あっちから変なの出てきた

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第四章 【 ウィンディア編 ルウディ 】


「やはり教えてはもらえないか」
「ええ。申し訳ありませんが」
 声が聞こえて目を覚ます。
 目を開いた瞬間、自分には何か目的があったと思い出し、その目的とはなんだったかと思考をめぐらす。
「今、プエラが捕らえられ牢に入れられている。住人はもはやプエラが犯人と信じて疑ってはいない。いや、というよりはそれ以外の事実から目を背けているというべきか」
「おっしゃってることは分かります」
 ルウディと誰かが話をしている。
 知っている声。
 旅長と言われていた、あの白髪の老婆だ。
 奏は目を覚ましても動かないで居た。
 いまクローゼットの中に居る。
 動けば潜んでいることが知られてしまう。
「この旅団の旅長の私でさえ、すでに旅団をコントロールできなくなっておる。いま、住人たちが耳を傾けるとしたらあんたの声しかない。どうか、真犯人を教えてもらいたかったが……」
「お世話になっている身で恐縮ですが、答えをお教えすることは出来ません」
「分かっている。分かっていたのだが……。彼女が居なくては、子供たちが路頭に迷うと思ってな」
 子供たち。
 そうだ。
 プエラはまだ牢に入れられている。
 そして、今夜、帝国旅団と言われる集団が現れ、プエラが引き渡される。
「このウィンディアでは、どうも子供たちを快く思ってない人間が多かった。一番の問題は食料。働くことも出来ず、理性も持たない子供たちは空気を読むこともしない。わがままに騒ぎ立て穀を潰す。生産性もない子供たちをこれ以上飼うつもりなら、プエラもろとも追放するという話は集会で何度も持ち出されていた。加えて今回の事件。プエラは都合よく抹消されようとしている」
 ルウディは答えない。
 奏からはクローゼットの扉が隔たれており、部屋の様子は分からないが、ルウディが浮かべている表情は容易に想像できた。
「昨日やってきた男が居たな。あの男が現れたのもタイミングが良すぎる。事件があった日に、こんな僻地に来訪する人間など皆無。しかもプエラが連れてきた。何らかの共謀関係があり、事件が起きたのではないかと、住民は訝しみ、余計にプエラの立場を悪化させている。その男も昨晩のうちに逃亡してしまったし、もうプエラの無実を実証するものはない」
「旅長さんはプエラが無実だとお思いで?」
「別に犯人が居るのなら、その人間が牢に入れられるべき。そう思っている」
「なるほど、頭に血が上ってる住民たちとは違って冷静ですね」
「年の功さ」
 俺のせい?
 奏は動悸がした。
 プエラが奏を集落に招いたせいで、余計にプエラに疑惑がかけられる結果になった?
「帝国の人間を快く思っていない住民は多い。むしろ住民は皆、帝国旅団を恐れている。彼らは私どもに知恵を与えてくれるが、与えられた甘い蜜を失ったときを恐れている」
 その言葉の後、長い沈黙があった。
 奏はじっと動かないでいた。
 隔世の世界。
 なんて所に来たんだろう。
 初めて思い知る。
 現世での価値観で行動すれば、ひずみが生まれ、悲劇を生んでしまう。
 自分の無力さ。
 もっと知性が欲しい。
 もっと力が欲しい。
「お邪魔したね。そろそろおいとまするよ」
「お邪魔だなんてとんでもない。私ははぐらかすようなことばかり言ってしまいますが、会話は大好きなんですよ。お答えできる限りご協力します。またいつでもいらしてください」
 旅長が出て行った気配。
 すぐにルウディが声を上げる。
「出てきても大丈夫だよ。部屋には僕だけだ」
 奏が起きていたことに気づいていたらしい。
 クローゼットの扉を開くと、部屋は朝日を浴びて夢のように明るかった。
 窓からの陽射しを浴びて、静かに立つルウディ。
「浮かない顔だね。でも、そろそろ分かってきただろう。大きな流れはプエラに対して負を示している。プエラは捕らえられ、帝国に引き渡される。皆がそれを望み、そうなることで救われる人が居る。その流れを君に変えることが出来るのかい? そして、それが正しいことなのかい?」
 ルウディは残酷だ。
 楽しんでいる。
 こうやって人を観察し、心を揺れ動かす奏を楽しんでいる。
 奏は何も答えず、窓際に立った。
 早朝だ。
 窓の外には昨夜の焚き火跡の傍を通る旅長以外、人影はない。
 おそらく、人目を避けた時間にルウディの元を来訪したのだろう。
 奏は振り返り、ルウディを見る。
「プエラは助ける。絶対に。でも、どうやって? 正直、俺はどうしていいか分からない。ルウディに教えてもらおうとも思わないけど、こんなに頭が混乱してるのは生まれて初めてだよ」
「自分が混乱していると自覚できるだけ、ここの住人より冷静な証拠だろう。僕は何も指し示すことは出来ないけど、君は君の思ったとおり行動するといい。そうすれば、より良い未来には行けないが、あるべき未来には辿り着ける」
 奏は静かに決心する。
 プエラの無実を晴らし、住民を説得する。
 それには真犯人を見つけることが重要だ。
「ルウディ。君はなぜ、俺をかくまってくれる? 君に得はないだろ」
「いや、得はあるさ。なにより僕は会話が好きなんだ。君が居ると退屈しない。それだけで充分に匿う理由になる」
 変わった人間だ。
 現世には決して居ない人間。
「これからどうするんだい?」
 ルウディに問われ、考える。
「まずは殺された死体を見たい。どこにあるか教えられるか、ルウディ」
「構わないよ。死体なら四番車にある。通常、住民たちの荷物を格納する馬車だ」
「死体を格納するところを見たのか?」
「何度言わせる。そんなこと、見なくても分かる」
 何でも知っている、か。
 聞き飽きたが、まだ信じることが出来ない。
 動くならいまだ。
 早朝、まだ誰もが寝静まっている間。
 奏は決意した。
 
 
 
