていない。少しでも面倒を起こしたら、すぐに囚人にしてやる。牢屋にはベットもランプもない。床の上に寝ることになる」
「面倒は起こさないよ。第一、何をそんなに気を立ててるんだ?」
「……いいからおとなしくしていろ。これはお前の為でもある」
 自警団長はそう言い残すと、勢い良く席を立ち、大げさに足音を立てながら部屋を出て行った。
 一つ気がかりがあった。
 先ほど、マリィに屋敷に住んでいる人間を訊ねたとき、どうして名前を言い直したんだろう。
『奥様と、ルフィお嬢様と、旦那様』は間違っていて、『旦那様と、奥様と、ルフィお嬢様』は、正しい。
 ――なんだ、そういうことか。
 この屋敷で、権力を持つ者の順序だ。
 きっとマリィにとっては旦那様より、奥様とルフィお嬢様が権力者に見えるのだろう。
 
 
 タモンは一階にある大きな部屋に招かれた。中央に楕円形の大きなテーブルが置かれており、テーブルを椅子が囲み、椅子の前のテーブルには、椅子の数と同じだけのフォークとナイフが布巾の上に置かれている。テーブルの中央には、これも古代の遺跡品の「造花」と呼ばれる花があった。
 見れば見るほど不可解だ。三ツ目族の脅威の世界にあって、これほどまでに二ツ目族が豪勢に食事会が出来るなど、思っても見なかった。
 まるで貴族の食卓に並んだのは、ドロレスとルフィと自警団長、それに初めて見るルビウス・フィルチという、冷たい雰囲気を纏った男がいた。この家に住んでいる者の一人らしいが、何をしている人間かは不明だ。存在自体が他人を緊張させるような男で、痩せていて離れ過ぎで小さい目がヘビの眼光を思わせた。黒髪の長髪、目も黒い。服装も食卓だというのに黒いコートを身に纏っている。だから、ひどく陰気に見えた。
 いつの間にか、タモン以外の客人が訪れていた。町の有力者達らしく、色々と尋ねたい気持ちもあったが、自警団長に一言も口を利くなと言い渡されていたので、タモンは口を噤んでいた。
 おおよそ有力者にはふさわしくない汚い服装の老人がいた。いつも、どこか痛そうに顰めた顔をしているし、独りでは喋ることすらにも事を欠き、付き添いの女性を通さないと、何を喋っているかも分からなかった。あと、良く肥えた夫婦が一組。マーカディ夫妻。二人とも金玉を蹴り上げられたような声をしている。婦人のほうは声帯が細いのか、金属がきしむような声を上げる。どんな騒音の中でも間違いなく聞き取れそうなほどに、細く鋭い声だ。旦那のほうも、やはりよく肥やされていて、油の塊のような男だった。軍服に似た正装をしていたが、あんなに張り詰めて、腸詰めのようになっていては服が可哀想だ。この男も体格に似合わず、少年時代に声変わりを忘れてきたような声をしていた。二人に共通しているのは良く肥えていることと、高い声と、それに異常に上機嫌なことだった。
 でかい声の人間が集まって、食卓は異常に耳障りだった。自警団長も食事に招待されていたようで、タモンをしきりに意識しながら、政治的な話しをしている。町の治安や自警団の補強、食糧問題などなど。それでも大事なことは口にしないように慎重に言葉を選んでいた。
 マーカディ夫妻といえば、会話を世間話の方向に変えようと、くだらない下世話な話題を持ちかける。主に息子の話しが多いようだ。自警団長は無理矢理に話題を政治の話しに押し戻そうとするが、マーカディ夫妻は隙を見ては愛犬や息子の話しを持ち出し、食卓を混乱させる。
 老人は寡黙だ。いや喋られないでいる。付き添いの女も食卓にはつかず、老人の背後でじっと佇んでいるだけだ。
 マーカディ夫妻の興味の対象がタモンに変わった。
「今日は珍しいお客さんがいらしているようね」
 脂肪を波打たせながら、屈託の無い笑顔をタモンに向ける。しかし、その笑顔の奥の瞳は「警戒」という畏怖の色と「欲望」という淀んだ色を隠しきれないでいた。
 タモンは愛想笑いをしながら会釈する。
 これほどまでの肥えた二ツ目族が存在する事がタモンには驚きだった。政府の管理下のおかれる他の町では、人はやせ細っておおよそ笑顔などというものを忘れたかのように生気のない顔をしている。
