あっちから変なの出てきた

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第六章 【 ファミリアの聖域編 ちりる 】


 君にユーナは救えない。
 ルウディの言葉ばかりが、奏の胸を支配する。
 なぜ? とは聞けなかった。
 聞くまでもなかったからだ。
 きっとプエラを救えない自分は、ユーナも救えないからだ。
 ルウディの言葉通りの結末になった。
 自分は一体何に恐れたのか。
 なぜ子供たちが連れ去られていくとき、黙って見ていたのだろうか。
 プエラはなぜ子供たちを引き渡したのか。
 長く深い思考状態で、時間の感覚が薄れていた。
 洞窟に入ってきた時は早朝であったが、気づけば日が暮れている。
 考えにふけるうち、どこかで眠っていたのかもしれない。
 君にはユーナを救えない。
 ふとした瞬間に、唐突としてルウディの言葉が蘇る。
 そのたびに胸が締め付けられ、涙がにじむ。
 静か。
 佐々倉想平もクユスリも眠っていた。
 まだ森の中。
 ウィンディアたちはまだ森に留まって奏を探し回っているのか。
 それとも呪われた土地から一刻も早く離れるため、出発したのだろうか。
 この先、プエラはどうなるのだろう。
 プエラはディディックを殺してはいなかったかも知れないが、取り返しの付かない罪を犯してしまった。
 ――いや、本当に罪と言えるのだろうか。
 奏の道徳観、倫理観が通用しないこの世界で、命を守るためには当然の……。
 分からない。罪と決め付ける奏こそがもっとも恥ずかしい愚者なのかもしれない。
 いずれにしても、あの出来事は彼女の人生に暗い影を落とし、罪は一生彼女を苦しめる。
 そうさせてしまったのは自分だ。
 あの瞬間。
 帝国旅団である黒尽くめの男に選択を迫られたとき、確実に奏はプエラを指差そうとしていた。
 その間、奏の頭の中は釈明が駆け巡っていた。
 身体が何者かに操られ、勝手に指差してしまった。そんな言い訳。
 何度も考えた。
 何度も何度も。
 それはプエラを救うための自己犠牲。
 ――ディディックを殺したのは俺だ。
 奏は何度も言いかけた。
 そう言わなかったのは恐ろしかったからだ。
 ただただ恐ろしく、勇気がなかっただけだ。
 自分の犠牲が犠牲になることで、大切なものが全て救われる。そうすればルウディの言葉通りにはならなかったはず。
 ――あんたには責められない。
 プエラが奏に向かってそう言った。
 その通りだ。責めるつもりなんてなかったが、奏に紡ぎだす言葉なんてなかった。
 帝国旅団とはなんだ。
 なぜ、住民はあれほど帝国旅団を恐れたのか。
「ううう……」
 呻き声が聞こえた。
 寒気がして顔を起こす。
 佐々倉とクユスリは眠っている。
 そういえば、この洞窟はまだ奥行きがある。
 奏は暗闇に溶けていく洞窟の奥を見た。
 ここは隔世。
 どんな世界かまだ分かっていない。
 この洞窟内に、想像もつかないような恐ろしい怪物が居ても不思議ではない。
「ううっ……」
 再び呻き声。
 洞窟の奥から聞こえたのか、すぐ傍から聞こえてきた声なのか、全く分からない。
「うううっ」
 声の正体が分かった。
 苦しそうに身を悶えさせている佐々倉だ。
 佐々倉は眠っていたが、悪夢にでもうなされているのか、ひどく蒼白な顔をして呻いている。
 奏は佐々倉に近寄って、身体に触ってみる。
「……熱が」
 服の上からでも分かる熱、そして湿り気。大量の汗を掻いている。
「佐々倉さん」
 奏は佐々倉の身体を揺すった。
 起こそうと思った。だが、いくら揺すろうとも目を覚まさない。
 ぞっとした。
 この隔世がどんな世界かも分からないし、どんな病原菌が存在するのかも分からない。
 ただの小さな病気でも、現世から渡ってきた人間にとっては致命的かもしれない。
「どうした?」
 異変に気づいたクユスリが起きだしてきた。
「クユスリさん、佐々倉さんの様子が変なんです」
「変?」
 クユスリが近寄ってくると、佐々倉の様子を覗った。
「どうしたんでしょう。さっきまで元気だったのに……」
 動悸が激しくなった。
 まさか、こんなところで死ぬなんてことが。
「分からない。何かの感染症か。とにかく起こせ。何か持病を抱えているのかもしれない」
「持病じゃ……ない……」
 うなされながら、佐々倉が答えた。
「佐々倉さん! 大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃない」
 佐々倉は苦しそうに顔を歪めている。
 クユスリが腰に巻いた小物入れから小瓶を取り出した。
「効くかどうか分からないが、薬草を煎じた薬だ」
「いらん……そんなもの」
 佐々倉は顔を背ける。
「蒼白な顔をして意地を張るな。この薬は熱冷ましだ。病気には効かないかも知れないが、多少は楽になるぞ」
 佐々倉は舌打ちしながら薬を受け取った。
「奏、バッグの中に水がある」
 クユスリに言われ、バッグから水筒を取り出した。
 佐々倉は薬を咽込みながら飲み込む。
 だが、これで安心できたわけではない。
「何か持病でも持ってるのか?」
「持病じゃないと言ったろ」
「どんな気分だ?」
「身体に力が入らない……ひどく寒い……」
 クユスリが困惑して奏を見る。
 風邪、食中り、貧血などなら自覚症状があるはずだ。
 身体の力が入らなくて寒い。何の病気だ。
「何らかの毒の可能性もあるな。ちょっと待ってろ。幸いにしてここは森の中だ。解毒作用のある草をとってこよう」
「ありがとう、クユスリさん」
 クユスリが居て良かった。
 奏一人だったらどうしてよいか分からない。
 クユスリが日の暮れた森に出て行くと、奏はバッグに入っていた布を水で湿らせて、佐々倉の額においた。
「余計なことをするな……。そんなことをしても意味はない」
「でも……」
「くそったれ……。この感じ、おそらく瘴気に中てられたんだ……」
「瘴気に?」
「お前を……お前なんかを助けるために戒具を使ったからだ……ちくしょうが。なんでお前なんかに……」
 佐々倉が動けたら、きっと奏を殴りつけていたに違いない。
「佐々倉さん、俺はどうしたら……」
「どうしたらもくそもあるか。俺が死んだら、お前も死ね。そうじゃなかったらすぐにでも俺を現世に戻してくれ」
 現世に……。
 そんなこと、すぐには実現できない。
「でも、こんなに早く瘴気にやられるなんて……。数ヶ月は症状が現れないと思ってたのに」
「ここは森の中だ。瘴気が濃いんだろう。くそ、俺としたことが迂闊だった」