 佐々倉想平は空腹に耐え切れず、日の開け切らぬ早朝に集落への進入を決意した。
 差し足忍び足で集落に入る。
 昨夜、相当遅くまで集会が開かれていた。
 皆夜更かしをしているので、目を覚ますのは遅いはずだ。
 見張りも居なかったので、集落に入ると難なく食料庫までたどり着くことが出来た。
 食料庫には木箱が積まれている。
 開いてみると、動物や魚の干し肉があった。
 木の実や果物らしきものもあったので手にとってかぶりつき、近くにあった麻袋のようなものに食料を詰め込んだ。
 しばらくは食いつなげる量を放り込むと、次に倉庫専用となっている馬車に向かった。
 事前リサーチは充分だ。
 あの倉庫に見張りは居ない。
 この周囲に物を盗むような輩は居ないだろうという油断だ。
 佐々倉想平は食料庫から程近い倉庫専用の馬車に乗り込んだ。
 鍵は掛かっていたものの、厳重ではない。
 戒具による戒力でこじ開ける。
 扉を開くと、倉庫内には窓はなく薄暗い。
 物音を立てないように荷物を漁りだす。
 使えそうなものはない。
 ほとんどが衣服や生活用品。
 武器や狩の道具になるようなものを探す。
 火を起こす燃料や、道具などあればベストだが、佐々倉想平の想像を裏切り、旅に必要な道具は見当たらなかった。
 失望しながらある箱を開いたとき。
 ちょうど人が入れるような棺おけのような箱。
 中には血だまりと一本の包丁。
 他には何もない。
「これは……」
 佐々倉想平はぞっとして周囲を見渡す。
 暗くて、倉庫の奥のほうは闇にまぎれている。
 危機感が全身を痺れさせる。
 倉庫の奥。
 暗闇におぼろげになっていく向こう側。
 −−何か居る。
 ぞくぞくと地面から沸き起こるような悪寒。
 ほぼ、無意識に近い状態で戒具を発動していた。
 −−みし。
 床がきしむ音。
 自分が発したのか、闇の向こうから聞こえたのか分からない。
 ーーがたっ。
 間違いなかった。
 何か居る。
 佐々倉想平は周囲の状況、出入り口までの距離、戒具の発動状況を同時に意識した。
 なんだ。
 何が居るんだ。
 三度ーー。
 がたん!
 音がしたと思うと、目の前に回転しながら高速で近づいてくる木箱。
 暗闇から突然飛んできた木箱を、両腕を交差させて防ぐ。
 腕に激痛。
 木箱が砕け散る。
 ーー何かが襲ってきた!?
 砕け散った木箱が地面に落ちる間もなく、佐々倉想平が交差させた腕の向こうに、恐ろしい速度で迫ってくる顔が見た。
 目をむいて、明らかに佐々倉想平を標的とした顔が間近まで近づいてくるまで一秒に満たない。
「うわあああ!」
 佐々倉想平は闇雲に戒力を発動した。
 迫ってくる顔に向かって同時に散発の戒具の矢を放つ。
 当たったかどうかも確認できないまま、佐々倉想平は尻餅をつく。
 佐々倉想平の上にのしかかってくる誰かーー。
 覚悟したが、誰ものしかかってこない。
 愕然としたまま、周囲の状況を確認する。
 佐々倉想平の足元に仰向けになって倒れる男の姿があった。
 当たったのか。
 さすが俺。
 闇雲でも正確に矢を男に射抜いたらしい。
 全身に冷たい汗を掻いているのに気づく。
 全速力で走ってきたかのように、荒く息をつきながら、仰向けになっている男の生死を確かめようと思った。
 だが、男がもぞもぞと蠢いたため、佐々倉想平は二の次を考えず踵を返していた。
 倉庫になっている馬車を飛び出すと、表には人影はない。
 そのまま疾風のごとく森へ向かって駆け出した。
「あっ!」
 声がした。
 佐々倉想平が上げた声ではない。
 見つかったーー!
 思ったが声を上げた本人は、良く知っている顔。
「佐々倉さん!」
 佐々倉想平は慌てて立ち止まると、ぞっとして周囲を見渡す。
 起き出して来るような住民は居ないし、倉庫から、先ほどの男が出てくる様子もない。
「馬鹿かお前は。大きな声を出すな」
 押し殺すように言うと、しゅんとして肩を落として「すみません」とあやまる奏がいた。
「何をしてるんですか、佐々倉さん」
「こっちのセリフだ。おまえ、捕らえられたんじゃなかったのか?」
「いや、それがいろいろ事情があって……」
 集落のど真ん中。
 よそ者同士、世間話をしている場合ではない。
「とりあえず、こっちに来い」
 佐々倉想平は奏の腕を引いて、目立たない茂みまで連れてきた。
「どうなってる? 解放されたのか?」
 改めて尋ねると、奏は「いえ」と言葉を詰まらす。
 言い辛そうな雰囲気に、大して興味もない佐々倉想平は「まあいい」とため息を漏らす。
「それより、情報は手に入れたのか? 手に入れたのなら、見つかる前に出発するぞ」
「情報は手に入れたんですが……」
 再び言い辛そうな雰囲気。
 後ろめたそうに奏は話し始めた。
 聞いた話によると、殺人の容疑をかけられた奏は、一時は牢に閉じ込められたものの、隣の牢にいた女と協力して脱出したらしい。
 ところが、佐々倉想平らが最初に目撃した人外であるプエラという女に容疑がかけられ、どうやら奏のせいでとても悪い立場になっているらしい。
 それをどうにか助けたいと言う。
「どこまで馬鹿なんだ……」
 佐々倉想平は呆れ果て、怒る気持ちにもなれない。
「お前、ひどい目に遭って分かっただろう。こっちの世界は現世より甘くないぞ。もう一度捕まれば命を落とす」
「分かってます」
 分かってるだと? 愚か者を絵に描いたような奴だ。
 しかし、思えは現世でもそうでなかったか。
 このクソガキの空気を読まない暴れっぷりで、とうとう佐々倉想平もこんなところまで巻き込まれてしまった。
 こいつの思考回路は危険だ。
 付き合っていたら、またとんでもないことに巻き込まれる。
「勝手にしろ」
 佐々倉想平は逃げるように奏を残して森に駆け込んだ。
 食料は手に入れた。
 情報はおいおい手に入れればよい。
 奏をおいて森を駆けているとき、ふと気づいた。
 そういえば、倉庫で襲われたとき。
「あの男、刺されて死んだんじゃなかったのか」
 本当は生きている?
 奏に伝えてやったほうが良かっただろうか。
 いや、もう知ったことか。
 先ほどの戒力の矢を食らって、今度こそ本当に死んだかもしれない。
 今戻ったら、本当に奏の暴風に巻き込まれる。
 ふと、佐々倉想平は何かに気づいたように立ち止まった。
 いま走ってきた道を振り返る。
 いま何か……。
 佐々倉想平のアンテナに何かが引っかかった。
 人の気配である。
 誰か居る。
 あの倉庫の男。
 追いかけてきたのか。
 ぞっとして茂みに隠れようとしたとき、背中に氷を押し付けられたかのような冷たい気配。
 佐々倉想平は動けなくなった。
「なかなか勘が鋭いじゃないか」
 声がした。
 真後ろからだ。
 どうやって?
 佐々倉想平は振り返ることが出来ない。
 この冷たい感覚は、紛れもなく殺気。
 後頭部に拳銃の銃口を押し付けられているような気分。
「悪いが、その荷物、置いていってもらおうか」
 女の声だ。
 だが、侮ったりしない。
 佐々倉想平はゆっくりと振り返る。
 簡単な鎧を身にまとっている。
 明らかに戦闘向きの格好。
 手にはナイフ。
 先端が佐々倉想平の鼻先で鈍く光っている。
「だ、誰だ」
「誰だろうと関係ない。その荷物、食料だな? 置いていってもらおう。心配するな。言うことを聞けば命までは取らない」
 くそ。
 俺が危険な目に遭ってまでも盗み出した食料。
 女はおかっぱのような髪を掻き揚げながら言った。
「おまえ、妙な気配がするな。この国の人間か?」
 異世界の人間だ。
 そんなこと、答えられるわけがない。
「あいつと同じような雰囲気だな。格好も妙だし。おまえ、ひょっとして奏とか言う子供の仲間か?」
「か、奏を知ってるのか?」
 やはり、馬車の住民か。
 ところが、女は「ち」と舌打ちすると、ナイフを下げた。
「奏の仲間か。お前、あいつが捕らわれてたのに、どうして助けに来なかった?」
 佐々倉想平はピンときた。
 先ほど、奏は牢に閉じ込められていたとき、隣の牢にいた女と協力して脱出したと言っていた。
 なるほど。
「助けようとしたが、その前に脱出してしまったんだ」
 女は答えない。
 再び女は舌打ちすると「ならば、今度はどうする?」と再び尋ねてくる。
「今度って、何のことだ」
「あいつ、集落に残っただろう。プエラとか言う女のために。次はどうやって協力するつもりだ」
 協力? まさか、そんな愚かなことをするつもりはない。
 だが、そう答えたら、いまは下ろされているナイフが再び持ち上がりそうだった。
 佐々倉想平は思考をフル稼働させて言葉をつむぎだす。
「殺された男の仲間が、今晩やってくるらしい」
「ほう」
 佐々倉想平は、ひそかに戒具を発動する。
「奏はそれまでに、プエラが犯人ではない証拠を探し出して住人を説得するらしい」
「お前はどうするんだ」
「実は俺は個別の調査で、あることを突き止めた」
 女の目つきが変わる。右手に持っているナイフがいつ佐々倉想平に刃を向けるのか。油断はならない。
「あの男は死んでいない。これは偽造殺人」
「へえ。どうしてお前がそんなことを知っている?」
「死体を調べにいったからさ」
 本当は盗みに入ったなどとは口が裂けても言わない。
「なるほど。なかなか有能だな。偽装殺人である証拠は?」
「証拠はない。この俺が目撃しただけだ。あの男が保管されてる棺おけに死体がなかった。それだけじゃない。あの男は、俺に見られたと分かるや、襲い掛かってきた」
 女は気難しい顔をして、考え込み始めた。
 チャンスはいまか。
 戒力の矢をぶちかまして逃亡するか。
 逡巡しているうちに、女は顔を起こし言った。
「どうやら作戦がありそうだな。その作戦、私にも聞かせてみろ」
「え? 作戦?」
「なんだ? ないのか?」
 女の顔が猜疑心にゆがんだ。
 持ったナイフが今にも佐々倉想平ののど元に突き刺さるような気配。
「もっ、もちろん! 作戦はあるさ」
「ぜひ聞かせてもらおうか」
「聞いてどうするんだ」
「どうするかは私が決める。いいから聞かせろ」
 もちろん、作戦などない。
 雨に打たれたかのように、だくだくと汗が流れる。
 相手は女だ。
 だが、この常人ではないと分かる殺気。
 そして、なにより佐々倉想平は体術についてはまったく自信がない。
「ば、場所を変えないか?」
「なぜだ」
「ここは目立つ。住民に見つからないような場所で話そう」
 女は返事をせず、探るように佐々倉想平をみる。
 この滝のように流れ落ちる汗に気づかれているだろうか。
「まあ、もっともだな。いい場所がある。ついて来い」
 そう言って、背中を向ける女。
 戒具は発動している。
 いつでも攻撃できる。
 だが、至近距離だ。
 戒力が思ったとおり通用するかどうか分からないし、躱されたら次の手立てがない。
 まず、相手を充分に油断させてからだ。
 佐々倉想平は戒具を発動したまま、だまって女の後を付いていった。
 
 
 
