あっちから変なの出てきた

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第一章 【 ユベリア宮殿編 ユーナ 】


 ――そこまで言うのなら、情報を提供する代わりにどちらかを生かしてやる。さあ、お前が選べ。
 
 
 
 夢を見ていた。
 長かったような、短かったような。
 いずれにしろ、覚えているのは最後の選択を告げる言葉だけだった。
 じくじくとした浅い眠りから覚めて目を開くと、悪夢より酷い暗闇。
 排泄物の臭気と体臭の立ちこめる通気孔のない暗闇。
 見える明かりと言えば、遠くに見えるランプの炎のみ。
 どこからか水滴が落ちる音が聞こえる。
 身体を起こす。
「ここは……」
 小さく吐息のような声を漏らす。
 必死に目覚める前の記憶を探った。
 最後の選択の後、地下奥深くの窓もない小部屋に通された。
 小部屋は石積みの壁に、分厚い木製の扉。
 小部屋の中央には黒ずんだ木製テーブルと二脚の椅子。
 テーブルの上には赤黒く染み付いた布の上に置かれた悍ましい拷問道具の数々。
 選択について後悔なんてしていなかった。
 そう自分に言い聞かせた。
 結局、拷問道具は使用されることはなかった。
 それは拷問道具に恐れ、全て洗い浚い知っていることを喋ったからである。
 全て情報を提供したからと言って、許されたわけではない。
 死ぬ運命に変わりはなく、あと何度か同じような面談が行われた後、処刑されるのである。
 そのあとの記憶がない。
 薬で眠らされたのか、術で眠らされたのか。
 この気分の悪さからすると前者だと思われた。
「起きたのね」
 声が聞こえた。
 人が居ると気づいていなかったため、私は背筋を凍らせた。
「ようこそ、最後の楽園へ」
「だ、誰?」
 声を上げると、暗闇の中で誰かが答える。
「私は三日前にマリメ。もう一人はコロタリ」
「ここはどこ?」
「城塞の地下奥深くの牢屋」
 牢屋……。
 そうか。自分は囚われの身。
 マリメと自己紹介した女が暗闇の中でごそごそと音を立てる。
「これ、あんたに支給された毛布。それ一枚しかないから大切に使いな」
 投げて寄こされた毛布が頭から被さる。柔らかさなど微塵もなく、まるで爬虫類の鱗のような毛布からはなんともいえない異臭がする。
「あんたの名前は?」
 毛布を傍らに置くと、遠くに見えるランプを見た。ランプの周囲一メートルほどの石積みの壁が淡く照らし出されている。
「名前は?」
 繰り返し訊ねられ、声のしたほうに目を凝らす。
「私は……ミユナです」
「ミユナ? 可愛らしい名前ね」
 ――可愛らしい……。
「あの、すみません。違います。私はユーナです。そう呼んでください」
「ユーナ? そう。まあいいわ。さて、こんなお城の地下最深部の牢屋に容れられるなんて、あんた一体なにをしたの?」
 なにをしたのか。
 話したところで、信じてもらえるだろうか。
「マ、マリメさんはなにをしたんですか?」
「私? 私はなにもしてないわよ」
「なにもしてない?」
「冤罪よ。なにをいっても無駄だけどね」
「どんな冤罪なんですか?」
「興味があるの?」
 興味があるか。あるわけがない。ただ、気が紛れると思っただけだった。
「私は売春婦なの。私を買った男が城の高官で、私の宿で暗殺者に殺されたの。私はたまたま居合わせて、暗殺者の手引き役と疑われてここに来た」
「そんな……ひどい」
「あら、同情してくれるの? ちょっと、あなたの顔を見せて」
 マリメが近づいてくる音がする。
 暗闇の中から、ぼんやりとマリメの顔が近づいてくる。
 マリメを両の手を伸ばし、私の両耳を挟み込むように触った。
 近づいてきた顔は見えないが、彼女からは遠くのランプの明かりで微かにでも見えるのか。
「若いわね。無垢な瞳。かわいそう、こんなところに連れてこられて」
 深く同情した声。
 仄かに見える。
 私はどうにか悲鳴を上げなかった。
 彼女には鼻と右目がない。
 頬や額に深く刻まれた切り傷。
 ――未来の私の姿。
 マリメは離れていった。
「もう一人の人は?」
「コロタリのこと? コロタリは私より先輩よ。でも一言も口を利かないの。あんたが話しかけてやって」
 コロタリとは女性だろうか。
「コ、コロタリさん、ミユナ……いえ、ユーナと申します」
 返事はなかった。
 マリメが変わりに答える。
「まあ、いろんな奴が居るよ」
「コロタリさんは女性なんですか?」
「ああ。二ツ目の女性。私がここに来たときは先客が五人居たけど、全員二ツ目の女だったよ」
「五人……」
「ああ。ぴいぴい泣き喚くうるさい女どもだったよ。その点、ユーナは肝が据わってるね」
 そんなことより。
「その五人の人はどうなったんですか?」
「コロタリ以外は死んだんだろう。一人はあんたが眠っている間に連れて行かれた。あと一時間も戻ってこなければ絶望的だね」
「絶望的って……」
 そう。
 ここはそういう場所。
 死を宣告され、もうすでに生きているとはいえない領域。
 狭間の世界。
「まあ、残酷なようだけど、諦めるんだね。通力も封じられ、誰にも声の届かない地下の奥深く。もうなにをされてもどうにもならない場所だよ、ここは」
 周囲に取り巻く暗闇もどす黒い暗黒が全身を蝕んでいった。
 身体が震えだし、なんの癒しももたらさない涙が頬を伝う。
「泣いてるの? 泣いても仕方無いわよ。私は右目を潰され、鼻をもがれ、指を折られ、皮膚を焼かれ、全身を切り刻まれ、十人の執行官に輪姦された。あなたも同じ目に遭う。そしていつしか戻ってこなくなる」
 恐怖が人格を食いつぶしていくようだった。
 恐怖というなの別人格が、私を救おうと精神を崩壊させようとしている。
 私は声を上げて泣き出した。
「絶望したの? でも、どうにもならないのよ、ここでは。全ての痛みと苦しみを味わう場所。それがいやだったら舌を噛み切って死ぬことね」
「もうよせ」
 別の声。
「あら、初めて口を開いたわね」
「お前の変態ぶりには虫唾が走る」
 コロタリの声か。
 確かに女性の声。
「ユーナとかいったか」
 ユーナは姿の見えないコロタリのほうを見る。
「このマリメという女は、親切そうに近づいてきて、相手の恐怖を煽って遊んでいやがるんだよ。真性の加虐趣味の変態女だ。相手にするな。この女のせいでいつも新客が泣き叫んで、居眠りも出来ない」
「いいじゃない。嘘は言ってないわよ」
「執行官に殺される前に、私が頭かち割って脳みそ引きずり出してやろうか」
「あら、本気かしら」
「出来ないと思うのか?」
「できるの?」
 コロタリが立ち上がるような気配がした。
「私の罪状を教えてやろうか」
「ええ、ぜひ」
「私の罪状は違法の無免許医療行為。しかも脳のね。この場であんたを殺さずに、阿呆にしてやることも出来るぞ。いや、恐怖の神経を刺激して、生きている間は極上の絶望感を与え続けてやろうか」
「で、出来るわけないわよ、そんなの」
「耳から指を突っ込んで、ちょいとかき回すだけで済む。お前の潰れてないほうの目玉から指を突っ込んで、過去の思い出したくない記憶を呼び覚ましてやることも出来るぞ」
 マリメはなにも言わなくなった。
 現在の状況より悲劇的な過去があるというのか。
 マリメは最後に「少し眠るわ」と言い残して静かになった。
 私はしばらくして「ありがとう、コロタリさん」と声をかけた。
「この女がウザったかっただけだ。礼には及ばない」
「でも、少し楽になりました」
「そりゃ幸いだ」
「コロタリさんは恐くないんですか?」
 そう声をかけると、コロタリは深々と溜息を漏らした。
「おい、明日死ぬかもしれない人間同士で会話してなんになる? 少し休みたいんだ。静かにしてくれないか」
「ご、ごめんなさい」
 ユーナは口を閉ざすことにした。
 