 喋るたびにぜいぜいと息をつく。
 俺のせいだ。
 奏は胸が苦しくなった。
 自分が勝手な行動ばかりするから、こうやって他の人が傷つくのだ。
 佐々倉にはここに居る理由なんて何もないのに。
 どうしたらいいんだろう。
「一過性のものだろう。一時的に体力が低下して、免疫が落ちてる……。しばらくすれば治るだろうが……」
 そう言って、佐々倉は咽こんだ。
「本当ですか?」
「たぶん……な。絶対とは言い切れない。俺だって経験がないからな。でも、たとえ体調が戻っても、もうお前には付き合わん」
「すみません……」
「謝るくらいなら、今後は俺の尽くせ……。現世に戻る方法を探して、俺を帰せ」
「そうですね……分かりました」
 佐々倉が薄目をあげて奏でを見た。
「イスカ領域を……探すんだな?」
「はい。すぐにでも帰りましょう。ここは俺たちの居ていい世界じゃない」
 君にはユーナを救えない。
 ルウディの言葉がまた蘇る。
 言うとおりだ。
 一体、ここに来る前はどんな理想を思い描いていたのだろうか。
 火が熱いと知らず、触ってみて大やけどしたのだ。
 触れてはいけなかった。
 自分のような人間が居ては、沢山の人が傷ついてしまう。
 帰ろう。
 洞窟の入り口に気配。
 クユスリが戻ってきた。
「いくつかの解毒作用のある草をとってきた。良薬苦し。少々受け付けづらいが良く効くだろう。煎じてやるから少し待て」
 このクユスリも良い人間だ。
 だが、いつまでも一緒に居ては、きっと迷惑を掛ける。
 この洞窟を出たら別れよう。頼ってはいけない。
 
 
 
 薬を飲んだ佐々倉はまもなく呼吸も落ち着き、眠りについた。
「よく効くだろう、この処方はばあちゃんから習ったんだ」
「ええ。すごい。俺にはどうすることも出来なかった」
「薬草の知識ぐらい持ってないと生きていけないぞ。もっとも、お前には記憶がないんだったな」
 記憶があったとしても、薬草の知識などない。
 医者に行けば自動的に薬が処方される。
 奏は何の疑いもせず、それを飲みこめば病気が治ると思っている。
「クユスリさん、俺たちには時間がない。帰るところに帰らなくちゃいけないんです」
「時間がない? 帰るところ? 記憶が戻ったのか?」
「違います。記憶喪失は、実は嘘なんです。本当は俺も佐々倉さんも記憶を失ってなんか居ないんです」
 クユスリは驚いたりしない。
 ふん、と鼻先で笑い飛ばすと「まあ、よくある話だ」と肩を竦めた。
 クユスリは次の薬を煎じながら言った。
「語りたくない背景は誰にでもあるものさ。私にだってある」
「語りたくないと言うより、語れなかったんです。きっと言っても信じない」
「私は人より疑り深いから、きっと信じないだろう。だけど話したいなら話せ。黙って聞いてやる。何しろ命の恩人だ。森を出るまでは仲間になってやる」
 だめだ。
 いい人間は、自分の傍にいては駄目だ。
 クユスリのその髪。
 残バラに乱れたその髪は、奏が助かりたいがためのその代償。
「別の世界からやってきました」
 奏はそれだけを言って口を噤んで、クユスリの顔色を覗う。
「別の国ってことか? 確かにお前たち二人は雰囲気が妙だ。服装も珍しい。他の国に二ツ目族がいるなんて知らなかったが、どこの国だ? そこでは二ツ目族は虐げられてないのか?」
 やはりそう捉えるか。
「クユスリさん、別の世界とは文字通りの意味なんです。この世界とはまた別にある世界からやってきたんです」
「……なるほど。黙って聞くと言った以上、黙って聞こうか」
「この世界と平行する異世界。こことほぼ同じような物理法則で成り立つ別の世界に俺は住んでいました。文明レベルは、たぶんこちらの世界より高く、通力に関してはこちらの世界のほうが遥かに高いです」
「それが本当だと仮定して話をするが、お前はいつこっちの世界に来たと言うんだ?」
「三日前です。クユスリさんにあった日、その日にこっちの世界に渡って来ました。俺たちの世界ではイスカ領域と呼ばれる、両方の世界を繋ぐ穴が開いて、トンネルが出来るんです。そこを渡って来ました」
「……すまない。黙って聞くと言ったが、私はなんだか馬鹿にされているような気分だ」
「すみません……。やっぱりそうですよね。こんな話ばかばかしい」
「話の腰を折って申し訳ないが、このササクラという男も同じ世界からやってきたんだな? じゃあ、試しに尋ねるが、目的はなんだ? 異世界から人がやってくるなど、昔からあったことなのか?」
「いえ、初めてだと思います。そもそも最初に世界を渡ったのはこちらの世界の人間です。こちらの世界の二ツ目族が俺たちの世界にやって来たんです」
「本当なら驚きの事実だが……」
「レジスタンス。そう言ってました。ユベリア大衆国という国の二ツ目族は、国を支配する三ツ目族、四ツ目族に虐げられていると聞きました。二ツ目族と一ツ目族は解放軍を組織して、時空を渡る技術を身につけたと」
「解放軍……それが本当なら、そのレジスタンスとは……」
 クユスリが奏を見た。
 その目が憂いでいる。
 何か言いたそうだが、言えずにいる様子。
「なんですか? レジスタンスについて、何か知ってるんですか?」
「帝国旅団のことだ。レジスタンスとは、帝国旅団の表の顔。二ツ目族を三ツ目や四ツ目の支配から解放するために組織されたレジスタンス」
 奏は言葉を失った。
 レジスタンスとは帝国旅団のこと。
 うまく思考がつながらなかった。
 いや、結論を紡ぎだす事を奏自身が拒否したのだ。
 レジスタンスが帝国旅団。
 つまり、ユーナは……。
「また尋ねるが、レジスタンスは何のためにお前たちの世界に?」
「攻めに……」
 今は忘れろ。
 それに、もう関係ない。
 俺たちは何もかも忘れ、現世に帰るんだ。
「攻めに来たんです」
「異世界に? なんて大胆な」
 クユスリは笑って見せる。
 おそらくこの話を信じては居ない。
 頭のおかしい奏の作り話に付き合ってくれているだけに過ぎない。
 だけど、吐き出したかった。
 クユスリの思いやりは嬉しかった。
「最初に渡ってきたのは女性でした。俺と同じくらいの女の子。それとその女の子の弟です」
「本当か? 子供の兄弟。ますます意味が分からなくなるな」
「子供の兄弟だから、現世の人たちは警戒が薄かったんだと思います。俺はその兄弟に最初に出会った者です」
「ふうん。ちなみに、その兄弟の名前は?」
「ユーナにナユタ。この国に住む二ツ目族だそうです」
「ときに、最初の質問に戻るが、こちらの世界にお前たちが渡ってきた目的は?」
