あっちから変なの出てきた

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第十章 【 ディザーテッド・タウン編 マリィ 】


  •  目を覚ますと硬い床の上にいた。石作りの床らしい。
     立ち上がろうとして、立ち上がれないことに気づいた。
     今まで意識を失っていた理由を思い出す。果たして自分は五体満足でいられているのかが不安になった。腕の一本もなくなっていても不思議はないと思ったが、目の前に両手を翳してみて、まだ腕は二本あったので安堵した。アバラが折れてるかもしれない。動こうとすると、脇腹が酷く痛む。
     何でこんな目に遭わなくちゃならないんだとうんざりしたとき、自分の居る場所がどこなのか分かった。
     顔を上げると目の前に鉄格子が見えた。鉄格子越しには机が見え、机の向こうに仏頂面で腕を組んでタモンを見下ろしている自警団長の姿が見えた。
    「気がついたか。俺の忠告を聞かないからこういう事になるんだ」
     タモンは何かを言おうとしたが脇腹が痛み、口から出てきたのは呻き声だけだった。
    「あんなところで何をしていたんだ? ヒンミンガイの人間だと間違われても当たり前だ」
     タモンは体を起こして、ようやく胡坐を掻いた。この怪我で明日町を追い出されるのだと思うとぞっとする。
     問題を起こしては、もう何の融資も期待できない。身包み剥がされ、単身荒野に放り出される事は間違いなかった。
     タモンの言い分は聞き入られることはなさそうだ。自警団長はいかなる言い分も受け入れない、という怫然とした態度である。
    「朝までそこに居ろ。明日の朝には出してやる」
     タモンは言い訳を考えるのを止めて尋ねた。
    「……子供は?」
    「子供?」
    「俺と一緒に子供が倒れていただろう」
    「……ああ」
    「どうしたんだ?」
    「死んだ」
    「死んだ?」
     タモンは驚愕して自警団長を見る。自警団長もタモンを見返している。
    「あのパン屋の主人はどうなったんだ?」
    「パン屋の主人? ああ、スティーブのことか? それがどうかしたかな」
    「殺人者だろう! そいつはどこに居るんだ?」
    「パンを作ってるさ」
    「パン? パンを作ってるのか?」
    「そうだ」
     憤然としたものが腹の底から沸き起こる。
    「ここを出してくれ」
    「どうして?」
    「子供を殺した奴を捕まえに行くんだ」
    「どうして?」
    「どうしてって……当たり前だろう! あんたは放って置く気なのか?」
    「ああ、彼に罪はない。パンを盗んだ子供が悪い」
    「なんだって?」
    「子供はパンを盗んだが、パンを作るのはスティーブだ。言っていることが分かるか?」
    「そいつがいまパンを作っているのに、何で俺が檻の中に入ってるんだよ」
    「この町は俺達の町だ。余所者がどうこういう問題じゃない」
     理解した。同じなのだ。この町は何もかも同じ。ユベリア大衆国の縮小図そのもの。
     三ツ目族の脅威のないこの町で存在するものは、二ツ目族同士の差別、偏見、迫害。人の命を尊ぶことを喪失した上流社会の人間たち。現在のユベリア大衆国となにが違うというのだろうか。
     千年前に存在した二ツ目族の帝国が滅んだのは、滅ぶべく理由があった、とは思いたくない。
     たとえ現在の三ツ目族、四ツ目族主体の体制が滅び、再び二ツ目族の国が復興したとしても、やはりなにも変わらない。そんな残酷な現実を突きつけられているようだった。
     タモンが鉄格子を掴んで自警団長に怒鳴りつける。
    「余所者だろうが何だろうが、子供の命には変わり無いだろう。あんた、それでいいのか?」
    「それでいい」
    「なぜだ。子供が死んでいるのに、どうして平気な顔をしていられる? あの子供の親はどうしてる? 親が黙ってなどいないだろ」
     鉄格子を掴んで訴えるタモンに対して、自警団長が憮然と立ち上がる。
     手には黒い鉄棒を持っている。それを手のひらに打ち付けている。
    「おかしいぞ、あんた。あの男は無抵抗な子供に向かって何度も木の棒を頭に打ちつけたんだぞ」
     自警団長は黙っている。
    「ヒンミンガイ? それが原因か? ヒンミンガイとは何だ。ヒンミンガイの子供は殺してもいいのか? そう言ってるのか?」
     自警団長は黙っていたが、しばらく後に「そうだ」と答えた。
    「狂ってるぞ。この町がおかしいのはあんたのせいだ。あんたが狂わせてる。誰のせいでもない。あんたのせいだ!」
     自警団長は、鉄格子の近くに踏み寄って来ると冷たい視線でタモンを見下ろした。
    「お前はただの旅の商人で居れば、明日の朝には十分な水と食料を手にして町を出られたんだ。その機会を潰したのは貴様自身だ」
    「俺は子供を助けようとしただけだ! 体の大きな大人に馬乗りにされて、殺されようとしている子供を助けて何が悪い!」
    「良し悪しの問題だと思ってるのか。お前が犯した過ちは、俺の言うことを訊かなかったということだ」
     タモンは怒り狂って自傷的になりそうな思いに打ちひしがれた。余りにも有り触れてしまった「理不尽」という、謂わばこの国の「常識」がタモンの全身の血を逆流させる。
     自警団長は何も言わない。押し黙ってタモンを見下ろしている。暫時、二人は睨み合う中、重い沈黙を意識する。
     その沈黙を破ったのは、乱入してきた自警団員の男だった。
    「団長、大変です」
     自警団長がタモンから目を逸らさずに「何だ?」と問うと、団員は自警団長に耳打ちする。
     自警団長の表情が微妙に変わる。
     タモンが訝しげに二人のやり取りに注目する。
     自警団長が「分かった」と言うと、団員の男は牢屋から居なくなった。
     自警団長がもう一度タモンを見た。その表情は何の感情も無く、その感情の無い唇が無機質に上下する。
    「もうしばらく、そこに居てもらうことになりそうだ」
     タモンは寒気がした。その事実ではなく、その冷酷な表情にだ。
    「どういう事だ」
    「……死体が発見された。馬小屋の子供だ。お前は馬小屋の近くでうろうろしていたらしいな」
    「俺が殺したと?」
    「……そうは言ってない。だが、この町で殺人事件など何年かぶりだ。その何年かぶりの殺人事件が余所者を町に入れたときに起こった。どう考えても、結びつきを考えるだろう。しばらくはそこに居てもらう」
    「ふざけるな!」
    「怒鳴っても鉄格子の扉は開かないぞ」
    「そうじゃない! いいさ、誰が馬小屋の子供を殺したか分かるまで俺を閉じ込めていればいい。だがな、馬小屋の子供を殺したのが殺人事件で、ヒンミンガイの子供を殺しても何の事件にもならないなんて馬鹿げてるだろうが!」
     自警団長は、今度はこちらを向いていない。
    「俺は認めないぞ。あの子供の最後の顔を忘れないぞ。こんなこと許されてたまるか!」
     その時、自警団長がひどい剣幕で、持っていた棒を鉄格子に叩き付けた。酷い轟音を立てて檻中が痺れるような衝撃が走った。
    「余所者に何が分かる! これは町の問題だ!」
     タモンは体の怪我も忘れて反射的に飛び退いた。一方、自警団長は肩を怒らせながら、早足にその場をあとにした。
     
     
     しばらく床の上に座っていた。
     明日に絶望しながら頭を抱えていると、表が騒々しいことに気づいて面を上げた。
     窓が一つだけあった。この牢屋の高い位置に見えた。タモンが両手を伸ばして、ようやく窓の縁に手が届く。窓にはやはり鉄格子がかかっていたが、表の様子は窺えそうだった。
     痛む身体に鞭打って、窓の縁に手を掛け懸垂すると、窓の位置まで顔を持っていった。
     驚愕した。牢屋の周囲には驚くほどの大群がこの牢屋の前に押し寄っていた。
     口々に怒鳴り声をあげている。タモンを連れてこいと怒鳴っているのだ。タモンはぞっとして窓から顔を伏せた。
     牢屋小屋の壁を叩く音がした。その音をきっかけに、群衆が一斉に牢屋を叩きはじめた。
     地鳴りのような轟音が牢屋を埋める。
     タモンは頭を抱えるように両耳を抑えた。牢屋が潰れるのではないかと思うほど、ものすごい衝撃と音。
     タモンは頭が潰れてしまうほどに、力いっぱいに両耳を抑えた。
     