 奏は昨日まで自分が閉じ込められていた牢屋の傍まで来た。
 この集落には馬車が四台あり、そのうちの三番目、三番車に牢はあった。
 馬車の一角を牢として使用しているようで、本来の馬車の出入り口とは別に、牢に入るための裏口のようなものがあった。
 奏とクユスリが脱出したのはその扉であったが、現在は厳重に見張りが立てられているーーはずだった。
 居ない。
 誰も居ない。
 奏たちの脱獄を受けて、警備を厳重にしたのではなかったか。
 警備の交代の合間なのだろうか。
 訝しんでいると、奏は突然背後から声をかけられた。
 竦み上って振り返ると、そこには白髪の老婆が杖を片手に立っていた。
 早朝のもやの掛かった曖昧な時間。
 老婆は何も言わずに近づいてくる。
 他に誰も居ない。
 相手は老婆。
 逃げ出すことは出来る。
 そうしなかったのは、ルウディの部屋での老婆の言葉。
 彼女はプエラが投獄されているという現状を憂いでいる。
「見張りは休憩を取らせた。ただし、十分程度で戻ってくるだろう。プエラに話があるのなら、十分で戻って来い」
「ど、どうして……」
「話はルウディ殿から聞いている。逃げ出せたのに、プエラのために残ったと言う。ならば話をしてこい。お前がプエラの容疑を晴らし、真犯人を突き止めることが出来るのなら、私は邪魔しない」
 奏は愕然と立ち尽くす。
「ただし、味方するのはこれが最初で最後だ。まあ、あまり期待もしていないがな」
 何も口を利けない。
 行け、と老婆があごをしゃくる。
 奏は老婆に背を向け、牢に入っていった。
 10分間。
 旅長に与えられた時間。
 これで何か分かるのか。
 窓のない廊下。
 廊下に立てかけられた灯篭が、周囲三メートルほどの世界を照らしている。
 牢は四つ並んでいた。
 プエラの閉じ込められている牢はどれだろうか。
「プエラさん」
 奏は声を上げてみた。
 いまは早朝
 眠っているかもしれない。
 だが、奏の杞憂をよそに、プエラの閉じ込められている牢は一見して分かった。
 より厳重に施錠されている牢がある。
 奏たちの脱獄の影響で強化されたようだ。
 奏は牢の前に立ち「プエラさん」と再び名を呼んだ。
「か、カナデさん?」
 起きていたのだろうか。
 牢の中から聞こえてきた声は、紛れもなくプエラのものだった。
「なぜカナデさんがここに?」
「プエラさんも、俺が牢に閉じ込められてるとき、来てくれたろ」
「でも、あなたは……」
「話がしたくて来たんです。確かめたくて……」
 奏が閉じ込められていたとき、プエラは奏のことを信じてくれた。
 そんな人が殺人を犯すわけがない。
 プエラが小さな声を出す。
「私が殺したかどうか、確かめに来たんですか?」
「プエラさんが殺してないことは分かってる。確認したかったのは、男が殺された凶器の包丁。本当にプエラさんが持ち出したのか」
「包丁……」
 凶器に使われた包丁。
 それをプエラが持ち出しているのを目撃されたから、プエラが犯人にされているのだ。
 それが間違いであるか、何かの勘違いであれば、なんらかの手がかりになるかもしれない。
 プエラは答えなかった。
 奏は辛抱強く返答を待ったが、返事が返ってくる様子はなかった。
「どうして黙るんですか?」
「……こんなところまで来てくれて……。本当に嬉しいです。自分が危険な目に遭うかもしれないのに……。最初、あの草原であなたに会ったとき、あなたは敵だと思いました。だって、こんな世の中ですもの。出会う人、みんな何か企んでます。最初は企んでいなくても、そのうち欲が芽を出して、女性の身体、食料、金品を強奪していきます。そんな人ばかり」
 奏は黙って聞く。
 まだ、隔世の実情が分かりきっていない。
 悪い人間、良い人間。それを判断する奏の価値観すら通用しないような気がして、何が正義なのか分からなかった。
「私、前にも良くこんなことがあって、路頭に迷ってる子供を連れて来てしまったり、行き倒れてる人を集落に連れてきてしまい、中には悪い人も居てみんなにひどい迷惑をかけてしまったことも何度もあります。こんな私は、もうこの世界に居場所はないんだと思います」
 とても良くない考え方だと思い「そんなことはない」と咄嗟に声を上げる。
「子供たちはあなたのこと、あんなに信頼してるし、プエラさんのいうこんな世の中なのに、あんなに楽しそうに笑ってる。プエラさんのおかげだ。プエラさんが子供たちを囲んでいる世界は、あんなふうにはしゃいだり、笑ったりする優しい世界なんだ」
「……ありがとう」
 まだ何か言える。
 プエラのような人間が絶望しなければならない世界など間違っている。
「私、思うんです」
 奏より先に口を開くプエラ。
「私、人に迷惑をかけてばかり。子供たちを連れてきたことで、住人に少しずつ負担を強いてるし、気を遣わせてる。だから、私、今度はみんなのためになるようなことをしたい。私が男を殺したとしても、殺してないとしても、私がひとり突き出されればみんなは安心するし、これまでどおり暮らしていけるんです」
「そんなふうに考えちゃ駄目だ。子供たちはどうする? 君が居なくなったら悲しむし、絶望してしまう」
「大丈夫。旅長が約束してくれました。子供たちは旅長が責任持って育てるって。私が居なくなっても大丈夫」
 嘘だ。
 そんなの信じちゃいけない。
 そう言おうとしたが言えなかった。
 ルウディの言葉が、奏の喉を詰まらせたのだ。
 −−君はプエラを救えない。
 救えない。
 万が一、そんな未来が存在したとして、奏が「そんなの嘘だ」と言うことでプエラが絶望を抱えたまま最後を迎える、そんなことを想像してしまった。
 俺は自分を信用していない。
 プエラを助けると決意したのに、助けられなかったことを想像している。
「……プエラさん。君は殺してないんだろう? 本当に男を殺した人間の肩代わりなんてする必要はない」
「いえ、肩代わりなんて気持ちじゃないんです。私一人の命で、みんなが救われる。きっと、ここに居る住人たちはみんな覚悟しています。いまの私のような立場になったとき、きっとみんな運命を受け入れる。ウィンディアは全員でひとつの生命体なんです。悪いところは切り取って直さないとウィンディア全体が死んでしまう。そうならないために、みんな一人ひとり、覚悟を決めてるんです。私だけじゃない。私一人が異論を唱えて逃げ出せば、たちまち伝染して、ウィンディアは死んでしまうんです」
「……そんな」
「ごめんなさい。あなたは優しい人です。でも、気にしないでください。何も知らないこんな辺境にいる集落の、たった一人の女のために命を掛けないでください。どうか、私のことは放っておいて、自分の人生のために生きてください」
 なんてことを言うのだろう。
 諦めている? 覚悟を決めている? 運命を受け入れる?
 なんて悲しい。
 大きな流れがある。
 ルウディが言った。
 ひずんでしまった流れを元に戻そうとするために、流れは犠牲を要求する。
 それが運命。
 ここで支払われる犠牲は、プエラという優しい人の命。
「もし……」
 奏は詰まってしまっていた喉を広げていった。
「もし、他に真犯人が見つかって、君が自由になれるとしたら、君はそれを望むだろ。君じゃない誰かが……。本当に悪いことをした人が罰を受けるのなら、君は自由を望むだろ」
 返答が帰ってこなかった。
 考えているのか。
 しかし、しばらくの静寂の後に聞こえてきたのは、とてもとても穏やかな声だった。
「私はみんなのために命を使うことを望みます」

 

 牢屋を出ると、旅長が待っていた。
 旅長は奏の顔を見るなり、目を瞑った。
「そうか。お前でも駄目だったか。やはり、これは運命なのか」
 運命。
 なんだそれは。
 あらかじめすべてが定められていてる。
 川を泳ぐ魚が陸上に恋焦がれたとして、飛び上がって陸に上がっても身動きできずに窒息死するだけ。
「まあ、気にするな。小僧はよそ者だ。忘れてどこかに消えるといい。しばらく生きていける食料は、お前のお仲間が盗んでいった。盗みは不問とするから、お仲間と一緒にどこかへと消えるがいい」
「旅長さん……」
 奏は油断すると泣き出してしまいそうな気持ちだった。
「そんな顔をするな。若者のそんな顔はひどく胸が痛む」
「プエラは優しい人です。とてもとても。どうか、彼女を殺さないで」
 旅長は答えない。
 ただ、苦しそうに目を伏せただけ。
 今夜。
 帝国旅団と名乗る殺された男の仲間がやってくる。
 プエラが犯人として差し出されたあと、彼女の行く先は。
 住民たちの帝国旅団への恐れ方。そして、クユスリやルウディが「知らないほうがいい」と口をそろえていった帝国旅団とは何なのか。
「行け。次に捕まるようなことがあれば、私はもう助けることは出来ないぞ」
 旅長が杖を持ち上げ、先端を森のほうへ向けた。
 なんで……。
 何もかもが納得いかない。
 すべてが間違っている。
 みんな、抗うことを忘れてしまっている。
 三ツ目族、四ツ目族に恐れ、帝国旅団に恐れ、なにより自分が犠牲になることを恐れ、卑屈に牽制しあっている。
「子供たちはどうなるんですか?」
「悪いようにはしない。ここで育てる。しかし、それが子供たちにとって幸せかどうかは分からないが」
 できることはない。
 プエラが助けられることを望んでいない。
 すべての人間が、流れの先にある未来を望んでいる。
 それに逆らおうとしているのは奏だけだ。
 誰も望んでいないし、はたして正しいことなのかも分からなくなってきた。
 俺は一体何をしているんだろう。
 隔世に何のために渡ってきたのか。
 なぜこんなところに呆然と突っ立っているのか。
 もう、何も考えられない。

 

「なるほど。戦う心積もりは出来ていると」
 この女、名前はクユスリというらしい。
 勝手に納得して何度も頷いているが、とんだはた迷惑である。
 どうにかこの女から逃れなくてはならない。
「お前の特技はなんだ? どんな眷族を持ってる?」
「け、眷属?」
「なんだ、その顔は。まさか、お前も眷族を知らないのか? ひょっとして、お前も記憶喪失なのか?」
 記憶喪失? なるほど、奏はそうやって言い訳したのか。
 佐々倉想平は慌てて「そうそう! 記憶喪失!」と大きな声を上げた。
「記憶喪失同士、なぜ仲間なんだ? 一体どういう関係だ」
 なんて答えよう……。
 そもそも仲間じゃないし。むしろ敵同士。だけど、この女怖いしな。
「最初から一緒にいたんだ。お互い記憶を失ってる同士、頼りあってると言うか、支えあってると言うか……」
 自分で言っていて虫唾が走る。あんな台風小僧と支えあうものか。
「なるほど、事情は分かった。説明してやろう。カナデにも説明したが、眷属とは狭間の世界に住まう曖昧な生物だ。特殊な力を持っていて、人間のある種のエネルギーを分け与える代わりに、眷属は我々に力を貸す。お前は持っていないのか? カナデも知恵はあったが、力はまったくもって皆無だったしな」
 奏のような落ちこぼれと一緒にされたくない。大声で怒鳴ってやりたかったが、実情はニコニコして頷いていただけ。
 間違っても自分の能力を教えてはならない。これは奥の手だ。手の内を知られたら逃げることも出来なくなる。
「どうやらカナデもお前も、この世を機転で生き抜いてきたらしいな。しかし、甘ったれだな。こんな世の中なのに、見ず知らずの女なんか助けようとするなんて。聞かせてくれ。どうしてプエラなんか助けようとする? 自分の身が危険だと思わないのか?」
 当然、助けないし、そんなばかげたリスクを負うつもりもない。そんなくそ女助けたって何の得にもならないし、むしろこんな事態を招きやがったその女を殺してやりたいほどだ。
 だが口からついて出てくるのは「放っておけないんだ」などという綺麗ごと。そういわねば、きっとこの凶暴な女はナイフを突き刺してくるに違いない。
 女は思いついたかのように顔を起こした。
「カナデの様子を見に行かないか? あいつがどうしようとしているのかお前も知りたいだろう」
「あの……」
 恐る恐る尋ねる佐々倉想平。
「どうして奏の味方をするんだ? あんただって危険かもしれないだろ」
「そんなの決まってるだろう。命の恩人を見捨てて逃げては、夢見が悪いだろうが。私は悪党だが、仁義は通さなければ気がすまないんだ」
 難儀な性格だ。
 こいつ、長生きしないな。
 こんな愚か者どもに振り回されては、こっちもいずれ命を落とす。
「よし、集落へ戻るぞ」
 いやだ。
 本当に嫌だ。
 なぜわざわざあんな危険なところに戻る?
 頭がおかしいんじゃないか。
 馬鹿を通り過ぎて、脳みそ溶けてるんじゃないのか。
 くそ女。
 死にたいなら一人で死ね。
 心の中であふれる悪態は、ついに口から出てくることはなかった。