「佐々倉さんは本意じゃなかったんです。俺に巻き込まれたと言うか……。俺が渡ってきたのは、ユーナとナユタに会うためです。俺はユーナとナユタが俺の世界に渡ってきたとき、約束したんです。絶対にユーナとナユタを故郷に返すって」
「うむ。だが、矛盾しないか? その二人はお前の世界を攻撃しに来たんだろう?」
 クユスリは奏の嘘話の矛盾をついてくる。
 信じていない証拠。
 信じてくれなくてもいい。
 奏はユーナとナユタが現世に渡ってきてから、約一ヶ月間の逃亡生活と、こちらの世界に渡ってきた経緯を話して聞かせていた。
 話し終わる頃には夜が更けていたが、途中に食事を摂ったり、佐々倉に薬を飲ませたりして、ゆっくりと話をした。
 すべて話し終わった後、気難しい顔でクユスリが言った。
「私がその話を信じたか、信じていないか、お前にとって重要か?」
 そんなことを聞かれ、奏は少し笑って首を横に振った。
「信じがたい話だが、筋は通ってる。お前がウィンディアで立ち回った様を見ているからな。お前ならいまの話のとおり無茶しそうだ」
 クユスリは疲れたように息を吐いた。
「正直、信じがたい。だが鼻先で笑い飛ばすには話が迫真的すぎる。お前の言う御札という道具を見てみたいが、持っていないのだろう? しかし、戒力というのはこの私も間近で見た。確かに異質の力だ。あの雰囲気。私たちの持つ通力や眷属という力とは明らかに異質……」
 信じていないとしても、真剣に考えてくれていることが嬉しかった。
 それだけで充分だ。
「だが、真実だと仮定して推測すると、なぜササクラは瘴気に中てられ病に倒れたのに、お前にはその兆候すら現れないのか」
「それは俺が通力を使えないから……」
「いや、違う。通力が弱いのなら、余計におかしい。ササクラより先に、お前に異変が起きるべきだ。それが起きないのは……」
 クユスリは口元に手を当てて考えにふける。
 ふと、クユスリは口元に当てていた手で、奏の二の腕あたりを指差す。
「それ。ラナ・カンとかいったか。獣族とは、本来、眷属に近い生物だと言われている。お前はすでに眷属と契約しているんだよ」
「眷属……」
「その腕に巻きついた毛皮。ラナ・カンの化身と言ったな。ラナ・カンはお前を瘴気から守るために姿を変えて、お前の眷属として仕えているんだ」
「ラナ・カン……」
 奏は腕に巻きついた純白の毛に触った。
 自分は一人ではなかった。そんな安堵感を覚えさせた。
「ふうむ、いかんいかん。妙に話の合点が多すぎる」
 奏は少しだけ気分が楽になった。
 クユスリのおかげだ。
 そして、この腕に住むラナ・カンのおかげ。
「ラナ・カンという獣族も、お前と契約することで生きながらえている。おそらく、何年掛かるか分からないが、その獣族はいずれもとの姿を取り戻すだろうな」
「本当ですか?」
 ラナ・カンが元に戻る?
 果たせなかった約束を果たすことが出来る?
 ラナ・カンを再び、家族に会わせることが……。
「嬉しそうだな。その顔が嘘だとは思いたくないが……」
「いいんです。でも、ありがとうございます。ラナ・カンが蘇るなんて……。それだけ聞けただけでも……」
 暗く沈んでいた胸の内に、少しだけ光明が差す。
 紛れもなく、クユスリのおかげだ。
「そこで、ひとつ妙案がある。お前が眷属と契約したことでこの世界の瘴気から守られているのだとしたら、早急にササクラにも眷属と契約させる必要があるな。眷属とは相性があるし、瘴気から身を守る眷族など居るかどうかは分からないが……」
 そうだ。
 隔世に後どれくらい留まらなければならないのかは予想もつかない。
 いつ瘴気に中てられ、命を落とすか分からない。
「クユスリさん、眷属との契約ってどうすれば?」
「眷族に会って、契約したいと交渉するだけ」
「交渉? それだけ?」
「簡単にはいかない。さっきも言ったが、相性の問題だ。人間同士も相性が悪ければ一緒には居られない。眷族とも一緒さ」
 眷属と交渉して、受け入れられれば佐々倉は……。
「眷属はどこに居るんでしょう」
「どこにでも居るし、どこにも居ない。狭間の世界の住人だからな。そんな言い方をしては身も蓋もないが、お前の言っていたイスカ領域。そんなところに居るんだろうな」
「イスカ領域……」
「ただし、眷属と契約できる場所ってのは大体聖域になってる。人々に契約スポットとして知られてるんだよ」
「じゃあ、そこにいけば契約できるんですか?」
「何度もいうが、簡単じゃない。金鉱のようなものさ。眷属との契約スポットが発見されれば、こぞっと人が集まって眷族を掘り尽くしてしまう。残っているのは一般的なトンベルク。それでも困難だ。トンベルクに瘴気から人間を守る力があるとも思えないしな。それに一番の問題は、大抵の聖域は政府によって封鎖されている」
 希望は薄い。
 やはり、早々に帰ることの出来るほどの大きい穴の開いたイスカ領域を探し出すか、作り出すしかない。
「そして、そのスポットのひとつとして知られるのが、この近くにある。ただし、契約に成功したものは居ないし、どうやら高いリスクの割にはあまり役にたたなそうな眷属らしく、今では誰も近寄らなくなった」
「そんなところが……」
 試しに行ってみる、という選択もある。
 なにより、佐々倉は急を要するかもしれない。
 今の体調の異変が回復する保証はどこにもないのだ。
「行ってみたいです。良ければ案内してもらえませんか? ここから近いんですか?」
「近いっていや近い。だが、危険だぞ。よく考えたほうがいい」
「時間がありません。佐々倉さんはいつまでも体力が続くかどうか分かりません」
「行くとしても、一人で行くしなかいぞ。お前には仲間が居ない」
 クユスリさんが……。
 頼めない。迷惑を掛けるわけにはいかないし、奏が出かけている間、動けない佐々倉を一人にするわけにいかなかった。
「教えてください。そこにイスカ領域があるというのなら、見ても起きたいんです。契約が出来なくても、何かのヒントになるかも」
「構わないが、そこでお前が死んでも、私はササクラを見捨てて帰るが、それでもいいのか?」
「構いません。どうせ運命共同体です。何もしないまま死んでしまうよりましです」
「ふうむ」
 クユスリは腕を組んで考え込んだ。
 何を考えているのか。
 気難しい顔をして唸っている。
「分かった。教えよう」
「本当ですか? どこですか? 入り口までは案内してもらえますか?」
「必要ない」
 クユスリは顔を起こす。
 組んでいて腕を解き、腕を持ち上げ指を差す。
 奏の背後。
「眷族が居るのはこの洞窟。この先に居る」
 奏は振り返った。
 暗闇に落ちていくような穴が見える。
 あそこに?