 それが今の時代では普通なのだ。二ツ目族は三ツ目族、四ツ目族の糧を作るために農業を強要され、重税を課せられ、三ツ目族のわけの分からない人体実験に命を弄ばれ、中でも最悪なのは軍隊に徴兵され、戦闘兵士に改造される。
 国民とは名ばかりの奴隷。二ツ目族は日々、明日も分からない中、恐々と暮らしているのだ。
 タモンからすれば、政府の管理下を逃れて豊かに暮らすこの町は異世界と同じ。
「こちらは旅の商人の方よ。珍しい品を売って旅をしているらしいの」
 ルフィがタモンを紹介した。マーカディ夫人はルフィの言葉を話半分に聞き流すと、つぶらな瞳でタモンのバックを見やる。
「あらそう。珍しい品って何かしら。見せて頂いても宜しいの?」
「お前、失礼だろ。食事の時間なんだから」
 旦那が嗜めると、婦人は「いいじゃない」と簡単にあしらって、物欲しげな顔をタモンに向ける。
 自警団長が物言わずタモンを睨んでいた。その目は、詐欺師を見る目だった。タモンが珍しい品々を持っているなど、嘘っぱちだと思っている目。そして、この好機にタモンが珍しい品など持っていないことを暴いて、町を追い出そうという魂胆が伺えた。
 タモンはどうしていいものかと逡巡したが、ドロレスが口を挟んだ。
「私のお客だよ、マーカディさん。私より先に品物を見ようなんて十年早いわ」
 マーカディ夫人が大口に手を当てて「おほほほほ」と笑った。強引な誤魔化し笑いだと思った。タモンはうんざりしてくる。本来、荷物は商品ではない。だが、今までもこれを売って生計を立てたこともある。
 客人達が帰り、タモンも部屋に戻ると、すぐに時間を持て余した。
 タモンは退屈に耐え切れず部屋を出た。部屋の前に居るはずの自警団員の姿はない。
 タモンは階段を降り、玄関の前に来た。客間を見ると自警団長の姿は見えなかった。見当たらないと言って屋敷を出たら、潜んでいた自警団長に頭を打ちぬかれそうなので、屋敷は出ないほうが無難だ。
 ルフィに話し相手になってもらおうと思い、姿を探したが、見つからなかった。
 タモンはルフィの顔を思い浮かべて呆ける。
 ――ルフィは何をしているのだろう。あんな美しい女性は見たことが無い。
 ドロレスの姿も見なかったので、再び屋敷内をうろついていると、台所の前を通った。台所では自分の胸ほどの高さのある棚に積み重ねられた皿を抱えあげて、歩き回るカイヤの姿があった。まだ十二、三歳の少女だ。マリィと同じく、頭が三倍くらいに見える頭巾をかぶり、子供がふざけて作ったような服を着ている。エプロンがそれを隠していて、いくらかはマシには見えているが。
 タモンは退屈に負けて台所に入り込んだ。
「やあ、君はカイヤっていうんだってね」
 と話し掛けると、カイヤは飛び跳ねて持っていた皿を危うく床に落としそうになった。
 カイヤは目を丸くして、タモンから後ずさる。うろたえたのはタモンのほうで、胸の前で両手の掌を振りながら慌てて言った。
「な、なにもしないよ。俺は旅の途中にちょっとこの町に寄っただけ。君を食べに来たんじゃないよ」
 タモンが冗談めかしても、カイヤは追い込まれた猫のようにタモンを睨み付けている。
 ふうふう、と興奮気味に荒息を立て始めたので、タモンは刺激しないように退散した。
 思わぬ幸運で食事やベットを与えられたが、監禁されているような気分は拭えず、退屈に耐え切れなくなってきた。
 台所から離れて、廊下を歩いていくと、屋敷の裏手に通じる扉があった。
 また自警団長が現れるんじゃないかと思って周りを見渡すが、自警団長の姿はない。
 タモンは恐る恐る屋敷の裏に通じる扉を開く。裏庭らしき場所には、地面に刺された棒と棒の間に紐を繋げ、その紐にベットのシーツや洋服がつるされている光景があった。
 相当の広い範囲に洗濯物が広がっている。
 タモンは裏庭に出ると、日の光を吸い込ませるように干された洗濯物達をぼんやりと眺めていた。それから少し散歩すると井戸の前で洗濯をしているマリィの姿を見とめた。
 ――井戸? こんな荒野に井戸があるのか? だから生活が豊かなのか?