 
 それからユーナは眠ることも出来ず、いつまた呼び出され、酷い目に逢うのかと恐怖に震えているしかなかった。
 遠くに見えるランプ。
 ただそれだけを見つめ、膝を抱えて震え続けた。
 足音が聞こえてきた。
 どこからか。
 私の絶望を運んでくる足音。
 ユーナは手を組み合わせて、天に祈った。
 足音が大きくなるにつれ、全身の震えも大きくなる。
 喉から勝手にうめき声が漏れる。
 なにをされるんだろう。
 どうすれば恐怖を感じずに済むのか。
 遠くに見えていたランプの光が、誰かの影で一瞬障られたとき、私は顔を伏せた。
 お願いします、お願いします。
 どうか苦しまずに逝かせてください。
 鉄格子が開く音が、まるで悪魔のカギ詰めの音に聞こえ、ユーナは擦れた悲鳴を上げて竦み上った。
 次に、固い石の床に何かがどさりと落ちる音。
 それから酷く乱暴に鉄格子を閉める音。
 静寂。
 歩きさっていく足音。
 やがて、遠くのどこかで扉を開き、閉める音。
 無音。
 いや、声がする。
 うめき声。
「パターラが帰ってきたわ」
 マリメの声。
 そう言えば、もう一人誰かいるとマリメが言っていた。
 ユーナは顔を起こす。
 うめき声が聞こえる。
 うめき声の合間に、コポコポと音がする。
「大丈夫なんでしょうか。苦しそうですが」
 ユーナが恐る恐る声を上げる。
 マリメが答えた。
「大丈夫なわけないでしょ。拷問を受けたのよ。どうやらこの様子じゃ、夜を越せなそうだけど」
「そんな……」
「嘆いたって仕方がないわ。どうせ死ぬ。もちろん、私たちもね」
 ぞっとした。
 私たちも。
 そして、次にはまた誰かここにやってきて、拷問を受けて死ぬ。
 どうか、最後に慈悲を。
 私に痛みを与えないでください。
 
 
 
 どれほど時間が経ったのか。
 昼も夜もないこの空間で、時間の感覚も薄れ、生きているのか死んでいるのかも曖昧の中、いつの間にかうめき声が聞こえなくなっていた。
 先ほど戻ってきたパターラという女性は眠ったのだろうか。
 部屋の隅で膝を抱え続けていたユーナは、這うようにして石の床をまさぐる。
 毛布は……。
 冷たく氷のような床に、ぬめっている場所があった。
 なにか触ってしまった。
 ユーナは触ってしまった手を持ち上げ、においをかいで見る。
 生臭い。
 これは。
「う、うえええっ」
 ユーナは腹を抱えて、胃の中を吐き出した。
 胃の中には何も入っておらず、出てきたのは胃液だけ。
 胃が切り裂かれるように痛んだ。
 血。
 パターラさんの血。
 ユーナは意を決して、血の広がっていた床の先に横たわるパターラに手を伸ばした。
 髪に触れる。
 髪は乾燥した血液で強張っている。
「パターラさん、大丈夫ですか?」
「やめておきな、ユーナ」
 マリメの声。
 ユーナは手探りでパターラの身体を触る。
 首筋に手を当てると、まだ脈があった。
 血を流している傷はどこか。
 暗闇では分からない。
 ユーナは手探りでパターラの身体を触る。
 腕、胸、首、足、いたるところに切り傷。
「マリメさん、彼女の毛布は?」
「なにをする気? そいつはなにをしたって死ぬよ」
「彼女の毛布はどこですか?」
「……部屋の奥だよ」
 手探りで探すと、一枚、誰も使用していない毛布。
 ユーナはそれをパターラの身体に包んだ。
 傷を塞ぐような道具は何一つない。
 どうすることも出来ない。
「無駄だよ」
「でも、最後に冷たい床の上なんて……」
 ユーナは自分の毛布を引っ張り、パターラを包んだ。
 パターラの口元に耳を近づけると、まだ息がある。
「あんたの毛布が血まみれになって使えなくなるよ」
 ユーナはマリメの言葉を無視する。
 どうすることも出来ない。
 これくらいしか。
 冷たい床の上で惨めに死んでいくなんて。
 せめてそれだけは。
 ふと思い出す。
「コロタリさん、お医者さんでしたよね」
 コロタリは返事をしない。
「コロタリさん、血がいっぱい流れてるんです。血を止めたいんです。手を貸してください」
「無理だ」
 コロタリの声。
「なんの道具もないし、私は脳外科医で、それ以外は専門外だ。それに通力も眷族も封じられてる。なにも出来ない」
「私よりはパターラさんの力になれる」
 コロタリはもう返事をしなかった。
 パターラが再び声を上げ始めた。
 短く息を付くように「あ、あ」と声を上げている。
 慌てて近寄ると、ユーナは「パターラさん、大丈夫ですか?」と声をかける。
 パターラは「あ、あ」と声を上げながら全身を震わせている。
「もう大丈夫、もう大丈夫です。あなたをいじめる人はもういません。ほら、大丈夫」
 ユーナはパターラの頭をなで、肩を摩った。
 毛布はパターラから流れ出した血で湿っている。
 この出血量。
 助からない。
「パターラさん、もう誰もあなたを傷つけません。怖がらないで」
 ユーナが必死に声をかける。
 パターラの身体の痙攣が治まってくる。
 同時に短い息遣いも落ち着いてくる。
「そう。大丈夫。ゆっくり休んでください、パターラさん」
 震えは止まった。
 ユーナは必死にパターラの肩や腕を摩る。
 呼吸が浅くなる。
 息を吐くたびに、喉からはコポコポと音を漏らす。
 呼吸の間隔が長くなり――やがて。
 パターラは永遠の眠りに付いた。
「なんて無駄なことを」
「無駄なんて」
「あんたの代わりの毛布はないからね。冷たい床の上で寝るのね」
 冷たい床。
 そんなものより、氷より冷たい心がユーナを苦しませる。
「ひどい……罪人だからって、こんなに苦しみながら死ななければならないなんて」
「あら、あんたもおんなじ結末を辿るのよ」
 ああ、もうこの人とは話をしたくない。
 ユーナは毛布をパターラの顔に被せてやる。
 本当に酷い。
 ここは一体なんなの。
 あなたはなにを思いながら死んでいったの?
 良い思い出? 一番幸せだったときのこと?
 そんなささやかな人の一生を、こんな形で無碍にするなんて。
「ユーナ、部屋の奥に連れて行こう」
 コロタリの声。
 ユーナはコロタリと協力して、パターラの亡骸を部屋の奥まで運ぶ。
「悪かったね、なにも手を貸さずに」
 コロタリが漏らす。
「いえ……私もなにも出来なかった」
「そんなことはない」
 コロタリはお祈りのようなものを口遊んでから言った。
「私の毛布を貸してやる。少し休め」
「……ありがとう」
 