 

 気づけばルウディの部屋に戻ってきている奏。
 ルウディは微笑をたたえ、奏を迎え入れた。
 住民の誰かに見つかる、捕らえられる、そんな危険さえ意識に止まらず、夢遊病者のように戻ってきた。
「やあ、見てきたかい?」
 何もかも知っているような顔。
 ルウディは椅子に座るよう促す。
 促されるまま、崩れるように椅子に座る。
「顔色が悪いね。食事は採ったかい? パンとミルクがある。良かったらどうぞ」
 ルウディは小さなテーブルと、パンとミルクを用意してくれた。
 この吹き荒れる心模様。
 ひょっとしたら食事でまぎれるかと、パンを口に含む。
 何も味がしなかった。
「流れは目に見えないが、君にはもう感じられているね。正義とか、良心とか、道徳と言った言葉は知っていると思うが、君が見たのは正義だったかい?」
「分からない……」
 正直な感想。
 ルウディは静かに口を開く。
「それじゃあ、君が思い描く理想の結末はなんだい? 君が望む未来は?」
 望む未来。
 思い描く結末。
「プエラの疑いが晴れて、この先もずっと子供たちと暮らす……」
「真犯人はどうなる? 真犯人が、実はプエラのような人間だったら? 君は天秤に掛けられるかな。どちらかが人柱になるとして、君は人の人生を選択することが出来る?」
「人を殺したんだ。殺してないプエラが裁かれるのは間違ってる」
「君が愛した人が犯人だとしたら? 殺した理由がどうしようもないものだったら? たとえば、ウィンディアを滅ぼそうとしていた男を、仲間のために殺したのだとしたら?」
「理由……」
 動機は重要か。
 なぜ殺したのか。
 あまり考えてこなかったが、なぜ帝国旅団の男は殺されたのか。
 誰に。
 ――の前に。
 なぜ。
 なぜ、殺されたのか。
「なぜ殺されたんだ。ルウディは知っているんだろ」
「もちろん知ってる。犯人も、殺人の理由も」
「なぜ教えないんだ。だいたい卑怯じゃないか。知っているのに教えないなんて。プエラが救えるのに、教えないなんて」
「さっきも言っただろう。僕がなにか決めることなんて出来ない。僕にプエラの命と誰かの命を天秤に掛けることも出来ない」
「殺した奴が悪い。プエラは悪くない。天秤に掛けるまでもないだろ」
「じゃあ、本当にプエラが殺したとしたら? プエラは人殺しの悪人で、しかも何も悪くない善良な人間ということになるのかい?」
 意地の悪い質問だ。
「俺はどうしたらいい。住民たちはなんとも思ってないのか」
「思ってないさ。自分じゃなくて良かったと安堵してるだろう。子供たちや食糧問題など、プエラに罪を押し付ける体のいいこじ付けさ。そして、それはプエラも充分に理解している」
「自分の命は惜しい。誰だってそうだろ。プエラだって死にたくないはずだ」
「自分の命は惜しい。誰だってそうだ。プエラだって、他の住人たちだって。だからこそ責任を擦り付け合う」
「プエラを救うことが悪いことなのか?」
「それを判断し、選択するのは君だ」
 やはり答えない。
 ルウディは残酷だ。
 こうやって、人の心のゆれ動きを楽しんでいる。
「少し休んだらいい。今日は誰も部屋に入れないつもりだから、僕のベッドで身体を休めてもいい。クローゼットじゃあ疲れも取れてないだろう」
 身体は気だるく、節々が痛んでいる。
 頭が重く、思考が進まない。
 眠れなくてもいい。
 しばらく横になりたかった。

 

「奏はどこに居る」
 声を押し殺したクユスリの声。
 そんなの知るか、と思いつつも「さっきはここに居たんだけど」と答える佐々倉想平。
「そろそろ住人たちが起き出しそうだ。ここで奏が出てくるのを待とう」
 地上から十数メートル。
 名前も知らない大木の上。
 両脇に生えだした枝の上に、それぞれに佐々倉想平とクユスリが座っていた。
 集落全体を観察できるスポットだ。昨日のうちに佐々倉想平が発見したポイントである。また戻ってくるハメになるとは。
「そうと決まれば腹ごしらえだ。おい、何か食料をよこせ」
 俺がリスクを負って取得した食料……。
 しぶしぶ干し肉らしき塊をクユスリに手渡す。
 クユスリは獣のように干し肉に食らいついた。
「今夜、男の仲間が来るってことは帝国旅団だって事だな」
「帝国旅団?」
「やはり知らないか。知らないほうが身のためだけどな」
 知らないほうが良いなら聞かないでおこう。ろくな情報じゃない。そう思ったが、クユスリは勝手にしゃべる。
「といっても、もしかしたらひと悶着ある相手だからな。知っておいたほうが良いだろう」
「いえ……。あまり余計なことは知りたくなーー」
「帝国旅団とは、一般的に表の顔がある。表向きの活動などただのパフォーマンスだけどな」
 耳をふさぎたい。
 それより一刻も早く逃げ出したい。
 クユスリが居眠りなど始めてくれたら助かるのだが。
「表の顔は、国の解放をもくろむレジスタンスとして知られている。しかし、実体は帝国の復興をもくろむ右翼集団だ」
「うっ……」
 あからさまに怪しい集団。
「いまからちょうど千年前、この国は二ツ目族の皇帝が支配するユベリア帝国だった。眷属の力で権力を欲しいままにしていた二ツ目族は、周辺国を次々に侵略し、領土を広げていった。混沌とした時代。いまよりひどかったと聞く。しかし、ユベリア帝国の絶頂期にとつぜん現れた三ツ目族の集団。ほんの十数人だったといわれる三ツ目族に帝国は一夜にして滅ぼされた。実際は数ヶ月間の小競り合いがあったらしいが、帝国の砦の没落は一晩にしてなされたと言う」
 おそらく、現世の人間にしてみれば歴史がひっくり返るような驚愕の事実を知らされている。何も知らなかった隔世にこれほどまでに深い歴史があったとは誰も知らない。佐々倉想平はその重大な事実を知る最初の人間に違いない。
 だが、まったく興味を持てない。
 いま、最も重要なのは、この馬鹿女の元をどうやって逃げ出し、現世に戻る方法を見つけ出すことだ。
「その帝国主義の生き残りが、帝国旅団。彼らには千年の歴史がある。膨大な知識と知恵で、三ツ目族すらその消息を負えず、手をこまねいている存在だ」
 だから、そんな恐ろしい相手を敵に回そうという発想自体、お前は頭が腐ってるとしか思えないんだ。
 命を助けられたことなど三歩ほど歩くうちに忘れ、後は如何に人を利用して自分はぬくぬく生き抜くかを考えるほうがよほど有意義だ。
「その帝国旅団だが、実はある噂があってな……」
 ああ。駄目だ。
 眠い。
 聞いていられない。
 まぶたが落ちる。
 眠って起きた頃に、もうこのくそ女が死んでいればいいのに。
 佐々倉想平は逃れるように眠りに落ちていったのだった。

 