 マリィに近寄って話し掛けると、先ほどのカイヤのような反応で、飛び跳ねて驚いた。
「す、すみません」
 それがマリィの第一声だった。
「何も謝ることなんて無い。なんで謝るの?」
「あ……。カイヤに洗濯させるはずだったのに……。カイヤの手が空かなくて、その、私が洗濯を……」
 タモンは井戸の脇に置かれた樽の中の洗濯物を覗いてみる。タモンの着ていた服が入っていた。
 マリィが大人に叱られている子供のように畏まって立っている。
 タモンはマリィを振返り、顔を見ようとしたが、巧みに俯いて視線を逸らす。
「なんで君が洗うと謝らなくちゃならないんだ?」
 タモンが訊くと、マリィはまた「すみません」と謝る。
「謝る必要なんて無いって言ってるんだ」
 思わずタモンの声が大きくなると、マリィは身体を竦ませて答えた。
「私が洗うと不潔だと思われてるんじゃないかと思って……」
 マリィはそう言うと、ぺこりと頭を下げ、その場から居なくなろうとした。タモンはマリィの腕を掴んで引き止めた。
「どうして君が洗濯をすると不潔なんだ」
「いえ……」
 マリィは口を噤む。そのまま何も喋ろうとしないので、タモンは手を放した。手を放すと居なくなろうとしたので、呼び止めてから、少し待つように言った。
 マリィが申し訳なさそうに立っている間に、タモンは自分の荷物の中をまさぐった。
 目当てのものを見つけるとそれをマリィに手渡す。手のひらに乗るくらいの小さな箱だった。
「……これは?」
「古代の遺跡品だ。まだこの国が〔ユベリア大衆国〕でなくて〔ユベリア帝国〕だった時代のものだよ。見た目はただの箱だろ? だから政府の人間に見つかっても何の問題も無い。それはね、音楽を奏でる箱なんだ。そこにレバーがあるでしょ? 回すと綺麗な音楽が流れる。やってごらん」
 タモンが説明すると、マリィが戸惑いがちに箱の横手に付いたレバーを回す。すると、ガラスを叩いた時のような透き通った音色が箱から鳴り出した。
「続けて回すんだよ」
 と助言すると、マリィが続けてレバーを回した。
 箱の中から、美しい音楽が流れ出した。穏やかな川のせせらぎのような、安らかな曲だった。マリィは黙っていたが、じっと音色に耳を澄ませているのが分かった。
「でも……こんな高価なもの受け取れません」
 と、押し返してきた。
「受け取ってくれ。俺は君に感謝してるんだよ。その気持ちだ。俺なんかの為に色々してくれてありがとう、っていう当然のお返しなんだよ」
 マリィは何も言わなかったが、再び音楽の流れる箱に耳を傾けている。
「わた、わたし、お洗濯しないと」
 そう言うと、箱の置き場所に困っていたが、それをエプロンのポケットに仕舞い込むと樽の中に入っているタモンの洋服を洗い出した。
 マリィは洗濯しながちらり、ちらりとタモンのことを見ている。
「君とカイヤで洗濯や食事や掃除をしてるの?」
 マリィは洗濯物をしながら、こくりと頷く。
「カイヤは俺と喋ってくれなかった」
「カイヤは喋れないんです」
「喋れない?」
 タモンが訊ねると、マリィははっとしたように顔を上げ、明らかにうろたえながらタモンから逃げるように井戸から離れていった。追いかけようと思ったが、マリィが洗濯物に隠れてタモンを避けているので、諦めて屋敷内に戻った。
 
 