 
 
 ――私はあなた様の所有物でございます。どんな戒めをもお受けいたします。あなた様がお望みになるとおりに。あなた様がなさりたいように。
 私は跪いていた。
 どこだったか。
 宮殿地下の、どこかの一室。
 高窓からは陽が差しており、絨毯の赤が目に映えていた。
 ――あなた様が望むのであれば、私はこの場で腹を裂いて見せましょう。それでもお許しいただけないのなら、はらわたを引きずって道化ながら走り回って見せましょう。
 私はあのお方の前ではなにも出来ない。
 私はあのお方の前では唯の物同然。
 私はあのお方の前では虫ケラ同然。
 私にはどうすることも出来ない。
 ――お前はあちらの世界での知識を持っている。それを素直に私に話す気はあるか?
 話をする。
 従わなければならない。
 逆らうことは出来ない。
 でも、私は返事をしなかった。
 ――なるほど、それが答えか。
 ――めっそうもございません。しかしながら、私が知るものはごく微量の記憶。
 ――そうか。それならばこういうのはどうだろう。おまえがもし情報を提供するのなら、お前か弟の命を助けるとしよう。お前の罪を不問として。
 私かナユタの命。
 ――もちろん、情報提供が条件だ。
 私は承諾した。
 私の命を捧げて、情報を提供し、ナユタを開放してくれる。
 普通では考えられない恩赦。
 あのお方の気紛れな戯れ。
 私たち二ツ目を弄んでは、あのお方は娯しんでおられる。
 私は選択に後悔していない。
 決して。
 どんな結末であろうと。
 どんな苦しみを味わおうと。
 私は後悔していない。
 後悔など――。
 
 
 目を覚ましても、代わり映えのない暗闇。
 悪夢より酷い現実。
 暗黒に押しつぶされそうだ。
 目を覚ましてユーナはまず泣いた。
 必死に声を殺し、泣き続けた。
 母親の顔。
 ナユタの顔。
 妹の顔。
 そして、昔に殺されてしまった父の顔。
 幸せだったとき。
 あなたと過ごした時間。
 短かったけど、私は幸せだった。
 誰も守ってくれなかった。
 誰も想ってくれなかった。
 あなただけが私に喜びをくれた。
 あなただけが私に希望をくれた。
 あの記憶だけで、私は死んでいける。
 ――足音。
 近づいてくる。
 次に連れて行かれるのは私?
 それともマリメ? コロタリ?
 私は望んでいる。
 連れて行かれるのは私じゃない。
 連れて行かれるのはマリメ。
 私はマリメよりあとに入ってきたのだから。
 きっとそうだ。
「配給だ」
 男の無機質な声がした。
 石の床に何かが置かれる音。
 すぐに立ち去ろうとした男をマリメが呼び止めた。
「ねえ、パターラが死んだわ。死体を連れて行って」
 男はしばらく立ち止まっていたようだが、すぐに立ち去った。
「ねえちょっと!」
 マリメが呼びかけても戻ってこなかった。
「ユーナ、配給だ。食っときな」
 見ると鉄格子の向こうに木製のコップとパンひとつ。
 なにか口に入れられるような状態ではなかった。
「コロタリさん、あなたが食べて」
「馬鹿いうな。お前も食え」
「マリメの分は私が貰っていいわね」
 マリメがそう言った。
「好きにしろ」
 とコロタリが答えている。
「食わないのなら食わないでいいが、腹に何か入れれば気も紛れるぞ」
 それでもユーナは首を横に振った。
「ああ、痒い」
 マリメがそう漏らしながら配給にかぶりついている。
 どれくらい眠っていたのだろうか。
 いまは昼なのか夜なのか。
 なにも分からない。
 視界に入るのは、変わらずともるランプと鉄格子の影。
 死ぬまでこの風景を見続ける。
 もう、青々とした草原、紺碧の空、春の甘い風、海、山、その全てを見ることは叶わないのだろう。
 そして私を想ってくれたあなたにも。
 悲しいけど、辛いけど、唯一私を暖めてくれる宝ものになった。
 後悔していない。
 後悔など――。
 
 
 
 どれほど時間が経ったのか。
 酷い悪臭が立ち込めていた。
「いい加減にしてくれ! 頼むからパターラを持って行ってくれ!」
 マリメが鉄格子を叩きながら叫んでいた。
 羽虫が牢屋中を飛び交っている。
 目や口や耳を塞いでいないと、羽虫はすぐに入り込んでくる。
「ああ痒い! 痒いし臭いし! お願い! パターラをどうにかして!」
 誰もくることはない。
 マリメの声は無人の地下に響くだけ。
 どうして。
 どうしてパターラを残しておくのか。
 羽虫が耳障りな音を立てて顔の周囲を飛び交う。
 耐え切れる臭さではない。
 これも拷問。
 しばらく配給もなくなっている。
 このまま飢え死にし、腐っていくのだろうか。
「ああ、痒い!」
 マリメが全身を不気味な音を立てて掻き毟る。
 傷口が化膿しているのか。
 一日中呻いている。
 ――誰も来ない。
 この劣悪な環境での餓死が望まれているのならば、しばらくは誰も来ない。
 誰が最後まで生き残るのか。
 もし自分が最後だったら?
 耐え切れない。
 舌を噛み切って私も死ぬ。
 
 
 
 一日経ったのか、二日経ったのか、三日経ったのか。
 まだ私は生きている。
 地下牢には誰も来ない。
 悪臭に慣れることはない。
 吐き気と頭痛に悩まされながら、マリメのうめき声と全身を掻き毟る音に耳を塞ぎ続けていた。
 もう、どうにかなってしまう。
 いっそ、頭がおかしくなってしまったほうがらくだ。
 はやく死が訪れないか。
 体力が尽き、永遠に眠りに落ちるその瞬間。
 待ち遠しい。
 失われる瞬間が。
 
 
 
 私は彼を想った。
 この暗闇と悪臭の世界で、それだけが唯一の救いだった。
 彼はどんな苦境にも逆らって、絶対に不可能な状況を切り抜けてきた。
 私と交わした約束。
 私はあちらの世界にたどり着いたとき、結界に嵌ってしまった。
 結界から逃げ出すための方便。
 あの人は私に騙されて、結界から出してくれた。
 一度や二度ではない。
 あの人は私が囚われる度、危険をかえりみず助けに来てくれた。
 必ず。
 何度も底なし沼で顎まで漬かった私を救い出してくれた。
 もうあの人はいない。
 ここはあの人の居る世界とは違う世界。
 いくら願ってもあの人はここまでは来てくれない。
 ――必ず故郷に帰してあげるよ。
 あの人は約束を守ってくれた。
 約束は守られた。
 もう、二度と逢えない。
 ぬくもりだったはずのあの人との追憶が、私を酷く悲しませた。
 とめどなく涙は流れ、胸が躍り、うめき声が漏れた。
 逢いたい。
 もう一度だけでもいいから逢いたい。
 想えば想うほど、隔たれた世界の果てしない距離を感じて悲しくなった。
 もし、私が助けを求めていると知ったら、あの人は世界の隔たりさえも越えて、ここまで助けに来てくれるだろうか。
 今度だけは無理かもしれない。
 でも、間違いないことがひとつだけある。
 あの人は、決して諦めない。
 