「この先は迷路のように道が入り組んでいるらしい。噂ではかなり広大。現在では出てこれないなどと言うことはなくなったらしいが、行方不明者も何人か出ている。それでも眷属と会える保証もないし、会えたとしても契約できる保証もないし、噂では大した眷属ではないらしい。それでもいくのか?」
 行くしかない。
 しかし、中が入り組んだ洞窟に入り込んでいく?
 何の準備もなく?
「まあ、装備は大丈夫だ。食料と水は持っていけ。おそらく最短でも数日掛かるだろう。何人もの人間が挑戦している洞窟だから、中に入れば目印があるし、挑戦者が次の挑戦者のために置いていった装備もあるだろう。松明や地図、道しるべに使用する道具は残っているはず。迷って出れなくなることはまずない」
 奏は洞窟の暗闇を見つめ、固唾を呑んだ。
 ここに入っていく?
 一人で?
 出来るのかそんなこと。
 ぞくぞくとつま先から恐怖の電気刺激。
「普通は案内役を雇う。だが、いまから案内役を連れてくるには何ヶ月も掛かる。一人で行くしかないな」
 勇気。
 そんなもの、奏には初めから備わっていない。
 ただの無謀行為だ。
「行きます。今すぐに」
「やっぱり行くか。行くんだろうな、お前の性格なら」
「性格?」
「お前、不憫な性格をしてるよ。人のためにリスクを犯すなんて、早死にするぞ」
「クユスリさんだって、危険を犯して俺を助けてくれたじゃないですか」
 そういうと、クユスリは目を丸くした。
「それは……命の恩人だからだ」
 気に入らなそうに、クユスリがそっぽを向いた。
「行ってきます。もし戻ってこなかったら……」
「安心しろ。私はそれほど情に厚くない」
「安心しました」
 その奏の回答も気に入らなかったようだ。
 奏は数日分の食料を用意し、すぐさま洞窟に向かう準備を整えた。
 洞窟内を探索するための道具は入り口付近にあるという。
 ならば、後用意するものは決意だけだ。
「よし」
 いざ、洞窟の暗闇の前に立ちはだかったとき、クユスリが「持っていけ」とあるものを手渡した。
 ずしりと重い、刃渡り三十センチはありそうなナイフだった。
「私のお気に入りだ。持っていけ」
「ありがとうございます」
「それとな……」
 クユスリはなんとなく怒っているような様子で言った。
「危険だと思ったらすぐに戻ってこい。あまり思いつめるな。何が起ころうと、お前の責任なんかじゃないんだからな」
 優しい。
 このクユスリも優しい人間だ。
 優しい人間は自分のそばに居てはならない。
 戻ってきたら、お別れだ。
「行ってきます」
 クユスリは後ろ手に手を振った。
 奏はクユスリが起こしてくれた松明を片手に、洞窟の暗闇に向かって歩き出した。
 
 
 
 松明に照らされるのは、人の肩幅ほどしかない通路の岩の側面。
 奏の身長でも腰を屈めないと、天井に頭を擦る。
 だいぶ歩いた気がするが、どれほど進んだのか。
 空気はどうなっているのだろう。
 こんな閉塞的な空間。
 空気どころか、岩崩れなど起こしてきた道が閉ざされたら、奏は一生この洞窟で暮らさなければならない。
 自分の息遣い。
 ここには誰も居ない。
 クユスリが言うには、この洞窟は何人もの挑戦者が挑んだというが、人の通った形跡などまるでない。
 松明がなくなったら、ここは真の闇の世界になる。
 心臓が鐘を打っているのが分かる。
 目の前の暗闇は、決して安全ではないともう一人の奏でが注意を訴える。
 通路はさらに狭くなる。
 身体を傾けなければ進めない。
 後ろを振り返る。
 いま自分が通ってきた道は、すぐさま暗闇が侵食し、帰り道を埋めてしまっているようだった。
 すでに精神が逃げている。
 頭の中に確かに存在する「戻る」という選択肢。
 その選択肢を消しゴムで消して、強い気持ちを持って通路を突き進む。
 このまま通路は縮小していき、最後には奈落へ続くのではないかと危惧した頃、ようやく空間が開けた。
 通路が終わり、岩の裂け目のような場所から這い出ると、少なくとも両手両足を伸ばしても有り余る空間に出た。
 松明を頭上に掲げてみる。
 周囲は暗闇に包まれ、向こう側の壁は見えない。
 奏は壁伝いに周囲を探索する。
 気の利いたBGMも、動植物の声もしない。
 生物を拒む世界の片隅。
 それは忘れられた大地と一緒。
 なんて寂しい。
 暗くて孤独。
 水の音がした。
 水が落ちる音だ。
 肌にまとわりつくような暗闇の中、それは風鈴の音のように奏を癒し、こちらへおいでといざなわれた。
 岩の地面が濡れている。
 湧き水だろうか。
 壁伝いに進んでいくと、小さな池のようなものがあった。
 小金持ちの庭園にある池のようだ。
 岩から清水が湧き出し、小さな滝のように池に流れ込んでいる。
 池は全長三メートルほど。
 落ち窪んだ岩に水が溜まり、その周囲には袋が落ちていた。
 人工的な袋を見て、奏はようやく人の痕跡が感じられ、安堵を覚えた。
 袋を開いてみる。
 中には沢山の紙切れと、ランプが見えた。
 紙切れにはいろいろな文字が書かれていたが、異世界の文字。読めなかった。
 だが、おそらく洞窟内を描いた地図のようなものがあった。
 奏はそれをポケットに詰め込む。
 ランプを手に取る。
 燃料はなんだろう。
 袋をまさぐると、固形燃料と一緒に、用途の分からない道具を見つけた。
 紙のような素材で出来た、重ねられた束。
 現世での札束のような形。
 セットにくくりつけられるコンパスのような円形の道具。
 円形の道具の中には針が回転している。
 印象どおり、コンパスなのだろうか。
 紙の束は、長年の湿気にさらされ端のほうが茶色く変色している。
 一枚抜き取ってみる。
 変哲のない紙。
 だが、紙のような手触りではない。
 強いて言えば、プラスティック。
 紙の裏側には、シールのような粘着剤が塗りつけられている。
 メモ用紙だろうか。