 裏口から屋敷内に戻ると、腕組をした自警団長が立っていた。しっかりと監視されている。
「なあ、自警団長さん。訊いてもいいかな」
「駄目だ」
 そう一蹴されたが、構わず訊ねた。
「三ツ目族や四ツ目族の脅威がないこの町は、二ツ目族の楽園みたいな場所なわけだろ。でも、やっぱり二ツ目族は他の二ツ目族を虐げてる。同じ種族同士、上下なんて関係なく仲良く暮らせないものなのか」
「ふん。くだらん」
「くだらないか。でも、ユベリア大衆国で二ツ目族は奴隷と同じだ。いや、奴隷よりひどい。二ツ目族の命なんて虫けらのような扱いだ。あんただってそれを望ましいとは思わないだろ」
「俺は救世主様じゃないんでな。この町を守るだけで手一杯だ。そんなに時代を憂いでいるのなら、貴様が時代を変えればいい。政府に戦争吹っかけて、二ツ目族の世界を取り戻して見せろ」
 ひどい皮肉だ。
 理不尽までの力の差を見せる三ツ目族や四ツ目族に対して、新時代が訪れてからの千年間、一度でも政府や軍隊が危機に落ち入ったためしなどない。二ツ目族から救世主が誕生することは有り得ないのだ。
「それとさ、一番重要なことがあるんだ。俺、この町に来てから一度も名前を訊かれてない。あんたも俺の名前知らないだろ」
「お前の名前など、誰も興味が無いだけだ」
 予想通りの答えだったので、もう訊かなかった。
「ねえ、俺、出掛けたいんだけど」
「駄目だ。明朝に町を出るまで、もう一歩たりとも屋敷を出るな。お前のためだ」
「誰か監視を付けたら? あんた以外で」
「駄目だと言ったろう。俺は同じことを何度も言いたくない。何度も同じことを言っていると、ライフルで誰かの頭をふっ飛ばしたくなってくる性質でな」
「町に出るくらい構わないんじゃないかしら」
 別の声がした。ルフィだった。ルフィが今度は純白のドレスで優雅に歩いてくる。
 自警団長が「ルフィさん、しかし」と言い掛けると、ルフィは陽が差した様な笑顔を浮かべた。
「それより団長さん。お願いがありますの。わたし、ちょっと仕立て屋まで用事がございまして、一人では心細いし、あなたのような頑強な方が一緒におられたら、心強いなと思いまして。宜しかったらご一緒に……」
 ルフィに申し出られて、たじろぐ自警団長。それもそうだとタモンは思う。こんな美女のお誘いに動揺しないわけが無い。
「し、しかし、私は屋敷に居なければ」
「そうですか? ……では、この旅の方に頼もうかしら」
「それはいけません!」
「では、団長さんがついてきてくださるの?」
 自警団長は、「ぐぐぐぐ」と唸る。
「分かりました。私が行きましょう」
「まあ、嬉しい。心強いわ」
 喜びながら、ルフィがちらりとタモンを見て微笑む。本当に綺麗な人だった。一生に一度でいいから、こんな女性の乳を揉んでみたいと、タモンは不謹慎に想像する。
「玄関でお待ちしております。すぐにいらしてくださいね。団長さん」
 ルフィが優雅に廊下を引き返していった。ルフィの後姿に見とれるタモン。だが、すぐに視界は自警団長の下品な顔面に汚された。
「いいか、俺はルフィさんの警護に行ってくる。お前は絶対に屋敷を出るな。もし、屋敷を出たことが分かったら、もう、分かってるよな」