 目を覚ます。
 この現実は望む現実ではない。
 気が鉛のように重い。
 動きたくない。
 無気力。
 ゆっくりと身体を起こすと、部屋は薄暗かった。
 夕暮れ時。
 部屋にルウディの姿はない。
 ひどく静か。
 空気が刺々しくなったかのように、ひどく気に障る。
 耳鳴りがやまず、頭を抱えるように耳をふさぐ。
 これから一人の優しい女性が不幸になる。
 その事実を思い出し、奏は気が滅入った。
「どうしたら……」
 意図的に声を出す。
 自分がここに居ると確認するかのように。
 ゆっくりと立ち上がる。
 眠る前より身体が疲れているようだ。
 窓際によると、四台の巨大な馬車が囲むように存在する中央の広場が見えた。
 昨夜と同様、焚き火が焚かれていた。
 焚き火を背後に、一人の男と旅長である老婆が立っている。
 焚き火に向かい合うように百人近い人々の群れ。
 だが、誰も口を利いていない。
 大きな焚き火の熱気は、馬車の二階に居る奏まで伝わってくる。
 夕焼けに加え、焚き火に染められた赤い世界。
 そこへ、数人の男に囲まれ、プエラが歩いてきた。
 プエラは力なくうな垂れ、その表情は紅色の髪に隠れて覗うことは出来なかった。
 焚き火を背に立っている男と老婆の傍にプエラが立たされる。
 初めて気づく。
 プエラの上半身は簀巻きのようにロープが厳重に巻かれている。
「ルウディ殿の話によれば、今夜まもなく帝国の人間がやってくる」
 老婆の声だった。
 よく通るしわがれ声。
 奏はよく声が聞こえるよう、窓を開けた。
 温かい風が奏での前髪を揺らす。
 何を始めるつもりなのか。
「帝国旅団には、プエラを犯人として引き渡すことで、ディディックの事件を収めてもらおうと考えている」
「本当に大丈夫なのだろうか」
 誰かが声を上げた。
 すると次々に疑問の声。
「プエラを引き渡したとしても、私たちは許されるの? 命は助かったとしても、いままでどおり私たちに道を指し示してくれるの?」
 女性の声。
 道を指し示す。
 どういう意味だろう。
「ルウディ殿は馬車に残ってくれるのか。この事件をきっかけに、このウィンディアを去るのではないのか」
 ルウディのこと。
 ルウディはこのウィンディアに必要とされているのだろうか。
 ろくにまともに答えないあの男が必要だとは思えない。
 老婆が口を開こうとしたとき、隣に居た男が代弁する。
「ルウディ殿は残ってくださると言っている。それに、我々と一緒に帝国の人間に説明してもらえるそうだ。何も心配ない。なにもかもいままでどおりだ」
「帝国の人間を殺したのよ。そんなので済むわけはないわ!」
 女が飛び上がるように立ち上がって、ヒステリックな声を上げる。
「みんな、殺されるんだわ! だってそうでしょう! 帝国の男を殺したのよ!」
 群集に伝播した動揺が、地鳴りのように奏の元へ伝わってくる。
 それまでに恐れる帝国旅団とは何なのか。
 男が群衆を諌めるように何度も手を振り乱す。
「落ち着いてくれ! 頼むから話を聞いてくれ!」
「隠したほうがいいんじゃないか!? ディディックを隠して、何事もなかったように……!」
「それは無理だ! 彼らを騙し通すことは出来ない! 彼らは我々も思いもよらないことを知っている。それはみんなも承知してるだろう! ルウディ殿を見ろ。うそをつけると思っているのか?」
 ルウディ?
 そもそも、ルウディは一体何者なんだ。
 改めて疑問がわく。
 この馬車の住民ではないと言っていた。
 しかも、ルウディは馬車の行く手に立ちはだかって、盗賊団が潜んでいるので進んでは駄目だと引き止めたのが最初だったという。
 道を指し示す。
 ふと、言葉の糸がつながる。
 まさか。
「そうだよ。僕は帝国旅団の人間だ」
 背後から声がして、奏は振り返る。
「というより、帝国に雇われてるだけかな。帝国旅団お抱えの占い師。それが僕」
 ルウディがゆっくりと傍によってくる。
 奏の隣に立つと、憂いそうに中庭に集まる群衆を見下ろした。
「見てみろ、カナデ。あの慌て戸惑う人間たち。君は上から見下ろしていて良く分かるだろう。動揺や恐怖、不安などが渦巻いているのが見えるだろう。これが流れ。この陰湿な流れが未来を築いていく。身体の一部をそぎ落としながらも人は未来を目指す。まるで足の裏から削れていくように。まるで底なしの泥濘に嵌っていくように。幾つもの混沌が渦巻いて、最後に残るのは欠片になったとしても、彼らは流れに沿ってしか生きられない」
 プエラが、群集から怒鳴り声が上がるたびに挙動不審に怯えている。
 恐ろしくないはずがない。
 人生の終わりがこんな光景なんて。
「削れていったものは取り戻せない。はまった部分は抜くことが出来ない。渦巻くものに巻き込まれ、周囲の未来も引きずりこんで、最終的に収束するのは一点」
 ルウディはその白い顔を奏に向けた。
 目が。
 目の奥が渦巻いている。
 未来を指し示す渦。
 その収束される一点。
「また最初から。また最初からぐるぐる回って渦の中心に近づいて、収束される一転にたどり着くとまた最初から。その恐ろしく無意味で虚無が支配する輪廻に捕らわれ、絶望的な未来と始まりを繰り返す。君はその輪廻に逆らえるのか? どんな希望をもたらせると思っている? 終着点はあの渦の中心だけではないと、君は言い切れるのか?」
 恐ろしい。
 奏はようやくルウディという男の恐ろしさに気づいた。
 取り込まれる。
 あの絶望ばかりが渦巻く瞳の奥に。
「君は……。一体どうしたらそんな瞳に……」
 奏がかろうじてつぶやくと、ルウディはふ、と蝋燭を吹き消したかのようにいつもの微笑に戻った。
 何もいわず、ふたたび窓の外を見るルウディ。
 奏も窓の外に視線を戻す。
 先ほどまでの混乱はひとまず収まっている。
 外は急速に夜の黒さを増している。
「ルウディ、君は本当にこの住民たちの味方をするのか? 帝国旅団の人間たちを説得して、大事にならないよう取り計らうのか?」
 ルウディは何も答えなかった。
 ルウディを見る。
 微笑んでいなかった。
「ルウディ、君は……本当にこの現状を見て、心を痛めたりしないのか? 感情は? 君の微笑みは、きっと感情を隠すためのものだろう。君は何でも知っているという。でも、自分の心は何も分からないんじゃ……」
 ゆっくりと。
 何かが沸き起こる、と形容されるようなさまでルウディが顔をこちらに向けた。
 奏は何かに気づく。
 −−宇宙。
 いや、虚無。
 空っぽだ。
 君の中は空っぽだ。
 ルウディは泥を垂れ流すような声で言った。
「もう……ルウディの講座は終わりだよ、カナデ。後は君が選択するんだ。君がしたいような行動するといい」
 そう言って、幽霊のように音もなく背を向ける。
「ルウディ。最後に聴きたいことがあるんだ」
 ルウディは振り返らずに立ち止まった。
「俺は……ユーナを救えるのかな」
 ルウディは振り返った。
 暗くよどんだ表情は変わらなかった。
 だが、ルウディは静かに答える。
「残念だが、君はユーナを救えないよ」
 まるでたったいま、出会ったこともない他人に成り果てたかのように、ルウディは部屋を出て行った。
 救えない。
 救えないのか。
 奏は強く目を瞑る。
 折れるな。
 ルウディの言葉に取り込まれるな。
 未来は望めば方向を変えるはず。
 救えるはずだ。
 気をしっかり持て。
 自分を信じろ。
 奏はこれほどまでに自分の中に存在する道徳を疑ったことはなかった。
 最良の行いに迷うことはなかった。
「俺の選択……」
 そのとき。
 群集がどよめいた。
 視点を、部屋を出て行ったルウディの残像から窓の外に転じる。
 ーー何か起こったのか。
 どよめきに、プエラが顔を上げた。
 すると、群集の脇から豆粒のような人間たちがプエラめがけて掛けていくのが見えた。
 プエラが何かを叫んだ。
 何を叫んだのかは聞き取れなかった。
 周囲の群衆が慌てふためき、豆粒たちを取り押さえようと動き出した。
 プエラの子供たち。
 奏は愕然と見守った。
 子供たちは大人たちの手を掻い潜り、プエラに掛けていった。
 プエラは溜まらず膝を突き、子供たちを抱きかかえる両腕は縛られていたものの、背中から生えた見えない翼で包み込むように、プエラに抱きついた子供たちを受け止めた。
 子供たちは現状を理解しているのか、縛られているプエラを守るように抱きついて、思い思いに泣き叫んでいる。
 見ていられない。
 住人たちは、これを見てまだプエラを帝国旅団に突き出そうと思うのだろうか。
 子供たちはすぐさまプエラから引き剥がされ、馬車の中に連れ戻される。
 まるで身体の一部が引きちぎられたかのように悲痛そうに叫ぶプエラ。
「プエラさん……!」
 俺は何を迷っているのか。
 この光景を見れば、正しいことは何なのか明らかじゃないか。
 奏は踵を返していた。
 どうしていいかなんて分からなかった。
 でも間違いないことは、プエラは縛られ、生贄にされるような人間ではないことだ。
 階段を駆け下りて、馬車を飛び出すとそこには、先ほどまで見下ろしていた群衆の中だった。
 上から見るのと、中に居るのは大違いだった。
 住民たちの動揺と混乱はすぐさま奏の全身を支配した。
 一瞬金縛りにあう。
 どよどよどよと不気味な音を立てる群衆の中には涙を流す者も居た。
 恐怖を抑えきれず、抱き合って泣いているもの。
 混乱の中、罵声を浴びせあうもの。
 目の前を群集が行き交う。
 奏を気に掛ける余裕のあるものは居ない。
 群集の間隙に、プエラの姿を発見した。
 悲痛そうに子供たちの居なくなった方角を向き、声を上げて慟哭していた。
 いまが選択するとき。
 奏は動悸が激しくなっているのを意識した。
 いま、飛び出したらどうなる。
 群集が奏に気づいたら?
 群衆が襲ってくる?
 奏はその中で、一体何が出来る。
 膝が震えた。
 群集の動揺が地面を波立たせて、立っていられない。
 尻餅をつきそうだ。
 選択。
 最良の選択。
 プエラ。
 君は子供たちから離れちゃだめだ。
 奏は足を踏み出した。
 倒れないように、地面を確かめるように一歩一歩踏み出す。
 −−あああっ。
 プエラが声を上げて慟哭している。
 胸が張り裂けそうだ。
 助ける。
 群集を抜け、プエラや旅長がいる場所まで来た。
 最初に奏に気づいたのは旅長だった。
 旅長は白濁した目を奏に向けた。
 おそらく盲目の旅長は、常人とは別の感覚を持って奏を発見した。