 そう思っていると、紙幣ほどの紙がなにやら光りだした。
 緑色の光。
 強い光ではない。
 仄か、と形容できるくらいの淡い光。
 それ以外の異変はない。
「なるほど……」
 これは目印だ。
 暗闇の洞窟で迷わないための目印。
 道のりに貼り付けていけば、帰りに迷わない。
 これは良い物を置いていってくれたものだ。
 奏は過去の挑戦者に感謝する。
 少しだけ心強くなった。
「他には……」
 空の水筒。
 布切れ。
 錆びたナイフ。
 ロープ。
 松明の火種に布切れを取り、ロープも念のため担いだ。
 袋に入っていたものは以上だ。
 奏は周囲を探ってみる。
 壁に数本の松明が立てかけてある。
 今持っているものより高性能だ。
 立てかけられていた松明に火を移す。
 先ほどより明るい炎が周囲を照らす。
 挑戦者が置いていったのは、道具ばかりではなくゴミも多い。
 周囲に落ちているもののほとんどは、壊れた道具や打ち捨てられた食糧の残骸。
 奏は探索を諦めて、湧き水で喉を潤すと、座り込んで地図を眺めた。
 紙切れの端に、小さな円が書かれていて、赤い色に塗り潰されている。
 入り組んだ網目のような迷路に、いくつかの枠。
 いま奏の居る場所が、この赤丸だとすればなんて広大な洞窟だろうか。
 このいくつかの枠は、階層を示しているのだろうか。
 赤丸の対称にある端には、矢印が外枠に向けて描かれており、ここに書かれた地図以外の奥行きがあることを示している。
 この洞窟は一体何なのか。
 地図から得られる目測では、全長十キロメートル以上はある。しかも、地図に書かれただけの範囲で、まだまだ奥行きがあるという。
 クユスリが、数日掛かると言っていた意味が分かる。
 リスクとは、この大きさだ。
 慎重に進まなければ、帰ってこれないと言うことだ。
 数日持ちこたえる食料はあるものの、迷ったら最後。餓死するしかない。
 こんな寂しいところで死にたくはない。
 進むのが怖い。
 洞窟を探索する経験も、満足な装備もない。
 現世であればこんな探索、非難を浴びて止められる。
 法治国家よろしく警察がやってきて、親の心配も考えろと窘められる。
 ここには叱ってくれる大人も、危険を回避してくれる警察も、助けてくれる救助隊も居ない。
 迷ったら最後。
 ここで人生の終わりを迎える。


 決意するまでに時間が掛かった。
 立ち上がって歩き出すと、精神状態を反映したかのような重い足取り。
 奏は出発地点の地面に発光シールを貼り付ける。
 しばらく進むと、背後を振り返り、光っているシールを確かめる。
 発光シールはおそらく二百枚程度。使いすぎは注意だ。
 地図によれば、このスタート地点のホールは全長が百メートルほど。
 隆起した岩の地面に気を付けながら歩くと、壁に突き当たった。
 次に壁伝いに歩くと、壁に黒い穴がぽっかり空いている場所があった。
 この洞窟の、本当の入り口だ。
 なんども深呼吸をする。
 身体に充分に酸素を取り込んでから、深海に潜っていくような心境で入り口に足を踏み入れた。
 地面は平坦とは言いがたいが、進むのが困難なほどではない。
 歩きながら地図の精度を確かめる。
 三十分ほど歩いて、ひとつ目の分かれ道に差し掛かった。
 道は三つ又に別れており、確かに地図の示すとおり。
 奏は柱のように立ちそびえる岩に発光シールを貼り付けた。
 ふと気づく。
 奏が貼り付けた発光シールのすぐ傍に、別のシールが張られている。
 どす黒く変色し、すでに光は放ってないが、過去に人がここを取ったことを指し示している。
 それはどれくらい前のことなのだろう。
 数年は経過している気がした。
 一番右の通路を進む。
 奏はコンパスのようなものを取り出す。
 中の針は静止しており、ある一点を指している。
 それは奏のいま来た道だ。
 まさか、このコンパスは自分の通ってきた道を指し示すものなのだろうか。
 もしそうだとしても、理論的にそんなものが作れるのか。
 科学の進んだ現世でもそんなものは作れない。
 だが、通力の高度な隔世では、こういった魔法を帯びた道具も作れるのかもしれない。
 奏はコンパスをしまい、再び歩き出す。
 地図に沿って、目的地を目指す。
 明確な目的地はないし、地図にも指し示されては居ない。
 だが、地図には道しるべがある。
 向かう方向は示されており、地図の端にある点線の矢印の先に目的地はあるはずだ。
 進む。
 松明はどれほど持つか。
 おそらく、一日程度だろう。
 松明に使う燃料は充実していない。松明ほどの明るさはないが、あとはランプに頼るしかない。
 分かれ道に差し掛かるたびに発光シールを貼り付ける。
 思ったほど困難な道のりではないが、平坦ではないため進むのは時間が赤かる。
 初日は三キロメートルほどしか進まなかった。
 奏は洞窟内に出来ていた袋小路のような場所でキャンプすることにした。
 食事を取ろうと、バッグから食料を取り出す。
 噛りつきながら考える。
 本当にこんな洞窟に眷属という種族が住んでいるのだろうか。
 大分奥にやってきた。
 深層部に入り込めば、入り込むほど世界と隔離されていく気がする。
 自分の存在感すら希薄に感じられ、まるで死の直前のように過去の記憶が蘇っていく。
 厳格な父。
 氷のように冷たい兄。
 母のような愛情を向けてくれる姉。
 情の薄い弟。
 今ごろ何をやっているのだろう。
 まさか、自分がこんな洞窟の奥で小さくなって暗闇に怯えているなどとは微塵も思っていないだろう。
 伊集院照子は分かっていただろうか。
 頭の良い偉人だ。
 偉人だが、どうして佐々倉を一緒に寄こしたのだろうか。
 ただの気まぐれか。
 記憶。
 追憶。
 子供の頃の記憶。
 回想し、さかのぼっていく。
 記憶の綱をたどり、過去へ過去へ。
「あれ……」
 奏はふと、記憶の逆行の途中で静止した。
 壁?