「大丈夫。俺も命は惜しい」
 タモンが頷いてみせると「ふん」と鼻を鳴らして自警団長は背を向けた。
 その背中に舌を出してやると、自警団長が突然振返った。何事も無かったように澄ましていると、自警団長は引き返してきて口ずさんだ。
「前にも言った気がするが、この町の人間には一切干渉をするな。それが例え使用人であってもだ」
 自警団長は再び背を向ける。マリィとのやり取りの事を言っているようだ。
 ルフィの心遣いで、口うるさい自警団長は居なくなった。タモンは心の開放を味わって、浮かれながら玄関に自警団長とルフィを見送りに行った。
 
 
 ルフィは自分に気があるのかな、と自分勝手な想像をしながら、タモンは町の中を闊歩していた。
 馬小屋の前に来ると、馬の世話している少年がいた。
「その馬、駆馬だよね。君が世話してるの?」
 声を掛けると、少年は化け物でも見たような顔をして小屋の奥に姿を消した。変わって現れた大男がタモンに一瞥をくれたので、タモンは馬小屋を退散した。
 タモンは纏わりつく視線が減ったせいで、居心地の悪さは感じなくなった。
 この世に開放的な町は少ない。どこへ行ってもよそ者を受け入れる町は少ないし、だから宿屋という気の利いたものは皆無に等しい。そうだとしても、これほどまでにに警戒する町は初めてだった。
 生活は豊かに見える。井戸があるお陰だろう。水源があったからこそ、厳しい荒野に町が繁栄する事が出来たのだろう。
 
 
 ドロレスはタモンに恩を売れるだけ売りつけて、今夜の交渉をやりやすくする魂胆だろう。タモンを優遇して、バックの中身を「売れない」なんて言わさない状況に追い込むつもりだ。
 そうなる前に、町の中で買い物をして置こうと思った。水は無料なのだろうか。食糧を売る店はどこだろう。
 町を出て荒野を抜けるには馬も必要だ。さあ、どうするかな、と思い悩んでいた頃。
 大通りに人盛りが出来ているのが目に付いて、野次馬根性を発揮して見物に向かった。
 人盛りの中央から男の怒声が聞こえた。タモンからは何も見えない。
 喧嘩かな? 乱闘かな? と人盛りに押し入ろうとしたが跳ね返された。
 隣にいる男に「何事?」と訊ねると、あっさり無視されたので、今度は若い女に「何事?」と訊ねると「分からない」と答えられた。これはいよいよ自分の目で確かめるしかない。
 気合いを入れて、押し問答をする人込みに、再度押し入ろうとした時。
「ヒンミンガイのやつだ!」
 と、誰かが叫んだ。
 次の瞬間。あれほど頑固だった人盛りは悲鳴を上げながら散らばっていった。タモンはその勢いに跳ね飛ばされて尻餅を搗く。踏み潰されてはたまらないと蹲って頭を抱える。
 混乱が収まってきた頃に顔を起こすと、付近に人はいなくなり、そこには見たことのあるスキンヘッドの男三人組が立っていた。
 タモンが尻を摩りながら立ち上がると、男三人組みと目が合った。自警団の連中だ。
 いるのは自警団の三人だけではなかった。自警団の足元には小さな子供が三人。異様に見えたのは、うずくまる子供達が全く動かないことだった。
 子供たちは町の人間より、さらに汚い服装をしていて、明らかに栄養失調で細く黒ずんだ腕や足が見えた。
 ――ヒンミンガイ?