 太鼓をどろどろと鳴らすような薄気味悪いどよめきの中、老婆の唇がわななく。
 決断しろ。
 奏は群集を振り返った。
 幾人かが奏に気づいて、こちらを見ていた。
 その血走った目は末恐ろしく、同じ人間には思えなかった。
 身が竦む。
 怯むな。
 警戒している人間、驚愕している人間。
 見たことのない人間がいる恐怖。
 不安、動揺。
 うごめき。
 渦。
 プエラ。
 そのとき。
 あれほどまでにどよめいていた群集が、水を打ったかのように静まり返った。
 それは徐々に収束していくようなものではなく、静寂は突如訪れた。
 聴力を失った。奏にそう勘違いさせるほどの沈黙。
 群集はすでに奏を見ていなかった。
 群集の視線は、ある一点。
 奏は全身を粟立てながら、住民たちの視線の先を追う。
 そこには見たこともない大きな馬の上に乗った二人の人間。
 黒い服。
 黒い髪。
 黒い靴。
 黒い背景。
 黒尽くめの男女。
 馬の上に胡坐をかいて座っている。
 それほどまでに馬は大きかった。
 馬が甲高い声を上げて一声鳴いた。
 それだけで群集が一歩二歩後ずさった。
 巨大な馬が重い足音を立てて近づいてきた。
 奏に近づいてくる。
 巨大な馬の顔が奏のすぐ傍まで寄ってきた。
 邪悪な目。
 そう見えた。
 馬は唸りながら、整った巨大な歯をこすり合わせている。
 奏を見ている。
 動いたら食われる。
 そう思った。
「さて、お集まりの皆さん」
 馬の上に乗った黒尽くめの男が声を上げた。
「事情は察しているつもりだ。ルウディから事前に連絡を受けている。まずは死体を見せて欲しい」
 暗い声。決して友好的ではない。
 黒尽くめの男女は馬を下りてくる様子はなく、奏は馬に睨まれて動けなかった。
 粘着質の唾液がたれ落ちて、地面にべちゃりと落ちる。
「そ、その前に説明させてはもらえないだろうか」
 旅長がかろうじて声を上げた。
 奏の視線は巨大な馬の面ばかりで、周囲の様子は一切分からない。
 馬の臭い息が掛かる。
 吐き気を催す。
「説明などいらん。いいからディディックの死体を持ってこい」
 鷹揚のない声に、旅長が息の呑んだ。
 慌てた数人の男が死体を運びにすっ飛んでいった。
「さて、次に仲間を殺してくれた人間だが……。誰かな? 誰か教えてくれるかな」
 奏はようやく馬の面から視線を転じた。
 老婆は苦虫を噛み潰すような顔をし、群集は一様に顔を伏せていた。
 誰も口を利かない。
 馬の上から、男の声ばかり響く。
「教えないつもりかな。隠すとろくなことはないと思うが……」
「プエラです!」
 群集から女の声。
「あの女です! 縛られてる女です! その女が殺しました!」
 群集から一人の女が目を剥いて、プエラを指差している。
 奏が馬から数歩後ずさりすると、馬の上に乗っている男女の姿が視界に入った。
「なるほど。あんたか。俺たちの仲間を殺しておいて、普通の処刑で住むと思ってないよな?」
 プエラが掠れた悲鳴を上げて尻餅をつく。
 あんなに怖がっている。
 でも、群集はなにも干渉しない。
 恐怖に犯されてしまったのは奏も同様だ。
「念のため尋ねるが、本当にプエラ、君が殺したんだな?」
 プエラは涙を溜め込んだ目を見開いて、馬の上に乗った男を見上げるばかり。
 小刻みに震えているさまは、首を横に振って否定しているようにも見える。
「どうした。君じゃないのか? なら、仲間を殺した人間は他に居ると言いたいのか、プエラ」
 黒尽くめの男がそう問いただした瞬間、まるで爆発があったかのように群衆が騒ぎ始めた。
 自分に疑惑が向けられてはならないという人々の保身の叫び。
「そいつが殺した!」
「証拠があるんだ!」
「そいつを連れてってくれ!」
「プエラ! なに黙ってやがる!」
 奏の中にふつふつと湧き起こる怒り。同時に押し寄せてくる恐怖。
 そして、目の前には黒尽くめの男女。
 二人だけ。
 そう、二人だけ。
 黒尽くめの男は難しい顔をして、手に持っていた槍のようなものを担いだ。
「分からないな。プエラ、何かいいたいことがあるなら言ってみろ。お前が殺したのか? それとも、他に殺した人間がこの中に居るのか?」
 群集が怯んだのが分かった。
「違う! プエラが殺したのよ!」
「プエラ! 早く自分が殺したって言うんだ!」
 刃物のような罵声が飛んでくる。
 それだけでプエラは切り刻まれている。
 もうこれ以上……。
 これ以上プエラを傷つけるな!
 奏が意を決して足を踏み出したとき。
 男たちがディディックの死体の入った棺おけを運んできた。
 奏の目の前に下ろされる棺おけ。
 男たちが棺おけの蓋を開ける。
 奏の眼下にディディックの遺体。
 後頭部に刺された包丁は傍らに置かれ、ディディックは微動だにせず横たわっていた。
「確かにディディックだ」
 黒尽くめの男が馬から下りてきた。
 小躍りするように歩きながら近づいてくると、男の風貌が良く見えた。
 眉がない。
 目が異様に大きい。
 驚いたときのように目を見開いている。
 黒髪は後頭部まで綺麗に撫で付けたオールバックで、人間ではない雰囲気を発している。
 この男が帝国旅団。
 男は死体に顔を近づけ、匂いをかぐかのように死体を確認する。
 奏も死体を見下ろしていた。
 ……おかしい。
 奏の脳裏に疑問符が浮かぶ。
 ディディックが殺されたのはいつだったか。
 三日以上前のことだ。
 その割には棺おけから異臭が漂ってこないし、ディディックは白い顔をしていたが、三日放置された「それ」のようには見えない。
「ふうん」
 黒尽くめの男が鼻を鳴らすと、操り人形のように折り曲げていた腰を起こした。
「で? ディディックを殺したのは誰だって言ったっけ?」
 今度は群衆は騒ぎ立てなかった。
 何のために黒尽くめの男が繰り返し尋ねているのか。
 住民は気づいている。
 この男は楽しんでいる。
 こうして仲間同士で罪を擦り付け合い、罵り合い、怯えあう様を。
「もう、ご勘弁願えないだろうか」
 旅長が口を開く。
「ディディック殿には大変申し訳ないことをした。取り返しのつかないことだとは分かっている。しかし、分かっていただきたい。あなた方に敵意を向けたわけではない。我々はあなた方と争うことを望まない。どうか、事故として治めてはくれないだろうか」
「事故、ねえ」
 黒尽くめの男は黒目をぎょろりと一蹴させて逡巡する。
「とりあえず、犯人を教えてもらおうか。旅長、あんたの口から出いい。あんたが言うことなら信用しようじゃないか」
 旅長はぐう、と喉を鳴らした。
 下唇をかみ締めて、口端から血がにじんだ。
「もう少し……」
 奏は思い切り腹に力をこめた。
「もう少し……待ってはもらえませんか?」
 振り絞るように出した声はかすれていたが、黒尽くめの男には届いていた。その不気味な顔を奏に向けると、首をかしげて近づいてきた。
「君は誰かな。待って欲しいって? それは要するにディディックを殺した奴が誰だか分からないと?」
「待ってくだされ。その小僧はここの住人ではない」
 旅長が慌てて割って入った。
「ここの住人じゃない? じゃあ、誰?」
「旅の者だ。一時的にここにとどまっているが、まったくのよそ者だ」
「へえ、よそ者ね」
 黒尽くめの男は再び奏を見る。
 その目で長く見られると、身体がカビで汚染されそうな気持ちになる。
「時間が欲しいって、どういう意味かな。犯人はプエラじゃないの?」
 奏は黒尽くめの男の目から視線をはずせない。
 なんて答えればいいのか。
「……プエラさんは……殺してなんか……」
「聞きなさるな! その男は信用できん!」
 旅長が慌てて怒鳴ったが、黒尽くめの男に手のひらを向けられ、制止させられる。
「聞きたいな。少年よ、言いたいことがあるなら言えばいい。何を言いたい?」
 この選択をした後、何が起こるのだろう。
 奏は粘ついた唾液を飲み込む。
「プエラは殺してません。殺した人間は他にいる」
「ほう……」
 奏の言葉が合図かのように群集から声が上がった。
 プエラが犯人に間違いない。その男は信用できない。いや、その男はプエラの共犯だ。罵声が突き刺さってくる。
「プエラが殺してないとして、じゃあ、誰が殺したのかな?」
「時間が……時間が欲しいんです。かならず殺した人間を探します。だから……」
「残念ながら、私たちに犯人探しを待っている暇はない。もし、プエラが殺していないと言うのなら、私たちには誰が犯人か分からないし、そうなればーー」
 そうなれば。
 続きを言う前に、旅長が悲鳴のような声を上げた。
「プエラです! プエラがやったのです! すべてプエラです!」
 旅長は老婆とは思えない動きで、縛り付けられたプエラの両肩を掴むと、懇願するように「お前がやったんだ! そうだな!?」と揺すった。
 黒尽くめの男は興味深そうにあごを撫でながら様子をうかがっている。
「プエラ! はっきりいうんだ! 私が殺しました! そう言ってくれ!」
 旅長の悲痛な訴え。
 奏での中に沸き起こる何か。
「わ、私が……」
 わななくように唇を動かすプエラ。
「私が……」
 奏は迷っている。
 何が正しいのか。
 分からず何も出来ずにいる。
 そして。
「私が殺しました。ディディックを包丁で刺して……」
 プエラが大粒の涙を流しながら訴えた。
 奏の中の大切な何かが壊れた音がした。
 とても重要で、宝物のようにはぐくんできた何かが死んだ。
「なるほど」
 黒尽くめの男が得心したようにうなずくよそで、奏は祈るような気持ちで群衆を振り返る。
 群集は固唾を呑んで状況を見ていた。
 誰も異論を唱えるようなことはしない。
 流れの中。
 奏も押し流されている。
 ――違う。
 そう叫ぶことが出来ない。
 ――違う。
 そう叫んだ途端、もっと大きなものが崩壊する。
「それでいいかな、そこの少年」
 黒尽くめの男が奏に問いかけた。
 奏は責め立てられているかのような顔で黒尽くめの男を見る。
 なぜ、そんな残酷なことを聞くのだろう。
 奏に答えを求めている。
 そうです。
 その女が殺したんです。
 そんなことを言わせたいのか。
 違います。
 犯人は他にいます。
 そう答えることが奏の正義。
 なぜ、黒尽くめの男は奏に尋ねたのだろう。
 逆らえるものなら逆らってみろと?
 この男が、一体どれほどの力を持っているのか。
 群集を震え上がらせるほどの男なのか。
 それとも、男の背後に控える巨大な組織を恐れているのか。
 自分は何に怯えている?
 何が奏の喉を詰まらせている?
 男はまん丸な目を奏に向けて、回答を待っている。