 年の頃でいうと十歳程度か。
 それ以前の記憶を呼び覚まそうとすると、なにかの障害物に阻まれたように、それ以上先に進めない。
 その以前は、一体何をしていたが。
 家族との記憶は?
 奏はぞっとした。
 記憶がない?
 ――記憶喪失の原因はいずれ知ることになる。
 誰かの声がした気がした。
 ルウディの声。
 奏は顔を起こして周囲を見渡す。
 明かりは消しているため、何も見えない。
 誰かが居るわけがない。
 幻聴か。
 そういえば、ルウディが言っていた。
 記憶喪失を装っていたとき、その理由はいずれ知るところになると。
 奏が幼少期の記憶を思い出せないことをルウディは知っていたのだろうか。
 その失われている記憶に一体何があったのか。
 十歳と言えば、奏が自然管理委員会のスクールに通い始めた頃だ。
 歴史的な劣等性。
 通力も持たず、やる気もなかった。
 術師になる道は諦めていたし、技術開発系の道を歩みたいと、術師の訓練よりは技術開発の勉強にいそしんだ。
 ある日、見えたのだ。
 御札から立ち上るオーラのようなもの。
 オーラのようなものが、御札に描かれた紋様に作用し、瘴気に反応して炸裂する仕組みを知った奏は、紋様を書き換えて人間に作用する御札を作り出した。
 ふと気づく。
 御札から漏れ出してくるオーラを見ることができるのは奏だけであると。
 他の人間には見ることの出来ないオーラ。
 それは瘴気に対しても同様。
 奏には現世に現れた人外は仄かに光って見える。
 しかしそれを見ることができるのは奏だけ。
 奏は通力も持たないし、瘴気や情気を察知する感覚もない。
 ただ目に見えるだけ。
 だからこそ、イスカ領域を目に見ることも出来る。
 伊集院照子にも共通する不思議な力。
 そんな能力、何のために必要だったのか。
 意味があるというのか。
 奏の能力を持ってしか、伊集院照子を御札化より復元できなかった。
 情気を目で見る能力者にしか、伊集院照子の御札に仕組まれた暗号を読み解くことが出来なかったからだ。
 なぜ自分が?
 理由がある?
 伊集院照子が言った。
 お前には私に従う義務があり、私にはお前に対して責任がある。
 一体どんな意味があるのだろう。
 伊集院照子と一緒に封印されていた、あの緑眼の男は一体何者なのか。
 それに。
 現世にやってきたあの銀髪の人外はなぜ「緑眼」だったのか。
 父や兄に見られる緑眼。
 鳴音家の血統でしか生まれない緑眼。
 緑眼の人間は間違いなく高い通力を持つ。
 共通点があるのか。


 考えにふけるうちに、奏は眠り入っていた。
 目を覚ましたとき、自分は一体どれほど眠っていたのか、いまは昼なのか夜なのか、まったく分からなかった。
 時間の感覚がない。
 奏はぞっとする。
 自分が数日だと思っていても、外の世界ではもっと時間が過ぎているかもしれない。
 佐々倉の命も危ない。
 急がなくては。
 奏はクユスリよりもらった着火剤で松明に火をつける。
 暗闇の世界から久しぶりに輪郭を明確にする周囲。
 一瞬、恐怖を感じた。
 暗闇がすべての悪意から奏を守っている気がしていた。
 見えないことが、奏の存在を消し、危機から守ってくれていると感じていた。
 明かりを灯す瞬間、その包み込むような暗闇の保護を解かれたような感覚が恐怖となって、奏を一瞬怯えさせた。
 気をしっかり持たなくては。
 暗闇に取り込まれるとは、このことだ。
 暗闇に長く居てはいけない。
 奏は地図を確認する。
 目標を決める。
 ここまでいく。
 距離にして五キロ先。
 目標を定めて歩き出した。
 地図には見える限り、五つの枠がある。
 そのひとつめの枠の終着点まで来た。
 五メートル四方程度の開けた空間があって、中間付近の地面に穴が開いている。
 松明を照らしてみるとロープが掛かっており、急な坂のように穴が奥の方まで続いている。
 ここで階層を下るのだろう。
 階層は上か下か、歩きながら危惧していたが、どうやら下るらしい。
 地上に近くなるのと、深くなるのではまるで印象が違う。
 より一層、現実から離れていくような感覚。
 奏はロープを確かめた。
 皮製のロープは丈夫に出来ている。
 腐食も見られない。
 大丈夫。
 だと思う。
 自信はない。
 穴は直角ではなく、滑り台のように傾斜がある。
 滑り落ちないためのロープだ。
 持っていた松明を穴に投げ入れる。
 松明は音を立てて、穴の奥深くまで落ちていく。
 どこまで落ちていったかは分からない。
 変わりにランプに火をつけて、取っ手を口に咥える。
 ランプを口に咥えながら、奏は慎重に、穴へと身体を滑り込ませていく。
 ロープを掴みながら、じりじりと穴を下る。
 しばらく下ると、途中に松明が引っかかっていた。
 それを持ち上げると、穴の先に放り投げる。
 転げ落ちていく松明。
 再び穴を下る。
 深く深く。
 どれほど奥に続いているのか。
 ロープの長さは充分なのだろうか。
 ずいぶん下った気がするが、まだ穴は続いている。
 次に松明が見えたとき、ようやく終着点にたどり着いた。
 松明を拾い上げると、そこは狭い空間。
 伝ってきたロープが地面に巻かれておかれている。
 下ってきた分だけ、空気が重くなった印象。
 風もなく、音もなく、暗闇が支配し続ける空間。
 奏は明らかにこの世界では異物だろう。
 居てはならない気がして、焦燥感に煽られるまま歩みを進める。
 地図を確かめる。
 ここを下ると、次の枠になる。
 次の枠は比較的小さい。
 次のエリアに進むまでにそう時間は掛からないだろう。
 代わり映えのない、狭い洞窟を進む。
 空間は相変わらず閉塞的だ。
 少し身体の伸ばせる広い空間が欲しかった。
 前方から湿り気のある空気が流れてきた。
 水場があるらしい。
 地図には記載されていないが、ここは地価奥深い。
 地下水脈も多いはず。
 映画で見るような水のたまり場を潜水して渡るような場所がなければいいなと思いながら進む。
 足元に水溜りが多くなる。