 タモンが立ち竦んでいると、自警団の三人がタモンに向かって言った。
「出歩くな、と団長に言われただろう。そこで何をしている」
「屋敷に戻れ。この事は団長に報告するからな」
 タモンは呆然と立ち尽くしていると、蹲っていた子供が面を上げた。
 赤く腫れ上がって鼻血を出した子供の顔があった。その顔には言い表せぬ恐怖の色が覗え、タモンは動揺しながら近寄ろうとした。
 すぐに自警団員に阻まれた。
「屋敷に戻れと言っているんだ」
 タモンは眉を顰めながら言った。
「その子供はどうしたんだ? どうして怪我をしてるんだ?」
「屋敷に戻れ」
「お前達がやったのか? そうなんだな? 何のために? その子達が何かしたのか?」
「屋敷に戻れ」
「自警団? 町で作った保安組織だろ。政府の人間じゃないんだろ」
「当たり前だ」
「じゃあ、何で子供に暴力なんて振るうんだ?」
「お前には関係ない!」
 自警団員に一喝され、口を噤むタモン。腕力で来られたらタモンに勝ち目はない。それに自警団などと問題を起こしたら、すぐにでも町を追い出される。
 タモンは慎重に言った。
「子供を見せてくれ。怪我をしてるじゃないか」
「駄目だ」
「どうして?」
「ヒンミンガイの子供だ。命が欲しかったらすぐに屋敷に戻れ」
 ヒンミンガイ? それは何だ?
「ヒンミ――」
 タモンが再び口を開こうとした時、ライフルの銃口が、タモンの眉間三センチ前に止った。
「俺達がこの町の法律だ。撃ち殺しても、何のお咎めもない。逆に英雄扱いされるかもな。俺達は自警団長みたいにお人好しじゃない。分かったか?」
 タモンは生唾を飲んだ。自警団長がお人好しかお人好しではないかという疑問は後にして、確かに後一声でも上げたら、銃声を聞くことも無くあの世逝きになりそうだった。
 タモンは諦めるしかなかった。
 蹲る子供を尻目に、男達に背を向ける。
 確かにタモンは余所者なのだ。口を挟む筋合いはない。そうだとしても異常だ。何かがある。頑なにタモンを町に受け入れようとしなかった原因が、今目の前にあった。
 歯がゆい思いをしながら、タモンはその場を後にするしかなかった。
 
 
 ヒンミンガイとは何だ。
 タモンの思考を掴んだまま放さない言葉だ。
 三ツ目族や四ツ目族の脅威のない世界。おおよそ理想郷のような町では、やはり二ツ目族同士の虐げ合いが巻き起こる。
 人は人を虐げないといられないのだろうか。それは余りにも絶望的な考え。
 町の住民は何かに恐れている。それは二ツ目族や四ツ目族とは別の何かであることは間違いない。
 タモンは大通りを逸れて、今は小さな路地裏を歩いていた。そこでも人々は仕事をしている。陶器の焼き物を作ったり、生地を縫って日除けを造ったり、その他、焼け付くような荒野で生き抜くための様々な道具を作っている。
 裏路地を真っ直ぐ行くと、人通りの少ない通りに出た。民家はあるが、そこに人の気配はあまり無い。
 少し行くと立て札があった。「立ち入り禁止区域」という立て札。
 前にここまで来た時、三人の自警団員に呼び止められたが、今回は誰も付いてきていないようだ。しばらく立て札の前で考え事をする。町ぐるみで何かを隠しているのは間違いない。しかし、それを詮索するような真似が、果たして正しいのだろうか。恐らくこの「立ち入り禁止区域」と書かれた立て札の向こうに、その秘密がある。
 おとなしく水と食料を貰い受け、明日には町を出たほうがタモンのためにも正しいことだ。それは分かる。それしか分からない。
 この先にある何か。子供たちが足蹴にされることが正当化されてしまう何かがある。
 タモンは立て札を越えて、「立ち入り禁止区域」に立ち入っていった。
 
 
 不意に呼び止められる。立て札を越えてすぐだ。呼び止めた声の主を見ると、建物の残骸に腰を掛けている老人だった。
 老人は杖を持っている。片足がない。髪の毛や髭に隠れて、顔はほとんど見えない。ぼろぼろの風化した服を纏い、かろうじてそこに存在している老人は、殆ど人のものではないような嗄れ声で言った。