     
     眠っていた。
     夢は見なかった。
     いや、見ていた気はするが覚えていない。
     目覚めた直後に忘れる夢。
     感情だけが残っている。
     胸が締め付けられるような、息苦しさを残している。
     ――夜か。
     窓を仰ぐと、月の光が見えた。
     すこぶる気分が悪い。脱水症状だ。水分が足りない。
     タモンは体を起こした。目の前はほとんどが闇だ。何も見えない。いつ寝入ってしまったのかも分からなかったが、牢屋の周囲から群集は居なくなっているようだった。牢屋には誰も居ない。朝まで誰も来なかったら、タモンは脱水症状で死んでしまう。
     タモンは大声を上げて誰かを呼んでみたが誰の返答も来ない。それからもしばらくの間、自警団長や、それ以外の人間を呼んでいたが誰かやってくる様子はなかった。
     タモンは諦めて、石でできた壁に背を凭れていると、音が聞こえてきた。小屋のカギ開ける音だ。タモンは体を起こす。
     暗くて誰が来たのか分からない。黒い影が牢屋の鉄格子越しに見えた。
     タモンは声を上げる。
    「誰だ……。水をくれ。喉がからからだ」
    「水? 殺人鬼が何を言ってるの?」
     女の声だった。聞いたことのある女の声。
    「誰だ」
    「リンダよ。リンダ・マーカディ。お昼に会ったわね」
    「リンダさん。たのむ、水をくれないか」
    「ふふふ。水が飲みたければ団長さんに頼めば?」
    「自警団長が来ないんだ。頼む、明日まで放っておかれたら俺は死んでしまう」
    「そうしてもらえると好都合だわ」
     タモンはマーカディの黒い影にじっと目を凝らす。
    「あんた、一体何しに来たんだ?」
    「あんたに用はないわ。あんたの荷物に興味があるだけ」
    「荷物? 俺の荷物がそこにあるのか?」
    「そうよ。自警団長がこの小屋に隠してる」
    「止めろ! 俺のものに手を振れるな!」
    「無駄よ。あんたは今夜中に干からびて死ぬんだから別に良いじゃない。残った荷物は私が大切にしてあげるから心配しないで」
    「冗談じゃない!」
    「もちろん本気よ。放っておいたらドロレスに全て持って行かれてしまうわ。あんな腐れババアに持っていかれるより、私がもらったほうが品物も幸せってもんだわ」
    「やめろ。俺のものに触るな。触ったらーー」
    「触ったらなに? 殺す? 恐いわね、殺人鬼の言うことは。でも、そこからは出られないわ。残念だけど」
     タモンは鉄格子から手を伸ばして、その黒い影を掴もうとしたが、手は空しく宙を掴む。
    「恐いわ。こんな異常者を町に入れるなんてドロレスの責任問題だわ」
     ――歯がゆい。こんな物の価値も分からないような贅肉の固まりに、自分が命を懸けて集めた宝を持っていかれるなんて。
    「あったわ。こんなところに」
     マーカディが興奮気味な声を上げた。
     マーカディは床にあった底板を剥がして、床下からタモンのバックを取り出すと、よほどうれしいのか、脂肪を揺らして小躍りした。
    「さて、中身は家に帰ってじっくり干渉させてもらうわ」
    「まて、待ってくれ」
    「取り返せるものなら、そうしてご覧なさい。どうせ明日には死ぬのに、うるさい犬だわ。この馬鹿」
     憤怒が腹の底から吹き出してきた。この鉄格子が今すぐ取り払われるなら、毎日、神にお祈りをしても構わないと思った。
    「ちょっと待て、少しだけ待ってくれ」
    「なに? 犬に貸す耳はないわよ」
     落ち着け、と自分に言い聞かせる。このブタに良いようにあしらわれたままでは終われない。
    「教えてくれ。馬小屋の子供が殺されたって、一体どうやって?」
    「あんたが殺したんじゃないんでしょ? そのくらい分かるわ。あんたに罪を着せようと誰かがやったんじゃない? でも、どうでも良いことだわ。おかげでこれが手に入ったし」
     ――まさか、この女の仕業か?
    「ヒンミンガイとは何だ? 死んでいく人間になら、喋ったっていいだろ」
    「……そうね。品物のお礼に教えてあげるわ。ヒンミンガイは、この町のクズが集まった集落。盗人や頭の悪い人間の巣窟よ。あんたみたいな下品な人間のゴミ溜。私たちが食料を配給してあげないと、生きてもいられない」
    「そこの人間は、虐げられても文句を言えないのか?」
    「当たり前じゃない。あそこの人間は私たちに迷惑をかけてばかり。火を付けて皆殺しにしたほうが良いんだわ。今日だってパン屋のスティーブのパンを盗んだのよ。実際、ヒンミンガイの人間と、その向こうの隔離施設の人間は処刑しろと通告もあるのよ」
    「隔離施設? 通告? 通告とはどこからだ。政府から逃れてる町なんだろ」
    「もちろん政府は関係ない。通告を出しているのはドロレス。彼女がこの町の支配者よ。彼女には誰も逆らえない」
    「なぜ、ドロレスがそんな力を持ってるんだ」
    「もういいでしょう。こんなところにいつまでもいたら、自警団長が戻ってきてしまうわ」
    「分かった。最後だ。教えてくれ。隔離施設とはなんだ」
     マーカディがやれやれと溜息を漏らす。
    「恐ろしい病原菌の巣窟よ。四年前に、この町に疫病が流行ったの。恐ろしい疫病。町の人間の大半がその病に犯された。その病気にかかると九割がたは死に至る恐ろしい疫病だった。その病原菌がその隔離施設に残ってるの。今でも病人がそこにいるのよ? 信じられる? ぞっとするわ。早く火を付けてしまえば良いんだわ」
    「……医者は居ないのか? その施設に医者は?」
    「居るわけ無いじゃない。病気になったものは、縛り付けられてそこに放り込まれるだけ。ヒンミンガイの人間がそこに出入りしてるらしいから、ヒンミンガイの人間は病原菌を持ってるかもしれない。だから町に入ってくるのを嫌うのよ」
    「馬鹿な……」
    「あんたも、そこに入れられるんじゃない? ……もう良いわね。私は行くわよ。それじゃあ、怨まないでね」
    「まて、まだ聞きたいことがある!」
     タモンは叫んだが、マーカディは鼻歌を口ずさみながら小屋を出ようとした。だが出れなかった。新たに小屋に入って来る人間が居たのだ。
     マーカディは、小さく悲鳴を上げた。
    「ビックしした! 団長さんじゃないの」
     自警団長の声が聞こえた。
    「何してるんだ、マーカディさん。ここはあんたの来るようなところじゃない」
    「あら、そうね。ちょっとあなたに用があったのよ」
    「私に用事?」
    「ええ、でももう用事はすんだわ。ふふふ。また明日」
     マーカディは団長の横を摺り抜けようとするが、すぐに自警団長に呼び止められて足を止めた。振返ったマーカディに自警団長は淡々と言う。
    「それは置いていけ。あなたは盗人ではないだろう」
    「何のことかしら?」
    「とぼける気か? この自警団長を目の前にとぼける気か?」
    「……いいじゃない。殺人鬼のものを持っていって、一体なにが悪いっていうの?」
    「殺人者と決まったわけじゃない。無実なら荷物は彼に返し、町を出ていってもらう」
    「……あら、自警団長さん。それが私に対して利く口かしら。あなたは誰のおかげで、その立場で甘んじられているとお思い?」
     リンダ・マーカディは強かな態度に出るが、自警団長に動揺した素振りはない。
    「私は私の意志でここに居る。あんたのお陰でもないし、誰のお陰でもない。いいか、その気になれば、今すぐあんたを盗人で彼と同じ牢屋に閉じ込めてもいい」
     マーカディは黙り込む。暗闇のためマーカディの表情は伺えない。
    「……覚えてらっしゃい。私に対して、そんな口を利いたことを後悔させてあげるわ」
     マーカディは捨て台詞を吐くと、タモンのバックを自警団長に投げ渡し、憤慨した様子で小屋を出ていった。
     マーカディの背中をしばらく眺めていた自警団長が牢屋に向き直ると、ゆっくりと机に腰掛け、タモンのバックを傍らに置いた。
    「団長さん。その、なんてお礼を言っていいか」
    「お礼はいい。それに俺のことを味方だとも、良い人だとも思うな」
     暗闇の中から自警団長の声が聞こえてくる。
     タモンは恐る恐る訊いた。
    「分かった。……それと、一つお願いがあるんだ。水をくれないか。喉がからからなんだ」
    「囚人が何を言う」
    「俺は殺してない。あんただってそう言っただろう」
    「殺した殺していないが問題じゃない。昼間に言っただろう。お前が犯した過ちは、俺の言うことを無視したことだ。お前が殺していようが殺していまいがお前は囚人で、以降これが覆されることはない。数日以内にはお前は処刑される」
    「しょ、処刑!?」
    「ああ、今、大講堂でお前のことについて話し合ってきた。処刑が決まった」
    「そんな身勝手な理屈があるか!」
    「町は町の判断で善悪を決める。殺人が起きて町の人間に大きな不安が生じた。大きな不安とは、お前が町を出たらこの町のことを政府に密告するのではないかという懸念だ。よって、処刑することになった」
    「何だそれは! 俺には町に干渉するなとよそ者扱いしておいて、いざ容疑がかかったら、この町の身勝手な理屈で俺を処刑するのか?」
    「そうだ」
    「馬鹿げてる! 俺は殺していない!」
    「だから町に余所者を入れたくなかった。俺の忠告を聞かないからだ」
    「そんな理不尽なことが有り得てたまるか! あんた自警団長だろ? あんたはこの町の象徴だろ? 町の理性でルールであるはずだろ。こんな馬鹿げたことが許されるって言うのか?」
     自警団長は答えない。答えないまま席を立ち、小屋を出ていってしまった。タモンはその背中に必死に訴えたが、自警団長が戻ってくることはなかった。
     しばらくして再び訪れる人があった。南京錠を開く音がしたので、うな垂れていたタモンは顔を起こす。
     恐る恐る小屋に入って来る人影があった。
    「誰だ」
     タモンが声を出すと、その人影がひたり、と立ち止まる。
    「誰だ? 何しに来た?」
     人影はゆっくりと牢屋に近づいてくる。タモンは黙って眺めていた。
     鉄格子の前まで来ると、人影はしゃがみこみ、その場に何かを置いた。何が置かれたのかと思い、タモンは静かに近寄った。
     匂いがした。うまそうな匂いだ。目を凝らすと、そこにはパンとスープと水があった。タモンの喉が鳴る。
    「誰だ? これは何だ?」
     処刑の話しもある。毒入りかもしれない。簡単に手をつけることは出来ない。
    「何だと訊いてるんだ」
     タモンが尋ねても、人影は何も言わなかった。近寄ろうとすると、人影は一定の距離を保つように後退りする。
    「毒なんて入ってないだろうな?」
     とタモンが訊ねると、影はぎこちなく頷いた。タモンは鉄格子から手を伸ばし、スープを手に取った。気が狂いそうなほど良い香りがする。
     タモンは味を確かめるようにスープを啜る。毒の味はしなかった。
     次の瞬間、タモンは猛獣のようにパンに噛り付きスープを啜り、水を飲んだ。その様に影は恐れ戦いたが逃げようとはしなかった。
    「お前は誰だ?」
     タモンはパンを頬張りながら訊ねる。果たして影は答えない。体格から判断すると子供のようだった。
    「マリィさん?」
     影が首を振る。
    「……カイヤ?」
     影が一瞬固まって、次に恐る恐る頷いた。
    「そうか、ありがとう。生き返った。君は命の恩人だ」
     カイヤはそこに佇んだまま動かない。カイヤは言葉が喋られないとマリィが言っていた。
    「君の意志でこれを持ってきてくれたの? それとも誰かに頼まれた?」
     カイヤが頷く。
    「俺は殺人鬼なんかじゃないんだ。恐がらないでくれ。少しだけど台所で話したよね。覚えてる?」
     カイヤは頷く。
    「俺が悪い人間に見えた?」
     カイヤは少し戸惑った後、首を横に振った。
     タモンは嬉しかった。嘘でも嬉しかった。
    「誰かに頼まれたのかい?」
     カイヤが頷く。
    「誰に? ドロレス?」
     首を横に振るカイヤ。
    「ルフィ?」
     やはり首を横に振る。
     ――それじゃあ、誰なんだ?
    「マリィ?」
     やはり首を横に振った。もうタモンが知る人間なんていない。
     いや、一人いる。
    「まさか……自警団長?」
     カイヤが痙攣しているかのように、三回頷いた。予想外の答えだ。
    「ごめんな、訊いてばかりで。もう少しだけ聞かせてくれ。君がここに来ることを知っているのは、自警団長だけ?」
     カイヤは頷く。
    「他の誰も知らないんだね。それじゃあ、教えてくれ。ドロレスとは何者だ? あの屋敷は一体何なんだ? 政府から逃れている町の生活がこんなに豊かなわけがないし、ドロレスの住んでいる屋敷は二ツ目族の住居としては考えられないほど裕福だ。それにルフィみたいなあんな美人……いや、それはいいか」
     タモンはこの局面を抜け出すには、ドロレスを利用するしかないと思い、ドロレスのことを訊こうと思ったが、良く考えたら彼女は喋ることが出来ない。
    「いや、ごめん。ありがとう。ご馳走様。助かった。君はこの食器を持って帰らなくちゃならないんだろ? 気を付けて。誰にも見つからないように」
     食器を返すと、カイヤがお盆に食器を乗せて持ち上げる。
     だがカイヤは立ち去ろうとしない。不思議に思って彼女を見上げる。
    「どうした?」
     タモンがそう訊いても、喋ることが出来ないカイヤは何も答えない。小便を我慢している子供のように身体を捩じらせている。
    「トイレか? 漏れそうなのか?」
     慌てて首を横に振るカイヤ。
    「なにか言いたいのか? 俺になにか伝えたいのか?」
     カイヤが俯いた。暗くて表情は分からない。意思が理解できず戸惑っていると、カイヤは小屋を駆け足で出て行ってしまった。遠ざかる足音。
     一体なんだったんだろうと暗闇を眺めていると、カイヤの出ていった後の開いた小屋の扉を閉める影があった。
     カイヤではない違う影が、扉の施錠を行っている。やがて南京錠が掛けられ、その影は小屋を離れていった。
     タモンは呆然と目の前の闇を眺める。昼間の風呂に入ったり、大きなベットに横になっていた自分が羨ましかった。
     こんなことなら自警団長の忠告を聞いとくべきだったと、強烈に後悔した。
     
