あっちから変なの出てきた

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第七章 【 ファミリアの聖域編 コソボ 】


 残酷なもので、運命はまだ奏を解放しなかった。
 安息の眠りから現実に引き戻されると、光のあった夢の世界から暗闇の世界に突き落とされる。
 ゆっくり起き上がる。
 水が岸に打ち寄せる音。
 どこからか絶えず水が落ちる音。
 奏の足元は水に濡れている。
 しかし、休息を充分に取れたのか、気力もいくらか回復していた。
 疲れも幾分か取れている。
 どれほど眠っていたのか、感覚では分からなかったが、立ち上がると不思議に身体も軽い。
 神が与えた最後の猶予か。
 残った体力で、この洞窟を抜け出すことが出来るか。
 身体の末端が冷たい。
 足元が水にさらされていたからであろうか。
 気温も大分低くなっている。
 奏は正面に手を突き出して、壁を探した。
 かなり歩いても、壁は見つからない。
 相当広い空間らしい。
 どこかで聞いたことがある。
 目隠しをして人を歩かせたところ、本人はまっすぐ歩いているつもりでもだんだんと右や左に湾曲してくる。加えてここは足場が悪い。まっすぐ歩いているつもりでも、同じところをぐるぐると回っている可能性がある。
 あの発光シールがあれば、こんなことにはならなかったのに。
 それでも諦めずに歩く。
 歩調とは利き足の筋力が強いせいで、利き足とは逆の方向へと進む性質があるらしい。
 奏の利き足は右足だ。
 ならば歩きながら時々、右方向に修正を加えてやればいい。
 そうやって進むこと一時間弱。
 ようやく壁にたどり着いた。
 ふと気づく。
 壁の手触りがやけにすべすべしている。
 それに、なにやら細動している。
 人工的に削られた場所?
 いや、そうじゃない。
 ここは水の通り道。
 上から水が流れ落ち、長い間に表面が滑らかに研磨されたのだ。
 ところが、壁に水は流れていないし、濡れていもいない。
 不可解に思いながらも壁に耳をくっつけてみる。
 地鳴りのような音。
 嫌な予感。
 壁から耳を離すと、もう壁に触れなくても分かる地響きを感じた。
 やばい。
 奏は壁伝いに走り出した。
 地響きは地震となり、天井が落ちてくるのではないか思うほど揺れだした。
 湿り気のある冷たい風が背後から吹いてくる。
 奏は必死に走る。
 壁が滑らかさを失い、凹凸の激しい手触りを感じたとき、背後で轟音が鳴り響いた。
 空気が怒り狂ったように振動し、立っていられないほど地面が揺れる。
 轟音とともに背後から豪風と水しぶきが襲ってくる。
 奏は飛ばされないよう地面にうずくまる。
 しばらく轟音と水しぶきを含む風が続く。
 大混乱する奏の思考の中で、あるイメージが浮かぶ。
 どこかで水がいったん溜まる。どこからか流れてきた水だ。プールされた水が徐々に増え、許容範囲を超えたときに一気に落ちてくる大量の水。それがある程度の一定周期に起こるのだ。
 それが先ほどの場所。
 あそこに留まっていたら何十万トンという水に押しつぶされていたに違いない。
 ここは地下深い。
 水脈が縦横に走っていても不思議はない。
 自然が作り出した現象だろう。
 なんてところに自分はいるのだろうか。
 もし現世に戻れるとして、この体験を誰かに話して聞かせたら、現世の人間は果たして信じるだろうか。
 水が落ちる音が和らいでくると、風もやんだ。
 いったん収まったものの、この現象が一定周期に起こるものだとしたら、次に水が落ちてくるのは何時か分からない。
 奏は早々にこの場所を離れることにした。
 
 
 
 巨大な空間に岩の割れ目のような入り込める道があった。
 かなりの覚悟を要したが、奏はそこに入っていくことにした。
 もう道を指し示す地図はない。
 明かりもない。
 助けに来る者もない。
 最悪だが、闇雲に進んで光明を探すしかなかった。
 しばらく進むと、道は行き止まりだった。
 重いため息をつく。
 戻るしかない。
 来た道を引き返す。
 再び水溜りの空間に戻ってくると、次の水が落ちるときを警戒しながら壁伝いに割れ目を探す。
 途中、いくつかの通路を見つけたが、いずれも行き止まりだった。
 この場で何時間も過ごしている。
 次に大量の水が落ちてくる前に、どうにかここを抜け出したい。
 五つ目の通路で、ようやく突き当たらない通りを見つけた。
 その代わり、道が二股に分かれている。
 いや、この先、また行き止まりになっていないとは限らない。
 めげている場合ではない。
 進むしかない。
 本能の赴くまま、左へ進む。
 なお、二股に分かれていると奏が知ることが出来たのも、明かりがあったからではない。すべて慎重に手探りで探し当てたものである。
 つまり、非常に時間が掛かった。
 水場を抜け、この分かれ道にたどり着くまでの百数十メートルに、ゆうに丸一日つぶしている。
 奏は三日三晩を歩きとおす覚悟だった。
 動かなければ、きっと訪れる死期も遠ざかるからだ。
 数時間歩いても、道は途切れる様子はなかった。
 それでも、この道がどこかへ通じている保証はない。
 人の作った道ではないのだ。
 自然が人間の都合の良いように道を作るはずがない。
 この先はだれも、なにも保障してはくれない。
 だが、通路とはただの隙間ではない。
 潤沢な水が存在するところを見ると、この洞窟内に派生する通路は水の通り場だったと考えたほうが良い。
 水は行きどまることなく、どこかへ流れていくはずである。
 この道もどこかへ通じているはずなのだ。
 そう希望を持つしか、歩みを進めるすべはない。
 油断すれば、途端に不安に押しつぶされてうずくまってしまいそうなのだ。
 背後から地響きが聞こえてくる。
 さきほどの水場に再び水が落ちたのだろう。
 時間的に考えると、一日一回程度。
 奏が眠っている間に落ちてきてもおかしくなかった。
 それが幸運だったか不運だったかの論議は後回しにして、奏はある異変に気が付いた。
 地面に石が転がっている。
 大小さまざまな石が無数に転がっている。
 拾い上げてみると、手にざらついた砂が付く。
 これは。
 再び嫌な予感。
 気づけば、周囲からからころと何かが落ちる音。
 背後から何か音がする。
 振り返っても何も見えないが、振りかえざるを得ない。
 みし。
 何かにひびが入るような音。
 奏は地面に手を置く。
 ぴりぴりと電気刺激のような振動。
 バチッと何かがはぜた音がしたと思うと、同時に光線が見えた。
 何かが光った。
 奏は硬直する。
 これは、何かの前兆?
 緊張が走る。
 みしみし。
 これはーー。
 奏は慎重に腰を上げる。
 再び、漏電のような音がしたと思うと、目の前に複数の青い光線が走りぬける。
 電気だ。
 放電している。
 放電とはおかしくないか。
 ここは地下だ。
 まさか。
 奏に知識はない。
 再びはぜるような音と、稲妻のような光線が幾つも空間を走り抜ける。
 奏は一目散に駆け出した。
 壁に正面衝突するリスクも忘れ、ひたすら走る。
 あの光は、壁に亀裂が入ったときに起こるプラズマだ。
 亀裂が入ったときに岩と岩が擦れあい、放電を起こしているのだ。
 つまりーーこの通路は崩落する!
 奏は何度も壁に身体を打ちつけながら走る。
 周囲の壁から鈍い音が響いてくる。
 走っていく正面にも壁を縁取るように無数の青い光線が走りぬける。
 亀裂と同時に放電するのは、ここの石の性質だろう。
 地響き、きな臭さ。
 がががっ。
 背後で崩れ落ちる音。
 何も見えない。
 だが、迫っている。
 背後から崩れ落ちている。
 崩落に生き埋めになったら。
 こんな誰も居ない孤独な場所で。
 恐怖に背中を押される。
 奏はなりふり構わず悲鳴を上げながら走る。
 足場とて平坦ではない。
 奏は岩の隆起に足をとられ、飛び上がるようにつんのめった。
 硬い岩肌に身体を打ちつけ、一瞬呼吸が止まる。
 身体が動かない。
 そう思った瞬間。
 今しがた走ってきた通路が、轟音を上げて崩れ去る音が聞こえた。
 しびれる空気とともに、さらさらと音を立てて土煙が流れてきた。
 つん、と鼻に刺激臭。
 崩落した。
 いま自分のいる場所は?