「何故、その境界線をくぐろうと思った? おんしが立て札の前で迷っとったのは見えておったが、この向こうの土地に何ぞ用かい?」
「あなたは?」
「名前か? わしは存在しとるようで存在してはおらんものよ。死霊と一緒じゃ。ただ、そこに佇んでおるのみ。じゃが聞きたいことがあるならば答えてやろう。さすれば、この先に進まんと済むじゃろうて」
 タモンは立ち止まったままの体勢で訊ねた。
「この先には何がある?」
「……この先は飢えと渇き」
「飢えているのか?」
「左様。しかし、それは身体的なこと。心に飢えてはおらん」
「心?」
「この町は、四年前に分裂してもうたのじゃ。疫病が人の心と体を切り離した。おんしの正面には心があり、おんしの背後には身体がある。じゃが、おんしの想像するような世界はこの先にはないよ。子供を慕えて盗みを働かせる輩もおるが、マリィのように心の優しい娘もおる。しかし、おんしにはここにて引き返してもらいたい。わしは、おんしがこの先には立ち入らぬように頼み申する」
「マリィ?」
「ああ、あの子はいい子じゃあ。ワシらの心を潤してくれる」
 老人は極楽を見るような目で虚空を見詰めた。タモンは更に尋ねる。
「さっき子供が大きな身体の大人に足蹴にされ、苦しんでいる姿を見た。あなたはそれをどう思う?」
「向こうとは干渉し合わない。それが暗黙の決まりじゃ。それを破ったんじゃ。仕方がないじゃろうて。しかしなあ、心は痛む。こんな老いぼれではどうすることも出来ん。ここには老人か病人か子供しか居らん」
「どういうことだ。子供が足蹴にされて仕方がないなど。この町は政府や軍隊の脅威から逃れた町じゃないのか? 脅威がなくなれば、二ツ目族はやっぱり身内同士で虐げあってしまうというのか」
「仕方無かろう。三ツ目族も四ツ目族も関係ない。生きとし生けるもの同士、形が違えど世界は変わらぬ。変わるのは、虐げるほう、虐げられるほう、そのどちらに存在するかのみ」
「それを変えようとは思わないのか? 子供が足蹴にされて苦しむ世界など――」
 タモンはそこまで言って、言葉に詰まった。目の前に人がいた。いつのまにか、タモンの目の前には無数の人間が集まっている。風貌が町の人間ではないと物語っており、顔は泥で汚れ、擦り切れた布きれを纏っている。
 やせ細った身体、亡者のような風貌は、見るに絶えなかった。物言わず十人、二十人と集まってくる。タモンを警戒しながら取り巻き、その人波はタモンの進行を妨害するように立ちはだかった。この老人の言う通り、そこには子供と老人と病人しかいない。
 老人が髭を動かした。
「おんしは、わしらのためを思ってくれておるのじゃろう。それは痛いほどによお分かる。だがな、ワシらにとって、おんしは希望でもなんでもない。ただの災いじゃ。おんしに慈悲の心があるのなら、ここで引き返して、わしらをそってしておいてはくれんじゃろうか? おんしの為にもなろう」
 タモンは無数のぎらついた目を見ながら立ち竦んだ。すでにタモンの理解を越え、確かな答えなど分からなかった。
 引き返すしかない。
 やはり自分は余所者なのだ。
 
 
 わだかまりを残したまま、落ち着かない気持ちでタモンは通りを歩いていた。
 人通りにない通り。立ち入り禁止区域に近いせいなのだろうか。しんと静まり返し、辺りの家からも一切の気配がない。
 不意に大声が聞こえた。騒ぎの多い町だな、と思いながらタモンが周囲を見渡すと、誰かがこちらに向かって走ってくるのが見えた。
 子供だ。まだ、十にも満たない幼い子供が必死にこちらに向かって走ってくる。
 走る子供の背後には太鼓腹を揺らし、木の棒を振りまわしながら走ってくる男が見えた。何だろうとタモンが観察していると、子供が両脇にパンを抱え込んでいるのが分かった。追い立てるように大声を上げているのは、その後ろを走る太鼓腹の男だ。
 どう見てもパンを盗んだ子供がパン屋の主人に追い掛けられている、という絵図だった。
 ――子供を慕えて、盗みを働かせる輩もいる。
 老人の言葉が蘇る。
 ――あの子供は命令をされている?