     
     夜は夜で氷点下近くまで冷え込み、凍え死ぬのが恐ろしくて眠れなかった。冷たい石の壁や床は容赦無く彼の体温を奪っていく。タモンは夜通し体を動かして夜を乗り越えた。
     やがて朝が訪れて、過ごしやすいのはほんの一瞬だけ。昼間は急激に気温が上がる。
     直射日光はないし、日陰は割合過ごしやすいものの、それでも風通しの悪い牢屋は地獄の蒸し暑さだった。日が昇ると石の床や壁に体を押しつけて高くなった体温を吸い取ってもらう。
     太陽が南中に差し掛かった頃、小屋のカギを開ける音がして、タモンは水をせがもうと、鉄格子にしがみ付いた。
     入ってきたのは自警団長と、スキンヘッドの自警団員三人組。それから見知らぬ男が一人いた。
     その見知らぬ男を囲むようにして、むさ苦しい男の集団が小屋に入ってきた。
     頑強な男達に囲まれて、澄ました顔をしているのは、どう見ても弱々しい優男で、この荒野地帯には不釣り合いなほど肌が白かった。
    「大人しくしてろよ」
     自警団長は連れてきた優男にではなく、タモンにそう忠告した。
     自警団長は牢屋のカギを外して扉を開くと、優男を牢屋に押し込めた。優男は黙って部屋の中央まで歩いていくと、澄まし顔のまま鉄格子の扉が閉められるのを黙って見ていた。
     タモンは訴えた。
    「喉がからからで死にそうだ。水をくれ。頼む」
    「うるさい。大人しくしていろ」
     あっさりタモンを無視すると、すぐに小屋を出ていってしまった。小屋の南京錠を閉める音が聞こえると、タモンはその場にうな垂れた。
     ――今日こそ、死ぬかもしれない。
     絶望しながら、牢屋に訪れた来客を振返った。
     色白の男は、やけに赤味を帯びた唇を釣り上げ「やあ」と一声あげる。
     一瞬、女のように見えたが、すぐに思いなおす。間違いなく男だ。声が男だ。
     タモンは「やあ」と疲れた返事をしただけだった。
     ――迷惑な客人だ。隣で死なれたらどうする。
     色白の男は、ゆっくりと部屋の隅まで歩いていくと静かに座った。おかしな服装をしている。色彩の派手なターバンを頭に巻いて、体中に色彩鮮やかな布を何十枚も巻きつけている。手に二つの鉄の玉を持っていて、手の中で転がしている。
     タモンの珍しい物好きの根性に火が点いて、訊いてみた。
    「その鉄の玉はなんだい? 手で転がすと健康にでも良いのか?」
     色白の男は、微笑なのか素の表情なのか判別しにくい顔をタモンに向ける。
    「これかい? これは入れ物さ。悪意がたくさん詰め込んである」
     タモンが不可解そうな顔をすると、色男は続けて言った。
    「ふふふ、冗談だよ。これは楽器だ。古代の占い師が使っていた楽器。これを奏でるにはコツがいるんだが、ほら、聴かせてあげよう」
     色白の男は二つの鉄の玉を持った手を顔の位置まで持ち上げ、擦り合わせるように手の中で転がす。
     すると音がした。鈴の音と、石と石を擦る音を合わせたような音だ。心が落ち着かなくなる音だった。
     タモンはお礼を言うと、色白の男は音を出すのを止めた。
    「古代の楽器なのか?」
    「そうだよ。昔々、友人から貰った」
    「へえ、そんな楽器は初めて見た」
    「そうかい?」
     それから、しばらく何の会話も無かった。会話する意味も無い。
     タモンはとにかくここから出たかったし、頭の中は水のことでいっぱいだった。
     
     
     何時間くらい過ぎたであろう。まだまだ日は高い。タモンは気が狂いそうだった。
     この優男の喉を掻っ切って血を啜るのが、最も正しい選択に思えてきた。
    「辛そうだね」
     優男がタモンに声を掛けてくる。
    「ああ。ミイラになる日は近いね」
    「まだ大丈夫さ。それに日が暮れたらカイヤが来てくれるよ」
     タモンは振返って色白の男を見る。
    「カイヤを知ってるのかい?」
    「いや面識はないよ。会ったことも無い。でも知ってる。ドロレスも、ルフィも、マリィも知っている」
    「へえ。でも変わった人だね。色白で日焼けもしていないし」
    「色素が薄くてね。あまり日の光を浴びないところにいたものだから」
    「そう。まあ、ルフィさんもドロレスも色白だ。珍しくない」
    「ふふふ」
     色白の男が笑ってから言った。
    「変わってるのは君のほうだよ。名前を聞いても良いかな?」
    「名前を聞かれたのは町に来て初めてだ。俺はタモン。それだけ。昔、遠い島国の魔術師に付けてもらった」
    「魔術師?」
    「ああ。みんなそう呼んでた」
    「へえ。どんな人なんだい?」
    「すごい人だよ。眷族を一人で二十も持つ偉人だ」
    「眷族を二十も?」
    「そう。その人にあこがれて、俺は眷族との契約の旅に出た。いつか俺も沢山の眷族と契約して故郷に帰る。そして魔術師の弟子になるんだ」
    「へえ、すごい。それで、眷族とは契約できたのかい?」
    「実はひとつも契約していないんだ。契約を試みたこともあるんだけど、どうやら素質がないらしい。トンベルクさえ契約できなかったんだ」
    「そんなことはないさ。きっと相性の合う眷族がいる」
    「そう言えば、この町の人間は眷族と契約してるのかな。そう云う話題が一切出なかったけど」
     二ツ目同士が出会えば、必ず最初に眷族の話題になる。相手がどんな眷族を何種類持っているのか。本当のことを言う人間はいないが、挨拶代わりのようなものだ。
     ルウディが穏やかな声を出す。
    「この町の人間で眷族を持ってる者は皆無さ。この町で生まれ、この町から出たことのない人間たちだ。ひょっとしたら眷族の概念さえ薄いかもしれないね」
    「まさか。持っていなくても存在くらい知っているだろう」
    「どうだろうね」
     微笑を崩さない優男。
     ふと気づいて訊ねる。
    「……ところで、あんたは?」
    「僕はルウディ。北の果てからやってきた。こことはまるで正反対の気候だ。日もあまり出ないし、気温も零度を上回ることも無い」
    「すごいな。そんなところにいて、ここの暑さが苦痛じゃないのか?」
    「基本的にどこでも平気だ。だが、一番居心地が良いのは……」
     ルウディは、その先を喋らなかった。代わりにクスリと笑う。
    「君は本当におかしな人だなぁ」
    「俺のどこがおかしいんだ?」
    「普通、人がこんなところに入ってきたら、どうして入ってきたのか、理由を聞いたりすものじゃないのか? 気にならないのか?」
    「どうせ、また町の人間が、理不尽な理由であんたをぶち込んだんだろ?」
     ルウディは、可笑しそうに腹を抱えて大笑いをした。
     タモンは馬鹿にされている気分になり、少し不愉快になった。
    「そう思うかい? 僕が何の罪でここに入ってきたか、訊きたいかい?」
     タモンは眉を顰めた。
     そのときルウディの瞳が、赤く光ったように見えた。
    「殺人さ。馬小屋の子供を殺して、その肉を食った。あまりにも飢えていたもんでね」
     そう言って、けたけたと笑うルウディにタモンは言葉を失った。
    「驚いたかい? こんなところにいつまでも一緒にいたら、今度は君を食べてしまうかもしれないよ」
     ルウディのおかげで、タモンは冷たくなれた。氷のような冷たい女の手で、全身を撫でられたみたいだった。
     タモンは言葉を失っていると、ルウディは言った。
    「君は若くて美味しそうだ。この話し、信じるかい?」
    「……信じない、って言っておく。だって馬小屋の子供を食うより、俺だったら馬を食うからね」
     そう言うと、ルウディは驚いたように目を丸くし、可笑しそうにケタケタと笑った。タモンはこの男の心理が掴めない。何を考えているのか分からない。
     ルウディは可笑しくて苦しそうに言った。
    「冗談だよ。馬小屋の子供を食っていないし、君も食ったりはしないよ。私は旅の途中、この町に侵入して馬を盗もうと思ったら、子供に見つかったて、もののはずみで殺してしまったのさ。だから、ここに入れられた」
    「それが普通さ。人を殺したら裁かれる。裁かれているあんたは、まだ幸運だ」
    「本当におかしなことを言うね、君は」
     ルウディはしばらくそのまま笑っていた。
     ルウディが犯人と分かったのなら、タモンはすぐに出して貰えるだろう。出して貰えたとしても、もう水と食料は期待できない。死に場所がこの牢屋から、荒野の真ん中になっただけだ。
     タモンはすぐにルウディの存在など忘れ去って、頭の中には水のことでいっぱいになった。
     
     
     タモンを出してくれようという人間は、日が暮れても訪れなかった。喉が渇いてへばりついて、喋るのさえ億劫だった。いつまでこの苦痛な時間が続くのか。
     ――死ぬまでだよ。
     と、タモンの中の誰かがそう言った。
     ――馬小屋の子供を殺した殺人犯がここにいるのに、なぜ俺は解放されないのか。
     タモンはルウディを見た。
     暗くなっていたので顔は見えなかった。
     眠っているのか、ルウディのシルエットはぴくりとも動かない。
     
     
     夜更けにカイヤがやってきた。
     夕べのように食事と飲み物を運んできてくれたのだ。タモンはこれで今夜も生き延びられることだろう。それが幸運かそうでないかは別にして、タモンはパンとスープをもさぼり食った。
     猛獣のごとく食っている途中、ふと気づいた。用意された食事は一人分だけである。
     タモンはカイヤに訊いた。
    「カイヤ、一人分しかないのか?」
     カイヤは頷いてみせる。
    「出来れば水をもう少し。ルウディの分も持ってきてやってくれないか」
     カイヤは戸惑いがちに俯いた。
    「……今日も、自警団長に言われてきたのかい?」
     タモンがそう訊ねると、意外にもカイヤは首を横に振った。
    「今日は、誰に言われてきたんだ?」
     カイヤは頷いたままでいる。口が利けないのだから、その質問には答えられない。
    「ドロレス?」
     首を横に振るカイヤ。
    「ルフィ?」
     やっぱり首を振るカイヤ。
     誰だろう、とタモンが悩んでいると、背後から声が上がった。
    「カイヤが自分の意志で持ってきてくれたんだよ。自分の食事を削って、君のために持ってきたんだ」
     起きていたのか、と思いながらカイヤに「そうなのか?」と訊ねると、カイヤが一拍の間を空けて、こくりと頷いた。
     ルウディが続けて言った。
    「感謝しろよ。彼女だって裕福なわけじゃないのに、君に食事を分けて与えたんだ」
     タモンはルウディに言われたからではなかったが「ありがとう」とお礼を言った。
    「もっとちゃんとしたお礼がしたいけど、この通りの身だから、ここから出ることが出来たら、きっと君が喜ぶようなお礼をするよ」
     食器をお盆に返すとカイヤは立ち上がる。
     昨夜みたいに、何か言いたげにしていたが、結局何も言わずーー言えずーー小屋を後にした。
     カイヤがいなくなると、ルウディがケロケロと笑う。
    「カイヤの持っている小屋のカギは、この牢屋のカギも開けられるんだよ」
    「……ああ、気づいたけど……」
    「ならどうしてカイヤに頼まない? カイヤは知らないんだ。小屋と牢屋のカギが一緒だって事は」
    「この町の人間は、平気で子供を殺すんだ」
    「そうだ。ヒンミンガイの人間なら平気で殺す。カイヤを気遣ってなんかいたら、君が殺されるんだよ」
    「……おい、ルウディ。あんたはどうして色々知ってるんだ? 町の人間じゃないんだろ」
    「そうさ、町の人間じゃない。だからこそ良く知ってるんだよ。君はこの町の人間が善悪の区別を理解していると思うかい? ヒンミンガイの差別に罪の意識を感じているかい? 僕らは第三者だからこそ、良く知ってるんだ」
    「なるほど。だけど、それだけか?」
    「もちろん、それだけじゃない。僕は色々知ってる。例えばカイヤが口を利けなくなった理由とかね。知りたい? 知りたいのなら教えてあげても良いよ」
    「なんだよ。面白がりやがって」
    「訊きたくないの?」
    「……なんで、口が利けなくなったんだ?」
     ルウディはくすくすと笑ってから楽しそうに言った。
    「カイヤは四年前に流行った疫病で、家族を全て失った。身寄りも無い彼女はもちろんヒンミンガイ行きだ。あそこは地獄だ。隔離施設の隣に位置するから、あそこの人間は病気を持っているものも少なくない。ただし四年前に流行った疫病はすでに死滅していて存在していないから別の病気だけどね。しっかりとした治療さえすれば簡単に治る病気さ。四年前の疫病はもう存在しないことを知らない町の人間は、ヒンミンガイの人間を毛嫌いする。四年前の悲劇を思い出すからね。――話しが脱線したかな。……そして、路頭に迷ったカイヤはドロレスに拾われて、彼女の家で使用人として働くことになった」
    「何でそんなこと知ってるんだよ」
    「話しの続きを訊きたかったら、黙っていてくれないかい?」
     タモンが頷くと、ルウディは話しを続けた。
    「カイヤは明るくて良く喋る子だった。ドロレスも最初の頃は可愛がっていたが、そのうちあの癖が出るようになった。ドロレスは生っ粋のサディストなんだよ。虐待嗜好者。地下室には様々な拷問道具が揃ってるよ。機会があったら覗いてご覧。下っ腹がぞくぞくするような拷問道具が並んでるから。でも使用人にはそんな酷いことはしない。だって働き手だし、使用人を重傷にさせたら目立ってしまうからね。だから細い棒で背中を叩いて折檻したり、怒鳴りつけたりとね。カイヤはある日、地下室に行った。何気ない興味だったからかもしれない。地下室から臭ってくる刺激臭が気になったからかもしれない。いずれにしても、彼女は地下室へ行き、ドロレスの『戯れ』を目撃してしまったんだ。どんな戯れだったか訊きたい? 聞きたければあとで教えてあげるよ。話しを進めるね。カイヤは戯れを目にして、何も見なかったことにして地下室から出ていれば、何事も無かったかもしれない。そこで悲鳴なんて上げなければ、あるいはこんな事にはならなかったかもしれない。カイヤは悲鳴を上げた。もちろん、ドロレスもその悲鳴を聞いた。カイヤは逃げる。ドロレスはそれを追う。カイヤは自警団長の元へ逃げようとしたが、ルビウスに捕まった。ルビウスは知ってる? 黒髪のいつも黒いコートを羽織ってる男なんだけど、見たこと無いかな。とにかくルビウスに捕まった。ドロレスは酷い剣幕で怒ったし、カイヤはその拷問道具にかけられるのだと思った。だけどドロレスはそんなことしない。ドロレスはもっと残酷な女だ。ドロレスは地下室にカイヤを連れて行くと、泣き叫ぶカイヤを押え込みながら、ペンチで舌を引き抜いたんだ。ほら、良く見るだろ。両手で抱えるほどに大きいペンチ。人間の首を掴めるくらいの大きなペンチさ。それでカイヤの舌を掴むと、一気に引き抜いたのさ。――分かった? カイヤには舌が無いんだ。だから喋ることが出来ない。もちろん、教育を受けていないカイヤは文字も書く事が出来ない。これで、カイヤが地下室で見たことを誰にも喋られないと一安心したわけさ」
     タモンは黙って、愉快そうに話すルウディの話しを聞いていた。
    「それは本当のことなのか?」
    「本当だよ」
    「他にその話しを知っている人間はいるのか?」
    「ううん。どうかな。後は旦那様と、ルフィと、マリィかな。あと自警団長も知ってるな」
    「自警団長も知ってるのか?」
    「そりゃそうさ。いくらなんでも、あれほど明るかったカイヤが喋らなくなったら、そりゃ不自然だろう。嫌でも気づくさ」
    「なんて事を……」
    「そういう町だし、どこへ行ったって同じような話は珍しくもないだろう。三ツ目族や四ツ目族の残酷さに比べれば、ドロレスなんて可愛いものだろう」
    「……どうして、ドロレスがそんなに権力を持ってるんだ? 彼女は何者だ? ルフィも同じなのか?」
    「……それを聞いたら、君は生きてこの町を出られないよ」
    「どうして?」
    「だから、それを聞いたら、生きてこの町を出られないというんだ。君がこの世に未練が無くなったときに教えてあげるよ」
    「じゃあ君は何者だ。それくらいは教えてくれ」
    「おんなじ事さ。それを知ったら、生きていられない」
     タモンは訊かない事にした。何度訊いても同じ事を答えられそうだ。
     ルウディからそっぽを向き、鉄格子の窓の夜空を見上げていると、小屋の南京錠を開く音がしてタモンは緊張した。
     誰かが入って来る。
     人影が鉄格子の前に来た。その人影は、鉄格子の前でしゃがみこんだ。
     ルウディがころころと笑った。
    「君が頼んだんだろ、タモン。カイヤが水を持ってきてくれたんだ」
     タモンが驚いて鉄格子に近寄ると、確かにカイヤがいた。
    「カイヤ……。ごめんな、こんな危険なことをさせて」
     カイヤが首を横に振る。
     目の前にはコップが二つあり、そこには水がいっぱいに注がれていた。
    「ルウディ。君の分もある。水分を摂っておくといいよ」
    「僕は要らない。昼間に人間を食ってきたから一月は持つよ」
    「冗談を言ってる場合か」
    「ごめん、ごめん。でも、本当に要らないよ。僕はそんな残酷なことは出来ないからね」
    「残酷なこと? 何を訳の分からないことを。いらないのなら俺が飲んでしまうぞ」
    「どうぞ」
     タモンはカイヤを長居させるのは危険だと思い、一気に水を飲み干した。
    「ありがとう。でも、もうこんなことはしなくて良いんだ」
     タモンがそう言うと、カイヤが首を傾げる。
    「いや、何でもない。気を付けて帰るんだよ」
     カイヤがこくりと頷くと、小走りに小屋を出て行った。
     