 安全なのか?
 暗闇の中では何もかも分からない。
 なぜ崩落したのか。
 何十年、あるいは何百年もその形を保ってきた洞窟が、なぜいまさら崩れる? まるで奏に対するあてつけのように。
 奏は抜けてしまっていた腰を上げる。
 呆然としながらも周囲の気配を探る。
 あ、と声を上げてみると、声が遠くまで反響しているのが分かった。
 どうやら通路を抜けて、開けた空間に出たらしい。
 やってきた道は崩落で埋まった。
 今度こそ進むしかない。
 進んだ先で行き止まりであったら、今度こそ閉じ込められたことになる。
 いずれにしてもいくしかない。
 身体のあちこちが痛んだ。
 打ち身に擦り傷だらけ。
 大怪我がないのが幸いだ。
 再び歩き出す。
 手を叩くと、音の反響で、壁や物の位置がなんとなく分かるようになった。
 音の反響で、大体向こう側の壁まで数メートルほど。
 ここはテニスコート半面ほどの広さの空間であるようだ。
 再び手を叩く。
 頭の中に描かれるイメージが水の波紋のように広がり、水の波紋のように跳ね返ってくる。
 その一部に、幾何学的に乱れる音の反響を返す場所があった。
 そこに穴があるのか。
 奏は壁伝いに進んでいくと、思った場所に岩の割れ目があった。
 通路だ。
 おそらく、通路はここひとつだけ。
 これが行き止まりなら、奏は余生をここで過ごすことになるだろう。
 狭い通路だった。
 通路といっても、天然物がわざわざ人が通りやすいように作ってあるわけではない。
 入り込むとくるぶしあたりまで水が溜まっている。
 水には良い思い出がない。
 不安に駆られながらも、水を踏みしめて歩く。
 暗闇と岩と水と空気だけの空間にどれほどいるのだろうか。
 三日? 四日? あるいはそれ以上?
 人間とは慣れる生物だと思い知る。
 洞窟に入り込むときはあれほど不安と恐怖を抱いていたのに、いまはそれほど悲壮的でもない。
 不安と恐怖がないといえば嘘になるが、以前に比べ足は前に出る。
 その足を止めるように水かさが増えてきた。
 膝下まで水が浸食すると、体温も奪われていく。
 寒さを感じながら進む。
 いよいよ水深が腰の辺りまでになると、不安も同じように深くなってきた。
 先ほどの水場に大量の水が落ちる現象がここでも起きるとしたら、逃げ場はない。
 水かさは進むたびに増え、とうとう胸の辺りまで深くなる。
 加えて天井は低く、水面から天井までは五十センチほどしかない。
 この先、すべてが水に埋まったとき、その先に再び空気のある通路がある保障はない。潜水して進むには非常にリスキーな掛けである。
 奏の願いむなしく、ある程度進むと、そこから先は完全に水没していた。
 水没している先に通路は続いているかもしれない。
 しかし、続いていないかもしれない。
 確かめるには泳いでいくしかないが、奏は潜水に自信がない。進めても十数メートルほどだろう。
 加えてこの暗闇。
 確かめる方法はないのだろうか。
 潜水という賭けに出るか?
 かなり不利な賭けである。
 結末は溺れ死ににほぼ間違いない。
 水かさは増減するのだろうか。
 少し様子を見ててみるか。
 奏はナイフを取り出した。
 刃が痛んでしまうが仕方がない。
 奏はいまの水深を測るため、水面位置の岩にナイフで傷をつける。
 岩壁にできた傷に触れてみる。
 確かに傷がついた。
 奏は上着の袖を破ると、傷をつけた岩の近くの突起した岩に撒きつけた。
 目印だ。これで壁伝いに歩いてきて、巻きつけた布に突き当たれば、そこが水深を測った場所。
 奏はいったん引き返し、水のない場所で休息を取る事にした。
 食べ物はない。
 水はある。
 これでどれくらい生きられるのだろう。
 水だけで二週間生きた男の話を聞いたことがある。
 だが、それはむやみに動き回らず体力を温存したからだ。
 おそらく、五日もたてば動けなくなり、七日で意識を失い、後は死を待つのみだ。
 奏はテニスコート半面ほどの空間に戻ってきて、地べたに座り込む。
 しばらく待とう。
 暗闇にも慣れてきた。
 視界は黒一色であるが、ここには襲ってくる敵も居ない。
 奏は膝を抱えるようにすわり、時が過ぎるのを待った。
 
 
 眠ってしまった。
 慣れるということは、眠れるということなのか。
 奏は舌打ちをする。
 眠ってしまったら、どれほど時間が経ったのかわからない。
 仕方ない。
 奏は立ち上がると、水没した通路まで向かった。
 やはり……。
 水がない。
 小一時間ほど歩いても、足元に水を踏む感覚はなかった。
 先ほどの水が落ちるホール叱り、ここは一定周期で水かさが変わる。
 どこかに流れ、いったん溜まり、許容範囲を超えるとあのホールに流れ出す。
 ここの水もいったん溜まり、どこかへ流れていく。
 手に布の感触。
 ここだ。
 やはり、水がない。
 壁に目印の傷を刻むまでもなかった。
 奏は布を回収して歩き出す。
 なだらかな下りが続く。
 水はなかったが、一定周期で水が増えるはず。
 この下り坂を進む限り、奏が水没してしまう危険は付きまとう。
 自然と足取りは速くなる。
 下りは続く。
 上り道にならなければ、水没の恐怖はぬぐえない。
 どこまで行けば道は登りに向かうのか。
 ふと、地響きのような揺れを感じた。
 振動で周囲の岩肌から、岩の欠片が地面に落ちる。
 そういえば。
 奏が最初に水没した通路に突き当たったとき、直前にホールの水が落ちた。
 あの水が落ちると、水脈が変わる?
 あの現象を合図に、水脈の流れが変わり、この通路に水が流れ込むのではないか。
 そして徐々に水は別の場所に移動し、空になった頃、あのホールに水が落ちる。
 因果関係に確信があるわけではない。
 しかし、そう思えてならない。
 奏は走り出した。
 戻るか進むか。
 戻っても同じことの繰り返し。
 体力は無限ではない。
 進むしかなかった。
 地鳴りは続く。
 下降する通路がどこまで続くのかは分からない。
 まだ、通路は下り続けている。
 ここまでか。
 ふと気づく、道が平坦になる。
 下り坂の終わり?