 壁も水に濡れているようだ。
 松明の光源が、濡れた壁や足元に反射し、奇妙な閃きを発している。
 宝石が埋め込まれているかのような光景に、しばし感嘆とする。
 進んでいくにつれ、水溜りが深くなる。
 膝まで水かさが深くなり、歩くのに負担になる。
 このまま深くなり続け、泳ぐハメにならないだろうか。
 心配をよそに、水かさは徐々に浅くなる。
 最後には完全になくなった。
 心配は杞憂に終わったようだ。
 その後、水気はなくなり、乾いた洞窟が続く。
 分かれ道はなかったが、道はうねりくねっている。
 這わなければ通れない道があったり、落差の激しい場所もあり、崖のような場所をよじ登らなければならない場所もあった。
 思うように進めず、疲労で歩けなくなった頃、キャンプを張る事に決めた。
 時間の感覚はない。
 何日経ったのかも分からない。
 ランプの火を消し、地面に横になる。
 少し冷えてきただろうか。
 肌寒さを感じながら身体を丸める。
 食料はまだあるか。
 水に濡れて、痛んではいないか。
 怪我はしていないか。
 小さな傷から菌が入り込んで動けなくなるかもしれない。
 燃料は。
 松明はここまでだろう。
 もう、巻きつける布もない。
 ランプだけ。
 燃料は足りるだろうか。
 明かりがなくなって、真の暗闇の世界に陥ったとき、おそらくもう地上には戻れない。
 発光シートは道のりに貼り付けてきたが、果たしてどれほどの時間、発光しているのか分からない。
 心配事が奏の胃をきりきりと痛めつける。
 仲間がいればよかった。
 孤独だ。
 口も開いていない。
 せめて誰かと会話できれば。
 寂しさに押しつぶされそうだ。
 光が欲しい。
 ランプに火を付ければ、帰りの燃料が足りなくなる。
 暗闇に堪えるしかない。
 身体は疲れ切っているのに、眠りが訪れない。
 頭は悪い想像ばかりを繰り返し、眠りを妨害し続ける。
 ――君はユーナを救えない。
 まただ。
 ルウディの声が聞こえる。
 もういい。
 もう諦めたんだ。
 ユーナが助けを求めているとも限らない。
 それより、この世界からの一刻も早い脱出が重要だ。
 隔世は自分のやってきていい世界ではないと、痛いほど思い知らされた。
 自分が何かをなそうと思えば、沢山の人々が傷ついてしまう。
 居ないほうがいい。
 ――ちりる?
 声がした。
 今度はルウディの声ではない。
 ――るいさ?
 何かを問い掛けられているような声。
 るいさ?
 ――ちりる?
 ――るいさ?
 幻聴――ではない?
 奏は目を開く。
 目を瞑っていたときと同じ暗闇の世界。
 耳を澄ます。
 ――ちりる?
 ちりる? どういう意味だ。
 誰かいるのか。
 水のはねる音。
 ひた、ひた、ひた。
 暗闇の向こう側。
 何かの気配がする。
 生物?
 こんなところに?
 ひょっとして、眷属か……。
 ――るいさ?
 まるで幼い子供のような声。
 場違いな声に、奏は背筋を凍らせる。
 ひた、ひた、ひた。
 水のはねる音。
 歩いている。
 何者かが、この暗闇の世界を徘徊している。
 ――ちりる?
 これは言葉ではない。
 言葉のように聞こえるだけだ。
 暗闇の向こう側にいる何者かの鳴き声だ。
 眷属なのだろうか。
 しかし、そうでなかったら?
 奏は息を潜める。
 ひた、ひた……。
 足音は遠のいていく。
 やがて、声も聞こえなくなった。
 奏は動けなかった。
 暗闇に神経を張り巡らせるように、気配を探り続ける。
 そのまま何時間も。
 疲れ切った身体を休めることもなく。
 
 
 眠らなくては。
 そう思えば思うほど眠りは訪れない。
 仕方なく、眠る事を諦め先に進む事を決めた。
 先ほどの何者かの気配が消えてから数時間がたつ。
 再び現れる様子もなかったので、奏は先を進み始めた。
 身体が重い。
 疲労がまず奏の関節を痛めつける。
 節々に痛みを感じながら、ランプの明かりを頼りに進む。
 先ほどの現れた何者か。周囲の気配に気を張りながら進むことは、ひどく神経をすり減らす作業となった。
 まるでミイラのように干からびた身体に鞭打つような行進だった。
 たとえ眠れなくとも休むだけでも出来る。
 だが、悠長に休んでなどいられない。
 少しでも進む。
 あと一時間だけ歩いたら休む。
 そんな事を繰り返しながら数時間歩くと、地図上で二つめの枠の終着点にたどり着いた。
 ――穴だ。
 相変わらず閉塞的な狭い通路の行き止まりに穴が開いている。
 穴の奥は見えないが、傾斜は緩いらしい。
 階段状に岩の隆起が見える。
 だからロープも掛かっていない。
 奏は逡巡した。
 ここでいったん休むべきか。
 いまの疲労しきった身体で、険しい道を下るのは自殺行為だ。
 ここで休憩。
 しかし、足を伸ばせるような空間はないし、寝床にふさわしい平坦な場所もない。
 これでは疲労が抜けない。
 身体に鞭打って穴を下って、その先に休憩場所を見つけよう。
 奏は決意して、穴に身体を滑り込ませた。
 ピラミッドの側面を下っているようだ。
 巨人の下り階段のような岩の隆起を下っていく。
 人の通った気配など感じられなかったが、過去には幾人かの人間が実際にここを下っている。
 未知の世界ではない。
 そう思うことで気持ちを鼓舞する。
 どこまで続くのか。
 二時間ほどたって、当方に暮れる。
 この階段状の岩肌の途中で休憩を取ることは出来そうにない。
 いまだって油断すれば転げ落ちそうになる。
 身体は徐々に言う事を聞かなくなる。
 めげる暇があったら、身体の自由が利かなくなる前に、一刻も早く下りきる必要がある。
 下る。下る。
 地上との距離はどれくらいなのだろう。
 奥へ奥へ。
 暗闇のさらに奥。
 来た道を再び通って帰らなければならないことを考えると、進むことがとてもためらわれる。
 進めば進むほど、帰り道も遠く霞んでいく。
 ――ちりる?
 奏はぞっとして足を止めた。
 声だ。
 どこから聞こえたのだろうか。
 上? 下?
 ――るいさ?