     
     カイヤが出ていってから、ルウディはずっと声を立てて笑っていた。まるで「なにが可笑しいんだ」とタモンに訊ねて欲しいかのように。
     タモンは黙っていた。訊ねるのが気に入らなかった。
     だが、余りに長い間笑い続けているものだから、痺れを切らしてタモンは訊いた。
    「なにが可笑しい」
    「……いや、君が『何が可笑しい』という台詞を吐こうか、吐かまいか、迷って苛々してる様が可笑しくて」
    「人のことを馬鹿にしてるのか」
    「いやいや、そんなことはないよ」
    「それじゃあ言え。なにが可笑しい。本当ななにか言いたかったんだろ」
    「そうだ。言いたかった。君は頭が良いね。さっきから僕の考えていることを見事当ててくれる」
    「いいから……なにが言いたい?」
    「訊きたい? 訊かない方が良いんじゃない? 僕は喋りたいんだけど」
    「遠慮するな」
    「分かったよ。それじゃあ教えてあげる。さっきね、カイヤが屋敷の裏庭の井戸から水を汲むとき、ドロレスに見られている。そして、この牢屋のカギを持ち出すのも見てるし、カイヤがこの小屋に水を運びに行ったのも見てるから、きっと今ごろは――」
    「なんだって!?」
    「きっと今ごろは――」
    「なぜそれを早く言わない!」
    「最後まで言わせてよ」
    「自警団長!」
     タモンは叫んだ。鉄格子をガタガタと鳴らしながら「自警団長」と何度も叫んだ。
    「無理だよ。ここをどこだと思ってるんだよ。町外れの空き地だ。半径50メートルに人は住んでない」
    「そもそも、なぜあんたはカイヤがドロレスに見つかっていると知っている?」
    「知っているから知ってるのさ。僕は何でも知っている。理由を教えてあげてもいいけど」
    「それはあとでいい。それより教えてくれルウディ。どうしたらいい。ここを出るにはどうしたら良いんだ。君は何でも知ってるんだろ。教えてくれ」
    「だから言ったじゃないか。カイヤが来たときにカギを――」
    「それはもう良い! 今だ。今すぐここを出たい。どうしたら良いんだ」
    「方法はあるけど、訊きたい?」
    「またかよ。ああ、訊きたいとも。ぜひ教えてくれ」
    「ここを出て、どうするの?」
    「俺の勝手だろう」
     そう言うと、ルウディは口を尖らせてそっぽを向いた。
    「ああそう。それじゃあ教えない」
     なんだその態度は。憤怒しそうな胸の内を必死に押さえ込んで答える。
    「カイヤのところに行くんだよ」
     聞いた途端、ルウディが目を輝かせる。
    「カイヤのところに? 要するにドロレスのところに行くんだろ」
    「そうだよ」
    「そんな危険なことをして、大丈夫なの?」
    「大丈夫かどうか、行ってみなけりゃ分からない」
    「でも、今度捕まったら本当に処刑されてしまうかもしれないよ。大丈夫なの? ねえ、恐くないの?」
     悪戯を思いついた子供のように訊ねてくるルウディ。
    「いいから開けろ!」
     タモンが我慢しきれず怒鳴ると、ルウディがやれやれと腰を上げた。ルウディは南京錠のかかる鉄格子に近寄った。
    「開いたよ」
     ルウディが南京錠に触れるか触れないかぐらいにそう言った。タモンは眉を顰める。
    「開いたって。急ぐんじゃないの?」
     タモンが鉄格子の扉を触ると、音も無く扉が外側に開いた。
    「どうやって?」
    「生きてもう一度会えたら、教えてあげるよ」
    「……ありがとう」
     タモンがお礼を言って、牢屋を出ようとすると、ルウディがタモンを呼び止めた。
     タモンが振返ると、ルウディが言った。
    「僕、ここにいるから、気が向いたらいつでも寄ってね」
     タモンは首を傾げる。
     どうしてお前は逃げ出さない?
     疑問を一つ残して、タモンは牢屋を出た。
     