 なら、ここが底。
 次に上り坂が訪れるはず。
 希望の兆し。
 水かさが増える前に上り坂を登りきれば。
 だが、浅はかな期待だった。
 水が増えてきた。
 急速に増えた水は、瞬く間に奏の膝まで増えた。
 しかし、まだ道は登りに差し掛かっていない。
 この底部分がどれだけ続くかも分からない。
 くそ。
 奏は水を掻き分けるように歩く。
 水は無常に増えていく。
 腰まで増えると、進むことが困難になる。
 冷たい水に体温が奪われ、身体の自由が利かなくなる。
 もうまもなく、ここは水で満たされる。
 最後か。
 自分の読みは間違っていなかったが、時間が足りなかったようだ。
 でも、いい。
 そういえば、望んでいた気がする。
 光を失い、食料を失った瞬間から、遅いか早いかのどちらかだった。
 ならば早い終わりを望んだ。
 奏はもがくのをやめた。
 ここで終わり。
 おそらく、今後この洞窟の挑戦者が居ようとも、奏のいま存在するこの場所まで来る人間など居ないだろう。
 孤独に水中を流れ、やがて微生物に分解され、長い年月をかけて奏のかけら達は水脈を流れ、いつか地上にあふれ出すだろう。
 水は胸、肩、首、顎まで増える。
 同時に浮力で浮き上がり、地面から足が離れた。
 この水が天井まで満ちたとき、奏は行き場所を無くす。
 もうもがくな。
 願わくば、その瞬間までの苦しみが少ないように。
 水は増えていく。
 寂しい。
 死の直前とは、これほどまでに孤独を思い知らされるのか。
 光も届かない洞窟の奥。
 佐々倉もクユスリもいつまでも待つわけではない。
 長い人生のうち、奏のことも忘れるだろう。
 冷たい水が顔にかかり、口に入ってくる。
 だが、頭が天井に当たる気配はない。
 奏は上方を見上げる。
 何も見えるわけがない。
 暗闇だけ。
 その暗闇に、いつ天井が訪れるのか。
 ――訪れなかった。
 水かさは増える一方。
 しかし、天井にはたどり着かない。
 足元から水が湧き上がってくる感覚はあるが、天井が迫ってくるような様子はない。
 やがて、徐々に水のうねりが落ち着いてくる。
 水が増えなくなった。
 水面が落ち着いてくると、奏は手足を掻いて泳いだ。
 手が岩に触れる。
 岸である。
 奏は水面から這い出ると、起きた奇跡にしばし呆然とする。
 天井がなかった。
 むしろ、奏は水にいざなわれたらしい。
 周囲の状況は分からないが、手を何度か叩いて音の反響を確かめる。
 それほど広い空間ではない。
 五メートル四方程度。
 ならば、奏は本当に奇跡的な天井の穴を通って、ここまで浮いてきたらしい。
 水がどれほど増えたのかわからないが、増えた分、浮力で天井に開いた穴を上昇してここまでたどり着いた。
 神が生きろとでも言っているのか。
 そうとしか思えない奇跡。
 奏は繰り返し手を叩き、音の反響で壁の位置を探る。
 ここに通路はない。
 壁伝いに部屋を一周歩いて確信する。
 残念ながら、奇跡はそうは続かない。
 ここには進むべき通路はない。
 奏は妙に可笑しくなって、声を上げて笑った。
 何のために生き延びたのか。
 ここでわざわざ絶望を味わうために仕組まれた神のいたずらだとしか思えない。
 ここで行き止まりだ。
 ーーいや。
 水かさが減るのを待ち、再び水の浮力によって先ほどの通路まで戻ることは可能だ。
 なら、また少し様子を見るか。
 今度は眠らず、次に水が減るまでの時間をだいたい推し量る。
 水がなくなっているうちに、先ほどの通路を突っ走れば、あるいはこの水浸しのエリアから脱出できるかもしれない。
 できるのか?
 まだ、気力は充実しているか。
 また命を失う危機に直面し、極上の絶望感を味わう覚悟があるか。
 もう、冗談ではない。
 これ以上、あの恐怖を味わったらどうにかなってしまいそうだ。
 ここで静かに死を迎えるほうがよほど楽に思える。
 時間が気力を回復する事を願い、奏は次の変化が起きるまで待つことにした。
 
 
 水の流れが変化するのはなぜか。
 あの巨大なホールで、大量の水が流れる。
 その直後、ここに水が溜まる。
 そのからくりはなんだろう。
 おそらく、ここだけではない。
 いたるところで同じ現象が起きていると推測すると、あのホールに水が落ちた直後、どこかに栓がされる。
 栓がされると水が溜まり出す。
 だからこの通路にも水が流れ込む。
 やがて許容範囲を超えると、栓は耐え切れなくなり蓋を開き、大量の水があのホールへ流れ込む。
 人工的ではないとすると、これは天然の仕組み。
 日本の庭園などで見られる獅子脅しのようなものか。
 竹筒に水が溜まると、頭をもたげ中の水を吐き出し、比重にしたがってもとの位置に戻ろうとするとき、岩に竹が打ち付けられ、音を鳴らす。
 この洞窟のどこかに水が溜まっている。
 獅子脅しのような仕組みが、この洞窟のどこかに存在する。
 分かったところで脱出のヒントとはならない。
 どれほど待ったか。
 水が減っていった。
 どこかに吸い込まれていくかのように、ごうごうと音を立てて水が吸い込まれていった。 
 早い。
 まるで落ちていくような速さで、音が遠のいていく。
 これからしばらく後、どこかに流れていった水がホールに落ちる。
 水が落ちきると栓がされ、ここに水がたまりだす。
 ――いや。
 獅子脅しのような仕組みは、ここにも小規模に存在しているのだろう。
 そうでなければ、時間差が説明できない。
 仕組みは奏が想像するより遥かに複雑のようだ。
 自然の仕組みを利用して脱出しようなど、神を利用するに等しいのだろうか。
 再び水が湧き上がってくるのを待つ。
 次は水が吸い込まれるのと一緒に、奏も先ほどの通路まで戻るつもりだった。
 しかしーー。
 しばらく経つと、地響きが聞こえてきた。
 溜まった水の重さに耐え切れず蓋が開き、ホールに水が落ち始めたのだ。
 一体、何年、何千年、何万年と繰り返されてきたのだろうか。
 その途方もない繰り返しの中で、ありえないことが起きた。
 天文学的数値に等しい低い確率で、奏に災難が起きた。
 地響きにより、天井から岩が剥がれ落ちたのだ。
 剥がれ落ちた岩は、まるで奏の浮いてきた穴に蓋をするかのように、すっぽりと嵌ってしまった。
 轟音を立てて天井が崩れ落ちた中、奏が巻き込まれなかったのは幸運であろうが、奏は唯一の道を閉ざされたことになる。
 ああ、と声を上げて、奏は天を呪った。
 暗闇の中、手探りで隙間を探してみるが、見事に穴には岩がすっぽりはまっている。
 なんのいたずらか。
 こんなことなら、さっき水に飛び込んでおくんだった。
 奏は絶望感に打ちひしがれ、その場に仰向けに倒れた。
 今度こそ終わりだ。
 どうしていま、崩落が起こる。
 自然の途方もない時間と繰り返しの中、なにも今起こらなくてもいいではないか。
 ーー風を感じた。
 濡れた身体に、風はひどく冷たく感じた。
 風?
 奏は身体を起こす。
 どこから吹いてくるのか。
 神経を研ぎ澄ます。
 風はーー上からだ。
 ひょっとして。
 剥がれ落ちた天井に穴が開いている?
 そこから風が。
 密封されているはずの洞窟内になぜ風が吹くか。
 地上とつながっている場所がある?
 奏は立ち上がると、穴を埋めた岩をよじ登る。
 暗闇のため、落ちてきた岩の高さまでは分からなかったが、もしかしたら天井に空いたと思われる穴まで届くかもしれない。
 一縷の望みをかけて、盲目の中、岩をよじ登る。
 そして気づく。
 岩は落ちたのではなく、崩れたのだ。
 ようするに、上の穴まで岩は階段状に地続きになっている。
 奏は岩の上を這い進む。
 風の吹くほうへ。
 においがした。
 水や岩の匂いではない。
 これは、植物。
 草木の青臭さ、花の甘い匂い。
 まさか、ここは地か深い場所ではなかったか。
 いつの間にか地上に近づいていたのか。
 ――光!