 恐らくパン屋の主人であろう男がタモンの姿を発見して怒鳴った。
「そいつを捕まえてくれ! 盗人だ! ヒンミンガイに入られたら取り逃がしちまう!」
 両脇にパンを抱えた子供もタモンの姿を発見した。タモンから10メートルのところで、砂煙を上げながら立ち止まった。
 子供は泣きそうな顔で振返る。男が迫ってきている。子供はタモンを見る。タモンは物言わず立ち尽くしている。子供の目からもタモンが戸惑っているのが分かったようで、子供は玉砕先をタモンの方向に決めたようだ。
 子供は意を決して、タモンに突進する体制を取った。タモンは訳も分からず思わず身構える。
 子供は走り出した。走り出せなかった。走り出そうとした次の瞬間、後を追ってきた男が持っていた木の棒で、子供の後頭部を殴打したからだ。
 地面につっぺす子供。タモンは強かに衝撃を受けた。加減の無い殴打だった。へたをすれば死んでしまう。
 それだけではなかった。男はおもむろに子供に馬乗りになると、さらに木の棒を振り上げた。うつ伏せに倒れた子供の後頭部に木の棒が振り降ろされる。
 潰れる音がした。胡桃を叩き割るような音がした。男はさらに木の棒を振り上げた。その木の棒には赤くべっとりと血の跡がついている。
 タモンは慌てて駆け寄ると、男の振り上げた手を掴んで止めた。
「何をする!」
 男は物凄い形相で怒鳴った。
「殺す気か! 子供相手になんて事を……」
「何を言ってる! こいつはヒンミンガイのやつだぞ! ――さては! お前もヒンミンガイの人間だな!」
 男は怒りの形相でタモンに掴み掛かってきた。
「やめろ!」
 タモンが叫んでも、男は手に持った棒を振り回してくる。仕方なくタモンは男の腕を取り、相手の背中に回すと捻り上げた。
「ぎゃああああ!」
 男は大袈裟な悲鳴を上げる。
「誰かあ! 誰か助けてくれええ! こっ殺されるうう!」
「殺すわけないだろ! 大人しくしてれば放すって」
 タモンも叫んだが、まるで聞く耳を持たない男は叫び続ける。
「きゃあああ大変よ! 誰か来てええ!」
 男とは別の悲鳴が聞こえてきた。女のものだった。
 タモンが女の悲鳴が聞こえたほうを見ると、民家の窓から若い女の顔が見えた。その声にあたりの民家からも人が顔を出してきた。誰もいなかった通りが、途端に騒然としてくる。
「ヒンミンガイのやつだ! 助けてくれ! 殺される!」
 腕を捻りあげられた男がそう叫ぶ。タモンはそのまま腕を折ってやりたくなった。
 気づくとタモンの周りには殺気の篭った男達が囲い始めた。
 タモンは青ざめて男の腕を放した。男は悲鳴を上げながら腕を抱えて倒れ込む。とりあえず無条件降伏の意志を見せるため、両手を挙げてみせた。
 その時、目の前に火花が散った。背後から頭を殴られた。前のめりに倒れると思った時、目の前に居た腕を捻りあげられた男の拳が下方からタモンの顔面を突き上げ、タモンは一度天を仰ぐように身を仰け反らせると、後はやりたい放題だった。全く抵抗も出来ず、倒れ込んだタモンの視界には無数の足と、地面だけに埋め尽くされた。顔面の骨が軋むほど蹴りつけられ、内臓が破裂するほど踏みつけられた。手で守っても手を蹴りつけられた。いつまでも殴る蹴るは全く終わらなかった。どうせなら意識を失ってしまいたいと思ったが、その救いも中々訪れなかった。血の味が喉を通るのを感じながら、何度も何度も蹴りつけられた後、ようやくタモンは意識を失った。


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