     
     随分迷った。深夜ということもあり、人通りが殆ど無いのが幸いしたが、牢屋のあった場所が分からない為、屋敷を見つけるのに随分時間を要した。
     屋敷の前に辿り着く。どこに潜んでいるか分からない自警団に十分注意しながら、窓から屋敷内を覗き込む。薄暗い客間や階段が見えた。壁に立てかけられたランプのお陰で屋敷内は見通せる。見える限り誰の姿もないようだ。
     ルウディの言葉を信じるならば、カイヤはドロレスに地下室まで連れて行かれたはずだ。地下室へ行くには、階段の反対側にある木造の扉から地下への階段を降る。ならば、裏庭に回ったほうがいい。
     昨日の昼間にマリィと話した井戸のある裏庭に来た。洗濯物はすでに取り込まれており、見通しは良い。
     心臓がやけに鼓動する。
     ――何をやってるんだろう。
     深呼吸しながら漠然と思った。
     ――なんで俺はこんなちょっと訪れただけの、ちょっと話しただけの女の子を助けるのに、こんな危険を冒しているんだろう。
     それを考え始めると、気力が萎えてきそうだったので忘れることにした。
     タモンは顔を上げて、裏庭の窓から屋敷内の様子を窺った。
     階段裏の廊下が見える。屋敷は全体的に凹の形をしていて、凹の窪んでいるほうが裏庭で、タモンは今その窪みの中にいる。窪んだ裏庭は建物に囲まれているため非常に見つかりやすい。早く屋敷内に入ってしまったほうが良いと判断した。
     人影はない。所々に蝋燭が立っていて、視界は薄明るい。裏口の扉に手をかける。カギは掛かっていない。
     心臓が逃げ出そうと激しく胸を叩く。胸を付き破れられるのを阻止するように、左胸を抑えながら屋敷内に滑り込んだ。
     おおよそ音はしない。ときどき蝋燭の火が爆ぜる音がはっきりと聞こえてくるほどに森閑としている。
     タモンは耳を澄ます。自分の心臓の音が聞こえる。廊下の床が魔法の絨毯みたいに波打っているように感じられ、自分が小心者だったと初めて思い知った。
     廊下を進む。他の誰かの気配はしない。誰にも見つかることなく、地下室への扉の前に立った。
     刺激臭がした。昨日の昼間に嗅いだ匂いだ。一体なんの臭いなのか。
     タモンは静かに扉を引いた。音も無く開く扉。扉の向こう側から、暗闇が足元に流れ出てくる。闇が手の形になり、タモンの足首を掴むと暗闇へと引き釣り込んだ。
     後ろ手で扉を閉める。扉を閉めると、完全な闇が訪れた。視界は全く利かない。何も見えない。傍らの壁に手を付くと、しっとり湿っている。冷たさが湿っていると錯覚させただけかもしれない。
     タモンは慎重に階段を降った。屋敷の奥深くへ進むほどに、逃げ道は確実に遠のいていくのを意識した。
     ――悲鳴がした。
     タモンは心臓を鷲掴みにされた気がした。危うく階段を踏み違えるところだった。
     悲鳴の後、呻き声が聞こえる。どこから聞こえるのか全く分からない。すぐ傍のような気がするし、ずっと遠くからのような気もする。階段がどこまで続いているのか見当も付かない。随分降った気もするが、まだまだ階段は続き、あるいはこのまま地獄へ通じているのかもしれないとさえ思えた。
     悪い想像を追い出すかのように頭を振る。一度、悪い想像に取り憑かれてしまうと、拭い去るのは容易でない。
     ――悲鳴がした。
     カイヤのものなのかどうかは全く分からない。
     光が見えた。同時に階段の終わりも見えた。
     階段の終わりから廊下が右に折れていて、その先から薄っすらと橙色の光が漏れている。悲鳴も近くに聞こえた。
     階段を下りきる。それから廊下を折れた。
     緊張が全身から汗に変わって吹き出す。額に溜まった汗を拭い、奈落へ通じているのではないかと疑いたくなる廊下を、ひたすら歩いていく。
     廊下の壁には転々と蝋燭が立てられているが、それ以外の場所は暗闇だ。暗闇の先に床があるなどという保証は無い。空間さえあるという保証も無い。
     刺激臭が一層濃くなった。一体何の臭いなのか。
     歩いていくと、右側に開放された扉があった。扉の前を通りすぎようとした時、一瞬だけ心臓が止った。部屋の中に人の姿を発見したのだ。
     タモンは慌てて身体を隠す。聞き取りにくいが会話が聞こえる。
     ――そろそろ、俺達も日の光を浴びたほうがいいんじゃないかな、ロビン。
     ――日の光を浴びないと人は病気になるって言うしな、バビット。
     ――でも、後一年は無理じゃないのかな、ロビン。
     ――そうだな。後一年は無理だな、バビット。
     タモンは物音を立てないように注意しながら部屋の中を覗いてみる。
     部屋の中には、中央に置かれた木造のテーブルを囲んで、うろつく二人の男が会話していた。
     不気味な色に変色した白衣を着ている。老人のようであり、ひょっとしたら若者のように見える風貌。一番の特徴は二人ともやけに猫背であることだ。胸に頭が貼り付いているように見える。
     笑うと歯がほとんど無い。残っている歯も黒々と艶だっている。
     ――何者だ?
     テーブルの上には、怪しい機具が並んでいる。ガラスの入れ物が並んでいる。奇妙な形をしたガラスの入れ物だ。筒状の細長いものがあったり、筒状の入り口から下の方に向かって膨らんでいるもの。中には正体不明の液体が入っている。タモンは見た事がある。遠い島国の魔術師があれと同じ物を持っていた。魔術師はあの道具を、薬を作るために使っていた。
     タモンは本来の目的を思い出した。隙を見て部屋の扉を横切って再び廊下を進む。
     廊下の突き当たりが見える。
     呻き声が聞こえる。
     ドロレスの声が聞こえた。
     ――言いな! すみませんと言ってみな!
     確かにドロレスの声。
     タモンの緊張は最高潮に達した。
     廊下の突き当たりが右に折れている。その先に間違いなくドロレスはいる。
     心臓は功労者だ。こんなに忙しく働かせても、休んだりしない。
     ――お前は、黙って私の言うことを聞いているんだ。その時だけがお前の幸せと教えなかったか?
     何かが弾けるような音が聞こえる。それから、石臼を擦り合わせたような背筋の凍るような音も聞こえてきた。
     悲鳴が闇を切り裂き、余韻のように呻き声が聞こえてくる。
     タモンは廊下の突き当たりまで来た。後は少しだけ頭を突き出せば、ドロレスの姿が伺えるだろう。
     タモンは廊下の角から顔を出してみた。
     そこに見えたのは、ドロレスの後ろ姿だった。ただしなにも着ていない。全裸のドロレスだった。
     距離はない。廊下を折れたところで開けた部屋になっていて、そこにはルウディの言う通り、爪を剥ぐような痛々しい拷問道具の数々があった。
     狂気。タモンはそれが何よりも恐ろしい。人の狂気は絶叫するほど恐ろしい。
     過去にタモンがいるこの場所で、カイヤはドロレスの戯れを見てしまった。丁度いま、タモンが目の当たりにしている状況と同じだ。
     カイヤは悲鳴を上げてドロレスに見つかり、下を引き抜かれた。
     タモンはもう一度、廊下の角から顔を出す。
     ドロレスがいなかった。
     ぞっとするタモン。
     ――どこに行った?
     ドロレスがいなくなって、その向こうにあったものが見えてくる。
     そこには人が吊るされていた。
     カイヤだった。全裸にされたカイヤが両腕を縛られて吊るされている。
     その顔は絶望に暮れていた。タモンはこれほどまでに悲しい表情を見たことが無い。台所にいたカイヤを思い出す。ひどく胸が痛み、居たたまれなくなった。
     カイヤの身体は細く、肌の色は明らかに栄養が足りていないことを物語っている。胸の辺りに破けた皮膚や、異常に腫れた足が痛々しい。
     ドロレスの姿が見えない。どこにいるか分からなければ下手に動けない。
     ――悲鳴がした。
     悲鳴が自分の背後から聞こえた気がして竦み上った。反射的にタモンは振返ったが、今まで歩いてきた薄暗い廊下が伸びているだけだ。
     ――お前はいつから男に色目を使うことを覚えたんだ!? 一体誰の許しを得て、こんな物を持っている? ええ? 答えてみろ。
     ――すみません。奥様。本当の申し訳ありません。
     その声は、マリィのものだった。
     タモンは思わず身を乗り出してしまった事に気づかないほどに動揺した。
     吊るされていたカイヤがタモンの存在に気づいた。カイヤは呻き声を上げる。
     タモンは慌てて人差し指を口に当てて、静かにしろと仕草で示した。
     カイヤは戸惑ったかのように――恐らくドロレスのほうだろう――右手の方を見ると、すぐにタモンに視線を戻した。
     待っていろ、と手をかざす。
     カイヤは首を横に振った。必死な形相で、首を横に振っている。
     ――くるな。
     そう言っている。
     タモンはそれを無視して立ち上がると、部屋の入り口の前に立った。丁度、カイヤに向かい合うように。
     ドロレスは死角にいて、姿は見えない。
     ――いいかい。これは私が貰うはずだった品物なんだよ。お前なんかには、もったいないものだ。今度こんなことをしたら、命はないと思え。
     ――すみません。もう、しません。許してください。
     胸を締め付けるような声がする。
     ――そうか。俺が音楽を奏でる箱をあげたせいで、マリィは折檻を受けているんだな。
     ――俺のせいで……。
     タモンは顔だけを部屋に入れて、様子を窺った。
     ドロレスの後ろ姿が見えた。マリィも見えた。やはりマリィも全裸で、手と足を縛られていた。吊るされていることはカイヤと同じだが、なにか違う。手首を縛られているのは分かるが、足も縛られて地面と結ばれている。
     ドロレスが手前にあったハンドルを少し回した。石が擦れ合うと音がする。
     ――あああ!
     マリィが苦しそうに呻いた。
     タモンは理解した。
     マリィは上へ引っ張られると同時に、下へも引っ張られている。
     その時、ドロレスが振返った。
     タモンは慌てて顔を引っ込めた。
     しまった、と思って全身が粟立った。
     カイヤと目が合う。
     カイヤは絶望的な顔をしていた。
     ドロレスはこちらに歩いてきている。
     カイヤの顔がそう物語っている。
     ――どうする?
     どうすることも出来なかった。
     タモンは硬直した。
     硬直したことが功を奏した。
     ドロレスはタモンの気配に気づかず、こちらに背を向けて、吊るされているカイヤに向き合った。タモンの目の前にはドロレスの尻。
     ――あんたの番だ。いいね。私の言い付けを破った罰だ。一晩中お仕置きをしてやる。
     そう言って、ドロレスが手に持った鞭を振り上げた。
     鞭をカイヤの胸のあたりに打ち付けた。
     激しく弾ける音がして、カイヤが壮絶な悲鳴を上げる。耳を塞いで、その場で蹲りたくなるような悲鳴だった。
     ドロレスは容赦なく、再び鞭を振り上げた。
     タモンは勝手に体が動いていた。恐ろしさに対する反発が身体を突き動かした。
     全身を恐怖で震わせながら立ち上がると、振り上げたドロレスの腕を背後から掴み上げる。
     振返るドロレス。驚愕の表情をしていた。狂気の顔だった。
     昼間見ているのとは想像もつかない顔。
     目が見開かれて潤んでいる。目やにが目を覆い隠すほどにこびりついており、その中で開いた瞳孔が小動物のように輝いている。顔の筋肉が弛緩しており、無表情のような興奮しているような、何とも言えない、不気味な顔。――狂気だ。
     タモンは掴んだ腕を捻ると、裸の老婆を投げ飛ばして床に押し付けた。
     老婆に対してする仕打ちではなかったが、この際どうでも良かった。
     呻き声もあげる暇なく、タモンは手刀で首筋を叩き、脳震盪を起こさせ老婆を失神させた。
     ドロレスはあっさりと動かなくなる。
     一瞬のことだった。ドロレスは何が起きたか分からないまま、今は闇を見ているはずだ。ロレスは裸のまま、うつ伏せに倒れている。このままでは朝にはただの肉の固まりになる。
     タモンはあたりを見渡す。
     マリィと目が合った。
     マリィは呆然とタモンを眺めていた。現状を理解できずに呆けている。
     今のマリィは昼間していた使用人用の頭巾を脱いる。長い髪が前に垂れて、両方の乳房を巧妙に隠していた。間違いなく全裸であり、哀れも無い姿で吊るされている。しかも両手両端を縛られ、全ての自由を奪われてる状態だ。
     ――一瞬だけだ。一瞬だけ欲情した。
     頭を振って煩悩を追い出すと、すぐにドロレスに向き直る。ドロレスを抱えあげ、近くにあった布切れを適当に体に巻きつける。体が冷えないように、傍にあったソファーに寝かすと最初にカイヤのロープを外した。
     ――可哀相に……。
     全身がミミズ晴れ状態だ。体が震えている。こんな小さな子供に、なぜこんな仕打ちが出来るのか。
    「逃げよう。こんな所にいちゃいけない」
     タモンはそう言うと、カイヤの身体に上着をかける。
     続いて、マリィに近寄った。
     呆然とタモンを見詰めている。
     手に巻き付けられていたロープを解くと、裸のマリィはタモンに抱き付いて体を支えた。欲情を抑えるのは一苦労だった。それは手首のロープを解く時より、足のロープを解くときのほうが大変だった。
     頭のあたりに、彼女の大切な部分がある。少し顔を上に持ち上げれば、それは数センチの距離にあるはずだった。マリィは決して不美人ではない。少し卑屈なだけだ。
     足のロープも解いてやると、タモンはマリィを見ないように洋服を手渡した。二人の着ていた服は、全てこの拷問室に置かれているようだ。
     タモンは二人が着替え終わるまで、壁を睨みつけていた。
    「あのう……」
     マリィに声をかけられ振返ると、二人とも服を着終えていた。
    「どうして……?」
    「悪かった。二人とも、俺のせいでこんな目に……」
     タモンが頭を下げると、カイヤが声を出した。言葉にはならないが、言いたいことは通じた――気がした。
    「こんなところに居ちゃいけない。もっと自由に暮らせる町はあるはずだ。こんな仕打ちに耐えることなんてないんだ」
     マリィは戸惑ったような表情をしている。
    「俺と行こう。荒野を越えれば、きっともっと良い人が君たちの両親になってくれる」
    「……本当?」
     マリィがそう尋ねてきた。
     タモンは一瞬返答に詰まる。
     ――本当か?
     いまこの国に、安全に食らえる場所があると?
     三ツ目族の目から逃れたこの町以上に為合せ町があると、本当に言い切れるのか?
     心の中にいる、別のタモンがそう問い掛ける。
    「本当だ」
     そう言うと、マリィの顔がみるみる崩れていった。口をへの事に曲げると、目に涙を溜め始める。それを見上げていたカイヤまで、同じような顔をする。
    「本当?」
     マリィが涙声で、再びそう訊いた。
     それほどまでに苦しい思いをしていたというのだろうか。
     タモンは胸が苦しくなる。
     本当? その細い声。
    「本当だ」
     マリィが玉のような涙を落とし始める。手のひらで必死に涙をぬぐっても、次から次へと涙が零れる。呻き声をあげながら嗚咽を始めた。
     カイヤも声を上げると、二人が抱き合った。それから大泣きを始めそうな雰囲気だったので、タモンは慌ててカイヤの口を塞ぐと、マリィに静かにするように言った。
    「行こう」
     タモンの言葉に、何度も頷くマリィ。何度も顎をしゃくり上げている。
     タモンはカイヤの手を取る。カイヤはタモンの腕にぶら下がるほどの力でしがみ付いてくる。
     とにかく、いま来た道をもう一度戻らなくてはならない。まだ助かったわけでもないのだ。見つかったら牢屋に戻り、今度こそ本当に処刑されてしまう。
     タモンは二人の手を引き、歩き出した。
     