 奏は目を疑った。
 落ちてきた天井を這い登った先に、仄かな光が見えた。
 空腹の限界まで来た野獣が獲物を見つけたがごとく、奏は全速力で光に向かって走り出した。
 光が間近まで迫ったとき。
 空間が開けた。
 そこには光に満ちた世界。
 奏は思わず、ああ、と声を上げた。
 その場に跪き、まるで神の降臨を見たかのように天を仰いだ。
 見たこともない広い空間。
 まだ洞窟内であることは間違いない。
 見渡す限りに空はない。
 だが、向こう側に見える壁は遥か遠く。
 頭上には、やはり遥か遠くから光が差し、空間に幾つ物光の筋を作っている。
 近くには、地面から突き出た岩から清水が湧き出ており、周囲に色鮮やかな草花が咲いている。
 鳥が飛んでいる。光の筋と戯れるかのように、無数の鳥が空間を旋回している。
 広大な空間には木々が生える森も見え、さまざまな昆虫や動物の鳴き声が聞こえる。
 奏は呆然と歩き出す。
 こんな場所があるとは。
 踏みしめる地面は、やわらかい土のように水草が覆っている。
 近くに生えていた木になっている赤い果実をむしりとる。
 恐る恐る口に運ぶと、全身の疲れを癒すかのような甘い果汁が染み出してきた。
 果肉をもさぼり食う。
 食べたこともない味。
 三つの果実を平らげると、奏は改めて周囲を見渡す。
 天井は遠すぎて見えず、靄が掛かっており霞んでいる。
 遠くに見える岩肌への距離を目測する限り、この空間は全長三キロメートルはありそうだ。
 奏は歩みを進める。
 木々が密集する林を越えると、再び驚愕する光景。
 家がある。
 確実に、現在も生活のにおいがする小さな小屋。
 家は小さな小川に隣接しており、水車も見える。
 ふらふらと近寄っていくと、なんともいえない匂いが漂ってきた。
 料理の匂いだ。
 誰かいる。
 こんなところに、誰かが住んでいるのか?
 奏は恐る恐る家に近づく。
 耳を澄ますと、家の中から鼻歌のような声が聞こえた。
 間違いなく人が住んでいる。
 いや、人とは限らない。
 ここは奏の知らない異世界。
 見た事もない怪物かもしれない。
 だが、背に腹は変えられなかった。
 奏は扉をノックした。
 すると、聞こえていた鼻声がぴたりと止む。
 緊張しながら、反応を待つ。
 しばらく静寂が続いた。
 痺れを切らして扉を開こうと思ったとき、家の中から声がした。
「待っていたよ。どうぞ、お入り」
 これは老人の声。
 おそらくは老婆。
 だからといって、いま奏が想像するとおりの風貌とは限らない。
 ふと、脈絡もなく赤頭巾ちゃんの童話が奏の脳裏に駆け巡る。
 扉を開くと、料理の匂いが奏の鼻先を通り過ぎた。
 家の中には丸テーブルがひとつ。
 テーブルの上には綺麗な刺繍のカバーと、二組用意されている食卓。
 壁には装飾品や本棚が並び、想像以上に人としての生活感あふれる室内だった。
 部屋の奥から、鍋を掴んだ老婆が現れた。
 想像通り、とまではいかないが、人のよさそうな白髪の老婆が食卓に鍋を置いている。
「ほら、入っておいで。来客は久しぶりだからね。ご馳走を用意して待ってたよ」
「ご馳走を用意って……」
 久々に奏は言葉を吐く。
 まだ、混乱中で頭が整理できない。
 暗闇の孤独な世界は、その世界に順応するために、ある種の思考回路を停止させてしまうらしい。
「いいから、話は食事をしながら」
 奏は促されるまま、食卓に付く。
 食卓には二組の食事の用意がされていた。
 待っていた?
 確かに老婆はそう言った。
 おかれていたグラスに果実酒のような液体を注ぐ老婆。
 パンを数きれと、具の詰まったスープを鍋からよそって、皿に移した。
 テーブルの中央には綺麗な花。
 そしてなんともうまそうな匂いを漂わせるスープ。
「召し上がれ。しばらく食べてないだろう。ゆっくり食べるんだよ」
 もう我慢できなかった。
 奏はパンとスープを胃の中に掻き込んだ。
 染み渡る。
 即座に体力が回復していく気分だった。
「ふふふ。来客なんて何十年ぶりかね。しかし、あんた。いつもの来客よりずいぶん時間が掛かったね」
「それはどういう意味……」
「見ていたよ。あんたが洞窟の入り口に入ってきたときからね」
「見ていたって」
 老婆は柔和に笑みを作る。
「この洞窟内のことは何でも知っているんだよ。誰かが入ってくれば分かる。でも、あんたほど奇妙な経路をたどってここまでたどり着いた人間は初めてだよ」
「あなたは……いったい」
「私はコソボ・カユウ。三ツ目族の女。ここの番人を命ぜられ、そして忘れられた女」
 三ツ目族?
 奏は慌てて席を立つ。
「そう警戒しなさんな。こんなしわくちゃな老人に力など残っていまいて。それより、疲れたろう。少し休んでいくといい」
「それより、番人を命ぜられたとはどういう意味ですか?」
「三ツ目族は、二ツ目族の眷属という力に危機感を覚え、眷族がいる聖域には三ツ目族を配置させて、二ツ目族と眷属との契約を阻止しているのさ。まあ、ここは不人気だったからね。二ツ目族も訪れないし、私もすっかり忘れられてしまったわけさ。もっとも、それをいいことにこうしてのんびり暮らしてるんだけどね」
 悪い人間ではなさそうだ。 
 だが、奏の中に埋め込まれている三ツ目のイメージは残忍で非道なもの。
「風呂も沸かしてある。何の気兼ねも要らないよ。ゆっくりしていくといい」
 不思議な感覚。
 こんな場所で人に出会い、料理を食し、風呂に入る?
 奏にはやらなければならないことがある。
「すみません、取り乱したりして。料理、ご馳走様でした」
「あらあら、思ったより礼儀正しい若者なのね」
「でも、ゆっくりしている暇はありません。僕はここに目的があってきたんです」
「知ってるわよ。友人が危篤なのね」
 なぜ知っているのか。
 まさか、ルウディのように何でも知っているとでもいうのではないか。
「私は水晶を通して、いろんなものを見通せるの。あなたたちはこの洞窟に入ってきた時点で気づいてたわ。魔術的な仕掛けがあって、入ってくる人がいれば、私に知らせが届くのよ」
「ならば、僕の目的も知っているんですね」
「眷属との契約よね」
 この人は本当に味方であろうか。
 いぶかしんでいると、老婆は食器を片付けながら言った。
「若者はせっかちね。でも、あなたはとても聡明なよう。ここまで想像も付かないような道のりでやってきたのを見れば分かる。頭の良い子」
「眷属の居場所を教えてくれませんか?」
 老婆の言葉を遮るように問いかけると、老婆は悲しそうな顔をした。
「いいわ。教えてあげる。だけど、話を聞いて。落ち着いて、ね?」
 老婆に諭され、おとなしく食卓に戻る。
「良かったら御代わりをどうぞ」
 正直、満腹には程遠い。遠慮なく御代わりをもらう。
「この洞窟はね。どうやら寿命を迎えようとしているの」
「寿命ですか」
「そう。あの道のりを越えて来たあなたなら分かるでしょう。私はあなたを見守りながら、ハラハラしてたわ。でも、こうしてたどり着いた。何らかの因果があるとしか思えない」
 ここが終着点であるなら、確かにここまでこれたのは奇跡に近かった。
「あなたはこの広大な洞窟内のほぼすべてを見てきたといっていいでしょう。水の落ちるホール。崩落する壁。以前はこんなことなかったし、何万年も同じ事を繰り返してきた。でも、ここ百年の間、水の落ちる周期が長くなってるの」
 水の落ちる周期が長くなる。その意味するところは。
「以前は日に十五回、水が落ちていたの。でも今では一回か二回」
 回数が少なくなるということは、その分、エネルギーが蓄えられ、放出されるときの衝撃が大きくなる。
「頭のよいあなたなら察しが付いていると思うけど、洞窟内の排水の仕組みが狂ってしまったのね。溜め込む水の量が年々増えて、吐き出すときの衝撃が大きくなった。それにあいまって、衝撃に耐え切れない弱い壁がところどころ崩落をはじめ、その歪は徐々に洞窟全体に侵食しようとしている」
「なぜ、そんな事を僕に話すんですか?」
 老婆は優しく笑った。しかしその奥のかげりを奏は目ざとく見つけた。
「あなたがおそらく最後の来客だからよ。私は人生の大半をここで過ごした。ここは私のふるさと同様。最後は洞窟と運命を共にするつもり。だけど、それだけじゃあまりにも悲しすぎたのね。あなたに知って欲しかった。一生をここで過ごした女がいる。やがて洞窟は失われるけど、確かにここには女と洞窟があったと、あなたに覚えていて欲しい」
「抜け出せばいい。洞窟の外に出て、あなたの家族を作ればいい」
「いまさら無理ね。もうおばあちゃんだから子供は産めないし、老人が生きていくにはこの世界はとても残酷。ここが私の安息の地だった」
 こんな寂しいところで何百年も?