 
 
「コロタリさん、聞いて」
 何日ぶりか、声を出した。
「コロタリさん、聞こえてますか?」
「あ、ああ」
 返事があった。だが、ひどく嗄れている。衰弱しているのか。
「これ、見てください」
 ユーナは手に持っていたものをコロタリに手渡す。
「これは……」
 ユーナはコロタリだけに聞こえるように、小声で言った。
「パターラさんを部屋の奥に運んだときに発見したんです。石の壁のかけら」
「だからどうしたって言うんだ」
 コロタリも小声で返す。
「ひとつじゃなかった。壁が剥がれ落ちて、破片が幾つも落ちてたんです」
「おい、まさかお前……」
 ユーナはコロタリの手を握った。
「やるんです。私たちで。ずっとここには誰も来てない。上の人たちは私たちがここで餓死するのを待ってるんです。だから生きている間はきっと誰も来ない」
 コロタリはなにも答えなかった。
 ユーナは辛抱強く返事を待った。
「いいだろう。何か考えがあるんだな?」
「はい」
「なにを話してる?」
 マリメが声を上げた。
 お互い、姿は見えない。
 狭い空間に三人。
 小声で話していても、内容は聞かれないまでも、声は聞かれる。
 マリメに相談するか否か、ユーナは迷っていた。マリメは信用できるのか。
 マリメなら、私たちが考えていることを執行官に密告し、情状酌量を図るはずだ。
 そう思ったが、彼女の目を盗んで事は起こせない。相談するしかない。そう思った。
「パターラを食うか、その相談をしてたんだ」
 そう言ったのはコロタリだった。
「パターラを食うだと? なにを血迷ったことを」
「腹が減って死にそうだ。こうなったら背に腹は変えられない」
「本気で言ってるのか、変人女が!」
「ああ、本気だとも。お前は飢え死にしたいのか? 私だったら腐った死体でも食う」
「悍ましい! なんて奴!」
 コロタリが上手く誤魔化した。
 だが嘘とはいえ、パターラを食うなんて嘘がよく口から付いてきたものだ。
「よしユーナ、計画を話せ」
「はい」
 ここに来たときの記憶。
 回想しながら話をする。
「ここは『斬首の搭』の地下だと思う。最初の入れられた部屋から地下牢のまでの記憶はないけど」
「いや、確かにここは搭の地下だよ。私は覚えてる。どうしてお前は搭の名前を知ってる?」
「私はここの主人に仕えていたから」
「ここの主人?」
「ヴァルアラトス・グロウリン様」
 名前を言ったとき、声が震えた。
 名前であのお方を呼んだことはない。
「ヴァルアラトスといえば……」
「王族でありながら学者でもあります。私は人体実験用の素材としてあのお方に飼われていたのです」
「そうか……。お前はここから逃亡を図って捕まったのか?」
 説明したところで信じてもらえるか。
 ユーナは話を続けた。
「まず、この石の破片で鉄格子を削り、外に出ます」
「出ても、厚い扉があるぞ。どうやって破る?」
「ここからは賭けです。いつも食事の配給に来る男がいます。あの人はカギを持ってなかった。いつも出ていくときに扉をノックしてます。そとに誰か守衛で待機している人が居るんです」
「確かに……入ってくるときに番がいたな」
「あのランプ」
 ユーナが遠くのランプを見た。
「ずいぶん時間が経ってるのに、消えないですよね。あれはきっと、ランプの燃料がどこからか供給されてるんです。ランプに繋がった管が見えます。あそこから燃料を取り出して、扉に火を放ちます」
「火を放ってどうする?」
「燃え出せば向こう側に居る守衛が気づいて入ってきます。そのときが出る好機です」
「なるほど。後方からぶっ叩いて気絶させればいい。でも、扉を叩いて誘きよせたほうが早くないか?」
「そんなことをしたら沢山人を呼ばれてしまいます」
「それもそうか。じゃあ、守衛が居なかったら?」
「扉は木製です。時間をかければ燃やせます。一箇所くらいは蹴破れるくらいに」
「時間が掛かりそうだな」
「時間はあります」
 ふうむ、とコロタリは考え込む。
「そこから先は螺旋階段が続いています。地上に出ることの出来る扉は金属製です。外から南京錠が掛かっていました。中から開けることは不可能です」
「不可能ならどうする?」
「搭の最上階まで上って、屋上から地上に降りるんです」
 コロタリはそこで溜息混じりに額を撫でた。
「無理だ。高さがどれほどあると思ってる」
「十五メートルくらいなものです」
「飛び降りろと? 命は助かっても無事じゃ済まないぞ。足が折れたらもう逃げられない」
「ロープを作ります」
「ロープ?」
「ここには四枚の毛布があります。結んでロープを作るんです」
 コロタリは答えず、考え込んだ。
 1枚1メートルとして、それでも4メートル。まだ十一メートルもある。
「私たちが着ている服、それにパターラの服も借りましょう」
 たとえそれで3メートル稼いだとしても、あと8メートル。
「毛布を半分に破って、長さを二倍にします」
「なるほど。そういうことか」
 それでもあと4メートル。
 人が飛び降りる高さとしては高いのか低いのか。
「私たちの身長も足せば、残り2メートルちょっとです。どちらかがロープの役目をすれば、ほら、もう飛び降りることが出来る距離です」
「確かに……理屈ではそうだけど」
「やるしかないんです。ほかに方法を思いつきません」
「もし、搭を降りることが出来たとして、そこから先はどうする? ここの宮殿は広い。周囲には搭と同じくらいの城壁で囲まれてるぞ。やはり、無理なんじゃ……」
「諦めないで。きっと考えればいい方法がある。考えましょう。諦めずに」
 コロタリがぽりぽりと頭をかく。
「意外だな。ユーナがそんな度胸のいることを考えるなんて。世間知らずの子供に見えたんだがな」
「きっと、少し前まではそうだったのかもしれません」
 やるしかない。
 でも、一人では無理。
 コロタリさん、お願いだから賛成して。
「よし、やろう。どうせ死ぬんだ。やってやろうじゃないか」
 ユーナは涙が出そうになった。
 良かった。
 助かると決まったわけじゃない。
 私もあの人と同じように諦めず、希望を持つことが出来た。
 諦めない。
 後悔しない。
 そうすればきっと。
 
 
 
 パターラの遺体のそばにあった石の破片を集めていると、マリメに「本当に食うのか?」と訊ねられたが無視をして、充分に石を集めると、部屋の隅に集めた。
 マリメからは死体の肉を食っているように思えないらしい。
 暗闇でお互いの行動が見えないことが功を奏した。
 それからマリメが眠ったのを見計らって、ユーナとコロタリで鉄格子を削り始めた。
 思いのほか石の強度が低く、鉄格子が削れる前に石がぼろぼろになった。
 この調子で、どれほど時間がかかるのか、気が遠くなる。
 マリメが目を覚ますと、作業の中断が余儀なくされた。
 マリメが「痒い、痒くて堪らない」と全身を寒気の覚える音を立てながら掻き毟る音に耳を塞ぎながら休む。
 やはり地下牢に誰かがやってくる気配もなかったし、遠くに見えるランプが消える様子もない。
 マルメが休んだら息を潜め、鉄格子を削る。目を覚ます気配を感じたら慌てて作業をやめ、私たちも眠った振りをする。
 鉄格子の削りあとにマリメが気づくこともなかった。
 気づくとしたら触ってみるしかないが、暗闇の中で傷ついている鉄格子に気づけるわけがなかった。
 その繰り返し。
 徐々に体力もそがれていく。
 異臭、暗闇、マリメの全身を掻き毟る音、マリメのヒステリック。
 全てが精神を蝕んでいく。
「ねえ、死人の肉って、美味しいの?」
 あるとき、マリメが訊ねてきた。
 声に覇気がない。
 もう、体力も限界なのだ。
 空腹より、喉の渇きが酷かった。
 口の中は乾き、唇は岩肌のように固くなっている。
 集中力も落ちる。
 なかなか削られない鉄格子。
 こんなに体力が落ちた状態で、守衛の男を遅い、十五メートルの搭をロープで降りることが出来るのか。
 