 旅長が険しい顔で奏を見ている。
 群集が断末魔のような目で奏でを睨む。
 プエラが。
 優しく笑っていた。
 もういいですよ。私のことはいいから、楽になってください。
 そう言っているように思えたのは奏の都合の良い想像か。
 涙が出てきた。
 胸が勝手に躍る。
 口からうめき声が漏れる。
 俺は弱い人間だ。
 なにもかも実現することの出来ない、小さく矮小で卑怯で臆病な。
 もう壊れてしまっている。
 ユーナを救いたかった。
 そのためにここに来た。
 そのはずだったのに。
 心の折れてしまった今の自分に救えるはずがない。
「君の答えが聞きたいな。それによって私はこれからの振る舞いを考えたいと思う」
 逃がさない。
 男の鈍く光る黒目がそう語っている。
 黒尽くめの男の気まぐれ。
 そんなものに、奏の心は破壊されようとしている。
 静かになった。
 旅長もプエラも、群集もみんな人形になってしまったかのように。
 時間が止まった。
 揺らぎ、盛る炎が凍りついたように静止した。
「犯人を指差せ、少年」
 天啓のような声が、奏の頭蓋骨内で反響する。
「腕を持ち上げ、その指先を向けるだけでいい。それだけでいい。君の選択は? 一人の命の犠牲を望むか、沢山の命の犠牲を望むか、それとも理想的な未来を望むか」
 奏の腕に電流が走ったようだった。
 肉が踊る。
 自分の意思ではないように、腕がふらつきながら持ち上がる。
 人差し指がかすかに持ち上がり、それ以外の指は内側に折り畳まれている。
 徐々に腕が持ち上がり、その指先がプエラに向こうとする。
 視界が歪む。
 何も癒さない涙が頬を焦がし、嗚咽に呼吸困難になる。
 終わった。
 破壊されて終わった。
「少年が苦しむ姿は見るに忍びないよ」
 その声が、遠くに離れていた意識を、急速に現実へと引き戻した。
 持ち上がっていた手が自由になり、だらりと垂れ下がった。
 声は女の声。
 巨大な馬の上に座る黒尽くめの女の声だった。
「いたいけな少年をいたぶって楽しいか、悪趣味め」
 黒尽くめの男はくすぐられたかのようにくすくす笑うと、馬の上の女を見上げる。
「これは姉さん、何か良い考えでも?」
「ディディックが殺されたのは許せるべきことではないが、どうやらこのプエラという女は、その少年に非常に慕われているらしい」
「それで?」
「それでどうだろう。条件つきでプエラを不問とするというのは」
「これは大胆な案だね。どんな条件かな? 仲間が殺されてるんだ。少々の交換条件では組織が納得しないよ」
「分かってる」
 女が馬を飛び降りた。
 泣きじゃくる奏の目の前に立つと、そっと奏のほほを撫でて涙をぬぐった。
「まるで処女を犯しているような気分だよ。そんな顔して、純朴な少年だね」
 女の冷たい手に鳥肌が立った。
 女は奏に背を向けると、黒尽くめの男に何かを耳打ちした。
 会話の内容は聞こえなかった。
 旅長もプエラも、群集も凍りついたように口を開かない。
 流れや渦といった運命の行く先を案じるばかり。
「分かった、姉さん」
 黒尽くめの男は納得して、突然歩き出した。
 奏も群集も男の行方に注目する。
 男はおもむろに馬車に近づいた。
 ノックもせず馬車の扉を開けると、飲み込まれるように馬車に入っていった。
「少年、あんたはここの住民じゃないね。初めて見る顔だ。名前は?」
 名前。
 名前を聞いている。
 何のために?
 まだ俺に何かを要求するつもりなのか。
「まあいいさ。正直に言ってごらん。あの怖い男は居ない。本当にプエラが犯人なのかい?」
 どうしてそんなことを聞く?
 何を企んでいるのか。
 このまま泣き続けていたら、同情して回答しないでいることを許してもらえるだろうか。
 すると、馬車に入っていった黒尽くめの男が馬車を出てきた。
 男の後をついてくるように子供たちも姿を現した。
 呆然とそれを見つめる。
 どういうつもりだろう。
 男が「さあ、お行き」と手を上げると、子供たちが一斉に声を上げながらプエラに近寄っていった。
 黒尽くめの女が、プエラに巻かれていたロープを解くと、プエラは再び大粒の涙を流しながら子供たちを抱きしめた。
「この光景を見る限り、彼女が悪人だとは思えないというのが正直な感想だな」
 黒尽くめの女が、プエラと抱き合う子供たちを眺めながらそう言った。
 抱き合う姿。
 一瞬後に絶望があるならば、これほど痛々しい光景はない。
 黒尽くめの女は、見えないマントを翻すように群集に向き直った。
 そして群集の正面にあたる位置まで歩いていくと、大きく両手を広げた。
 目を見張って注目する。
 何をする気なのか。
 女が大きく息を吸ったかと思うと、森の外まで届くのではないかと思うほどの大声を張り上げた。
「住民に問う! この殺人の罪は不問に処す! その代わり、この子供たちを全員、連れて帰らせてもらう! この条件、飲めるか飲めないか!」
 群集が再びどよめいた。
 子供たちを連れて行く?
 まさかの提案。
 誰もが代表者ではなく、どう答えていいものか分からない。
「私たちにはちょうど、子供たちが必要な事情がある!」
 なんだ、この提案は。
 子供たちを連れて行く?
 誰もが戸惑い、答えを発しない。
「だ……っ」
 奏が声を上げた。
 その声は、どよめきの中でも良く通った。
 黒尽くめの女は振り返り、群集が奏でに注目したほどだ。
「だ?」
 女が首をかしげる。黒髪がさらさらと肩を流れ、髪の毛の間隙に、不気味な光を放つ相貌が光っていた。
「だ、駄目だ……!」
「駄目?」
 奏は命を費やすかのような思いで声を上げた。
「子供たちを連れて行くなんて駄目だ!」
「なぜ?」
「子供たちを連れて行って、どうするつもりなんだ」
「君は反対なのか?」
 女が身体をこちらに向けた。
 威圧感に逃れるようにプエラを見る。
 プエラは子供たちを守るように抱きかかえている。
 人柱に子供たち?
 奏は意志を固めた。
 もう、目的を失ってしまってもいい。死んでしまってもいい。
 心が壊れてしまう前に、正しいことを貫く。
 奏は黒尽くめの女に向き直る。
 女は「おや」といったように眉を吊り上げた。
「子供たちを連れて行って、どうするつもりなんだ」
「必要だから連れて行く。ただそう提案している。その先のことはお前たちの窺い知るところではない」
 気に障った。
 奏の態度が、女の逆鱗に触れてしまった気がして、足が震えた。
 女が奏に詰め寄ってくる。
 気おされて後ずさりしそうになったが、どうにか堪えた。
「子供たちは、ここでプエラと暮らすのが幸せなんだ。連れて行かせるものか」
「へえ。よく勇気を振り絞って言えたね。でも、そんなもの関係ない。プエラか子供たちか。どちらか一方。それ以外の選択肢はない。子供たちを私たちに引き渡すのなら、子供たちには一生会えないし、子供たちがどうなろうとお前らには関係ない」
「お前たちに何を決める権利があるっていうんだ。確かに人が殺された。それはお前たちの仲間だったけど、事情があったかもしれない。なにか重大な悪さをしようとしていたのかもしれないだろ」
「ほう、殺されたのはディディックが悪かったからだと?」
 無数の針のような殺気が奏の全身に突き刺さった。
 死ぬのか。
 一瞬後、いつ殺されたのかも分からないうち、生を終える。
「絶対に条件は飲めない。どうして殺されたのか、誰が殺したのか、ちゃんとわかるまで」
「そんな時間はないと言っているだろう。今すぐ結論を出すか、最悪な結末を招くか」
 どぐん、どぐんと心臓が飛び跳ねる。
 全身が鼓動にあわせて振動する。
 だが、引くことは出来ない。
 奏は強くこぶしを握った。
 睨み付けるように群集を見た。
「どうして何も言わない! こんなやつら、何だって言うんだ! プエラが連れて行かれるかもしれない! 子供たちが連れて行かれるかもしれない! どうして黙ってるんだ!」
 怒鳴り散らすと、お前に何が分かると言わんばかりの罵声が跳ね返ってくる。
 奏は群集のとてつもない敵意に怯んで後ずさりする。
 くそ。
 他人なんてどうなってもいいって言うのか。
「やれやれ、仕方ないな」
 黒尽くめの男が呆れたように肩を竦めた。
「じゃあ、こういうのはどうだろう」
 黒尽くめの男は小躍りするように群集の前までやってくると、まるで笑い話を聞かせるように言った。
「そんなに納得できないと言うのなら、この際、当の本人に決めてもらおうか」
 当の本人?
「プエラに」
 黒尽くめの男は持っていた杖の先端をプエラに向けた。
 指されたプエラは、電撃を食らったかのようにびくついた。
 プエラに?
 自分か、子供たちか?
「だって、埒が明かないじゃないか。少年の意見は偏っていて、他の住民とも意見が違っているようだし。さっきもいったが、私どもに時間はない。手っ取り早く決まって、誰もが納得するのは、当の本人に選択してもらうしかないだろ」
「そんな……」
 何か文句ある? と言いたげな顔を向ける男。
「君が駄々をこねるからだよ。私どもはこれでもだいぶ妥協してるんだ。あまり聞き分けがないと、頭と身体を切り離すよ」
 奏は金縛りにあった。
 頭と身体を切り離す。
 気持ちがどうであれ、身体に染み付いた本能は、もうこれ以上一歩も動くなと警告を送っている。
 動けばたちまち頭が。
 どうすれば。
 その気になれば、相手は男女二人。
 群集が束になれば取り押さえられる。
 だが、群衆を説得するすべもなければ、奏一人で立ち向かう力もない。
 不条理に対し、あまりにも無力。
「さあプエラ、答えるがいい」
 プエラの答えは決まっている。
 言わせてはならない。
 絶望的なプエラの自己犠牲。
 そんなの間違ってる。
 勇気を出せ。
 振り絞れ。
 守れ。
 命を掛けて。
「ぉぉおおおおおっ!」
 奏はこぶしを握り締めた。
 腰をかがめ、数歩の距離に居る黒尽くめの男を見据えた。
 奏の低い声を聞き、男が奏を見た。
「よせ!」
 旅長の声は確かに聞こえていた。
 死ぬ。
 俺は死ぬ。
 謝らなければならない。
 ユーナ。
 ごめん。
 約束は。
「子供たちを連れて行って」
 プエラが嘆いた。
 だめだ。自分を犠牲にするなんて。
 子供たちを。
 子供たち?
 プエラは鬼のような形相をして、立ち上がったと思うと一人の子供を抱きかかえ、まるで物のように放り投げた。
 放り投げられた子供は、不気味な音を立てて地面に落下した。
 聞いたこともないような悲鳴を上げて、子供が呻いた。