「ここに訪れるのは眷族との契約を目的にやってくる二ツ目族の若者ばかり。中には洞窟内で命を失ったものもいる。だけど、私の話し相手になってくれるような二ツ目族は居なかった。私が三ツ目族だからね。一目散に逃げ出すか。攻撃してきたわ。でも、あなたならきっと落ち着いて話せると思った。神様が私の人生の最後に、使わした天使だと思った」
 奏は黙って聞くことにした。
 老婆が満足するまでは付き合えないだろうが、せめて一晩くらいなら話を聴いてやる時間はあるだろう。
「いいですよ。僕は今晩、ここにお世話になります。話したいことがあれば聞きます。外にいる家族に伝えたいことがあれば、僕から伝えておきます」
「なんて優しい子。だけどそこまでする必要はないわ。私に家族は居ない。いるとすればこの洞窟。そして、たった一人」
 老婆はそう言い残して台所に消える。
 台所に食器を置いて戻ってきた老婆は、何かを抱きかかえていた。
 老婆の小さな手のひらに何かが乗っている。
「何百年も、私の孤独を癒し続けてくれた優しい子」
「あなたがカナデね! おばあちゃんと待ってたよ!」
 奏は驚愕して、椅子から転げ落ちそうになった。
 身長でいえば二十センチに満たない小さな人間が、老婆の手の上に乗っている。
「婆ちゃん、このひと驚いてる? やっぱりわたし、変?」
「そんなことないよ、トレミ。この若者が驚いたのは、私の顔がしわくちゃだからだよ」
「ええ? 私、婆ちゃんのしわくちゃな顔、大好きなのに!」
 なんだ、これは。
 老婆の手のひらに幼い女の子が乗っている。
 しかも、二十センチに満たない……。
 小さな女の子はテーブルの上に飛び乗ると、奏の目の前までやってくる。
「私、トレミ! よろしくね、カナデ!」
 トレミ? 隔世にはこんな小さな人間も存在しているのか?
 トレミはテーブルの上ではしゃぎまわりながら声を上げる。
「婆ちゃんと一緒に見たたんだよ! カナデすごいね! 大変な目にあってるのに、ここまでちゃんとこれるなんて!」
 小さいくせに声は大きい。
 小さくなければ、元気いっぱいのその辺の少女だ。
 奏はどうにか口を開いた。
「み、見ていたって言うのはどういうこと? 見れるはずがない。俺は洞窟の中を歩き回ってたんだ」
「だから、おばあちゃんの水晶でだよ」
 すると、老婆が棚から水晶の玉を取り出してきた。
「私は遠くを見通すことの出来る能力を持っている。望めば水晶に遠くの風景を映し出すことが出来る。こうやってトレミとあなたの行方を見守っていたんだよ」
 老婆はそこまでしゃべると「ほらトレミ」と手を差し伸べる。
 トレミは老婆の手のひらに乗ると「じゃあ、またね、カナデ!」と手を振って、老婆と台所に消えた。
 程なくして戻ってくる老婆。
「すまないね。何の話だったか」
 何の話をしていたのか。あまりの衝撃に忘れ去ってしまった。
「そうそう。私の話だったね。あなたが急いでいるというのなら、引き止めはしない。だけど、聞いて欲しい」
 老婆はブラインドを落としたかのように、ふと影を落とす。
「私はここを離れられない。だが、心残りはあのトレミ。あの子までこの洞窟と運命をともにさせるのは忍びない」
 まさか、この老婆は。
「そこでお願いがある。カナデよ、トレミを地上まで連れて行ってやれないだろうか。あの子はこの洞窟に寿命が来ていることに気づいていない。私がこの洞窟と運命を共にしようとしていることも知らない。だけど、あの子にはすでに言ってある。カナデという青年がここに来たとき、トレミは一緒に行くんだよって」
「なんて勝手な事を」
「確かに勝手だね。でも、四百年生きた女の最後の頼みだと思って、どうかトレミを引き受けてくれないか? もちろん、謝礼はする。望む事を言ってみてくれ」
「そんな事を言われても……」
 あのわけの分からない小さな動物を、どうやって面倒見ればいいのかまったく分からないし、洞窟の外に出る間に踏み潰してしまいそうだ。
「外に連れて行くだけでいいの?」
「いや、できればあの子がちゃんと生きていける場所まで連れて行って欲しい」
「そんなこと言われても……。あの子の同属の仲間のところまで連れて行けばいいのか?」
「あの子に同属の仲間は居ないよ。あの子もたった一人。私もたった一人。頼る者など居ないんだ」
「だからって……」
「変わりにあなたの望みを叶えると言っている。この老婆、耄碌していても力はまだ使える。望みを言ってみるのも一興じゃないかね?」
 望み……。
 なら言ってみるか。
 本当に望みがかなえられるのなら、あの小さな人間を預かるのもやぶさかではない。
 ただし、本当にかなうなら。
「俺は人を探しています」
「ほう、人を?」
「それはユーナという同じ歳くらいの女の子です。訳あってはぐれてしまって、必死に探してるんです。今どこで何をやってるかわかりますか?」
 適当な答えを言ってもすぐにばれる。
 ルウディが真実を言っていたかわからないが、ユーナはユベリア宮殿と呼ばれる王宮の地下牢に閉じ込められているらしい。
 さあ、なんて答える?
「なるほど。ユーナとは本名かね?」
「おそらく」
「本名でなかった場合、難しいね。そうだね、あんたの念を借りよう。あなたが本気でその少女に再会したいと思っているなら、きっと見つけ出せる。だが、偽りなら答えは出ない。それでもいいかい?」
「ええ。構いません」
 もし、居場所が分かったとして、いまさらどうする。
 ユーナに会うのは諦めたのではなかったか。
 何もかも忘れ、現世に戻るのではなかったか。
「それじゃあカナデよ、この水晶だまの上に手を置いておくれ」
 いわれたとおり、透明な水晶に手を置く。
 予想に反して、生暖かい感触。
「その娘のことを強く心に思い描いて……」
 ユーナを思い描く。
 何度思い出しても、蘇るのはユーナとの最後の時。
 銀髪の男。
 まるで発光するかのようなオーラと、瘴気の強さ。
 あの男は何者だったのか。
「考えてるかい? 邪念が多いようだ」
 そうだ。銀髪の男ではない。ユーナのこと。
 ユーナとの最後。
 跪くユーナ。
 まるで心を奪われてしまったかのように、銀髪の男の足元で恍惚の表情を浮かべるユーナ。
 逆らえなかった。
 近寄ることすら出来なかった。
 裏切られた気持ちでいっぱいだった。
 銀髪の男が腕を横なぎに払う。たったそれだけの動作で、ラナ・カンは身体の半分を失った。
 ――銀髪の男。
 ――緑眼の男。
「こ、これは……」
 老婆がかすれた声を上げた。
「なぜ、バル様が……?」
 奏は顔を上げる。
 恐怖とも形容できそうな表情で、唇を震わせている老婆。
「カナデ、お前は一体、バル様とどんな関係が……?」
「バル様?」
 奏は水晶を覗き見る。
 そこには男の顔が浮かんでいた。
 声は聞こえないが、何かを口ずさんでいるように見える。
 背景も見えたが、そこがどこかなどまったく分からない。
「この男は、ユーナを連れていった男です。銀髪の緑眼の男」
「それだけか?」
「はい、名前も知りませんでした」
 ふう、と長く重い吐息を漏らす老婆。
 積み重ねてきた人生だけ、思い思いため息。
「このお方はこの国、ユベリア大衆国の副王、ヴァルアラトス・グロウリン様だ」
「ふ、副王!?」
「知らなかったと申すか。齢千のを越える三ツ目族の最長老であり、最初の三ツ目族といわれている」
「ちょ、ちょっと」
 王族? 年齢が千歳? 最初の三ツ目?