 
 
 何日経ったのか。
 鉄格子はまだ切れない。
 もう限界。
 立ち上がることも出来ない状態で、鉄格子を切断できたとしても、どうにも出来ない。
 駄目なのか。
 そう思ったとき、地下牢に誰かが入ってくる音がした。
 マリメが一番最初に気づいて、鉄格子にしがみ付いた。
「ねえ! ねえ! 出して! お願い! ここから出して!」
 老婆のような声で、最後の力を振り絞って叫ぶ。
 やがて、牢屋の前に誰かが立つ。
 どうして今さらやってきたのか。
 まさか、私の想像は間違っていた?
「マリメ、来い」
 男はマリメを連れ出した。
 マリメはここより苦しい地獄はないと、嬉々として出て行った。
「どういうことだろう。餓死させたかったんじゃないのか?」
 二人きりになった牢屋で、コロタリがそう漏らす。
「分からない。どうしてだろう」
「まあ、いまのうち作業を進めようか」
 私たちは鉄格子を削る作業に戻った。
「なあ、ユーナ」
 コロタリが改まった声を上げる。
「なんですか?」
「マリメは、本当に気づいていなかったと思うか?」
「このことに?」
「そう。私たちが鉄格子を削って脱出を企んでるって、本当は気づいてるんじゃないのか」
「どうしてそう思うんですか?」
「毎晩だよ。あいつが眠っているうちに、鉄格子を削ってた。気づかないわけが無いと思わないか?」
「じゃあ、何で声を掛けなかったんでしょう」
「声を掛けたら、手伝うか手伝わないか、当然そんな話になるだろう。手伝ったら共犯だ。手伝わなかったら秘密を知られた私たちに殺されるかもしれない。だから黙っていた」
「そんな様子はなかったと思うけど……」
「マリメが男に連れて行かれたときの様子、気になるんだよ。いくらなんだって拷問されるよりここに居たほうがましなはずだ。なのにずいぶん喜んでたよな」
「まさか、私たちの計画を執行官に喋ってるってことですか?」
「その可能性があるんじゃないか?」
 ユーナはぞっとする。
 知られたらどうなる?
 間違いない。絶望的な拷問を受けて、パターラのような最後を……。
「ともかく、マリメが戻ってきたときの様子を覗おう」
「はい」
 それからマリメが戻ってくるまでの数時間が、死刑判決が出るまで待つ囚人の思いだった。
 ところが、戻ってきたマリメはいつもの饒舌な口を一切開かなかった。
「マリメ、大丈夫なのかい?」
 コロタリが聞いても上の空だった。
 不穏な空気。
 座り込んだまま、いつまでも黙り込んでいるマリメ。作業が進められない。
 数時間そのままだった。
「私の……」
 突然、マリメが口を開く。
 横になっていた私は身体を起こした。
「私の……家族」
「家族が……どうかしたの?」
 訊ねると、マリメは酷く苦しそうな声で言った。
「私の故郷の家族、殺されちゃった」
「こ、殺されたって……」
「家族だけじゃない。私が住んでいた村の住人、全て殺されたって。子供も女も関係なく」
 コロタリがマリメの方を抱く。
「なんで? なんでそんなことに」
「私のせい。私が罪を犯したから。私の家族、私の友達、私の知り合い、ぜーんぶ死んじゃった」
 マリメは笑い出した。
 力のない笑い。
 ユーナは言葉が出なかった。
 全身が凍りついたまま、呼吸さえ出来なかった。
 家族、友達、知り合いが全て殺された?
 ――じゃあ、私の家族は?
「私、天涯孤独になっちゃった。もう、この世界には私のことを知っている人は一人も居ない」
 約束は?
 私が情報を提供すれば、罪は不問にするって……。
 思えば、そもそも約束が守られるなんて信用してはならなかった。
 二ツ目族に対して、約束なんてあってないもの。
 ユーナは恐ろしくて震えだした。
 みんな死ぬ?
 私の家族も?
 ユーナは石の破片を手に取った。
 マリメが見ていようと、もうそんなことどうでも良くなっていた。
 ユーナは一心不乱に鉄格子を削りだした。コロタリも止めない。
 早く。
 早くしないと。
 私の家族が。
 そのときだった。
 私の持っていた石の破片を、突然マリメが奪い取った。
 石の破片は、先が鋭利に尖っており、その先端を自分の喉元に向けたのだ。
 私もコロタリも、止める暇もないまま、マリメは石の破片を自らの頚動脈に突き刺した。
 慌ててユーナがマリメに駆け寄ったとき。
 マリメが石を引き抜き、穴の開いた傷跡から血が噴出した。
 ユーナは全身にマリメの血を浴びた。
 温かい血。
 マリメがゆっくりと後方に倒れこむ。
 私は全身に血を浴びながら、呆然と立ち尽くしていた。
 コロタリがマリメの傷口を抑える。
「駄目だ! 止まらない。止まらないよ!」
 まただ。
 また失われる。
 ここはなに?
 私はどうしてこんなところに?
 どうにかなってしまう。
 どうになかってしまう。
 ユーナは思い切り息を吸い込むと、喉が張り裂けんばかりの悲鳴を上げていた。
 
 
 