 不可解なものを見た。
 決して、この世にはありえないものを見た。
 ルウディが言った。
 決して有り得ない結末は想像できない。

 プエラは再び子供を掴みあげると、再び黒尽くめの男めがけて放り投げた。放り投げられた子供は空中で手足をばたつかせると、呆然と立っていた子供を巻き込んで地面に転がった。

 子供たちの蒼白な顔。
 無条件に信頼を向けていた母性に裏切られた。
 子供たちはその事実を受け入れられない。
 子供たちが見上げているのは、聖母であったはずの鬼の姿。

 記憶が連続しない。
 途切れ途切れに場面が貼り付けられる。
「私は行きたくない! 子供たちを連れて行って! さあ!」
 足元に居た子供を蹴り飛ばすプエラ。
 プエラの顔の形が変わってしまっている。
 落ち窪んだ目は、悪魔を思わせる。
 恐怖。
 これが恐怖。
 奏の内側から侵食してくるどす黒いもの。
 ヒステリックに悲鳴を上げるプエラ。
 子供たちはすでにプエラから距離を置いていた。
 そして、思い出したように泣き出す。
 それは、まだ望んでいる泣き声。
 なきながらもプエラを見上げている。
 嗚咽に咳き込みながらも、決してプエラから目を離さない。
 戻って。
 戻って。
 元に戻れ!
 神様。プエラを元に戻して!

 戻らない。
 プエラはその場に崩れ落ちると、両手で顔を押さえて泣き出した。
 激流のような声を上げ、慟哭した。
 この世界。
 暗く混沌のような世界で、陽だまりのような優しい人。
 奏は信じた。
 真実はプエラであると。

 黒尽くめの女が、投げ落とされて意識を失う子供を抱きかかえた。
 生きているのか。
 おもむろに女は子供を馬の顔に近づけた。
 馬は鼻を広げて子供の匂いをかぐと、次に大口を開けて子供をくわえ込んだ。
 恐ろしい音を立てて子供を咀嚼する馬。
 口から流れ落ちる液体。
 ぐるぐる回る。
 風景が子供の描いた落書きのように粗雑に歪み、現実味を失って、滑稽にうず巻いていく。

 気づくと、子供たちは一人残らず地面に倒れていた。
 場面は途切れる。
 次には黒尽くめの男が、一人ひとり子供を馬の上に放り投げている。

 群集が物言わず、作業を見ていた。
 百人近い大人たち。
 誰もなんの行動も起こさない。
 これが流れ。
 このとんでもない厄難がただ通り過ぎるのを、祈るように待っている。

 旅長が仰向けに倒れていた。
 旅長の地面につけた背中からは血だまりが広がっている。
 喉もとに突き刺さった包丁が見えた。
 自分を殺したらしい。
 長生きをして、最後に絶望をして命を捨てる。
 これほどまでに不幸な人生があるか。

 巨大な馬が天に突き抜けるような咆哮を上げた。

 帝国は居なくなっていた。
 残るのは群衆と旅長の遺体。
 プエラの男のような慟哭。

 夜が明けだし、曖昧だった風景の輪郭を明らかにしていく。
 同時に起こったことの現実を心が受け入れ始める。
 苦しすぎて涙がこぼれる。
 ――君にはプエラを救えない。
 ルウディがそう言った。
「お前のせいだ……」
 何かが沸き起こる前の、地鳴りの様な声だった。
 群集から静かに投げかけられた声。
 それに背を向け、夢遊病者のようにプエラに踏みよった。
「お前のせいだ」
 先ほどよりもよりはっきり届いてくる声。
 奏はまた数歩、プエラに近づく。
「お前が余計なことをするから」
 違う声。
 だが、よりはっきり。
 プエラ。
 プエラ。
 心の中で彼女の名前を呼ぶ。
「よそ者が余計なことをするから、余計な人間が傷ついた」
 悪魔のささやきのような声は、より大きくなった。
 プエラ。
 プエラ。
 君は。
「こないで」
 奏は足を止めた。
「それ以上近寄らないで」
 プエラは顔を伏せたまま、しわがれ老婆のようになった声を上げる。
「あなたに……私は責められない。あなたは私を指差そうとした」
 奏を地獄に突き落とすような言葉だった。
 なにより、それは間違っていない。
 自分が落ちる。
 奈落まで。
「お前さえ居なければ」
 次に、奏を地獄に巻き込もうとする群衆の声。
「お前さえ居なければ、こんなことには」
 奏は絶望的な気持ちで群集を振り返る。
 そこに人間は居なかった。
 憎悪とか、殺意とか、そんな紫色が目の前に渦巻いている。
 たった一言、いいわけを許されるなら。
「こんなつもりはなかった……」
 奏はつぶやいた。
 声は渦に飲み込まれ、消えてゆく。
 渦が徐々に奏でを飲み込もうと近づいてくる。
 悲しい。
 家族の顔。
 伊集院照子の顔。
 藪北、大家貴信の顔までも思い起こされる。
 ユーナ。
 助けられなかった。
 なによりも、それが心残り。
 
 
 無数の殺意の双眸が、奏を殺そうと近づいてくる。
 奏の肉を握りつぶし、目玉を抉り出し、内臓を取り出して踏みつける。
 一瞬先の未来。
 ーーしゅんっ
 風。
 つむじ風が奏のほほを掠める。
 ーーしゅんしゅんっ
 続けざまに二つ。
 奏の髪を揺らす。
「うわあっ」
 誰かの悲鳴。
 詰め寄ってきていた群集が、距離を開け始めた。
 どうした。
 つむじ風に驚いたのか。
 ふと気づく。
 奏の数歩先の距離に、三本の何かが地面に突き刺さっている。
 紫色の、ツララのような固体。
 見たことがある。
 −−しゅんっ
 三度の風。
 地面に突き刺さった風は、奏の背後からやってきた。
 振り返る。
「カナデ! 走れ!」
 遠くから誰かがこっちに来いと手を振っていた。
 ぼんやりと眺めていると、痺れを切らした誰かはこちらに走ってきた。
 群集が再び奏に詰め寄る気配。
 ざわざわと無数の足男が聞こえたと思うと、再び風を切る音。
 ツララのような物体が、再び群集の目の前の地面に突き刺さる。
 影縫いのように動きを止められた群衆は、檻の中に居る獣のように奏を食らおうと唸り声を上げている。
「馬鹿! なにをぼーっとしてるんだ!」
 突然腕をつかまれて引っ張られた。
「クユスリさん……」
「殺されたいのか!」
 クユスリに腕を引かれると、奏は機械仕掛けのように走り出す。
「クユスリさん、俺は……」
「すべて見ていた! 話は後だ! いまは逃げるぞ!」
 群集の動きを止めていたのは佐々倉想平だ。
 大木の上から、駆け出そうとする住民の足元をめがけて戒力の矢を放ったのだ。
 奏がやってきたのに気づくと、佐々倉想平は木から飛び降りた。
 自分で走る意思のない奏の腕を引いて「本当に見捨てるぞ、くそがき!」と悪態づいていた。
 殺されれば良かったのに。
 ふと、そんな言葉が脳裏をよぎる。
「面倒みれん! 仕方ない、奏! 恨むなよ!」
「ふざけんな!」
 奏から手を離そうとした佐々倉想平に、鬼のような罵声を浴びせるクユスリ。ぐう、と唸りながら奏の腕を引く佐々倉想平。
 こんなときなのに。
 涙が止まらない。
 何をしてるんだろう。
 自分の人生に何か意味があるとして、どうしてこんな無意味で空虚な経験を神様は科したのだろうか。
 どうやって逃げてきたのかは分からない。
 息切れ切れにクユスリと佐々倉想平が立ち止まったのは、森の中にある洞窟の前だった。
「中に潜むぞ。夜まで動かないほうがいい」
 言葉は奏に届かない。
 声はすべて耳元で燻って、諦めて耳の穴を引き返していく。
 断続的に途切れる記憶。
 気づくと横になっている。
 クユスリと佐々倉想平が時々激しく言い合っているが、内容はまったく理解できない。
 洞窟の入り口から刺す光に、暗い洞窟内の二人はシルエットとなって、奇妙な影絵の演劇のように奏の目に映った。
 フラッシュバックのように先ほどまでの絶望的な光景がよみがえり、奏の小さな胸を苦しめ続けた。
 その度に声を上げて泣く。
 この絶望的な気持ちは、一生続くのだろうと思った。
 そして、この記憶に犯され、痛めつけられ続けながら、奏はいずれ陸に打ち上げられた魚のように死んでいくのだろうと思った。

 

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