「このお方と、一体どんな縁があるんだい? 私でさえ、遠巻きに数度しかお会いしたことがない」
「会ったって程では……」
「まさか、この方に恨みでも持ってるのかい? それならば大それたことだ。いまからでも遅くない。そんな感情はお捨て!」
 分かってる。
 奏の住んでいる現世だって、総理府や皇族に対して反逆的な思想を持ち、行動することはいろんな意味で重罪だ。
「王族……?」
 驚きの余韻はまだ消えない。
 ユーナを連れて行ったのが王族なら、ユーナを連れ戻そうとする行為は、この国に逆らうことだというのか。
 王族に逆らう。
 恐ろしい言葉だ。
 ルウディの言葉を信じるならば、ユーナは地下牢に幽閉されているらしかった。
 ユーナは言わば、王族に対する反逆罪で捕らえられたのだ。
 解放軍に所属していたということは、すなわち三ツ目族からすれば反逆者であり、現世に渡って三ツ目族に打撃を与えようとした行為は重罪であるはず。
「こ、こ、これは……!」
 老婆が喉を引くつかせている。
 これ以上驚かせたら心臓が止まってしまいそうだった。
 奏は再び水晶を覗いてみる。
 そこには思いかけず、ユーナの顔が映っていた。
 瞬間、奏の胸に広がる空虚といおうか、虚無といおうか。
 胸に広がる得体の知れないものが、胸を破裂させようと圧力を掛けてくる。
「ユーナ!」
 奏は大声を上げた。
 水晶の中に居るユーナに声が届くのではないかと思った。
「これです! ユーナです! どこに居るか分かりますか!?」
 ユーナの表情は薄汚れていた。
 何日も泣き続けたかのようにやつれている。
 やはり、ユーナは苦しんでいた!
「くそっ、俺は一体何なんだ。ユーナがこんな状態なのに、俺は諦めて帰ろうとしてたのか!」
「まて、カナデ。ユーナとはなんだ? この娘がユーナだと?」
「そうです。宮殿の地下牢に閉じ込められてるんです」
「いや、そんなことを聞いているのではない。カナデ、本当にこの娘のことを知っているのか?」
「知ってるも何も……。この女の子がユーナで間違いありません」
「ちがう。この娘はユーナではない」
 ユーナではない?
 老婆が、まるで怒っているような顔を奏に向ける。
「カナデの過去に何があったかは知らん。あえて検索するつもりもないが、この娘はミユナという。ミユナアラトス・グロウリン。ヴァルアラトス副王の数多いご息女である王族だよ」
 
 固まっていた。
 どれほど硬直したまま、置物のようにそうしていただろうか。
 ユーナが王族?
 なんだそれは。
 だって、ユーナは二ツ目族じゃ……。
「この二人を知っていながら、王族であると知らないというのはどういう了見なのだろう。おぬし、この国の人間ではないのか?」
 老婆の声は聞こえていない。
 遥かかなたへ吹き飛んだ意識は、現状を理解しようと右往左往している最中だ。
 二ツ目族で王族。
 この矛盾はなんだ。
「忘れることだ。バル様もミユナ様のことも」
「忘れる?」
 奏は本能的に言葉を返した。
「関わってはならん。確かにこれまでも、さまざまな二ツ目族の若者が解放を願って王族に逆らった。しかし、この千年の間、一度たりともグロウリン王家が危機を迎えたことなどない」
「教えてください。ユーナは二ツ目族でないんですか?」
「ユーナは間違いなくヴァルアラトス王の血を引く者。いいか、関わるんじゃない。また若い命が散っていくのを私は見たくない」
「ユーナはいまどうしてるんですか? この水晶に映るユーナは現在の姿なんですか?」
 老婆はやれやれとため息を漏らす。
「目上の人間の忠告は聞くもの。確かにこの水晶の映像は現在のものだが……」
「視点を変えられますか? ユーナは今どんなところに居るか知りたいんです。どんな現状なのか」
「聞く耳を持たないか……」
 根負けしたように老婆は水晶の頭頂部をそっと撫でた。
「見てみなさい。ここは牢。周囲にはいくつかの死体が転がっている」
「死体が……」
 どんな悲惨な状況に置かれているのか。
 この水晶に手を突っ込んで、ユーナを引き出せたら。
「王族が牢に入れられるなんて、あまり聞いたことがない。よほどの罪を犯したのだろう。この牢はおそらく斬首の塔の地下。ユベリア宮殿の敷地内に二つそびえる塔の一つ」
 奏は食い入るように水晶をにらみつける。
「ミユナ様は一人のようだ。他のものは皆死んでいる」
 なんて悲しみに暮れた表情。
 ユーナは諦めている。
 もう自分は生きれないと、絶望している。
「ユーナ、諦めるな。俺が行くまで諦めるな」
 ユーナは転がっていた死体に寄り添うように倒れた。
 なんという惨状だろう。
 死体と暗闇の世界で、たった一人。
「お婆さん、何とかできないのか。ここからユーナを助けることは出来ないのか」
「出来ない。見ることしか出来ないよ」
「……くそ。ユーナ。諦めるな。約束だろ。きっと平和な世界に連れて行くから。諦めるな……」
「声は届かない。だが、水晶は離れた場所に居る想い人を映し出すもの。ならば想いが伝わらない道理はない、と私は思っている。慰めにもならないだろうが、祈ること。もしかしたら、声が届くかもしれない」
 奏は老婆を見た。
 老婆は悲しそうに水晶に目を落としている。
 思いは通じる。
 ユーナの映像が届いているのだから、いまここからユーナへのつながりが出来ている。
 強く思えば届くはず。
「ユーナ。俺は決心した。正直言うと、一度は諦めたよ。この世界に絶望して、もう元の世界に戻ろうと思った。君を見捨てて居心地のいい故郷へ逃げようとしたんだ。でも、間違ってた。俺は約束をしたんだ。君を家族の元へ返すって。ナユタ、両親、妹の元へ。だから、諦めるな。きっと助けに行くから。そんな顔をするな。聞こえるか、ユーナ!」
 奏はくっと喉を鳴らして、顔を伏せた。
 悔しい。
 俺はこんなところで何をしているのか。
 一刻も早くユーナの元へ向かわなくてはならなかったのに。
 ユーナが諦めてしまう。
 絶望してしまう。
 俺はここに居る。
 君と同じ世界に居て、君を探しに向かう。
 
 奏は顔を起こした。
「お婆さん、どうもありがとう。俺は忘れるところだった。こんなにユーナを想っていたのに。逃げ帰ろうとしてたんだ」
「やれやれ。決意を固めてしまったのかい?」
「はい」
 老婆は悲痛そうにうつむいた。
「お婆さんにここで出会えたことは、とても良かったと思います。お婆さんが優しい人で良かった。ここに来るまで、たった数日なのに嫌なものばかり見ました。この世界の暗い部分ばかり。でもお婆さんに会えて、俺はまた希望が持てました」
「そんな希望なら、持って欲しくなかったが」
「いえ、お婆さん」
 奏は老婆の手をとった。
 老婆が少女のように肩を竦めて驚いている。
「お婆さんもです。お婆さんにとってここは故郷かもしれない。でも、ここはそのうち崩れてしまう。そうなったらお婆さんは埋もれてしまう」
「いいんだ。それが望みなんだから」
「そんなのが望みなんて、この世界の言いなりになるだけです。いいですか、少しだけ待っててください。ユーナを助けたら、俺はまたここに戻ってきますから」
「戻ってくるだって?」
「必ず戻ってきます」
「戻ってきてどうするつもりだい」
 奏は老婆の手を持ち直し、両手で包み込む。