 この小さな閉鎖的空間に遺体がふたつ。
 生きている人間も二つ。
 もう、この空間は死が半分支配している。
 半分死んでいる。
 ユーナもコロタリも、死んだように放心していた。
「ユーナ、作業を続けるよ」
 コロタリの声が遠くから聞こえてきた。
「しっかりしろ、ユーナ。お前が言い出したことだろう」
 でも、もう無理だよ。
 もう死ぬんだ。
 私の家族も、みんな死ぬ。
「おい!」
 コロタリが大きな声をあげて、私の両肩を掴んで揺すった。
「ここから出るんだろ! 時間がないんだ! 頼むからしっかりしてくれ!」
 だって死んじゃうんだよ。
 みんな死んじゃうんだ。
「いいか、ユーナ。私はここを出たい。最初は諦めてたさ。でも、お前に言われて思ったよ。諦めちゃ駄目なんだって。だって私たちは生きてるんだ。生きてるってことは、生きることを全うしなくちゃいけないんだって気づいたんだ。気づかせてくれたのはお前だ、ユーナ。頑張るんだよ。最後まで精一杯」
 ――諦めるな、ユーナ。
 あの人の声が聞こえる。
 ――絶対にユーナを隔世に帰す。
「ええい、くそ!」
 コロタリはユーナを突き飛ばすと、一人で鉄格子を削り始めた。
 あの人は約束を守ってくれた。
 どんなに無理な状況であっても、あの人は約束を守ろうと必死になってくれた。
 生きるって、なに?
 あの人は、どうして私を生かしてくれたの?
 こんな思いをするために、生き残ったんじゃない。
「ごめんなさい、コロタリさん」
 もう、何度目だろう。
 こんな苦しい涙。
 あの人は、ずっとこんな思いだったのだろうか。
 それでも諦めなかったのだろうか。
 私は弱い。
「ごめんなさい」
 ユーナは石の破片を手に取った。
「本当にごめんなさい」
 石の破片を鉄格子にあてがい、削り始める。
「謝りながら削るな」
 コロタリが優しい声を出す。
 そうだね。
 やっつけないとね。
 鉄格子も、私の弱い心も、全部。
 必死に鉄格子を削る。
 もう、それだけが私の生きている証。
 削る。
 石を交換する。
 疲れ果て眠る。
 絶望的な思いで目を覚ます。
 削る。
 手に血がにじむ。
 削る。
 眠る。
 悪夢。
 泣きながら目を覚ます。
 削る、
 削る。
「言っておかなければならないことがある」
 どれほど無言で削って居ただろうか。
 不意にコロタリが口を開く。
「もし、この次に私かユーナのどちらかが呼び出されて、そして命を失い様なことがあったら」
 やめて。
 もう絶望的な話は。
 顔をそむける私に、コロタリは語気を強めた。
「聞いて。大事なことよ。もし、次にどちらかが死んだとしても、決して諦めないこと。もし私が死んでも、ユーナ、絶対に諦めないと誓って」
「……誓えない。誓えないよ」
「現実を見て。私はあんたが死んでも続けるよ。絶対に諦めない。だって、諦めたらあんたが無駄死にになる。分かるでしょ。もし私が死んでも、ユーナは絶対に諦めないで。絶対に外に出るんだよ。絶対に私の生きた証を無駄にしないで」
 どちらかが死んだら。
 考えたくない。
「お願い。誓って。ユーナは生き残って、決して私のことを忘れないで。ユーナが死んでも、私は絶対にここを逃げ出して、あなたを一生忘れない」
 絶対に外に出て、お互いに生きていた証を残す。
 誓わなければならない。
 ユーナは言った。
「もし、私が死んだら、私の家族に逢いに行ってくれますか? 逢って、私は元気でやってますと、伝えてくれますか?」
「ああ、誓って伝えるよ。家族だけでいいのかい?」
 家族だけ。
 あの人。
 あの人には、もう想いは届かない。
「それじゃ、私も誓います。コロタリさんが死んでも、私は絶対に諦めない。絶対に外に出てあなたのことを一生忘れない」
「……ありがとう。安心したよ」
 そのとき。
 絶望の音がした。
 扉の開く音。
 足音。
 慈悲も容赦も何もない無機質な足音。
 私たちは鉄格子から離れ、部屋の隅に膝を抱えて小さくなった。
 ひた、ひた、ひた。
 足音は大きくなる。
 どっち?
 私?
 コロタリ?
「いいかい、ユーナ。どっちが呼ばれても約束は守る。いいね?」
「はい」
 肩を触れ合わせるコロタリの身体が震えている。
 私の指先が氷のように冷たくなっている。
 コロタリと私は手を繋ぐ。
 お互いの震えが伝わる。
 ――私だったら。
 ――私が失われたら。
 コロタリが私を覚えていてくれる。
 家族に無事を伝えてくれる。
 コロタリは約束を守るだろう。
 後悔するな。
 私が選択した。
 鉄格子が断罪の雷鳴のごとく、轟音を立てて開いた。
 審判が下る。
 死の宣告。
 暗闇の中。
 男が手を差し伸べる。
「コロタリ、来い」
「い、いやあ」
 私の喉から漏れた呻き。
 コロタリが私の手を強く握る。
「大丈夫だ、ユーナ。お前に託す。絶対に私を忘れないで!」
 コロタリが男に掴まれ、強引に引っ張られた。
 私はコロタリの手を離さなかった。
「やだ! 行っちゃやだ!」
「ユーナ、約束だよ! ユーナ!」
 ユーナは男に腹をけられて、背後の壁に激突した。
 石の壁に後頭部を打ち付け、ユーナは意識を失った。
 ――約束だよ!
 ――ユーナ、絶対に私を忘れないで!
 コロタリの声はいつまでも聞こえていた。
 
 
 
 鉄格子の開かれる音で目を覚ます。
 ユーナは恐怖に駆られるがまま、目覚めてすぐに悲鳴を上げた。
 すぐに鉄格子は閉められる。
 目の前に、何かが倒れてきた。
「コロタリさん?」
 足音が遠のいていく中、ユーナは手探りでコロタリを探した。
「あ、か、ご」
 コロタリは声にならない声を上げている。
「コロタリさん、死なないで。お願い死なないで」
 コロタリは喉から不気味な音を立てるばかりで答えない。
 ユーナは毛布でコロタリを包む。
 毛布はすぐに血で湿った。
「コロタリさん、コロタリさん……!」
「ユ、ユ……ナ」
 コロタリがたんが絡んだような声を出す。
 喉に血が詰まっている。
 慌ててユーナはコロタリを仰向けから横に向ける。
 コロタリが力なくむせこんで血を吐いた。
「ユ……ナ、ひたが……」
 なにかを訴えている。
 聞き取れない。
 ユーナはコロタリの口もちに耳を近づける。
「ひ、舌が……き、切られ」
 舌が切られた?
「なんでそんな酷いこと……」
 再びコロタリがむせこんで大量の血を吐く。
「お願い、死なないで。一緒に外に出よう? ね?」
 コロタリが毛布の間から手を伸ばす。
 その五本の指があらぬ方向を向いていた。
「ユ……ナ、最後に……」
 コロタリの手が、強引にユーナを引き寄せる。
「最後……おま……の呪いを……と、解いてや……」
「呪い?」
「は、早く……もう、じか……ん……ない」
 コロタリはおもむろに、ユーナを引き寄せたのとは反対の手で、ユーナの顔を触った。
「奴隷……は……恐……怖……支配され」
 コロタリは唯一折れていない小指を、ユーナの鼻に突っ込む。
 驚いたユーナは顔をそむけようとしたが、コロタリは最後の力で押さえつけてきた。
 コロタリの小指が鼻の奥に突き刺さって行く。
 痛みで声を出せないユーナ。
 コロタリの小指が鼻の奥で何かを引っかいた。
 そのとき、目の前が赤く染まった。
 頭の中で何かが弾けるような衝撃。
 コロタリは更に小指を奥に差し入れ、鼻の奥を強かに引っかいた。
 頭の中にある何かが切れた音がした。
 コロタリは小指を思い切り引き抜く。
 赤一色だった視界が回復する。
「と、取れ……た」
「な、なに?」
「呪具……これで……開放……」
 コロタリがそこまで言って血を吐いた。
「コロタリさん、なにを……?」
 コロタリは答えず、少し笑った――気がした。
「あと……眷族を……」
「もう喋らないで!」
「譲渡す……」
 コロタリは最後の力を振り絞って、ユーナの首を掴むと引き寄せた
 きつく抱きしめたかと思うと、コロタリは何かを口遊んだ。
 コロタリと重ね合わさった胸から、何かが流れ込んでくる気がした。
 ――これは……。
 コロタリは力なく離れると、床に転がった。
「コロタリさん!」
「や……約束……を……」
「守ります。守りますから、まだ死なないで!」
 しかし、ふたたび血反吐を吐いて咳き込むコロタリ。
「コロタリさん! コロタリさん!」
 最後に「げほ」と血反吐を吐いて、コロタリは動かなくなった。
 ユーナはぞっとして、指でコロタリの口の中の血を掻き出した。
 必死に掻き出して、必死に名前を呼んで、必死に肩を揺すった。
 もう、コロタリは苦しそうに咽こむことはなくなった。
「コロタリさん、私を置いてかないで。お願いだから一人にしないで」
 ユーナはコロタリの胸に顔を埋めて、悲鳴を上げるように泣いた。
 いくら願っても、もうコロタリは答えてくれなかった。
 約束。
 守ります。
 あなたを忘れません。
 でも、もう私は動けない。
 一人では何も。
 話しかけても答えるものはいない。
 三体の死体。
 生きている私。
 もう、ほとんど死んでいる領域。
 一人。
「もう……だめ」
 ユーナは力なくうな垂れた。
 そのまま、コロタリの胸の中で眠りに付く。
 いっそ、このまま死んでしまいたい。
 そう願って、眠りの暗黒に落ちていった。
 