     
     二人の猫背の男がうろつく部屋の前まで来た。三人はつま先歩きで、部屋の前を通る。
     ――そう言えば、昨日なに食ったっけ、ロビン。
     ――なに食ったっけ、バビット。
     ――さいきん肉はいつ食ったかな、ロビン。
     ――いつだっけ? 一ヶ月くらい前じゃないかな、バビット。
     ――そうか、それならまだ大丈夫だ、ロビン、
     ――それより、出来たのかい、バビット。
     ――ああ、そろそろ出来るよ、ロビン。
     ――どのくらい徹夜したかな、バビット。
     ――どのくらいだっけな、ロビン。
     ――十日間くらいじゃないか、バビット。
     ――ああ、それくらいか。それならまだ大丈夫だな、ロビン。
     ――そうだな。まだ大丈夫だよ、バビット。
     意味不明な会話をする二人は、実験か何かに夢中で、部屋の前を通りすぎる三人には全く気づかなかった。
     階段まで来ると、そこから先は闇に溶け込んでいる。しがみ付いてい来るカイヤの手に力が篭った。マリィも痛いくらいに肩を掴んでくる。
     帰りは行きより大変だ。重量のある背後霊みたいのが二人いる。
     タモンは廊下の壁に立てかけてあった蝋燭を手にとって先に照らした。
     階段を登る。何度かカイヤが階段を踏み外して悲鳴を上げた。
     悲鳴が誰かの耳に届くことはなく、順調に階段を登っていくと、来た時より早く階段が終わった気がした。
     タモンは地下室の扉に傍耳を立てる。扉の向こうに物音はない。
    「ルビウスがいつも歩き回ってるんです……」
     マリィがそう言った。
     ――ルビウスはあの黒いコートの男か。
    「ルビウスは奥様の用心棒です。気を付けてください」
     ――用心棒のくせに警備が甘いな。ドロレスはあっさり地下室でのびてるぞ。
     タモンは慎重に扉を開けて廊下を覗った。
     その時、手に持った蝋燭の蝋が溶けて指先に垂れてきた。タモンは思わず悲鳴を上げそうになった。
     必死に我慢すると、蝋は固まって冷えた。
     タモンは気を取り直して廊下を覗くと、やはり誰の気配も無いので、慎重に地下室から這い出た。続いて出てくるマリィとカイヤ。前を行くタモンを真似して、身を屈めながら付いてくる。タモンが振返ってみせると、マリィとカイヤも振返る。タモンが頭を掻くと、マリィとカイヤも習って頭を掻いた。
     裏庭に出る。冷たい空気が汗ばんだ身体に心地良かった。
     慎重に慎重を重ねて、三人は夜の闇の中を移動していった。
     屋敷を出て、身を隠せる裏路地まで来た時、今まで貯めていた緊張感が吐息となって肺から抜け出した。
    「はああ」息を吐くと、マリィとカイヤも「はああ」と息を吐いた。
    「一安心だ。でも油断は出来ない。どうやって、あの塀を越えるんだ?」
     タモンがマリィに訊くと、マリィは首を傾げた。
    「食料と水の問題もあるな。門は自分で開こう。中から開くのはそんなに難しくないはずだ」
    「駄目」
     マリィが言った。
    「駄目?」
    「いえ……あの……門を開けるのが駄目なんじゃなくて……その……わたし、子供たちを置いてなんて行けません」
    「子供たち?」
    「はい。ヒンミンガイの子供たち。……どうしよう」
    「ヒンミンガイに子供たちがいるのか?」
     必要以上に神妙な面持ちで頷くマリィ。
    「何人居るんだ?」
    「……五人。でも、全部合わせたら、もっとたくさん」
     ――馬鹿を言うな。
     口には出さなかったが、この荒野を、後五人の子供を連れて抜け出せるとは思えない。
    「いいか。子供たちは後で迎えに来るんだ」
    「ど、どうやってですか?」
    「それは……」
     思わず軽口をを叩いたタモンにいい案なんて浮かばない。あまり無責任なことを言うものではないと後悔した。
    「この町はおかしいんだ。そもそも、ヒンミンガイなんてものがある事自体おかしい。こんな世の中だからこそ、みんなで協力しなくちゃいけないのに。だから、マリィさんが立派になって、この町を変えるくらいの力を持ったら、戻ってくればいい」
    「……わたし……子供たちを置いていけません」
     マリィが頑になった。タモンは頭をかきむしる。となりでカイヤもかきむしる。
     子供だましの理屈が通用するわけが無かった。
    「それじゃあ、とりあえずヒンミンガイに行こうか」
     タモンは立ち上がる。
     二人も恐る恐る立ち上がる。
     子供を連れて町を出て、荒野を脱出し、しかも今より為合せに暮らせる土地になど辿り着けるだろうか。
     無茶な話だった。
     
     
     立ち入り禁止の立て札を越える。
     前に来たときは、その先の廃屋に草臥れた老人が座っていた。
     今は深夜だし、老人は家に帰っただろう、そう思ったが老人は変わらずそこにいた。
     暗がりにぼんやりと佇む老人は、目の前に三人が通ると「待て」と声を上げ、三人を月まで飛び上がらせるほどに驚かせた。
    「アルバート! 何をしてるの、こんな夜更けに」
     マリィが声を上げた。アルバートと呼ばれた老人は、ぴくりとも動かず言った。
    「おんし、昨日の昼間に訪れた者じゃな?」
     タモンが「そうだ」と答えると、マリィがタモンを見て「知ってるんですか?」と聞いてきた。タモンが返事をする前に老人が喋り出す。
    「……おんし、昨日、ヒンミンガイの子供を助けようとして牢屋に入ったんじゃろう?」
    「牢屋?」
     そう聞き返したのはマリィだ。マリィはタモンを見る。
    「そうじゃよ、マリィ。その若者はベンを助ける為に、町の人間に刃向かって牢に入れられたんじゃ」
     マリィは目を丸くしている。
     知らなかったのか、とタモンは思った。カイヤは喋ることが出来ないのだから、教えることも出来なかったのだろう。
    「時に訊ねるが、おんしはマリィとカイヤを連れて、一体どこに行くつもりじゃ?」
     ここに立ち入るな、と言われたのは覚えている。タモンが答えるより早く、マリィが答えた。
    「私を助けてくれたんです。……それに、他の町はもっと親切な人がたくさんいることも教えてくれました」
    「すると、マリィとカイヤを連れて行くおつもりか?」
     老人に聞かれ、タモンは「そうだ」と答えた。
    「なぜじゃ?」
    「……あなたが何を思うか知らないが、少なくとも、この二人はそう望んでいる」
    「……そうなのか、マリィ?」
     マリィはそう訊かれ、戸惑いがちにタモンを見た。タモンが頷いてみせると、マリィは老人に向き直り、力強く頷いた。
    「私は……行きます」
     老人の顔が、微妙に上向いた。
     その後、再び俯くようにうな垂れる。
    「……そうか……いくか。それがええじゃろ。マリィはこんな所に居ていい子ではない」
     独り言のように呟くと、次にはしっかりした口調で言った。
    「ベンを助けてくれようとしたおんしになら、わしは安心してマリィとカイヤを頼める。昨日は邪険にして申し訳なかった。幸せにしてやっておくれ。この老いぼれの最後の頼みじゃ。若者よ、約束してくれるか?」
     言葉の最後は涙声だった。
    「ああ、約束する」
     タモンがそう言うと、マリィが迷いの目を向けてくる。マリィの言いたいことは分かった。この老人も一緒に連れて行けないか。
     それは無理だ、とタモンは目で返事をする。
     マリィは涙目で老人を見た。傍に寄ると老人の頭を抱き、何かを呟いた。何を呟いたかはタモンには聞こえなかったし、聞こえなくてもいいことだろう。
    「マリィさん……」
     タモンが声を掛ける。こんな所で時間を潰しては行けない。
     マリィは悟ったように、涙を手に平で拭き取りながら振返った。
     老人の手が中を泳ぎ、マリィを掴もうとした。しかし、マリィはそれに気づかなかった。老人の手は空を切る。
     老人はマリィを愛していた。愛していると同時に幸せを願い、苦渋の選択をしたのだ。
     
     
     アルバートを背にし、先に行くと柵があった。その柵を越えるとヒンミンガイ。そこは盗人や病人、老人の巣窟だった。
     家などというものはなく、どれも布を張り合わせただけのテントが密集しているだけだった。服はただ体に布を巻いているだけ。
     ひどい臭いがする。
     明かりなどなく真っ暗だ。
     人の姿が見えない。これだけテントが密集すれば人影があっても良さそうだ。
     マリィとカイヤに付いていくと、他よりは大き目のテントの前に来た。もちろん玄関などはなく、中に入るためには布をめくって潜るだけでいい。
     中に入ると、小さな蝋燭を囲んで子供が三人、輪を作っていた。
    「お帰りー、マリィ!」
     まず始めに小さな、本当に小さな、女の子がマリィを見た途端、跳ね回って飛びついてきた。マリィが人差し指を唇に当てて、静かにするようにと仕草で教える。
     二人の子供がテントの奥で寝息を立てている。起きている三人の子供は、みんなマリィにしがみ付いている。
    「ごめんね、遅くなって。今日、食べるもの何も持ってこれなかったの。今日は我慢してね。明日になったら、きっとたくさん持って帰ってくるから」
     マリィがそう言っても、駄々をこねる子供は居なかった。マリィの帰宅に子供たちが屈託の無い笑顔で、純粋に喜んでいる。
     タモンは酷い罪悪感を覚えた。マリィを連れていったら、確かにこの子供たちは飢え死にしてしまうかもしれない。
    「……この子達も幸せになれますか……?」
     マリィが救いを求めるような表情をタモンに向ける。同時に、マリィにしがみ付く子供たちが警戒の目をタモンに向ける。
     ――この子達の幸せ。
     その答えが何にしろ、一つの事しかタモンには言えなかった。
    「ああ、他の街に行けば、きっとな」
     マリィの表情に日が射したように明るさが灯った。マリィの笑顔を初めて見る。こんな、屈託の無い笑顔をする女だとは、思ってもみなかった。
     前にも言ったが、マリィはけして不美人ではない。今のマリィは屋敷内での卑屈な表情などおくびも出していなかった。
     マリィに笑顔を作らせたタモンは、子供たちにも受け入れられることになった。一人の女の子が恐る恐る手を伸ばし、タモンの指を握った。それが何を意味しているかは分からない。
     迷っている暇はない。決断しなくてはならない。
     その時、テントの入り口を開く者があった。誰かが入り口から顔を見せる。蝋燭の揺らめいてる明かりに照らされたのは男だった。見るからに病人と分かるその表情は、生い先が短いことを物語っている。
     マリィが「スティファン」と言った。
     マリィが入り口まで駆け寄り、スティファンの肩を抱く。
    「駄目です、歩いちゃ」
     マリィがそう言うと「いいんだ」とスティファンは手をかざし、タモンを見ると微笑んだ。
    「マリィ……そこの人と話しがしたいんだ。いいかな?」
     マリィが戸惑いながら、タモンを見る。
    「……俺と?」
     タモンが不審がっていると、スティファンは力のない笑顔を作って頷いた。
    「……分かった」
     何の用だか分からないが、とりあえず承諾する。
     タモンはスティファンとテントを出た。
     テントから少し離れ、覚束無い足取りで前を歩くスティファンが、倒木に腰を掛ける。
     明かりはない。ほとんど相手の表情は伺えない。
     何の用だろうとタモンが黙っていると、スティファンが口を開いた。
    「君は、マリィを連れて行くんだろう?」
    「……そうだ」
    「マリィは、このヒンミンガイの人間を嫌な顔一つせず、面倒見てくれた天使のような人だ。働けず、配給場所にも行けない僕の為に食事を持ってきてくれたりするんだ。熱が出た時は、徹夜で看病してくれたこともある。次の日はあの屋敷で重労働しなくてはならないのに、だ。彼女はこのヒンミンガイに必要な人間だし、唯一の光だ。誰もがマリィを愛した」
     タモンは話しの筋を読んだ。要するに、愛するマリィを奪うな、と言いたいのだ。
     タモンはそう思った。それは裏切られた。
    「僕らはマリィを必要とする。しかし、マリィは僕らの要求を断らないんだ。きっと、抱かせてくれと言っても、彼女は承諾するかもしれない。僕にはそんな元気はもうないけどね。でも、僕らはマリィのおかげで笑顔を忘れることがなかったし、優しい気持ちを保てた。――だけど、ずっと僕は待っていた。君のような男をずっと待っていた。僕らは彼女を必要としたが、僕らは彼女に何もしてあげられなかった。彼女は僕らに何も要求しなかった。あんな屋敷で使用人として働いているのだって、僕らに残飯を持ってくる為なんだ。そうだよ、それじゃ駄目なんだ。僕らは彼女の為になることは一切してあげられないんだ。だから、待っていたんだよ、君のようにマリィを奪い去ってくれる人間を。マリィを幸せにしてくれる人間を」
     スティファンがそこまで言うと、酷く咳き込んだ。タモンが近寄ろうとすると、手をかざしてタモンを制した。
    「僕の病気は人に感染する。近寄らないほうがいい。――本当に良かった。彼女にこの病気を染してしまわなくて、本当に良かった」
     スティファンは咳の発作が落ち着くと、無理矢理に微笑みを作って言った。
    「答えてくれ……。彼女を幸せにすると……。ぼくに……」
     タモンは最悪な予感を胸に押し込んで、笑みを作った。
    「約束する」
     タモンが答えると、スティファンは安心したように微笑んだ。
    「ありがとう……。必ず、彼女を幸せにしてくれ。……必ずだ。……この話しは彼女には内緒だよ。彼女が去りづらく……なってしまうからね。……そうだ……。……きみに……」
     スティファンは突然、糸が切られた操り人形のように、頭をうな垂れた。
     動かなくなるスティファン。
     タモンは髪を掻き揚げる。
     掻き揚げた体勢で動けなくなった。
     最後の言葉。スティファンはタモンに何を伝えようとしたのかは、もう二度と分からない。
     スティファンはもう、咳きの発作で苦しむことも、マリィのことで気に病むこともなくなった。不幸か幸福は分からない。
     マリィをこの町から連れ去る人間が来るまでは、この男は眠れなかったのだ。それは同時に、マリィがこの男に命を吹き込んでいたことになる。
     分からなくなった。
     マリィを連れ去ることが、正しいことなのかが分からなくなった。
     アルバートは、ヒンミンガイのことを心と言った。しかし、それは違う。ヒンミンガイではなく、マリィのことを言ったのだ。アルバートがタモンのことを「災い」と呼んだのは、その心を奪われてしまうと思ったからだ。
     迷うな、と決めたはずだ。
     スティファンと約束した。
     必ず、幸せにすると。
     マリィの顔を思い出す。
     自分一人の力で、果たして助け出すことなんて出来るのか。抜け出した先に幸福は……。タモンは自信が無くなった。
     マリィをこの町から必ず連れ出し、幸せを得られる場所まで連れて行く。
     この国に二ツ目族の幸せはない。
     ――国外か。
     マリィにカイヤに、五人の子供。
     ――どうすればいい。この七人を自分一人の力で町から連れ出し、荒野を行き、国外までたどり着けるにはどうしたらいい。
     一人の男の顔が浮かんだ。
     ルウディ。
     タモンはルウディの元にもう一度行かなくてはならなかった。答えを聞かなければならない。
     食料と水。それも調達する必要がある。七人分の食料と水だ。
     タモンはテントに戻り、そこに居たマリィに言った。
    「俺は食料と水を調達してくる。一時間で戻ってくるから大人しく待っていてくれ。ドロレスは朝まで目を覚まさない。大丈夫だと思うけど、もし誰かがきたら隠れるんだぞ」
    「……はい……」
     マリィは涙目に微笑みながら頷いた。その表情を見て、タモンの胸が苦しくなる。同時に意志が固まった。
     カイヤがタモンの手を握った。不安そうにタモンを見上げている。
    「大丈夫だ。すぐに戻ってくる。一時間だ。約束する。そうしたら出発だ」
     カイヤがにっこりと笑った。
     笑顔が蘇ったカイヤ。何よりもタモンに気力をもたらした。
     