「この洞窟の外の世界はとても無慈悲で残酷です。でも、俺の住んでいる世界はとってもいい人ばかりです。優しくて心強い人たちばかり。お婆さん、俺と一緒に俺の故郷へ行きましょう」
「カナデの故郷? 馬鹿言わないでおくれ! 私の家はここ以外にないんだよ」
「そう思ってるだけです。必ず迎えに来ます。だけど、俺の故郷はお婆さんにとってちょっと空気が毒です。そうだ。ここの植物を持っていきましょうよ。鉢植えにしたり、種を持っていったり。故郷の一部をおばあさんのための森にして、そこに家を建ててユーナたちと暮らしましょう。それがいい。ここで埋もれてしまうより絶対に!」
「か、勝手に決めないでおくれよ。私はもうこの洞窟を出る体力だって……」
 奏はずいっと老婆に詰め寄った。
「そんなのどうにかします。俺がおんぶしたっていい。どうして優しい人が失われていかなくちゃいけないんだ。絶対に間違ってる。いまのお婆さんも間違ってる。俺の世界にいきましょう! だから待ってて」
「私もいく!」
 台所のほうから突如響いてきた声。
 奏と老婆が一斉に振り向くと、床の上に小さな少女が立っていた。
「私も奏のお家に行く! ばあちゃんと一緒に行く!」
「トレミ……」
 老婆は憂い層にトレミを見下ろす。
「トレミ、気持ちは嬉しいけどな、婆ちゃんはもうあまり歩けないんだよ」
「いや! ばあちゃんと行く! カナデのお家へ行く!」
 奏はふと思いついたように口を開く。
「お婆さん、トレミはあなたを親のように思ってるんですよ。あなたが洞窟に埋もれてしまったら、こんな小さな……なんていうか……子供というか、トレミは悲しみます。一人にしてもいいんですか?」
 老婆は戸惑ったように取り乱す。
 少々、卑怯な言葉だったとは思うが、こんな洞窟に埋もれてしまうなんて。そんなのは悲しすぎる。
「一年。いや、半年待っていてください。何があろうと必ず戻ってきます。それまでに答えを聞かせてください」
「でも……」
 奏は老婆から手を放す。
「お婆さん、家族は居るんですか?」
「家族……」
 ひどく悲しそうな顔。
 遠い昔を憂うように虚空を見つめだす。
「一人息子が居る。しかし、あの子が生きているとは思えないし、生きていたとしても、もう私など親などとは……」
「探してきます。名前はなんていうんですか?」
 老婆はうろたえたように顔を上げる。
「やめておくれ。いまさら息子に合わす顔なんてないよ」
「もう諦めたくない」
 奏はずいっと老婆に詰め寄る。
「だから、お婆さんも諦めたようなことばかり言わないで。息子さんの名前を教えてください」
「名前は……」
「私、知ってる。顔も知ってるよ」
 いつの間にか机の上によじ登ってきたトレミが奏を見上げながら声を上げる。
「私が見つけてあげる! 私が婆ちゃんの子供、見つけてあげる!」
「顔を知ってるって、トレミに息子のことを話したこともないじゃないか」
「でも知ってる! 知ってるって言ったら知ってるの! クロスって名前でしょ。ほら知ってる!」
 老婆は目を丸くした。
「本当に不思議な子だよ。どこで知ったんだい? 記録も残っていないのに。でも、トレミ。仮に見つけたとしても、息子は私に会いたがらないよ」
「会いたがるもん。私がこんなにばあちゃんのこと好きなのに、婆ちゃんの子供が嫌いなわけないもん!」
「トレミ……」
 奏は老婆から一歩下がる。
「お婆さん、本当にありがとうございました」
 深々と一礼する。
「必ず戻ってきます。息子さんを連れて。俺はもう行かなくちゃならない。ユーナを迎えに行かなくちゃ」
 奏は身体を起こすと、戸惑うばかりの老婆を見すえて言った。
「最後にお願いがあります。この洞窟に入ってきた目的は、お婆さんも知っていますよね」
「ああ。確か、仲間が危篤だったね」 
「はい。だから、ここには仲間を助けてくれるような眷族を探しに来たんです。知っていたら、眷属の居場所、教えてもらえませんか?」
「そうだったね。眷属の居場所か。それなら、もう教えてるよ」
 奏は不思議に思って、過去の会話の内容を回想する。
 眷属の居場所について、老婆が何か語っていただろうか。
「この洞窟の眷属は、ここに居るトレミ。この子が眷属だよ」
「はい!」
 トレミがテーブルの上で、飛び上がるように手を上げた。
「トレミです! 名付け親は婆ちゃんです! 私、眷属ってやつなの!」
「き、君が?」
「私がトレミ! 眷属です! 私、眷属です!」
 子供が覚えた手の言葉を連呼するように、手を上げて何度も訴えるトレミ。
「本当に?」
 あくまで疑うと、トレミがほほを膨らませて、ぶうと鳴いた。
「トレミ、本物です! 眷属です!」
 そういえば、クユスリが言っていた。
 ここの洞窟に住む眷族は、とても役に立ちそうもない眷族だと。
 この小さな小さな手のひらサイズの少女が、旅のマスコット以外になんの役に立つというのか。確かに疑問だ。
 いたいけな少女などの愛玩には最適に見える。
 趣味の悪いブローカであれば、ペットとして高値で売買できそうである。
「トレミ、君はどんな力を持ってるんだ?」
「力?」
 首を傾げるトレミ。
「俺の友達が病気なんだ。森の空気に含まれる毒に中てられてしまったんだ。君に治せるかな」
「大丈夫!」
 小さな、本当に小さな胸をトンと叩いて見せるトレミ。
「トレミ、友達の病気を治す!」
 本当に直せるのか。どうも疑わしい。
「カナデよ、このトレミと契約してはもらないだろうか。トレミは眷属。人と契約を交わさなければ、この洞窟から離れることができないんだよ」
「でも、俺は何の力も持ってないし」
「大丈夫、トレミはあんたの魂を吸い取ったりしないよ。外で生活できるだけの力をもらうだけ。ほら、トレミ、お願いしな」
 トレミは老婆を見上げ、口を尖らせている。
「どうしたトレミ。カナデが気に入らないのかい?」
「ううん、ちがう。トレミが行っちゃったら婆ちゃんはどうするの?」
 ふふふ、と老婆は優しく笑った。
「婆ちゃんは水晶で、ずっとお前のことを見てるよ。お前もさびしくなったら婆さんのことを思い出しな。きっと想いは届くよ」
「ほんとう?」
「本当だとも」
 トレミは奏でを振り替えり、つぶらな瞳でじっと見つめてくる。
 本当に少女が愛でるような人形のようだ。
「トレミ、カナデと契約する!」
 まるで怒ったように声を上げるトレミ。
 契約するって言ったって、どうやって?
「でも! トレミ、カナデと契約できるか分からない! トレミ、誰とも契約できなかった!」
「契約って、どうやって?」
 問いには老婆が答えた。
「簡単だよ。質疑応答さ。契約には相性が居る。カナデとトレミで相性診断のようなものをするのさ」
「相性診断? 占いみたいなもの?」
「まあ、そんなものさ。質問はトレミがする。カナデは素直に答えること。答えが非道であろうが、正義であろうが関係ない。要するに相性の問題。嘘をついても仕方がないよ」
 奏は意外と緊張した。
 テーブルの上で、腰に手を当てたトレミが厳しい表情を奏に
向けている。
「カナデ、どうして眷属と契約したいの?」
 トレミが尋ねてきた。
 相性診断は始まっているのだろうか。
 回答は正直に。
 これは案外難しいのではないか。
 奏はゆっくりと息を吸った。
「病気の友達を助けたいから」
「どうして病気の友達を助けたいの? カナデはその人のこと、好きなの?」
 好きか?
 佐々倉のことを?