 
 
 ひどく静か。
 世界が終わってしまったかのような静寂。
 目を覚ましても、目を覚ましている自分を認めたくなかった。
 目を覚ました現実は非業の世界。
 眠り続けたい。
 このまま永遠に。
 ぽっかりと空いた孤独感がユーナを苦しめる。
 抱きしめているコロタリはまだ生きている。
 息を吹き返して「さあ、作業をしよう」と言ってくれる。
 そう言ってくれるまで、私は動かない。
 がたん
 と音がして、ユーナはぞっとして飛び起きる。
 だが静寂。
 音がしたと思った。
 気のせい?
 ――ぐるるるるる
 暗闇の向こうから、悪魔の喉笛の声が聞こえる。
 何か居る。
 ――いない。
 暗闇の向こうから、何者かが私を見てる。
 ――見ていない。
 分かってる。
 私の作り出した幻。
 コロタリを抱きしめる。
 恐い。
 暗闇が私を殺そうとする。
 暗闇の奥に、光る双眸が見える。
 私を見てる。
 ここにいるのは私だけ。
 私と死体。
 ――約束。
 コロタリとの約束。
 私は手探りで床をまさぐる。
 石のかけらを見つける。
 鉄格子を削る――より、石の鋭利な先端を私の喉元に。
 悪魔が囁く。
 喉元へ。
 喉を掻っ切って、鮮血をくれ。
 言われるがまま、尖った先端を喉元にあてがう。
 突き刺して、引き抜けば私は悪魔にいざなわれ、解放される。
 生きるという苦行から。
 孤独という締め付けから。
 遠い。
 私を生かしてくれるあなたは余りにも遠い。
 悲しいまでに果てしなく。
 ごめんなさい。
 石の破片を持つ手に力を込める。
 喉の肉に食い込んでいく石の先端。
 ふと、腕を誰かに掴まれた。
 石の破片が床に落ちる。
 誰かが私の腕を掴んだ。
 誰が?
 みんな死んでる。
 誰か居る?
 悪魔以外の誰か。
 再び石の破片に手を伸ばそうとすると、再び腕を掴まれる。
 誰でもない。
 ここにいない誰か。
 誰か居る。
 コロタリ?
 あなたなの?
 どうして邪魔をするの?
 ――約束。
 私は約束を守らなくてはならない。
 だから、止めたの?
「大丈夫、約束を守るから」
 暗闇に居る誰かにそう伝えると、腕を掴む手は消え去った。
 私は石の破片を拾う。
 鉄格子に張っていくと、削る作業を始めた。
 諦めたら、コロタリがやってきたことが無駄になる。
 コロタリは最後に私を信じて逝った。
 私は全うしなければならない。
 必死に暗闇の悪魔から目をそむける。
 削る。
 ひたすら削る。
 時々、思い出したように泣く。
 泣きやんで削る。
 誰もいない。
 思い出して泣く。
 削る。
 意識が朦朧とする。
 喉が乾いて張り付いても、唾も出ない。
 眠る。
 一瞬後か、数時間後か、目を覚ます。
 コロタリが生き返っているかもしれないと声を掛けるが、返事はない。
 削る。
 地下牢に閉じ込められて、どれくらい経ったのか。
 数日? 数ヶ月? 数年?
 もう、私は死んでいるのかもしれない。
 思い半ばに死んだ人間は、無念を晴らすためにその場に居続けるという。
 私はすでに霊魂となって、永遠に終わらない鉄格子を削る作業をし続けているだけなのかもしれない。
 いつあの扉がひらいて、私に死を宣告する足音を立てながらやってくるのか。
 一時間後か、数分後か、数日後か。
 私の体力は。
 いつ力尽きるのか。
 その瞬間は、どうか唐突に訪れて欲しい。
 それから、どうか私の最後の願いを。
 何か音がした気がして、全身を凍りつかせながら顔を起こす。
 何度目だろう。
 暗闇から覗く二つの双眸は消えない。
 削る。
「あ……」
 暗闇で鉄格子は見えない。
 だが、削る手の感触に違和感。
 石を置き、削った部分を触ってみる。
 手の感覚が鈍って、正確なところが良く分からない。
 ユーナは思い身体に鞭打って、どうにか立ち上がる。
 酷い気分の悪さ。
 いくら待っても立ち眩みは治まらない。
 ユーナは鉄格子を掴む。
 いま出せる全力で鉄格子を引っ張る。
 微動だにしない。
 ユーナはコロタリに巻いていた毛布を剥がすと、鉄格子の削った部分に巻きつけて、毛布を引っ張った。
 懇親の力を込めると、鉄格子が少し曲がったのが分かった。
 手を離す。
 鉄格子は元の位置に戻る。
 まだ曲げてはいけない。
 ユーナは毛布を集める。
 パターラに巻いていた二枚の毛布を剥ぎ、強烈な臭気に絶えながらパターラの服も脱がす。
 同様に「ごめんね」と謝りながらマリメとコロタリの服を脱がす。
 毛布を石の破片で二枚に破り、縛り合わせた。自分も服を脱ぎ、結い合わせると長いロープが出来た。
 細かく長さを計っている暇はない。
 ロープを使って、先ほどと同じ要領で鉄格子を引っ張る。
 鉄格子は先ほどより簡単に折れ曲がった気がした。
 ユーナ一人なら通れる隙間が出来る。
 ユーナは牢屋を振り返った。
「みんなのこと、忘れないから。絶対に外に出て、もう誰もこんな酷い目に遭わないように努力する」
 ユーナは鉄格子をくぐった。
 牢屋から出ただけで開放感が身体を震わす。
 だが、次にはすぐに恐怖が襲ってくる。
 いま、あの扉を開いて執行官が現れたら?
 すでに計画が知られていて、外には執行官が鞭を手に打ち合わせながら、私を待っているかもしれない。
 悪い想像を振りはらって、ゆっくりと歩く。
 牢屋を出てみて気づく。
 広い空間。
 暗闇に紛れて、奥行きは分からないが無駄に広い。
 広い空間を囲むように牢屋がある。
 だが、使われていたのは私が幽閉されていたひとつのみ。
 わざわざひとつの牢にみんなを閉じ込めたのは、恐怖感を煽るためか。
 意図は分からない。
 ランプのある場所までたどり着く。
 思ったとおり、ランプは外部から燃料を供給される仕組になっていた。
 ユーナはいつか配給された木製のコップを取り出す。
 パイプ部分を取り外すと、液体燃料が漏れ出してきた。
 コップで受け止めて、燃料を溜める。
 溜まると木製の壁に振りかけた。
 何度か同じ作業を繰りかえす。
 まだ誰も来ない。
 気が焦る。
 早く、早く。
 充分に扉が燃料で濡れると、ユーナはランプの炎を扉に移した。
 わっと悪魔が声を上げたように燃え上がる炎。
 ユーナはめげずに、燃料を何度も炎に振りかけた。