     
     牢屋小屋に来るまで、一度だけ見つかりそうになった。
     裏路地を歩くとき、突然男が家から出てきたのだ。タモンは平静を装って歩いていくと、男はタモンに気づかず、立ち小便を始めた。
     タモンの寿命が縮んだ瞬間だった。
     牢屋小屋に辿り着く。表から見るとただの大きな箱に見える。
     タモンは小屋の前に来る。南京錠はルウディが外したままだ。
     タモンは中を覗いてみる。覗いてみたが真っ暗で何も見えない。タモンは警戒しながら中に入ると、「ルウディ」と声をかけた。すると「やあ」と返事があった。
    「良く来たね。また会えると思ったよ」
     タモンは鉄格子に近寄っていく。影が見えた。牢屋の奥で胡坐を掻いて座るルウディの影が見えた。
    「どうしたんだい? 僕に用?」
    「ああ、用がある」
    「僕に答えを求めに来たのかい?」
    「そうだ」
     ルウディは黙った。
     タモンも黙った。
     そのうち、けらけらとルウディの笑い声が聞こえてきた。
    「君は、僕の正体を半分くらい分かってしまったようだね」
    「ああ、分かってる。あんたは、俺がまたここに来る事を知っていたんだろ? だから自分はここに居るなんてことを言ったんだろ? 俺はお前みたいな人間に会ったことがあるんだ。俺に名前を付けてくれた人だ」
    「ああ、その通り。半分だけ正解。僕は占い師だ。過去の事も、現在の事も、未来の事も、全て見えるし、全て知っている。そう、君の運命も知っている。そして君は今、自分の硬い意志に戸惑っている。どうしたらいいかわからない」
    「その通りだ。教えてくれ。俺はあの二人と子供たちを助ける事が出来るのか?」
    「……自分の運命を知りたいのかい? そんなことは無意味だ。僕がここで、君の運命を語っても、語らなくても、君は自分の意志を持って結局同じ選択をする。もし君が過去に戻って、この町の門の前にやってきた時まで戻れたとしてもきっと同じ事をして、この牢屋に放り込まれる。そして僕と出会う。そしてマリィ達を助けようとする。それは運命だ。変えられない」
    「理屈はいいから教えてくれ。俺はどうしたらいい」
    「だから言っているだろう。たとえば僕が君に『マリィとカイヤは助け出せる』と言ったら、君は二人を助けだそうとするばずだ。でも、僕が『マリィとカイヤは助け出せない』と言っても、やっぱり君は二人を助けだそうとするだろう。同じ事だ。運命など知るべきじゃない」
     タモンは鉄格子を掴んだ。
    「ルウディ、頼む。俺はあの子達を助けたいんだ。教えてくれ。俺はどうしたらいい。どうやったら、あの馬鹿高い塀を越えて、あの地獄の荒野を抜けることが出来て、国外まで行く事が出来るんだ?」
     ルウディは笑いを止めて沈黙した。
     しばらく何も言わなかったが、ルウディは不意に頭を掻くと言った。
    「まず、自警団長が君に用があるようだ」
     タモンは首を傾げる。一体何の事だ。
    「その通りだ」
     出し抜けに背後から声がして、タモンは飛び上がった。
     振返ると、そこには大きな人のシルエットがあった。
     声で分かる。自警団長だ。
     全く気配を感じなかった。
    「良くもまあ、町中を闊歩してまわってくれたもんだ。囚人っていう自覚が無い。まあ、こうやってのこのこと舞い戻ってきてくれたわけだが」
     タモンは鉄格子を激しく揺らして怒鳴った。
    「ルウディ! 分かってたのなら、どうして!」
    「運命は変えられない。それに……。まあいいや。僕はしばらく黙ってるとしよう」
    「そうしてくれると助かる」
     タモンは後悔した。
     酷いタイミングで見つかったものだ。やはりこんな所に戻ってくるべきではなかった。
    「一体何のつもりで、囚人が町をほっつき歩く?」
    「……あんたこそ、どういうつもりだ」
    「なにがだ」
    「俺はとっくに殺人の罪は晴れてるんだろう?」
    「何を言ってる。そんな物、晴れているわけがないだろう」
    「殺人犯はルウディゃないか」
    「この男の事を言ってるのか? この男は良く知った男だ。良く町に侵入しては、イカサマの占いをして小遣いを稼いでる悪党だ。町の外でうろついてるのを引っ張っただけだ」
    「……そんな……」
    「いいか。俺は何度も忠告してる。町の人間に関わるな。俺の言う事は聞け。だが、お前はことごとく俺の言う事を無視してくれる」
    「あんたの言う事など信じられるか。あんたはカイヤやマリィの受けている仕打ちを知っているんだろ? ヒンミンガイの現状を知ってるんだろ? なぜ黙ってるんだ」
    「知ってるさ。カイヤの舌が抜かれた事だって、ヒンミンガイの差別だって、すべて知ってるさ」
    「知っていながら、お前は何をやってるんだ。子供を殺した男が今日も澄ました顔でパンを作ってる。ドロレスは拷問道具で人を痛めつけて喜んでる。子供が泥棒するのだって迫害を受けてて貧しいからだ。全てはあんたがしっかりしないからだ」
    「じゃあ、どうしろと? みんなに、ヒンミンガイの人間を差別するのは止めようって語り掛けるのか?」
    「そうだ」
    「お前は分かっていない。これは俺の町の問題だ。余所者には分からない」
    「何が分からないって言うんだ。俺は町中を見てまわった。ドロレスの屋敷の地下にも入った。後は何が足りないっていうんだ」
    「この町は危ういところで、どうにかバランスを守っているんだ。少しでも小突けばすぐにでもバラバラになる危険を孕んでる。お前みたいな余所者が一番危険なんだ。実際お前が現れたせいで要らない事件が多発してる」
    「あんたはそこで蹴り殺されている子供を見て、無視をしろと言ってるのか? そこで虐待に遭ってる女の子を見て、放っておけと言っているのか?」
    「その通りだ」
    「どうしてだ!」
     その時、ルウディが欠伸をした。
    「退屈な話しだ。タモン、僕が説明してあげよう」
     タモンはルウディを振り返る。
    「いいかい。この町のヒンミンガイ、および隔離施設はドロレスより全て焼き払えとの通告がある。もちろん、そこに居る人間も一緒にだ。町の人間もそれを望んでいる。疫病を恐れているからね。だけど、それが実行に移されているのを押し留めている人間がいる。紛れも無い、そこにいる自警団長さんだ。タモンの言いたい事は、ヒンミンガイなど馬鹿馬鹿しいから、そんな差別はやめて、みんな仲良くしろって言ってるんだろ。でも、もっと大きな流れは、ヒンミンガイをそこに居る人間ごと焼き払う事を望んでるんだ。分かるだろ。仲良くしろっていうのがそもそも問題外の意見だ。あのヒンミンガイや隔離施設の人間の命を大切に思うなら、この町に細波を立てるなと、自警団長さんは言いたいんだ。君がマリィやカイヤを連れ去って、町の人間の感情を触発したら、すぐにヒンミンガイなど焼き払ってしまえって事になるだろ?」
     自警団長が重々しく口を開く。
    「俺一人で出来る事なんて、ほんの少しだ。この微妙なバランスを保つ事くらいしか出来ない」
    「そう、ヒンミンガイの人たちが生きていられるのは、この自警団長様のおかげって訳だ。それでも、君はあの二人を救い出そうって気かい? 言っておくが、ドロレスの影響力は半端じゃない。ドロレスが決断すれば、すぐにでもヒンミンガイ、隔離施設は住んでいる人間もろとも焼き払われる。誰も反対しないさ。みんな致死率9割の疫病を恐れているんだから」
     タモンは何も言えなかった。
     ――マリィ達を連れ出したら、その他大勢が死ぬ?
     タモンの想像もつかないことだった。
     片足のない老人アルバートの言葉を思い出
     す。
     ――おんしは災い。
     ようやくその意味を悟った。
     自警団長が言う。
    「マリィとカイヤの事は諦めろ。後の事は俺がうまくやる。ドロレスも、どうにか丸め込む。だから心配するな。お前は今すぐ荷物をまとめて、この町を出て行くんだ。俺に出来る事は、お前が牢屋を抜け出した事を『見なかった事』にするのと、少しの水と食料を与えてやる事くらいだ。これが最後の忠告だ。今すぐ町を出ていくか。ここで俺に取り押さえられて、数日後の処刑を待つか、だ」
     ルウディがケロケロと笑う。
    「全部見られてるんだよ。タモンが屋敷に侵入したのも、ヒンミンガイに行ったのも、全部監視されてる。そうじゃなかったら、こんなに自由に歩き回れるわけがないだろ? 自警団長はタモンに逃げ出して欲しかったのさ。自警団長には見てみぬ振りをする事しか出来ない。立場があるからね。――でもね、タモンが町を出るという事は、自警団長の責任問題にもなる。ドロレスの家に容易に侵入を許したという事は、当然、自警団長の責任を問われるね。自警団長はそれを全て許し、しかも君が町を出る手助けをすると言っている。どうだい、自分がすべき事が見つかったかい?」
     タモンは頭を抱えた。目の前の床をじっと睨み付けた。
     ――間違いだったのか。自分はとんでもない事をしたのか。
     タモンの脳裏に、マリィの顔が浮かぶ。
     タモンがすぐ戻ってくるから待っていてくれと言ったとき、何の疑いもなく彼女は微笑みながら頷いた。カイヤは、タモンが心配するなと言ったとき、安らいだような笑顔を見せた。
     このまま戻ってこないなど、全く疑っていない。今、彼女たちは、地獄を抜け出して幸せになれると信じている。タモンに泣きながらお礼を言っていた。スティファンは死を持って、タモンに強い意志を伝えた。アルバートは胸の引き裂かれる思いを押し込めて、マリィ達をタモンに委ねた。
     死を覚悟した決意。タモンは迷った。気が狂いそうなほどに迷った。
     ――このまま諦めろって?
     そんなこと出来るわけがない。
     自警団長が、頭を抱えるタモンに向かって静かに言った。
    「この町のことは、俺が一番良く知っている。約束しよう。俺がこの町を変えてみせる。この国が政府や軍隊の脅威から解放される時代がやってきたとき、理想郷の模範となるような町を作る。もう誰も死なせない。俺に任せてくれ」
     タモンは返事の言葉が見つからない。タモンがマリィ達を連れ出したら、ヒンミンガイの人間はすべて焼かれて死ぬ。何もしなければ今まで通り、マリィはヒンミンガイの人に心を与え、笑顔を与える。
     自警団長が後ろに控えている今、もしマリィを連れ出す決意をしても、それは叶う望みなのだろうか。もし、ヒンミンガイの人間を犠牲にしてでもマリィ達を連れ出したら、それはマリィにとって何を意味するのだろう。それが正しいことなのか?
     ――タモンはみんな幸せになれると言ったじゃないか。
     誰の声だろう。耳の奥でそう誰かが言った。
     彼女たちは待っている。タモンの帰りを待っている。
     彼女たちはタモンを待ち続け、朝を迎え、裏切られた事を知ったとき、果たして再びあんな屈託の無い笑顔を浮かべる事があるのだろうか。
     後はどうなる。
     タモンは居なくなるからいいが、彼女たちは残るんだ。
     さらに酷い仕打ちを受けるかもしれない。
     タモンを信じて待っている。
     明日が明るい事を信じて待っている。
     タモンは泣いた。
     情けに声を上げて、泣きじゃくった。
     その様は自警団長の同情すら引いたのか、優しい声で自警団長が言った。
    「気に病んでいるのはマリィのことだろう? マリィを想ったお前は、心が綺麗な証拠だ。そんなお前がこの選択をするのはつらすぎるとは思う」
     その情けの言葉が悔しくて、タモンは更に鳴咽した。涙の出口は小さい。もっと涙を流さないと胸が張り裂けてしまいそうだ。
     一人で町を去る決意をしたタモンは、現実を受け入れるには、胸があまりにも小さかった。
     タモンは随分長い時間うずくまり泣いたが、自警団長は黙って待っていた。
    「まあ僕はいつでもここにいるから、なにか聞きたかったらまた寄ってくれ」
     ルウディの声は何処か遠くから聞こえてきた。
     