 確実に聞こえる。
 奏は慌ててランプの明かりを消す。
 隠れる場所。
 そんなものはない。
 直立することも出来ない低い天井。
 両手を伸ばせば両側の壁に届くほど狭い。
 加えて不安定な足場。
 声と逆の方向に逃げたいが、上からなのか下からなのかまったく分からない。
 ――ちりる?
 問いかけるような声は、奏でに決断を迫っているかのようだ。
 降りる? 登る?
 ――るいさ?
 声が近くなっている。
 心臓が破裂しそうに踊っている。
 確実に近づいている。
 上なのか下なのか。
 なぜ判別できない?
 この複雑に隆起した岩肌が音の反響を混乱させているのか。
 賭けるしかないのか。
 上か下か。
 よく考えろ。
 ――ちりる?
 幼い子供のような声。
 もしかしたら愛らしい小動物のようなものではないか。
 ならば、大声を上げるなどして威嚇すれば、相手が逃げ出してくれるかもしれない。
 だが、そうでなかったら?
 ――るいさ?
 声は確実に近づく。
 考えろ。
 前に声を聞いたときは、上の階層に居たときだ。
 なら、あの声の主は上からやってきている可能性が高い。
 声の主が複数でなく、たった一つの生物であった場合に限られるが。
 降りるしかない。
 今から登る体力は残っていない。
 しかし、明かりを点けられない。
 明かりをつけたら居場所がばれる。
 暗闇の中、手探りで進む?
 この危険な階段を?
 ――ちりる?
 声が間近に迫った。
 迷っている暇はない。
 鉢合ったらそのときだ。
 奏は手探りであたりを確認しながら、岩を下り始めた。
 なんども足を滑らせて冷やりとさせられる。
 ――るいさ?
 一定感覚で間を空けて聞こえてくる二種類の声。
 凶暴な生物か、温厚な生物か。
 期待してはならない。
 いずれにしても奏の味方であるとは考えられない以上、鉢合わないほうがいい。
 ――ちりる?
 声は遠ざからないが、近づかない。
 どうやら選択は正しかったようだ。
 見えない相手が一定の距離でついてくる。
 気持ちが焦る。
 一刻も早く下りたい。
 だが、そう思う一方では、焦ったら危険だと分かっている。
 明かりもない危険な天然の階段。
 転げ落ちたら止まらない。
 だが、落ち着いて居たら追いつかれる。
 もうひとつの賭けだ。
 転げ落ちて大怪我をするかもしれない。
 そうだとしてもゆっくり下っていたら追いつかれる。
 奏は暗闇の中、想像を絶する死闘を経験する。
 道は見えない。
 黒一色の視界の中、ただイメージだけを頼りにし、天然の階段を下る。
 足を踏み外しそうになった回数は数知れない。
 そのたびに寿命を縮める思いだった。
 研ぎ澄まされる神経。
 背後に迫る謎の生物。
 先に続く険しい天然の階段。
 音の反響。
 五感を総動員して進む。
 ところが。
 賭けは裏目に出た。
 足を踏み出したとき、そこに期待した地面がないことはすぐに分かった。
 何度も経験したが、今まではその先に掴まるような取っ掛かりがあったし、思いのほか地面と足との距離があっただけに留まっていたが、今度は違った。
 足が宙を蹴る。
 周囲に手を伸ばしたが、掴まる場所がなかった。
 身体が一瞬、地球上のどこにも触れていない状態になった。
 空中で手足をばたつかせてもがく。
 ――駄目か!
 一瞬後、硬い岩に全身が叩きつけられるイメージが奏を支配した。
 落ちていく感覚。
 前方から風。
 終わりか。
 賭けに負けた。
 奏は目を瞑った。


 がっ!
 と耳に劈く音。
 一瞬だった。
 次には全身に衝撃。
 ばちん、と全身を叩かれたようだった。
 すべての世界がスローモーションに変わる。
 ぼうぼうと耳元で奇妙な音が響き、身体の周囲にはまとわり付くように何かが絡まった。
 意識が失われていない。
 何が起こったのか。
 ――これは――
 水の中だ。
 奏は気づいて、必死にもがいた。
 水に落ちたのだ。
 落ちた瞬間、本能が息を止めていた。
 水は飲んでいない。
 上下左右の感覚を失った水の中で、どちらが水面かも分からないままもがく。
 一瞬、もがく指先が水面に触れた感覚。
 息が続かない。
 奏は死に物狂いで手足を動かし、水面に這い出た。
 空気だ。
 奏は何度も咽ながら、空気をもさぼり食う。
 ぜえぜえと息をつくうち、どうやら助かったらしいと気づく。
 暗闇の中、周囲はまったく見えない。
 岸がどこにあるのかも分からず、必死に泳ぐ。
 やがて足が地面に付く。
 ほっとした。
 暗闇の世界も恐ろしいが、足が付かない水の上というのも恐ろしいものだった。
 推進は徐々に浅くなり、やがて岸にたどり着く。
 その場に踞り、何度も深く息をつく。
 ようやく落ち着いてくると、奏は背負っていたバッグを失っていることに気づいた。
 ぞっとした。
 愕然として、奏は数秒間硬直した。
 食料、その他にも道具の詰め込んであったバッグを失った。
 残ったのは腰にかけているクユスリからもらったナイフ。ポケットにはコンパスが残っていたが、この暗闇では見る事が出来ない。
 何てことだろう。
 地図も失った。
 発光シールも失った。
 ランプも失った。
 加えて、この場所がどこなのかまったく分からない。
 辿ってきた道を戻るにしても、かなり落下してきたため、元の道を見つけるのは至難の業だ。
 水の上に落ちて助かった。幸運にも思える偶然は、ひょっとしたら不幸な偶然だったのかもしれない。
 死んでしまえば、この先の絶望を味あわなくて済む。
 どうする。
 明かりがなければ、荷物を探す術もない。
 光の皆無なこの世界で、手探りで進んだとしても体力がいつまで持つか。
 こんなことなら天然の階段を下る前に休憩を取り、食事を摂っておくんだった。
 奏は無気力になって、その場に仰向けになった。
 水場の大きさからすると、かなり大きな空間らしい。
 水の落ちる音の反響を考えると、天井もかなり高い。
 しかし、見えなければ空間など空虚なもの。
 あってもなくても同じ。
 同意義で、奏の存在も非常に希薄で無意味。
 ここが死に場所か。
 諦めると、現金なもので眠気も訪れる。
 このまま眠ってしまえ。
 目を覚まさなくてもいい。
 もう疲れた。


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