 燃料と木が焼けるにおい。
 このにおいに気づいて誰かがやってくる。
 そうしたら、手に持っているロープで。
 炎が途絶えないように燃料を掛け続ける。
 何時間も同じ作業を反復した。
「誰も来ない……」
 待っても待っても誰もやってこない。
 扉の向こう側には誰も居ない。
 扉は焼け尽くされ、最後に音を立て、赤く染まった炭が床に崩れ落ちた。
 ぽっかりと開いた悪魔の口。
 その先は暗黒。
 ――誰もいない。
 ユーナはランプを片手に焼け落ちた扉をくぐる。
 周囲五メートルほどの視界の中、石畳の階段が見えた。
 階段の踊り場付近に監視官が座っているはずの椅子とテーブル。
 誰も座っていない。
 登りの階段。
 らせん状に湾曲する階段の先は見えない。
 耳を済ませて、人の気配を探る。
 足の裏に冷たい石の感触。
 感じながら階段を上る。
 誰かが降りてきたら、もう逃れるすべはない。わき道もない一方通行の階段。
 永遠に続きそうな。
 地獄に続きそうな。
 ランプの炎が小さくはじける音。
 ひたひたと、濡れた自分の足音。
 階段の上方からゆっくりと流れ落ちてくる暗闇。
 ――終わらない。
 いつまでも階段が終わらない。
 どれだけ深い地下にいたのか。
 あとどれだけ、この恐怖を抱きながら階段を上り続けなければならないのか。
 やがて。
 階段が終わる。
 階段が終わった先には開けた空間。
 見覚えがある。
 ランプの光が充分に届くほどの空間。
 周囲の壁は円形に囲んでいる。
 斬首の搭の形をそのまま映し出す形。
 搭の一階である。
 やはり誰もいない。
 鉄の扉がある。
 その扉が開くかどうか、確認することが出来ない。
 扉を動かし、鉄が擦れる音がしたら外にいる執行官に気づかれるかもしれない。
 空間には鉄の扉以外にも、さらに登りの階段があった。
 搭の天辺に続く階段だ。
 ユーナは階段を上る。
 ――本当に逃げ切れるのか。
 助かるのだろうか。
 希望など微塵もない。
 掴まって死ぬとしても。
 私は立ち止まってはいけない。
 ただそれだけ。
 コロタリを忘れてはいけない。
 ただそれだけのため。
 階段を上る。
 前後に人の気配がないか、必死に確認しながら。
 光。
 仄かな光。
 階段の上方に、ユーナの周囲を覆う暗黒より、少しだけ明るい暗黒。
 歓談を登りきったその先、搭の最上部に着いた。
 そこは、斬首の搭とその名が示すとおり、仰々しいギロチンが中央に設置された場所。
 禍々しい巨大な刃が上空に浮かんでいる。
 今か今かと獲物を待つ、この世のものではない何者かの刃のように。
 ギロチンの周囲は、犠牲者たちが噴出した血液で黒く変色し――ユーナは目をそむける。
 覚悟が揺らぎそうだ。
 搭の最上部からは宮殿の全容が覗えた。
 夜である。
 風が冷たいが、地下の異臭の漂う赤黒い空気から開放され、ユーナは大きく息を吸い込んで、肺を洗浄した。
 見えるのは隣に立つ「邂逅の搭」。
 「斬首の搭」と「邂逅の搭」は宮殿から程遠く市敷地内の外れにある。
 樹林をはさんで遠くに見える地面から突き出るように聳えるのは、三ツ目族が住まう宮殿。巨大な宮殿である。
 周囲にも住宅が密集しており、広大なエリアを城壁に囲まれた城塞都市となっている。
 宮殿は三つの城に囲まれ、周囲の住居を巻き音でひとつの山脈のように見える。
 ユーナは最上階から地表を見下ろした。
 搭は末広がりな蟻塚のような形状をしているが、滑り降りるのは無理だ。
 どうして誰もいないのか。
 深夜だからか。
 当の周囲には幾つかの寄宿小屋が見える。
 明かりも灯っていないようだ。
 ユーナは慎重にお手製のロープを下ろす。
 当の側面を滑らせるようにゆっくりと降ろすが、長さが足りない。
 十四、五メートルの高さ。
 五メートルほど足りない。
 五メートルは飛び降りるには可能な高さなのか。
 分からない。
 でも、やるしかない。
 ユーナはロープの片側をギロチン台にくくりつけ、最上部を囲う塀をまたいだ。
 ゆっくりと、その身体を塔の外へ。
 ――恐い。
 体中がガタガタと震える。
 強く目を瞑る。
 握力がない。
 落ちてしまう。
 音もなく、夜の冷たい風がユーナを撫でて行く。
 搭の塀から中途半端に身体を投げ出したまま、ユーナは硬直した。
「コロタリさん……お願い。力を貸して」
 つぶやく。
 不思議に、近くにコロタリを感じた。
 いる。
 間違いなくコロタリは近くにいる。
 確信した。
 ゆっくりと、慎重にロープを降りる。
 目は瞑ったまま。
 少しずつ、少しずつ。
 誰かに見つかっていないか。
 ロープは切れないか。
 様々な恐怖に駆られながら、必死に考えないように。
 腕が凍りつく。
 まるで血の通わない人形のように。
 力が出ない。
 後どれくらい残っているのか。
 冷たい風。
 森から聞こえてくる正体不明な動物の鳴き声。
 自分自身の荒い呼吸が焦燥感を募らせる。
 もう少し。
 もう少し。
 そう信じてロープを下る。
 手のひらに激痛を覚える。
 肩のあたりの筋肉が痙攣する。
 左手、右手。
 交互に下にずらして行く。
 気の遠くなる作業の中。
 ふと、掴んだロープに違和感。
 ――血。
 気づいたときには遅かった。
 一端滑り落ちた手は、止めることが出来なかった。
 掴む両手の中のロープが、下から上へ急速に移動する。
 落ちている。
 私の身体は落ちている。
 下方から風。
 ロープから手が離れる。
 どれくらいの高さ?
 落ちたときの衝撃は?
 私は死ぬ?
 もうロープを持つことさえ出来ない。
 遠ざかってゆく搭の外壁。
 最後に見えたのは空。
 ――綺麗。
 漠然と思った。
 無数に輝く星星。
 あの人と一緒に見た夜空。
 あの人の世界には月と呼ばれる夜の太陽があった。
 恋しい。
 また逢いたい。
 あなたにもう一度。
 背中に、今まで生きてきて感じたこともない衝撃が襲った。
 目の前の視界に亀裂が入る。
 頭の中にどおん、という轟音。
 身体の中からメキメキと音が聞こえる。
 声も上げることなく。
 記憶はそこで途切れた。

 

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