「好きじゃない。向こうも俺のことを嫌ってる」
「どうしてそんな人のことを助けたいの?」
「どうしてだろう。悪い人じゃないから?」
「悪い人だったら、助けないの?」
 怒涛の質問。
 答えるために正直になるべきだが、返答に詰まる答えもある。
 不思議だ。
 相手が悪人だったら助けるか。
「相手が悪人でも、助けると思う」
「おかしいよ。さっきは悪い人じゃないから助けるって言ったのに」
「そうだね。なんだろう。どうして助けたいと思うんだろう。自分でも分からないよ」
「変なひと。じゃあ、カナデは私と契約する前に、眷属と契約したことがある?」
「ないよ」
「うそ」
「うそ?」
 心外なリアクションだ。
 奏は現世に住んでいたのだ。眷族という概念さえない世界。
「だって、腕に他の眷属が付いてるよ」
「あ」
 思い出す。
 ラナ・カン。
「これはラナ・カン。俺の友人なんだ。獣族って言われてるらしいけど、ラナ・カンが大怪我を負ったとき、こうなったんだ。たぶん、ラナ・カンは俺を守るためにこうやって一緒に居てくれてるんだと思う。これは契約なのかな」
「う〜ん……」
 困ったようにトレミは老婆を見た。
 老婆は微笑んだだけで、答えを示さなかった。
 トレミは気取ったようにオホンと咳払いをする。
「そのラナ・カンという人が眷族じゃないなら、トレミも眷族じゃないよ。それじゃ契約できないよ」
「そうか。そうだな……。眷族って言ったって、ペットや道具じゃないんだしな。俺には眷族との契約は出来ないかもしれない。トレミのことだって、眷族として契約するとか言われてもぴんとこないし。でも、外に出るには人と契約するしかないんだろ」
「そうだけど……」
「トレミの気持ちはどうなんだ? トレミはここを出たいのか?」
 トレミは戸惑ったかのようにカナデと老婆を交互に見る。
「トレミはどれくらい洞窟に住んでるんだ?」
「う〜ん……わかんない。たくさん住んでるよ」
「外の世界を見たことがある?」
「婆ちゃんの水晶からたくさん見た」
「外には出たい?」
 再びトレミは老婆を見た。
 そうか。
 トレミは外に出たがっている。
 だけど、老婆を一人に出来ないでいる。
 遠慮してるのか。
「分かったよ、トレミ。契約はなしだ。契約しないでトレミが外に出れる方法を探そう。それなら、俺とトレミは友達だし、俺に捉われないで、トレミは帰ってきたいときに洞窟に帰ってこれる」
 トレミの瞳が輝いた。
「好きなときに帰ってこれるの?」
「方法があればだけど。トレミはどうして外の世界に出れないんだ?」
「空気が違うの。もうひとつの世界から流れてくる空気を吸ってないと死んじゃうの。その空気と同じものを人が持ってる。だから、人と一緒に居て、空気を貰いながら外の世界に出るの」
 もうひとつの世界。
 狭間の世界か。
 狭間の世界からの空気とは、おそらくイスカ領域からのエネルギー供給のことだろう。
 イスカ領域の傍でしか生きられない。
 そういうことか。
 ならば、人がイスカ領域からのエネルギー供給を助けているというのはどういうことだろう。
 人の中にイスカ領域があるとでも言うのか。
 それとも、人はイスカ領域の近くに居なくても、心的世界からのエネルギー供給が得られ、眷族にはその能力がないのかもしれない。
 やはり、人と契約するしかないのか。
「カナデ、なにを考えてるの?」
「いや、君が人の力を借りずに自由になれる方法があればと思って……」
 そう言うと、トレミが老婆を見た。
 何も言わず、しばらく見詰め合っている。
「婆ちゃん、トレミ、決めた。カナデと契約する」
「そうかい。決めたかい」
「契約するの?」
 奏が驚いていると、トレミが「うん!」と大きくうなずいた。
「カナデ、いい人。私、カナデと契約する」
「でも、君は俺の行く先にしかいけないんだよ」
「それでもいい。決めたもん」
「相性は大丈夫なのか?」
 そう言うと、トレミは不安そうに老婆を見上げる。
「トレミ、誰とも契約できなかった。カナデとも契約できないかも……」
「そんなことはないよ」
 老婆がようやく口を開く。
「この質疑応答は、お互いの間にある壁を取り払う作業なんだよ。お互いが歩み寄り、嘘を付かず、素直に話し合うことが契約につながるんだ。今までの人間はみんなトレミに嘘を付いてたんだよ。だから契約できなかった。トレミ、嘘をついたのかい?」
「ううん! トレミ、素直でいい子!」
「そうだろう。なら大丈夫。契約してごらん。きっと契約できるさ」
 トレミがとことことテーブルの上を歩いて近づいてきた。
「カナデ、手を出して」
「手? 手でいいのか?」
 奏は手のひらを上向きにして、テーブルの上に置いた。
 手のひらにトレミが乗って、ちょこんと座る。
 トレミは瞑想するかのように手を組んで、目を瞑った。
 トレミがかすかに発光した。
 契約。
 一体、これは何なのか。
 しばらくトレミに目を奪われていると、トレミが突然、目を開いた。
 まるで昆虫の動きのようにすばやく顔を起こすと、目を真ん丸くして奏を見上げた。
「できた!」
 トレミが声を上げた。
 出来たとは、契約のことか。
 奏の身体にはまったく変わった様子はない。
「できた! 契約できた! やった!」
 トレミが奏の手のひらの上で飛び跳ねた。
 ひやひやする。
 手のひらから落ちるのではないか。
 老婆がそっと指を目頭に持っていったのが分かった。
 喜びか、別れの悲しみか。
「トレミはいままでも、何人もの人間と契約を交わそうとした。だが、叶わなかった。それは相手の人間が、トレミに対してやましい気持ちを抱いていたからだろうと思う。トレミは力を持たないが、愛らしい風貌を持っている。どこかの金持ちに持っていけば売れると考えたり、ただ、愛玩として傍に置きたがる人間たちばかりだったせいだ。トレミはどの人間も素直に受け入れ、信じ、契約を願ったが、人間がいつもトレミを裏切った。そのたびにトレミが悲しみ、傷つく様を見てきた。でも、本当に良かった。トレミと契約できる人間が居て。カナデ、あんたは信用できる。どうか、トレミをよろしく頼む」
 トレミはよほど嬉しいのか、いつまでも奏の手のひらで「やった、やった」とはしゃいでいる。
「なんだか重責を背負わされたみたいだ。トレミは本当に俺なんかと契約してよかったのかな」
「何を言う。むしろ喜ぶべきさ。トレミと契約できたのは、心が澄んでいる証拠だと思えばいい」
「なんだかむずがゆいですね。あまり自信がない」
 老婆は奏の劣等感を拭い去るように微笑んだ。
「大丈夫。だが、ひとつだけ老婆心と思って聞いておくれ」
「はい」
 老婆は微笑を崩して、神妙な表情で奏でを見据えた。
「グロウリン王家とは関わらないで欲しい。カナデのような青年の命がむざむざ失われるのを、判っていて見たくはないんだよ」
「関わりません」
「本当かい?」
「はい。俺の目的はユーナだけです。王家には関わりません」
「ミユナ様……」
 ユーナに関わるということは、王家に関わるというのと同じ。
 それは分かってる。
 でも、ユーナには何かの事情がある。
 ユーナが三ツ目族であるはずがない。
 なにより、ユーナの目は二つしかなかった。
 ユーナは苦しんでいる。
 奏が決意するには、それだけで充分だ。
 奏ははしゃぎ疲れて、奏の手のひらで座り込むトレミに言った。
「トレミ、俺は急いでる。もう行かなくちゃならないんだ。お婆さんとも一時別れなくちゃならない」
 トレミはぼんやりと奏を見上げる。
「いいよ。だって、すぐ戻ってくるもん。戻ってきて、婆ちゃんと一緒に奏のお家に行く!」
「そうだ。すぐに戻ってくる」
 奏は立ち上がった。
「ばたばたしてしまってすみません。もう行こうと思います。でも、待っていてください。必ず戻ってきます」
 老婆は諦めたように、やれやれと肩を竦めた。
「期待しないで、気長に待つことにするよ」
 そう言って、柔和に笑って見せた。

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