     
     タモンは門の前に立っていた。自警団長が塀の上にある小屋に行き、門を開いてくれる。
     タモンは少しの水と食料を自警団長がら貰い受け、この町を後にしようとしていた。
     二日前に入ってきた門。
     ルウディが言っていた。
     運命は変えられない。運命を知ったとしても、人間は結局同じ選択をする。
     では、これがタモンの選択だったのだろうか。ルウディは、タモンが一人で町を出て行くと知っていたのだろうか。町を出て行くタモンの傍には、誰も居ない事を知っていたのだろうか。何の疑いも持たなかった人間を裏切る事を知っていたのだろうか。
     マリィの顔を思い出す。
     明日、タモンの去ったた町でマリィとカイヤに待ち受ける運命とは何だ? 自分の軽率な行動で、あの二人は鞭で折檻を受ける以上の虐待を受けるのだろうか。
     舌を抜かれる?
     歯を抜かれる?
     目を潰される?
     生皮を剥がされる?
     タモンは塀の上を見上げた。
     星明りの中、自警団長が小屋の中で動く影が見えた。
     タモンはあの塵のような星々がそれぞれ太陽と同じような熱い惑星であると知っている。星々は宇宙という空間に浮かんでいる事を知っている。いまタモンが居る場所は地球という玉で出来ていて、太陽の周りを回ってることを知っている。自分がその上に、点にも満たない、チリのような存在だと知っている。
     自分は小さい。
     そして、何一つ変える事が出来ない。
     大きな流れに沿って生きるしかない。地球が太陽の周りを回っていることに飽きて、どこかに飛んで行ってしまうことはない。タモンも大きな流れから逸れて、飛んでいく事なんて出来ないのだ。地球はそれ自体で生きてはいけない。太陽という大きな流れの中で生かされている。
     ――抗えない運命?
     そんな馬鹿な。
     このまま走り出して、マリィとカイヤだけでも連れてくるという考えが浮かぶ。
     だがそんな事をしたら、ヒンミンガイは焼かれ、マリィの愛する子供たちは死ぬ。
     それはタモンのせいだし、償えるような罪ではない。
     何度も、マリィとカイヤの元へ走り出したい欲求を覚えるが、次には思いとどまる。
     短い時間に堂々巡りを繰り返す。
     どちらを選んでも後悔する選択。
     何度も心の中でマリィとカイヤに謝りつづける。
     これほどまでに最低な気分は生まれて初めてだった。
     
     
     門がなかなか開かないと思いはじめたとき、塀の上の小屋から駆け下りてくる自警団長の姿が見えた。物凄い勢いで駆け下りてくる。
     階段の終わり付近で、冗談みたいに転げ落ちると、地面を這うようにタモンの元へ走ってくる。
     タモンが呆然としていると、息を荒くしてタモンに詰め寄ってきた。
    「ど、どうし――」
    「牢屋に戻るんだ。今すぐ牢屋に戻って、一歩たりとも表に出るな。いいか、分かってるよな? 俺の忠告は訊けるな?」
     声を押し殺していたものの、鬼気迫った様子に緊張感は痺れるように伝わってくる。
    「どうしたって言うんだ」
    「お前は牢屋で大人しくしていればいい。なにが起きても、そこから出てくるな。そうすれば命は助かる」
     ただならぬ雰囲気に、タモンは寒気を覚えた。何が起きているか分からないが、緊急事態だということは分かった。
     タモンは戸惑いながら、門を引き返した。
     タモンは走って、牢屋に戻る。
     タモンが牢屋に駆け込んで、ルウディの「やあ」という挨拶にかぶせるように訊ねた。
    「ルウディ、門の前で突然自警団長に引き返せと言われた。なにが起きてるんだ?」
     ルウディが可笑しそうにけたけたと笑う。
    「帝国旅団の奴等が来たのさ。奴等は決まって満天の星空の晩に訪れる」
    「ルウディ、知ってたな?」
    「当たり前だ。君がまた戻ってくるもの知ってたよ」
    「この野郎。いいかげん教えやがれ。次には何が起こるんだ?」
    「教えたとしても何も変わらない。全ては予定されていたものなんだよ。世界が生まれたその瞬間に、すべては定められたのさ」
    「また訳の分からない事を。帝国旅団ってなにだ? そんな旅団、聞いたこともない。何しに来た? 俺はいつまで牢屋に居なくちゃならないんだ?」
    「その怒涛のような質問にひとつひとつ丁寧に答えてあげてもいいけど、知ってしまったら失くすものが出来るよ。何かを得るとき、必ず代償を必要とするものだ」
    「どうでもいい。教えてくれ」
    「いいだろう。帝国旅団とは政府が出来ると同時に生まれた闇の集団。政府に出来ないような、反理性的な役割を果たす影の支配者。おっと、これは誰も知らない事だから、口外は無しだよ。旅団そのものの存在を知っただけでも消されてしまうからね。これは特別サービス」
    「それは、これから近い未来にその帝国旅団に俺が殺されるから、教えても別に大丈夫だと言っているのか?」
    「さあね。でも、その名前は口に出さないほうが賢明だよ」
    「自警団長は知ってた風だったぞ」
    「そうさ。僕が教えてあげた。彼はもうじき死ぬからね。問題ない」
    「死ぬ? それじゃあ俺も死ぬって事じゃないか」
    「そうとは言ってない」
     ルウディはへらへらと笑って誤魔化す。
     タモンは窓にぶら下がり、懸垂の要領で窓の外を見た。ここからは何も見えない。
    「ルウディ。その帝国旅団が来たからって、どうして慌てる必要があるんだ」
    「帝国旅団は化け物の集団だ。三ツ目族が造った法律も政府の権力も、すべて通用しない。好き放題だって事だよ。でも僕は三ツ目族や四ツ目族よりも帝国旅団のほうがよほど理性的だと思うけどね」
    「理性的? さっきは反理性的だって言ったじゃないか」
    「一般的に外側だけ見れば反理性的な集団さ。本質的れば理性的だってことだよ。政府より形式にこだわる集団。法律より、もっと本質を重視する。タモンに合ってるかもね」
    「全く意味が分からない。帝国旅団は友好的だっていうのか?」
    「おかしい人だな。僕の話しは帝国旅団がいい人の集団、とでも言ったように聞こえたかい?」
    「違うのか?」
    「形式にはまれば、何でも有りなのさ。本質にはまれば、なにをしてもいいと思ってる。だから最悪な場合、最悪になるってこと」
    「さっぱり分からない。ルウディには全て見えてるんだろ? これから起こる事を」
    「もちろん分かってる」
    「それじゃあ、ちょっとだけ教えてくれよ。帝国旅団は何しに来て、これから何が起こるんだ? 自警団長の態度は尋常じゃなかったぞ」
    「とりあえず今夜は何も起きない。タモンも大人しくしていれば?」
    「今夜は何も起きない?」
    「ああ」
    「じゃあ、明日は何か起きるのか?」
    「さあね」
    「だんまりを決め込むきか?」
    「本来、僕は世界に対しても第三者だ。運命を知るものだからこそ、それに干渉してはならないし、今では干渉できなくなってしまった。まあ干渉したとしても、なにも変わらないんだけどね」
    「俺はどうしたらいい?」
    「さあ、どうして何かしたいと思うの?」
    「だって……」
    「僕は帝国旅団が悪者の集団で、この町を潰しに来たとも、何とも言っていないぞ。もしかしたら何もしないで帰るかもしれない。どうして君はそんなに危惧してる?」
    「だって、何でもありの集団だって言ったじゃないか」
    「型にはまればの話しだよ。理性的な集団だって言ったろ。略奪強奪とか、そういうことはしない連中だ」
    「じゃあ、心配しなくていいのか?」
    「とにかく、今夜、帝国旅団は町に入っては来ない。入って来るのは明日だ」
     ルウディの言うことだ。とりあえずは信じていいのだろう。
    「寝たら?」
     ルウディが言った。
     タモンは、鉄格子の窓の外を見る。月光が牢屋内に一筋の線を作っている。
     その光の筋に照らされた自分の手のひらを見た。
     マリィとカイヤを思い出す。
     会いたくなった。
     マリィの笑顔を思い出す。
     タモンが「一時間で戻る」と言ったとき、何の疑いも無い笑顔でこくりと頷いた。
     ――必ず帰ってくる。約束する。
     タモンはこれから約束を破る。
     マリィとカイヤと、子供たちとアルバート、そしてスティファンとの約束を破る。命を懸けた約束を破る。
     約束の一時間はとうに過ぎている。
     今ごろ、二人は不安に胸を締め付けているのだろうか。
     まだ、信じているのだろうか。
     戻ってくる、と信じているだろうか。
     ――忘れろ。手出しをしてはならない問題だったんだ。自警団長が後は何とかしてくれると言ったじゃないか。
     あの男なら信頼できる。町の理性だ。
     マリィとカイヤはきっと大丈夫だ。自警団長がついている。タモンが出来ることは関わらないことだけだ。

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